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死の判断における「常識」 上 薗恒太郎

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(1)

死の判断における「常識」

上 薗恒太郎

Common Sense  in Judgment of Death Kohtaro KAMIZONO

何が死ぬものであるかは常識によって明瞭だと思われがちだが,20歳に判断 を求めたところ〈石は死なない,タンポポ,木,イヌ,クジラ,大人,自分 は死ぬ〉という常識型は58。5%であった。その要因として石についての判断 が大きな役割を果たしていることが明らかになった。また判断の理由を尋ね たところ,個体にとどまらない類の死など,死の多様な基準が見いだされた。

さらに死の判断は,石についての判断を見ると,年齢が上がるにしたがって 常識の型に至るというものではないことがわかった。

1.はじめに

 死をどのように考えるかが今日のテーマになっている。脳死問題の論議が広がるにつれ て,脳死を死と認めるか否かの態度決定が日常の話題の中でも迫られるようになってきた。

また老いが,日本社会の年齢構成による構造的課題として現実のものになってきている。

 病院での死がありふれた形になり,それが単に治療行為の終わりに止まらず,各人の人 生の終わりとして意識されるようになるに至って,医療,看護の領域からも,病院を人生 の最後を迎える場として意味づけたいとの欲求に応えるものに整備しようとの動きが出て きた。死が病床で迎えられる以上,病床を生の意味の場として過ごしたいとの欲求にも応 えることは現実に避けられない課題である。しかしそれはまた,生のなかの治療という部 分として位置づけられていた病院・医療・看護の体制が,生の全体をそこで過ごす場とし て,いわば病院のなかに生が位置づけられるという変化を意味しよう。

 同様の変化は学校においても見られる。学校制度が人生全体についてまわる動き,社会 の学校化は,1.イリッチやPh.アリエスらが指摘したところである。この動向が,今日の 日本において,生涯教育,開かれた学校といったスローガンによって政策的に押し進めら れている。学校教育が死を取り扱うようになれば,学校が人生全体を取り込むことにもな る。実際,近代社会のタブーの一つであった性は学校教育に取り込まれた。

 これらの傾向の行き着くところは次のような姿ではないか:人生最後の時を,病院で,

死の意味についての教育を受けながら迎える。その際,死をできる限り有意味にする一つ に,脳死を死と認め臓器移植を認めることも入るのだろうか。その際,死について深く考 えることを避けてきた凡夫の死の時を,医者,僧職者等を含めた死の専門家チームが支え ることが,一つの理想になるのだろうか。

 今日,死は一つのブームになっている。少なくとも今すでに,一人ひとりの生の意味を,

(2)

出版やテレビといったマスメディアが教示する状況が存在する。

 死の教育を学校教育に取り込むことは,学校の極度の肥大化であると同時に,学校制度 の解体への道であろう。学校というすぐれて近代の制度がもつ行き詰まりを,改良という 名の許にすすめる膨張策,それは制度の生き残り策である。それは学校の弊害を社会全体 に拡張していくことにもなる。日本近代の学校制度が体育,音楽,道徳や食事までも取り 込みながら肥大化し,学校なしには生きられない子どもと社会を造り上げてきたこと,こ れは近代学校制度の勝利であるが,影の部分も大きい。死の意識の解明作業は,死の教育 の基礎を明らかにする作業であるが,学校において死について教育するべきであるとの主 張と直結しない。

II.死の判断における常識 II−1.

 死とは何かの問いに,ここでは死がどのように意識されているかによって答えようとす る。すなわち,死の意識調査1)によって,何が死ぬものであるかの判断を求め,死がどの ように意識されているかを明らかにする。本論ではそのうち,何が死ぬものであるかにつ いて常識とされがちな判断の型と調査結果を比較考察する。論の中心は,成人である20歳2)

の死の意識を,常識と思われる判断の型を軸に検討することである。

 調査では,石,タンポポ,木,イヌ,クジラ,大人,自分について,死ぬものであるか 否かの判断を求めた。質問項目としてはく石ころは,いっか死ぬと思いますか?〉以下同 様に各対象について尋ね,回答様式としては(はい・いいえ)で,わからない場合は中黒 に丸をつけるように口頭で指示した。さらに,判断の理由について〈どうして,そうおも いますか?〉と尋ね,自由に記述してもらった。なお以下の論述において各判断の型を示 す場合は,「はい」を1,「わからない(・)」を2,「いいえ」を3と,番号化して記述す

る。

II−2.

 何が死ぬものであるかは,論じるまでもなく明瞭であるように思われる:命あるものは 死ぬ,あるいは,生物はいっか必ず死ぬ,無機物は死なない,何が死ぬものであるかは常 識の範囲で扱っていいのだと。さらに子どもは,まだ死についての常識が形成されていな い者たちであると。だとすると,死の教育の一部は,何が死ぬものであるかについて常識 ある判断を下せるようにすることになろう。実際にも,死の判断における常識が,20歳前 後の大人において明瞭に形成されているのであろうか。

 石,タンポポ,木,イヌ,クジラ,大人,自分を対象として判断を求める場合,いわゆ る常識に従えば,〈石は死なない,タンポポ,木,イヌ,クジラ,大人,自分は死ぬ〉と答 えることであろう。本論では,この判断の型を番号化して3111111型と呼ぶ。

 20歳の265人について,石,タンポポ,木,イヌ,クジラ,大人,自分のそれぞれについ て判断を求めたところ,常識と思われる型で答えたのは,58.5%であった。

 常識であると考えられがちな判断の型が6割近くであるという点について,この数字が常 識という表現に当てはまるのか,少なすぎるのか考えてみたい。

 常識とは,三つの辞典によれば次のようであるという:普通の社会人として当然持って

(3)

いる,持っているべきだとされる知識や判断力3)/広く世間一般の人が共通にもっている 知識や判断力。コモンセンス4)/普通一般人が持ち,また,持っているべき標準知力。専門 知識でない一般的知識とともに理解力・判断力・思慮分別などを含む5)。

 「普通,当然,広く,共通,一般」という言葉は,何パーセントの答を期待しているので あろうか。58.5%とは意外に少ない,との反応が尋ねてみたところでは多かった。逆に 41.5%が他の型の答をしているということは,彼らがいわゆる常識とは別の考えで判断し ていることを示している。

 何が死ぬかの判断については,一つの常識だけが通用するものではない,ということで あろう。

 常識という言葉が,何が死ぬものであるかの判断においても使えるとすれば,常識の定 義を,他の多くの人々がそのように考えるであろうと予測できる判断,とすることによっ てであろう。20歳代の彼らが,多くの人が〈石は死なない,タンポポ,木,イヌ,クジラ,

大人,自分は死ぬ(3111111)〉との答の型で対応すると予測することは容易であろうから。

II−3.

 判断の型においては58.5%という数字になるが,一つ一つの判断対象については20歳の 判断は常識に近い。割合の高い判断対象順に並べると次のようになる。

表1

20歳のどれだけが各対象を死ぬ(石の場合は死なない)と答えたか6)

イヌ自分クジラ大人木たんぽぽ石

97.7%    97.7%    95.1%    91.0%    87.9%    86.0%    75.5%

イヌ,自分,クジラ,大人は9割を超えており,常識という表現が問題なく妥当するとい うことであろう。9割を超える判断対象の中でも,大人が死ぬとの割合が比較的少ないの は,大人,を概念として考えることが主要因である。自分という言葉は,解答者自身を指 していると受け止められ,自身がいっか死ぬかの問いとして受け止められるのに比べて,

大人は,一定の個人ではなく,大人と呼ばれる人々一般を指すとのニュアンスに理解され,

大人と呼ばれる人々,ないし大人概念はなくならないと考えられ,大人は死なないとの解 答に至る。

 木については,死なないとの答が11.0%,わからないとの答が1.1%であり,タンポポに ついては,死なないとの答が14.0%,わからないとの答が0%である。木,タンポポは,死 ぬという言葉が該当することについてのリアリティが比較的薄いようである。木の個体と しての生の長さ,タンポポの一本が個体として認識されにくいことによって,類全体とし てのタンポポは死なないとの答えになる場合がある。

 20歳がいわゆる常識の型から離れるのは,何より石においてである。石については,死 ぬとの答が22.3%,わからないとの答が2.2%である。

II−4.

20歳の答の型のうち1%を超えるものを,割合の高い順に並べると次のようになる。

(4)

表2

20歳の答の型  % 3111111

1111111 3331111 3111131 1311111 2111111 3131111 3311111 1111131

58.5 16.6 4.2 3.0 1.9

L9

1.5 1.5 1.1

 いわゆる常識型(3111111)が群をぬいて多いことは勿論であるが,石についての答が異 なり,他の判断対象については常識型と同様に答える型,3111111,1111111,2111111,が 全体で77%を占める。タンポポ,木,犬,クジラ,大人,自分についての判断の揺れば石

ほど大きくなく,石についての判断において揺れている査証である。

 次いで多いのは,タンポポと木に関わる答である。これに関わる答えの型を上の表で見 ると,3331111,1311111,3131111,3311111で,計9.1%を占める。

すなわち常識型から離れるかどうかは,なにより石,次いであげればタンポポと木の判断 に依存しており,これらで8割以上に達する。

II−5.

 なぜそのように判断するかの根拠を尋ねてみると,その答えは判断以上に多様である。

 石についての判断としては,死なない,といわば常識的な判断の型を示している場合で も,その理由となると揺れば大きい。同一と見なしうる根拠から,異なる判断が生まれた りする。「」内は20歳が記述した理由である。

「石ころ自身生きているとは思う。しかし,石ころは生きているという活動をしないから」

このケースは,石は生きていると言うが,判断としては死なないである。理由は,石は生 きているという活動,生命活動と言い換えてもいいと思うが,をしない。ここでは,生き ているか否かと,生命活動とが切り離されている。無機物といえども生きている。

「石ころはずっと生きていて,死ぬことはないと思う」

 無機物といえども生きているとすれば,生きている有機体の終わりに死があるとは限ら ない。木について,

「木が枯れて土に還ったり人間に利用されている間は生きているかもしれないが,燃える なりして存在がなくなったとき死ぬと言えるかもしれないから」

ここでは判断としては木は死ぬ,である。しかし,木が土に還る場合も,木材として利用

されている場合も,木は生きている。燃えるなりして存在が消失した場合に死ぬ。土に還

る消失の仕方と,燃える場合の消失とがどのように区別されるかは定かではないが,推察

するに,土に還る消失は木の成分全体がそのまま残るのに対して,燃焼の場合は,消失の

度合いが徹底しており,あまりに完全な破壊である,ないし雲散霧消してもとに返ること

(5)

ができない気がするのであろう。その感覚はさほど特殊なものではなく,カトリック教徒 が持った感覚,土葬の場合復活が可能であると考えられても,火葬の場合復活不可能であ るとの考えにあい通じるものを見て取っていいだろう。タンポポについても,枯れ,土に 還る,そう考えても,必ずしも死につながらない。

「枯れても土に還り,次の世代へと生き続けるから」,判断としては死なないである。

 植物も生きているからといって,死ぬわけではない。下記の判断者にとってはタンポポ や木は,死なない,なぜなら,

「死とは動物の生命活動が停止することを指す言葉だと思うから」

 植物を一くくりにできないケースもある。タンポポは死なないが,木は死ぬ。

「草花が朽ちてしまうときは,死ぬという言葉よりは枯れると言った方が適切だと思うか ら」。しかし,木は死ぬ。「なんとなく」。

 石も死ぬ,命があるから。

「石も生きていると思うから」「石であろうと命はあるんじゃないかと思うから」

「全てのものには生命があり,それらには限りがあるから」

 形態の変化をもって石の死とする考え方がある。

「いっか粉々になるから」「同じ形をとどめてはいないから」「割れたり,池に落ちたりす るから」「風雨にあたれぼいずれなくなるだろう」「生物として受け取れないが,さまざま な自然変化によりなくなると思う」「石もいっかは風化して形を失い,その存在がなくなっ てしまう。それとともに存在していたことの証も失われる。そのときが石ころの死だと思

う」「少しずつ削られていき,粉になって原型をなくしたとき,その石ころの生命がなくな ると思う」

 石という概念に適合しなくなる時点をもって石としての死を認める判断もある。

「石ころは風化して砂になります。石ころと砂は違うので,その時点で石ころの人生は終 わる。でも石に命があるのだろうか」

「でも」以下は,概念による死の判定を下しながら,生命の死へと揺れ戻っているのであ ろう。「破壊,変質し,もとの石ころと指し示された概念の実体がなくなったとき,死と表 現してもいいと思う」

「仮に石ころAがあって,それが崩れたとするとそれはもはや石ころAとは言えない」

 心ある存在全てに死を認めるとの考えもある。

「いっかは何もかもなくなりそうだから」「形ある自然界のものだから」「形あるもの全て はいつかなくなるから」「いっかチリに還る」

 石が数多く存在すること,地球がなくならない限り石というものの存在が消えることは ないだろうとする考え方,を石が死なない根拠にする考えの例はあとに示すが,逆に,地 球消滅,宇宙の消滅を考えれば石の存在はなくなる,したがって死ぬ,りとの判断も生まれ

る。

「地球はいっか爆発し消滅し,惑星のなかの数々の星になると思うから」「地球が滅んでも どこかの星に石ころはあるだろう。でもそれもいっかはなくなるだろう」

 死についての不可知論,願望による死もある。

「私にはわからない生のあり方もあり,同時に理解できない死もあると思うから」

(6)

「石も死にたい(迎えが来るetc.)と思うかもしれないから」

 これらに対して,石は死なないとの判断はもちろん多い。石について死なないと判断し た答えにおいては,次のような理由が示された。

「初めから命あるものだと思っていない」「生命をもたないものだと思うから」「生き物で はないから」「呼吸などをしない無機物100%であるから」「単なる物だから」「死んだ組織 の固まりだから」「石ころに生命は感じない」

 判断者自身にとっては石は命のない存在だとしても,他の人にとっては石の死がありう るとの考えも示される。対象と判断者との関係によって,死が意識されるかどうかが決ま るとすれば,不可知論とは別の意味で,石も死ぬとの判断の余地を残す。

「私にとって石は生命をもっていない(石に愛着のある人には生きているかもしれない)」

 石のイメージが,死に結びつく場合がある。「イメージ的に硬く冷たいというのがあるか ら」「硬いから」「硬くて小さいのでいつもどこかにあるから」

石は不変とのイメージによって,死なないと判断するものもある。また石の永続性も死な ない根拠となる。

「じっとして何年でも生きていそう」「石ころはいつも変わらないから」「ずっと化石で存 在するから」「永久になくならない」「地球誕生以来存在し続けている」

 どこにでもあるという意味で普遍であるから,石全体として死に絶えることはないとの 判断もある。こうした考えは例えばタンポポという類は存続し続けるとの根拠につながる。

「あちこちに転がっていて,ずっとあるから」「石ころと認めるものがあるかぎり死なない」

「地球上に存在しているかぎり死ぬことはないものだから」

 石の死の根拠として先に形態の変化をあげたが,形態の変化を認めるけれども,死とは 結びつけない判断がある。

「欠けたりしてもずっとその石の存在はあると思うから」「石ころはどんなに小さくなって も石ころだから」「小さくなったり砕けたりするけど,残ると思う」「形や大きさは変わっ ても,物質的に同じだから」「ずっと昔から存在するし,燃やしても燃えないし,砕いても 砂になって生きていると思うから」

 死の概念を石に当てはめることの不当を根拠とする者もいる。

「死んだという語を聞いたことがない」「石に死ぬという表現は不適切だから」「初めから 生死の概念を石にもったことがない」「石ころは生も死もない」「消滅はあっても死はない

と思う」「存在するのみだから。結末は死という形ではないと思う。ある,ないだけではな いだろうか」

 不当性の根拠も言葉の使用の問題ではないことがある。

「神秘的なものなので死とは関係ないと思う」

 タンポポと木の判断の根拠もまた多様である。死ぬ理由として生命ある存在であること が挙げられる。生物であるとか,植物であるとかの理由も現れる。

「命があるから」「生命活動(代謝,呼吸等)をおこなっているので,タンポポは生きてい

る。生きているものは必ず死ぬ」「(木は)生きていて,命があるということが明白である

から」「生物は必ず死に,消滅する」「植物だから」

(7)

 人間の一生になぞらえて考えられるのは,木の方に多い。

「衰弱」「木もまた老いるだろうから」「寿命があるから」

 植物に対しては,しかし死という表現を使うのにはためらいがあるらしい。

「植物だから,いっかは枯れる。小説などでもよく死ぬという表現が使われる」「植物に対 して死ぬというのも多少違和感があるが,生きている以上死ぬでしょう」

 植物に死ぬという表現を当てはめることに対するためらいは,タンポポと木が死なない 理由にもなる。植物は,生命あるものであるとしても,無機物に近い。理由が石の場合と 重なってくる。

「植物は生きる死ぬではないと思うから(死なない)」「木は少しずつ枝が大きくなるもの である。たとえ木が切り倒されたとしても,建物やその他の一部として生きていると思う

から」

 石の場合と異なるのは,死の判断につながる体験が語られることである。

「(タンポポを)草取りの時に抜いて燃やしたことがある」「幼稚園のころ遊んだ木がまだ 生えていた」「茎を切り取られても,水を与えれば咲いているし,押し花にもできるから」

体験ではなくても,自分の行為と結び付けて考えられる。判断結果は死,不死どちらにも

傾く。

「根っこから抜かれてしまえば枯れてしまうから」「人に踏まれたり,もぎ取られて息がで きなくなるから」

「木は死なないと思う。タンポポ,木などは,人間がいなければ永遠だと思う」

石の場合と異なる,死の証拠は,枯れるという事実である。

「枯れるから」「一本のタンポポは,いっか枯れてしまう」「水を必要とするし,枯れきっ たら死ぬのと同じだから」「栄養がとれなくなったら死んでしまう」

 枯れるという事実もしかし,特にタンポポの場合,種(タネ)を媒介として生命が続い ていくという感じを断ち切ることができない。そこからは不死の判断が生じる。

 「枯れたら死ぬ。でも種がまがれたら死んでいない」「種が飛んでいってまた芽が出るか ら」「子孫を残すことができるから」(その場合でも,自分については一人しかいないから 死ぬと考える),「植物はなんだかずっと命がつながっている気がするから」「花が咲き綿毛 になり飛んで行き,また花を咲かせる。不変という感じが消えないから」「土から芽生える ときにせよ,種が飛んでいるときにせよ,タンポポ自身は存在しているから」「種は風に舞っ て,空中でいつでも生きているから」

「自然の木はうまいぐあいに次の世代へとつなげていけると思うから」

「どんなに年をとってもいつまでもそこにありそう,人間に切られない限り」

生命が連続するとのイメージは,類概念としてのタンポポ,木にも支えられている。

「どのタンポポも同じように見えるので,どのタンポポも蟻タンポポ であって,花が咲 き種ができれぼタンポポは生き続ける」

 しかし,種がうまく機能しなけれぼ,ないし人間の邪魔が入れば死を迎える。植物の連 続したイメージを絶えさせるのは,外部からの障害である。そこでは類全体も死滅しうる。

「種がなくなると絶える」「次の世代へと続いていかず,枯れてしまったら」「種がうまく 着地しないかもしれない」「種をつくる前に誰かに抜かれたりして,枯れることがあるから

(死ぬ)。種をつくり,その種から芽が生えると,代々生き続けると思う」

(8)

「切り倒されたり,掘り起こされたり,嵐が起こって,殺される感じで死んでしまうもの だと思う。でも手を加えない限りは生き続けるのかもしれない」

「絶滅することがあり得る」「人間が資源として使い果たすから」

種によって存続するのは,個体としての特定のタンポポではない。種をつけることで類 としては存続するとしても,個体としては死を迎える。個体の意識がはっきりしている理 由づけもある。

「タンポポは種をつけると枯れる。その時点でタンポポは死ぬと思う。種はタンポポその ものではないので」,「種は子どもであって,自分は死んでしまう」

「枯れることがあるから。もう二度と同じ木は生まれない」

個体としても,生き延びる道を持つ。その点でタンポポや木は,他の判断対象と異なる。

「(タンポポは)根が深いので」「枯れてしまっても根を深くもちまた芽生えてくる」

「(木は)根をしっかり張っているから」

願望もまたタンポポや木を生かし続ける。

「踏まれても復活するタンポポのように生きていきたいから(死なない)」

「木は人間にとって酸素という重要なものを生み出してくれる(だから死なせてはならな

い)」

II 76.

石について示された判断の理由を分類し,多数を占めるもの10を挙げると以下のように

なる。

表3

石についての判断理由7)

生きていない・物だから 割れる・変形する i無記入

不変である 消失 命がある 動かない 硬い

どこにでもある 全てがいつか死ぬ

。   ●   ●

38.9%

18.9%

14.0%

10.6%

6.0%

4.5%

3.0%

3.0%

1.9%

1.9%

 石について,いっか死ぬかどうかの判断基準は,生きていない,ないし,物だからとの

理由が一番多く,38.9%を占める。そのうち,生きているか否かを判断理由に挙げた者が

32.5%で,物だからとの答えが6.4%である。生きていないとの答えは,生きてない/もと

もと,最初から,死んでいる/死ぬとか死なないとかない,といった答えから成り,物だ

との答えには,モノだから/生き物じゃない,といった答えを含む。

(9)

 石についての判断理由は,答えにくいのであろう。無記入が多いのは石の場合の特徴で,

14%におよぶ。

 割れるとか,砂などに形を変える,とのイメージが石については浮かぶらしく,18.9%

を占める。割れる/破壊される/割れても小さくなるだけ/二つに割れてもそれぞれ石こ ろだから,また,変形する/砂になる/形をかえるから/土になる/削れていく,といっ た答えがそれである。このイメージからどのような判断が下されるかは別である。割れる 時点をもって死と考えるか,割れても死ではないと考えるかは分れる。同様に,砂などへ の変形をもって,石ではなくなったという理由で死とするか,物質の組成は変形によって

も変わらないから死とは見なさないかは分れる。20歳の特徴は,死の判断対象を概念とし てとらえての判断が出てくることである。砂になった場合は石概念から外れる,それをもっ て石としての死と見る,といった具合に。

 石には不変であるとの思いがついてまわるようで,石ころはずっと残っている/常に石 という姿で存在し続ける,との答えが10.6%ある。変わらぬ姿が不死のイメージと重なる

らしい。

 消失,姿が見えなくなるか否かをもって判断を下す者が6%いる。なくなる/消えてし まわない/原型が残らないから,といった答えで,対象の消失ないし喪失によって,現実 的に死を知る心情の現れであろう。

 動かないことも,消失と同様に,死を確信させる基準である。動かない・動く/活動し ない,といった判断基準がそれである。変わらぬことも動かないことと一見同様に見える が,不変が多く不死のイメージと結びつくのに対して,動かぬことは死のイメージと結び つくようだ。次の,硬いイメージ,硬い/固まっている/固い,と合わせると,6%が硬

く,動かぬ姿を死の判断基準としていることになる。

 石を,類全体としてとらえれば,石は,どこにでもある/いつでもどこかに存在してい るから,死に絶えることはない。個体としてとらえられる対象は,個体についての死の判 断が下されるが,個体視されにくい対象は,類全体の死滅によって判断される傾向がある。

自分については個体としてのみ考えをめぐらせるが,大人については大人と呼ばれる人々 はいつも存在するとか,犬については個体として判断しても,クジラについては類全体の 絶滅を考えるといったように。個体として見るかどうかは,愛着の度合いが要因の一つで あるようで,先に挙げた「石に愛着のある人には生きているのかもしれない」という答え の背後には,愛着によって,一定の対象が個体としてその人にとって浮かび上がってくる 変化があるように思われる。

 何であれ全てのものはいつか死ぬ,全て死ぬようにできている/いっかは死ぬ/形ある ものはいつか崩れる/一生がある,との思考を石に当てはめる者がある。この,存在する もの全ては死す,というテーゼは,命あるものすべからく死す,とのテーゼに比べると,

適用される度合いは少ない,つまり,他の生命体に対する頻度より石に現れる全て死すの

頻度は少ないが,1.9%ある。

(10)

II−7.

石の場合と同じく1.9%に至るまでの理由を,タンポポと木について挙げると次のように

なる。

表4

タンポポ,木の判断の理由8)

命がある・生き物・植物 枯れる

死ぬようにできている 無記珍

種・子孫ができる 土に還る

活動している 切られる 消失

34.7%

33.8%

5.8%

5.7%

4.9%

3.2%

3.0%

2.5%

1.9%

 タンポポ,木について,死の判断理由の出現割合を見ると,命がある・生き物である・

植物であるとの理由が最も多い。命がある/生命をもつ/生きてる/生き物/生物/植物 だから,との理由が答えの典型である。タンポポと木に出現割合の差は認められない。こ の答えの割合が34.7%である点を,石の場合に,生きていない・物だからが38.9%(表3)

であったことと考え合わせると,さらに,活動している(表4)が生命活動も含むことを 考え合わせると,35〜39%程度は,生命があるか否かで生死の判断を下していると考えら

れる。

 枯れる,はタンポポと木にのみ出現し,他の対象には出てこない理由である。タンポポ では35.8%,木では31.7%出現する。枯れる,という特徴はしかし,死ぬ理由になるとは 限らない。枯れるだけであって死ぬわけではないとの判断も,木材として利用され生き続

ける,無機物としての生がある,植物は死ぬと言わない,といった考えと結びつくことに よってある。この理由の典型は,枯れる/枯れるだけ(不死)/葉が枯れたら木は死ぬ,

である。タンポポと木の場合,命がある,と枯れるの二つの理由で68.5%を占め,群を抜 いた割合を占める。

 死ぬようにできている,は,自分,大人,イヌ,クジラに多く出現する理由である(22.3%

〜11.3%)が,タンポポ(4.5%)や木(7.2%)にも現れ,石にも,全てがいつか死ぬ,

として1.9%の割合で出現する。いっかは死ぬ/形あるものはいつか崩れる/一生がある/

全てのものはいつか死ぬ,の理由の頻度が高い。

 無記入は石の場合には14.0%と多かったが,その他の対象については6.4%から4.2%の 問で推移する。木は6.4%,タンポポは4.9%で,どちらかといえば木の方が理由を挙げに

くいのだろう。

 種ができることによって次々と新たな生命を生み出し,生命として連続していく,した

がって死に絶えることはないとのイメージは,特にタンポポに強い。タンポポフ.9%,木

1.9%で,他の対象にも出現するが1%程度かそれ以下である。種(タネ)ができ生き続け

(11)

る/どんどんひろがる/たんぽぽは綿毛の種に命を移すから/また実をつける,との理由 が典型である。このイメージではタンポポは個体としてではなく,類として,ないし個体 間で連続した生命体としてとらえられている。死の判断が個体についてなされるものか,

類全体についての判断か,何を個体と認めるか,など単純ではないことを示していると言

える。

 土に還る,は石にも,崩れて土に還るという形で,また他の生物にも現れる考え方であ るが,比較すれぼタンポポや木の方が自分や大人,他の生物に比べて多く出現する。人間 が死んで土に還るとのイメージは,土葬が希になることによって消されていき,むしろ土

との接触が目に見える石,タンポポ,木のほうに,強いイメージなのであろうか。答えと しては,形をかえるから/土に帰る/土になる,といった答えがある。

 活動している(3%)のなかには,何らかの生命活動のニュアンスも含まれる,また自 力で生活しているといった答えも含まれる。生命活動/自力で生活,が答えの典型である。

切られるは,20歳の場合,木についての答えである。年齢が下ると,切られて死ぬかどう かが他の対象についても死の具体的な判断基準になることがあるが,20歳では木に限定さ れ,2.5%である。消失は,石の6%ほど多くはないが,木やタンポポの場合にも使われる 死の判断基準である。対象の姿が消失することは,死の基本的な特徴であろう。答えとし ては,土になって消える/なくなる/原型が残らないから,が挙げられる。

 判断の理由を見るところがら引き出されることは,個体の死の認識が,〈石は死なない,

タンポポ,木,イヌ,クジラ,大人,自分は死ぬ〉という常識の基礎になっていることで ある。個体としての認識が成立しにくい対象については,常識から外れる答が出されやす い。石やタンポポがそうした対象である。しかし,判断の多様な基準を20歳にみるとき,

死の判断を支える思考の重層性を認めるべきであろう。例えば,新たな生命,子どもなり のなかに,生が引き継がれていくとの感覚は,タンポポに限定された基準ではなく,自分 についても持ちうるものであろう。その感覚ないし判断を,常識に属さないとして切り捨 てるわけにはいかない。常識が死の判断において存在するとすれば,常識とは他の多くの 人々がそのように考えるであろうと予測できる判断と定義されることになろう。死の判断

は一人の人間の判断においても重層的である。またいくつもの判断理由を並べてみると,

ある判断理由にはそれを切り返す理由が語られるし,同じ根拠から異なる判断が生じる様 子がわかる。

III.常識の型 III−1.

 調査表では,一一つの問いに3つの選択肢があるから論理的には2187種の回答の型が可能 であるが,実際には344であった。そのなかでも,1%以上を採ると判断の型は9つに絞ら れる9)。3歳から15歳および20歳の全体で,最も大きな割合を示すのは3111111型(39.6%)

であり,2番目の1111111型が14.7%で,両者は飛び抜けている。

(12)

表5

調査全体の答の型 3111111

1111111 3131111 2111111 3311111 3331111 1311111 3111311 1111113

39.6 14.7 4.2 3.9 3.3 2.8 1.7 1.6 1.1

 これを20歳(表2)と比較してみよう。最も割合の多い3111111型(20歳では58.5%)と 2番目の1111111(16.6%)の順位は変わらないが,3131111(1.5%)が6番目,同じく6番

目に3311111(1.5%)が並ぶ。このことは,20歳にあってはタンポポと木に比較的同様の 判断が下されており,両者がばらばらに思考されていないことを示している。20歳ではタ

ンポポと木が15歳以下より同類として強く意識されるからであろう。

同じ傾向は3111311型が20歳では0%であることに現れる。20歳ではクジラについてイヌと は異なった判断が下される場合はわずかである。かわって20歳に登場するのは1111131型で ある。大人に対する判断は,自分についての判断と必ずしも一致しない。

 2111111型は,20歳では順位は変わらないが,1.9%に下がる。20歳では迷いが少なくな るためである。

 3111111型は,39.6%であったものが,20歳では58。5%に増える。常識型は年齢が増える

にしたがって暫時直線的に増えるわけでもない。3111111型の答えが多くなるのは,およそ

7歳からである。7歳〜15歳,20歳では,各年齢のうち35%程度以上がこの型で答える。

(13)

60 50

40

30 20 10

31U111

58,5

0全34567891。、、121314152。

 体歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳

533

48.8 488

45.7 44.3

45.8

39.6 38.3 37.7

34.8

27.9

1

8.5

50

1.8

図1 3111111型が各年齢どれくらいの割合を占めるか10)

 この「常識的」型は,全体では39.6%にすぎない。3歳から15歳の子どもたちの間では 38.0%を占め,過半数を占める意見ではない11)。

 ここから次のことが言えよう。子どもたちの死の意識の発達の程度を,石は死ぬもので はなく他の対象は死ぬものであると理解しているかどうかで測る図式は採れない。

III−2.

 図1で3111111型が50%を越えるのは9歳および20歳で,この2つの年齢付近で2カ所の 山が見られる。

 この点を考えるために,3111111型,1111111型,2111111型を併せて見てみたい。この3 つの型はどれも表2の上位9つに入っており,その割合は計58.1%におよぶ。全体を見通 すのに一番近いということであろう。図2に,この3つの型を並べた。

図2から石については,死ぬと答える年齢グループと,わからないが増える年齢グループ に分かれる。7歳から10歳,および15歳と20歳は,石は死なないと考える人数の多さが目に 付く12)。11歳から14歳は,これに加えて迷っている子どもがいることによって特徴づけら

れる。

(14)

60

50

40 30 20

10 0

一一

一3111111

→一一1111111

一→一一2111111

全345678910111213141520

体歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳

図2 3111111,1111111,21111111型が各年齢に占める割合

別言すれば,9歳あたりに死についての安定した基準をもつ時期があり,12歳あたりで はいろいろ考えてしまう,成人の頃再び判断は安定をみる,ということになる。それは主 に石についての判断に依存しているようである。

80 70 60 50 40 30 20

10 0

全345678910111213141520

 体歳歳歳歳歳歳歳歳歳 歳歳歳歳歳

       図3石:答の割合

一骨一はい

一叢一一わからない 一一一いいえ.

 9歳は,わからないの線を見ると,迷いが少ない。いいえ,はい,わからない,と並ぶ 形は,20歳が示す動きに近い。同様のことが15歳にも言える。20歳は,いろいろ考えてい

るが迷いは他の年齢に比べて少ない。

 11から14歳は,やはり石で迷っている。その形が図2の2111111型の動きとほぼ同型であ る。11歳から14歳が常識的な答をするか否かは,石の判断が主な役割を果たしている。20%

ないし25%程度は6歳以降,石について死ぬとの考えを抱いている。14歳の場合,迷いの 多さも含めて考えると,次のように言っていい。石が死ぬとの考えは,年齢の上昇にとも なって減少し,考え方が常識的になっていくというものではなく,ある程度の割合で,そ のように考える者がいるということである。

 図2および3において20歳に近い形を示すのは9歳,15歳である。次のような解釈が成り

(15)

立つかもしれない:死についての判断ないし死生観は一度9歳あたりで確立され,11から 14歳くらいで直接的な死あるいは体験による判断が崩れ,象徴的な死あるいは意味を死の 判断に取り込むようになる,それが判断の型においては迷いとして現れ,判断が再び確立 される15歳が20歳に近い考え方の型をとるようになるのだと。そして死の判断の確立とは,

それまでの死についての考え方を捨てることではなく,判断理由の重層構造として取り込 むことであり,それが20歳の死の考え方の多様性,部分的には幼い考えを持つように見え るのだろうが,を形成していくと。

1)調査の全体は1991年から1993年にかけて,3歳から15歳,20歳について,長崎を中心におこなわれた。

 長崎市と佐世保市の幼稚園,保育園,学童保育所,また長崎市,時津町,東彼杵郡の小学校,さらに  長崎市,熊本市,南松浦郡の中学校,および長崎市の大学,短期大学,看護学校でおこなわれた。8  歳の一部までは面接により,それ以上の年齢では調査票に書き込んでもらった。調査は上薗のほか大  学4年生を中心におこなわれた。各年齢の人数は次の通り。

総計 3歳 4歳 5歳 6歳 7歳 8歳 9歳 10歳 11歳 12歳 13歳 14歳 15歳 20歳 3384 57 161 211 247 339 341 199 211 167 178 408 297 303 265(人)

2)20歳とは,平均19.95歳,総数265人目19歳が35.8%,20歳が36.9%,21歳が16.2%,22歳が5.7%,24

  歳が0.8%,年齢不詳だが19歳から24歳の間であることが確実な者1.9%。なお,男子41.1%,女子

  57.4%,性別不詳の者1.5%。

3)尚学図書編集,国語大辞典,小学館,1271頁,昭和57年 4)守随憲治,今泉忠義,松村明,国語辞典,旺文社,544頁,1984 5)新村出,広辞苑第二版,1094頁,岩波書店,昭和44年

6)数字は無効回答を含む(はい),(いいえ)の割合。もっとも20歳の場合無効回答を除外しても数字に   変わりはない。(わからない)について,最も多いのは石の2.2%,木と大人の1.1%がこれに続き,イ   ヌ,クジラ,自分が0.4%,タンポポは0%であった。

7)複数解答が可能

8)複数回答が可能。タンポポと木の二つを同時に扱うことから,百分率を,20歳の人数265人の倍,530

  で割って出した。

9)3人以下の型を除き4人(0.1%)以上を採ると69の型に絞られる。

10)3111111型が各年齢に占める割合についての,カイニ乗値は304.9で,確率は0.01%であるから,この   型は年齢と無関係ではないと言える。

11)常識的かどうかについて全体としてみると,石は死なないと答える人(66.8%)が常識的だとすれば,

  そのうち59.4%がタンポポ以下自分まで常識を持ち続けている3111111型で,石は死ぬと答える常識的   というわけではない人(24.6%)のうち59.6%が,タンポポ以下自分までについては常識的に死ぬと

  の判定をしている。

12)3歳についてコメントしておきたい。3歳において型で言うと1111111が多いのは,3歳児が石は死ぬ

  と考えているからではない。3歳児の答えは,1111111型(22.8%)と3333333型(14.0%)と1こよっ

  て特徴づけられる。3歳児は対象によって判定し分けているというより,「はい」は,はい,「いいえ」

(16)

  は,いいえで対象にかかわらず通す傾向が強い。

参照

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