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研究者と図書館
「辰年はわたしの干支だ。まだ辰年になって いないのに、赤い腰帯を用意しなさいと言う人 がいる。わたしは笑って、そんなこと信じない わよと言った。兎年の大みそかがもうすぐ、わ たしは窓の前に立つと、突然、目の前が真っ黒、
左目が黒いカーテンで覆われたようになり、そ れはわたしが頼りにしている方の目で、右目は とっくに役に立たない。今はすべてがぼんやり としている。これはどうしたことだ。去年の夏 に白内障の手術をしてからは、こういう生活に なることは分かっていたし、二度と愚かなこと は起らないと思っていた。現在の状況は、目に また問題が起きたことは明らかだ。春節を迎え るので、春節が終わってから、医者に行くしか ない。」(宗璞《告别阅读》)
十数年前、宗璞は目に重い病気を患い、つい には失明に近い状態に陥った。しかし、このよ うな状態で、宗璞は長編小説の執筆を放棄せず、
口述の方式で、一字一句語り、友人に入力して もらった。当初は拡大鏡で見ることができた が、その後、他の人に頼んで読んでもらうしか なかった。もし妥当でないところがあれば、一 つずつ手直しをして、さらに細かく手を加えて いるうちに、小説のストーリーの叙述に新たな 局面が表れ、波瀾に富む。
宗璞(冯钟璞)は₁₉₂₈年、高名な哲学者・馮 友蘭の娘として、北京で生まれ、幼少期を過ご した。抗日戦争が勃発してからは、家族で北京 を離れ、雲南省昆明に疎開した。宗璞は西南聯 合大学附属中学に入り、昆明で留まること八 年、この間、たくさんの往事がすべて彼女の心 の内にあった。彼女は₁₉₅₀年代、清華大学外語 系を卒業後、長く外国文学研究所で働いていた。
五十歳を過ぎてから、“野葫芦引”(野の瓢箪序)
という四部の長編小説を書こうという考えが ずっと心の中にあり、六十歳から九十歳まで、
三十年の歳月をかけ、目が次第に失明の状態に なりながら、それでも粘り強い根気で、四部作 の最後、『北帰記』前半五章を『人民文学』(₂₀₁₇ 年₁₂期)に発表した。ある人がこの一連の小説 を何故“野葫芦引”と呼ぶのか訊くと、笑って「わ
たしも瓢箪の中にどんな薬を売っているのか知 らないわ。」と答えたそうで、もちろんこれは 宗璞がわざともったいぶっているにすぎず、こ の小説は彼女の心の中に一生涯熟成された、少 年期の経験を書こうとしているのである。
この小説のモチーフは北京大学、清華大学 が、抗日戦争期に昆明へ南遷し、西南聯合大学 を創立した歴史である。それゆえこの小説は中 国現代知識分子の精神史であり、同時に一個人 の成長史でもある。宗璞が『南渡記』『東蔵記』
『西征記』『北帰記』と一作ずつ完成させるごと に、あたかもゆっくりと一幅の歴史長編絵巻が 開かれたように、人物形象もますますはっきり と豊かになり、作者の考えもますます深くなっ ていった。
宗璞の病名は網膜はく離だった。何度も手術 を繰り返し、光は取り戻せた。暗黒の世界から 脱出できたが、二度と本を読むことはできなく なった。
「小さい頃から布団の中で小説を読んできた わたしにとって、本を読めないことは本当に残 酷なことである。文字はわたしにどんなに豊か で、素晴らしい世界を与えてくれた。小さな四 角い字は社会と歴史を目の前に見せてくれた。
わたしはかつて長期にわたり白内障をわずらっ て、しかしその時はいつも希望を持ち、将来本 を読もうといつも思っていた。…網膜の裏切り は、読書の希望を打ち消した。わたしは二度と 文字の世界を享受できないし、いつでも何処で も膝をつき額を打ちつけて書物から栄養を汲み 取ることはもうできない。…わたしは本を読め ない。しかし本は書ける。ひょっとすると、他 人の本を読まないほうが、自分の本をより良く 書けるかもしれない。…」(宗璞《告别阅读》)
かげやま たつや(非常勤講師・中国文学)
中国のほんの話(₈₃)
宗璞《告别阅读》(『読書に別れを告げる』)
蔭山達弥