『仏祖統紀』テキストの変遷
著者 西脇 常記
雑誌名 人文學
号 181
ページ 23‑52
発行年 2007‑11‑20
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011302
﹃ 仏 祖 統 紀 ﹄ テ キ ス ト の 変 遷
西 脇 常 記
はじめに
数年前︑佐藤成順氏は﹁﹃仏祖統紀﹄の﹃大日本続蔵経﹄本と﹃大正新修大蔵経﹄本の文献上の問題点﹂を発表し
た
盧書の再彫刻本が全国の図館はにいくつか蔵せられてそい︒は﹃仏祖統紀﹄の単刻本︑るいわゆる古活字版︑あい
る
盪所紀﹄テキストは大蔵経収祖のものであり︑佐藤氏統仏︒でそれらを除くと︑日本一﹃般の閲覧に供せられるの
述べるごとく﹃大日本続蔵経﹄本︵以下﹃続蔵本﹄と略称︒ただしこの大蔵経は﹃卍続蔵﹄﹃続蔵経﹄﹃日本蔵経書院続蔵経﹄
とも呼ばれるため︑その呼称を用いることもある︶と﹃大正新修大蔵経﹄本︵以下﹃大正蔵本﹄と略称︶の二本である︒論
文の題目を一瞥して分かるように︑佐藤氏の作品は両大蔵経所収﹃仏祖統紀﹄テキストの異同を論じたものである︒
この作品で注目すべき点の一つは︑北京図書館︵最近になって中国国家図書館と名称を改めたが︑小論ではしばらく旧称に
従う︶所蔵の善本﹃仏祖統紀﹄の閲覧に関連する記述である︒このテキストは︑﹃北京図書館古籍善本書目﹄子部・
釈家類︵一六二九頁︶に見える
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
仏祖統紀五十四巻宋志磐撰宋咸淳元年至六年胡慶宗季奎等募刻本沈曾植跋十四冊十一行二十二字小字双行
同黒口左右双辺
であり︑実見は難しかった︒佐藤氏は北京でこれを調査し︑その成果を上記作品の中でも利用している︒しかしなが
ら氏は︑自身の言葉によれば版本学には詳しくなく︑このテキストの版本としての重要性には言及していない︒また
これが諸大蔵経﹃仏祖統紀﹄を論ずる際の出発点であることにも触れていない︒ところで最近になって︑佐藤氏の実
見したテキストの影印は﹃四庫全書存目叢書﹄に収められ︑容易に見られるようになった︒その他いくつかの大蔵経
の版本も影印されている︒そこでそれらに基づき︑佐藤氏の論考を参照しながら︑志磐の撰述した﹃仏祖統紀﹄テキ
ストの変遷について考えてみたいと思う
蘯︒ 蠢
祖本と各種大蔵経テキストと﹃大正蔵本﹄・﹃続蔵本﹄
小論の考察の対象として最も重要なテキストは︑
漓るキスト︵祖本︶であ︒﹄これについては﹃仏祖テ紀﹃収四庫全書存目叢書﹄所の統北京図書館所蔵﹃仏祖統
紀﹄諸テキストを通観した上で詳述する︒
次に︑以下の論考において言及しなければならない大蔵経を取り上げ︑﹃仏祖統紀﹄テキストに関わる情報を整理
する︒
滷行折装で洪葉六︑︶一行十七字︒︒半蔵く武南蔵︵もし南は文南蔵︑初刻建 キ変のトス祖テ﹄紀統仏﹃遷
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勅命の大蔵経で︑南京蒋山寺で開版され︑洪武三十一年︵一三九八︶に完成した︒天函から煩函に至る五九一函
は経・論・律︑刑函から魚函までの八七函は宗乗要典︒五九一函の経・論・律の部分は元の磧砂蔵の再編集を経
た翻刻であり︑八七函の宗乗要典の部分は華厳・禅・天台・浄土の各宗の仏典が収められ︑永楽十二年︵一四一
四︶に完成した︒﹃仏祖統紀﹄はこの時︑初入蔵された︒版木は︑永楽六年︵一四〇八︶に蒋山寺の火災によって
滅したが︑一九三四年に四川崇州上古寺で蔵本が発見され︑一九九九年から四年の歳月を費やして︑四川省仏教
協会から再版された︒再版の際に︑ごく僅かの残欠部分は他の大蔵経によって補われ対校された︒また虫食いも
コンピュータ処理されて蘇った︒二四一冊︵洋綴︑二七
袍加二四二数冊総︑りわが︶冊一たっ入の等録目に︒
﹃仏祖統紀﹄五五巻は︑二三七冊に巻一︱五︑二三八冊に巻六︱四一︑二三九冊に巻四二︱五五が収められてい
る︒
澆行︶︒折装で一紙三〇︑寺半葉六行︑一行十七字版恩明い南蔵︵永楽南蔵︑あるは報単に南蔵︒また南京大︒
南京の大報恩寺で実行された勅命の大蔵経である︒永楽元年︵一四〇三︶ごろから事業は始まり︑永楽十七年
︵一四一九︶末までにはほぼ完成していた︒収容仏典は一六一二部︑六三三一巻で︑六三六函に分けられた︒洪武
南蔵を覆刻したものではあるが︑収める仏典の順序がそれとは大いに異なる︒従って︑単なる版木の再刻ではな
く︑もとの版を利用した再構成であると言われている︒
一九八四年から一九九六年に出版された大陸版﹃中華大蔵経﹄︵中華書局︶所収の﹃仏祖統紀﹄テキストの底本はこ
の明南蔵である︒
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
潺一で半葉五行︑行折十七字の大字本帖︒明︑北蔵︵永楽北蔵あ︶るいは単に北蔵︒
これも勅版大蔵経である︒開版期間は永楽十八年︵一四二〇︶から正統五年︵一四四〇︶で︑六三七函︑一六一五
部︑六三六一巻を擁する︒万暦十二年︵一五八四︶になって︑続刻された各宗派の論著の四一函︑三六部︑四一
〇巻が続蔵経として加わる︒
﹃仏祖統紀﹄はここでは省かれたので︑北蔵は小論とは直接には関わりないことになる︒
潸で字〇二行一︑行十葉半本嘉冊方︒︶蔵山径︵蔵興︒
明の万暦十七年︵一五八九︶に五台山で開版され︑やがて場所を浙江省の径山に移し︑その後はさらに嘉興︑呉
江︑金壇等に分散して募刻された私版大蔵経である︒清の康煕十五年︵一六七六︶になって完成を見た︒嘉興の
楞厳寺がこの事業の総責任を担ったために嘉興蔵と呼ばれる︒﹁正蔵﹂︵底本は﹃明北蔵﹄︑校本は﹃明南蔵﹄を主と
し︑宋・元版を参考とする︶︑﹁続蔵﹂︵蔵外典籍︶︑﹁又続蔵﹂︵蔵外典籍︶の三部からなる︒
影印本は一九八六年に台湾新文豊出版公司から出版された︒我が国の黄檗版大蔵経︵一六七八完成︶は︑隠元︵一
五九二︱一六七三︶将来のこの方冊本を覆刻したものであると言われている
盻︒
﹃仏祖統紀﹄は﹃嘉興蔵﹄正蔵に収められるが︑元来﹃明北蔵﹄に﹃仏祖統紀﹄は収められていないので︑底本
には﹃明南蔵﹄本が用いられた
眈︒
上記の内で︑
潺大および﹃大正新修蔵経経﹄所収テキストと﹄蔵を祖除く大蔵経の﹃仏統続紀﹄テキストと︑﹃の
関係が問題になるわけであるが︑それを考察する前にもう一つ︑﹁はじめに﹂で触れた︑我が国に伝承する単刻テキ
ストについて述べる︒ ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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澁あるあでうよの次は態形のそ︒るで日慶本古活字版︒長本元和間の活字︒
四周単辺︵枠どり︶︑半葉十一行︑一行二〇字︑枠の内の縦は二二・七
袍︑横は一六・八
袍︑版心には﹁統紀
︵巻数︶︵丁数︶﹂︒刊記はない
眇︒
これは﹃続蔵経﹄の校本の一つとして用いている﹁古本﹂とされるものであるが︑それについては以下の小論の中
で触れる︒
さてここで︑
漓戻統紀﹄テキストにっ仏て︑﹃仏祖統紀﹄の祖﹃の書﹃四庫全書存目叢﹄蔵所収の北京図書館所成
立と流布を考える︒このテキストは︑蔵書家であり版本目録学の分野で著名な傅増湘︵一八七二︱一九四九︶に注目さ
れ︑﹃蔵園羣書経眼録﹄
眄増られている︒傅湘上の蔵書の八千冊近げりをのはじめとする彼著取作の中でたびたびく
は︑死の数年前に自らの手によって︑あるいは死後に遺族によって北京図書館に寄贈された︒その中に︑彼の所有で
あったこの﹃仏祖統紀﹄テキストも含まれていた︒彼はそれを一九一三年に北京の隆福寺にある聚珍堂から購入し
た︒
他のテキストに載せる志磐﹁仏祖統紀序﹂には︑﹁目之曰仏祖統紀︑凡之為五十四巻︒紀伝世家︑法太史公︒通塞
志︑法司馬公﹂
眩紀凡之為類四十巻︒伝紀世家︑法太史公︒通︑統とキ作るのに︑このテス祖トでは︑﹁目之曰仏塞
志︑法司馬公﹂
眤由塞志﹂を設けた理の運記述は他のテキスト通法に例作り︑﹁仏祖統紀通﹂﹁下の﹁釈志﹂では︑と
同じでありながら︑他のテキストの﹁作法運通塞志十五巻﹂の部分で︑このテキストだけは﹁十五﹂の二字を闕文に
して﹁作法運通塞志■■巻﹂とし︑その下に細字で﹁嗣刻﹂と刻している︒
以上のことと︑傅増湘が購入したときには︑現在闕けている巻三︑釈迦牟尼仏本紀が存在したことから︑このテキ
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
ストは﹁法運通塞志﹂全十五巻を省いて版木に彫られたものであることが分かる
眞︒結論としては︑沈曽植︵一八五
〇︱一九二二︶の鑑定によって︑これは﹁明刻南蔵﹂つまり
滷洪武南蔵と
澆あす︒たれさとるで明﹂本祖﹁の蔵南な
わち﹃仏祖統紀﹄は︑﹁法運通塞志﹂十五巻を除く四〇巻がまず開版され︑後に﹁法運通塞志﹂十五巻が開版された
のである︒それらが後の大蔵経に収められたり︑また
澁スジリオの﹄紀統祖仏﹃トキ日テ刻単なうよの版字活古本ナ
ルテキストとなる︒四十巻に続いて版木に付された祖本﹁法運通塞志﹂全十五巻の単刻テキストは残念ながら現存し
ていないし︑それに言及した情報そのものの存在も確認できない︒
上述のように
澁仏民間に流布した﹃祖前統紀﹄の祖本に極めにる日代本古活字版は︑明のれ各種大蔵経に入れらて
近い部分を含んでいる︒そのことを確認し得る根拠の一つは︑祖本テキストの巻末に見える胡慶宗等の募刻に応じた
寄進者の名前とその物品や金額が︑いくつかそのままの形で彫られていることである︒勅撰の大蔵経に入れられた時
に当然これら寄進者の名前等は削られるわけであり︑現に
滷統とこいなえ見はに﹄紀祖以仏﹃の収所経蔵大の下か
ら︑これを部分的に遺した民間流布の単刻テキストが︑祖本を伝える形で︑大蔵経テキストと並行して存在していた
ことが分かる︒すなわち日本古活字版は︑祖本の部分を強く残しており︑祖本に欠けている﹁法運通塞志﹂十五巻の
部分ではそれに代わる︑重要なテキストであると言えよう︒
民間に流布した単刻テキストについては︑例えば﹃金陵梵刹志﹄巻二・欽録集に次のように見える︒
仏祖統紀四十五巻宋景定年︑僧志磐撰︒今管蔵経僧宝成︑募縁刊入
眥
この資料は︑永楽十八年︵一四二〇︶に︑北蔵編纂官らが永楽帝に対して北蔵入蔵の可否の指示を仰いだ上奏文の一
部である︒結局︑明北蔵では﹃仏祖統紀﹄ははずされてしまうが︑この資料から民間募縁によって志磐以後も引き続 ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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いて刊行されていたことが確認できる︒また我が国には杲宝︵一三〇六︱一三六二︶記・賢宝︵一三三三︱一三九八︶補
の﹃宝冊鈔﹄に︑このことを確認し得る記述がある︒すなわち﹃宝冊鈔﹄巻三で空海に言及する際に︵
T 77, 801
b
︶︑﹃仏祖統紀﹄巻三〇︑諸宗立教志に載せる﹁元和中︵八〇六︱八二〇︶︑日本空海︑中国に入り︑︵恵︶果に従いて学ぶ︒帰国して盛んに其の道を行う﹂
眦蔵宗立教志は大経﹄テキストでは諸紀がる引用されていの統である︒﹃仏祖巻
二九に置かれ︑民間流布のテキストでは巻三〇なので︑﹃宝冊鈔﹄は後者のテキストを見ていたことになる︵もちろ
んこの時代には前者の大蔵経テキストは未だ存在していなかった︶︒因みに﹃宝冊鈔﹄は︑真言宗所依の主要経論に
関して︑翻訳・相承次第・請来・説相等の梗概について︑主題五八項および付題十二項を選んで問難答釈した書籍
で︑﹁貞和五年︵一三四九︶﹂に東寺で筆写されたとする︒
また同じ頃︑北畠親房︵一二九三︱一三五四︶は﹃神皇正統記﹄を著わした︒そのタイトル︑さらに著者が拠って立
つ史観そのものに︑﹃仏祖統紀﹄の影響があったことに関する研究も出ている︒その当否は別としても︑﹃仏祖統紀﹄
と﹃神皇正統記﹄の記事から︑親房が﹃仏祖統紀﹄を閲覧した事実は確かめられる
眛︒
以上の二例から︑咸淳五年︵一二六九︶に成立した﹃仏祖統紀﹄は︑八〇年後には日本で読まれており︑成立から
あまり歳月を隔てることなく将来されていたことが確認できる︒
さらに江戸中期の普寂︵一七〇七︱一七八一︶撰述﹃華厳五教章衍秘鈔﹄巻一には︑華厳宗祖の法蔵にふれて﹁其の
事蹟は千里の別伝・静法の纂霊記・宋高僧伝五・仏祖統紀三十等に載せるが如し﹂
眷と見える︒ここで引かれたのも
民間流布本系統のテキストである︒
以上︑
澁日本古活字版が︑
漓ス仏祖統紀﹄テキト蔵の流れを汲む単﹃所﹃書四庫全書存目叢﹄館所収の北京図書刻
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
の民間流布本系統に属するものであって︑明以降に大蔵経に収められたテキストの系統でないことを述べた︒
さて日本古活字版は︑ここで述べている北京図書館蔵テキスト︑すなわち祖本とされているものの系統には属す
が︑そのものではない︒そう考える根拠の一つは︑巻四九に志磐撰述以降の﹁元﹂や﹁明﹂の記事が加わっているこ
とである︒したがって民間では︑紀伝体と編年体を組み合わせて志磐の発明した﹃仏祖統紀﹄の史体にそった形で︑
志磐の擱筆以後の天台宗派の祖師たちの列伝や記事が編まれて行ったものと推測できる︒その推測を傍証する事例
が︑﹃続蔵本﹄第一三一冊に収める宋佚名撰﹃続仏祖統紀﹄であろう︒また最近になって影印された﹃仏祖統紀﹄
眸は
﹁清刻本﹂︵光緒三十四年﹇一九〇八﹈四月吉日の﹁後序﹂がつく︶であるが︑
潸ト末のそ︑りあでス嘉キテの統系蔵興尾
に﹁仏祖統紀清続﹂として︑﹁清慈邑法師﹂﹁清法化号蓮生﹂﹁清開慧号梅巌﹂﹁清妙能号
!
﹂の伝が作られている︒これらの事例が示しているのは︑志磐以後も天台祖師の列伝は歴代作られており︑それがある時期に
漓北京図書館所蔵
﹃仏祖統紀﹄テキスト︑つまり祖本の流れを受けて民間に流布するテキストに取り込まれて行ったということである︒
最後に︑以上の﹃仏祖統紀﹄テキストと︑﹃続蔵本﹄および﹃大正蔵本﹄所収テキストとの関わりを考察する︒
一九〇二年に京都蔵経書院が設立されて卍蔵経・卍続蔵経︵﹃続蔵本﹄︶の出版が始まるが︑底本は一般的には当
時︑書肆で手に入れられた和刻本であった︒この底本テキストは︑現在は京都大学附属図書館に収蔵されており︑朱
筆で文字の誤り︑正字の変更︑訓点の補正︑記事の加筆と削除等の指示が書き込まれていることから︑一名﹁﹃続蔵
本﹄テキストの原稿﹂とも言われている︒
﹃仏祖統紀﹄も︑原稿テキストの末尾に﹁黄檗版其他諸経印刷発売元/京都市上京区木屋町通二条下ル/一切経
印房武兵衛﹂と記されていることから︑一般の流布本であったことが分かる︒ ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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祖本との違いとして先述したように︑﹃続蔵本﹄テキストの巻四九には︑南宋の寧宗と理宗時代の記事に続いて元
・明の記事を載せ︑その冠注に﹁明蔵本不載熹禧︵注記
⁚ ﹁
熹禧﹂は﹁嘉
魍記明﹁︒す記と﹂事巻﹂末至下已︶り誤の蔵
本﹂とは嘉興蔵もしくはそれを覆刻した黄檗版テキストを指そう︒また﹃続蔵本﹄テキストの﹁冠注﹂には︑﹁古﹂
もしくは﹁古本﹂と称するテキストとの校勘がされている︒これは日本古活字版テキストであろう︒では﹁祖本﹂で
なく﹁古本﹂でもない﹃続蔵本﹄の底本テキストは一体どういったものだろうか︒
この﹃続蔵本﹄所収﹃仏祖統紀﹄テキストは︑巻首に楊鶴﹁仏祖統紀敘﹂︑明
!
︑統祖仏﹁磐志﹂﹁説紀統祖仏閲紀序﹂︑校正者五人の所属寺院・肩書・僧名︑通例︑目録︑音釈が置かれ︑巻末は刊板後記で終わる︒これらと巻四九
に元・明の記事を載せる点では︑ほとんど嘉興蔵テキストと一致する︒異なるただ一点は﹁刊板後記﹂の存否であ
る︒嘉興蔵テキストにはそれが欠けている︒巻四九の元・明の記事および﹁刊板後記﹂の両方で一致するのは︑
澁日
本古活字版テキストであるが︑そこには祖本テキストと同じように︑志磐以外の序跋や音釈はない︒従って﹃続蔵
本﹄の底本は︑嘉興蔵と日本古活字版の両テキストの要素を備えた﹁嘉興蔵系統のテキスト﹂と考えられる︒
一方︑﹃大正蔵本﹄は﹁明本増上寺報恩蔵本﹂を底本としている︒ここで言う﹁明本﹂は︑嘉興蔵を指そう
睇︒そ
して上で述べた﹃続蔵本﹄を校本として用いている︒
蠡
祖本テキストから勅撰入蔵テキストへ
上で挙げた佐藤氏の論文は︑今日一般に閲覧し易い﹃仏祖統紀﹄テキストとして﹃大正蔵本﹄と﹃続蔵本﹄を挙
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
げ︑これを比べてテキスト上の大きな違いを指摘している︒それは︑氏の言葉によれば︑﹁欠落のある﹃正蔵﹄本と
増加のある﹃続蔵﹄本﹂という違いである︒そして﹁どちらが﹃統紀﹄の原型であるのか﹂を﹁欠落文の思想内容を
検討して思想内容から欠落した理由を推論し︑さらに欠落の仕方の特徴︑欠落によって生じた文章の構成上の矛盾を
指摘する﹂
睚はいる︒しかし今日で︑れ明代になって初めててさ方は法で迫った︒そこで諸念版本からの接近は断入
蔵した﹃仏祖統紀﹄の諸版本︑南宋末に近い咸淳年間の刊記のある祖本︑さらに日本古活字版テキストが広く閲覧で
きるようになり︑版本の系統はほぼ判明している︒諸版本を通観してみると︑佐藤氏が﹁欠落のある﹃正蔵﹄本と増
加のある﹃続蔵﹄本﹂とした﹃大正蔵本﹄と﹃続蔵本﹄の違いは︑上記
滷﹄時たれさ蔵入が紀洪統祖仏﹃に蔵南武︑
つまり永楽十二年︵一四一四︶に始まったことが明らかとなる︒﹁洪武南蔵﹂編纂官の意図かあるいは天台仏教側の意
図かは分からないが︑志磐の祖本テキストが大きな変容を被ったことは確かで︑それが後の大蔵経テキストにおいて
受け継がれてきた︒
それでは志磐が作史した﹃仏祖統紀﹄のオリジナルテキストは失われたかと言えば︑そうではない︒明南蔵の祖本
とされる
漓のテキストは︑十五巻﹁紀法運通塞志﹂は欠く﹄統﹃所四庫全書存目叢書﹄収祖の北京図書館所蔵﹃仏も
のの︑残り四〇巻はオリジナルテキストである
睨はくじ同を統系︑がるいてけ欠に︒本祖︑は﹂志塞通運法﹁たます
る
澁正統紀序﹂に始まり︑校者仏五人の所属寺院・肩書祖﹁日い本古活字版に遺されてる磐︒祖本テキストは︑志・
僧名︑勧縁邑士の氏名︑通例︑目録︑そして最後に﹁刊板後記﹂を置いて終わっているが︑日本古活字版はこの柱を
そのまま継承しており︑さらにまた︑上でも述べたように寄進者の氏名と物品額の一部を遺している︒巻四九には元
・明以降の記事をも載せていることから︑祖本テキストが単刻本として流通し読み継がれ︑時に加筆され改版されて ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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いって︑日本古活字版となったことは確かである︒しかも︑日本では意味を失っているはずの寄進者名や金額が残さ
れているなど︑オリジナルのテキストにあえて手を入れることは控えられているように思われる︒従って我々は︑明
南蔵の祖本とされる
漓書トスキテ﹄紀統祖仏﹃蔵所館図﹃京北の収所﹄書叢目存書全庫四と
澁日本古活字版を合わせ
ることによって︑﹃仏祖統紀﹄のオリジナルテキストに接近することができる︒佐藤氏が問題とした﹃続蔵本﹄は︑
日本古活字版と嘉興蔵の両要素を備えた﹁嘉興蔵系統﹂のテキストであったから︑嘉興蔵を底本とし﹃続蔵本﹄を校
本としている﹃大正蔵本﹄よりは︑祖本テキストの原型に近いものを保有していると言える︒
以上のことから︑志磐が﹃仏祖統紀﹄を作史した意図を正しく理解するためには︑明代以降に入蔵された勅撰や私
家版の大蔵経テキストではなく︑祖本とされる
漓図そ︑と﹄紀統祖仏﹃蔵所館書京﹃北の収所﹄書叢目存書全庫四の
流れをくむ
澁最よう︒現在︑日本でも言利用しやすい﹃大正えと日ト本古活字版をテキスとるして採用すべきであ蔵
本﹄と﹃続蔵本﹄のどちらかを選ぶとすれば︑﹃続蔵本﹄を用いるべきであろう︒
蠱
削除と改変の実例
上での考察の結論として︑志磐の作史意図を正しく汲み取るには︑
漓所所館書図京北の収﹄﹃書叢目存書全庫四蔵
﹃仏祖統紀﹄と
澁能あり︑それが不可できあれば﹃続蔵本﹄をでべ日祖本古活字版の﹃仏統す紀﹄テキストを利用用
いるべきであると述べたが︑最後にいくつかの例を示してその結論を確認しておこう︒
佐藤氏は﹁﹃正蔵﹄本の欠落﹂︑﹁﹃続蔵﹄本の増加﹂とするが︑実際には﹃続蔵﹄本が志磐のオリジナルテキストに
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
近いものである︒﹃正蔵﹄︑すなわち﹃大正蔵﹄所収の﹃仏祖統紀﹄は嘉興蔵を底本にしており︑この嘉興蔵は︑遡れ
ば洪武南蔵に基づく︒つまり明初に初めて勅令で大蔵経が編まれた際に︑﹃仏祖統紀﹄も入蔵して印行されたが︑そ
の際のテキストを受けているのである︒﹁欠落﹂は︑明初の大蔵経編纂官の意図︑あるいはそれを汲んだ天台宗派の
立場を反映しているものと考えられ︑むしろ﹁削除﹂と言うべきであろう︒
それは﹃仏祖統紀﹄の全般にわたっているが︑大部分は﹁法運通塞志﹂十五巻に現われる︒﹃続蔵本﹄を校本に用
いた﹃大正蔵本﹄では︑普通には各ページの下部欄外に校勘記を記すが︑長い﹁欠落﹂はそこだけでは収めきれず︑
各巻の末尾に及んでいる︒
﹁法運通塞志﹂について志磐はまず﹁仏祖統紀序﹂で
私︑志磐は︑先人の遺した著作を手にして︑久しい間︑師について仏教を学んだ︒その際いつも考えた︒仏教の
道が仏陀から祖師へと伝えられていった足跡は︑記録がなければ後世では何も知ることができないと︒考えてみ
るに︑その昔︑良渚宗鑑が﹃釈門正統﹄を著わした時には︑おおよその史書の枠組は出来たが︑道義にはずれ︑
文章はごたごたしていた︒鏡菴景遷の撰述した﹃宗源録﹄は︑ただ伝記を列べただけで︑しかも言葉はいやし
く︑記述はおおざっぱである︒見過ごして記載しなかったことに関しては︑すっかり失われてしまっている︒そ
こで私はこの両書に基づき︑削ったり補ったりして︑史書の書法に準拠した新しい書を書き上げた︒その記録範
囲は釈迦大聖から法智︵
=
四明知礼︶に及び︑釈迦と二十九人の祖師の伝記はみな本紀とし︑彼らの教化の足跡を明らかにして︑道統の繋がりを述べた︒正系からはずれた様々な旁出の祖師は世家とし︑尚賢広智以下の諸師
は列伝とした︒立派な言葉やすぐれた行為はすべて天台宗のものであるが︑表と志に関しては︑その扱う範囲は ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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天台一門だけではない︒それについては︑﹁通例﹂の中に詳しく述べており︑類例から知ることができる︒さら
にまた︑編年体の史体を用いて︑周の昭王から筆をおこし︑我が本朝である宋王朝までの事跡を別に記録して法
運通塞志とした︒儒教︑仏教︑道教の教え︑禅︑教︑律の教え︑それらを一つにまとめて載せ︑すべて記録し
た︒これを名づけて仏祖統紀とし︑全五十四巻である︒本紀︑列伝︑世家は太史公司馬遷の発明した紀伝体史書
に範を取り︑法運通塞志は司馬光﹃資治通鑑﹄の編年体の史体を採用する
睫︒
と述べ︑﹁通例﹂の﹁釈志﹂に︑
大いなる仏教の教えが東の地の中国に伝わり︑聖人や賢者が次々とこの世に出現するのは︑仏・法・僧の三宝を
保持し断絶させないためである︒ところが長い歳月が経過してみると︑ある時代には興隆しある時代には廃絶し
た︒思うにこれは世間に起こる事象が移ろい変化するからであって︑仏教の教えそのものには加も減もない︒歴
史の流れを考え具体的な事跡を並べ︑それによって仏法の広がる時と塞がる時の事相を明らかにするとしよう︒
儒教や道教といった世俗の教えなどは︑時勢とともに浮き沈みするものであるが︑それらの事跡もことごとく明
らかな訓戒となすべきものである︒︵このような立場から︶法運通塞志十五巻を作る
睛︒
と言い︑﹁法運通塞志﹂の冒頭に置かれた﹁序﹂ではこう伝える︒
序文に次のように言う︒﹁仏教の教えはもともと変わらないものであるが︑世相の移り変わりと決して無関係で
はない︒釈迦が入滅されてから︑様々な祖師たちが次々とこの世に生まれ出たのは︑仏教の道を伝え保ち︑それ
を東方に向わせて中国の地に及ぼし︑今に至るまで断えることなく継続させるためである︒おおむね聖天子や賢
臣たちは宿縁によって仏陀の遺嘱を受けるもので︑仏教信仰に心を傾けることを常とした︒ところが儒教徒や道
― 35 ―
﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
教徒で仏教信仰を持ち合わせない者が︑仏教を排毀することもあった︒しかしこうしたことによって最終的に仏
教の滅びさることはなかった︒それはこの教えがもともと常に変らぬものだったからである︒いったい世間では
儒教・仏教・道教を称讃して︑三教の教えはどれも世間の人々を教化するのに十分であると言うが︑それらがこ
ぞって広がる時と塞がる時を持つのは︑時代がそうさせるのである︒儒教・仏教・道教の三教の事跡を列挙し︑
一つの真理の帰趨を究めて︑編年体で記録し︑広がる時と塞がる時の実相を見ていこう﹂
睥
以上から志磐の﹁法運通塞志﹂作志の意図ははっきり読み取れる︒つまり︑志磐は編年体の史体を用いて︑三教の
興隆と衰亡を歳月の下に並べ︑その実相を明らかにしようとしたのである︒そこで彼はまず︑その﹁正統﹂観に基づ
いて各王朝の首都︑帝王の名︑即位の年から退位の年までを記し︑﹃歴代三宝紀﹄の﹁帝年﹂のようなものを作っ
て︑その下に三教関係の事跡を書き込んでいったものと考えられる︒具体的な例として唐の最初の部分を示すと次の
ようになる︒テキストは﹃大正蔵本﹄︑すなわち嘉興蔵である︒
唐都長安︒
高祖李淵︒受隋禅︒
武徳元年︒詔為太祖已下造栴檀等身仏三
鑷勝粥設末隋於献曇門沙以︒寺業立︒為︑命天承当帝記嘗輝景門沙以救 饑民︑為立慈悲寺︒以義師起於太原︑為立太原寺︒又詔并州立義興寺︑以旌起義方之功﹇
362 a 2 6 b 2
﹈ 二年︒詔依仏制︑正五九月及月十斎日︑不得行刑屠釣︑永為国式﹇1﹈﹇36 2b3 − 4
﹈ 三年︒﹇36 2b5
﹈四年︒釈智巌初仕隋為虎賁中郎将︒・・・﹇
36 2b6
﹈ ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷― 36 ―
六年︒
! 36 2b1 3
沢県李録事亡︒・・・﹇﹈ 七年︒上幸国学釈奠︒・・・﹇36 2b2 0
﹈ 八年︒太史令傅奕上疏曰︒・・・﹇36 2b2 4
﹈ 九年︒傅奕七上疏請除仏法︒・・・﹇362 c 1 8
﹈太宗世民︒高祖次子︒
正観元年︒・・・﹇
36 3b8
﹈唐の高祖の武徳元年︵六一八︶から九年︵六二六︶︑そして太宗の正観︵貞観︶元年︵六二七︶が続く︒一人の帝王の
即位の年から末年までをまず記し︑その下に三教に関する事跡を並べて︑載せる事跡の何もない武徳五年は削ってい
る
睿︒
さて﹃大正蔵本﹄の欠落として武徳二年の﹇1﹈のところに
○詔国子学立周公孔子廟︵詔して国子学に周公・孔子の廟を立てしむ︶︒
の一事跡が︑
澁教り国立学校に︑儒のつ先聖先師である周公ま︑日経本古活字版や﹃続蔵本監﹄には具わる︒国子と
孔子を祀る廟を立てさせる詔が降ったという︑この一事は儒教に関することである︒祖本にあったこの記事は明南蔵
に収められる際に削除された︒
武徳六年の﹁灌沢県李録事亡﹂は︑役人である李録事と関わりのあった余法師にまつわる記事であり︑武徳七年の
﹁上幸国学釈奠﹂は︑続いて儒仏道三教の代表者を選んで︑それぞれの教えを載せる経典︑﹃孝経﹄﹃般若心経﹄﹃老子
道徳経﹄を講義させた話が続く︒さらにまた︑武徳八年の﹁太史令傅奕上疏曰﹂は︑道士傅奕が仏教の教えのいかに
― 37 ―
﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
害あるものかを述べた上表文である︒
志磐の祖本から削られたのが︑仏教と関わりのないもの︑つまり儒教や道教︑あるいはその他に関する記事であっ
たことは明らかである︒この立場を貫いて︑例えば︑以下に掲げるように︑儒教に関する唐・太宗の正観︵貞観︶十
四年の記事︑一一六字が削除されている︒
﹇正観﹈十四年︒上幸国子監︑観釈奠︑命祭酒孔頴達孔子之後講孝経︑大徴名儒︑為学官︒学生能明一経者︑
皆得補授︒増築学舎千二百間︒学生至三千二百六十員︒自屯営飛騎亦給博士︑使授以経︒於是四方学者高麗・吐
蕃︑皆遣子弟入学︒升講筵者八千人︒上以師説多門︑命孔頴達︑撰定五経疏︑令学者習焉
睾︒
明南蔵に収める際の︑祖本テキストからの削除作業は倉卒の間に行われたようで︑前後の記述への配慮はなされな
かった
睹はる︒祖本テキストで︑てこの記事の前には正観いれ︒跡仏教と関わらない事はか十中八九︑機械的に抜十
三年の記事︑後ろには﹃遺教経﹄に関する詔︑さらに十月には︑遷化した杜順和上の記事が続く︒しかし︑上に掲げ
た﹁正観十四年﹂以下のこの記事が機械的に削除され︑前後の記述への配慮が欠けたために︑﹃遺教経﹄に関する
詔︑十月の杜順和上の遷化記事は前年︑つまり﹁正観十三年﹂の事跡に編入されることになり︑誤った記述となって
しまった︒このような事例は一カ所だけではない
瞎︒
また古代中国の史書では︑論讃によって︑記述された事柄に関する作者の考えや立場を表明する︒﹃仏祖統紀﹄も
その史体の伝統を踏襲し︑﹁述曰﹂として志磐のコメントをつけている︒ところが上の﹁正観十四年﹂の記述が削除
されたために︑以下に示す七四字の﹁述曰﹂も削られた︒
述曰︑漢明帝幸辟雍︑諸儒執経問難︑
!
紳之人︑"
宗増︑経講酒祭命橋監子国幸︑太者唐門而観聴以億万数計︒ キ変のトス﹃テ﹄紀統祖仏遷― 38 ―
学舎︑召名儒為学官︒四方来学︑升講筵者八千人︒大哉漢唐文治之盛︑唯二君有焉
瞋︒
この論讃は直接には唐の太宗の儒教興隆に関わるものではあるが︑僧侶の志磐が太宗をどのように見ていたか︑あ
るいは儒教をどのように考えていたか︑また南宋の志磐が漢と唐をどのように捉えていたかといった興味深い問への
答を含んでいる︒これを削った結果︑作者志磐の史観と直接結びつく記述を削除することになってしまった︒
以上のように︑仏教と関わりのない記述と論讃を機械的に削るのが一般であったが︑次の一例は例外的に複雑な削
除を行っている︒
大平真君元年︒寇謙之於嵩山立壇︑為帝祈福︒老君復降︑授帝以太平真君之号︒謙之以奏︑遂改元大赦
瞑︒
ここでの﹁述曰﹂は︑直接には上の記述につけられた形をとっており︑北魏の太武帝時代の仏難に関わる記述に対
する志磐の立場を明らかにしたものである︒道士寇謙之を利用して廃仏を画策した司徒崔浩とそれに乗った太武帝を
批判している︒
述曰︑子不語怪神︑言誠可以為教世之法也︒夫老子聖人也︒或在天為君主︒或分形下教︒随時闡化︒則有之矣︒
而寇謙之迺言︑於某処某処老君下降︒授帝以太平真君之号︒嘱以輔佐太平之
"
︒託崔浩以其書献︒誑惑当世之君︒何其怪哉︒厥後崔浩以釈教
!
誕之"
一︑弑被武太誅族浩崔而既︒也厄之勧運法其此︒禍之僧滅起遽︑上於不令而終︒君臣
#
遭冥罰︑寧不遺恨於謙之乎瞠︒
﹃仏祖統紀﹄の本文記述において祖本テキストと明南蔵以降のテキストの間に削減はないが︑上引の﹁述曰﹂には
手が入っている︒これは明南蔵の印刻の際に︑編集者が﹁述曰﹂を作者の意図を表すものと考えたことの反映であろ
う︒祖本テキストのそれは
― 39 ―
﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
述曰︑子不語怪神︑言非可以為教世之常法也︒然河図洛書︑天道所以下教於世者︑豈当以神怪非之乎︒是則老子
聖人︑或在天為君主︑或分形下教︒皆随時以闡化也︒当老子之下教寇君︑授之経法︑任以天師︑俾除削三張之
弊︒其言有足取也︒至嘱以輔佐太平之説︑故能造闕下︑以献其書︑崔浩引而進之︑太武信而納之︒未足為過也︒
一旦崔浩以悪釈之心︑勧其上︒於是遽起案誅沙門之禍︒酷哉此時︑其法運之一厄乎︒既而崔浩族誅︑太武被弑︑
不令之終︑足彰其罪︒及文成詔復仏法︑大建浮図︑一翕一張︑曾不足以累本常之道也︒世或以毀釈︑過謙之者︑
然謙之特受教於老君︑以告人主耳︒初未甞創毀釈之論︒毀釈自太武・崔浩起也︒夫法運之通塞数也︑人心之好悪
勢也︒勢与数合︑仏力不能移也︒故知太武崔浩之毀釈︑執与数合︑非謙之之過也︒煬帝師智者︑及智者亡︑弑父
窃位︑下罷僧毀寺之詔︑而卒沮於事︑豈智者教之耶︒衛元嵩教周武︑趙帰真教唐武︑此誠教之也︒君与臣
!
遭冥罰︑非不幸也
瞞︒
と︑字数にして二〇〇字多い︵前者が一四七字︑後者が三四七字︶︒しかも行われたのは単純な削減作業だけではな
い︒志磐の立場を表明する論讃をいじれば︑﹃仏祖統紀﹄そのものが歪められることになるのは当然である︒
これは北魏の太武帝の廃仏に関する意見であるが︑祖本テキストと削られ変更を加えられた明南蔵以降のテキスト
を比較検討すると︑道士寇謙之へのスタンスの違いが際だっている︒祖本では廃仏の首謀者は太武帝と崔浩であり︑
寇謙之は太上老君のメッセンジャーと考えられており︑彼のとった行動に対しては評価を差し挟んでいない︒明南蔵
以降のテキストでは︑寇謙之の果たした役割が大きくなっている︒廃仏の首謀者はやはり太武帝と崔浩であるが︑彼
ら両人が寇謙之の言に耳をかしたことによって引き起こされたと考えているのである︒﹁述曰﹂の最後に﹁君臣︵太
武帝と崔浩︶ともども天罰に遭遇した︒寇謙之を恨まないことがあろうか﹂と述べていることから分かろう︒ ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
― 40 ―
このような寇謙之に対する評価の違いは︑﹁述曰﹂の冒頭の﹃論語﹄からの引用︑﹁孔子は﹁怪﹂や﹁神﹂について
は口にしなかった﹂の扱いにすでに示される︒明南蔵以降のテキストでは︑孔子のこの態度は世人を導く際の手本と
することができると述べる︒太上老君が寇謙之に降した経戒︑太平素経図
!
こ言の子孔がそ葉や言なまざまさう﹁怪﹂や﹁神﹂に他ならず︑意味のない出鱈目なものであって︑それを世俗の君主や臣下に伝えることは間違いであ
る︒寇謙之は伝令となった時点ですでに責任を問われるという論法には︑太上老君つまり老子︑さらには道教︑道士
への憎悪さえ感じられる︒
一方︑祖本テキストでも同じように﹃論語﹄を引用しているが︑それを引き取って︑﹁これは﹁怪﹂や﹁神﹂が世
間を教化する恒常的な手段とはなりえないことを言っているのである﹂とつなぎながらも︑﹁怪﹂﹁神﹂の例外的な意
味を認める方向に向かう︒﹃易﹄
閘見之に則る﹂とえ人る例を示し︑﹁は聖辞出伝に﹁河は図をし︑︑洛は書を出し河
図洛書﹂は天の意志を示す存在ではないか︑それなら太上老君が寇謙之に降した文書や言葉も同じように意味あるも
のと言えると主張する︒しかもそれを伝えた寇謙之は︑太上老君の伝令の立場を一歩も出ておらず︑彼には廃仏を起
こした責任はないと弁護する︒その中で志磐は﹁法運通塞志﹂を設けた原点とも重なるように
⁝⁝仏教はある時は縮小することになり︑ある時は拡大することになったわけで︑決して仏教本来の教えに災い
が及ぶまでには到らなかった︒⁝⁝寇謙之は太上老君の教示を受けて︑天子に報告しただけである︒仏教を滅ぼ
そうとの意見を始めたわけでは決してない︒廃仏は太武帝と崔浩から始まったのである︒そもそも仏教の命運が
広がり塞がるのは命数によるのである︒人々の心が共感を覚え反感を懐くのは趨勢によるものである︒命数と趨
勢とが重なれば︑偉大な仏教の力でも︑それらを動かすことはできない︒
― 41 ―
﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
と述べる︒これは上で見た﹁通例﹂の﹁釈志﹂に
長い歳月が経過してみると︑ある時代には興隆しある時代には廃絶した︒思うにこれは世間に起こる事象が移ろ
い変化するからであって︑仏教の教えそのものには加も減もない︒歴史の流れを考え具体的な事跡を並べ︑それ
によって仏法の広がる時と塞がる時の事相を明らかにするとしよう︒儒教や道教といった世俗の教えなどは︑時
勢とともに浮き沈みするものであるが︑それらの事跡もことごとく明らかな訓戒となすべきものである︒︵この
ような立場から︶法運通塞志十五巻を作る︒
とあるのと同じ事を︑言い換えて述べているのである︒
志磐の思想の原点が展開されている﹁述曰﹂の趣旨を変更してしまったこの例は︑仏教と関わらない記述を一掃し
た︑先の機械的な削除の立場と同じものであろうか︒作為の大きさには︑随分違いがあるようにも思えるが︑志磐の
オリジナルテキストを改変した点では変わりはない︒どちらも﹃仏祖統紀﹄の正しい理解を阻むものである︒
おわりに
北宋の徽宗の政和年間︵一一一一︱一一一八︶に︑天台僧の元穎が天台を中心に据えた仏教史書をめざしてから︑一
世紀余の間に数人の作者がこれを引き継ぎ︑一二三七年に︑まず宗鑑の撰述した﹃釈門正統﹄として結実する︒これ
より以前︑中国の仏教史書は律僧の手になる高僧伝や禅僧の手になる灯史の形があるのみで︑中国の仏教史を通史の
形で書き上げたのは︑この天台僧︑宗鑑が初めてであった︒これが完成した背景の一つとして北宋における史学の興 ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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隆︑とくに司馬光の﹃資治通鑑﹄の成立が挙げられる︒これを意識して︑その史体である編年体を自らの仏教史書に
採用したのは︑宗鑑の後三〇年余を経て﹃仏祖統紀﹄を完成させた志磐である︒
志磐は﹁仏祖統紀序﹂で﹁紀・伝・世家は太史公司馬遷の発明した紀伝体史書に範を取り︑法運通塞志は司馬光
﹃資治通鑑﹄の編年体の史体を採用する﹂と述べる︒宗鑑の﹃釈門正統﹄は天台宗の立場から紀伝体によって仏教史
を書き上げたもので︑いわゆる天台宗史の段階に止まるものである︒﹃仏祖統紀﹄も紀伝体で書かれた部分は︑﹃釈門
正統﹄のもつ宗門史の側面を具えており︑例えば︑天台宗内の山家と山外の宗派間の争いは重く記述され︑天台以外
の宗派に割く紙数は︑天台と関わりの深い浄土宗を除くと︑ごく僅かで︑禅も律も華厳も慈恩も密教も︑まとめて
﹁諸宗立教志﹂一巻に納められ簡単に述べられる︒そこにも当然に天台の立場が貫かれている︒禅宗志の序文では
禅宗の掲げる﹁直指人心︑見性成仏﹂の主張は完全なもので︑これは我が天台宗の掲げる﹁観心﹂のすばらしい
教えそのものである︒禅宗は﹁教外別伝﹂を説くが︑いったい﹁教﹂をはずして教えとできようか︒実に仏教の
教えは︑心を中心に置き︑言葉の作り出す世界から離れているから︑それをあえて方便としてこのように言うだ
けである︒そうでないならどうして禅宗は﹃楞伽経﹄を指し示し︑その﹁教﹂を見ることによって心を掴ませよ
うとするのであろうか︒どうして禅宗は︑大乗の教えは﹁教﹂を手段として利用し︑本源を悟るものであると主
張するのだろうか
瞰︒
と述べ︑﹁教外別伝﹂を批判するのも︑天台の﹁教観﹂に立っている︒特に禅宗は宋代には天台の仇敵でもあり︑釈
迦から達磨への法系については︑天台の諸師たちの唱える異議によって︑しばしば論争が起った︒これについては︑
志磐も紀伝の部分で触れ︑天台の諸師の主張に沿って論述している︒ところが︑﹁法運通塞志﹂では禅宗の記述をは
― 43 ―
﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
じめ概ねどの宗派に対しても公平な叙述と評価を与えている
瞶︒
﹁法運通塞志﹂では︑宗門の立場を離れて︑他宗派を含む仏教ばかりでなく儒教︑道教の三教の浮沈を時間の流れ
の下に客観的に明らかにしようとし︑編年体の史体が用いられているのである︒その意味で﹁法運通塞志﹂十五巻
は︑宗門を超えた宗教史︑つまり世界宗教史の視点をねらったものとも言える︒従って﹃仏祖統紀﹄は紀伝体の四〇
巻を天台宗門史︑編年体十五巻を世界宗教史に当てた二本立ての史書なのである︒この最初の志磐の意図を無視し
て︑上で例示したような仏教と関わりのない記述を削除したり︑論讃を改変したりすることは︑﹃仏祖統紀﹄を正し
く読み解く道を閉ざすものと言えよう︒
先述したように︑祖本から﹃大正蔵﹄までのテキストを概観すれば︑改変や削除は﹃仏祖統紀﹄が明南蔵に収めら
れた際に起こったものと考えられるが︑洪武南蔵と相前後して編まれた﹃永楽大典﹄所収の﹁法運通塞志﹂の一部テ
キストも最近影印されて出版されている︒これをも含めた綿密なテキスト・クリティークが必要なことは言うまでも
ない︒またテキストの削除と改変は︑志磐の作史の意図を理解できない仏教側︑おそらくは天台僧によるものであろ
うが︑その確たる答を得るには︑テキスト・クリティークと同時に︑明初の仏教界︑それを取り巻く政治︑社会︑儒
教︑道教等々といった側面からの追究が必要なことも言を待たない︒
注盧
﹃三康文化研究所年報﹄三一号︑二〇〇〇︒後に﹃中国仏教思想史の研究﹄二〇〇二︑山喜房仏書林︒
盪
その他には︑﹃仏祖統紀﹄法運通塞志の一部を取り出した﹃法運通塞志﹄︵一九三六︑支那内学院︶や﹃法運志略﹄︵一九七
八︑新文豊出版公司︶がある︒ ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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蘯
筆者は小論﹁﹃仏祖統紀﹄の作者︑志磐の考え﹂︵﹃歴史文化社会論講座紀要﹄第二号︑二〇〇五︑京都大学大学院人間・環
境学研究科︶で︑北京図書館所蔵のこの﹃仏祖統紀﹄テキストについてその存在と意義にふれており︑幾分重なる点のある
ことをお断りしておく︒
盻
最近の研究では︑必ずしもそう断定はできないようである︒椎名宏雄﹃宋元版禅籍の研究﹄︵一九九三︑大東出版社︶三四
四頁以下参照︒
眈
李富華・何梅撰︑﹃漢文仏教大蔵経研究﹄︵二〇〇三︑宗教文化出版社︶︑第十章関于︽嘉興蔵︾的研究︑第三節方冊
︽嘉興蔵︾的内容及其学術価値︑五〇〇頁参照︒
眇よ団︶﹁五六﹂︵五一頁おび興一一〇︱一一一頁︶参照財振﹃︵新修恭仁山荘善本書影﹄一学九八五︑財団法人武田科︒ 眄
中華書局︑一九八三︑八八九頁︒注
蘯に掲げる拙稿︑一〇頁︒ 眩
訓読すれば︑﹁之を目して仏祖統紀と曰い︑凡そ之れ五十四巻為り︒紀伝世家は太史公に法り︑通塞志は司馬公に法る﹂︒
眤
訓読すれば︑﹁之を目して仏祖統紀と曰い︑凡そ之れ類を為すこと四十巻なり︒紀伝世家は太史公に法り︑通塞志は司馬公
に法る﹂︒
眞
筆者は︑二〇〇五年に北京にある中国国家図書館︵旧の北京図書館︶で原本を閲覧し︑枠外の字や書き込み等は影印する際
に省かれていることが分かった︒一例を挙げれば︑﹁歴代会要志﹂巻二︑﹁国朝典故﹂の項の一行と二行目の上部枠外に右か
ら左に﹁聖節﹂二字︵影印本︑三〇二頁下段左︶がある︒諸本からはこの二文字は消え︑いま﹃続蔵本﹄のみに残るが︑そ
の二字は枠内に収まっている︒
眥
現代語訳すれば︑﹁仏祖統紀四十五巻︒宋の景定の年︵一二六〇︱一二六四︶に僧の志磐が撰述した︒いま管蔵経僧の宝成
が︑縁者を募って刊行したもの﹂︒
眦 原文は﹁元和中日本空海入中国︑従︵恵︶果学︒帰国盛行其道﹂︵T49,296a︶︒ 眛
平田俊春﹃神皇正統記の基礎的研究﹄本論︑第四篇﹁正統論の基礎としての仏祖統記﹂︵一九七九︑雄山閣出版︑五二四︱
六三八頁︶参照︒
眷 原文は﹁其事蹟︑如千里別伝・静法纂霊記・宋高僧伝五・仏祖統紀三十等載﹂︵T73,629a︶︒ 眸
一九九二年三月に江蘇広陵古籍刻印社から出版された︒
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
睇
椎名氏によれば︑﹁明本﹂は嘉興蔵を指すが例外もあるようである︒上掲書︑三八四頁参照︒
睚
以上は︑佐藤︑上掲論文︑二頁︒
睨
沈曽植の鑑定によるほか︑例えば︑祖本テキストには各巻末の書名の下︑あるいは各葉の版心の下に︑一巻ごとに刻工の名
前が刻まれている︒そこには徐聞︑四明徐泳︑奉川王
!臨︑竜夢茅邑姚︑信章︑震章︑章︑川奉︑圭馬宏王︑文王︑聞王胡
昶らの名が見える︒阿部隆一﹁宋元版刻工名表﹂︵﹃阿部隆一遺稿集﹄第一巻宋元版篇﹇汲古書院︑一九九三﹈所収︶︑王
肇文﹃古籍宋元刊工姓名索引﹄︵上海古籍出版社出版︑一九九〇︶及び張振鐸﹃古籍刻工名録﹄︵上海書店出版社︑一九九
六︶の諸研究によれば︑上記の刻工の多くは宋もしくは元代の浙中出身者として登場する︒彼らが活躍する時代は︑咸淳辛
未端午日の志磐の刊版後記︵一二七一︶の日時とも重なる︒このことからも︑﹃四庫全書存目叢書﹄所収の北京図書館所蔵
テキストは﹃仏祖統紀﹄祖本テキストと考えて間違いなかろう︒
睫
原文と訓読は﹁志磐手抱遺編︑久従師学︒毎念仏祖伝授之迹︑不有紀述︑後将何聞︒惟昔良渚之著正統︑雖粗立体法︑而義
乖文
"二則挙皆此失︒於是並取家者︑且刪且補︑依放史法︑︑収︒伝鏡菴之撰宗源︑但列文︑不而辞陋事疏︒至於遺逸而用
成一家之書︒断自釈迦大聖︑訖於法智︑一仏二十九祖︑並称本紀︑所以明化事而繋道統也︒至若諸祖旁出為世家︑広智以下
為列伝︒名言懿行︑皆入此宗︒而表志之述︑非一門義︒具在通例︑可以類知︒既又用編年法︑起周昭王︑至我本朝︑別為法
運通塞志︒儒釈道之立法︑禅教律之開宗︑統而会之︑莫不畢録︒目之曰仏祖統紀︑凡之為五十四巻︒紀伝世家︑法太史公︒
通塞志︑法司馬公︵志磐︑手に遺編を抱き︑久しく師に従いて学ぶ︒毎に念う︑仏祖伝授の迹︑紀述有らざれば︑後に将に
ほ何をか聞かんと︒惟うに昔︑良渚﹇宗鑑﹈の正統を著わすや︑粗ぼ体法を立つると雖も︑而るに義乖り文
"たり︒鏡菴﹇景
遷﹈の宗源﹇録﹈を撰するや︑但だ文伝を列するのみにして︑而して辞は陋︑事は疏なり︒遺逸して収めざる者に至りて
は︑則ち挙って皆な此に失す︒是に於いて並びに二家に取り︑且つ刪り且つ補い︑史法に依放し︑用て一家の書を成せり︒
断ずるに釈迦大聖自り法智︵=四明知礼︶に訖ぶ︑一仏二十九祖は並びに本紀と称し︑化事を明らかにして道統を繋ぐ所以
なり︒諸祖旁出の若きに至りては世家と為し︑﹇尚賢﹈広智以下を列伝と為す︒名言懿行︑皆な此の宗に入る︒而るに表志
の述︑一門の義に非ず︒具さに通例に在りて︑類を以て知る可し︒既に又︑編年の法を用い︑周昭王に起こし︑我が本朝に
至る︑別して法運通塞志と為す︒儒釈道の立法︑禅教律の開宗︑統べて之を会し︑畢く録さざる莫し︒之を目して仏祖統紀
と曰い︑凡そ之れ五十四巻為り︒紀伝世家は太史公に法り︑通塞志は司馬公に法る︶﹂︵T49,129c6−20︶︒ ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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睛
原文と訓読は﹁大法東流︑聖賢継世︑所以住持三宝︑不令断絶︒然歴年既久︑或興或廃︑此蓋世事無常之変︑於此道何成何
虧邪︒考古及今具列行事︑用見法運通塞之相︒至若儒宗道流世間之教︑雖随時而抑揚︑而其事迹︑莫不昭然可訓可戒︒作法
運通塞志十五巻﹂︵大法東流し︑聖賢︑世に継ぐは︑三宝を住持し︑断絶せ令めざる所以なり︒然るに歴年既に久しく︑或
いは興り︑或いは廃るは︑此れ蓋し世事無常の変にして︑此の道に於いて何の成るか何の虧くるか︒古え及び今を考え︑具
さに行事を列し︑用て法運通塞の相を見んとす︒儒宗・道流の世間の教えの若きに至りては︑時に随いて抑揚すと雖も︑其
の事迹︑昭然として訓う可く戒む可きにあらざる莫し︒法運通塞志十五巻を作る︶︵T49,130c11−16︶︒ 睥
原文と訓読は﹁序曰︑仏之道本常︑而未始離乎世相推遷之際︒自釈迦鶴林︑諸祖継出︑所以伝持此道︑東流震旦︑逮于今而
不息︒大較聖主賢臣︑宿稟仏嘱︑常為尊事︒而儒宗道流之信不具者︑時有排毀︒然終莫能為之泯没︑以此道本常也︒夫世称
三教︑謂皆足以教世︒而皆有通塞︑亦時使之然耳︒列三教之迹︑究一理之帰︑
閘︵の仏︑く曰に序相以之塞通観用︑年編道
は本と常にして而るに未だ始めより世相推遷の際を離れず︒釈迦の鶴林自り︑諸祖継いで出づるは︑此の道を伝持し︑東し
て震旦に流れ︑今に逮びて息まざる所以なり︒大較︑聖主・賢臣は宿に仏嘱を禀け︑常に尊事を為す︒而るに儒宗・道流の
信︑具わざる者は︑時に排毀すること有り︒然るに終に能く之が為に泯没する莫きは︑此の道︑本と常なるを以てなり︒夫
れ世は三教を称し︑皆な以て世を教うるに足ると謂うも︑皆な通塞有るは︑亦た時︑之を然ら使むる耳︒三教の迹を列し︑
一理の帰を究め︑繋ぐに編年を以てし︑用て通塞の相を観ん︶﹂︵T49,325a7−14︶︒ 睿らか明南蔵に収めれなる際に加わったぜ︑﹁ら武徳三年﹂も削れがるべきであった︒ 睾
訓読すれば﹁﹇正観﹈十四年︒上は国子監に幸し︑釈奠を観︑祭酒孔頴達︵孔子の後︶に命じて孝経を講ぜしめ︑大いに名
儒を徴し︑学官と為す︒学生の能く一経に明らかなる者︑皆な補授を得る︒学舎を増築すること千二百間︑学生は三千二百
六十員に至る︒屯営飛騎自り亦た博士を給し︑授くるに経を以てせ使む︒是に於いて四方の学者︑高麗・吐蕃は︑皆な子弟
を遣わし入学せしむ︒講筵に升る者は八千人なり︒上は師説の多門を以て︑孔頴達に命じて︑五経の疏を撰定せしめ︑学者
をして焉を習わ令む︒﹂
睹
祖本テキストを明南蔵に収める際︑倉卒かつ機械的に行われたことを示す例として︑天台祖師︑智
!の兄の陳鍼に関わる記
述を挙げることが出来る︒陳鉞は﹃仏祖統紀﹄巻九﹁智者旁出世家﹂に﹁陳鍼︒智者之兄︑為梁晋安王中兵参軍︒年四十︑
仙人張果相之曰︑死在朞月︒師令行方等懺︒鍼見天堂門牌曰︑陳鍼之堂︑後十五年︑当生於此︒果後見鍼︑驚問曰︑君服何
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
薬︒答曰︑但修懺耳︒果曰︑若非道力︑安能超死︒竟延十五年而終︒智者嘗為其撰小止観︑咨受修習︑夙夜不怠︵陳鍼︒智
者の兄にして︑梁の晋安王中兵参軍為り︒年四十︑仙人の張果︑之を相して曰く︑死は朞月に在りと︒師は方等懺を行ぜ令
む︒鍼は天堂の門牌を見て曰く︑陳鍼の堂なり︑後十五年︑当に此に生まるべしと︒果は後に鍼を見て︑驚きて問いて曰
く︑君は何の薬を服するやと︒答えて曰く︑但だ懺を修むる耳︒果曰く︑若し道力に非ずんば︑安んぞ能く死を超えんと︒
竟に十五年を延べて終る︒智者は嘗つて其の為に小止観を撰し︑咨受修習し︑夙夜怠らず︶﹂﹇T49,200a21−28﹈︑また巻三
八︑法運通塞志に﹁︵太建︶十年︒師為兄陳鍼述小止観︑咨受修習︒初仙人張果相之曰︑死在朞月︒師乃令行方等懺︒鍼見
天堂門牌曰︑陳鍼之堂︒果後見鍼︑驚問︑君服何神薬︒答曰︑但修懺耳︒果曰︑若非道力︑安能超死︒竟延十五年而終
︵︵太建︶十年︒師は兄の陳鍼の為に小止観を述べ︑咨受修習す︒初め仙人の張果︑之を相して曰く︑死は朞月に在りと︒師
は乃ち方等懺を行ぜ令む︒鍼は天堂の門牌を見て曰く︑陳鍼の堂なりと︒果は後に鍼を見て︑驚きて問う︑君は何の神薬を
服するやと︒答えて曰く︑但だ懺を修むる耳︒果曰く︑若し道力に非ずんば安んぞ能く死を超えんと︒竟に十五年を延べて
終る︶﹂﹇T49,353a27−b3﹈と記載している︒
しかし以下のように同内容の巻四〇︑法運通塞志の方士﹁張果﹂に付随した記事の場合︑道教関係と見なされ中身を検討
されることなく削られている︒︵︵開元二十一年︶上遣中書侍郎徐
"︒人知︑術算善璞和刑時見︑入︑果張士方召︑書璽齎寿
夭︒算果莫能測︒師夜光者善視鬼︒上与果密坐︒夜光不能見︒上聞飲
#子︑巵三之与︒︶也毒附汁︑謹音︵士奇真者苦無醺
然如酔︒顧左右曰︑非嘉酒也︒取鉄如意︑
!堕其歯︑皆
$黒︒出神薬︑傅其
&︒下︒山還辞懇後故寝如然粲歯︑之頃︒制
曰︑張果先生︑志造高尚︑迹混光塵︒問以道枢︑深会宗極︒宜升銀青光禄大夫︑号通玄先生︒後入恒山︑不知所終︵果在梁
陳時︑相智者兄陳鍼者︶﹇T49,377b3−13﹈︵︵開元二十一年︶上︑中書侍郎の徐
"し召を果張の士方齎をを書璽︑しわ遣き
入見せしむ︒時に刑和璞︑算術を善くし︑人の寿夭を知る︒果を算するに能く測る莫し︒師夜光なる者︑善く鬼を視る︒
上︑果と密坐するも︑夜光︑見る能わず︒上聞く︑
%り︒︶りな毒子附︑謹は音︵とな汁士奇の真は者き無き苦︑み飲を之
に三巵を与うるに︑醺然として酔えるが如し︒左右を顧みて曰く︑嘉酒に非ざるなりと︒鉄如意を取りて其の歯を
!堕すれ
ば︑皆な
$黒なり︒神薬を出し︑其の
&ろ如し︒後︑懇に故辞して山に還るのてにを傅して寝ぬ︒之頃しして歯︑粲然と︒
制を下して曰く︑張果先生︑志は高尚に造り︑迹は光塵に混る︒問うに道枢を以てすれば︑深く宗極を会す︒宜しく銀青光
禄大夫に升せ︑通玄先生と号すべしと︒後︑恒山に入り︑終る所を知らざるなり︵果︑梁陳の時に在り︒智者の兄の陳鍼を ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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相う者なり︶︶︒ 瞎
例外もある︒例えば巻三五︑法運通塞志第十七之二は西漢︑つまり前漢の高祖から︑恵帝︑文帝︑武帝の記事は︑祖本では
あったが明南蔵以降のテキストでは省かれて︑武帝﹁元光二年﹂の記事から始まる︒しかし﹁武帝﹂の下に割注として﹁高
祖︑命を受けし自り此に至り四世為り︵自高祖受命至此為四世︶﹂︵T49,328c27︶が付けられている︒ 瞋
訓読は﹁述に曰く︑漢の明帝は辟雍に幸し︑諸儒は経を執りて問難し︑
#紳の人︑橋門を
$りて観聴する者は億万を以て計
る︒唐の太宗︑国子監に幸し︑祭酒に命じて経を講ぜしめ︑学舎を増し︑名儒を召き︑学官と為す︒四方より来学し︑講筵
に升る者は八千人なり︒大なる哉︑漢唐の文治の盛んなること︑唯だ二君︑有り﹂︵T49,371a14−19︶︒ 瞑
現代語に訳せば︑﹁大平真君元年︵四四〇︶︒寇謙之は嵩山に道壇を立て︑帝のために平穏を祈った︒太上老君は再び降臨
し︑帝に太平真君の称号を授けた︒寇謙之は上奏し︑そこで︵大平真君と︶改元し︑大赦の令を出した﹂︒
瞠
訓読と現代語訳は﹁述に曰く︑子は怪神を語らずと︒言は誠に以て教世の法と為す可し︒夫れ老子は聖人にして︑或は天に
在りて君主と為り︑或は形を分け下りて教え︑時に随いて闡化するは︑則ち之れ有る︒而るに寇謙之︑迺ち言う︑某処某処
に於いて老君下降し︑帝に授くるに太平真君の号を以てし︑嘱するに太平を輔佐するの説を以てす︒崔浩に託するに其の書
を以て献じ︑当世の君を誑惑するは︑何ぞ其れ怪しいかな︒厥の後︑崔浩は釈教
!勧を僧にか遽てめに誕上︑て以を説の滅
すの禍を起こす︒此れ其の法運の一厄なり︒既而にして崔浩︑族誅され︑太武檻せられ︑不令にして終る︒君臣︑
"に冥罰
に遭い︑寧んぞ恨を謙之に遺さざらんや﹂︵述に言う︒孔子は﹁怪﹂とか﹁神﹂とかについては口にしなかった︒この言葉
は本当に世間の人々を教育する手本にできる︒いったい老子は聖人であり︑ある時は︑天にいて君主であり︵太上老君︶︑
ある時は︑姿を変えて教えを授け︑時々に教化することがある︒ところが寇謙之は︑次のように言う︒﹁どこそこ︑どこそ
こに太上老君が降臨し︑皇帝に太平真君の称号を授け︑彼に大平真君を輔佐するようにと委嘱した﹂︒そして老子から授か
った書物を崔浩に委託して献上し︑当世の君主を惑わせることは︑なんと怪しい行為ではないか︒その後︑崔浩は仏教はで
たらめな教えであると言って︑天子を誘い突然に廃仏の災禍を引き起こした︒これは仏法の命運の一つの災厄である︒崔浩
の一族は誅殺され︑太武帝は殺されたので︑廃仏の命令は実行されずに終わってしまった︒君臣ともども天罰に遭遇した︒
寇謙之を恨まないことがあろうか︶︵巻三八︑T49,354b11−20︶︒ 瞞
訓読と現代語訳は︑﹁述に曰く︑子は怪神を語らずと︒言は以て教世の常法と為す可きに非ず︒然るに河図洛書は天道の教
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﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
を世に下す所以の者にして︑豈に当に神怪を以て之を非るべけんや︒是れ則ち老子は聖人にして︑或いは天に在りて君主と
為り︑或いは形を分けて教を下す︒皆な時に随い以て化を闡くなり︒老子の下りて寇君を教うるに当り︑之に経法を授け︑
任ずるに天師を以てし︑三張の弊を除削せ俾む︒其の言︑取るに足る有り︒嘱するに太平を輔佐するの説を以てするに至
り︑故に能く闕下に造り︑以て其の書を献ず︒崔浩︑引きて之を進め︑太武︑信じて之を納る︒未だ過と為すに足らざるな
り︒一旦︑崔浩︑釈を悪むの心を以て其の上に勧む︒是に於いて遽かに沙門を案誅するの禍を起こす︒酷なるかな︑此の
時︑其れ法運の一厄か︒既而にして崔浩︑族誅せられ︑太武︑弑せられ︑令せずして之れ終り︑其の罪を彰わすに足れり︒
文成︑詔して仏法を復し︑大いに浮図を建つるに及び︑一翕一張し︑曾つて以て本常の道を累するに足らざるなり︒世︑或
いは釈を毀つを以て︑謙之を過む者あり︒然るに謙之は特だ教を老君に受け︑以て人主に告ぐ耳︒初より未だ甞つて釈を毀
つの論を創めず︒釈を毀つは太武・崔浩自り起こるなり︒夫れ法運の通塞は数なり︒人心の好悪は勢なり︒勢と数と合すれ
ば︑仏力も移す能わざるなり︒故に知る︑太武・崔浩の釈を毀つは︑執︵=勢︶と数と合するにして︑謙之の過に非ざるこ
とを︒煬帝は智者を師とし︑智者の亡ずるに及び︑父を弑し位を窃み︑僧を罷め寺を毀つの詔を下し︑卒に事を沮む︒豈に
智者︑之を教えんや︒衛元嵩︑周武を教え︑趙帰真︑唐武を教う︒此れ誠に之を教うるなり︒君と臣と
"に冥罰に遭うは︑
不幸に非ずや︒﹂︵述に言う︒孔子は﹁怪﹂とか﹁神﹂とかについては口にしなかった︒これは︑﹁怪﹂や﹁神﹂が世間を教
化する恒常的な手段にはなりえないことを言っているのである︒しかしながら河図洛書は天の道を世間に降し伝えるもので
あるから︑それが神怪だといって非難すべきではなかろう︒いったい老子というものは聖人であって︑ある時には天にいて
君主であり︵太上老君︶︑ある時は姿を変えて教えを授ける︒すべてその時代に従って教化を広めるのである︒老子が地上
に降って︑寇謙之を教え導いた際には︑彼に経戒の法を授けて︑天師の位に任命し︑三張道教の弊害を除かせるようにさせ
た︒老子の伝えた言葉は︑無視できないものがある︒老子は寇謙之に北方太平真君である太武帝を輔佐するようにと遺嘱し
たので︑彼は宮殿まで出かけて授けられた﹁太平素経図
!引そ︑し薦推に子天てれ入きを﹂之謙寇︑は浩崔︒たし上献をこ
で太武帝は信用して受け入れることになった︒寇謙之の過失とはいえない︒ある日︑突然に崔浩は仏教を嫌悪する意図をも
って天子に働きかけた︒そこでにわかに僧侶を取り調べて誅殺する災禍が引き起こされた︒なんと無慈悲なことか︑この時
は仏法の受けた一法難というものであろう︒崔浩の一族が誅滅され︑太武帝が弑されてしまい︑廃仏の法令は実行されずに
結末を告げた︒これは彼らの犯した罪を明らかにするに十分であった︒︵続いて即位した︶文成皇帝が︑詔を降して仏教を ﹃仏祖統紀﹄テキストの変遷
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