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書第82号

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平成元年1月

図書館報附録

第82号 奈良教育大学附属図書館

創立百周年に想う

辰  巳  文  一

本学が、明治21年11月奈良県尋常師範学校として 開校以来100年が経過し、昨年11月18日盛大な奈良 教育大学創立百周年記念式典が、講堂で催された。

この講堂の建設が行われようとした折、県教育委 員会文化財保存課から文書が届いた。それは、大学 内に今も残る吉備塚(吉備真備の塚といい、ここに 生える教本のクヌギの木にまつわる伝説がある)に 関係した塚跡が、塚周辺にいくつも在り、講堂の場 所もまたこの遺跡に当たるのではないかといったこ とであった。やがて、文化財保存課によって試掘が 行われ、遺跡に当たれば建設が延びることにもなり 気をもませたが、難無きを得た。これによって講堂 建設がすすめられ、今日のように落成をみたのであ る。

この大学内や大学をとりまく周辺の地(奈良市の 行政区画のうえで、飛鳥地区といわれている)は、

歴史的な風土として、数多くの遺跡や伝説が今も残 されている。

それを大学周辺の町からひろってみても

・ 僧玄肪の頭を埋めたといい伝えられる頭塔と、

その石仏

・藤原氏、吉備氏、安倍氏の境界を示した境界石

ではないか、ともいわれる「破石」のある破石町

・ 新薬師寺の金堂や講堂などがあったといわれる 本薬師町

・ 清水に関係した上清水町、中清水町、下清水町 と、列挙するといくらでもあげられる。

昔から、清水町から高畑、破石へのゆるやかな坂 道であるこの通りは、柳生街道と呼ばれ、さらに福 井、市之井そして円坂、滝坂から峠の茶屋を経て誓

多林、忍辱山を通り柳生へと通じていた。

幼少の頃は、清水町で魚や金物や衣料などを買っ て、柳生や東山中へ帰っていく人々によく出合った ものである。今もこの街道には、往時の旅籠屋が残 っている。

大学の辺りも含めて、この柳生街道の通るゆるや かに広がる土地は、この土地が台地となって奈良盆 地を一望できる高台であることから、昔から高爛

(高畠)と呼ばれていた。.

この高畑に、大正から昭和にかけて文学者の志賀 直哉(大正14年奈良に移ってきて、まず幸町に住む)

や画家の足立源一郎(大正8年から昭和2年まで、

高畑に住む)、浜田夜光(大正5年から高畑に住む)、

山下繁雄(大正6年から奈良に住む)、小野藤一郎

(大正15年高畑に住む)、中村義夫(昭和3年足立源 一郎のアトリェを買い高畑に移る)らが居を構え、

県内は言うまでもなく、全国から文学者や画家など が訪れて、近代文化史上のうえで華が咲いた。

志賀直哉は、当時著書『早春』のなかで「奈良は 美しい所だ。自然が美しく、残っている建物も美し い。そしてこの二つが互いにとけあっている点は、

他に比をみないといってさしつかえない」と書いて いる。

私の小学生の頃、浜田夜光が飛火野でフランス型 のイーゼルを立て油絵を描いていた姿が、未だ脳裏 に残っている。また、私が、昭和37年奈良市教育委 員会指導主事として奈良市教育委員会へ勤めた時、

(2)

ー2−

浜田夜光の夫人である浜田静枝氏が、奈良市教育委 員をしておられた。丁度この年に、私の作品が日展 に初入選をしたが、このことを浜田静枝氏が知り、

氏が中心となって入選祝いの会を開いて下さったこ とが思い出される。

大学の近くに奈良市立飛鳥小学校(明治6年7月 元興寺極楽院の禅室(現在国宝)を借用して創設)

が在るが、こうした芸術の番高い風土の中に位置す る小学校として、昭和10年落成した新しい図画室は、

アトリエ式で北側の屋根がガラスとなっており、こ の天井からの採光を自由に調節できる装置が設置さ れていた。さらに、昭和12年には、新しい手工教室 が完成したが、図画室もあるこの校舎は、二階への 階段がスロープとなっており、この当時としては全 国的にも漸新な設備の整った校舎であった。

大学が未だ登大路町に在った頃、図画室の改造が あり、この時飛鳥小学校の図画室の設備をモデルに

して、改造が行われた。

また、飛鳥小学校では、その頃全国に先駆けて

「森の学校」や「初等教育研究会」などの教育に関 係した活動が行われている。(飛鳥小学校は、本年 で創立116年を迎える)

平城(なら)に都があった噴、大学や飛鳥小学校 のある飛鳥地区一帯は、「ならの飛鳥」と呼ばれて いた。これは、明日香から都が平城(なら)に移る について、明日香に在った飛鳥寺がこちらに移り、

寺名も元興寺となったが、「明日香の飛鳥(寺)」に 対して元興寺の辺りを「平城(なら)の飛鳥」と呼 ばれたのである。このことは、万葉集巻六に大伴坂 上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が、「ふ るさとの飛鳥はあれど青丹よしならの飛鳥をみらく

しよしも」と、うたっていることによっても知るこ とができる。飛鳥地区や飛鳥小学校の校名もまたこ れに起因している。

この飛鳥小学校の講堂が、昭和9年(1934)室

戸台風のため倒壊した。台風が来ても倒れない講堂 を建てようという校区の人達の原貞いによって、その 当時としては珍らしい鉄筋の講堂が、昭和11年(1936)

落成した。この講堂は、現在も残って教育活動に活 用されているが、飛鳥地区の人達の子弟への教育熱 の高さをうかがい知ることが出来る。

飛鳥地区というと、奈良公園、猿沢池畔なども含 まれているが、この地区内には奈良らしい風物が、

いたるところに点在している。

大学近くにある飛火野一帯には、五月の藤の咲く 頓ともなると、全国から画家がおとづれ美しく咲い た野生の藤を描く姿が見られ、その他四季とりどり の画材が、各所に見られる。

このように創立百周年を迎えた奈良教育大学とこ れを取りまく周辺の地は、教育と文化財と芸術の香 高い風土の中につつまれている。

文 書 管 理

北  川  尚  史 今年は落ちつかない日々を送った。柄にもなく市 民運動にかかわって、30年来、ルーティン化してい た研究生活が大いに乱れたせいもある。しかし、も っと大きな原因は長らく保存していた種々の文書を 焼いてしまったことにある。過去の記録を失ったた めに糸が切れた凧にでもなったような覚束ない感覚 があり、いつもふわふわしていた。机の前に座って いても落ちつかず、すぐに席を立ち、のどが渇いて いるわけでもないのに、がぶがぶとお茶を飲み、頻 繁にトイレに通った。人が訪ねてくると、忙しい最 中にも引き止めて長話をする。夏の暑い目には涼を とるため廊下に出て仔み、通りがかりの人にいちい ち挨拶するのであった。あれもこれも、あのボスタ

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−のせいである。

ちょうど1年前の昨年末、事務棟の掲示板に人目 を引く大きなポスターが貼ってあった。頬杖をつい て思案顔の若い女性がこちらを見つめており、そば に「まず捨てることかしら? それが文書管理の第 一歩です」というキャプションがあった。どうやら、

文書管理改善週間とやらで、総務庁が国の各機関に 送ったものらしい。

「まず捨てることが文書管理の第一歩である」と はどういう意味であろうか。第一歩でまず捨ててし まった文書を 第二歩 では、いったい、どうする のであろうか。まさか、いったん捨てた文書をまた 拾ってくるのではあるまい。だいたい、このポスタ

ー自身も文書なので、その指示に忠実に従うならば、

まず捨てなければならない。庶務課はこのポスター を受け取ったらすぐに捨てて、掲示をしてはならな

いはずである。

もちろん、その真意は、文書を文字通り まず捨 てる のではなく、用が済んだらすぐに捨てよとい うことである。情報量が加速的に増大し、事務の仕 事がますます忙しくなったが、行政改革による定員 削減を克服して事務処理の効率化を図るために、不 要の文書はさっさと処分せよと言っているのだ。ま た、国の機関に係わる文書を不用意にとっておいて 部外者の目に触れる危険を避けよと暗に言っている のかもしれない。企業の広告のような派手なデザイ

ンは、その暗い意図を宥晦するためのカモフラージ ュかもしれない。チラッと見て通りすぎればよいの に、キャプションに妙にこだわり、この1枚のポス ターに深入りしたため多くの資料を焼却するハメに なった。

分類学にたずさわる者は一般に物を集めずにはい られないという悲しい性癖をもっている。枚挙や網 羅の志向が強く、なんでもかんでも集めようとする。

いま役に立たなくても、将来、貴重な資料になるか

もしれないと、ちょっとしたビラの類までも捨てが たいのである。その結果、身辺には実にさまざまな 資料 が山積みになり、その整理に寧日がないと いったことになる。そして、その集めた物を早く活 用しなければならないと焦燥感に苛まされる。いっ も頑に鍋を被ったような圧迫感がある。資料の重圧 にひしがれて精神は疲弊している。

私と同様に植物分類学を専攻する大阪市立大学の K先生も悲惨な状況にある。はじめて、大学へ同先 生を訪ねたとき、研究室の狭さに驚いた。部屋の面 積の大部分は標本棚や書棚に占められ、その上にも ブリキの缶や段ボール箱が天井に届くほどに積み上 げられている。部屋は雑多な植物の資料や文献で満 ちあふれ、二人が椅子に座わるだけのスペースさえ

もない。そのため、標本棚の問の狭い通路で向かい 合ってしゃがみ、古代ギリシャの哲人の対話のよう に、互いに 曙鋸の姿勢 で話し合い、二人の問の 床を黒板代わりに使うのであった(この窮状はさす がに周囲の人たちの同情を引いたのであろう、その 後、研究室は少し広くなった)。

カワウソ(裾)は獲った魚を並べて興じるという 習性があり、その状況を据祭(だっさい)という。

転じて、詩文や論文などを書くとき、参考にすべき 文献を身辺に広げ散らかすことを据祭という。正岡 子規は、この性癖が強かったようで、自分の住居を 裾祭書屋と呼び、自らを媚祭書屋主人と号した。私 もいっも盛大な据祭を行っている。研究室の机の上 は多くの文献や標本で雑然としている。仕事が終わ れば、それらを元のところに戻さなければならない が、それが十全には行われない。いったんどこかに 紛れこんだ植物の標本や論文の別刷を探し出すのは 大仕事であり、探し物に明け暮れることになる。自 分の研究生活の大半は探し物に費やされているので はないかとさえ思う。

要するに資料が多すぎるのである。整然と管理し、

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ー4−

すぐに利用できる限度を越えて多量に存在するのだ。

資料は利用するためではなく、探すために存在する といった状況なのである。日毎に裾祭を演じ、日毎 に整理し、日毎に紛失し、日毎に探し物をするので ある。まったく、賽の河原の石積みであり、シジフ ォスの業苦である。

ウイリアム・オッカムは「存在は必要を越えて増 加してはならない」と忠告している。この先哲の教 えに反して、一生かかっても消化しきれない資料を 抱え、それを探し出すのに毎日、多大の時間と労力 を費やしている。なんとかしなければならないと思 っていたときに、件のポスターを見た。そうだ、総 務庁の指示に従って、文書は〃まず捨てよう 、自 分の研究に直接、関係のない文書は焼いてしまおう

と考えた。専門分野の文献や標本だけでも手に負え ない状況にあるので、それ以外の資料はできるだけ 処分しようと決心した。必要を越えた存在を オッ カムの剃刀 で剃り落として身辺の整理をしよう、

そして、すっきりした人生を送ろうと、まなじりを 決してその仕事に取りかかった。昨年の御用納めの

白であった。

さきほどから資料、資料と、さも重要な文書のよ うに言っているが、たいした代物ではない。たいて いの人が意に留めないで捨てているものであるが、

蒐集と保存のマニアにとって、それらを自発的に捨 てるには、それこそ清水の舞台から飛び下りるよう な決断を必要とするのだ。いいか、捨てるぞ、後悔 するなよと、いちいち自分に言い聞かせなければな

らないのである。

学報、学生部広報、学生便覧、教職員組合ニュー ス、事務の各部局や諸委員会から出た冊子など、長 年の間に溜まったさまざまな文書を、後ろ髪を引か れる思いで焼却した。オットー・ケルツ、ユンク、

クリプト、ジャン・ジェラール・ルッソ一、ハフナ 一、ウェノレドン・アンド・ウィズレイ、井上書店、

考古堂など、古本屋のたくさんのカタログを焼いて しまった。学生時代から買い溜めた植物学関係の本 は、現在の市価で売れば小さな家が建つほどの金額 になるが、それらを買ったときの一つひとつの思い 出は去った。自分の研究の軌跡であり、その成長を 示す資料として保存していた、学生時代からの論文 の草稿も焼いた。どの1編もごてごてと書き入れた り消したり、朱を入れたりした、悪戦苦闘の跡を示 す原稿である。赴任して以来の学生の成績帳も捨て た。私の授業を受けて単位をとった(または落とし た)たくさんの学生たちの名前はすべて消え失せた。

学会や植物採集の旅先で得た地図やらノ1ンフレット やらの資料も焼いてしまった。どこへ行き、何を見 たのか、それを思い出すよすがはなくなってしまっ た。段ボール箱に幾杯もの資料を焼くために、カー

ッと興奮して何度も焼却炉へ通った。

過去の記録を保存する自分の性癖は、どうやら記 憶力の貧しさにも関係しているようである。物覚え が極端に悪く、頑の中に残らないので、無意識のう ちに、資料によって過去を繋ぎとめておこうとして いたのである。文書を焼却した後で、そのことに気 づいたが後の祭りである。いまや、自分の過去は茫 々として空しい。過去の事柄、特に2〔歳以後の事柄 はほとんど何も覚えておらず、また、それを思い出 す多くの手掛かりを失ってしまったからである。

手に余る資料の山を前にして苛立った日々を送る 方がよいのであろうか。それとも、それを失って魂 が抜けたような虚脱の日々を送る方がよいのであろ うか。来年も 後遺症 が続いて、そわそわして落 ちつかず、むやみにお茶を飲むのであろうか。意味 もなく窓から首を出して、ぼんやりと外を眺めたり するのであろうか。

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ガンと2度

闘うことになって

山  脇 与 平 誰でもがこれだけにはかかりたくないと思ってい るガンに、私は二度もかかってしまった。よほどガ

ンに好かれる身と思われる。

一度目は昭和55年10月20日に肺癌を手術している。

二度目は今年(昭和63年)の7月8日に直腸癌を手 術した。7月1日に緊急入院して急いで手術して下 さった。大腸鏡検査で直腸癌がかなり大きくなって いたからだった。

医者に見て貰うのが遅れてしまったのがいけなか った。

今、毎食後に「これを飲まなければ今度は助から ない」と強制的に抗癌剤を飲むよう渡されている。

しかし、その効果に疑問があると週間誌などに出た り、胃がおかしくなる副作用なども気になって、今 度は胃癌になりはしないかと心配になって、あまり 飲んでいない。

その代り、丸山ワクチンを隔日に射つことにした。

私は丸山ワクチンをかなり信用している。それは一 度目の肺癌のときの体験からだ。

肺癌のときは医者の誤診続きでとても不安だった。

はじめに肺癌ではないかと自分で疑いだしたのは、昭 和54年の暮近くからであった。煙草も吸わない小生 が風邪も引いていないのに、胸の奥の方から深い空 咳が出てやまなくなった。家内が肺癌ではないかと 疑いはじめ、私もそう思いはじめた。その内に体重 が減りだして、いくら食べても減少が止まらなくな

った。

年明けて2月にある大病院で診て貰ったが「風邪 の治りかけで心配ない。」と言われ、納得できないま

ま不安に思いっつ過ごしていたが、再度5月に強く 訴えてレントゲンと血沈の検査をして貰った。血沈

は1時間に60ほどで、レントゲンには百円硬貨はど の陰影がうつった。医師はこれを指さしながら「毎 週レントゲンをとって変化の様子を見ましょう。」と 言われた。

この検査でもう肺癌に間違いないと思った私は、

翌日に国立がんセンターで診て貰った。

しかし、「あーこれは肺癌ではない。知らないう ちに結核にかかって治った跡だ。」とのこと。体重減 少と体のだるさを訴えたら「ちゃんと食事とってい るのか。君の年ぐらいになれば誰でも少しはだるい もんだ。」とけんもほろろの応対に、絶望して帰った 私は、納得いかないで一層不安がつのる毎日になっ てしまった。そこへ家内が『専間別全国名医と病院 ガイド』という本を買ってきて、ついに「肺癌診断 では日本の第一人者」とある東京医大病院の於保教 授をみつけた。

早速と7月30日に診断して頂いた結果、気管支鏡 検査をして下さることになってホッとした。ただし 順番待ちで8月20日とのこと、不安な長い日時を過 すことになった。その間、「小生はもし肺癌と宣告 されれば益々闘病心が湧く男です。もしその時は必 ず宣告して下さるよう……」馴れない毛筆で於保教 授当てに手紙を出した。8月28日いよいよ結果が分 る日、間違いなく肺癌だろうと覚悟していた私に、

「君の考えている通りの肺癌だ。すぐ手術しなけれ ばいけない。帰りに入院手続きをしていくよう」言 われ、覚悟していたものの、さすがショクだった。

自分で疑い始めてからすでに9ケ月ほども経ち、

体重は15k9も減少し、なおも不気味に滅り続けてい た。

私はすぐ丸山ワクチンを射っことにした。すると 頑固に減り続けていた体重がピタッと止まり、その 内に3k9増加した。「これは間違いなく、癌が暴れ

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−6−

るのを丸山ワクチンがおさえはじめたのだ」と思え て、益々闘病心が湧いてきた。そこで入院待ちの問、

誤診した二つの病院へ入院して気管支鏡検査をして 貰った結果、やっぱり「間違いなく肺癌です。申訳 なかった。」と言われた。肺癌との複数の診断結果で 益々確信?をもって東京医大の入院を待って手術を 受けたのが、前記したように10月20日であった。自 分で疑い始めてから11ケ月近くも経ってしまってい た。

退院してから早速と丸山ワクチンを隔日に射ち続 けた。そして5年間生きのびたところで、もう大丈 夫ということで射っ回数を一週間おきにし、それも

さぼりがちになっていた。

今から考えれば、5年経ってもずっと2〜3日置 きに射っていたなら、あるいは今度の癌にかからずに 済んだかも、と残念に思われたが、後の祭だった。

今は転移のことが毎日頭から離れられなくなった。

隔日に丸山ワクチンを射って何とか転移がおこらな いよう祈りつつ頑張っているのだが。

二度のガンの経験から一言言わして貰えば、体調 に変調があらわれたら、すぐ医師に診て貰うことで 手遅れにならないようにすること、また医師の診断 に納得がいかなかったら、納得がいくまで何度医師

(病院)を変えても診て貰うこと、などを痛感して いる。特に後者のことを私がしていなかったら、一 度目の肺癌のときにあの世へ行っていただろうと思 うと今でもゾッとする。今度の癌のときは前者のこ とを怠ったために転移の恐れが強くなってしまった が、生きていてこその人生である。何とか少しでも 生きのびたい気持で一杯である。

二つの楽器のこと

川  上  文  雄 わたしの部屋にはヴァイオリンとヴィオラがある。

ヴァイオリンは高校生になったときに買ってもらっ たものである。アメリカ留学の二年目の1983年に 結婚することになり、日本からやってくる妻にこれ を持ってきてもらい、夏休みなど時間の余裕がある ときに演奏していた時どに、わたしの生活の一部に なっていた。ヴィオラは留学して間もなくの1982 年の秋に手に入れたものである。勉強ばかりのわび

しい生活のなかで、なにか慰みをと思い、今まで手 にしたことのない楽器にきめたのであった。どちら の楽器もすでに四年も手にしていない。弦は切れた まま、弓の毛は白さを失っている。

ヴァイオリンを習いはじめたのは、小学校二年生 の頓であった。二年ほど習っていると、わたしたち は引っ越しすることになった。母は新しい土地で適 当な先生をみつけることができなかったのか、わた しが習う気をなくしたのか、ここでいったんヴァイ オリンとの付き合いがなくなった。この楽器をふた たび手にするのは、高校一年生のときである。この ことの伏線には中学三年生の秋のある出来事があっ た。

わたしがひそかに好きだった女生徒(M.I.)が 文化祭でショパンの「幻想即興曲」(ピアノ)を演 奏した。これはわたしにとって初めての音楽的経験 であった。わたしはそのとき、M.I.と同じ世界の 人間になるために、音楽を愛するようにならなくて はならないと決めた。わたしはまず、小さな蓄音機

(野外でフォークダンスをするときに使うような)

と数枚のレコードを買った。やがて、高校に行くよ うになったら、ヴァイオリンをまた習おうという決

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心をした。

第一回のレッスンは悲惨であった。わたしは、弓 の正しい持ち方を忘れてしまっていた。そのうえ、

ヴァイオリンの本体を肩とあごではさむのが苦痛で 貧血を起こしそうになり、レッスンを中断してもら わなければならなかった。

わたしはヴァイオリンを習いはじめると同時に高 校のオーケストラに入ることにした。そのきっかけ は、新入生オリエンテーションのあとに聴いたドボ ルザークの交響曲「新世界」であった。かりにもオ ーケストラなるものを聴くのはこれが初めてであっ た。技術的水準はかなり高く、わたしはすっかり魅 せられてしまった。初心者のわたしがこのようなオ ーケストラに入ろうと決意するとは、大胆ではあっ た。「幻想即興曲」以来の音楽への入れ込みが続い ていたのだと患う。この大胆さのために辛いことも あり、幸せなこともあった。

一年目の定期演奏会ではごく簡単な曲をひとつだ けでよかったのだが、二年目はきびしくなった。第 二ヴァイオリンとしてチャイコフスキーの交響曲第 五番を演奏することになった。こんな難曲を習いは

じめて一年半のわたしにこなせるはずがない。ゆっ くりした第二楽章は楽しく、陶酔しながらひいたも のの、その他の楽章は悪戦苦闘であった。わたしは まったく自分の音に責任をもてなかった。

三年目の演奏会では、わたしの技術の向上と曲の 難しさのズレが比較的すくなかったので、実に楽し かった。長い練習期間のあと、ベートーベンの交響 曲第五番を演奏し終ったときの満足感はこのうえな かった。この曲の演奏については、指揮者の表情も 愉快であった。この人は、当時東京芸術大学の楽理 科に在籍の先輩であり、その後も指揮活動を続けて いる、わたしたちにとってはプロというべき人であ ったが、最終楽章では慌てていた。わたしたちはこ の楽章にきて完全に調子に乗ってしまい、抑制する

ことができなくなってしまった。テンポがどんどん 速くなっていく。指揮者の真面目にして焦っている 表情が、わたしにははっきりと見えた。しかし、演 奏は聴衆におおいなる感銘を与えて終り、大拍手。

めでたしめでたし。

大学にもオーケストラがあり、またわたしの住ん でいた千葉県の市川市にはアマチュアのオーケスト ラがあったのだが、さすがに自分の技術を冷静に考 えて入らなかった。しかし、レッスンには大学を卒 業するまで通い続けた。その後も、わたしは、バッ ハの無伴奏をひけるようになることを目標として、

少しずつでも練習を続けた。

ふたつの楽器を手にしなくなったのは、アメリカ 留学中の1984年の秋頃からである。博士候補試験 が近づき、それに専念しようという殊勝な心がけに よってであった。いったん楽器を手にしなくなる と、再び始めようという気がなかなか起こらなくな った。試験に合格した後も、いよいよ論文にとりか かるのだという張りつめた気持ちが勝っていた。

やがて論文の指導教授が引退するので、でざるだけ 早く完成しなければならなくなり、ヴァイオリンど ころでないということになってしまった。その生活 が今でも続いている。

趣味は生活のささやかな部分であるとはいえ、そ の全体を照らし出す。わたしは「立派な」ことに集 中し、その他のことを些細なこととして顧みなかっ た。わたしは、このことを恐ろしいことだと思う。

長年付き合ってきた恩い出ぶかい楽器をこのように 扱ってよいのだろうか。

(8)

一8−

旅  その思い 出

佐  藤  七 郎

第3話 シネーゼン

私が、はじめてヨーロッパの地でドイツの人にあ ったときの彼らの印象は、「ドイツ人は自分たちの 兄弟姉妹のようだ」という感じだった。これは戦争 世代の経験に基づく特別な感覚かもしれない。ある いは私個人の特殊事情のためかもしれないとも思わ れる。どこかに、良くも悪くも、説明抜きで合い通 じるものがあるという感じが、かれらの日常の行動 や片言のなかに、感じとられたからである。しかも、

とくに同年輩の男性にあったときには、何か罪を犯 して、勘当されてしまった兄貴にでもあったような 感じを抱いたものだった。

また私はとくに、暇をみては田舎にいってみたの で、そこのおばさん達の言動に、日本でもよく見ら れる気のいいおばさんたちの、悪気はないが少々お せっかいな仕草がみえることがしばしばあった。そ れが、私の主観なのかもしれないが、かれらがどう も日本人に対して特別の感情を抱いていたからなの か、それはわからない。ただ、かれらが、外見上は よく似ている中国人と日本人とを区別していると感 じた経験を私はもっている。

あるとき、フランクフルトからライン河沿いにワ インの望リューデスハイムへと走る列車の中で、向 かいの席に座った一人の東洋人から話しかけられた ことがあった。香港出身の中国人だった。彼は笑い ながら言った:

「私らは当地では日本人だといっているのですよ そのはうがずっと仕事がしやすいのです。日本人だ

というと態度が変わり、好意的になるのです。」

それなら逆にこちらが中国人と見違えられること もあるのかな、と思ってみた。私のばあいはモンゴ ル人か? と問われた経験はあるが、それは骨相に 詳しい人類学者からの質問だったし、私自身が自分 の顔にモンゴルの人と似ているところがあることに 気づいていたことだったので、中国人と間違えられ ることは充分にありそうに思われた。

リューデスハイムからスウェーデンに帰る途上、

ハノーヴァとハンブルグの間にあるッェッレという 古い小さな町に降りて、見物してまわったことがあ った。それは小さいがお伽噺にでてくるような、絵 に措いたような美しい町だった。第二次世界戦争で も壊されなかった数少ない町の一つとのことだった。

町の中の広場を歩いていると、少し離れた路上で 10才ぐらいの女の子が二人でこちらを見て、声を合 わせて

「シーネーゼン シーネーゼン」

と曝したて始めた。シネーゼというのは中国人とい う意味だが、こういう言い方で雅たてるのは好い感 じではない。

そこで私は側に近寄って話しかけた。別に悪びれ る風もなく、逃げるわけでもない。

「私はシネーゼではない。ヤパーネルですよ。」と いうと「ア一、ソー」といった感じで、それっきり ケロリとしている。

「ヤーパンを知っていますか?」と尋ねると

「ナイン」と首を振る。

この態度から、この子達がシネーゼといっている ときの感情の中に、中国人をけなす気持ちが少しも なく、ただ大人達が、あるいは大きい子達がやって いたことを意味もわからずに、遊びのつもりで口ま ねしていたにすぎないことがわかった。しかし逆に このことから、かの地の大人達の中にそういう見方 をする人もいることがわかってしまった次第であっ た。そうとは思いたくないが、そうとしか思えない、

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これは楽しくない思い出である。

第4話 食べるな

スエーデンの南端に近いルンドという大学町に滞 在していたころ、そこからストックホルムまでのバ ス旅行に参加したことがあった。いろいろの国から の旅行者が参加していた。イタリアからのお客さん

もいたかどうか、それは覚えがない。

途中、バルト海沿岸の古い町カルマーで一休みす るために、バスを降りてレストラン色こ入った。部屋 の片隅に小さな楽団がいて、静かな音楽を流してい た。テーブルには各席ごとに各国の小さな国旗が飾 ってあった。お客はそれぞれ自分の国の国旗の飾っ てある席に座るようになっていた。日本からの参加 者は私一人だけだった。それでも楽団は日の丸をみ つけて、当時はすでにいささか流行遅れになってい た曲「上を向いて歩こう」を演奏してくれたりして いた。

スウェーデンの人々はこういう場ではほとんど声 をたてず、会話は、互いに耳を寄せあって、ひそひ そ話のように交わすのが慣わしだった。しかしこの 場合は、いろいろの国からの人が老若男女、入り混

じっていたせいもあって、かなり娠やかだった。

そうした雑談のなかから、ときどき「食べるな」

という言葉が聞こえてくるのに気がついた。「おや っ」と患ったが、すぐにそれが、このレストランに 入る前にその前を横切った別のレストランの名前 TAVERNAm であることが判った。イタリア 系の有名なレストランだった。

私は隣に座っているアメリカ人に話しかけた。

TAVERNA という名前のレストランがあ るようだけれど、私等日本人には、レストランの名 前が TAVERNA というのは、とても奇妙に 聞こえるのですよ。」

すると彼は聞き返してきた。

「どんなふうに?」

「夕べルナ というのは、日本語では Don t eat という意味なのです。」

すると新聞記者だというそのアメリカ人は「あハ ハハハ」と大笑いして言った。

「いいんじゃないですか。イタリア人というのは、

食べないで、飲んでおしゃべりばかりしているんで すから。」

その後に、東京の銀座にこの夕べルナの支店がで きて、今は繁盛していると聞いた。日本のお客さん たちは、たぶん飲んでおしゃべりして、そしてたく さん食べていることでしょう。それを見たら、あの アメリカの記者さんはどんなダジャレを飛ばしたこ とだろうか。

第5話 青い目

前回にお話したアメリカの記者さんのような機転 の効いたシャレは私のもっとも不得手とするところ で、たまに試みても、すべて失敗に終わって白けて しまうのが通例であります。今回はその失敗談をひ とつ。

国際会議の楽しみのひとつは、専門的な議論の終 わった後に、いろんな国からきた人たちと、たわい もない会話を交わすことです。ある学会で、スイス はジュネーブからきた若いA君と、そのフィアンセ のB嬢、それにベルギーからきた若いC君とペンシ

ョンで同宿したことがあった。A君は学会後に彼女 と中国を訪れるという銀行マン。B嬢とC君は若手 の生物学研究者。夕食が終わってからの雑談の時間 私はA君に「ちょっと腕をみせてどらん」と話しか けた。彼は素直に腕をまくしあげてくれた。透き通 るような白い膚を通して血管がよく見えた。私は言 った。

(10)

ー10 一

「君にはこの血管が青く見えるでしょう。」

A君「そうです。それが何か?」

私「なぜ青く見えるか、解りますか?」

A君「青い血が流れているのでしょう……」

と言いかけるとB嬢があわてて否定した。

「そんなことない。血はみな赤いワ」

私「そうです。静脈血だって青いわけはないです。

切ればどこでも赤い血が出てきます。それなのにな ぜ赤く見えないのですか?」

「さァー」といった感じで、C君は考えこんだ。

B嬢に目を向けても、彼女は答えられない。

そこで私は真顔で、いかにも権威ありげにいった。

「ここに流れている血液は02と結合するとオキシ ヘモグロビンができて、少々はスペクトルが変化し ますが、可視スペクトルに変化が生じるほどのもの ではありません。」

「ェェ、エエ」と、B嬢とC君は納得しながら身 を乗りだしてくる。

そこで「権威」ある話を深める。

「それがあなた方の目に青く見えるのは、それは あなた方が青い目で見ているからなのです。私達の 目で見ると、少し茶色がかってはいますが、正しく 赤く見えるのです。」

私の「科学的」な解説にB嬢は「ホホーッ、そう ですか!」とオドロキの表情。

C君は「エエッ、ホントー?」といった風情。

ところが銀行マンのA君だけは反応が違っていた。

一呼吸あって身を乗り出してきて、私に向けてアカ ンベーをするように、左目に指をそえて目玉をむき だして言った:

「へェ一、そんなことないでしょう。見てどらん。

私の目は青くなんかありませんヨー」

驚いて見ると、たしかに彼の目は私らと同じ茶色 の目だった。

「しまった。バレた./」

B嬢もC君も、周りにいた日本人の連中もどっと 大笑い。たしかにフランス系の人たちのなかには茶 目、黒髪の人が少なくないことは前から知っていた はずなのに、そのことを確かめないで、このナゾを 仕掛けてしまったのほ、これは私のとんだドジだっ た。

これは事前調査の不足だった。こんど次の機会に は、たとえば北欧のような金髪碧眼の人たちばかり の席で、そのことを確かめた上で、もう一度試みて みたいものと思い直している次第です。

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