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喧嘩両成敗法成立の法史上の意義に関する一試論

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

喧嘩両成敗法成立の法史上の意義に関する一試論 : 戦国大名武田氏の喧嘩処理を手がかりとして

河野, 恵一

九州大学大学院法学研究院

https://doi.org/10.15017/10995

出版情報:九大法学. 92, pp.1-56, 2006-02-27. 九大法学会 バージョン:

権利関係:

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喧嘩両成敗法成立の法史上の意義に関する一試論

  @ @ 

齔寘荘蝟シ武田氏の喧嘩処理を手がかりとして

﹂ノ

はじめに

一 両成敗法評価のふたつの流れ

 ω 私的実力行使禁圧説

 ② 理非折中説

 ⑧ ﹁不論理非﹂の解釈をめぐって

 ω 問題関心の所在

二 戦国大名武田氏家中における喧嘩処理

 ω ﹁甲陽軍鑑﹂に現れた喧嘩の事例

 ② 両成敗法適用の実態

 ⑧ 両成敗法と﹁男道﹂との相克

 ㈲ 武田氏家中における両成敗法の位置

︑ぞ

野 恵 一

三 喧嘩対策法令における喧嘩両成敗法の位置

 ω 様々な喧嘩対策法令

 ② 喧嘩処理をめぐる諸状況

 ⑧ 理非を論じない喧嘩処理の意義

 ω 紛争処理技術としての両成敗法の位置

むすびにかえて

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腸 勃

はじめに 本稿は︑わが国に独特の法理として広く知られた喧嘩両成敗法の︑法史上の位置付けに関するささやかな試論である︒      ユ  喧嘩両成敗とは︑喧嘩の両当事者をその理由の如何を問わずともに処罰する︑という考え方のことを指すが︑こ

の両成敗は︑物理的闘争を伴う︑いわゆる喧嘩闘争についてのみならず︑時として物理的闘争を伴わない︑紛争処

理一般について言及・論評されるに際しても︑広く引き合いに出されるものである︒筆者の長期的な構⁝想としては︑

この両成敗の考え方が︑どのような経緯を経て︑紛争に対処する際に一定の説得力を持つようになり現在に至って

いるのか︑ということにつき︑総体的に把握したいと考えている︒だが︑両成敗の考え方に関する議論の前提となっ

ている︑中近世移行期に法令として制定された喧嘩両成敗法についての研究には︑検討されるべき問題が残されて

いるように思われる︒そこで︑本稿においては︑両成敗の考え方が︑中近世移行期に︑当該期の武家権力が制定し

た法令として集中的に現出したことの法史上の意義について考察したい︒多様な形で存在した喧嘩処理法のなかで

なぜ両成敗が特別な地位を占めることとなったのか︒このことにつき︑先学の成果に学びつつそれらを批判的に検

討し︑なるべく的確な評価を与えることを試みたい︒

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両成敗法評価のふたつの流れ

3  最初に︑本稿における問題関心を明らかにしておくため︑必要と思われる範囲で両成敗法に関する先行研究をま         とめておきたい︒ 両成敗の考え方︑そして過去に存在した両成敗法を初めて近代的な意味での学術研究の狙上に載せ︑総体的な検討を加えたのは三浦周行である施︑その業績は︑後世の研究に大きな影響を与え続けてきている︒その概要をまとめるなら︑以下の通りである︒ 法令としての両成敗法は室町幕府の﹁故戦防戦法﹂にその祖型を見いだすことができ︑戦国・織豊期に戦乱止む事なき社会情勢をうけて広く採用され︑﹁天下の大法﹂として社会に定着する︒その後︑江戸期に至ると法令としては姿を消すものの︑両成敗の考え方は社会慣習としては残存し現在に至るまで人心をとらえ続けている︒また︑両成敗法の目的は︑威嚇による闘争発生の防止・迅速な事後処理・双方当事者の感情面での融和・事後の報復行為の防止︑などの諸点にある︒ このような三浦の見解は︑両成敗法の出現の時期やその定着の程度などのいくつかの点につき批判を受けつつも︑現在に至るまで大枠で受け継がれ︑研究が深められてきている︒その成果は多岐にわたるが︑とりわけ両成敗法成立をいかに評価し法史上の位置づけを与えるか︑という論点については︑研究史上に大きなふたつの潮流が存在しているように思われる︒仮にそれらを﹁私的実力行使禁圧説﹂と﹁理非折中説﹂と名付け︑以下それぞれの概要とその成果︑両者の関係とそこから生じる問題点について論じる︒

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房 勃

 ω 私的実力行使禁圧説 まず︑現在の両成敗法研究の通説とも言える﹁私的実力行使禁圧説﹂について述べる︒これは︑私的実力行使が戦国大名や統一政権などの統治者権力により禁圧されていくという︑中近世移行期に顕著に進行した流れのひとつの到達点として両成敗法の出現を位置づけようとするものである︒        この説の中心に位置づけられるべきは勝俣鎮夫の見解である︒勝俣は︑中世社会における喧嘩は個人あるいは社会集団が自らの権利を主張するための自力救済行為としての側面を持っていたが︑中世国家はこれを制限・否定し︑

独占的な裁判権を獲得していこうとする志向を有しており︑その延長線上に︑喧嘩の両当事者を処罰する両成敗法

が誕生した︑と論じる︒すなわち︑両成敗法は﹁自力救済行為を強く否定し︑権力の裁判権に強制的に委ねられる

ことを目的に︑それを可能ならしめる条件のもとで︑それを強制させる強い権力意思をになった法として出現する

ことは明らか﹂であって︑その目的も﹁自力救済行為としての私的復讐を絶ち︑大名裁判権のなかにこれを強制的

に吸収すること﹂にあると解すべきである︑というのである︒

 さらに勝俣は︑戦国期に存在したさまざまな喧嘩処理法が次第に両成敗法へと収敏していく︑との見解を示す︒

すなわち︑戦国大名が︑その領国支配を強めていくにあたって︑私的実力行使を禁止していく必要に迫られたが︑

それをいきなり全否定することが困難であった︒そこで︑いったん発生した喧嘩につき︑許容される闘争の範囲を

直接当事者間に限定して﹁個人間の決闘﹂として処理する方針がまず打ち出されることとなる︒その後︑権力強化

に伴い︑仕掛けた側に加えて反撃した側をも罰する故戦塵戦法型︵但し反撃側への処罰は仕掛けた側よりも軽い︶︑さ

らには︑反撃した側を仕掛けた側と同等の刑に処す両成敗法が成立するに至る︑と︒

 この見解は︑両成敗法が中近世移行期に﹁天下の大法﹂として社会に定着した︑とする三浦の理解の大枠をさら

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5 に先鋭化したものと言えるだろう︒三浦は︑両成敗法が広く採用されるに至ったとされる中近世移行期において︑両成敗法以外のさまざまな喧嘩処理法が存在していたことを指摘しつつも︑両成敗法を原則︑他を例外と位置づけ︑       ゑ両成敗法こそが当時の社会において﹁天下の大法﹂と認識された︑支配的な喧嘩処理法であったと位置付けた︒こ       れに対して︑当該期の喧嘩処理法の多様性に留意すべきことを主張する見解もある︒だが︑勝俣の説明においては︑多様なかたちで存在した喧嘩処理法が︑大名権力の強化に伴い段階的に両成敗法に収束していくとする見方がより明確に示されているのである︒      ア  また︑ややニュアンスは異なるものの︑おおむね同様の評価がなされていると思われるのが︑石井紫郎の見解である︒石井は両成敗法を﹁実力行使ないし自力救済の全き意味での禁止を目的﹂としたものと位置づけ︑それを中近世移行期の国宣上の変化のなかに位置づけた︒すなわち︑中世武家社会においては︑ある程度普遍的な判断基準である﹁道理﹂に基づいて正当性を主張しうる﹇﹃理非﹄判断権﹂と︑それを担保する﹁正統な暴力行使権﹂とが各人に分有され認められていたが︑同時に︑それらを否定し掌握していこうとする幕府権力の志向も存在していた︒時代が下るにつれ後者が前者を圧倒していく傾向にあるが︑後者の志向は戦国大名権力にも受け継がれ強められることとなった︒そして︑そこで制定されるに至った﹁典型的な意味での喧嘩両成敗法﹂はその表現の一形態であった︑というのである︒ これらの説に共通しているのは︑中世社会において紛争解決の正当な手段として認められていた自力救済行為を含むあらゆる意味での実力行使が︑中近世移行期における社会秩序の解体と再編のなかで公権力によって強権的に否定され︑あらゆる紛争が公権力により独占的に処理されるようになっていく︑という国制上の変化のひとつの到達点として両成敗法が位置づけられている︑という点である︒このような認識によるなら︑当事者それぞれの主張

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する﹁理﹂を︑強大な権力を背景に抑圧すること︑あるいはそれが実現されたことにこそ両成敗法の本質がある︑ということになるであろう︒ また︑両成敗法に対する上記のような理解は︑藤木久志によって提唱され︑学界に大きな影響を与えている﹁豊        臣平和令﹂論としばしば関連づけて論じられる︒﹁豊臣平和令﹂論とは︑一六世紀末に曲豆臣政権が全国統一を推し進めていく中で発した﹁惣無事令﹂﹁喧嘩停止令﹂﹁海賊停止令﹂﹁刀狩令﹂等の一連の治安政策により︑日本国内におけるあらゆる自力救済行為が否定され︑近世社会の基礎が形成されることとなった︑というものである︒この

うち︑大名問での闘争を規制する﹁惣無事令﹂︑村落問紛争を規制する﹁喧嘩停止令﹂は︑両成敗という形で実現      す されることが多いとされる︒この点において両成敗法は﹁豊臣平和令﹂論の中で重要な位置を占めているのである︒

この﹁豊臣平和令﹂論は︑上記﹁私的実力行使禁圧説﹂と同様︑﹁自力の中世﹂から﹁統制の近世﹂への転換︑と

いう国制史上の基本認識に基づいており︑その意味で両者は親和性が高い︒そして︑この二つの通説的理解は︑互

いにその妥当性を補完し合っている関係にあると言えよう︒

 ② 理非折中説

 両成敗法評価に関するいまひとつの流れは︑﹁理非折中説﹂とでも呼ぶべきものである︒これは︑両成敗法の本

質を︑双方当事者の主張する﹁理﹂を折半し調整することに求めようとする見解である︒

 かつて平松義郎は︑近世社会に慣習として存在する両成敗の考え方に関連して以下のように論じた︒

⁝私的な争が出入筋の裁判になると︑理非互角とみなす方向が支心的であり︑﹁喧曄は互に五分の持ち﹂︵﹃心中ふたつ腹

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7 帯﹄︶︑﹁云分は大てい五分五分に野分有物なり﹂︵﹃商人平生記﹄︶というのが社会通念であった︒﹁喧嘩両成敗﹂のこれは近世的表現であって︑﹁諺に喧嘩両成敗と申し︑互に少々宛之理分も有之ものに付︑其心得を以て取計可申事︑一図に訴訟讃歎︑良し悪きと申儀は無之事﹂︵﹁公事雑書﹂︶と記したものもある︒近世においては喧嘩は理非を論ぜず両成敗というのではなく︑むしろ理非互角とされ︑五分五分の線で裁定されるべきことになった︒結果における双方の積極的均衡が志向されたのである︒内済における当事者互譲は︑まさにこの観念に支えられたものといえよう︒人殺に遭っても下手人に処せられる者が出なければ︑被害者は﹁死損﹂﹁殺され損﹂﹁切られ損﹂であり︑幸に下手人を免れえた加害者は︑﹁殺し徳﹂﹁切り徳﹂であった︒﹁人を殺せば我身も死ぬる﹂︵﹃五十年忌歌念仏﹄︶︑それで﹁算用が済む﹂と考えられ︑それこ      ぬ そが﹁道理﹂︑いわば良識的格率であった⁝︽以下略︾

 平松によれば︑少なくとも近世における人々の両成敗観念は︑相争う両者の﹁理﹂を強権的に否定する︑という

性格のものではなく︑むしろ︑相争う両者には双方ともに理があり非があるものであるから︑理非は五分五分に折

半されるべきである︑という一種の世間知というべきものであった︒このような理解によるならば︑いわば︑紛争

を強権により抑圧するのではなく︑理非を折半し双方当事者の衡平感覚を満足させることにこそ両成敗の本質があ

る︑ということになるだろう︒

 このような平松の指摘をうけ︑理非折半の考え方の源流を︑中世以来存在していた﹁折中の法﹂に求める見解が      ロ ある︒この﹁折中の法﹂とは︑笠松宏至によれば以下のようなものである︒

 平安時代以来︑相争う両者の主張が厳しく対立しており︑しかもそれに対して的確な裁定を下すことができるだ

けの証拠や法文を欠くような状況下であるにも拘わらず︑なんらかの判断を下す必要がある時に︑﹁双方の主張を

たして二で割﹂って両者の主張の中間点に解決を求める﹁折中﹂という論法が用いられる場合がしばしばある︒こ

の﹁折中﹂という考え方は中世社会においても広く見いだすことができ︑単に裁判の場における主張の対立のみな

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らず︑古法と新法︑法と現実といった異なる価値観の間の溝を埋めるべくさまざまな局面で持ち出され︑支配的とまでは言えないまでも︑ひとつの重要な﹁正儀﹂としての地位を確立していた︒その背景には︑﹁場面は異り︑程度に差はあっても︑いずれの側にも必ず何等かの﹃理﹄があり︑必ず何分かの﹃非﹄があるにちがいない︑という根本の法思想﹂があり︑そのことが﹁折中﹂に=種の没理性的効力を付与﹂し続けたのであろう︒ 以上のような﹁折中﹂の考え方を︑平松が指摘した近世における両成敗観念の理非折半的性格と関連づける見解       ユを提示しているのが水林彪である︒この見解は︑中世から近世にかけての国里の変化を総体的に論じる中で言及さ

れたものであり︑実際にはそこでの論点は多岐にわたっているのであるが︑ここでの問題関心にそって必要と思わ

れる範囲内でまとめるならば以下の通りである︒

 平松が指摘するとおり︑近世社会において︑両成敗法は﹁権力的・専制的な不論理非の法としてではなく︑理非

折半の法として解釈がえされた上で︑公事出入における一個の裁判規範に転用された﹂︒このような理非折半の法

は︑笠松が論じたように︑すでに中世において成立していたのだが︑それは戦国期に変質を遂げる︒中世において

は理非折半はあくまで判定が困難な場合にのみ持ち出される論法であった︒しかしそれは戦国期に﹁中世無意味で

の﹃道理﹄にかなった解決を求めようとする当事者に︑公権力が強行的に折中の法を押しつけよう﹂とするものへ

と変化したのである︒そして︑この︑変質した理非折半の法が一つの法規範として近世へも受け継がれることとなった︒

 前代以来の﹁折中の法﹂の理非折半の考え方が︑曲折を経て︑近世社会において喧嘩両成敗のかたちをとって具

現化されることとなった︑というのが水林の理解の骨子である︒ここに︑両成敗の考え方と﹁折中の法﹂の考え方

との間に︑その本質的な部分において幾ばくかの共通性を見いだすことができる可能性が示唆されていると解する       まこともあながち不当ではあるまい︒

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9       ロ  そのような可能性を明確に指摘したのが石母田正である︒石母田は︑中世日本社会独特の法理として﹁折中の法﹂と両成敗とを挙げ︑両者に書斎するものとして︑相争う両者に対して﹁等価﹂を提供する﹁等価主義﹂原則なるものを想定する︒この原則は︑通時代的・全世界的に存在するものであって︑それが顕在化するにあたっては︑同害刑や血色などのさまざまな形をとるが︑その日本的なあり方が﹁折中の法﹂であり両成敗法であった︑と言うのである︒ここでは︑﹁折中の法﹂も両成敗も共に﹁等価主義﹂というひとつの観念の表出であったとされているのであるが︑このことは間接的にではあれ両成敗法が理非折半の法として成立したことをも指摘していることになろう︒ 以上のような︑両成敗観念の根本に﹁折中の法﹂の考え方を位置づけようとする見解は︑コ般常識﹂としてはかなり広く普及しているものである︒たとえば︑かつて﹁日本的法意識論﹂に関わる議論が盛り上がるきっかけと      お       なり︑現在に至っても多大な社会的影響力を維持している川島武宜の著作﹃日本人の法意識﹄の中に︑両成敗観念についての記述がある︒川島は︑民事訴訟に関する日本人の法意識の特殊性を論じるにあたって︑両成敗の考え方について大略以下の通り言及している︒すなわち︑伝統的な日本の法意識においては︑他者との権利義務関係を明確に確定すること11﹁白黒を明らかにすること﹂は好ましくないこととされる︒このような意識が︑権利義務関係の明確化が目指されるべき現在の裁判にも影響を与えており︑裁判所の判決の中には︑たとえ一方当事者が全面的に不法たることが明らかになっても︑他方当事者にもその責任の一端を担わせようとする傾向がある︒このことは︑﹁﹃

注浮明らかにする﹄ことを回避しようとする﹂あるいは﹁争う者の一方だけを黒と言いたくない﹂という﹁喧       レ 嘩両成敗﹂的社会通念が裁判官に影響を与えていることの現れである︑と︒

 川島の謂う﹁喧嘩両成敗﹂的考え方︑つまり﹁﹃白黒を明らかにする﹄ことを回避しようとする﹂﹁争う者の一方

だけを黒と言いたくない﹂という考え方が︑笠松が﹁折中の法﹂の根底に流れるものと推測した﹁いずれの側にも

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必ず何等かの﹃理﹄は明らかであろう︒うな両成敗理解が︑知の通りである︒ があり︑必ず何分かの﹃非﹄があるにちがいない︑という根本の法思想﹂の別表現であること従って︑川島の両成敗理解は︑﹁理非折中説﹂に属するものであるといえる︒そして︑このよ責任の所在を曖昧にしがちな日本的法意識︑というかたちで広く人口に膳灸していることは周

 ⑧ ﹁不論理非﹂の解釈をめぐって

 ここまで︑両成敗法の評価に関する学説を︑﹁私的実力行使禁圧説﹂と﹁理非折中説﹂とに大別して概観してき

たわけであるが︑両者の決定的な相違は︑つまるところ両成敗法の﹁不論理非﹂という側面をいかに解釈するか︑

という点に集約されるように思われる︒

 ﹁不言理非﹂︑すなわち﹁理非を論じない﹂ということは︑喧嘩の両当事者に対する処遇を決定し提供するにあたっ

て︑当事者それぞれのどちらに理があり非があるのかを判断する︑という手続を行わない︑ということを意味する︒

そして︑その手続省略の意味をどのように解釈するべきなのか︑がここでの問題となる︒

 ﹁私的実力行使禁圧説﹂の立場からすれば︑﹁不論理非﹂はいわば強権的判断拒否を意味することになろう︒上述

の通り︑﹁私的実力行使禁圧説﹂は︑喧嘩の発生を強力に防止すべく︑いかなる理由に基づく実力行使であろうと

処罰するという方針が徹底されていった結果︑両成敗法に行き着く︑というものであった︒この理解によれば︑各

人の実力行使の正当性を強権的に全否定することにこそ両成敗法の本質があることになる︒従って︑この文脈で

﹁評論理非﹂を解釈するならば︑理非を論じること︑すなわち当事者双方が実力行使に至った理由やその正当性を

究明した上で双方が納得しうる処遇を提示することを︑裁定者たる統治者権力が強権的に拒否する︑というものに

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11 ならざるを得ない︒ 通説たる﹁私的実力行使禁圧説﹂は︑両成敗法制定の背景に強力な統治者権力の存在を想定していることは前述の通りである︒だが︑これに対しては︑近世史の立場からの批判がある︒たとえば尾藤正英は︑勝俣の論を批判し      お て︑両成敗法はむしろ統治者権力の弱さ故に制定されることとなったのではないか︑と推測する︒尾藤は︑しばしば両成敗法を制定した戦国大名よりも権力主体としては強力であったはずの江戸幕府が︑主たる喧嘩処理法として      両成敗を採用しなかった事実を指摘した上で︑両成敗という固定的な喧嘩処理のしかたをあらかじめ法令で定めておくことは︑裁判権︑すなわち理非を判断する権限の内容を自ら制約することにつながるものであるから︑両成敗法制定はむしろ権力の主体としては弱さを示すものである︑と論じる︒そして︑喧嘩に対し︑個々の事例について判断し主体的に裁定を下すだけの力を戦国大名権力が獲得していなかったため︑人々が納得できるような解決策として︑在地社会で広く受け入れられていた両成敗という処理法を提示せざるを得なかったのではないか︑と推測するのである︒ 尾藤の指摘は︑議論の構図をやや単純化しすぎているきらいがあり︑それ自体は対案として十全であるとは言い難いが︑少なくとも︑両成敗法の成立を権力主体の強権性と単純に関連づけて理解する﹁私的実力行使禁圧説﹂の       基本骨格に対しての一つの有効な批判とはなりうるだろう︒一般的に言って︑喧嘩の両当事者に対しては︑ほとんどの場合なんらかの物理的制裁が加えられることになる︒喧嘩の処理がそのような統治者権力による物理的暴力を伴うものである以上︑ある統治者権力が︑理非を論じることなく双方を処罰する両成敗の方針を主たる喧嘩処理法として採用するか否か︑あるいはそれを法令として定めることができたか否か︑について考える上で︑それを実行する権力主体の強弱という要素は確かに重要な一要素であるといえる︒しかし︑尾藤の指摘を考慮に入れるならば︑

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権力主体として強力だからといって必ず両成敗法制定に至るとは言い切れないことになるだろう︒ 喧嘩処理の方針として両成敗法を制定する︑ということは︑喧嘩処理に関する法令を制定すること︑そして︑その法令が両成敗法であること︑というふたつの要素から成り立っている︒これらの要素と権力主体としての強さとの関係について考えてみたい︒やや極論めくが︑仮にある統治者権力が︑喧嘩を含むあらゆる紛争処理を︑被治者側の意向を完全に無視して行うだけの強権を備えた極めて専制的な権力主体であるのならば︑喧嘩処理に関する法令を制定するもしないも︑またどのような喧嘩対策の方針を打ち出すかも︑統治者側の自由であるはずである︒そ

のような権力主体が法令制定という手段に拘泥する必然性はないであろう︒また︑仮に法令という手段を用いて喧

嘩対策を行うにしても︑その内容が両成敗である必要はない︒喧嘩を強権により禁圧するのであれば︑たとえば︑      き単に法令により喧嘩を禁止して違反者を処罰する旨を法令で定める︑といった内容で十分であろう︒よって︑上記

ふたつの要素は共に︑権力の強権性の問題としてのみ論じることができないことは明らかである︒

 ここで引き合いに出した権力主体は論理上・仮想上のものであって︑必ずしも実在の権力主体を想定しているわ

けではない︒そして︑わざわざ江戸幕府の例を持ち出すまでもなく︑戦国大名権力はとうていそのような強権性・      専制性を備えていたとは言い難い存在であることについてはすでに数多くの指摘がある︒以上のことを勘案すれば︑

両成敗法という法令を制定することが権力主体としての強権性を示す︑との前提に立つ﹁私的実力行使禁圧説﹂は︑

それだけでは両成敗法成立の意義について十分に説明しているとは言い難いように思われるのである︒従って︑両

成敗法制定の背景には︑それを制定した権力主体のある程度の強さという要素に加えて︑何らかの別の理由が存在

したと見るのが妥当であろう︒

 いっぽうで︑﹁理非折中説﹂に立脚するなら︑﹁群論理非﹂は︑権力主体としての強弱とは別次元の論理に基づく

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13 判断回避を意味していることになるだろう︒﹁理非折中説﹂の前提にある﹁折中の法﹂は︑相争う当事者の主張が鋭く対立しいずれに正当性を認めるべきかの決定が困難である場合に︑実体的判断を回避するために引き合いに出される論理であり︑その正当性を支えているのは︑相争ういずれの側にもいくばくかの理があり非があるものである︑という﹁没理性的﹂な観念であった︒そして︑このような﹁折中の法﹂の延長線上に位置づけられる両成敗という処置の正当性も︑同様の観念に支えられている︒つまり︑﹁理非折中説﹂においては︑喧嘩処理の論理としての両成敗の正当性は︑﹁没理性的﹂な観念という理念的・絶対的な要素により担保されているのである︒従って︑論理的には︑この観念が共有されている限りにおいて︑両成敗は絶対的な効力を持つ喧嘩処理法として機能しうることになる︒ここでの両成敗の論理は︑統治者権力の権力主体としての強弱︑あるいは双方当事者の理非︑といった現実的・相対的な要素を超越する存在として扱われているのである︒こうして︑理非の裁定者たる統治者権力が︑喧嘩の両当事者のいずれに理があり非があるのかを判断し提示することが困難である場合には︑判断を回避つつ︑双方当事者の衡平感覚を満足させ納得を取り付けるための論理として︑双方の主張する理を折半する両成敗という解決策が提示される︑ということになる︒ だが︑このような﹁理非折中説﹂にも検討すべき重要な問題はいくつか残されている︒前述の通り︑﹁理非折中説﹂に立脚するなら︑両成敗が適用されるにあたっては︑さしあたり︑当事者の理非も︑あるいは統治者権力のその権力主体として強弱も関係ないことになる︒このような理解の背景には︑理非折半という考え方が︑当事者の衡平感覚を満足させ紛争を有効に解決させ得る論理として普遍的効力を有していたことが自明視されている︒だが︑そのことに関しての実証面での検討はほとんどなされていないのである︒﹁理非折中説﹂の基礎に位置づけられる﹁折中の法﹂につき︑笠松は︑必ずしも支配的な考え方であったとはいえないとし︑中世社会における紛争処理の

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論理としてのその汎用性・影響力については慎重に留保している︒ならば︑理非折半の法としての両成敗法の効力の普遍性についても一定の留保が必要なのではないだろうか︒ 実際︑中世社会において︑理非折中の考え方を是とする認識が当時の人たちにどの程度共有されていたかは未知数である︒従来の研究によれば︑紛争において何らかの侵害を受けた者は︑時として暴力行使も含む自力救済行為      お により相手にも同等の損害を与えることで︑その主観的衡平感覚を満足させようとした︑とされるのが通説である︒この同歯報復的な考え方は︑当事者の衡平感覚を満足させようとする限りにおいて理非折半の考え方と同類である

が︑その表出の仕方は両者の間でかなり方向性が異なる︒同署報復が︑相手に全幅の非があることを前提として行

われるのに対し︑理非折半は︑双方ともに理があり非があることを前提として︑その中間に妥協点を見つけること

を本質とする︒その意味で︑両者の考え方は根本的に相容れないものであると言える︒従って︑理非折半の考え方

がどの程度当時の人々に受け容れられていたのかについてはかなりの限定が必要になろう︒そして︑両成敗の普遍

性についても再考が必要になることは言うまでもない︒

 また︑理非折半の考え方と両成敗との差里門をどのように埋めるか︑という問題がある︒理非を折半しその﹁中間﹂

に解決策を見いだす︑とはいっても︑その﹁中間﹂には無限の段階があり得るわけであり︑単純に両者の理非を半々

にすることが必ずしも双方の納得につながるとは限らない︒いっぽうで両成敗は︑双方の理非がそれぞれ半々であ

ると自動的に見なし︑それを処遇決定に反映させようとするものである︒しかも︑場合によっては双方ともに非で

あったのと同様の処置がなされることすらある︒従って︑理非を折半したからと言って︑それが両成敗へと直接つ

ながる訳ではないのである︒だが︑﹁理非折中説﹂においては︑このことについて詳細な説明はなされていない︒

 さらに︑仮に理非折半の考え方に=疋程度の普遍的効力を認めるとしても︑なぜそれが中近世移行期に両成敗法

(16)

15 という形で多く制定されることになったのか︑という疑問は依然として残る︒理非折半の論理が紛争解決のために有効に機能するのであれば︑統治者権力はわざわざそれを法令化せずとも︑その論理を掲げて個別に対処することで︑有効に紛争処理を進めることができたはずである︒従って︑なぜ理非折半の法目両成敗法が法令として制定されることになったのか︑ということにつき︑﹁理非折中説﹂のみでは十分に説明することが難しいのである︒ ω 問題関心の所在 ここまで︑両成敗法の評価に関する研究をふたつの流れに分けて検討してきた︒これらはそれぞれに両成敗法の本質の重要な一面を衝いていることは確かであろう︒本章冒頭に挙げたように︑三浦周行は︑両成敗法の目的・効果につき︑大別して以下の二つの要素を推測する︒ひとつは︑喧嘩の当事者を処罰することによる威嚇効果を以て喧嘩の発生そのものを抑止する﹁喧嘩発生の防止﹂︑いまひとつは︑発生した喧嘩について迅速に処断を下し︑一応の決着を付けるという﹁事後の迅速な処理﹂である︒本章において検討してきた二つの流れをこの三浦の推測にあてはめるならば︑﹁私的実力行使禁圧説﹂はどちらかといえば﹁喧嘩発生の防止﹂という面︑﹁理非折中説﹂は

﹁事後の迅速な処理﹂という面にそれぞれ重点が置かれていると言える︒そして︑両説共に︑それぞれの面につき

重要な指摘がなされているのであって︑その意味では︑従来の研究の=疋の到達点であると言うことができよう︒

しかし︑両成敗法成立の史的意義について考える上では︑問題点も数多く残されているように思われる︒

 まず︑﹁私的実力行使禁圧説﹂について言うなら︑この説のみでは︑他に存在する様々な喧嘩早理法ではなくな

ぜ両成敗法が選ばれたのかについての説明は困難であろう︒両成敗法制定の背後に︑喧嘩発生の防止という意図が

あったことはもちろんだが︑単に防止するだけなら両成敗でなくてもよいことは上述の通りである︒強権を掌握し

(17)

16

房 軸

た統治者権力による喧嘩処理政策がかならず両成敗法制定というかたちをとるとは限らない︒喧嘩処理はさまざまなものであり得るはずである︒ならば重要なのは︑両成敗法制定が強権性の発露を意味する︑という理解から更に

一歩踏み込み︑強権性の発露のありかたがなぜ両成敗法制定というかたちをとったのか︑ということこそが明らか

にされねばならない︒

 いっぽう︑﹁理非折中説﹂について言うなら︑両成敗法が中世の﹁折中の法﹂の考え方の影響︑あるいは同害報

復類似の在地慣習の影響を受けて成立したことを否定できる根拠はない︒だが︑仮にそのことを認めるにしても︑

それが他の処理法と比べて支配的な立場にあったかどうかについてはなお実証面での検討が必要である︒また︑な

ぜ中近世移行期に統治者権力が両成敗法を多く採用することになったのか︑言い換えれば︑なぜこの時期に集中し

て理非折中的な考え方が法令として具現化されなければならなかったのか︑ということについても不明であり︑こ

れについても考えて行かねばならないであろう︒

 以上のことをふまえた上で今後の研究深化のために重要であると思われるのは︑さまざまな形で存在した喧嘩処

理法令︑そして実際に行われていた喧嘩処理の方法の中に喧嘩両成敗法を的確に位置︑︑つけようとする視点である︒

両成敗法が中世後期から近世初期にかけての統治者権力による喧嘩対策の原則であり︑それが広く日本社会全体に

受け入れられることとなった︑という︑三浦によって提示された認識は︑そのこと自体はこれまで自明の前提とさ

れてきた︒これに基づいて︑両成敗法の成立を喧嘩禁圧の到達点とする見解︑あるいは︑現在に至っても日本人の

心を縛り続ける両成敗法︑という主張が広く受け入れられているのである︒だが︑私見によれば︑それらはいささ

か﹁過大評価﹂なのではないかと考えざるを得ない︒なぜなら︑両成敗法に関する従来の研究においては︑ほとん

どの場合︑他の喧嘩対策の中での位置づけについての実証面での検討がほとんどなされていないか︑なされていて

(18)

も不十分なものに終わっているように思われるからである︒その作業を抜きにして︑当時の社会における両成敗法       ま の有効性如何︑ひいては両成敗法成立の意義を断じることはいささか拙速にすぎるだろう︒

﹂ノ

17 二 戦国大名武田氏家中における喧嘩処理 前章で述べたとおり︑過去の研究において中近世移行期における両成敗法制定の事実は多く明らかにされてきたし︑またその史的意義についても様々な視点からの議論がなされてきた︒しかし︑両成敗法制定の事実イコール両成敗が喧嘩処理の原則である︑との認識があまりにも自明のものとされてきたゆえか︑両成敗法を採用した統治者権力が実際にどのような喧嘩処理を行っていたのかを検討した上で︑さまざまな形で存在したであろう喧嘩処理法の中に両成敗法を位置づけようとする試みは︑これまでほとんどなされていないと言ってよい︒そこで︑本章においては︑検討のための素材として戦国大名甲斐武田氏を採り上げ︑この作業を試みたい︒ 武田氏は︑一六世紀申葉の武田信玄の代に︑甲斐国を中心に強固な領国支配体制を構築した典型的戦国大名として知られている︒同時に︑天文十六︵一五四七︶年に制定された分国法﹁甲州法度之次第﹂において両成敗法を定めていることも広く知られているところである︒その条文は︑以下のようなものである︒

一︑喧嘩之事︑不及是非︑料亭成敗︑但錐取懸︑皇子令堪忍輩者︑不可処罪科︑然二百贔屓偏頗令合力者︑不論理

非︑可為同罪︑若不慮之他二犯殺害刃傷者︑妻子家内之事者︑不可有相違︑但︑犯科人令逐電者︑縦錐為不慮之儀︑

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18

蝪 勃

先召置妻子於当府︑      あ 可相尋子細︑

       また︑武田氏家中における喧嘩処理の実例は︑武田氏の事跡について記した文献として広く知られた﹁甲陽軍鑑﹂

の記述にいくつか見いだすことができる︒﹁甲陽軍鑑﹂は近世初期の成立にかかり︑戦国・織豊期の一次史料とし

ては全面的に信頼することはできない部分も含まれているとされるが︑そのいっぽうで︑当時の事件に関する生々

しい記録も多く︑当該期の武田氏家中における喧嘩処理の一端を窺うための素材としては十分に有用であると考え

られる︒

ω ﹁甲陽軍鑑﹂に現れた喧嘩の事例

以下︑取り扱う事例につき︑﹁甲陽夕潮﹂の記述と事件の概略についてあらかじめ年代順に列挙しておくことに

  こする︒

事例一 赤口関左衛門と寺川四郎右衛門との喧嘩︵天文十六︿一五四七﹀年以前︶

一︑天文十六年開演︑信玄公廿︵七︶歳にて︑五十七ケ条︵の︶法度︵を︶書立なさる・︒其由来は︑関東牢人に赤口関

左衛門︑上方牢人寺川四郎右衛門と申仁︑両人の侍口からかひいたし︑既彼雑言に付て︑寺川四郎右衛門座を起て︑赤口

関左衛門がむなづくしをとりて︑後のかべにをしっくる︒赤口関左衛門押たふされておきあがるといへ共︑寺川四郎右衛門

其比四十余の︵歳︶盛︑赤口関は五十六七の直なれば︑をしつけられておくる事ならず︑仰に成て︑居ながら赤口関左衛

門が両方の足を以而︑寺川四郎右衛門がひはらをあらけなく踏ければ︑寺川心におぼえず手をはなして︑三間ばかり跡へし

さりて︑色をわろくして機を取失子細は︑いきぶくろをふまれての事也︒さて両方ひいきの輩︑赤口関左衛門︑寺川四郎右

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﹂ノ

19 衛門にをし付けられたる間寺川手柄と云︒赤口関左衛門方は︑機を取失ほど寺川を踏たふしたる︵程に︶是は赤口関左衛門︵一段︶利口なるといふもあり︒倉議まち・・の事なれば︑目付の人廿人頭・横目の小人頭其日にき・つけ候︒惣別信玄公御仕置に︑善悪の事何事にをひても︑三日に一度目宛︶書立をもつて言上いたせとある目付衆へ御仕置故︑御覧にたち︑典座にある侍衆︵を︶召よせられ︑双方の仕形をきこしめすに︑いつれの口も両方ともに少もわき指心なし︒諸人き︑

つたへの批判にも脇指心なしとあり︒然れば原美濃守・山本首里両人を謝恩︑右の赤口関左衛門・寺川四郎右衛門両人に

御尋候︵は︶︒さすがの侍共なるが︑暫取あふて両方共に脇指の勝負なきは如何と尋給ふ︒此両人其はつしもさこそと申度

辿る事は尚べけれ共︑検使原美濃守・山本勘介也︒又右出入の座にみる衆︑武田の家に坐る侍︑或は近国他国の先方衆・牢人衆︑つばをならす人々の寄合なれば︑赤口関・寺川作事もならず︑又典厩信繁を百重︑寺川・赤口関が出入の場にみ

たる侍衆に︑なにとて両人の仕形をとりあっかはぬぞと仰出さるれば︑当番の面々畏て候︒︵去ながら︶赤口関・寺川が様

子︑町人か或七八歳のわらはべなどのごとくに仕葦間︑少も大事是有まじきと存参詣︑取あっかひ申さず候と︑銘々口をそ

ろへ申上る︒さるに付て典厩信繁・原美濃守・山本虫偏此事始終曲上市︒信玄美きこしめし︑寺川・赤口関いつれもとし

こばい宿老にて︑男子道いまだ若︵輩︶なりと見ゆる︒侍が侍にいであふて︵むながはらをとる程ならば︑脇さしを以て︶

伐つく事有べきに︑さはなくして暫押付て罷有は︑人にとりさへられたきとある事に相似たり︒又押付らる・侍も︑武士が

胸へ手をかけられ︵ば︶かくると一度に︑はや脇指をぬきつく処にてはなきか︒是︵は口︶論ともいはれぬ事︵也︶︒子細

は手を手と取あふ程にての勝負也︒又手と手を取あふても喧嘩とは申されず候︒みぎはへ亙による程にて脇指心なき故也︒

脇指心なきは︑一向のわらはべ︵や町人︶なンどのいさかひといふ物也︒抑男が四十・五十にあまり︑赤口関左衛門・寺川

四郎右衛門なンどと︑官途受領まで仕る侍が︑いさかひなンどあるは他国の批判もいか.・︒きはめては信玄が家の鍛になる

事なりとて︑廿人衆・小人衆に仰つけられ︑両人ながら召捕︑耳鼻をかきて諸侍に見せ︑かり坂をこさせよと有事にて︑坂       際にてふたりながら頸をきらる・也︒︵是により︶彫刻より五十七ケ条の︵御︶法度書相定まる也︒如件︒

※事件概要

赤口関左衛門と寺川四郎右衛門との間で口論となり︑程なくつかみ合いの闘争となった︒この件につき信玄が調

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20

腸 勃

査をさせたところ︑両者とも最後まで抜刀することはなかったことが明らかになった︒信玄は︑闘争に至る経緯に

ついては問わず︑両当事者共に闘争において抜刀して相手を討ち果たそうとしなかったことを答め︑そのことを理

由として赤口関・寺川を共に耳鼻そぎの上追放を命じた︒実際には両者共に国境にて斬首された︒

事例二 布施三兄弟と諏訪弥左衛門との喧嘩︵永禄十一︿一五六八﹀年︶

一︑永禄十一年戊辰歳︑信玄公御構の丑寅の方に毘沙門堂を立給ふ時︑袋に越後牢人布施与三兵衛・同工の介・虎の介と

云兄弟三人の侍と︑諏訪弥左衛門と草履取の口論に付て︑出入有之︒彼者共少身たりといへ共︑各御用に立侍共なれば︑

信玄公おしみ給ひ︑四郎勝頼公をお使になされ︑両方堪忍仕べき旨面出さる︒布施兄弟委細畏て補完をば申せども︑流石

に武大将の弓矢の盛にて︑諸国の諸牢人・武士の風なれば︑諸傍輩を恥て︑其三日目に終喧嘩に仕る︒桑時一人せばき所

に取立︑討こと間道なるを︑加藤駿河守が末子に加藤弥五郎とて︑初鹿源五郎が跡目に成し初鹿伝右衛門︑其比廿五歳に

成けるが︑大略の者にて諸人にすぐれ︑材木のきれを湿てさしかざし︑押込むンずと組で縄をかくる⁝︽中略︾⁝さて又       タ件の諏訪弥左衛門・布施何れも最期能仕るに付て︑一入信玄公惜ませ給ふ⁝︽以下略︾

 ※事件概要

 布施与三兵衛・同牛の介・虎の介の三兄弟と︑諏訪弥左衛門との間でいさかいが発生した︒信玄が双方に使者を

送って説得しいったん鎮静化したが︑布施三兄弟は三日後に喧嘩を起こすに至った︒布施三兄弟・諏訪弥左衛門は

討たれ︑あるいは取り押さえられ死刑とされた︒

事例三 諸角助七郎と原甚四郎との喧嘩︵元亀元︿一五七〇﹀年︶

一︑同年同月︽元亀元年霜月︑引用者注︾下旬に︑諸角︵住︶助七郎と原甚四郎と御城にをひて喧嘩仕り︑双方手ニケ所

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﹂ノ

21 づ・負候へ共︑相番の衆引分︑うち果す事無之︒御前狼籍の故︑信玄公御立腹︑大形に不被越前︒原甚四郎は原美濃︑度々の御用に立︑三十度に及︑あんだにのり︑陣より国に帰ル︑武功の御奉公に免じ給ひ︑命を御助なされ候︒諸角豊後度々の忠功ある侍大将︑其上川中嶋合戦の時討死を仕ル︑父豊後に免じて助七郎命御助なされ︑男運・四郎殿御両人をもつて︑扁虫通被仰含なり︒されば御前狼籍諸人みごりのためなれば︑原甚四郎も諸角︵住︶助七郎も知行同心召上られ︑諸角同心の五十騎は一条右衛門大夫殿へ被害候︒原甚四郎同心は今福丹波に被春信︒原甚四郎家屋敷共に︑土屋に被下立︒右の両人外様のごとくに罷成候︒少給︑少扶持にて︑堪忍仕リ︑物哀なる躰なりといへども︑御成敗あるべき所を︑父の武勇      御奉公に免じられ︑御助なされ︑恭と奉存知なり︒ ※事件概要 諸角助七郎と原甚四郎とが城内で喧嘩を起こした︒双方負傷したが︑途中で引き分けられたため︑お互いに相手を討ち果たすには至らなかった︒この件について︑両者ともに死刑に処されるべきところ︑ともにその父の武功を根拠として助命されることとなった︒しかし︑欄諸人みごり﹂すなわち家中に対する見せしめとして︑両者共にその知行分および配下の同心衆を没収され︑﹁少給︑少扶持﹂の﹁外様﹂扱いとされることとなった︒

事例四 一条右衛門太夫配下の同心衆と足軽大将衆との喧嘩︵年未詳︶

一︑一条右衛門太夫殿︑信玄公御舎弟也︒武道を心がけ給フ故︑諸住同心を進じられ︑其上にも︑

の武変場数三度を下にして︑それより上八ツ九ツまで能ク走廻る若者共︑二十六人有リ︒

 一︑小野兵内     一︑笠井勘兵衛

 一︑遠山五郎兵衛   一︑かも十兵衛

 一︑安沢彦助     一︑辻 甚内

 一︑水上勘兵衛    一︑柴田次右衛門 わかき者をあつめ仕出

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22

腸 勃

 一︑野沢儀左衛門   一︑中根七右衛門 一︑堀 武手右衛門  一︑浅見清太夫 一︑さいこう﹇名前きれてみえず﹈ 一︑山下甚介     一︑なごや﹇名前きれてみえず﹈ 一︑中村助太夫中間には︑ 一︑川崎       一︑大村﹇此末きれてみえず﹈右の者共と御旗本足軽大将衆と大きなる喧嘩有︒御城外の大庭ちり防ぎつく普請場にての事也︒折ふし館城に御能有︒既

に是は喧嘩と云へ共︑鉄砲を打立︑大略の合戦露語つる︒御旗本の足軽大将の中に御子のけいこは︑

 一︑遠山﹇名きれてみえず﹈   一︑今井九兵衛   一︑小幡又兵衛

是三人の外︑足軽大将悉クの喧嘩也︒但シ在城衆は申スに不及︑諸手へ相鎚の大なる足軽大将はのく︒管外組なき少き足

軽大将衆一所の普請直なれば︑各一手になりて︑一条殿屋布の前まで追込︑逸しき際にて︑一条殿内右二十六七人の者共に雑兵さし添︑出て︑大なる攻合有て︑旗本足軽大将衆の中に︑尾州牢人さかい﹇名前きる・﹈と申武士の頸を︑一条殿

内かも十兵衛とる︒南外安沢彦助・山下甚介︑是両人もかも同前に頸をとる︒其ひ・き御かまへの内へ︑鉄炮の歪なるか

みの如クにきこゆる︒去ながら信玄公兼ての御作法其さいはいよくとって︑諸人の行義せんさく能キ事不転故︑奉公人の

事は申に不及︑地下人・町人・出家までも︑しばるにをひてひざをくづろけず︑然も御能過時分なるに︑信玄公武藤三河

守を而て︑又御免三番御所直奏て︑撮山形三郎兵衛に仰付られ︑件の喧嘩あっかひ候へと有り︑もとより山形物の医者なれば︑連々用意仕られつらん︑くろかねの笠の黒クぬりたるを宿より取よせ︑是を着て双方の間へ乗入︑あっかふて御三

へ帰り︑右の段披露致せば︑御亡は過たり︒ざしきの衆︑しばるの者共︑大小上下共に右山県を召ス時は︑いかにも信玄

公子機嫌よく御ゑみがほにて︑山県を近くよび給ひ︑何やらん仰付らる・は︑重て猿楽衆に御小袖か折紙か下さる・儀な

らん︑是程大にきこゆる喧嘩の儀︑諸人色をもしろしめされざるかと︑各存奉り候つるに︑山県に仰付られ︑喧嘩こと相      む済たるとは︑諸人後承り︑上下万民おしなべ︑信玄公の御作法かんぜざるはなし⁝︽以下略︾

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23  ※事件概要 城外の普請現場にて︑一条右衛門太夫︵鳴竜︑武田信玄の弟︶同心の者たちと︑足軽大将衆との間で喧嘩が起こり︑大規模な武力衝突へと拡大した︒その中で一条の同心衆の内︑﹁かも十兵衛﹂﹁安沢彦助﹂﹁山下甚介﹂が相手方の首を取った︒折しも城内で能を鑑賞していた信玄は︑山県三郎兵衛︵昌景︶に命じてその場を取り鎮めさせた︒のちに︑闘争の中で首を取った﹁かも十兵衛﹂﹁安沢彦助﹂﹁山下甚介﹂は死刑に処された︒また︑この喧嘩に参加       お していた多田新蔵は父の武功に免じて赦免された︒

事例五 多田新蔵と福田某との喧嘩︵年未詳︶

一︑多田新蔵と申ス若者は︑其先覚への忠節人多田淡路が子息なる故︑一条殿との喧嘩の時︑新蔵御赦免也︒其後甘利同

心福田と申ス者と右の新蔵又喧嘩有リ︒是も御赦免也︒其子細は︑右の福田︑酒に酔たる躰にて︑我力下女一人町中にた・

せ︑往来の者にさわらせ︑人の女に手を付たるとて打伏セて︑刀脇ざしをねじ取ル︒件の新蔵をもただ者とおもひ︑日暮

時分に見そこなひ︑福田刀をぬき︑のがすまじきとて薪蔵を追かくる︒新蔵種々ちんじ候へ共免さずして︑福田ぬきたる

刀にて切先はつしに新蔵をきる︒そこにて新蔵刀をぬき︑一刀にて福田が頸を打チをとす︒山県三郎兵衛を奉行になされ︑

御せんさく有り︒新蔵申は︑喧嘩の始終︑所の町人を召よせられ︑ごうもん有てき・給へと申︒町人ごうもんに不及︑あ

りていに申上︑そこにて新蔵を御免なされ︑甘利同心福田きられ損に成︑殊にがんどうの品たりとて︑福田が女房までは

たものにあがる︒山県︑新蔵を常ににくみ候へ共︑少も私なく披露申さる・故︑如此︒又前に申す一条殿衆︑喧嘩に頸と       りたるかも十兵衛・山下甚介・安沢彦助︑三人ながら御成敗也⁝︽以下略︾

※事件概要

甘利の同心衆である福田某と多田新蔵の間で喧嘩が起き︑多田が福田の首を斬りおとした︒山県三郎兵衛がこの

(25)

24

腸 勃

事件について調べたところ︑福田が︑通行人に言いがかりをつけては暴行を加えて刀・脇差しを強奪していたこと︑多田に対しても同様のことをしょうとした結果︑多田が反撃し︑福田を斬り殺したことなどが判明した︒その結果︑多田は答めなし︑一方の福田は︑その行動が﹁がんどうの品﹂︑つまり強盗の所行であるとして斬られ損とされた上︑その妻までも礫刑に処されることとなった︒ ② 両成敗法適用の実態

 武田氏における喧嘩処理について︑これらの事例から分かることを筆者の関心からまとめるならば︑以下のよう

になる︒まず︑両成敗法制定後の武田氏家中における喧嘩処理について︑それが実際にどのように機能していたの

かどうかについて検討する︒ここで対象となるのは︑さしあたり事例二から五までということになる︒

 事例二において︑喧嘩の直接当事者である諏訪弥左衛門・布施三兄弟は︑いずれも討ち取られるか捕縛されて死

刑に処されたものと思われる︒具体的に誰がどのような最期を迎えたのかまでは不明だが︑﹁此時一止せばき所に

取籠︑討こと難義なるを⁝⁝押込むンずと組で縄をかくる﹂そして︑﹁又件の諏訪弥左衛門・布施何れも最期能仕

る﹂との記述から︑そのことが推測できるのである︒直接当事者すべてに等しく死が与えられていること︑またそ

れに際して理非判断の手続が行われた形跡がないことから︑本件は両成敗法が文字通り運用された例であると言っ

てよいだろう︒

 次に︑事例三を見ると︑結果としては両者に対して共に所帯没収が科されており︑双方当事者を共に処罰する両

成敗の原則は守られているようにも見える︒しかし︑子細に見れば︑本事例は事例二の場合と比べてやや事情が異

なっていることがわかる︒史料中にも見える通り︑当事者である諸角助七郎も原甚四郎も両者共に︑本来は死刑と

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25 されるところであったのを助命され︑代わりに所帯没収刑が科されることとなった︒だが︑その処遇決定の理由として︑当事者の父の忠節・武功という︑喧嘩とは直接関係ない理由が持ち出された点が重要であると思われる︒この場合︑両成敗法が文字通り運用されているのであれば︑処遇決定に際して喧嘩をしたという事実以外のあらゆる要素は排除され︑自動的に両者共に死刑が科される︑と考えるのが妥当であろう︒しかし本件においては︑当主である信玄の政治的判断が処遇決定に影響を与えており︑単純な両成敗法の適用が行われなかったのである︒ここから︑両成敗法が制定された後であっても︑それが武田氏家中における絶対的な喧嘩処理方針として機能していたわけではなく︑当事者に対する処遇が実際に決定されるにあたっては︑両成敗法以外の根拠が介在する余地があったことが看取できる︒ 事例四の事件における多田新蔵に対する処遇も同様である︒多田は︑事例四の事件の大規模な闘争に参加していたが︑その父多田淡路が忠節人であったことを理由に赦免されている︒多田と同様に事例四の事件に参加した﹁か      が も十兵衛﹂﹁安沢彦助﹂﹁山下甲介﹂の三人が死刑に処されていることとは対照的である︒この処遇の差は︑あるいは﹁かも十兵衛﹂以下三名による︑闘争の場における﹁頸をとる﹂行為と関係があるのかもしれない︒史料上にはこの闘争における多田の行動が具体的には記されていない一方で︑﹁かも十兵衛﹂らが﹁頸をと﹂つたと記されている︒ならば︑この闘争の関係者のうち︑死刑にされたのは﹁頸をと﹂つた者のみであって︑多田はその行為をしておらず︑ために処罰がなかったものと解釈することも不可能ではない︒しかし︑そうであるのならば︑多田が赦免されたという事実をわざわざ記す必要性は低い︒やはり︑多田も本来は死刑に処されるはずだったのだが︑父親の忠節を理由に赦免された︑と解釈すべきであろう︒そして︑このことから︑事例三の場合と同様にこの事例においても両成敗法以外の根拠に基づいて処遇が決定された可能性を指摘しうるだろう︒

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26

腸 勃

 さらに︑事例五の事件においては︑闘争発生の経緯について調査がなされた上で当事者に対する処遇が決定されている︒この事件を喧嘩と見なすべきか否かについては問題が残らないわけではない︒本件は︑福田による強盗まがいの行為に対して多田が﹁正当防衛﹂を行った結果︑福田が斬られたにすぎない︑と解することもでき︑その意味で︑喧嘩という行為に対する一般的な印象からはややはずれた事例であることは確かである︒しかし︑両成敗法は︑当事者双方を処罰するにあたり︑その理由を問わない︒そして︑多田と福田との問で闘争があったことは事実である︒しかも︑﹁甲陽子鑑﹂は︑この闘争を﹁喧嘩﹂と記しているのである︒従って︑本件も両成敗法の対象と

成りうるはずである︒また︑ここで採られたのは︑喧嘩発生の原因を究明して両当事者への処遇を決定する︑とい

う︑理非を論じないことをその本質的要件とする両成敗法の考え方とは真っ向から対立する処理法であった︒両成

敗法があらゆる喧嘩に対して文面通りに運用されているならば︑理由はどうあれ闘争の中で多田が福田を殺害した

事実に間違いはないのだから︑多田は死刑に処されて当然である︒しかしここでは福田の側に非があったとの調査

結果をもとに︑斬られた福田は斬られ損︑斬った多田は赦免︑という結果に終わっている︒つまり︑理非を論ぜず

両成敗と定めつつも︑この事例においては理非を論じて処遇が決定されているのである︒ ︐

 以上のことから︑両成敗法制定以後の武田氏家中においても︑あらゆる喧嘩が両成敗法により処理されていたと

単純にみなすことは到底不可能である︑と言えよう︒無論︑制定された両成敗法が全く⁝機能していなかったとまで

言うことはできない︒事例二における諏訪と布施三兄弟や︑事例四における﹁かも十兵衛﹂﹁安沢彦助﹂﹁山下馬首﹂

のように︑両成敗法が文字通り適用されたものとおぼしき事例も存在している︒だが︑それ以外にも処遇決定に大

きな影響力を持つ要素が存在していたことがここでは重要である︒事例三における諸角・原の場合や︑事例四にお

ける多田新蔵の場合のように︑両成敗法をベースに︑父の武勇・忠節という要素を加味して最終的な処遇が決定さ

参照

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