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(1)

「のっぺらぼう」のイメージの來源と定型

への 探る試みも、別稿をも のりを このあたりで、一 せると、これで四本目となった。 (1)

切りとしたいが、先ずその

に、

◎ ** み殘したことを整理しておく。 回積 稿(中)

(一)女の の話 稿後に見出した、「のっぺらぼう」關 をした「のっぺらぼう」に關する江

いて 民話につ

稿 (

27)に示した

り、この話は、江

町四丁目を流れていた龍閑川にかかる地 りゆうかんがわ(2) 期に日本橋本 この界隈はその昔刑場があり、その後、 語り出される。 橋での話として

が建ち竝ぶよう になっても、祭りの御輿や山車すら

けて ある夕 あった。 るような土地で れ時、一人の町人風の男が地

橋の側を

ると、橋の手 りかか

の榎の木の

ているらしい、その後ろ に、娘がしゃがんでいる。泣い に、男が聲をかける。

彼は娘の顏をのぞき

顏は、目もなければ口もない。 の娘は不意に顏を上げて、男の方を見た。見るとその娘の むようにした。その時だった。そ 男はびっくりした。そして つるつるてんである。 もなければ眉毛一本ない、

ラボウだ……ノッペラボウだ……」彼は無我 中で走り出した。「ノッペ

町の知人の家へ飛び 中で北乘物

んだ。しかし彼は、その日から病の

「のっぺらぼう」考(下)

中國古典文學の

點から

子和男

(2)

床についてしまったというのである(久保田明治『江

物語』〔雄山閣、一九七二年〕)。 (3) 民話

このパターンは、小泉八雲が「MUJINA―狢」を書くにあたって參照した扶桑堂『百物語』第三十三席の物語と見事なほど一

するのだが、『江

民話物語』

何處で 收の話が何時、

集されたのか、或いは據り

とした かなどが 料が何である く示されていないことが問題となる。さらに、

①龍閑川が流れていたのは、日本橋本町ではなく、日本橋本

付(更に詳しく言えば、その

名の示す

本 り、日本橋

②( 付)であること。

てつけられた名稱であること。 (4) 北乘物町と言う地名は明治二年になっ田)(一八六九)

など、地理

、時代 果たして 仄の合わない部分もあり、この話が の言うように、「江

民話」と

また、假に江 められるのか。

期の話に源を持つとしても、どの

の話のパターンが扶桑堂『百物語』だけでなく、後で觸れる 代を遡ることのできる話であるのかも問題となる。ただ、こ 度まで時 岡本綺堂「父の怪談」とも極めて良く似た

どから推せば、この話もまた、遲くとも 容を持つことな けて形が出來上がった「女のっぺらぼう」の話の系譜に 末から明治期にか

るものであることだけは な

(二)女性の いないと思われる。

をした眉目口

迂闊なことであったが、本稿の中 を缺く妖怪の先蹤 稿後、南

宋・劉

叔『

』に、女性の「のっぺらぼう」に關する記

ことに氣がついた。この話は、山西太原の (5) がある を流しているのをのぞき ところで使っている下女が、一人の老女が自分に向かって 湛と言う人の おんたん

!んだところ、その顏には目耳

。こがなかったの報(原文では、孔竅無し〔無孔竅〕) こうきよう 口 た "を聞い 湛が刀で斬りかかると、紫色の虹ような形に變わって

# えたと言う(卷一第三話) (6)。この話が、直接日本の「のっぺらぼう」と關

は定かではないが、本稿中 (7) するか否か

で引用した、

譚隨 $・和邦額『夜

%』に代表される明・

$の小

&に見出されたの女性の

をした「のっぺらぼう」の古形であると見て、ほぼ

いであろう。 いな

「のっぺらぼう」考(

'子)

199

(3)

本題に

これまで見てきたように、眉目口 る。

缺いた (或いはその一部)を 形になるまでの 能性が極めて高いものであった。それが、今日私たちが知る け物「のっぺらぼう」は、中國に來源を求めうる可

本稿では、更にこの たように思う。 も、これまでの小論からもほの見えて來

け物像の形

幾つかの に關わったと思われる この ** 素について考えることとしたい。

うに、「そこに當然あるべき目や け物の怖さの第一は、に牧野陽子氏が指摘するよ

や口、人

無いことを發見したおののき」にあることは、ほぼ としての顏が

私たちが今日知る「のっぺらぼう」の話は、これを言わば るまい。 (8) いあ 怖の「根」として語り繼がれ、今の形へと

ち 重 と思われるが、これまで見て來たものの他に、なお幾つかの いたもの な

素があるように思われる。 『修善寺物語』や『

七捕物帖』の作

る岡本綺堂(一八七二―一九三九)は、 として良く知られ

外の數多くの怪

その指摘は、いても發言しており、「のっぺらぼう」像形 を紹介したことでも知られているが、「のっぺらぼう」につ 譚

の、さらなる

文久三年(一八六三)七 て綴られた話である。 (9) それは、「父の怪談」と名づけた、彼の父親の實見談とし 素を考える手がかりを示す。

(現在の東京 の夜の四つ頃(午後十時)、高輪

を高輪)

づかなかったが、すれ な盆提燈を持った幼女を負ぶった女に出會う。初めは何も氣 いていた彼の父親が、手に小さ いざまに見たその顏は、「眼も

「廣い世父親は刀に手をかけたが、 ない、俗にいうのっぺらぼうであった。」という。そこで、 も 大火傷のようなことで、眼も おおやけど には何かの病氣か又は んだ 顏になったものが無いとは限らない。迂闊なことをしては飛 もわからないような不思議な の いになる。」と思いとどまる。その後、同時刻に別 でもこの「女のっぺらぼう」の目

談があった(目

は、「蕎麥屋の出

持」であり、彼はのっぺらぼうを見て氣

。しまった) して 、品川の

に母子の水死體があがったが、幼女の手に 中國詩文論叢第二十七集

200

(4)

は昨夜見たのと同じ小さな盆提燈が握られていたと言う。ただ、その親子の顏はのっぺらぼうではなかったことから、この話を父から聞いた岡本綺堂は、

いわゆる「死相」というようなものがあって、今や死にゆく女の顏に何かの不思議があらわれていたのかとも思われるが、それも確かには

らない。

とする。この話の語り手である綺堂の父親の名は純 きよしと言い、

號した。佐 溪と

の 川御家人から、維新後は

國公使

記に轉じた人物である。なかなかの人で、 の書 居 論、開

、邦樂など幅廣い趣味に關する本を出版し、その一方で、

學の素

が深く、とりわけ

詩に秀で、

務の余暇には

の子供たちを集めて

學塾を開いていたという

こうした語り手の經 。

を考えると、或いは、『夜譚隨

や『 』

堂筆記』、『子不語』などの

代小

、遡っては

代傳奇、六

志怪の

もし假に、これが父親の「實體驗」に基づく話とした場合、 が高いように思われる。 に目をした上での創作である可能性 同じ頃に、彼が見たのとそっくりの「のっぺらぼう」を目

したという蕎麥屋の出

持ちの「證言」は

立し得ない話だからである。このことからも、話の 「のっぺらぼう」イメージがそれぞれ別個のものであったら う。何となれば、彼らが見た「もの」が何であったにせよ、 目すべきであろ

なった文久年 !臺と

"には、

#に目 さらに、扶桑堂『百物語』、『江 イメージが確立していたことが見て取れる。 $口のない「女のっぺらぼう」

しているばかりでなく、 はの怪談」、「女のっぺらぼう」に出くわしたという點が共 %民話物語』、そして「父

①それに出會ったのが、水邊という「場 トポス」であったこと

ぼう」を目 ②綺堂の父親は兎も角として、彼と同じ頃に「のっぺら 。 &

したと言う蕎麥屋の出

の目 持ちが、他の二話 '同樣、

(章狼狽したこと。

などでも共し、これらの話が同じ根を持つ可能性の高さを示す。ただ、「父の怪談」の場合、他の二話と比べると、目

のない女が子供を $口 )れている點や、その

*を見た綺堂の父親

「のっぺらぼう」考(

+子)

201

(5)

が、一度は刀の柄に手をかけつつも、それを理性により押しとどめ、「大火傷を負った人ではないのか」とその

て來たるところを冷靜に分析している點や、 のよっ 子と極めて似ていたとしている點、更に最 見つかったのが、昨夜出會った「のっぺらぼう」と見えた母 日、水死體で 何であったのかが分からなかったと話を結んでいるところが には、それが 趣がある。 なっており、この話の方が、他の二話よりもう一捻りした

さて、「父の怪談」で見られた他の二話と

なる した人」或いは「水死 ち、綺堂の父親が、「のっぺらぼう」と見えた女性を「火傷 素のう 先ず、「火傷」についてであるが、高原理「怪談實話… えてみたい。 」ではないかと考えた點について考 載⑦記憶/

變」の指摘によれば、戰

、江 川亂 人氣を二分した甲賀三 と

の『蝦蟇屋

人』と言う探偵小

火傷を負って目 の中に、「のっぺらぼう」の怪人が登場し、その正體が大

「のっぺらぼう」の の見分けのつかなくなった人であったとし、

素として、身體の變

した人をも加え るべきかと指摘する

の障 に同氏も指摘するように、何らか

を持った人を

け物 物」にした時代が、洋の東西を問わず、ほんの少し すれば許されないことではあるのだが、そうした人を「見せ いするのは、現代人の感覺から

然とあったことを想 まで嚴 すれば、「のっぺらぼう」の

つとして、火傷を負った人や何らかの障 素の一 ざるを得まい。 を持った人を加え に、水死

した中國小 についてであるが、奇しくも岡本綺堂の紹介 に

の下りがある。

張鴻業 ちようこうぎようという人が秦淮へ行って、潘 はんなにがしの家に寄寓していた。その

は河に面したところにあった。ある へや

の夜に、張が

きて厠へゆくと、夜は三更を

ぎて、世

に人の聲は

えていたが、

干によって暫くその は大きく明るいので、張は 聲あって、ひとりの人 光を仰いでいると、たちまち水中に のあたまが水の上に

不審に思いながら、 「この夜ふけに泳ぐ奴があるのかしら」 !かみ出た。

あかりに

"かしみると、

だの #いから

が水中に立っていた。顏は眼も

も無いの

$

$

$

$

$

$

で、頸も動かない。さながら木偶 でくの坊のようなものであ 中國詩文論叢第二十七集

202

(6)

る(『中國怪談集

』)

この話は、

の箒(水鬼)と名づけられた一 すいほうき ・袁枚『子不語』卷二に見える、「水鬼箒」

である。水鬼とは、水死

幽靈。身代わりが無いと、自身が の 中に引き 佛できないため、人を水

むとされる

あがった母子の 「父の怪談」では、「のっぺらぼう」を見た日に品川沖に 。

體は普

の人 死して時 同樣であったとするが、溺 が經った

體の顏貌は、

膨れあがり、目 々にして水にふやけて 口の 水 別があやふやとなることがある。

と呼ばれた江

左衞門」を見る機會が多かったとされる には、今日我々が想像する以上に「土

投げ、すなわち投身自 。その多くは、身

である。歌

伎の心中物、

語の

にも、身投げを

た背景あったればこそである った話が實に數多く見出せるのも、そうし

『子不語』 。

載の「水鬼箒」の話が、江

人に實際どの

度知れ渡っていたかは、更なる檢證が必

くともこの小 であろうが、少な

集が、當時の知識人に多く讀まれていたこと から推せば、この話が、「のっぺらぼう」のイメージ形

少なからず關わっていたと考えるのは、あながち に

外れでは 溺死 もし、この推測が外れていたとしても、右記したように、 ないのではないか。

を見る機會を數多く持った江

~明治期の人々の思い く「のっぺらぼう」像に、膨れあがって目

ぬ溺死 口の定かなら のが與った可能性は十分あり得よう

!

「父の怪談」で、更に

"目すべきなのは、父親の話に

言 で、綺堂自身が示した見解である。 #い だが、「今や死にゆく」人の顏の目 詰まるところ定かではない。 際それがどのようなものであるかは、樣々に言われるものの $としては多くの人が知る「死相」であるが、さて、實

が 口―或いはその一部 扶桑堂『百物語』のもととなった、淺 ** 綺堂の單なる思いつきではない。 %えていた、乃至はその形がぼんやりしているとしたのは、

催された百物語の會 &の料亭・奧山閣で でも中心 '

な役

(をはたした三

)亭圓 などの作 *は、『眞景累ヶ淵』、『怪談牡丹燈籠』(一八三九―一九〇〇)

としてあまりにも有名であるが、幽靈畫のコレク

「のっぺらぼう」考(

+子)

203

(7)

ターとしても

名であり、その

・臺東

谷中の

は 生庵で

年八 十一日の圓忌を中心とした

一ヶ 、「三

亭圓コレクション幽靈畫展」と銘打ち、一般にも公開されている

現在、そのコレクションをまとめたものとして、『 。

生庵 ・三 亭圓コレクション幽靈名畫集』

り、圓 が公刊されてお

の幽靈畫

できる。その作 五十點を余すところ無く見ることが の範圍は、圓山應

その幽靈畫を見ると、應 ている。 在私たちの知るものへと形作られていった時代とほぼ重なっ ら圓と同時代人までであり、「のっぺらぼう」の話が、現 (一七三三―九五)か にせよ、伊 くところの美しい女性の幽靈 雨の(一八八二―一九六一)

る「怪談 く鬼女を思わせ 榎木圖」にせよ、その顏かたちははっきりと

かれているが、その一方で、袖で顏を隱した幽靈―池田綾岡(一八一七―一八八七)「皿屋

など―があるほか、「幽女圖」目八) 」、渡邊省亭(一八五一―一九一 せいてい

口は

のの、顏形も淡々として、ぼうっと霞んだように かれているも そうした顏かたちをぼんやりと もまた少なくない。 かれた繪 く幽靈畫の中で、特に

目されるのが、「血みどろ繪」で知られる

岡 九二)作の「宿場女 年(一八三九―

圖」であろう(圖1)。この繪は、

年、

第に

を病んでいった

年が幻

!した幽靈であるとの

"

もあるようだが、實際には東

#$ けた、病み衰えた年 澤宿に宿泊した際に見か

%の女

を る いたものと傳えられてい

。淡 &

'で かれた肉筆畫であるため見

り りかけたところを、誰かに呼び止められたのであろうか。振 (いが、階段を登 )るその 似合いなほど、ふさふさとしているだけに凄慘さが さながら、力なく伸びている。脂っ氣のない髮の毛だけが不 *は骨と皮ばかりのやせ衰えたもの。指先が幽靈

この宿場女 る。 %してい の

*は、右の傳承

+りなら、少なくとも

た段階では「生きた女 い 幽靈畫に加えられるに相應しく、 」の繪であったはずであるのだが、

年が幽靈を幻

と取り沙汰されても不思議でないほど凄慘極まる !した云々 良い。そこには、女 *と言って の目

口は確かに

れではない。 の、およそ生氣というものが感じられず、明らかに常人のそ かれてはいるもの 年の 女 ,い―或いは、病んだ―感性がこの宿場

ろうか。 の「死相」なるものを讀み取り、繪筆を走らせたのであ 中國詩文論叢第二十七集

204

(8)

今日も 々と語り傳えられる幽靈の目

談でも、

形が生 形や顏

かでないばかりか、 そのままであったとする話がある一方で、顏形が定

ここで想 という話も良く耳にするところである。 もまたぼうっとした光のようであった したいのが、幼い日に小泉八雲が目

MUJINA」創作の し、「狢―

される、カズン・ジェーンの顏なしの 因―乃至はトラウマ―となったと指摘

である

。その

筆 いう。 見た後、カズン・ジェーンは惡性の風でこの世を去ったと を は、このあまりに良く似たこれらの話を「實話」と

べるつもりは毛頭ない。ただ、自身の狹い經驗に照らしてみても、まさに死にゆく人を見た人々の共

の の印象は、生命感 失乃至は減衰、そして生きた人としての存在感の希

であろう

。これを子供として直感

に感じ取ったのが八雲 であり、

の病んだ

ただ、そこまで言わぬまでも、幽靈やまさに死にゆく人を 年であったと見るのは穿ちすぎか。

く技法として、その顏貌や表

を明確に

よっては、顏貌や かない―場合に

形そのものすら

「 かない―と言う言わば ようである。 束」が繪畫の世界で確立していた事だけは確かに言える

「のっぺらぼう」と關

する死 のイメージと言えば、『太

廣記』に見える

の話であろう。

郡(現在の江蘇省)出身の陸余慶が りくよけい

い頃、

夜、徐、亳(共に今日の安徽省 じよはく のある のあたりをの地名)

ことがあった。從 する ひどく くりと馬で出かけた。 は物を持ち、先に行き、余慶はゆっ

!かった。おりしも

ていた。余慶は彼らを人と思い "靈たちが焚き火を圍んで坐っ

#み、

火にあたった。火は激しく燃えさかっているのに、少しも $いで馬から下り、

%かくない。余慶は、火はなぜ冷たいのかと

なうつむいて笑うばかりで、答えない。余慶が振り &ねると、み 'って

「のっぺらぼう」考(

(子)

205

(圖1)『

年妖怪百景』より。

(9)

見ると、

靈たちはみな「面衣」をつけていた。余慶は

いて馬に鞭打って、

げたが、無事であった。この付

人が余慶にいうには、ここでは の ものは多くは死ぬが、貴君は 靈が崇りをなし、會った き とご加 れなかったので、きっ

(『太 があるでしょう、と。確かに余慶は富貴となった 廣記』卷三二八。出・韓

かんえん『御史臺記』)

面衣(圖2參照)は「掩 えん」、「布巾 ふきん」、「幎目 べきもく」とも言う。澤田瑞穗『修訂鬼趣談義』

では、これを

行用のベールと

するが、死 明

「幎目」にもと見え、その第十二)喪禮」 の顏を掩う布として夙に『儀禮』(卷三十五「士

に「幎目、

面 當たっているものたちを生きた人と見 也。」とあること。更には、この物語で、當初、焚き火に

が「鬼」すなわち幽靈であると った余慶が、それら せたものたちが皆、死 識したのも、そこに居合わ が顏に

ける「面衣」を

ルではなく、死 からにほかならない。つまり、ここでは、面衣は單なるベー けていた を象 れに氣づいた余慶は するものであったのだ。そこで、そ い から 怖を覺え、馬にむち打ってその場

こうした思いは、當時の人々に共有される物でなかったな げ去ったのである。 ら、この話の怖さのポイントは

目 く、ずれてしまうであろう。

口を缺いた「のっぺらぼう」の怖さの

死を象 い源に、或いは 勿論、當然、あるべき まいか。 する、この面衣のイメージも與っていたのではある

分に人を にそれがないと言うだけでも、十 かせるに足るのではあるが、それに死

ジが付加されることによって、その のイメー 怖感は倍

倍 、いや、數

火傷を負って目 する筈である。

口の

ジ、水死して顏がむくんで目 別が定かでなくなった人のイメー メージと共に、「のっぺらぼう」のイメージ形 口が定かでなくなった人のイ

に、死

れる。 イメージが少なからず關わったと考えておくべきものと思わ の 中國詩文論叢第二十七集

206

(10)

結語

以上、「のっぺらぽう」の話の來源と、その定型

にまつわる幾つかの 、それ な 素について檢討してきたが、實に樣々 今日私たちが知る「のっぺらぼう」の形へと 素が―更には、その「正體」までが―付け加わりながら、

ち その時期は、 たことが見て取れたと思う。 いていっ

世末から、

代初頭。これは他の多くの 「

け物」たちが、今日私たちが知る形へと

ち 高田衞「幽靈の〈像〉の變 イメージ た時期とほぼ重なる。 いていっ

ずの幽靈の顏貌表現の 」では、本來の見えぬは

パターン

について言

し、

①幽靈像の形が定まった時期は十九世紀、つまり、

期から 世末

② 末明治期である。

世期の十七、十八、十九世紀は合理

値 な思想、價

、 斷力が

に發

③その反動として、人々の中の無力感や被 した時期であった。

體の知れぬ怒りや執念、貪欲、犯罪などの、闇の思想や感 感や怨み、得

④そうした感 の肥大する一面があった。

よって、

なものに對する

た幽靈の れに發し 念が され、京・大阪・江

の三 の町の

能や文學、美

や市井

報によって、獨自でありながら

得力にみちた普

表現として幽靈の定型

が こった。

と指摘する。この指摘は、同時に

け物のイメージの定型(妖怪)

キャラクター 、

の立時期とその事

とを同時に解き明かし

「のっぺらぼう」考(

!子)

207

(圖2)新疆ウィグル自治

土 "トルファン出

#代の高昌國の文物(稻畑 こうしようこく

$一 國假面の世界― %『中

&と人の交

'樂』より)

(

(11)

たものと言って良いであろう。

世以 、ひたすら「もの」として

名が與えられ、その れられていた妖怪に、

や屬性が

一つのキャラクターとして、あるものは、 々に付け加えられ、やがて

として定 親しみや笑いの對象とすらなり、さらには一種のマスコット 怖よりはむしろ するものさえ現れるに至る

そして、 。

怖の軸は、右のような事

に怨念や執 も絡んで、この世 しかし、そうした動向の中にあっても、 ムーブメント 移行していく。 を殘して死んだ人がなるとされる「幽靈」へと

り、樂しみ、そして、哄笑するその背後に、一抹の け物を面白が 介在しないでは、かくも多種多樣な 怖感が れに樣々な け物が生み出され、そ 素が付け加えられることはなかったに

これら いない。

な け物のイメージの源のみならず、付加された樣々 素の重

な 報源となったのが、特に ニユースソース

讀 世になって、

の裾野がより大きく廣がっていった

ごく當然の であったのは、

勿論、筆 り行きであったであろう。

は日本の妖怪の來源や

素を てが その來源にせよ、付加された 由來であると張するつもりはない。 て、中國

素にせよ、中國以外の國々 や、日本獨自のもの無くしては、

張しようとするあまり、徒に中國の影 妖怪であることは確かである。しかし、特に日本の獨自性を り立ち得ないのが日本の を無

乃至は等閑

筆 ないであろう。 するというのも、物事の一方のみ見ていると言わねばなら が、今後もこの方面の問題を繼續

と考える に考えて行きたい 以の一つは、まさにこの點にこそある。

(1)本稿の(上)、(中)各 】

二六集 は、『中國詩文論叢』第二五集、

中心として―」(『笠 收。別稿は、「『のっぺらぼう』考―その『正體』を

ライブラリー・

光學院大學公開

論集』五六 座 收、笠

書院、二〇〇八年七

(2)始めは )を指す。

に江 田堀、銀堀、八丁堀などと呼ばれていたが、後 しろがねぼり

殿中接待役井上龍閑が

川と掘の接點に

た、或いは、この堀を開いたのが、井上龍閑だったという !んでい

"

もある。この川は、元祿四年(一六九一)頃に、防火用の明 あきに掘を開鑿したもの。後には、東

田一丁目の

に流れる水路も開かれて から、北北西 に西から六番目に掛かっていたのが、この物語の 田川ともつながっていた。この堀

#臺となっ 中國詩文論叢第二十七集

208

(12)

た地 橋である*。(ホームページ「東京

千代田

*これらの記 /)3y/oregatC lo/i.jpobhing.sa.bodiychyook/t:/ttp:hLRUなどを參照 史」

については、「尾張屋板江

九~一八七〇年)で確 切繪圖」(一八四 した(『切繪圖・現代圖でく江 東京散』、人文

、二〇〇六年)。地

怪と下町の話題」 (3)同書第二章「妖怪と架空の生物」五「日本橋本町四丁目の ころは、日本橋四丁目から眞っ直ぐ行かれる橋ではある。 橋と呼ばれると 收。なお、北乘物町は、現在の千代田

の北東部に位置する

(4)ホームページ「千代田 田北乘物町のこと。

(5)佐野 p/tma.hodiychi/timei/ekid~he.j.nkykswww. の地名」/:/ttp:hLRUによる。

子『

記・幽明

・ 他』(『中國古典小

2【六 集』

(6)范 Ⅰ】、明治書院、二〇〇六年)參照。

校勘『

』(『 ・談叢』〔『古小

叢刊』、中

局、一九九六年〕 書 收)。極めて短

原文も なので、參考のため、

げておく。「太原

婢駭怖、 湛婢、見一嫗向婢流涕、無孔竅。

湛。湛

抽刀逐之、

舒、上沒霄 一物、如紫虹形、宛然長

(7)試みに、大場脩『江 。」

時代における

船持渡書の

(關西大學東西學 究』

究 を載せる『 、一九六七年)を見ても、この話 』を收

した『

郛』は江

された記 期に何度か舶載

があり、當然、この話も讀まれていたことが想像 の される。しかし、この話に見える「のっぺらぼう」は、老女

!であり、それが虹のような形に變

すると言う設定と

"

せ考えた場合、この物語が江

接影 期の「のっぺらぼう譚」に直

#を與えたとは考え

$く、むしろ明・

%小

(8)それは、 の古形と見るべきであろう。 に見える話

&世以 無くしてしまうことによって幽靈の怖さが倍 'には當然あるとして怪しまなかった足を

い (したことを思 の野輪廻「は、指摘のこの氏牧なお、 )こせば、う。思しがつくことと察に容易

分析話』の試み―」(『比較文學 *―『むじな』『因果 文學 究』第四十七號、東大比較 究會、一九八五年)に詳しい。この

は らぼう考〔中〕」で引用し、引用 '稿「のっぺ +の意見も

書總河出』(綺堂本岡集・特・藝別冊『文)9( きたい。だ參照いた べているので ,新 年一 、二〇〇四 -、初出は、『新小

』一九二四年四

( -號〔春陽堂〕)。 10)岡本綺堂『中國怪奇小

集』(光文

岡の本經一(綺堂の きよう 文庫、一九九四年)

.嗣子)解

( を參照。

11)水邊は陰陽

洞窟(トンネル)などと共に、 で「陰氣」に屬するばかりでなく、橋、辻、

ぐ「境界」と見なされ、怪 界とこちら側の世界とを繋 の )きる場

として

きたことをここで想 識されて 稿」(本―て 『とし心中』を正體その―考「『のっぺらぼう』稿拙ては、 )すべきであろう。なお、このについ點 /1參照)で觸れている。

「のっぺらぼう」考(

(子)

209

(13)

( 12)『幽』Vol7(メディア・ファクトリー、二〇〇七年七

( 收。

13)光文

文庫、一九九四年。原題は、『支

怪奇小

イレン 集』(サ

( 刊、一九二七年)。 14)このあたりは、我が國の死

イメージ形

『子不語』原文の當該箇れている。但し、 いるとされる縊鬼すなわち、首つり幽靈と同じ性質を與えら に深く關わって 言 無有」つまり、眉や目がなかったとあるが、や口について を見ると、「眉目 されていない。或いは綺堂の意譯に

( ぎたか。

頃の江 15)土左衞門という名の由來は、享保(一七一六―一七三六)

の力士、

たのに 世人が溺死人の膨れあがった死體を土左衞門のようだと戲れ 川土左衞門の身體が肥大であったので、

( るという。

16)氏家幹人『大江

死體考』(

凡 は、江 新書、一九九九年)で から明治初年の身投げを含む溺死

章を設け、いかに一九世紀末初頭から明治にかけて、溺死 について特に一

を日常

に見ることが出來たかを

將軍・家齊が濱離宮で船 き、一例として第十一代 が漂 び中、繩で卷かれた男女の水死體 。 圍は大

と、押し流すのに腐心していたが、事を てして、それを家齊の目に觸れさせまい

立てては關係

記』から紹介している(第一章「屍 責任問題となると、見て見ぬふりをしたという話を『天保雜 の

また、明治の繪師・狂齋こと河鍋曉齋(一八三一―一八 きようさい 」參照)。 八九)が九

の時に、自宅の

田川に流れ

生首を拾ってきて いた人の かに ぎとなったと言うエピソードが傳えられている*。事柄は確 察しているのを下女に見つけられて大騷 常ならざるものではあるが、九

の生首を拾うことができるほど、 の子供でも容易に人

世末期に水に

*多田克巳「デーモンのの畫家、河鍋曉齋」(京極 が多かったかを示す例と見ることができよう。 かぶ死體 多田克巳 ・

( 『曉齋妖怪百景』(國書刊行會、一九九八年)。 17)この事は、稿(上)、(下)の各

( でも觸れた。

18)『大江

死體考』の指摘を更に引けば、史料を

じ自 !べると同

"

でも女性は入水、男性は首吊りを

#擇する

いとし、角筈村(現在の東京 つのは $合が高 新宿

%)の名

&文書を一例に 'げ、首吊り自

わずかに一例を數えるのみだとする(「江 "の事例の男女比は男十六例に對して、女は

定ののう」ぼらぺ「女のっ或いはも、邊)。こ頁二六五~二 の書」同官死檢 の重 (な

( (素と考えられないだろうか。

19)本稿(上)

( を參照。

20)筆 も、二〇〇八年八

初旬、炎

)の中

*生庵を訪れたが、

って、俟眞に *て肉筆畫であり、展示されたのが寺の庫裏と言うことも相

+ったものばかりで、畫冊とはまた

( が出來た。 ,った見方 21)普 版(辻惟雄監修、ぺりかん

最 、一九九九年)。なお、 、この本の文庫本が出た(ちくま學

-文庫、二〇〇八年 中國詩文論叢第二十七集

210

(14)

( )。

22)安村

信「

生庵の幽靈畫コレクション・圖版解

」(『

生庵

・三 亭圓 俊悳 いさお コレクション幽靈名畫集』收載)び 『 年妖怪百景』(國書刊行會、二〇〇一年)解

を參照。因みに、この繪は、山本笑

和十一年〔一九三六〕第一書 『明治世相百話』(昭 刊。今、中公文庫〔中央公論 、一九八三年〕に收められ、改訂版もある〔中央公論新

二〇〇五年))に、「床の 、 には圓

記 持參の女幽靈の一幅」と

されている

りだとすると、圓

繪が唯一の コレクション中、この 淺 年筆の幽靈畫である點を考えれば、明治二五年、

( 「幽靈畫」であった可能性が高い。 奧山閣で開催された百物語の會の時に掛けられていた 23)本稿(中)參照。池田

之「『怪談』

と『私の守 生の原風景―『狢』

では、二〇〇四年)「八雲はこの幼い日の一 天使』」(『幽』Vol.1、メディアファクトリー、

の ス・スティーヴンソン女史の指摘が正鵠を射ていないことは が、これのみをきっかけとして出來上がったというエリザベ トラウマとして一生生きたと思われる。」と指摘する。「狢」 怖體驗を

に 稿(中)でも指摘したが、この「體驗」が心の底に

くっていた八雲が扶桑堂『百物語』に觸發されて「狢」を書いたとするその指摘は傾聽すべきものと思われる。(

24)勿論、筆

は世に言う靈能

想を持つのは、ほぼ例外なく、その方が ならぬ身である。こうした感

くなって後のこ とであり、「そう言えば、後で考えてみると……」と言う

のものであることは言うまでもない。(

25)諡は

。官は

( 察御史。開元中に、太子事に至った。

26)原文は

!の り。「(

文略)餘慶少時、嘗

"日於徐亳

行。左右以 夜

#$ 行。餘慶

%轡躡之。

&甚。會羣鬼

慶以爲人、馳而遽下就火。訝火 '火而坐。

。爲冷我 (熾而不煖。慶謂之曰、火何 )靴。羣鬼但俯而笑不應。慶

慶 *+之。羣鬼悉有面衣。 ,。策馬

-之、竟無患。其傍居人謂慶曰、此處有鬼爲祟、 .之 多斃。

/君竟無 0,懼、必

( 1助也、當富貴矣。」

27) 2河出版

陸「 、一九九〇年。なお、同書では、「陸余慶」を 慶の事を語っていることからすれば、余 慶」とするが、この話が、やがて「富貴となった」陸

( ろあう。 3植と考えて良いで 28)『圖

中國文

4百

( 56』(農文協、二〇〇三年)。 29)『

生庵 ・三 亭圓 コレクション幽靈名畫集』(本稿 623參照)

( 0載。

30)その最

78な完

多日くの人々の指摘するところである。 9こそが、水木しげるであることは、今

「のっぺらぼう」考(

:子)

211

参照

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す。 山村君、そこにあるから覗いてみてください。

古典の中の人とからだ(7) 39 :29 その死体を木から取りおろし『 9:5 :11

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 彼らの「氷」の表現はいずれも「清」によって象徴される清澄なイメージに繫がるものであり、詩僧

ているのである︒﹁ 1

 また,明治以降,わが国の教育は西欧近代技術文明に追いつくために知識の習得に重点がおかれるようになっ

罪者たちの姿を描いた作品でもあった。本書にも収録されている第三版の序文

という内容であるが、