苦悶する近代社会
−問題の原理的遡及と克服−
池谷 尚祐
序
現在、我々の社会において、過去に前例が見られぬほどに深刻な問題群がひしめいてい る。そのことは心ある者にとっては、火を見るよりも明らかであろう。それら問題群の一 つ一つを、細かに並べたて例示することが、逆に白々しく感じられるほど事態は悲惨であ る。規模で言えば地球環境問題、切実さを見るならば貧困問題、異様さからすれば広がる 精神病理や重ねられる自殺。ある時代に一つでもあれば、それだけでトピックたりうるよ
うな問題が、一挙に我々の「近代社会」を襲っているのである。
これまでに演じられてきた繁栄は、我々に多くの恩恵をもたらした。我々の社会は今ま でどおりに行為している。にも関わらず、今を見るこの目につくのは、ほとんどが苦悩で あり、惨劇である。そのことが意味するのは、繁栄を謳歌してきた我々の時代的価値その ものに、全ての苦悩の種があるということに他ならない。我々はその時代的価値の本質を 見極め、乗り越えていかなければならない。
ここに価値といわれるものは、人間個人の内においてあるだけのものではない。人は自 らの価値に従い行為し、製作する。すなわち、経済的生産物も、社会的制度も、学問的知 識でさえ、その価値の現実態であるといわなければならない。我々を喜ばせ、悩ませてい る事物そのものが、我々の価値であり、心なのである1)。
 ̄ ̄それゆえに本論文では、そのような価値というものを視座におき、問題の有様を見定 め、その起源と本質に遡及し、克服の糸口を模索することに、その主旨をおくものであ る2)。
1.問題の有様
現実に扱わなければならない問題は山ほどある。しかし、それらの本質を掴み、原理的 なレベルでの解決を模索するためには、それら問題群を一定のモデルとして表現しなけれ
2
ばならない3)。従って本章において、序で断ったように「価値」というものに主眼をおい て、問題の有様をみていく。
具体的には、(1)において近代社会を支配した経済合理主義的価値の機能不全を、(2)
においては、その経済合理主義的価値への拒絶反応の現われとしての「価値相対主義」と
「文化相対主義」と、二つの内容にわけて見ることにする。
(1)近代的価値の機能不全
本節で語られるのは、近代的価値すなわち経済合理主義の機能不全についてである。ど ういうことかというと、近代はゾンバルトも言うように「経済時代」であり、経済的発展 を追求してきたが、その結果、求めたはずのものが手に入らない、さらには逆に非合理性 すら現れてきた、ということである。つまり、これまでの価値がもはや支配権をもちえな いこと_を示す。
そのことは、具体的にはどのような事象として現実化しているか。
経済社会そのものについてみてみよう。経済活動が求めるものは、人間の生存にまつわ るあれこれの財貨を生産し、消費するところの行為である。そしてさらには、その財貨と 交換される貨幣がその対象に付け加えられる。すなわち、経済時代たる近代は、生産活動 と資本の蓄積を通して、生存あるいは自己保存のための諸物を拡大することを求めたので ある。そして実際に、近代社会は大量生産や資本の拡大再生産、イノベーションにつぐイ ノベーションと、生存の便利化、効率化を達成してきた。モノを多くつくればそれだけ、
多くの幸福が訪れる。
しかし時の流れがその必然を変容させた。近代人の悟性が排除してきた要素が、経済の 論理と絡み合うことで、予想だにしなかった事態として現出したのである。公害や環境汚 染により、人々の生活は快適とは逆の環境におちた。資源の枯渇が、今ある幸福の未来へ の約束を消し去った。過当競争は人間をその良き生から追いやり、逃れられぬ過剰労働や 失業を強いる。そして地球環境問題が、人類の生存を根本的に否定するものとして、経済 時代たる近代の意志とは莫逆の結末を引き寄せている4)。
別の観点から見るなら、南北間題といっ ̄たよう ̄に、持てるものと持たざるものの格差が ますます激烈となっている。それは一国内においても同じであり、特に日本やアメリカ、
中国といった、近代的という形容が似ついてしまう国家において顕著である。近代的・経 済的繁栄と幸福は、享受者を選ぶというのである。そこにおいて近代の価値は死んでい
る。
以上のように、従来の近代的価値に基づく行為を続けるならば、求めるものとは反対の 悲劇的結末をもたらすことは必至である。
(2) 二つの相対主義
前節で見たのは、近代の推進力が、逆の結末を用意しているということであった。しか し、近代の過程の中で、いわば被害者となった人々がおり、そちらも見なければならな い。それは価値相対主義と文化相対主義として語られる5)。
第一に価値相対主義について見ていく6)。近代法には一般に「思想・信条の自由」とい うものが明示されている。確かにそれは人の望むものであり、今でもそれは変わらない。
しかし価値相対主義の立場は、改めてそのことを要求している。そのことは、実際には価 値の自由は達成されてなどいないということを示している。
序でも述べたように、価値とはそれを地盤に行為や製作を導く。つまり、価値(思想・
信条)の自由とは、ただ内心において許されただけでは不充分なのである。自由に抱いた 価値に基づいて活動することが許されてはじめて、価値の自由は達成されたといえる7)。
−しかして近代社会はそこまでのことを認めてはいない。近代社会は、内心はどうであれ 経済合理的に行為することを翠いる。それでも現在に近づくまではそれが問題とはならな かった。なぜであろうか。その理由は、結局のところ近代人が自由の旗のもとに、等しく 近代的価値を求めたからである。
だが事情は変わった。前節において述べた類の事柄が、人をして近代的価値を拒否せし めている。我々は鉄の檻にいれられたエコノミック・アニマルでいることを拒絶する。そ れでも社会は経済合理的に行為することを求め、そうせずには生きることができない。こ こにはじめて価値相対主義の要請がでてくるのである。そしてまた、経済至上主義を斥け ても、それにかわる価値原理が存在しない。すなわちニヒリズムという側面を、近代社会 の病理はもっている。そのために、人々はうつ病に悩まされ、家庭内暴力やいじめ、凶悪 犯罪、自殺へと駆り立てられる。ぼんやりとした不安が人々の心を満たしていく。
第二に文化相対主義である。第一の相対主義が主に先進国におけるものであるのにたい し、こちらは主に後進国において見られるものである。
経済合理主義は、その貫徹のた捌こいわゆる「グローバリズム」という現象を引き起こ している。経済的価値を欲するもの、および経済的有益性を秘めた地域に住む者たちにた いして近代化を迫るのがその内容である。だが近代化はその代価として「風土」や「共同 体」、「文化」というものを犠牲にしなければならない。近代化した社会では均質的な財貨 に囲まれ、均質的な行為をなし、時おり均質的な半文化をたしなむ。しかしそれが幸福な ことではないことを、19世紀のドイツが英国や仏国を見て資本主義の矛盾を知ったよう に、現在の後進諸国の人々は知っている。それゆえに文化相対主義者は、自らの文化や風 土を、グローバリズムの波から守ろうと必死になっているのである。だが、国際社会の全 体が近代化の方向へ進む中、自分だけがそこからはみだすことは、恵まれた地理環境がな い限り、自己の存続が維持できなくなる。そこに激しい摩擦を引き起こすのであり、これ
4
が文化相対主義の要請を生むのである。
このように、先進国と後進国の両方において−この分け方自体が近代的であるが−
近代的価値への抵抗としての相対主義が叫ばれているのである。
(3)課題
これまでに我々は近代社会の末路にたつ現在の状況を通覧した。そしてここでそれらの 事柄をさらに単純な形に収赦することができる。現状をまとめると、
① 近代的=経済合理主義的価値は、もはや支配的資質を失っている。
② 二つの相対主義により、非近代的価値を希求している。
ということである。つまりこのことを一言でいうなら、「価値転換」を成さねばならない、
ということである8)。
そのために我々は次に何を考えなければならないだろうか。旧価値体系が斥けられるこ とは言うまでもない。そうなると、必要なことは「新たな価値原理」の明確化と、転換の プロセスについてである。しかし新たな価値を望む意志は、旧価値による抑圧、それへの 反発のもとに培われる9)。それゆえ、我々は近代的価値の歩みを振り返り、新たな価値が 含むべき我々の意志を読み取らなければならない。そしてまたそのことは、価値の転換の 必然性をも明らかにするだろう。
2.問題の遡及
(1)近代社会が意志したもの
我々は現状に対し深刻な問題意識を抱いているわけだが、それを帰結させた近代社会の 原理とは、本質的にはいかなるものであるか。
近代のはじまりは、科学的認識=合理的認識により、中世までの価値を否定すること で、人間の自由を宣言したところにある。そしてその自由は経済活動へと向けられた。こ こに挙げられた科学主義、合理主義、自由、経済主義には一つの共通する筋がある。
まず科学主義・合理主義について考えでみよう。この認識の形式は、人間の悟性作用=
物事を分けることを徹底させ、原子論的世界観を描くものである。この認識方法は、根源 的には人間の自己保存的意志によって規定されるものである。認識がなんらかの意志や関 心によって先導されることはニーチェなどが述べているところである。そして原子論と
は、それ以上分割できない実体の配置と運動によって全てを措写する。そしてその疑いえ ぬ実体性とは、生物の生存に直結する触覚により感覚される性質の徹底化である。それは
さらに対象を操作・改変する技術的意志へと結びつく。
次に「自由」について考えてみよう。これは上に述べた合理主義を後ろ盾とする。世界
にたいして想定された「アトム」という概念が、人間社会において「インディヴィジュア ル」として成立したのである。人間個人は彼自身で、すなわち 自らに由り 存在する絶 対的なものである。それゆえに自由であることを主張できるのである。因習や貧しさから 逃れ、欲するがままに自由に生きること、それが近代人の最初の願いであった。かくして 市民革命が起こり、それは実現した。
そうして自由となった人々はなにをするかというと、人間の最も強い欲望である経済的 欲望をみたすための行為である。
近代において合理主義と経済主義、および自由主義が同居しているのは偶然ではない。
これらはともに人間の自己保存的関心によって導かれたものである。それゆえに世界大戦 のような事態がおきたことも不思議ではない。近代とは、難波田春夫の言葉を借りれば
「白岡律」10)の時代であり、「我」が全ての価値の中心となっているような時代なのである11)。
(2)変化したものと変化していないもの
前節のように近代は「我」を根.源の価値としている。そして実現された「我」は経済的 価値を追求した。しかしすでに述べたとおり、事態はすでに変化している。なにが変化し たのか、そして変わらないものはあるだろうか。
現在においても人々が「我」の論理に従って動いていることは明らかである。近代の被 害者として語られた二つの相対主義の立場も、結局は全体から「我」を守ろうとしている にすぎない。ただ「我」が求めるものが経済ではなくなったというだけのことであり、い わば「自己保存」から「自我保存」へと変わっただけといえる。
では経済主義は変わったかといえば、半分はそうだが、もう半分はいまだ健在といえ る。なぜなら、人間はやはり物を消費することでしか生きられない。だから経済的価値を 完全には否定できないし、それが当然であり間違いではない。問題は、その経済的な価値 を、至上のものにしておくべきではない、ということである。心の豊かさとかスローライ フとか言われるように、現在の人間は経済はそこそこに、ゆったりと人生を楽しみたいの である。文化相対主義の人々もまた、文化を犠牲にしないような発展の道を求めるか、あ る ̄いは発展など求めないのであ ̄る。 ̄そして多くの国の市場は成熟飽和しており、それが可 能なはずなのである。
このように近代社会の価値は、「我」の原理をベースとし、経済的=物質的生存から、
全人的=精神的な生存へとその意志を変化させた。従って前者がより近代の、いやむしろ 人類史においてといってよいほど根源的な価値原理だと考えられる。そして現在はポスト モダンなどではなく、相変わらずの近代であり、相対主義の望みどおりの社会が実現して
も、それはやはり「我」を原理とした近代の延長といわざるをえない。
しかしそれは実現しない。
(3)問題の核心
「我」という価値原理をベースとした近代社会は、そのまま経済主義を克服し、新たな 価値へと至ることはできない。なぜなら、なによりもその「我」の原理こそが問題の核心
だからである。それはどういうことであろうか。
まず第一に、斥けられるべき経済的価値も、否定されるわけでなく、なんらかの水準を 維持しなければならない。そのためには、周知のように自然環境への配慮や、国家間・企 業間などにおける協調が不可欠である。アメリカなどはいまだ自由主義を主張し、それが 消費者の利益につながるなどといっているが、それはある者には過剰労働を、ある者には 失業を、そしてある少数の者に利益をもたらすのみである12)。努力しただけ成果を享受す ることは一見正義であるが、そこには日に見えない略奪と暴力が働いていることを我々は 知らなければならない。「我」を差し置いて、他者との調和を実現しなければ、その「我」
さえも滅びてしまうのである。
第二に、実際に価値は相対的であり人それぞれである、などとしてしまうなら、社会は アナーキーへと陥る。近代が自由を求めながらある程度秩序を確保してきたのは、経済と いう価値が人々を取りまとめていたからにはかならない。従って、本当に相対主義的な社 会が到来するなら、価値同士がぶつかりあう「万人の万人に対する闘争」という、かつて 聞いたことのある状態が到来するのである。人間社会は一定の普遍性を共有しなければな らない。それは浅薄な悟性によるものではなく、真に理性的なロゴスに導かれるものでな ければならないだろう。そして実際に、人々はそこまでバラバラになることはなく、様々 のプロセスの中で、自分たちの普遍性を自己意識化するのである13)。
そして最後に、力の収敵の問題がある。恐らくはこの点こそが、時代の転換の可否を決 定する最大の要因となるだろう。それはどういうことだろうか。
現在の社会を支配しているのはやはり経済的価値である。金を持つ人間ほど自由を享受 でき、力も大きい。「先立つものは金」というのでは、あらゆる価値が二次的な資格しか もてない。その上下関係を逆転するか、等価にしなければならない。そのためには、みな が協力して社会を変えねばならない。
そのために必要なのは、対抗する者たち ̄の力の収敵であり、連帯であり、組織化であ る。社会体制を動かすものを政治と呼ぶべきかは別として、世の中は数の論理によって動 かされる。大きな力をもってしてはじめて、社会は変化する。そのために人々は力を集め なければならない。
しかし、である。繰り返しになるが近代の根源的価値は「我」である。みな社会が変わ ればと願い、自然を守りたいと欲し、弱者を救済しなければならないと考え、それらを誰 かが成し遂げてくれることを求める。自分はといえば、日々の仕事が忙しいとか、面倒で あるとか、無気力であるとか、何らかの理由を 合理的 に作り出す。自分の賃金を守る
ために富める者から税を多く徴収することは賛成するが、自分より弱者のために自らの税 を増やされるのはごめんなのである。やや誇張した言い方をしたが、要するに現状を支配 しているムードはこのようなものであり、このままでは到底、力の収敵も価値の転換も達 成されない。他でもない我々の心に、相変わらず近代的な価値がどっしりと腰をすえてい
るのである。
それでも周知のように、近年ボランティアやNPO、NGOといった活動が存在すること を述べないわけにはいかない。企業においてもCSRやSRIといったものが言われたりもし ている。確かにこれらの活動は近代的価値と本質を異にするものである。「我」の論理を 超えた価値を抱く人々が紛れもなく存在している。
従って今、最も考えなければならないことは、そのような新たな価値を抱く人々の力を いかにして収赦するか、ということである。いくら協調的、親和的意志をもつ人が増えて も、それらの力がばらばらのままでは、ノ鹿済主義の壁を破ることはできない。そのことに ついて、章をあらためて考察する。
3.問題の克服
(1)組織化の論理
複数の存在が、ある価値を共有して手を取り合うところに「組織」と呼ばれるものが生 まれる。組織において力は集まり収赦され、今、我々が必要としているものはこれであ る。社会を健全なものへ変えるために、まずはこの組織がいかなる論理にもとづいて生成 するかをみなければならない14)。
すでに述べてしまったが、組織とは何らかの価値・目的というものを中心に生まれる。
例えば企業ならば、なんらかの財・サービスの生産により利潤を上げる、といったことで あり、NPOであれば特定の社会的トピックを軸に結成される。このように価値のもとに 組織は形成される。
しかし肝心なことは、人間個人がそうであるように組織もまた、自らの内に複数の価値 を持つ、ということである。過去の日本において企業が、純粋な利潤追求組織ではなく、
一つの共同体的側面をもっていたことなどが適例であろう。他にも、普段はめいめいの価 値の実現を行っている諸組織が、戦時において力を結集する。すなわち、組織の組織化で ある。そこには、それぞれの価値とは別に、国家防衛という価値が共有されていた。また 政治における圧力団体や利益者集団というものも、個々の組織が政治的利害という価値を 共有することにより組織化されている。このように、組織とは多層的な価値を含有しうる ものであり、別の観点からの組織化というものが現実にある。これまでの国際社会の歴史 が、ナショナリズム、リージョナリズム、ユニオニズム、グローバリズムの錯綜として綴
S
られてきたことも、このような組織化の論理に従い、時々の価値を巡る情勢にあわせて組 織化がなされてきたからである15)。
(2)組織化セグメンテーション
前節に見た組織化の論理が示唆することは、すなわち現在ばらばらに存在している諸組 織もまた、なんらかの形で力を収赦させることができるのではないか、ということであ る。
なにはともあれ、現時点で抱いている価値が共通である組織同士、例えばともに老人介 護のボランティア団体であるならば、その結束は必要性さえ実感すれば簡単であろう。物 理的距離などの問題も、幸か不幸か近代の恩恵である情報技術が解消してくれる。
だが、重要なのはそのような平素の目的を異にする組織同士の組織化であろう。そこで 考案するのが、やや軽薄な響きがするが、「組織化セグメンテーション」一の考えである。
これはマーケテイングの概念をいただいたものであるが、社会における組織の抱く価値に ついて、その多層性を根拠にして「何をもって組織化するか」を考え直すことにその意図 がある。
例えばある食品会社は、具体的には一つ一つの食品を生産することを目的としている。
しかし、そこには他にも「人々の食の安全を守る」とか、「美味の喜びをふりまく」とい った目的を抽出することができる。そちらをもってして考えれば、食品会社と汀、ある いは医学博士や異国の食文化の中にいる人々との組織的連関が可能になる。NPOと地方 公共団体が協力したり、この程度のことはすでに多くの類例があるだろう16)。
ではそれをさらに引き上げていくとどうなるか。すなわち「時代の克服」ということを 共通の価値とする組織化は可能ではないのだろうか。
(3)時代を超える組織体
経済時代を終焉させることを共通の価値とする組織化は可能であろうか。組織化の論理 からすれば可能である。では実際にそれを具現化させるためには、どのような条件が必要 であろうか。
第一の条件は、それが経済的基盤を形成しうるものでなければならない。さもなくば、
人々は生活のために、経済合理主義のロゴスに引きずられ、組織は解体するだろう。労働 組合がそのような経済的基盤をもつ組織の代表である(べき)ものである。しかしそれ以 外の組織はどうすればよいか。例えば、ボランティア団体やNPOと労働組合が連携して、
組合員がそれらの活動に参加するようにする、といったことが考えられる。極端に考える ならば、農家が組織化し、その他産業に従事する人々が組織化し、その二つの組織体が更 なる組織化をする。それにより、市場システムの外部において最低限の生存を確保するこ
とができる。
二つ目の条件である。それは組織が共同体的側面をもたなければならない、という条件 である。共同体の意識こそが人をして結束せしめる要因であり、逆にそれなしには、数だ け集まっても力とはなりえないだろう。ただし、真に欲する価値を共有して生まれた組織 ならば、同時にこちらの条件も満たすことになるだろう。
最後の条件であるが、これまでに「時代の克服」という価値を共有する組織体を形成す べきだと述べてきたが、それは一足飛びに構築できるものではない。そのような組織体 は、多層的なものでなければ実現できないだろう。例えば地域のゴミ拾いをするボランテ ィア団体にたいして「我々とともに社会を変えようではないか」と進言しても、その申し 出は捨てられてしまうだろう。
ではどうするべきであろうか。いま述べたゴミ沿いのボランティア団体であれば、地域 の様々な組織と結び?いて、「地域の活性化」という程度の価値を共有する羊とはできる だろう。そこからさらに諸地域同士の、あるいは地縁的なものを越えて、結びつきを構築 していき、ということを重ねて組織は綾やかに拡大していく。しかしそのように組織が拡 大したところに時代的問題が意識されたとき、そこにはじめて「時代を超える組織体」が 実現するのである。
むすび
これまでに我々は、近代社会の問題の明確化および起源と本質への遡及、そしてそれら の克服の力点となる組織化の論理について考察してきた。しかしここにきて一つの疑間が 残っている。それは、経済的価値を転倒する組織体が実現できたとして、それが目指すべ き新たな時代の価値とはいかなるものであるか、というものである。これを抜きには相対 主義の問題性を解決できたとはいえないだろう。
だがその答えは、ここにおいて明示すべきものではないように思われる。なぜなら、新 たなる時代の価値とは、すでに述べた、底辺からの組織化の過程で織り成される相互行為 のなかで、少しずつ築き上げられていくようなものだからであり、時代の転換が完了した
ときに初めて、「これが我々の望みだったのだ」と反省的に意識化されるのである。
そしてさらに言えば、組織化が実現されたところでは、すでに「我」の論理は退いてい るのであり、近代は克服されているのである。
地味で教訓めいた結論となるが、結局我々は、「人間いかに生きるべきか」を共に問い 続けながら、互いに手をとりあって生きていくしかないのである。しかしその営みにこ そ、我々人間存在の幸福が確在する。
注
1)本論文では詳しく述べないが、このような視点は主にニーチェ、プラトンの哲学を基礎としてい る0価値とは西洋形而上学的な、欲望や衝動的なものを排除した理性的なもののみを指すのではな い0真善美を求める感情も、煩悩的な欲望や衝動も、等しい身分のものとして、もって価値と呼ぶ。
人間はそのような諸価値の複合体として想定されている。
2)このことは決して近代という時代の否定を目指すものではない。時代の変化は必然的なものであ り、近代の営為は、克服という形で止揚されるのでなければならない。
3)もちろん、実際に解決されなければならない問題は、個々具体的なものである。しかし、それら の底流に共通して流れている問題があり、それを明らかにすることで、全体の問題解決の指針を示 すのである。
4)詳しくは『難波田春夫著作集6 国家と経済』、難波田春夫、早稲田大学出版部、1982および腿 界観と哲学の基本問題』、藤沢令夫、岩波書店、1993などを参照のこと。
5)被害者とは言っても、そこに明確な被害者一加害者が言えるわけではない。
6)ここに語る価値相対主義とは、デリダやローティなどの哲学的一潮流のみを指しているのではな い0それらを含め、凶悪犯罪や異常犯罪、学級崩壊などと、既存の倫理が機能していないことなど、
一般的社会状況を意味する。
7)とはいえ、そのような自由を完全に実現することが、社会的な善に適うというわけではない。後に 語られるが、相対主義とこのような自由が結びつくなら、それはアナーキーとなってしまうだろう。
8)新たな価値に基づき活動することで、旧価値のもとに生成された社会が徐々に変化し、間題は解 消されていく。
9)例えば近代を生んだ意志も、中世的価値のもと抑圧された、認識や経済活動の不自由さの反発と して現れたのである。
10)自同律とは認識の一パターンであり、「AはAである。」「非Aは非Aである。」というように、そ れをそれ自体として実体的に存在すると捉えるものである。詳しくは『難波田春夫著作集3 危機の 哲学』、難波田春夫、早稲田大学出版部、1982などを参照のこと。
11)以上、本節の議論については、前掲書他を参照のこと。
12)消費者に良い商品とは、質がよく価格の安いものである。しかし、価格を上げずに質を上げるた めには、マーケテイングからなにから、以前より多くの労働が強いられる。また価格を下げるため にはコストを下げねばならないが、そのために下請けを含め企業活動は厳しい条件を与えられ、失 業や賃金の減少を余儀なくされる。そのために、良い商品を生産しても、労働者はそれを消費する 財力も時間も持てなくなる。少数の富者だけが、それを消費できるのである。
13)例えば近代の過程を通して、我々は自然や閑暇が、人間にとって必要不可欠のものであること を、それを失うことをもって意識化することができた。それが相対主義を現しめた人間に共通のも のと言える。
14)ここに言う組織とは、決して政治的結社のようなものを言うのではない。例えば人体細胞も組織 と呼ばれるように、これは一つの合目的性に規定される存在を指す。その意味では人間個人も一つ の組織として捉えることができる。
ま ̄た、社会を変え畠組敵と言うのは政治的に、一挙に社会変革を企てるのではなく、社会にお けるそれぞれの部分において、少しずつ為される変化について、それらに一つの方向を自己自身と して与えるものでなければならない。すなわち、なんらかの上部機関が指揮命令を下すようなもの であってはならない。
15)『世界システムの「ゆらぎ」の構造』、田村正勝、早稲田大学出版部、1998を参照のこと。
16)組織化セグメンテーションとは、このような既存の組織同士の連関のみを対象にするのではな い。例えばNPOというものも、従来の企業において「利潤追求」と「生産」という要素を設定し、
前者を破棄することで成立した。新時代の社会を考える上では、こちらのほうが重要であり、先入 観に囚われない、新たな組織の形を模索すべきである。だが筆者は、いまだそのアイデアを持たな い。
参考文献
難波田春夫『難波田春夫著作集1 難波田春夫『難波田春夫著作集2 難波田春夫『難波田春夫著作集3 難波田春夫『難波田春夫著作集6 難波田春夫『近代の超克』、行入社 藤沢令夫『実在と価値』、岩波書店
社会哲学序説』、早稲田大学出版部1982
スミス・ヘーゲル・マルクス』、早稲田大学出版部1982 危機の哲学』、早稲田大学出版部1982
国家と経済』、早稲田大学出版部1982
1991 1969
藤沢令夫『イデアと世界』、岩波書店1980 藤沢令夫『哲学の課題』、岩波書店1989
藤沢令夫『世界観と哲学の基本問題』、岩波書店1993
田村正勝『世界システムの「ゆらぎ」の構造』、早稲田大学出版部1998 野尻武敏他『現代社会とボランティア』、ミネルヴァ書房 2001 ニーチェ『ニーチェ全集13 権力への意志 下』、筑摩書房1993 ハーバーマス『認識と関心』、未来社 2001