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歴史の見方とその叙述につ1津田博士の

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歴史の見方とその叙述につ

1津田博士の

        いて

﹁子どもの時のおもひで﹂

を中bに一

木 村 時 夫

一 歴史家の任務

歴史の見方とその叙述について

 津田左右吉博士は歴史家には二つの任務があるといわれている︒その一つは歴史家自身が自からを過去の時点に

おき︑過去の人々が生きたであろう時代の空気を自からも吸い︑過去の人々がいだいたであろう未来への希望およ

びその時々の悩みを︑自からも体験し︑過去をそれがあったように如実に再現することであるとした︒そうしてそ

れには歴史家の詩人的素質が必要であるといわれた︒

 第二の任務は歴史家がそのような過去から超越し︑あくまでも現在の時点に立ち︑過去の事柄がどのような筋み

ちをへて現在にいたったか︑という推移の経過を明らかにするとともに︑そのような過去の事柄が︑歴史全体の中

でどのような位置をしめ︑いかなる意義をもつものであるかを明らかにすることである︑といわれている︒そうし

てこの第二の任務に必要なものは︑冷厳な哲学者的眼光である︑ともいわれている︒

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 しかし歴史家がこの二つの任務を同時に遂行し︑一つの歴史叙述とすることは︑津田博士もいわれるように︑き

わめて難かしいことである︒その困難の第一は歴史家がいずれも今日に生きる者であり︑生きている以上︑それぞ

れの理想をもち︑︑すべての事柄に対して独自の見解も批判ももっている︒そういう個性的な主体が︑一切を捨象し

て過去に没入できるものであるかどうか︑そうしてまた一切の批判を交えずに歴史事象の展開過程を客観的に明ら

かにすることができるかどうか︑ということである︒第二は現在に立って過去を回顧する時︑過去の事象はすべて

原因と結果とによって結びつけられ︑そうして現在にいたっている︒いわば過去の事象はすべてそうなくてはなら

ないような︑必然の経過をたどっているように見える︒ということは過去の時代の人々にとっては未知の将来であ

ったものが︑現時点に立ってそれを眺める人には︑すべて既知の事柄として眼に映ずる︒すなわち偶然の出来事や︑

過去の人々の別の思考や行動によっては︑別の結果を招き︑現に既知となっている展開とは別なものとなったかも

しれない経過が忘れられているからである︒

 津田博士は︑この困難さも歴史家がその﹁心生活の全体を過去の生活に起ってはたらかせることによってそれが

救はれるであらう﹂といい︑歴史家の社会観︑国家観︑人間観︑人生観︑世界観というものが︑単なる知識の所産

であってはならず︑歴史家の全人格の現われであり︑全体としての心生活の結晶でなければならない︑といってお

られる︒ 私は津田博士が残された数多くの歴史叙述に眼を通す時︑いつも博士が︑この歴史家として困難な二つの任務を︑

二つながら果されていると感ずるし︑生前の博士がいつもそのように努力されていたことを回想する︒

 ﹃文学に現はれた国民思想の研究﹄全五巻は博士の主要著作の一つであるが︑その各篇の冒頭にかかげられた

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歴史の見方とその叙述について

﹁文化の大勢﹂は︑先生自身が提示された︑右の歴史家の任務を二つながら遂行された︑なかんづく見事な歴史叙

述であると思う︒

 初めて同書に接した私は︑読後︑なんとなくもの足りなさを感じた︒それは珍らしい史料や新しい見解が示され

ているわけでもなく︑ごく当り前のことが︑ややくどくどしい筆致で書かれているにすぎないと思われたからであ

る︒しかしその後︑博士の著作に接することが多くなり︑ことに博士の歴史に対する考え方が理解されていくにつ

れ︑私の考えは変っていった︒何よりも博士にあっては︑すべての歴史事象が人の生活の所産として描かれており︑

しかも過去の時代が一切の偏見なく︑局部的にではなく︑全体として再現されていることを見出したからである︒

一見平凡と思われる叙述の中に︑実はそれまでの通説の誤りを正す︑重要な見解が示されていることにも気付いた

のである︒      ② さて博士には学問的著作とは別に︑﹁子どもの時のおもひで﹂という自伝風の一文がある︒それを読んだのは今

から二十年も前のことであるが︑その中の

 わたしのところには﹁しごと﹂のけいこに来る娘たちが幾人かあったので︑一年に一度︑その覧たちをつれてお

 花見にゆくことになってみた︒小さい時にはわたしもついていったが︑場所はやはりマゴシ山のあたりであっ

 た︒草原に大きなふろしきをしいて︑その上に坐っておすしやお菓子を食べた︒その近所にある大きな溜池の水

 のきれいであったことが︑思ひ出される︒歩きまはって足が疲れ︑娘のたれかにおぶさって帰ったこともあるや

 うなきがする︒また秋はアタゴ山のうしろのほうの山にきのこをとりにゆく︒そのころは︑どんな山に入ってど

 んなきのこをとってもよかった︒半日がかり小一日がかりで父やおばあさんの出かけるのに︑ついていった︒き

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 のこはわたしには︑あまりとれなかった︒山のなかで岩か何かにこしかけて︑おべんとうを食べてみると︑ずつ

 と下のほうで難のときをつくる声がする︒そのほがらかな高い調子が今もなほ耳の底に残ってみる︒

という一節や︑

 月のよい晩にも︑家ぢゆうで縁がはに出て︑その月をながめることがときぐあった︒半里ほど隔った東のほう

 の山のあちらから出て来た月がだんく昇って︑その山つ黛きの一ぼん南の部分で少し高くなってみるバクサン

 ︵白山︶の上あたりにゆくころには︑家の前のほうに開けてみる田の面と︑そのさきにある隣り村のむら木立と

 を近景としてその山つ白きが自然の遠景となり︑見渡すかぎりひろぐとした一つの世界を昼のやうに明るい月

 の光がくまなく照らす︒さういふばあひにどんな話がかはされたかは︑おぼえてみないが︑月の光を満身にあび

 て︑何か静かに話しあったのであらう︒かういふ時には静かにしてみるものだといはれたことがある︒

という秋の月見の一節が鮮かに心に残った︒そうしてまた︑別に︑小学校時代の思い出として

 はじめて学校にあがったころには︑黒板に﹁紀元二千五百三十九年︑明治十二年︑一月−日﹂といふことが払い

 てあって︑毎日の日づけのところを書きかへることになってみたQその日づけをわたしが︑いひつけられもしな

 いのに︑毎朝︑書きかへたので︑みんなからなまいきだといはれたことがある︒それでこのことをおぼえてゐ

 る︒この﹁紀元二千五百三十九年﹂の文字だけが︑今から思ふと︑いくらか国家的意義の含まれてみるものであ

 つたやうにも解せられるが︑しかしそれは︑実は︑た父年を示したまでのものであったらう︒︵二四︶

という一節も︑前の春秋の描写とは対照的に記憶に残った︒それは前の春秋の描写が過去への完全な没入であるな

らば︑後者はその記憶の中に︑博士が冷静な眼をむけ︑その思い出がもつ歴史的意義を求められたのである︒しか

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歴史の見方とその叙述について

もその評価に当って︑一面では国家的意義を示すものかとしながら︑しかも最後には﹁実は︑た父年を示したまで

のものであったらう︒﹂と結ばれている︑その歴史の見方に心ひかれたのである︒そうしていく度かこれを読みか

えすうちに︑私にはこの文章全体が︑博士が自身の幼時を回想されたものでありながら︑実は明治十年代について

のすぐれた歴史叙述であるとともに︑博士の歴史を見る眼のたしかさを示した︑貴重なものと思えてきた︒

 博士がかつていろいろな場合にのべられた歴史観や︑歴史の見方というものが︑そこに具体的に記されていると

思うのである︒

二 武 士 の 家

 津田博士は明治六年十月三日︑名古屋北郊の杉という村にあった︑母君の実家で生れ︑その後は︑名古屋から北       よなだ    ひがしとちいの方へ十里ほどへだてた︑岐皇県の米田郷の東栃井村︵現在美濃太田市に編入︶で少年時代を送られた︒博士の父

       ちかひさ       ちかぶみ君︑津田藤馬︵幼名伊久蔵︑本名は親古︒ちなみに早早も左右吉は幼名で︑別に親文という本名をもっておられ      たげのこした︒︶は尾張徳川家の附け家老︑竹腰兵部少輔の家中で︑家禄四十二俵というから︑下級武士の身分であったろう︒

安政六年︑十七才で江戸詰めを命ぜられ︑十年後の明治元年︑名古屋に帰ったが︑翌二年主家の領地のあった前記

米田に帰農を命ぜられた︒同時に帰農を命ぜられた者は他にも数家あったようであるが︑いずれも五︑六年の間に

は名古屋に戻り︑最後まで米田にとどまったのは博士の家だけであった︒父君は多少の百姓仕事はされ︑後には地

元の文明学校に助教として勤務されたこともあるが︑格別仕事らしいものをもたず︑おそらく家禄や後の金禄公債

や︑博士の母君が娘たちに裁縫や手芸の類を指導された謝礼などで︑質素だが士族らしい体面を保った生活を続け

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られたようである︒博士はそのことを︑名古屋に戻って︑いわゆる士族の商法で家産を失ない︑跡片なくなってい

った他家に比べれば︑幸福な生活であったろうといっておられる︒米田の家は名古屋の屋敷をそのままに新築しょ

うとしたらしいが︑実際に建ったのは母屋だけで︑門も長屋もない︑普通の農家と変りのない家であったという︒

帰農した多くの士族はその農村になじめず︑昔の地位を鼻にかけて農民のひんしゅくを買う者もあれば︑逆に農民

からその零落ぶりを嘲笑されるということもあり︑必ずしも居心地のよいものではなく︑それがまた都会へ舞い戻

る原因にもなったのであろう︒しかし津田家にそのようなことがなかったのは︑博士の祖母や両親の人柄にもよっ

たのであろうが︑先生はそれを﹁ミノの﹃やまが﹄の農村では︑概していふと︑さういふやうすは見︑兄なかったら

しい︒一たいに武家に対して不平を抱くやうな抑圧を︑御一新の前にもうけてみなかつ︑たからでもあらうか︒﹂︵六︶

と推測されている︒

 津田家の外観は農家と同じで︑農民と分けへだてなく交わってはいたが︑その内部には武士の家らしいにほひが

強く残っていたようである︒家では﹁こ鼠らの衆﹂とか﹁こエらのこどもしゆう﹂という言葉が使われ︑父君も何

かの時には﹁ひやくしようといふものは気の弱いものだ﹂ともいわれたようである︒言葉づかいも土地の者とはち

がうものがあり︑小学校でも袴をつけていたのは博士一人であったという︒また﹁暑い時でも水を飲むことは厳し

くとめられ︑さました麦湯のほかは与へられなかった﹂︵一五︶とか︑﹁金銭をもつことは一切しなかった︒子ども

はさういふものをもつものではないといはれてみた︒﹂︵一七︶といい︑そのため他所へお使いにいった博士が︑そ

の家から無理につかまされた一︑二銭のだちんを︑道ばたの石の上にのせて帰ったこともあるという︒どんなに寒

い時でも足袋をはかず︑寝巻を火で温めるということもなかったという︒

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歴史の見方とその叙述について

 部屋には鑓と薙刀とがかけてあり︑秋風の吹きはじめる頃には︑父君が刀剣の手入れをするのを見られたという

から︑おのずから農民とはちがう生活の様式や躾というものがあったようである︒しかし武術の訓練とか身体を強

壮にするための特殊な運動など﹁むかしの武士ふうの特殊のしつけは何もうけなかった﹂といい︑武士に特有な倫

理と考えられる儒教についても︑これを強制されることがなかったようで︑

 昔の武士のにほひが︑家のどこかに︑少しは残ってみた︒後にいふやうに︑﹁御先祖さま﹂といふことばが時を

 り使はれたのも︑その一つであらう︒しかし儒教くさいことは︑何も無かった︒四書の素読を教へられても︑そ

 れは文字を学んだだけのことである︒論語などを読む時のほかは﹁孔子さま﹂の名を聞いたことすら一度も無か

 つた︒父じしんにも︑儒教的教養といふものはもってみなかったらしい︒︵一二︶

とも記されている︒

 博士は徳川時代の封建的な諸制度を回顧される時︑いつもそれを上からの抑圧的体制ないし厳重な︑身動きのと

れない制度とはとらず︑半面︑武士の風儀というものが︑自ずから庶民の模範ともなったと説かれているが︑それ

は︑右のような幼時の体験を通してであったかもしれず︑また戦後︑とくに強調されるようになった封建的身分制

に対する批判の意味をこめられたのかもしれない︒ことにカミイヒダにあった︑博士の親類は農家であったが︑ヲ

ハリのトクガハのかなり家格の高い武家と縁組みをしたようで︑そのことを記したあとに︑それは

 旧幕時代の例の多いならはしに従ったのであらう︒武士は富裕な﹁百姓﹂や﹁町人﹂と縁ぐみをすることによつ

 て︑その家計を補ふことができ︑﹁百姓﹂や﹁町人﹂は武士と縁ぐみをすることによって︑その家の家格を高め

 ることができたからである︒一かういふばあひ︑婚資はすべて﹁百姓﹂や﹁町人﹂のほうでひきうけるならは

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 しであった︒︵二六︶

と記されているのは重要であると思う︒

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三﹂㌦旧幕時代の継続

 博士はその幼時︑村の農民が︑旧武士の後姿をみて︑﹁カンゾク︵貫族のこと︑当時士族はすべて戸籍上︑何々

県貫族といったので︑貫族を士族と同じ意味にもちいたのである︒i筆者注︶のふるてらしい﹂とささやいたの

を覚えている︒また何人かの士族が近くの村で︑竹刀で試合をしたり︑﹁ゐあひぬき﹂をして見せ︑いくらかの金

をとるのを父君に連れられて見にいったことも覚えておられる︒それはおそらく廃藩置県以後︑おちぶれた武士が

身すぎ慨すぎのためにしたことであろう︒それをかつて武士であった父が︑自分をつれて見にいった︑その心事に

ついてもいろいろ考察をめぐらされているが︑それはともかく︑明治も十年代に入ると︑世の中は変っていったの

である︒しかしそういう世の中の変化とは別に︑人々の生活には旧幕時代とあまり変らないものもあった︒

 その点について博士は︑明治五年に父君の許に嫁がれた母君が︑その実家から薙刀をもって来られたこと︑博士

の誕生に際して︑同じく母君の実家から先生用の短刀が贈られたことや︑ある神社の神官が牛肉を食べたというの

で︑土地の人々から非難されたという思い出を記されている︒日常の生活についても︑

 このころはにまだ︑毎朝かまどの火をつけるに火うち石を用みてみたやうである︒マッチを用みるやうになった

 のがいつのころからであったか︑おぼえてみない︒た父箱にはつた紙に﹁清浄なれば神仏の燈明に用みてよし﹂

 といふやうな意義のことの書いてあるものがあったことをおぼえてみるが︑始めのうちはやはりそれは用みなか

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歴史の見方とその叙述について

 つたと思ふ︒︵五一︶

と記し︑さらに︑当時︑火は神聖なむのとされており︑かつて近所の人が博士の家の庭先で煙草を吸い︑その吸い

がらを捨てたのを見て︑博士が下駄でふみつけて消したのを︑﹁火をふんではいけない﹂といってたしなめられた

ことをつけ加えておられる︒そうして

 すべての生活がかういふありさまで︑概していふと︑ほゴ旧幕時代のま瓦であったから︑母もおばあさんも眉を

 おとして﹁おはぐろ﹂をつけてみたのに︑ふしぎはない︒︵五一︶

とも記されている︒

 博士は歴史の時代区分について論ぜられる場合︑政治的区分に︑必ずしも人の思想や生活が一致しないこと︑し

たがって政治的区分にしたがって︑人の思想なり生活なりもまた変化するといった論じ方をいましめられたが︑そ

の根抵にはこのような体験もあってのことであったろう︒

 また︑村全体の生活についても︑道ぶしんや田に水を引くこと︑および共有林の伐採などが︑すべて村全体の共

同作業として行なわれ︑そのための﹁よりあひ﹂があり︑﹁講﹂のようなコ種の民主的な金融の方法しのあった

ことをあげ︑

 この点においては︑村に一種の民主的な合議制が成り立ってるたといってもよい︒これは旧幕時代のしきたりで

 あったと思はれるので︑かういふ素朴な民主的合議制が︑明治時代になっても行はれてるたのである︒︵五三〜

 四︶ともいわれている︒しかし町村制がしかれ︑村にも村会がつくられると︑この﹁よりあひ﹂がなくなり︑博士の体

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験として︑つぎのようなことを記されている︒

 帰省してみた時のことであらう︑何かの用でその役場に行って見ると︑正面の玄関のわきに小さな入口があって︑

 そこに﹁人民入口﹂と書いた小さな木ふだがうちつけてあった︒さうして役員は椅子に腰かけてしごとをしてゐ

 るのに﹁人民﹂はその前に坐って何かいってみた︒いはゆる官尊民卑式の小さな﹁お役所﹂のやうなものがこの

 村にもできてみたのである︒

  このころのこのあたりの自治制には︑かういふ一面もあった︒さうしてそれには︑翻訳的地方自治の制度が村

 の生活の昔からのきぶんを壊してゆくはたらきをした︑といふ意味もあらうか︒︵七五︶

自由民権や地方自治などについての政論にかなりの関心をいだいていた︑青年津田がその時感じたチグバグな気持

は︑明治十年代の歴史をかえりみる場合に︑かなり重要なものをもっていると思う︒

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四 新旧両要素の混合

 旧幕時代そのままの︑山村の生活の中にも︑開国という政治経済上の一大変革による︑新風が入りこんでくる︒

先に引用したところのマッチの使用などがそれである︒その新しい時代を代表するマッチも︑﹁清浄なれば神仏の

燈明に用みてよし﹂という断り書きをつけて旧時代に調和させようとする︒歴史のゆるやかな推移とその仕方を物

語るものであろう︒博士はこのゆるやかな歴史の推移を幼い眼で鋭く捉えておられる︒

 博士はその幼時︑よく医者にかかあれたようであるが︑その医者が聴診器はつかったが︑検温器︵体温計︶を用

いたことのないことを記憶しておられた︒そうして︑もとは漢方医であった者も︑しだいに西欧風の新しい医学を

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歴史の見方とその叙述について

学び︑それを少しつつ取入れていった様子を記しておられる︒︵一〇︶

 面白いのは博士が父君の燕尾服を具足びつの中から発見したことである︒その具足びつにばすでに具足はなく︑

防虫用の衣類箱に使用していたのである︒あるいは具足は最初から無かったのかもしれない︒なぜならば︑博士に

よると︑その具足びつは祖先伝来のものではなく︑急に必要があって買ったものらしく︑博士の家の家紋の下に︑

前の所有者のものらしい別の家紋のあとが残っていたという︒そうして武士の中には具足びつに沢庵石を入れて︑

参観交替のお供をした者もあったらしいと書いておられる︒武士の生活の実体を示すものとして興味がある︒さて

その燕尾服については

 いま思ふと︑うは衣はたしかに燕尾服の形をしてみて︑地質も︑どうかかうかそれらしく見えるものであったが︑

 ズボンは燕尾服に用みるにはあまりにも似つかはしからぬものであった︒iこのズボンについては父が︑あれ

 はアメリカの水兵でも着てみたものだらうさ︑といったことがある︒  それから帽子には幽いろの縁のとって.

 ないソフトがあった︒︵一八︶

と記されているが︑父君の説明によると︑礼服が燕尾服ときまった時︑親類のものと話合って作ったものなのであ

る︒博士は﹁明治初年の﹃交明開化﹄の風がこんなありさまでこんな﹃やまが﹄に吹きこんで来たのである﹂とい

っておられるが︑父君は明治十八年︑博士の祖母が亡くなられた時︑その燕尾服を着用して葬儀を営まれた︒近所

の子供がそれを見て﹁巡査だ﹂﹁巡査だ﹂といってさわいだという︒洋服を着たものは巡査以外に見ることのでき

なかった︑明治十年代後半の山村の様子がほうふっとする︒しかしその時の博士は昔ふうの麻がみしもを着せられ︑

婦人はすべて白装束であった︒同じ白装束に白いかつぎをかぶって棺のわきには泣きながら葬列につきしたがう

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﹁泣き女﹂がいたとも記されている︒︵六七︶

 隣る時︑博士がまだ存生中のおばあさんに︑﹁具足びつに燕尾服を入れておくのはおかしい︒﹂といったら︑おば

あさんは﹁燕尾服は今の具足だからこれでよいだらうよ﹂といわれたという︒そうして博士は﹁時勢の変化がおば

あさんにかういふことを考へさせたのであらう﹂︵一九︶と結ばれているが︑新旧二つのものが一つの調和をなし

て推移する︑歴史の一面を捉えられたのであろう︒

 博士の小学生時代︑コレラが流行したことがある︒学校では生徒全員を神社に参拝させ︑神官にお祓いをしても

らったばかりでなく︑

 みんなの生徒に︑石炭酸をしみさせた鋸屑を一つかみ小さな袋に入れて︑巾着のやうに腰にさげさせたことがあ﹁

 る︒博士はそれを︑

 石炭酸のにほひをさせることを︑疫病よけのまじなひのやうに思ったのであらう︵四二︶

と記されているが︑これも右の場合に共通するものであろう︒

 さらに博士は同じ小学校時代に︑おそらくローマ字会員ででもあったろう︑若い助教の先生から︑ローマ字を習

い︑またその先生からのすすめで︑和洋折衷式の洋服まがいの着物を着せられたことも回想されている︒そうして

それらのことを

 日本の着ものを洋服化しようといふ︑たれかのふとした思ひつきから始まったらしく︑かういふ宣伝がこんな

 ﹁やまが﹂に及んで来たのも︑かの下下ーマ字運動がひろまって来たことと共に︑いはゆる欧化時代の一の現象

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歴史の見方とその叙述について

 であった︑と考へられる︒︵六二︶

と記されている︒

 時勢の推移については︑別のところで︑博士はつぎのような思い出を記されている︒

 新たにりつぽな倉を建てた家があった︒その家の子とは︑学校へ湿しよにいききした︒わたしよりは二2二つと

 しうへであったが︑或る時︑学校で一円だか五十銭だかの紙幣をとり出して︑こんなものはいくらでもうちにあ

 る︑破ってすてようか︑といひざま︑ビリッと引きさいて見せた︒︵七六︶

そうして︑博士はそれは明治十年の西南の役に際して︑不換紙幣が増発され︑インフレ的好況の中で︑何かをして

もうけた︑一時成金だったのではないか︒しかも数年後に不況が訪れると︑その倉も無くなってしまい︑農民の中

にも︑極めて安い値段で田畑を手放さねぽならぬものが出て来て︑博士の父君がそのような頼みこみをうけられた

ことのあったことを記して︑そのような山村をもまきこんだ経済的変転を具体的にのべられている︒

 もう一つつけ加えれば︑これは日清戦争前後のことであるから︑年代的にはさらに下るが︑そのころから︑日常

会話に漢語めいたものを使用することが多くなったことをあげられている︒それ以前でも︑宴会の場合など︑﹁酩       もウとおる酊しました﹂というような漢語は使われていたそうである︒︵これは博士の父君と︑博士の小学校時代の恩師︑森達

先生との会話であったという︒︶

 ところがこのころになって聞くのは︑懇親会とか送別会とかいふやうな︑新しく造られたものが多かった︒近ご

 ろこの辺のものまで何々的といふことをよくいふが︑あの的といふことは︑ほんとうはどういふ意義なのかと父

 に聞かれたことも思ひ出される︒︵七六︶

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とも記されている︒

 このような言葉づかいの変化が︑何によってもたらされたものか︑私には分らない︒あるいは教育の普及の結果

なのか︑それとも西欧文化の摂取にともなって︑いわゆる翻訳調の語句が︑そのまま会話に用いられるようになっ

たのか︑などとも考えられるが︑ともかく日常生活における微細な変化にも心をとめられていた︑すでに青年期に

入っていたとはいえ︑博士の眼には敬服せざるを得ない︒

五 明治十年代の教育

 博士が小学校︵文明学校︶に入学されたのは明治十年代の始めと思われるが︑入学前︑すでに父君から漢籍の手

ほどきをうけておられた︒五経︑十八史略︑左伝︑製菓︑文章軌範︑小学︑家礼等がその書目である︒

 博士は小学校に入られてからも︑放課後は前記森先生から個人的に漢学を学ばれたらしいが︑それを︑

 かういふやうに︑儒教の本も読み講釈も少しは聞いたが︑本に書いてある文字の意義を知ることがいくらかでき

 たのみで︑儒教の教といふものは何もわからなかったらしい︒

といわれている︒

 先生が小学校に入られたころは︑すでに学制が発布されてから六︑七年はたっていたから︑施設も教材もいくぶ

んかは整備されていたであろう︒博士の父君は教員養成所のようなところで短期間の研修をすませた助教であった

が︑森先生は師範学校を出た正規の訓導であった︒文明学校は旧旗本の屋敷を転用したもので︑普通の民家の戸︑

障子を取りはずしたまでの︑ダダ広い一つの部屋があっただけだという︒そうして複式授業とでもいうのであろう

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歴史の見方とその叙述について

か︑その広い部屋の中に︑学年ごとにいくつかの机を並べたにすぎなかった︒ただ学年ごとに一つの黒板が置いて

      マ  マ       ママあったという︒﹁ドンタク︵日曜日︶でない日は︑高い旗ざをの上にフラフ︵旗︶があがってみた﹂︵一〇︶と記さ

れているが︑おそらくドンタクとかフラフという言葉が︑当時そのままに用いられていたのであろう︒そのころの

教科書はアメリカの教科書の翻訳めいたものであったとも記されている︒

 小学校での教育は﹁たいていは本を読むことであったらしい﹂︵一二︶ともいわれ︑自然科学関係の課目もあっ

たが︑実験などということは全く行なわれず︑ただ数学だけは大きな教授用の算盤を黒板にかけて指導したともい

うQ 本を読むといっても︑国民という交野を﹁こくみん﹂と読み︑それを﹁くにたみ﹂と講釈するようなもので︑書

物の標題の下に﹁なにがし編﹂とあるのも︑その﹁編﹂を﹁あむ﹂と読まされたという︒またそのころの官員の地

位に﹁属﹂というのがあって︑一等属とか二等属とかいわれていたが︑その﹁属﹂もサクワンと読むように教えら

れたという︒博士は当時を回顧されて︑

 そのころは︑後年のごとく漢語がそのま瓦に口語としては用ゐられなかった時代である︒かういふ読みかたや講

 釈のしかたは︑たぶん漢籍の教へかたがそのま呪うけつがれたのであらう︵=二︶

といわれている︒これは先に記した二十七︑八年ごろの言葉の変化とともに興味あることである︒ただ助教であっ

た博士の父君が︑クラスの生徒全員に声をそろえて本を読ませる時に︑いつも﹁同音﹂でといわれたそうである︒

これはおそらく教員養成所で︑そのように指導されたらしい︑と博士は記されているが︑もしそうであれば︑或い

はこのような新しい教授法の下で︑漢語が会話にも使われるようになるという︑変化をもたらしたのでもあろう

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か︒ なお小学校での習字で︑﹁書誌物感動﹂という﹃礼記﹄の文字や︑書初めには﹁長生殿裏春秋富︒不老門前日月

遅︒﹂という﹃朗詠集﹄の一節を書き︑同じく博士の妹さんは﹁谷風に解くる氷のひまことにうち出つる波や春の

初はな﹂という﹃古今集﹄の一首を書いたことを記憶されている︒日本に固有な課目においては︑このような教材

が用いられていた点で面白い︒       マ マ 地理については︑﹁ポリチカル・山亭グ︵ガ?︶ラヒイ﹂という言葉を後々まで記憶しておられたというが︑そ

れも何かの翻訳ででもあったのであろう︒地球上の代表的民族名や︑そのさしえなども覚えていると記されている︒

地理では︑その他に﹃岐阜県地誌﹄という︑おそらくその県で編集したものらしいものが︑副読本のようにして用

いられていたともいう︒︵四〇︶

 歴史教育はどうであったろうか︒西洋史についてはその書名は分らないが﹁アレキサγダァ大王があのギリシャ

ふうのかぶとをかぶって馬に乗ってみる図とか︑エポレットをつけたナポレオン一世の肖像とか﹂を覚えておられ

るといい︑その中にはシイザアが殺された話もあったという︒

 日本史には﹃太古史略﹄という書物があり︑﹁イチノベノオシバノオウジ︵市買忍歯王子︶とかワタノカヤノ︵綿

野蚊屋野︶との名がそれに出ていたことと︑﹁ヨシイへ︵義家︶の話のさしゑであったらう︑草原の上に列を乱した

雁の飛んでみる図のあったことを︑おぼえてみる﹂︵四一︶と記されている︒もう三十年も前の話であるが︑博士

が私に源平時代の武士について説明された折︑義家やその弟の新羅三郎の例をあげられ︑当時の武士がかなりの学

問や教養のあったことを強調されたことがある︒今にして思えば︑その時の博士の脳裏には︑この小学校時代の教

(17)

歴史の見方とその叙述について

科書のさしえの一片がうかんでいたのではなかろうか︒

 小学校における歴史教育に関しては︑博土はさらに

 ﹃太古史略﹄のほうは︑神代の話の摩すぢを書いたものであったやうに思ふが︑これも一ばんはじめにアメノ.︑︑

 ナヵヌシ︵天御中主︶の神の名のあったことしか頭に残ってみない︒神代の話が書いてあっても︑ただその本を

 読んだだけで︑皇室のことや︑後にやかましくいはれるやうになった国体といふやうなことについて︑教へられ

 たり注ぎこまれたりしたことは︑何も無かったにちがいない︒さういふことのあったやうな記憶は︑少しも無

 い︒︵四一︶

と記されている︒

 この皇室や国体を中心とした国家意識を教えこむようなことのなかったことについては︑先にふれた︑黒板に記

された紀元二千五百三十九年云々のこととも関連があるが︑博士は

 学校で祝祭日の儀式といふやうなものは︑行はれなかった︒新年にも無かったやうである︒国旗が掲げられたか

 どうかも思ひ出されぬ︒一学年のやうに国家的意義のある祝日をやかましくいふことは︑学校でもせられなか

 つた︒︵一四︶

と記され︑さらに学校が生徒を集団的に神社参拝させたのは悪疫の流行した時︑神官からお祓いをしてもらう時だ

けで︑ 一般の神社に国家的意義をもたせることの無かったそのころでは︑学校でもさういふ意味でおまるりさせたので

 はなかった︒︵四三︶

(18)

とも記されている︒

 博士がこのようないくつかの例まであげて︑当時の小学校教育において国家主義的なものが無かったということ

をいわれているのは︑右の一文を博士が草せられたころは︑敗戦という結果をすべてそれ以前の日本の歴史に結び

つけ︑明治以来一貫して国家主義的な教育が施されていた︑とするような論調に対する批判の意味をこめられたの

ではなかろうか︒たしかに明治も二十年代に入ると︑教育勅語の発布をはじめとして︑教育の国家主義化が顕著に

なる︒しかしそのような傾向も大正から昭和にかけては下火になっている︒歴史にはこのような起伏がたえずある

ものである︒それをともすれば︑眼前の現実を解明しようとするに急なため︑そういう起伏を見落して︑それ以前

の歴史が一貫して今日の事態をもたらしたものと見るような見方があるが︑それは正しい意味での過去の再現では

ない︒

46

六 歴史家に必要な素質

 先生は﹁子どもの時のおもひで﹂の﹁まへがき﹂の中で︑﹁明治十年代の或る地方の農村のありさまと︑その間

における一つの小さな家の生活を子どものしたこと穿き瓦したことによって︑書いてみようと思った⁝⁝﹂と記さ

れているが︑なるほどそれは一人の子供の︑ある地方における生活の局部的叙述であるかもしれない︒ましてそれ

を断片的に紹介したにすぎない︑この一文は明治十年代の歴史を記すものでも︑また津田博士の歴史観や歴史叙述

について︑そのすべてを論ずるものでもない︒しかし︑この僅かな文章でも︑まず過去の生活を如実に再現し︑し

かもそれを大きな歴史の流れの中に位置づけて︑その意味を考えてみることを︑歴史家の任務とされた︑博士の主

(19)

歴史の見方とその叙述について

張が︑その実際の歴史叙述の中に︑いかに具現されているかという︑一端だけでも理解していただけるのではなか

ろうか︒ 私は博士の﹁思ひ出﹂を読んで思ったのであるが︑歴史家に必要な素質として︑博士があげられた詩人的なそれ

と︑哲学者的なそれとの他に︑むしろその前提として︑自己の体験や見聞を正確に記憶することのできる︑すぐれ

た記憶力もまた︑歴史家に欠くことのできない大切な素質ではなかろうか︒

 博士がその幼時︑父君につれられて名古屋での法事に外せられた時︑名古屋在住の博士の伯父さんが︑

 タ︑ミヤ・ジヨゥン︵田宮如雲︶の碑が立つといふ噂があるが︑といって非難するやうな口ぶりで何か父と話をし

 てるたのを︑その時のこととしておぼえてみる︒︵三五︶

と記されている︒田宮如雲︵一八〇七〜七一︶は本名を篤輝といい︑尾張徳川の藩士である︒幕末には勤王運動に

加わり︑維新後は新政府に仕え︑戊辰戦争にも戦功があって永世禄を下賜され︑後には尾張藩の大参事にもなっ

た︒博士の伯父さんが彼を非難したらしい口ぶりというのは︑このようないわば徳川家に弓を引いたような彼の経

歴に対してであったろう︒ともかく博士はそれを後々まで記憶されていたのである︒

 もう一つはカセダ︵加瀬田︶の親類で︑﹁大道叢誌﹂という雑誌を見た記憶のあることを記されている︒ これは

前のよりはかなりおくれて︑博士が小学校を卒業される前後の︑明治十年代の末から二十年代にかけてのことと思

われるが︑右の雑誌は日本国教大道社という︑神儒仏の融合統一を主張した︑国粋主義の団体の機関誌である︒

 事柄はいずれも小さなことである︒しかし後年博士は右の二つの記憶についていろいろ考えられたのであろう︒

だからこそ幼時の思い出の中にそれらを加えられたのであろう︒

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(20)

 博士の﹁思い出﹂の一文はそれほど長いものではない︒しかし博士のすぐれた記憶力がなかったなら︑明治十年

代の生活をあれほど微細にわれわれの前に再現してはくれなかったろう︒したがってまたわれわれもそれを頼りに︑

明治十年代というものの歴史に深い思いをいたすこともなかったであろう︒

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注ω 津田博士の歴史観については︑拙稿﹁津田左右吉博士の歴史観﹂︵﹃日本ナショナリズム史論﹄所収︶を参照されたい︒ ② ﹁子どもの時のおもひで﹂は﹃おもひだすまエ﹄︵昭和二十四年九月︑岩波書店刊行︶の附録として収められ︑﹃津田左

  右吉全集﹄第二十四巻に収められている︒

  なお本文中の引用文の下に︑カッコをして記した数字は︑すべて右の第二十四巻の頁数であることを附言しておく︒

参照

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