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サファヴィー朝滅亡後のシェイフ・サフィー=アッディーン廟

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https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

サファヴィー朝滅亡後のシェイフ・サフィー=アッディーン廟

アルダビール文書のなかの

18,19

世紀勅令・命令書 阿 部 尚 史

The Safavid Shrine after the Safavids

A Study of the Post-Safavid Firmans from the Ardabil Documents A

BE

, Naofumi

Sacred places and religious institutions such as shrines, mausoleums, and khānqāhs, alongside mosques and madrasas, in Muslim societies of the Middle East, Central Asia, India, and Africa have drawn the attention of various researchers. In the history of Iran, numerous scholars have studied the shrine of Sheykh Ṣafī al-Dīn from various viewpoints, such as political, social, religious, art and architectural history. Some of them, analyzing not only narrative sources but also archival materials, have pointed out the various aspects of the shrine’s socioeconomic character, religious issues, and the political relationship with the successive dynasties. However, very few studies have focused on the shrine following the collapse of the Safavid dynasty in the early eighteenth century. In addition to the lack of interest in the former dynastic shrine which lost patronage of the central authorities as well as social influence due to the political changes, another reason for this trend is the growing importance of the Shi‘ite sacred shrines of ʿAtabāt, Mashhad, and other Shi‘ite emāmzādes from the sixteenth century onward. It is reasonable that these “orthodox” Shiʿite shrines attracted more researchers than the Safavid shrine.

Nevertheless, an analysis of the Safavid shrine after the fall of the Safavids will be useful for a better understanding of its long history. More importantly, the study of a shrine, diminished in its significance, besides being given relatively less importance throughout history, will shed light on the struggles, agency, and self-help efforts of a religious institution for survival.

This study proposes Persian texts and Japanese translation of eight decrees in post-Safavid Iran from the Ardabil documents, which are some

Keywords: Shrine of Sheykh Ṣafī al-Dīn, Ardabil Documents, Post-Safavid Period, firman, decree

キーワード : シェイフ・サフィー=アッディーン廟,アルダビール文書,サファヴィー朝 滅亡後,勅令,命令書

* 本研究は,アジア・アフリカ言語文化研究所の共同利用・共同研究課題「近世イスラーム国家と周 辺世界」の成果の一部です。また,本研究はJSPS科研費JP16K16291の助成を受けたものです。

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Ⅰ.はじめに

1.導入

中東・西アジアのムスリム社会において,いわゆる「中世」にあたる10,11世紀から近現 代にいたるまで,スーフィズム/イスラーム神秘主義1),聖者,そしてスーフィー教団(タリー カ)は,民衆の信仰上のよりどころとして,また時には政治権力とも結びつき,重要な役割を 有してきた。この現象は,「サイイド/シャリーフ」と呼ばれる預言者裔への崇敬とも強い関 連性・類似性を有し,西アジアに留まらず,広くサハラ以南のアフリカから東南アジア島嶼部 にかけて広く観察できる2)。こうした信仰の在り方/信仰にかかわる行為や人的な結合の,い わば「物質的な結晶/場」が,修道場(khānqāh/zāwiya)や,しばしば複合施設化するスー フィー廟・聖者廟(mazār),シーア派イマーム廟,イマーム裔廟/イマームザーデといった「宗 教施設」3)といえよう。聖者等の廟に関する研究は日本においても盛んであり,中央アジアか らアラブ地域まで様々な手法を用いて広く研究されている4)

こうしたムスリム聖者等の墓廟にかかわる研究として,その社会経済的な基盤に関する分析 of the most well-known archival materials on Iranian history. The eight documents consist of: two Afsharid firmans, a decree issued probably by the local governor of Ardabil in the middle of the 18th century, Karīm Khān Zand’s decree, a petition from the Safavid shrine and the royal reply to it from Āqā Moḥammad Khān Qājār written in the margin, and three Qajar princely decrees.

These source materials will contribute to the future investigation into how the religious institution that lost its dynastic patronage and support tried to survive as a socio-economic entity and maintain its existence.

Ⅰ.はじめに 1.導入

2.アルダビール文書

3. 本稿で掲載する18,19世紀のサフィー 廟関連の勅令・命令書について

4. 文書テキストと日本語訳注(抄訳)に

ついて

Ⅱ.ペルシア語テキスト

Ⅲ.日本語抄訳

Ⅳ.文書画像

1) 東長は,スーフィズム=イスラーム神秘主義ではないとして,スーフィズム,聖者,タリーカの概 念や理解について,日本で長年問題提起をしている。様々な論考に氏の見解が表明されているが,

代表例として,東長2002参照。

2) スーフィズムに関する研究は非常に多岐にわたり,これを直接の専門としない筆者が総括するのは 困難である。2000年代までの内外の研究動向として,東長2008参照。

3) こうした施設を安易に「宗教施設」と呼ぶことに躊躇されるが,(この文脈における日本語の近代 性を帯びた宗教という概念の適合性などから)ほかに適当な日本語の語彙が見当たらないため,と りあえず当該語彙を使用している。

4) 日本における研究事例として,現在のイラク中南部のアタバートと呼ばれるシーア派イマームの諸 聖廟への参詣を分析した守川2007,中央アジア草原地域の聖地トルキスタンのヤサウィー廟をカ ザフのハンやロシア征服下の社会との関係から考察する野田2007,中世マムルーク朝下カイロの 墓参慣行に関する研究として大稔 1993,オスマン帝国下エジプトに関しては,シャーフィイー法 学派の名祖で聖者化されたシャーフィイーの廟(カイロ)の重要性を,アズハル学院のシャイフ職 任免をめぐる抗争から論じた茂木2009がある。

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が一つの研究分野を構成している。本稿が対象とするイランとその周辺地域を見ても,現在の アフガニスタン北部バルフ近郊の「マザーレ・シャリーフ(高貴なる墓廟)」と呼ばれる伝ア リー廟や,ホラーサーンのマシュハドにある第8代イマーム,レザーの聖廟,テヘラン南部の アブドルアズィーム廟などのほか,アルダビールのシェイフ・サフィー廟について,イスラー ム法に独特な財産所有形態であるワクフ(所有権の停止)による廟への莫大な財産の寄進が研 究されている5)

筆者が注目しているのは,イラン北西部のアルダビールにあるシェイフ・サフィー=アッ ディーン・エスハーク・アルダビーリー廟(以下,サフィー廟)である。現代も残っているこの 墓廟複合体は,ユネスコの世界遺産にも登録され,文化的歴史的価値が広く認められている6)。 同時に,有名な「アルダビール文書」(後述)の存在により,モンゴル期以降19世紀まで通時 代的に研究できる興味深い聖廟である。サフィー廟は,サファヴィー教団7)の拠点として13 世紀イルハン朝以来,トルコ・モンゴル王侯の崇敬を集めて発展した。16世紀にはこの教団 がサファヴィー朝を建設したことにより,サフィー廟も王家の祖廟としてさらなる発展を遂げ た。ところが18世紀初頭に同朝が滅亡し,アゼルバイジャン地方は一時的にオスマン朝軍に 占領された。この時期には,王権による従来の篤い庇護8)が失われ,経済的にも低迷していた と推測される。また19世紀初頭のイラン・ロシア戦争(1804–13,1826–28年)においても,

廟を含むアルダビール地方はロシア軍によって一時征服され,貴重な所蔵写本を持ち出される という被害を被った9)。このほか,19世紀末には,物理的にも廟建物に大きな被害が生じたこ とが現存する写真からも確認できる10)。こうした経緯を見れば,サフィー廟が現在に至るまで,

5) 例として,伝アリー廟への寄進に関してはMcChesney 1991,レイ(テヘラン南郊)のアブドルア ズィーム廟についてKondo 2015,マシュハドのレザー廟についてWerner 2009,杉山 2010など がある。またMorikawa and Werner 2017は,1901年に石版印刷されたレザー廟ワクフ文書等の

集成Āthār al-Rażavīyeの翻刻と研究である。なお,本稿で取り上げるサフィー廟については後述

する。

6) ただし現在は生きた「宗教施設」としての機能をほとんど喪失し,歴史文化的建築物として,イラ ン文化財・観光庁の管理下にある。

7) サファヴィー朝を建国したエスマーイール1世までのサファヴィー教団については,Mazzaoui

1972: 43–82参照。この研究では,サフィー=アッディーンの出自(預言者裔か否か),14,15世

紀当時の民衆イスラーム,政治的情勢との関係や異端(ghulāt)的教義の受容など宗教思想的な文 脈からの分析が主眼であり,教団の社会経済的な基盤には関心が払われていない。Gronke 1993は,

サフィーの後継者サドルッディーン期を中心に教団の社会経済的な発展を論じている。

8) たとえば,サファヴィー朝第2代君主であるタフマースブ1世は,1537–41年に大々的な廟の拡張 工事を行い(Rizvi 2011: 79–80),第5代君主アッバース1世も廟にシャーネシーン(直訳すると「王 の居所」の意)と呼ばれる部分を増築した。アッバースが建設したシャーネシーンの意義について は,Rizvi 2011: 139–143参照。またアッバースは数多くの豪華挿絵入り写本や中国製陶磁器を寄 進したことで知られる。リズヴィーはアッバースが中国製陶磁器をサフィー廟に陳列したことを,

王権の表象という観点から説明している(Rizvi 2011: 143–155)。このような事例から,サファ ヴィー朝期にこの廟が有していた特別な地位や王権との結びつきが,ワクフの寄進など経済的な支 援に留まらない,視覚的・象徴的な観点からも窺える。

9) イラン・ロシア戦争でサフィー廟から持ち出され,ロシアに運ばれた写本の多くは,現在サンクト ペテルブルクの国民図書館に所蔵されており,Dorn 1852にて確認できる。なお,全ての写本が持 ち出されたわけではなく,残された写本は現在イラン国立博物館に所蔵され,同館所蔵写本の主要 部分を構成している(Riyāżī 1374sh: 15)。廟に残された写本(クルアーンが多い)は,国立博物 館の写本目録(Riyāżī 1374sh)から確認できる。

10)当時の写真によって,サフィー廟の建物一部が崩落していることを実際に知ることができる。19 世紀末にイランに調査に訪れたフランスのジャック・モルガンによる調査記録Morgan 1894の 320ページに続いて掲載されているplate 44の写真参照。またモルガンは,サフィー廟を,「非 ↗

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単線的な発展をたどって来たのではなく,18世紀以降には,数多くの困難や苦境に直面した ことが窺える。既往の聖廟に関する研究を概観して気づくのは,廟の発展・成長に着目したも のが圧倒的に多いことである。聖廟の多様な経験と浮沈を分析するにしても,現在にいたる長 期的な歴史を考察するなかで変容の一時期と捉えられるに留まるようである11)。個々の廟の特 徴を理解し,広く社会・政治との関係を論ずるためにも,廟が経済的社会的に困難に直面して いた時期,いうなれば「衰退期」ともいえる時期を,そうした見方の是非も含めて分析する必 要があるのではなかろうか。

2.アルダビール文書

サフィー廟研究に用いられてきた有名な史料として,サフィー=アッディーンの聖者伝 Ṣafvat al-ṣafāや廟財産の根拠を示す文書の摘要集成というべきṢarīḥ al-melk12)が存在するが,

本稿で取り上げる「アルダビール文書」もその価値と重要性が認められてきた13)。アルダビー ル文書(Ardabil documents)は,イランでは「サフィー廟文書(Asnād-e Boqʿe-ye Sheykh Ṣafī)」と呼ばれ,その名の通り,アルダビールのサフィー廟に伝世した文書群である。現在 この文書は,イラン国立博物館,サフィー廟,ワクフ・慈善庁等に分散して所蔵されているが,

2009年にシェイホルホキャマーイーにより文書目録(以下,Fehrest-e Asnād-e Boqʿe)が刊行 されたことにより,その全体像を知ることができるようになった14)。この文書目録を見ると,

↗ 常に破損しているが,賞賛すべき偉大な建築物」と描写し,オランダの旅行家コルネリス・デ・ブ ルインによる18世紀初頭の描写を引用したうえで現状を比較して,廟にはその当時の輝かしさは なく,また財物が略奪されてしまっていると述べている(Morgan 1894: 340, 342–344)。

11)たとえばMcChesney 1991は,バルフのアリー廟の歴史を15世紀から19世紀末に至るまで論じ,

それまで独立的であった廟が,国家の管轄下に組み込まれる19世紀後半以降のアフガン政権下の 廟運営を,新たな展開/変容,すなわち,「廟国家からアフガン政権の国家廟へ(Shrine-State to State-Shrine)」という観点で論じている(McChesney 1991: 294–315)。またKondo 2015では,

アブドルアズィーム廟はサファヴィー朝滅亡後の混乱とナーデル・シャーによるワクフ財接収に より大きな打撃を受け,その後のカージャール朝期にある程度復興したことが指摘されている

(Kondo 2015: 59–61)。

12)Ṣarīḥ al-melkはサフィー廟史料として有名であるが,カーエムマカーミーは『集史』の記述に基づ

き,これ自体は文書の一類型であり,土地証書,たとえば,売買契約文書や賃貸借契約文書など を,要約し集成したものであり,また,複数の土地の権利を記録するために利用されたと述べてい る(Qāʾem-maqāmī 1350sh: 127, 130, 131)。実際にサフィー廟以外について,タブリーズの「ブ ルーモスク(Masjed-e Kabūd)」として有名なジャハーンシャー・モスクにかかわるṢarīḥ al-melk が存在する。詳しくは,Werner 2003: 97–100参照。サフィー廟にかかわるṢarīḥ al-melkはこれま で2種が知られており,16世紀シャー・タフマースブ期にアブディー・ベグ・シーラーズィーに よって編纂された版と,17世紀アッバース2世紀にターヘル・セパーハーニーに作成された版が ある。アレクサンダー・モートンやイーラジ・アフシャールなどの高名な学者がこの史料の校訂・

出版を意図していたが,いずれも果たせず,最近マフムードモハンマド・ヘダーヤティーが,ア ブディー・ベグ版の一部を出版した。この刊本は,少なくとも4点は存在するアブディー・ベグ 版写本を全て参照したうえで校訂出版されたわけではないようである。なお,これまで知られて いたアブディー・ベグ版とセパーハーニー版以外に,19世紀末に当時の状況に合わせて再び編纂

されたṢarīḥ al-melkが管見の限り二種類存在する。いずれも作者不明の,イラン国立図書館写本

Ketābkhāne-ye Mellī-ye Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Īrān, Ms. 7866-5およびイラン・イスラーム議会図 書館写本Ketābkhāne-ye Majles-e Showrā-ye Eslāmī, Ms. 17228。国立図書館所蔵写本の存在は,

近藤信彰氏にご教示いただいた。記して謝意を表したい。19世紀版 Ṣarīḥ al-melkの分析は,筆者 の今後の研究課題である。

13)これら3種の史料を用いた成果であるGronke 1993は,シェイフ・サフィー期ととりわけその後 のサドルッディーン期のサファヴィー教団の発展を論じている。

14)この目録では,アルダビール文書を所蔵する機関ごと,つまり,国立博物館所蔵文書(Asnād-e ↗

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アルダビール文書は確認できる限り12世紀から19世紀に至る約800通から構成される。そ して,ワクフ寄進文書や売買文書,賃貸借文書などシャリーア文書から,中央・地方政府から 発行された行政文書,さらには書翰,財産目録等を含む15)。イランにおいて16世紀以前の文 書を一つの出所からまとまった量で伝えていることが,アルダビール文書の特筆すべき点であ ろう。このほかに数千通に上る膨大な廟財務関連文書も伝世している16)。このようにモンゴル 支配期から継続的に文書を蓄積し,現在にそれを伝えている点で,サフィー廟とアルダビール 文書は研究者の関心を引き続けている。

邦語ではŠayḫ al-Ḫukamā’ī,渡部,松井2017と四日市2015が,モンゴル期を中心にアル ダビール文書研究史を詳細に紹介しており,参考になる。このように既に当文書の研究史は解 説されているので,以下では筆者の関心に基づいて簡単に言及するに留める。

アルダビール文書を用いた研究,またこの文書自体に関する研究は,1970年代以降,特に ドイツで進展した。この要因としては,特に1970,1971年にヘルマン,フラグナーがそれぞ れサフィー廟とアゼルバイジャン博物館にてアルダビール文書の撮影を行い,そのマイクロ フィルムをドイツに持ち帰ったことが大きい17)。このマイクロフィルムを利用して,モンゴル 支配期の命令文書を分析したHerrmann and Doerfer1975,Doerfer 1975にはじまり18),サファ ヴィー朝期の文書を対象としたFragner 1975a,1975b,12,13世紀のアラビア語・ペルシア 語文書を併せて,いわゆるシャリーア文書を検討したGronke 198219)が相次いで刊行された。

↗ Mūze-ye Mellī-ye Īrān),ワクフ〔・慈善〕庁所蔵文書(Asnād-e bāyegānī-ye Sāzmān-e Owqāf), サフィー廟所蔵文書(Asnād-e mowjūd dar Boqʿe-ye Sheykh Ṣafī),アゼルバイジャン博物館(在 タブリーズ)所蔵文書(Asnād-e mowjūd dar Mūze-ye Āẕarbāyjān)と区分して表記されている が,通し番号が記されている。なおアゼルバイジャン博物館に保存されていた文書は,現在,サ フィー廟に移管されたとのことである(全ての文書がサフィー廟に移管されたかは不明だが,現 在同博物館にアルダビール文書は存在しないようである)。筆者は,2005年7月にタブリーズの歴 史家でアゼルバイジャン博物館元館長ある故ジャマーロッディーン・トラービー=タバータバー イー氏より,この経緯を直接聞くことができた。実際に,フラグナーが1970年代に論文で公刊し た同博物館所蔵とされている文書は,現在サフィー廟に展示されており,また本稿で取り上げた文 書にも,Fehrest-e Asnād-e Boqʿeで「アゼルバイジャン博物館蔵」となっているものの,廟で展示さ れているものがある(たとえば,本稿で取り上げる「文書2」)。なお,目録作成者のシェイホルホ キャマーイーにこの件を質問したところ,氏は廟を実際に訪れて文書を確認したわけではなく,現 地から送付された複写を基に目録を作成したとのことである。またこの目録がアルダビール文書全 体を包括していない可能性が非常に高い。本稿で紹介する文書についても,8点中6点が同目録で 確認できなかった。

15)Fehrest-e Asnād-e Boqʿe: xvi。日付が付されている最古の文書は,ヒジュラ暦517年モハッラム月(西 暦1123年3月)付の文書である(Fehrest-e Asnād-e Boqʿe: xvi, 3)。これより古いヒジュラ暦340年

(西暦951–952)付の文書謄本があるが,書写年月日が欠落しているという(Fehrest-e Asnād-e Boqʿe: xvi)。

16)サフィー廟にあった二つの箱(ṣandūq)が国立博物館に移管され,一つはFehrest-e Asnād-e Boqʿe として目録化されることになった文書類が,もう一つには財務文書類が収められていたという。

したがってこの財務関連文書(fard)も,国立博物館に所蔵されている(Sheykh al-Ḥokamāʾī

1387sh)。筆者が2016年にシェイホルホキャマーイーにこの件を問い合わせたところ,国立博物

館イスラーム期展示部門の改修工事に伴い,現在の管理状況は不明であるとの回答を得た。

17)フラグナーが撮影したマイクロフィルム300点余は,フライブルク大学にもたらされた(Fragner 1975b: 171–174)。

18)この研究の到達点として,Herrmann 2004がある。ドルファーとヘルマンの研究の位置付けにつ いては,Orientの特集号の緒言であるHaneda and Yokkaichi 2015: 1参照。

19)グロンケ自身は,売買,賃貸借,贈与等の契約関連文書類を,国家が発行する行政文書等と区別し,

特に私人間の契約であることを重視して,「私文書(Privaturkunde)」と呼ぶが(Gronke 1982:

2–3),イランにおける呼び方(asnād-e sharʿī)や筆者自身のとらえ方に従い,本稿では「シャリー ア文書」と記す。

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1970年代のドルファーとヘルマンの共同研究は,モンゴル期の多言語文書を考察した初期の 試みといえよう。彼らの研究は,モンゴル期の難解な文書を最大限「読みこなす」ことと文書 中に見られる術語の注釈に重点が置かれ,文献学的関心に貫かれている。一方,グロンケの研 究はどちらかといえば,イラン地域のイスラーム期以降における最古の文書集成としてのアル ダビール文書の史料的価値を強く認識して,シャリーア文書の古い形態を明らかにするという 立場に基づいていると概括できそうである20)

近年日本においてもこの文書史料に対する研究関心は高まっており,Orient 50号(2015年) で,モンゴル期のアルダビール文書に関する Multilingual Documents and Multiethnic

Society in Mongol-Ruled Iran と題する特集が組まれた。日本の研究は,ドルファーとヘル

マンの研究を一面では継承・発展させる方向性を有しており,トルコ・モンゴル語,ペルシア 語に留まらず,漢語,ウイグル語,パスパ文字の印章も幅広く視野に入れて,ユーラシアの東 西交流の発現の一端としてモンゴル支配下における多言語空間を明らかにしようとしている。

すなわち,文献学・古文書学的な関心と東西交渉史的関心の交差点から,13,14世紀のアル ダビール文書を考察していると言えそうである21)。深く立ち入るつもりはないが,アルダビー ル文書研究をめぐる立場に,欧州のイスラーム学,東洋学(イラン学,トルコ・モンゴル学) と日本の東洋史学,モンゴル史研究のそれぞれの伝統が表れていることは興味深い。

これまでのアルダビール文書を利用した研究は,世界的に見ても圧倒的にモンゴル期への関 心が中心であり,サファヴィー朝以降については,上記のフラグナーによるサファヴィー朝君 主発給勅令の訳注に留まる。こうした研究状況には,フラグナーがドイツに持ち帰ったアルダ ビール文書のマイクロフィルムが,基本的にティムールの死(1405年)までに限定されてい ることにも求められるだろう22)。実はサファヴィー朝期のサフィー廟に関する研究は,アルダ ビール文書ではなく,前記のṢarīḥ al-melkを利用したものが多い23)

3.本稿で掲載する1819世紀のサフィー廟関連の勅令・命令書について

さて筆者の関心はサファヴィー朝滅亡後のサフィー廟にあり,特に聖廟が王朝権力からの従 来の篤い庇護を喪失した時期における存続のための多様な試みにある。サファヴィー朝以降の サフィー廟に関する研究が少ない要因は,上記の通り史料的な制約が大きい。それに加えて,

特に17世紀以降,シーア派信仰上「より正統的な」廟崇敬,すなわち王朝の公認宗派たる12 イマーム派のイマームたち(およびその近親)の廟の重要性が,王権の支援なども奏功して著

20)フラグナーの研究はサファヴィー朝期を対象としており,グロンケ,ヘルマンのモンゴル期研究と は一線を画するかに見えるが,これはイラン史では文書史料が限られており,1970年代はサファ ヴィー朝期の行政文書についても不明な点が多かったために研究の空白を埋めるという意識に基づ いていたのであろう。ドイツにおけるアルダビール文書研究については,Gronke 1993: 12–17参照。

21) Yokkaichi 2015, Matsui 2015など。

22)フライブルク大学に所蔵されるアルダビール文書マイクロフィルムが1405年までに限定されてい ることは,2018年3月に来日したベルト・フラグナー氏から直接教示を受けた。1970年時点のア ルダビール文書保存状態やヨーロッパにおけるアルダビール文書の研究展開について,氏との会話 から得るところが大きかった。なお,フラグナーによるタフマースブ1世,タフマースブ2世に関

する研究(Fragner 1975a, 1975b)は,廟とは別にタブリーズのアゼルバイジャン博物館に持ち込

まれた文書を撮影したものである(Fragner 1975b: 173, 174)。

23)Ṣarīḥ al-melkを用いたサファヴィー朝期サフィー廟研究の代表的な例として,廟の建築を考察する

Morton 1974, 1975,建築と王権の関係を扱うRizvi 2011のほか,女性によるワクフ財産寄進(サ ファヴィー朝以前も含む)を考察するZarinebaf-shahr 1998が挙げられる。

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しく増大した結果,現代の研究者の関心も移動していることが挙げられよう24)。特にマシュハ ドのレザー廟の発展は現在進行形であり,現代イランの体制や,シーア派信徒が人口の大半を 占めるイラン国民の信仰の在り方とも密接に関係していることから,研究上の重要性も自ずと 高く評価されている25)

他方,サフィー廟はといえば,サファヴィー教団を母体とするサファヴィー朝が滅亡したの ちに社会的な影響力が低下することから,研究上の動機もある程度減退することはやむを得な い。イランにおいては,サファヴィー朝後期以降,スーフィーたちは王権に支持された12イマー ム派の主流ウラマーから圧迫されていた26)。サフィー廟自体は,王朝滅亡後に王家の祖廟とい う特別な立場を失い,またサファヴィー教団は他のスーフィー教団と同じく社会的に周縁化さ れていったと推察される。それにもかかわらず,約300年経た現在も残っているこの廟の生 命力は,興味深い研究題材といえるであろう。

そこで本稿では,今後サフィー廟自体の歴史や廟と政治権力との関係を考察するための材料 を提供するべく,アルダビール文書のなかにある,18,19世紀の勅令・命令書のテキストと その日本語抄訳を提示し,末尾に文書の画像も掲載する27)。具体的には廟で一般公開されてい るうちで筆者が対象とするサファヴィー朝滅亡以降の文書について28),以下の8点のペルシア 語文書をテキスト化し,日本語に訳出した。筆者が調べた限りでは,Fehrest-e Asnād-e Boqʿeに て確認できるものは文書2,8のみで,残りは同目録に未登録である。

1.エブラーヒーム・シャー・アフシャールの勅令(1162年ラビーⅡ月付/17493–4月)

Fehrest-e Asnād-e Boqʿeになし

2.シャーロフ・シャー・アフシャールの勅令(1163年ラマダーン月/17508–9月)

恐らくFehrest-e Asnād-e Boqʿe: 172にあるno. 708(Asnād-e mowjūd dar Mūze-ye Āẕarbāyjān, no. 1226)

3.アルダビール地方知事?の命令書(1170年ズィーカアデ月/17577–8月)

Fehrest-e Asnād-e Boqʿeになし

4.キャリーム・ハーン・ザンド命令書(1177年ラビーⅠ月/17639–10月)

Fehrest-e Asnād-e Boqʿeになし

5.サフィー廟の管財人らからの請願とアーカー・モハンマド・ハーン・カージャールからの 返答となる命令書(1210年ジュマーダーⅡ月/179512月–1796年1月)

24)王権の庇護によるシーア派「正統」聖廟の発展と王権による庇護の関連性を分析したものとして,

社会経済史的な視点とは別に,マシュハドのレザー廟に関する守川 1997やコムを対象とする嶋本 1987などがある。

25)レザー廟については,邦語では,杉山 2010, 2016が,それぞれサファヴィー朝期と現代に詳しい。

現地イランにおいては,「イスラーム研究財団」(Bonyād-e Pazhūhesh-hā-ye Eslāmī)のようなレ ザー廟に付属した研究機関により,数多くの研究成果が継続的に刊行されている。

26) Abisaab 2004: 134.

27)ここに掲載したアルダビールのシェイフ・サフィー廟所蔵の文書は,筆者が2014年9月に廟内 で撮影したものである。なお,イランの文化財・観光庁(Sāzmān-e Mīrāth-e Farhangī, Ṣanāʿ-e dastī va Gardeshgarī-ye Īrān),同アルダビール州支部(shoʿbe-ye Ostān-e Ardabīl)のご厚意と 協力により,画像を提示することができた。許可取得に協力してくださったイラン文化財・観光庁 のファリーバー・ケルマーニー氏(Ms. Farībā Kermānī)にも,記して謝意を表したい。

28)サフィー廟にて現在展示されているサファヴィー朝期の文書は,シャー・エスマーイール1世発給 勅令一点を除いて,Fragner 1975a, 1975bで本文・訳注が刊行されている。上記の勅令に関して,

筆者による紹介とテキスト・英訳(Abe 2017)がDYTNTRANのウェブサイト上で閲覧可能である。

(8)

Fehrest-e Asnād-e Boqʿeになし

6.アルダビール知事ジャハーンギール・ミールザー・カージャールの命令書(1245年ラマ

ダーン月/18302–3月)

Fehrest-e Asnād-e Boqʿeになし

7.カフラマーン・ミールザー・カージャールの命令書(1254年ジュマーダーⅠ月/1838

7–8月)

Fehrest-e Asnād-e Boqʿeになし

8.マレクカーセム・ミールザー・カージャールの命令書(1265年ラジャブ月/1849年5–6月)

恐 ら くFehrest-e Asnād-e Boqʿe: 168に あ るno. 683(Asnād-e mowjūd dar Boqʿe-ye Sheykh Ṣafī, no. 304)

本稿ではごく限られた文書のみを取り上げるが,これは第一にアルダビール文書の閲覧に非 常な困難を伴うためである29)。当該の8点の以外に廟において公開されていて,翻刻等されて いない文書は実は1点のみであり,一見すると内容的にはサフィー廟とは直接関係のない文書 である30)。つまり,現時点で研究者が比較的容易に調査ができ,かつ18,19世紀の廟に関連 する文書は,本稿で取り上げる8点となる。また文書2,8以外は目録未掲載であることから,

目録を補う意義も有するだろう。18世紀以降のサフィー廟について,ペルシア語の王朝年代 記や地方史史料に,まとまった記述は存在しない。したがってアルダビール文書を中心に,欧 州人旅行記・報告記の記事をも利用しながら,地道に情報を積み上げていく必要がある。

第二の理由として,本稿で取り上げる文書のサフィー廟研究に資する意義である。文書の内 容を見ると,差出人不明である文書3を除く残る7点の文書は,ナーデル・シャー以降のアフ シャール朝,ザンド朝,カージャール朝の君主の即位,およびアゼルバイジャン知事の着任後 早々に発給された勅令や命令書である。7点の文書をつなげて見通すことで,18世紀後半か ら19世紀半ばまでの廟と政治権力の交渉の一端が見えてくるのである。また,差出人不明の 文書3は,18世紀後半の廟の成員や支出を示す貴重な史料である。以上の点から,ここに翻刻・

訳出した8点の文書は,今後サフィー廟の歴史を研究する際に,有益な情報を提供するもので あり,公刊される意義は大きい。なお本稿では文書学的な関心に重きを置かないが,それはこ こで提示する文書の多くは既に形式論等が解明されているためである31)

29)モンゴル期のアルダビール文書関連研究については,今後,ドイツのアルダビール文書マイクフィ ルムの利用可能性を探る必要もある。サファヴィー朝以降に関してはイラン国立博物館等での調査 が必要である。なお,筆者が2018年夏に訪問したところ,イラン国立博物館所蔵のアルダビール 文書の利用は,2015年以前に比べれば若干容易になっているが,博物館側による文書の把握が十 分でないため,申請後の文書実物の探索と撮影に時間が非常にかかり,短期滞在者にとっては相変 わらず困難である。同館の学芸員によれば,国立博物館所蔵のアルダビール文書の刊行を企画して いるとのことだが,2019年12月末の時点では実現していない。またワクフ・慈善庁は,研究を目 的とした文書の閲覧を原則として受け付けていないため,基本的に同所所蔵文書を利用するには著 しい困難が予想される。

30) 1309年ラビーⅡ月(1891年11/12月)付で皇太子モザッファロッディーン・ミールザーが発給し た,モスタシャーロッサルタネ宛の税収下賜の命令書である。

31)イスラーム以後のイラン系諸王朝の勅令・命令書の書式論については,Qāʾem-maqāmī 1350shお よびFragner 1999参照。

(9)

4.文書テキストと日本語訳注(抄訳)について 4-1.文書テキスト

テキスト化は以下の方針で行った。

・テキストは,現代ペルシア語の標準的正書法に基づき,原則として分かち書きにする。前置 詞や動詞の接頭辞(現在形,過去未完了形のmī,仮定法などのbe)および動詞būdanの接 尾辞形現在形などの,語の接続の有無の相違は示さない。

・可能な限り文書の書式を反映させるべく,文書1行ごと区切ってテキストを作成している。

・しばしば「シェイフ・サフィー」の語が擡頭されているが,これについては,« »で囲み 擡頭されていることを注記し,文脈上適切な位置に挿入した。また文書5の請願では請願当事 者が一行字下げをされているが,これも同様に処理した。擡頭の位置については,文書の写真 を参照のこと。

・命令書/勅令の冒頭のトグラー(花押)はイタリック・ボールドにして強調した。

・固有名詞などの表記が一般的な,または慣用のペルシア語の綴りと異なる場合,とりあえず 原文書の表記のまま示し,( )のなかに一般的な表記を記した。

・原文書にない語を補う場合(部分的破損などで失われた箇所の再現も含む),[ ]のなかに 記載した。

・原文書において語の判別が難しい場合や複数の読みの可能性がある場合は,/を用いて示した。

4-2.日本語訳(抄訳)

本稿では,可能な限り原文に沿って訳出を試みたが,以下の点について文書を完全に逐語で 訳出していないため,「抄訳」としている。

・翻訳上補った語句・表現は〔 〕で示す。直前の語のラテン文字転写は( )で示す。

・人物にかかる祈願文は,あえて訳出する必要がないと筆者が判断した場合はこれを省略した。

・王朝,君主,その他の個人に付される過剰な装飾的形容表現については訳出を最低限に留める。

・「偉大な者たちの要たる前記のお方」といった,人物名の重複を避けるための指示語句につ いては,具体的な人物名を補い,文書に記述されている事実関係が正確に理解できることを優 先する。

・ペルシア語文章術に頻出する類語の列挙について,訳し分けの必要がないと筆者が判断した 場合はあえて逐語訳せず,一語にまとめて訳出する。

・サフィー=アッディーン廟は,原文書では「神秘主義者たちの長シェイフ・サフィー=

アッディーン―彼に神の慈悲がありますように―の光輝く墓廟さま」sarkār-e mazār-e kathīr al-anvār-e solṭān al-ʿārefīn, Sheykh Ṣafī al-Dīnや「真実の求道者の師シェイフ・サフィー=

アッディーン―彼に神の慈悲がありますように―の光り輝く墓廟」mazār-e kathīr al-anvār-e sheykh al-moḥaqqeqīn, Sheykh Ṣafī al-Dīnなどと記されるが,とりあえず一貫して「サフィー 廟」と簡略に記す32)

・原文書では,「行間」に徴税対象の村の一覧や俸給受給者の一覧と俸給額などが挿入される ことがあり,点線カッコで地の文と区別した33)。日本語訳でも,同じく点線カッコで囲んで,

可能な限り原文書に沿った位置に挿入した。

32) sarkārという尊称が付されるのは,8代イマーム,レザーの聖廟やレイのアブドルアズィーム廟と

いったシーア派イマーム聖廟と共通している。

33)こうした形式はサファヴィー朝期から既に見られるが,カージャール朝期以降の行政文書に,特に 複雑な挿入が顕著に見られる。

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参 考 文 献

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Ⅱ.ペルシア語テキスト

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Ⅲ.日本語抄訳

1.エブラーヒーム・シャー・アフシャールの勅令46)1162年ラビーII月)47)

〔印〕:「神の御名において。エブラーヒームに平安あれ1162年」

王権は神の許に。吉祥なる勅令が発給された。

サフィー廟の管財人であるサイイドたちの精髄たるキャルブアリー・ベグが,エブラーヒー ム・シャー陛下に以下について奏上した。「これ以前にアルダビール周辺数村は,徴税吏ら

(ʿommāl va mobāsherīn)の管轄(żabṭ)から除外され,その地の現金・現物からなる税は,

管財人自身が管轄し請け負うもの(żabṭ va abvāb-jamʿ-e khod)とし,サフィー廟に定めら れた支出と廟の従僕への俸給に充てられることになっていました。アルダビール州の徴税吏ら は,当該村への干渉をいかなる理由があろうとも禁止されていました」と。我が伯父である故 ナーデル・シャー陛下の勅令(raqam)に従って,この規則の通りに執行され,当該数村は廟 管財人キャルブアリー・ベグの管轄下に置かれ,彼が請け負うものとし,サフィー廟の諸費用 に充てるようにしていたのである。そこで,〔廟管財人キャルブアリー・ベグは〕輝ける〔エ ブラーヒーム・シャーの〕署名と〔現管財人キャルブアリー・ベグ〕自身の名前に宛てられた 従うべき命令の発給を請願したのであった。

〔かくして〕神の影たる〔我の〕尽きることない恩寵に基づき,我は当年巳年,下記の村々 の管轄権(żabṭ)を廟管財人に下賜するので,年ごとに同地の収益を取得し(żabṭ),

故伯父ナーデル・シャー陛下の勅令に基づき ヒール村48 アークボラーグ村49 ハーネシール村50,カー

ズィー・バーグの農地,ア リーアーバード村51

アーラールーク村52

現在,サフィー廟に対する給付金(moqarrarī)と支 出(ekhrājāt)を故ナーデル・シャー時代よりも増額し,

〔さらに〕廟管財人の管轄と定めた

ソハー村53 ニ ヤ ー ル 村 ヌーラーン村55

54

ク ー レ イ ー ム 村

( クー ラー イ ー ム 村)56

廟 の 監 査 人 (nāẕer) ミ ー ル ザ ー ・ エ ス マ ー イ ー ル が 管 轄

żabṭ)するラムジーン村57,アフ マダーバード村58

46)本稿ではとりあえず,シャーを名乗る人物から発行された命令は「勅令」と訳し,シャー以外(キャ リーム・ハーンのように実質的な君主も含めて)から出された命令は,「命令書」と訳出した。

47)エブラーヒーム・シャーは,アフシャール朝創始者ナーデル・シャーの甥で,ナーデル死後に即位 したアリー・シャー(アーデル・シャー)の弟にあたる。エブラーヒームは兄を破って1748年12 月にタブリーズで即位したが,ナーデルの嫡孫でホラーサーンのマシュハドを拠点とするシャーロ フ・シャー(後述)に翌1749年6/7月に敗北し,のちに殺害された(Perry 1979: 5–6)。本文書は,

エブラーヒームの短い治世に発給されているという点でも注目に値する。なお本文書と次に取り上 げるシャーロフ・シャー発給文書は,いずれも文書本文第1行目の中央上に印が押されている。こ れは,サファヴィー朝タフマースブ1世以降の君主発給勅令の特徴で,キャリーム・ハーン・ザン ドを除くサファヴィー朝以後のイランの君主にも共通する(Qāʾem-maqāmī 1350sh: 236)。 48)アルダビール近郊(南東)の集落で,現在アルダビール州アルダビール県ヒール郡の中心である

(Jaʿfarī 1384sh, vol. 3: 1345)。

49)アルダビール県ヒール郡にある村。ヒールの北東15 kmに位置する(Jaʿfarī 1384sh, vol. 3: 30)。

50)アルダビール県にある村である(Pāpolī-Yazdī 1989: 218)。現代の地図でも,アルダビールの西南 に「ハーネシール」という名の村が確認できる(Naqshe-ye Rāhnamā-ye Ostān-e Ardabīl)。 51)アルダビール州メシュキーンシャフル県マルキャズィー(中心)郡にあるアリーアーバード村

(Jaʿfarī 1384sh, vol. 3: 856)のことであろう。この村は,アルダビール市の北西に位置する。

52)現代の地理事典等では見つからないが,廟財産の証拠の集成であるṢarīḥ al-melk(アブディー・ベ グ版)にはアルダビール近郊村として二番目に取り上げられている(Ṣarīḥ al-melk: 144–146)。ダー ネシュパジューフは当該村の別持分にかかわる売買文書(1540/947年。サフィー廟代理人への売却) を紹介しているDāneshpazhūh 1346sh参照。

(20)

アルダビールの税査定官(momayyez)が査定した規定(qarār)に従って,現金・現物から なる同地の収益を〔廟管財人キャルブアリー・ベグ〕自身が請け負うものとし,その収益のう ち現物を年ごとに前記の地域で人馬宮(qūs)の月(第9月)になされている換算(tasʿīr)に 従って,その地の徴税吏,市政官(kalāntar),村長たち(kadkhodāyān)が捺印した換算書

(tasʿīr-nāmche)として用意し(dorost),その規定(qarār)に従って自身が請け負うものと し,廟に対する規定された支出へ充てるようにせよ。そして毎年,〔収益の〕授受取引(dād

va setad)の実態にかかわる正確真正な書面を作成し,廟の徴税吏がそれを取得し,シャーの

文書官房(daftarkhāne-ye homānyūn-e aʿlā)に提出し,財務官たちが当該村の会計処理を終 了させるように。

アルダビールの知事,徴税吏らは,当該の村々を自分たちの管轄から除外し,前記の廟管財 人の管轄に委ねられていると心得て,いかなる理由があろうとも当該村に干渉しないように。

当該村の村長と村民は,村の管轄が前記廟管財人の許にあると心得て,命令に違反してはなら ない。

至高なる官庁の財務官たち(mostowfiyān)59)は,この勅令の概要を永続する帳簿に記録し,

改竄の疑いを取り除くように心得よ。毎年当該村の収益を前記の廟管財人の請け負うものとし て,毎年勅令が再度要求されないように。必須の命令と知るように。そして責務と心得よ。

1162年ラビーⅡ月(1749年3–4月)記

2.シャーロフ・シャー・アフシャールの勅令(1163年ラマダーン月)60)

〔印〕:「もし王権という太陽に数日の日食があったなら,つぎにはシャーロフの光から世界は 栄光となる。1162年」

至高なる神に庇護を求めます。吉祥なる勅令が発布された。

アルダビールの代官(nāʾeb)であるモハンマドカーセム・ベグ61)は,シャーの日々いや増 53)おそらく現在のソウハー村と考えられる。ソウハー村は,アルダビール州のナミーン県ヴィールキー

ジュ郡に位置する。

54)アルダビール県マルキャズィー(中心)郡に位置する村(Jaʿfarī 1384sh, vol. 3: 1294)。 55)アルダビール県マルキャズィー(中心)郡に位置する村(Dekhodā 1377sh: 22823)。 56)アルダビール県ニール郡東ユルトチー村部(dehestān)の中心集落のことであろう。

57)現在はアラーディーズゲと名を変えている。アルダビール州ナミーン県ヴィールキージュ郡に位置 58)する。アルダビール州メシュキーンシャフル県西メシュキーン村部にある村のことであろう(Jaʿfarī

1384sh, vol. 3: 50)。

59)本稿では,mostowfīを,国家に仕えている場合は「財務官」と訳し,廟でその任にある場合は,「財 務係」と訳した。

60)シャーロフ・シャーは,ナーデルの長子レザーコリー・ミールザーの息子で,サファヴィー王家の 女性を母に持つ。1748年にマシュハドに即位し,上記の通りエブラーヒームを破るも,1749年末 一時的に廃位され,1750年3月に復位した。1750年の春から秋にかけて,アフシャール朝はカン ダハールを拠点とするアフガンのドッラーニー朝と交戦状態になり,同年秋頃には降伏したとされ る。シャーロフ治世初期について,詳しくは小牧1997: 369–379参照。本文書は,アフシャール朝 がホラーサーンの地方政権に転落する直前に発給されているようであり,ドッラーニー朝の侵攻に 対応する一方で,アゼルバイジャン方面の統治権も保持していることを前提に書かれており,ナー デル・シャー死後のアフシャール朝領域の混沌とした状況を考えるうえでも重要な史料といえよう。

61)文書の受取人モハンマドカーセム・ベグは,本文書では(アルダビールの)代官(nāʾeb)と紹介 されているが,後年の文書では「管財人」と記される。たとえば,有名なサフィー廟の動産目録(1172 年ラジャブ月25日記)は,管財人のモハンマドカーセム・ベグの検分に基づき作成されている

Ganjīne-ye Sheykh Ṣafī: 7)。また,1774/1188年文書(no. 673)でも管財人とされている(Fehrest-e Asnād-e Boqʿe: 166)。

(21)

す恩寵によって栄誉を受けている。以下のことを心得るように。

アルダビールの地における混乱,シャーサヴァーン族の侵略・横暴,およびその他の事情を 偉大さの避難所たる宮廷に伝える請願(ʿarīże)がこの時陛下の御前に届けられ,〔かくして〕

結び目をほどく〔シャーロフ陛下の〕叡慮が以下の内容で書かれた。

現今我は,偉大なるグルジア侯(vālī-ye Gorjestān)タフムーラス・ハーン62)にアゼルバイ ジャンの総司令官の任務(ẕemme-ye sepahsālārī)を委ね,そしてエスマーイール・ハーンに アルダビールの統治を委ねることで栄誉を与えているので,〔両名は〕同地(=アゼルバイジャ

ン)の司令官(sardār)とともに事態の収拾に向かうことになる。〔かくして〕我が王朝の古

参の臣下であるモハンマドカーセム・ベク殿は,前記の両名の麾下に加わり,あらゆることに つき彼らの当を得た判断に基づき,宗教と王権(dīn va dowlat)の本道に奉仕しなければな らない。事態の収拾,反乱分子の懲罰,反徒の根絶に必要なことを実施し,尽力せよ。自身の 要望や主張を日々,我が願望の試金石に奏上すれば,要望が実現すると知るように。そして責 務と心得よ。

1163年ラマダーン月(1750年8–9月)記

3.地方知事?による命令書(1170年ズィーカアデ月)63)

高貴なる命令が発行された。

このとき,偉大なるサイイドたる管財人のモハンマドカーセム・ベグ,監査人(nāẓer)と 数名のサフィー廟の従僕(khoddām)は,偉大なる陛下に以下の通り奏上した。「故ナーデル・

シャー―神よ彼の墓を芳しくし,天国を彼の住処とし給え―の治世において,下記の5村は,

30トマン(タブリーズ貨)(tomān-e tabrīzī)の現金(naqd)と400ハルヴァール(タブリー ズ計量)の小麦を請け負うもの(abvāb-jamʿī)とされており,

アーラールーク村 アークボラーグ村 ハーネシール村 ヒール村 アリーアーバード村と カ ー ズ ィ ー ・ バ ー グ

〔の農地〕

その〔税収の〕現物(jens)を下記の〔一覧の〕通り,サフィー廟(sarkār)の管財人殿,監査人,

62)バグラト家のグルジア・カルトリ王テイムラズ2世のこと。彼はナーデル・シャーによってカ ヘティ侯に任命され(1729–44年),1744年にはカルトリ王として即位することを許可された

(Sanikidze 2011)。彼の息子ヘラクリウス(エレクル)は1762年以降,カルトリとカヘティの統 一王国の王となったが,彼のロシアに庇護を求めてイランから自立する方針は,アーカー=モハン マドによるグルジア遠征を招いた(Perry 1982)。

63)印が欠落しているため,発給者が誰であるか不明であるが,書式から捺印が左下で,第1行目最初 に書かれているトグラー(花押)の文言が,「高貴なる命令が発行された(ḥokm-e ʿālī shod)」と いう地方知事級による発給文書の典型である。文書に記される故ナーデル・シャーに対する祈願文 が「神よ彼の墓を芳しくし,天国を彼の住処とし給え」および「神よ彼の墓所を冷涼にし給え」と あり,ナーデルに対して肯定的であるように読めるため,アフシャール朝に仕える知事と考えるべ きであろうか。ただ,文書の年月1170年ズィーカアデ月(1757年7–8月)には,既にアフシャー ル朝はホラーサーンの地方政権に転落しており,またアフシャール朝に遺恨のあるカージャール 族のモハンマドハサン・ハーンがアゼルバイジャンに進出し,ナーデルの元配下で,イランにお ける覇権闘争に参加していたアーザード・ハーン・アフガーンを駆逐した時期と重なる。カー ジャール軍は1757年3月にカズヴィーンに入り,4月にターレシュを経てタブリーズ入りしてい た(Zargarīnezhād 1385sh: 434–436)。カージャール軍は同時期にアルダビールも支配下に置いて いたと考えられるが,詳細は不明である。アーザード・ハーンが任命した知事が統治していた可能 性も否定できない。

(22)

残りの従僕や召使(ʿamale)の間で分配していました」と。

400ハルヴァール50マン 管財人殿とその他

131ハルヴァール 管 財 人 の モ ハ ンマドカーセム・

ベク

82 ハ ル ヴ ァ ー

監 査 人 の ア ー カー・ファフロッ ディーン 29 ハ ル ヴ ァ ー

財 務 係 の ミ ー ルザー・アボル カーセム 20 ハ ル ヴ ァ ー

スーフィー 16ハルヴァール

サフダル 4ハルヴァール

エマームヴェル ディ― 6ハルヴァール カーゼム

6ハルヴァール

雑役夫(farrāsh)64 35ハルヴァール

ミ ー ル ・ ハ ビ ー ボッラー 10 ハ ル ヴ ァ ー

アリーアスガル 11 ハ ル ヴ ァ ー

マシュハディー・

ハサン 10 ハ ル ヴ ァ ー

ミールザー・ア フマド 4ハルヴァール

暗唱者(ḥāfeẕ)と従僕 160ハルヴァール50マン

モ ッ ラ ー ・ モ ハ ンマドターヘル 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン

ミ ー ル ・ サ ー デ

16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン ミールザー・ラヒ

ーム

16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン

モッラー・ファズ ロッラー 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン ミ ー ル ザ ー ・ タ

ーヘル 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン

ミールザー・ジャ アファル 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン シェイフ・ハビー

ボッラー 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン

ミ ー ル ザ ー ・ フ ァズロッラー 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン モ ッ ラ ー ・ ハ サ

ンアリー・パレ?

16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン

モ ッ ラ ー ・ ハ ー ジ ー ・ モ ハ ン マ

3ハルヴァール モ ッ ラ ー ・ マ ナ

ーケブ 3ハルヴァール

モ ッ ラ ー ・ モ ハ ンマドハサン 3ハルヴァール アーカー・サフ

ィーアリー 3ハルヴァール

空白

点灯夫と門番(qāpūchī) 33ハルヴァール

点 灯 夫 の エ ス マーイール 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン

門 番 の ハ ー ジ ー・アリー 16 ハ ル ヴ ァ ー 50マン

礼拝時刻呼びかけ人(moʾaẕẕen) 13ハルヴァール

アリーナキー 10 ハルヴァー ル

モ ッ ラ ー ・ キ ャ マール3ハルヴァール

掃 除 夫 (jārūkesh) と 料 理 人

(ṭabbāḥ) 12ハルヴァール

モハンマド 4ハルヴァール

ジャアファル 4ハルヴァール 料 理 人 の バ ー

ケル 4ハルヴァール

閣下のご関心もまたサフィー廟の発展と改革(ābādī va rownaq va enteẓām)に充てられて いるので,上記5村を故ナーデル・シャー―神よ彼の墓所を冷涼にし給え―の治世の規定に

64) farrāshの原義は「絨毯係」であるが,その職務は多様であるため,本稿では「雑役夫」と訳出した。

参照

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