生の力 と知性の希求 ( 2 )
‑ ヘ レニズムの思想 の一断面 ‑
友 村 (種 山)恭 子
1.第2部のための序論 ‑ 「自然的動物」 としての人間の問題
この表題 の もとに、われわれが検討 しようとしているのは、「生 きる」とい う ことと、「知性 を発動 させ る」とい うこととが、 どうい う関係 にあるか とい うこ とである。 もう少 し詳 し く言 えば、動物 の一員である人間 に とって、「知性」と は要す るに、 自然世界で生存 して行 くための 「知能」 と同 じものであって、例
(1) えば古代 ギ リシアのアナクサゴラスが 「知性 こそが、万有 を導いている」 と言 明 したのは、観念的動物である人間特有 の誇大妄想であるのか、それ とも逆 に、
人間の内奥 にある知的エネルギー は独 自の方向を目指 してお り、何 らかの理想 を望見 してい るのであって、「文明」 とは、いわ ば理不尽 な外的条件 を克服 し て、 これ までになか った 「美」や 「調和」 を実現す る道程 を経 て達成 され るも のなのか‑ こうした問題 を、ある角度か ら検討す るのが、本稿第1部か らの われわれの課題 である。
身体的に分業 して しまった蟻や蜂 は、本能 (instinct)に従 って自分達 の社会 を造 り上 げ、 ほ とん ど自動的 に社会生活 を営 む ;身体的に分業 しているわ けで はない人間 は、「知能」 (intelligence)を駆使 して生 きるための工夫 を凝 らし、
また、 自然が備 えて くれた虚構 を描 く能力 (fonctionfabulatrice)によって、
部族 の神 とい う虚像 を描 き出 し、 それ を中心 としてそれぞれ社会集団 を構成す る。 ‑ これ はベルグ ソンの説であるが、 こうした説が展開 されてい る 『道徳
(2)
と宗教の二つの源泉』が出版 されたのは1932年、ナチスの勢力が強大 にな り、
翌年 にはヒ トラーが首相 になる といった頃 であ る。 「人 間 は知性 を授か ってお り、 自由である。 だが片時 も忘れてな らぬ ことは、人間種 の構造 のプランの う ちに も、蜂 のそれの うちに も、前 もって社会的生が織 り込 まれている とい うこ と、社会的生 は必然 の ものだ とい うこと、 自然 (lanature)はわれわれの自由 意志 (mosvolontさslibres)にいっさいを任せ きることはで きず、 したが って また 自然 として は、一人 また は数人 が命令 し、他 の者 たち は服従す るように手 配す るす るはかなか った とい うことであ る。」もっ とも、人 間 に 「首長」 (chef)
と「隷民」(sujet)とい う二極が固定的 に存在 してい る とい うわ けで はな く、「わ れわれの一人一人 が、命令本能 を持 った首長で ある と同時 に、 また素直 に服従 す る臣下 に造 られてい る とい うのが事 の実相 なのであ る。」ただ大部分 の人 間 に あって は、服従傾 向が優越 しているが、例 えば革命 の際 に、従順 だった市民が 突然変貌す るのが 目撃 され る‑ と、ベル グ ソンは言 う。そ して彼が次 に指摘 す るの は 「われわれ の胸底深 く眠 ってい る首長 の性質 の一 つ に残忍性が ある」
とい う点である。「自然 はさまざまな種 を産 み出す ものであ る とともに、同時 に また容赦 な く個 を犠牲 にす るものである以上、 この自然があ らか じめ首長 とい うもの を備 えておいた とすれば、 自然 の意 に適 うの は、 た しか に冷酷無情 な首
(3) 長 だったに違 いない。 この ことは歴史全体が証拠立ててい る。」
夢心地 の ままに何 らかの 「民族 の神」 を思 い描 き、 その幻 影 に引 きず られて 興奮状態で外敵 を仮想 して闘争心 を起 こした り、 自己の内に自然 に起 こって来 る自問 を自分 で押 し殺 し、「首長」 の命 じるままに、「これ こそ至上命令 だ !」
と自称 「正義 の戦」 に生命 を投 げ出 した りす るような精神性 は、傍迷惑で もあ り、その ような人物 が主導権 を握 ってい るようなポ リスや国家 ‑ あるい はま た暴力団体 ‑ で は、全員が そ うした無理 な興奮状態 を維持 してい るか、秘密 警察が民衆 を監視 して強制的 に体制 に従 わせ るか しない限 り、組織全体 が崩壊
(4)
す る とい う危機 を季 んでい る。
それで は 「強制 的 に思 い込 まされ た」 ための、 あるい は 「習慣付 け られてそ
3
う思 い込 む ようにさせ られて しまった」 ための 「思 い込 み」 とは異 な り、われ われ各人 が ‑ 人種 や階層 な どに関係 な く‑ 人間 である限 り、 自分 に賦与 されてい る内発的 な認識能力 で全 く無理 な く受 け入れ得 る 「知識」 とい うもの が ある とすれ ばそれ は何 なのか、 あるい は、 そ もそ もその ような 「知識」が あ り得 るのか ? そ うした知識 としてプラ トンが注 目しているのは 「数学」 であ るが、われわれ は、「数学」と 「問答法」 (デ ィア レクテ ィケ‑)の関係や、「明
(5) 確 な知識」 とは何 か について は、 ここで は主題 として は扱 わない。
われわれが本稿 の この第2部 で検 討 す るつ も りの問題 は次 の通 りで あ る :
‑ プラ トンは確 か に、数学的知識 を重視 して はいる。 しか しそれが前提 (公 哩)か ら整合性 を守 りなが ら演梓 とい う下降の過程 を一方的 に辿 り、前提 その ものを吟味 しない とい う点 と、補助手段 として視覚的形象 を用 いている とい う 点で、 なお 「明確 さ」が十分でない とし、 これ に対 して、「明確 さ」において数 学 よ り優 る もの として 「問答法」 を挙 げてい る。 「問答法」 は、 『国家』 で は、
前提 その ものを吟味 し、前提 か ら下降す る代 わ りに、前提 のその また前提 と考 え られ る ものへ と遡 って行 くとい う方法 として、人間の最高の認識能力で ある (6)
「知性 的思惟」 (ノエー シス、noesis)の働 きの過程 を示す ものなので あ るが、
この 「問答法」は、『パ イ ドロス』で は 「物事 を自然本来 の性格 に従 って、 これ を一つになる方向へ眺 め る とともに、 また多に別れ る ところまで も見 る」 とい
(7)
う分割 と総合 の方法 だ とされてお り、 『ソビステス』で はまた 「もろもろの (辛) (genos)に従 って分割 す ること、 そ して同 じ く形相)(eidos)を異 なった (形 相) と考 えた り、異 なった (形相) を同 じ く形相) と考 えた りしない こと」が
(8)
「問答法」の知識 に属す る仕事 だ とされているのである。 ‑ すなわち、 プラ トンの場合、 それぞれ独 自の多様 な性格 を持 ってい る対 象 を 「無限 に多様」 と して放置 す ることも、「万物 は一つ」 と洞察 した気分 で侠惚 としていることも、
少な くとも学問的 に (あるい は哲学的 に)対象 を研究 しようとす る者 に とって (9)
は、許 されないので ある。 彼 の言 う哲学的 「問答法」 とは、個々 の ものの独 自
の特性 を明確 に認 めなが ら、 それ らが どの ような (類〉 もし くは (形相)の も とに包摂 され得 るのか、相互 の不可分的な関係 はどの ような もの と考 えられ得 るのか を探究す る方法 だ とい うことにな る。 そ して これ は、個々 に相違す る多 様 な要素 を含 みなが ら、一 つの完結 した全体 をな してい る有機的な宇宙 をモデ ル として、多様 な構成員 を協調 させて一体性 のあるポ リスを構想 しようとした
uO) プラ トンに とっての重要 な方法 だった と言 えるのである。
ところで、自然世界全体 を‑ プラ トンの ように、天体 の見せ る数的比率 に 従 った回転運動 に顕現 され るような 「知的な魂 (ブシュ‑ケ‑、psyche)」によ
uD
って統括 されている有機体 として、これ を見 るので はな く‑ 文字通 りの生 き もの、すなわち、馬、象、羊、鶴 、 トカゲ、 シラ ミ、魚類、様々 な植物 な どを 飽 くことな く観察 しなが ら、「自然」 (ピュシス) とい うものを考 えたのが、 ア リス トテレスであることは言 うまで もない。 ア リス トテ レスに とって は、 自分 で成長 し自発運動 をす る ものが、「自然 によって (physei)」あ るものなのであ り、「自然」とは、 こうした生 きものが動 いた り、 じっ とした りす ることの原理 (アル ケ‑、arkhe)であ り、 また、 こうしたいわ ゆる 「生 きもの」 だ けで な く、土、火、空気、水 といった 「単純物体」 に して も、例 えば火 は 「自然 に」
天球 の表層部 (‑上) とい う自分の固有 の場所へ と上 って行 くのだか ら、 こう u2) した物体 もまた、内発運動 の原理であ る 「自然」 によってある ものなのであ る。
こうした 「自然」 によってある もの、特 に、人間の ように 「知性」 を賦与 され ているので はない動物 や植物 を見 る と、 その 「自然」 は明 らかに合 目的性 を示 してい る とア リス トテレス は言 う :‑ 燕 が巣 を作 り、蜘妹が網 を張 り、植物 が栄養 を取 るために根 を下 にお ろすの は、人間的な「技術」(テ クネ‑、techne) によるので もな く、探究 した り考慮 した りしての ことで はな く、明 らか に 「自
u3) 然」によってなのであ り、従 って、「自然」に合 目的性 が見 られ るのだ、 とい う のである。
ア リス トテレスについて は今 は詳論 を控 え、ただ必要 に応 じて言及す るに と
どめたいが、 ここで は、動植物 を観察 し分類 し、 この ように 「自然」 によって 働 く非知性的な生 きものの働 きと、知的動物 である人間の技術 とを載然 と区別 す るア リス トテレスが、人間の間に も、「家畜 なみの人 間」と 「主人 としての資
)‖Ⅸ 格 のある人間」 とを区別 していた点 に留意 してお きたい。
ところで、「自然」 の手 の内 にあ る もの としての人 間 は、蟻 や蜂 の場合 と同 様、首長 と奴隷 の序列か ら成 る小社会 を形成 し、首長 には残忍性が潜 んでお り、
こうした小社会 は互 いに闘争す る と言 った、上記 のベ ルグ ソンは、奴隷制 を土 台 としていた古代都市 な どは贋 の民主制 に過 ぎない と言 う。「実際、民主制 こそ は、あ りとあ らゆる政治思想 の うちで 自然か ら最 もか け離れた ものであ り、(閉 じた社会)の条件 を‑ 少 な くともその意 図の上 で‑ 越 え出ている唯一 の 政治思想 なのである。」民主主義 は人間 に不可侵 の権利 を付与 す るが、こうした 諸権利が侵 されずに永続 す るためには、すべての市民が、カ ン ト流 に言 えば「立 法者 に して臣民」であることを要求 され る。 「自由」 と 「平等」 とは元来相互 に 矛盾す る。 しか し「同胞愛」(fraternite)が、前二者 を和解 させ る肝心要の もの であることがわか るだ ろう、とベルグ ソンは言 う。「す なわち、これ こそ民主主 義 が福音 書 的本 質 (essence evangelique)の もので あ り、 その原動 力 は愛 (amour)だ、 と言わ しめる所以 の ものなのである。」「愛せ よ、 しか して汝 の 欲す るところをなせ」 とい う標語 に対応す る、民主的でない社会 の表現 は 「権 威 、位 階、固定性」 となるだ ろう、 と言 う。理想的 な民主主義 を考 える とき、
「そ こに見ねばな らぬ ものは、ひたす ら一つの理想 (ideal)なのであ り、 ある (15)
いはむ しろ人類が進 み行 くべ き一 つの方向である。」
ベルグ ソンに とって は、「自然」 とは、残忍 な 「首長」 と服従 す る 「臣民」へ の分業 を命 じる珂責 のない ものであ り、 そ うした 「自然」 の桂稔 を断ち切 って はじめて全人類 は融和 し得 るのであ り、その樫柊 を断ち切 るには、 キ リス ト教 といった大宗教 の宗教 的直観 に倹 たな けれ ばな らない、 とい う ことにな る。
‑ しか しまた、われわれ として は、「教会」その ものが「権威 、位階、固定性」
によって身 を守 り、外部 に対 して攻撃的 に身 を構 え、「教会」が 「神 の正義」と 思 いなす ものを受 け入れ ない ような異教徒 もし くは異端者 を 「敵」 として抹殺
しようとした事実 もあ り、現 に 「教会」 その ものが 「教条」 を強制 す る 「閉 じ た社会」 になる要因 はい くらで もあ りそ うだ とい う点 を付 け加 えてお きたい。
しか し 「自然」 とは何 なのか ? 自然科学諸分野 の専門家か ら見れ ば、 ア リ ス トテ レスの 「生物学」は博物館行 きの ものであろうし、ベルグ ソンの言 う 「自 然」 も時代遅れ に違 いない とも言 える。 しか し、 どの時代 どの地域 において も、
人々 はまさに自分 の使用 してい る言語 の背後 に、漠然 とした背景 をな している 観念 によって方向付 け られている ものであ ろう。実際、生物学 に深入 りし、推 論形式 の妥当・非妥 当を綿密 に吟味 したア リス トテ レスが 「本性上、く奴隷)で ある人 間が存在 す る」 と言明 した時、 それ は、奴隷 を必要 とした社会 の要求が、
こうした言明 を正 当化 す る背景 とな り、 またア リス トテ レスの こうした言明が 奴隷性 を正 当化す る とい う全体 的な知的風土があった と言 えるのであ り、 こう した中で は、「すべての人間 は自由な主体 であ る」と断言す るに も、 その根拠 を 与 えるほ うがむ しろ困難 だ った と言 える。
さてわれわれ はここで、古代 において、 ポ リスの枠 が崩壊 した後 のヘ レニズ ム時代 に目を移 したい。「ポ リスの秩序 のため」とい う至上命令 はここで はもは や意味 を失 う。 そ してわれわれ は特 に、「自然」の外部 にイデア的な存在 を全 く 認 めない自然主義者 もし くは物体 主義者 であったス トア派、 しか も、人間すべ てを 「宇宙市民」 (コスモポ リーテ‑ス)として見 ようとしたス トア派 に注 目し たい。
2.ス トア派
(a) (自然世界 の中の生物) としての人間
「生 きもの (Z6ion)の持 つ根源的な衝動 (horme)は自己保存 に向か うもの (16)
だ、 とい うのがス トア派の主張である」 とデ ィオゲネス ・ラエルテ イオス は伝
えてい る。そ して彼 はこれ を説明 して、「とい うの は、ク リュシツボスが‑・・・述 べてい るように、 自然(physis)が そ もそ もの初 めか ら、生 きものが 自分 自身 に 親 しい もの となるように しているか らである。すなわ ち彼 (ク リュシツボス) は‑‑・〈すべての生 きものに とって まず第‑ に親 しい (oikeion)ものは、 自分 の身体 の構造 (systasis)と、 それ についての意識 (syneidesis)だ) と言 って
07)
い るので ある。」つ ま り‑ とデ ィオゲネス ・ラエルテ イオス は続 ける‑ ク リュシッボスの言 うところで は、「(自然〉が生 きもの を、 自己疎外 させ るよう に した とい うことは、 あ りそ うにない ことであ り、 また 自然が生 きものを造 っ てお きなが ら、 それ を自己疎外 しない まで も、 自己 に親 しい ものに もしなかっ た とい うことも、あ りそ うにないか らである。 だか ら、(自然)は生 きもの を構 成 した時 に、 これ を当の生 きもの 自身 に とって親 しい もの とした、 としか言い
(18)
ようがないのである。」だか ら 「自然」はすべての生 きもの をして、 自己 に愛着 を覚 える ものに したので奉 り、 その 「自己」 とい うの も身体構造やそれについ
09)
て 自分が直接的 に感 じてい る意識 だ、とい うことになる。「だか ら、生 きもの は 自分 に害 をなす ものを押 し退 け、 自分 に親近的 な もの (oikeion)へ と向かって 行 くので ある。」
ア リス トテレスの場合 も、上記第1節で見 たように、「自然」その ものに合 目 的性 が備わ っていた。 しか しア リス トテ レスは、蜂 や蜘妹や植物 の場合 には、
巣 を造 った り根 を下 ろした りす るその活動 に 「自然」の働 きを見 たのであるが、
こうした働 きと、人間的技術 の間 に一線 を画 していた。 こうした動物 や植物 は
「理」 (ロゴス)を解す る 「知性」を持 たないのである。 ‑ こうした規準 でア リス トテレスは、人間の中に も自分で 自分 の主であ り得 る、つ まり 「理」 を弁 えて自主的 に判断 し得 る 「自由人」 と、他者 に従属 して肉体労働 を提供 す る見 返 りとして保護 して もらうほうが、本人 に とってむ しろ有益であ るような 「奴
価)
隷」 とが、本性上 (‑ 「自然 によって」)存在す ることを主張 していた。
われわれ は、 しか し、 こうしたア リス トテレスの主張 に異論 を申 し立 て るべ
さか どうか は保留す る とし、 む しろ、 ア リス トテ レスの先駆者であ るプラ トン が、 どの ような意味 で、「知性的思考 ・思惟」を 「身体 的感覚 と結 び付 いた思惑」
よ りも上位 にある としたか を思 い起 こしたい。い まの場合われわれ は、感覚が その都度 もた らす色 や音 は単 なる流動であ り、 ‑ 例 えば 「白い ものが移動 し ている」と発言す るに して も、 あるい は 「この部分が 白色 か ら黒色 に変化す る」
と発言す るに して も‑ 「白い もの」や 「この部分」を指示す るには、 そ う発 言す る側 の能動的 な指示作用がなけれ ば、 その ような発言 は不可能 だ、 として
L?U
い る 『テアイテ トス』 を挙 げたい。実際、 プラ トンが批判 しているの は、 その 都度 の感覚的刺激 か ら空想的 に対象 を思 い描 いているだけであるのに、「これが 真実だ」 と大言壮語す る連 中だった と言 える。
ここで、われわれが指摘 したいの は、「認識能力」と 「認識 の対象」とが表裏
nrl)
一体 をな している とい う点であ り、 プラ トンもそれ を明確 に述べてい る とい う 点 である。 つ まり、「これ こそ疑 いの余地 もな く明確 もし くは明噺判明 だ」とし てわれわれが何 か を把握 す る場合、 その ように して把握 され る内容 は 「真」 と して 自覚 され るであろうが、 それ と同時 に、 こうした内容 を明 白な 「真」 とし て把握 しているの は‑ 「そ う三 重互 と言 えるような気 もす る し、 そ う三 を 巳 と言 えるような気 もす る」 とい う暖味 な、あ るい は無理 に思 い込 んでいる場合 の ような精神状態 とははっ きり異 なってい る ところの‑ 「知 的活動」 の はず
a3)
なのである。 (実際、把握 す る側 の人間の精神状態如何 を問わず、 「厳然 た る実 在」が存在す る と思い込 み、 自分 はそれが 「実在 す ること」 を知 ってい るのだ と主張す る人 だ とか、逆 に昼 を把握 した とい うのか、 その内容 も定かでないの に、「自分 は世界 の実相 を洞察 し得 る選 ばれた者 だ」と主張 して はばか らない人 がある とすれ ば、 そ うした人 は自称 「天才」 の満足感 に浸 っていれ ばよいので あ ろうが、 しか しその人 は他人 か ら無視 されて も苦情 を申 し立 てる根拠 を持 た ないだ ろう。)
ところで、 プラ トンの場合 には、現実 にはまだ完全 に実現 されている ことは
伽
ないが、少 な くとも 「天上 のパ ラダイム」 として現実の人 間 に方向 を示唆す る イデア的な 「美」や 「正」が、 「問答法」を通 じて次第 に明確 な姿 を とって現れ るであ ろうとい う確信 が あったか らこそ、現実 の閉銭社会 の制約 の もとでの視 野狭量 な価値観 を越 えた、 こうしたイデア的 な 「美」 や 「正」の実在性 を確信 し得 た と言 える。‑ 実際、探究方法 とその対 象 とは表裏 の関係 にあ るわ けで あ る。
ところがヘ レニズム時代 のス トア派 で は、「問答法」 (デ ィア レクテ ィケ‑) の意味 も変化 し、 これ と表裏 をな して 「実在」 の意味 も変化す る。 ス トア派 に とって は、 「問答法」には、言語 その もの を扱 う部 門や、言語 で指 し示 され てい る もの (意味)を扱 う部 門が あ り、 この うち 「意味」を扱 う部門 にはまた、「表 象」(パ ンタシアー、phantasi云)を扱 う部 門 と、表象 に基づ いて成立 す る「命題」
防)
な どを扱 う部 門があ り、中で も 「表象」 を扱 う部 門の 「問答法」 が必要 なの は、
「軽率 な誤 りを犯 さないため」であ り、 これ は、表象 に対 して、「人が いつ同意 を与 えるべ きか、 また与 えるべ きでないかの知識 だ」 とい うのであ る。 そ して
「知識」(epistheme)その ものについて は、ス トア派 はこれ を 「誤 る ことのな い把握 (カタレ‑プシス、katalepsis)」、 もし くは 「表象 を受 け入れ るに際 して
ヨ駈e
議論 (ロゴス) によって動揺 させ られ る ことのない状態」 だ としている とい う。
す なわ ち、 ス トア派 に とって は、以上 の ように言われ る場合 の 「議論 もし く は言論」 (ロゴス)とは、感覚界 を越 えたイデア的対象 を発見 す る方法 を意味す るので はな く、 む しろ、「表象」を表現 す る形式 であ り、 だか らまた、人 は 「言 葉」 に証 か されて、与 えられ た 「表象」 を自分 で打 ち消 した り、歪 曲 した りす る場合 も出て来 る。 ‑ 実際、 ス トア派が 「論理学」の領域 で、今 日の 「命題
(抑
論理学」 の 「恒真命題」 を整理 してい るのが見 られ る。従 って、厳然 として存 在 す る対 象 についての正 当な認識 の決 め手 にな るの は「表象」、 それ も、言論 に よって動揺 させ られて思 い浮かべ た もので はな く、「把握的表象」すなわち「(覗 実 に存在 してい る もの〉 (ヒュパル コン、hyparchon)か ら生 じ、 しか も (現実
(初
に存在 している もの) に即 して [魂 に]刻 印 され押 印 され る もの」である。
ところが、 どんな動物 で も、感覚 を持 ってい る限 り、表象 を持 つのであ ろう。
「感覚 を持 つな ら、表象 (パ ンタシアー)と欲求 (オ レクシス、orexis)を持 つ ものだ。何故 な ら、感覚 のある ところには (快) と (育)が あ り、 これ らのあ る ところには、必然的 に (欲望)(epithymia)もあ ることになるか らであ る」
伽)
とい う言葉がア リス トテ レスに見 えている。 「表象」といって も、 ア リス トテレ ス は、 これ に もい ろい ろ とあ り、「思惟 す る こと」(noein)も、一種 の表象で あ
価)
るか、 あ るい は表象な しにはあ り得 ないはず だ と言 うので あるが、 しか し彼 は ここで も、人間 と動物 をはっ きり区別 してお り、人 間以外 の他 の動物 の表象 は 感覚的で あるが、推理的能力 を持 つ動物(「ロゴス的(logistikon)動物」‑人間)
Ou だけが 「熟慮的 な (bouleutike)表象」 を持 つのだ と言 う。
しか しわれわれ は、本稿 で は、 ス トア派 の 「把握 的表象」 はプラ トンの認識 論 に対 して、 どの ような点で反論 にな り得 るか といった問題 は保留す る として、
次節で は、 プラ トンの言 う、人間 に賦与 されてい る最高 の知的能力が はじめて (初
把握 し得 る、非物体 的 なイデア的世界 を全 く認 めないス トア派が、倫理的側面 で どの ように考 えたか に焦点 を合わせ たいのである。
(b) ス トア派の 「パ トス、衝動、 自然」
プラ トンが、生命 の原理である 「プシューケ‑」 で も、 その知的 な部分 こそ が造物主 によって直接造 られ た もので、「激情」や 「欲望」の部分 は、前者 の よ うな純粋 な魂 が地上 で生 きる ことを余儀 な くされ た時 に、身体 とともに付 け加
(刀)
え られた、と言 った とき、それ は‑ ピュタゴラス主義 との関係 はさて措 くと して も‑ 限 られた資源 を奪 い合 って闘争 した り、民衆扇動家 の弁舌 に興奮 し て愚劣 な戦争 を仕掛 ける獣 めいた衝動が人 間 に潜 んでい る、 とい う洞察 に基 づ いての ことであった。
ところが ス トア派 で は、「生 きもの」の根源的 な衝動 は 「自己保存」に向か う
ものだ とし、人 間 も‑ 別世界 の天上 か ら下 って きた魂 が身体 に埋 め込 まれて い る存在 なので はな く‑ 自然世界 の 「生 きもの」の一員 に過 ぎなか った。 す る と 「パ トス」 (情動) はどうい うことにな るか。
「ス トア派の主張で は、パ トス とは過剰 な衝動 である」と、5世紀頃のア ンソ 伽
ロジーの編者 ス トパ イオス は伝 えてい る. パ トス に も基本的 な もの と、 そ こか ら派生 す る ものが あ り、基本的 な もの として は 「欲望」「恐怖」「苦痛」「快楽」
が あるが、 中で も前二者が先行 す るのであって、「欲望」は「善 い と見 える もの」
に関係 し、「恐怖」は 「悪 い と見 える もの」に関係す る。 そ して、 その結果 とし て 「苦痛」 と 「快楽」が生 じる。つ ま り、欲求 す る対象 を うま く手 に入れ る と か、恐れていた ことを免れ た場合 に 「快楽」が生 じ、逆 に、欲求す る対 象 を手 に入れ損ね る とか、恐れていた ことに出 くわす とかす る場合 に 「苦痛」が生 じ る。 ‑ こうした説 をス トア派が主張 していた とい う。
もともとス トア派 は、生 きもの に とっての根源的 な衝動 は 「快楽」 に向か う ものだ とい うような説 に反対 してい る。彼 らが、生 きもの はすべて 「自然」 に よって、 それ 自身 の身体構造 に愛着す るよ うに造 られてお り、従 って 自分 の構 造 に有害 な ものを押 し退 け、 自分 に親近性 のある ものに向かって行 くと考 えた、
と伝 えてい るデ ィオゲネス ・ラエルテ イオスの言葉 は、第2節 の冒頭 で挙 げた が、 その箇所 に引 き続 いて彼 は、生 きものが 自分 の構造 に適合 した ものを手 に 入 れ る場合 に、結果 として 「快楽」が生 じるとい うのがス トア派の見解であっ
C5)
た と伝 えてい る。動物 が 自分 の身体構造 に適合 した体位 を とった り運動 した り す るの は、試行錯誤 で 「苦痛」 を覚 えて は、 それ を避 けようとした結果、 そ う なったので はな く、逆 に、苦痛 を覚 えなが らも、「自然」の要求す ることへ と自
㈲
分 を訓練 す る ものだ、 とい う。 ここには、 自然世界 の 「生 きもの」すべて を も、
個 々の人 間の身体 を も、 いわ ば操 ってい る 「自然」 の力が働 いている とう図が 見 られ る。
む ろんア リス トテレス も、われわれが第1節で見 た ように、人間 と違 って知
12
性 を持 たない蜂が巣 を造 った り、動物 と違 って感覚 す らも持 たない植物が地下 へ と根 を延 ば した りす るの は、 そ うした生物 において 「自然」が働 いてい るか らだ とし、だか ら 「自然」 その ものに合 目的性 が見 られ るのだ としていた。 し か しア リス トテレス は、 こうした動植物 を方向付 けてい る 「自然」 (ピュシス) の働 きと、人間の 「技術 」 (テクネ‑) の間 に一線 を画 していた。確か に 「く技
(m
術〉 は く自然) を模倣す る」が、「技術 」のほ うは、「技術 によって製作 され る もの」 (例 えば家屋) とI羊別 な もの (建築家)の中にある原理 (アル ケ一、 この 場合 は始動因)であ るのに対 し、「自然」 のほ うは、例 えば人 間が成長 す る場 合、 それが宿 ってい る当の もの (人 間) の中にあって、それ を成長 させ る始動
価)
困 となってい るのである。 プラ トン と違 ってア リス トテ レス は、知的造物主が 素材 に秩序 を課 した とい う見解 は取 らないわ けであ るが、 しか し、本能 の まま に (「自然」に従 って)巣 を造 った り網 を張 った りす る動物 の うちで働 いてい る 働 く 「自然」 よりも、「技術」のほ うを上位 に置 く。「技術 」 は 「自然」 を模倣 す るが、しか しまた、「技術 は、自然がな し遂 げるこ との出来 ない ことを、成 し
価)
遂 げる。」 しか しス トア派で は、「技術」が 「自然」 の中 に取 り込 まれている と 言 える。
(C) 「技術 」 の意味 の変化 、生命体 に働 く技術
プラ トンの言 う 「技術」 として、例 えば 「医術 」 を取 り上 げる と、それ は身 体 に とって一番善 いあ り方 を知 っていて、 それ を目指 し、「何故 そ うす るか」の 理論 を弁 えていて、患者 を多少痛 い 目にあわせて も、治療す る ものなのであっ て、その点、相手 に迎合 して、相手 の欲 しが る ものを提供す る 「料理の コツ」
ⅢE
とは対照的だ としてい る言葉が、 Fゴルギアス』に見 えている. こうしたプラ ト ンの発言 は、単 に 「多数者」 に迎合す るような弁舌で喝采 を得 ることだけを狙 い、 ポ リスが崩壊 す る危険 を も顧 みない弁論家 の 「弁論術」 を、「料理の コツ」
川U
になぞ らえるために言 った ものであるには違 いない。 しか し、政治 でのプラ
トンの こうした見解 に対応 す る構 図が宇宙論 に も見 られ、 『テ ィマイオス』 に は、 それ 自身 だけで は無秩序の まま崩壊 しそうな素材 に 「知的造物 主」が上 か ら秩序 を課 する とい う構 図が見 られ ることは、第1節 で も見 た とお りである。
そ して、「自然」その ものに合 目的性 が見 られ ることを強調 しているア リス トチ レス も、上 に見 たように、推理 し熟慮す る人間の 「技術」のほ うを、知性 な き 動物 の本能的な (「自然」 に従 った)働 きよ りも上位 に置いていた。
ところが、われわれ はい ま、3世紀 のプラ トニス ト、プロテ ィノスを引合い に出 したい。 プロテ ィノス は、ス トア派の ような物体主義者 とは逆 に、われわ れ も世界 のすべて も、「善 なるもの ・‑ なるもの」か ら溢れ出 る、非物体的 な、
しか し比倫的 に言 えば光 ともい うべ きものの照射 を受 けて、生 き、知的活動 を 営 んでいるのだ としているのであるが、彼 は、 この世界全体が、素材 を前 に し てあれ これ と推理 し工夫 しなが ら 「工作者」 (デー ミウール ゴス)によって造 ら れた とい う観念 を受 け入れない。材料 を前 にして推理 をこらすな ど、人間界 の
te)
下手 な職人 のす ることで しかないのである。
確か に、「物体主義者」のス トア派 とプロテ ィノス とで は基本的 に異なってい るが、 しか し、外的な素材 を前 に して頭 を悩 ませている 「工作者」 の像 の代 わ りに、生 の源泉 として、プロテ ィノスが 「自ず と光 を照射 す る光源」 ともい う べ き 「‑ なる もの」 を語 った とすれば、物体主義者 ス トア派 は 「く自然) とは、
方法 に従 って [世界の]生成へ と向か って進 んで行 く、技術 的 に働 く火であ り、
如) これ はまた、火の性質 を持 つ、技術的 な 〈気) (プネウマ) と同 じものだ。」 と 言 っているとデ ィオゲネス ・ラエルテ イオスは伝 えている。 もっ とも、細部 の 点で は、ス トア派内部 に もい ろい ろな見解があった ようであ り、ス トア派 の説 はまた、ス トア派への反対者 を通 じて伝 え られてい ることも一再で はない とい うのが現状 であるが、 ここで は、 ディオゲネス ・ラエルテ イオスを手がか りと しなが ら、以下、本稿 の主題、すなわ ち、自然 に内在 す る要因 だけで、「全人類 の調和」 とい うような観念 の支 えになるものが得 られ るだ ろうか とい う点 に、
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焦点 を合わせたい。
そして この節の結論 として次の点 を指摘 してお きたい。すなわち、プラ トン のほうは、いわ ゆる素材 (物体的次元 の ものであれ、身体的 ・獣的本能 に支配 されているままの個人であれ)だけでは、宇宙全体 もポ リス も崩壊する危険性 を感 じ、だか らこそ、 ポ リスにとって最 も善い状態 を洞察 し得 る統治者 を必要 とし、宇宙 にあって は、現 に、「最善」 を目指す知 的存在が、宇宙 に秩序 を与
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え、 これ を導いてい るとい うように 「賦課法則」 (ホワイ トヘ ッ ドの言 う)の考 えに傾 き、従 って、宇宙 において もポ リスにおいて も、多が一 に統合 されて一 体 をな している とい う 「最善」の状態 を把握す るには、多 と‑の関係 を把握 し 得 るわれわれの知的能力 を訓練 し、そうした 「知性 の捉 えるイデア的世界」へ と目を向けなければな らなかった。「自然」に合 目的的な働 きを認 めたア リス ト テレス も、蜂や燕の本能 と比べて、人間の 「知的能力」 を誇 っていた0
しか しス トア派 は、生 きものの うちに働 く 「自然」の中に、淀みな く流れ る (J5)
ように働 く技巧 の力 を見 る。 そ して 「宇宙 の種子的 ロゴス (スペルマテ イコス・
ロゴス)」である神 は世界 に内在 しなが ら、精子 (スペルマ)のように世界秩序 KnE
を形成 し、「一定の周期 に従 って、全実体 を自己の内へ と吸収 しまた再 びそれを
3mE
自己の内か ら生み出す。」ここには、文字 どお りの 「生 きもの」をパラダイム と す る宇宙像が描かれている。 それでは、蟻や蜂 のような もの としての人間の弊 猛 な闘争の可能性 は、ス トア派で はどう考 えられているのか。
(d) 「生 きもの」の世界 の一体性
われわれ は先 に(b)で、ス トパイオスが、ス トア派では 「パ トス」が 「過剰 な 衝動」だ とされてい るのだ と伝 えているのを見 たが、実 はス トパイオスは 「パ トス とは過剰 な衝動であ る」とい う言葉 に引 き続 いて、「それ はまた、指令する
㈹)
ロゴスに不従順 な衝動、 もしくは、魂 の非合理的で反 自然的な運動である。」と 言っているのである。 しか しこの場合の 「ロゴス (理性)」は、イデア的世界 を
15 把握 す る もので はな く、宇宙 の隅々 に まで浸透 して、 あ らゆる ものを保持 して
価) いる 「気」の ような ものであ る。神 は 「知性」 (メース)とも呼 ばれ るが、 この
「知性」 は 「宇宙 のあ らゆ る部分へ と浸透 しているので あって、 それ はち ょう ど、われわれの [身体 の] あ らゆ る部分 に、 プシューケ‑ (魂、生命 の原理) が浸透 しているの と同 じである。 ただ し、 ある部分 にはよ り多 く、他 の部分 に はよ り少 な くとい うように、浸透 の度合 に差が ある。」とい う。 「すなわち、(知 性) はある部分 において は、 た とえば骨 や腺 の場合 の ように、単 なる く保持す る力) (へ クシス)として行 き渡 っているが、他 の部分 には、魂 のく指導的部分)
(へ‑ゲモニ コン)の場合がそ うであるように、 まさに く知性) として行 き渡
伽
っているのであ る。」 デ ィオゲネス ・ラエルテ イオス はまた、宇宙 において は、
「天 にあるもの と地上 にある もの とが共有 している (呼吸) と く緊張)が、宇 6L?)
宙 の一体化 を必然 に しているのだ」 とい うス トア派の説 を伝 えてい る0 つ ま り、 プラ トンの 「魂 の知性 的部分」 は天上 に向か っていたが、 それ に相 当す る、 ス トア派の 「魂 の指導的部分」 は、 この現実 の 自然世界 のあ らゆる も のに浸透 し、生 きものの内部 で生理機能 として も働 く 「生命 の力」 の、濃厚 な 部分 だ と言 えるだ ろう。 そ してそれ は、生 きる宇宙全体 に浸透 して統括 してい る生命的な力 の分身の ような ものだ と言 えるだろう。従 って 「自然 に従 って生 きる」 とい うことは、全体性 を備 えた有機体 としての宇宙 の方向 に即 して生 き る ことを意味す るだ ろう。 だか らまた、視野狭量 の精神性 が 「パ トス」 に押 し 流 され ることにな る。
むろん、「自然 に従 って生 きる」ことが具体 的な社会生活 でのモラル とどう折 り合 えるのか、 あるい は前者が後者 を どの ような根拠 で正 当化 し得 るのか とい った問題 について は、他 の学派か らの反論 もあれ ば、 ス トア派内部 で も論争が あったようであ る。 しか しわれわれ として は、「自己保存 の本能」を根源的な衝 動 として持 つ生 きものの一員である人間が、 自然 に内在 す る要因だけで、 どの ように して相互 に‑ 闘争 に終始 す るのでな く‑ 協調 し合 えるのか につい
ての、ス トア派の提案の一部 を見た ことにしてお きたい。 なお また、 ローマ時 代 のギ リシア人、医師のガ レノス は、医学 ・生理学 にかかわ るス トア派の個々 の説 に、多々苦情 を述べているが、ガ レノスの 「生気論」 とス トア派の学説の 関係 について は、別 の機会 に扱 うことにしたい。 ‑ 7 ‑
[注]
(1) Fr.12.ここに 「知性」 と訳 した 「メース」 (I,0^vr)は、Diets‑Kranzが"Geist"と 訳 し (DieFragmentederVoysokydikerII)、Kirk,Raven& Schofieldが"Mind"と い う訳語 を当てているものである (ThePresocraticPhilosopheys)。 この 「メース」は 確 か に 「あ らゆるものについて知見 (γt'bm )を持 っている」 と言われている限 りで は 「認識す るもの」 に違 いないが、 しか しこれ は宇宙全体 の回転運動 を起 こさせ る始 動因 として も考 え られてお り (以上、同 じ くfr.12)、 しか も物体的世界 は、一旦 回転 運動 を始 める と、後 は、微細 な物体 は周辺へ弾 き飛 ば され、濃厚 な物体 は中心部 に集 まって凝 固す る (frr.2,15,16を参照) と言われてい る限 り、「メース」 は 「最初 の一 撃 を与 える」始動因 とい う意味 を持つ ことになる。 こうしたアナ クサ ゴラスの見解 に ソクラテスげ失望 して場面が、プラ トンの 『パ イ ドン』 (97B‑99B)に見 られ るの は言 うまで もないが、いったい、われわれ 自身が 「明噺判明」 とす る概念 もし くは命題が、
実物 の外界 の構造 と実質的 に どうい う関係 を持 ち得 るのか、 あるいは、われわれ 自身 が推理 し工夫 して開発す る 「技術」が、外界 の自然世界 を頑強 に支配 してい る仕組 み
‑ 人体 の構造 にせ よ、動植物 の身体機構 や行動 のあ り方 にせ よ‑ と、どうい う関 係 に置かれ得 るのかが、プラ トン自身 の課題 となったのである。 プラ トン自身 は、わ れわれの 「知性」 と同質 の 「宇宙 の知的 な魂」が この世界全体 を秩 序付 けてい る とい う確信 を大前提 とし、だか らこそこの宇宙 には、われわれの内発的 な知性 あ るいは推 理力が明確 に把握 し得 る数学的秩序が見 られ るのだ とす る (Timaeus 30A, 32A‑C, 33B,38C‑39D,53B‑55C;LegesX 897C‑898C,899Bを参照)。 しか しここで敢 えて概 括すれ ば、 プラ トンに とって、真 に人間的 な 「生」 とは、われわれの内奥 の 「純粋 な、
知的 な魂」であって、激情や欲求 は、純粋 な魂が地上で生 きることを余儀 な くされた 時 に、身体的動物 としての人 間のために、造物主が付 け加 えてや った ものなのである。
だか ら、地上 での試練 に際 して、人間 は本来 の知的な魂 を出来 るだけ純粋 な まま保持 しな けれ ばな らないのであ り(Tim.46BID参照)、人間の精神性 を養 うポ リス全体 も
「知的 な人間」によって秩序付 け られ なけれ ばな らない ことにな る (拙稿「(論理)と
〈感覚印象)」文経論叢26‑3,1991を参照)。確 か に、民衆扇動家が感動 をこめた よう な口調 で 「愛国心 !」 と口走 るような場合 に、 その言葉 の抑揚 に興奮 して前後 の見境 もな く、無謀 な戦争 に突入す ることを議会 で可決す るような 「多数者」 は、 その内面
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で 「激情 」や 「欲望」 だけが膨 れ上が って 「矢l]性」 を圧倒 してい るような動物 だ と表 現 されて も仕 方がない とも言 える。 しか しプラ トンの場合、例 えば 「人体」 も、知的 な造物主 によって計算づ くで組 み立 て られ た一種 の ロボ ッ トの ように考 えられてお り
(Tim.72B‑81Eを参照)、 また、ふ ざけ半分 の ようにで はあるが、頭 を使 わなかった 人間 は四足獣 に生れ変 り、知性 とは最 も無縁 だった人間 は魚や貝 に生 まれ変わ る(ibid.
91D‑92C)な どと言われてい るのであって、こうした見解 は、少 な くとも医学や生物学 に深入 りした人 (例 えばア リス トテレス) に とって は、真面 目な 「学説」で はあ り得 なか ったはずであ るC そ してわれわれ は本稿 で今後、生物学的 な自然観 で は、「知性」
が どう位置づ けられ得 たか をの若干 を、 ス トア派 との関連 で検討 し、 その際、 ア リス トテ レスに も若干言及す る。
(2) I,esDeuxSouyICeSdeklMo71aleetdeklReligion.訳 は原則 として森 口美都男訳 (中央公論社 「世界 の名著」53Fベ /レクソン』pp.215ff)に従 う。
(3)以上pp.1211‑2(HenriBergsonOeuvres,TextesannoteparA.Robinet,Presses UniversitairesdeFrance,1959)
(4)貴欲 で酔 っぱ らいの ような精神状態 の独裁者が、結局 は戦戟就束 とした、 いわば獄 舎 にい る ような境遇 にあ る、 とい う叙述 が、 プ ラ トンの F国家』 に見 えてい る (ⅠⅩ
579BC)0
(5) こうした問題 について は筆者 は 「〈論理) と (感覚 印象)」 (注(1)を参照)や 「(ロゴ ス)の意味」 (文経論叢22‑3,1987)な どで若干扱 った。
(6) RejPublicaVI510B‑511E;cf.VII533Cl534B.
(7) PhaedniS266B,cf.265Dff. (8) Sophistes253D.
(9) Cf.Ti〝∽eus55CD
( 1 0 )
ホ ワイ トヘ ッ ドは、「生 きる自然」の像 ‑ すなわ ち、機械論的 自然観 を現 出す る道 具 とな っ た よ う な 「物 理 学 の 法 則 」で抽 象 化 され た 自然 像 で は な く、「感 じ」(feeling)、「情動」(emotion)、「満足」(satisfaction)とい った要因が実際 に自然世 界 で働 いている といった自然像 ‑ を構想 しよう としてい るのであるが、こうした文 脈 の中で、 ホ ワイ トヘ ッ ドは、限 られ た明噺性 を持 つ命題 か ら演揮す る特殊専門科学 と違 って、言語が前提 している漠然 たる背景 を自由に検討す るのが哲学 だ と言 ってい る。 こうした点 については筆者 は「(生 きる自然)の観念 ‑ ギ リシア、ホワイ トヘ ッ ド」 (「プロセス思想 」 ホワイ トヘ ッ ド・プロセス学会 第4号pp.17‑33)で若干扱 っ たO
(川 この点 について は、上記 の拙稿 「(論理)と く感覚印象)」 (注(1)を参照)を参照 され たい (esp.pp.9‑18)0
(12)PhysicaII,1,192b8132.プラ トンの場合 は、 ア リス トテレスの言 う 「単純物体 」 すなわち四元 も、動揺す る素材 に造物主が幾何学 的形態 を与 え、例 えば正四面体 であ る火が面 を構成す る三角形 に解体 され る と、 それが組合わ さって正八面体 の空気 を構