研究ノート オリエント 60–2(2017):196–207
イブン・アラビー思想における「心」(
qalb
)と
「変転」(
taqallub
)の意味連関
──先行スーフィーとの比較を通じて──
Semantic Connection of “Heart” (qalb) and “Fluctuation” (taqallub)
in Ibn ʿArabī’s Thought:
In Comparison with His Sufi Predecessors
相 樂 悠 太*
SAGARA Yuta
ABSTRACT In Islam, the concept of the heart (qalb) is central to the mystical doctrine of soul
and discipline. Sufi s often connect this term to the concept of “fl uctuation” (taqallub), which shares the same Arabic root, q-l-b, and claim that the heart is called thus because it fl uctuates. Some mod-ern scholars have contended that Ibn ʿArabī (d. 1240), known as the greatest mystic of Islam, also described the heart using this semantic connection with “fl uctuation.” However, these scholars have not considered discussions made by the Sufi s before him. It thus remains unclear which aspects of his theory are distinct from earlier thought. With the aim of resolving this problem, I clarify the original-ity of his discussion connecting “heart” to “fl uctuation” through a comparison with his Sufi predeces-sors.
Famous Sufi s before Ibn ʿArabī, including Sahl al-Tustarī (d. 896), Abū Ḥāmid al-Ghazālī (d. 1111), and Rūzbihān Baqlī (d. 1209), regarded the “fluctuation” as the essential characteristic of a heart. Inheriting this concept, Ibn ʿArabī explained the “fl uctuation of a heart” in the framework of his own theory of “new creation” (khalq jadīd), which refl ects the constant fl uctuation of the whole cosmos. In this theory, the semantic connection of “heart” and “fl uctuation” off ers a base to examine the relation-ship between the human heart and the fl uctuating cosmos. This phenomenon is not found in earlier thought; thus, it is considered a fruit of his own thought.
Ibn ʿArabī is said to have inherited previous mystical ideas and developed them into ontological mystical philosophy, or ʿirfān. The concept of the heart, which belongs to the doctrine of human soul, is closely tied to the ontological doctrine of creation in his system. This phenomenon appears to be one aspect of his historical role in constructing Islamic mystical philosophy.
キーワード:スーフィズム,神秘主義,イブン・アラビー,霊魂論,存在論
I.はじめに
12世紀のイスラーム神秘哲学(イルファーン)の成立は,イスラーム神秘主義思想史上の最大の
* 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程
転機の一つだとされる。12世紀以降,霊魂論と修行論を柱としていたそれまでの神秘主義思想の
高度な思弁化が進んだ結果,存在論的な神秘哲学が展開される(東長2013, 38–40)。この思想的転
換を推進した主要人物が,「最大の師」(al-Shaykh al-Akbar)と称される偉大なイスラーム神秘主
義思想家イブン・アラビー(Muḥyī al-Dīn ibn ʿArabī, d. 1240)である(東長2013, 80)。従来の研
究では,彼が後代に与えた影響の大きさが強調される一方で,彼以前のスーフィー思想と彼の思想 の関係が考察されることは少なかった 1 。しかし,彼が先行の神秘主義思想をいかに継承し発展させ たかを考えるためには,霊魂論や修行論といった彼以前の神秘主義思想における主要論題に関して, 彼と先行スーフィーの教説を比較し,両者の異同を検討することが求められよう。 本研究は,イスラーム神秘主義の基本的用語であり,霊魂論と修行論において中心的位置を占 める概念である「心」(qalb)という論題を取り上げる。「心」はイスラーム神秘主義思想において 人間霊魂を指す用語の一つである 2 。スーフィーたちはしばしば「心」を,q-l-bという同一のアラ ビア語語根に由来する「変転」(taqallub)の概念を用いて説明している。すなわち,「心」は「変 転」するがゆえに「心」と呼ばれるのである,とされる 3 。イブン・アラビーも「心」と「変転」の この同語根関係に基づく意味連関をめぐる議論をしているが,彼のこの議論を紹介した従来の研究 は,他のスーフィーの同様の議論に言及していない 4 。このため,イブン・アラビーの議論が先行スー フィーのそれと比べて有する特徴は未だ明らかになっていない。先行研究のこの問題点を解決する べく,本研究は「心」と「変転」の意味連関をめぐるイブン・アラビーの議論を先行スーフィーの それと比較することで,「心」と「変転」をめぐるイブン・アラビーの議論の独自性を明らかにする。
( 1 ) Chodkiewicz 1991; Knysh 1999; Dagli 2016.近年では,イブン・アラビーの思想に対する先行スーフィーの影
響を考察したアブラハモフの研究が発表されたことにより,こうした旧来の研究状況は変わりつつある(Abrahamov 2014)。しかしアブラハモフの研究は,イブン・アラビーの著作の中で個々の先行スーフィーの名が挙げられてい る箇所に注目するという手法をとったことに起因して,二つの大きな問題点を持っている。第一に,スーフィーの 個人名が挙げられていない箇所の調査が手薄であることと,第二に,扱われるトピックが分散しており,統一され ていないことである。この二つの問題点を解決するために,関心を特定の神秘主義的主題にしぼった上でそれに関 するイブン・アラビーと先行スーフィーの教説を比較検討する研究が今後は求められる。 ( 2 )イスラーム神秘主義の霊魂論において,心はしばしば人間の精神的一側面ないしは一部分として,霊(rūḥ) の下位,魂(nafs)の上位に位置づけられ,知識と霊的経験の座であるとされる(Baldick 1989, 25)。クシャイリー (Abū al-Qāsim al-Qushayrī, d. 1074)の著『クシャイリーの論攷』(al-Risāla al-Qushayrīya)では,心と霊は賞賛 すべき性質(awṣāf ḥamīda)の場であり,魂は非難すべき性質(awṣāf madhmūma)の場であるとされる(Qushayrī 2013, 123)。また,霊は愛(maḥabba)の場であり,心は真知(maʿārif)の場であり,内奥心(sirr)は観照(mushāhada) の場であるとされ,内奥心は霊よりも精妙であり,霊は心よりも高貴であるとされる(Qushayrī 2013, 124)。スフ ラワルディー教団の祖の一人であるアブー・ハフス・スフラワルディー(Abū Ḥafṣ al-Suhrawardī, d. 1234)の著 『真知の賜』(ʿAwārif al-maʿārif)では,魂と霊はお互いを追い立てあっており,あるときは霊が,あるときは魂が,
心を支配すると述べられる(Suhrawardī 2010, 320)。イスラーム神秘主義思想における「心」の概念に関しては Gramlich 1976, 73–79; Lings 1977, 45–62; Gardet 1978, 486–488; Qāshānī 1991, 141–142を参照。アラビア語で霊魂 を指す最も一般的な語は「魂」や「霊」であるが,スーフィーの霊魂論において「心」はこれらと並ぶ基本的概念 である。
( 3 ) Gramlich 1976, 74; Izutsu 1977, 138; Kamada 1983, 8. 「変転」,「変化」,「転回」はアラビア語の語根q-l-bの基 本的な意味である(Lane 1968, vol. 7, 2552–2555; Yazaki 2013, 36; Ibn Manẓūr n.d., vol. 2, 179–183)。「心」と「変転」 が結び付けられるのはスーフィー思想に特有の現象ではないが,「心」と「変転」に関する理論が顕著な発展をみ せたのはスーフィーたちの霊魂論においてである。
( 4 )イブン・アラビー思想における「心」と「変転」の同語根関係にもとづく意味連関に関する先行研究の言及
として代表的なものはNettler 2003, 132–134; Noer 2008, 76; Twinch 2009, 45–51である。たとえばネトラーは「心」
と「変転」の意味連関について,クルアーン50章37節に対するイブン・アラビー独自の解釈に基づくと述べ,「あ
らゆる現象的形態のうちの神の遍在」という存在一性論的神観を表現していると説明しており,あたかも「心」と 「変転」を結び付けること自体がイブン・アラビーに特有の思想であるかのように論じてしまっている。
II.イブン・アラビー以前のスーフィー思想における「心」と「変転」 本節では,「心」という神秘主義的概念をイブン・アラビー以前のスーフィーたちが「変転」概 念を用いていかに説明していたかを見ていく。古くはサフル・トゥスタリー(Sahl al-Tustarī, d. 896)が,のちのスーフィー思想に大きな影響を与えた,クルアーンの章句に対する神秘主義的注 釈の中で,「心」の名の由来は「変転」であると述べている 5 。クルアーン30章41節「陸に海に荒廃 が現れている」への注釈として,彼は次のように述べる。 いと高き神は四肢(jawāriḥ)を陸に似せ,心を海に似せた。それらは恵みが最もあまねきもの
(aʿamm nafʿan)であり,危険が最も多いもの(akthar khaṭaran)である。これが[この]節の
内的意味(bāṭin)である。あなたは見ないのか,心はその変転と底の遠さのゆえにのみ心と呼
ばれることを。このゆえに預言者──神よ彼の上に平安と平和を与えたまえ──はアブー・ダ
ルダーウ(Abū al-Dardāʾ, d. ca. 652)──神よ彼を嘉したまえ──に言った,「舟を新しくせ
よ。海は深いのだから」と。すなわち,あなたの心のいと高き神への意図(nīya)を新たにせよ, ということである。(Tustarī 2002, 121) 上記引用箇所でトゥスタリーは人間の四肢を陸に,心を海に喩え,この比喩に合う預言者の言 葉を引きつつ同章句を解釈している。海としての心というこの比喩をトゥスタリーは「彼は二つ の海を一緒に合流させられる」というクルアーン55章19節に対する注釈の中でも用いている。す なわち彼によれば,同章句で言われた二つの海とは心と魂である。心の中には信心(īmān),真知
(maʿrifa),タウヒード(tawḥīd),満足(riḍā),愛(maḥabba),切望(shawq),悲嘆(ḥuzn),貧
しさ(faqr)など様々な種類の実体(jawāhir)があるという(Tustarī 2002, 159)。上記引用箇所で,
心が変転することは海としての心というこのイメージと関連付けられている。「心はその変転と底 の遠さのゆえにのみ心と呼ばれる」とは,海の表面が波うち,海底が深い様子に心を喩えたもので あろう(Böwering 1980, 251)。
より後の時代では,アブー・ハーミド・ガザーリー(Abū Ḥāmid al-Ghazālī, d. 1111)が「変転」
概念を用いて「心」を説明している。その主著『宗教諸学の再生』(Iḥyāʾ ʿulūm al-dīn)の中の「心
の不思議の解説の書」(Kitāb sharḥ ʿajāʾib al-qalb)で,彼は「心の変転の速さと,変化(taghyīr)
と固定(thabāt)における心の区分の説明」という節を設けている。この箇所ではまず心の変転に 関するいくつかのハディースが引用される。たとえば,預言者ムハンマドは神を「心を変転させる者」 (muqallib al-qulūb)と呼び,自らの心を神の宗教(dīn)のもとに定めてくれるよう神に祈ったと される。また,預言者ムハンマドは,人間の心は慈愛者の二指のあいだにあり,慈愛者は人間の心 を望むままに変転させる(yuqallibu)と言ったとされる 6 。この他には,心の変転をスズメ,沸いた 鍋,羽毛に喩えたハディースが引用される。そしてガザーリーは「これらの変転と,心の変転のう ちのいと高き神のわざ(ṣanʿ)の不思議」について,「いと高き神とともにある自らの諸状態(aḥwāl) (5 )トゥスタリーの注釈の後世への影響についてはBöwering 1980, 265を参照。
(6 )これらのハディースはムスリム(Muslim ibn al-Ḥajjāj, d. 875)の『真正集』(Ṣaḥīḥ)に収録されている(Muslim 2004, 1111)。
を観察し注視する者以外はそれを知ることはない」と述べる(Ghazālī 2004, vol. 3, 56–57)。 そのあとガザーリーは,心は,善(khayr)に固定されているもの,悪(sharr)に固定されているもの, 両者のあいだをさまよっているものの三つに分けられると述べ,以降この三種類のそれぞれについ て説明する。この議論を通じて彼が表現していることは,心は天使的性質(ṣifāt malakīya)と悪魔 的性質(ṣifāt shayṭānīya)の戦いの場であり,どちらが支配的となるかによって心は善と悪いずれ にも傾き得るということである(Ghazālī 2004, vol. 3, 57–58)。ガザーリーは次のように述べる。 信者の心は慈愛者の指の中の二指のあいだにある。すなわち,これら二つの軍の引っ張り合い のあいだにある。これが大半[の者の心の状況]である。わたしが指しているのは変転と,[片 方の]隊から[もう片方の]隊への移行(intiqāl)である。天使たちの隊あるいは悪魔の隊の もとにいつまでも留まることについていえば,それは両方とも稀である。(Ghazālī 2004, vol. 3, 58–59) 上記引用箇所では,先に引用された「慈愛者の二指」のハディースが,心は天使と悪魔の陣営の あいだにあり,いずれにも支配されうるという意味に解釈されている。ガザーリーによる人間の心 の三分類にしたがっていえば,大半の心は善にも悪にも固定されておらず,両者のあいだを行った り来たりしている状態にある。これが,ガザーリーがここで考える,心が変転する性質をもつとい うことの意味である。 イブン・アラビーの同時代人であり,彼より前に活躍したルーズビハーン・バクリー(Rūzbihān
Baqlī, d. 1209)やナジュムッディーン・クブラー(Najm al-Dīn Kubrā, d. 1221)も,「心」の名の 由来が「変転」にあることに触れ,「変転」概念によって「心」を特徴づけている。ルーズビハー
ンはその著『霊の水場』(Mashrab al-arwāḥ)の中の「心の真知」について述べた箇所で,心には
外面と内面(bāṭin)があるとし,まずその外面について説明したのち,以下のように述べている。
本来の心は,精妙(laṭīf)にして恵まれた聖なるものであり,その場所は自然を受容する本性
(al-fi ṭra al-qābila al-ṭabīʿa)である。この精妙体は,不可視界(al-ghayb)の光が見られる場所
(manẓar)であり,いと高き主の叡智(ḥikam)の源泉(manbaʿ)である。この心は時として
開示の徒(ahl al-mukāshafa)に対して開示される。この心が心と呼ばれるのは,諸属性(ṣifāt)
の観照(mushāhada)におけるその変転のゆえである。いと高き神は「本当にこの中には心あ る者への教訓がある」(Q 50:37)と言った。[・・・]ある真知者(ʿārif)──神よ彼の霊を清 めたまえ──は言った。「心とは,意志(ʿazāʾim)と意図の特性によって胸のうちで変転し,諸 属性の光の到来を不可視界のうちで見つめるものである」と。(Rūzbihān Baqlī 1974, 152–153) 上記引用箇所では,心は「開示の徒」にとってのみ接近可能なその内面が,「観照」の状態にあ るときに変転すると言われている。人間の心の本性を描写したガザーリーの場合と異なり,ルーズ ビハーンはとくに神秘体験における心のありように焦点を当てている。
また,クブラーはその著『神美の芳香と神威の開扉』(Fawāʾif al-jamāl wa-fawātiḥ al-jalāl)の中
態(ḥāla)から状態へと変転すると述べ,鏡のイメージを用いつつ「心」を説明している。 このゆえにこの精妙体は心と呼ばれる。その変転のゆえに。同じように,それが心と呼ばれる のは,それが存在(wujūd)と意味(maʿānī)の心だからである。心は精妙であり,自らの周 りを取り巻く事物(ashyāʾ)や意味の反転像(ʿaks)を受け入れる。この精妙なるもののうちに, それと向き合ったものの色が浮かび上がる。ちょうど鏡や澄んだ水のうちに姿形が反映するよ うに。(Kubrā 1957, 7) 「心」の名の由来が同語根の「変転」にあるとし,「変転」の概念を用いて「心」を説明するとい う発想は,古くはトゥスタリーのクルアーン注釈にすでに端的なかたちで現れている。心が変転す ることの意味は,トゥスタリーのクルアーン注釈においては象徴的言辞によって語られるのみで あったが,ガザーリーに至ると,人間の心の善と悪のあいだの揺れ動きとして,より具体的に詳説 されるようになる。ルーズビハーンの議論はガザーリーのそれとは異なり,神秘体験における心の 描写としての性格が強いように見える 7 。 「変転」が「心」の名の由来であるとすることは,「変転」することを「心」の本質的性質とみな すことだと考えられる。イスラーム神秘主義的概念としての「心」を理解するうえで,「変転」概 念との意味連関を考慮することの必要性がここに確認される。本節ですでに見てきたことから,「心」 と「変転」の同語根関係に基づく意味連関を考える思想は,イブン・アラビー以前のスーフィーた ちのあいだですでにある程度普及していたと判断できる。イブン・アラビーがこの伝統を踏まえつ つ「心」と「変転」の意味連関をめぐってどのような教説を展開しているかを次節では見ていく。 III.イブン・アラビー思想における「心」と「変転」 イブン・アラビーは主著『叡智の台座』(Fuṣūṣ al-ḥikam)第12章の中で「心」と「変転」を結 び付けている(Ibn ʿArabī 1980, 122–123)。『叡智の台座』は彼の晩年の著であり,彼の円熟した神 秘思想が凝縮されていると評価される作品である(竹下1985, 154)。そして同書の第12章のタイト
ルは「シュアイブの言における心の叡智の台座」(faṣṣ ḥikma qalbīya fī kalima Shuʿaybīya)であり,
そこでは「心」が主題となっていることがわかる。ゆえに『叡智の台座』第12章にはイブン・アラ
ビーの「心」概念をめぐる思惟が凝縮されていると考えられる。その中で彼が「心」と「変転」を 結び付けているという事実は,彼の「心」概念理解にとって「変転」概念との連関が重要であるこ とを示している。
イブン・アラビーはもう一つの主著『マッカ開扉』(al-Futūḥāt al-Makkīya)の中でも「心」の名
( 7 )「心」の名の由来が「変転」であるという発想は,ハキーム・ティルミズィー(al-Ḥakīm al-Tirmidhī, d. ca. 932)の著『魂の訓練』(Riyāḍa al-nafs)や,ハキーム・ティルミズィーなどに帰される『胸と心と内心と核心の あいだの区別の説明』(Bayān al-farq bayna al-ṣadr wa-al-qalb wa-al-fuʾād wa-al-lubb)の中にも見られる(Tirmidhī 2002, 30; Tirmidhī 1998, 50)。『魂の訓練』の冒頭でティルミズィーは,人体の諸部分を指す医学用語を多用しつつ, 身体的器官としての「心臓」(qalb)の「脈動」(taqallub)に言及している。また,アブー・ターリブ・マッキー(Abū Ṭālib al-Makkī, d. 998)もその著『心の滋養』(Qūt al-qulūb)の中で心の想念(khawāṭir)について語るさい,神 が心を「変転させる者」であることに触れている(Makkī 2010, vol. 1, 241)。
の由来が「変転」であることを何度も述べており,語根を用いた「心」の説明を好んでいることが うかがえる 8 。イブン・アラビーは,前節で見たとおりガザーリーも引用していた「慈愛者の二指」 のハディースのいくつかのバリエーションをしばしば引用し,人間の心が絶えず変転することを説 く。たとえば『マッカ開扉』第3章では,心が「神」(Allāh)の二指のあいだにあると預言者ムハ ンマドが語ったとされる。そして「神が心を変転させること」とは善(ḥusn)や悪(sūʾ)への関心 (hamm)が心の中に生じることであるとされる。人間が感じる心の中の相反する想念(khawāṭir) の連続は,この「神による心の変転」を指し示しており,また「神の二指」のハディースは信心か ら不信心(kufr)への変転の素早さを語っているとされる。また,ここでいう神が「変転させること」 とはクルアーン91章8節「邪悪と信心について,それ(魂)に示唆した(alhama)御方において[誓 う]」にある「示唆(霊感)」(ilhām)であるという。人間の心に生じる「善の想念と悪の想念」は「神 の示唆(霊感)」によるものであり,この想念の連続が「心の変転」と呼ばれている(Futūḥāt, vol. 1, 149)。ここでイブン・アラビーは人間の心が善に傾いたり悪に傾いたりすることを「心の変転」と 呼んでいる。この点は前節で見たガザーリーの議論と共通している。 『マッカ開扉』第90章でも上記ハディースを踏まえた議論がなされている。そこでイブン・アラビー は「心」の名の由来は「変転」であるとし,この「心の変転」のテーマを「慈愛者」という神の名 と結び付けている。すなわち,心は慈愛者の二指のあいだにあり,心を変転させるのは慈愛者であり, ほかの神名ではない。慈愛者という名は自らの本質的リアリティー(ḥaqīqa)のうちにあるものの みを与えるのであるから,心の変転のうちに人がみる,苦しみをもたらすことの中には,実は隠れ た慈愛がある(Futūḥāt, vol. 3, 257)。この箇所でイブン・アラビーは上記ハディースの中で用いら れた「慈愛者」という神名に注目し議論を展開している。 このほかにもイブン・アラビーは「変転」の概念を「心」という語を含むクルアーンの章句の解
釈で用いることがある(Futūḥāt, vol. 4, 451, vol. 7, 32)。また神への愛(ḥubb, maḥabba)や「心の
跪拝」(sujūd al-qalb)といった神秘主義的論題においても,彼は心の変転する性質を用いて議論を 展開している 9 。これらのことからも彼が「心」と「変転」の同語根関係にもとづく意味連関を重視 していたことがわかる。 注目すべきは,イブン・アラビーが「変転」の概念を用いて「心」を説明するさいに,彼の有名 な「新創造」(khalq jadīd)理論の鍵語をしばしば用いていることである。イブン・アラビーの創造 論において,神の創造行為は瞬間ごとに不断になされるとされる。この「つねに新しい創造」を指 して,クルアーン50章15節「最初の創造のために,わたしが疲れたというのか。いや,かれらは 新しい創造について疑いを抱いている」を典拠とする「新創造」という術語が用いられる。神のこ の「新創造」の結果として,必然的に,宇宙全体が絶え間ない変転のうちにあるとされる 10 。
( 8 ) Futūḥāt, vol. 3, 257, vol. 4, 451, vol. 7, 113; cf. Takeshita 1987, 114. 『叡智の台座』第12章の記述は先行研究で
しばしば注目されてきた(たとえば小野 2014, 110–111)。だが同書の記述は短く論旨が判然としないため,本研究
ではより詳細な記述を含む『マッカ開扉』を主に使用し,「変転」概念を用いて「心」を論じた同書の中の記述を 参照する。
( 9 ) Futūḥāt, vol. 8, 172, vol. 3, 32, 531. 「心の跪拝」に関してはAbrahamov 2014, 55を参照。
( 10 )神の瞬間ごとの創造行為は「ひと時」(zamān fard)ごとの創造と呼ばれ,宇宙が「ふた時」(zamānayn)に わたって持続することはありえないとされる(Futūḥāt, vol. 5, 295)。イブン・アラビーの「新創造」理論に関して はḤakīm 1981, 429–433; Izutsu 1983, 205–215; 井筒1986; Chittick 1989, 96–112を参照。なおアシュアリー派神学 の原子論的創造論との異同に関してはIzutsu 1983, 212–215; Nettler 2003, 134–135; Ibn ʿArabī 1980, 125–126を参
イブン・アラビーは「日ごとに神はわざをなす」(kulla yawmin huwa fī shaʾnin)というクルアー
ン55章29節の句に独特の意味を見出し,「新創造」を「日ごとの神のわざ」と言い換え,「日」(yawm)
は一瞬間,「わざ」(shaʾn)は一瞬間のうちで神が創るものを指す,と同章句を解釈する(Futūḥāt,
vol. 4, 91)。一方で,神が「日ごとにわざをなす」のと同様に人間の心は変転する,と述べる(Futūḥāt,
vol. 3, 169; Ibn ʿArabī 1948, 7)。また「新創造」をしばしば「息吹」(nafas)ごとの創造と呼び,全
被造物に存在を与える神の宇宙的生命力としての「慈愛者の息吹」(nafas al-Raḥmān)が瞬間ごと に不断に被造物に与えられることとして表象する 11 。一方で「心は諸状態や諸事象(umūr)のうちで の息吹ごとのその絶え間ない変転によってのみ[心と]呼ばれる」と述べる 12 。 このように,イブン・アラビーは「新創造」論において特殊な意味を帯びる鍵語を人間の心の変 転の形容に用いることで,心が神の「新創造」による宇宙全体の変転と同様の原理で,同様の仕方 で変転するということを表現している。彼は「心は諸状態のうちの絶え間ない変転によって知られ る。心は一つの状態にとどまることがない」と述べている(Futūḥāt, vol. 1, 436)。心のこの有様は, 「新創造」による宇宙全体の変転の有様と同様である。「新創造」論はイブン・アラビーの「心」論 の本質的部分に関わっていることが分かる 13 。 イブン・アラビーの「心」論と「新創造」論のこのつながりが,「心」と「変転」の意味連関に 基づくものであることは明らかである。「心」と同語根であり,この語根の関係に基づいて「心」 と結び付けられる「変転」概念はイブン・アラビー思想において,宇宙全体の絶え間ない変転を語 る「新創造」論と「心」のあいだの媒介となっている。実際に「新創造」による宇宙の変転が「心」 と同語根の語によって指されるケースも見られる(Futūḥāt, vol. 5, 295)。 イブン・アラビー思想における「心」と「変転」の意味連関を論じた従来の研究は,「変転」概 念を介して彼の「心」論と「新創造」論がどのように結び付けられているのかという点を十分に考 察していない 14 。しかしながら,すでに見たとおりイブン・アラビーは「心」の名の由来としての「変 転」を語るときに「新創造」論の鍵語を用いているのだから,「新創造」論との関係性を考慮する ことを避けて彼の「心」論を十全に理解することはできないといえる。以下,「変転」概念を介し て彼の「心」論と「新創造」論が結び付く局面をより詳しく見ていくことで,先行研究のこの問題 点の解決を試みる。 現されることもあるが,こうした表現は「心」に関する理論との関わりにおいてはさほどみられず,創造論の語彙 がしばしば用いられる。 ( 11 ) Futūḥāt, vol. 4, 274, 458. イブン・アラビーは先述のクルアーン55章29節に関して「日とはひと時において吐 かれた息吹の単位(qadr)である」と述べ,「新創造」論における「息吹」の語の位置づけを明示している(Futūḥāt,
vol. 3, 257)。イブン・アラビーの「慈愛者の息吹」概念についてはḤakīm 1981, 1063–1067; Izutsu 1983, 131–138; Chittick 1989, 127–130を参照。
( 12 ) Futūḥāt, vol. 7, 113. 同様の表現はほかにFutūḥāt, vol. 7, 32でもみられる。「慈愛者の息吹」と心の変転の関係 についてはほかにFutūḥāt, vol. 3, 257, vol. 4, 451を参照。
( 13 )「新創造」論には,ある瞬間に創造された宇宙と次の瞬間に創造された宇宙のあいだの断絶性を強調する側面
もある。「新創造」によって宇宙や心が変転するというイブン・アラビーの記述は,「新創造」論のこうした側面と 論理的整合性がとれないようにも見えるが,イブン・アラビー本人はこの問題に関して十分な説明を行っていない。
(14 )イブン・アラビー思想における「心」と「変転」の意味連関を論じた従来の研究は,『叡智の台座』の記述を重視し,
「心」とイブン・アラビーの「顕現」(tajallī)理論の関係に注目する傾向にあった(Nettler 2003, 132–134; Noer 2008, 76; Twinch 2009, 45–51)。
IV.イブン・アラビーの「新創造」論における「心の変転」 『マッカ開扉』第398章の中の,「神の日々(ayyām Allāh)をかれらに銘記させなさい」というク ルアーン14章5節の章句について述べる節で,イブン・アラビーは以下のように述べる。 神が神の日々を銘記させたこと(tadhkīr)についていえば,神の日々とは本質的リアリティー (ḥaqīqa)において息吹の日々である。神の日々は,日という名がそれに対して発せられるもの のうち,最もわずかなもの(aqall)であるから。だからそれ(神の日々を銘記させること)は「日 ごとに神はわざをなす」(Q 55:29)という神のことばを銘記させることである。これ(息吹の 日々)が神の日々であり,あなたはその日々に気づかない。また[神の日々を銘記させることと は],いと高き神の次のことばの意味に通じることである。「本当にこの中には」(inna fī dhālika) ──「日ごとに神はわざをなす」という神のことばや,その他のことを指して──「心ある者へ の教訓(dhikrā)がある」(Q 50:37)。すなわち,諸状態のうちの変転に気づいている,もしくは 諸状態の変転がその上にある者への[教訓がある]。彼はこれ(諸状態の変転)から絶対者のわ ざ(shuʾūn al-Ḥaqq)と,そこにおいて絶対者がわざをなすところの日々の本質的リアリティー を知る。(Futūḥāt, vol. 6, 390) 上記引用箇所ではクルアーン14章5節,55章29節,50章37節の三つの章句が組み合わせられ, それぞれの章句についての解釈が入り交じっている。すなわち14章5節における「神の日々」が, 55章29節における神がそこにおいてわざをなすところの「日」と重ねられている。そして50章37 節における代名詞「これ」(dhālika)の指示対象の一つに55章29節の句があるとされ,諸状態の変 転のうちにあってそれに気付いている「心ある者」は,55章29節における「神のわざ」とその場 としての「日々」の本質を知るという。 「本当にこの中には心ある者への教訓がある」というクルアーン50章37節は,イブン・アラビー の「心」論の大要が記されていると思われる先述の『叡智の台座』第12章の中でも何度も引用され ており,彼の「心」論とのつながりが深い(Ibn ʿArabī 1980, 122–123)。この章句の言葉を使って 呼ばれた「心ある者」をイブン・アラビーが「変転」の概念を用いて説明していることから,上記 引用箇所で「心」と「変転」の意味連関が意識されていることは明らかであろう。また,前節です でに見たとおりイブン・アラビーは「神のわざ」という言葉で神の絶え間ない創造を,「日」とい う言葉で一瞬間を指しているから,これらの本質を知るとは,神が絶え間なく宇宙を創造している ことを知るということだと考えられる。 人間の心が神の絶え間ない創造行為とその結果としての宇宙全体の絶え間ない変転の認識に関わ るという発想は,『マッカ開扉』第305章と第416章にも見られる。『マッカ開扉』第305章の詩の 中でイブン・アラビーは,状態から状態への存在界(al-kawn)の変転に気づくのは,同じく状態 の変転のうちにある心のみであると詠っている(Futūḥāt, vol. 5, 32)。 『マッカ開扉』第416章のタイトルは「心の本質(ʿayn)の階位(munāzala)の真知について」で ある。章題から本章の主題が「心」であることが分かる。その中でイブン・アラビーは「これらの 信心ある者たちは,神を憶うことでその心が安らぐ」(Q 13:28)というクルアーンの章句を,「変
転」概念を用いて次のように解釈している。心の憶いが神にある者の心に信心があるならば,その 者の心は変転のうちで安らぐ。彼の心は「息吹」ごとの変転に落ち着き,一つの状態にとどまるこ とは正しくないと知る。彼は変転を絶え間なく視,その変転を絶え間なく知り,その変転に安らぎ
落ち着き,すべての「息吹」のうちで自らの心の中に主(rabb)の痕跡(āthār)を見る。この境位
(maqām)の持ち主はすべての「息吹」のうちで新しい知(ʿilm jadīd)のうちにありつづける。そ
の知は新しい創造(khalq jadīd)に関する。それ以外の者はこの新しい創造について疑いを抱いて いる(Futūḥāt, vol. 7, 32)。このように,ここでイブン・アラビーは「新創造」に関する知をもつ 者のあり方を,彼の心の変転と関連付けて述べている。 以上見てきたイブン・アラビーの記述には,人間の「心」は「変転」に由来するがゆえに,神の 絶え間ない創造行為とその結果としての宇宙全体の絶え間ない変転を認識することができる,とい う発想が見られる。では「新創造」の認識に「心」はいかに関わるとされるのであろうか。 イブン・アラビーによれば,大半の人間は神の「新創造」について無知である(Futūḥāt, vol. 8, 52–53)。その理由は以下の通りである。神は創造行為によって絶え間なく「似姿」(mithl)を創 る。この「似姿」は過ぎ去ったものと同一であるかのように思われてしまうが,実際はそうではな い。この「似姿」は「新創造」についての知をさえぎるゆえに,人々は「新しい創造について疑い
を抱いている」。彼らは事態が変わらないと思い込んでいる(Futūḥāt, vol. 6, 228, vol. 4, 92, vol. 7,
32, vol. 4, 274)。つまり,神がある瞬間に創造するものは,直前の瞬間に創造されたものの「似姿」 である。ある瞬間に創造されたものと直前の瞬間に創造されたものは全く同じものではないのだが, 両者の姿が似ているため,宇宙はあたかも二つ以上の瞬間にわたって持続しているかのように見え てしまう 15 。 宇宙全体が実際は変転しつつも見かけ上の持続性を示しているのに対して,すでに見たとおりイ ブン・アラビーによれば,「心」は見かけ上の持続性を示すことなく,「新創造」的原理にしたがっ た絶え間ない変転を明らかに示している。この意味で他の存在者と区別されるべき特殊性を有する 心は,人間にとって「新創造」認識の手掛かりとなる 16 。 「本当にこの中には教訓がある」──すなわち宇宙(ʿālam)の変化の中には,根源(aṣl)の変 化についての教訓がある──「心ある者にとっては」(Q 50:37)。心には状態から状態への変転 があり,それによって心と呼ばれるのであるから。[・・・]もしも人間が自分の心を観察する ならば,それが一つの状態にとどまらぬことを彼は見るだろう。そして知るだろう。もしも根 源が同様[に変転してい]ないならば,この変転には根拠(mustanad)がなくなってしまうだ ろうと。(Futūḥāt, vol. 5, 295) 上記引用文で述べられているように,一部の人間はみずからの心を観察し,その絶え間ない変転 を認めることによって,他のあらゆる存在者の固定的持続性が見せかけであり,実はそれらも心と
(15 )井筒1986, 20–22; Chittick 1989, 96–97; Haj Yousef 2008, 137–138を参考にした。またFutūḥāt, vol. 5, 188を参照。 (16 ) Futūḥāt, vol. 4, 112では,「神の姿」(ṣūra ilāhīya)である人間の内面においては瞬間(laḥẓa)ごとに想念が変
転しており,宇宙を絶え間なく創造する「神のわざ」の支配力(sulṭān)は人間の内面においてのみ顕れると述べられ,
同じように変転していることを推し量ることができ,ひいては宇宙全体の変転の原理としての神の 絶え間ない創造行為を知ることができる。 人間の心は神の「新創造」的な原理にしたがって絶え間なく変転するだけでなく,宇宙全体が「新 創造」的な原理にしたがって絶え間なく変転していることを,宇宙の中にいる人間が認識するため の手段となる。変転することが心の本質であると説くイブン・アラビーの「心」論と,宇宙全体の 変転を説く彼の「新創造」論は,このように結び付いている。この結び付きを成り立たせているの は「心」と「変転」の同語根関係にもとづく意味連関である。 イブン・アラビー思想の中で有名であり重要視される側面の一つである「新創造」理論に関し ては,宇宙全体の絶え間ない変転を説く存在論的教説であるという理解が一般的である(Ḥakīm 1981, 429–433; Izutsu 1983, 205–215; 井筒1986; Chittick 1989, 96–112)。一方で本研究が取り上げ た,宇宙全体の変転をその内部から人間がいかに認識しうるかという議論はほとんど注目されてい ない。基本的には存在論である「新創造」論にこのような認識論的局面があることはほとんど知ら れていない。「心」概念は「新創造」論のこの認識論的局面における中心に位置しており,「心」が「変 転」概念との意味連関を介して「新創造」論のうちに位置づけられることで「新創造」論のうちに この認識論的局面が拓かれている。「心」という神秘主義的主題を通して見ることでイブン・アラビー の哲学的教説の新たな側面を発見することができたといえよう。 V.おわりに イスラーム神秘主義思想において「心」の語は同語根の「変転」の概念と関連付けられることが ある。「変転」概念とのこの意味連関は,「心」という語の語根に基づく以上,「霊」(rūḥ),「魂」(nafs),「内 奥心」(sirr)などの人間の霊魂を指す他のスーフィー用語にはない「心」という用語の特徴である といえる。 「心」と「変転」の意味連関を考える思想はイブン・アラビー以前のスーフィーたちのあいだで すでにある程度普及しており,彼もこの伝統を踏襲したと考えられる。しかしイブン・アラビーは 「心」と「変転」の意味連関を用いて「心の変転」を語るだけでなく,「宇宙の変転」と「心(の変 転)」を関連付けている。彼の思想においては,「心」の本質としての「変転」を説明するさいに宇 宙全体の絶え間ない変転を語る「新創造」理論の鍵語が用いられており,また「心」の「変転」す る性質は宇宙全体の絶え間ない変転を認識する手段となるとされる。このようにイブン・アラビー 思想においては「心」が「変転」概念を介して存在論的文脈と連絡を持っている。この現象は彼以 前のスーフィーの思想には見られないものであり,彼の思想に特徴的であると考えられる。 霊魂論に帰属する「心」の概念がこのように創造論・存在論と緊密に結び付く現象は,イスラー ム神秘主義の典型的な「心」論の枠組みから外れるものである。ゆえに「心」と「変転」をめぐる イブン・アラビーの思想は,これまで注目されてこなかったイスラーム神秘主義思想における霊魂 論の一つの展開例として位置づけられる。「変転」を「心」の本質とみなす発想はイスラーム神秘 主義にひろくみられる以上,イブン・アラビーのこの事例はイスラーム神秘主義霊魂論において決 して周辺的に位置づけられるものではない。こうした彼の霊魂論の独自性は注目に値する。
イブン・アラビーの時代に,霊魂論と修行論に特化していた12世紀以前の神秘主義思想が高度に 思弁化され,存在論的神秘哲学へと展開される。本稿で明らかになったとおり,イブン・アラビー は霊魂論における中心概念である「心」を,「新創造」論によって表現された存在論と本質的に結 び付けている。このことは,先行の神秘主義思想の神秘哲学化という彼がイスラーム思想史上で果 たした役割を示す一例であろう。彼が先行の神秘主義思想をいかに継承し発展させたかを明らかに するために,彼の霊魂論や修行論のさらなる調査と先行スーフィー思想との比較検討が求められる 17 。 これを今後の課題とする。 参照文献 一次資料
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