Bull.Fac.Educ.HirosakiUniv.59:ll‑19(March1988)
デ カル トにお け る真理 の記号
LeSignedelaV色ritとchezDescartes矢 島 忠 夫*
TadaoYajima (1987.12.22受理)
論 文 要 旨
「表現」 と 「記号」に関す る考察の一環 として,デ カル トの 『省察』における 「実理の記号」 と 「真理の 規則」の関係が論 じられ る。あ らゆる 「規則」は命令ないし禁止を含む。必然を命 じ,不可能を禁 じること は無意味である。作為 と不作為のいずれ もが 「自然」においては可能な諸行為の中か ら,一定の事態の実現 を期 して,或 る行為が命 じられ他の行為が禁 じられ るのでなければな らない。明噺かつ判明に知覚 された も のを真であると確信す ることが精神の 「自然」において必然であれば,「確信せ よ」と命 じることも 「確信す るな」 と禁 じることも無意味である。明噺かつ判明に知覚 された ことが想起 されているにす ぎないな ら,其 であると確信す ることは精神の 「自然」において必然でない。精神に現前 しているのは 「真理」その もので はな く 「真理の記号」にす ぎないか らである。 この記号の 「意味」を 「実理の規則」が規定 し,その 「確実 性」を 「神の認識」が保証 している。
一 規則と自然
デ カル トは,「第三省察」を開始す るにあた って,「きわめて明噺かつ判明に私が知覚す るものはすべて真
(1)
である」 とい うことを,「一般規則」 (regulageneralis)として 「確立 し うると思われ る」(Ⅶ.35), と語 っている。
他方,「第五省察」に よれば,「何 ものかをきわめて明噺かつ判明に知覚 しつつあるかぎ り,それを真であ ると信 じないではい られない」 ことは,精神であるかぎ りの私の 「自然」(natura)(Ⅶ.69)である。
「regula」に よれば 「信 じるべ き」であ り,「natura」に よれば 「信 じざるをえない」のである。
あ らゆ る 「規則」は,それ 自身の うちに,行為の 「命令」ないし 「禁止」を含んでいる。
「命令」が意味を持つためには,「命 じられた」行為,即ち 「規則において必然である」行為を 「遂 行 し ない」 ことが,「遂行す る」 ことに劣 らず,「自然において可能である」のでな くてはな らない。 他方,「禁 止」が意味を持つためには,「禁 じられた」行為,即ち 「規則において不可能である」行為を 「遂行 す る」
ことが,「遂行 しない」 ことに劣 らず,「自然において可能である」のでな くてはな らない。
「自然において必然である」行為を 「命 じる」 ことは,「禁 じる」 ことに劣 らず,無意味で あ る。他方,
「自然において不可能である」行為を 「禁 じる」 ことは,「命 じる」 ことに劣 らず,無意味である。
「規則」が意味を持つためには,「自然において可能 である」諸行為の中か ら,「一定の事態の実現を期 し て」,或 る行為が 「命 じられ」,他の行為が 「禁 じられ る」のでなければな らない。
「きわめて明噺かつ判明に私が知覚す るものはすべて真である」が,それ 自身 の うち に 「命令」ないし
「禁止」を含む 「規則」であるな ら,次の ように表現 され るべ きであったろ う。即ち,
ひ とたび 「真であると肯定 した」 ことを,後に 「偽であると否定す る」 ような事態の生 じることを欲 しな いな ら,第‑に,「きわめて明噺かつ判明に私が知覚す るものはすべて其であると肯定せ よ」,ないしは 「偽
*弘前大学教育学部 社会科学科教室
DepartmentofSocial Studies,FacultyofEducation,HirosakiUniversity
12 矢 島 忠 夫
であ ると否定す るな」。そ して,第二に,「きわめて明噺かつ判 明に私が知覚す るのでない ものはすべて偽で あると否定せ よ」,ない しは 「真 であると肯定す るな」。
ところが,第一に, きわめて明噺かつ判 明に私が知覚す るものを,「真 であると肯定す る」 こ と は,精神 の 「自然において必然である」。「偽であると否定す る」 ことは,精神の 「自然において不可能で あ る」。第 一の命題 は, 自然において 「必然」である行為を 「命 じ」, 自然において 「不可能」な行 為 を 「禁 じ」てい る。「知性におけ る大いな る光」か ら,「意志におけ る大いな る傾 向性」が,おのずか ら結果 す る(Ⅶ.59) のであれば,第‑の 「命令」ない し 「禁止」は,その意義を失わ ざるをえないであろ う。
第二に, きわめて明噺かつ判明に私が知覚す るのでない ものを 「真であ ると肯定す る」 ことは,「偽 で あ ると否定す る」 ことに劣 らず,精神の 「自然において可能 である」っ「真であ ると肯定 しない」 こ と ち,「偽 であると否定 しない」 ことに劣 らず,精神の 「自然において可能 である」。か くして,知性の光だけで は 肯 定,否定のいずれに対 して も意志が 「非決定」(indifferens)の状態に置かれているか ぎ り,第二の 「命令」
ないし 「禁止」は,その意義を持 ち うる。
ところで,「規則」,即ち 「命令」ない し 「禁止」その ものは,真 でも偽で もあ りえない。 とはいえ,規則 が命 じる行為の遂行が,実現を期 された事態を 「本当に結果す るか」否かに関 してであ れ ば,「真偽」が問 題にな りうる。「きわめて明噺かつ判 明に私が知覚す るものはすべて真であ る」 とい う命題 (以 下 「真 理の 命題」 と呼ぶ)の真偽が問われ るのは,そのかぎ りにおいてである。
しか しなが ら,「真理の命題」が真 であろ うと偽 であろ うと,必然を命 じ不可能を禁 じることは,無 意 味 であ る。それゆえ,「明噺かつ判 明に知覚 され うるものに精神の瞳を据え よ」 とい う命令が,せいぜい 意 味 を持ち うるのみ である。 この 「命令」に従 うか ぎ り,「偽 であ ると否定す る」べ き理 由を兄いだす ことは,精 神の 「自然において不可能 であ る」 ことだ ろ う。
他方,「真理 の命題」が真 であろ うと偽 であろ うと,精神が瞳を据え るべ き明噺かつ判 明に知覚 され う る ものが与え られないか ぎ り,意志は肯定,否定のいずれに対 して も 「非決定」 である。そ こでは,「真 で あ ると肯定 した」 ものを 「偽であると否定す る」べ き理 由を兄いだす ことが,常に,精神の 「自然において可 能 であ る」。それゆえ,「明噺かつ判明に知覚 されない ものに対 しては一切の判断を差 し控え よ」 とい う命令 が,せいぜい意味を持ち うるのみ であ る。
これ ら二つの 「命令」ない し 「規則」に従 っているか ぎ り,私が 「真 であ ると肯定 した」 ものを 「偽 であ ると否定す る」べ き理 由を後か ら兄いだす ことは,私の 「自然において不可能 である」 ことだ ろ う。
それ では,「真理 の命題」の真偽が決定的な意味を持つのは,いかなる時 であろ うか。明噺かつ判 明 に 知 覚 された ものを 「偽 であ ると否定す る」 ことが,精神の 「自然において可能 である」 ときである。なぜな ら, あるものが明噺かつ判 明に 「知覚 された」 とい うことを 「偽 であ ると否定す る」 ことは精神の 「自然におい て不可能 である」にせ よ,明噺かつ判明に知覚 された当の ものに 「精神の瞳が据え られている」のでない と した ら,意志におけ る大いな る傾向性が,「おのずか ら生 じる」 ことはないであろ うか らで あ る。即ち,意 志は,厳密に言えは,肯定,否定のいずれに対 して も 「非決定」であ る。「きわ めて明噺かつ判明に知 覚 さ れた」 とい うことが 「きわめて明噺かつ判明に想起 されている」 ものは, 「真 であ る」 ことが きわめて 「確 か らしい」。それに もかかわ らず,「偽 であ ると否定す る」 ことは‑ 「真理 の命題」が肯定 されていないか ぎ り‑ 精神の 「自然において不可能 である」 ことではないのであ る。
か くして,「真理の命題」の真偽が,決定的意味を持つ。なぜな ら,「偽であ ると否定す る」 ことが精神の
「自然において不可能 であ る」のではない命題を 「其であ ると肯定す る」 ことを,まさに この 「真理の命題」
が‑ 「ひ とたび」真であ ると肯定 した命題を偽であ ると否定せ ざるをえない ような事態が 「後か ら」生ず ることはあ りえない と 「保証す る」 ことに よって‑ 「命 じる」か らであ る。
「真理の命題」が,同時に 「真理 の規則」であ るのな ら,「きわめて明噺かつ判明に私が知覚す るも の は すべて真 であ る」 とい う表現の うちに,「明噺かつ判 明に私が知覚 した とい うことを明噺かつ判 明に私 が 想 起 してい るにす ぎな くとも」 とい うことが同時に合意 されていたのである。
「きわめて明噺かつ判明に知覚 されているもの」は,それ 自身の うちに,いわば 「真理の記号」(signum
veritatis)を持 っていると言 って よい。あるいは,それゆえむ しろ,如何な る 「真理の標識」 も持 っていな い と言 うべ きである。なぜな ら,それ 自身の 「真理」のために,それ 自身以外の如何な る 「しるし」 も必要 でないか らであ る。明噺かつ判 明な 「知覚」の存在が真理の 「記号」の存在 としてまず確認 され, しか るの ちに,記号の 「意味」を規定 している真理の命題ないし 「規則」に導かれ て 「真理」の存在が確証 され るの ではない。
これに対 して,「明噺かつ判 明に私が知覚 した とい うことを明噺かつ判 明に私が想起 してい るにす ぎ な い もの」は,それ 自身の うちに 「真理 の記号」を持 っていると言いえない。それ は,それ 自身の 「真理」のた めに,それ 自身以外の 「しるし」を必要 とす る。明噺かつ判明な 「想起」に よってその存在が確証 され ると ころの明噺かつ判明な 「かつての知覚」は,「かつて知覚 された もの」の真理 の 「標識」にす ぎない。 そ れ ゆえ,真理の 「記号」の 「意味」を規定 し,「真実性」を保証す る真理の 「規則」ないし 「命令」が不 可 欠 なのである。
二 精神の 自然と形而上学的確実性
「第二省察」t,1よれば, この うえ もな く強力で この うえ もな く敦滑 な欺隔者が 「私を欺 いているな らは, この私 もまた在 る」 ことは,「疑 いえない」(Ⅶ.25)。私が何 ものかであると‑ た とえ 「私が欺かれ ている」
とい うことであれ‑ 「私が考えている」か ぎ り,「私が無である」 とい う事態を もた らす ことはでき な い か らである。か くして, 「私が考えている,ゆえに私が在 る,ない しは存在 している」(ego cogito,ergo sum,siveexisto)(Ⅶ.140)。 私 は この ことを欺勝者の想定 「に もかかわ らず」,あるいはむ しろ欺隔者の 想定 「のゆえに」信 じざるをえない。
一般に,「特定の」個別者に関 して一定の述語が肯定 され るな らは,かつその時にのみ,「或 る」個別者に 関 してその同じ述語が肯定 され る。即ち,その述語が肯定 され る個別者が 「在 る」。た とえば,「それが考え ている」 とい うことが特定の諸個体に関 して肯定 され るな らば,かつその時にのみ,それ らの個体に関 して,
「それ らすべてが考えつつ在 る」 ことが肯定 され る。「考えているすべての ものは在 る,ない しは存在 し て いる」(illudomne,quodcogitat,estsiveexistit)(Ⅶ.140)が真 であるのは, それゆえであ る。 この 真理 は,「在 る」 とは何か,「存在す る」 とは ど うい うことかが,一切の 「定義」(definitio)ないし 「表現」
(expressio)に先立 って 「おのずか ら知 られ ている」(per se nota)か ぎ りにおいて,つねにあ らか じめ
(2)
「暗黙の うちに」(implicite)確信 され ている。その意味 で 「永遠の真理」(veritas feterna)(P・Ⅰ‑49)と 呼ばれ うる。
ところで,一定の述語が肯定 され る個別者が 「私」であるな ら,それが 「在 る」 ことが肯定 され る 「或 る」
個別者は,ほかな らぬ この 「私」 であ る。即ち,「私が考えている,な らばかつその時にのみ,私が考 え つ っ在 る」(COgito…sum cogitans)が肯定 され る。ただ し,「私が考えている」が,同時に既に,肯定 され ているか ぎ りにおいてである。「私が考えているあいだは,私が存在 している」(ego,dun cogito,existo)
(3)
ことが,「莫 であると信ず ることな しには考え ることが できない」(Ⅶ.145‑6)のは,そのゆえである。
「私が考 えている,それゆえ私が在 る,ない しは存在 している」が,「考えているすべての ものは 在 る, ないしは存在 している」を大前提 とす る三段論法に よって演辞 されたのでない ことは明かである。だが この 一般的真理 は,それが 「永遠の真理」 であるか ぎ り,「あ らか じめ知 っておかなければな らない」(P.ドlo)
ことであ る。 か くして, 「暗黙の うちに」前提 されている真理 と, 「は っき りあか らさまに」(expresseet
(4)
explicite)前提 されている真理 とが区別され る(Ⅴ.147)。とすれば,「あか らさまな三段論法」(syllogismus explicitus)に対す る 「暗黙の三段論法」(syllogismusimplicitus)とで も呼ぶべ き 「推論」が, 「精神の 単純 な洞察」(Ⅶ.140)として語 られていたのだ ろ うか。それゆえ,「私が考えている,ゆえに私が在 る」は,
「おのずか ら知 られた」真理 でなか ったのだろ うか。
す くな くとも 「私が考えている」(cogito)を 「永遠の真理」 と呼ぶ ことはできない。 それ は, そのつ ど の 「デ カル ト的還元」 とで も呼ばれ るべ き精神の活動に よって,私の外な る一切の存在が 「無」に,ないし はそのつ どの 「私が考えているもの」(COgitatum me紀 COgitationis)に還元 され,それゆえ精神 の 視 線
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がそのつ どの 「私が考えている」に注がれ ることに よって初めて,「裏である」 と気づかれ るのである。
それゆえ 「私が考えている」は,いわば 「事実の真理」ないし 「偶然の事実」である。「永遠の 真 理」に 対 しては,「時間の真理」 と呼ばれ うる.私の精神がそのつ どの 「私が考えている」に注意の眼を向け る こ とは,何時 でも苦 もな く遂行され ることではない。それは,「私が考えている」 ことと 「私が考えてい る も の」 とを除 く他のすべての ものに対す る全面的な 「懐疑」を前提 している。 とはいえ,「私が考えて い る」
にひとたび精神の注意が注がれ るな ら,その時,私は 「私が考えている」を其であると 「信 じないではいら れない」。「私が考えている」を其であると信ず ることな しに 「私が考えている」 こと,即ち 「私が注意を注 いでいる」 ことは,不可能なのである。それが,「精神」であるか ぎ りの私の 「自然」だか らである。
まず 「私が考えている」に精神の眼が据え られ,そ こに 「真理の しるし」(明噺判明な知覚)が確認され, しか るのち 「私が考えている」の真が確信 され るのではない。「私が考えている」に関 しては,そ れ に 「注 意 している」 ことと 「真であると信じている」 こととは,一つの同じ出来事をな しているのである。
既に見た ように,「私が考えている」 ことが確信 されていることは,同時に既に 「私が考えつつ 在 る」 こ とが確信 されていることである。「私が考えている」 ことの明噺かつ判明な知覚が,同時に既に 「私が 考 え つつ在 る」 ことの明噺かつ判明な知覚だか らである。
とはいえ,「cogito…sum cogitans」が,そのつ ど常に 「あか らさまに」,注意 され確信 されていると言 いたいのではない。それは,「あか らさまに」注意 され るや否や確信 され ざるをえない前提 として,「暗黙の
うちに」知 られ確信されているのである。
仔細に見れば,『省察』における 「あか らさまな」認識の順序は,(i)cogito…Sum COgitans,(ii)cogito, ergo, tin)sum cogitansであるよりはむ しろ,〔 〕に よって 「暗黙の」認識を表現すれば, (1)cogito
〔…sum cogitans〕,ergo, (2)sum 〔cogitans〕,(3)〔cogito…〕sum cogitans,ergo, (4)sum res cogitansである。
「cogito」が注 目され肯定 され ると,同時にかつその時初めて 「cogito…sum cogitans」が注 目され肯 定 され る.それ と同時にかつ初めて「surricogitans」が注 目され肯定 され るので あ る.「cogito⊃sum」
が,そして「cogito,ergo sum」が,精神の瞳が据え られ るや否や 「おのず と知 られ る」真理であるのは そのゆえである。 これが 「暗黙の三段論法」の実態である。
「私が考えている,私が考えつつ在 る,私は考えているものである」(cogito,sum cogitans,sum res cogitans)。 これが,欺 く霊の想定に基づ く 「誇張的懐疑」(hyperbolicadubitatio)(Ⅶ.226)に 動 機 づ け られて私が,「私が考えている」に精神の瞳を据え,精神の 「自然」に従 って省察 した成果である。
しか しなが ら, これ らの成果が 「形而上学的確実性」(certitudometaphysica)(Ⅶ.352)を持つ ことは, 本当に疑いえないのだろ うか。 た しかに, 「形而上学的確実性」なるものを 「超 自然的確実性」(certitudo super‑naturalis)と解す るのであれば, ものの 「自然」に基づ く一切の認識は, た とえ 「神の 自然」に基 づ く 「神の認識」であれ,「形而上学的確実性」を持 ちえないことになろ う。
「自然」は,(1)「一般的に見 られた 自然」 と(2)「個別態における私の 自然」 とに区分 されている。(1)は, (a)「神その もの」ないし(b)「神に よって制定 された被造物相互の秩序」(rerun creatarum coordinatioa Deoinstituta)(Ⅶ.80)である。(2)は,「神に よって私に付与 された もののすべての総体」であ り,(a)「精 神のみに属するもの」,(b)「物体のみに関係のあるもの」,(C)「精神 と身体 とか ら複合 された ものとしての私 に,神に よって付与 された もの」(Ⅶ 82)か ら成 る.「精神」であるかぎ りの私が遂行 している 「省察」は, 精神 と身体か ら複合 されているものとしての 「人間の 自然」の 「教え」ないし 「傾向性」に従 っているので はない。まして 「物体の 自然」のみに従 うはず もない。それは,「精神の 自然」のみに従 っているのである。
だが,「いとも明瞭であるかi,1‑思われ るものに関 してさえ も欺かれ るような,そ うい う自然を,何 ら か の 神が私に植え こむ こともできたであろ う」 ことは,依然 として否認 されていなか ったのではないだろ うか。
とはいえ,「欺 く霊」の この想定は,「精神の 自然」に従 う省察があ らかじめ板拠 もな く開始 され,「しか る のちに」省察の成果を板底か ら疑わ しめる理 由として思い もかけず提起 されたのではない。それはむ しろ,
「人間の 自然」に従 って省察を遂行す る可能性を ことごとく遮断 し,「精神の自然」を唯一の突破孔 として省
案を開始す ることを必然た らしめた,当の ものなのである。 とすれば,「欺 く霊の想定の下で省察 せ よ」 と い うことは,結果的には,「精神の 自然のみに従 って省察せ よ」 と命ず ることにはかな らなか ったのである。
それは,「私の外なる一切の存在を疑わ しいもの と想定せ よ」,あるいはむ しろ,それ らに対す る 「一切の判 断を差 し控え よ」,「すべてが疑わ しいとい うこの一事のみが確実であるとせ よ」,「私がすべてを疑 っている ことのみが真であるとせ よ」 と命ず ることである。 この命令に従 うことは,従わない ことに劣 らず,人間の
「自然において可能である」。そ して,従 うかぎ りは,「精神の 自然」にのみ従 って省察す るほかはない。
か くして,欺 く霊の想定に基づ く形而上学的懐疑 「のゆえに」,精神の 「自然」のみに従 う省察が必 然 た らしめ られ,省察の成果の 「形而上学的確実性」即ち 「超 自然学的確実性」が保証 され るのである。
それに して も, 自分が 「欺かれている」 ことに依拠す る 「確実性」が,奇妙かつ不安柾思われ ることは確 かである。それゆえ,「真であることを疑 うべ き如何なる理 由も持ちえない」ほ ど堅 く確信 された も の も,
「神ないし天使には偽なるものとして現われている」,即ち 「絶対的な言い方をすれば,それ らは偽である」
とす る不信が,時 として起 こりうる。だが,「いかに して も除 き去 られ ることのできないほ ど堅 固な確 信 を 想定 している」以上,「われわれに とってほそれが何だ とい うのか」(Quid enim ad mos?)(Ⅶ.145)。わ れわれの知覚の明証性が,その ように仮想す る人に 「耳を籍す ことを許 さないであろ う」(Ⅶ.146)。 これが
「第二答弁」の回答である。
三 結果 による神の証明と自然の光
「神が私のCOgitatum として在 る」は 「神についての私のCOgitatioが在 る」 と,「相関関係」にある。
「神が私に よって考え られつつ在 る」は 「私が神を考えつつ在 る」を前提に し,その逆で もある。それゆえ,
「私が考えつつ在 る…私に よって考え られつつ在 る」が真である。
だ とすれば,なぜ,「考えているもの」か ら出発 して,「考え られているもの」か ら出発 しないのか。なぜ,
「私についての観念」か ら出発 して,た とえば 「神についての観念」か ら出発 しないのか。
『省察』は,「私が疑 っている」即ち 「私が欺 く霊を考えている」 ことか ら出発 している。それは,「私が 無を考えている」 ことか ら出発す ることである。それゆえ,「考え られているもの」か ら出発す るこ と は, それが 「無」であると考え られているかぎ り,不可能であると言わ ざるをえない。か くして,「私 が 疑 って いる」か ら出発す ることが,それ 自身は 「無」であ りえないところの 「私が考えつつ在 る」か ら出発す るこ
とを必然にす るのである。
これに対 して,「或 るもの」(を私が考えていること)か ら出発 しようとす るな ら,世界が 「無い」か ら出 発す ること,それゆえ精神が 「在 る」か ら出発す ることは必然でない。私は任意の 「在 るもの」(を考 え て いること)か ら出発 し うるであろ う。 しか しなが ら,あ らゆ る省察の果てに,「私が疑 う」,即ち 「私が欺 く 霊を想定す る」 とい う事態が 「た また ま」生 じるな らば,一切が瓦壊せ ざるをえないであろ う。
か くして,「誇張 された懐疑」の炎に焼 き尽 くされずに 「形而上学的確実性」を掌中にす るためには,「考 え られて在 るもの」ではな く 「考えて在 るもの」か ら出発す ることが必然なのである。
私は私の うちに諸 々の 「観念」を兄いだす。私 とは,「考えつつ在 る」 ことが,欺 く霊の想定 「のゆえに」
確実である私である。それゆえ,「私の思考の様態が在 る」 とい う意味で 「観念が在 る」 ことは確実である。
ところで,観念の 「自然」は,精神に対 して 「ものを表わす」(rem repra∋sentare)ことにある。そ れ ゆ え,「観念が真に在 る」ためには,私の思考の様態が 「真に ものを表わ している」 こと,即ち 「真に観念であ る」ないし 「真の観念である」 ことが必要である。
それでは,「真に ものを表わ している観念が私の うちに在 る」 ことを, どの ように して私は知 るのだ ろ う かO「観念を明噺かつ判明に私が知覚 している」 ことに よってであるOだが,「観念を明噺かつ判明に私が知 覚 している」 とい うことは,「観念を明噺かつ判明に私が知覚 していることを明噺かつ判明に私が知覚 し て いる」 ことではない。そ こか ら直接生ず るのは,「観念を明噺かつ判 明に私が知覚 している」 とい うこ と の 確信のみである。問題は,「観念が表わ しているもの」即ち 「観念の対象的実在性 (realitasobjectiva)を 明噺かつ判 明に私が知覚 している」 ことである。そ こか らは,「観念が真に対象的実在性を持 って い る」 と
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い う確信が,直接生ず る。即ち,「観念が真に ものを表わ してい る」ないし「観念が真 であ る」 ことが 確 信 され る。
た とえば,「神 の観念」は 「異な る観念」であ る。即ち 「虚偽ではないか との疑 念がその うちに兄い だ さ れ ない よ うな」観念であ る。なぜな ら,「この うえ もな く完全で無限な もの」が 「存在 しない と仮想 す る」
ことは もしかす るとで きるに して も, この ものの観念が実在 的な ものを何 も私に呈示 していない と 「仮想す る ことはで きない」(Ⅶ.46)か らであ る。
「神 の観念が明噺かつ判 明であ ることが 明噺 かつ判 明に知覚 され る」か らではな く,「神 の観念が明 噺 か つ判 明に知覚 され る」か ら,即 ち 「神 の観念が 明噺 かつ判 明であ る」か ら,「神 の観念が真であ る」 と 確 信 せ ざるをえないのであ る。か くして,「私が考 えつつ在 る」 ことばか りでな く,「私が神を考 えつつ在 る」 こ と,「私が神を, この うえな く完全で無限な もの と考 えつつ在 る こと」が疑 いえない ことにな るのであ る。
私を表わ してい る観念,神 を表わ している観念以外に も,物体的 で非生命的な ものを表わ してい る観念, 天使 を表わ している観念,動物を表わ している観念,私 と類似 の他 の人間を表わ している観念を,私 は持 っ てい る。人間の観念,動物 の観 念,天使 の観念 は,私 の観念 と物体的な ものの観念 と神 の観念 とか ら 「複合 され うる」(Ⅶ.43)0
「物体的な ものの観念」 の うちあ るものは 「きわ めて不分 明かつ不 明瞭」に しか私に よって思考 されない。
即 ち,それが 「何 を表わ してい るのか」を判別 しえない。それゆえ,そ もそ も 「何か ものを表わ してい る」
か否か,即 ち 「観念であ る」か否 か も明 らかでない。光 と音 ,香 り,咲,熱 と冷,等 々の 「観 念」 と称せ ら れ てい るものがそれ であ る. いずれにせ よそれ らは,私 自身に 由来す ることが可能 であ る.それ が 「無を表 わ してい る」,それゆえ 「無に由来す る」 とすれ ば,その無 は 「私 の 自然の不完全性 」であ り う る。 また, それが 「何 かを表わ している」にせ よ,「何 であ るか」が判別 しえないほ ど 「わずかな実在性 」 しか持 た な い とすれ ば,その原 田が私 であ りえない とは考 え られない (Ⅶ.44)か らであ る。
「物体的な ものの観念」の うちあ るものは,明噺かつ判 明に知覚 され うる。即 ち,観念が 「何 を表わ して い るか」が 明 らかであ る。私 は,私 自身が実体であ り持続す るか ぎ り私 自身 のみか ら 「実体」 と 「持続」を 考 え ることがで きる。「延長,形状,位置,運動」 は,「実体の様態」 であ るか ぎ り,「考 えつつ在 る 実 体」
であ る私 の うちに,形相的ではないにせ よ優 勝的に,含 まれ うる(Ⅶ.45)0
神 の観念が 「この うえ もな く完全で無限な もの」を表わ してい る ことは明 らかであ る。 しか し,それ は, 私 の うちには 「形相 的に も優 勝的に も」含 まれ えない。ゆえに,私が この観念の原 田ではあ りえない。 この 観念の原 因は,それ 自身 の うちに 「この うえな く完全で無限な実在性」を 「形相的に含んでいる」 もの,即 ち 「神」その もので しかあ りえないOか くて,その よ うな 「神が必然的に存在す る」 (ibid.)と 「信ぜ ざる をえない」のであ る。
「観念の原 田」に関す る省察 は,「自然 の光に よって明 らか」であ るところの 「公理」ない し 「共通知見」
(communesnotiones),た とえば,「何 ものかが無か ら生ず ることはあ りえない」,「い っそ う多 くの実在性 を 自らの うちに含む ものは, よ り少な く完全 な ものか ら生ず ることはあ りえない」,そ して特 に,「われわれ が持つ観念の対 象的実在性 は, まさし く同じ実在性が,ただ対象的にのみではな くて,形相的ない し優勝的 に含 まれ てい る よ うな,そ うい う原 田を要求す る」(Ⅶ.165)に依拠 している。
「自然 の光」 とは,精神に固有な真かつ不変の 「自然」を構成 してい る 「知性」 の能力であ る。「私 が 考 えつつ在 る」 ことのみが確実であ り,「考 え る」能 力以外に私 の 「真かつ不変の 自然」に含 まれ るもの を 考 え ることがで きないのであれ ば,「自然の光」 以外に私が信頼すべ き能 力,「自然 の光」に不信を懐か しめ る よ うな能力を,「私 自身 の うちに兄 いだす」 ことは不可能であ る。「自然 の光が私に示す もの」が,「い か な る意味で も疑わ しい ものではあ りえない」(Ⅶ.38)のはそのゆえである。
四 神の 自然 による神 の証明 と論証の規 則
「神 の 自然に よる神 の証 明」 は,不安定 な位置 を与 え られ てい る よ うに思われ る。
「第五省察」に よれは, この証 明の大前提 は,「或 るものの観念を私が私 の思考か ら取 り出 し うるとい う,
単にそれだけの ことか ら, この ものに属す ると明噺かつ判明に私が知覚す るもののすべては実際に この もの に属す る, とい うことが帰結す る」(Ⅶ.65)である。
まず,神の 「観念が私の うちに兄い出され る」。ついで,「常に存在す る」 とい うことが神の 「自然に属す る」 ことが 「明噺かつ判明に理解 され る」。か くして,「常に存在す る」 ことが神に 「実際に属す る」 ことが 結論 され る。即ち 「神が常に存在 している」。
「第一答弁」に よれば,大前提は,「明噺かつ判明にわれわれが,或 るものの真で不変な 目然ないし 本 質 ないし形相に属す ると理解す るところの ものは,その ものについて真理を もって肯定 され う る」(Ⅶ.115) である。その うえ, この大前提は真である。なぜな ら,「われわれが明噺かつ判明に理解す るところの す べ ての ものは真である」 とい うことが,「すでにその前に承認 されている」か らである。 ところで, この 「真理 の規則」があ らかじめ 「論証 されている」 ことは,「結果に よる神の証明」が遂行ずみであることを意 味 す る。 とすれば,「神の 自然に よる神の証 明」は,「自立 した証 明」ではない, と言 うべ きであろ うか。
『省察』その ものがため らっているかの ようである。即ち,「明噺に私が認識す るものはすべて真 である」
ことを私は 「す でに詳 しく論証 しておいた」が,た とえ 「論証 しておかなか った とし て も」(Ⅶ.65),明噺 に知覚 しつつあるかぎ りは,「同意 しないではい られない」 ことが,精神の 「自然」である。 さらに,「先 日 来私が省察 した ところのすべてが真ではないとしたに して も」(quamvisnonommia,qu缶 Superioribus hiscediebusmeditatussum,veraessent),神の存在は,数学的真理が これ まで持 っていたのと 「す く な くとも同じだけの確実性」を持 っているはずである。
「省察」の歯車を どこまで もどせば よいのか。純粋数学に属す るものについて 「明証的に私が認知 した真 理」が,あ らゆ る真理の うちで 「最 も確実な もの」 とみなされていたにせ よ,「感覚の対象」にいやが うえ に も私が 「執着 していた」時 までであるのか。だが,純粋数学の確実性 も,「欺 く霊」の想定に よって 脅 か されていたのではないのか。まして神の存在が,かかる不安に満 ちた確実性に, どうして耐え られ ようか。
た とえ 「真理の規則」ではないにせ よ, これ まで 「省察」 された何事かが,前提 とされているはずである。
「省察」が,「私が考えつつ在 る」か ら出発 し,精神の 「自然」のみに基づいて,「神Z)観念が真である」
と確証 されていることである。
神の観念は,「私に生具的な真なる観念」(ideaveramihiingenita)(Ⅶ.68)の第一に して主要な もの である。神の観念は,「私の思考に依存 している虚構的な もの」ではない。それは,「真かつ不変な 自然」の
「似像」(imago)である。
観念は,(1)「私の 自然それ 自体か ら」得 られ ると思われ る 「本有観念」(ideainnata), (2)私の外に存す るものか ら出来す ると判断 され る 「外来観念」(ideaadventitia),(3)私 自身に よって作 り出され る 「作為 観念」(ideafacta)に区分 され る(Ⅶ.37‑8)。
「形状」(figura)は,それが 「実体の様態」であるかぎ り,「延長実体」ではないが 「思考実体」ではあ るところの私 自身の うちに,「形相的にではないが優勝的には」含 まれた ものの一つであった。それ ゆ え,
「形状の観念」は,「私 自身についての観念」か ら 「借 りて来 られえた」(mutuaripotuisse)(Ⅶ.44)観念 であった。
ところで,「私が私の思考か ら取 り出 し うる」(possum ex cogitione me且 depromere)(Ⅶ.65)観念 は,だか らと言 って 「私 自身に よって作 り出された観念」(ideaameipsafacta)(Ⅶ.38)ないし 「私に よって仮想 された観念」(ideaameficta)を意味 しない。た とえば,「三角形」 とい う 「形状」の 「自然」
ないし 「本質」は,「私に よって作 られた」ので も,「私の精神に依存す る」 こともない。 「三角形」は,お そ らく,私の外では何処に も 「存在 しない」。それに もかかわ らず 「無」ではあ りえない。そ れ は 「もの」
であ り,「真かつ不変の 自然」を持 っている。か くして,三角形 Z)「観念」は,「真かつ不変の自然を表わ し ている」。即ち 「真である」。「本有的な」, したが ってまた 「異なる」観念に よって 「表わ されているもの」
として,三角形 は,純粋数学の対象であるかぎ りで,「存在す る」。
「虚構 された 自然」,「知性に よって複合 された 自然」を表わ しているにす ぎない観念は,同じ知性に よっ て 「分割 され うる」(Ⅶ.117)。 これに対 して,いかな る 「知性の虚構」(figmentum intellectas)もな しに
18 矢 島 忠 夫
それの 「自然において」(ex natura sua)「一緒に結びつけ られている」(Ⅶ.119)ものを, 知性が 「分離 して考える」 ことはできない。 とすれば,「精神の 自然」に基づ くことは,同時に 「ものの 自然」に基 づ く ことである。だか らこそ,「存在す るものとしてでな くては神を考えることが私にはできない」 こと か ら,
「存在が神か ら不可分離である」,即ち 「神が実際に存在 している」 ことが帰結す る (Ⅶ.67)。私の思 考 が その ことを 「創 り出す」(efficere)のではな く, ものの必然性ないし 「自然」が, 「そ う考え るように私を 決定す る」(ibid.)のである。 ものの 「真かつ不変の 自然」に よって 「決定 されて考える」 ことが,精 神 の
「真かつ不変の 自然」なのである。
か くして精神は,それ 自身の 「自然」のみに従 って省察す ることに よって も,神の存在を 「確信せざるを えない」。
これに対 して,「真理の規則」に基づいて確証 され るあの 「大前提」は,いわば 「論証の規則」で あ る。
それは,「真かつ不変な 自然の明噺かつ判明な知覚を前提せ よ。前提が合意 しているものを明噺かつ判 明 に 演得せ よ。明噺かつ判明に知覚 された結論を肯定せ よ」 と命 じている。要す るに,「異なる前提に基づ く妥 当な推論の結論が真である」 ことを保証 している。 ところが,三角形が 「虚構 された 自然」ではな く 「真か つ不変の 自然」を持つ ことが確信され, この 「自然」に基づいて 「内角の和が二直角に等 しい」 ことが 「明 噺かつ判明に演緯 されている」な らば,精神はその結論を 「肯定せ ざるをえない」であろ う。
た しかに,「結果に よる神の証明」を前提にすれば,「真理の規則」が,それゆえまた 「論証の規則」が確 証 され る。か くして,「三角形の 自然」に よる三角形の諸特性の証 明が,そ してそれ とす くな くとも同 等 の 資格で 「神の 自然に よる神の証明」が達成 され るであろ う。 しか しなが ら,精神の 「自然」のみに従 って神 の証 明が達成 され うるのであれば,私が明噺かつ判明に知覚 している間は 「真理の規則」が 「余分」であっ た ように,私が明噺かつ判明に推論 している間は 「論証の規則」 もまた 「余分」であるだろ う。
「実在的区別の証 明」においては事情が異なる。「第六省察」に よれば,「一つの ものを他の ものにまつ こ とな く明噺かつ判 明に理解す ることができる」な らば,「一つの ものが他の ものとは別箇の ものであ る こと を私が確知す る」ために十分である。ただし,「明噺かつ判明に私が理解す るもののすべては私が理 解 して いるとお りの ものとして神に よって作 られ うる」(Ⅶ.78)ことをすでに知 っているかぎ りにおいてである。
なぜなら,「実在的区別の証明」にあっては,「一つの ものを他の ものに まつ ことな く明噺かつ判明に私が理 解す ることができる」 ことは,「一つの ものが他の ものとは別箇の も の であることを私が確知す る」ための
「記号」に他ならないか らである.即ち 「実在的区別の記号」(signum distinctionisrealis)(Ⅶ.132)で ある。「記号」について語 ることが意味を持ち うるとすれば,た とえ 「一つのものを他の ものにまつ こ と な く明噺かつ判 明に私が理解す ることができる」にせ よ‑ 「明噺かつ判 明に私が理解す るもののすべてが私 が理解 しているとお りの ものとして神に よって作 られ うる」 ことが確知 されていないかぎ り‑ 「一つの も のが他の ものとは別箇の ものであることを私が確知 しない」 ことが,私の精神の 「自然において 可 能 で あ る」のでなければな らない。
「第二省察」では私はまだ,私の起源の創作者を 「知 らないでいた」,す くな くとも 「知 らない と仮 想 し ていた」(ibid.)。それゆえ,私が 「知 らないがゆえに無である」 と私が想定 している 「物体に依存せずに」,
「私が考えつつ在 るものである」 ことを私は知 ることができたが,それに もかかわ らず,私が知 らない物体 が 「ものの真理においては」私が知 っている私 と 「相異なってはいない」(Ⅶ.27)な どとい うことのあ りえ ない ことを,即ち,精神が身体 と 「実在的に区別されている」 ことを,私は確信 しえないでいたのである。
「第六省察」において初めて,「私が私の身体か ら実際に区別 され,身体をまつ ことなしに存在 し う る」
(Ⅶ,78)ことが確実 となったのは,「私が神に欺かれていない」 ことが既に確証 されていたか らである。
結 論
「真理の規則」 と 「論証の規則」の区別は,「それ 自身に よって知 られ るもの」(respersenota)と 「他 に よって知 られ るもの」(resperaliudnota)の区別に対応す るように思われ る。
「それ 自身に よって知 られ るもの」は,それ 自身がそれ 自身の真理の,いわば 「しるし」ないし 「符牒」