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(1)

六 五 四

はじめに

不可侵と保障

若干の財産権不可侵の例 アメリカ

︐ ' ︐

 

四日本︵以ヒ四巻三号︶

財産権の保障の例

日本国憲法における不可侵

むすび︵以上本号︶

産 権 不 可 侵 の 意 義

財産権保障の研究

︵ ニ

・ 完

(2)

キハ之ヲ以テ所有権侵害セラレタリト謂フヲ得ス サレハ之ヲ言ハサルカ如シ 侵害ノ意義ハ毀損ノ事実ナクンハアルヘカラス

例之ハ人身侵害ハ他人ノ身鉢二損傷ヲ加ヘタル事実アル時ニアラ

故二公益ノ為二所有権ヲ譲興セシムル

7

モ若シ其所有物ノ償格二相当スル賠償ヲ得ルト

法理上ヨリ之ヲ観ルニ凡ソ自己ノ権利ヲ施用スル者ハ其施用二依

答 問 の検討を試みる︒ ヲ侵サルA

コト

ナシ

﹂︑

若干の財産権不可侵の例︵承前︶

日本︵明治憲法︶

への質問に

日本国憲法第二九条一項の財産権不可侵条項は︑日本においては︑明治憲法第二七条一項﹁日本臣民ハ其ノ所有権

に遡ることができる︒ここでは︑明治憲法下で﹁不可侵﹂が如何に理解されたかについて若干

明治憲法の草案段階を見る時︑最も目を引くのは︑不可侵の意義についての

H

・ロ エス レル

(l ) 

対する彼の教示である︒

インヴィオラビリチー

人 民 ノ 権 利 ハ 不 可 侵 ノ 物 タ リ

スルヨリモ寧口権利ヲ奪フノ類ナルカ如シ

ヲ奪フトモ其権利ハ俯不可侵ノ位置ヲ保ツトシテ解繹スヘキカ

( R o e

s l e r

)  

レストリクテット

然ルニ公益ノ為二所有権ヲ譲予セシムルカ如キハ法律ヲ以テ権利ヲ制限

ウイオレット

此ノ場合二於テ法律ハ権利ヲ侵スト云

7

ヲ 得 ヘ キ カ 或 ハ 其 事 物 ハ 之

(3)

テ他ノ櫂利ヲ侵サストノ原則ハ正サニ比二適應ス

テ所有権ヲ侵スト謂フヲ得ス 故二私有物買上ノ櫂︑法律二依テ明カニ定メラレタル上ハ之ヲ以

左レハ公益ノ為メ所有権ヲ譲輿セシムルコトハ唯其事ノ道理二適ヒ法律二根攘スルヤ否ヤヲ問フノ一点ニアルノミ

而シテ比問題二酎シテハ一般ノ法制二依テ之ヲ答堺シ得ルノミ就中何レノ主義二従ヒテ土地所有権ノ制ヲ定メタル

而テ後該問題二答フル丁ヲ得ルノミ︵此二土地所有権卜言ヒタルハ元来公益ノ為二所有権ヲ譲輿セシムル

7

ハ単二土地ノミニ関スルヲ至当トナセハナリ︶

若シ所有権ヲ以テ無限絶酎ノ権利トナシ再言スレハ物件ヲ獨占専有シテ之力支配権ヲ全有スルモノトナスカ或ハ物

件二酎スル一切ノ使用及利用ヲ包括スルモノトナス時ハ公用ノ為ニスル譲興ハ無論所有権ノ毀損卜看倣スヘシ何卜 ナレハ他ノ櫂利ハ此所有権二打勝ツコトヲ得サレハナリ此場合二於テハ個令所有権ノ償格二相当スル賠償ヲ輿フル

モ尚所有権ノ脱却ヲ強制セラレタルモノニシテ即チ我力櫂利ノ自由ヲ奪ハレタルニ相違ナシ

然ルニ斯ノ如ク所有権ヲ解繹スルノ理論ハ後世ノ羅馬律二基ヰスルモノニシテ決シテ実際二適セス抑々土地所有

権ナルモノハ其使用︑利用︑共用等二関シテ法律上百般ノ制限ヲ受クルヲ見テモ既二其無限絶酎ノ権利ニアラサルヲ

知ルニ足レリ︵中略︶

今日二於テ私有権ハ政府ノ随意二左右シ得ルモノニアラズ唯土地所有権ハ無限ノ櫂利ニアラスシテ若シ公益ノ為 ニスル必要アルトキハ其私用ヲ廃セサルヘカラストノ原則ヲ存スルノミ而シテ所有権侵犯ノ異議ヲ避ケンカ為メ豫 メ其所有二相当スル賠償ヲ興フルニアラサレハ譲輿セシメストナス是レ一般ノ認定スル所ナリ

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

故二予ハ所有権ナルモノハ私権卜公益トノニ点ヲ根攘トシテ之力法律ヲ制定セサルヘカラサルモノト思惟ス顧フ

二現時社會ノ進運及事情二酎シテ往々不穏当ナル羅馬法ノ解繹ハ今日ノ民法中二其跡ヲ絶チ随テ所有権モ亦社会ノ一 ヤヲ問ヒ

(4)

トク

トル

︑ ︑

ロエスレル記 施設トナリテ発達セサルヘカラサルノ時運︑遠カラスシテ到来スル

7

ナルヘシ

不條理ナルモ亦鋏典ノ一ナリ

以上陳述セシ理由ヨリシテ公用地買上ハ所有権ノ侵害卜看倣ス

7

ヲ得

千八百八十七年十一月一日

ここにおいて教示された注目すべき点は︑日不可侵とは︑不法な侵害に対するものであって︑財産権を無限絶対の

権利として合法的な権力にも対抗しうると考えるべきでないこと︑口従って︑法律によって規定される以上︑収用︵公

益ノ為二所有権ヲ譲興セシムル

7

︑私有物買上ノ権︑公用地買上︶も不可侵に反するものではない︑という二点に集

約できるであろう︒ところで︑ここで若干曖昧さを残すのは︑収用と財産権制限の差に関する問題である︒本答議は︑

この問題を正面から取り扱ってはいないが︑﹁若シ公益ノ為ニスル必要アルトキハ其私用ヲ廃セサルヘカラストノ原則

︑︑︑︑︑︑︑︑

ヲ存スルノミ而シテ所有権侵犯ノ異議ヲ避ケンカ為メ豫メ其所有二相当スル賠償ヲ興フルニアラサレハ譲輿セシメ

ス﹂︵傍点筆者︶とする所から推して︑収用と財産権制限は︑不可侵性の観点から見る限り︑同性質のものと考えたよ

うで

ある

以上の教示の結果は︑明治憲法第二七条の基本思想として受け入れられ︑﹁憲法義解﹂の解説もこれに従うものと認

(2 ) 

められる︒更に明治憲法制定者の意見で注目されるのは︑所有権が不可侵ではあるが無限の権利ではないことの根拠

である︒それは︑第一に経験的に知られるもので﹁城曼ノ周園線内二或ル建築ヲ禁スルハ賠償ヲ要セス︒⁝⁝此レ皆

所有櫂二制限アルノ證徴ニシテ︑而テ各個人ノ所有ハ各個ノ身儒卜同シク︑王土王民トシテ︑一國ノ主権二到シ服従 其他動産不動産ヲ同一視スルノ甚夕

(5)

る ︒

(3 ) 

の義務ヲ負フ者ナルコトヲ認知スルニ足ル者﹂であるからであると言う︒第二は︑﹁世ノ學説ヲ為ス者︑或ハ所有ノ櫂

ヲ以テ無限櫂トナスアリ︒而シテ反射ノ論者ヲシテ︑所有権ハ全國王土ノ大義卜相矛盾スルノ疑アルニ至ラシメタリ︒

(4 ) 

抑々所有櫂ハ私法上ノ櫂利ニシテ︑全國統治ノ大櫂ハ専ラ公法二属シ︑ニッノ者分奄祗燭スル所アルニ非サルナリ﹂

とし︑公法私法二元論の立場から立論するのである︒今日の目から見れば︑第一の主張は憲法以前の法的状況を憲法

解釈の無批判的基礎としており︑第二については︑かかる公法私法二元論が成立しうるものか疑問が生ずるはずのも

のであろうが︑当時の意見として興味深い議論であるので紹介して置く︒

一体明治憲法時代の学説は︑財産権の不可侵ということをどの様に理解したか︒最も代表的な見解は次の如

きも

ので

ある

﹁本條の規定は専ら行政櫂及び司法櫂に到する制限を意味し︑立法櫂に酎する制限を意味するのではない︒法律を以

て財産櫂の享有又は行使に付いて如何なる制限を設けようとも︑それは本條に祗燭するものではない︒人民の綿ての

櫂利は法律の下にその効力を有するもので︑人民は法律の許容して居る限度に於いてのみその櫂利を享有することが

出来

る︒

本説の基礎となっている思考は︑﹁不可侵﹂の意味を問う以前に︑﹁人民の練ての櫂利は法律の下にその効力を有す

る﹂という権利の一般理論を前提としてしまっている点で︑そもそも財産権の不可侵ということが持ちうる独自の意

味については全く不問に付されている憾みがある︒明治憲法においては︑臣民の自由権は立法拘束力を本来持たない

(6 ) 

と解され︑その意味で不可侵とは立法にとって如何なる意味を持ちうるかについて検討する必要がなかったからであ

明法憲法における所有権の保障の解釈についての総括的見解は︑金森博士の次のような記述の中にうかがうことが さ

て ︑

(6)

( l )

井上毅文書︵梧陰文庫︶CI4

芽を見出すことが可能ではないだろうか︒ で

きよ

う︒

﹁今若シ天賦人櫂ノ思想ヲ是認スレハ憲法ノ趣旨ハ所有櫂ハ天賦ノ櫂利ニシテ法ヲ以テ之ヲ定メ又ハ之ヲ制限スル

ヲ得ス︑時二公益上ノ必要二遭遇スレハ箇々ノ慮分ヲ以テ︱ニノ妻改ヲ加フルコトヲ得ルモ此ノ場合二於テハ特二法

律ノ基礎ヲ要スト解スルコトヲ得ヘク此ノ解繹ハ憲法ノ文義二照シテ極メテ適切ナルモノアリ︒然レトモ天賦人櫂ノ

説ハ今用ヰルニ由ナキヲ以テ︑憲法ノ文字ハ或ハ天賦人櫂思想ノ遺風ヲ存ストモ其ノ本旨ハ此ノ思想二依リテ解スル

コトヲ得サルナリ︒思フニ所有櫂ハ事賓上ノ存在二非スシテ法二依リテ生シタルモノナルヲ以テ︑此ノ法上ノ存在ハ

法ヲ以テ如何様ニモ愛更シ得サル理由ナシ︒﹂

以上にもとづいて︑﹁侵スノ意義﹂を︑﹁憲法法典ハ⁝⁝所有櫂ナル語ニ︱定ノ意味ノ存スルコトヲ前提トス︑憲法

ハ所有櫂二定型アルコトヲ豫想ス︑故二此ノ定型アル所有櫂ヲ其ノ儘存在セシムル場合ヲ除クノ外ハ常二所有櫂ヲ侵

スモノト謂フヘシ︑所有櫂ヲ消滅セシムルモ其ノ内容ヲ理スルモ将夕亦之二外部ヨリ制限ヲ加フルモ共二

(8 ) 

観念二該営スルモノナリ﹂としたのであった︒

(9 ) 

本説は︑憲法は所有櫂を﹁定型アル所有櫂﹂すなわち﹁人力法二其キ物二酎シテ有スル一般的ノ支配櫂﹂と前提と

︑︑

︑︑

するという︒しかし︑﹁人力法二基キ物二酎シテ有スル一般的ノ支配櫂﹂が法律に対しても拘束力ある定型であると主

張することは困難ではないだろうか︒自然法的構成を避けつつ︑実証的に法律に対する制限の可能性を導びこうとす

る努力として理解しうるが︑法理論的に成功しているとは言えない︒しかし︑本説に現行憲法の通説の解釈理論の萌

﹃ 侵

ス ﹄

(7)

小 括

( 2 )

伊藤博文﹁憲法義解﹂︵明三七︶四八頁以下参照︒

( 3 ) 清水伸﹁明治憲法制定史

m

( 4 )

( 5 )

( 6 )

同書︑三三0

( 7 )

金森徳次郎﹁帝国憲法要綱﹂︵昭二︶

( 8 ) 同書︑一三八頁︒

( 9 ) 同書︑一三六頁︒︵傍点筆者︶

所謂財産権の不可侵の観念は︑これまで述べた所から明らかなように︑種々様々な理解がなされたのであって︑共

通点を見出すことは難しい︒しかし︑以下の様なことは指摘することができる︒

第一は︑財産権の神聖不可侵といった言葉は︑本来の絶対的意味にかかわらず︑常に相対的意義が与えられたにす

ぎないということである︒それはフランス人権宣言におけるように極端な自然権説においてさえ同様であった︒財産

権の神聖不可侵をとなえつつ︑封建・宗教財産を排除した︒つまり即自的に財産権が神聖絶対とされたわけではない

のである︒自然法論においても︑常にある種の財産が神聖不可侵とされたにすぎない︒また︑財産所有者の主権性を

認めるが如きものでも当然なかったのである︒

第二は︑不可侵の意味は︑

それ自体に特に固有の意味があるわけではなく︑法体系上の財産権の位置づけに基づい

て与えられることである︒特に法律との関係において如何なる保護が与えられるかが定められた︒それは︑自然権説

(8)

れた

をとる憲法においてさえ認められるのであって︑法律は一般意思であるが故に︑あるいは本人の合意を擬制しうるも

のであるから︑財産を侵したことにはならない︑とする如きである︒

第三は︑財産権の不可侵の意味が︑理由は様々であったが︑立法に対抗しうるものとは考えられなかったことであ

る︒これは︑憲法が立法拘束力を持たないと考えられていたことも実際上の理由とは言えるであろう︒しかし︑フラ

ンス人権宣言やアメリカの州の初期憲法の例でも明らかなように︑むしろ積極的に立法に対する対抗力がないものと

解されていたことに注意を払う必要があるであろう︒

は違法な侵害を許さないというのが伝統的解釈である︑

には財産権が国家によっても絶対視されていたと見る見解と全く異なる︒かかる意味での財産権の絶対とは単にイデ

オロギー上の観念であり︑神話であったとしか思われない︒勿論︑当時の国家は財産権に出来るだけ干渉しない様に

努めたかも知れず︑実際干渉しなかったかも知れない︒しかし︑

上その権能がないと考えられたが故ではなかったのである︒

財産権の保障の例

かくして︑財産権の不可侵とは︑法律によらざる侵害︑あるい

と言えるのではないかと考えられる︒これは︑

それは政策的な考慮に基づいてのことにすぎず︑法

従来︑財産権あるいは所有権は︑不可侵とされるのが人権規定上の定型とされたのであったが︑

おいては﹁保障する

( g e w

a h r l

e i s t

e n )

﹂という表現が採用された︒その第二編第五章﹁経済生活﹂に次のように規定さ

ワイマール憲法に 一八・九世紀 八

(9)

日所有権

( E

i g

e n

t u

m )

は︑憲法によって保障される︒その内容及び限界は︑法律によって定められる︒

口収用は︑⁝⁝︵略︶

曰所有権は義務を伴う︒その行使は同時に公共の福祉に役立つべきである︒

本条のあり方は︑基本的にプロイセン憲法におけると同じく自由主義的財産権保障の定式に従うものであり︑ただ

三項に明白に窺われるように社会国家的影響を受けていることが指摘される︒

た が

ワイマール憲法でも人身の自由︵︱‑四条︶ アンシュッツの代表的注釈書によって一項の解釈を見てみよう︒彼によれば一項一文で︑プロイセン憲法の﹁不可

侵﹂という言葉は﹁保障する﹂に変わったが︑その意味は変わらず︑単によりつつましく︑反論の余地をなくしただ

(2 ) 

けのものであるとされる︒所有権﹁不可侵﹂規定の時代にも︑人身の自由の﹁保障﹂とのパラレルな解釈が行なわれ

( 3 )  

とのパラレルな解釈が行なわれたのである︒かくして一文はプロ

イセン憲法におけると同じ解釈がほどこされた︒

二文については︑﹁所有権は立法権の限界となるのではなく︑逆に所有権の規定に制限を見出す︒それが一項二文の

(4 ) 

意味である﹂とされた︒すなわちこの見解は︑二文を従来当然のこととして明示されなかった﹁所有権の不可侵﹂か

ら導かれる法律による所有権制限を︑確認する規定であるとするものであった︒

(5 ) 

この解釈は︑所有権を原則的自由ー例外的制限という自由権の解釈シェーマで理解し︑その保障方式を法律の留保

( 6 )  

であると考えたものと総括できよう︒

この

説は

二三年

M

・ヴ

ォル

フ ( W o l f f )

一五

八条

(7 ) 

ワイマール憲法公布以来一九二四年迄︑学説︑実務において疑われることなく行われた︒しかし︑

( 8 )  

の﹁ライヒ憲法と所有権﹂なる論文を端緒として大きな変更を蒙むることとなった︒す

一 九

(10)

本稿での中心問題は︑ が︑本稿では立ち入らない︒ ていたのに対し︑

一項

E i

g e

n t

u m

はプロセイン憲法以来民法九

0

三条の所有権を指すと一般に解され

それは所有権だけではなく債権︑無体財産権など総ての財産権

( V

e r

m o

g e

n )

を指すと解さねばなら

ぬとする主張である︒これは︑二項の収用と結合する時︑極めて重要な結果を生ぜしめることとなった︒また制度的

保障の理論とは︑

E i

g e

n t

u m

を制度と理解する所から発する考え方であるが︑これらはいずれも重要な問題ではある

一項一文に立法拘束力が与えられたことにある︒

いうことの意味を全く変えてしまう主張であるからである︒しかし︑注目すべきことは︑﹁保障する﹂という語が使わ

れた故に立法拘束力が認められるようになったわけではないことである︒すなわち︑他の要因の故にそうなったので

あって︑﹁保障﹂が﹁不可侵﹂と異なって︑立法に対抗しうるという意味を本来持つとされたわけではない︒

の変化の要因とは何であろうか︒

まず指摘されるべきは政治的要因である︒従来の解釈のように法律留保形式によるとされる場合には立法部が決定

的な役割を果たし︑議会への信頼が基礎になる︒しかし当時のドイツの状況は︑﹁社会主義的な理念によって影響を受

( 1 1 )  

けたライヒ議会が︑私有財産にきびしい侵害をなしうるという危具が広く行渡った﹂のであり︑この危具こそが︑財

産権の保障は法律の留保形式では足らずとし︑

政治的理由を除けば︑立法拘束説の根拠づけは必ずしも明白なものではないが︑次のものが挙げられる︒その第一 E

i g

e n

t u

m 概念の拡大とは︑

( 9 )  

なわち一項一・ニ文に関して言えば︑

E i

g e

n t

u m

概念の拡大や制度的保障

( i n s

t i t u

t i o n

a l l e

G a

r a

n t

i e

︑更に立法拘束)

カの主張となってあらわれた︒そしてこの新解釈は︑ライヒ裁判所により受け入れられ︑学説も基本的にそれに追随

( 1 0 )  

したのである︒

というのは︑これは従来の﹁保障する﹂と

一文に立法に対する拘束力を与える原動力となったのであった︒

1 0  

では︑こ

(11)

以上のような論拠から︑

( 1 5 )  

を参考にして与えられた︒ は︑制定者の意思であって制憲議会において行なわれた︑基本権が立法部に対して﹁指導原則かつ制約﹂となる旨の

( 1 2 )  

主張を強調することを通して︑所有権保障にも立法拘束力を認めようとするものであった︒第二は︑法律による行政

( v e r

f   a

s s u n

g s r e

c h t l

i c h )

tされる﹂という文言があっ が確立された後では︑法律の留保型の保障は独自の意義を失い︑空回りするだけであって真の保障とはならないとい

( 1 3 )  

R

・ト

ーマ

( T

h o

m a

)

の有名な主張である︒つまり憲法上意義のある保障であるためには立法拘束力がなければな

︑︑

︑︑

︑︑

らぬとしたのであるが︑特に一項一文には︑﹁憲法によって

( 1 4 )  

たため︑この主張が強い説得力を持ちえたのであった︒

しかし︑これらの説の内在的根拠は︑一五三条一項の財産権保障は︑人身の自由等の基本権と法的性格・構造が同

じであるとの確信である︒かくして︑財産権は自由権と同一視しえ︑基本権に立法拘束力が与えられるべきだとする

トーマの主張は︑当然に財産権についてまで及ぼさるべきことになるからである︒

一項一文は立法拘束力を持つとされ︑その﹁内容﹂は従来と同じ<︱‑四条の人身の自由

解釈変更後の通説は大略次の如く要約できよう︒一文の

E i

g e

n t

u m

とは総ての財産権を含み︑その内容は﹁処分の自

( 1 6 )  

( H e r

r s c h

a f t s

b e l i

e b e n

)

であり︑立法部もこれに干渉することはできない︒二文は︑財産権の﹁内容と制限﹂を法

律で定めるとしているが︑それは一文で保障された財産権それ自体に対する制限ではない︒所有者が財産権の自由な

処分を現実に行なうに当って法律が彼に課すのが﹁制限﹂であり︑この制限が加えられた所有者の権能が﹁内容﹂で

( 1 7 )  

あって︑これらを法律が定めると言っているにすぎない︒

さて︑この解釈の問題点はどこにあるのであろうか︒その第一の疑問点は︑そもそも解釈の方向にある︒すなわち︑

この解釈の基調及び結果は︑従来の説と比較すれば明らかなように︑立法に対しても対抗しうるという点でより自由

(12)

この解釈は一文と二文の整合性に不審が残る︒

一文の解釈上その内容は憲法上

( 1 8 )  

る場合には無視され︑それでも

( 1 9 )  

﹁内容﹂が規定されていなければならぬかについて満足な説明はなされていない︒

( 1 )   ( 2 )  

原則的自由ー例外的制限のシェーマにのせて解釈すること自体への疑問にまでおよぶもの

C .  

S c h m i t t  

̀ D

i e   Au f l o s u n g   d e s   E n t e i g n u n g s b e g r i f f s ,  

( i n   V e r f a s s u n g s r e c h

t l i c h e u   A f s a t z e   a u s   J a h r e n   1 9 2 4

1

9 5

̀ 4

1 9 5 8 )   S .

  l l O

.  

G. An

h i i t z , D i e   Ve r f a s s u n g e   d s   D e u t s c h e n   R e i c h s

  vo

m 11 .   A ug us t  1 9 1 9 ,

  2 A u

f l . , S .     2 4 6 .   ( 3 )   I b i d

.   (皮肉なことに︑ワイマール憲法では財産権が保障され︑人身の自由が不可侵とされたのであったが︒︶

( 4 )   I b i d

̀ .  

S .   2 4 6 . ‑ 7 .   ( 5 )  

C .   S c h m i t t ,

  V e r f a s s u n g s l e h r e  

̀ 5 A

u f l . S . ,     1 5 8 .  

( 6 )  

0 .   K

i r c h h e i m e r ,   D ie   Gr en ze n  d e r   E n t e i g n u n g ,   1 9 3 0 , ( i   n   F un kt io n  d e s   S t a a t   u nd   de r   V e r f a s s u n g ,   1 9 7 2 )   S .   2 5 9 .   ( 7 )  

W. 

A p e l t ,   G e s c h i c h t e   d e r   We im ar er   Ve r f a s s u n g

̀  

2 .   A u f l

` .  

1 9 6 4

s .   ,  

3 4 1 .   ( 8 )  

M .  

Wo lf f 

̀  R e i

c h s v e r f a s s u n g   u nd   Ei ge nt um  ̀

i n   F e s t g a b e   f u r   W il he lm   Ka h l ,   1 9 2 3 )   ( 9 )   S c h m i t t ,   o p . c i t ,   . ,   S .   1 7 2 .   ( 1 0 )   W .  S ch e l c h e r ,

e   G s e t z l i c h e   E i

g e n t u m s b e s c h r a n k u n g   u nd   E n t e i g n u n g ,   ( A r c h O f f R .   B d .   5 7 )   S .   3 2 5 .  

ではなかろうか︒ 権と同一に扱う解釈態度︑ ある場合には一応湖塗されている如くであるが︑

この

こと

は︑

そもそも財産権を自由

﹁ 制

限 ﹂

の文言があるのに何故更に

かか

わら

ず︑

﹁処

分の

自由

と既に定まらざるを得ないからである︒

この

麒鮪

は︑

第二

点は

しない鬼子ではないかと考えざるをえないのである︒ 主義的であり︑

むしろ財産権の絶対性を追求しようとしたものであった︒

求める社会国家的要請と真向から対立するものであって︑

あ 財産権の相対化︑立法による柔軟な対応を

ワイマール憲法の第五章﹁経済生活﹂全体の構想にも合致

特に二文が内容を法律によって定めると明定しているに

(13)

は)Apelt, op., cit., S. 343. 

心)H. Triepel, Goldbilanzenverordnung und Vorzugsaktien, 1924, S. 15‑6. 

(;3) R. Thoma, Grundrechte und Polizeigewalt, (in Verwaltungsrechtliche Abhandlung, hsg. v. Triepel, 1935) S. 195. 

(;;:) Schmitt, op., cit., S. 123. 竺(\)郊臣八懐匿....)ド;i‑Q

ぼ)Anschiitz, op., cit., 14 Aufl, 1933, S. 607. 

ぼ)Wolff, op., cit., S. 6. 

(~) Ibid., S. 7. ~ Schelcher,Artikel 153. (Die Grundrechte und Grundpflichten der Reichsverfassung hsg., v. Nipperdey, 1930) 

S. 208 . .li〇虻聟笹....)+2..,;;J8‑IQ1‑Q

ぼ)尽砧豆'Auschiitz,op., cit, S. 612. 

ぼ)Wolff, op., cit., S. 7. 

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鑑~~,[IJ怜囲艦坦S益削拒怜后感弼胆~0:;;.や'り菜悩や感心菜父如H-Q呈据足堆·0~や濫証如謳~i-O~J~

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(14)

る ︒ していると言うことができる︒この通説的見解を要約すれば次の如くである︒ 本条一項並びに二項について︑その具体的権利保障の側面についての解釈は︑小数の例外を除いて︑基本的に一致

一項の財産権とは︑所有権その他の物権に限らず債権︑無体財産権等をも含むすべての財産的権利をいい︑﹁侵され

ない﹂とは︑立法及び行政の両公権力による財産権制限が原則として許されないことである︒二項は︑一項の原則を

制約するもので︑立法部は﹁公共の福祉﹂に適合する限り︑財産権の制限を法律により広範囲になしうることを認め

るも

ので

ある

この通説が︑妥当性を持つためには︑日財産権という憲法上の権利が︑法律から独立に定立しうること︑口財産権

が︑自由権と同一の構造を持ち︑従って同じ扱いをなしうること︑国財産権不可侵条項に︑立法拘束力が認められる

こと︑の三つの条件が必要である︒以下に順次︑これらの諸点について批判的検討を加えることとしよう︒

︑︑

︑︑

︑︑

日通説が成立するための第一の条件は︑憲法上の財産権が︑法律とは独立して定立しえなければならぬということ

である︒この独立性が確保されなければ︑法律に対する規制力のありようがないからである︒しかし︑この論証にお

一項は﹁財産﹂ではなく︑明確に﹁財産権﹂の不可侵であるということである︒すなわち︑﹁財産﹂

であ

るな

らば

それだけで独立的に意味の画定がなしうるが︑﹁財産権﹂においては様相が全く異なるからである︒

まず︑﹁財産権﹂を諸々の財産的権利の統括概念としたり︑国家以前の権利として構成することが考えられる︒しか

し本稿は個人の具体的な財産上の権利を︑実定法上の問題として扱うものであるから︑これらは考慮の外に置く︒従

って︑この財産権は︑財産上の諸権利の束であると考えるほかない︒そこで︑次にその財産権の内容は如何なるもの

(4 ) 

かが問題となるが︑これに対しては︑財産を自由に使用・収益・処分しうる権能のことであると答えるのが普通であ いて注意すべきは︑

一 四

(15)

一 五

しかし︑こう解する時には︑第一にこの憲法上の財産権の内容と︑現実の諸法律上の財産権内容には︑大きな懸隔

が生じることになる︒財産権の代表たる所有権でさえも民法二

0

六条は﹁法令ノ制限内二於テ﹂自由な使用・収益・

処分を認めるにすぎない。特許権•著作権といった無体財産権に到っては、それが本来的に、自由な使用・収益・処

分という内容を持つものであると言うのは︑現実の法のあり方を無視したものとの批判を受けざるをえないであろう︒

第二は︑二項との衝突の問題であって︑二項が財産権の﹁内容﹂を法律で定めると規定することと︑通説のように憲

法レベルで財産権の﹁内容﹂が定まるとすることとは矛盾するのではないかということである︒これはワイマール憲

法において生じたと同じ困難であるが︑日本国憲法の場合には﹁制限﹂は問題になっておらず︑端的に﹁内容﹂と規

定されているため一層説明が困難になっているのである︒ところで︑これらの翻翻は一項の解釈を変えることによっ

て︑解消が計らるべきものである︒蓋し︑解釈の手がかりの最大のものは文言である以上︑通説の一項の解釈を疑う

のが常識というものだからである︒

大要二点について疑問点を指摘したが︑この疑問を生ぜしめる根源は通説の解釈基調︑すなわち財産権を自由権と

同じ法的性格・構造を持つものと把えるところにあるのではないかと思われる︒何となれば︑通説の解釈基調は自由

権と同じく原則的自由ー例外的制約のシェーマに従っていること︑及び財産権の内容とされるものも財産権が自由権

であったなら抽出されるであろうものと一致する一方︑まさしく問題はその点にかかわっているからである︒

口財産権が自由権と同一に扱いうることが通説の第二の条件となっていたわけであるが︑これは是認できるであろ

うか︒この同一扱いは︑比較法的に見ても伝統の一っと見うるようであるが︑賛成できない︒二者はその法的構造を

異にし︑従って同一に扱い得ないと思われるのである︒このことは︑自由権と具体的に比較すれば違いがより明らか

になる︒例えば︑﹁思想及び良心の自由は︑これを侵してはならない﹂︵一九条︶という規定は︑この憲法条文のみで

(16)

かくして︑財産権に自由権の構成を与える場合︑その規範は本来自らの正当性を主張しえないのである︒このこと

(8 ) 

は︑最近︑通説の変形として︑財産権を﹁生存権﹂に基づく規範として正当性を与えようとしたり︑﹁大きな財産﹂﹁小

これを侵してはなら 意味が完結し︑法律から独立して存在しうる権利と言うことができる︒それに対して︑財産権は日で述べたように︑

(6 ) 

憲法上独立して存在しうる権利ではないため︑依存条項

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と呼ばれることがある︒すなわち︑この

権利は他の規範によって内容を与えられる必要があるのである︒その結果︑﹁財産権は︑これを侵してはならない﹂と

いう規定となったのである︒そして︑法治国家として︑法律の留保

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の原則上︑それに内

容を与えるのは法律でなければならないことになるであろう︒

この議論は︑余りに文言にこだわりすぎるものとの批判がありえよう︒しかし︑

ない﹂という表現になるであろう︒ そうでないことは︑通説に従って

自由権としての財産権を想定すれば明らかになる︒それは例えば︑﹁財産の使用・収益・処分は︑

かかる規範が︑法律をも拘束する憲法上の規定としてあると考えて見よう︒まず︑

全く非実際的な規範であり︑今日の財産権観に合致しないと考えられることは確かであろう︒この現象は︑普通自由

権といわれるものには起らないのである︒この違いはどこから生じるか︒自由権と違って︑この財産権の自由権的解

釈に基づく規範が受け入れ難い根底には自由と財産の違いが反映している︒すなわち︑ある個人の自由は当人に帰属

すべき正当性は疑われざることであるのに対し︑ある個人の財産がその当人に帰属すべきものであるとは︑それ自体

として正当とはいいえないのである︒何か他の正当と考えられるルールに照らしてはじめて︑その正当性が与えられ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ざるをえないのである︒J・ロックが財産権

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を︑﹁ある人に帰属するにふさわしいもの

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) ﹂と考えたことは︑自然法論の時代にすでにこの相違の根本が意識されていたことを示すものといえよ

一 六

(17)

ま ず

するのが自然なのである︒

一 七

一項に立法拘束力があると解すべき根拠が認めう

一項に立法

(9 ) 

さな財産﹂のルールによって正当性を確保しようとするのである︒このような考え方も︑結局財産権不可侵規定の依

存条項性を前提したものと評することができる︒しかし︑何故その依存先を内容・性格の不明確な生存権に求めたり︑

恣意的ともいえる﹁大きな財産﹂﹁小さな財産﹂の区分に求めねばならないのであろうか︒二九条二項は︑この依存先

を︑民主主義I法治国原理という正当性を内在せしめる法律としているのだと考えるのが当然ではないであろうか︒す

なわち財産権は法律によってぶパ容﹂とそれを支える正当性を与えられるのである︒二項はこのことを示すものと解

本論が単に規定文言に﹁財産権﹂とあることを根拠とした議論でないことを示しえたと思う︒だが︑﹁財産権﹂の依

存性を承認する説が︑何故法律をその依存先として選択しなかったのか︒それは︑そのように解すれば︑

拘束力を与えることが不可能になるからであろう︒従って︑次に︑

るものか否かを︑検討しなければならない︒

国通説を支える第三の条件は︑財産権不可侵規定が立法拘束力を持つことである︒しかし︑前述のように︑むしろ

通説は︑立法拘束力を持たせようとして︑日口の条件を無理にでも成立せしめようとした節さえ窺われるのである︒

財産権不可侵の定式は︑自然法的由来はともかく︑実定法秩序の中で考える時には立法拘束力を持たない︑というの

がむしろ伝統的理解であった︒それにもかかわらず︑一項を立法拘束的なものと解する通説の根拠はどこにあるのか︒

一項が立法に対して拘束力を持たないとすれば︑憲法規範として無意味の規定となってしまうという説があ

る︒ワイマール憲法におけるトーマの空回り規定論を思わせる論法である︒﹁もし︑二項により制約を受けた限りでの

一項

財産権保障を意味すると理解すると︑立法権はいかようにも財産権の内容を定めることができることになり︑

( 1 0 )  

憲法規範としての意味を失うことになる︒﹂この説では︑憲法規範としての意味を︑立法権への規制力すなわち立法拘

(18)

くり返さない︒ グラム規定や法律留保型の規定条文は悉く憲法規範としての意味を持たないということになり︑狭すぎる理解と言わ 束力と同視しており︑論点先取との批判を免かれない︒また︑憲法規範としての意味をこの様に限定するなら︑プロ

︑︑

︑︑

︑︑

ねばなるまい︒本項を︑財産権に関する法律による規制の要求の憲法による固定と解釈する場合も︑憲法規範として

の意味有と解すべきであろう︒行政部による独立の財産規制を阻止する意義を持ちうるのであるから︒

次に︑財産権の立法拘束力の主張はワイマール憲法におけるように︑立法部不信という政治的理由によるという根

拠づけを採用できるであろうか︒これを強調する学説は今の所存在しない︒むしろ︑立法部による財産権の規制が︑

社会国家性を根拠にして強く望まれているのが現状であるように思われる︒また︑もし財産権の不可侵ということが︑

保障と同義であり︑それはワイマール憲法におけると同じように立法に対しても拘束力がある︑という比較法的議論

がなされるとすれば︑

*  それは表面の結果だけを見た議論といえる︒前述の如く︑不可侵も保障も行政ないし立法に対

して対抗できるか否かについて固有の意味を持たないからである︒

財産権の不可侵に立法拘束力を与えようとする最大の理由は︑実は財産権と自由権が同一に取り扱えるはずである

という確信のように思われる︒しかしこの確信はむしろ否定されるべきものであることは︑口で述べたのでここでは

かくして日本国憲法では財産権の立法拘束力の積極的根拠は見出すことはできない︒逆に︑立法拘束力なしとして

も一項は十分憲法規範としての意味がありうることが示されたもとのということができよう︒

一 八

(19)

一 九

による規制を憲法上固定するという意味を持つ客観的法である︒

形成された財産権﹁内容﹂が︑公共の福祉に適合することを要請する︒現代社会国家においては︑

( 1 )

藤田宙靖﹁憲法第二九条第一項の効果﹂︵﹁憲法の争点﹂︵新版︑昭六

0 )

( 2 )

例えば︑宮沢俊義︑芦部信喜﹁全訂日本国憲法﹂︵昭五五︶三八六頁参照︒

( 3

)

例えば︑伊藤正己﹁憲法﹂︵昭五七︶三四九頁参照︒

( 4 )

例えば︑大須賀明他著﹁憲法講義2

0

( 5

)

小嶋和司﹁憲法概観︵新版︶﹂︵昭五六︶八二頁参照︒

(6)W•

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218 , 9

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( 8 )

今村成和﹁損失補償制度の研究﹂︵昭四三︶八頁参照︒

( 9

)

高原賢次﹁社会国家における財産権﹂︵﹁財産権と損失補償﹂︵昭五三︶所収︶二頁以下参照︒

( 1 0 )

伊藤正己﹁憲法﹂︵昭五七︶三四八頁︒ 積極的に評価されねばならないのであって︑

二項こそ二九条の中心規定であると考えられるのである︒ この法律の権能は

二項

は︑

最後に本稿の到達した二九条一・ニ項についての解釈をまとめておこう︒

的財産を立法部に対して保障するという意味を︑その依存条項たる性格上持ちえない︒

一項の依存先を法律と指定し︑且つそこで 一項は︑財産権に関する法律 一項の財産権不可侵規定は︑個人の具体

(20)

財産権の不可侵という非常に不明確な規定を︑歴史的推移と法的理論のあり方を見た上で︑日本国憲法の解釈を試 みた︒最近は︑様々な新らしい解釈の提唱や社会経済的検討が盛んに行われているので︑逆に古きを尋ね論理的分折 を試みたものである︒結果は︑通説に真向から対立する説に至った︒思考過程が正しかったことを願うばかりである︒

*な お︑ 制度 的保 障も 扱う 予定 であ った が︑ 個人 の具 体的 財産 権を 主眼 とす る本 稿で は割 愛す るこ とと した

. . . . . .  

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参照

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