琉球王朝末期の廟議 : 寝廟と太廟の神主配置
著者 前村 佳幸
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 47
ページ 151‑202
発行年 2020‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00023257
琉球王朝末期の廟議 —
寝廟と太廟の神主配置前 村 佳 幸
はじめに
東アジアの王朝において、その開祖は君主の地位を継いだ子孫によって永遠に祭祀を受ける存在であって、その霊廟は国家的儀礼の場として不可欠であった。徳川幕府でも、初代将軍家康は「東照大権現」と神格化され東照宮は各地から勧請されるに至った。日光・上野の東照宮における祭祀には、全国の大名はもとより朝鮮や琉球の使節も参加し
)1
(、幕府の威光を大いに高めたのである。他方において、北京における琉球使節は、太廟(大廟)で歴代皇帝と始祖の神主とを合わせ祀る「祫祭」を執り行う、清朝皇帝を紫禁城の午門あたりで見送り出迎えることがあった
)2
(。琉球の中国的霊廟として最終的に成立したのは、先王廟、第二尚氏王統の太廟・祧廟、そして王城
内の「寝廟」である。王位継承儀礼において、「先王廟」での諭祭は冊封儀礼において不可欠であった。『球陽』を参照すると、一七世紀末から一八世紀前半にかけて、帝王の祖先に対する中華的な祭祀空間である宗廟(太廟・祧廟)が随時整備されたことが見て取れる。豊見山和行氏は、崇元寺(先王廟)と尚家の宗廟たる円覚寺における王の実父の神主(神位)配置をめぐる王府による諮問と久米村の役人の僉議の展開を示した
)3
(。そこからは、閩人三十六姓の末裔とされる久米村の知識人もまた独特の論理を有していたことが窺える。これにより、宗廟と称するような存在であっても、中国的な礼をめぐる法式や学説を踏まえた上で琉球におけるあり方と展開を捉えることが重要である
)4
(。さて、琉球処分の結果、首里城を明け渡して一華族となった尚家に国家的祭祀を執り行う必然性はなくなった。明治後半の状況について、伊波普猷は次のように述べる
)5
(。
この頃尚家では、汀 て志 し良 ら次 ずにあつた民族的宗教の本山聞 きこ得 え大 おお君 ぎみ御 お殿 どんを売却して、其の神体を尚家の邸内に移したが、これは実に面白い現象である。四百年前第二尚氏が政治上の中心となり、続いて宗教上の中心となつた時その祖先の神は、其の家を離れ、一定の神社に鎮座して、一般に開放されたが、廃藩置県の結果、尚家が政治上の中心で無くなり続いて宗教上の中心でも無くなつた時、其の祖先の神は再び元の家に帰つていつた。
このような経過をたどった尚泰の治世においても、国家的行事として各種祭祀を挙行することはもとより、その慣例を改めるという事態が展開していた。つまり、第二尚氏の霊廟の一つである寝廟に中国的な原則を合致させようとする改訂がなされたのである。これについては、尚家文書を利用した麻生伸一氏による研究がある
)6
(。王府高官と学識層による僉議史料を中心に整理したものであり、王府上層の意志決定や王朝末期の王権の求心力をめぐる重要な知見が示されている。ただし、大部の一次史料を一度に扱う必要があるので
)7
(、中国由来の廟制における琉球の法式の特徴や改訂の背景など、なお検討を要する点があるように思われる。本稿では尚家文書以外の関連史料も参照しながら、寝廟における神主配置法式改訂の経緯と特徴について検討していきたい。
第一章 琉球史書に記される廟制改訂
首里の円覚寺が王家の宗廟として正式に指定されたのは、『球陽』巻一一に「円覚寺大殿改為王宗廟」の記事のある一七二八年(尚敬王一六年)のころであろう。ただし、それから最後の尚泰の王代に至っても、琉球の王家をめぐる廟制は完全に儒教的中国的な原則に基づいてはいなかった。このことは、咸豊八年(一八五八)における『球陽』巻二二の「本年、先王尚穆および妃淑徳の神位を将て太廟・寝廟に奉復し、而して尚哲および妃徳沢の神位を旧に仍りて太廟・寝廟に奉安し、祧廟に遷さ
内の「寝廟」である。王位継承儀礼において、「先王廟」での諭祭は冊封儀礼において不可欠であった。『球陽』を参照すると、一七世紀末から一八世紀前半にかけて、帝王の祖先に対する中華的な祭祀空間である宗廟(太廟・祧廟)が随時整備されたことが見て取れる。豊見山和行氏は、崇元寺(先王廟)と尚家の宗廟たる円覚寺における王の実父の神主(神位)配置をめぐる王府による諮問と久米村の役人の僉議の展開を示した
)3
(。そこからは、閩人三十六姓の末裔とされる久米村の知識人もまた独特の論理を有していたことが窺える。これにより、宗廟と称するような存在であっても、中国的な礼をめぐる法式や学説を踏まえた上で琉球におけるあり方と展開を捉えることが重要である
)4
(。さて、琉球処分の結果、首里城を明け渡して一華族となった尚家に国家的祭祀を執り行う必然性はなくなった。明治後半の状況について、伊波普猷は次のように述べる
)5
(。
この頃尚家では、汀 て志 し良 ら次 ずにあつた民族的宗教の本山聞 きこ得 え大 おお君 ぎみ御 お殿 どんを売却して、其の神体を尚家の邸内に移したが、これは実に面白い現象である。四百年前第二尚氏が政治上の中心となり、続いて宗教上の中心となつた時その祖先の神は、其の家を離れ、一定の神社に鎮座して、一般に開放されたが、廃藩置県の結果、尚家が政治上の中心で無くなり続いて宗教上の中心でも無くなつた時、其の祖先の神は再び元の家に帰つていつた。
このような経過をたどった尚泰の治世においても、国家的行事として各種祭祀を挙行することはもとより、その慣例を改めるという事態が展開していた。つまり、第二尚氏の霊廟の一つである寝廟に中国的な原則を合致させようとする改訂がなされたのである。これについては、尚家文書を利用した麻生伸一氏による研究がある
)6
(。王府高官と学識層による僉議史料を中心に整理したものであり、王府上層の意志決定や王朝末期の王権の求心力をめぐる重要な知見が示されている。ただし、大部の一次史料を一度に扱う必要があるので
)7
(、中国由来の廟制における琉球の法式の特徴や改訂の背景など、なお検討を要する点があるように思われる。本稿では尚家文書以外の関連史料も参照しながら、寝廟における神主配置法式改訂の経緯と特徴について検討していきたい。
第一章 琉球史書に記される廟制改訂
首里の円覚寺が王家の宗廟として正式に指定されたのは、『球陽』巻一一に「円覚寺大殿改為王宗廟」の記事のある一七二八年(尚敬王一六年)のころであろう。ただし、それから最後の尚泰の王代に至っても、琉球の王家をめぐる廟制は完全に儒教的中国的な原則に基づいてはいなかった。このことは、咸豊八年(一八五八)における『球陽』巻二二の「本年、先王尚穆および妃淑徳の神位を将て太廟・寝廟に奉復し、而して尚哲および妃徳沢の神位を旧に仍りて太廟・寝廟に奉安し、祧廟に遷さ
ず」という記事に明らかである
)8
(。長文だが基本的史料なので句切って検討する(球二二—一〜球二二—九)。
先王尚哲および妃徳沢の神位の例は、まさに退くに寝廟よりし祧廟に奉遷すべし。但し世統を以て之を論ずれば実に主上の曾・祖・考・妣に係り、まさに神位を将て退くに寝廟よりせざるや否や。若し退かずんば、則ち尚穆の神位は退くに寝廟よりし祧廟に奉遷するを経ると雖ども、また主上の高祖考に係れば、まさに其の神位を将て寝廟に奉復すべきや否や。且つ先王尚真以て尚敬に至る神位、まさに太廟左右に神位を奉安するの制に依照し寝廟の左右に安置し、祭奠を挙行するの処たるべきや否や。法司、度支・申口等の官に飭令し義情を斟酌し再議詳覆し去る後、茲に議覆に拠る。〔球二二—一〕
この部分で注意すべきは、国王と王妃の神位をめぐる太廟、寝廟、祧廟の位置づけである。寝廟は尚穆王の即位元年(一七五二年)に創建したもので
)9
(、「御金屏御殿」という別称もあったようである
)(1
(。廟内には尚灝王の頃から尚円王の神主が中心に据えられ、その神主から見て左を昭、右を穆としていたようであり、王妃を合祀しているのが特徴である
)((
(。祧廟については明記されていないが、おそらく円覚寺の奥にあり、文字通り一定の代替わりで太廟・寝廟から移されることになっていた
)(1
(。尚穆王は
尚泰の高祖父にあたり、尚哲はその嫡子(世子)であった。尚泰の祖父尚灝王が兄尚温王の子尚成から王位を継承したことで、即位順からすると、尚灝の入廟により尚穆王は五代前となるので祧廟に神主を移さなければならないという。これは太廟では尚円王・尚真王以外は四代まで祀るという制限があったからであり
)(1
(、これに準拠すると、尚真王から尚敬王に至る神主はもとより、寝廟では尚泰王の高祖父を祀ることさえできなくなってしまう。そのため、尚穆王を祭祀対象にするためには、即位順ではなく、尚円王の左右を文字通り昭穆として世代を基準に神主を配置交替していくことが望ましかった。そして、諮問の結果、史料〔球二二—二〕が示す通り、中国的な「同廟異室」を採用することになったのである。同廟異室とは一神主ごとに一廟を建立するのではなく、一棟の太廟内に世代ごとに仕切りをして廟に見立て、そこに歴代君主の神主を配する法式である
)(1
(。太祖と不祧の祖以外の神主は太祖の背後の廟室を祧廟として、そこに集められることになる。
先王尚穆・尚哲の神位は寝廟に安置するの一案。査したるに「阮孝銓当山里之子親雲上、閩に在りて学ぶ所の書冊に云う有り。およそ国君為る者に兄弟相い継ぐるの時、先儒或いは曰く以て同に一世為るべしと。或いは曰く以て各おの一世為るべしと。諸説紛紛として固より一律ならず。但し兄弟を以て各おの一世と為せば、則ち兄弟四五人相い継ぐるの時、親祖を云うと雖どもまた五世の外に超ゆれば、祭祀を行い難し。是を以て、万充宗に諸説を折衷して同廟異室の制有り。
ず」という記事に明らかである
)8
(。長文だが基本的史料なので句切って検討する(球二二—一〜球二二—九)。 先王尚哲および妃徳沢の神位の例は、まさに退くに寝廟よりし祧廟に奉遷すべし。但し世統を以て之を論ずれば実に主上の曾・祖・考・妣に係り、まさに神位を将て退くに寝廟よりせざるや否や。若し退かずんば、則ち尚穆の神位は退くに寝廟よりし祧廟に奉遷するを経ると雖ども、また主上の高祖考に係れば、まさに其の神位を将て寝廟に奉復すべきや否や。且つ先王尚真以て尚敬に至る神位、まさに太廟左右に神位を奉安するの制に依照し寝廟の左右に安置し、祭奠を挙行するの処たるべきや否や。法司、度支・申口等の官に飭令し義情を斟酌し再議詳覆し去る後、茲に議覆に拠る。〔球二二—一〕
この部分で注意すべきは、国王と王妃の神位をめぐる太廟、寝廟、祧廟の位置づけである。寝廟は尚穆王の即位元年(一七五二年)に創建したもので
)9
(、「御金屏御殿」という別称もあったようである
)(1
(。廟内には尚灝王の頃から尚円王の神主が中心に据えられ、その神主から見て左を昭、右を穆としていたようであり、王妃を合祀しているのが特徴である
)((
(。祧廟については明記されていないが、おそらく円覚寺の奥にあり、文字通り一定の代替わりで太廟・寝廟から移されることになっていた
)(1
(。尚穆王は
尚泰の高祖父にあたり、尚哲はその嫡子(世子)であった。尚泰の祖父尚灝王が兄尚温王の子尚成から王位を継承したことで、即位順からすると、尚灝の入廟により尚穆王は五代前となるので祧廟に神主を移さなければならないという。これは太廟では尚円王・尚真王以外は四代まで祀るという制限があったからであり
)(1
(、これに準拠すると、尚真王から尚敬王に至る神主はもとより、寝廟では尚泰王の高祖父を祀ることさえできなくなってしまう。そのため、尚穆王を祭祀対象にするためには、即位順ではなく、尚円王の左右を文字通り昭穆として世代を基準に神主を配置交替していくことが望ましかった。そして、諮問の結果、史料〔球二二—二〕が示す通り、中国的な「同廟異室」を採用することになったのである。同廟異室とは一神主ごとに一廟を建立するのではなく、一棟の太廟内に世代ごとに仕切りをして廟に見立て、そこに歴代君主の神主を配する法式である
)(1
(。太祖と不祧の祖以外の神主は太祖の背後の廟室を祧廟として、そこに集められることになる。
先王尚穆・尚哲の神位は寝廟に安置するの一案。査したるに「阮孝銓当山里之子親雲上、閩に在りて学ぶ所の書冊に云う有り。およそ国君為る者に兄弟相い継ぐるの時、先儒或いは曰く以て同に一世為るべしと。或いは曰く以て各おの一世為るべしと。諸説紛紛として固より一律ならず。但し兄弟を以て各おの一世と為せば、則ち兄弟四五人相い継ぐるの時、親祖を云うと雖どもまた五世の外に超ゆれば、祭祀を行い難し。是を以て、万充宗に諸説を折衷して同廟異室の制有り。
蔡氏また其の説を推広し、兄弟を以て同に一世と為し同に一廟に祔し、而して二室を為り、叔姪を以て各おの一世と為し、而して叔は姪の父廟に祔しまた二室を為るべしと。且つ今の中華の法制もまた此くの如く挙行す等由。まさに先儒の説と中華の法に依照すべきに似たり。先王尚温・尚灝を以て同に一世と為し、先王尚成・尚育を以て同に一世と為し、而して先王尚穆・尚哲を将て五世の内に筭入し、其の神位を奉じ寝廟に安置し祭奠を挙行するは可なり」と。〔球二二—二〕
同廟異室においては、兄弟や従兄弟は同一世代として同じ廟室に配され、即位や長幼の序列により別々の石室に配される。この場合、二世代分の廟室が空くので、尚哲の神主は移さなくてよく、既に移された尚穆王の神主を戻すことも可能となった。唐朝のように兄弟間の継承が相次いだ際に即位順に入廟させると、祖父さえ祀ることができなくなることは、当時の礼官により指摘されており、同一世代の皇帝を合わせて一世とすることは中国では慣例となっていたのである
)(1
(。清代の万斯大(字充宗)と蔡徳晋(蔡氏)によって提唱される中国の「法制」は当時の琉球において好都合であった
)(1
(。ただし、琉球王国の最大版図を確立した尚真王から高祖父以前の尚敬王までは祭祀の対象としないことになった。その根拠は以下の通り述べられている。
また先王尚真以て尚敬に至る神主は寝廟の左右に安置するの一案。査したるに「該書冊に云う有
り。惟だ奉祧の後において、太廟の主は夾室に遷入し、寝廟の主は自ずから宜しく毀 こぼち瘞 うづむべしと。且つ宗廟の礼に隆き有り。必ず殺混有りて之を同うせば、則ち親き者は反て疏んぜらる。人主宗廟に事 つかうるの心は専にするを欲す、分等を欲さずして之を視れば、則ち敬う者は反て褻 けがす等由。今見るに、尚真以て尚敬に至る神位五世の外に超ゆるに因り、曾 す已 でに退くに寝廟よりす。まさに旧に仍り奉安すべきに似たりて、必ずしも寝廟に遷復せざるは可なり。倘し前に議する所の如く寝廟の制を改正する有れば、更に議詳する者有り」と。査したるに「該書冊に云う有り。尚穆・尚哲を以て五世の内に筭入するは、特だに寝廟に入るべきのみならず、竟 ついに太廟に奉遷し、祭奠を挙行すべし等由。今見るに、尚穆・尚哲はいまだ五世の外を超えず、まさに寝廟に神位を奉安するの制に依照すべきに似たりて、太廟に安置するは可なり。但し謂うに已に祧りたる神位を将て太廟 444444444444444444・4・寝廟に遷入する事 44444444、4・実に軽からず 444444、4・仍お復た諸書を参見するに、即ち唐の敬宗皇帝・文宗皇帝兄弟相い継ぎて立つること有り。当 す経 でに兄弟を以て各おの一世と為し、而うして七世祖たる代宗皇帝の神位を将て祧廟に奉遷す。其の後、礼官の世統 44
を以て之を論じ太廟・寝廟に奉復せしは、鑿鑿として拠るべし。必ず尚穆・尚哲の神位を将て太廟・寝廟に奉復するを須 まち、方 はじめて義情両全 4444を得るなり」と。〔球二二—三〕
中国の礼制においては、「親 しんを親 しんとする」ことが重視される
)(1
(。子孫にとって高祖父・曾祖父・祖
蔡氏また其の説を推広し、兄弟を以て同に一世と為し同に一廟に祔し、而して二室を為り、叔姪を以て各おの一世と為し、而して叔は姪の父廟に祔しまた二室を為るべしと。且つ今の中華の法制もまた此くの如く挙行す等由。まさに先儒の説と中華の法に依照すべきに似たり。先王尚温・尚灝を以て同に一世と為し、先王尚成・尚育を以て同に一世と為し、而して先王尚穆・尚哲を将て五世の内に筭入し、其の神位を奉じ寝廟に安置し祭奠を挙行するは可なり」と。〔球二二—二〕
同廟異室においては、兄弟や従兄弟は同一世代として同じ廟室に配され、即位や長幼の序列により別々の石室に配される。この場合、二世代分の廟室が空くので、尚哲の神主は移さなくてよく、既に移された尚穆王の神主を戻すことも可能となった。唐朝のように兄弟間の継承が相次いだ際に即位順に入廟させると、祖父さえ祀ることができなくなることは、当時の礼官により指摘されており、同一世代の皇帝を合わせて一世とすることは中国では慣例となっていたのである
)(1
(。清代の万斯大(字充宗)と蔡徳晋(蔡氏)によって提唱される中国の「法制」は当時の琉球において好都合であった
)(1
(。ただし、琉球王国の最大版図を確立した尚真王から高祖父以前の尚敬王までは祭祀の対象としないことになった。その根拠は以下の通り述べられている。
また先王尚真以て尚敬に至る神主は寝廟の左右に安置するの一案。査したるに「該書冊に云う有
り。惟だ奉祧の後において、太廟の主は夾室に遷入し、寝廟の主は自ずから宜しく毀 こぼち瘞 うづむべしと。且つ宗廟の礼に隆き有り。必ず殺混有りて之を同うせば、則ち親き者は反て疏んぜらる。人主宗廟に事 つかうるの心は専にするを欲す、分等を欲さずして之を視れば、則ち敬う者は反て褻 けがす等由。今見るに、尚真以て尚敬に至る神位五世の外に超ゆるに因り、曾 す已 でに退くに寝廟よりす。まさに旧に仍り奉安すべきに似たりて、必ずしも寝廟に遷復せざるは可なり。倘し前に議する所の如く寝廟の制を改正する有れば、更に議詳する者有り」と。査したるに「該書冊に云う有り。尚穆・尚哲を以て五世の内に筭入するは、特だに寝廟に入るべきのみならず、竟 ついに太廟に奉遷し、祭奠を挙行すべし等由。今見るに、尚穆・尚哲はいまだ五世の外を超えず、まさに寝廟に神位を奉安するの制に依照すべきに似たりて、太廟に安置するは可なり。但し謂うに已に祧りたる神位を将て太廟 444444444444444444・4・寝廟に遷入する事 44444444、4・実に軽からず 444444、4・仍お復た諸書を参見するに、即ち唐の敬宗皇帝・文宗皇帝兄弟相い継ぎて立つること有り。当 す経 でに兄弟を以て各おの一世と為し、而うして七世祖たる代宗皇帝の神位を将て祧廟に奉遷す。其の後、礼官の世統 44
を以て之を論じ太廟・寝廟に奉復せしは、鑿鑿として拠るべし。必ず尚穆・尚哲の神位を将て太廟・寝廟に奉復するを須 まち、方 はじめて義情両全 4444を得るなり」と。〔球二二—三〕
中国の礼制においては、「親 しんを親 しんとする」ことが重視される
)(1
(。子孫にとって高祖父・曾祖父・祖
父・考(亡父)の四世代が己に近く最も尊ぶべき存在であり、五世祖からは遠い祖先となるので、その神主を父祖の神主と同じように祀ることはできない。この原則にもとづき、寝廟で祀るのは高祖父の世代までとなったのである。それゆえ、尚穆王まで祀るべきなのである。さらに、いったん移された尚穆王の神主を廟に戻すことについては、唐代の故事が参照されて問題ないことが確認された。寝廟に昭穆の原理や同廟異室の制が導入されたのは明確であるが、太廟でも戻すという文言があることから、太廟においても昭穆の原理で神主を配置していなかったようである。尚育王の入廟で尚哲が退廟する状況は【図
1】により、尚真王側では神主から見て右を尊位としていたと想定すると、
【図
2】
を経て【図
3】【図 4】のように推測される。これが改定の結果、
【図
5】になったと考えられる。
先王尚質位
登駕先王龍慶雲君位
(尚円王)
先王尚貞位
【図1】祭主 尚敬王(1719年)
先王尚益位
(王父)
先王尚真牌位
先考世子尚純位 先王尚貞位尚円王君位 先考世子尚純位
【図2】祭主 尚穆王
先王尚敬位
(王父)
先王尚真牌位
先王尚益位 先考世子尚哲位尚円王君位 先王尚温位
【図3】祭主 尚育王
先王尚灝位
(王父)
先王尚真牌位
先王尚成位 先王尚温位尚円王君位 先王尚成位
【図4】改定前 祭主 尚泰王
先王尚育位
(王父)
先王尚真牌位
先王尚灝位 先王尚穆位尚円王君位 先考世子尚哲位
【図5】改定前 祭主 尚泰王
先王尚育位
(王父)
先王尚成位先王尚真牌位 先王尚温位 先王尚灝位
なお、「夾室」とは同廟異室の制において廟として各世代ごとに区切られた石室のことであり、ここに祭壇と神主を安置した。本来、寝廟は太廟の背後や宮城内の別所に設けられ、御物を奉安するための場所であったが
)(1
(、琉球では、最終的に太廟の原則に準拠して王城内で王と王妃の神主を祀る霊廟となった。
また廟制を改正し、祭祀を挙行する一の案。査したるに「向 さきの例に並びに此くの如き祭礼無し。惟だ是、先王先妃の神位祧廟に奉遷するの時、前一日、法司官をして告祭の礼を挙行せしめ、遷る日に御撥遣・御開眼の典礼を挙行す。御盛物十二合の諸品を奉具して仏僧十五名をして念経行礼せしめ、既にして王上王妃親ら参拝を行い、且つ王弟王妹以て有服の親戚に至り進香拝礼し、まさに此の礼に準照すべきに似たりて施行するは可なり。且つ祧廟に奉遷するの時、ただ遷る所の神位に向い告祭を挙行す。今、前日の廟制を改正するに因り、まさに諸位神位に向うべきに似たりて告祭を挙行するは可なり」と。〔球二二—四〕
これによると、五世の神主を移す際の祭礼として、三司官により「告祭」が執り行われ、僧侶が念仏することとされた。つづく〔球二二—五〕は廟内における神主の設置に関する部分であるが、同一世代は同じ「坎 かん(祭壇)」に合祀することで、兄弟叔姪間の王位継承への具体的対応が記されている。
父・考(亡父)の四世代が己に近く最も尊ぶべき存在であり、五世祖からは遠い祖先となるので、その神主を父祖の神主と同じように祀ることはできない。この原則にもとづき、寝廟で祀るのは高祖父の世代までとなったのである。それゆえ、尚穆王まで祀るべきなのである。さらに、いったん移された尚穆王の神主を廟に戻すことについては、唐代の故事が参照されて問題ないことが確認された。寝廟に昭穆の原理や同廟異室の制が導入されたのは明確であるが、太廟でも戻すという文言があることから、太廟においても昭穆の原理で神主を配置していなかったようである。尚育王の入廟で尚哲が退廟する状況は【図
1】により、尚真王側では神主から見て右を尊位としていたと想定すると、
【図
2】
を経て【図
3】【図 4】のように推測される。これが改定の結果、
【図
5】になったと考えられる。
先王尚質位
登駕先王龍慶雲君位
(尚円王)
先王尚貞位
【図1】祭主 尚敬王(1719年)
先王尚益位
(王父)
先王尚真牌位
先考世子尚純位 先王尚貞位尚円王君位 先考世子尚純位
【図2】祭主 尚穆王
先王尚敬位
(王父)
先王尚真牌位
先王尚益位 先考世子尚哲位尚円王君位 先王尚温位
【図3】祭主 尚育王
先王尚灝位
(王父)
先王尚真牌位
先王尚成位 先王尚温位尚円王君位 先王尚成位
【図4】改定前 祭主 尚泰王
先王尚育位
(王父)
先王尚真牌位
先王尚灝位 先王尚穆位尚円王君位 先考世子尚哲位
【図5】改定前 祭主 尚泰王
先王尚育位
(王父)
先王尚成位先王尚真牌位 先王尚温位 先王尚灝位
なお、「夾室」とは同廟異室の制において廟として各世代ごとに区切られた石室のことであり、ここに祭壇と神主を安置した。本来、寝廟は太廟の背後や宮城内の別所に設けられ、御物を奉安するための場所であったが
)(1
(、琉球では、最終的に太廟の原則に準拠して王城内で王と王妃の神主を祀る霊廟となった。
また廟制を改正し、祭祀を挙行する一の案。査したるに「向 さきの例に並びに此くの如き祭礼無し。惟だ是、先王先妃の神位祧廟に奉遷するの時、前一日、法司官をして告祭の礼を挙行せしめ、遷る日に御撥遣・御開眼の典礼を挙行す。御盛物十二合の諸品を奉具して仏僧十五名をして念経行礼せしめ、既にして王上王妃親ら参拝を行い、且つ王弟王妹以て有服の親戚に至り進香拝礼し、まさに此の礼に準照すべきに似たりて施行するは可なり。且つ祧廟に奉遷するの時、ただ遷る所の神位に向い告祭を挙行す。今、前日の廟制を改正するに因り、まさに諸位神位に向うべきに似たりて告祭を挙行するは可なり」と。〔球二二—四〕
これによると、五世の神主を移す際の祭礼として、三司官により「告祭」が執り行われ、僧侶が念仏することとされた。つづく〔球二二—五〕は廟内における神主の設置に関する部分であるが、同一世代は同じ「坎 かん(祭壇)」に合祀することで、兄弟叔姪間の王位継承への具体的対応が記されている。
さらに〔球二二—六〕では「坎」について「昭穆」観念を徹底し、世代交代に応じて交互に神主を配置する点、あわせて即位の先後関係を尊ぶ観点から、祭壇の現実的な狭さや用意できる祭具を踏まえた上で神主の位置に反映させることが確認されている。
また神位を安置する一の案。査したるに「該阮孝銓の学ぶ所の書冊に云う有り。万氏に同廟異室の制有り、蔡氏は兄弟を以て同に一世と為し同に一廟に祔して二室を為り、叔姪を以て各おの一世と為して叔は姪の父廟に祔しまた二室を為るべし等由。まさに尚温・尚灝の神位を以て同に一坎 かんを立て、尚成・尚育の神位を以て同に一坎を立て、而うして各おの中間に一経を直加すべきに似たりて、やや位次を隔つは可なり。庶乎わくは、万氏・蔡氏の説に符合せしめんことを」と。〔球二二—五〕それ一坎は昭穆たりの一案。査したるに「該書冊に云う有り。坎を隔つること有れば則ち左に居る者を以て尊と為し、坎を隔つること無くんば則ち太祖に近き者を以て尊と為す等由。今の若く坎を隔つること有るの制に循依すれば、則ち所有(あらゆる)祭器は位ごとに分具せざるべからず。但し神壇狭陋にして以て分具し難く、且つ諸凡の祭器は素より合具を行わば、まさに坎を隔つること無きの制に依照し、奥を以て尊と為し、昭穆を立定し、而うして祭器に至りては、正七月両月に及び、具する所の御盛物十二合は、旧に仍り合具すべきに似たり。御徳盆に至り、位ご
とに分具するは可なり」と。〔球二二—六〕また王族称呼の一案。自 ま応 さに王統を以て之を論ぜざるべく、世統を以て之を論ずるは可なり等因前来す。法司、即ちに前由を将て恭摺具奏す。主上焉 これを允 ゆるす。〔球二二—七〕
以上、〔球二二—二〕から〔球二二—七〕まで六つほど論点が上げられているが、改訂の経過としては、まず王府首脳の三司官(法司)が中央行政機関である物奉行(度支)と申口方に対して指示を出し、久米村系の当山里之子親雲上(阮孝銓)が福建滞在中に見出したという万斯大と蔡徳音の学説について審議・上申させ、琉球の実態に即した祭祀を検討した上で尚泰王に伝え認可された。ここで章をあらため、この記事に関連する史料を通じ、改訂の背景と詳細について明らかにしたい。
第二章 改訂の背景
廟制改訂に関わる当山里之子親雲上(唐名阮孝銓、一八〇六〜一八七四年)の事績は『阮氏家譜』に次のようにある。
咸豊四年甲寅(一八五四)、進貢朝京都通事を拝充し赴華せしの時、憲牌を恭奉す。太廟・寝廟
さらに〔球二二—六〕では「坎」について「昭穆」観念を徹底し、世代交代に応じて交互に神主を配置する点、あわせて即位の先後関係を尊ぶ観点から、祭壇の現実的な狭さや用意できる祭具を踏まえた上で神主の位置に反映させることが確認されている。
また神位を安置する一の案。査したるに「該阮孝銓の学ぶ所の書冊に云う有り。万氏に同廟異室の制有り、蔡氏は兄弟を以て同に一世と為し同に一廟に祔して二室を為り、叔姪を以て各おの一世と為して叔は姪の父廟に祔しまた二室を為るべし等由。まさに尚温・尚灝の神位を以て同に一坎 かんを立て、尚成・尚育の神位を以て同に一坎を立て、而うして各おの中間に一経を直加すべきに似たりて、やや位次を隔つは可なり。庶乎わくは、万氏・蔡氏の説に符合せしめんことを」と。〔球二二—五〕それ一坎は昭穆たりの一案。査したるに「該書冊に云う有り。坎を隔つること有れば則ち左に居る者を以て尊と為し、坎を隔つること無くんば則ち太祖に近き者を以て尊と為す等由。今の若く坎を隔つること有るの制に循依すれば、則ち所有(あらゆる)祭器は位ごとに分具せざるべからず。但し神壇狭陋にして以て分具し難く、且つ諸凡の祭器は素より合具を行わば、まさに坎を隔つること無きの制に依照し、奥を以て尊と為し、昭穆を立定し、而うして祭器に至りては、正七月両月に及び、具する所の御盛物十二合は、旧に仍り合具すべきに似たり。御徳盆に至り、位ご
とに分具するは可なり」と。〔球二二—六〕また王族称呼の一案。自 ま応 さに王統を以て之を論ぜざるべく、世統を以て之を論ずるは可なり等因前来す。法司、即ちに前由を将て恭摺具奏す。主上焉 これを允 ゆるす。〔球二二—七〕
以上、〔球二二—二〕から〔球二二—七〕まで六つほど論点が上げられているが、改訂の経過としては、まず王府首脳の三司官(法司)が中央行政機関である物奉行(度支)と申口方に対して指示を出し、久米村系の当山里之子親雲上(阮孝銓)が福建滞在中に見出したという万斯大と蔡徳音の学説について審議・上申させ、琉球の実態に即した祭祀を検討した上で尚泰王に伝え認可された。ここで章をあらため、この記事に関連する史料を通じ、改訂の背景と詳細について明らかにしたい。
第二章 改訂の背景
廟制改訂に関わる当山里之子親雲上(唐名阮孝銓、一八〇六〜一八七四年)の事績は『阮氏家譜』に次のようにある。
咸豊四年甲寅(一八五四)、進貢朝京都通事を拝充し赴華せしの時、憲牌を恭奉す。太廟・寝廟
の制、および弟兄を継ぐを以て同じく一世と為すか、そもそもまた各おの一世と為すか、叔姪を継ぐを以て各おの一世と為すか、そもそもまた並びに一世と為すか、爾 なんじ、よろしく入華の後、明儒に附従し逐細学習すべく、具由報明すべきなり、と。遵即し入華の後、工部主事林駿声大人に附従し、牌令に依照し逐細学習す。五年乙卯五月、具由詳報す。八年戊午、上憲、度支・申口等の官に飭令して会議し詳らかに覆僉せしむるに曰く、その学ぶ所の書冊を看るに、洵 まことに義情双 ならび属 まさに理に恊う、まさに依照し改行すべきなり、と。上憲の意見恊同して恭摺具奏し、主上焉を允 ゆる
す。始めて前制を改む(詳しくは咸豊八年戊午の記事に見ゆ) )(1
(。
『球陽』には改訂の経過を記す日付が無いけれども、家譜によれば、当山里之子親雲上の任務とは、尊卑長幼を問わず継承者ごとに一世とするのか、世代ごとに一世とするのか、どちらが正しいのか儒者の所見により明確にすることであり、〔球二二—二〕〜〔球二二—三〕の論点と対応している。林駿声は咸豊二年壬子恩科三甲の進士で福建省閩県出身 )11
(。「琉球国都通事阮孝銓」の依頼に応じて起草した「廟制求教」が僉議文書に抜粋されている )1(
(。家譜では咸豊五年(一八五五)には復命報告したとあるが )11
(、僉議が終わったのは尚泰王一一年(一八五八)で尚泰の元服(一八五七年)以降のことである )11
(。それでは、円覚寺が王家の宗廟として正式に指定されてから、この時期になぜ議論が巻き起こり、
改めて中国の礼制や事例を参照する必要が生じたのだろうか。廟制の改訂は尚育王の頃から意識されていたようである
)11
(。これは、尚育王の先代で実父である尚灝王の即位がつまり中国で謂う「立叔父」という事態であったことと深い関連性がある。これは第二尚氏では初めての事態であり、中国の廟制に関する学説に依拠して対応することが意識されるようになった。以下の史料は、尚家文書第二四号「御廟制諸書抜書并吟味書」(道光二八年〜咸豊八年:一八四八〜一八五八)の覚の前に書き記されている琉球の留学生(官生)と中国人学者との問答である。尚育王の時期のものであり
)11
(、原文には訓点送り仮名が附されているので、琉球側で参照された書付であろう
)11
(。
官生習受す。尚円、尚穆、尚哲、尚温、尚成、尚灝、尚育。世統を以て論ずれば 444444444則ち尚灝王は父尚哲の後を継ぎしより、尚温と同に一世為り。廟統を以て論ずれば 444444444則ち尚灝王は姪尚成の後を継ぎ各おの一世為り。尚穆の神位は自 ま応 さに祧廟に移入すべし。然るに尚穆王は今王尚育の曾祖たりて五服の内に在れば、祧廟に移入するに忍びず。伏して乞うらくは、夫子大人諸書を査検し、又た中華の法度を按□し賜示批覆せんことを
)11
(。
琉球側(官生)からは、「世統」と「廟統」二つの基準に関する質問がなされている。彼らは前者
の制、および弟兄を継ぐを以て同じく一世と為すか、そもそもまた各おの一世と為すか、叔姪を継ぐを以て各おの一世と為すか、そもそもまた並びに一世と為すか、爾 なんじ、よろしく入華の後、明儒に附従し逐細学習すべく、具由報明すべきなり、と。遵即し入華の後、工部主事林駿声大人に附従し、牌令に依照し逐細学習す。五年乙卯五月、具由詳報す。八年戊午、上憲、度支・申口等の官に飭令して会議し詳らかに覆僉せしむるに曰く、その学ぶ所の書冊を看るに、洵 まことに義情双 ならび属 まさに理に恊う、まさに依照し改行すべきなり、と。上憲の意見恊同して恭摺具奏し、主上焉を允 ゆる
す。始めて前制を改む(詳しくは咸豊八年戊午の記事に見ゆ) )(1
(。
『球陽』には改訂の経過を記す日付が無いけれども、家譜によれば、当山里之子親雲上の任務とは、尊卑長幼を問わず継承者ごとに一世とするのか、世代ごとに一世とするのか、どちらが正しいのか儒者の所見により明確にすることであり、〔球二二—二〕〜〔球二二—三〕の論点と対応している。林駿声は咸豊二年壬子恩科三甲の進士で福建省閩県出身 )11
(。「琉球国都通事阮孝銓」の依頼に応じて起草した「廟制求教」が僉議文書に抜粋されている )1(
(。家譜では咸豊五年(一八五五)には復命報告したとあるが )11
(、僉議が終わったのは尚泰王一一年(一八五八)で尚泰の元服(一八五七年)以降のことである )11
(。それでは、円覚寺が王家の宗廟として正式に指定されてから、この時期になぜ議論が巻き起こり、
改めて中国の礼制や事例を参照する必要が生じたのだろうか。廟制の改訂は尚育王の頃から意識されていたようである
)11
(。これは、尚育王の先代で実父である尚灝王の即位がつまり中国で謂う「立叔父」という事態であったことと深い関連性がある。これは第二尚氏では初めての事態であり、中国の廟制に関する学説に依拠して対応することが意識されるようになった。以下の史料は、尚家文書第二四号「御廟制諸書抜書并吟味書」(道光二八年〜咸豊八年:一八四八〜一八五八)の覚の前に書き記されている琉球の留学生(官生)と中国人学者との問答である。尚育王の時期のものであり
)11
(、原文には訓点送り仮名が附されているので、琉球側で参照された書付であろう
)11
(。
官生習受す。尚円、尚穆、尚哲、尚温、尚成、尚灝、尚育。世統を以て論ずれば 444444444則ち尚灝王は父尚哲の後を継ぎしより、尚温と同に一世為り。廟統を以て論ずれば 444444444則ち尚灝王は姪尚成の後を継ぎ各おの一世為り。尚穆の神位は自 ま応 さに祧廟に移入すべし。然るに尚穆王は今王尚育の曾祖たりて五服の内に在れば、祧廟に移入するに忍びず。伏して乞うらくは、夫子大人諸書を査検し、又た中華の法度を按□し賜示批覆せんことを
)11
(。
琉球側(官生)からは、「世統」と「廟統」二つの基準に関する質問がなされている。彼らは前者
が同じ父からの王位ということで同じ一世と数え、後者は一王代をもって一世とし、廟に入る先後をもって序列となすようである。そのどちらかに立脚しても、尚穆王は五代(五世)前となり、その神主を廟から移さざるを得ず困惑している。さしあたり、服喪の範囲にあるので神主を留めておきたいとしている。これに対して、林春溥から次のような所見(批覆)が寄せられた。
天子は凡そ九廟、諸侯は凡そ七廟。書に謂う所の七世の廟以て徳を観るべきなり
)11
(。天朝は凡そ親 しん
尽くれば則ち祧の主はみな東・西夾室中に退入して凡そ五代に属する内はみな宜しく擅 ほしいままに移すべからず。当土に礼たるは、尚灝王は姪尚成王の後を継ぐと雖ども、今王に至ること已に五世を隔て、まさに祧廟に入るべし。但し今王においてはただ二代を隔つるに断じて未だ身 シン人君為りて遂に其の曾祖を祧 うつすの理有らず、礼に由りて宜しく重きに従い之を論ずべし。特だ礼に□ざるのみならず、而も且つ祧 うつすべからざらん。晋の元・唐の宣は、叔を以て姪を継ぐと雖ども、また断じてその曾祖を祧すの理無し。林春溥
)11
(
林春溥(一七七五〜一八六一年)は「古史研究家としての大家」
)11
(と評される碩学であるが、彼らが琉球の事情を汲んで、神主の入れ替えや配置方法について教授していることは興味深い。王代からすると、尚灝王の入廟により、五代前となる尚穆王の神主は祧廟に移さなければならない。しかし、今
王(尚育王)との続柄からすると曾祖父であって、なお「親(しん)尽」きておらず移してはならない。東晋や唐朝の故事からすると
)1(
(、むしろ戻すべきなのである。さらに、次のような見解が述べられている。
五服の内に在りては五世を隔つと雖ども祧廟に入るべからず。かつて見示批覆す。先王尚灝は叔を以て姪を継ぎ、一世おのおの一廟なり。尚灝王の神主位次は何れの先王の後に置くか。今王は尚灝王の後を継ぐに係る。もし世統を論ずれば 4444444則ち尚灝王はおのずから另に一世為り。然るに入廟すれば則ちまさに昭穆を以てして廟統を論ずべし 44444444444444。4・いわんや尚穆王は既に今王の曾祖に係り、情理において均しく祧すべからず。もし尚成王の後に列在せしむれば、顕らかに六世同廟に係る。世統に照らして之を論ずれば、微しく違碍有り。従中斟酌すれば、尚灝王の神主はまさに尚温王と並列し、両位をば少しく退かしむべし。尚温王の後は、かくの如くすれば則ち昭穆秩然として紊 みだれずして今王の隔つること二代の体制においてもまた宜きに合うを見ん。林春溥
まず服喪の範囲であれば、五世代以前の先祖も廟に祀るべきだという。ここで注意を要するのは、林春溥の謂う「世統」が尚灝王を兄尚温王と区別しているので、王代をもって一世としており、これは琉球側の認識と同じである。そして「廟統」については、昭穆を基準にしており、明らかに一世代
が同じ父からの王位ということで同じ一世と数え、後者は一王代をもって一世とし、廟に入る先後をもって序列となすようである。そのどちらかに立脚しても、尚穆王は五代(五世)前となり、その神主を廟から移さざるを得ず困惑している。さしあたり、服喪の範囲にあるので神主を留めておきたいとしている。これに対して、林春溥から次のような所見(批覆)が寄せられた。
天子は凡そ九廟、諸侯は凡そ七廟。書に謂う所の七世の廟以て徳を観るべきなり
)11
(。天朝は凡そ親 しん
尽くれば則ち祧の主はみな東・西夾室中に退入して凡そ五代に属する内はみな宜しく擅 ほしいままに移すべからず。当土に礼たるは、尚灝王は姪尚成王の後を継ぐと雖ども、今王に至ること已に五世を隔て、まさに祧廟に入るべし。但し今王においてはただ二代を隔つるに断じて未だ身 シン人君為りて遂に其の曾祖を祧 うつすの理有らず、礼に由りて宜しく重きに従い之を論ずべし。特だ礼に□ざるのみならず、而も且つ祧 うつすべからざらん。晋の元・唐の宣は、叔を以て姪を継ぐと雖ども、また断じてその曾祖を祧すの理無し。林春溥
)11
(
林春溥(一七七五〜一八六一年)は「古史研究家としての大家」
)11
(と評される碩学であるが、彼らが琉球の事情を汲んで、神主の入れ替えや配置方法について教授していることは興味深い。王代からすると、尚灝王の入廟により、五代前となる尚穆王の神主は祧廟に移さなければならない。しかし、今
王(尚育王)との続柄からすると曾祖父であって、なお「親(しん)尽」きておらず移してはならない。東晋や唐朝の故事からすると
)1(
(、むしろ戻すべきなのである。さらに、次のような見解が述べられている。
五服の内に在りては五世を隔つと雖ども祧廟に入るべからず。かつて見示批覆す。先王尚灝は叔を以て姪を継ぎ、一世おのおの一廟なり。尚灝王の神主位次は何れの先王の後に置くか。今王は尚灝王の後を継ぐに係る。もし世統を論ずれば 4444444則ち尚灝王はおのずから另に一世為り。然るに入廟すれば則ちまさに昭穆を以てして廟統を論ずべし 44444444444444。4・いわんや尚穆王は既に今王の曾祖に係り、情理において均しく祧すべからず。もし尚成王の後に列在せしむれば、顕らかに六世同廟に係る。世統に照らして之を論ずれば、微しく違碍有り。従中斟酌すれば、尚灝王の神主はまさに尚温王と並列し、両位をば少しく退かしむべし。尚温王の後は、かくの如くすれば則ち昭穆秩然として紊 みだれずして今王の隔つること二代の体制においてもまた宜きに合うを見ん。林春溥
まず服喪の範囲であれば、五世代以前の先祖も廟に祀るべきだという。ここで注意を要するのは、林春溥の謂う「世統」が尚灝王を兄尚温王と区別しているので、王代をもって一世としており、これは琉球側の認識と同じである。そして「廟統」については、昭穆を基準にしており、明らかに一世代
をもって一世としている。他方において、琉球側では「廟統」を廟内における序列として認識しているものの、王代をもって一世としている。そのため、尚灝王が入廟すると、神主を四世(尚哲、尚温、尚成、尚灝)の範囲に保つには尚穆は退廟しなければならないと考えているのである
)11
(。これに対して、林春溥は廟内では同一世代の神主は同じ昭穆の位置に奉安し、即位の先後を示すために神主を前後に置くよう説いた。これによると、かつて【図
6】であった寝廟では【図
7】のような神主配置 になるだろう。さらに、林丞英なる人物は『礼記』王制を引き、諸侯は元祖を別として亡父から高祖父の四世代まで宗廟で祀るべきとし、兄が弟を継いだ場合は、長幼の序列よりも君主としての先後関係を明確にすることが重要であり、「同堂異室」として神主を前後に置く法式を示している。清朝では直系で続いており、過去の事例を根拠したものだが、直系による継承でない場合でも対応可能な法式を示すものである。そして、廟室が確保できない場合、祭壇の厨子(龕)を一つにすれば同様の意味をなすという。 先王尚温位
先王尚穆位 王妃
登駕先王龍室慶雲君尊位
王妃 先王尚哲位 王妃 先王尚成位
【図6】1832年 祭主 尚灝王(尚育摂政)
先王尚灝位 王妃 先王尚温位 先王尚穆位 王妃登駕先王龍室慶雲君尊位 王妃 先王尚哲位 王妃 先王尚成位 先王尚育位
【図7】改定時 祭主 尚泰王 礼の王制に諸侯は五廟二昭二穆、太祖の廟とともにして五つなり。太祖とは始封の君にして、その主は祧 うつさず、二昭二穆とは高・曾・祖・禰 でいにして、親尽くれば祧す者なり。兄弟相い継ぎ立ちて諸侯と為れば、則ち廟中にて堂を同じくし室を異にす 44444444444。兄先に立てば則ち兄先弟後の順なり。弟先に立たば則ち弟先兄後なり。兄嘗て弟に臣たるを以て亦た順なり(左伝に僖公を躋 のぼすは礼に非らざるなり、と。僖公は閔公の兄にして嘗て閔公に臣たり。閔公の上に躋すは之を逆祀と謂う
)11
()。天朝の列聖はみな父子世を継ぐ。意を以て之を推せば、兄弟の主は龕を同じくするもまた礼に近からん。林丞英
)11
(
以上のような、官生と中国人学者との問答が明らかにしているのは、当山里之子親雲上(阮孝銓)が派遣される前から琉球の立場に即した礼学的根拠が模索されていたことである。ここで、琉球における「王統」「世統」用例について整理したい。琉球の統一者は「世主」と称することがあった。一例では即位二年後の文明三年(一四七一)に尚円王が島津氏に宛てた書状に「金丸世主」とある
)11
(。蔡温改訂の『中山世譜』では各王代を「世」と称し「統」はその継承関係を意味する
)11
(。「王統」は第一尚氏などの「世統」と区別するために用いられることがある
)11
(。さらに、「王統」は「大統」「正統」と同じく第二尚氏の嫡流を指す
)11
(。尚灝の即位は薩摩に対して「継目相続」とされている
)11
(。これは卑属が継承する「嗣子」「猶子」による「相続」と区別せざるを得なかったからである。
をもって一世としている。他方において、琉球側では「廟統」を廟内における序列として認識しているものの、王代をもって一世としている。そのため、尚灝王が入廟すると、神主を四世(尚哲、尚温、尚成、尚灝)の範囲に保つには尚穆は退廟しなければならないと考えているのである
)11
(。これに対して、林春溥は廟内では同一世代の神主は同じ昭穆の位置に奉安し、即位の先後を示すために神主を前後に置くよう説いた。これによると、かつて【図
6】であった寝廟では【図
7】のような神主配置 になるだろう。さらに、林丞英なる人物は『礼記』王制を引き、諸侯は元祖を別として亡父から高祖父の四世代まで宗廟で祀るべきとし、兄が弟を継いだ場合は、長幼の序列よりも君主としての先後関係を明確にすることが重要であり、「同堂異室」として神主を前後に置く法式を示している。清朝では直系で続いており、過去の事例を根拠したものだが、直系による継承でない場合でも対応可能な法式を示すものである。そして、廟室が確保できない場合、祭壇の厨子(龕)を一つにすれば同様の意味をなすという。 先王尚温位
先王尚穆位 王妃
登駕先王龍室慶雲君尊位
王妃 先王尚哲位 王妃 先王尚成位
【図6】1832年 祭主 尚灝王(尚育摂政)
先王尚灝位 王妃 先王尚温位 先王尚穆位 王妃登駕先王龍室慶雲君尊位 王妃 先王尚哲位 王妃 先王尚成位 先王尚育位
【図7】改定時 祭主 尚泰王 礼の王制に諸侯は五廟二昭二穆、太祖の廟とともにして五つなり。太祖とは始封の君にして、その主は祧 うつさず、二昭二穆とは高・曾・祖・禰 でいにして、親尽くれば祧す者なり。兄弟相い継ぎ立ちて諸侯と為れば、則ち廟中にて堂を同じくし室を異にす 44444444444。兄先に立てば則ち兄先弟後の順なり。弟先に立たば則ち弟先兄後なり。兄嘗て弟に臣たるを以て亦た順なり(左伝に僖公を躋 のぼすは礼に非らざるなり、と。僖公は閔公の兄にして嘗て閔公に臣たり。閔公の上に躋すは之を逆祀と謂う
)11
()。天朝の列聖はみな父子世を継ぐ。意を以て之を推せば、兄弟の主は龕を同じくするもまた礼に近からん。林丞英
)11
(
以上のような、官生と中国人学者との問答が明らかにしているのは、当山里之子親雲上(阮孝銓)が派遣される前から琉球の立場に即した礼学的根拠が模索されていたことである。ここで、琉球における「王統」「世統」用例について整理したい。琉球の統一者は「世主」と称することがあった。一例では即位二年後の文明三年(一四七一)に尚円王が島津氏に宛てた書状に「金丸世主」とある
)11
(。蔡温改訂の『中山世譜』では各王代を「世」と称し「統」はその継承関係を意味する
)11
(。「王統」は第一尚氏などの「世統」と区別するために用いられることがある
)11
(。さらに、「王統」は「大統」「正統」と同じく第二尚氏の嫡流を指す
)11
(。尚灝の即位は薩摩に対して「継目相続」とされている
)11
(。これは卑属が継承する「嗣子」「猶子」による「相続」と区別せざるを得なかったからである。
第二尚氏では「兄弟相継の変」(秦蕙田『五礼通考』所引の万斯大の言)が生じたことはあったが、尊卑関係が逆転することははじめてであった。このため、非嫡流による継承も包摂し即位順ではなく世代ごとに弁別しようとすると、「自応に王統 44を以て之を論ぜず、世統 44を以て之を論ずべきは可なり」〔球二二—七〕とあるように、「世統」という語に新たな意味合いを付与せざるを得なくなる。この時期、寝廟では尚円王を別格として、尚穆王、世子尚哲、尚温王、尚成王、尚灝王の序列となっていた。これに尚育王の神主が加わると、最も古い尚穆王と王妃の神主は「遷祧廟」となる。このような事態は、神主の扱いにおいて直系の継承序列を重視していたことに起因するといえよう。史書に「正統の昭穆為る諸位神位を以て祭祀す」(『球陽』巻四「加建一廟于円覚寺」)などと記されていながら、寝廟では世代により交互に配置される昭穆の観念通りではなかったのである。これに対する改訂の要点とは、昭穆の違い(世代の上下)を基準とすることであった。そのように変更すれば、尚灝王の神主は先代の尚成王に対して兄の尚温王と同じ位置に置かれ、尚成王と尚育王の神主も同様に扱うことになる。その結果、尚円王、尚穆王、尚哲、尚温王・尚灝王、尚成王・尚育王の五世七主を安置できるようになる。これが琉球において「得義情両全 44444」〔球二二—三〕として最善とされたのである。それでは、「義」が中国的礼制として大過ないとして、「情」はどのよう観点から意識されたのであろうか。林春溥らの言説にある「情理」というのは、曾祖父である尚穆王の祧廟奉安を見合わせたいという
尚育王の思い(情)を受けてのことのようであるが、従兄の尚成王が入廟しているので先述の原理の通り四世代になるとはいえ、宗廟を有する王家としては高祖父尚敬王を祀らないと士分の礼にも及ばず「理」に適わないはずである
)11
(。それでも尚穆王の扱いが焦点となっている背景には、尚温王の妃にして尚成王の母である聞得大君(号仙徳)の強い意向があった。そこで、尚泰王の近習の一員であった喜舎場朝賢の『東汀随筆』における
)1(
(、「国廟ノ制訂正セラル事」(四回第一九)という一文を参照しよう。
我ガ国御廟制ヲ見ルニ五世御在廟ノ規定ナリ 尚灝王薨御遊バサルニ迨ンデ尚穆王ハ御退廟セラレタリ 其ノ時御在廟ハ太祖尚円王一世百世不遷也 尚哲王一世尚温王一世尚成王一世尚灝王一世此ノ五世ナリキ 然ルニ尚温王ノ妃向氏ハ聞得大君職ニ任ゼラレ尚泰王ノ時猶ホ巍然トシテ健在シ給ヒヌ 乃チ摂政三司官ヘ御申出デラレタル趣キハ尚穆王ハ己レガ舅尚哲王ノ御父ニテ己レガ為ニハ祖父トナリ給ヒヌ 然ルニ御退廟ナラセラレ御祭祀差上ゲズコソ遺憾ノ御事ナリ 宜シク協議シテ貰ヒタヒトアリ
これによると、開祖尚円王は別格として四世の神主を安置することになっており、尚灝王の没後(一八三四年)、尚穆王の神主が移されることになったが、尚温王の妃(一七八五〜一八六九年)が聞