一般生命システム論 : 生命システムの基本
その他のタイトル Genaral Life System Theory : The basic conditions of life system
著者 藤澤 等
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 27
号 3
ページ 125‑154
発行年 1996‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00022509
一 般 生 命 シ ス テ ム 論
一 生 命 シ ス テ ム の 基 本 一 藤 澤 等
Genaral Life System Theory
‑The basic conditions of Life system‑
Hitoshi FUJISAWA
Abstract
This paper elucidates the basic conditions of life, which are:(1) Life ensures psychological existence, with its unity of interdependent loops, as the quantum objectivity, and that is structures topological space and time as the theoretical conclusion. (2) A life system also naturally settles into inderdependent equilibrium based on the similarities and differences between multiple interfolding systems.
Key words : Life system, interdependency, psychological existence, quantum objectivity, self organization
抄 録
本稿では,生命の基本的要件として, 1)相互依存性というループを単位とする心理的実在を量子 論的な客観性として確保し,それが論理的帰結としてトポロジカルな時空を構成すること, 2)多重 多層システム間の対称性・相似性を基礎に生命システムが一義的に依存平衡に向かうことを明らかに
した。
キーワード:生命システム,相互依存性,心理的実在,量子論的客観性,自己組織
関西大学『社会学部紀要』第27巻第3号
第二章生命システムの要件
「わけのわからないもの」としての「生命」は永遠に解けないパズルのように思える。「生命」
は複雑に入り組んでいて,捕まえたと思えばまた別のところに現われる蜃気楼のようでさえあ る。そして「生命」の神秘を己のものとしようとする多くの「知」は意に反して苦しい助走を 強いられている。
しかし,解けないパズルのルールを変え,蜃気楼の本性を見極め,苦しい助走を確実な歩み に変える方法がないわけではない。パズルのルールとは当該学問集団の共有観念であり,パラ ダイムである(Kuhn,1965)。これを変更することは当該学問集団全体を敵にまわすことになる かも知れない。パズルのルール(パラダイム)は「知的学問集団の米」だけれども,パズルが 解けるのならルールは変更されなければならないからである。
蜃気楼は蜃気楼であって,空気密度の変化による光の屈折によってできていることは誰でも 知っている。にもかかわらず,蜃気楼が怪しく心を捉え,美しくゆらめくのは,それが光の屈 折現象だからなのではなく,砂漠のオアシスや海の向こうの国が蜃気楼を見る人にとっての希 望であり夢だからである。ならば,蜃気楼は見る人の心の中に実在していると言えるのではな
いだろうか。
本章ではパズルのルールを見直し,蜃気楼を虚実のはざまに置くことで,生命への確実な一 歩を提起することにしたい。
ここで明らかにすることは,物理的「実体」としての生物システムではなく,生物・生命を 支えている「実在」としての生命システムである。前述したように,ここでは実体としての生 命論(たとえば, Hall, 1969)というより,生物個体だけではなく,細胞系も,神経系も,心 理系も,社会系も種も生命を持っていると考えている。なぜなら,それらは共に自己複製し,
生と死のメカニズムを持ち,要素間にネットワークを形成しながら全体としての秩序を持って おり,歴史的な流れの中で適応・進化しながら絶えざる変化を続けているからである。
読者は,細胞系や神経系ならともかく,心理系や社会系を「生命」という次元で同一化する ことに抵抗があるかもしれない。しかし,進化論者の誰もが合意するように,「人類の出現が生 命にとって大進化であった(たとえば, Lavelock,1984., Capra, 1984など)」とする理由は,
生命がDNAを離れ,自己意識や言語,文化や社会,あるいはドーキンス (Dowkins,1976) のミームや集合表象として飛翔したことによるからではないだろうか。
われわれは生命を生物個体から引き離す必要がある。確かに全ての生き物は必ず死ぬ。しか し,生は死の反意語ではないのである。生物個体は死を免れないから生きているのではない。
生物個体は生き続けるために死ぬのである。言い替えれば,生物個体は生命によって生かされ,
そして生命によって殺されるのである。その証拠に生命は地球に誕生して以来,末だに死んだ
ことがない。生物個体は死んでも種は生き続けるし,ある種が絶滅しても別の種が生き続けて いるからである。生命は生物という物理的乗物にのっているだけではなく,心理や社会という 関係的乗物にも乗っていると考えるべきだし,事実,一般に比喩としてではあるが「社会は生
きている」と言われている。
万が一,心理や社会が生物個体とは異なる種類の生命(あるいは,それを生命と呼ばないか も知れないが)であったとしても,人文社会科学のための生命論だという制限が本稿に付加さ れるにすぎない。そしてまた,たとえそうであったとしても,生物個体の生命観にある種の示 唆を与えることが可能であると筆者は信じている。
2‑1 生命システム
システムとは
生命を従来からとらえられている意味での「システム」であるとすることに異論がないわけ ではない。河本 (1995)は「システム」についての考え方を整理し, 3つの発展形態を明らか にしている。第一には動的平衡システム,第二には自己組織システム,そして第三にはオート ポイエーシスシステムである。
動的平衡システムを明確にしたベルタランフィ (vonBertaranffy, 1949, 1968)によれば,
それがシステムであるためには,
1)固定的な境界が存在すること,
2)二つ以上の要素が存在すること,
3)要素間に何らかの相互作用があること,
4)全体として目的があること,
が必要であると考えている。しかし,「生命」を取り扱おうとすると,残念ながら,生命がこれ らの要件を一つとして満たしていないことが,すぐにも理解できるのである。もし,生命が一 塊の単体でもなく,その中に要素もなく,したがって相互作用もない,ただの空想の産物であ るのなら,スミス(Smith, 1976)の言うようにイオニアのエレア学派に立ち戻ってパルメニデ スのパラドックスを解けばよいし,生命などないとする楽天的機械論者になるのもよいかもし れない。しかし,生命がアリストテレスの形相のように,質料ではなく,有と無の中間に現わ れるものなら,有無の判断ではなく,作用,依存,関係,パターン,情報,意味などのように,
物理的実体ではないけれども物理的実体によって現実のものとなる実在を対象としなければな らないはずである。いいかえれば,物理的実体に意味を与えるような有無と虚実の はざま にある実在を対象としなければならないのである。
それでもなお,「一般に,細胞や生物個体は細胞膜や皮膚によって外界と遮断されており,一
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塊と言えるのではないか。そして,細胞の要素としては核があり,ミトコンドリアがあり,細 胞質などがある。また,個体には脳や心臓や消化器官などの要素があるではないか。したがっ て,生命は固定的な単体であって,いくつかの要素から成り立っている。」と多くの読者は考え るであろう。事実,これまで生物学者の多くはそのように考えてきたし,そのように取り扱っ てきた。
ところが,どうもそこが生物と生命の違いであり,それらを安易に混同しているところに生 命を追求しきれない理由があるのではないだろうか。非常に簡単な例として,多細胞生物の多 くはその内の一細胞が死んでも生きていけるし,その内の一細胞だけを取り出してしまうと生 きてゆくことができない。同じように,社会集団もその内の一個体が死んでも生きてゆけるし,
やはり一個体だけでは遠からず社会集団は死に絶えてしまう。日本の朱鷺をはじめとして,世 界中で絶滅した種は最後の1個体どころか,自然の中では最後の数十個体になってしまうと種 生命は消えてしまうのである。つまり,種生命は代替可能な多くの個体によってのみ維持発展 できるものだということが解るのである。
この他にも,たとえば,個人の死を考えてみよう。個人の死はその個人を構成するすべての 組織,すべての細胞が死ぬことによって最終的に達成されるのだが,実際には多くの組織や細 胞が移植できるほどに生きているにも関わらず,われわれは個人の死をかなり前から宣言して いる。要素の多くが生きているにも関わらず,全体が死んでいるとはどういうことなのだろう。
それは個体の生命が単なる生きた細胞の集合体ではなく,多数の生きた細胞間に生じる相互依 存的関係の総体であることを認めていることに他ならない。
しかし「単細胞(原核細胞や卵など)は単一細胞単一個体で,しかも生きているではないか。」
という反論が聞こえてきそうである。だが,良く考えて欲しいことは,(それが減数分裂や還元 分裂や有糸分裂であっても)それらが分裂し,多数の個体になることがなければ,やはり遠か
らず死に絶えてしまうということである。「一粒の麦,もし死なずば」のたとえである。
単細胞生物であったとしてもやはり事情は同じである。最近の分子生物学の進歩によって,
分子レベルでの細胞内相互依存性が明らかになっており, DNAだけでは生きられないし,
RNAだけでもミトコンドリアだけでも,やはり生きてはゆけない。どんなに単純な生物であっ たとしても何十万もの蛋白質間の相互作用がなければならない。そのうえ,ファージのような 細胞質をもたない細菌は宿主の細胞質を必要とする。つまり,自らの細胞膜を越えてはじめて 生きてゆける生物さえ現存するのである。
第二のシステムとして位置づけられた自己組織系はノイマン (vonNeumann, 1958)によっ て,
1)自己組織系は,要素の状態が自己回帰を含む他の要素との関係によって決定される 2)自己組織系は,明示的であろうと暗示的であろうと階層構造を形成する
と定義される。生命システムが自己言及的であることや階層構造をもっていることは自明では
あるが,やはり問題を含んでいると言わざるを得ない。
そのひとつは境界設定である。自己組織系における自己はアプリオリに決定されており,生 物体である必要はないものの自己境界の存在は固定的である。つまり,要素となる部分は二次 元マトリックス上のセルであったり,格子状に並ぶ分子であったりするし,上位階層となる全 体は容器にはいった液体全体であったり,数種類のゲーム構造であったりするのである。
また,とくに, (2)の階層構造については部分となる要素の振る舞いの規則を上位階層が先験 的に決定する,あるいは部分となる要素間の関係の規則しだいでは非平衡局所安定によって上 位階層が形成されると考える。このような階層構造には部分と全体との関係が一方向的であり,
全体→部分あるいは部分→全体のどちらかであって相互作用が仮定されていない。これはその 自己組織系が部分からなる自己組織系なのか,それとも全体からなる自己組織系なのかを明示 しなければならなくなり,生命という部分と全体の複雑な相互依存関係を扱っているとは言い がたいのである。
したがって,ベルタランフィのシステムと同様にノイマンの自己組織系も,実体を離れたと はいうものの,不完全な階層構造であり,固定的な境界設定であると言わざるを得ない。
これらに対して第三のオートポイエーシス・システム (Maturana, 1975, 1984)は, 1)生命システムは閉システムである
2)生命システムはプロセスである
3)生命システムの要素間は構造的カップリングによって結びついている
というものである。これらの定立はどの一つをとってもかなり難解で多くの誤解を招いている ようである。しかし,これまでのシステム理論とは異なり,生命システムを前面にとらえてお り,本稿の前提となる多くの仮定を含んでいると言えよう。
まず, (2)に見るように,対象が実体ではなく実在を問題としていることである。このことは 生命システムの要素として個体や細胞だけが考えられているのではなく,後にルーマンやハー バマスら (Habermas, 1981)の社会・コミュニケーション理論へと発展したことでも分かるよ
うに,社会や文化も生命システムの一部であるという認識がなされている。
そして,この実在を支えるのが(3)の構造的カップリングである。ただ,構造的カップリング は自己組織系がもっていた要素の均質性を除去あるいは無視してしまったために,要素自体の 定義に不明確さを残してしまった。実在(プロセス)を問題とする限り,実在自身を要素とす べきであったが,彼らは実体=実在としてしまったために難解さを深めてしまったと思われる。
そのために「生命システムは閉システムである」という境界設定問題が多くの人々を迷わせ ることになったのではないだろうか。「生命システムには入力もなければ出力もない」という表 現は,「生命システムを従来のシステム論流に言えば……」という前書きが必要なのであって,
自己境界設定機能があることだけで充分であったのではないだろうか。つまり,生命システム の要素が実体ではなく実在であるということは,その要素から成り立つシステムもまた実在で
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あり,したがって,「実在しないものは当該システムとは無関係なものである」というだけで足 りたと考えられるのである。
それにしてもオートポイエーシス・システムにとって残念なことが二つある。そのひとつは 前述の要素の実在性であり,他の一つは部分と全体のカップリングについての省察である。こ れについては後に詳しく述べるが,生命システムの要素となるもの,生命システムの単位とし てのカップリング,生命システムの全体,が実在として均質(同質)であるという仮定(観点)
が欠落していたことである。
これらの事実はわれわれに少なくとも 2つのことを教えてくれる。ひとつは,生命システム の境界が細胞膜や皮膚ではないし,要素が核や心臓ではないということである。もともと,生 命を固定的な単体として取り出そうとすること自体,既に見たように問題を含んでいると考え るべきであろう。筆者はここで,要素も,要素間の関係も,システム全体も総てが依存性であ ることを主張するつもりである。
他の一つは,生命という全体が生命という部分から成り立っているという事実である。細胞 が細胞生命をもち,その細胞が集まって個体生命をもち,その個体が集まって社会生命をもっ ている。全体で行われているのと同じことが部分においても生じているというこの常識的事実 を目の前にするとき,「生命」が物理的実体ではなく,多数の相互依存からなる関係の総体であ るとしか言いようがないのである。したがって,われわれは物理的実体ではなく,多数の相互 依存からなる関係の総体を正面から正々堂々と追求しなければ「生命」を生命としてとらえる
ことができないのである。
ベルタランフィは生物をエネルギーの開放システムとしてとらえたが,彼の言うような実体 としての生物システムとは異なり,これから述べる生命システムは細胞や個体という実体を離 れて,生命を成り立たせている実在(すなわち,作用,依存,関係,パターン,情報,意味な ど)の全体を吟味しなければならないのである。固定的な単体として分離,分類,切断するこ とによって失われるものがあるとすれば,それこそ生命の本質であるところの再結合や再編や 再体制化の可能性である。従来の生物個体が増殖,発生,成長,進化するという視点から,生 命それ自身が増殖,発生,成長,進化するという視点へと移行すべきなのである。
自然科学として生命を考えるには,要素の均一性が保証されていなければならない。物理学 の成功はまさにここにあったのである。人文社会科学を物理学から遠ざけてきた最大の問題点 は,対象の物理的客観性だけではなく,人間の一人ひとりが異なる存在であり,集団の一つひ とつが特異なものであるという事実である(山口, 1994)。つまり,人文社会科学が真に科学と なり,物理学と肩を並べるためには,対象とする要素の均質性という前提が必要なのである。
事実,人文社会科学が個人や集団や制度を対象としようとすると,個人差や集団差や制度差 が大きな未解決の問題として立ちはだかり,結果として理論が現実から遊離してしまうのであ
る。人文科学の歴史の中で唯一といってよい要素とは,学習心理学が主張した心の均質単位,
すなわちS‑Rユニットに他ならない。学習心理学の成功はこの単位にかかっていたので,論 理矛盾を含む悲しい結論へと突き進むことになったのである。詳しくは5章で述べるが,人間 を固定的な物理的単体として客体視してしまったために,多くの悲劇が人文社会科学に生まれ てしまったということができる。したがって,心や社会の「生命」を問題とするときには,物 理的実体ではなく,心理的実在を問題とすべきであり,いわば現象の心理的還元主義によって 実在の単位を明らかにしなければならないのである。
以上のことから,それが生命システムであるためには,
1)物理的実体ではなく,関係的実在によって成立していること,
2)固定的ではなく,力動的な境界が逐次形成されること,
が必要である。しかも,前に述べたように生命システムは,
3)均質な関係的実在の相互依存ネットワークであること,
4)全体と部分が機能構造的に対称(相似)となること,
が必要なのである。
マツラーナらが提唱し,河本が位置づけたオートポイエーシスは生命を閉システムであると し,構造的カップリングを単位とした。彼らが神経生理学者であったことを考え合わせると,
(3)のネットワークを考えなかったわけではないはずである。にもかかわらず,ネットワークの 挙動や部分と全体の機能構造にいま一歩の省察が足りなかったのはなぜだろうか。その意味で はポスト構造主義哲学,わけてもドルーズ (Deleuze, 1968)は全体と部分の機能構造的反復に 思い当たっていたように思われる。
河本の指摘はあるものの,これらの特徴は本来の意味でのシステムと呼ぶにはふさわしくな いものである。しかし,適切な用語がないため,ここでは「システム」という用語を使用する ことにしたい。
以下ではこれら生命システムの特徴を詳しく見てゆくことにしよう。
生命システムとは
本稿で明らかにする生命システム論は,物事の実在についての主体ー客体を転倒させること からはじまっている。
前に述べた「色受想行識」からなる5種類の世界観は,われわれの世界を5つの側面から記 述可能であることを物語っている。つまり,古典物理学がよりどころとした物理的実体である
「色」,錯視現象に典型的に現われる心理的実体である「受」,形や形式として表され,現代数 学が実現している形相的実在としての「想」,そして,主体的な活動の意図をよりどころとする
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相互作用的実在である「行」や,受動的な完結による活動の意味をよりどころとする相互依存 的実在としての「識」である。
近代合理主義は「色行」的世界観を推し進めてきた。すなわち,それは主体的な活動を物理 的実体に作用させることで,主体の意図した世界を構築することに他ならない。いいかえれば,
意図的に環境を作り変え,心より物を重視し,「どうしたいか」という目的的な主体的行動に誰 もが賛美を送って止まなかったのである。したがって,そこで重要となるのは,目的実現のた めの技術であり,方法であった。
これにたいして,本稿では「受識」的世界観による生命論を展開する。これは物事を物理的 実体の相互作用とするこれまでの見方とは全く逆(正反対)の方向から見ることである。つま
り,物事を心理的実体の相互作用の結果であるとみることである。したがって,物よりも心を 重視し,「どうであるか」ではなく,「どうされる(どう見られる)か」であって,そこでは調 和や親和によって結果的に現出する意味を問うのである。物は心から離れてあるのではなく,
心によって始めて物という意味を与えられるのだと考えるのである。
だからと言って「受識」的世界観を理解することは,バークリに帰って主観的観念論を展開 し,物理的な客観性を放棄することではない。つまり,物理的実体を基礎にした客観的実在を ベースにするのではなく,心理的実在を基礎にした客観性をベースにすることなのである。こ のことは主観的世界に重きを置き,現象学的な説明の地平に身を置くことではない。受識的世 界観の理解には, 20世紀の偉大な発見であった量子論的客観との暗喩がもっとも有効であるか もしれない。ボーア(Bohr, 1934)を中心とするコペンハーゲン学派が量子論的実在について,
それがあまりにも古典物理主義に反するという理由で口をつぐんでしまったために,心理的客 観に資することまでも無視してしまったか,あるいは軽視してしまった。しかし,後に述べる ように,観察者と物質や情報との関係は受識的世界における心理的客観を考える上で重要な役 割を果たしているのである。
量子論は素人には分かりづらい方程式と概念から成り立っており,これに深入りすることは 混乱と誤解を生むことになるに違いないと思われる。しかし,少なくともゾーア(Zohar,1990) が繰り返し言うように,現在の物理学は古典的なニュートン物理学が素朴に考えていた物理的 実在や客観に対して疑義を唱え,「固体と関係と観察者の相互依存的な実在」へと歩を進めてい
ることに間違いはない。
読者にとって色行的世界観から受識的世界観への移行や,古典物理主義的実在から量子論的 実在への観点の変更は少しばかり異質に移るかもしれない。しかし,これを理解するには,紙 に書かれた文字を裏から透かして見るように,「色行」的映像を左脳で回転させるとよい。やり 方が解れば単純な対称変換をするだけで,さほど理解に困難を伴うものではないはずである。
生命システム論では,「生命は受識的依存関係のネットワークに乗っている」と仮定する。っ まり,生命システム論とは関係的実在の相互依存ネットワークについての生命論なのである。
全ての生命はこのネットワークがなければ実現されないし,この世の中にただ一つだけの「生 命」などというものはないのである。
多くの読者は「ネットワーク」あるいは「網」をグラフ理論でいう紐帯(タイ)と結節点(ノ ード)からなる単純な二次元マトリックスを想像されるであろう (Hararry, 1953)。しかし,
ここでのネットワークの変項とは,結節点間の弱連結結合強度であり,ネットワークの変数と なるのは「依存性」である。「生命がネットワークに乗っている」という表現は,生命=ネット ワークであるということではない。依存性とは要素間の関係性であり,全ての要素は他の複数 の要素と依存関係をもっていると考えられるので,それらはnn‑1次元のユニバーサル・ネット
ワークを形成することになる。この依存性ネットワークの全体的な振舞いやプロセスこそが生 命であると主張しているのである。
生命の乗物であるネットワークは始めから存在しているのだろうか。ネットワークの各ノー ド(結節点)は,それがノードとなっているネットワークを畳み込み,入れ子になって,はじ めて産まれる(実在化する)のである。だから,「生命」は西田 (1979)哲学に言われているよ うに,「先づ全体が(部分として)含蓄的に現われる」のである(括弧内は筆者の加筆)。ネッ トワークのノード(部分)がネットワークの全体として産まれるわけだから,生命は最初から パラドックスを背負って出現するのである。
このことは非常に重要であって,「生命」がグラフ理論で扱っているような一階層的なもので はなも多重階層であることが前提となっていることを表している。つまり,もともと一階層 的なネットワークが何らかのきっかけで多層に成長するという性質のものではなく,最初から 多層ネットワークとして出現するのである。
ここで第二の仮定である生命エントロピーの法則が導き出されることになる。その法則とは,
「全ての生命は一義的に依存平衡へと向かう」というものである。ネットワークの部分である ノードがネットワーク全体の写像なのだから,全体と部分は同一であるか,少なくとも対称性 を具備している(あるいは,対称化しようとしている)と考えないわけにはゆかない。その上,
一つの全体の中にいくつかの部分があるわけだから,部分同士も同一か対称性(対称化)を持 っていることになる。これは疑似フラクタルな世界像である。
これを直感的に理解するには,「われわれの頭の中には社会がある」というだけで足りるであ ろう。私の頭の中の社会と,あなたの頭の中にある社会は,当然のこととして同じものでなけ ればならないはずである。なぜなら,私もあなたも同じ社会に生きており,それを頭の中に写 しとつているはずだからである。だから,もし,私の社会とあなたの社会が異なるもの〔非平 衡)であったとしたら,同じもの(平衡)にしなくてはならないのである。
このことは読者に熱力学の第二法則を思い浮かべさせるにちがいない。熱平衡の仮定は生物
/生命を問題とするとき,生命はまるで熱力学の第二法則に反してエントロピーを減少させる 方向で生きているのだとよく言われる。シュレジンガーの言った有名な格言である「生物は負
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のエントロピーを食べて生きている」に代表されるように,生命現象は情報を創造することで 成り立っているという意味である。より端的に言えば,生物/生命現象は物理法則に反するこ
とで生きていると言い換えることができる。
しかし,全体と部分や,部分と部分が最終的には対称化するという依存平衡が成り立つとす れば,個々の生命がもっている情報はいつか最後には同一化し,それらの間に相違がなくなり,
情報的な飽和が起こり,結果として生命情報がゼロビットとなることに等しい。いわば,木村 (1994)のいう「熱死のユートビア」なのである。このことはエントロビーの法則がシャノン・
ウィーバーの情報量の逆数となっていることでもわかるように非常に示唆に富んだ事実であ る。つまり,エネルギーの世界で第二法則が成立するように,生命情報(依存性)の世界でも 第二法則が成り立つことを意味しているのである。
熱平衡と依存平衡とは共にエントロピーが最大になることであり,それは同時に情報量が最 小となることを含意している(藤澤, 1993)。したがって,まるで生命現象が物理法則に反して いるかのごとき印象を与える上記の言葉は「生物/生命は依存情報を食べて生きている」と書 き改めなければならないと考えている。生命を崇高なものであり,物理法則とは無縁の存在で あるかのように主張しようとするのは,やはり,誤りであるとしか言いようがないのである。
さて,宇宙的規模の現実世界ではマクスウェルの悪魔の助けを借りなくても熱平衡が容易に は達成されないように,生命世界でも依存平衡は容易に達成することができない仕組になって いる。それは「相互依存」という自己帰還ループが生物/生命の基本構造だからである。そこ では互いの要素が依存平衡を達成しようとして状態を変化させることによって,場合によって は,どんどん依存平衡から遠ざかってしまうという現象が生じてしまうからなのである。ドル ーズのいう「差異の拡大」であり,プリゴジン (Prigogine, 1984)の「カオスヘの道程」が待 ちかまえているのである。
そこで,次にこの生命の基本構造である相互依存ループについて,なぜそれが生命の基本構 造であり,それがどのような機能をもっているのかについて考えてみたい。
2‑2 生命の基本構造
リアリティー・ループ(実在の相互依存関係)
光子が観察者によって,あるときには粒子でもあり,またあるときには波動でもあるという 量子論的実在の一つを非常に単純化して解釈するとすれば,あらゆる現象が物理的実体(物質)
と関係的実在(情報)の双方からなるということを意味していると言えよう。したがって,生 命現象もまた物質の形をとりながら同時に情報でもあると考えることができよう。そして,光 子は観測者との関係で粒子(物質)であるか波動(情報)であるかのどちらかしか明らかにで きないことから,極端に言えば,観察者が光子の実在を決定することになるのだと言われる。
したがって,生命も「物質としての生命」と「情報としての生命」のどちらか一方しか同時に 観測できないのかもしれない (Lockwood, 1989)。
心理学では観察者の存在は自明のことであった。たとえば,色は対象の持つ物理的属性では ない。赤いコップはもともと赤いのではなく,それを観察する人間が赤色だと判断するのであ る。その証拠にベンハムの独楽と呼ばれる白黒で書かれた模様を回転させると観察者に色感を 持たせることができる。もちろん,大きさや重さは相対的であり,観察者が認識できない対象 は存在しないことを意味している。この意味からもゾーアが言うように心理学は昔から量子論 的な認識論を主張してきたのである。したがって,心理学的実体の存在は多数の観察者による 統計的実体(客観)として実現するより他はなかったのである。
しかし,心理学には別に大きな問題があった。それは意識であり,内省であり,心像や記憶 や思考である。これらは観察者自身にのみ観察できる事態であり,はたしてそれが心理的(統 計的)実体となり得るものなのかということであった。観察者自身を観察する(内省する)こ とで観察者の客観的存在を確立できるのだろうか。心理学の歴史は「観察者自身についての客 観性」をめぐる闘いであったということができる(広松, 1972)。
さて,量子論的実在の心理学的実在へのアナロジーを考えてみよう。図2‑1にみるように, A にとっての客観(すなわち, Bの客観的実在)は, AがBの観察者となり, Bという存在に反 応することによってBを(エネルギー/物質でもあり,情報/関係でもある)客観的実在とす
ることである。ここまでは従来の古典物理学や心理学が採用してきた客観である。
しかし,そのときA自身はというと,心理学が苦悩してきたように, A自身では自分自身の 客観的実在を得ることができない。 A自身はAにとってあくまでも主観であり,自らでは自分 の客観的実在を証明できない。そこで従来から,想像の多数者による操作主義的客観が持ち込 まれたのである。しかし,この想像の多数者による客観は当該のAとBの存在を物理的実体と してしか認識することができないという欠点をもっている。この場合, Bの実在はAによって
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のみ確認されるわけだから,想像の多数者にとってAは実在しないかもしれないのである。
したがって, Aの実在が問題となり,当然のことながら, A自身はBによってはじめて客観 的実在として存在することになるのである。すなわち,個人が実在できるか否かは他者にかか っているということができるわけだから, A自身の存在証明はBにゆだねられていることにな るのである。
A B
ご
図2‑1: 量子論的客観
ところが,その他者の実在も同時に彼以外の他者 (AならばB, BならばA)にかかってい るのであるから,個人の客観的実在証明には最小限2人の観察者(要素/個人)が必要である という結論に至るのである。この最小ループは2人の観察者の互いに行う存在証明によってな りたっているので,いわゆる「卵が先か鶏が先か」の循環論となる。しかし,この循環は一巡 したところで一応の完結をみることに注意して欲しい。すなわち,ループを構成する要素を基 準尺度におくのではなく,ループそれ自身を基準尺度とするとき,循環論は循環論ではなくな る。つまり,ループの要素となるノードやタイが先見的に存在するのではなく,ループの一巡 によって始めて後見的に存在するのである。いま 2人の個人を考えてみると,個人が何よりも まず存在するのではなく, 2人が互いに自分の存在を相手にゆだねることによってはじめて個 人が存在するということである。「我思う,ゆえに我有り」なのではなく,「互いに思う,ゅぇ
に我汝有り」なのである。
このような最小限2人によって成り立つ(観察し,同時に観察される)実在のループを「リ アリティー・ループ」と名付けよう。このリアリティー・ループは単純な相互依存性というだ けでなく実在の相互依存性であり,要素(個人,社会,神経単位など)が実在するためには少 なくとも同種の他要素が必要であることを物語っている。つまり,心理学的実在や「生命」を 構成する単位は個体や要素ではなく,互いに互いの客観的実在を証明し得るリアリティー・ル ープに他ならない。たとえ,物理的実体や意識主体としての個人が最初にあることは認めると しても,心理的実在や「生命」としての単位は他者を含むループによってのみ,はじめて存在
し得るのである。
ここで,話しは「A自身とは何者なのか」という実在論に移ることになる。いま見たように,
Aの客観的実在はA自身によっては確立できない。 Aの実存はA以外の人間によって外から与 えられるものである。つまり,自分の存在は他者に依存しているのである。このように,他者 による自分の実存は相互の依存性によって達成されると言うことができよう。
「依存」や「呼応」や「反応」そのものは主体による客体からの働きかけに対して行う受動 的な行為・活動である。したがって,「相互依存性」は主体ー客体の関係性であり,互いの主体 が互いの客体にかかっているという意味で社会的事実である(図2‑2)。
能動・作用 受動 I
依 存 依 存 性
社会性 社会的影響・反応 図2‑2: 依存と依存
しかし,この依存性は主体がもっている目的を達成するために客体が必要であるという道具 的な意味での依存性ではない。他者を自己の目的のために道具的に使用するという他者依存性 は,自己が確立されて始めて可能となることであって,ここでいう依存性とは違うものである。
依存性とは,どちらかといえば,レヴィンのいう「単なる依存」による存在理由であり,何よ りもまず確立されなければならないものである。
これに対して,作用は依存の裏返しである。主体的・能動的活動(作用)はそれだけでは主 観的であり,意味をなさない(客観的実在ではない)。作用を及ぽそうとする対象である客体は,
単に主体の主観的構築物にすぎない。すなわち,客体によって呼応され,反応されなければ作 用は作用のみに終るのである。
これは先に述べた物理学の「作用」と化学の「反応」に対応するアナロジーとして考えても 差し支えない。古典力学系の作用は必ず対称的反作用を伴う。したがって,作用を計測しても 反作用を計測しても結果は同じである。しかし,化学反応系では事情は異なる。外郭電子数や 酸・アルカリのイオンとして知られている化学反応系は,何らかのイオンを作用させても,常 に反応が勝ち取れるわけではない。
関西大学『社会学部紀要』第27巻第3号
<H++Cl―→ HCl>というイオン反応はよく知られた塩酸の化学反応式である。イオン化し ているというのは,いいかえれば原子の依存状態を表している。水素と塩素が相互に依存しあ っていることによって化学反応が生じるのである。依存は相互に成立していなければならない。
一方的な依存は化学反応にとって意味がない。たとえ,水素がイオン化していても,塩素がイ オン化していなければ化学反応は生じないからである。
また,く2H叶 02→2 H心>のように,分子間の電子数適合のためには水素2分子と酸素1 分子がここでは必要である。しかも,ただ混合しただけでは反応しない。それらは双方が不安 定化(依存)していないからである。
依存性は化学反応のように相手が必要であって,その意味では「相手次第」なのである。そ れ自身が独特の性質を持っている分子は物質の存在理由であり,物質の実存である。イオン化 された原子はそれ自身の存在理由を持たない。それらはイオンとイオンが反応することによっ て始めて実存することができるのである。つまり,相互依存性とは互いが互いにそれ自身の実 在を依存していることなのである。
このような相互依存性は客体に心理的客観を与え,実存の核となり,実在の根拠を提供する。
事物は事物として存在するのではなく,相互依存性によって実在化するのである。このことは 生態学的心理学を唱えたギブソン (Gibson, 1979)のアフォーダンスとも一脈を通じる考えで あるし,ゲシュタルト心理学の流れを汲むレヴィン(Lewin, 1951)の相互依存性によるトポロ ジカルな生活空間とも軌を一にするものである。また,マツラーナらのカップリングなども同 様の考え方である。ただ,後に詳しく述べるが,アフォーダンスは対象の依存性を協調しすぎ ており,人間の対象への依存性を生物学的限界に帰属してしまっているし,レヴィンの相互依 存性は実存や実在の相互依存性ではなく,領域の相互依存性に限定してしまっている。マツラ ーナらの構造的カップリングは卓越した見解ではあるが,後に述べる階層間関係が脱落してい
ることや,要素の同質性についての言及がないのが残念である。
操作可能性としての実在
要素の実在(たとえば個人の実在)はリアリティー・ループによって確かに可能にはなるが,
当の要素の実在が確定できる訳ではないことに注意したい。リアリティー・ループはそれ自身 で完結した実在ではあるが,それが直ちにループを構成する要素の実在でもあるとは言い切れ ないのである。なぜなら,一つのリアリティー・ループには少なくとも二つの要素があるのだ が,その内の一つを取り出せばループは崩壊し,要素はその時点で実在性を失うからである。
別の言い方をすれば,一つのリアリティー・ループはそれ自身で心理学的単位であり,要素に 分解できないのである。もし,強引に要素に分解すれば想像の虚空にさまようことになって複 素関数の世界へ逃避しなければならなくなる。
つまり,要素の実在を確定するためには,その要素がリアリティーを自ら(能動的であろう と受動的であろうと)操作する(される)ことができなくてはならない。すなわち,当該の要 素の実在証明は,その要素を互いに含む少なくとも 2つのリアリティー・ループが必要なので ある。図2‑3に見るように,二つのループが要素を共通に含んではじめて要素の実在証明が可能 となる。なぜなら,要素Aはどちらか一方のループを破棄したところで(図では要素C)別の ループ(図では要素B)によって実在し続けることができるからであり,その選択は要素Aの 選択だからである。
B 要素A c
. .
. . . . . .
︐
実 在. .
. .
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I 、
I ¥
非 実 在 l
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ヽ I
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',,. ‑‑‑
図2‑3:要素の実在可能性
哲学的言説はこれまでにして,個人に話を移すと,個人の実在はその個人が自律的に他者を 観察し,同時にその他者によって他律的に観察されることに依存しているのだが,それだけで は個人の実在を分離,確定できないということである。いいかえれば,自分も他者も実在して いることには違いないのだが,リアリティー・ループが一つしかないときには,自他の区別が つかないのである。個人を他者から区別し,その個人が当の個人であることを確かめるために は,少なくとも二つのリアリティー・ループが必要だということであり,自分を中心にして最 低2人の他者とのループがなければならないということである。
たとえば純粋な母子関係や恋人関係を考えてみよう。この二人が他に全く人間関係を持たず,
二人だけの世界に住んでいたとしよう。私と貴方だけの世界では,貴方が私なのか,私が貴方 なのか区別がつかない。二人は融合してしまっていて一つの存在でしかないのである。私が私 であるためには,貴方以外の他者とも関係がなければならないのである。
この説明のために前記のアナロジーを持ち出せば, H+ゃ c1‑では実在し得ないが, HCIにな れば実在し得る。しかし,それはH+でもなければClーでもない塩酸という 1分子となるのであ
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る。したがって, H+ が庄であるためには C「以外の,たとえば他の H—ゃ o—とも結びつくこと が可能でなければならない。でなければ,虚のXを想像するしかないのである。
つまり,要素が要素であるためには,その要素にリアリティー・ループを操作する可能性が 与えられていなければならないのである。このことは人間の場合に特に重要であって,自己同 一性や自己意識や主体性や目的とかかわって心理学の根幹をなしている地平なのである。同時 に,リアリティー・ループの多重性とその操作という要素の実在性にとっての要件は,必然的 にリアリティー・ループを紐帯とし,要素を結節点とするネットワークを仮定することになり,
ネットワークを心理的実在の必要条件とすることになるのである。このような考えはレインや ベイトソン (Bateson, 1951)が主張する人間関係のネットワークである。
相互依存ネットワーク
レヴィンの生活空間の概念は場によって構成されている。場は成長と共に分節化してゆき,
誘因価として表される力学的モーメントによって変動する(図2‑4)。生活空間とは個人の認知 や図式のトポロジカル空間のことであり,いわぱ個人の意識が日常的に動き回るさまざまな領 域(場)を観念的に現したものである。各領域が接しているところでは直接的に影響が及ぶの で,ある領域での変化はその領域に留まらず,多方面に影響を与えることになる。したがって,
レヴィンは個人の認知空間が誘因価を変項としたネットワークを構成していることを述べてい るのである。彼の時代にはネットワークという用語が一般的でなかったので,ウロコのような トポロジー表現になったと思われるが,これは単なる表現上の相違に過ぎない。生活空間は明 らかにネットワークを前提とした議論なのである。
G
~ c
図2‑4:レヴィンの生活空間とのそグラフ表現
生活空間は,個人の認知空間に限らず,集団の相互作用空間にも適用されている。このレヴ ィンの着想は個人と集団についての唯一といってよいほどの卓越した一般理論である。なぜな ら,集団の相互作用関係と個人の内的ダイナミズムを同じ「場」として扱っているからである。
彼の場合は集団的事態と個人的事態を異なる要素,異なる変項と考えたようだが,本稿で明ら かにする生命システムやそれを個人と集団に適用したソシオン理論では,集団的事態も個人的 事態も同じ要素,同じ変項として取り扱っている。
レヴィンが認知的生活空間と言うとき,認知要素の多くは行動と結びついた表象である。こ れにたいして集団を扱うときの空間ではその要素を個人と考えている。もし人間の認知(ある いは,少なくとも認知の評価的側面)が他者との相互依存性によって成立すると考えるのなら,
個人の認知空間もまた,他者という要素を中心に構成されていると考えなければならない。す なわち,生活空間は,それが個人の生活空間であろうと集団の生活空間であろうと,中心的な ネットワークの要素は常に人間であり,このことによって,個人も集団も同じネットワークの 振舞いとして考えることができるのである。
次に誘因価であるが,これは難解な概念であり,彼の弟子達によって「魅力」という操作 的概念として用いられた。レヴィンの言う「単なる依存」や「体制的依存」と「誘因価」や「魅 カ」がどのような関係にあるのか定かではないが,誘因価や魅力が場の依存関係によって生じ ると考えることに困難はない。
この理論が人文社会科学の中心的理論にならなかった理由は明確ではないが,考えられる理 由はいくつかある。その一つは生活空間の発生と分化についての明瞭さに欠けていたことであ る。今一つは,領域間の影響についての関数関係が難解であるか,ほとんど言及しなかったた めであろう。そして最後に,誘因価や魅力の概念が不明確であったことによると思われる。し かし,これらの点はネットワークと実在の相互依存性として解決できる問題であると考えられ る。
「ネットワーク」という用語は3つ以上の結節点とそれらを結ぶ紐帯からできあがっており,
電気通信,なかでも電話回線網を指す言葉としてできあがってきたものである。なぜかといえ ば, A地点からB地点への回線は一つではなく,さまざまな迂回路を通って結線される可能性 が存在するからである。
つまり,「ネットワーク」という言葉には,
1)影響過程が一つのループ(二者間)に留まらず第三者にまで及ぶ,あるいは,二者間の 関係を二者間のみに限定できないこと,
2)ネットワーク全体の挙動が個々のループに影響する,いいかえれば,ネットワークは個々 の状態の単なる合計ではなく統一のとれたコヒーレントな固まりを形成すること,
を意味していなくてはならない。したがって,単に人間関係が繋がって存在するというだけで はネットワークと呼ぶにふさわしいとは言えないのである。ネットワークと呼ぶためには第三