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書第84号

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平成元年11月 図書館報附錬

第84号 奈良教育大学附属図書館

学長就任の挨拶に代えて

後  藤     梱 学長の仕事は、学内外の関連諸機関に対する挨拶 で始まる。図書館関係の皆さん及び学生諸君に対す る挨拶に代えて、以下、図書館からみた日本文化私 見を述べたい。

図書館のはじまりは、人類文化の発祥につながる。

メソポタミア・バビロニアの古都ニップールの寺院 跡に楔方文字を刻みこんだ粘土板2,000枚以上が、

ペンシルバニア大学探検隊によって発見された(1885

〜1900年)。 これは、前3,000年のころの神殿図書 館の遺跡と推測されている。下ってアッシリアの古 都ニネヴ工にも同様の図書館と覚しきもの(前7世 紀)が発見されている。前3〜4世紀にかけてプト

レマイオス1世、2世が精力的に作ったアレキサン ドリア図書館は有名で、最盛期の蔵書数、およそ70 万冊といわれている。問題は、これら古代文化のそ の後の発展あるいは消滅の文化史的な姿にあると思

う。

話を一足飛びに中世から近世にかけての大学図書 館に移そう。大学図書館の最古のものは、スペイン のサマランカ大学のもの(1243年)といわれている が、それより10年はど遅れて発足したパリ大学のが

有名である。司祭ソルボンが寄贈した文庫(1257年)

を中心にしてパリ大学は発展し、今日に至っている。

オックスフォードに図書館が生れたのは、14世紀で ある。これもトマス・ボドレイの個人文庫がそのは じまりで、ボドレアン図書館と称ばれている。ハー バード大学も宣教師ジョーン・ハーバード遺贈の260 冊からスタートしている。

さて、このころのわが国における図書館あるいは 図書館を中心とした広い意味での大学はどのような 状態であったか。私はこの辺の事情を少し勉強して 驚いた。まず、わが国の8世紀における盲文書約 12,000点が、現在まで保存されているという驚嘆 すべき事実を知った。その大部分は正倉院宝庫にあ った。現存のものとしてこの数量は世界にその比を 見ない。中世にはいって、パリ大学に先立つこと半 世紀、北候実時がはじめた金澤文庫の書籍は万巻を 越えたと推定されている。また、これが当時の学者 間に広く利用されていたという根拠がある。ソルボ ンヌ大学が1,000冊弱の図書館ではじまったことを 思えば、当時のわれわれの祖先の知識欲、知的水準 の高さは大変なものだったといえよう。

さらに下って江戸期に至ると、幕府の紅葉山文庫、

当時の官学である昌平聾すなわち昌平坂学問所文庫 などが挙げられよう。これは今日の国立大学附属図 書館に匹敵する規模であった。一方、塙保己一の和 学講談所は、昌平聾の儒学に対して国学への配慮か ら誕生した。保己一先生の生涯の大事業である『群 書類従』はわが国の古書を集輯・合刻した叢書で、

正編530巻目録1巻667冊、続編1,000巻、1,185冊、

1779年から漸次刊行、1819年正編完了、1822年続編 が完了している。別名温故堂文庫には学生が多く集 り、今日の大学国文科附設専門図書館の観があった。

わが国啓蒙期のはじまりを1857年(安政4年)に 開設された幕府の洋学研究所もしくは学校である蕃 書調所とする人がある。このあたりからわが国の文

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− 2 −

化史に一つの不連続点が生ずるように見えるが、私 は、19世紀半ば以降のわが国現代文化・文明を育て てきたものは、わが国古代以来のわが国の文化であ

ると考えたい。

江戸盛期に、江戸だけで600以上あったという貸 本屋は、当時の庶民の教育機関であり、情報流通機 構であった。寺小屋も江戸時代を通じて記録に留っ ているものだけで1,500校を下らない。それとは別

に、300の藩校があった。18世紀末〜19世紀はじめ のわが国普通教育の水準は、既にヨーロッパのどの 国にも劣らないものであったといえよう。当今のわ が国民生活全般に、なお西洋文化と日本のそれとの ちぐはぐな組合せや混乱が多く見受けられるが、そ れだけ、古代以来のわが国文化の慣性が大きく強い

といえるのではないか。

何年か前、西独のジャーナリストが「1億人のア ウトサイダー」というベストセラーを書いた。著者 はドイツ的生まじめさで、日本文化を理解しようと 痛々しいほど努力している。彼はこう結んでいる…

西洋で行われている教育は片寄っている。西洋文化 を中心にした価値系が唯一無二のものと教えるのは 間違いだ。世界には複数の価値系があって、それぞ れが固有の歴史と文化と有用性をもっている。

歴史をあと戻りさせることはできない。われわれ は日本文化を西欧、その他の文化との均勢のとれた 融合を志向しなければならないと思う。そのために は、新しい価値系、新たな思想を創りださなければ ならないであろう。この価値系、思想を追求するこ

とが、大学の使命であると思う。このことに関連し て私は、フィジカルな問題が中心となった文化・文 明は今世紀を頂点として影を潜め、来る二十一世紀 からメタフィジカルな世界に重きをおく文化・文明 が、再び頑を拾げてくるように思えてならない。

平成元年10月26日 −

「ひとつの出会い」

頓  宮     勝 あらゆる生き物がひしめいている。てんでばらば らに動き回っている。喧嘩なんてものじゃない。秩 序なんてどこ吹く風。なじむなんてなまやさしいも のじゃない、この先二年も生活していけそうもない。

不安が諦めに変わり始めた頃、ようやくほとばしり 錯綜するエネルギーの塊は、一つ一つ闇に解け、深 夜を過ぎて眠りについた。明け方4時すぎ、小さな 爆発音とともに再び火山が活動を始める。四方八方 から流れ来る熔岩の河に乗り、笑う声、怒る声、泣 き、叫ぶ声に包まれ放り出されて、原色の町の朝を 迎えた。

インド、とりわけカルカッタに住むことができれ ば、世界中で住めないところはない、とは60年代後 半のヒッピーと呼ばれる若者の間での有名な言葉の 一つであった。この言葉は主として生活の外側、つ まり環境面を捉えて伝えられていたらしい。一方、

精神面では古代にその淵源をもつと言われる行者の 思想が、神秘思想として持てはやされた。特にビー トルズがインドに渡り指導を受けたことがこの傾向 を助長した。が、マハ・リシ・ヨギは詐欺師である という言葉とともにインドから飛翔したビートルズ は、ある意味で賢明であったといえる。また、イン ドに魅かれ、そのまま居ついた若者、愛想をつかし て帰国後悪口を事ある毎に言う青年、あるいは名所 巡りで(古代の)インドはすばらしいを連発する旅 行者、さらに文献の中のインドを深く追求する人々

も賢明だと患う。環境面(現在のインド)と精神面

(文化遺産の中のインド)の相矛盾する統合体が持 つエネルギーの真の様相に、たとえ一部分ではあっ てもそれぞれの立場から出会っていると思えるから。

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体をカーストで縛り、心を輪廻に繋ぎ、その上に 成長したノヾラモン至上主義の哲学。その宇宙論は時 間と空間を飲み込もうとする。億や兆の単位をはる かに越えた観念の世界を押しつけられた人々は、こ の世での時間(歴史)を喪失し、狭められた空間(村)

から離れることなく、自らの属するカーストに課せ られた行いを守りひたすら次の良書転生を希求する。

バラモン階層の人々は、祭式を執行し、苦行・瞑想 の結果、個=宇宙という真実を悟り解脱していく。

もちろん、現代ではこのような思想が受け入れら れているわけではない。しかし、依然としてカース トは隠れた所で、より細かくより強く社会に根づい ている。あるインド人科学者は、「留学するのは私 たちの社会では勇気のいることなのです。外国人=

カースト外の人間(牛肉を食べる人間)との接触は 不浄を意味し、生まれた村に帰れなくなることが多 いからです。」という趣旨のことを、その著書の中 で述べていた。彼が住めるのは、開かれたようにみ えるところ、すなわちカースト意識が露骨に示され ない世界であるデリーやボンベイなどの大都会で、

その技術や才能を認めてくれる大企業や大学だそう である。また、寮で同室となった学生との話の中で 話題が結婚に及んだとき、初めの強い調子の宣言が

(恋愛結婚)次第に弱い調子の独白(見合い結婚)

となり、相手のカーストがね、と尻切れとんぼにな って終わってしまった。

このような状況とはかかわりなく、現実のインド はエネルギーの渦となって訪問者を包み込んでくる。

「生」の躍動が恐ろしいはどである。ヒンドゥ寺院 の彫刻や二大叙事詩の世界と共通のものが流れてい るかのようである。子供たちの顔がいきいきしてい る。明日のためではなく、今日を生きるために持て る以上の力で相手に迫る。そのありあまったエネル ギーは数多くの祭で燃焼されるかのようである。と、

ここで日本とインドとの間の奇妙な符合に気づく。

村社会、季節毎の祭(その背景は異なるが)、祭で のエネルギー、現世利益、多神教。反面、異なると ころも多い。大雑把に捉えれば、積極性VS消極性 とでも言える他とのかかわり方に還元されるのでは ないだろうか。

良く尋ねられることなのだが、どうして仏教はイ ンドに根づかなかったのだろうか。

カースト制度を否定し、この世のあらゆるものを 縁起の上に乗せ、諸行無常と説き、旧来のバラモン 教の輪廻の世界を捏磐で解消させた教えは、元々仏 陀個人の悲観主義的な、誤解を恐れずに言うならば、

「空」の悟りを前提とした消極的な自殺の正当化で あった、と言えないだろうか。仏陀没後その教えは 僧団の中で解釈され受け継がれていくうちに、出家 集団の哲学を離れ、在家へ向かう流れを産み出す。

言わば「色」の否定の世界から、原色肯定の「生」

の世界へと踏み出し、後に大乗と自称する一派を産 み出したと言える。やがてガンダーラでのギリシア 文化との接触で仏像が刻まれはじめ、バラモン教の 後裔であるヒンドゥ教(哲学)や出家集団との論争 の中で、中観、唯識などの学派を経て密教に至りそ の発展に終止符を打つ。ヒンドゥ化して(されて)

しまったと言えないだろうか。ヒンドゥの神々(弁 財天など天郡と呼ばれる神々)を接収し、「空」を 基調にしつつも最後には極彩色の「生」の世界であ る呈陀羅に至る過程において、一面ではヒンドゥ哲 学と基本的に同質になっていったのではないだろう か。根本的な違いは、人が紬(仏陀)になれるのか どうかという点で、「なれる」とした仏教は次第に その影を薄くし、13世紀のィ.スラムの進也を契機 にインドから姿を消したという考え方は、一つの回 答としてどうだろうか。あるインド人との話の中で、

「仏陀もヒンドゥの神の化身の一つだ。」と言われ て、「じゃ、仏陀を通じて日本人もビシュヌ神にな れるのだね。」と尋ねて、思わず絶句という場面が

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−4 −

あった。今から思えばずいぶん無茶な荒っぽい質問 だったと思う。

縄文文化であれ弥生文化であれ、その文化の基層 は問わないとして、日本の文化土壌は鎮守の杜を焦 点として描かれる小さな村社会が、独立した空間を 構成し機能するようになって築かれてきたのだと思 う。先祖は次第に祖霊となり神へと昇華してゆき、

その共同体のみに関わる。隣の共同体との接触にお いても、その焦点が重なることはない。換言すれば、

複数の焦点の一組がそれぞれ独自の楕円形を描き重 なり合って構成されているのが、日本的多神教の世 界なのではないだろうか。一つの固定した不動の焦 点を中心に措かれる一神教や、焦点の融合の結果構 成されるヒンドゥ教的な多神教の世界とは異なる、

単調でありしかも焦点の定まらない複合社会なので はないか。そこへ外からの刺激が加わっても(異文 化接触)、基本的には同じことになる。つまり、融 合もしないし、されもしない。その文化をひとつの 焦点として新たな楕円が描かれ、時の経過とともに 二つの焦点も楕円の輪郭も薄れていく。ただし、強 烈な個性を持ち、自らの焦点にあわせて円形を描こ

うとする文化は(例えばキリスト教入 結局楕円の 中に一円形としての位置を与えられるようだ。

仏教、儒教、道教(陰陽道)などの洗練された焦 点が同時に、あるいは次々と入って来ても、いずれ かの焦点と重なり円形を描くことなく、そのそれぞ れと楕円を描いて解消への道を辿ったように思う。

唯、同時に全てと、という器用さはないようだ。仏 教でいえば、8世紀頃までには後のほとんどの宗派 がそろっていたようだが、その一つ一つは時の経過 とともに主流の役割りを交代し「日本化」されていっ たと言えるのではないだろうか。その過程において インド仏教や中国仏教の持つ原色性、論理性が薄め られ、神仏習合などで焦点距離を測り明治を迎える に至ったと思う。

重い文化を引きずりながら一歩一歩、歩んでいる 現代のインド。明治維新でコペルニクス的転回によ り、西洋文化を焦点に据えた日本。その両者の間を 介在するものは最早なくなったのだろうか。

14年前のカルカッタの一夜に感じた戸惑い、諦め、

焦燥感は現在もなお消えてはいない。いや益々心の 中で成長しているようにも感じる。

芋辞書とは何か

佐 藤 宏  明 世に『○○とな何(なに)か』と適した著作はあ またある。岩波新書だけを見ても、文科の先生なら 一度は手にとったはずのE.H.カー『歴史とは何 か』、美術の先生ならランガー『芸術とは何か』、

私の分野では、波動方程式で有名な、理科の先生 なら一度は耳にしたことのあるあのシュレーディン ガーの手による『生命とは何か』、ないしはホール デン『人間とはなにか』、などがある。他の出版社 の新書に目を移せば『○○とは何か』と名打った本 はまだまだ見つかる。対象を出版物一般に広げれば 数限りなく見つかることは疑いない。このように

『○○とは何か』が氾濫している世にあって私が『芋 辞書とは何か』と題して小文を綴っても、読者諸子 は「またか」の感を抱き、「芋辞書といっても、ど うせ買わない方がいい辞書の話だろう」と思うだけ であろう。先生方の中には「辞書の善し悪しを自分 でつけられなくて何が研究者だ」と怒鳴りたくなる 人もいるかもしれない。先に上げた岩波の4冊は

「歴史」「芸術」「生命」「人間」に関していずれ も名著の誉れ高い書物であり、それぞれが著者名を 冠した○○論として名高い。それに対抗して「辞書 論」を記すつもりは私には毛頭ない(当然その

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能力もない)。また、通俗書にありがちな「辞書の 選び方」のようなハウツーものを書くつもりもない。

私はある特定の辞書について書こうとしている。忙 しい読者のために結論を先に記す。「芋辞書とは 何か。それは三省堂刊『新明解国語辞典第2版』

(1974年)に対する賞賛と敬愛をこめた尊称であ る。」以下、この結論に至る過程、及びこの辞書の 真価を記す。

「芋」をかの『広辞苑』で引いてみる。「1.サト イモ・・・サツマイモなどの総称。・・・2.植物の 地下茎または根の発達したもの。」ここでは「芋侍」

のような人や物をあざける意味が「芋」にあること を記していない。「芋」で始まる語をたどって行 くと「芋助」がある。語義として「1.不器用な者、

無能なものの擬人名。2.田舎者や農民をあざけっ ていう語。」が与えられている。ここで『広辞苑』

の引き手は初めて芋に侮蔑的意味があることを知る。

この小文のキーワードである「芋辞書」は当然見つ からない。しかし読者は「芋辞書」が何を意味して いるのかだいたいイメージできる。が、私は読者が 抱いたそのイメージを撃ち破るべく筆を進める。

「芋辞書」なる語が小見出しとして載っている(お そらく)本邦唯一の辞書がある。それこそが三省堂 刊『新明解国語辞典第2版』である(初版は確認し ていない)。そこには「大学院の学生などに下請け させ、先行書の切り貼りででっち上げたちゃちな辞 書」と明解な語義を与えている。この語は第3版か らは消えた。同時に、第2版の巻頭にあった編集主 幹による「新たなるものを目指して」も消えた。こ こに、この辞書(第2版)が私がいうところの『芋 辞書』たる由縁がある。

「新たなるものを目指して」の中に次の一節があ る。

思えば、辞書界の低迷は、編者の前近代的な体質 と方法論の無自覚に在るのではないか。先行書数

冊を机上に広げ、適宜に取捨選択して一書を成す は、いわゆるパッチワークの最たるもの、所詮、

芋辞書の域を出ない。(下線筆者)

「芋辞書」は編者主幹がこの文のために「芋助」を もじった明かな造語である。彼はその時、安易な造 語を使用することに国語学者としての責任を感じた にちがいない。それ故、彼はこの語の意味を辞書の 中で明解にし、感情に訴えるその場しのぎの造語と は一線を画したのだ。私は、ここに、言葉に対し並 々ならぬ情熱と責任を抱く国語学者の真骨頂を見る 思いがする。

第3版から「新たなるものを目指して」が消える と共に「芋辞書」も姿を消した。「芋辞書」が『新 明解国語辞典第2版』という小空間の域を出ること ができず、一般に使用されることがなかったためで ある。造語のたどるはかない運命を「芋辞書」もた

どったといえばそれまでだ。しかし私は、「芋辞 書」が出ている文を削ると同時に「芋辞書」を消し た編者の完全主義に敬服せざるを得ず、「芋辞書」

を通して焼き付けられた学者のあるべき姿に傾倒せ ざるを得ない。それ故、私は「芋辞書」を、辞書を 椰輸する名詞として使用するのではなく、『新明解 国語辞典第2版』の尊称として与え、永遠に語り継 ぐべきものと考える。以後この辞書を敬愛と畏敬の 念を持って『芋辞書』と呼ぶことにしたい。

『芋辞書』において、国語学者の誠を見るのは「芋 辞書」なる語だけではない。一例として「老人語」

を挙げる。この語も当然のごとく『広辞苑』に見つ けることはできない。この語が『芋辞書』に存在す る理由は、『芋辞書』が「老人語」という一般に普 及していない言葉を語義のひとつとして使用してい ることに他ならない。語義の曖昧な語を、語義の正 確さを生命とする国語辞典で使用するなどというこ

とは、『芋辞書』の編集者には絶対に許されないの である。

(6)

一6 一

そもそも私がこの語に出くわしたのは「オツネン」

と発音する言葉を引いた時であった。「オツネン」

を引くに至った経過は私の学生時代の思い出である ので、蛇足ではあるが書きとめておきたい。

私が大学院生であった頃、講座に、その立居振舞 いから若くして「ジジイ」または「ジーサン」と呼 ばれていた友人がいた。ある時院生がワイワイやっ ている部屋でその彼が「○○という虫はどこでオツ ネンするの?」と尋ねた。一人の院生が「エッ、オ ツネン?」とけげんそうに聞き返した。ジーサンは 不満そうにいった。「オツネンを知らないの?冬を 越すことをオツネンというでしょ./」そこに居合わ せた院生は間髪を入れずに「何言ってんの、ジーサ ン。それはエツネン(越年)というの./」と言って、

一斉に笑い、ジーサンを馬鹿にした。しかし私はひ そかに『芋辞書』でオツネンを引いた。私の田舎で は確かにオツネンという人もいたからである。『芋 辞書』にはこう記してあった。

「越年」の老人語(下線筆者)

私はそれをみんなに示した。部屋は再度笑いに包ま れた。「さすがはジーサン。老人語が使えるんだ/」

と、ジーサンはますます馬鹿にされた。笑いが一段 落した後、誰かがふっと呟いた。「でも老人語って 確かに意味はわかるけど一般に使われている言葉か なァ、なんか変だなァ。」そこで私は次に『老人語』を 引いたのである。明解に次の語義を与えていた。

すでに青少年の常用語彙の中には無いが、中年・

高年の人ならば日常普遍のものとして用いており、

まだ文章語・古語の扱いはできない語

読者諸子は『芋辞書』を貫く精神の一端をここにも 見るのである。

ここまで読んできて、読者の何人かは次のように 思うかも知れない。「何だ、自分達で造った語を一 人善がりのそしりを受けないように自分の辞書で説 明しているだけではないか。辞書の真価は、いかに

正確で、明確な語義を与えているかで決まるのだ」

と。この疑念を晴らすために更に筆を続ける。

『芋辞書』の精神が「芋辞書」に表れているとす るならば、『芋辞書』の真価はまさにその本名たる

『新明解国語辞典第2版』の「明解」に表れている。

「明解」を『広辞苑』で引くと、「はっきりと解釈 すること」とそっけなく書いてあるに過ぎない。『芋 辞書』に目を転じると、

1.(簡潔で)要領を得た解釈。2.−な 一一説 明されなくても、その意味するところがよく分か る様子。

とある。『芋辞書』が名詞の形容詞的用法にまでた どって語義を与えている点では『広辞苑』の及ぶと ころではなく、また語義の明確さにおいても『芋辞 書』が優っていることは明かであろう。私はこの小 文でこれまで「明解」という語を3回(書名は除く)、

いずれも『芋辞書』が与える語義のあり様を形容す る語として使用した。『芋辞書』は明解の名に恥じ ない語義を「明解」そのものにも与えているのであ る。

『芋辞書』において明解な語義が「明解」だけに とどまらないことは言うまでもない。読者諸氏は手 元の辞書で例えば次に挙げる語を引き、『芋辞書』

(第3版でも可)と比較してみるとよい−「ジレ ンマ」「呟払い」「尊敬」「行進」「傷物」。 もち ろんその他の語を引き比べてみてもいっこうに構わな い。『広辞苑』だろうが、『大辞林』『国語大辞典』

であろうが明解さの点で『芋辞書』に到底かなわな いことが分かるはずである。

芋辞書とは何か。それは『新明解国語辞典第2版』

の尊称である。

(付記:脱稿後に第4版が発売された)

(7)

APRES UN REVE

福  田  清  美 先日、私の手元に、アルマ橋夕景の絵葉書が届い た。様々に浮かび上がるパリの断片を、思いっくま ま書いてみようと思う。

私の最も大好きなパリの風景は、黄昏時の街角で ある。アルマ橋に点るサーモンピンクの明りの列は、

開演間際、シャンゼリゼ劇場に向かう慌しい気持を 楽しくし、終った後の余韻草幸せに照らし出してく れた。その柔らかな光は、シルエットとなったパリ 市街を優しく包み込んでいた。

ふらんすへ行きたしと患えどもふらんすはあまり に還し・・・と萩原朔太郎の詩が有るけれど、かつ ては彼地の風物や歴史や文化に憧れ、悲痛なまでの 覚悟で求めた頃とは違って、今やオペラ通界隈は、

Avenue duJaponと呼びたくなる程、E]本人で溢 れていた。殊に若い女性達が皆同じような格好をし て、修学旅行並な会話を交しながら、大きな買物袋 をいくつもぶら下げて歩く姿が普通に見られた。こ の頃のパリに落としてゆく旅行者の金は、派手好み の成金アメリカ人を抜いて日本人が一番になったと いうことであった。が、気軽になったとはいえ、勉 学の為に大きな目的を持って懸命に頑張っている若 人達も沢山いる。それらの人々が、将来日本の文化 にもたらすものを大いに期待したい。

パリ派遣が決まってから充分な準備をと心かけて いたっもりであったが、補講等の為に殆んど時間を とられてしまったので、辛うじて、これがあると便 利という物のリストを家内に渡して、私は5日間徹 夜して何とか旅装を整えた。慣れた所へ行くのだか らという気安さも、出発日が近づくにつれ重いもの に変わっていった。おまけに徹夜の掲げ句の風邪ま

で動員してしまったのだ。ア−、実際長旅に出ると いうのは・・・・・・

タクシーがパリ市街に入りかかると、「よーし着 いた。よーしやるぞ。」という気慨で満ちて来た。

とりあえず安いのだけが取り柄のホテルに直行し た。外国短期滞在の場合、即戦力となることは、そ の研究もしくは学ぼうとする分野の力が充分で、か なりの蓄積が有るという条件の上に、当地の言葉が よくできるということが重要だと思われる。ヨーロ ッパの音楽院の卒業試験(各コースによって、レベ ル毎に違ってくるが)は、予選の後にリサイタル形 式で行われる。これを、そのまま日本の音楽大学で 採用したとすると、試験時間は膨大に長くなり、

卒業資格者は予選の段階から落とされる者を含 めて、激滅するのではないだろうか。世界各地から 又、30才を過ぎた人達も多く、働きながら音楽院で 学んでいる。特に声楽でいうと、日本の大学卒業時 年令22〜3才あたりから、やっと本当の意味の声作 り、音楽作りの芽生えの時期になってくるのに、押 すな、押すなと卒業してゆかなければならない。そ の後専門で続けてゆこうと思えば、どこかの音楽関 係の先生になるしかない。その為に出身大学や学歴 や資格に実力よりは偏重せざるを得ない実情もある。

たいがいの大きな都市にはオペラハウスが有、教 会が有、国々が陸の上でお隣り同志である、ヨーロ

ッパ全体の音楽家需要度とは比較にならない。日本 は経済大国で団体のイメージは強いけれど、芸術家 や個人にとっては非常に貧しい国に思える。

パリは黄昏文化だという人がいた。黄昏時の華や かさ、そのエレガンスは最も充実した年令の人達が 楽しめる大人の文化の様な気がする。日本も老年化 社会に移行してゆくというけれど、この3月末に帰 国して、まず耳にした流行語が、オバタリアンであ った。それはそれなりに愛嬢のある意味あいの言葉 らしいけれど、大人の重要な文化の担い手である、

(8)

一8 −

それらの年令の女性達を代表する言葉にして欲しく ないと思った。年を重ねてゆくどとに磨きがかかり、

洗練され、益々素敵な人格に成長させてゆく社会環 境を持っパリ、経済では窮地にあると言っても、世 界の大都市であり、人種の相場であり、何でも世界 の物があるけれど、決してパリ以外の何物にもなら ない黄昏のパリ。それにしても、あの犬のふんどう かならないものだろうか。

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