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子供の成長発達権と少年法六十一条の意義

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子供の成長発達権と少年法六十一条の意義

著者名(日) 山口  直也

雑誌名 山梨学院大学法学論集

48

ページ 75‑110

発行年 2001‑11‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1188/00000860/

(2)

子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

山 口 直 也

75 子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

七六五四三二一

目   次

はじめに問題の所在

子どもの憲法上の地位  成長発達権の保障

少年司法におけるデュー・プロセスの保障

少年法六一条の意義

少年法六一条と憲法二一条一項の関係

結論

一75一 子どもの成長発達権と少年法六一条の意義 75 

墨ゐ 日間

子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

七 六 五 四 三 二 一

はじめに問題の所在

子どもの憲法上の地位││成長発達権の保障

少年司法におけるデュ1・プロセスの保障

少年法六一条の意義

少年法六一条と憲法二一条一項の関係

結論

‑75‑

(3)

法学論集 48〔山梨学院大学〕 76

はじめに

 ﹁凶悪﹂とされる少年事件が発生するたびに︑マスメディアはいっせいにその事件について報道し︑たちまち世

間の耳目はそこに集まる︒すると少年法は非公表・非公開の原則をとっているので加害者である少年の名前も顔写

真も成人の刑事事件と違って公表されず︑加えて少年審判はたとえ被害者であっても立ち会うことができないとい

う事実に直面する︒少年法は﹁加害者に甘い﹂︑﹁被害者の人権を軽視している﹂と指摘される所以である︒

 しかし︑少年法は本当に加害者である少年に甘いのであろうか︑あるいは︑非公表・非公開の原則をとっている

ことは被害者の人権を軽視していることになるのであろうか︒少年法が︑六一条で加害者である少年の推知報道を

禁止し︑ニニ条二項で審判の公開を禁止したにはそれなりの理由があるはずである︒最近相次いで大阪高裁と名古

屋高裁で下された判決はその理由についてまったく異なる見解を示している︒一方は加害者である少年の将来の更

正に配慮した刑事政策的理由に基づくものであるとし︑他方は憲法及び国際人権法で保障された子どもの基本的人

権に基づくものであるとしたのである︒もっとも後者の判例は︑一部の論者からは成長発達権というあいまいかつ       ︵1︶包括的で権利としては確立していないものを根拠にしていると批判が浴びせられている︒

 そこで本稿は︑特に少年法六一条の意義を憲法及び国際人権法で保障されている子どもの成長発達権の観点から

論じてみることにする︒

76  48 (山梨学院大学〕

はじめに

﹁凶悪﹂とされる少年事件が発生するたびに︑マスメディアはいっせいにその事件について報道し︑たちまち世

法学論集

聞の耳目はそこに集まる︒すると少年法は非公表・非公開の原則をとっているので加害者である少年の名前も顔写

真も成人の刑事事件と違って公表されず︑加えて少年審判はたとえ被害者であっても立ち会うことができないとい

う事実に直面する︒少年法は﹁加害者に甘い﹂︑﹁被害者の人権を軽視している﹂と指摘される所以である︒

‑76‑

しかし︑少年法は本当に加害者である少年に甘いのであろうか︑あるいは︑非公表・非公開の原則をとっている

ことは被害者の人権を軽視していることになるのであろうか︒少年法が︑六一条で加害者である少年の推知報道を

禁止し︑二二条二項で審判の公開を禁止したにはそれなりの理由があるはずである︒最近相次いで大阪高裁と名古

屋高裁で下された判決はその理由についてまったく異なる見解を示している︒一方は加害者である少年の将来の更

正に配慮した刑事政策的理由に基づくものであるとし︑他方は憲法及び国際人権法で保障された子どもの基本的人

権に基づくものであるとしたのである︒もっとも後者の判例は︑一部の論者からは成長発達権というあいまいかっ

包括的で権利としては確立していないものを根拠にしていると批判が浴びせられている︒

そこで本稿は︑特に少年法六一条の意義を憲法及び国際人権法で保障されている子どもの成長発達権の観点から

論じてみることにする︒

(4)

二 問題の所在

77子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

 問題の所在はおおむね以下の四点に集約されると考えられる︒

 まず︑子ども︵本稿では︑少年︑未成年という概念も特に断りのない限り同じ意味で用いている︶という存在に

は憲法上の特別の地位があるのかという点である︒少年法六一条をはじめ少年法の諸問題を論じる上で︑子どもと

いう存在が憲法上の権利主体であるのか︑それともそうでないのかを明らかにしておくことは必須の前提作業であ

るし︑国連子どもの権利条約︵政府訳では﹁国連児童の権利に関する条約﹂︑以下︑単に権利条約と略称する︶が

ある今︑あらためてこのことを確認しておく必要がある︒

 第二に少年司法制度あるいは少年法自体をどのように理解すべきであるのかという点である︒子どもに固有の憲

法上の権利があるとすれば︑それは少年司法においても影響を及ぼしているはずである︒少年法六一条を存在なら

しめる少年法をどのような性格の法律として理解するかは︑とりもなおさず少年法六一条の意義をどのようにとら

えるかに関わってくる︒

 第三に少年の実名報道の制限は少年の憲法上の権利に基づくのか︑それとも単に刑事政策的な規定であるのかと

いう点である︒これについては判例・学説ともに見解が分かれているが︑特に権利性を認める見解であってもその

内容に大きな隔たりがある︒少年法の性格を理解した上で少年法六一条の法的な意義を明らかにする必要がある︒

 そして最後に表現の自由の観点から見た少年事件報道の限界はどこにあるのかという点である︒憲法二一条に優

一77一

問題の所在

問題の所在はおおむね以下の四点に集約されると考えられる︒

まず︑子ども(本稿では︑少年︑未成年という概念も特に断りのない限り同じ意味で用いている)という存在に

は憲法上の特別の地位があるのかという点である︒少年法六一条をはじめ少年法の諸問題を論じる上で︑子どもと

いう存在が憲法上の権利主体であるのか︑それともそうでないのかを明らかにしておくことは必須の前提作業であ

子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

るし︑国連子どもの権利条約(政府訳では﹁国連児童の権利に関する条約﹂︑以下︑単に権利条約と略称する)が

‑77‑

ある今︑あらためてこのことを確認しておく必要があるD

第二に少年司法制度あるいは少年法自体をどのように理解すべきであるのかという点である︒子どもに固有の憲

法上の権利があるとすれば︑それは少年司法においても影響を及ぼしているはずである︒少年法六一条を存在なら

しめる少年法をどのような性格の法律として理解するかは︑とりもなおさず少年法六一条の意義をどのようにとら

えるかに関わってくる︒

第三に少年の実名報道の制限は少年の憲法上の権利に基づくのか︑それとも単に刑事政策的な規定であるのかと

いう点である︒これについては判例・学説ともに見解が分かれているが︑特に権利性を認める見解であってもその

内容に大きな隠たりがある︒少年法の性格を理解した上で少年法六一条の法的な意義を明らかにする必要がある︒

77 

そして最後に表現の自由の観点から見た少年事件報道の限界はどこにあるのかという点である︒憲法二一条に優

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法学論集 48〔山梨学院大学〕 78

越する利益が少年法六一条の背後にあるといえるとしても︑少年事件の推知報道禁止が絶対的なものであるのか︑

例えば︑公開の刑事裁判を受けた場合︑刑事裁判中に成人した場合などにも少年法六一条の趣旨は及ぶのかという

ことを明らかにしなければならない︒

 以下ではこれらの四点について検討する︒

三 子どもの憲法上の地位ー成長発達権の保障

 わが国における子どもの憲法上の権利については権利条約が国内法としての意味を持つ今日でさえ明確になって

いる状況であるとは言い難い︒そこで以下ではまずアメリカにおける子どもの権利をめぐる論争を簡単に整理した

上で︑国際人権法上︑そして憲法上の子どもの権利観について私見を提示しておきたい︒

       パ レ ︵一︶ アメリカにおける子どもの権利をめぐる議論

 アメリカにおける子どもの権利をめぐる議論は一九六〇年代から本格的に始まったと言える︒当初は︑子ども保

護論からのアプローチが主流であり︑身体的かつ精神的に未成熟な子どもの保護を子どもの最善の利益から図ると        パ ロいう形で議論された︒そしてその最善の利益は自律性を持った家族︑特に親によって実質的に図られるという側面

を持っていた︒ここでは子どもに対する国家の過介入を排除して家族内部の廉潔性を保持しようという目的があっ

たのである︒自律した親に教育される子どもの権利が想定されていたが︑結局は子どもの最善の利益を図るのは親

78 

越する利益が少年法六一条の背後にあるといえるとしても︑少年事件の推知報道禁止が絶対的なものであるのか︑

48 (山梨学院大学〕

例えば︑公開の刑事裁判を受けた場合︑刑事裁判中に成人した場合などにも少年法六一条の趣旨は及ぶのかという

ことを明らかにしなければならない︒

以下ではこれらの四点について検討する︒

法学論集

子どもの憲法上の地位

l

l成長発達権の保障

わが国における子どもの憲法上の権利については権利条約が圏内法としての意味を持つ今日でさえ明確になって

‑78‑

いる状況であるとは言い難い︒そこで以下ではまずアメリカにおける子どもの権利をめぐる論争を簡単に整理した

上で︑国際人権法上︑そして憲法上の子どもの権利観について私見を提示しておきたい︒

./

アメリカにおける子どもの権利をめぐる議論

アメリカにおける子どもの権利をめぐる議論は一九六0年代から本格的に始まったと言える︒当初は︑子ども保

護論からのアプローチが主流であり︑身体的かつ精神的に未成熟な子どもの保護を子どもの最善の利益から図ると

いう形で議論された︒そしてその最善の利益は自律性を持った家族︑特に親によって実質的に図られるという側面

を持っていた︒ここでは子どもに対する国家の過介入を排除して家族内部の廉潔性を保持しようという目的があっ

たのである︒自律した親に教育される子どもの権利が想定されていたが︑結局は子どもの最善の利益を図るのは親

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79子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

であって︑子どもは親の支配下にあるままであった︒子ども保護論のアプローチは子ども自身の権利を認めるもの      ︵4︶にはならなかったのである︒しかし一九六七年には連邦最高裁判所のゴールト判決によって︑子どもにも刑事手続

で大人に認められているような適正手続の保障が認められるべきであると判示され︑本格的な子どもの権利論へと

発展したのである︒

 そこで一九七〇年代になって子ども解放論からのアプローチが見られるようになった︒この考え方は︑子どもが

未熟であるがゆえに抑圧され︑本来︑子どもみずからが行使できる権利を失って子どもは人と認められていないと      ハ レいう認識から︑子どもを大人と同じように扱うべきであると主張する︒すなわち︑すべての生活領域で子どもは大

人と同じように権利行使できるとするのである︒もっともそれは合理的な判断ができる適切な大人の仲介者によっ

て必要な援助がなされて︑初めて子どもの権利行使が達成できるとするのである︒しかし︑この考え方はあまりに       ︵6︶極端なものであり︑未熟で未発達な部分が残る子どもの本質を理解していないとの批判が強い︒また︑たとえ合理

的な判断能力を有する大人が子どもの援助者としてその自己決定を援助できたとしても︑子どもの自己決定能力

︵擁自律性︶自体が高まるわけではもちろんない︒結局は︑﹁合理的﹂とされる仲介者あるいは援助者の判断に大

いに左右されることは否定できまい︒

 さらにその後には︑いわゆる子どもの自律尊重論からのアプローチが主として一九八○年代に展開されており︑

一定の支持を得ている︒この考え方は︑子どもの保護の側面にも注意を払いつつ︑子どもの自律を最大限尊重する

ところに特徴がある︒すなわち︑子どもであってもまったくの無能力状態にあるのではなく︑自律的に大人と同じ

ように自己決定できる領域もあるし︑さらにそれに加えて︑今は行使できない﹁預けた状態の権利﹂の領域があっ

一79一

であって︑子どもは親の支配下にあるままであった︒子ども保護論のアプローチは子ども自身の権利を認めるもの

にはならなかったのである︒しかし一九六七年には連邦最高裁判所のゴlルト判(拠によって︑子どもにも刑事手続

で大人に認められているような適正手続の保障が認められるべきであると判示され︑本格的な子どもの権利論へと

発展したのである︒

そこで一九七0年代になって子ども解放論からのアプローチが見られるようになった︒この考え方は︑子どもが

未熟であるがゆえに抑圧され︑本来︑子どもみずからが行使できる権利を失って子どもは人と認められていないと

いう認識から︑子どもを大人と同じように扱うべきであると主張する︒すなわち︑すべての生活領域で子どもは大

79  子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

人と同じように権利行使できるとするのである︒もっともそれは合理的な判断ができる適切な大人の仲介者によっ

79‑

て必要な援助がなされて︑初めて子どもの権利行使が達成できるとするのである︒しかし︑この考え方はあまりに

極端なものであり︑未熟で未発達な部分が残る子どもの本質を理解していないとの批判が強い )Oまた︑たとえ合理

的な判断能力を有する大人が子どもの援助者としてその自己決定を援助できたとしても︑子どもの自己決定能力

(リ自律性)自体が高まるわけではもちろんない︒結局は︑﹁合理的﹂とされる仲介者あるいは援助者の判断に大

いに左右されることは否定できまい︒

さらにその後には︑いわゆる子どもの自律尊重論からのアプローチが主として一九八

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年代に展開されており︑

一定の支持を得ている︒この考え方は︑子どもの保護の側面にも注意を払いつつ︑子どもの自律を最大限尊重する

ところに特徴がある︒すなわち︑子どもであってもまったくの無能力状態にあるのではなく︑自律的に大人と同じ

ように自己決定できる領域もあるし︑さらにそれに加えて︑今は行使できない﹁預けた状態の権利﹂の領域があっ

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法学論集 48〔山梨学院大学〕80

      ︵7︶てそれが成長途上で開花すると説明する︒ここでは︑成人年齢とは﹁預けた状態の権利﹂が成人の権利に転化する

時点にすぎないと説明される︒子どもが人間として尊重されることを考えれば︑突如として成人になって権利行使

主体になるのではなく︑子どもの段階から権利行使︵可能︶主体であると考えるのが自然であるように思われる︒

その意味で子どもに固有の﹁預けた状態の権利﹂があることについては賛同する︒しかし︑大人と同じ権利を有す

る部分があるという点については疑問なしとしない︒もしそれを認めれば︑その点に関しては自己決定主体であ

り︑自己責任を問われるという論理に陥りやすいからである︒あくまでもそこでの自己決定も︑後述するように︑

子どもという存在の基盤を支える総体的権利︵H子どもの成長発達権︶の中で捉えられなくてはならないように思

われる︒ なお最近は︑子どもの関係性論からのアプローチによって子どもの権利を説明しようとする注目すべき見解が展

開されている︒この考え方は︑子どもの﹁自律﹂概念よって子どもの権利を組み立てようとするのではなく︑子ど

もと他者︑特に親やみずからが参加する共同体との﹁関係性﹂を重要視し︑そこから子どもの権利を組み立てよう      ︵8︶とするものである︒ここでは権利自体を多用な関係性の一要素と考えるにすぎないのである︒子どもの自律の前提

として子どもを取り巻く親や共同体との関係性に権利性を求めることによって︑権利概念自体をも再構成してしま

うことさえも視野に入れているのである︒確かに︑従来の権利の内容に共同体・親等の重要な他者との関係の視点

を含めて考えるべきこと自体は重要な視点であることは疑いない︒成長発達の途上にある子どもが成人して一般的

な意味での権利行使主体になるためには︑成長過程での他者との健全な関わり合いが決定的に重要な意味を持つか

らである︒しかし︑自律性を中核とした権利概念それ自体を根本から変えることには疑問を感じる︒

80 

てそれが成長途上で開花すると説明する︒ここでは︑成人年齢とは﹁預けた状態の権利﹂が成人の権利に転化する

48 (山梨学院大学〕

時点にすぎないと説明される︒子どもが人間として尊重されることを考えれば︑突如として成人になって権利行使

主体になるのではなく︑子どもの段階から権利行使(可能)主体であると考えるのが自然であるように思われる︒

その意味で子どもに固有の﹁預けた状態の権利﹂があることについては賛同する︒しかし︑大人と同じ権利を有す

る部分があるという点については疑問なしとしない︒もしそれを認めれば︑その点に関しては自己決定主体であ

法学論集

り︑自己責任を関われるという論理に陥りやすいからである︒あくまでもそこでの自己決定も︑後述するように︑

子どもという存在の基盤を支える総体的権利(リ子どもの成長発達権)の中で捉えられなくてはならないように思

‑80‑

なお最近は︑子どもの関係性論からのアプローチによって子どもの権利を説明しようとする注目すべき見解が展

関されている︒この考え方は︑子どもの﹁自律﹂概念よって子どもの権利を組み立てようとするのではなく︑子ど

もと他者︑特に親やみ申すからが参加する共同体との﹁関係性﹂を重要視し︑そこから子どもの権利を組み立てよう

とするものである︒ここでは権利自体を多用な関係性の一要素と考えるにすぎないのである︒子どもの自律の前提

として子どもを取り巻く親や共同体との関係性に権利性を求めることによって︑権利概念自体をも再構成してしま

うことさえも視野に入れているのである︒確かに︑従来の権利の内容に共同体・親等の重要な他者との関係の視点

を含めて考えるべきこと自体は重要な視点であることは疑いない︒成長発達の途上にある子どもが成人して一般的

な意味での権利行使主体になるためには︑成長過程での他者との健全な関わり合いが決定的に重要な意味を持つか

らである︒しかし︑自律性を中核とした権利概念それ自体を根本から変えることには疑問を感じる︒

(8)

81子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

︵二︶ 子どもの権利条約が確認した子どもの権利観

 一九八九年に発効した権利条約はどのように子どもの権利観を捉えているのであろうか︒権利条約が子どもを単

なる保護の対象から解放して権利行使主体と認めたということに異論を述べる者は少ないと思われるが︑それでは

どのような権利行使主体であるのか︑すなわち大人と同じ意味での権利行使主体︵H自己決定主体︶であるのかと

いう点になると上記のアメリカの議論同様に意見が分かれる︒本稿は以下のように考える︒

 権利条約は五条において﹁子どもの権利主体性﹂を認めている︒しかしこれは単に子ども解放論のような大人と

同じ権利行使を認めたものではない︒なぜならば︑同条ではさらに︑﹁親・保護者の指示及び指導の責任︑権利及

び義務﹂を承認しているからである︒よって権利条約で想定されている子どもの権利行使主体性は︑大人と同じ完

全な意味での権利行使主体︵H自己決定主体︶性ではないことは明らかであろう︒さらに一八条が親の第一次養育

責任を認めるところからすれば︑国家からの不介入を大前提としているように思われる︒その意味では子ども保護

論的アプローチをとっているのである︒しかし同時に︑以下で触れるように︑子どもの成長発達のための権利を独

自に認め︑さらに子どもに固有の意見表明権を認めることで︑子どもの﹁自律的﹂領域を尊重すべきことを明らか

にしている︒

 権利条約の特徴は六条において子どもの成長発達権を保障したことにある︒六条一項は︑子どもが生命に対する

権利を有するということを規定しているが︑これは当然に︑子どもが成長して発達し︑そして一人前になるという

権利を内包している︒生命に対する権利というのは生きることを保障するものであり︑子どもが生きるということ

一81一

子どもの権利条約が確認した子どもの権利観

一九八九年に発効した権利条約はどのように子どもの権利観を捉えているのであろうか︒権利条約が子どもを単

なる保護の対象から解放して権利行使主体と認めたということに異論を述べる者は少ないと思われるが︑それでは

どのような権利行使主体であるのか︑すなわち大人と同じ意味での権利行使主体

(H

自己決定主体)であるのかと

いう点になると上記のアメリカの議論同様に意見が分かれる︒本稿は以下のように考える︒

権利条約は五条において﹁子どもの権利主体性﹂を認めている︒しかしこれは単に子ども解放論のような大人と

81  子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

同じ権利行使を認めたものではない︒なぜならば︑同条ではさらに︑﹁親・保護者の指示及び指導の責任︑権利及

‑81‑

び義務﹂を承認しているからである︒よって権利条約で想定されている子どもの権利行使主体性は︑大人と同じ完

全な意味での権利行使主体(リ自己決定主体)性ではないことは明らかであろう︒さらに一八条が親の第一次養育

責任を認めるところからすれば︑国家からの不介入を大前提としているように思われる︒その意味では子ども保護

論的アプローチをとっているのである︒しかし同時に︑以下で触れるように︑子どもの成長発達のための権利を独

さらに子どもに固有の意見表明権を認めることで︑子どもの﹁自律的﹂領域を尊重すべきことを明らか

権利条約の特徴は六条において子どもの成長発達権を保障したことにある︒六条一項は︑子どもが生命に対する

権利を有するということを規定しているが︑これは当然に︑子どもが成長して発達し︑そして一人前になるという

権利を内包している︒生命に対する権利というのは生きることを保障するものであり︑子どもが生きるということ

(9)

法学論集 48〔山梨学院大学〕 82

は健全な成長を遂げていくことを論理必然的に含んでいるからである︒その意味で同条二項では︑締約国が子ども

の生存と発達を最大限に保障しなければならないとしているのである︒

 ところでここに言う成長発達して人問として一人前になるということが身体的な成長のみならず︑精神的な成長

も含むことは明らかであるが︑それでは精神的に一人前になるということはどういうことであろうか︒それは︑子

どもが重要な他者である親あるいは共同体の一員と健全な人間関係を築き上げ︑自己及び他者の人間としての尊厳

を認めることができるようになることである︒したがってそのためには︑自らが決して否定的にのみ扱われるので

はなく︑﹁人間Hあるがままの姿の子ども﹂としてそのまま扱われる必要性がでてくる︒

 では大人社会において未熟者であると見なされている子どもが﹁人間﹂としてそのまま扱われるためにはどうし

たらよいのであろうか︒権利条約はそのために子どもに意見表明権という成長発達権の中核となる権利を与え︑ま

ず意見を聞いてもらう道を保障したのである︒

 具体的には︑一二条一項で﹁自己の意見を形成する能力のある子どもがその子どもに影響を及ぼすすべての事項

について自由に自己の意見を表明する権利を確保する﹂として子どもの意見表明権を認めている︒これは完全な意       ︵9︶味での権利行使主体︵11自己決定主体︶ではない子どもが唯一他者の干渉を排して行使できる権利である︒もしこ

の権利さえも何らかの制約を受けるとすれば︑子どもは権利行使主体としてのスタートラインにすら立てないこと

になるからである︒その意味でこの意見表明権は単なる自由権の一つではなくて︑それを越えたすべての権利の根

底に位置する総体的な権利である︒

 もつとも子どもの意見がすべて受け容れられるわけではなく︑それは﹁その子どもの年齢及び成熟度に従って相

82 

は健全な成長を遂げていくことを論理必然的に含んでいるからである︒その意味で同条二項では︑締約国が子ども

48 C山梨学院大学〕

の生存と発達を最大限に保障しなければならないとしているのである︒

ところでここに言う成長発達して人間として一人前になるということが身体的な成長のみならず︑精神的な成長

も含むことは明らかであるが︑それでは精神的に一人前になるということはどういうことであろうか︒それは︑子

どもが重要な他者である親あるいは共同体の一員と健全な人間関係を築き上げ︑自己及び他者の人間としての尊厳

法学論集

を認めることができるようになることである︒したがってそのためには︑自らが決して否定的にのみ扱われるので

Hあるがままの姿の子ども﹂としてそのまま扱われる必要性がでてくる︒

では大人社会において未熟者であると見なされている子どもが﹁人間﹂としてそのまま扱われるためにはどうし

‑82‑

たらよいのであろうか︒権利条約はそのために子どもに意見表明権という成長発達権の中核となる権利を与え︑

ず意見を聞いてもらう道を保障したのである︒

一二条一項で﹁自己の意見を形成する能力のある子どもがその子どもに影響を及ぼすすべての事項

について自由に自己の意見を表明する権利を確保する﹂として子どもの意見表明権を認めている︒これは完全な意

ではない子どもが唯一他者の干渉を排して行使できる権利である︒もしこ味での権利行使主体(リ自己決定主体)

の権利さえも何らかの制約を受けるとすれば︑子どもは権利行使主体としてのスタートラインにすら立てないこと

になるからである︒その意味でこの意見表明権は単なる自由権の一つではなくて︑それを越えたすべての権利の根

底に位置する総体的な権利である︒

もっとも子どもの意見がすべて受け容れられるわけではなく︑それは﹁その子どもの年齢及び成熟度に従って相

(10)

83子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

応に考慮される﹂︵一二条一項後段︶︒しかしながらもし意見が受け容れられなかった場合であっても︑なぜ意見が

受け容れられなかったのかを健全な人問関係を保ちながら子どもの納得を得る形で大人は説明しなければならない

のである︒そうしなければ子どもにはみずからが否定されたという思いしか残らないからである︒その意味で子ど

もの成長発達権及びそれを中核で支える意見表明権は関係論的アプローチをとっているとみることができる︒

 ︵三︶ わが国の子どもの憲法上の地位

 さて︑わが国においては子どもの権利はどのように考えられているであろうか︒

 わが国における子どもの憲法上の地位に関する議論を展開したとされる判決は︑一九七六年五月一二日最高裁

 パのレ判決︵以下︑最高裁学テ判決と略称する︶である︒本判決は次のように判示して子どもの学習権あるいは成長発達

権を認めている︒

 ﹁この規定︵憲法二六条H筆者注︶の背後には︑国民各自が︑一個の人間として︑また一市民として︑成長︑発

達し︑自己の人格を完成︑実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること︑特に︑みずから学習するこ

とのできない子どもは︑その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を

有するとの観念が存在していると考えられる︒換言すれば︑子どもの教育は︑教育を施す者の支配的権能ではな

く︑何よりもまず︑子どもの学習する権利に対応し︑その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとし      ︵11︶てとらえられているのである︒﹂

 そしてさらに次のように判示して子どもの成長発達権と憲法一三条との関連を示唆している︒

一83一

応に考慮される﹂(一二条一項後段)︒しかしながらもし意見が受け容れられなかった場合であっても︑なぜ意見が

受け容れられなかったのかを健全な人間関係を保ちながら子どもの納得を得る形で大人は説明しなければならない

のである︒そうしなければ子どもにはみずからが否定されたという思いしか残らないからである︒その意味で子ど

もの成長発達権及びそれを中核で支える意見表明権は関係論的アプローチをとっているとみることができる︒

わが国の子どもの憲法上の地位

わが国においては子どもの権利はどのように考えられているであろうか︒

子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

わが国における子どもの憲法上の地位に関する議論を展開したとされる判決は︑

判決(以下︑最高裁学テ判決と略称する)である︒本判決は次のように判示して子どもの学習権あるいは成長発達

‑83

一九七六年五月一一一日最高裁

権を認めている︒

﹁この規定(憲法二六条日筆者注)の背後には︑国民各自が︑一個の人間として︑また一市民として︑成長︑発

達し︑自己の人格を完成︑実現するために必要な学習をする固有の権利を有すること︑特に︑みずから学習するこ

とのできない子どもは︑その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を

有するとの観念が存在していると考えられる︒換言すれば︑子どもの教育は︑教育を施す者の支配的権能ではな

く︑何よりもまず︑子どもの学習する権利に対応し︑その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとし

てとらえられているのである︒﹂

83 

そしてさらに次のように判示して子どもの成長発達権と憲法一三条との関連を示唆している︒

(11)

法学論集 48〔山梨学院大学〕 84

 ﹁個人の基本的自由を認め︑その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては︑子どもが

自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入︑例えば︑誤った知識や一方的な観念を子ども

に植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは︑憲法二六条︑一三条の規定上からも許されな      ︵12︶いと解することができる︒﹂

 本判決は︑憲法二六条の背後にそれを支える発達権及び学習権が存在するということをまず認めており︑これら

は子どもにのみ限定されるものではないとしている︒そして特に子どもは︑自己の人格を完成︑実現するための欲

求が大人よりも高いので︵子どもが大人と違った意味で肉体的及び精神的に成長発達の途上にあることを当然の前

提としている︶︑子ども固有の発達権としての成長発達権を持つとしているとみることができる︒また子どもが自

由かつ独立の人格として成長することを保障するこの成長発達権と憲法一三条との関連にも触れており︑成長発達

権が単に憲法二六条の枠にとどまらない総体的内容を有していることを示唆しているように思われる︒もっとも︑

本判決ではそれが個人の尊厳︵憲法一三条前段︶に由来するのか︑幸福追求権︵憲法一三条後段︶に由来するのか

には触れておらず︑その意味では不分明なものを残していることは否定できない︒

 一方で学説においては子どもの権利はどのように考えられているであろうか︒憲法学説の多くは子どもを固有の

権利主体と考えることには積極的ではないように思われる︒

 もっともそのような状況の中でも︑子どもの成長発達権を認めているように見受けられる学説も存在する︒それ

によれば︑﹁子どもの自律の現実化の過程に必要な条件を積極的に充足することが国に求められる︒憲法二六条に       ︵13︶いう﹃教育を受ける権利﹄とその背後にあるとされる﹃成長発達権﹄及び﹃学習権﹄がそれにかかわる﹂とする︒

84 

その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては︑子どもが

48 (山梨学院大学〕

自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入︑例えば︑誤った知識や一方的な観念を子ども

に植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは︑憲法二六条︑

いと解することができるJ 一三条の規定上からも許されな

本判決は︑憲法二六条の背後にそれを支える発達権及び学習権が存在するということをまず認めており︑これら

法学論集

は子どもにのみ限定されるものではないとしている︒そして特に子どもは︑自己の人格を完成︑実現するための欲

求が大人よりも高いので(子どもが大人と違った意味で肉体的及び精神的に成長発達の途上にあることを当然の前

提としている)︑子ども固有の発達権としての成長発達権を持つとしているとみることができる︒また子どもが自

‑84

由かつ独立の人格として成長することを保障するこの成長発達権と憲法二ニ条との関連にも触れており︑成長発達

権が単に憲法二六条の枠にとどまらない総体的内容を有していることを示唆しているように思われる︒もっとも︑

本判決ではそれが個人の尊厳(憲法二ニ条前段)に由来するのか︑幸福追求権(憲法二ニ条後段)に由来するのか

その意味では不分明なものを残していることは否定できない︒

一方で学説においては子どもの権利はどのように考えられているであろうか︒憲法学説の多くは子どもを固有の

権利主体と考えることには積極的ではないように思われる︒

もっともそのような状況の中でも︑子どもの成長発達権を認めているように見受けられる学説も存在する︒それ

によれば︑﹁子どもの自律の現実化の過程に必要な条件を積極的に充足することが国に求められる︒憲法二六条に

いう﹃教育を受ける権利﹄とその背後にあるとされる﹃成長発達権﹄及び﹃学習権﹄がそれにかかわる﹂とする︒

(12)

85子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

これは最高裁学テ判決の内容を受けて教育を受ける権利の背後に成長発達権があるととらえているものと思われる      ︵M︶が︑ここでいう成長発達権が何を指すのか︑法的根拠はどこにあるのかについては不分明のままである︒

 これに対して︑成長発達権という憲法上の子どもの権利を真正面から認める学説もある︒それによれば︑成長発

達権とは︑﹁子どもの生存が確保された上で︑肉体的・精神的に成長発達する権利︑それを具体的に実現するため       パぬレの人間関係を形成し︑自らの人生を主体的に生きていく権利﹂である︒これは子どもが権利条約一二条の意見表明

権を行使することによって人間関係を形成することを意味しており︑その目標は︑権利条約二九条に保障された子

どもの教育への権利︑すなわち︑﹁子どもの個性︵人格︶︑才能及び精神的・肉体的能力を可能な最大限まで発達さ       パルレせ︑自分らしく他者の人権を尊重できるような人間になること﹂にあるとする︒なおこの学説は︑成長発達権の根

拠を憲法=二条前段︑権利条約六条及び判例としては最高裁学テ判決に求める︒

︵四︶ 私見⊥思法及び国際人権法による成長発達権の保障

 子どもは大人とは違って精神的にも肉体的にも成長発達の途上にあるということは誰もが認める疑いのない事実

である︒そしてその子どもが︑人間として︑個人として尊重されるということにも異論を挟む者はないであろう︒

そうであるならば子どもが未成熟な子どもとして尊重され︑成長発達していく権利を固有に保障されていると考え

ることはごくあたりまえのように考えられないだろうか︒

 私見は子どもの成長発達権をさしあたり次のように定義したい︒

 子どもの成長発達権とは︑﹁いままさに成長発達の途上にある人格がそのままで認められ︑将来成人して完全な

一85一

これは最高裁学テ判決の内容を受けて教育を受ける権利の背後に成長発達権があるととらえているものと思われる

が︑ここでいう成長発達権が何を指すのか︑法的根拠はどこにあるのかについては不分明のままである︒

これに対して︑成長発達権という憲法上の子どもの権利を真正面から認める学説もある︒それによれば︑成長発

達権とは︑﹁子どもの生存が確保された上で︑肉体的・精神的に成長発達する権利︑それを具体的に実現するため

の人間関係を形成し︑自らの人生を主体的に生きていく権利﹂である︒これは子どもが権利条約一二条の意見表明

権を行使することによって人間関係を形成することを意味しており︑その目標は︑権利条約二九条に保障された子

85  子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

どもの教育への権利︑すなわち︑﹁子どもの個性(人格)︑才能及び精神的・肉体的能力を可能な最大限まで発達さ

せ︑自分らしく他者の人権を尊重できるような人間になること﹂にあるとす(初︒なおこの学説は︑成長発達権の根

拠を憲法一三条前段︑権利条約六条及び判例としては最高裁学テ判決に求める︒

( ) 私見││憲法及び国際人権法による成長発達権の保障

子どもは大人とは違って精神的にも肉体的にも成長発達の途上にあるということは誰もが認める疑いのない事実

である︒そしてその子どもが︑人間として︑個人として尊重されるということにも異論を挟む者はないであろう︒

そうであるならば子どもが未成熟な子どもとして尊重され︑成長発達していく権利を固有に保障されていると考え

ることはごくあたりまえのように考えられないだろうか︒

私見は子どもの成長発達権をさしあたり次のように定義したい︒

子どもの成長発達権とは︑﹁いままさに成長発達の途上にある人格がそのままで認められ︑将来成人して完全な

(13)

法学論集 48〔山梨学院大学〕86

自己決定主体となることが援助・保障される権利﹂である︒       ︵17︶ この成長発達権が保障される法的な根拠は憲法二二条前段にある︒子どもが個人として尊重されることに成長発

達権が内在する︒これには公共の福祉の制限を伴わない︒またすでに説明したように︑権利条約六条にも直接的な

法的根拠がある︒さらには権利条約五条において子どもの権利主体性が︑同一二条において成長発達権の中核的権

利としての意見表明権が保障されていることもすでに述べたとおりである︒なおこの権利は最高裁学テ判決からも

根拠づけられる︒

 それでは成長発達権はどのような内容を含んでいるのかが問題となる︒私見は次のように理解する︒まず︑﹁成

長発達の途上にある人格﹂であるということは︑発達して成熟する可能体であるとともに︑精神的に未成熟であ

り︑未熟な判断が行なわれやすいというそのような人格を意味する︒次に︑﹁不完全な自己決定主体﹂であるとい

うことは︑子どもは大人と同じような自律的な主体ではないので完全な意味での自己決定権を有しないというこ

と︑また︑成熟度に応じて事実上の自己決定領域は拡大するがそれは自己決定権そのものが拡大しているものでは

ないということである︒すなわち成長発達権とは自己決定権を基礎づけるための権利なのである︒さらに︑﹁その

ままで認められること﹂とは︑基本的には子どもが自分で行ったことを否定されないこと︑自らを一〇〇%そのま

まで受け容れてくれる存在︵U通常は親︶との健全な関係を保つことができること︑そして︑物事の中心で扱わ

れ︑社会︵共同体︶の中で対等︵H未熟なままで対等であること︶のパートナーシップ性を有することを意味

 ︵18︶する︒

 なお︑成長発達権の限界はどこにあるのであろうか︒まず成長発達権は子ども︵未成年者︶期に固有の権利で

86 

自己決定主体となることが援助・保障される権利﹂である︒

この成長発達権が保障される法的な根拠は憲法三ニ条前段にあ(初︒子どもが個人として尊重されることに成長発

48  (山梨学院大学〕

達権が内在する︒これには公共の福祉の制限を伴わない︒またすでに説明したように︑権利条約六条にも直接的な

法的根拠がある︒さらには権利条約五条において子どもの権利主体性が︑同一二条において成長発達権の中核的権

利としての意見表明権が保障されていることもすでに述べたとおりである︒なおこの権利は最高裁学テ判決からも

法学論集

根拠づけられる︒

それでは成長発達権はどのような内容を含んでいるのかが問題となる︒私見は次のように理解する︒まず︑﹁成

長発達の途上にある人格﹂であるということは︑発達して成熟する可能体であるとともに︑精神的に未成熟であ

‑86‑

り︑未熟な判断が行なわれやすいというそのような人格を意味する︒次に︑﹁不完全な自己決定主体﹂であるとい

うことは︑子どもは大人と同じような自律的な主体ではないので完全な意味での自己決定権を有しないというこ

と︑また︑成熟度に応じて事実上の自己決定領域は拡大するがそれは自己決定権そのものが拡大しているものでは

ないということであるDすなわち成長発達権とは自己決定権を基礎づけるための権利なのである︒さらに︑﹁その

ままで認められること﹂とは︑基本的には子どもが自分で行ったことを否定されないこと︑自らを一

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通常は親)との健全な関係を保つことができること︑そして︑物事の中心で扱わ

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のパートナーシップ性を有することを意味

なお︑成長発達権の限界はどこにあるのであろうか︒まず成長発達権は子ども

(H

未成年者)期に固有の権利で

(14)

87子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

ある︒したがって成人年齢に達すると同時に成長発達権は消滅する︒しかしながら︑その効果は残存する場合があ

る︒なぜなら︑成人と同時に成長発達権が保障されてきた状態そのものがその利益を失うとすると子ども期の健全

な成長を支援した意味がなくなる場合があるからである︒次に自己決定権との関係が問題になりうる︒成長発達権

を有する主体は自律的な自己決定主体ではない︒したがって権利自体を放棄することは基本的にできないし︑子ど

もという基盤そのものを成立ならしめている成長発達権についてはなおさらである︒その意味で︑親の指示・指導

との関係が問題になるが︑基本的に親には子どもの事実上の自己決定の最終修正を行う義務及び権利がある︒しか

しながら︑事実上の修正を行うか否かは︑そのことによって子どもの健全な成長発達が促進されるか否かにかかっ

ている︒子どもと親との健全かつ納得的な関係性が保たれる場合において︑自己決定の修正は可能になる︒子ども

がそのことに納得して成長すること自体がまさに成長発達権の行使であるからである︒

四 少年司法におけるデュー・プロセスの保障

︵一︶伝統的少年司法の転換とデュー・プロセス論の展開

 一八九九年にイリノイ州シカゴで最初の少年裁判所が創設されて以来︑アメリカにおける少年司法制度がパレン

ス・パトリエの理念のもとに運営され始めたことは周知である︒そしてその後その非形式的審判と適正手続の欠如

した部分の消極的側面の弊害が明らかになり︑少年審判は憲法上の修正を受けることになったこともまた周知の通

一87一

ある︒したがって成人年齢に達すると同時に成長発達権は消滅する︒しかしながら︑その効果は残存する場合があ

る︒なぜなら︑成人と同時に成長発達権が保障されてきた状態そのものがその利益を失うとすると子ども期の健全

な成長を支援した意味がなくなる場合があるからである︒次に自己決定権との関係が問題になりうる︒成長発達権

を有する主体は自律的な自己決定主体ではない︒したがって権利自体を放棄することは基本的にできないし︑子ど

もという基盤そのものを成立ならしめている成長発達権についてはなおさらである︒その意味で︑親の指示・指導

との関係が問題になるが︑基本的に親には子どもの事実上の自己決定の最終修正を行う義務及び権利がある︒しか

しながら︑事実上の修正を行うか否かは︑そのことによって子どもの健全な成長発達が促進されるか否かにかかっ

87  子どもの成長発達権と少年法六一条の意義

ている︒子どもと親との健全かつ納得的な関係性が保たれる場合において︑自己決定の修正は可能になる︒子ども

‑87‑

がそのことに納得して成長すること自体がまさに成長発達権の行使であるからである︒

少年司法におけるデュl・プロセスの保障

伝統的少年司法の転換とデュl・プロセス論の展開

一八九九年にイリノイ州シカゴで最初の少年裁判所が創設されて以来︑アメリカにおける少年司法制度がパレン

ス・パトリエの理念のもとに運営され始めたことは周知である︒そしてその後その非形式的審判と適正手続の欠知

した部分の消極的側面の弊害が明らかになり︑少年審判は憲法上の修正を受けることになったこともまた周知の通

(15)

法学論集 48〔山梨学院大学〕 88

りである︒すなわち連邦最高裁判所において︑一九六六年には少年裁判官による管轄権放棄にあたっては少年には      パリレ審判を受ける権利があるとするケント判決が︑翌年には︑被疑事実の告知を受ける権利︑弁護人依頼権︑証人との

対面権︑反対尋問権︑自己負罪拒否特権をデュー・プロセスの内容として保障するゴールト判決が︑一九七〇年に       パぬレは合理的な疑いを超える証明基準を少年審判にも適用しなければならないとしたウィンシップ判決が︑そして一九

七五年には少年審判で非行事実が認定された少年をあらためて刑事裁判所に移送することは二重の危険を禁止した       パ レ憲法に違反するとしたブリード判決がそれぞれ下されて︑少年司法におけるデュー・プロセスの保障が進められて

いったのである︒       パぬレ しかし一方で︑一九七一年には少年に少年審判で陪審裁判を受ける権利を否定したマッキーバー判決が下され︑       パおロ一九八四年には少年の予防拘禁をパレンス・パトリエの観点から肯定するシャル判決も下されている︒これらは少

年司法におけるパレンス・パトリエの利益を再確認する判決でもあり︑少年司法におけるデュー・プロセスの保障

が刑事手続におけるそれとは質を異にすることを示唆する判決でもあるのである︒

 いずれにしてもこれらの判例の流れにそうように二つのデュー・プロセス論が展開されているのは事実である︒

 一つは︑特にゴールト判決を契機にしてパレンス・パトリエ型の少年司法を刑事手続同様の﹁適正手続﹂の保障

された手続へと変容すべきとする流れである︒これは子どもの保護論から単純な子ども解放論へと結びつけた︑い

わゆる刑事手続的デュー・プロセス論とでも呼ぶべきものである︒この考え方は︑アメリカでは少年犯罪の増加に

対する一連の厳罰政策に呼応する形で州立法に採り入れられ︑少年司法手続の刑事手続化を推進している︒また少

年審判において中途半端な形で少年の権利を保障するのではなくて︑少年裁判所を廃止して刑事裁判所に一本化す

88 

りである︒すなわち連邦最高裁判所において︑

審判を受ける権利があるとするケント判決が︑翌年には︑被疑事実の告知を受ける権利︑弁護人依頼権︑証人との 一九六六年には少年裁判官による管轄権放棄にあたっては少年には

48 (山梨学院大学〕

対面権︑反対尋問権︑自己負罪拒否特権をデュi・プロセスの内容として保障するゴl

は合理的な疑いを超える証明基準を少年審判にも適用しなければならないとしたウィンシップ判決が︑

O

年に

そして一九

七五年には少年審判で非行事実が認定された少年をあらためて刑事裁判所に移送することは二重の危険を禁止した

憲法に違反するとしたブリlド判決がそれぞれ下されて︑少年司法におけるデュl・プロセスの保障が進められて

法学論集

一九七一年には少年に少年審判で陪審裁判を受ける権利を否定したマッキil

一九八四年には少年の予防拘禁をパレンス・パトリエの観点から肯定するシャル判決も下されている︒これらは少

‑88

年司法におけるパレンス・パトリエの利益を再確認する判決でもあり︑少年司法におけるデュl・プロセスの保障

が刑事手続におけるそれとは質を異にすることを示唆する判決でもあるのである︒

いずれにしてもこれらの判例の流れにそうように二つのデュ1・プロセス論が展開されているのは事実である︒

一つは︑特にゴlルト判決を契機にしてパレンス・パトリエ型の少年司法を刑事手続同様の﹁適正手続﹂の保障

された手続へと変容すべきとする流れである︒これは子どもの保護論から単純な子ども解放論へと結びつけた︑

わゆる刑事手続的デュl・プロセス論とでも呼ぶべきものである︒この考え方は︑アメリカでは少年犯罪の増加に

対する一連の厳罰政策に呼応する形で州立法に採り入れられ︑少年司法手続の刑事手続化を推進している︒また少

年審判において中途半端な形で少年の権利を保障するのではなくて︑少年裁判所を廃止して刑事裁判所に一本化す

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