平成2年5月 図書館報附録
書 想
第85号 奈良教育大学附属図書館
中国で求めた書あれこれ
山 内 洋一郎 中国渡航も既に四度、それも延べ七ケ月半ほど、
シルクロードの少数民族の地域から、四川省の成都、
内蒙古、大連と幅広く、我ながら良く旅をしたもの だと思う。そして、どこにいても書物にはまず目が 行き、店員の無愛想に辟易しながらも、書店を見て
さが
つい入ってしまうという性は、異郷にいても変わら ないと苦笑しながら、やはり書棚を片っ端から眺め て、時を忘れるのだった。その買い求めた僅かの書 であるが、今もその時の、その場の様子が想い出さ れるものがあって、なっかしいことである。その中 からちょっとばかり風変わりな、或いは特殊なもの
について、紹介がてら想出を述べてみたい。
1.連環画 水耕
大連にいた時は、市の中心部中山公園から上海路 を僅かに入った大連飯店に泊っていた。正面の回転 ドアを入ったロビーの傍の五メートルはどの陳列ケ ースに商品を並べていた。ハンカチ、歯ブラシ、ノ ート、酒、要するに日常品が多く、観光土産の少な い所が中流ホテルと判るのだったが、そのケースの 隅に、連環画の水耕伝と紅楼夢が或る日置かれて、
一週間経っても二週間経ってもそのままだった。
連環画というのは中国で流行している劇画のよう
なもので、普通は縦9センチ横13センチ程度100ペ ージほどの小冊子である。大連では新華書店にもあ ったが、街角の屋台のような小店に何種か並べて売 っていたし、大連駅近くの雑踏では、地面に拡げた 板や布の上で、無精髭の青年が店を出していた。
私はうろ覚えの水前伝のストーリーを思い起こし その絵がどうなっているか、少し気になった。一箱 で9.5元という値段は、さほどでないが、帰国の時
のお荷物かと思案していた。
それをとうとう買ってしまったのは、ひょんなこ とからだった。切手を買う小銭がなかったのである。
女性服務員は切手も売っていた。「要多少郵票?」
と尋ねると、エヤメールを片手に載せ、考えるしぐ さをして、「八毛」などと答えるのだった。その時 銭包に小銭が出払って、10元紙幣しかなかったので、
つい買って、その釣りで切手も買ったのだった。
水薪一箱に、第一「九紋龍史進」(表紙の十部紹介)
から始まり、刃冊の小冊子が入っている。細密な線 刻画で、中世風に風俗も整えて、見事なでき映えで ある。
宋朝哲宗皇帝の時、東京(開封)に高という性の 落塊した家の子がいた。幼時から正業につかず、両 脚で毯を蹴るのがうまく、高毯と呼ばれた。という ページに始まり、やがて史進も登場、波瀾万丈のス トーリーが展開される。大連生活も終わりの項、時 に眺めては無柳を慰めたことであった。
水前之二「魯智探」
2.現代漢語頻率詞典
北京語言学院専家楼(外国人専門家宿泊施設)に 泊まった私は張国祥氏と広い構内を歩いて主楼へ向 かった。八月末の大学は学年初めの休暇で学生は少 なく、留学生の多さが目立つ。中国の指導する国々、
東南アジア、アフリカ等の人々が多いようだった。
図書館の前の掲示板の文面にふと目が止まった。
どこでも掲示板が通路の左右に多いのが中国の大学 で、色とりどりのチョークで、達筆に書いていて、
さすが漢字の国だと思わせられる。勿論全紙半裁に 墨書も多い。それはこのような記事だった。
現代漢語頻率詞典(北京語言学院出版)
本書は我々学院の語言教学研究所が多くの人々の 協力を得て作成し、昨年出版したものである。この 度、中国言語学会において、名誉ある賞を受けた。
これは本学院の研究水準の高さを示すもので、共に 慶賀すべきことである。
「漢語頻率辞典とは?」と思い、すぐ日本の国立 国語研究所が続々と刊行している現代語語彙調査の ようなものだろうと見当がついた。中国語について のそのような調査は初めてのはずなので、確かに言 語研究の水準向上を示す記念すべき出版であろう。
学院の応接室で、十時に副院長周柄埼、日語教研 室の張大誠、劉青然氏に会った。周副院長は大阪大 学佐治圭三教授の朋友で、私は佐治教授を通じてこ の学院の世話になったのである。まず周氏からこの
学院の概要説明を受けた。特色は二点、一は外国へ 出てゆく中国人学生の外国語教育、中国に来た外国 人学生の中国語教育、この二面の短期集中教育をす ること、二は国際性豊かなこと、中国国家教育委員 会直属の機関で、各国大使館との交渉が多く、100余 国の留学生がいる、等の話があった。
日本語教育については、カリキュラムの編成から 使用テキスト等具体的に説明を受けた。50分授業で 週24時間、1学期20過でユ年半で終了、出国すると いう。短期集中の典型と見えた。
「教師は俳優ではない。学生に力がつくかどうか が、教師の力量をきめる。」
という、一見当然の、原点に則したことばが、新鮮 に感じられ、今に記憶するところである。
その後、食堂の接待室で昼食のご馳走を受けた。
国際交流や、中国の自然、文化などに話がはずみ、
私も大連などでの僅かな経験を話したのだった。言 語の問題に話題が移ったとき、私はふと思い出して、
「図書館の前で現代漢語頻率詞典の受賞記事を見 ました。すばらしい業績を挙げられたのですね」
と切り出すと、周氏は胸を張り、大きくうなづいた。
「お目にとまって光栄です。あれは大変な仕事で した。まだ電子計算機も使えない時からの出発で 彪大な作業と時間がかかりました。」
私は、現代言語の統計的調査研究は、単に言語研 究の上のみでなく、教育から、言語政策、コンピュー
ター関連諸分野へ幅広く使われる基礎研究だから、
その大きい礎ができたのは、中国の発展にすばらし い事業だと、述べた。すると、周氏はこう言った。
「そんなにも関心を持って下さるなら、一冊献呈 致しましょう。」
献贈印の押された一冊は、B5版1500ページの大 冊で、詳細な統計がぎっしりとつまっている。私は 関心のある。頻度順の表をまず見た。中国語で最も 多く使われる語は何かを見たかったのである。
1.的(の) 2.了(た) 3.是(だ)
4.一 5.不(ない) 6.在(で、に)
7.有 8.我 9.全(個)10.他(彼)
などと8000位まで載っている。上位に日本語の助詞、
助動に当たる語、代名詞・数詞などが来るのは言語 の共通性だが、54位に「主義」80位に「人民」112 位に「革命」がくるのはいかにも現代中国風と見え た。日本語その他の言語と比較すれば興味深いこと がいくつも見出されるだろう。
私は丁寧に謝辞を述べて学院を辞した。(未完)
あずま
元関脇東関親方訪問記
−検定教科書著者として−
佐 藤 秀 志 21年間お世話になった、奈良教育大学を離れる日 が近づいてくると、いろいろなことが走馬燈のよう に浮んでくる。英語科教育を担当して、中学・高校
° °
生に英語の何を、どう教えるかを学生と共に考える のが私の主な仕事であった。
中学や高校の検定教科書を編集し始めてから30年 近くになるが、とくに中学の教科書作りが難しい。
新鮮で、心温まり忘れ得ぬ教材を、と心がけている のだが、限られた文型・文法事項、語いの範囲で、
やさしい英語にまとめるのは容易ではない。徹夜す ることもしばしばであった。
漁師の息子、中浜万次郎を扱うときは高知県の中 浜へ、「少年よ大志を抱け」のクラーク博士を題材 にするときは、北海道大学の「北方資料館」へ飛ん だ。本年3月まで全国中学生のうち160万人の生徒 に使用されている3年生の教科書の最後の課に「高 見山」を入れようと思ったのは6年前のことであっ た。初の外国人関取で、日本人の妻、渡辺加寿江さ
んの夫、渡辺大五郎の人間味、ユーモアあふれる ttshowmanship にふれさせ、中学を巣立つ生徒に 彼の「シンポー・ドリョク」を見習ってはしかった からである。
1984年5月20日、高見山はファンの大声援に送ら れて蔵前国技館を去った。今の中学生にはテレビで ふとんの宣伝をしている彼のイメージしかないであ ろう。先日亡くなった春日野理事長は、高見山を讃 えて、「習慣・風土の違う日本に来て本当によく辛 抱した」と異例の談話を発表した。高見山の出現に よって、外国人ファンが増え、日本の国技が海外に 大いに紹介されたことは彼の偉大な貢献で、この意 味で彼は国際親善に貢献したノヾイオニアである。彼 が勝っても負けても土俵のスターになったのは、相 撲に強かったという点にあるのではなく、彼の天性 のやさしさと人間味、つぶれた声に溢れ出るユーモ
アにある。ちなみに現役時代の彼は身長192cm、体 重も192短という同じ数字であった。
引退の翌年、年寄「東関」親方は、大相撲の一行 に加わり、ニューヨークへ行った。テレビで、高見 山が紋付きを着て、英語をしゃべっている姿が何と もユーモラスであった。彼は文字どおり国際親善の 大使であると感じた。
1986年5月、東京墨田区の東関部屋で9人の新弟 子の訓練に余念のない親方と2時間の対談ができた のは一生の想い出となった。相撲の稽古場で「マタ
ワリ」をやっている新弟子たちに、竹刀を持った親 方がどなる。日本語でどなる。そして容赦なく竹刀 が新弟子の背にふり降ろされる。部屋を開いてから
「関取り」が誕生するまでに10年はかかると彼は言う。
「関取り」とは十両から上位の力士のことである。十 両からサラリーがもらえる。高見山は最初の給料 55,000円をハワイの母親に送ったと昔を偲んで目を しぼたたく。今年の初場所が終って間もなく、この 新弟子の中から「関取り」が誕生した。しこ名を曙
(あけぼの)という。将来が楽しみである。
インタービューの前にいくつか質問を用意したが、
じっくりと考え、ジェスチャーをまじえて答える親 方には誠実さがこもっていた。(ただし時折あやし い日本語で聞きとれないことがあった。)
Q:相撲をやってみようという気になったのはど ういうことからですか?。
A:20年以上も前の話ですけど、高校の時フット ボールやってて、その監督が日系人の方で、
その人から重量挙げと相撲やってください、
と言われて……それで好きになった。
Q:食べ物、とくにチャンコなんかすぐ食べられ ました?。
A:まあ、2年かかった。チャンコおいしいと思 うようになるにはね。かみさん(高砂親方夫 人)がベーコン、玉子、パンの特別食を用意 してくれて嬉し泣きに泣いた。
Q:稽古で辛かったことは?。
A:マタワリがどうしてもできず、涙を流したけ ど、それを「日から出た汗よ」て、言いまし た。
Q:今まで楽しかったことは何ですか?。
A:やっぱり、女房もらって、子どもできて、み
んなでしゃべったり遊びに行ったりするのが 一番楽しかった。
Q:親方が最初に覚えた日本語は?
A:シンポー(辛抱)
高見山が序の口から三段目時代の「タイヤ引き」
の新特訓について、加寿江夫人から直接話を聞いた。
大阪の高砂部屋宿舎は、南区中寺町の久成寺と決 まっているが、このお寺の前の道路は、下の高津神 社から続く幻メートルはどのゆるい坂道になってい る。「タイヤ引き」というのは、自動車の古タイヤ を三つ重ねた上に兄弟子を一人乗せ、ロープの先を まわしに巻きつけて、この坂道を上って行く。渾身 の力をふりしぼって・ズルッズルッ、やっと一歩、
二歩ずつ動かしていく。それはマタワリ以上の難業 苦業であった。ジェシーの場合入門が19才と遅く、
人一倍のトレーニングを必要としたようである。こ んな辛抱や努力が続けられたのは、やはりノ\ングリ ー精神があったからであろう。
最近は土俵で塩を派手にまく力士が増えて、1日 45キログラムも要るという。こういう力士と対戦す るときの高見山は、対照的に指先でちょっぴりつま み、ちょんはじいて観客を笑わせる。傷だらけの最 後の土俵でも、これをちゃんとやっていたのが昨日 のことのように思い出されるのである。
この対談で一番耳に残るのは、次のことばであ る。
「20年間相撲をとれたことがわたしの誇りです。
金星の数とか、いろんな記録は、それに比べたら 何でもないです。20年間ねえ。」
東関親方は本年春場所から大相撲審判部員になる ため、日本語の特訓を受けているという。審判とし ての彼の活躍ぶりをテレビで見られる日も近い。人 生の楽しみがまた一つふえた。
(開隆堂 中学校検定教科書Sunshine English Course Book3の高見山物語冒頭のページ、1990 年3月でこの課は消える。)
(1990年2月25日記)
洗 髪
北 川 尚 史 先日、母の十回忌を迎えた。母は70歳の誕生日の 翌日に脳溢血で倒れ、そのまま意識を回復すること もなく、2週間後に病院で息をひきとった。自分も 苦しまず、周囲の者にもあまり迷惑をかけず、母が 生前に望んでいたとおりの死に方であった。後から 気づいたが、母は死の予感があったのであろう、倒 れたときの用意をしていた。押し入れの中の箱や、
たんすの引き出しに「主人、冬物下着」などと、他 人にも中身がすぐに分かるように紙を貼り、身辺を きちんと整理していた。気配りの濃やかな母らしい
最期であった。
世の母親と同様に、母はたいへんな子煩悩で、父 は母に対して鬼子母神というあだ名をつけていた。
鬼子母神は他人から幼児を奪って食べたが、わが子 は溺愛したのだという。わが家のtt鬼子母神 も子 供たちに対して、たしかにやさしかったが、一つだ け怖いと思ったことがある。それは髪を洗う姿であ る。頭も顔も石鹸の泡にまみれて真っ白で、充血し た目がこちらを見ており、お化けに睨まれているよ うで、たいそう気味が悪かった。母と一緒に風呂に 入っていたのは小学校に上がるまでで、すでに半世 紀も前のことであるが、子供心にもよほど怖かった のであろう、いまでも母の洗髪の姿をありありと覚 えている。私がちょろちょろして落ち着きがなかっ たので、母は髪を洗う問でさえ目を離さなかったの であろう。
最後に石鹸を洗い流すときに長い髪が前に垂れて、
ほんのしばらくの間、顔が隠れるのも怖かった。幽 霊を見るような恐怖感があった。なぜ、そんなこと を考えたのであろうか、顔が見えない、そのごく短 い間に、母が、知らない、よそのおばさんに変わっ てしまうのではないかと不安で、胸をどきどきさせ、
その姿を見つめていた。そして、洗い終えて髪を掻 き上げ、いつもの顔が現れると、心底、はっとする のであった。大きくなってから知った「変貌」とい う言葉は、私にとって、母と一緒に風呂に入ってい たときに抱いた、せっぱっまった不安感と結びつい ている。
人格は幼児期に形成されるという。幼児のときに 母のtt変貌 を恐れて小さな胸を痛めたが、ほとん どあり得ないことを想定して心配するというその性 癖はその後の人生にも続いた。ひどく心配性なので あり、この年になっても、いくつもの杷憂を抱き、
片ときも心の休まることがない。
女性が髪を洗ったり琉いたりする姿は、あでやか
であるということになっており、妖艶とか埠嫡とか と形容され、その髪はなぜか、みどりの黒髪という ことにきまっている。そして、洋の東西を問わず絵 画のモチーフとなっている。しかし、幼児のときの Il刷りこみ のためであろう、私にはいかにも不気 味であり、他人に見せてはならない姿としか思えな い。「髪は烏の濡羽色」は女性の髪の美しさを表現 したものであろうが、私には、女性の洗髪を連想し て、ひどく気味が悪い。
わが家でも、夜中に家内や娘が風呂場で髪を洗う 水音が聞こえると、妖怪が一匹、忍びこんでいると いった思いで、とても覗いてみる気にはなれない。
うつむいて、ひっそりと髪を洗っている女性がひょ いと振り向いたところ、その顔が、目鼻のないのっ べらぼうか、口が耳まで裂けた口裂け女か、はたま た、虚ろな目を向けるしゃれこうべか、であり、覗 いた側が驚博して、ぎゃ一つと悲鳴を上げて、のけ ぞるといった怖い場面を思い浮かべるのである。激 しい音楽とともに舞台が暗転し、「見たな−」の 怨嗟の声、のシーンであり、「雪女」や「牡丹燈籠」
の世界である。
最近まで髪を洗うとき、深々と頑を下げ、固く目 を閉じていた。洗い終わるまで目を開かず、蛇口を ひねったりするのも手探りで行なっていた。これは、
石鹸の溶けた水が目に入ると痛いことを小さいとき から知っており、それを防ぐための長年の習慣であ る。しかし、最近、そうだ、母は目を開いて髪を洗 っていたなと気づき、自分でも実行してみた。なる ほど、少しぐらいは目を開いていても、石鹸が目に しみることはない。石鹸を洗い流すときも、そんな に背中を曲げて深々と頭を垂れなくても、軽くうつ むきさえすれば、大丈夫である。
散髪屋で頭を洗うときも、初めから終わりまで、
ぎゅっと固く目をっぶり、息も詰めて、苦しい思い をしていた。洗い終えると、うつむいた顔の前に手
を回して、乾いたタオルで拭いてくれる。そのとき にようやく安心して目を開き、フウツーと大きく深 呼吸をしていたが、これも実に馬鹿ばかしいことで あった。長年の間、髪を洗うぐらいのことで、そん なに力むことはなかったのである。
ごく日常的な事柄は、かえって他人との違いに気 づきにくいものである。トイレに入って用を足すとき、
下半身、素裸になるものと思いこんでおり、ズボン やパンツを脱いで肩に担いでいたという人の話を何 かで読んだことがある。たしかに裸になった方が気 分は爽快であり、誰もができればそうしたいと思っ ているであろうが、忙しい社会はそれを許容しない。
社会の規範は、きわめて個人的なトイレの中の行為 にまで及んでおり、そのような贅沢を異端と見なす のである。
歯科医で治療を受けるときは目をつぶる方が正し く、誰もがそうしているにちがいない。眼前で行な われる、おぞましい治療を見るのは怖いので目をつ ぶるのである。ダチョウは、追い詰められて土壇場 になると、やにわに砂の中に首を突っこみ、危険が 眼前から去ったと錯覚して、切ない最後の安息を得 るという(注)。歯科の患者は、眼前にある、まがま がしい針もピンセットもグラインダーも存在しない、
自分はただ静かに寝ているのだと、ダチョウのよう に錯覚しようとするのである。また、目を見開いて いると、医師がやりにくいであろうという配慮も目 をつぶる動機となっているであろう。
髪を洗うとき、手探りで物を探さなければならな いほどに固く目をつぶるのは間違いであろう。50歳 を越えて、ようやく自分の愚かさに気づいたが、こ れも母のおかげである。なにしろ、母は鬼子母神で ある。妖怪変化のたぐいであり、死後も子供たちか ら目を離さないのである。そして、気配りが濃やか なのであり、また、あまり表には出さなかったが、
芯は勝ち気な女性なのである。小さいときから、ぼ
んやりして要領の悪かった息子を、はらはらして見 守っていたのであり、その慈愛は死後も続いている のである。まこと に、母の愛は海よりも深い。
、その後、銭湯で他人が髪を洗う様子を気をつけて 観察し、おとなでも、十人に一人以上の割合で、か っての私と同様に、固く目をつぶって手探りで石鹸 やカランを探していることがわかった。それを見る につけ、丁同士よ、目を開け、少しうつむいてさえ おれば、そんなに固く目をつぶらなくても、頑から 垂れ落ちる水は目に入りはしないのだ。そのために、
人間には眉毛がありこ 捷毛があるのだ」と教えたく て、うずうずしているが、お節介すざるという分別 が働き、言い出せない。ときどきは老人が固く目を つぶっているのを見かけるが、この人は一生、気づ かないままであろうかと、ひとどとながら気になる のである。
近頃は髪を洗うとき薄目をあけているが、ときど き、ことさら大きく目を開いている。それほど大き く目をあける必要もないのに、これまでの元をとろ うとカッと見開くのである。これがエスカレートし て、先日、歯医者に行ったとき、治療中に突然、大
きく日を開いてみた。看護婦の真剣な顔が文字通り 目と鼻の先にあったが、口の中を覗きこんでいる彼 女は当方が目をあけていることに気づかない様子で あった。目と口を大きくあけて凝然として動かず、
仏像になった、仏像になった、痛くない、痛くない と自分に言い聞かせるのである。痛みも、悩みも、
苦しみもない極楽浄土に遊んでいるという錯覚に自 分自身を追いこもうという魂胆である。
親が鬼子母神ならば、子はいまや不動明王であり、
舌り目天である。
(注)ダチョウを追い詰めたときに示す、その行動 の擬人的な解釈は古くから行なわれており、クロー ド・ベルナールの古典『実験医学序説』をはじめ、
何冊かの本で読んだ記憶がある。しかし、最近、読
んだ本では、一般に鳥類は追い詰められて逃れるす べがないときに、地面にかがまり、尻を上げて、交 尾の姿勢を示すが、これは降伏の意を表す命乞いの
サインであり、ダチョウも同様であるという。
西安の 印象
三 辻 利 一
西北大学との国際共同研究のため、この三月、西 安市を訪ねる機会を得た。西安市は周、秦、漢、唐 代にわたり、中国の都があったところであり、中国 内の他の場所に比べて遺跡の数はずっと多い。わず か10日余りの短かい滞在ではあったが、その間に垣 間見た風景の印象について書いてみた。
西安に来て2日目の午前中、空も晴れ上がってい たので、長安城壁を見物することにした。西安市は 現在でも東西方向に約4キロ、南北方向に約3キロ メートルの長方形の城壁に囲まれている。この城壁 は唐代のものではなく、唐代の皇城の城壁(図1)
みん
を基礎にして明代に修築したものであるが、ほぼ完 全な形で残っているという点で世界的にも珍らしい ものである。東西南北の四面の城壁の中央には、そ れぞれ、門楼が残っているが、現在、入門を許可し ているのは南門楼と西門楼だけである。早速、南門 楼から登ることにした。楼門上から城内を見下ろす と、正面には北大街がまっすぐ北に延び、その両側 には堂々たる近代ビルが立ち並んでいるが、ビルの 裏側には古めかしい瓦をのせ、今にも崩れそうな壁 の家がいくつも見られた。このように、西安市はい たるところに新しいものと古いものとが同居した都 市である。そして、北大街の真申には古い鐘楼がか すんで見えた。西安市のメインストリートはこの鐘 楼を起点にして四方向に延びており、それぞれ、東、
西、南、北大街という。いずれも、自動車や自転車 で混雑していた。時折、自動車、自転車の間をくぐ ってロバに引かれた荷車も行く。路面までも古代と 現代がどちゃ混ぜになっている。明代にはこの鐘楼 で鐘を打って城内の人々に時を知らせたというが、
いまはただ、近代ビルに囲まれて、四辻の中央にぽ つんと立っているばかりである。楼門の上から東西 方向を眺めると、足もとから一直線に城壁が両方に 延びており、その両端は黄砂で白くかすんだ不透明 な空間に消えていた。そのせいか、城壁は一層長く 延びているようにみえた。踵を転じて南方に臨むと、
城外に遠く、近代ビルに混じって、唐代の大小、二 図1.
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つの雁塔がかすんでみえた。唐代の城壁は図1に示 すように、大雁塔の外にまで広がっており、城域は 現在の六倍はあったと言われている。これで、いか に長安の都が大きかったかが理解できた。奈良の平 城京はとてもその比ではない。千二百年の昔、この 巨大都市は百万ないし二百万の人口をもち、そこ一に は、世界最高の文明が栄えていた。この文明を求め て、世界の各地から人々が集まり、一種の国際都市 であったという。そして、日本からも多数の留学生 が派遣され、この文明の吸収に努めた訳である。我 が大学のキャンパスに眠る吉備真備もその一人であ
った。
巨∃盟回回匹∃
芸至芸≡≡≡±圭≡
至宝
宝[三重R国REヨ 囲盟[室田[三三]巨惑 囲匿£睾]E忌監理
巨ヨ巨三]臨麗聖巨ヨ匡∃
≡享享葦重要享書芸芸
巨∃[亘:∃[三三][遍巨弓
Fこ .!掠三五 [ヨ回回巨]
回回巨二司Eヨ[=]
音化円 墳櫨門 0 1 山
図2には西安市周辺の遺跡を示す。私たちは西安 に来て3日目から、これらの遺跡に案内していただ くことになった。西安市の東郊外には秦の始皇帝陵
や兵馬桶博物館がある。整然と隊列を組む兵馬個群 をじっと眺めていると、何処からともなく、ざくざ くとジャリを踏む始皇帝軍団の勇荘な足音の響きが
聞えてくるようであった。一方、なだらかな形をし
りぎん
た堀山の山麓には華清池温泉がある。いまでも温泉 として利用されているが、玄宗皇帝の時代には離宮 があった。楊貴妃が浴した浴場遺跡も発掘中であっ たが、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの跡を止どめる ものは何もなかった。華清池をとりまく雰囲気がど ことなく穏やかであり、青白く満る水面にうつる柳 の水影に甘い歴史の痕跡があるといえば言える程度 であった。華清池は古代史ばかりでなく、現代史に もかかわりをもつ。蒋介石が国共合策に失敗し、張 学良の軍団に追いつめられ、逮捕された西安事件も この華清池での出来事であった。蒋介石の居室や、
逮捕された場所も見物客で賑わっていた。この古代 と現代の歴史劇の奇妙なとり合わせにとまどいを感
じない訳にはいかなかった。他方、西安市の北部を 流れる清水を渡ったところに、周代、漢代の王陵墓 群が並ぶ。さらに西へ行くと、成陽市の西郊外には 十八人の唐代皇帝の陵墓が並ぶ。そのうち、昭陵(2 代目皇帝の陵墓)は海抜千メートルを越す山を利用 した墳墓であり、数十キロメートル四方の陵城内に
ばい
は、一族・重臣達の陪塚を200基近くももつ大規模 なものである。3代目皇帝高宗の乾陵も山を利用し た規模の大きな陵墓であり、その参道(神道とも言
う)は1.5キロメートルにも及ぶ。この参道の両側 には人、馬の石像群が遠々と並んでいた。もし、参 道の入口から陵墓を見上げれば、陵墓の頂上はまさ に天に突きささるように見えたであろう。皇帝とは 天に通じる路を通って地上に降って来た存在である
というイメージを強烈に与えるような墳墓であった。
天帝という概念が実在感をもってひしひしと感ぜら れた。これらの陵墓から出土した数多くの遺物は各 々の陵墓の付属博物館に展示されていたが、日本の 遺跡出土品に比べて、とりわけ、石材遺物や青銅製 品の多い点が目立った。石材では墓誌銘を刻んだも のが多く、青銅製品では食器類(祭杷道具を含めて)
が多く、日本の出土品のように、鏡が少なかったこ とは意外であった。これらの遺物は唐代の中国には いかに石材や青銅の素材が豊富であったかを物語る とともに、これらの材料を細工した技術の驚くばか りの高度さを見せつける。間違いなく、ここには高 度の文明が実在したのである。これに比べれば、同 時代の日本には文明らしいものはなかったのかもし れない。
私は歴史を見る眼として、文明の伝播にポテンシ ャル論を適用したら、もっと明快に歴史を読めるよ うになるかもしれないという期待をもっている。重 力の場では位置の高いところから低いところへ向っ て物体は落下する。化学反応も化学ポテンシャルの 高いところから低い方へ向って進行する。所謂、自 由エネルギーの減少である。同様に、文明と文明が 接触するときには、「文明のポテンシャル」の高い 地域から低い地域へと「文明」は伝播する。
明らかに、唐代には中国の「文明のポテンシャル」
は高く、周囲の地域へ「文明」を伝播したのである。
古代日本もこのポテンシャルの落差を痛感し、命を かけて遣唐使を派遣したのである。それでは現在、
「文明のポテンシャル」の落差はどのようになって いるのであろうか。中国に比べて、日本国内の物資 の豊富さ、設備、交通機関の便利さ、出版物の豊富 さなどがきわだって目立つ。「文明のポテンシャル」
の実体は何かと言われると、私も簡単に答えられな い位難しいものであるが、仮りに、「生活の便利さ」
を当てはめるとすると、文句無しに日本側に「文明
のポテンシャル」は高い。古代から現代へと1200年 の年月の移り変わりの中に、「文明のポテンシャル」
の高低は大逆転してしまったのである。どうしてこ のような逆転が起ったのだろうか。この解答には「日 本とは何か」という問題も包含されており、私にと ってはきわめて興味深い問題である。今度の中国出 張は私にいろいろのことを教えてくれた。(了)
大雁塔を望む
乾陵の参道に並ぶ石像群