• 検索結果がありません。

『都府楼図巻』と蓑虫山人

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "『都府楼図巻』と蓑虫山人"

Copied!
33
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

Kyushu University Institutional Repository

『都府楼図巻』と蓑虫山人

山根, 泰志

九州大学附属図書館図書館企画課企画係

https://doi.org/10.15017/4486539

出版情報:九州大学附属図書館研究開発室年報. 2020/2021, pp.35-66, 2021-08. 九州大学附属図書館 バージョン:

権利関係:Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivatives 4.0 International

(2)

報告

『都府楼図巻』と蓑虫山人

山根 泰志

<

抄録

>

九州大学附属図書館所蔵『都府楼図巻』は,古代大宰府の情景を想像して描かれた絵巻物として知られるが,

これまでの研究が少なく,制作背景等詳細は不明であった.本稿は,本図巻の制作背景を探りつつ,書写者であ る蓑虫山人の九州時代の作品(不退寺旧蔵絵日記・『阿蘇山三十六坊絵図』等)や関連資料を参考に,本図巻の書 写年代や伝来等を推定し,その再評価を試みるものである.

<

キーワード

>

蓑虫山人,幕末九州,大宰府,糸島,阿蘇山,熊本,長崎,大分,地域史,都市史,民俗学,

考古学,美術史,建築史,宗教史,山岳信仰

Tofuro-Zukan and Minomushi Sanjin

YAMANE Yasushi

やまね やすし 九州大学附属図書館図書館企画課企画係(〒819-0395 福岡市西区元岡744) E-mail: [email protected]

1. はじめに

九州大学附属図書館所蔵『都府楼図巻』は,古代大 宰府1の情景を想像して描かれた絵巻物であり,昭和

7

年(

1932

)に購入されて以来,展覧会を中心に,本学 を代表する貴重書として活用されてきた.しかしなが ら,本図巻を対象とした研究は極めて乏しく,管見の 限り,専論は山本輝雄氏の論考2のみである.これは,

山本氏も指摘するように,本図巻に描かれた古代大宰 府の姿が,近代以降の考古学的研究による成果とは相 入れず,史料としての信憑性が認められていないから であろう.一方で,山本氏は,大宰府政庁を想像・復 元する上で,日本国内には見られなかったであろう中 国の建築様式の建物を描いていることに着目し,本図 巻を中国大陸に近い九州の文化的な位置環境を考える 重要な資料として評価している3

そもそも本図巻は,書写年代は幕末から明治初期と 想定されながらも,長らく書写者不明とされていた.

平成

22

年度に,附属図書館の撮影機材を用いて絵巻の 電子化が試みられ4,本図巻も電子化対象となった際,

落款印「東飄西泊」「六十六庵主人」(附図

1

)を調査 した所,後者については,放浪の絵師として知られる 蓑虫山人(蓑虫仙人,本名土岐源吾,号六十六庵主,

1836

1900

,以下蓑虫と略す)が,幕末に九州を旅し ていた頃に用いていたものであることが判明した5

蓑虫は,故郷の美濃を出て,生活用具一式をテント のようなもので背負い,幕末から明治にかけて全国を 旅し,各地の遺跡や名所,民俗を描いた.特に明治以 降の北東北での活動が知られており,研究も蓄積され

ているが,幕末九州では,絵日記が残されている宇佐 地方以外の地域での活動や作品はほとんど知られてい なかった.岐阜県安八町ハートピア安八歴史民俗資料 館に九州時代の絵日記が所蔵されており,これまで断 片的にしか紹介されていなかったが,蓑虫没後

120

周 年の節目であった令和

2

年に,同館での企画展や,評 伝『蓑虫放浪』(望月昭秀著,田附勝写真,国書刊行会)

により紹介され,蓑虫の九州時代の活動に光が当てら れるようになった.そうした中で,ウェブ上で公開し ていた『都府楼図巻』にも注目が集まりつつあり6,制 作年代と背景の判明が期待されている7

1 九州周遊時代の蓑虫山人自画像と小仙人(おぼこ人形)

ハートピア安八歴史民俗資料館蔵

(3)

本図巻は,これまで何らかの原図の存在を前提にし た模本とされており,そうであれば蓑虫の作品とは言 えないが,そもそも本図巻の制作背景や伝来など明ら かにされていない.そうした課題を踏まえ,本稿は,

まず,これまでの本図巻に対する説明を整理し,日田 の後藤家にあったという模写図(以下後藤家本と称す)

との関係を明らかにする.次に,本図巻に何が描かれ ているかを整理することにより,制作背景を可能な限 り探る.次に,蓑虫の九州における足跡を辿ることで,

本図巻がいつ描かれ,どのように伝えられて九大に収 められたのかを推定する.最後に,本図巻が,幕末九 州において,どのような意味を持つものであったのか を考えてみたい.

2. 二つの『都府楼図巻』

2.1. 従来の『都府楼図巻』解説

『都府楼図巻』は購入直後の昭和

8

年(

1933

)に九 州帝国大学創立記念供覧に出品されて以降,何度も展 覧会に出品されており,図録類にも掲載され,存在自 体はよく知られていた8.本図巻への評価として,最も 代表的なものは,昭和

41

年(1966)に発行された『九 州文化史研究施設開設記念図録』に掲載された下記の 解説9であろう.

都府楼図巻

1

巻 幅

66cm

長さ

868cm

この絵巻は大宰府政庁を中心として左右に大厦 高閣,寺社の建物をならべ,府の繁盛の姿を想像 して画いたものである.図は墨絵に着色したもの で,東は安楽寺,宝満宮より,西は国分寺,水城 などを描いている.都府楼の東には観世音寺,聖 廟(学業院)がある.建物の配列には実を伝えた ものもあるが,部分的には単なる想像で描かれた 所も多い.すべて殿堂中心であるが,近世中国風 の建物や風景が加味され,全体として江戸以前に さかのぼらせることはむづかしい.この図ももと もと写しで,これとよく似た模写図が日田市の後 藤家にもあったが,今所在を失している.九大図 書館本には,巻末に「筑紫考之言葉」という一文 がついている.「深江の僧慧源しるす」と末尾にあ るが,文の内容は直接図巻とは関係なく,筑紫の 沿革や語源などの考証である.僧慧源の伝記も明 らかでないが,いずれ近世末の書体で,模写の年 代もその頃であろう.

原図の制作年代は古いものではなく,本図巻は原図 から写した模本の一つであり,模写の年代も近世末頃 としている.この解説は,『九州大学学報』

1091

(1974)

表紙写真解説にも流用され,その後の展覧会等での解 説でもこの評価からは大きく外れてはいない10

2.2. 後藤家本『都府楼図巻』

後藤家本は『九州文化史研究施設開設記念図録』解 説時点では所在不明となっており,過去の文献におい て掲載された写真と紹介文により内容や伝来を窺うし かない.管見の限り,後藤家本が紹介された文献は下 記の通りである11

1

)『福岡県史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第

2

1926

福岡県嘱託の島田寅次郎(1865~1949)により紹介 されたもので,下記の説明と写真が

2

枚(大宰府政庁 付近)掲載されている.

古代の太宰府を描きたるものに都府楼図巻あり.

其の創めて描かれたる時と人とは不明にして,今 日存するものは豊後日田の後藤氏の所蔵に係り鶴 齢園主人の再写になれり.多少の考証を経たもの らしく,好事家が徒らに筆を弄したるものとも思 はれざれば,参考として掲載せり.

後藤家本を紹介した文献としては最も代表的なもの であり,後藤家本に触れた戦後の諸文献は,概ねこの 文献に拠っていると思われる.

2

)『娜大津より大宰府へ―故中嶋娜津子記念編』

1922

水城村(現太宰府市)出身の言語学者中島利一郎

(1884~1954)が,妻の追悼記念で少部数を関係者に 配布したもので,後藤家本全体の写真を

7

枚に分けて 掲載している.中島の解説もあり,後藤家本全体がわ かる唯一の文献だが,一般に流布していなかったため か12,その知見は後藤家本に触れた戦後の諸文献に反 映されている気配がない.

中島に『都府楼図巻』閲覧を斡旋したのは筑紫史談 会幹事長の武谷水城(

1853

1939

)である.中島も島 田も『筑紫史談』の主要執筆者の一人であり13,筑紫 史談会のネットワークにより『都府楼図巻』の存在が 知られるようになったと言えるだろう.

中島の執筆した解説(大正

11

6

3

日稿)の要点 をまとめると下記の通りである.

A)

所蔵者は豊後の人後藤覚一氏

B)

落款により,筆者は鶴齢園主又は如鳥と号した 南筑の人らしいが,それ以上は不明

C)

焼損した形跡を写しているので,この図巻は模 本

D)

古い原図があったのを,如鳥が幕末に写した

E)

原図は太宰府の盛時からさほど遠からぬ時代

に制作されたものと思われ,筆者の想像だけで 作られたものではない.その理由は下記の通り

a.

古い文献に照らし,この構図中の建造物が,

実際の地理と合致し,その周囲における地名 が詳細なこと

(4)

b.

図中の観世音寺の部分が,同寺保存の古図と 一致していること

c.

王朝時代の文献に見えながら『筑前国続風土 記』等の筑前における諸文献に見えない太宰 府弥勒寺が描かれていること

d.

水城の構造が朝鮮式に描かれていること 中島は落款印のみ言及しているが,写真によれば全

6

種の印が確認できる(附図

2)

.いずれの写真も小さ いため,判読は困難であるが,巻頭右下の印のうち,

2

種については,「杜昭之印」「悠然亭清玩」と判読でき る.悠然亭は日田の豪商森家(本家の㊂印鍋屋)の離 亭で,杜は森氏を中国風に改めたものである.これら は森家の蔵印と見るべきで,後藤家本は,日田の森家 に伝来し,大正

11

年段階で後藤覚一が所蔵していたも のであることがわかる.後藤は,大正

5

年(

1916

)に

『日田名所之栞』という日田の観光ガイドブックを編 集・発行しており,その販売者である後藤文具店の店 主と考えられる.『日田名所之栞』の口絵には,森悠然 亭所蔵の頼山陽・廣瀬淡窓の書が掲載されており,両 家の関係が示唆されている.

C

について,附図

3-2

のように,原図の破損した箇 所の形状をそのまま写したような箇所があり,九大本 にも認められ,これまで『都府楼図巻』が何らかの原 図を写した模本とされたのは,これを根拠としている のであろう.

3

)『筑紫史談』第

21

集(

1919

管見の限り,『都府楼図巻』を紹介した最初の文献で ある.口絵に「都督府之古図」として,後藤家本の写 真(大宰府政庁付近)と下記の説明が掲載されている.

都督府古図と都府楼の位置

日田の旧家森氏の家に伝はれる都督府の古図の 巻物あり,観世音寺・国分寺・水城等をも含む,

摸写は餘り古きものと思はれさるも,原図は拠ろ あるものと認めらるゝ.中央の大厦は府の正殿に して,其の後方に聳へたる層楼は所謂都府楼なる へし.

執筆者の名前はないが,中島に『都府楼図巻』を紹 介した武谷水城と見るべきであろう.ここで後藤家本 が森家伝来の絵図であることが述べられている.後藤 家には触れられていないため,この段階ではまだ森家 に所蔵されていた可能性がある.

2.3. 九大本と後藤家本の比較

九大本と後藤家本の関係について,『九州文化史研究 施設開設記念図録』解説では明記していないが,古都 大宰府保存協会

1994

・九州歴史資料館

2010

の解説で は,「同一原本からの模写」としており,両本を兄弟関 係とみている.しかし,同一原本からそれぞれが模写

したのであれば,それぞれが同じレベルで忠実に模写 しない限りは,両本には違いが生じるはずだが,微細 な部分まで両本はかなり近い.明確にわかる違いは,

地名や建物名等を示す小さい短冊型の枠について,九 大本には聖廟左の建物にあるが,後藤家本にはないこ とと(図

2

3

上部),水城の水門の表記について,九 大本では枠内に記載されるが,後藤家本は枠がないこ と程度である.両本の近さは,一方が原本で一方がそ の模本である可能性を想起させるが,両本の親子関係 を明示するのが,図

2

3

である.大宰府政庁東側の月 山の上に漏刻楼(大宰府政庁に時を知らせるための水 時計を設置した施設)と思しき建物が描かれているが,

九大本は紙の継目にあたるため,漏刻楼の右半分が切 れて短くなっている.後藤家本の漏刻楼を見ると,右 半分が不自然に短く,建物が左右非対称になっている ことが分かる.後藤家本が,図

3

のような形で紙を接 合されていた九大本を原本としなければ,このような 描写にはならない.

2 九大本 月山

3 後藤家本 月山

後藤家本が九大本の模本であることの傍証となるの が,『娜大津より大宰府へ』に収録された,久留米出身 の漢詩人宮崎来城(当時旧制福岡高等学校漢文教師,

1871

1933

)の中島宛の追悼書簡である.中島は,鶴 齢園主が筑後の人であることから,筆者について宮崎 に照会していたのだろう,「如鳥,蟲仙,鶴齢園主ニ就 テ朝来多少考古致候モ不分明也」と宮崎は返答してい る.『娜大津より大宰府へ』掲載の『都府楼図巻』の写 真には奥書等は見えず,中島の解説にも蓑虫の事は全 く触れられていないが,ここでは明確に「蟲仙」と蓑 虫の存在が明記されている.後藤家本の由来に蓑虫が 関わっていたことを示すものである.しかも中島は後 藤家本の書写年代は幕末と断定しており,鶴齢園主に よる書写についての記録が残されていたことを示唆す る.もしその記録が,鶴齢園主が幕末に蓑虫所蔵の『都 府楼図巻』を模写したといった内容だったとすれば,

鶴齢園主と蓑虫は出会っていたことになる.

(5)

3. 『都府楼図巻』の制作背景 3.1. 『都府楼図巻』の地名・建物名表記

『都府楼図巻』の原図について,中島は古代大宰府 の盛時からさほど遠からぬ時代に制作されたものとし ているが,『九州文化史研究施設開設記念図録』以降の 解説では,そうした見解は否定されている.中島の根 拠は『都府楼図巻』に記載された地名や描かれた建物 だが,それらを分析することで,原図を制作した人物 の時代や背景が見えるはずである.下記の表は『都府 楼図巻』に見える短冊型の枠の一覧である.記載され た地名・建物名について,文化

3

年(1806)制作『太 宰府旧蹟全図』北図(個人蔵,太宰府市

2002

付図を使 用)における表記や位置関係を備考欄に示し,貝原益 軒『筑前国続風土記』(

1709

序)における表記も示し た.

位置 短冊型枠 内表記

備考 筑前国続風土記

右上 宇知山 『旧蹟全図』「ウチ山 村」 / 有智山寺(大 山,竈門山寺)か

「有智山村」

白川山

智徳院 四十九院31「知徳院」

杉谷 『旧蹟全図』「杉谷」

/ 小西1984によれば,

筑紫野市柚須原小字 小岳社 『旧蹟全図』「ヲダケ

山」 / 現在の愛嶽神

「小岳社」

鐘楼

南谷 内山字南谷 南谷「有智山の僧坊あ りし所」

右下 戒楽院 四十九院46「戒楽院」

満堂 四十九院45「満堂寺」

[空白] 安楽寺か / 横書き /

菅公没後に設置され た心字池が描かれて いない

「天満宮」 / 延喜5 年(905)安楽寺に菅 公神殿創設

本堂 金剛堂 経蔵 白山 六所宮 法筐印塔 大仏殿

中上 [空白] 竈門山(宝満山) / 横

書き

「竈門山」 / 承和7 年(840)以降創建 紅葉谷

行者越

巖屋 七窟 「七つ窟」

鉄鎖 「鉄索」

児落 位置が異なる 「児落し」

犬返

楞迦院 座主坊跡とは位置が 異なる

本社 「神殿」

拝殿 「拝殿」

護摩堂 『旧蹟全図』「ゴマド ウアト」

「護摩堂」

本地

羅漢谷 『筑前名所図会』「五 百羅漢」

鐘楼 「鐘楼」

智光寺 『旧蹟全図』「チカウ ジヤシキ址」

「知光寺址」

中下 [空白] 崇福寺か / 横書き 「横岳山崇福寺址」 /

仁治年間(1240~

1243)以降創建 本堂

金塔

法堂 「法堂」

多聞堂 釈迦堂 弥勒堂 山門 惣門 政所

東隣寺 『旧蹟全図』「トウレ ンジ」と位置が異なる

四十九院27「東林寺」

「通古賀村東林寺」

関屋

左上 白川 『旧蹟全図』「白川」

と位置が異なる /

『太宰府略記并参詣 道案内』(1799刊,

筆者架蔵)「崇福寺跡 の山際より流れ出る 川なり」の認識に近い

「今の宰府の天神の 御旅所の西南にあり」

勝軍寺 四十九院18「勝軍寺」

護福院 四十九院1「護福院」

光台寺 四十九院2「光台寺」

花蔵院 四十九院5「花蔵院」

西福寺 『旧蹟全図』「サイフ クジ」(学宮の東)と 位置が異なる

四十九院3・11「西福

寺」

1

附図

3-1

地名・建物名一覧

位置 短冊型枠 内表記

備考 筑前国続風土記

右下 勝福寺 四十九院4「勝福寺」

座禅寺 観世音寺の後背に座 禅谷があるが(髙倉 1996)位置は異なる

四十九院7「座禅寺」

安養院 観世音寺の西北に旧 字名「安養寺」がある

が(髙倉1996)位置

は異なる

四十九院30「安養院」

割注「此址に小貮の墓 あり」

千辺寺 四十九院24「千辺寺」

御領院 『観世音寺絵図』とは 位置が異なる

四十九院28「御領院」

能満寺 四十九院8「能満寺」

知中院 四十九院37「知中院」

中下 皆満院 四十九院38「皆願寺」

珠妙院 四十九院39「珠妙寺」

西教院 四十九院34「正教院」

(6)

常光寺 四十九院44「常光寺」

常楽寺 四十九院33「常楽寺」

光耀院 『旧蹟全図』「コウヨ ウ ジ ア ト 」(戒壇 院 南)

四十九院36「光耀寺」

興安寺 四十九院32「興安寺」

随喜院 四十九院43「随喜院」

中上 [空白] 観世音寺 / 横書き 「観世音寺」 / 天智

天皇創建,康平七年

(1064)全焼

[空白] 観世音寺絵図「本堂」

[空白] 同「金堂」

[空白] 同「宝塔釈迦」

[空白] 同「四天王」

[空白] 同「西門」

[空白] 同「戒壇」 四十九院47「戒壇院」

[空白] 同「土地神」

[空白] 同「土地神」

[空白] 同「表門」

[空白] 同「祇園宮」

[空白] 同「護摩堂」

[空白] 同「東門」

[空白] 観世音寺絵図にも表

記なし / 建物

[空白] 同「地蔵堂」

[空白] 同「食堂」

[空白] 同「玉宝蔵」

[空白] 同「薬師堂」

[空白] 同「学問所」

[空白] 同「鐘楼」

[空白] 同「宝満宮」

[空白] 同「太神宮」

[空白] 同「勅宝蔵」

[空白] 同「湯屋」

[空白] 同「裏門」

山王社 同「日吉山王宮」 「山王社」

[空白] 同「□法寺」 / 『観 世音寺大伽藍図』(福 岡市博物館所蔵青柳 種信資料)は仏法寺と

し,後藤1973・髙倉

1996は弘法寺とする

[空白] 同「御来朝如来」

清水 『旧蹟全図』「コウボ ウ水」

観世音寺「清水」

弘法院 四十九院6「弘法寺」

左上 岩屋寺 「岩屋古城」

四王寺 「四王寺址」

[空白] 建物 / 後藤家本には

ない

聖廟 「学業院址」 / 天平

勝宝6年(754)以降 創建

学寮

曼多羅寺 四十九院 17「曼哆羅 寺」

菩提寺 四十九院48「菩提寺」

端正院 四十九院42「端正院」

戒壇院 四十九院47「戒壇院」

/ 天平勝宝6年(754)

以降創建 戒壇

七宝塔 戒心門

左下 比留菴 『旧蹟全図』「ビルア ン ノ ウ ラ 」(学宮 の 北)とは位置が異なる

四十九院14「比留菴」

妙見寺 『旧蹟全図』「メウケ ンジ」(学宮の北)と は位置が異なる

四十九院12「妙見寺」

浄妙寺 現在の榎社 「浄妙寺」 / 治安年 中(10211024)創建

[空白] 漏刻楼か

[空白] 建物

2

附図

4-1

地名・建物名一覧

位置 短冊型枠 内表記

備考 筑前国続風土記

右下 [空白]

右上 都府楼 横書き 「都府楼址」 / 天智 天皇創建

[空白]×

9

建物

中~

左下

[空白]×

8

建物

左上 [空白] 地名か

[空白]×

4

建物

[空白]

[空白]

国分寺 「国分寺址」 / 天平9 年(737)以降創建 国分川

国尼寺 「国分尼寺址」 / 天

11年(739)以降創

般若谷

3 附図 5-1

地名・建物名一覧

位置 短冊型枠 内表記

備考 筑前国続風土記

[空白]

苅萱関 「苅萱関」 / 天智天

3年(664)以降設

関守 関守

[空白] 建物

[空白]

[空白]

[空白] 地名か

[空白] 地名か

[空白] 弥勒寺か

水城関 「水城」 / 天智天皇3

年(664)以降設置 大堤 横書き 「大堤を築きて水を

貯ふ」

(7)

溜水 水門

[空白] 地名か

御笠森 建物は神功皇后の御 社か

「御笠森」

築石 横書き 海辺石壘之説「只海辺 に石をつきし故,筑石 といへるなるべし」

石城府 博多「海東諸国記に

も,博多或は冷泉津と 称し,亦石城府共いふ よし見えたり」

[空白] 地名か

[空白] 地名か

[空白] 背振山か

4 附図 6-1

地名・建物名一覧

この表から読み取れることをまとめると下記の通り である.

1)原図制作年代

宝満山(竈門山)の麓に座主坊楞迦院が描かれてい るが,楞迦院が宝満山の座主坊になるのは,元禄年中 以降(『宝満山寛文以来之記』14)である.楞迦院のみ 特筆し上古以来座主坊であったかのような描写だが,

楞迦院が座主坊となった元禄年中から遠からぬ頃であ れば明らかな時代錯誤と捉えられ,古図として成り立 たない.原図が存在するとしても,制作されたのは,

楞迦院が座主坊となった時期が忘れられた,江戸後期 頃と想定される.

4 九大本 宝満山(竈門山)

2)

『筑前国続風土記』の参照

江戸後期頃に制作されたのであれば,当時の代表的 な筑前の地誌である『筑前国続風土記』を参照したこ とが推定されるが,実際地名・建物名の表記は『筑前 国続風土記』の表記とかなり重なる.『都府楼図巻』に は観世音寺の子院である四十九院の一部が描かれてい るが,『太宰府旧蹟全図』北図や地名等から推定される 子院の位置15とは全く一致しない.『筑前国続風土記』

での四十九院の記載順の番号を表に示しているが,番 号が近いものが絵図上でも近くにまとまっていること から,『筑前国続風土記』記載の四十九院を参照しなが ら,順次絵図の中に描いていったものと考えられる.

3

)『筑前国続風土記』にない地名

『筑前国続風土記』と一致する表記が多い一方,全 く出てこない地名・建物名も見える.とりわけ宝満山 の「紅葉谷」「行者越」「犬返」は,『宝満山絵図』(福 岡県立美術館蔵)等の江戸時代の絵図16に記載された 地名にも見えない.「紅葉谷」は現在も存在するので,

必ずしも想像だけで書かれているとは言えず,ある程 度現地での調査が反映されたか,あるいは現地の関係 者の協力を得ていることが推定される.敢えて楞迦院 が描かれたのは,作図に当たり座主の協力を得た可能 性を示唆するものであろう.

4

)空白

短冊型枠内が空白になっているものが多いが17,偏 りがあり,特に観世音寺と都府楼周辺に集中している.

横書き用の枠がいくつかあり,「都府楼」「大堤」「築 石」など,大規模施設や広域に渡る建造物に使用され ているが,安楽寺・竈門山・崇福寺・観世音寺等が入 るであろう枠が空白になっている.安楽寺・竈門山・

崇福寺は所属する建物群が全て記載されているので,

記載漏れとは考えにくい.観世音寺は,中島の指摘通 り,観世音寺所蔵の『観世音寺絵図』を参照・踏襲し て描かれており(附図

4-1

4-2

参照),短冊型の枠も,

『観世音寺絵図』に名称の書入れがある建物に配置さ れているので,原図制作段階では確実に建物名が記載 できたはずである.また,書写の段階での転写漏れが 偏在するという事態も考えにくい.原図の段階で,敢 えて入れていなかった可能性があろう.

5)設定年代

描かれている建物の『筑前国続風土記』における創 建年代等を表中に示したが,康平七年(

1064

)の大火 による焼失前と思しき観世音寺が描かれる一方,仁治 年間(

1240

1243

)以降創建の崇福寺が描かれている など,特定の年代は設定せず,異なる時代に存在した 建物をパラレルに配置させている.敢えて建物名を表 記しなかった理由の一つは,併存し得ない建物を描く 上で生じる年代的矛盾を誤魔化すためだったのではな いだろうか18

3.2. 『都府楼図巻』と『観世音寺絵図』

『観世音寺絵図』は,平安時代末頃に描かれた古図 を大永

6

年(

1526

)に写したものとされており,観世 音寺の由緒や故事を描いた縁起絵として性格が指摘さ れている19.『都府楼図巻』に唯一描かれる人物の描写 として,観世音寺の東門の前を過ぎる牛車の一行があ るが,これは『観世音寺絵図』に描かれた天智天皇御 車を意識したものだろう.想像図としての『都府楼図 巻』は,『観世音寺絵図』の縁起絵的性格を踏まえ,そ れに大きく触発されていることが示唆される.

(8)

5

九大本 牛車一行

6 『観世音寺絵図』 天智天皇御者

観世音寺所蔵 九州歴史資料館写真提供

そもそも『観世音寺絵図』の柱を朱,瓦を墨という 配色も『都府楼図巻』主要建築物に反映されており,

『観世音寺絵図』の存在が『都府楼図巻』のベースに なったことは疑いない.そのことは,『都府楼図巻』制 作に,観世音寺が関わっていたことを意味する.戒壇 院以外は失われていた観世音寺の子院を,絵図中で復 元していることも含め,『都府楼図巻』の制作背景の一 端を示唆するものであろう.

4.

『都府楼図巻』の伝来と「筑紫考之言葉」

4.1.

『都府楼図巻』の受入記録と目録カード

『都府楼図巻』は,『図書原簿』等の購入記録によれ ば,昭和

7

年(1932)

11

5

日に大分市の宮崎書店20よ り

50

円で購入したものである.翌

8

3

月の九州帝国 大学創立記念供覧に出品された際は「一幅」とあるの で,受入時から軸装ではあったようだが,会計帳簿で ある『歳出推算簿』(昭和十年度)によれば,昭和

10

6

月に田中表具店に表装を依頼しており,その時に 現在の装丁に改装されたと思われる.「都府楼図巻」と いう書名は現物には題箋にしか見えず,この題箋も改 装された際に貼られたものとは思われるが,『図書原 簿』等の受入時の記録も「都府楼図巻」と統一されて いるので,この書名は受入前より伝わっていたものな のであろう.九大本の模本と考えられる後藤家本の書 名も同じであることは,その印象を強くする.

附属図書館は,『都府楼図巻』と同時期に,『ペルリ 浦賀来航絵巻』等の絵巻類を山内書店から購入してい る21.当時の附属図書館は,書誌学的に興味深い書物 を積極的に蒐集し,調査した上で展覧会等で紹介して いたが22,『都府楼図巻』購入もその一環であったと考 えられる.『都府楼図巻』に対しても,図書館員による 調査が行われたことを伝えるのが,中央図書館貴重書 目録カードである.

7

貴重書目録カード

附属図書館創設期の図書館員は書物への造詣が深く,

当時の目録カードの裏面には書誌学的に重要な情報が 書き込まれていることが多い.『都府楼図巻』は,受入 時に作成される総合目録カードの裏面には書き込みが なく,総合目録カードを元に作成される貴重書目録カ ード裏面にのみ書き込みがあり,受入後にある程度時 間をかけて調査されたことが示唆されている.下記の 通りである.

本図巻ハ色彩極メテ巧妙,巻初ニ東飄西柏巻末ニ 本六菴主人ノ摸印アリ.

巻末筑紫考之言葉ノ著者慧源ハ深江(糸島郡カ)

ノ僧トアルノミニシテ伝不詳

本図巻ハ大分県東国東郡竹田津町藤原直蔵氏ノ 旧蔵ニ係ハリシモノナリ.

尚福岡県史蹟天然記念物調査報告書第二輯所載 ノ島田寅次郎氏論文中ニ原図ハ日田後藤氏ノ所 蔵セルモノ云々ノコトアリテ写真一葉ヲ挿入セ リ.今之ヲ比ブルニ少々異ナル所アリ

(9)

釈読を誤っているものの初めて落款印に言及してい る点,後藤家本と比較している点も重要だが,現物に は全く記されていなかった旧蔵者を明記していること が何よりも貴重な記録である.旧蔵者藤原直蔵は国東 半島竹田津の呉服商で,竹田津村庄屋記録『万年記』

の明治

10

年(

1877

)の記事や明治

31

年調の『大分県 長者鑑』に名前が見える23.『都府楼図巻』が藤原家に 元々あったのか,直蔵が明治以降に入手したのかは不 明だが,蓑虫が,携行していた『都府楼図巻』を豊後・

豊前付近で手放した可能性を示唆するものであろう.

目録カードには,昭和

54

年(

1979

)に,下記の記録 が追記されている.

慧源について(昭和

54

6

14

小原克巳調査報告)

糸島郡二丈深江 誓願山正覚寺二十一世

青蓮社陽誉上人慧源阿春海 軍光大和尚(明治

12

3

25

歿)」

小原克巳(1898~?)は創設期の附属図書館を支え た図書館員の一人で24,箱崎在住であったため,九大 退職後もしばしば附属図書館に呼ばれて創設期の頃に ついての質問に答えている.この追記もその一環で記 録されたものであろう.小原は,巻末「筑紫考之言葉」

の著者である僧慧源について,幕末明治初期に怡土郡 深江正覚寺の住職をつとめた陽誉上人のことであると 特定している.僧慧源については,『九州文化史研究施 設開設記念図録』解説以来現在でも不明とされており,

小原の調査能力の高さを示すが,残念ながらその成果 は全く活かされていなかった.

4.2. 陽誉上人と蓑虫山人

陽誉上人(

1811

1879

)については,旧二丈町深江

(現糸島市)の名士であった藤崎森吉が昭和

2

1927

)頃にまとめた『正覚寺縁起沿革』(正覚寺所蔵)

に詳しい.姓は山崎,筑前国怡土郡深江村に生まれ,

文政

2

年(1819),正覚寺第十七世春暁和尚(賢誉上人)

に師事し,春海と称し,後軍光と改め,慧源と号した.

文政

10

年に江戸浄土宗無量山竹林館学寮に学び,弘化

4

年(

1848

)に帰山して正覚寺住職となる.明治

6

(1873),筑前大教院長に就任し,明治

12

3

25

日,博多栄昌寺において逝去した.明治初期仏教界の 指導者である福田行誡(

1809

1888

)とは無二の友で,

陽誉上人の墓碑銘25は,行誡上人の撰文であり,「志操 之高,品行之正,未知其比也」と称えられている.雷 山宮の持仏であった龍猛菩薩坐像を,明治維新後の神 仏分離の中で正覚寺に保護したのも陽誉上人である.

8 廣瀬文庫本『筑前名所図会』深江駅

9 同正覚寺

賢誉上人により文化11年(1814)に本堂が再建された直後と思われ る正覚寺の絵図.この絵図は廣瀬文庫本より後の稿本である奥村家 本(福岡市博物館所蔵)には含まれていない.

10 現在の正覚寺

筆者撮影

蓑虫は,文久3年(1863)に怡土郡を周遊している26. 正覚寺の陽誉上人に会ったのもその頃であろう.二人 の交流を示す資料が,陽誉上人ご子孫の山崎家に残さ れていた.

(10)

11 慧源春海書

山崎家所蔵

屈腫[踵?]伸腰羽翼得 天工飛鳥世間伝 古祀幾万幾千峯 虫在仙家守自然

右題蓑虫之鴈石 慧源春海書

蓑虫が持参した鴈石(奇石の一種)を詠んだ陽誉上 人による漢詩の揮毫である.蓑虫の絵日記には,持参 した作品や蒐集品を滞在先の人々に見せている姿が描 かれているもの(附図

10,宇佐『蓑虫山人絵日記』

「渡 辺三英氏宅席上の図」等)や,現地の名士や文人に寄 稿された和歌や漢詩,縁起や由来書等が添えられてい るものが見られる.「筑紫考之言葉」も,『都府楼図巻』

を見せられた陽誉上人が,蓑虫に寄稿したものと見る べきであろう.

4.3. 「筑紫考之言葉」の内容

陽誉上人が執筆した「筑紫考之言葉」は,九州の惣 名としての筑紫について,人の命を尽(つくし)の神 を語源とする説を否定し,上古より九州を守ってきた 筑前沿岸の筑石(ちくし)を語源とする説の正しさを,

下記を根拠に論証するものである.

A)

筑前の地は上古より四方に便あり,九州二島の 中心

B)

往古官府もあり,太宰帥以下交代し,西の都と 称せられた

C)

特に博多の津は便宜の地で,昔は防衛の拠点で あったことは史書にも見える

D)

守りが厳重であったため,今も沿岸に残る石 塁・石壁は上古からあるものである

E)

『宗像大菩薩御縁起』に,田心姫が遠海に島を 築き,末代まで夷国を降伏させると誓ったとい う説あり

F)

『海東諸国紀』にも,石垣があるので,博多を 石城府と記している

G)

蒙古襲来の際の多々良潟から生松原までの石 塁は,九州二島の人々が集まって築き,鎌倉よ り送付された石垣修理催促の文書が所々に残 っている

H)

夷賊に対する藩屏たるをもって,上古より筑前 国は九州の主とされ,石壁があるゆえに,筑紫 を九州の惣名とした

I)

海辺にこのように高く石垣を築いた所は稀で,

我が国における長城であるがゆえに,九州の惣 名となった

J)

近頃は夷賊入寇して干戈海内に動く砌に,僅か に残った石塁をも掘り取っていると聞き,九州 の惣名筑紫の根拠である石壁ゆえに残したほ うがよい

筑前は上古より夷賊に対する藩屏であり,その象徴 である沿岸の石塁・石壁により,筑紫が九州の惣名と なったと主張するものである.幕末における筑前人の 筑前観・九州観を伝えるもので,失われつつあった元 寇防塁の保護を主張している点でも重要だが,この文 が『都府楼図巻』に触発されて執筆されたものである ことは,図巻に「築石」や「石城府」が描かれている こと(附図

6-1

)から明らかである.博多湾に浮かぶ 外国船や,中国の建築様式の建物など,国際色豊かに 描かれた上古筑前は,異国から近い故に夷賊に対する 藩屏として再認識されたのである.幕末の情勢の中で,

『都府楼図巻』は,見るものに国防の中心としての筑 前ひいては九州の歴史的役割を想起させるものであっ たということができる.

(11)

5. 蓑虫山人の肥後・肥前の旅 5.1. 不退寺旧蔵絵日記

筑前を去った後の蓑虫の足跡については,岐阜県垂 井町不退寺に伝来し,平成

9

年(

1997

)に同県安八町 が購入した絵日記

93

27により窺うことができる.幕 末に肥後・肥前長崎を旅していた頃の絵日記で,維新 後に失われた景色や建物,古器物が多数記録されてお り,貴重な資料となっている.大きさは,縦約

23

28cm

, 横約

55

63cm

(安八町の計測)で,裏打されているが,

裁断された形跡や破損があり,部分的に絵が切れてい る.宇佐の絵日記のように綴じられておらず,バラバ ラの状態のため,原秩序(蓑虫が描いた順番)は分か らなくなっており,安八町で付与された番号も安藤

1967

に掲載された順番も,原秩序には従っておらず,

「其二」「其三」等と記載され本来一連であった絵日記 もまとまっていない.附表では,絵日記を大まかな地 域ごとにまとめ,地域が特定できなかったものは最後 にまとめた.また,内容や染み28などを参考に,本来 一連であったであろう絵日記を可能な限りまとめた.

この不退寺旧蔵絵日記の年代が明示ないし推定可能 なものを中心に,九州時代の蓑虫の行程をまとめたの が表

5

である.

月日 事績 根拠資料 備考 文久3

(1863)

怡土郡周遊 宇佐『蓑虫山人絵日 記』

深 江 正 覚 寺訪問か

4

八代訪問か 「木綿葉川図」「白 木山妙見宮」

附図7 5 人吉訪問 「青井阿蘇神社」 附図9

6

24

阿蘇御田植 祭に参加か

「阿蘇大明神祭典 行列図」

附図24 8 熊本訪問 「檜垣嫗塔」

9 玉名訪問 「肥後国玉名郡伊 倉南北八幡宮」

附図11 10 熊本訪問 「肥後国飽田郡熊

本八旙藤崎宮」

附図12 文久4

(元治元,

1864)

3月8

菊池訪問 「赤星邨新関柳川 侯通行之図」

附図13

5~7

宇佐地方周

宇佐『蓑虫山人絵日 記』

元治2 (慶応元,

1865)

長崎滞在か 「三月中旬於快園 十八楽席上図」「長 崎外国人居留地」等

附図17 18

5 蓑虫山人九州時代年表

不退寺旧蔵絵日記で,執筆時が明記される最も早い ものは,文久3年5月の人吉の青井阿蘇神社の絵図で,

最も遅いものは,文久

4

3

8

日の菊池郡赤星村で の柳川藩大名行列の絵図である29.実際には

4

月頃に 八代を訪問していることが推定されるので30,その後 およそ

1

年にわたり,肥後を周遊していたと仮定する と,怡土郡を周遊していたのは,文久

3

年の春頃であ ろう.蓑虫が『都府楼図巻』を描いたのは,それより

前になるので,文久

2

年末頃ではないかと推定される.

長崎の絵日記には,執筆年が明記されたものはないが,

絵図に描かれた内容から慶応元年頃と推定されるもの が含まれるので31,少なくとも宇佐地方周遊後に長崎 を訪れたことがわかる32.『都府楼図巻』を豊後・豊前 付近で手放したとすると,長崎に向かう前であろう.

ただし,あくまでも現在確認できた断片的な資料から の推定に過ぎないので,今後,九州で蓑虫が出会った 人物の日記や,新しい資料の発見等により,より正確 な行程が復元されることが期待される33

5.2.

『阿蘇山三十六坊絵図』

九州に残る蓑虫の作品として,重要なものに,阿蘇 西巌殿寺所蔵・熊本大学附属図書館寄託の『阿蘇山三 十六坊絵図』34(附図

22)がある.中世阿蘇山の山岳

信仰の拠点であった山上坊中(古坊中)が衰退した後,

肥後に入国した加藤清正が阿蘇山麓の黒川村に僧坊を 再興した(麓坊中).本絵図はその麓坊中を描いたもの であり,阿蘇山の麓に東西大路(豊後往還)と南北大 路を中心に整然と区画された寺坊群が詳細に表現され ている.短冊型の枠内には各坊名が記載され,各坊の 配置が分かるようになっている.明治維新後に麓坊中 は廃寺となり,その後の開発で麓坊中の景観は失われ たので,本絵図は江戸時代の麓坊中を視覚的に窺うこ とができる貴重な資料として,展覧会や阿蘇山関連書 籍の挿図等で長く活用されている35

本絵図と,同じく西巌殿寺に所蔵されていた『阿蘇 大明神祭礼行列図』(附図

24

,平成

13

年の西巌殿寺本 堂火災により焼失したとされる)は,肥後周遊時代に 蓑虫が用いていた印(「山人」「虫仙」,附図

1)が捺さ

れ,文久

3

4

年頃に蓑虫が描き,阿蘇に残していった ものと考えられる36.しかし,熊本県立美術館

1982

は,

落款及び印文を「空仙」と誤釈しており,さらに遡る と麓坊中の一つ得善坊の霞仙なる画僧が描いたものと されていた37.蓑虫に言及した文献は管見の限り見つ からず,その存在は完全に忘れられていた38

『阿蘇山三十六坊絵図』には,礎石のみが描かれて 坊舎がない僧坊が少なからず見受けられるが,その場 所には短冊型の枠内に坊名を記載し,本来あるべき僧 坊を明示している.坊舎を再建し,本来あるべき麓坊 中を復興させることが,制作背景の一端だとすれば,

観世音寺子院の復元をはじめ,古代大宰府の仏教世界 の隆盛を再現した『都府楼図巻』と性格的に近い部分 がある.本絵図は絵日記に比べるとサイズも大きく39, 現地に残っていたことも勘案すると,衆頂の学頭坊(当 時は光徹)等の麓坊中の中心人物が,蓑虫に執筆を依 頼したことが推定されるが,あるいは,蓑虫に披露さ れた『都府楼図巻』に触発されてのことだったのかも

(12)

しれない.いずれにしても,蓑虫がこのタイミングで 描いてくれていたおかげで,結果的には,明治以降に 失われることになる景観を現代に伝えることとなった.

6. おわりに

江戸後期の都府楼跡は,礎石の除去等をはじめ史跡 として荒廃が進行していたが,一方で保護・顕彰の動 きもあった40.現在残る太宰府天満宮の絵馬堂は,『筑 前名所図会』作者の奥村玉蘭(1761~1828)により文 化

10

年(1813)に寄進されたものである.玉蘭は,大 宰府盛時を慕い,都府楼跡の保存に尽力し,絵馬堂も 都府楼の建物復元を目指したと言われ,屋根瓦は都府 楼跡から出土した古代の瓦を模倣している41.晩年は 学業院跡に聖堂を建設すべく尽力した42

12 太宰府天満宮の絵馬堂

筆者撮影

江戸後期には大宰府盛時を想像し,復元することで,

古代大宰府を顕彰し,ひいては筑前の歴史的位置づけ を見直すことが試みられていたということであり,『都 府楼図巻』もその動きの中に位置づけることができる だろう.例えば,玉蘭のような人物により,『都府楼図 巻』の原図が制作されたとしても不思議ではない.し かし,原図が江戸後期頃に制作されたと仮定した場合,

疑問なのは,原図の存在を示す根拠である破損箇所の 写しである.古代・中世等の遥か遠い時代に作成され た,珍重すべき古文書・古絵図を模写する場合は,物 理的な状態を伝えるために破損個所の形状を忠実に写 すということはあり得るが,原図の段階で物理的にさ ほど古い絵図ではなかったであろう『都府楼図巻』に,

破損個所があったとしても,わざわざその形状を忠実 に写すというのは,違和感を禁じ得ない.原図の存在 を示す資料が今の所見つかっていないこと43,破損の 形状にも違和感を感じること44も勘案すると,古い絵 図を写したように見せた「演出」あるいはある種の「遊 び」である可能性も考慮せねばならない.もしそうで あれば,『都府楼図巻』には原図が存在せず,太宰府を 訪れた蓑虫が45,筑前人の協力を得て描いた「作品」

ということになるが,現段階では不明とせざるを得な い.ただ,模本であれ,作品であれ,二十代の画技修 得中に本図巻のような大作を描いたことが,蓑虫の画 業に少なからず影響を与えたことは,後の作品に,想 像図や復元図が多数含まれていること46からも窺えよ う.併存し得ない建物をパラレルに配置したり,日本 に存在しない中国の建築様式を建物に反映させたり,

大胆な『都府楼図巻』の発想は,蓑虫の自由な表現の 原点の一つと言えるかもしれない.

蓑虫は,日本全国六十六国の奇品を蒐集して六十六 庵という博物館的な施設にて保存・陳列することが生 涯の夢であり,既に六十六庵主人と号しているように,

九州周遊時代から旅の主な目的となっていた47.一方 で蓑虫は,高山彦九郎の遺髪を持ち歩くなどの勤王家 としての側面を持ち,真偽不明の様々な伝承を持つが,

肥後で征西将軍懐良親王や菊池氏の墓等南朝ゆかりの 地を巡り,それらを絵日記に描いているように,幕末 期より勤王思想に傾倒していたことが窺える.聴衆の 前で演説する姿を伝える絵日記(附図

21)も残るが,

そうした際に自ら描いた絵図を聴衆に披露していたの であろう.無名であった蓑虫が,様々な背景を持つ各 地の名士・文人達とも交流できたのは,モノや絵画に よる視覚的効果と,奇品蒐集や好古という共通の関心 が,言葉や思想の壁を超え得るからであり48,それら を武器として自らの主張を展開していくのが,蓑虫流 の勤王活動だったのかもしれない.蓑虫が,決して軽 くはないであろう『都府楼図巻』を持ち歩いたのは,

単なる好古趣味というだけではなく,九州という地域 が,古来より夷賊と戦う国防の中心であったことを,

九州の人々に想起させるためであったとしたら,また 違った蓑虫像が浮かんでくるのではないだろうか.

〔附記〕今回の調査にあたっては,附属図書館の皆様 をはじめ,下記の皆様に大変お世話になった.記して 御礼申し上げる次第である.

梶嶋政司氏(記録資料館)

観世音寺 九州歴史資料館 熊本県立美術館 熊本大学附属図書館 西巌殿寺

正覚寺

ハートピア安八歴史民俗資料館 村田眞理氏(肥後の里山ギャラリー)

山崎家(陽誉上人ご子孫)

(以上五十音順)

(13)

参考文献

[1]

青森県立郷土館編.蓑虫山人.青森県博物館等協議会,

1984.

[2]

阿蘇町町史編さん委員会編.阿蘇町史.阿蘇町,

2004

[3]

阿蘇市教育委員会編.阿蘇山 : 名勝包括調査.2013.

[4]

天草文芸会編.日本と中国を結ぶ「天草洋」三大古詩

―山陽・井井・采蘋作―.天草の史談と文芸.

2013

Vol.30

p.1-22

[5]

安藤直太朗.蓑蟲仙人―明治奇人の一典型―.風媒社,

1967.

[6]

石尾和貴.江戸時代の長崎くんち(その3).長崎学

Web

学会,

2020

https://tabinaga.jp/tanken/view.php?hid=20201006143102 [7]

石垣忠吉.千葉三郎.蓑虫山人全国周遊絵日記 : 秋田

編.DIフォト企画,1979.

[8]

石瀧豊美.在野の碩学・中島利一郎.福岡地方史研究.

2019

Vol.35

p.62-76

[9]

一瀬智.福岡藩における大宰府跡の保護・顕彰につい て.九州歴史資料館研究論集.

2009, Vol.34, p.91-110.

[10]

伊東尾四郎編.宗像郡誌中編.深田千太郎,

1931

[11]

今村としお.高森の歴史散歩②.広報たかもり,

1977,

Vol.220,p.7.

[12]

岩手県立博物館編.名古屋市・長母寺所蔵『蓑虫山人

絵日記』.岩手県文化振興事業団,

2007

[13]

岩鼻通明.大宰府観世音寺絵図考.月刊百科,1989,

Vol.325,p.14-17.

[14]

植松有希.木下逸雲年譜および来舶清人との交友.長

崎歴史文化博物館研究紀要,2012,Vol.7,p.33-51.

[15]

宇佐文化会館三和文庫運営協議会編.蓑虫山人絵日記.

1988-1993

[16] NHK中部ブレーンズ制作.

蓑虫山人調査報告書.

1999.

[17]

大浦天主堂及び教会施設調査報告書.長崎市,

2012

[18]

太田三郎.蓑虫山人(上).郷土文化.

1947, vol.2, No.4,

p.70-75.

[19]

太田三郎.土岐蓑虫伝.郷土文化.

1949

vol.4

No.2

p.13-21

[20]

大館市史編さん委員会編.特集 : 蓑虫山人「絵日記」

火内.1973,vol.3.

[21]

太田原慶子.新収蔵資料紹介 蓑虫山人筆屏風―浪岡

全景図屏風を中心に―.青森県立郷土館研究紀要.

2017,

Vol.41,p.61-66.

[22]

太田原慶子.蓑虫山人が夢みた博物館―資料「廣澤安

任自筆草稿」を中心に―.青森県立郷土館研究紀要.

2021

Vol.45

p.75-80

[23]

岡林隆敏.林一馬.長崎市教育委員会編.長崎古写真

集.長崎市教育委員会,1995.

[24]

鏡山猛.大宰府遺跡.ニュー・サイエンス社,

1979

[25]

加藤貴行.花月史 : 長崎丸山文化史.花月,2012.

[26]

上米良純臣編著.熊本県神社誌.青潮社,1981.

[27]

菊池郡教育会編述.菊池郡誌.熊本県教育会菊池郡支

会,1919.

[28]

菊池市史編さん委員会編.菊池市史下巻.菊池市,

1986.

[29]

岐阜県博物館編.蓑虫山人

:

旅と絵で綴った漂泊の生

涯.

1980

[30]

九州山岳霊場遺跡研究会.九州歴史資料館編.肥後の

山岳霊場遺跡.2018.

[31]

九州大学百年史編集委員会編.九州大学百年史第

6

部局史編Ⅲ第

28

編附属図書館.九州大学,

2017

http://hdl.handle.net/2324/1801801

[32]

九州歴史資料館編.大宰府展 : 甦る遠の朝廷.1978.

[33]

九州歴史資料館編.大宰府復元.1998.

[34]

九州歴史資料館編.大宰府―その栄華と軌跡.2010

[35]

清田之長.柏軒白木先生.玉東町,1991.

[36]

国見町史編集委員会編.万年記.国見町役場,

1989

[37]

熊本県教育委員会編.古坊中.1980.

[38]

熊本県教育会葦北郡支会編.葦北郡誌.田中城資,

1926.

[39]

熊本県教育会阿蘇郡支会編.阿蘇郡誌.

1926

[40]

熊本県教育会八代郡支会編.八代郡誌.1927.

[41]

熊本県立美術館編.県内主要寺院歴史資料調査報告書

(一)(城北地区)

1982

[42]

栗原和彦.奥村玉蘭と太宰府天満宮絵馬堂の屋根瓦.

飛梅.1999,Vol.112,p.4-7.

[43]

久留島浩.長崎くんち考.国立歴史民俗博物館研究報

告.2003,Vol.103,p.79-115.

[44]

久留島浩.原田博二.河野謙解説.秘蔵!長崎くんち絵

巻.長崎文献社,2006.

[45]

月刊西美濃わが街社編.特集 : 風狂の漂泊画人・蓑虫

山人.月刊西美濃わが街.1997,Vol.244,p.18-43.

[46]

国立歴史民俗博物館情報資料研究部編.社寺境内図資

料集成.国立歴史民俗博物館,

2001

[47]

後藤新治.観世音寺絵図小考(上)(下).西日本文化.

1973,Vol.95-96.

[48]

古都大宰府保存協会編.古都大宰府―保存への道―.

1994

[49]

小西信二編.宝満山及び竃門神社周辺の遺跡分布調査

報告書.太宰府顕彰会,1984.

[50]

佐藤弘.小国郷の史蹟・文化財.熊本日日新聞情報文

化センター,1986.

[51]

重松敏彦.“古代大宰府研究”「古都太宰府」の展開.

太宰府市,2004,p.72-122.

[52]

重松敏彦.『太宰府備考』と太宰府址碑.年報太宰府学.

2008,Vol.2,p.23-41.

[53]

重松敏彦.太宰府関連絵図集成(稿).都府楼.

2011

Vol.43

p.14-19

[54]

篠原正一.久留米人物誌.菊竹金文堂,1981.

[55]

渋谷隆一編.都道府県別資産家地主総覧大分編.日本

図書センター,

1999

[56]

杉本尚雄.中世の神社と社領―阿蘇社の研究―.吉川

弘文館,1959.

[57]

角田政治.肥後人名辞書.肥後地歴叢書刊行会,

1936.

[58]

高橋哲華.かくれたる勤皇の志士 : 蓑虫山人.洋々社,

1967.

[59]

大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編.大宰府

の研究.高志書院,2018.

[60]

太宰府市文化ふれあい館編.太宰府―人と自然の風景.

太宰府市文化スポーツ振興財団,

2002

[61]

髙倉洋彰,“筑紫観世音寺史考”.大宰府古文化論叢下

巻.吉川弘文館,1983,p.97-132.

[62]

髙倉洋彰.大宰府と観世音寺

:

発掘された古代の筑紫.

海鳥社,

1996

[63]

髙倉洋彰,“大宰府政庁の研究前史”.大宰府政庁跡.

九州歴史資料館,2002,p.20-30.

[64]

玉名市.高瀬湊関係歴史資料調査報告書.1987-1988.

[65]

玉名市立歴史博物館こころピア編.玉名の俳諧.

1997

[66]

東京美術倶楽部.豊後日田森両家襲蔵品東京市小坂家

愛蔵品展観図録.東京美術印刷社,1934.

[67]

中川齋.肥後文化史の研究.熊本県立玉名中学校,

1934

[68]

長崎市編.長崎市史地誌編佛寺部.1923.

[69]

中島恭子.ブライアン・バークガフニ.万延元年(

1860

の長崎パノラマ写真と英国領事報告書.長崎総合科学

参照

関連したドキュメント

以上の結果について、キーワード全体の関連 を図に示したのが図8および図9である。図8

相談件数約 1,300 件のうち、6 割超が東京都、大阪府、神奈川県をはじめとした 10 都

キャンパスの軸線とな るよう設計した。時計台 は永きにわたり図書館 として使 用され、学 生 の勉学の場となってい たが、9 7 年の新 大

い︑商人たる顧客の営業範囲に属する取引によるものについては︑それが利息の損失に限定されることになった︒商人たる顧客は

平成 24

都内人口は 2020 年をピークに減少に転じると推計されている。また、老年人 口の割合が増加し、 2020 年には東京に住む 4 人に

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

フェイスブックによる広報と発信力の強化を図りボランティアとの連携した事業や人材ネ