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『後二条師通記』の伝本と受容

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Academic year: 2021

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(1)

    『後二条師通記』の伝本と受容

      

中丸   貴史

はじめに

  本 稿 で 対 象 と す る『 後 二 条 師 通 記 』( 以 下『 師 通 記 』) は 院 政 期 初 頭 の 関 白 藤 原 師 通( 一 〇 六 二 ~ 一 〇 九 九 ) の 日 記 で あ り、いわゆる貴族たちが記した漢文日記(古記録とも)と言われるテクス ト

(1)

の一つである。しかしながら、これらのテクス トが「古記録」と呼ばれ「史 料

(2)

」としての価値が重視されるあまり、各テクストの個別の論 理

(3)

については見過ごされてきた 感が強い。   『 師 通 記 』 の 時 代 は 白 河 院 政 の 始 ま り に あ た り、 時 代 の 転 換 期 で あ る。 三 十 八 歳 と い う そ の 早 す ぎ る 死 は、 摂 関 家 の 衰 退 を加速させることともなった。そしてこの時代、それ以前からの日記が蓄積されて「家記」とされて「日記の家」を形成す る

(4)

。日記の家の形成は、家と職掌の固定化、また政治の儀式化という時代の状況と密接にかかわるものであり、摂関家は道 長の孫の師実あたりから日記の家化が進むと松薗斉は指摘す る

(5)

。しかしながら師実の日記『京極関白記』は断片的にしか伝 わ ら な い。 そ の 父 頼 通 の 日 記 も ほ ん の わ ず か が 逸 文 で 知 ら れ る の み で あ る

(6)

。 摂 関 嫡 流 の 日 記 は 道 長 の『 御 堂 関 白 記 』 以 降

(2)

は、 『 師 通 記 』 が ま と ま っ て 残 る の み で あ り

(7)

、 同 じ 漢 文 日 記 で は あ る が、 し か し『 御 堂 関 白 記 』 と『 師 通 記 』 に は、 な に か 根源的な相違があるものと論者は考えてい る

(8)

。よって、まだ研究の少ない『師通記』を始発として、論者はこの数年来、書 くことの論理、テクストの生成と構造、学問、漢籍、知の形成との関係などさまざまな観点から論じてき た

(9)

。そしてその先 には貴族たちが熱心に記し続けた漢文日記というテクストがどのようなテクストであるか、また他のテクス ト

((

との関わりも 探っていくことを目的としているわけだが、実際のところ『師通記』だけでもさまざまなことが見えてきた。   本 稿 で は そ の よ う な 目 的、 見 通 し を 意 識 し つ つ、 『 師 通 記 』 の 現 存 す る 伝 本 と、 記 主 で あ る 師 通 没 後 の『 師 通 記 』 が ど の ように受容されたかについて考えてみたい。現存する『師通記』はそれが書かれてから時代の荒波をくぐりぬけて我々の目 の 前 に 存 す る の で あ っ て、 師 通 存 命 中 の そ れ そ の も の で は な い。 な ぜ 現 存 の 状 態 に な っ た か、 を 考 え る こ と は、 『 師 通 記 』 の受容のみならず、 『師通記』そのものを考える際にも重要な視点を与えてくれるものである。

二  伝本状況

  『師通記』は、永保三年(一〇八三) 、師通の任内大臣の直前から、関白在任中三十八歳で薨去するわずか十一日前の承徳 三年(一〇九九)六月十八日まで、途中五年分を欠くものの十七年間にわたって書かれている。ここではまず大日本古記録 の解題(以下、解題)によって伝本状況を確認し、考察をすすめてみたい。   今日まで残る『師通記』の伝本は大きく四種類に分類することができる。自筆本、古写本、転写本、予楽院本がそれであ る

((

。転写本以外の伝本はすべて陽明文庫に伝わったものである。

(3)

自筆本   まず自筆本であるが、一巻で寛治七年二月二十二日の別記である。これは後三条天皇皇女篤子内親王が堀河天皇に中宮と し て 立 后 し た 日 の 儀 式 次 第 で あ り、 『 師 通 記 』 の な か で は 唯 一 の 自 筆 本 で あ る

((

。 た だ し、 解 題 も 指 摘 し て い る よ う に「 筆 勢 奔放であつて、抹消加筆」なども多く、草稿本である。

古写本   つづいて古写本は二十九巻が現存する。二十七巻巻末の奥書に「仁平元年四月九日校了、登宣」とあり、古写本の書写年 代についての奥書きはここのみであるが、解題では「紙質・筆蹟・校合の状態等より推して、此の時期に他の巻も写された も の と 見 受 け ら れ る 」 と 推 測 し て い る。 ま た、 現 存 の 古 写 本 の 奥 書 に 記 名 の あ る 人 物 の な か で「 成 隆 」「 登 宣 」 は、 師 通 の 孫 に あ た る 藤 原 頼 長 の 家 司 藤 原 成 隆 と、 近 習 の 儒 者 菅 原 登 宣 で あ る と 考 え ら れ る。 古 写 本 二 十 九 巻 の 形 態 は 次 の 通 り で あ る。

古写本二十九巻の形態

巻 年季 原褾紙外題 褾紙外題 奥書

任大臣 永保三年 春夏 「永保三年別記

正月十九日」

「永 保

(朱)

(「後二条」)

年 」  「校了」

永保三年 秋冬 「永保三年 秋冬 」 「永保三年」 「校畢、成隆」

永保三年 四季 ナシ 「永保三年」 「見合了」 「校合了、盛栄」

別記

4 応徳元年 春夏   四季 「応徳元年 」 「応徳元年」 「校了、盛康」

春夏

5 応徳元年 秋冬 ナシ 「応徳元年」 「校了、盛栄」

(4)

6 応徳二年 春夏   春夏秋 ナシ 「応徳二年」 「校了、盛栄」

7 応徳二年 秋冬 ナシ 「応徳二年」 「校合了、成隆」

8 応徳三年春夏 ナシ 「応徳三年 五月十三迄記 」 「校合了、成隆」

9 寛治二年春夏 ナシ 「寛治二年 春夏 」 「校了、季倫」

0 寛治三年春夏 「寛治三年 春夏 」 「寛治三年 春秋 」 「校了、成隆」 (朱) 「一校了、有親」 「校合了、成隆」

寛治三年秋冬 「寛治三年 秋冬 」 「寛治三年」 「校了、季俊」

寛治四年春夏 ナシ 「寛治四年」 「校合了、盛栄」

寛治四年秋冬 「寛治四年 秋冬 」 「寛治四年」 「比校已了」

4 寛治五年 春夏 「寛治五年 上 」 「寛治五年」 「交了」

5 寛治五年 夏 ナシ 「寛治五年」 「交了」

「以下別記」とあり。 ※二度目の秋の条のはじめに別筆で

6 寛治五年 秋冬 秋 ナシ 「寛治五年」   「校合了、盛栄」

7 寛治五年 冬 ナシ 「寛治五年」 「比校了」

8 寛治六年夏 「寛治六年 夏 」 「寛治六年 夏 」 「比校已了」

9 寛治六年秋 「寛治六年 秋 」 「寛治六年 秋 」 「校了」

0 寛治六年冬 ナシ 「寛治六年 冬 」 ナシ 寛治七年秋 「寛治七年 秋 」 「寛治七年」 「校了、盛栄」

寛治七年冬 ナシ 「寛治七年」 「校合了、盛栄」

嘉保元年御暦裏 ナシ 「嘉保元年御暦裏」 ナシ 4 永長元年春 ナシ 「永長元年 春 」 「重校了、在乗」 「校了、成隆」

5 永長元年夏 「永長元年 夏 」 ナシ 「校了、季倫」

(5)

6 永長元年秋 ナシ 「永長元年 秋 」 ナシ 7 永長元年冬 ナシ 「永長元年 冬 」 「仁平元年四月九日校了、登宣」

8 康和元年春 「康和元年 春 」 「康和元年」 ナシ 9 康和元年夏 ナシ 「承徳三年」 「校了、成隆」

※ 古 写 本 に お い て 重 複 記 事 が 認 め ら れ る も の の な か で 永 保 三 年 か ら 応 徳 二 年 ま で の「 本 文 A 」 に 当 た る も の に は 二 重 傍 線、 「 本 文 B 」 に 当 た る も の に は 波 線を ほ どこした、寛治五年の場合は「別記」に二重線、 「本記」に波線を ほ どこした。

転写本   転写本は現存する古写本には無い、応徳三年秋冬・寛治二年秋冬・寛治五年春・寛治六年春・寛治七年春・同年夏を転写 し た 本 文 で あ り、 こ れ 以 外 の 年 季 は 存 在 し な い

((

。 つ ま り「 此 等 諸 本 は 近 衛 家 よ り 古 写 本 の 中 少 く と も 六 巻 が 或 る 時 期 に 出 て、それが転写流布されたものである事明瞭である」 (解題) 。以下にあげたものが主な転写本である(※印は大日本古記録 の交合に用いられたも の

((

)。

   宮内庁書陵部所蔵葉室本(六冊本)※    同        久世本(三冊本)※    同        柳原本(六冊本、内二冊は後補)※    同        内藤本(一冊本)※    同        鷹司本(六冊本)    同        壬生本(一冊本)

(6)

   同        藤波本(五冊本)    同      御系譜係本(一二冊本)    同        柳原本(九冊本)    同        柳原本(八冊本)    神宮文庫所蔵宮崎文庫本(六冊本)※    同        吉見本(五冊本)※    内閣文庫所蔵松山文庫本(六冊本)    同     和学講談所本(五冊本)    東山御文庫所蔵本(五冊本)    京都大学附属図書館所蔵平松本(六冊本)    京都府立図書館所蔵本(五冊本)    東京上野図書館所蔵白河文庫本(五冊本)    大倉山文化科学図書館所蔵本(五冊本)    森末義彰氏所蔵阿波国文庫本(五冊本)

また、これらの転写本は二つのグループに大別できる。一つは鷹司本・吉見本・平松本をもって代表とし、もう一つは葉室 本・ 藤 波 本・ 阿 波 国 文 庫 本 を も っ て 代 表 と す る。 後 者 が 応 徳 三 年 九 月 五 日 条、 「 参 殿 」 以 下 十 六 文 字 を 欠 く の が 大 き な 特 徴 である。久世本のように前者と後者が混入しているものもある。

(7)

予楽院本   最 後 は 予 楽 院 本 で あ る が、 こ れ は 三 十 二 冊、 江 戸 時 代 の 写 本 で あ る。 予 楽 院 近 衛 家 煕( 一 六 六 七 ~ 一 七 三 六 ) は 有 識 故 実、 漢 籍、 和 歌 な ど に 通 じ、 多 芸 多 才 を も っ て 知 ら れ て い る が、 『 御 堂 関 白 記 』 を は じ め と す る 家 記 の 書 写、 保 存 に も 力 を 尽くした。これがいわゆる「予楽院本」である。解題では予楽院本と転写本の関係について、予楽院本六冊と転写本諸本と 対校した結果、諸本には共通しておりながら予楽院本にのみ相違している箇所がかなり散見され、その上諸本の中で特に平 松 本 と 予 楽 院 本 の 両 者 の み 共 通 の 部 分 も か な り の 数 に 上 る と 指 摘 し、 「 家 煕 の 時 代 以 前 既 に 此 等 の 古 写 本 は 近 衛 家 よ り 出 て 転写流布されてゐた。そこで彼は先づ自家に伝はる古写本を以て予楽院本を作り、次いで流布された諸本の中平松本(又は その系統本)六冊を求めて」書写してその欠を補ったと推測している。なぜ平松本かという問いには解題は平松家の当時の 当主時方(一六五一~一七一〇)が家煕の有識故実の相談相手であったことで解決している。また、この六冊について他の 冊 と を 比 較 し て そ の 相 違 を 探 り、 「 外 題 の 書 法・ 褾 紙 の 文 様・ 綴 糸 の 色・ 本 文 の 紙 質 等 の 諸 点 を( 相 違 と し て ) 見 出 し 得 る のであつて、此の六冊が後に補つたものである事論を俟たない」としている。

伝本の特徴   以 上『 師 通 記 』 の 伝 本 に つ い て 概 観 し て き た が、 こ れ を 年 代 別 に 表 に す る な ら ば 本 稿 の 最 後 に あ げ た「 『 師 通 記 』 記 述 期 間

伝本対照表」のようになる。表にすると『師通記』の伝本の特徴が一目瞭然である。ここからわかる伝本の特徴をまと めると以下のようになる。

  ①古写本、永保三年・応徳元年・同二年の三ヵ年の重複記事(本文 A と B )   ②古写本、寛治五年の重複記事(本記と別記)

(8)

  ③古写本と転写本の相互補完関係   ④古写本+転写本=予楽院本   ⑤現存しない時期の記事   ①に関しては、本文 A の記事に、後に加筆修正を加えたものが本文 B であり、本来破棄されるはずの本文 A の記事が残っ たのは記主師通の突然の死が関係するであろう、という結論を別稿で述べ た

((

。   ② は 同 じ 重 複 記 事 で も ① の 重 複 記 事 と は 別 の 論 理 で 作 ら れ た、 本 来 的 な 本 記 と 別 記 の 関 係 に 近 い だ ろ う と い う 見 通 し を もっているが、詳細な分析は別稿を用意してい る

((

。   この①と②に関しては、師通が日記を記すなかでの試行錯誤、いわば漢文日記というテクストの生成過程を考えるのに有 益な用例となるわけであるが、言い換えるならば、記主師通自身の手によって生成されたテクスト群であると考えるが、本 稿では、主に師通死後の『師通記』を対象とする。よって③以降、特に③のような現存状況となったのはなぜかを考察して いきたい。

三  日記を秘蔵する

  転写本は解題でも指摘しているように、摂関家で保管されていた『師通記』のテクストが、ある時期に一部、この場合、 応徳三年秋冬・寛治二年秋冬・寛治五年春・寛治六年春・寛治七年春・同年夏の記事が、外部に貸し出されたか何かして流 出し、貸し出された本文は散逸してしまい、それを写した本文が世に出たものと考えられる。一方で陽明文庫に伝わる本文

(9)

以外で、外に伝わる本文というのが、これらの年季の記事だけに限られるというのは、それ以外の本文は長い間厳重に摂関 家で保管されてきたことを示すものである。   また、予楽院本は江戸期に作成された本文であるが、古写本にない年季の記事が予楽院本にもないということは、予楽院 本が作成された段階ですでにそれらの記事がなかったことを示すものである。古写本にも転写本にもない年季というのは、 寛治元年、嘉保元年、同二年、承徳元年、同二年であるが、これらについても後で述べたい。   こ こ で は 先 学 の 研 究 に 導 か れ な が ら、 『 師 通 記 』 の 本 文 の 流 出 が、 言 い か え れ ば 別 写 本 の 作 成 が、 一 部 に と ど ま っ た こ と の論理を確認してみた い

((

a 『中右記』天永二年(一一一一)六月二十四日条 依

吉日

大宮右大臣殿御記一巻、以

消息

奉新大納言

也。件記相伝在

此家

。彼人年来可

見之由雖

示、未

見 也。 而 倩 思

此 事

、 一 日 之 中、 此 人 已 昇

大 納 言

、 定 知

大 任

歟。 可

一 家 之 相 門

之 人 也。 不

此 記

者、為

我家

誠無

心事也。仍今令

見了。

b 『中右記』保安元年(一一二〇)六月十七日条 今 日 私 暦 記 部 類 了 。 従

寛 治 元 年

此 五 月

卅 四 年 間 暦 記 也 。 合 十 五 帙 百 六 十 巻 也 。 従

去 々 年

今 日

。 分

侍 男 共

、 且 令

書 写

、 且 令

切 続

、 終 其 功 也。 是 只 四 位 少 将〈 宗 〉、 若 遂

奉 公 之 志

者、 為

公 事

抄 出

也。 為

他 人

定 表

鳴 呼

歟、 為

我 家

何 不

忽 忘

哉。 仍 強 尽

老 骨

部 類

也。 全 不

披 露

。 凡 不

外 見

。 努 力 々 々。 若 諸子之中居

朝官

時、可

見少将

也。

(10)

c 『山槐記』永暦元年(一一六〇)九月十日条 自

大 納 言 殿

故 殿 御 記

書 取。 年 来 有

御 秘 蔵 気

、 而 近 会 参 入 之 次、 不

披 露

并 不

女 子

、 早 可

書 取

之 由 被

仰。仍乍

悦令

申請

忩書取了。已如

青眼

、感涙難

禁。春日大明神御恵也。

  a は、記主藤原宗忠の叔父宗通が大納言に昇進したので、祖父の俊家の日記「大宮右大臣殿御記」を見せることにした。 この日記は嫡流相伝のものであり、以前より宗通が見たいと所望してきたが閲覧をゆるさなかったものの、このたび大納言 に昇進し、今後も一門を背負っていく一人として、一門のために見せたのだという。   b は、宗忠が自らの日記を部類したというもので、寛治元年からこの五月に至る三十四年間にわたるものであったから、 十 五 帙 百 六 十 巻 に な っ た と い う。 一 昨 年 よ り、 侍 男 ど も に 書 写 さ せ た り 切 継 ぎ さ せ た り し て こ の 日 完 成 し た と い う。 ま た 「 四 位 少 将〈 宗 〉」 、 つ ま り 嫡 男 宗 能 の た め と 我 が 家 の た め に 老 骨 に 鞭 打 っ て 部 類 し た こ と と、 他 見 を 強 く 禁 じ、 一 門 の 人 間 でも宗能より借りて見よと書かれているのである。   c は、記主である藤原忠親が、兄である大納言忠雅から「故殿御記」つまり父忠宗の日記を借りて写したことが書かれて いるわけだが、兄忠雅は以前より「秘蔵気」があったのだという。他人に見せないこと、女子には伝えないこと、早く書き 取るべきことを条件に書き取ることができたわけである。忠親は「感涙難禁。春日大明神御恵也」とまで書いている。   これらの例からは、日記が一門の宝として主に嫡流によって秘蔵されるものとして認識されていたことが確認できるだろ う。このような現象について、松薗斉は「日記の家」と「家記」の形成と構造の観点か ら

((

、神田龍身は情報の公開と秘匿の 観点から論じている が

((

、ここでは、そういった発想があったということが確認できればよい。   一 方 で、 秘 蔵 さ れ ず に 公 開 さ れ て し ま う 日 記 も あ っ た。 初 期 の 漢 文 日 記、 『 醍 醐 御 記 』『 村 上 御 記 』『 李 部 王 記 』『 清 慎 公 記』などの日記は、日記が儀式書編纂の材料として供されてしまうなど、また別の論理が存在するわけだが、家の日記とし

(11)

て の 意 識 が 強 ま る な か で 秘 蔵 さ れ ず に 世 に 出 て し ま っ た 日 記 が あ っ た。 こ れ ら の 日 記 は「 家 」 が 衰 退 し、 「 家 記 」 と し て 維 持できなくなったり、また当時の権力者の要請に応じて「献上」した結果、世に出回ってしまうなどである。   現存の『師通記』はある意味、摂関家内で秘蔵されていたとみてよいわけだが、ある意味、と書いたのは、一部の年季の 記事が、古写本にも転写本にも残っていない ほ か、実のところ自筆本はなくなってしまっているという事実があるためであ る。 摂 関 家 の 日 記 で 言 え ば、 道 長 以 降、 頼 通 は ま と ま っ た 日 記 の 執 筆 も 疑 わ し い が、 そ の あ と の 師 実 の『 京 極 関 白 記 』、 師 通の孫にあたる忠通の『法性寺関白記』も断片的に伝わるのみである。摂関家の文倉になにか決定的な出来事があったこと が 想 像 さ れ る が、 次 に 師 通 死 後、 『 師 通 記 』 は ど う な っ た の か、 そ の 足 跡 を 年 代 順 に 追 っ て み た い。 な お、 本 稿 で は ひ と ま ず西暦一一二〇年くらいまでの日記を対象とした。

四  その後の『師通記』

その受容

   ①『殿暦』康和三年(一一〇一)八月十一日条    十一日、庚子。今日不出行。後斎。    裏書。今日 初故二条殿の見

御暦日記

。実神妙也。委事実以神妙也。

  『 殿 暦 』 の 記 主 は 言 う ま で も な く、 師 通 の 子 の 忠 実 で あ る。 師 通 が 亡 く な っ た の が 承 徳 三 年 = 康 和 元 年、 こ の 記 事 の 書 か れた康和三年二月には祖父師実までも亡くなっており、この時忠実は二十四歳で右大臣。屋台骨を次々に失ったこの時期、 摂関家は未曾有の危機にあったといえよう。この記事は師通の死後、師実のもとにあった『師通記』が師実の死によって忠

(12)

実 の も と に 渡 っ た こ と を 示 し て お り、 「 神 妙 」 を 繰 り 返 し て い る こ と か ら も、 二 十 四 歳 の 忠 実 の 身 に 日 記 の 家「 摂 関 家 」 の 重責がのしかかったことがうかがわれる。

②『殿暦』長治二年(一一〇五)一月二十五日条 巳剋許着

直衣

参内〈しのひて参也。用北陣。 〉。酉剋許着

束帯

御前

〈桜下襲、紺地平緒。故大殿康平四年二月始 令

除目執筆

給、而着

御桜下襲

。見

二条殿寛治八年御記

。〉 。

  県 召 除 目 に 際 し て、 忠 実 は 桜 下 襲 を 着 し た が、 こ れ は 康 平 四 年( 一 〇 六 一 ) 二 月 の「 故 大 殿 」( 師 実 ) の 例 に 拠 っ た も の であり、その根拠が「二条殿寛治八年御記」となっているのである。

③『殿暦』天永二年(一一一一)十二月一日条 一日〈己丑〉 。天晴。今朝頭弁実行従

院為

御使

来云、御書始之間御装束・御読書文机等事也。余云、此三物従

院被

献候ハむ能

候歟。   余今夜宿侍。 故 殿 御 記 云、 寛 治 元 年 十 二 月 廿 四 日 御 書 始 也。 主 上 着

御 直 衣

〈 織 物 御 直 衣、 内 蔵 寮 勤 仕 者。 〉。 又 故二条殿御記 云、 織物直衣・小口御袴者、此由奏

院。内蔵寮勤由仰下了。今日依

余物忌固

、不

御堂

  読 書 始 の 装 束 に つ い て 法 皇 の 諮 問 に 答 え る 際、 「 故 殿 御 記 」 つ ま り 師 実 の『 京 極 関 白 記 』 寛 治 元 年 十 二 月 二 十 四 日 の 例 を 参 照 し た あ と、 「 故 二 条 殿 御 記 」 を 引 い て い る の で あ る。 忠 実 は 実 の 父 で あ る 師 通 を「 二 条 殿 」 と 呼 び、 祖 父 師 実 を「 故 殿」と呼んでい る

((

(13)

④『殿暦』天永三年(一一一二)十一月一日条裏書 入

宣 仁 門

奥 座

。 自

北 第 二 間

北 柱 下 東 面、 不

内 裏 儀

、 是 依

里 亭

也〈 着 間 儀 如

常。 〉。 座 暖 之 程 起 座、 経

本 路

敷 政 門 下 尻

〈 弁 以 下 有

床 子 座

。 余 過 間 弁 以 下 々 床 子 座 深 揖。 但 先 例 不

此 座

歟。 其 由 見

二条殿御記

。〉 。

  この日、忠実は従一位になったのち初めての着陣となった。引用場面は当時里内裏であった大炊御門殿での場面である。 ここで問題となっているのは、忠実が通り過ぎる際に、弁以下は床子に着し深く揖していたわけだが、先例では床子には着 さないのではないか、とその根拠として『師通記』を引いているのである。

⑤『法性寺関白記』天治二年(一一二五)九月十四日条 今 日 主 上 召

舎 人

之 声、 仰

中 臣 之 詞

。 具 雖

故大殿御記

、 帝 王 御 作 法 偏 難

凡 人 日 記

、 加

之 未

口 伝

。 仍 今 朝 以

頭 弁 雅 兼 朝 臣

法 王

云 、 此 日 主 上 御 作 法 何 様 可

行 哉 。 具 奉

聖 訓

、 将

叡 聞

者 。 頭 弁 還 来 、 被

之 旨 甚 有

子 細

、 不

委 記

。 抄

出 後 三 条 院 延 久 三 年 群 行 御 記

下 給

之。 拝 見 之 処、 文 筆 甚 妙、 儀 式 分 明 而 已。

  法性寺関白は忠実の子、忠通である。日記は断片的にしか伝わらないが、本条は九条家に伝わる忠通唯一の自筆である。 忠 通 は こ の 時 従 一 位 摂 政。 こ の 日、 崇 徳 天 皇 の 即 位 に 伴 う 斎 宮 守 子 女 王 の 伊 勢 群 行 が あ っ た。 忠 通 は 天 皇 の 作 法 に つ い て 「 故 大 殿 御 記 」 を 見 る が、 臣 下 の 日 記 に は 帝 王 の 作 法 は 載 っ て い な い し、 加 え て こ れ に 関 す る 口 伝 も 知 ら な い と 記 す。 よ っ

(14)

て、 頭 弁 源 雅 兼 を 使 い と し て、 白 河 法 皇 に 問 う た と こ ろ、 抄 出 し た「 後 三 条 院 延 久 三 年 群 行 御 記

((

」 を 下 さ れ た と い う の で あ る。 「文筆甚妙」と感動を記している。   こ の「 故 大 殿 御 記 」 が そ の 関 係 か ら 考 え て『 師 通 記 』 で あ ろ う と 考 え ら れ る の で あ る

((

。 な お、 『 師 通 記 』 執 筆 時 期 の 群 行 は、善子内親王の寛治三年九月十五日である。

⑥『中右記』保延三年(一一三七)九月一日条 一日。依

薤不

御燈祓

、是先例也。    中宮御不例間、被

御燈事

。殿下御消息、   嘉 保 二 年 九 月、 公 家 御 咳 病、 無

御 湯 殿

。 仍 被

御 燈

。 依

院 御 時 例

也 者。 二条殿 并 為 房 卿 日記 也。 依

此 例

。 明日中宮御燈可

停止

侍也。御悩未

尋常

、無

御湯殿

之故也。加

之御起居不

御坐

也。不具謹言。     右大臣殿   中宮が不例の場合に御燈が中止されることについて、宗忠が殿下、つまり忠通に尋ねた際の忠通からの手紙である。ここ には嘉保二年九月に天皇が「咳病」となったため御燈が中止になったという。そしてそれは『師通記』や藤原為房の『為房 卿記』にあるのだという。   ここで注意したいのは、これが書かれたのは『中右記』であるが、実際に『師通記』や『為房卿記』を引いているのは、 手 紙 の 筆 者 た る 忠 通 で あ る と い う こ と で あ る。 『 師 通 記 』 を 宗 忠 が も っ て い る の で は な い と い う こ と で あ る。 ま た、 こ こ で 『師通記』とともに『為房卿記』が引かれているのは、師通の家司たる為房の日記は、 『師通記』と相互補完の関係にあった からであ る

((

(15)

⑦『台記』永治二年(一一四二)一月七日条 先 年 禅 閤 仰 云、 若 位 記 莒 緒 忘 却 不

解 付

内 哉、 召

内 竪

之。 因

之 今 日 内 竪 令

解 也。 外 弁 着 座 後、 余 問

左 大 将

。答云、以

職事

解之様覚也。内竪解申不

分明

者。帰亭後引

見西北両抄并行成抄

。更無

此事

。匡房内弁細記 云、 内 弁 召

女 蔵 人

解 云 々。 則 重 尋

申 宇 治 殿

。 仰 云、 内 竪 解 事 西 北 二 抄 全 不

見 也。 故二条殿 寛 治 比 内 弁 時、 令

内 竪 解

一レ

之。 匡 房 依

何 文

書 置 哉、 不 審。 二条殿御記 件 事 被

書 付

之 由 不

覚、 然 而 依

口 実

此 侍 也〈 已 上 宇 治 殿 御 返 事 〉。 今 案、 此 一 門 専 以

内 竪

解 也。 後 日 見

承 平 六 年 正 月 七 日 外 記

。 内 弁 大 納 言 恒 佐 卿、 位 記 莒 依

例 当

内 弁 前

台 盤 上

。 而 内 弁 召

内 竪

、 令

下 莒

庭 南

。 大 失 也 云 々。 今 案

之、 以

取 下

失。 以

内 竪

失。仍 二条殿 令

内堅解

給歟。

  『台記』の記主は忠実の子で忠通の弟にあたる頼長である。この日は白馬の節会。位記の莒の緒を解くことについて、 「禅 閤」つまり忠実の述べたことに従って内豎に解かせたが、このことを左大将源雅定に問うと、職事に解かせると記憶してい る と 言 う の で、 帰 宅 後、 「 西 北 両 抄 并 行 成 抄 」 つ ま り『 西 宮 記 』、 『 北 山 抄 』、 『 権 記 』 を 見 た が、 そ の こ と に 関 す る 記 述 は な く、 「 匡 房 内 弁 細 記 」 に は 女 蔵 人 に、 と あ っ た。 そ れ ゆ え に 再 び 父 忠 実 に こ れ を 問 う と、 故 二 条 殿、 つ ま り 師 通 が 寛 治 年 間 に 内 弁 を 行 っ た と き に、 内 豎 に 解 か し て い た、 匡 房 は 何 を 根 拠 に 女 蔵 人 と し た の か 不 審 で あ る が、 師 通 の 例 も、 『 師 通 記 』 のどこにあるか覚えていないのだ、と言う。その後頼長は、承平七年の『外記日記』などを根拠にして、師通は内豎に解か したのかと推測しているのである。   位 記 の 莒 の 緒 を 解 く こ と を め ぐ る 説 で あ る が、 雅 定 は 職 事 に、 「 匡 房 内 弁 細 記 」 は 女 蔵 人 に と す る。 頼 長 は ま ず は 忠 実 の 仰せを根拠に内豎にと考えるが、その根拠を文献に求めようとする。しかし文献に求めようにもまだ自身のもとには多くの

(16)

文書があるわけではない。ここで頼長が引いている『西宮記』 、『北山抄』 、『権記』などは一般にも流通していたもので、い わ ば 摂 関 家 の 作 法 を 知 る た め に は 摂 関 家 の 記 録 類 を み る 必 要 が あ っ た の だ が、 そ れ は 父 忠 実 が 所 持 し て い る の で あ っ た。 よって忠実に尋ねることになったわけだが、忠実は「匡房内弁細記」が女蔵人とする根拠はいったい何の「文書」によるか と不審を述べる一方、師通の寛治の例も、根拠となる日記の記述までには到達しないのであった。それでも頼長が『外記日 記』にまであたりその根拠を求めようとする厳密さには彼の執念すら伺える。

⑧『台記』久安三年(一一四七)二月六日条 六日、庚子。依

例講

左伝

。講師俊通、問者頼業、成佐。自

今度

注記

、依

左相府出家

詩。聞

尼御前疾

。 即馳参。頃之出。 今日聞

前二条関白 、及京極大殿御記

、見

一上礼法、及殿上別当、橘氏是定事

。 二条記 、殿上別当事、無

所見

  この日は、 『春秋左氏伝』の講読会があったが、 「左相府」つまり源有仁がこの三日に出家したことを受けて詩会はなかっ た。こののち尼御前(父忠実の正室源師子)が病であると聞いた頼長はすぐに馳せ参じ、そこで父忠実より、一上の礼法、 お よ び 殿 上 別 当、 橘 氏 是 定 に つ い て『 師 通 記 』『 京 極 関 白 記 』 に あ る と 聞 い て、 そ れ ぞ れ を 確 認 し た が『 師 通 記 』 に は 殿 上 別当のことは書いていなかったというのが大体の内容である。   『 春 秋 左 氏 伝 』 の 講 読 会、 尼 御 前 の 病、 そ し て そ こ で 聞 い た こ と の 内 容、 こ れ ら は 別 々 の 事 象 で あ る よ う だ が、 実 は そ れ ぞれが有機的に繋がっている。風流人として名高かった花園左大臣有仁は一月三十日に左大臣の職を辞し、右大臣の職は保 延四年(一一三八)藤原宗忠が辞して以降誰も就いていなかったから、つまり、この段階で左右大臣は不在、内大臣であっ た頼長が一上となるのであった。要するに尼御前の病によって忠実邸を訪れた頼長であったが、そこで忠実から、一上とし

(17)

て、 そ し て 兄 で 摂 政 の 忠 通 に 代 わ っ て 摂 関 家 を 継 ぐ も の と し て『 京 極 関 白 記 』『 師 通 記 』 を 見 て 学 ぶ よ う 言 わ れ た の で あ っ た。   こ の 二 日 後 に は 次 の よ う な 記 事 が あ る。 『 師 通 記 』 に は 言 及 が な い が 摂 関 家 の 中 で の 日 記 の 伝 領 を 知 る 重 要 な 記 事 な の で 引用する。

『台記』久安三年(一一四七)二月十一日条 十一日、乙巳。始

湯治

〈毎日二度。 〉。禦

風。戌刻、初見

周礼疏

。首付、又勾

要文〈為

裏書

。〉及論議之文

、自 筆抄

論議

、本経合

疏見

之。不

一文

〈但不

高読

。〉 。禅閤被

御堂御記、京極殿御記

之由、喜悦尤甚。貞信 公、 九条殿御記、 先年了。始

今日

、 命

当講證

禅、 毎日、 令

文殊真言五万反

、 祈

論義智慧開発及早終

一レ

功。

日 記 を め ぐ る 記 事 の 前 に 学 習 記 録 が あ る こ と は 興 味 深 い が、 禅 閤 忠 実 よ り『 御 堂 関 白 記 』『 京 極 関 白 記 』 を 贈 ら れ る こ と を 知らされ「喜悦尤甚」と述べ、 『貞信公記』 『九暦』は先年すでに受け取ったと記しているのである。摂関家累代の宝物であ る日記群が贈られる意味は大きい。そしてこの二日後の十三日、源有仁は亡くなり、三月二十二日、頼長は一上宣旨を蒙っ たのであった。

⑨『台記』久安四年(一一四八)七月十一日条別記 今日、乞

入内日記於人々

〈敦経奉書。 〉。 尋

召日記

人々。     皇太后宮大夫〈宗能〉 、入道右府〈宗忠〉 、敦経、為

御使

行向。

(18)

    権中納言〈公能〉 。季仲卿。左宰相中将〈忠基〉 、経信卿・忠教卿。敦経行向。     資信朝臣、小野宮、資平卿、資房卿。     俊雅朝臣、経頼卿。     師能朝臣、土御門右府、堀川左府。     維順朝臣、匡房卿。     親隆朝臣、 〈為輔・隆方・為郷・顕郷・為隆卿・顕頼卿・重隆〉 。     憲方、隆方・為房卿・為隆卿。     光頼、為房卿。     範家、行親・定家・時範。     時信、知信。     師安、二代御記・寛平御記。    九月廿七日、申

一院

。    一院、 〈後朱雀院御記・後小野宮・経信卿・一条院・後三条院・小野宮・保光・相尹・為輔・師時・雅兼〉 。    宇治殿、 〈御堂・御暦・京極右・大治御記〉 。    摂政殿、 〈相午卿・行成卿・自筆・ 二条殿 ・大治御記〉 。     自

本在

此殿

御記等、      貞信公、九条殿、一条殿、文殿、      李部王、小一条、二東、川右、      大右、

(19)

     後冷泉院御記。

  これは頼長が養女多子の近衛天皇への入内にあたってその先例を調べるために集めた日記の数々を記したものである。こ の記事の三行目以降の冒頭にあげられた人々が日記を所持している人間で、その下に書かれているのが所持している日記で ある。松薗斉はここに当時の家記の構造をみることができると述べている が

((

、摂関家においては宇治殿=忠実は『御堂関白 記』や『京極関白記』など家記の中心となるものを手放していないことがわかるし、摂政殿=忠通は『師通記』を所持して いることがわかる。

⑩『台記』久安六年(一一五〇)十二月二十四日条 後 聞、 今 日 右 大 臣 補

美 福 門 院 別 当

。 故 三 条 左 大 臣、 〈 俊 房 〉、 為

白 川 院 別 当

之 例 云 々。 後 日 勘

例、 故後二条殿 、 内 大 臣 後、 為

院 別 当

之 由、 見

彼御記

。 今 朝、 禅 閤 請

余 内 覧 等 於 法 皇

。 々 々 手 詔 曰、 明 春 内 覧 宣 旨 事 者、 自

此 仰 下、更不

其煩

之由、存恐給也。上卿自

此召儲テ、召

職事

仰下。誰人可

妨侍

乎。

  後で聞いた話として、この日美福門院別当に右大臣源雅定が補されたと記している。これは雅定の大伯父にあたる三条左 大臣俊房が白河院別当に補された先例に依るものだそうだが、頼長は自らも『師通記』を引いて先例を確認しているのであ る。また、忠実が院に内覧の宣旨を給わるよう請願することも同時に書かれており、美福門院・忠通との対立のなかで人事 をめぐる駆け引きを垣間見ることができる。

⑪『台記』久安七年(一一五一)一月三日条

(20)

今 日、 余、 及 兼 長 卿、 螺 鈿 釼、 有 文 帯、 師 長、 朝 長、 蒔 絵 釼、 丸 鞆 帯。 京 極 殿 、

 

          、 禅 閤、 先 年 附

属 関 白

已 了。 今 日 使

前 肥 後 権 守 頼 賢〈 付 也 〉 乞

一レ

之。 即 付

頼 賢

奉 之

。 前 筑 前 権 守 清 高 〈 蔵 人 五 位 〉 承

関 白 仰

、 大哭、開

書倉

、 取下納

御記

之櫃上、授

頼賢

云々 。

  先 年 既 に 関 白 忠 通 に 渡 し て い た『 京 極 関 白 記 』『 師 通 記 』 の「 正 文 」 つ ま り、 自 筆 本 を 前 肥 後 権 守 源 頼 賢 を 使 っ て 奪 い 返 したのであった。ここに『師通記』自筆本は氏長者頼長の所蔵となる。

⑫『台記(宇槐記抄) 』仁平三年(一一五三)五月二十五日条 廿 五 日、 癸 丑。 依

窮 屈

参 上

。 書

請 補

別 当

。 御 堂 後二条 等 例 也〈 是 長 徳 元 年 五 月 三 十 日 文 殿 記、 寛 弘 八 年 六 月 十 三 日 行 成 記、 同 年 十 一 月 八 日 同 記、 嘉 保 元 年 三 月 十 九 日 自 筆 御 記 。〉 。 手 詔 曰、 何 事 之 有 乎。 但 近 代 無

此 事

、 定 有

傍 難 之 輩

歟。 往 昔、 大 臣 皆 補 向、 左 大 臣 俊 房〈 白 河 院 別 記。 〉 之 後、 不

其 例

。 二条関白 被

補 之 由、 未

承 及

。 如何。

  鳥羽院別当に補されるように道長や師通の例を引いて懇願しているが、白河院の反応は薄い。

   ⑬『台記(宇槐記抄) 』仁平三年五月二十七日条    廿七日、乙卯。自

廿一日夜

、至

于今暁

甚雨。卯時始見

日脚

。今朝可

別当

之由、復奏

院。御報曰、為

院為

面 目

。 為

大 臣

益 歟。 納 言 時 不

補、 摂 録 後 被

補、 人 定 為 奇

歟。 太 政 大 臣、 右 大 臣 之 時、 還

補 院 司

、 任

太 政 大 臣

之 後、 依

先 例

之。 後 奏 曰、 頼 長、 保 延 二 年 十 一 月 十 三 日、 補

別 当

。 于

時 大 納 言、 被

納 言 時 不

後二条殿等御記正文

(21)

補之由

。是為

奇。太政大臣、去

別当

、於

理可

然。太政大臣不

大将、皇太子傅、蔵人所別当

、准知院司亦不

兼。 後二条関白 、被

関白詔

之後、辞

申院司

〈見

嘉保元年三月十九日彼記

。〉 。案

之、太政大臣、摂政、関 白之外、無

之。長徳元年五月廿八日、入道大臣、補

冷泉院別当

〈後日、勘

文殿記

、五月三十日也。思誤奏

廿 八 日

。〉 明 日 自

吉 日

、 有

便

補 歟。 但 若 当

御 衰 日

、 如 何。 御 報 曰 納 言 時、 被

院 司

、 今 已 忘 却、 愚 昧 之至也。入道、寛治春日行幸時、補

院司

、衣取

幣。朕参

春日時

、雖

彼例

、其時入道不

申出

。中心遺 恨 者 也。 従

二条関白 例

、 已 以 分 明、 可

仰 下

歟。 明 日 衰 日、 至

于 月 日

者、 何 必 守

先 例

乎。 復 奏 曰、 今 日 九 欠、 明 日 御 衰 日、 廿 九 日 遠 忌、 三 十 日 凶 会、 六 月 一 日 無

障、 但 授 職 拝 官、 不

必 択

一レ

日、 可

勅 定

。 御 報 曰、 来 月 一 日 無

障、彼日補

之可

宜矣。入

夜、参

御所

。頃之退下。是夜復雨。

  頼長は鳥羽院別当に補せられるよう再度請願する。しかし院は、頼長が納言のときに補せられることなく、摂録となった 後に補せられるのは世間が奇となすであろう、また太政大臣藤原実行が右大臣のときにまた院司に補せられたが、太政大臣 に任じられて後、先例がないために院司を辞したことをあげ、頼長の補任に難色を示す。これに対して頼長は、自分は保延 二年、大納言のときに別当に補せられているからそれは事実誤認であると反駁し、確かに太政大臣が院司を辞することは理 に か な っ て い る と 述 べ、 『 師 通 記 』 嘉 保 元 年 三 月 十 九 日 条 を 根 拠 に 師 通 が 関 白 の 詔 を 下 さ れ て の ち に 院 司 を 辞 し た こ と を あ げ、 太 政 大 臣、 摂 政、 関 白 の ほ か は 院 司 つ ま り 別 当 を 兼 ね る こ と に 妨 げ は な い、 ま た、 長 徳 元 年( 九 九 五 ) 五 月 の「 文 殿 記」つまり『外記日記』を根拠に、道長(このとき権大納言)が冷泉院別当に補せられたこともあげている。結果、院は師 通の例に従って頼長を別当に補すことを約束する。日記を駆使した頼通の粘り勝ちであった。ちなみに⑦でも頼長は『外記 日記』を調べており、頼長の『外記日記』重視の姿勢を垣間見ることができ る

((

(22)

⑭『玉葉』嘉応三年(一一七一)一月三日条 外弁不

諸司

事。 代々例無

所見

、而天永内大臣〈雅実〉 、被

之。中右記云、先例不

問歟。可

之。 又 寛治二条殿御記云 、不

諸司

〈上卿六条右府也。 〉。 又天永知足院殿御次第云、外弁上卿不

諸司

云々。就

此等記

、不

之也。

  『玉葉』は師通の曾孫にあたる兼実の日記である。高倉天皇の元服における「外弁不問諸司事」について、 『中右記』 ・「天 永 知 足 院 殿 御 次 第 」( 『 殿 暦 』 か ) と 並 ん で『 師 通 記 』 が 引 か れ て い る の で あ る。 『 師 通 記 』 の 例 と い う の は 寛 治 三 年 一 月 五 日の堀河天皇、また天永は、天永四年(一一一三)一月一日の鳥羽天皇の例である。これ以降、高倉までの間に崇徳・近衛 両 天 皇 が 在 位 中 に 元 服 を 行 っ て い る が、 「 外 弁 不 問 諸 司 事 」 に つ い て は「 代 々 例 無

所 見

」 と あ る よ う に、 崇 徳・ 近 衛 の 時 の先例が見つからなかったために、寛治の堀河の例をもちだしてきたのであろう。

⑮『玉蘂』建暦元年(一二一一)十月五日条 未 刻 許 詣

菩 提 院 禅 閤 御 許

〈 網 代 車。 〉。 於

門 外

下 車 候

公 卿 座

〈 寝 殿 南 廂 二 間、 当 南 敷 帖 一 枚、 次 間 二 行 敷 帖 二 枚。 〉。 以

人 入

見 参

。 小 時 禅 閤 出

居 東 障 子 内

、 自 巻

上 御 簾

対 面。 予 退

居 座 端

、 依

命 著

座。 是 礼 之 甚。 暫 而 言 談。奉

問大嘗会間事

。     (中略) 辰巳日外弁諸司事。 不

諸司

之条甚無謂、諸節必皆問

之、至

大嘗会

問哉。尤可

問也。但何諸司ニ可

問之哉事不

得云々。

(23)

予申云、寛治巳日有

沙汰

。只被

諸司

。上卿内大臣〈 後二条殿 也。可

然乎。 〉。 仰 云、 誰 人 記 哉。 即 二条殿御記 歟。 常 節 会 ニ も 只 問

諸 司

之 人 有

之。 不

甘 心

事 也。 然 而 此 安 何 諸 司 ト 不

得。 然 而付

略説

諸司

。何事有乎。予申云、江記見及也。 御記 未

見及候。大舎人刀袮列立、問

之如何。 仰云、何事有哉。さモ有ナム。 後二条殿記 早可

披見

云々。良久退出了。此外雖

申旨

具不

之。

  『玉蘂』は先の兼実の孫、九条道家の日記である。この日道家は菩提院に「禅閤」を訪ねる。 「禅閤」とは道家にとっては 大伯父にあたる松殿基房。基房は忠通の次男。このとき、兄の近衛基実はこの世になく、基房の弟で道家の祖父にあたる兼 実、そして父良経もこの世になかった。基房は政治的に失脚して長いとはいえ、摂関家における最長老であり、摂関家の故 実を語るにふさわしい人物であっ た

((

。この記事は「大嘗会」の辰巳の節会について基房に問う。寛治の例について道家が問 う と、 基 房 は、 そ れ は『 師 通 記 』 に あ っ た の か、 と 聞 き 返 す。 道 家 は『 江 記 』 は 見 た が、 『 師 通 記 』 は ま だ 見 て い な い と 答 え、基房は早く『師通記』を見るべきである、と述べるのであった。ちなみに寛治の例とは堀河天皇の即位に伴う寛治元年 の大嘗会のことである。

⑯『玉蘂』建暦元年(一二一一)十一月七日条 次 詣

菩 提 院

。 先 以

宣 房 朝 臣

見 参

公 卿 座

。 此 次 示 下 可

二 位 中 納 言

之 由 上。 帰 来 云、 入 道 殿 只 今 御 念 誦 之間也。二位中納言殿依

所悩

療治

、而未

復例

。不

下袴

之条尤有

恐歟。予云、凡一切不

其憚

、早 可

見参

者。即被

出逢

。暫言談之後被

帰入

了。即禅門出逢給〈巻

簾。 〉、不審事等粗問答了。   (中略) 一 外 弁 諸 司、 寛 治 例 後二条御記 、 何 様 所

見 候 哉。 仰 云、 雖

引 勘

所 見

。 省

略 記

。 凡 召

諸 司

事 未

見 及

候。 恒

(24)

問中古其クや、長和記ニハ見候歟。平治ニハ幼少ニテ無

沙汰

、付

近例

問候き。可

之条、無

異儀

、其詞未

得候也。

  ⑮ の 記 事 よ り 約 一 ヵ 月 後、 道 家 は 基 房 を 訪 ね る。 「 不 審 事 」 な ど を 尋 ね に 来 た よ う で あ る。 こ こ で 先 の 大 嘗 会 辰 巳 の 節 会 の「外弁諸司」について、寛治の『師通記』にどのようにあったかを尋ねているのだが、基房は、調べてみたが記述が簡略 で み つ け る こ と が で き な か っ た の だ と い う。 た だ し、 「 長 和 記

((

」 に は 関 連 の 記 述 が あ っ た の と、 平 治 の 例

((

で は 天 皇 が 幼 少 で あったために関連事項が行われなかったと答えている。この記事を見ると『師通記』を見たのは基房であって⑮の「早可披 見」という言葉もどうやら基房が自分自身に言ったようである。

⑰『玉蘂』嘉禎四年(一二三八)一月二十四日条 廿 四 日 、 天 晴 。 下 名 日 次 事 、 尋

遣 摂 政 許

。 返 事 云 、 未

申 上

也 。 廿 六 日 歟 。 明 日 必 可

参 内

云 々 。 任 大 将 召 仰 日 、 如

元永例

者二月二日也。今度又支干相叶。而為

大将衰日

之間、可

今月荒□

之由用意也。粗検

先例

之処、元永記 ニ 召 仰 日 非

受 官 日

、 不

日 次

、 雖

帰 忌 日

之。 此 外 衰 日 吉 事 例 多 存。 仍 猶 可

二 月 二 日

歟 之 由 被

擬。又予可

樺桜下襲

、可

浮文

歟。可

固文

歟。老屈之身固文可

宜歟。 又 随 身 著

染 狩 袴

之 由、 見

嘉保御記

。 是 非

行 幸

染 分 歟。 番 長 二 藍、 近 衛 萌 黄 可

宜 歟。 以

此 等 条 々

合 前 博 陸

、返事也。任大将日御下襲、樺桜尤可

然候。 嘉 保 浮 文 之 由 見

中 御 門 右 府 記

。 一 向 不

彼 例

候 哉。 召 仰 日 事、 誠 雖

任 官 日

、 尤 可

御 衰 日

候 歟。 如

此事近代之風候歟。御随身装束、至

近衛

狩袴

候者。定非

行幸

染分候哉。番長二藍、近衛萌黄、誠可

宜候。 法性寺殿御時、度々如

此候。官人襖袴候者也。大将饗、於

入道相国

今出川新亭可

之由有

命、而定高卿於四辻女

(25)

院御所馬場頭滅、其間大略如

咫尺

、隔

小路

也。惣門見

通頗似

思慮

。然者於一条室町亭可

行歟。摂政此間可

近衛

云々。仍以

有長朝臣

遣之

。又以

此趣

粗示達了。

  記主道家の四男一条実経の任左近衛大将に関する記事である。問題となっているのはその日取りと装束、大饗の場である が、ここで嘉保・元永の例が先例として引かれているのである。嘉保の例というのは嘉保元年の忠実の任左大将、元永の例 と い う の は 元 永 二 年( 一 一 一 九 ) の 忠 通 の 任 左 大 将 を 指 す。 「 嘉 保 御 記 」 が『 師 通 記 』 で あ る が、 任 大 将 の 際 の 随 身 の 装 束 に関して引勘されているのである。

五  受容状況と伝本状況の関係

  以上をふまえ、以下ではこれまでみてきた伝本と受容の関係について考えていきたい。

師通→師実→忠実   承 徳 三 年( 一 〇 九 九 )、 師 通 は 三 十 八 歳 と い う 若 さ で 亡 く な る が、 そ の 二 年 後 の 康 和 三 年、 師 通 の 父 で あ り、 忠 実 の 実 質 的な後見人であった師実が亡くなる。①の『殿暦』の記事はそれから半年後の記事であるが、摂関家の重責とともに、一旦 師 実 の 元 に 保 管 さ れ て い た『 師 通 記 』 が 忠 実 の も と に 渡 っ た こ と を 示 す も の で あ る。 以 下 ④ ま で『 殿 暦 』 の み の 引 用 が 続 く。

(26)

忠実→忠通、そして強引に頼長へ

  保 安 元 年( 一 一 二 〇 )、 忠 実 は 白 河 院 の 勅 勘 を 蒙 り、 宇 治 で の 謹 慎 を 余 儀 な く さ れ る。 結 果、 翌 年 に な っ て そ の 子 の 忠 通 に関白宣下があり、藤氏長者となったわけであったが、⑤の『法性寺関白記』は『師通記』が孫の忠通に渡ったことを示す も の で あ る。 ⑥ の『 中 右 記 』 に も『 師 通 記 』 が 引 用 さ れ る が、 こ れ は 忠 通 の 手 紙 の な か に あ る こ と で あ り、 『 師 通 記 』 を 見 たのは忠通ということになる。   大 治 四 年( 一 一 二 九 )、 白 河 院 が 崩 御。 忠 実 は 再 び 鳥 羽 院 の も と で 内 覧 と な り、 政 界 復 帰 を 果 た す が、 関 白 で あ っ た 息 子 忠 通 と の 関 係 は 次 第 に 悪 く な っ て ゆ く。 一 方、 『 台 記 』 の 記 主 で あ る 頼 長 は 忠 実 の 宇 治 謹 慎 中 に 生 ま れ、 跡 継 ぎ に め ぐ ま れ ない忠通にかわって今後の摂関家を担ってゆくことへの忠実の期待は高まっていた。⑦の記事では『師通記』を見ているの は 忠 実 で あ る。 藤 氏 長 者 は 忠 通 で あ っ た が、 そ の 父 で あ る 忠 実 も 摂 関 歴 代 の 日 記 を み る こ と は 当 然 可 能 で あ っ た と 思 わ れ る。このとき頼長は世に流布していた日記のみを引勘しているのも注意しておいてよいだろう。まだ摂関家の伝家の日記は 閲覧を許されていないのである。   康 治 二 年( 一 一 四 三 )、 忠 通 に 基 実 が 誕 生 す る。 十 数 年 前 に 男 児 を 早 世 さ せ て 以 降、 後 継 の 男 子 に 恵 ま れ な か っ た 忠 通 は、すでに頼長を養子として迎えていたが、この基実の誕生が、父忠実と弟頼長との対立を深めるきっかけとなる。一方、 忠実の、頼長摂関後継計画は着実に進められてゆくことになる。⑧の『台記』もまさにその様子を伝える記事である。花園 左大臣こと源有仁が病を理由に左大臣を辞した。この時、すでに右大臣は空席であったから結果内大臣であった頼長が一上 と な る の で あ っ た が、 そ の 礼 法 を『 京 極 関 白 記 』『 師 通 記 』 を 見 て 学 べ と い う の で あ る。 ⑧ の 次 に あ げ た『 台 記 』 久 安 三 年 二月十一日条ではすでに『貞信公記』 『九暦』は受け取っていたが、そのうえ『御堂関白記』 『京極関白記』が頼長に渡され た こ と が 記 さ れ て い る。 こ の と き の『 御 堂 関 白 記 』『 京 極 関 白 記 』 は 次 の ⑨ の 記 事 か ら も 自 筆 本 で は な く、 そ れ を 写 し た 複

(27)

本であったことがわかるが、徐々に徐々に摂関家のエッセンスである代々の日記が頼長に渡る様子をみることができる。   久 安 四 年( 一 一 四 八 )、 頼 長 は 養 女 多 子 を 近 衛 天 皇 に 入 内 さ せ よ う と す る。 ⑨ の『 台 記 』 の 記 事 は ま さ に そ の と き、 各 家 の入内に関する日記を集めていることを示す記事である。摂関家が「摂関」として存立する前提は娘を天皇の妃とし、その 間に生まれた皇子が天皇となることによって権力をもつというシステムなのであって、頼長のこうした行為はまさに自らが 摂関となろうとすることを示したものなのである。頼長はここで集めた日記をもとに「入内旧記部類」を同年十一月七日に 完成させている。しかしながら、その娘多子にしても藤原公能の娘なのであったし、日記の収集も道長・頼通などの摂関全 盛期ではありえなかったことで、偽装の親子関係であるとともに、入内の根拠すらも日記を中心とした文書に頼らざるを得 ない、まさに空理空論が展開されているのであった

『師通記』の現存する唯一の自筆本が、入内記録であるというのもこ ういった問題と関係するかもしれない

。こののち久安六年、多子は皇后に冊立、その三ヵ月後には忠通の、やはりこれも 養女である呈子が中宮に冊立された。忠実・頼通と忠通との対立は決定的となる。   そして、久安六年九月二十五日、忠通が頼長への摂政譲渡を拒むに及んで、翌二十六日、激怒した忠実は宇治より上洛、 源為義らの武士を使って東三条邸を接収、氏長者の象徴である朱器・台盤なども奪取、頼長を氏長者にするという強硬手段 に出た。⑪の記事もこの延長線上にある。武力によって摂関家の累代の宝物を得るという、まさに保元の乱を予告するよう な象徴的なできごとであった。⑪の記事の出来事の一週間後の正月十日、頼長に内覧の宣旨が下されるのであった。   こうして『師通記』自筆本は頼長の蔵するところとなった。このあとの頼長は『師通記』を根拠に人事を主張することと な る( ⑫ ⑬ )。 ま た『 師 通 記 』 自 筆 本 を 手 に 入 れ た 頼 長 は 家 司 た ち に 命 じ て 早 速 副 本 を つ く ら せ て い る。 そ れ が 現 存 す る 古 写本である。古写本二十七巻末奥書の「仁平四年四月九日」という日付はまさにそれを証明する。

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頼長→忠通→基実→基房→基通→近衛家へ   保元の乱における頼長の敗死後、 『師通記』は忠通の元に戻ったと考えられる。その後、 『師通記』は⑭にあげた『玉葉』 に 引 用 さ れ る が、 松 薗 斉 は『 玉 葉 』 に 道 長 の 日 記 の 引 勘 が な い こ と、 「 余 依

家 記

、 不

此 事

」( 建 久 二 年 十 二 月 八日条)などとあること、のちの九条家の家記の内容などから、兼実は摂政・氏長者に就任した後も、摂関家の家記を ほ と ん ど 相 伝 で き な か っ た と 推 定 し て い る

((

。 確 か に 膨 大 な『 玉 葉 』 の 記 事 に 比 し て、 『 師 通 記 』 の 引 用 が ⑭ の み で あ る と い う の はいささか不自然であり、⑭で引かれている『師通記』も借りたものか、部分的に所持していたものであるとみた ほ うが穏 当かと思われる。   よって摂関家の家記は忠通没後、所領の相続同 様

((

、兄基実、一時的にその弟基房、そして基通へと渡り、近衛家の所蔵と なったと考えられる。九条家には伝領されていないのである。これを裏付けるのが⑮⑯の『玉蘂』の記事である。この二つ の記事において『師通記』を見ているのは「禅閤」松殿基房である。道家は見ていないのである。

失われた年季の記事の引用   本論では現存状況と、そして師通死後の『師通記』を西暦一一二〇年前後までの受容を確認した。ここまで明らかになっ たのは、自筆本のゆくえと古写本の流れであったが、ある時期に自筆本が失われ、古写本のみとなった、そして、その古写 本もある年季の記事が貸し出され

もしくは持ち去られ

、一方は転写され、一方は失われてしまったということは言える だろう。失われてしまった年季、寛治元年・嘉保元年・同二年・承徳元年・同二年の記事は古写本作成後の⑫⑬⑮⑯⑰で引 用 さ れ る こ と か ら、 自 筆 本、 古 写 本 と も に 存 在 し て い た と 考 え ら れ、 自 筆 本 が ま と ま っ て 失 わ れ た の ち に 古 写 本 の 寛 治 元 年・嘉保元年・同二年・承徳元年・同二年の記事も失われるに至ったと考えられる。   気になるのは、①~⑰までの記事において引勘された『師通記』で年季のわかるもので現存しない年季の記事が多いとい

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うことである。

   ◆寛治元年=③⑮⑯     同  三年=⑤⑭     寛治年間=⑦    ◆嘉保元年=②⑫⑬⑰    ◆同   二年=⑥      ※◆印は現存しない年季

  まず、失われた年季が、嘉保元年以降のものに集中するのは、嘉保元年三月に師通が関白、氏長者となっているからであ り、やはり引勘するのはこの時期に集中するのはいたしかたあるまい。引勘記事も嘉保年間が多いのもこの辺に理由がある だ ろ う。 現 在 の『 師 通 記 』 読 者 に と っ て は、 師 通 の 執 政 期 の 記 事 が 現 存 し な い の は ま さ に 痛 恨 で あ る が、 し か し、 一 方 で 『京極関白記』 『法性寺関白記』などの例も鑑みると、現存しないということは、その情報を欲した人がいて、持ち出された からなのであって、まとまって残るという現象はその反対であることの証左である。   ま た、 『 玉 蘂 』 の 記 事、 ⑮ ⑯ ⑰ で 引 勘 さ れ た 部 分 が 全 て 失 わ れ た 年 季 で あ る と い う の も『 師 通 記 』 の 現 存 を 考 え る ヒ ン ト となりそうである。⑮⑯では道家は直接『師通記』を見ていなかった。しかし、直接みていた基房にしても政治の中枢にい た わ け で は な く、 こ の 段 階 の 関 白 は 近 衛 家 実 で あ っ た。 治 承・ 寿 永 の 乱 な ど の 混 乱 を 経 て、 『 師 通 記 』 も 一 部 は、 と く に 失 われた年季の記事が基房など近衛家以外に拡散していた可能性もある。だから⑰の場合は道家が引勘できたとも考えられる のだが、ただし、道家は前年まで四条天皇の摂政であったから、自筆本を直接見ることが出来たとも考えられるので、断定

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は避けたい。

六  おわりに

  『 師 通 記 』 の、 今 我 々 の 目 の 前 に 現 前 す る テ ク ス ト は、 当 然 師 通 の 時 代 の テ ク ス ト そ の も の で は な い。 テ ク ス ト は 記 主 存 命中においては、記主自身の手によって生成されるが、その没後、記主の手を離れたときから、受容という第二の人生を歩 み

むしろこちらの ほ うがテクストとしては重要なことであろう、テクストが「古典」となるのもこのときである

、その 人生の途上で我々の目の前に現れるのである。受容という第二の人生はテクストの第二の生成期といってもよい。一方、受 容 す る 側 の テ ク ス ト、 例 え ば『 玉 蘂 』 に 関 し て 言 え ば、 一 条 兼 良 の『 桃 華 蘂 葉 』 に は、 『 玉 葉 』 の 八 合 に 対 し て 七 合 あ っ た というから、現存はその一部分に過ぎないわけで、要するに受容する側のテクストの現存状況も考慮に入れる必要があるだ ろう。 『師通記』も、そしてそれを受容する側のテクストも歴史の荒波のなかで奇跡的に残ったものなのである。   本 稿 で は こ の、 『 師 通 記 』 の 第 二 の 人 生、 第 二 の 生 成 期 に つ い て 考 察 を 進 め て き た。 結 果、 い ま だ 不 分 明 な こ と も 多 い が、西暦一一二〇年くらいまでの『師通記』のありかたは見えてきたかと思う。今後はこれ以降の『師通記』について取り 組みたいが、漢文日記受容の一側面はみることが出来たかと思う。

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参照

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本日演奏される《2 つのヴァイオリンのための二重奏曲》は 1931

The figures for Visitor Arrivals are definitive (2019) and provisional (2022), while * stands for the preliminary ones, compiled and estimated by JNTO..

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条第三項第二号の改正規定中 「

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借受人は、第 18