茨城大学教育学部紀要(教育科学)37号(1988)1−21 1
国語科教育における入間形成について(2)
一徳性の1函養など一
小 林 一 仁*
(1987年9月12日受理)
Problems of Character Building in the Teaching of the National Language (Kokugo−≧a)
Part 2
Kazuhito KoBAYAsHI*
(Received September 12,1987)
は じ め に
国語科教育の目標や内容は,まず言葉に関するところにあるが,言葉には人間の思想や感情が込 められるゆえに,それも含んだ人間形成を視野に入れることができる。明治期から昭和期一(戦時)
までの国語科教育においては,その目標と内容を言葉自体の能九技能の向上にかかわるところに 置くと共に,「教育二関スル勅語」に示された,忠孝を中枢とする徳性の酒養にかかわるところを 重視し,それを内在させた教材を用いる人間形成を含み込んだ。このことにつき,制度,教科書,
国語教育諸家の発言等に具体的に探って,跡をたどった。
一 明治期から昭和期(戦時)までに見る教育の理念とその形成過程,その強化
歴史上の事実,歴史的な変遷を追う一国語科教育における人間形成を見定めるために 今日の国語科教育において設定している目標や内蓉捲認識し,またそれに対する考えをまとめる ためには,日本が国家として国民皆学を目指し,学校制度を確立した明治時代以降において,国語 科教育の目標や内容をどう設定したか,つまり言葉の教育と人間形成,特に徳性の酒養などをどう 行ってきたかなどについて,歴史上の事実や変遷を見直し,概略を心得るということは意味なしと しないであろう。明治期から昭和期(戦時)までは国家主義,軍国主義の思想下にあった。まずそ れについて具体的に追いたい。人間形成は,ある思想に立脚した教育の理念に基づいて行われる。
この中枢となるものがあって初めて,その国家の,その時代の人間像が明確に描かれることになり,
*茨城大学教育学部国文科
日々の学習指導が具体的に確信をもって行われることになる。国語科教育は・教育全体の中の一翼 なのであるから,教育の理念が確立されているのなら,その下に指導目標も内容も設定されるはず
である。
この時代全体を貫いているのは「教育二関スル勅語」(明治23(1980)年)に表されている教育 の理念である,と考える。それに至るまでの経緯とそれ以後どう強化されたかなどを見ることにし
たい。
明治初期,準備期における「被仰出書」の教育観と「学制」の制定
近代国家としての教育制度はまずフランスのそれをモデルとした「学制」 (明治5(1872)年)
に示された。それを支える思想は「学事奨励に関する被仰出書(おほせいだされしょ)」 (太政官
布告明治5年)である.その冒頭文に「人々冒ち其の身を立て,其嵯(しんだいタを治め,其
驕iとせひ)譜にして,以つて其の笙(いつしやう)を鑛ゆゑんのものは施なし湯毒 ゚,智(ちへ)を開き,才芸(ぎりやうわざ)を長ずる(ます)によるなり。」とある。この「人 人自ら其の身を立て」云々の文言からは,国家主義ではなく,むしろ西欧の個人主義の影を読みとることができるであろう。これに福沢諭吉「学問ノススメ」の影響があると言われるゆえんである。 がく
アいて「而て,其の身を修め智を開き才芸を長ずるは,学(がくもん)にあらざれば能はず。」「是
もうけ
鼕w校の設あるゆゑんにして,」とある。それぞれの個人が学校に通って勉強することだ,それが
にちようじやうこう
人間を形成し,人間生活の基礎を作る,としている。学の内容としては「日用常行(ひびのみのお
さん しよ げんぎよ
アなひ),言語(ことばつかひ),書(てならひ),算(そろばん)」といった寺子屋ふうな学習
のう しやう こう ぎげい しくわん
燉eを初め,「士官(やくにん)農(ひやくしやう)商(あきんど)工(しよくにん)技芸(げい
ほうりつ せいじ てんもん いれう
にん),及び法律(おきて),政治,天文,医療(やまひいやす)等に至る迄,凡人の営むところ の事,学あらざるはなし。」などと,どんな職業のものであろうと,どんな内容のものであろうと 皆,勉強の対象となるとしている。徳性の酒養という面から言えば,「身を修め」は具体的に「日 用常行」つまり行儀作法,礼儀しつけとして挙げているものであり,加えて「言語」つまり言葉 遣いのしつけであろうが,これらは前時代から低流する儒教的なものに支えられてはいようが,つ まり常識なのであって,とりたてて思想的に芯を通しているものでもない。また「学制」 (文部省 布達,明治5年)中,下等小学教科として14,列挙しているうちに「修身(ギョウギ)」があり,
「小学教則」 (同布達番外,同年)に「修身口授(ギヨウギノサトシ)一週二字(注・時のこと)
3)
ヲ二日置キニー字 民家童蒙解童蒙教草等ラ以テ教師ロッカラ縷々之ヲ説諭ス」(第八級 六ケ月)
などがある。教科書は用いず,指導者が参考書等を利用して話をして礼儀作法などを教えるとして いる。殆ど現場任せであり,この程度では,教育の理念をなすというほどのものは持ちえていない,
と思われる。なお,国語科に所属すると考えられる教科としては「綴字(カナツカイ),習字(テ ナラヒ),単語(コトバ),会話(コトバッカヒ),読本,書憤,文法」を取り出し挙げることが できよう。これらについても「小学教則」に説明があるが,国語の言葉の能力,技能の習得を中心 としており,取り上げる教科書も例えば「読本読方」 (第六級)に「西洋衣食住学問ノススメ啓蒙 智恵ノ環等」などがあるように,知識的な教材が殆どである。理念に基づき人間形成に資するとい
う考えや姿勢は見られないと思われる。
教育の理念の下地を作った「教学大旨」「幼学綱要」に見る儒教的な道徳の思想
もとだながざね
明治天皇は,教育の理念を明確にするため,明治8(1874)年,儒学者である侍講・元田永孚に
小林:国語科教育における人間形成にっいて② 3
命じて「教学聖旨(教学大旨,小学条目二件から成る)」を起草させた。その教学大旨には「自己 以往,祖宗,訓典二基ツキ,専ラ仁義忠ヲ明カニシ,道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ,人々誠実品行ヲ 尚トビ」云々と記されており,儒教的な道徳を重視する考えを示している。これは江戸時代以来,
日本人がなじんできた思想であり生き方である。いわば,学制制定後の数年間,西洋近代の民主主 義,自由主義個人主義の思想に立脚した考え方を取り入れたり翻訳教科書を用いたりしたものの,
頭は先行しても心も体も付いて行けなかった,ということであろうか。それに,国力の充実を目指 す富国強兵策に必要な思想,教育の理念は,そうした移入したものでは,十分に成し遂げられない,
ということでもあったろう。
その元田が勅命により作成したr幼学綱要』 (明治14(1881)年,完成)は,その序文中に「故
みちび ここ
ノ之に道くに仁義を以てし,之を教ふるに忠孝を以てし,天下の民の志をして弦に一定せしむれば
その し ゐ
oでざる莫きなり。」と書かれてあるように,仁義忠孝の儒教道徳を理念として据える。また「今
えう ち な
幼稗の児,智慧未だ定まらず,慣染猶ほ浅し。是の時に於て,先づ之に教ふるに仁義忠孝の道を以
ならひ いりん
トし,浸漬酒蓄,習,性とならば,道徳是に由つて以て淳く,舞倫(注.人の道)是に由つて以て 正しく」云々とも述べている。本書の内容は四書五径等から取った箴言と和漢(日本と中国と)の 秀れた人物の挿話とから成る。その編目は論語仕立ての二十編から成り,「孝行第一,忠節第二」
に始まり,以下「和順,友愛,信義,勤学,立志,誠実,仁慈,礼譲,倹素,忍耐,貞操,廉潔,
敏智,剛勇,公平,度量,識断,勉職」である。これらを眺めていると,いわゆる修身の授業での 徳目がかなり出そろっていることが分かる。ただ,孝行が冒頭で忠節が続くというあたりが,過渡 期であることを思わせる。
この辺の事情につき一書に「十年代・二十年代 儒教主義の道徳教育が明治十二年(1879年)こ うから復活し,孝を第一にあげ,ここから忠を説いている。主従道徳の観念がまだ支配していた当 時にあっては,このほうが一般社会にうけいれられるものであった。これにつぐ時代が,明治二十 年代の国体の精華・祖先の遺風をとなえる国体信仰にもとづき,忠と孝を説く時代であるが,同時 に近代的な中央集権的官僚国家における国民生活にふさわしい徳目が列挙されるようになった。」
(古川哲史編『日本道徳教育史』 (角川全書31,昭和36(1961)年刊)中「第六章 近代社会の道徳教育」p.
200,波多野述麿執筆)という解説が見られた。
r幼学綱要』は,翌15(1882)年,宮内省から地方長官を通じ,全国の小学校に頒布された。こ の事実は,時代の推移に伴い,国家として教育の理念をどう考えていこうとしているかを明示して いるものと考えられる。そして,これは続く「教育勅語」で結実する。
明治期から昭和期(戦時)までの教育の理念「教育二関スル勅語」の発布
また,明治22(1889)年2月11日,大日本帝国憲法が発布された。ここにいわゆる天皇制が確立 する。政治的な機構が整備された上で,教育も国家として筋のある思想の下に教育の理念を明示し て国民を育成する必要があるゆえ,明治天皇は教育勅語を発布するため,元田の草案,井上毅の草 案を元に,時の首相山県有朋,文相芳川顕正らの意見を加えて修正し,成案を得た。 「教育二関ス ル勅語」は同23年10月30日,発布された。
これについての解説として例えば一書に「教育勅語ははじめ徳育の基礎を確立することから起草 され,修文の途中でも徳育の趣旨を書き表すことに重きをおいた。ところが,これが教育に関する
勅語として下賜されたので,国民教育全般が,この勅語の趣旨によらなければならないとされたの である。これは徳育がつねに,国民教育全般の根本となる重大な基礎であるとみられたためである。
このことは教育の内容を,教育勅語の趣旨によって組み立て直すという方策をとらせた。明治二十 四年十一月に「小学校教則大綱」が公布されて, (中略)そのなかで修身の教科目については,教 育勅語によらなければならないことが明らかにされたことはいうまでもない。そのほかの教科目の 教授の要旨についても,当時の事情を反映して,教育の内容に国家主義思想による改革を要望する ものが少なくない。」 (r近代教科書の変遷,東京書籍七十年史』東京書籍編,昭和55(1980)年刊,「第 一章 近代学校と教科書」P.27。海後宗臣執筆)云々と述べられており,これが以後の教育での人間形 成における理念とされたことが分かろう。勅語につき,一書には「天皇の有徳と臣民の忠誠が「国 体ノ精華」であり,同時に「教育ノ淵源」であると説いた第一段,「父母二孝ニ……(中略)……
天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と,十四の徳目を示した第二段,これらの徳は「皇祖皇宗ノ遺訓」
に発し永遠に遵守されるべき普遍妥当性を述べた第三段から成る。 (中略)発布後,文部省の手で 謄本がつくられ,全国の学校に配布。学校儀式などで奉読され,国民道徳の絶対的基準,教育活動 の最高の原理として圧倒的権威をもち,修身科をはじめ諸教科の内容はこれによって規制された。
とくに十五年戦争時には極端に神聖視された。」 (小学館r日本大百科全書6』昭和60(1985)年刊。
「教育勅語」の項。尾崎ムゲン執筆)とまとめている。修身科のみならず,どの教科にあっても,勿論 国語科もこの勅語の理念と徳目とに照らして作成された,ということになる。つまり,後に見るが 国定の国語教科書には,修身に関する教材が多数盛り込まれた。
教育制度,教育課程の推移を通して教育の理念を追う 4)
アこで教育課程の面から推移を追う。先に見たように「学制」(明治5(1872)年)では下等小 学教料は「綴字,習字,単語,会話,読本,修身,書憤,文法……」等であった。その中味につい ては「小学教則」 (同年)に記してある。明治12(1884)年,それらを廃し,新たに「教育令」(太 政官布告),翌年「教育令改正」(同)を出し,「小学校教則綱領」 (文部省達,明治14年)を出 している。綱領「第二条 小学初等科ハ修身,読書,習字,算術ノ初歩及唱歌,体操トス」とし,
程度は修身「簡易ノ格言,事実等二就テ徳性ヲ酒養シ兼テ作法ヲ授ク」,読書のうち読方は「以呂 波,五十音,濁音,次清音,仮名ノ単語,短句等」,作文は「近易ノ庶物二就テ其性質等ヲ解セシ メ之ヲ題トシ仮名ニテ単語,短句ヲ綴ラシム」のように記しており,国語関係の説明は,言葉に関 する知識・理解や能力,技能を育成するものであって,思想や道徳観を育成するなどの内容につい てのものではない。
その後,明治19(1886)年, 「小学校令」 (勅令)が出され,憲法発布(明治22年)を経て,教 育勅語の換発(同23年10月30日)される直前に,改正「小学校令」 (勅令,同23年10月7日)が出
された。この第一条には「小学校ハ児童身体ノ発達二留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並其生活 二必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」と記され,道徳教育を最初に記しており,連 動して「第三条 尋常小学校ノ教科目ハ修身読書作文習字算術体操トス」と修身を教科目の最初に 置いている。こうした流れを受けて「小学校教則大綱」 (文部省令,同24年)では「第一条 小学 校二於テハ小学校令第一条ノ旨趣ヲ遵守シテ児童ヲ教育スヘシ」と大前提を示して続いて「徳性ノ 酒養ハ教育上最モ意ヲ用フヘキナリ故二何レノ教科目二於テモ道徳教育国民教育二関連スル事項ハ 殊二留意シテ教授センコトヲ要ス」と示している。教育の理念たる「教育勅語」に示された忠孝を
小林:国語科教育における人間形成について② 5
根幹とする徳目群をもって徳性の酒養を具体的に行うにある,ということになる。国語科としての
、 および ならびに
領域に入る教科目については次のように記している。 「第三条 読書及作文ハ普通ノ言語並日常須 知ノ文字,文句,文章ノ読ミ方,綴リ方及意義ヲ知ラシメ適当ナル言語及字句ヲ用ヒテ正確二思想 ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ」とまず記す。ここまでは,従来通りの国語に関する知識・理解や能力,技 能の育成を求めているのである。これに続いて,今までは記していなかった「智徳の啓発」を記嵐
すなわち「兼ネテ智慮ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス(以下略)」と。この智徳の啓発は,大綱に言う 徳性の酒養を教育の根幹に据え,道徳教育国民教育に関連する事項をいずれの教科目においても留 意して教えようという指示に従ったものであり,画期的な条文であると理解しなければならないで
あろう。
時代の推移に伴い,明治33(1900)年「小学校令改正」 (勅令)が出されるが,ここで国語科が 独立教科として統合的に確立する。教育課程に関する条文中「第十九条 尋常小学校ノ教科目ハ修 身,国語,算術,体操トス(以下略)」のように示された。「同施行規則」 (文部省令,明治33年)
中には「第三条 国語ハ普通ノ言語,日常須知ノ文字及文章ヲ知ラシメ正確二思想ヲ表彰スルノ能 ヲ養ヒ兼テ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス(以下略)」と記され,以前の教則大綱(明治24年)を 承けて,国語に関する知識・理解等に加え, 「智徳の啓発」を国語科の大切な目標の一つとしてい
る。この路線は定まった。
国定教科書において教育の理念の具現を見る
ここで具体的な材料,教科書教材に目を向けてみよう。明治30年代に入り,教科書の採択をめぐ り問題を生じ,教科書疑獄事件が起こり,こうしたことを契機に国定化への道をたどることとなる。
その第一期国定国語教科書(明治37(1904)年4月使用開始)を作成するための「尋常小学読本編 纂趣意罰中「第三章材料,第一項材料ノ選択ヨ・掲げる分類囎は,「修身,蝋地理,
歴史,実業,国民教科」の六項目である。そのうち修身,国民教科について引用する。 「修身二 関スル材料ハ抽象的訓戒二属スルモノヲ避ケ主トシテ道徳的意義ノ存スル話謂ヲ選択セリ」とある。
また「国民教科二関スル材料ハ主トシテ軍事及一般制度ヨリ採リ軍事ヨリ軍鑑,軍人,入営,赤十 字社等二関スル事項ヲ選択シ,制度ヨリハ郵便,電信,選挙,議会,行政機関等二関スル事項ヲ選 択セリ」とある。国語も,構造的には教育勅語を教育の理念として据え,法的には小学校令改正,
同施行規則にのっとって選択された教材中に,修身関係や軍事関係を取り入れることにより,一国 民としての学習者それぞれのものの見方,考え方,感じ方など(思想や感情)を国家として準備し た一定の枠組みの中で育て上げることとなる,と考えられる。秋田喜三郎の教科書研究砧には,趣 意書を承け,次のように記してある。修身に関する材料については「抽象的訓戒に属するものを避 け,主として道徳意義を有する話謂を選択してゐる。下学年では主として「ッバメトスズメ」「カ シノキトタケ」「日とにじ」「からすとはまぐり」 「マツノハナシ」「ひばりと人」「カウモリ」
等の如き寓意を有するものを採り,上学年では「雷のおちた話」「なまけもの」「三つのちょ一ち よ」「かはいさうな女の子」「煙草と酒」「鳥ノ巣」 「おふみの慈善」等のやうな仮作物語が収め られてゐる。今その文例をあげる。(文例,略す。)かうした寓話または仮作物語が,いはゆる修 身的な教材として取りあげられてゐる。この種の道徳的意義を持った教材は今後長く国語読本の教 材となつたものであることは注意を要する。国民学校の国語教材が,修身的意義の濃厚な教材はす べて修身の教科書に移譲したのと思ひ会はせると,国語教材の推移を知ることが出来るであらう。」
6 茨城大学教育学部紀要(教育科学)37号(1988)
と記している。この記述によれば,国語科がいかに多くの修身的教材を背負い,かつ徳性の酒養に 努め続けたかということが分かる。当時,義務教育の年限は4か年であったが,そこで使用する
「尋常小学読本」 (第1学年〜第4学年)に加え,その後の修業年限2か年および3か年の高等小 学校でも使用できる「高等小学読本」での修身に関する材料について,秋田は次のように記してい
る。「修身に関する材料は,成るべく抽象的訓戒に属するものを避け,児童の感興を惹き易い事実 ママ
ワたは仮説の話謂を選び,暗黙のうちに児童の性情の陶冶を期してゐる。左のやうな課はこの種の 教材である。
第一冊 靖国神社。感心な母。草香幡峻姫皇后。瓜生岩。運動。
第二冊 税所敦子。廃物利用。聯隊旗。
第三冊 伊勢神宮。楠木正行とその母。鳥居強右ヱ門。親切の報。ふかに追はれた話。
第四冊 白い雀。伊能忠敬。白虎隊。
第五冊 気のかはり易き男。諸葛孔明。母の愛。
第六冊 船津伝次平。忘れがたみ。
第七冊 不正直なる商人の話。
第八冊 滝沢馬琴。著作の苦心。勧学の歌。吉田松陰。処世の歌。
ママ
i文例として掲げられた「感心な母」,略す。)右の「感心な母」は「水兵の母」の最初の文章で ある。 (中略)日清戦争後編纂せられた本書にかうした教材を採られたことは,当時の圧溢した国 民精神を表したもので,国語教材として得難い教材といはねばならぬ。」と記している。秋田の記 述中に「暗黙のうちに児童の性情の陶冶を期してゐる」とある,この捉え方こそ,優れた具体的な 描写や説明(つまり,表現)を通して読み手の実感や感動を呼び起こし,感性を揺さぶりつつもの の見方,考え方,感じ方など(思想や感情)を形成することができる国語科教材の特性を指摘して いるものと言うことができるであろう。一私事にわたるが,太平洋戦争のさなか,国民学校初等 科(現在の小学校)の一学童(一人の少国民。現在では児童)であった私は,教材「感心な母」を 推敲し,改稿した教材「水兵の母」に言い表わせぬほどの感動を覚えたことを記憶している。今日 の眼をもって分析すれば,この感動には,当時,ねらいとしていたであろう天皇への忠誠,母への 孝行,上官への尊敬,部下への激励・思いやり,本人の軍人としての自覚・決意などへの共感が渦 を巻き,多義的に込められていたであろうと思う。その感動は,恐らくどの学童にも,将来何にな るかとの問いに対し,軍人になりますという答えを容易に生み出すものを形成していたであろうと 思い及ぶのである。
国語科教材の選択基準として,今日でも今日の国家,社会,時代の要請する望ましい人間像に照 らした要素を当然,考えてよい。人間が生き行くには,徳性(道徳的観念と道徳的実践力。倫理性。
社会性)を備えなければならないのであるから。ただし,その徳性は,どのような徳性であるかが しっかり考えられていなければならない。教育の理念として何を思うのか,そしてそれを基にどん な国語科教材を選び出すのかということである。こうした問題を追究するために,明治期以来の教 育の理念とその具体的な姿とを回顧しておく必要があると考えているのである。
なお,国定教科書時代に入ってからの修身教科書について,一書(前引,東京書籍編r近代教科 書の変遷』)から引用しておく。「修身教科書は国民思想をつくりあげる基本となる教科書である(中 略),明治四十二年から刊行された修正修身書は(中略)忠孝の道徳を強く示し,国家の観念を強
小林:国語科教育における人間形成について② 7
く表わす方針は各巻にみられる。 (中略)毎巻必ず皇室に関する内容の課を設け, 「日の丸の蜘,
「大日本帝国」, 「祝日祭日」,「祖先」などの課を設けて,国民道徳の基礎を築く方針を明らか にした。 (pp.30σ〜309)」のように記している。
明治期末,教育の理念を再三,自覚させるための措置をとる。 「戊申詔書」など
さて,本題に戻ろう。教育勅語を教育の理念として込めて具体的に教科書が作られ,日々の学習 指導が行われたのであるが,その理念を時代の推移に沿って改めて,新たに国民に自覚を促す方策 がとられた。その一つが「戊申詔書」(明治41(1908)年10月13日発布)である。日露戦争(明治ぼしん
37・38(1904・05)年)後,工場ストライキ,農村荒廃,反戦運動,社会主義運動の高まりなどが あり,民心が動揺していた。一書に次のように説明している。明治41年「その年十月,天皇の権威 をかりて「戊申詔書」を換発した。詔書の換発は,教育勅語をはじめとして,政治・社会体制が危 機的状況にあると判断されたとき,権力者によって用いられた高等政策で,桂(注.時の首相桂太 郎)がしばしば使らた手であった。(中略)ここで必要なのは,(中略)当面の混乱をどう収拾す
しようか こ
るかである。そこで詔書はこう続ける。「宣ク上下心ヲーニシ忠実業二服シ勤倹産ヲ治メ惟レ信惟
あい じきようや
レ義醇厚俗ヲ成シ華ヲ去リ実二就キ荒怠相誠メ自彊息マサルヘシ」(中略)その後,戊申詔書は教育 勅語につぐ重要な詔勅として,祝祭日などの儀式のさいに「奉読」され,国民はこれを経文のよう
に「暗言雨」することを強要されるようになった。」(中央公論社r日本の歴史』22.昭和41(1966)年 刊。pp.343〜346)という。学校教育に直接かかわる内容ではないが,ここにも教育勅語に見る 徳目を多く採り入れており,その徳目をもって為政者が民心教化を図る一手段としたもの,今日風 に言えば社会教育,家庭教育のために,どう生きるかどう考えるべきかの方向性を指示したものと 考えてよかろう。また,明治43年12月からの第27議会には「国民道徳振興の建議」が提出されてお り, 「我が国民道徳の大本たる忠孝の観念」を十分に育成するように望んでおり,また翌44年7月 に文部省に師範学校・中学校等の教育を対象に国民道徳講習会を催している。
大正期も一貫している教育の理念
大正時代に入り,大正デモクラシーの思想の一環として,児童中心主義を基底とした自由主義的 な教育運動(沢柳政太郎・羽仁もと子・赤井米吉・野口援太郎など)が展開されはしたが,それが 教育界のすべてではなく,先端的なリーダー達とそれぞれの集まりというふうに位置づけておく必 要があると思われる。というのは,国家としての教育の理念は教育勅語を体し,忠孝という国民道 徳を中枢とした徳性の酒養にあり,これが浸透していたはずであるからである。しかし,教育界の 目が自由主義的な教育運動に向けられ,惹かれていくことへの歯止めは,国として必要であった。
それの一つが大正6(1917)年10月から同8年3月にかけて計30回の総会を持った,内閣に設けら れた「臨時教育会議」である。時の首相寺内正毅の鹸中に「我帝国ハ万世一系ノ天皇ヲ戴キ君臣 ノ分夙二定マリテ国体ノ精華万邦二冠絶ス」という天皇制に基づく国家主義の考えを披露した上で
「学制ヲ改革シテ教育ノ完全ヲ期スルハ乃チ勅語ノ御趣旨ヲ徹底スル所以デアル」と,教育勅語に 述べるとζろを教育の理念として体することを確認している。そして「国民教育ノ要ハ徳性ヲ涌養
シ知識ヲ啓発シ身体ヲ強健ニシテ護国ノ精神二富メル忠良ナル臣民ヲ育成スルニ在リ」云々と,従 来から言われてきた教育の目標を踏襲している。挙げているところの徳性,知識身体は今日でも
「徳体知のバランスのとれた人間性の育成」を言うのに共通するが,つまり人間形成は,徳性の溺 養を根幹に,様々な知識を得,体力をつけることが基であるのはいつの時代においても変わらない
ことである。しかし,問題は,その徳性の意味するところが,ここにおいても引き続き忠孝一本の 国家主義,軍国主義に立つことにある。これは,大正時代においても堅持されている教育観であり,
人間形成の内容である。
教育内容にっいて具体的に観察するには,当時使用されていた第二期国定教科書を取り上げるの が早道であろう。明治40(1907)年「小学校令」が改正され,義務教育が六か年に延長された。そ のため,新たに編集され,明治43年4月から使用開始された「尋常小学読本」(ハタタコ読本)に ついて,秋田喜三郎は材料のうち「海国思想・田園趣味・立憲思想の養成に努めたこと」の項で,
時代精神を反映して述べており, 「海国思想を養成し,田園趣味を酒養し,また立憲思想を確固に して,大国民の品格を育成するがやうな材料は努めてこれを採択し,これを一貫する忠君愛国の精 神を以てし,快瀾・勤勉・忠誠,よくその職分に尽くすべき国民を養成することは本書編纂の主眼
9)
ニするところである。」とまとめている。また,修身に関する教材も全学年にわたって収録してい ることにつき, 「低学年においては主として具体的事象による寓話・仮作話等により次第に史話に 】o)
iみ,高学年においては前述の如く抽象的訓誠に進んでゐる。」として,52教材,列挙している。
これは大正期に修正され,使用され続けるのであるが,これとは別に編集され大正12(1923)年4月 から使用開始された第三期国定の国語教科書, 「尋常小学読本」 (ハナハト読本)については,そ の編纂趣意書111においそ教材を「修身的教材,歴史的教材,地理的教材,理科的教材,実業的教杭 国民的教材,文学的教材」のように分類しているのであるが,そのうち修身的教材は,計46,収め る。 「大日本(巻五),水兵の母(巻九),明治神宮参拝(巻十),明治天皇御製・我が国民の長 所短所(巻十二)」などには,忠君愛国の精神の酒養を思わせるが,これらよりむしろ歴史的教材 にその色彩が濃い。これは計43,収める。そのうち「金鶏勲章(巻五),神風・千早城(巻六),
武将の幼時・広瀬中佐・乃木大将の幼年時代(巻八),弟橘姫(巻九),賎嶽の七本槍(巻十一),
勝安芳と西郷隆盛(巻十二)」などである。なお,国民科的教材は,後の太平洋戦争中に教育課程 の一教科として編成された「国民科」とは別であり,単に日常の人々の暮らしに関するものである。
一大正時代にあっては,教育的な思潮として大正デモクラシー運動などが活発に行われはしたけ れども,為政者にあっては国家主義に基づく教育勅語に示された教育の理念を体した教育体制を堅 持しようと努めており,具体的には国語の教科書教材に十分にその方向のものを収めて,国民のも
のの見方,考え方,感じ方など(思想や感情)の形成を行っていたことが明らかである。
昭和初期,国民精神・国民文化・国民文学の諸相の具現を図ったrサクラ読本』
昭和時代に入っても,学制は明治40(1907)年に改正されたまま大正時代を経て持続していた。
世界的な金融恐慌,思想運動の激化,軍部の拡大強化などの歴史上の動勢についてはここでは省く が,昭和8(1933)年使用を開始した第四期国定の国語教科書小学国語読本尋常科用(サクラ読本)
は,文学教材を豊富に収めているとして好評を博したと言われるが,その内容は従前どおりの国家 主義の思想を発現したものである。第1学年の巻一の教材「ススメススメヘイタイススメ」「ヒノ マルノハタバンザイバンザイ」,巻四「海軍のにいさん」「ニイサンの入営」,巻五「天長節」「天 孫」,巻六「神武天皇」 「日本武尊」 「神風」 「軍旗」「千早城」 「潜水艦」 「東郷元師」などを 12)
ヌめば,具体的に納得できる。その「編纂趣意書」中「巻十一編纂趣意」の「三 編集上特に留意し た点」四項中の三に「巻十が国民精神の諸相を具現することを以て編纂の主題としたのに対し,本 巻(注・巻十一のこと)は,かかる国民精神を基礎として,抑も如何なる国民文化が顕現したかと
小林:国語科教育における人間形成について② 9
いふ見地に立って3主として国民文学を中心とし,国民思想及び文化に関係ある教材を選びこれ を中軸として編纂したものである。従って本巻の中軸をなす教材は,「見渡せば」「源氏物語」「法 隆寺」「皇国の姿」 「古事記の話」 (以下略)」のように記してある。また巻十二のそれにも「本 巻は巻十一と同様,国民文学・思想及び文化に関する教材を中軸として編纂し,以て尋常小学国語 教育に於ける最後の使命を果たすことに留意した。(以下略)」のように記してある。この教科書に
ついての解副井上敏夫縫)で,編集者井上赴は,「国識本独自の立場に立ち,文学精神を基
調とするために,従来のような実科的内容を中心にした教材編成から離脱することを図った。」という編集上の根本的な姿勢があることを示した上で, 「修身・地理・歴史・理科・実業等の知識や 教訓の教材を避けて,」と,今までの教材選びの観点から脱却していると加え,次が重要な指摘な のであるが, 「文学的視点から材料を選び表現の手法を文学化し,文学的表現によって知的陶冶 感情の醇化,国民精神の高揚を期している。」云々と述べている。°この教科書は従来に比して文学 的な香気が高いというので好評であったとされるが,これこそ実は,文学的な文章に酔い,感動を 覚えっつ,そこに秘められている教育勅語を体した教育の理念に基づく国家主義,軍国主義を身に 体してしまうという,逆説的な手法となっていることを見逃してはならない,ということになろう。
秋田喜三郎も,この教科書における国語,つまり日本語という言葉そのものに即して「国語教育に 於ては,まず国語の意識を与へ,その関心を深め,愛護尊重の感情・精神を酒養しなければならな い。」と,国語(日本語というものの働き)を身に付けるべきことを挙げ,加えて言葉に内在する 思想に及ぶ。「朝夕に国語を語り,日毎に国語を学びながら,これを意識せず,ともすれば国語を 忘れるやうでは,国語教育は根本的に精神を没却したもので,国民思想にも欠陥を生じる。国語と 国民国家とは離れることのできない同身一体のものでなければならぬ14)」云々と記している。秋田 の指摘は,換言すれば,言葉というものには,その言葉を発するものの意見や主張,つまり思想が 込められるものである。つまり,言葉には,意図的に意味内容が込められるものであるということ である。従って,教科書のような場合には,これを作成するものの思想が具現されている,という ことになろう。前に戻るが,思想に,いかにして甘い衣をかぶせるか,つまり文学的な感動を伴い,
呼び起こすように仕立て上げるかということも,教科書の作成に当たっては大切な方法となる。こ の教科書において,その砂糖の衣のかぶせ方がうまい,つまり文学的香気があり優れているという 批評をするとしたら,実は国民精神の表現方法が見事である,ということを意味しよう。
昭和10年代, r国体の本義』 r臣民の道』そしてrアサヒ読本』に見る教育の理念
時代は,満洲事変,5.15事件,2。26事件,日中戦争と,臨戦態勢に入り,政治も教育も軍部に掌 握される。そうした中で,学校教育にかかわり注目しておかなければならない本r国体の本義(文 部省編纂)』 (昭和12年5月発行)が出された。これは,全国の学校へ30万部,発送された。私の 所持する本は,昭和18(1943)年5月31日第10刷のもので(173万部)と印刷されている。いかに 流布されていたかが分かろう。開巻「一、本書は国体を明徴にし,国民精神を酒養振作すべき刻下 の急務に鑑みて編纂した。」云々が目に飛び込む。国体明徴,国民精神の酒養振作の目標を達成す る内容の概要を目次で見よう。「緒言」「第一 大日本国体(一、肇国 二、聖徳 三、臣節 四、
和と「まこと」)」「第二 国史に於ける国体の顕現(一、国史を一貫する精神 二、国土と国民生 活 三、国民性 四、祭杷と道徳 五、国民文化 六、政治・経済・軍事」「終語」となっている。
その具体的な記述を一部引用する。
「大日本帝国は,万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ,我が万古不 変の国体である。而してこの大義に基づき,一大国家として億兆心聖旨を奉体して,克く忠孝の美 徳を発揮する。これ,我が国体の精華とするところである。 (「肇国」の冒頭文。P.9)」
「我等は,生まれながらにして天皇に奉仕し,皇国の道を行ずるものであって,我等臣民のか、る 本質を有することは,全く自然に出つるのである。(「臣節」中。pp.32〜33)」
「我が国の教育は,明治天皇が「教育二関スル勅語」に訓へ給うた如く,一に我が国体に則とり,
肇国の御精神を奉体して,皇運を扶翼するをその精神とする。 (中略)国家を離れた単なる個人的 心意・性能の開発ではなく,我が国の道を体現するところの国民の育成である。(「国民文化」中。
P.121)」など。
また,昭和16(1941)年には,このr国体の本義』を更に戦時にふさわしい内容に煮っめて「臣 民の道』を作成し,全国に配布している。大東亜共栄圏の構想の下に「我が国家の理想は八紘を掩
ひて宇となす肇国の精神の世界的顕現にある。」とし,忠一本の国民道徳で一億一心を実現しよう と図ったものと考えられる。
それを教育制度の上で実現しようとしたものが,明治33(1900)年以来続いてきた学校制度を廃 して発布した「国民学校令」 (勅令,昭和16(1941)年3月1日)と「同施行規則」 (文部省令,
同3月14日)である。国民学校令の目的は「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民 ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」というところにあり,その実現のために教育課程上で国民科 を設け,修身,国語,国史,地理を配している。同施行規則第二条にその目標が「国民科ハ我ガ国 ノ道徳,言語,歴史,国土,国勢等二付テ習得セシメ特二国体の精華を明ニシテ国民精神ヲ酒養シ 皇国ノ使命ヲ自覚セシムルヲ以テ要旨トス」と明示されている。そして国語については第四条の冒 頭に「国民科国語ハ日常ノ国語ヲ習得セシメ其ノ理会力と発表力トヲ養ヒ国民的思考感動ヲ通ジテ 国民精神ヲ酒養スルモノトス」とあり,次いで「読ミ方,綴リ方,書キ方,話シ方」などについて 詳述している。この国語の冒頭の記述文の前半は国語の言葉に関する知識や能力,技能についての ものであるが,後半はかつては「智徳ヲ啓発スル」という文言で儒教的な道徳,とりわけ忠・孝を 身につけることを目標の一つとして添えていたのであるが,ここでは「国民精神」という文言で,
皇国の臣民として天皇に忠誠を尽くすこと,それを身に体することが目標であるとしているもので ある。教育勅語で掲げた徳目のうち,忠に焦点を絞り込んで示したことになる。「国民科国語,教 師用書(文部省編)」の編纂方針中に「どこまでも児童を皇国民として錬成する」 「国体の尊厳に めざめしめ激神崇祖の念に培ひ,高度国防国家体制の確立噴するような事項はつとめて採択ε」
云々と記している。秋田はその教材を次のように分類している(括弧内の数字は,掲げられた教材 数を示す。 「敬神(4)…靖国神社など。忠君愛国(20)…水兵の母・ダバオへ・レキシントン撃 沈記など。国防(8)…軍艦生活の朝など。科学産業(22)。地理(21)。体錬(4)。自然(16)。」
なお,蛇足を加えれば一書(前引。東京書籍r近代教科書の変遷』)に「……新教科書の編集方法は 今までのものを受けつぎながら,一方,国家主義を目的としている。たとえば,児童生活から取材 するといっても,それは児童の自然な生活というよりむしろ少国民としての生活であり,情操教育 の重視といっても,国民感情の育成という方向に力が注がれている。そのため国土をたたえ,敬神 崇祖の念をつちかい,心身を鍛練し。軍事に関心を持ち,大東亜の盟主としての心構えを養う教材 が多かった。 (p.282)」と総括している。
小林:国語科教育における人間形成について② 11 ●
ま と め
明治時代から大正時代を経,昭和時代の太平洋戦争終結を見るまでは,為政者は世界の国々に伍 するため,また国民を総括するために,富国強兵策等の国家主義,軍国主義の施策を推進した。そ うした国策にあっては,国家として望ましいとする,忠孝を中枢とする日本国民の人間像を想定し た。それを具現化するために教育施策を練り,学校制度を整えたと考えられる。そして,その人間 は江戸時代以来,持ち続けてきた儒教的な道徳の思想を生かして,心情的に慣習的に帰属意識を持 たせてしまうような人間関係を創り上げるという考え方であった。一口で言えば,天皇への忠,親 への孝を中枢とした徳性の滴養であった。それを明確に示したのが「教育二関スル勅語」 (明治23
(1890輝発布)である。以後,これを教育の理念として据えることとなる。
国語科教育においても,国語(日本語)という言葉自体の教育を目標とし,その達成を目指すと 同時に,その教育の理念に基づく人間形成を果たすこととなる。言葉には人間の思想や感情が込め られるものゆえに,日本人として日本という国家に帰属し,天皇に忠なる国民であることを自覚さ せるためには,国語の教材として,修身的な教材を繰り込む方法,また文学的な教材にもそうした 人間形成を目指すものを取り込む方法などが行われた。
言葉の教育は,言葉をもって認識する方法,思考する方法などの習得,つまり言葉の機能につい て心得,身に付けるということにのみ留まらず,何を認識するか,何について思考するかなどを切 り離すことはできない宿命を持つ。それゆえに,何つまり言葉の内容となる何を通して,ものの見 方,考え方,感じ方など(思想や感情)を陶冶することを同時に行うことができる。国語の教材に おいて,どのような何を盛り込むかは教科書を編集する者の意図するところで左右することができ る。それ以前に時の為政者が教育施策として国民にどのような教育を行いたいかの思想が控える。
為政者は,単なる形としての教育制度を整えるという施策をまとめ,行うというだけではなく,そ の内容に及ぶこととなるのは必然的であろう。その国家,時代,社会において,政治の実権を掌握 した者において,国民の意識をどう作るか,どこへ持っていきたいかは,学校教育にあっては公教 育としての義務教育において目標を明示して具現化することができる。そうした教育政策,教育目 標,教育内容を設けることとなるのは,当然のことであろう。時の為政者は,誰もが,太平洋戦争 を遂行するという国策を実施していた時までは,国家主義的な民族主義的な思想をもって,忠孝一 本の縦の人間関係を構成し,一億一心を目指す教育を作ろうとした,ということになる。国語科教 育もその環の一つであった。
今日では,国際的な視野に立ち,協調・協力の路線,平和共存の路線で.かつ基本的な人権の尊 重の思想,人間尊重の思想に立ち,人間形成を目指す教育を行っている。教育は,時の政治との関 係を絶ち,あるいは政治的な意図を排し,独立することはできない。今日にあっても,時代,社会 の移り変わりに従い,政治や経済の動きに連動して,どのような人間を作るかが目指される。その 教育の一分野を担う国語科教育であることは,昔も今も変わらない。従って,国語科教育ではその 時代,社会の中での言葉自体の教育を目指すと共に,その時代,社会に即応してどのような教材を 選び配し,どのような人間の形成を目指すのかが,真剣に慎重に配慮されなければならない,とい
うことになろう。
二 明治期から昭和期(戦時)までに見る国語教育諸家の考え方
国語教育に関する理論家や実践家の跡を追う
ある外国語を習得する場合の在り方を具体的に想像してみると分かると思うのであるが,言葉の 教育においては,言葉そのものを習得するということも,確かにある。つまり,語句を覚え語彙を 豊かにし,文形や文法を覚えるといった,いわば形の習得を対象とする,また話の仕方・聞き方,
文章の読解法,文章の表記法・表現法といった,方法の習得を対象とするものである。しかし実際 にはそのように言葉を身に付けつつも,自然に必然的にその言葉にはその国,その民族の自然や風 俗・習慣・文化とか,話し手や書き手の思想や感情というものが含み込まれるであろうから,それ を無視するわけにはいかないであろう。日常実際に使われる言葉における形と内容とは不離である,
換言すれば本質として言葉は内容を持つ形である,と考えられる。そして,その内容により,もの の見方,考え方,感じ方など(思想や感情)を摂取し,客観的に理解したり主観的な共感を覚えた
りして,自分という人間の形成に役立てることとなろう。
国語(自国語。母国語。ここでは,日本の国籍を持ち,日本の国土に居住している者の,日本語)
という言葉を身に付ける場合でも,当然この問題が内在する。学校の教育課程の一教科である国語 科でも,同様である。そこで,この問題を探るため,明治期から昭和期(戦中)までの,国家の教 育上の施策を中心に振り返ってみた。そこには,国語という言葉を習得すると同時に,用意した教 材に内容として,日常生活的なもの・歴史的なもの・地理的なもの・理科的なものなどに加えて,
修身的なものや国民精神の高揚を目指すものを配し,つまり教育勅語の文言に即した,忠孝を核と する,時の国情・国策に沿う人間形成を目指していたのを見ることができた。要するに,国語科で 取り上げる教材は何でもいいとはしてしまえない。教育目標の達成を目指すために明確に設けられ た選択基準があった,というようなことを見てきた。次に,その時代の理論家や実践家の文献を基 にして,国語教育とはどういうものか,何を行うべきかなどについての記述の幾つかを,簡略にで はあるが追うことにする。
幕末から明治初期における諸家の考え方から
国語を書き表わすための表記に関し意見を表した前島密「漢字御廃止之議予(慶応2(1866)年駕
「次に普通一般の教育法を御改良不被遊候ては,一般の知識を開達せしめず,其愛国心を厚からし むることは無覚束事と奉存候。前にも申上候通り,国人皆自国を以て無上至善の国と自信し,自ら 自尊の志を懐ひて寸毫も他に譲らざるの気象を保たざれば,真誠の愛国心を発揚仕り兼ね候。」云 云とあり,ここには表記を仮名にし,かつ本邦のものを自国の言語で学習するという方法をとれば 容易に愛国心を育成することができるというようなことが述べられている。前島の論中「願くは速 に学問独立の大本を被為立,国語を以て編纂したる徳育の書(孝悌忠信徳誼品行上に係るもの),
知育(歴史地理物理算数等に係るもの)の書,下等上等の両区に分ち,彼我主客等,皆其叙次を定 て一般普通の教育に御適用被遊候様,御廟議有御座度奉存候」とあるのと併せ読めば,そのことが 理解できる。要するに,国語の形としての表記を仮名にするというのは,国民の徳育,知育を容易 に施すためであり,内容の習得を容易にするためなのである。内容が先であり,形としての表記が それを負うという考え方である。
小林:国語科教育における人間形成について② 13
福沢諭吉にあっても,日用の便には難しい漢字を使わなければ二千字か三千字で十分であると考 17)
ヲ「文字之教」 (明治6(1873)年)をまとめた。これは,一字一字の漢字を読めるようにすると いうよりも「此書ハ子供ヲシテ文章ノ義ヲ解サシメンガタメノ趣向ニテ作リタルモノナリ」と目的 くるし述べ,「(前略)右ノ法二従イテ次第二進ムトキハ漢籍ノ難文二署メラルルコトモナク,所謂四 書五経ノ素読ヲモ止メニシテ,別二読書作文ノ手掛リヲ得ベシ」と学習内容にも触れている。そ の内容は「学問のすすめ初綱⑳(明治4年)1・濡者・和学者・漢学者の扱うようなものでなく「専 ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。讐へば,いろは四十七文字を習ひ,手紙の文言,帳合 の仕方,算盤の稽古,天秤の取扱等」それに,地理学,歴史,経済学にr修身学とは身の行を修め んに交り此世を渡るべき天然の道理を述たるものなり。」などと述べ,「唯其大切なる目当は,こ の人情に基きて先づ一身の行ひを正し,厚く学に志し博く事を知り,銘々の身分を相応すべきほど の知徳を備へて, (中略)互に其所を得て共に全国の太平を護らんとする一事のみ,今余輩の勧る 学問もこの一事を以て趣旨とせり」と結んでいる。ここに国語を表記するための仮名と漢字との文 字を習得するのは,実学の学習のためであり,そして,智徳を備えることにあるなどを読み取るこ とができよう。つまり,文字という形の習得は,学習内容を身に備えるためである。内容とは,実 学としての智と修身学を通して備える徳である。
これらは国民の教育レベルの向上を図るには,漢字漢語のみの漢籍の学習によらないで,まず習 得しやすいような表記体系の改善を提起しているのであるが,それは結句,内容として何を学ばせ 身に付けさせるかを配慮しているものである。表記という言葉の形と,知徳という内容とは切り離 さないで論じている。
明治期における教育体制の整備と時代の推移に伴う諸家の考え方から
学制(明治5(1872)年)も整い,学習内容も翻訳ものなど種々出版されたが,教育上での様々な考 えや内容に一定の基準を与えるため,r幼学綱要』 (明治14年完成)が全国に配布(同15年)され た。その頃のものとして那珂通世(東京女子師範学校校長)の「文学の授業法jg)(同17年講演記録)
中に, 「よき読本を作るにつきて注意すべきことの一つはのする事がらの択びかたなり,通例の読 本には修身の教と歴史の話とのみ多し,(中略)読方の稽古の序に諸学科の中にて最大切なる修身 の事をしるは都合よきことなり」と述べた上で,理学の諸科の書物は学習の開始時に内容を読み取 ることができない状態なので,「他の学科を修むるに甚差支ふれば読本の中に諸学科の最たやすき 事がらをのせおきて,その教科書をよみはじむるに便よきようにすべし」などとの意見を表してい る。要するに,国語科の教材内容としては徳性を溺養する修身的なものを初め,他の教材の基礎的 基本的な知識・理解を形成するものが望ましいという国策に沿う考え方である。徳育と知育である。
明治22(1989)年「大日本帝国憲法」が公布され,翌23年8月「小学校令改正」 (勅令)が出さ れ,10月「教育二関スル勅語」ガ発布され,そして11月「小学校教則大綱」(文部省令)が出され,
教育の理念が明示されると共に体制が固められた。
上田万年は「国語科の目的は,言語及び文字の上で,一国人民の感情及び思想を,国民的に養成 するのであります。さて此大目的を達するがために二つの方針が分かれるので,第一には書物を能 く読み分ける力を付けること,第二には口に語る時も,筆に書く時も,語法を正しく,文体を温雅 に使用することであります。此方針を取ってH言語的口審美的日倫理的四理想的及び面
20)
走ッ的の教育をば,此国語科が掌るのであります。」 (「作文教授法」明治28(1895)年)と述べ
ている。国語科教育の目的は,国民として持つべき感情や思想の養成にあるとし,ここにまさに国 語という言葉に内在する,国家的な思想や国民的感情を押し出している。この考え方は,別の稿で 国語に関する教育上の問題を五項ほど挙げて論じている中に「第四,言語上に一国の特質を説くこ とを得べき事。例へば愛国心を養成するにもせよ,博愛心を拡充するにもせよ,一個人の品性を高 尚ならしむるにもせよ,若くは秩序を尚ぶの精神を酒養するにもせよ,皆斯の教授の下に於てする 20)
アとを得べし。」(r国語のため』中「初等教育に於ける国語教授に就きて」(明治28年))という発 言となって展開する。上田万年と並んで注目すべき保科孝一も「国語教育の主眼とするところは,
国民的精神の健全な発達を計るにあるのである。然しながら,此目的を円満に達するには,必完美 なる国語を倹たなければならぬ。(中略)従来の国学者は概して国語は教育の根本たること,国語 と国家とは密接なる関係を有することを十分了解して居らなかったやうに思はれる。 (中略)文学 上に偏重して発達したる国語は,文学的の国民を養成するには,或は適当するかも知れぬ。けれど
も,完全なる日本の国民を作り上ることは,到底不可能のことであるといふことを覚悟しなければ ならぬ。」 (「国語教育に就て智)明治33年)と論じている。保科の言葉で「国語の教育の主眼」(主 眼は,目標と置き換えることができると考えるが。)は,「国民的精神の健全な発達を計るにある」
としている。これは国語の言葉に包摂される内容により育成されるものである。そして,教材につ いては「中学校の国語の講読には,万葉集土佐日記十六夜日記又は徒然草の如きものを全く廃止し て,今日の社会に適当したるに足る丈けの読本を,今日の活語にて編纂し,作文も無暗に詞花言葉 を弄ぶことを廃め,今日の活語を以て十分思想を発表せしめることを力め,語法の標準も今日の活 語に取て,正しく言ひ現はし書き現はすことに熟達さすことを力めなければならぬ。」と述べ,中 学校での教材から古典を廃し,現代語による読み書き能力の育成を主張している。これは「国語教 育は活語に基礎を置くべきものであるとすれば,先づ明治時代の標準語,標準語法,標準文体を定 め,次ぎに,是等の国語に従て,適当なる教科書を編纂して,国語教育の実を挙げなければならぬ。」
というふうに展開する。要は,国語教育で国民精神の発達を図るには,現代の標準となる国語によ る,ふさわしい教材を用いるべきである,という論考である。現代の標準となる国語でという主張 の余り,古典を廃するとまで言ったのは,いささか主張が過ぎたと言わざるを得ない。
上田にあっても保科にあっても,国家の教育施策に則った見解が表されていると見てよい。
佐々木吉三郎(東京高師附小訓導,後に東京高師教授)は国語科の要旨につき「国語科は,音声 ママ
ノより(言ひて),又は,文字により(書きて)て,他人が発表せる思想感情を,正しく理解し,
及び自己の思想感情を,正しく,且つ美はしく,発表せしむる能を養ひ,之によりて,児童の心情
22)
を育成し,智識を啓発するを以て要旨とす。」 (r国語教授撮要』「第一章国語科と改めたる精神」明 治35(1902)年)とまとめる。これは佐々木独自の見解というよりも,明治33年「ノ」岸校令改正(勅 令)」に即する「同施行規則(文部省令)」に国語の要旨につき「国語ハ普通ノ言語,日常須知ノ文 字及文章ヲ知ラシメ正確二思想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼テ智徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス(第三条 の一部)」とある文言に則って言ったものであろう。要旨とは,目標と言い換えてもよい概念の語 であると考える。ところで佐々木の要旨では,施行規則中の文言に「智徳」とある「徳」をはずし て「智識」としており,それに「心情」を添え配している。また施行規則前半の文言に「思想」と のみあるのを「思想感情」としている。これらが独自性を出しているところであろう。
また富永岩太郎(東京高師附小訓導)も「国語と云ふものは,ドンなものであるかと言ってみれ