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東洋の古典

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Academic year: 2021

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一 97 一

東医大誌 59(2):97,2001

東洋の古典

関東学園大学経済学部教授 経営学科長

f

鴇 田 正 春

 最近7・東洋の古典がよく読まれているようだ.東洋の古典の魅力はなんといっても人間学の宝庫であるという ことである.

 例えば,東洋の伝統的な人間観を表わす言葉に「心身一如」がある.これは人間の心と体を別々のものとは見 なさず,相互に依存し合う統合体として扱い,人間を自然界の一一部であると考えることである.そして心と体を 結びつけるのが「気」の働きであるとして人間と自然界との気の交流を行う調寺法を大切な修業の一つとして重 視している.大宇宙である自然界に充満している気と小宇宙である人間の体内を循環している気が連動して一体 となれば,われわれの心は大いなる広さをもっことができると説いている.それによって力むこともなくなり,人 間が本来もっている生命力も高まるという.

 また,明治以降,わが国の教育は西欧近代技術文明に追いつくために知識の習得に重点がおかれるようになっ たが,東洋の伝統的な教育は人聞学主体であった.東洋思想では人間には二つの要素があるとしている.その一 つは人間として本質的な部分で,これがあるがゆえに人間であるというもの,すなわち仁徳である.これに対し て,あれぼあるほど結構なのだが,あくまでも付属的なものとして,知識や技能を位置づけている.従って,教 育はあくまでも人間としての仁徳を身につけることを根本において,その上に知識や技能を発達させることでな くてはならないと説いている.この仁徳とは,人間を尊重し愛する心の働きであり,人間のいっさいの徳の源泉 になるものである.「医は仁術」という言葉は,医は仁愛の徳を施す術でなけれぼならないという意味である.論 語の中に「己に克ちて礼に復るを仁となす」とあるように,仁徳を行為として表わす際には礼儀にかなっていな

けれぼならないとも説いている.一言でいえば,常識的な社会的人間としての自覚ということになろう.

 現代はストレス社会といわれるほどわれわれの生活はさまざまなストレスに満ち,心と体はバラバラになりが ちである.そのため生きる目標を見失い,心の卜いや体の不調を訴える人が多い.また教育の荒廃が言われて久 しい.わが国は戦後半世紀を経て世界に冠たる経済的豊かさを手に入れたが,時代の大きな転換期にある現在,東 洋の古典によって東洋の先人達が考え出した人間学的な知恵や想念に心を傾けてみるのも意味深いことではな かろうかと思うのである.

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