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浜岡からのメッセージ : 浜岡原発に携わる人々の 声

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(1)

浜岡からのメッセージ : 浜岡原発に携わる人々の

著者 小池 美紀, 旭 真理奈, 佐藤 瑠美

雑誌名 御前崎市・浜岡佐倉. ‑ (フィールドワーク実習調 査報告書 ; 平成24年度)

ページ 5‑44

発行年 2012‑12

出版者 静岡大学人文社会科学部社会学科文化人類学コース

URL http://hdl.handle.net/10297/7046

(2)

浜岡からのメッセージ

浜岡原発に携わる人々の声

はじめに

1

浜岡原発の立地の経緯

1 .   1

浜岡原発

1

2

号機

1 . 2

浜岡原発

3

4

号機

1 . 3

浜岡原発

5

6

号機

1 . 4

リプレース計画等

1 . 5

浜岡原発

1

2

号機運転終了

1 . 6

浜岡原発停止要請

2

浜岡原発と共生する浜田町

2 .   1

浜岡原発建設当時の浜岡町の様子

2 .   1 .   1

当時の町の概要

2 . 1 . 2

揺れる浜岡町

2 . 2

浜岡原発建設における町の変化

2 . 3

浜岡原発建設における町の取り組み

2 . 4

浜岡町の財政の変化

3

福島第一原発事故後の原発をめぐる動向

3 .   1

福島第一原発事故

3 . 2

国民、政治、経済界の動向

3 . 2 . 1

脱原発を主張する意見

3 . 2 . 2

脱原発派がとらえる国民世論・

政治界・経済界の変革

3 . 2 . 3

脱原発に否定的な意見

はじめに

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

小 池 美 紀 、 旭 真 里 奈 、 佐 藤 瑠 美

3 . 3

マスメディアの報道

3 . 3 . 1

浜岡原発停止前の報道

3 . 3 . 2

浜岡原発停止後の報道

4

浜岡原発に携わる人々の声

4 .   1

浜岡原発佐倉地区担当として働く人 の声

4 . 2  

御前崎市役所でのインタビュー

4 . 2 . 1

市役所の政策

4 . 2 . 2

従来の想定を上回る『南海トラフ

k

地震』の想定

4 . 3

浜岡原発

0 8

の声

4 . 4

防潮堤工事に来ている中央開発の 人々

4 . 5

浜岡原発見学時のインタビュー

5

今後のエネルギー

5 .   1 

風力発電の概要

5 . 2  

風力発電の現実

5 . 3  

再処理と廃棄物処理の課題 おわりに

参考文献・参考資料・参考

H P

平成

2 3 ( 2 0 1 1 )

3

1 1日、未曾有の大震災が東日本を襲った。震源地は宮城沖で、後に

マグニチュード

9 . 0

と判断され、世界第

4

位の地震で、あった。死者と行方不明者は

2

万以 上で、圏内戦後最悪の自然災害となった。この東日本大震災によって福島第一原発は、地 震と津波による電源喪失から炉心溶融に至り、

3

基で水素爆発、

4

基で放射能の大量放出が 起こった。国際原子力機関

(IAEA)

の評価尺度で、この福島第一原子力発電所事故は、昭和 6

H1

98ω年に起こった人類が最初に直面した原子力発電所(以下原発)問題であるチェルノブ

(3)

御前崎市・浜岡佐倉

イリ事故

1

と同じ、レベル

7

であるとされた(戸田

2 0 1 2 )

福島第一原発事故を皮切りに、マスメディアからは原発についての情報が多く流され、

国民の問では反原発の動きが高まった。各地の原発の停止に伴い、日本全体では電力不足 が叫ばれ、日本の電力状況に計り知れない大きな打撃を与えた。東日本大震災以降、電力 は「湯水のように使えるもの」ではなく、「大切に使うもの」となり、私たちはエネルギー の重要性とありがたさを再認識し、そしてエネルギーに対する大きな意識の変換を迫られ た。

静岡県御前崎市旧浜岡町には、原発と風力発電の二つのエネルギー供給施設がある。と りわけ中部電力株式会社(以下中電)の浜岡原子力発電所(以下浜岡原発)が立地されている町と して有名であり、今回の東日本大震災の後にも改めて大きな注目を集めた。そこで、私た ちは、メディアではあまり取り上げられないエネルギーの生産者や地元住民の視点に重点 を置き、フィールドワーク調査を行うことにした。現場で働く人から見た原発の存在、浜 岡町と浜岡原発との歩み、浜岡町に住む地元住民にとっての浜岡原発の存在、そしてメデ ィアから流れる情報と、当事者や地元住民とのギャッブロについて調査を行った。本調査を 通して見えてきた、現場で働く人々や地元浜岡町に住む人々の生きた声が、本報告書を手

に取った人に一人でも多く伝われば幸いである。

1

浜田原発の立地の経緯

まず、浜岡原発が│日浜岡町に建設されるまでの経緯をたどってみよう。なお建設及び立 地の経緯について、『中部電力

30

年史

I I

(中部電力

30

年史編集委員会

1 9 8 1 )

、『中部電力

40

年 史

I I

(電気事業史・社史編纂会議

1 9 9 1 )

、『中部電力

50

年史

I I

(社史編纂会議

2 0 0 1 )   r

中部電力

60

年史

I I

(社史編纂会議

2 0 1 1 )

を参考にし、記述している。

1 . 1

浜岡原発

1

2

号機

浜岡原発

1

号機(出力

54

万キロワット)は、昭和

42

(1

9 6 7 )

年に地点決定以来、幾多の変遷を経 て、昭和

46

(1

9 7 1 )

3

月、地元の理解と協力を得て着工の運びとなり、昭和

5 1 ( 1 9 7 6 )

3

17

日、中電初の原発として待望の営業運転を開始した。

2

号機(出力

84

万キロワット)は昭和

4 7 ( 1 9 7 2 )

1

月、静岡県、浜岡町および関係

7

漁業協 同組合(榛南

5

漁協と遠州

2

漁協)に増設の申し入れを行った。これに対して浜岡町議会での検 討、地区ごとの町政懇談会の開催などにより、町としての総意を決定する活動が行われた。

昭和

4 7 ( 1 9 7 2 )

2

月、県は地元の意向を踏まえ、国の計画に組み入れられることに同意す る旨を回答し、電源開発調整審議会(以下電調審)において電源開発の基本計画に組み入れられ ることが承認された。そして昭和

48

(1

9 7 3 )

6

月、原子炉設置変更および電気工作物変更に ついて許可された。

1  1986 年 4 月、ウクライナの首都キエフ北方にある原子炉発電所 4 号炉で、炉心の爆発・溶融破壊、建屋

破壊事故が起き、多数の死傷者が出て、欧州諸国など広い範囲に放射能汚染をもたらした。

(4)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

また、同年

1 0

月、県の立ち合いのもとに浜岡町と中電の間で

f 2

号機増設に伴う相互協 力に関する協定」を締結した。したがって、残るは

7

漁業協同組合に対する漁業補償のみ ということになったが、その後、漁業協同組合側に中電との交渉体制ができたことから補 償交渉が進展し、昭和

49

(1

9 7 4 )

年 3月、榛南

5

漁業協同組合・遠州

2

漁業協同組合と中電 は、漁業補償の協定を締結した。この漁業補償の解決にともない、中電は昭和

49

年3月に 浜岡原発を着工し、昭和田

( 1 9 7 8 )

1 1

29

日営業運転を開始した。

1 . 2

浜岡原発

3

4

号機

昭和

5 2

(1

9 7 7 )

6

月、中電は浜岡町および関係

7

漁業協同組合に

3

号機

( 1 1 0

万キロワット) 増設の申し入れを行い、同時に静岡県および隣接4町(旧御前崎町・旧相良町・旧小笠町・旧大東 町)に増設について協力を要請した。これを受けて、浜岡町当局は議会・対策協議会などで 説明を行うとともに研究会、講演会、見学会などを実施した。住民の意見を集約するため に開催された地区ごとの町政懇談会においても、前向きに検討がなされた。

昭和田(1

9 7 8 )

年6月、中電は環境影響調査書を通商産業省へ提出するとともに、地元で説 明会などを開催し、広く一般に調査書の公開・縦覧を行った。同年 10月、第 76回電調審 において、国の電源開発基本計画に組み入れられることが決定し、同年

1 2

月、原子炉設置 変更許可を申請した。

申請直後の昭和

5 4 ( 1 9 7 9 )

1

月に原子力行政体制の改革が実施され、安全審査はダブ、ルチ ェック(通商産業省による

1

次審査、原子力安全委員会、原子力委員会による

2

次審査)で行われること になった。さらに、昭和田(1

9 8 1 )

3

月の第

2

次公開ヒアリングでは、約

5000

名の浜岡原 発反対派がデモを行うなど、地元ばかりでなく全国的にも注目を集めた。

昭和

54

3

月にスリーマイル島発電所の事故

2

、 昭 和 田 年

4

月に日本原子力発電(株)敦 賀発電所の廃液漏洩問題、さらに東海地震問題が生じたため、これらの影響を受けて厳し い安全審査が行われ、約

3

年の年月をかけて昭和

56

1 1

月に許可された。一方、地元関 係者に対しては原子力に対する不安を解消するため、中電は積極的に

PR

活動を展開し、引 き続き理解と協力が得られるよう努めた。

その後、浜岡町との話し合いが解決して着工同意を得て、昭和田(1

9 8 2 )

8

月、静岡県の 立ち合いのもとに、浜岡町と中電との間で3号機増設にかかわる協定書を締結した。また、

漁業補償について榛南

5

漁業協同組合と精力的に交渉を進めた結果、同年

1 1

月に仮協定を 締結して着工の運びとなった(本協定は昭和田年

3

月締結)。同年

1 2

月に遠州

2

漁業協同組合

との漁業補償も解決した。

昭和

60

(1

9 8 5 )

3

月、中電は多年にわたる地元の深い理解と協力のなかで、

1

2

号機な らびに着実に建設工事を進めている

3

号機の実績をもとに、浜岡町および関係

7漁業協同

組合に

4

号機

( 1 1 3

7

000

キロワット)増設を申し入れ、同時に静岡県および隣接

4

町に増設

2  1 9 7 9

3

月、アメリカ東部ペンシルヴァニア州ハリスバーグ、市のサスケハナ川にある島にある原子力発 電所の加圧水型炉で、炉心の半ばが溶融する事故が発生し、放射能が外部に漏れた。

(5)

御前崎市・浜阿佐倉

について協力を要請した。これを受けて浜岡町当局は、議会・対策協議会および各地区の 町政懇談会などで増設計画の説明およびこれに対する住民の意見を集約したが、そのなか で、原子力発電所が町の振興に役立っていることを踏まえて前向きに取り組む意向を明らか にした。

昭和

6 1 ( 1 9 8 6 )

3月、中電は環境影響調査書を通商産業省へ提出するとともに、関係 5

町対策協議会、各漁業協同組合など各種団体に環境影響調査書の説明会を開催する一方、

広く一般に調査書の公開・縦覧をすすめ、早期に同意が得られるよう努めた。

同年

4

月、浜岡町は

4号機増設について町議会全員協議会の同意を得て、静岡県の立ち

合いのもとに、浜岡町と中電との間で4号機増設にかかわる協定書を締結した。

昭和

61

年 4月に、チェルノブイリ原子力発電所で事故が発生し、世界的に反原発運動が 激化した。そのなかで中電は、地元住民や漁業関係者に対し同事故についての説明を積極 的に行い、

4

号機増設の理解と協力が得られるよう努めた。 漁業補償については

7

漁業協同 組合と交渉を進めた結果、昭和

61

年10月榛南

5

漁業協同組合と仮協定(本協定は昭和田(

1 9 8 7 ) 年 3

月)を、同年

12

月には遠州、12漁業協同組合と協定を締結した。

一方、このような情勢のなかで、昭和

61

8

月、第

1

次公開ヒアリングが開催され、同 年10月には第104回電調審において、国の電源開発基本計画に組み入れられることが決定 され、同年

1 1

月、原子炉設置変更許可申請を行った。第

2次公開ヒアリングは、公開ヒア

リング方式のような大規模なものとせず、昭和

63

(1

9 8 8 )

1

月に「地元意見を聴く会」とし て開催され、同年

8

月に許可となった。

1 . 3

浜岡原発

5

6

号機

将来の電力需要の伸びにこたえるとともに電源の多様化を目指して、中電は

21

世紀初頭 以降の重要電源の開発を着実に進めるため、 4号機東側に増設可能との見通しを得て、平成

5 ( 1 9 9 3 )

1 2

月、浜岡町および関係

7

漁業協同組合に

5号機(1 3 8

万キロワット)増設の申し入 れを行うとともに静岡県および隣接 4町に増設についての協力を要請した。これを受けて 浜岡町は、議会・対策協議会および各地区の町政懇談会などで増設計画の説明およびこれ に対する住民の意見を集約した。

平成

6

(1

9 9 4 )

年10月、中電は、環境影響調査書を通産省に提出するとともに、関係

5町対

策協議会、各漁業協同組合など各種団体に環境影響調査書の説明会を開催する一方、広く 一般に調査書の公開・縦覧を行い、早期に同意が得られるよう努めた。

ところが、平成

7

(1

9 9 5 )

1

月、兵庫県南部地震が発生した。国は、原子力発電所の安全 審査に用いる「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」が兵庫県南部地震を踏まえ ても打倒であることを検討するため、原子力施設耐震安全検討会を設置した。平成

7年 9

月、同検討会の検討結果が公表され、同指針の妥当性が示された。この時期、

5

号機増設の 地元意見集約時期と重なったこともあり、中電は積極的に原子力発電所の耐震安全性につ いて説明を行った。

(6)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

また、平成

7

1 2

月、動力炉・核燃料開発事業団(旧動燃現核燃料サイクル開発機構)の高 速増殖原型炉『もんじゅ』においてナトリウム漏洩事故が発生した。このような情勢のな かで、中電は地元住民や漁業関係者に対し同事故の説明を積極的に行い、

5

号機増設の理解

と協力が得られるよう努めた。

平成

8 ( 1 9 9 6 )

年10月、浜岡町が5号機増設について町議会全員協議会の同意を得て、同年

1 2

月、中電は浜岡町との間で

5

号機増設にかかわる協定書を締結した。平成

8

1 2

月、 第

1

次公開ヒアリングが開催され、平成

9 ( 1 9 9 7 )

3

月には第

1 3 4

回電調審において、国の 電源開発基本計画に組み入れられることが決定された。

一方、漁業補償については

7

漁業協同組合と交渉を進めた結果、平成

9

9

月榛南

5

漁 業協同組合と仮協定(本協定は平成

1 0 ( 1 9 9 8 ) 年 3

月)、平成10年

8

月には遠州、

1 2

漁業協同組合と 協定を締結した。

原子炉設置変更許可申請については、中電は平成

9

4

月に申請し、平成 10

( 1 9 9 8 )

2

月、通産省から原子力委員会および原理力安全委員会に諮問された後、第

2次公開ヒアリ

ングが同年6月に開催され、同年

1 2

月に許可となった。

許可後ただちに、第

1

回工事計画認可を申請し、平成

1 1 ( 1 9 9 9 )

3

月に認可され(これをも って着工となった)、つづいて静岡県に建築確認を申請し、同年

7月に建築確認されたことか

ら、建屋基礎掘削工事を開始した。

6

号機の建設計画は、電気出力

1 4 0

万キロワット級の改良型

BWR

を採用し、平成

30

年 代前半の運転開始を目標にした。建設場所は

5号機の東側とし、建設に必要となる用地を

新たに確保することとした。平成

2 1 ( 2 0 0 9 )

4

月、 6号機建設計画の基本検討(主要設備の配 置検討など)を行うため、計画地点周辺の地質調査を開始した。この調査は同年

1 2

月に終了

した。

6号機の建設に先立ち、最初の手続きとなる環境影響評価は、平成

9 ( 1 9 9 7 )

年の環境影響 評価法の制定を受けた中電初の手続きとなる。従来は、環境影響評価が終了してから調査 書を公表していたが、新法では調査・予測・評価の手法について記載した方法書をあらか じめ公表する手順が追加された。また、環境影響評価の内容についても、生態系の評価、

人と自然とのふれあいの活動の場など、従来に比べて幅広い評価が必要となった。中電で は、この方法書の作成と公表の準備を進めていたが、平成

2 3 ( 2 0 1 1 )

3

月に発生した東日本 大震災への対応を最優先し、工程の見直しを検討することとした。

1 . 4

リプレース計画等

平成

2 0 ( 2 0 0 8 )

1 2

月、中電は、

1

2

号機の運転終了の決定、かわりに6号機の開発を目 指すこと、併せて使用済核燃料乾式貯蔵施設を建設することを、「浜岡原子力発電所リプレ ース計画等」として公表した。

浜岡原発について中電は、平成

1 7 ( 2 0 0 5 )

1

月に、地元住民の安心を第一に考え、自主的 に目標地震動約

1 0 0 0

ガル(岩盤上における揺れの大きさの単位)による耐震裕度向上工事を実施

(7)

御前崎市・浜伺佐倉

することとした。

3‑5

号機の改造工事は平成

20

3

月までに完了した。しかし、

1

2号

機が目標地震動に対応するためには、相当な工事費用と工事期間を要するとの結論に至っ

た。

一方、電力の安定供給と地球環境保全の観点から、原子力発電の果たす役割に一層の期 待が集まるなか、電源構成に占める原子力発電の割合が他の電気事業者に比べて低い中電 は、何よりも優先にして原子力発電への積極的な取り組みを進める必要があった。

以上のことを踏まえ、

1

2号機について工事を実施し運転を再開することは経済性に乏

しいことから、その運転を終了することとした。かわりに、送電線路等の既存の設備を共 用できることから、浜岡原子力発電所の用地の東側に

6

号機を平成

30

年代前半の運転開始 を目標に建設することとした。また、

1

2号機の運転終了に伴い両号機の燃料プールから

使用済核燃料を搬出することを踏まえ、発電所施設の一部として全号機共用の使用済核燃 料乾式貯蔵施設を平成

28

年度の使用開始を目標に建設することとした。

中電はリプレース計画等の公表時に合わせて、御前崎市および関係 6漁業協同組合に対 して6号機建設に関わる申し入れおよびリプレース計画等に関わる協力を要請した。また、

静岡県および隣接

3

市に対してリプレース計画等に関わる協力を要請した。以降、リプレ ース計画等について、中電は地元住民に対し説明を積極的に行い、理解と協力が得られる

ように努めていくこととした。

1.

5

浜岡原発

1

2

号機運転終了

平成

2 0 ( 2 0 0 8 )

1 2

月、

1.2

号機の運転終了野決定に伴い、浜岡原発電気出力について、

488

4

万キロワット(当時の

5 号機出力は 1 2 6

7

万キロワット)から、

1

2

号機出力分を減じた

350

4

万キロワットに変更する旨の電気工作物変更届出を経済産業大臣に行った。また、経済産 業大臣へ

1

2

号機の運転を行わないことなどを規定した原子炉施設保安規定の変更認可を 申請し、平成

2 1 ( 2 0 0 9 )

1

月に認可された。

1.2

号機は、これまでに受けた地元住民から の理解・協力に対して感謝の意を表しつつ、平成

21

1

30日午前零時をもって運転を

終了した。累積の発電時間は

1

号機で

14

4570

時間、

2

号機で

1 6

939

時間で、あった。

発電電力量は

1

号機で

75

056

百万キロワット

h

、2号機で

1 3 2

259

百万キロワット

hであ

った。設備利用率は

1

号機で

4 8 . 2

パーセント、

2

号機で

5 9 . 5

パーセントで、あった。

日本では、運転を終了した原子力発電所は解体撤去することになっており、その実施に あたっては、法令に基づき、あらかじめ廃止措置の計画を定め、国の認可を受けることと なっている。このため、平成

21

6

月、

1

2号機にかかわる廃止措置計画認可申請書を

経済産業大臣に提出した。同申請書においては、原子炉施設の解体を安全かっ確実なもの とするための全体計画や、至近数年間の解体工事準備期間中に実施する、系統除染や汚染 状況調査等の作業内容および安全確保対策などを記載した。また、廃止措置の期間全体を 第

1

段階「解体工事準備期間

j

から第

4

段階「建屋等解体撤去期間」までの

4

段階に区分 し、この順番で実施していくことを決定した。第

2

段階移行については、第

1

段階での調

(8)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

査・評価結果に基づき詳細計画を策定し、廃止措置計画の変更認可を受けた上で実施する 予定とした。

廃止措置計画については、平成

21

1 1

月、経済産業大臣より認可を受けた。また、

1

2 号機が廃止措置段階に移行することから、運転段階にある 3~5 号機(共用施設を含む)と、廃 止措置段階となる

1

2

号機の施設とにそれぞれ分けた。平成

21

1 0

月、経済産業大臣へ、

必要な保安上の規定を追加した原子炉施設保安規定の変更認可を申請し、同年

1 1

月に認可 を受けた。これらの認可により、

1

2

号機は、廃止措置段階(第

1

段階)に移行した。

国内で初の商業用軽水炉であり、また、

2

基同時並行の廃止措置になることから、作業員 の被ばくや放射性廃棄物の発生をより低減する工夫・努力をしながら、後に続く他の原子 力発電所の規範になるような作業を進めていくこととした。その後、安全確保を最優先に、

1段階として計画した燃料の搬出、施設の除染状況の調査・検討、系統除染、放射線管

理区域外の設備・機器の解体撤去の各作業を進めた。

1.2号機の系統除染作業は、原子炉

再循環系、原子炉冷却材浄化系および余熱除去系の機器・配管について、平成

21

1 1

月 から

1 2

月にかけて機械的な除染作業を実施し、同年

1 2

月から

22

3

月にかけて科学的な 除染作業を実施した。

一方、放射線管理区域外の設備・機器の解体撤去工事として、平成

21

1 2

月に、

1

2

号機の屋外に設置されている原子炉格納容器宝素供給装置の解体撤去工事を開始した。

1 . 6浜岡原発停止要請

平成

2 3 ( 2 0 1 1 )

3

1 1日に起こった東日本大震災を受け、同年 5

6日、菅直人元総理

大臣は緊急記者会見を聞き、浜岡原発の停止要請を中電に行う旨を明らかにした(玉川

2 0 1 1 )

。この要請を受け、中電は同年

5

14日に浜向原発をすべて停止し、平成 2 4 ( 2 0 1 2 )

9

月現在も浜岡原発は運転を再開しておらず、

6

号機の建設工事も停止している。

以上、史料はすべて中電側のものであるが、中電が旧浜岡町へ浜岡原発を立地した経緯 や中電の取り組み、それに伴う地元住民の協力や受け入れが多くなされてきたことがわか る。

2浜岡原発と共生する浜岡町

私たちが調査を行った旧浜岡町佐倉地区は、浜岡原発の建設によって、そこに住む人々 の暮らしを大きく変化した地域である。この節では、浜岡原発と共生してきた旧浜岡町の 当時の様子や町の生活の変容を、記述していきたいと思う。なお、旧浜岡町に浜岡原発立 地案が持ち上がった当時の町の概要、様子については『原発の町から 東海大地震帯上の 浜岡原発~

( 森 1 9 8 2 )

を参考にしている。

2 .   1

浜岡原発建設当時の浜田町の様子

2 .   1 .   1

当時の町の概要

(9)

御前崎市・浜岡佐倉

静岡、浜松岡市に挟まれた小笠郡地方は、静岡県の中でも最もオープンスペースに恵ま れた土地である。いわゆる太平洋ベルト地帯で、これほど開発と工業化の手が伸びていな い地域は珍しい。それゆえこの地方は、古い言葉で言えば太平洋メガロポリス最後のオー プンスペースと言われたわけである。この小笠郡の一角を占める浜岡町も、この例にもれ ない、開発から取り残された田園地帯であった。浜岡原発計画が明らかになった頃のこの 町は人口

1

7

千人余りで、あった。昭和

30

年(

1 9 5 5 )

に池新田町と周辺の佐倉、比木、朝比 奈、新野の各村が合併して発足した町で、住民の

7

割が米、茶、たばこなどを栽培してい た。農業以外にはこれといった産業がないため、毎年若い人たちが町外に流出、年

300人

前後の人口減を見ていた過疎地であった。

浜岡原発計画が公になった昭和

42年(1 9 6 7 ) 7

月末現在の浜岡の町勢を見てみる。面積

5 3 . 9 1

平方キロメートル、人口

1

7361

人、

341

世帯となっている。

7

月中に町に転入し た人

38

人、同じく転出した人は

32

人で、同月中の出生

17

人、同じく死亡

1 6

人である。

中電が浜岡原発建設地点として白羽の矢を建てるまで、静岡県内でもこの町の名前を知っ ている人は少なかった。また、当時の浜岡町の財政を見てみると、

1967

年度の財政規模

2

3590

万円のうち、財源トップは地方交付税で、

8700

万円、全体の

37

パーセントを占め

ていた。典型的な過疎の赤字自治体で、あった。

2 . 1 . 2

揺れる浜岡町

昭和

42

7

5日付の『産経新聞』は、 1

面で静岡発のスクープ記事を掲載した。「中 電の原子力発電所浜岡町(静岡県)が有力に 出力

50

万キロワット 東海村の

3

倍。」これ が浜岡原発計画を公にした発端である。原発の静岡県内建設を計画している中電はこのほ ど、岡県小笠原郡浜岡町佐倉地区(現在の静岡県御前崎市浜阿佐倉地区)を有力候補と決め、地元 町当局に「建設に協力してほしい」と申し入れた。開発電所の規模は電気出力

50

万キロワ ットと言われ、東海村の原子力発電所の約 3倍の大規模なもので、あった。当局、町議会と も誘致賛成の態度をほぼ固めており、静岡県内初の原子力発電所建設問題は今後急速に具 体化するものと見られる、と同紙の記事はつづけている。

中電の浜岡町への原発建設正式申し入れは、同町佐倉の新野川と震川に挟まれた海辺の 約

160

万平方メートルの敷地に、

500

億円をかけて出力

50

万キロワットの沸騰水型軽水炉 の原発

1

基を建設したい、というものだった。

この計画は、『産経新聞』のスクープ記事の半年も前の

1

月に、すでに内々に浜岡町に打 診されていたものだ。時の町長は、その後町議

2

人と同町企画室長などの腹心をひそかに 当時の原発先進地茨城県東海村に派遣する一方、同町佐倉出身の実業界の大物、水野成夫 サンケイ新聞社長(当時)にこの計画を受け入れるべきかどうか相談した。

これが『産経新聞』のスクープに繋がったとしづ次第だが、いくら隠密行動といっても 小さな町のことである、町民がこうした慌ただしい動きを察知しないはずがない。そのた め町長が「安全性には信頼が置ける

J

と原発受け入れの意向を固めた頃には、原発建設の

(10)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

噂は人から人へ口伝えで、ほぼ町中に広まっていた。

原発建設の話が持ち上がった当時、浜岡町は典型的な過疎の赤字自治体で、あったため、

当時の河原崎貢町長は原発建設を推し進めていたが、原発歓迎の気持ちは、もちろん町長 だけで、はなかった。当時いわゆる電源三法(電源開発促進法、電源開発促進対策特別会計法、発電用 施設周辺地域整備法)はまだ成立していなかったが、原発を誘致すれば、町に固定資産税が入 る、建設費数百億円(浜岡

1 号機の場合は約 6 0 0

億円)という原発の設備投資により、雇用の増加 や資材の調達などの利益も地元に落ちるなど、このような金銭に対する思惑が、この地方 の人々の素朴な開発願望と絡み合い、それを巻き込んで、原発推進の声が町の有力者の音 頭とりで強まっていった。

昭和

42

7

1 2S

,すなわち新聞報道から一週間後、町当局は建設地の地元佐倉二区 を手始めに原発建設計画の概要や計画発表に至る経過について地元説明会を開始、同月末 には河原崎町長自らが、御前崎町や相良町など周辺町村に出向いて経過報告をして廻った。

そして

9

23日には、浜岡町議会全員協議会が中電との交渉に入ることを決めたことに続

き、

3日後の 26日には自民党浜岡支部が支部大会を聞き、「原発設置の実現に向けて前進す

る」との大会決議を採択した。保守系が議席の 9割を占める町議会の原発に対する態度は ここで決まった。翌々日の 28 日には再び全員協議会が聞かれ、「補償などの諸条件が満足 されれば、原発建設を受け入れる」と、原発受け入れの用意を申し合わせ、

29日には当時

の中部電力副社長が、町会本会議で型通りに「電気出力

50

万キロワットの原発を佐倉地区 に建設したい」と申し入れて、浜岡原発は正式にスタートした。中電が町の有力者を通じ てひそかに計画を打診して以来、半年余りというスピードぶりで、あった。

2 . 2浜岡原発建設における町の変化

以上が文献による当時の旧浜岡町の様子であるが、ここでは私たちが地元住民にインタ ビ、ューを行い、得ることができた生の声を参考に浜岡原発が立地される前と後での町の様 子の変化について記述していきたいと思う。

「この辺りはとにかく財政力が低かったんと鴨川義郎氏

( 8 3

歳)は語ってくれた。鴨川氏 は、昭和

50

(1

9 7 5 )

年から昭和

62

(1

9 8 7 )

年までの

1 2

年間、旧浜岡町町長を勤めた経歴をもち、

まさに浜岡原発で浜岡町が揺れた時代を生きてきた人物である。

浜岡原発が立地される前の浜岡町は、整備された道路や街灯もなく、 トンネルで固まれ ていたため、陸の孤島や低開発地域と呼ばれていたそうだ。工場誘致もままならない土地 であったが、浜岡町には広い土地、岩盤、冷却水の 3つの条件がそろっており、中部電力 の原発設置の候補地として挙がった。原発は誘致という形で設置されることが一般的だが、

浜岡町の場合は中部電力から請願をしてきた。浜岡原発建設に伴う地主と中部電力の交渉 に、鴨川義郎氏も立ち会った。浜岡町に土地をもっ

293人の地主たちは、先祖代々受け継

いできた土地を譲りたくはなかったが、国のエネルギ一政策のため、浜岡町の発展のため にと協力してくれたそうだ。

(11)

御前崎市・浜阿佐倉

浜岡原発ができてから、浜岡町の財政は一気に上がったという。市立御前崎総合病院が 建設され、田んぼだ、った土地に大型ショッピングセンターが建つようになり、最初は地域 の人々も、目覚ましい発展ぶりに驚いていたそうだ。この

4 0

年間の浜岡原発による恩恵は 実に大きいものであった、と鴨川氏は感慨深そうに語った。

私たちが旧浜岡町佐倉地区滞在中お世話になった「民宿たけゅう

Jのご主人、竹田雄三

郎氏

( 5 9

歳)にもインタビューをさせてもらった。浜岡原発ができてから、浜岡原発の定期点 検で佐倉地区に業者関係の人が大勢来るようになったが、近くに泊まる宿がなかったため、

もともと自営業を考えていた竹田氏は、昭和

56

(1

9 8 1 )

年に「民宿たけゅう」を始めたそうだ。

民宿を通して宿泊客である浜岡原発関係の業者と

30

年来の付き合いがある方もいるとのこ とである。竹田氏は浜岡原発の立地における当時の中部電力と浜岡町との様子を語ってく れた。

浜岡原発ができる前の当時の浜岡町は、藤枝・袋井聞を走るディーゼ、ル機関車が通って いたぐらいで、他は特に何もなかったそうだ。昭和

43

(1

9 6 8 )

年に中電から浜岡原発建設の申 し出が浜岡町へ提出された際、当時の『産経新聞社』社長に相談した当時の町長は「金の 卵を産む鶏が空から降ってきたJ という話をされ、浜岡原発の建設はお金になる話しだか ら受けよう、ということになったのである。浜岡原発が建設されることによって町が潤う のではないか、と町の人々も期待し、中電の原発建設を容認した。中部電力に土地を売り、

商売が成り立たなくなった人が中電に雇われ、職をもらっていた。中電が建設される土地 には

7軒ほど貧しい家が建っていたが、中電がその家々を移転したことで、その家の人々

は以前よりも良い暮らしが送れるようになったとしづ。

浜岡原発ができてから、半年に

1

回ある

90

日間の定期点検のたびに、佐倉地区には浜岡 原発関係の労働者が大勢来るようになり、民宿も賑わいを見せていた。

3

号機建設の時期は 一番経営状況が良く、その後もリプレース計画で、持ち上がった

6

号機建設における地盤調 査や地質調査のボーリング業者や、工場増設や橋の建設での工事業者が宿泊客として民宿 を利用していたが、

1 0

年前からそのような宿泊客は少なくなってきているようだ。定期点 検日数の短縮や、労働者の削減、ビジネスホテルの開業が原因である。今は浜岡原発建屋 の屋根の防水加工業者や、送電線の建て替えを行う業者が「民宿たけゅう

j

を利用してい るそうだ。浜岡原発ができてからというもの、民宿やガソリンスタンド、飲み屋など町の 庖の景気は良くなり、その頃の浜岡町は人口に対して飲食庖が

1

番多い町だと植われてい たが、今では町の活気も失われつつある、と語った。民宿を営んでいるだけあって、浜岡 町の活気の変化を肌で感じているようで、あった。

2 . 3

浜岡原発建設における町の取り組み

浜岡原発が建設されるにあたって、旧浜岡町佐倉地区では、どのような取り組みがなさ れてきたのだろうか。この節ではインタピ、ューによって得た町の取り組みを記述していき たいと思う。

(12)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

まず、御前崎市町内会連合会副会長である平林和丸氏

( 7 3

歳)にお話を伺った。

原発建設後、佐倉地区対策協議会(以下佐対協)というものが設置されたそうだ。佐対協は昭 和

43(1968)

年に設立され、役員は

16

人で構成されている。会長は選挙で選ばれ、任期は

2

年となっている。月に

2回対策協議会が聞かれ、中部電力側が佐対協の役員に原発の状況

を説明する。年に

1回聞かれる説明会は住民向けのものであり、佐対協役員が各公民館に

中電を呼んで、住民に質疑応答をとるものである。つまり佐対協は住民の代表であり、中 電の窓口でもある。説明会については回覧板で住民に知らせ、それを受けて中電の説明を 聞きたい人が集まる会である。原発についての詳しい説明は難しいため、普通の人が聞い てもまず分からないだろうし、知識を持っている人でなければ専門的で鋭い質問ができな いため、ここ佐倉

3

区の町内会に入っている人数

191

人中、毎年

50

人ほどが説明会に足を 運んでいる。参加者は積極的に中電へ質問を投げかけているなど、熱心な様子であるよう だ。

また、前節にも登場した「民宿たけゅう」のご主人、竹田雄二郎氏が佐倉協力会に参加 しているということで、佐倉協力会についてお話を伺った。

佐倉協力会とは、土建やノ〈イク、電気屋などの地元経営者が、中電から仕事が出たとき、

地元のことは地元でやらせてもらう商工会のような、中部電力に協力する組織である。サ ービスセンター協力会というのは、昔は中電の草刈りや、浜岡原発で出た温水から発生し たカキを収穫、粉砕して肥料にする作業などを行っていた組織であり、佐倉協力会はこの サービスセンター協力会が元となっている。この組織から独立してできた組織が協力会と なった。佐倉地区に中電があるため、佐倉地区の人々優先に使ってもらっており、主に土 建業の人に仕事が多い。この組織は80社程で成り立っており、彼らは自分たちの儲けとい

うよりも、佐倉地区を一つにまとめるために働いているそうだ。

浜岡原発が建設されるにあたって、浜岡町では受動的なだけではなく、町自らが能動的 に中電や浜岡原発にかかわってきたこと、そして雇用面で人々の生活と中電とがかかわり 合ってきたことがわかる。

2 . 4

浜岡町の財政の変化

浜岡町には道路網が整備されており、町を東商に貫通する国道

150号から県道、町道が

延びる。町道とは言っても、道幅は広く、両側には並木のある歩道が続いている。中電の 電柱もうすい茶色に塗装され、環境美観に配慮している。浜岡町は社会資本も充実してい る。教育、文化、スポーツ、医療、福祉などの施設と制度は極めて高水準である。道路、

下水道の整備はもちろん、下水道設備も平成

13(200

1)年現在建設中だ。言うまでもなく、豊 かな財政力が背景になっている(森

2 0 0 1 )

。実際私たちが本調査で旧浜岡町を訪れた際、町に はコンビニエンスストアや大型スーパー、パチンコ届や公共施設なども充実しており、都 会的な印象を受けた。旧浜岡町は浜岡原発ができてからずいぶんと変容を遂げたのである。

浜岡原発を建設する前、昭和

40

年度の浜岡町の一般会計はわずか

2

6

000

万円、財政

(13)

御前崎市・浜岡佐倉

力指数も 0.32の低水準であり、財政の 70パーセントは国や県からの支援を必要としてい た。しかし浜岡原発立地による固からの交付金や固定資産税等による税収の増加により、

自治体財政が大きく躍動した。浜岡原発

1

号機の営業が始まった翌年の昭和

5 2

年度には大 規模償却資産に係る固定資産税が飛躍的に増収となったことで、財政力指数も1.02となっ た。昭和

5 3

年度に

0 . 8 8

1

を割り込んだが、昭和

54

年度以後は

2

号機から

4

号機の運転 営業も始まり、1.

3

以上を維持している。合併年度の平成

1 6

年度には1.

1 8

となったが、平 成17年度に5号機の営業運転が始まり、平成23年度は1.27となっている。

税収の増加により、さまざまな事業に資金が交付され、設備施設も充実した。市立御前 崎市総合病院、市立図書館『アスノ勺レ』、観光物産会館『なぶら館』、市民プール『ぷるる』、

ふれあい福祉センター『なごみ』、佐倉多目的ホール、御前崎ケープ、ルテレビ、佐倉幼稚園 など、町の教育、文化、医療、福祉施設などは、交付金でまかなわれた。(小池美紀)

3

福島第一原発事故後の原発をめぐる動向

「はじめに

J

でも述べたが、平成23(2011)年3月 11日、東日本大震災に伴い福島第一原 発事故が起こった。福島第一原発事故は国内史上最悪の原発事故であるとされ、原発を取 り巻く状況は緊迫したものとなった。浜岡原発は数ある原発の中でも「世界一危険な原発」

と称され、日本中から大きな注目を集めることとなった。この節では、福島第一原発事故 後の国民、政治、経済界、マスメディアの原発に対する動向はどのようなもので、あったか を明らかにしたい。そのために、まず福島第一原発事故の特徴を述べる。続いて福島第一 原発事故の後に主張された脱原発派の意見と、脱原発派がとらえた事故後の原発に対する 国民、政治、経済界の動向を取りあげる。その上で、福島第一原発事故後に主張された脱 原発に否定的な意見を取りあげる。最後に、新聞による原発に関する報道、特に浜岡原発 に関する報道を取り上げ、マスメデ、ィアが原発に関する動向をどのようにとらえ、どのよ

うな情報を伝えてきたかについて論じる。

3 .   1

福島第一原発事故

国内史上最悪の原発事故であるとされ、原発をめぐる状況を大きく変えることとなった 福島第一原発事故とはどのようなものであったか。ここでは福島第一原発における事故の 特徴を述べることにする。本節における福島第一原発事故に関する記述は、主として『原 発のコストーエネルギ一転換への視点j]

(大島

2011)を参考にしている。

冒頭でも述べたように、東日本大震災は世界的に見ても最大級のものであり、地震とそ の後に発生した津波により福島・宮城・岩手の沿岸地域は壊滅的な被害を受けた。東北地 方は、日本の食糧生産の拠点であるのと同時に、大消費地としての首都圏の電気を作る拠 点でもあり、火力・水力・原子力の発電所が多く立地している。原発に関して言えば、福 島県には、東京電力福島第一、福島第二、宮城県には東北電力女

J 1 1

、青森県には東北電力 東通がある。また、原発関連施設として青森県には日本原燃六ヶ所再処理工場、高レベル

(14)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の芦

放射性廃棄物貯蔵管理センター、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター等 が集中的に立地している(大島

2 0 1 1 : 2 )

東日本大震災での地震後、最も深刻な事態が起こったのは、福島第一原発においてであ った。福島第一原発の事故の特徴は、次の

5

点に整理できょう。

第一に、世界初の地震や津波によって起こった大事故だということである。平成

20(2007)

年の新潟中越沖地震のときには、東京電力柏崎刈羽原発に大きな影響がでたものの、大事 故までには至らなかった。その意味では、神戸大学名誉教授・石橋克彦氏が警告を発して いた「原発震災」が初めて現実となったといえる。このことは、地震国日本にとっては重 大な意味を持っている。地震・津波被害を受けた人々は、放射能汚染に見舞われた。これ により、津波で被災した人々の救出が妨げられた。さらに、震災復興そのものも困難にな っている。

第二に、事故を起こした原子炉の数が複数に及んでいるということである。今回の事故 では、スリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故と異なり、事故を起こした原子 炉が 3 つ (1~3 号機)もある。さらに、原発内にある使用済燃料プール 6 つのうち、 4 つ (1~4 号機)の冷却機能が失われた。使用済燃料プールに貯蓄されていた使用済核燃料の数は

1号

392

本、

2

号機

615

本、

3

号機

566

本、 4号機

1535

本で、原子炉に装荷されている量よ りも多かった。原子炉に加えて、使用済核燃料プールを冷やし続けなければならないが、

プールが破損すれば、これも大量の放射性物質を環境中に放出することに繋がる。このよ うに、震災による事故が起きれば、一度に数多くの原子炉で大事故が起こることが明らか になった。

第三に、事故の一定の収束に非常に長い時間を要しているということである。スリーマ イル島原発事故は事態の収束までに数日しかかからなった。チェルノブイリ原発の事故で も、事故後約

2

週間で収束し、

7

カ月後には石棺によって封じ込めが行われた。ところが、

福島第一原発事故は、事故が起きてから数か月を経過しでも収束の目途が立たなかった。

これほどまでに長期間にわたって原発が制御不能に陥ることは、人類にとって初めての経 験である。

第四に、被害地域の広域十生である。東日本大震災において津波被害の直撃を受けたのは 沿岸地域に限られている。一方、放射能汚染は、福島県や東北地方に限らず、日本各地に 広がり、津波や地震の被害の範囲を大きく超えている。これほどまでの広域性をもった汚 染は、日本にはかつてなかったといえる。

第五に、汚染の不可逆性である。福島第一原発周辺の高濃度汚染地域では、避難を余儀 なくされ、地域コミュニティそのものが破壊された。これまでの環境問題において、この 事故のように、住民全員が短期間のうちに追い立てられるように避難し、長期間にわたっ て帰ることができないなどという経験は一度としてなかった。しかも、事故よる放射能汚 染は非常に長い間続くとみられる。広域性とともに、長期間にわたって生活環境が失われ るとし寸不可逆性が、福島第一原発事故の大きな特徴である(大島

2 0 1 1 : 8 )

(15)

御前崎市・浜岡佐倉

3 . 2

国民・政治・経済界の動向

福島第一原発事故を受け、原発をめぐる状況は事故以前とは比べものにならないほどに 緊迫することとなった。ここでは、まず、福島第一原発事故後の脱原発を主張する意見と、

脱原発派がとらえた福島第一原発事故後の原発に対する国民世論、政治、経済界の動向に ついて述べることにする。この記述は(大島

2 0 1

1)を参考にしている。次に、脱原発に否定的 な意見を取りあげる。

3 . 2 . 1

脱原発を主張する意見

京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏は、原子力の専門家としての立場からその危険 性を訴え続けている。小出氏は著書『原発のウソj] (小出

2 0 1

1)において「福島の原発事故 で、多くの人たちが政府や電力会社の宣伝してきた『安全神話』のウソに気がつきました

j

と福島第一原発事故後の状況を述べている(小出

2 0 日 : 1 6 2 ) 0  

I原子力は現代社会にすさまじ い重荷となってのしかかっています。この恐怖から解放される方法はただ一つしかありま せん。『原発を止めること』。ただそれだけです。原発は、電気が足りょうが足りなかろう が、即刻全部止めるべきものです。そして、全部の原発を止めてみた時、『実は原発がなく ても電力は足りていた』ということに気づくでしょう。原発を止めたとしても、実は私た ちは何も困らないのです」と脱原発を主張した。壊れていた火力発電所を復旧させ、その 稼働率を

7

割まで上げれば、日本の電力をまかなうことができると述べている(小出

2 0 1 1 :1 6 9

1 7 0 ) 。

石橋克彦氏は著書『原発を終わらせるj](石橋

2 0 1 1 )

において「この期に及んでも政府は、

中部電力浜岡原発以外は安全だと言っている。しかし、地震列島の原発が『安全だ』など とは誰にも保障できない。現に、今回あらためて不備が明らかになった『発電用原子炉施 設に関する耐震設計審査指針』でさえ、『残余のリスク』が必ず存在すると明記している。

そうわかっている原発の運転を強行するのは犯罪行為といえよう。いまこそ日本は原発と 決別しなければならなし刊と政府を批判し、脱原発を訴えた(石橋

2 0 1 1:  3 )

3 . 2 . 2

脱原発派がとらえる国民世論・政治・経済界の変革

国民世論は福島第一原発事故後に大きく変化している。政府に代わって、各報道機関に より国民の原子力発電に対する意識が把握されるようになっている。このうち、 N H Kが 平成

23( 2 0 1 1 )

8

27

日に発表した世論調査によれば、

8

割近い国民が脱原発に足を踏み 出すことに支持を表明している。また、事故後初の原子力政策大綱改定にあたって原子力 委員会にょせられた意見

( 4 5 6 7

件)のうち

98

パーセントが脱原発を訴えている。このように、

国民世論は脱原発を強く支持している。また、市民による現実の動きも見え始めている。

脱原発を求めるデモや集会も事故以来、全国各地で数多く取り組まれるようになっている。

たとえば、事故後半年を経た

9

1 9日には、東京で「さようなら原発集会」が 6

万人の参

(16)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

加で行われた。このような規模で反原発集会が聞かれたのは極めて異例であるといえる。

デモや集会は、インターネットの

T w i t t e r

やブログを通しでも組織されており、政治的な 立場を超えて拡がっている。脱原発に向けて日本社会全体が大きく動いていることのあら われである。市民の力で、安心して生活できる社会を築く時期に来ている(大島

2011: 1 7 3 )

政治の変革もみられるようになった。日本社会が脱原発に向けて大きく動くことを予感 させたのが、平成

23( 2 0 1 1 )

5

6

日、国民世論を背景に菅元首相が中部電力に対して行っ た浜岡原発停止要請である。浜岡原発は、御前崎市の市街地に隣接し、近く起こるのでは ないかと考えられている東海地震の想定震源域のただ中に立地しており、世界で最も危険 な原発であると言われている。菅元首相の停止要請は、あくまで要請であって、法的根拠 はなかった。しかし、菅元首相による要請の社会的影響力は非常に大きく、国民的な関心 も呼び、中電は同年

5

9日に要請を受託し、同年 5

1 3日に 4

号機、

1 4日に 5

号機が止 められた。このときの菅元首相の要請は、原発の廃炉を求めたものではなく、あくまで安 全対策を十分に施すまでの期間という限定的なもので、あった。また、原発停止を他の原発 に波及させないと繰り返し述べたもので、あったが、危険性ゆえに原発が止まるということ は日本の原子力政策史上で初めてのことであり、歴史的画期をなす出来事で、あった。同年

7

1 3

日に菅元首相は、より踏み込んだ形で、原子力政策に対する言及を行った。「原子力事 故のリスクの大きさを考えたときに、これまで考えていた安全確保という考え方だけでは もはや律することができなしリとの認、識に立ち、「日本の原子力政策として、原子力発電に 依存しない社会を目指すべき

j

であり、「計画的、段階的に原子力依存度を下げ、将来は原 発がなくてもきちんとやっていける社会を実現してし、く。これがこれから我が国が目指す べき方向」と述べたのである。手続きや政府内部の調整を行っていなかったことを批判す る動きもあるが、それはともかくとして、半世紀を超える原子力開発の歴史のなかで、菅 元首相自らが脱原発への方向性を示したことはかつてなく、評価に値する。菅元首相の判 断は国民世論を見つめ、福島第一原発事故の事態を踏まえての歴史的判断であった(大島

2011:  1 7 4 )

経済界は、日本経団連を中心に脱原発に対して慎重な見解が多い。特に、素材系産業は その傾向が強い。じかし、注目すべき見解もでてきた。ソフトパンク社長の孫正義氏は、

福島第一原発事故後の早い時期から、脱原発の立場を鮮明にし、自らの私費を投じて再生 可能エネルギ一事業に乗り出した。また、経済同友会代表幹事・長谷川閑史氏は、原子力 の比率を徐々に下げていくとしづ縮原発という立場を表明している。他方、経済同友会内 部にも、日本

GE

会長・藤本義明氏、ウシオ電機社長・菅回史郎氏やローソン社長・新郎 剛史氏のように、福島第一原発事故前と同じ旧態依然とした見解をとりつづける経営者も おり、経済界は混乱している

( S a n k e iB i z   2 0 1 1 .  7 .   1 5 )

。そもそも、福島第一原発事故以前も、

日本の原発は新規立地が極めて困難になっていた。老朽化した原発をどんなに延命させた としても、早晩、原子力の規模は縮小し、自然に縮原発から脱原発へ移行せざるをえない 状況で、あった。経済同友会の長谷川の主張はこれを認める自然な考え方である。原子力発

(17)

御前崎市・浜阿佐倉

電の維持拡大は実現性の乏しいものであった。ここにきてようやく経済界の一部が、原発 をめぐる客観的情勢を認めるようになりつつある(大島

2 0 1 1 :1 7 6 )

以上、脱原発派がとらえた福島第一原発事故後の国民、政治、経済界の変革について述べ てきた。国全体が脱原発に向かつて歩き始めていることを予感させる記述であるといえよ

D

3 . 2 . 3

脱原発に否定的な意見

脱原発派が国民、政治、経済界の動向をこのようにとらえていた一方で、脱原発に否定 的な意見も主張されていた。ただし、「中部電力は原子力発電を推進するテレビ

C M

を当面、

自粛することを決めた」とある(W読売新聞~

2 0 1 1 .   0 3 .   1 3 )

。原発を推進する意見は福島第一 原発事故以前に比べ、出にくい状況にあったといえるだろう。

平成

23( 2 0 1 1 )

3

1 2 S

,経済省幹部は「福島の原発事故で新規計画は難しくなったが、

それでも原発をやめるわけにはいかなし、」と強調していた。日本経団連の岩間芳仁環境本 長も「安全性を徹底的に追及したうえで原子力をうまく活用する方法を議論すべき」と脱 原発には否定的で、あった(W毎日新聞~

2 0 1 1 .   0 4 .   0 9 )

また、実際に欧州、│などでは

1 9 8 0年代以降脱原発を模索する動きが広がったが、その後、

政策を巡って再び議論が二分するケースが目立つ。スウェーデンでは

80

年、米スリーマイ ル島の原発事故を受けて国民投票を実施し、当時

1 2

基あった原発を

1 0

年までに全廃する ことを決議した。だが、これまでに停止したのはわずか

2

基で、現在も

1 0

基が運転してい る。この結果を受け、日本エネノレギー経済研究所グループリーダーの村上朋子氏は「スウ ェーデ、ンは結局、原子力の代替エネルギーを見つけることができなかった。まして日本の ように電力需要が大きい国が脱原発を目指すのは難ししリと指摘した(W毎日新聞~

2 0 1 1 .   0 4 .   0 9 )

3 . 3

マスメディアの報道

福島第一原発事故の直後から、マスメディアによって原発に関する様々な情報がもたら されてきた。原発に関する報道がなされない日はないと言っても過言ではないほどである。

この動きの中で、「世界一危険な原発」と称された浜岡原発に関する報道もまた劇的に増え た。福島第一原発事故、原子力推進行政の見直しに関する報道の中でも、浜岡原発に注目 しているものは非常に多い。この節ではマスメディアが福島第一原発事故後の動向をどの ようにとらえ、それをどのように報道したのかを述べていく。マスメディアのひとつとし て新聞を選び、特に浜岡原発に関する報道を取り上げることにする。まず、浜岡原発停止 前になされた報道を取り上げる。次に、浜岡原発停止後になされた報道を取り上げる。な お、ここで取り上げる新聞の報道は、『静岡新聞』と静岡大学付属図書館ホームページ『ヨ

ミダス歴史館』、『毎索』、『静岡新聞データベース

plus

日経テレコン

2U

より抜粋したも のである。

(18)

浜岡からのメッセージ 浜岡原発に携わる人々の声

3.3.1

浜岡原発停止前の報道

『毎日新聞』は平成

23( 2 0 1 1 )

4

19

日付で、原発安全神話は完全に崩壊したとして原 発に関する特集を組んだ。「東日本大震災に襲われた東京電力福島第 l原子力発電所で発生 した事故は、園内史上最悪の原発災害に発展した」とし「原発から漏れ出た放射性物質の 拡散は収まらず、住民の健康不安に加えて、深刻な風評被害も広がっている。国や事業者 が喧伝してきた安全神話は完全に崩壊し、原発が抱えていたあらゆる危険性が一気に露呈 する形となった。主要な電力供給源を断たれた首都圏では、東電が初めての計画停電に踏 み切るなど『電力危機』が発生。企業の生産活動や市民生活に混乱をもたらしている」と 福島第一原発事故がもたらした状況を危倶した

o 毎日新聞Jl2 0 1 1 .   0 4 .   1 9 )

さらに、平成

23( 2 0 1 1 )

4

18

日付で、同紙の連載『風知草』において以下のような論 評がなされた。「中部電力の浜岡原子力発電所を止めてもらいたい。安全基準の前提が崩れ た以上、予見される危機を着実に制御する日本であるために。急ぎ足ながら三陸と福島を 回り、帰京後、政府関係者に取材を試みて、筆者はそう考えるに至った」と書き出し、「浜 岡原発は静岡県御前崎市にある。その危うさは反原発派の聞では常識に属する。運転中の 三基のうち三つは福島と同じ沸騰水型で海岸低地に立つ。それより何より、東海地震の予 想震源域の真上にある。(省略)危機は去っていない。福島の制御は当然として、もはや誰が 見ても危険な浜岡原発を止めなければならなしリと他の原発よりもまずは浜岡原発をとめ るべきと訴えた(~毎日新聞Jl

2 0 1 1 .   4 .   1 8 )

浜岡原発の停止を訴える国民の活動について多くの報道がなされた。ここでは

2つの事

例を取り上げる。平成

23( 2 0 1 1 )

3

23

日付の『毎日新聞』で、高校生の団体が浜岡原発 の停止を求めて署名運動を行い、浜岡原発の運転停止を求める市民計

1

200

人分の署名を 添えた要望書を中電に提出したことが伝えられた。また、同年

4

10

日付で、東京・芝公 園で聞かれた浜岡原発の運転中止を求める市民集会が行われたことが報じられた。参加者 は「東海地震が起きれば、想定される震源域の真上にある浜岡原発では、福島第一原発の 二の舞かそれ以上の事態になる。即刻運転を中止するべきだ」と訴えたという(~毎日新聞』

2 0 1 1 .  0 3 .  2 3 )

『毎日新聞』は平成

23( 2 0 1 1 )

4

7

日付で、静岡県が同年

4

6

日に行った「県防災・

原子力学術会議」の臨時会での浜岡原発の津波対策をめぐる協議での様子を伝えた。「中電 は防波壁の建設など新たな対策を説明し理解を求めたが、委員は納得せず、対策の再検討 を求めた。出席した川勝平太知事も『中電の説明が十分かどうかは疑問だ』と不満を示し た(~毎日新聞Jl

2 0 1 1 .  0 4 .  0 7 )  

Jと報じた。「委員からは(中電の津波対策についての説明に対して)疑

問や質問が相次いだ。『砂丘が津波に流されない根拠はあるのかj]~防波壁の高さを 12 メー トノレとした根拠は何かj]~津波が周囲の川を逆流して流れ込まないか』など矢継ぎ早に中電 をただした。中電側は『想定では砂丘は津波に流されない。砂丘に固まれた周囲からの侵 入も考えていない。防波壁は高さ

1 5メートルを目安に検討していく』と答えたが、委員長

(19)

御前崎市・浜阿佐倉

側は『根拠がなし、』と一蹴したJと、浜岡原発が立地する静岡県での緊迫した様子を伝え

た o毎日新聞~

2 0 1 1 .   0 4 .   0 7 ) 。

3 . 2

浜岡原発停止後の報道

菅元首相の浜岡原発の全ての原子炉の運転を停止するという決断は社会に大きな波紋を 広げた。各紙は平成

2 3( 2 0 1 1 )  4

7日付、さらに中電が要請受諾を決めた翌日の 1 0日付の

社説で、浜岡原発停止について報じた。東京電力福島第一原発の深刻な事故を受け、原発政 策の転換を打ち出した『毎日新聞』では、

4

1 5日付の社説で浜岡原発の名前を挙げて懸

念を表明していた。そのため菅元首相の要請について「決断を評価したしリと述べた。同 様に明確に原発政策の転換を主張する『朝日新聞』も、要請を妥当だとし I~危ない原発』

なら深慮をもって止めるという道への一歩にしたい」とした。一方、菅元首相の要請に「唐 突」との言葉を使ったのが『日本経済新聞』と『産経新聞』であった。『日本経済新聞』は、

「電力需給の実情を踏まえ、国民に説明する責任がある

j

と政府に注文し、『産経新聞』は

「日本が原発を否定したと受け止められる恐れがある」と懸念を示した。両紙は要請自体 の妥当性については言及しなかった。『読売新聞』は

5

7

日付で、福島第一原発の事故を 踏まえ Iやむを得ない。中部電力は首相の要請を受け入れるべきだ

J

と論評した。だが、

1 0

日付では「首相の要請は事前調整もなく、あまりにも唐突だ、ったJと指摘し、説明不足 への反省を求めた。『静岡新聞』は

7日付で「地元の意見を十分にくみ取った上での決断な

らば、要請は妥当だろう」とする一方で、、「首相はやや唐突で、方向性と説得性に欠けた」と 批判した。また

1 0日付では「県民に安心・安全を納得してもらうための決断として受け止

めたい」とした。中電本!古のある愛知の地元紙『中日新聞』は、

1 0

日付で「浜岡原発を止 める判断は住民の不安を思えば無理もなし、」としつつ「突然の要請だった。その場しのぎ

と見られでも仕方なしりと菅元首相を批判した。

浜岡原発が停止した後も、依然として浜岡原発に関する報道は絶たえることがなかった。

『静岡新聞』の取材班は平成

2 0( 2 0 0 8 )

1 2

月、中部電力が浜岡原発において

1

2

号機を廃 炉にして

6号機を新設する「リプレース計画」を極秘裏に検討しているというスクープを

入手した。後の平成

2 1 ( 2 0 0 9 )

8

月から連載『浜岡原発の選択』を展開し始め、浜岡原発に 関する情報を伝えてきた o静岡新聞~

2 0 1

1)。平成

2 3( 2 0 1 1 )

1 1月 2 0日付の連載『続浜岡

原発の選択

2

1Jiにおいては、中電と地元住民との関係が揺らいでいると論評した。

1 2 0 0 9

1

月に運転終了した中部電力浜岡原発

I

号機(御前崎市佐倉)の使用済み燃料プールに損傷 燃料

1体が残っている問題で、損傷燃料を処理するには受け入れ先との協議などが必要で

問題解決の見通しが立っていないにもかかわらず、

8

月中旬の地元説明会で中電の幹部らが

~(青森県)六ケ所村の再処理工場さえ動けば通常の手順の中でやれる』などと説明していた ことが

1 9日までに分かつたJ

1

原発の安全性や使用済みな燃料の再処理、放射性は廃棄物 処分の見通しについて『楽観論』を繰り返してきた固と電力会社。福島第一原発事故で楽 観論のメッキが剥がれたことで、住民との信頼関係や自治体聞の足並みが大きく揺らぎ始

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