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大上末廣の満洲経済論

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(1)

大上末廣の満洲経済論

その他のタイトル Ohgami Suehiro's View on Social Formation of Manchuria

著者 鍛治 邦雄

雑誌名 關西大學商學論集

巻 22

号 5

ページ 468‑492

発行年 1977‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020992

(2)

38(468) 

大上末廣の満洲経済論

鍛 治

邦 雄

は じ め に

(I) 

大上末廣の研究生活は,わずか

15

年足らずという短いものであったが,ほ ぼ昭和

11

年および1

4

年を境として,三つの時期に区分することができる。初 めは,京都大学卒業後,中国遊学,満鉄入社を経て,中国問題の専門家,満 洲(中国東北部,便宜上この名称を用いる)経済の研究者として自らを確立 していく,いわば修業・研鐵の時期である。次いで,蓄積した研究成果を土 台にして,満洲経済建設計画立案に参加するとともに,各種の研究機関の責 任者の一人として,調査研究活動の企画に努力する,短いけれども華々しい 活躙の時期へと移る。最後は,京都大学人文科学研究所に職を得て,再ぴ学 究生活に専心する時期であるが,この学究生活は,昭和1

7

9

月の検挙によ り,唐突に終止符を打たれる。ここでとり扱うのは,第一の時期,しかも昭 和

7

年末から

11

年半ばまでの

4

年間の,満鉄経済調査会時代の大上末廣につ いてである。

この時期における,大上の研究活動を明かにすることは,彼の研究生活全 体を評価するうえで,重要な意味をもつといえる。それは,この時期におい

(1) 

小野一一郎•松野周治, 「大上末廣の略歴と著作目録について」, 経済論叢,

119

巻 3号,昭和

52

3

月。最近において大上にふれた文献・資料の主なものは,

同調査79 頁に掲げられている。

(3)

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(469)39 

て,彼の中国および満洲にかんする認識が,理論的にも,経験的にも急速に 深化していき, その中国社会論, 満洲経済論が完成をみるからであり,ま た,種々の学説・理論の貪欲な吸収を通じて,独自の理論・方法論が確立す るに至るからである。さらに,後の時期と比べて,比較的自由な発言の余地 があり, 筆名使用をも助けとして, 「屈折した表硯」を用いることが少く,

それ故に,彼の主張の真意を理解するのが容易であるという事情もつけ加わ っている。

本稿は,この時期における大上の満洲経済論を検討するものであるが,本 論に先立って,いくつかの限定を付しておきたい。大上の満洲経済論は,後 にみるように,急角度の旋回を遂げるが,この旋回の基本的性格を敢えて概

(2) 

括すれば, 橘撲の中国社会論に立脚した満洲経済論から, 「講座派」理論の 導入によるその再構成へということができる。それ故に,大上の満洲経済論を 検討するうえで,橘との関係および日本資本主義論争の推移を無視すること はできない。しかし,これらとの関連を明かにしつつ,大上の理論的捉回を 跡づけることは,大規模な作業となり,小論では果すことができなかった。

(3) 

また,大上の研究活動は,いわゆる「経調派」および「満洲評論派」の人々 との交錯の中で続けられたものであり,さらに,中国封建制論争や資本主義 化論争から大きく触発されたことも明かである。しかし,これらの点を考察 することもまた,次の課題として留保せざるをえなかった。本稿では,対象 を,大上自身の諸論稿の検討を通じて,その理論上の推移を忠実に跡づけ,

彼の満洲経済論の到達点を明かにすることに限定したい。

満洲社会経済構成の基本的性格について,大上の見解が確乎として成立し

(2) 

橘撲の生涯と思想については, 山本秀夫氏の研究がある, 「 橘 撲 」 , 昭和

52

7 月 。

(3) 

「経調派」, 「満洲評論派」については,田中武夫,「橘撲と佐藤大四郎ー合作

社事件•佐藤大四郎の生涯」,昭和50年 3 月,第四章・五章を参照せよ。

(4)

40(470) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(4) 

たのは昭和10 年の初頭のことである。この前後に発表した諸論稿において,

大上は,満洲経済の「封建性」とりわけ農業での根強い「封建的」諸関係の 支配を主張している。しかし,これは当初の見解とはかなり異っており,大 上の満洲経済論は次第に変容を遂げつつ,ここまで到達したのであった。

満洲経済が「産業革命」を経ておらず,それ故その社会経済構成がく確立 した資本主義>即ち,機械と大工業に立脚する資本主義の段階には未だ至っ ていないこと,換言すれば,資本主義的諸関係が十分な発展をとげず,社会 的なひろがりを有する支配を確立するに至っていないことについては,勿論 彼の見解は一貫している。にもかかわらず,この「前」資本主義的な社会経 済構成の基本的性格にかんして,とりわけ封建的諸関係の解体と近代的諸関 係の発展の如何にかんして彼の見解は大きく変化したのである。

満洲社会経済構成の基本的性格についての見解に変化が生じたのは,まさ に昭和

7年から昭和10

年にかけての時期においてである。

1933

年版から

35

(5) 

版までの,各年次の『満洲経済年報』に寄せた大上の論稿は,その時々にお ける彼の見解の推移を反映して,描出された満洲経済の全体像は微妙な変化 を示している。大上の当初の見解を知るには,

1933

年版所収の「満洲経済 の史的考察」によるのが捷径といえるが,昭和 8年後半に執筆されたと思わ れるこの論文では,既に見解の変化が始っている。加えて,この論文の主内

(6) 

容は同年始めに発表した「旧満洲の土地形態と地代形態」の縮小にすぎな い。それ故に,大上の当初の見解を明かにするには「旧満洲の土地形態と

(4) 

「満洲評論」.「禍洲経済年報」に掲載されたもの以外に,「満洲経済史の諸問

題ー一満洲経済恐慌分析のための出発点として」(上),(下),東亜, 7巻

1011 

号,昭和

9

10• 11

月,がある。

(5) 

「満洲経済の史的考察」,滴鉄経済調査会編.「満洲経済年報」

1933

年版,

1

1

章,昭和

8

年1

2

月 。 「満洲に於ける資本主義発生の歴史的諸条件」.同

1934

年 版 ,

1

1

章 , 昭和

9

年9 月。「満洲農業恐慌の現段階」,同

1935

年版,

2

2

章,昭和1

0

年9月 。

(6) 

満鉄調査月報,

13

3・4・5

号,昭和

8

年3・4・5 月。後に,パンフレット,

「清朝時代に於ける満洲の農業関係 J , 昭和 8 年 7 月,として発行された。

(5)

大上末廣の満州経済論(鍛治) (

471)41 

地代形態」の検討を行うことが不可欠である。後者の論文は満洲経済につい ての,大上にとって最初の本格的論稿であるのみでなく,満鉄調奎課の満洲 旧慣調査を基礎に,日中双方の諸資料を丹念に分析し,理論的に再構成した 力作であり,文字通り彼の満洲経済論の出発点となっているものである。以 下では,この論文によって大上の当初の見解を概括することにしたい。

大上は冒頭において, 「満洲社会の成立を可能ならしめている経済的基礎 は,知らるるが如く,危大なる農業生産であるが,この満洲農業の全形態の 特徴的な基礎の一つは, 私の見るところでは, 満洲の特殊な土地所有形態

(7) 

と , このものの下に取り結ばれている地代形態である。」 と述べて, 満洲

「国民経済」(カギカッコは鍛治)の理論的究明の基礎が農業諸関係の分析 にあること,これを土地所有と地代の二つの側面から行うことを明かにして いる。彼は,土地所有と地代の分析を行うに当って,問題を発生史的にとり あげ,清朝下における土地関係と地代関係の形成と変容,民国初における改 変の基本的特質を検討することにより,満洲における土地所有と地代の複雑 な諸関係の基本的性格を解明せんとした。その結果,旧満洲の農業諸関係に おいては封建的性格が早くから失われていき,近代的市民的性格への移行が 生じていたとの結論に達している。

まず,土地関係について,大上は,清朝下の土地諸形態が既にその成立時 において,封建的形式の内に近代的市民的土地所有の性格を色濃く有するも のであったことを指摘した。清朝下における満洲の旧地目は,大別して,民 地,旗地, 王公荘園, 官荘, 蒙地, 国有地,村落共有地等の諸形態をとる が,これらは「順治を基準とし,康煕,薙正を経て乾隆に及ぶ時代に,一応

(8) 

の完成をみた」。大上は, この本来的土地諸形態を旗地以下と民地の二つに 大別し,両者は各々性格を異にする土地関係であるとした。前者のグループ は「封建的身分的襲係に基づいて成立せる土地形態であり,従って不動性を 基礎特徴とする所の大規模な且つ歴史的に継承さるる所の大土地私有形態」

(7) 

「旧満洲の土地形態と地代形態」,満鉄調査月報,

13

3

号 .

2

頁 。

(8),(9) 

同 上 ,

18

頁 。

(6)

42(472) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

であり,後者は「直接的に中央国家権力の支配下に立つ所の,そして自由な

(9) 

る小農民によって所有され,移転されうる所の近代的零細土地私有の形態」

である。従って,清朝下の土地関係は「封建的身分的大土地所有」と「自由 農民による近代的零細土地所有」の二つの基本的性格から構成されていたと している。このような性格の土地関係が成立した原因を彼は次の事情に求め ている。 満洲民族は入関前において既に,「経済的には奴隷と農奴との生産 を基礎とする経済生活の階梯に在った」から,清室の支配が安定した時期に 自らの「経済生活の基礎たる奴隷,農奴生産を広く満洲に移植し再建せん」

として, それに適応する土地関係たる身分制的大土地所有を創出した。 他 方,中国本部では,清室入開時には既に,農奴生産の段階をはるか以前に了 え,「高度の商業資本の階梯に在った」から, 漠民族の流入は満洲の至る所 で「商業資本主義経済」に適わしい土地形態たる自由な零細土地所有を生み

(10) 

出した。満漢両民族の経済発展段階の相遮が,清朝下の本来的土地諸形態の 形成過程を規定することにより,土地関係の複合的性格を発生せしめること になったとするのである。

大上は,満洲の土地関係は如上の性格からきわめて不安定なものたらざる をえず,封建的身分制的大土地所有は強固な基礎の上に発達しえず,成立は 同時に解休過程の開始となったと主張する。彼によれば,この解体過程の進 行を促した最大の要因は,中国本部からの危大な流民の侵入とこれに伴う商

.  (11) 

業・高利貸資本の渡来である。漉民族の流入は,中国本部の社会経済関係を 移植することにより,満洲の社会経済構成(その基礎たる土地関係)を次第に 中国本部と同質化していく。解体過程は三つの形式で進む。即ち,流民による

(10) 

同上,

6‑7

頁 。

(11) 

同上,

22

頁。消朝は,入関に伴う故地の荒廃を防止するため,漢民の遼東入植 を奨励し,順治元年

(1644)

以来「遼東招民開墾」にかんする種々の法例を公布 した。しかし,康熙

7

(1668)

以降は次第に「封禁政策」に転じて.ついに乾 隆

5

(1740)

には. 流民の侵入を厳禁するにいたった'。漢民の流入は. この

「封禁政策」にもかかわらず. 増加を続け. 嘉慶年間に最盛に達した。 そのた

め.清朝も「封禁政策」を維持しえぬことを知り.嘉慶

8

(1803)

以降は.た

てまえは「封禁 J としたが.実際には流入を黙許せざるをえなかった。

(7)

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(473)43 

無主の荒地の占拠・開墾,封建的諸身分による土地開墾や領地の典売,封建

(12) 

的土地の経営実権の農奴たる荘頭による掌握などであり,これらによって市 民的私有地の拡大と身分制的土地の制限の弛緩・市民的私有地への転化が進 行する。この解体過程は二つの段階を経て進む。清朝の「満洲封禁政策」に も拘らず, 流民の侵入が増加する嘉慶を中心とする第一の時期と,「五口開 港」以降の時期に分れ,後者では,開墾の中心が奉天省地方から吉林・黒龍 江省地方へ移るのみではなく,清朝政府の政策も徐々に転換し,封禁を原則 とされた国有地(牧廠・葦場等)が次第に開放され,民地へと移行すること

(13) 

になる。清朝下における本来的土地開係の基本的性格を「封建的」土地所有 と「近代的市民的」土地所有の矛盾にあるとする見地から,大上において は,旧土地諸形態の解休過程が, 「封建的」土地所有にたいする「市民的」

土地所有の征服の過程として把えられているのである。したがって,民国初 における土地改正,地租改革等の諸変革はこのような過程の完成と法的承認 を意味するにすぎないことになる。

・地代関係についても,大上は,土地関係での二区分に従って,その各々に

(14) 

おける地代関係の基本的性格を検討している。身分制的土地の耕作は,旗 丁 , 老佃戸, 現租戸により行われているため,その, 地代関係の性格は,

これら直接生産者の土地所有者にたいする身分的関係の如何により決定され るとした。旗丁は農奴,現租戸は自由小作人であり,老佃戸は両者の中間的 形態といえる。旗丁は,土地管理人たる荘頭,耕作者たる荘丁より成るが,

いずれも土地所有者に身分的に隷属し土地に緊縛され,土地にかんしては用 益権のみ有するが,処分に係わる行為は一切禁ぜられている。これにたいし

(12) 

同 上 ,

28‑32

頁 。

(13) 

大上はこの解体の過程を詳細に叙述している。同上,

32‑46

頁 。

(14)

蒙地は, 身分制的土地のうちでやや特異な性格をもつので, ここでは除外し た。大上の蒙地についての見解は, 「旧満洲の土地形態と地代形態」のほかに,

「旧東北政権の武装移民と蒙古民族社会」,満洲評論,

6

17

号,昭和

9

4

月 ,

「蒙古社会崩攘の歴史的過程」,新天地,

14

5

号,昭和

9

5

月,によって知る

ことができる。

(8)

(474) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

て現租戸は「此らの身分制的世襲的土地と身分関係によって結合するもので はなく,全く市民的な哭約関係に基づいて結合」し, 「先租後種」または

「上喫租」と呼ばれる小作料前納により耕作権をうるが,契約の更新が繰返 されるため永小作の性質に近づいている。老佃戸は土地と不可分離の関係を もつ点で旗丁と類似であるが身分上の拘束はうけず,農奴から自由民に推移 する中間の過渡的存在である。大上はかく概括したうえで, 官荘, 王公荘

(15) 

園,旗地におけが地代関係は基本的には封建地代であるとしている。

民地での地代関係については,資料の不足から明瞭ではないとしつつも,

地主小作関係が存在する場合には, 中国本部に伝統的な分益小作であろう

( 1 6 ) .  

が,民地は本来は土地所有農民たる自主的農民の所有にかかると推断してい る 。

清朝下における地代関係の本来的性格をかく把握したうえで,大上は「身 分制的土地が,近代的・市民的・動員性をもった所有関係の上に構築された ものであった限り,……,そこに取り結ばれたる農奴制的地代関係は,極め て,基の薄弱なるものを脱れなかった。換言すれば,その地代関係は,その 後強固な基礎の上に発展するを得ないで,その成立とほとんど時を同じくし て,近代的市民的関係の方向に崩れ始めざるを得なかった。」として, 土地 諸形態の解休に応じて, 「王公, 旗人の領有地の農奴制から小作制への推

(17) 

移」が生じたと主張している。

以上にやや詳しく紹介した大上の旧満洲農業関係についての基本的見地を

(15) 

「旧満洲の土地形態と地代形態」,満鉄調査月報.

13

5

号 ,

2‑10

頁。旗地 は . 本来は, 旗人自身にその地の耕種を行わせる目的で設けられたものである が,旗人の武人化とともに,自耕の原則が崩れて,事実上王公荘園と類似した経 営が行われるようになった。

(16) 

同上,

10‑16

頁 。

(17) 

同上,

19‑24

頁。身分制的土地における新開墾地(余地およぴ升科地)での小

作形態が「分益小作」あるいは「氷小作」の形態をとることを指摘したあと.大

上 は . 「分益小作」について,その特色が「部分的には彼自身の利益に基いて生

産に従事する点に在」り. 「単なる労働者の資格に於てではなく自ら一個の企業

者たる資格に於いて, 生産物からの一定の頒前を要求する点にある。」としてい

る。同上,

24

頁 。

(9)

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(475)45 

要約すれば次のようになろう。その創出時において強固な確立を遂げ得なか

った「封建的」土地所有は,早期に解体の過程を辿り,それに代わって中国 本部の土地関係の導入により, 「近代的市民的」土地所有が発展した。地代 関係もかかる土地関係の変化に応じて, 「封建的」性格を次第に弱めてい き,旧満洲農業関係は農奴制から「近代的」性格のものへと移行していっ が ヽ

0

I l  

前節において概括した大上の基本的見地は,その特徴を二つにまとめるこ とができる。まず第ーは,土地関係の重視である。満洲社会経済構成の基礎 は農業諸関係にありとされるが,後者の分析において決定的重要性を与えら れているのは土地関係であり,地代関係ははもっばら,土地開係の性格の如 何により規定されるものとして扱われている。第二は,中国本部の社会経済 関係の重視である。満洲社会経済構成の変化は,中国本部の社会経済関係の 移植を通じて進み,次第に中国本部の社会経済構成と同質化していくと把握 されている。以下においては,これらの点について大上の主張により詳細な 検討を加えることにしたい。

農業諸関係の分析において,土地関係を何よりも重視するという見地は,

この時点における大上の「封建制」概念と不可分のものであった。「封建 的」諸関係の基本は,土地の領有関係と,直接耕作者の身分的隷属関係であ り,土地領有者が農奴たる直接生産者から,領有権に基づく強制力を行使す ることにより地代を収取する。従って,土地領有関係の変質は,身分的隷属

(18) 

関係の弛緩をもたらし,地代関係の変質をも生ぜしめる。大上の「封建制」

( 1 8 )   大上は,マックス・ウェーバーの「荘園的農業統制」崩壊にかんする議論を検

討したあと,満洲の都市がほとんど軍事的行政的関係から生成したため,市民階

級の発生をもたらさなかった。したがって,荘園的農業統制崩披を導いた第一次

的原因は, 「領主ならびに農民の販売機会並びに販売関心」と「貨幣経済による

農産物市場の不断の拡大」とに求めざるをえないが,これらの諸要素は中国本部

から輸植されたものであった,と指摘している。同上, 19‑21 頁 。

(10)

46(476) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

概念は以上のものに留まると思われる。では,この「封建的」土地関係=土 地領有関係の解体過程を大上はいかに把握していたのであろうか。封建的土 地関係の解体は,一般に,次のような過程で進んでいく。封建的諸開係への貨 幣の浸透は,土地の商品化を促進し,土地領有権は次第に商品交換に適応し た性格のものへと変容する。領有者の土地経営の進展は,直接耕作者の用益 権の安定を排除する形での領有権の強化をもたらすが,他方,直接生産者の 用益権は土地にたいする事実上の支配を強めていく。土地関係は重畳的物権 休系として構成され,土地にたいする諸権利間の矛盾は,その夫々が包括的 一元的土地支配の方向へと発展することにより,拡大せざるをえない。かか

(19) 

る矛盾の拡大は,重畳的物権体系を近代市民法的権利休系(所有権の絶対性 とそれを基礎どする諸権利の休系)へと整理することを不可避にする。この 変化の過程を最も根底において制約するのは,土地経営様式の変化と農業経 営の経済的性格の如何である。大上は,このような封建的土地関係の近代市 民的土地関係への移行の複雑な過程を十全に把握することができなかった。

事態の把握のために彼が用意した論理は次のようなものであった。土地関係 への貨幣の浸透により, 土地領有権は次第に商品交換に適合して行き,遂 には,近代的市民的土地関係へと移行する。また,この土地関係の変化に伴 ぃ,身分的隷属関係も弛緩して行き,借地関係は身分制から契約制へと移行 する。この単純な論理構成においては,貨幣の浸透が,直ちに土地関係と地 代関係の近代化をもたらすことになるのである。

では,大上が旧満洲の土地関係の分析にあたり,その存在を強く主張する ( 1 9 ) 近代法上の財産権としての所有権については,川島武宜,「所有権法の理論」,昭 和

24

年に詳しい。近代法における所有権の特質は簡単に要約すれば,(

1

)硯代の 財産制度の基礎かつ中核であること.( 2 )全ての財産に対して第一次に成立する 支配権として; 客休に対するあらゆる支配を含めた全包括的権利であること,

(3)

その存在や内容が観念的・論理的に決定されること. の三点となる。 川島 武宜,「日本人の法意識」.昭和

42

年 ,

62‑71

頁 。

なお.ここで用いている「近代的土地所有」は,あくまでも法的意味における

それであって.経済的意味では,土地で行われている経営の経済的性格との関連

で別の規定をせねばならぬ。

(11)

大上末廣の満州経済論(鍛治) (

477)47 

「近代的市民的」土地所有とはいかなる内実をもつものであろうか。 大上 は,土地廃係の分析においては,その法的性格,即ち,国家との関連でみた 土地所有者の土地支配の形式に重点を置いている。従って, 「 近 代 的 市 民 的」土地所有とは,近代法上の所有権にもとづく土地支配を指すことにな る。大上が,旧満洲において,かかる意味での近代的市民的土地所有が既に 形成されていたと主張する根拠は一体何であろうか。

大上は,旧満洲においては,文字通りの意味での近代的市民的土地所有が 存在しえなかったことを一応は承認したうえで,なおかつ,土地法上の公法 私法分化論,即ち,土地にたいする領土権と所有権の明確な分化が存在して

(20) 

いたことを論拠として,近代的市民的土地所有の早期的形成を主張した。

民地にたいしては清朝政府により「徴税」が行われていたことについて,

大上は, 「かくの如き中央国家機関に上納する民地の租税は如何なる性質を もつものであるか,換言すれば,それは国家が人民に土地の所有権を賦与し た結果に基づく公法上の負担すなわち租税であるのか,それとも単に用益権

(21) 

のみが与えられていたことに対する報償すなわち地代であるのか」と問い,

民地の業主権者が負担する「租税」は前者であると断じている。旧満洲にお

ける民地の業主権は主体が個人ではなく家族共同体であり,民地は原則とし

て家族共同体の総有の形式をとるが,自由な売買は許されており,動員の自

由が存在した。 このことから大上は, 「旧満洲社会の民地が,家族共同体に

よって総括的に支配せらるること,換言すれば,自由に使用し,収益し,処

分しうることは……,民地の諸種の負担が,本質的には国家に対する小作料

(20) 

「旧満洲の土地形態と地代的形態」,満鉄調査月報,

13

4

号 ,

3

頁 。 板倉真

五 は , 大上に先立って公法私法分化の問題をとりあげ, 「斯くの如きは資本主義

経済の社会に於ける個人主義より派生せる純抽象理論であるに止まり……,前資

本主義経済の社会法に於ては,......,かかる観念的区分は本来不要であると共に

自休不可能で」あるとして, 満洲土地法の考察には何んら関連をもたぬと指摘

する。「満洲土地法論,第一巻」,昭和

7

年 ,

111

頁 。 なお,板倉は,民地や王公

荘園の業主権にかんして,その概念を「王の第一次的土地支配権を前提とし,之

が上に立つ王の許容による第二次的土地利用権」としている。同上,

103

頁 。

(21)

満鉄調査月報,

1

躇§4 号 ,

4

頁 。

(12)

48(478) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

関係ではなくして,明らかに土地の所有に基づく公法的な負担すなわち租税

(22) 

の関係であることを弁証する。」としている。民地にかんしては, 土地の動 員性=近代的市民的土地所有と考えていたのである。

官荘,王公荘園,旗地の身分制的土地では,旗丁による農奴的生産が行わ れており,封建地代の収取が存在した。しかし,大上は,これらの身分制的 土地にたいして,封建地代たる租とは別に,国庫に上納する租税たる性格を

(23) 

もつ賦即ち旗租が存在したと指摘する。さらに,身分制的領有者が旗丁をし て,原額地以外の荒地を開墾せしめて得た余地について,その所有権が本来 国家にありとせられ,開墾者は用益権のみ有し,それ故に用益の代償として

(24) 

地代(租)を納めねばならなかったと述べて, かかる旗租と余地租の存在 は,清朝国家によって租税(賦)と地代(租)との区分がなされていたこと,

換言すれば,身分制的土地においても土地にたいする公法私法分化が存在せ ることの証左であると主張する。加えて,これら身分制的土地が動員性(処

(25) 

分の自由)を有していた(旗地は旗民不交産例により民人への典売は禁ぜら れていたが,同例は事実上空文と化していた)ことから,清朝下における身 分制的土地形態の性質が「市民的自由」所有地たる民地に近い要素をもつも のとしている。

以上から明かなように,大上により,近代的市民的土地所有形成の論拠と されているのは,民地およぴ身分制的土地にたいする租税の存在と,これら の土地の動員性である。民地の負担=租税は処分の自由の存在から主張され ており,大上は,土地の動員性を直ちに土地所有の近代性市民性とみている としてもよかろう。民地の業主権や身分制的土地の領有権が売買され,抵当 とされることは,封建的土地関係が貨幣の浸透により商品交換にふさわしく 変化していることを示し, その限りで, 「近代化」されたと言うことができ

(22) 

同 上 ,

8

頁 。

(23)  (24) 

同上,

11‑15

頁 。

19

頁 。

19‑21

頁 。

(25) 

同 上 ,

18

頁。身分制的土地に自由な動員性が存することから,大上は,これら 身分制的土地の土地関係の基礎的特徴が,「封建的形態と近代的形態との結合に,

もっと厳密にいえば,封建的上衣をまとったに過ぎぬ所の近代市民的土地関係」

にあると主張する。同上,

47

頁 。

(13)

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(479)49 

る。近代的市民的土地所有は,言うまでもなく.,商品交換に最も適わしい土 地所有形態であるが,商品交換への適応の事実のみをもって近代的市民的土 地所有の成立を主張することはできない。近代法上の所有権は,客休にたい して一元的包括的な支配を行う権利であり,近代的市民的土地所有はかかる 所有権に立脚した土地所有として,その内容は処分の自由(土地の動員性)

に限られないからである。地代関係の性格を借地の法的形態でのみ規定する という形式性を別にしても,近代的市民的土地関係の成立を主張する大上の 論理そのものの中に欠陥が存在すると言えよう。

大上の旧満洲農業諸関係の分析における第二の特徴は,漢民族の流入によ る中国本部の社会経済廃係の移植を重視することである。とりわけ,商人・

高利貸資本の浸透に注目し,その作用によって旧満洲の「封建的」諸関係が 解体され,満洲社会が中国社会と同質化する,即ち「商業資本主義」社会と なるとしている。大上の中国社会論は官吏資本論として知られているが,そ の内容を簡単に検討しておこう。

大上は,中国社会の基本構成を「所謂商業資本主義の階梯にあるとみるの であり,又,その動きに於いては,この階梯から所謂近代資本主義のそれに

(26) 

向っての転換期に在ると考」えるが, 商業資本主義の成立期を宋代以降と し , かつその本質をなすものとして官吏資本を重視する。 官吏資本とは,

「官吏の手に集積せられて, 一定の独立形態を保つに至った資本を意味す

(27) 

る」が,主として土地に投下される。また,商人資本・高利貸資本とも荀合 し,中国社会に「三位一休的」地主制を発生せしめる。かかる官吏資本によ

(28) 

る支配が行われているのが中国社会の特質であったとするのである。

(26) 

「支那国民経済序説(上)」,経済論叢,

34

5

号,昭和

7

5

月 ,

77

頁 。

(27) 

同 上 ,

79

頁。なお,官吏資本という概念をもち出したのは大上であるが,中国

農村における搾取者たる官僚, という聡識は, 橘撲からの借物である。橘撲,

「中国社会の経済発達階段」,「中国研究,橘撲著作集第一巻」,昭和

41

年,この 論文は,昭和

5

2

月に「満鉄支那月誌」に発表された。橘はそこで,官僚資本 なる用語を用いているが,大上の「序説」の主内容は,橘の論文において全て説 かれている。

(28) 

「支那国民経済序説(下)」,経済論叢,

34

6

号,昭和

7

6

月 ,

100

頁 。

103

‑108

頁 。

(14)

50(480) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

大上の中国社会論たる官吏資本論がもつ特徴は,まず第一に,中国社会を 封建的諸関係の基本的に解体された社会と して把握していることである。と りわけ土地関係においては,封建的土地関係は完全に解体し,個人の土地私 有権(近代的所有権)が確立していたので,官吏資本は,この個人の土地私 有権を前提にして,近代的自由売買を通して土地を集中し,土地資本を形成 した。集中された土地では,自由契約に基づく小作制度が成立し,分益小作

(29) 

農の農業経営形態が普及したとしている。大上は,この自由契約小作制度の 成立を以って農業関係の「近代化」と見,中国における農業関係の封建的性 格を全面的に否定した。大上が

1

日満洲経済の分析において,商業資本・近代 的市民的土地所有・地代の近代化を短絡的に結ぴつけたのは,中国社会にか んするこのような認識に依拠したためである。

第二の特徴は,官吏資本(商業資本)の社会的機能として,資本主義的諸 関係の発展を阻碍するよりもむしろ促進する側面を重視したことである。

「官吏資本があらゆる生産部門にもぐり込んで華かなる活動を開始したこと は,一切の諸生産部門のみならず,爾余のあらゆる社会機構をして自己に隷 属せしむることとなり,全支那社会の経済組織をより高発展の段階へと押し

(30) 

すすめた」。即ち, 官吏資本の工業への投下により, 中国産業における問屋

(29) 

同 上 ,

100‑101

頁。このような見地からすれば,

l

土地私有の欠如」,「国家的 規模への土地集中」を主張する「アジア的土地所有」論は謬説として斥けられる ことになる。 「旧満洲の土地形態と地代形態」では,アジア的土地所有論の吟味 を行い,橘撲に依りつつ,羽仁五郎の所説に厳しい批判を加えている。満鉄調査 月報,

13

4

号 ,

27‑46

頁 。 なお, この時点では, 大上は,「アジア的生産様 式」にかんするマジャ

i

ールの見解にも,きわめて批判的であった。水利経済説に ついては,「支那に於ける水利経済ーーヴァルガを駁すー一」,経済論叢,

31

3

号,昭和

5

年9 月,において,当時マジャール派であったヴァルガの見解をとり あげ,根拠に欠けると否定している。ヴァルガ,「支那革命の諸根本問題」,大塚 金之助監修,「世界経済年報,第三輯」,昭和

4

年2 月をも参照せよ。水利経済 説批判における大上の基本的見地もまた,橘の主張とほぼ同一のものであること が,後の大上の論稿からも解る。 「支那農業の諸問題一~田中忠夫氏の近業紹介 批判ー一」,満洲評論,

9

16

号,昭和1

0

年1

0

月 ,

18‑19

頁 。

(30)

前掲「序説(下)」,1

09

頁 。

(15)

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(481)51 

工業ないし工場手工業が発展し,官吏資本の吸収により,全中国に金憩組織

(31) 

網が発展整備されたと指摘している。官吏資本により発展した「商業資本」

社会は産業資本社会の直前にまで到達していたのであり,その転化を行いえ なかった原因は,大上によれば,近代統一国家の形成とその重商政策が欠如

(32) 

していたことに求めうるのである。

以上にみた基本的特徴をもつ大上の見地にたいしては,多くの論者から批 判が加えられたが,それらはとりわけ,農業諸関係における封建的性格の軽

(33) 

視ないし否定に集中していた。柴三九男は,大上の公法私法分化論を詳細に 検討して,それが充分な説得的根拠をもたぬことを指摘し,清朝下の土地関 係の基本的性格がその法的特質からみても,近代的市民的土地所有とはいえ

(34) 

ぬとした。近藤康男は,地代の性格を決定するのは土地所有制度ではなく,

農業における生産関係であるとし,満洲における地代は,土地所有者が直接

(31) 

同上,

107

頁 。

(32) 

同上,

115

頁。この時点までは, 大上は, 中国における資本主義発展の可能性 をみとめ, 南京国民政府の統一政権への成長にも好意的であった。前掲「支那に 於ける水利経済」,452 頁

454

頁 。

(33) 

「清代の土地所有関係ー一満洲土地経済史よりの考察一」,歴史学研究,

12

6

号,昭和

9

10

月。柴の批判の論拠は,(

1

)官荘における「旗租」について

—租税と地代との法観念上の区分が清代には存在しない。大上は,この区分の 存在を「租」と「賦」という用語の区別から主張するが,用例上の定った区別は ないので, 「賦」が「租」の追加徴集とも考えられる。

(2)

旗地の旗租について ー旗地は本来免租が原則であるが,旗地の民地化が進行するのにたいし,それ を防止する意味から租を課した。 (3) 民地の業主権の性格について—動員性は

「用益権」の移転と考えることができる。また,業主権は,字義からして,所有 権とみなし難い。以上からみて,公法私法未分化と考える方がより妥当であると いうものである。

(34) 

「満洲経済の封建性について」,農業経済研究,

10

1

号,昭和

9

1

月。近

藤は,清末民国初の土地変革によって,士地所有関係は基本的に近代化されたと

みている。彼の見地は,小作関係は,もちろん資本主義的ではないが,同時に決

して封建的でもなく,後者より前者への過渡期における過小盟制の下に行われる

関係であると規定した, 日本の小作料論における櫛田民蔵の見地に近いものであ

る 。

(16)

52(482) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

に農民から搾取する高率地代であって,封建的性格をもつと指摘した。さら

(35) 

に,鈴木小兵衛は,官吏資本の蓄積源泉は封建的土地関係に依存すること,

土地の移動は封建的土地所有と矛盾せず,また土地における生産関係を改変 せぬことから,官吏資本は封建的農業諸関係を維持強化し,中国社会の停滞 性の一因をなすと主張したのである。

大上の満洲社会経済構成論はこれらの批判的諸論稿が発表される以前に,

既に漸次的変化を遂げ始めていた。彼は,昭和 7 年末より『満洲評論』誌上 に数多くの論説を発表しているが,そこにおける満洲社会経済構成への言及 を拾い上げることにより,この変化の過程を追跡しよう。

1

日満洲の土地形態と地代形態」の直後にあたる昭和

8

5

月の「満洲統

(36) 

制経済の動向」では,満洲経済を「その階梯からみれば,特殊な構造をもつ 商業資本の上に築かれている」と規定している。この点では全く変化がない ようであるが,満洲国の労働者農民は「近代的プロレタリアートではなく,

半封建的農業生産とギルド統制下にある手工業労働者である」と指摘し,満 洲経済の封建制にも注目している。しかし,諭説の主対象が経済統制の主体 如何にあるため,封建制についてのより立入った考察を行ってはいない。さ

らに,満洲経済がその主要構造たる商業資本の階梯から産業資本へ発展する ことを妨げた原因を専ら対外要因(満洲経済が「世界経済構造」と結合され たこと)によって説明している。

(35) 

「官僚資本の一考察」,「満洲の農業機構」,昭和1

01

月,に所収。

鈴木は,中国における封建的土地所有の存在を主張するが,(

1

)土地所有関係 に強く規定される直接生産者,(

2

)この事態を生ぜしめている農業経営の経済的 性格,という二つの面の相互関係との関連で封建的土地所有を考えようとする見 地をもつ。いずれにせよ,大上の「封建的性格」否定論を批判したのは,いわゆ る「講座派」の見地に立つ人ではなかった。

(36) 

満洲評論,

420

号,昭和

85

月 。

(17)

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(483)53 

満洲経済における封建的諸関係の存在を正面から取上げて論ずるのは,昭

(37) 

8

12

月の「満洲経済の一般的様相とその特質」においてが最初である。

ここでも, 「旧満洲国民経済の尤大な一般的基礎をなすものは, 封建制から 近代制への過渡的段階に於ける前資本主義的構成」とする点では変わりがな いが,より具体的内容が与えられて,清末における満洲経済の基本構成は

「厳密なる意味に於けるマヌファクツールの段階」にあったとする。即ち,

清朝下での満洲農業の「本来的休制」たる土地諸関係が商人・高利貸資本に より解体され,土地は動員されて荘頭や官僚資本の手に集中した。他方,エ 業ではマヌファクツール生産が開始され,その補助者として資本家的家庭労 働が「各地に弥蔓して」いたとする。大上によれば, 「厳マニュ段階」にあ った満洲社会経済構成がその発展を封殺された主因は辛亥革命に伴う諸変革 求められうるのである。民国初における土地改正と地租改革は結局,土地の 商人・荘頭・官吏への集中を強めただけであり, 彼らは, 「いづれも資本家 的経営をその土地に起したのではなく,清朝時代の農奴生産関係を永租の形 態でそのまま移植したに過ぎないか,或いは,現象的には分益小作に似た形 態をとったところの一ーだが本質的には栽培植民制に於ける半農奴的生産関 係を新たに起す」にすぎなかった。封建的農業関係のかかる再編成により,

発芽状態にあったマヌファクッ;.‑

I

レもそのまま固定萎縮させられ,満洲経済

(37) 

同 ,

5

23

号,昭和

8

12

月,関戸千廣名。服部之総が, 「維新史方法上の諸 問題—旧著に対する自己批判に併せて」の第二回として,「「厳密な意味での マニュファクチュア時代」と「アジア的生産様式の問題

JJ

を「歴史科学」に掲 載したのは,昭和

8

5

月のことである。大上は,たしかに,服部の論文から影 轡をうけてはいる。しかし,服部が重視した,賃労働の形成や農民層分解の問題 を,大上は全く理解しえていない。

また,山田盛太郎,「日本資本主義分析」は昭和

9

年2 月に刊行されている。日

本資本主義論争の展開と大上の理論的変化の過程はほぼ平行して進んでいるので

あり,大上が「講座派」の諸見解から大きな影響をうけたことは間遮いないと思

われる。しかし,講座派は,大きなワクでくくられた諸理論の集合体であり,そ

の内部には多様な見解が共存している。また,大上による講座派的見解の吸収に

は,彼の理解の主観性がつねにつきまとっている。大上における講座派の影響の

検討には,これらの点について十分考慮が払わねばならない。

(18)

54(484) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

は停滞することになる。この見地はさらに具体化され,昭和

9

2,

3 月の

(38) 

「暴風雨下に於ける満洲農業の道」では,民国初における諸変革の不徹底を もたらした原因がブルジョア的発展の不完全さ,即ち,マヌファクツールの 種類と性質の不完全さにあったと主張する。即ち,清朝封建制の解体過程に おいて,産業の「ブルジョア的発展」は,既にマヌファクツールを発生せし めていたが,消費財生産部門に比して,生産財生産部門が著しく立遅れてい たこと,また民営マヌファクツールと並んで官営マヌファクツールが存在し ていたことは,工業における「プルジョア的発展」が封建制の下で著しく崎 形化していたことを示すものであり,それ故にまた,民国初の「ブルジョア 的変革」が不徹底たらざるをえなかったと指摘している。

農業諸関係は,大上にあっては,外部の変化の結果として外部の力により 変形されるにすぎないものという見方でしか把えられていない。しかも,農 業関係の考察において重要視されるのはつねに土地所有関係である。農業生 産関係,土地の上での農業経営の経済的性格の問題は当面全く無視され,土 地所有関係の変化のあとに,予め与えられたものとして新たな土地所有関係 と結び合わされる。農業生産関係の変化の有無を分析し,それとの係わりで 土地変革の方向や性質を解明するという方法は,大上には遂に欠如したまま であった。農業生産関係は,大上にとっては,つねに一定の状態を保持しつ つ存在すると想定する対象にすぎぬ。とはいえ,この想定された<一定の状 態>も変容を遂げた。「旧満洲の土地形態と地代形態」では, 土地関係の変 化に伴って自動的に変化するとされたのに,この時点では,土地関係の変化 とは全く無閲連につねに同一の性格を保持するとされるのである。 それ故 に,清朝下の農奴的生産関係は全く変化せず存続し,民国初の士地改正に伴 い,近代的所有権による土地所有のもとに,契約による農奴的=隷農的生産 関係として再絹成されることになるのである。しかし,この決定的ともいえ る弱点を含みつつも,大上の満洲経済「封建制」論は一応の確立をみ,先に

(38)  (1),(2),(3)

,満洲評論,

6

8• 10 • 11

号,昭和

9

2• 3

月,関戸千廣名。マ.

ヌファクツールの崎形性について論じたのは,(

2), 18‑21

頁 。

(19)

大上末廣の満州経済論(鍛治)

(485)55 

(39)

紹介した批判者たちの立場に次第に近ついていったのである。

満洲経済の「封建性」の承認とともに,大上は,農業における「封建的」

諸関係の支配と結びついて,満洲農業に固有な二つの特徴が現われることを 重視する。「封建的」搾取は, 旧東北政権の政治的収奪によりさらに加重さ れ,広汎に存在する零細農耕から発展の可能性を奪い去り,満洲農業を「ア ジア的に遅れた」低い技術水準に固定する。さらに,かかる低い技術水準に 停滞する満洲農業が,国際分業の作用に直接さらされることによって,植民 地型農業の因子即ち単一耕作的性格をもつようになるとして,この単一耕作 的性格が満洲においては,大豆を中心とする「大豆,高梁,栗の三者」の輸

(40) 

作 と し て そ の 姿 を 具 現 す る と 主 張 す る の で あ る 。 低 度 の 農 業 技 術 と 植 民 地 性が,かくして,満洲農業の不可分離の特質とされるようになり,昭和 9 年 7月の「農業恐慌と満洲農業社会の展望」では,満洲農業の麟礎構造が「封 建制」と「植民地型」の不可分離の結合にあるという,爾後における大上の 基本的見地が確立することになる。

大上の満洲経済「封建制」論はこれに留まることなく.,批判者達の見地を

(39) 

満洲経済における「封建的」諸関係の支配について,大上の見解が体系的にま とめられたのは,前掲「東亜」論文においてである。野原四郎ぱ, [大上氏の所 説はこれら種々の批判を浴びて, 「満洲経済史の諸問題」によき帰結を得たよう である。」と指摘している。「学界動向」,歴史学研究,

5

1

号,昭和

io

11

月 ,

342‑343

頁 。

(40) 

昭和

9

年前半の諸論稿ではとくに,満洲農業の零細性と植民地性が強調される ようになる。前掲「暴風雨下に於ける渦洲農業の道」。「「満洲国各県視察報告」

を読む」,満洲評論,

6

巻1

2

号 ,

3

月。「王国の試案=満洲棉花会社」,同,

6

22

号 ,

6

月,関戸千廣名。「農業恐慌と満洲農業社会の展望」,同,

7

1

号 ,

月,閲戸千廣名,など。大上は,大豆を中心とする輸作が地力維持をもたらすこ

とに注目し,畦作と輪作とが,零細農耕での限界的な生産力を実硯し,それによ

っ て , 零細農は過重な負担を支えることができたと指摘する。「股業恐慌と満洲

農業社会の展望」,22‑23 頁。それ故に, 作物転換政策は, 旧来の滴洲農業社会

を安定せしめた唯一の自然的=技術的基礎の破壊を意味する。大上にとって,大

豆を中心とする輪作は, 「単一耕作」的性格をもちつつも, なお合理的根拠にた

つものであったが,棉花あるいは小麦作への転換は容認しえなかったのである。

(20)

56(486) 

大上末廣の満州経済論(鍛治)

超えて,さらに極端な形へと進んで行く。昭和

10

年 4月の「春耕資金貸付停

(41) 

止について」では,「ここにいう二十哨以下の小所有者は, 所謂自作農に当 るわけであるが,北満に於いても南満に於いても,満洲には独立した範疇と しての自作農なるものは存在しない。」と断定する。 また,

10

6

月「東満

(42) 

農村の旭機と張内閣の対策批判」では,東満農村に広く行われていた小作様 式である「活租」又は「分種」と呼ばれるものにふれ,これらが分益小作の 範疇に属するものではなく,本質的には揺役小作が形態変化したものにすぎ ないと主張する。したがって,東満農村にかんしてしばしば指摘される富農 化傾向についても,被傭者はこの「活租」と密接な関連をもつものとされ,

「生産関係の根底を制約するものは,比較的大規模な定雇をもつ隷農主的土 地所有」である以上は,富農化=経営における資本主義的性格の発生は一切 起りえぬとして否定されることになる。

農業において,資本主義的諸関係が存在する可能性を全く否定する見地 が,より明瞭となるのは,

10

7

月の「満洲農業恐慌の現段階と農村実態調

(43) 

査」においてである。大上は,満洲農業の基礎が「土地所有関係の盈固な封 建的構造」にあるとし,高率地代=地租を可能にする条件が,小作農は地主 との直接の関係で,自作農は国家との関係で零細なる土地に緊縛されている

(41) 

満洲評論

8

17

号,昭和1

0

年4 月,船岡名。

(42) 

同 ,

8

24

号,咀和1

0

6

月,船岡名。

(43) 

同 ,

9

3

号,昭和1

0

年7 月。大同学院第三期生, 「満洲国郷村社会実態調査 抄」から大上が引用した,黒朧江省の一屯の基本構成は次のようであった。地主

1

(480

繭所有), 自作・自小作各

1

戸(計5

0

繭所有),小作

6

戸,共同小作

18

戸,炊事夫・牧童・門番他

5

戸,合計3

2

戸 。 「青伶」と呼ばれる共同小作人に は二種類ある。即ち,(

1),

地主の家に居住して,食物も供給され,完全にそこで 養われているもの。

(2)

,独立家屋に住み,農耕期間のみ土地に緊縛されるもの,

の二種である。大上は,このことから,年エー~青伶(1)~ 青伶(2) 一→小作へと

発展すると把握している。同上,

21‑22

頁。共同小作人が,大上の指摘するよう

に,小作への過渡的形態であるのか,それとも「隷農制」のもとでの賃労働の特

殊な形態であるのかは,北満の農村社会構成の具休的な分析によってしか明らか

にできない。しかし,後の「南満・北満型論争」においては,大上・中西いずれ

の側でも,ア・プリオリに一方の可能性のみを前提にして,自らの主張を構成す

る誤りに陥っている。

(21)

大上末廣の満州経済論(鍛治) (

487)57 

ことにあると指摘する。そして,満洲農村の封建的構成の地域的三類型を提 示したのち,北満の一屯を例に,その基本的社会構成を検討しているが,大 上がとくに注目しているのは「共同小作人」と「定雇をもつ小作人」であ る。「共同小作人」は「地主所有の土地に於いて, 地主所有の農具・役畜・

種子をもって耕作に従事する生産者である。即ち,彼は全く地主経営の内部 に吸収されているのであって,なんら独立的生産者ではない」から分益小作 といえない。また,地主所有地に緊縛されている点からみて,自由な労働者 でもありえないとして,「隷農的定雇」と定義する。 さらに, かかる「隷農 的定雇」を麗傭する「小作人」の存在についても,地主にたいする関係から みて封建的隷農であり, 富農ではありえないとする。大上によれば,「共同 小作人」「定雇をもつ小作人」のいずれも資本主義的諸関係の発生とは全く 無緑のものであることになる。

農業における資本主義的諸関係の存在可能性を一切みとめぬという見地か

(44) 

ら,逆に大上は,鈴木小兵衛の「封建制」論が不徹底であると批判を加え る。大上によれば,満洲農業の「基礎範疇」が半封建制的・半農奴制的諸関 係(即ち,零細農耕・零細農を「本質的に規定し基礎づけている高率硯物地 代」の存在)であると考える点では一致しているが,鈴木が満洲農村におけ る階級分化を重視し,農業被傭者を析出せんと努めるのにたいしては,被傭 者を「自由なる労働者」と前提するのみで,その社会的性格についての具休 的規定に欠けているという批判をもたざるをえぬのである。大上は,鈴木の この「欠点」が土地所有関係の分析の不足と, 「半封建」の制約者たる「半 植民地性」把握の欠如にあるとしている。さらに,大上は,北満における商 品作物の発達はその経済発展の進歩性を示すものであるとの鈴木の見解にふ れて,「半植民地性」と結びつけて考えることにより, 逆に退歩性を示すも のと把握することができるとし,後の南満・北満型論争へつながる論点を提 示している。

(44)

「鈴木小兵衛氏著「満洲の農業機構」に就いて」,満洲評論,

8

17

号,昭和

10

年 4月 。

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