LθsB夢o%κ勿認so紹∫s論(皿)
一19世紀にDiderotはどのように読まれたか一
小 井 戸 光 彦
19世紀に至ってL65 B加雄ぎπ4∫∬7薦への評価はどう変ったか一これがわ れわれの次に取り組むべき課題である。だが結論からさきに言うと,その評価 は18世紀の場合と基本的に変っていない。少く共この小説に関する限りは,1 世紀の間に探究の深まりがほとんど見られないのである。では何故そうなった のか。この謎を解くには,そもそもDiderot自身が当時いかに評価されていた かを知る必要がある。そこで今回は,上述の課題に着手するための準備として,
19世紀に彼の文学・思想一般が批評家たちからどのように受け取られていたか という問題を検討してみることにしよう。
Diderotが若くして有名になり,死ぬまでその名声を保ったことは事実であ る。しかしだからと言って,彼が生前からVoltaireやJ.−J. Rousseauに比肩 しうる程の大作家と見倣されていたのかと言えば,そうではない。彼の名声と いっても・この二人のそれには及ばなかったし,精々のところMontesquieu
とBuffonの場合に較べうる程度のものであったろう。つまり当時Diderotは 著名な人物ではあったが,作家として必ずしも正当な評価は受けていなかっ た。だがその背景には,ある特殊な事情があったのである。というのも,生前 に公刊された彼の著作としてはP6η∫伽ρ捌卿ρ物π65, L6∫彦76 w 185α螺ヨ165,
ム9∫ 785麗7」833卿45θ 柵μ6 5・P8π∫685∫μ71 ∫η夢卯吻4 加4614η伽∫8, Elo88 461〜 加励oπ・R朔6蛎oπ5∫πノπ76η θ,所∫4 鮒16572即6346ασ%486 46
1) N4プoπ,それに戯曲と演劇論が2篇つつと,コントが2篇と, L85 B加謝5η4距
観3位のものであった。 3α10π∫や,L8酌o餌461〜4膨側や,ノ吻膨5」8 勘 σ1謡6や,L観78∫∂・M伽 70〃σπ4や, Pα勉40κ6錫7」8ω解6漉6πや, Lθ R動〃8♂オ」6励6ノ 等の,要するに今日ではDiderotを語るさい絶対に無視し
えぬ傑作群のほとんどすべてが遺作で,彼の同時代人には知られていなかった のである。これでは当時の人びとが作家としての彼の真価を認めえなかったの も無理からぬところであろう。では彼のく名声〉とは何に由来したのか。それ
は専らEη¢y 1ψ6伽である。本文17巻,図版11巻にのぼるこの浩潮な書物が完 結を見るのに実に前後4半世紀の歳月を要したが,その刊行の経緯はけっして 平穏だった訳ではなく,まさに<La Bataille de PEncycloP6die>と呼ばれる に相応しいものであった。初巻の発刊と同時に賛否両論の大反響を巻き起した Eπ解1妙6伽は,その後も官憲と反動階級の絶えざる弾圧と迫害を蒙ったこと は言うに及ばず,その他ありとあらゆる障碍に遭遇した。それにも拘らず,多 くの良き理解者の掩護にも支えられて,Diderotは編集責任者として,文字ど おり血の滲むような苦闘の末に,辛うじてこの大事業を成就することができ た。その間Eπ¢y 1ψ6伽の声価は時のたつにつれていよいよ高まり,ついに はフランスのみならず全ヨーロッパにまで普及するに到った。そしてこれと共 にDiderotの名も,味方ばかりか敵からさえ,遍く知られるところとなった。
否むしろ,Fr6ronやPalissotのごとき反動的御用文士たちの激しい非難iや,
T7600鋸誌に拠るイェズス会士らの執拗な攻撃までが, D三derotの名を高から しめるのに与って力があったと見るべきかもしれない。まことに皮肉な結果と 言わざるをえない。とまれ,こういった次第であったから,Diderotの生前の
名声とは,良きにつけ悪しきにつけ,Eπ4y61ψ麟6の監修者としてのそれであ 2)って,彼の文学作品の正しい理解に基づいたものではなかった。Voltaireや
Rousseauが偉大な文学者としての栄光に包まれてこの世を去ったのに反し,
D三derotは作家として喧しくも若干あやしげな,強いて言うなら一一種のく伝かまびす
説〉とでも呼ぶべき名声のみを享受しつつ死んだのである。
大革命時代から第一帝政期と王政復古期にかけて,D五derotの評価とその作 品の影響力について,事情が変ったかといえば,本質的には生前の場合と同じ である。只この頃から,一部のジャーナリストや出版業者たちが,時代特有の 社会危機に新たな好奇心を触発されたためか,それまで一般に知られていなか った彼の重要な作品を公刊し始める。Diderot評価の歴史がその未刊テキスト
発表の経緯と密接に結び付いた問題であることを考えるなら,この点は重要な 司 意味をもっていると言わざるをえない。すなわち,1795年から97年にかけて,
84Joη481765やE∬4ゼ∫5π71αρθ 伽78, Lα1〜61@6π56や力 g膨3!6勘彦αZ蹴8,
Eπ 76漉πα〃6 14Mα766乃016や翫勿16膨腐副レ砂α8846 B側g痂読18が出版さ れた上,ついに1798年には,D三derotの弟子Naigeon(1738−1810)が(E〃078∫
吻D漉70∫(15vok)を刊行する。この著作集は,重大な遺漏を含んでいたこ とも確かだが,当時としてはもっとも完全なく全集〉であった。こうして
小井戸:Lθεβ∫ノoκκfπ4∫5 解お論(皿) 3
Diderotも,漸く人びとの前にその真の姿を表わし始めたのである。しかし・
そう思われたのも束の間,時代がやがて大革命の衰頽期を迎えると,Diderot を正しく知ろうとする気運に逆行した危険な傾向が現われてくる。その魁をな したのが,La Harpe(1739−1803)によるDiderot批判である。彼は始め百 科全書派のパルチザンであったが,1794年革命政府により疑わしき人物として 暫時投獄されたのをきっかけに,宗教と社会秩序の熱烈な擁護者へとく豹変〉
した。18世紀哲学の決然たる敵対者となったLa Harpeは,その第1の攻撃目 標として,Diderotを槍玉に挙げる。いまや彼にとっては, Diderotの精神も,
3)
D..estomacs chauds et avides qu三d6vorent tout et ne dlg壱rent rien.
の如きものに過ぎない。否そればかりか,Diderotの性格は「偽善」(hypocrite),
イデオロギーは「誰弁」(sophiste),才能は「凡庸」(m6dめcre)一要する にLa Harpeの目には, Diderotの一切が唾i棄すべきものと映る。〈改宗者〉
の常か,La Harpeの場合も,かつて熱愛したものへの憎悪の激しさは恐るべ きである。にも拘らず,ムaHarpeのこの批判は,当時の批評家たちの内に多 くの同調者を見出した。例えば,Fr6ronの後継者たるGeoffroy(1743−1814)
も,その「卑俗さ」(barbarie)のゆえに, Diderotを蛇蜴のごとく嫌っている
(cf. Cours de littirature dramatigue, 1819−20)。これ等いわゆるアカデミック
な批評家たちに共通する特徴とは,Diderotを宗教の敵,道徳を蔑視する破廉 恥漢,古典主義伝統の破壊者どして非難する偏頗な党派心である。しかもLa Harpe流のこうしたDiderot批判の影響は,フランスのみに留まらなかった。
元来Diderotの作品は,そのドイツ人の親友Grimmのお蔭も手伝って,ド イツではフランス本国におけるよりはるかに歓迎されたし,大革命後にも読ま れ続けた。力 gπθ∫〜8F伽1f蜘とL8/V60θπ46 Rα物翻にいち速く注目し,
これを独訳・紹介したのがSchiUer(1759−1805)とGoethe(1749−1832)だ 4)
チたことは周知の事実である。またそのP勧π0物η010g∫646∫σ6ゴ5彦65〔P膨π0雇一 η0109 θ48Z 6ψ漉〕(1807)を見れば, Hegel(1770−1831)が非常に早い時期 にL6ノ>60弼46 Rα耀醐の根源的な価値を理解していたことも明白であろう。
つまりドイツ人は Diderotにとって,ある意味で常に一番の良き理解者だっ たのである。だが他方ドイツにも,フランスにおける急激な社会変動への警戒 心と国民感情に発するフランスへの反感とがあったから,Diderotのあらゆる
種類の作品が無条件に受け容れられた訳ではない。小説やコントのような文学 作品は比較的すなおに評価されたが,その百科全書的く哲学〉と無神論には抵 抗も強かった。そしてドイツにおけるDiderotへの反鍍のうち,ここでとく に取り上げなければならないのが,彼の戯曲と演劇論にだいする Schlegel
(August Wilhelm ooπ,1767−1845)の批判である。彼もD量derotが古典主義の 伝統との訣別の点で果した歴史的役割を一応は認めている。だがSchlegelは,
五essing(1729−81)があまり厳しく批判しなかったL6 F躊ησ πプ8」とLθP2r8 漉」勉痂118の2篇の戯曲を愚作と看破し,Diderotの唱えるレアリスムをその 平板さのゆえに峻拒する。Diderotを<ce 50舜 5 6 spiritue1>と断じたSchlegel の侮蔑的な論調には・どこかLa Harpeのそれを彷彿させる面があるのである。
(Cf.〜%∂〃雄α㎜琵5 加1(槻3彦〃η4 Lゴ 醐彦π7〔Ooπ7∫46伽6鰯π7647伽α ゆ6〕,
1809−11,仏訳1814・)そしてMme de Stael(1766−1817)が, Schlegelのこ の主張を受け継いでいることは言うまでもない(c£・D8 Z オ11翻αgη6,皿epartie,
ch. XVI,1813)。1820年頃までのDiderot評価とは,あらまし以上のような ものであった。なおLa Harpeの影響は,この後も19世紀を通じて,就中 SbrbonneやEcole normale sup6rieureの講壇に立つ学者・批評家たちの間 に,多かれ少かれ根強く残るであろう。
だが19世紀も30年代に入ると,Diderotについて,それ以前とまったく違っ た捉え方がなされるようになる。Diderotの名誉回復の始まりである。ロマン 主義の勝利と軌を一にしたこの新たな動きに先鞭をつけたのは,他ならぬ Charles Nodier(1780−1844)である。彼はR6〃π646 P厩∫誌の1830年6月号
に<De la prose franGaise et de Diderot>なる一文を発表したが,その中で
、 一
アつ言っている。
La prose est da皿s l,inst五tution du langage ce qu est le peuple dans celle de la soci6t6: oπ , parce qu il en est r616ment essentiel;7∫8π, parce qu elle
@ 5)
氏f?氏@est pas Pexpression sym6trique,1e simulacre orn6.
つまり彼の批評の新機軸は,表現形式の発展と社会の発展との関連に着目した 点にある。彼はさらに続けて
小井戸:L8sβ ゴo〃κ痂4∫so7θ彦s論(皿) 5 Nous sommes〔_〕arriv6s a une 6poque de正utte, dans Ies fbrmes ext6一 rieures de nos perceptions, comme dans Ieurs applications les plus s6rieuses
al・・h6・・i・d・・g・uvern・m・n・・e・。u b。nh。u。 d。 g。。re hum。i孟1 メ
と言っているが・事実この直後にく七月革命〉が勃発したことを考え合わせる なら・Nodierの主張は一層興味深いものとなろう。そしてNodierがDiderot を評価するのも,その文学が新時代の文学のあるべき姿を予示したもののよう に,Nodierには思われたからである。
L
Mvint un autre homme alors. Celu三一ci 6tait le fils d,un coutelier. Dans les 1ettres comme dans les inst三tutions, c est Ie peuple qui renouvelle tout, parce qu,三I ne vieiUit pas〔...〕La parole de Diderot est comme un 6clair entre
qul comme獄ce. _
Diderot文学にたいするNodierのこうした視点がどれほど斬新なものかは,
上で見たLa Harpe一派のそれを想起するだけで,一目瞭然であろう。だが こうした新しい見方が可能になったのも,実はこの頃,La Harpeの同時代人 には知られていなかったDiderotの作品が,次つぎと発見されたからである。
まつ1818−19年にBelin版の(翫0763ゐ・0耽70 (6vols.&1supP16ment)
が出・ついで1821−23年にはBriさre版の(翫or83(21 vols.)も刊行され,そ
こにはNaige°nによる未刊の漉励・瑠伽9・…桝f」・卿9−・伽 ・8≠1630πoz8965認・0∫伽o∫が収められていた。だがDiderot再評価の気分を醸
成するのにもっとも貢献したのは,1830−31年に躍伽o碗5, o瑠ψoπ4伽686 0卿70985ゴη44跳認1万鹿70 ・ρ%61諺54 ψ72∫16∫η2αηπ56r露360ザ45,6〃ηZOπ昭ηち ρα7」 σπ伽7δ07 〃2〃2なる表題の下に出版された,Paulin版の著作集であっ
た。Diderotの娘Mme de Vandeulの福6η2伽83ρo躍3θ70々δ〜・ゐ ∫ o 78漉」α. 7)oz66∫伽oπo翅望54hD 4〜70 や, Diderotの作品中とりわけ重要な五6彦 5δ
3ψ配67∂11侃広L61〜動646♂オ1碑∂副などに,当時の人びとが初めて接しえた のはこのPaulin版のお蔭であった。そしてこの版がDiderot復権に寄与した
ことを示す端的な事例が,Sainte・Beuve(1804−69)の批評である。彼は1830 年9.月20日と10月5日のLθσ10う6紙に二つの論文を寄せているが,そこには
彼がPaulin版を読んでDiderotに感じた共鳴がみずみずしい情熱をこめて語 られている。例えば彼はL8伽∫δ5ψ肋ゐ1伽4について,
Nulle part, pour qui veut 6tudier Diderot, il n,y a plus de facilit6 et de r6v61ations intimes que dans la Correspondance qui est publi6e pour 1a premiεre fbis aujourd, hui. Diderot 6crit註Mlle Sophie Volland, sa maitresse, celle a laquelle il fut le plus f三d61e, et qui en 6tait le plus digne
〔...〕C,est un plaisir singulier de Pentendre librement discour三r sur tout ce qu,il voit et ce qu il sent, avec abandon, naivet6, compla三sance・et que1−
@ 8)
曹浮??b奄刀C s,il en a le temps, et si le caprice lui vient, avec art et curiosit6・
8)
ニ評した後,これを<lettres d61icieuses, v6ritable tr6sor retrouv6>と激賞す る。だが作家は孤独に徹して己れの能力を一点に集中することなしに,不朽の 作品をものすることができないのも確かである。その点Diderotはあらゆる形 式の作品に手を染め,その才能を分散させてしまった。しかし,とSainte・Beuve
一 、
ヘ言つ,
...Ie lecteur atte耐i£qui lit Diderot comme il convient, avec sympathie,
amour et admiration, recompose ais6ment ce qui est jet6 dans.un d6sordre apparent, reconstruit ce qu三est inachev6, et finit par embrasser d un coμp d cei11,0euvre du grand homme, par saisir tous les traits de cette figure fbrte, bienveillante et hardie, color6e par le sourire, abstraite par le ffont,
aux vastes tempes, au cceur cbaud,1a plus allemande de toutes nos tetes, 8)
?煤@dans laquelle ii entre du Goethe, dll Kallt et du Schiller tout ensemble.
この<la plus allemande de toutes nos tates>なる言葉が, Jacques Proustの
㌔・うく1e go{it de toute une g6n6ration pour les personnaHt6s fbrtes et libres, 9)
pour les beaux sentiments, pour 1 art 61ev6 au・dessus du vulgaire>から発せ
られた,紛れもない誉め言葉であることは断るまでもない。Diderotがイギリ ス文学ばかりかドイツの詩にも心酔していた事実が,GoetheとSchillerの D三4erot称賛と相倹って, Sainte・Beuveに好感をもって迎えられたのである。
小井戸:五θsβゴブo〃κfπ4∫so78な論(皿) 7 かくしてS・i・・←B・uv・はDider・・をく96ni・・up6.i。みと呼び,そのDid。,。t
礼賛は熱狂にまで高まる。だがその後SainbBeuveのD三derot批評は,彼自 身の趣味の進展につれて微妙に調子を変え,冷静な客観的立場に転じて行く。
これは彼のみならず,当時の識者一般に共通してみられた特徴である。Diderot の3α♂oη3(1759,1763,1771,1775,1781など)が19世紀半ばにジャーナリ ズムにより相次いで紹介され,美術批評家としての彼が注目され始めたのも,
こうした趨勢においてであった。しかしこの傾向は一面で趣味の進化であった が・反面さきにNodierが賞揚したDiderotのポピュリストとしての特質を 犠牲にする危険も孕んでいた。その点で,広い歴史的視野に立ちながら,最後 までDiderotに深い共感を寄せたMichelet(1798−1874)の場合は特筆に価 しよう。彼も」田∫ o加鹿・Frπη 8の中でD三derotにたいしSainte−Beuveに勝 るとも劣らぬ熱烈な称賛を捧げているが・この初版が出たのは1866年のことな のである。
Voltaire rapPelle Pαηψん1げ, amant de toute Ia nature, ou plutδt amoureux 一
de tout.
Il n,est pas moins P魏π7塵,1 un五versel faiseur. C est un f11s d ouvrier〔...〕
L・・g・e…avm・・魚b・iqu・d・b・n・c・utea…td・m・uv・i・t・bleau・,1 i・・pi・e aUX m6tierS et aUX artS.
De son troisi6me nom, qui lu量va m三eux encore, c est童e vrai Pアoη碗肋.11 丘tp1・・qu・d…euvre・・11行t・u・t・ut d・・h・mm・d・・u田・…1・France,
・・um・…1 AI1・m・g…C・11・・ci r・d・pt・plu・qu・1・F・ance en…e, P・・1。
voix solennelle de Goethe.
Grand spectacle de voir le siさcle autour de hli. Tous venaientらIa file puiser au画its de fヒu.11s y venaient d argile, ils en sortaient de flamme
〔...〕
N・藍m・num・nt ach・v6 n ・n・e・t・, m・i・cet・・p・it・・mmun,1・grand・vi。
q・ il・mi・e en ce m・nd…tqu田・tt・,・・ag・u・e,・n・e・1i・・e・in・・mp1・誌.
S・u・ce imm・n・e et・an・b・d.0・yp曲cent an&L・i。H。i re、te en。。re{の
同世代の歴史家ながらイギリス人Carlyle(1795−1881)のDiderot批評は,
Micheletのそれと対照的である。只パリの文壇で作家・批評家としての Diderotだけが一般の関心を呼んでいた当時, Carlyleがその哲学者・百科全 書家の面も含めてDidemtの全体像を問題にしようとした点は, Micheletの 場合と同様でその視野の広さに注目せざるをえない。では両者における根本的 相違とは何なのか。Micheletと異なり,貴族的なヒロイズムを尊ぶ熱烈なスピ
リチュアリストであるCarlyleにとって, Diderotとそのほとんどの作品は厭 わしい憎悪の対象であった。だが彼がDiderotの全著作を歯牙に懸くるに足ら ずとばかり等閑視したと考えるのは大きな誤りである。一見奇妙に思われるか
もしれないが,彼はDidemtの無神論に特異な価値を認めているのである。と いうのも,Carlyleにとって,真の信仰とは自然宗教と両立しえないものであ
った。だから当時イギリスで一般的に見られた理神論的風潮が,彼には断じて 容認できなかった。ところがD五derotはその哲学的思弁を押し進めて,神の絶 対否定にまで到達した。つまり彼は,神が証明不可能なことを証明して見せる
ことにより,似非信者共の鼻を折ってくれたばかりか,結局はスピリチュアリ スムを根拠づけるのにも貢献したのである!CarlyleはこのようにDiderotを 評価する。Diderotのラディカルな唯物主義がその対極にいるCariyleの熱い
●心を撃ったのである。
_il est un po五nt chez Carlyle oh Ia pens6e la plus d6cid6ment r6actionnaire pourrait basculer vers son extreme oppos6,10rsqu,il d6signe comme son
11)
adversaire principal la m6di㏄rit6 spirituelle de 1 age industrie1.
というJProustの言葉が,この間の事情をよく説明しているであろう。
Carlyleの逆説と, Micheletの簡明直裁と,この両者の関係をコントラストの 妙と呼ばずして何と呼ぼうか。
ご覧のとおりロマン派のDiderot観は,概して非常に好意的である。この風 潮がL・aHarpeの影響下にある学者たちの世界にまで波及し,講壇のDiderot 批判もその厳しさを少しづっ緩和し始める。Villemain(1790−1870)のα〃∬
481魏6rα 〃76ノ}伽9廓56(1828−29)によれば, Diderotとはまつ
_e8prit vaste, mais inoons6quent, peu d accord par sa nature avec ses
響
小井戸:L6sβ ノoκκ動の307θ∫s論(皿) 9 P・・P・e・・pi・i・n・…th・u・i・・te et・ceptiq・・, b・n h・mme exp・im・nt par飴i・
d・・v・eux・t…㏄, cap・bl・de v。,t。,。t d。、t,u、t。。, d。 t。ut, m。.a1乙?
であるゲつまり18世紀の様ざまな思潮を一身に集約した,矛盾の塊りのような 人物なのである。だがVillemainも,その無神論と唯物論こそがDiderotの 真面目である点は押えている。この忌むべき思想傾向は当然Diderotの美的趣 味や文体にも関係を及ぼすから,
Dans le roman, dans le drame, dans Ia th60rie de l,art, son imagination est mat6rialiste comme sa philosophie. Ce qui domine en lui, c est une sorte de chaleur des sens. Son style color6, sanguin, nu, effront6, n・a rien de cette beaut6 intellectuelle qui reproduit, a travers des images transparentes,
1㏄P1・・p・・e・ab…ac・i・n・d・ram・. Chez 1・i,・・u・p・,le au。。,pま2)
ということになる。しかしVillemainがDidemtの文学作品を全然評価しな い訳ではない。彼は1二6546礁オ而∫48Bo〃晒0ηπ8とα6∫π 83 ρα5ππω肋 の名を挙げて・コント作家としてのDiderotの技備を次のように高く買って
いる。
C est 1 abondance de d6tai ls,1 exactitude pittoresque et sensible de Richard一 son・avec une expression plus serr6e, plu3 nerveuse. Personne n a mieux
12)
モ盾獅狽U dans le XVIIIe si6cle, non, pas meme Voltaire.
また批評的な作品についても,その一部(例えばT6rence論など)は積極的
に評価する。
Diderot est un critique sup6rieur, bien qu il manque souvent d une exacte justesse・Mais il sent ce qu il juge;il analyse avec fbu. Son imagination se colore de celle d autrui;il prend le langage et l accent des choses qu il veut
12)
10uer.
そして最後にVillema三nはこう結論する。
亙
jrudit et・origina1, Diderot, malgr61 erreur de ses principes, peut・il etre rel6guε, comme le veut La Harpe, dans la classe des soph三stes〜et aprさs Ies quatre g6nies du XVIIIe siさcle, son nom ne doit・il pas venir le prem三er
12)
peut・etre parmi les lettr6s de son temps P
まことに控え目な誉め方ではあるが,この時期にSorbonneの教授がD重derot にたいしMontesquieu, Voltaire, Buffbn, Rousseauに次ぐ地位を認めたこと には,やはり重要な意味があると言うべきであろう。Geruzez(1799−1865)の 研∫ o加虚」σ1魏6r伽7θプ}伽fσ∫∫6(1852)もVillemainの方法をお手本にして いる。古今の大作家から節度と中庸を学ぶことを説くGeruzezに, Diderotの 気紛れな趣味と過激な思想が気に入る筈はない。
Certes, il y a peu d 6crivalns aussi dangereux que D三derot, car il es重 sincさre; peu de p6rturbateurs de 1,intelligence plus dξsastreux, car il est
13)
610quent.
しかしGeruzezにとっても,この作家はく矛盾の塊り〉であった。そして皮 肉にも,1)iderotの救われる道はその矛盾の内にしかないのである。
.。,et il n,y a guさre de recours contre ses erreurs que dans ses contra一 dictions. Heureusement el韮es sont nombreuses et palpables〔...〕Diderot a di・p…6・・n g6・i・d・n・1 助・Z畷・e・d・n・un・b・1・d ・uv・ag・・…噌・
et dissertations, oh quelques traits de lumiさre percent a travers le fatras.
J.Proustによれば, Genin(1803−56)も, La HarpeのD三derot論に反擁し た学者である。だが彼のDiderot観もVillemainのそれとさほど変りはしな い。すなわち唯物論者だった点がDiderotの大きな過ちではあるが・彼は必ず
しも首尾一貫していた訳ではなく,その原理から外れた面は注目に価するとい うのである。Diderotの文学的作品も玉石混清とされ,部分的にしか評価され
小井戸:L6sBヴoκκ動漉scア8お論(皿) 11
ない。確かにLa Harpeの批判よりは増しかもしれぬが,これも亦ずい分と
持って廻った妙なDiderot評価ではある。しかしGeninだけが例外なのでは なく,実はこの当時の哲学者たちはBersot(1816−80)も, Damiron(1794一 1862)も,Caro(1826−87)も, Janet(Paul,1823−99)も皆同じような立場
14)
からDiderotを観ているのである。彼らに共通した特徴を整理してみると,大 略つぎのようになろうか。
1)唯心論ないし観念論の観点から,Diderotの唯物論を拒否しているこ
と。
2) 大学教授として,学生達を危険思想から守ろうとするく教育的〉配慮が 窺えること。
3)矛盾に充ちたDiderotの思想のうち,自分に好都合な面を引き出して,
これのみを評価しようとしていること。
4)Diderotの哲学以外の領域についても,断片的・恣意的な評価しか為し えないこと。
これらの諸点のうち特に第3点について若干補足すると,例えばCaro が DiderotのR⑳ α 加4 H6」〃4勘5に惹かれるのは,彼が己れのセクト,己れ 自身に囚われていないからである。つまりDiderotは自己の原理を放棄した場 合にしか評価されないのである。またJanetもR⑳ 4痂ηについて, Diderot がHelv6tiusの感覚論的唯物論を反駁した点を捉え,本来彼は唯心論者・観念 論者であると極め付けたがっている。まことに奇っ怪な説と断ぜざるをえな い。ただ彼らが哲学史家として,Diderotの思想的発展をその初期から晩年ま で体系的に跡付けようと努力した点は,取り立てて記すに価するであろう。さ
きに紹介したCarlyleのように, Diderotの哲学的作品を思想的観点から読も
15)
うとした者は,フランスにはNaigeon以後一人もいなかったからである。こ れら哲学者たちのDiderot評に問題のあることは事実だが,19世紀の講壇批 評家にこれ以上を望むのは所詮無理というものであろう。ともあれ,このよう にしてDiderotは, Villemain以来ほぼ40年間,大学でも一応く好意的〉に受 け入れられたのである。
学者たちの間ですら以上のような事情であったから,Diderotが第二帝政期 に,作家たちから大いに歓迎されたのは言うまでもない。当時の文壇に人気の あった劇評家・小説家のJules Janin(1804−74)は, Diderotを称えてこう言
っている。
11faut Paimer, quand on veut 6crire, et rhonorer de toutes ses fbrces, cet 6nergigue et immense Diderot. Pour quiconque aspire a l honneur de parler
・up・bliらd・n・c㏄琵uill・・ch・ng・ant・・chさ・e・al・multitude 6c1 T6e・il
est n6cessaire d 6tudier l esprit,1 aUure et la v6h6mence de Diderot.
やがて彼のDiderot熱はその語り口を模倣するまでに到り,ついに16章から 成るLθノVθo側吻Rα膨側の続篇となって結実する(加F勿4 伽魏oη466 ぬ ノV膨π48Rα膨αの。その熱狂たるや,まさに病膏盲に入るの類である。また 19世紀の中頃にその3α〜oη3が相次いで紹介された結果,美術批評家としての Diderotが注目を集めるようになったことは上で触れたが,そうした雰囲気の
なかで活躍した作家がGoncourt兄弟(Edmond,1822−96;Jules,1830−70)
であった。自ら18世紀美術の研究家として知られる彼らが,Diderotの賛美者 だったことは言うまでもない。すなわち,そのノb銘rη認中には次のように記さ れている。
Voltaire a enterr61e poさme 6pique, le conte, le peti止vers, Ia trag6die・
Diderot a inaugur61e roman moderne, le drame et la critique d art. L un est le dernier esprit de Pancienne France, Pautre le premier g6nie de la
17)
FranCe nOUVelle.
Diderotは18世紀きっての近代人という訳である。 Diderotを取り巻くこうし た情勢から,出版業者Garnier兄弟がその全集刊行の機運は熟したと判断し たのも無理ではない。彼らにもこの企てがどの程度成功するか種々不安はあっ たが,Ass6zat(1832−76)を監修者に迎えて,ともかく仕事は開始された。
途中Ass6zatが過労のため病に麗れるという予期せぬ出来事もあったが,
Maurice Tourneux(1849−1917)が後釜に座って仕事は続行された。かくし て漸くこの企画も出版に漕ぎ着け,(Eπ078560〃ψ」2 θ∫認1)ε4870 (20vok・1875
一77)として完成された。この版がDiderotへの関心を飛躍的に増大させた ことは勿論である。やがてここにもなお多くの欠陥のあることが判明するが・
Ass6zat・Tourneux版は爾後現在に至るまで,使用に耐える唯一の全集として・
Diderot研究史上大きな役割を果すのである。
小井戸:Lθ3β∫ノo襟伽4ゴε 76お論(皿) 13
しかしDiderotが共感を以て読まれたのもこの頃までであった。というの もダ実はこの全集の刊行が進められていたちょうどその頃,フランスは政治的 に重大な局面を迎え,それにつれてフランス人の精神状況にも一大変化が起っ たからである。つまりく普仏戦争〉(1870−71)とくパリ・コミューヌ〉(1871)
を契機とした深刻な社会危機の中で,知識人たちが民族的伝統を希求し,革命 を嫌悪するようになったのである。いまや百科全書家Diderotのく哲学〉は排 斥され,かつてロマン派から賛嘆されたその「ドイツ的」特質にも罵言が浴び せられるに至る。そうしたDiderot批判の典型が,保守的カトリック教徒と して名高いBarbey d Aurevilly(1808−89)の場合である。彼はAss6zat版 の上梓に並行して各巻を読み進め,随時その読後感を発表したが,後にそれら の論文をまとめて(]6ethe et 1)」46γo (Paris・Dentu,1880)中に収めている。
そこにおいて最初に取り上げられるのは・外でもない,Diderotのく哲学〉で ある。例えば動8ψ吻漉oη4θ1αη4顔γ8は,彼によれば,統一的体系を欠い
たくun livre a batons rompus sur la nature, sans composition, sans、enchaine_
ment・sans d6duction>にすぎない。そこに見出されるのは<1e vide profbnd>
と<1 incompr6hensibilit6>と,そしてくtoutes choses essentiellement alle_
mand・覇・…11・m・n・・PP・6・・au g6・i・丘・ng・i・>iまかりであ課このように してDiderotの哲学的作品は,彼にとって軽蔑と怒りの対象でしかない。つぎ に彼はコント・小説へと話を進めるが,その評価はやはり総じて厳しい。まつ
Les 6crivaills du XVIIIe siさcle 6taie耐trop anim6s et trop esclaves des o垂≠唐唐撃盾獅刀@de leur temps pour avoir 1,impartialitξde robservation et la profbndeur dans I 6tude de la nature humaine, ces deux conditions n6ces一
●唐≠戟ues a ce genre de composit五〇n・Le roman, pour eux, n εta三t qu・un v6hicule commode pour porεer leurs idεes plus loin, pour les faire entrer plu・av・nt d・n・1es e・p・it, et d、n、1。、 c。eu,ま8)
と,18世紀の小説家全般に共通した欠点を指摘した後で,しかしそうした時代 的な事情を差し引いてもなおDiderotには才能がなかった,と次のように既
している。
_ce ne fbt pas seulement son temps qui empecha Diderot d etre un
9・and・・m…i・・, ce舳t・ussi・a p・・P・e n・t・・e・ce免t 1・m・nq・・d・
18) o ,
№?獅撃?E
只さまざまに悪口を並べて行くうちに,ふとこんな称賛の言葉が漏れたりする こともある。 .
Il avait la facult6 du paradoxe 〔...〕 Il a bien prouv6 qu il Pavait dans 1e Pご勉40κ84π oη2宛fθπ, dans PEη〃6だ6π ゴ %η。ρ2r6 α06 5856ψπ広∫et dans son ハ励8π48 Rσ切6απ. A cette facult6 du paradoxe il joignait la facult6 du conteur rapide, qui sait tourner vivement et ing6nieusement son conte・
meme qualld ce conte est d6pourvu d originalit6. Voila, en sommeJes
18)
meiUeures facult6s de Diderot.
小説類にたいするBarbey d Aurevillyの批判は,哲学の場合に比べると・微 妙に調子が変っていると言えよう。この後Barbeyは・Diderotの演劇と書簡 についても相変らず低い評価を与えている。だが批評家としてのDiderot批 判では,その口調が一変する。とりわけその美術批評に限ると,手放しで誉め ていると言ってもよい。
...il a, en crit五que,1e don le plus rar軌Il a 1 invention・Peu de critiques 1 ont ou 1 ont eue〔...〕Diderot, ce charlatan 6blouissant〔...〕cesse d etre saltimbanque quand il s agit d art〔...〕 Cet esprit faux en tant de choses
18)
avait la sellsibilit6 juste.
Barbey d AurevillyはDiderotに対し,その一面についてではあるが・心か ら共鳴しているのである。思想的立場のまったく異なる二人の間にも,美的感 動への情熱の面では相通じるものがあったのであろう。Barbeyが結論を締め 括るにあたり,次のようにDiderotを激賞しているのも・やはりこの深い共 感の故ではなかろうか。
r
ka salamandre qui s,appelait Diderot, et qui vivait dans Ie fヒu.de l,esprit,
小井戸:Lθsβ∫ノoμκ∫〃漉sσ7θ∫s論(皿) 15 dans le fヒu du coeur, dans le fヒu des sens, dans le fヒu de renthouslasme,
dans le feu de la gait6 et dans le fbu des larmes, dans tous les fヒux que rhomme, d,essence immortelle, puisse allumer sur Ia terre avec ia torche 18)
唐浮b撃奄高?@de ses facult6s, s y est consum6e.
しかしそれにしても,なぜ彼がこれほど誉めたのか,一寸唐突な感じがしない でもない。実はここに,その謎を解くもう一つの事情がある。というのも,
Barbeyはこの結論の部分でDiderotとGoetheを対比しているのであるが,
ドイツ人のG(£the憎さの余りDiderotを誉める言葉に少々力が入り過ぎたら しいのである。彼は自分が前につiderotをG(£theの父であるとか, Goethe に似ているとか言って,その「ドイツ的」な精神を嫌悪したことを一瞬忘れて しまったのかもしれない。Taine(1828−93)はBarbey d Aurevi11yと違って 本来・決定論的・唯物論的見地に立つ実証主義者である。だがく普仏戦争〉の 敗北とくパリ・コミューヌ〉の惨劇につよい衝撃を受けて以来,彼は近代の民 主主義社会にふかい疑念を抱くに至る。その病根を探るべく,彼が取り組んだ のが大著Lθ∫0プ∫gf瑠∫鹿1σF伽 8 oη 6〃ψ074」πθ(未完,6vol臨,1875−93)
である。ここで彼は・フランス社会における精神力の衰えの原因として,大革 命とその主要な契機となった18世紀哲学とを断罪する。勿論Diderotも厳しく 批判される。だが上で明らかなように,Diderotは多面性を具えたく矛盾の塊 り〉である。古典的伝統の擁護者Nisard(1806−88)もすでに1861年に書い
ていた。
Diderot, dest le paradoxe. C est pour cela qu il est si cher a une certaine
classe de lettr6s, outre son d6sordre, dont Pattrait nest pas m6diocre pour 19)
1es gens qui ne go血tent pas rordre.
だからDiderotに批判的な人でも,よほど警戒しないと,彼には幻惑され兼 ねない。その点Taineはどうかというと,彼も理論上嫌悪すべき筈のDiderot に・いつしか魅せられてしまうのである。従って,そのDiderot像は複雑と ならざるをえない。
Diderot,〔...〕c est un volcan en 6ruption qui, pendant quaraロte ans,
d6gorge les id6es de tout ordre et de.toute espさce, bouillonnantes et me16es,
m6taux pr6cieux, scories grossiさres, boues f6tides 〔...〕Il ne possさde pas ses id6es, mais ses id6es le poss6dent;il les subit;pour en r6primer la fb皿gue et les ravages, il n a pas ce fbnd solide de bon sens pratique, cette digue int6rieure de prudence sociale qui⊂.,.〕barre la voie aux d6borde一 ments〔...〕Si alertes et si brillants que soient les personnages de Voltaire,
ce sont toujours des mannequins;1eur mouvement est emprunt6;on
entrevoit toujours derriさre eux l,auteur qui tire la ficelle. Chez Diderot, ce f産1 est coup6;il ne parle point par la bouche de ses personnages, ils ne sont pas pour lui des porte・voix ou des pantins com五ques, mais des etres ind6pendants et d6tach6s, a qui leur action apPartient, dont l accent est personne1, ayant en propre leur temp6rament, leurs passions, leurs id6es,
1eur philosophie, leur style et leur ame, parfbis, comn】e le Neveu de Rameau, une ame si originale, si complexe, si complをte, si vivallte et si diffbrme qu elle devient dans rhisto三re naturelle de 1 homme un lnonstre
20)
inoomparable et un document immorte1.
以上TaineとIBarbey d Aurevillyと,周・想的立場のまったく異なる二人の場 合を見てきたが・その批判は不思議と同じような軌跡を描いていた。Danie1 Mornetも彼らのDiderot評を一括して,こう言っている。
Barbey d Aurevilly, Taine sont partag6s entre leur admiration pour l artiste et leur m6pris pour des doctrines qui menacent la tradition politique et
21)
religieuse.
Brunetiさre(1849−1906)はN五sard同様, Diderotの魅力と同時にその危険性 をもよく認識していた。だから彼は,1Barbey d AurevillyやTaineみたいに Diderotにく幻惑〉されぬようにしようと決意する。特にAss6zat版刊行以来 Diderotはいわば「流行」だったが,中でも多くの人びとが一致して評価して いたのが美術批評家としての彼の才能であった。そこでBruneti6reはDiderot の3α伽3を叩くことによって,彼に決定的な痛手を与えることを狙うのであ
小井戸:Lθsβf/o嫉f 直s 7θ雄論(皿) 17 る。すなわち,純然たる文学者にすぎぬDiderotに絵画や彫刻について語る資 格があるだろうか,と疑問を提起した上で
Diderot a pris dans les 3α〜oη5 justement le contrepied de la vraie critique
22)
d,art.
と彼を厳しく批判し,最後につぎのように結論を下す。
11 ガya rien pour nous, ou presque rien, a prendre dans les 8己zJoη∫ de
22)
Diderot, et il est meme a regretter que notre siさcle y ait d6ja tant pris.
Bmneti6reにとってDiderotはあらゆる意味で忌わしい存在であり,その Diderot評は文字通りの全面否定である。彼が後にEcole normaleなどで行っ た講義においても事情は同じであったろうし,又ルf伽πθ」46♂協ゴ3癖7848」召
● ● ●
」 麓7伽78力僻⑳58(1897)などの著作を覗いても,Diderotへの共感はかけら も見られない。しかもBruneti6reの場合,問題はこれだけではない。なぜな ら彼が大学の講壇とジャーナリズムを通じて,学者たちやR60粥483 D6鋸 ルfoη46∫の一般読者に及ぼした影響は,極めて広汎でかつ非常に持続的だった からである。これはD三derotにとってまさに決定的な痛手となった。確かに その後にも,より公正なDiderot論が2,3数えられない訳ではない。だがそ れらはいわば例外であって,Brunetiさre以後一般には, BersotやDam五ronや Caroがかつてそうしたように, Diderotの主張を体系的に跡付けようと試み
タンベラマン
る者もなく,彼のパラドックスに統一をもたらし得るのはその気質のみとす るような,御座なりな認識が支配的になるのである。Bruneti壱・eと並んで学者 や学生たちの間に権威のあったFaguet(1847−1916)も, Diderotを「キリス ト教的でもフランス的でもない」世紀の代表的人物として,人びとに嫌悪させ るのに与って力のあった批評家である。ただ彼はDidemtを全面的に否定はし ない。一部の作品(例えばL8ハ物砲481〜α膨αの,あるいはその中の若干の 頁は秀れたものと認めている。しかしそれらは「偶々」秀れているのであって Diderotの才能の証しにはならぬ,というのがFaguetの意見である。
Deu琴choses.manquent essentiellement a Diderot, qui ne laissent pas d εtre importantes pour rauteur dramatique, la connaissance、 des hommes et rart du dialogue.11 n,ava…t aucune f吾cl1豆t6 de psycllologue. Jamais un homme n a・6t6 pour lui u耳sujet d 6tudes, parce que chaque homme lui 6tait une cible d,610quence「.,.〕Et il ignorait rart du d量alogue pour la meme cause
〔_〕Les dialogues sem6s dans les romans et les salons de Dider6t sont Pleins de verve. Il est vrai. Mais ce ne sont pas des dialogues, ce sont des monologues anim6s. C est to吋ours Diderot qui s entret董ent avec lui・mεme
〔_〕C est un solilQque coup6 par des noms d,,interlocuteurs. Comme
Diderot a cru que le na加rel consistait a mettre desクo傭∫465銘ψ6η吻πau m五lieu des phrases, il a cru que le dialogue consistait a mettre beaucoup
23)
de蕗76 5 dans une dissertat三〇n.
.
vするにFaguetはDiderotをはっきり二流の作家と見徹しているのである。,
Lanson(1857−1934)によるDideroレ像はFaguetの場合ほど不当なものでは
タンベラマン
ない。しかし彼も今なお,Diderotの文学をその気質との関連で論じようと F
しているように思われる。彼はまつ
La tete、d up Langrois est sur ses 6paules comme un coq (d,691ise)au haut d un clocher; elle n est jamaヨs f1xe dans un point; et s三elle revient 註celui qu elle a quitt6, ce n est pas pour s y arreter. Avec une rapidit6 surprenante dans les mquvements, dans Ies d6sirs, dans les projets, dans les
fantaisies, dans les id6es, ils ont le parler lent. Pour moi, je suis de mon F
pays;seulement le s旬our de la capitale et rapplication assidue m ollt un
、 24)・
@ ・ 垂?普@co「「1ge・ 脚
1
@
ニいう有名なbiderotの自画像を引用する。次いでこの「ラングル人」気質を
手掛りにして,彼の為人と文体の特徴をこう分析してい凱 」 1 ℃
1.
cenis Dide沁t, Langrois devehu Parisi6n, s 6tait corrig6 en effbt, mais non pas de la・f凄⊆on qu,il croyait, Son esprit avait gard61a prompti加d6 a virer:mais il avait 6gal61 imp6tuosit6 de son 610cution a la rapidit6 de
小井戸:Lβsβ ゴ傭κfπ4fs67θお論(皿) 19 sa pens色e. 11 est bavard, conteur, conseilleur, raisonneur〔...〕三1 a 6crit comme il parlait, fac三1ement, gaiement, sans fatigue et sans relache:cela μ即αゴ彦son esprit, comme eεt djt Ar三stote. Aussi ne peut−on parler ici de Iabeur artistique, de lente 61aboration, de compos三tion savante et r6f16cLie:
25)
狽盾浮狽?刀@ces simagr6es ne sont pas sa maniさre.
こうしたLansonのDiderot評は,その公明さに疑問の余地はないとしても,
基本的にLa Harpe以来のフ.ランス・アカデミスムの伝統の枠内に留まるもの と言わざるをえまい。Saulnierが言うように,概して19世紀末も,18世紀末と
26)
同様に,「Diderotを好んではいない」のである。
だが上でちょっと触れたように,Brunetiさre以後にもDiderotに好意的な 批評家が全然いなかった訳ではない。例えばLouis DucrosはそのDf4〃o ,
」 加η!η386 1,66rJ〃厩π(1894)において, Brunetiδre がくDiderot a parl6 des arts en litt6rateur>と非難した例の問題を取り上げ,
C est justement pour cela qu il a cr66 un genre nouveau, c est pour cela qu,il a agrandi le domaine litt6raire d,une province nouvelle, qu五est la
27)
critique d art.
とDiderotを弁護した後, Brunetiさreの批判がいかに根拠のない不当なもの
27)
であるかを,抑制のきいた言葉で30頁程をさいて反論している。Ducrosのこ のDiderot論は,単に公正であるばかりでなく,フランス語で書かれた最初の 総合的なDiderot研究である点でも注目に価するものであった。ただ彼の研究 がどんなに秀れたものであっても,その読者はほとんど学者だけに限られてい たから,これでDiderotがBmneti色reから蒙った痛手を償い切れるものでな かったのも事実であ器小説史の研究で知られるA。d,6上。 Bre・。n(、866_
■ ● ● o ■ ●
1931)の五6Ro加儂側伽・乃競 伽63∫2 1θ(1898)でも, Diderotは小説家として まつは正鵠を得た評価を受けていると言えよう。Le Bretonは, Diderotが小 説にく哲学〉を盛り込もうとしたのは明らかだが,彼は小説作品においては
「説教家」でなかったという。つまり彼が一大芸術家たり得たのは,説教より
「別のことをすることができた」からなのである。
Dans ses petites nouve11es et dans ses romans, rid6e se d6gage des faits,
des gestes de ses personnages qui sont des cr6atures vivantes et distinctes de lu…. 1、 ouvrage est fbrm6 d anecdotes ou de scさnes de la v量e pr6sent6es sans commentaires〔...〕Mais il ne suff三t pas〔...〕qu un fait soit r6el pour qu il paraisse vrai dans un roman. L art de Diderot a d autres secrets.
29)
Il est un metteur en scさne de premier ordre.
五eBretonはこんな風にDiderotの小説(技法〉の一般的特徴を説明し,
On lu三abeaucoup reproch6 de ne pas composer. Le reproche n est pas
29)
trさs juste・
と彼をかばった後,特にL6魏酬4乱Rα膨醐を取り上げ,これを
(Euvre vraiment extraordinaire, et oh nous retrouvons a Ieur point de
29)
, perfヒctiob toutes les qualit6s de Diderot romancier.
として,様ざまの角度から分析しながら称賛している。そして最後に,Diderot についてこう結論を下している。
Estimerons−nous, aprさs cela, que Diderot soit, comme on Pa dit de nos jours, <tout alle1皿and>ou <tout anglais>〜 Son art est un retour a la tradition meme de 1 art nationa1, au vieux fbnds frangais〔_〕Dans notre 1三tt6rature, il n,y avait r三en de comparable au/V806% 48ノ〜αη8側depuis Tartuffヒet M, Jourdain;圭1 n y a rien de comparable jusqu a vautrin et au pさre Goriot. Ici,1e r6alisme de Diderot r{類oint d,un cδt6 Moliさre et
29)
de rautre Balzac.
30)
かくして,Diderotが「その伝説だけで生き永らえ」たとされる時代も漸く終 り,いまや新たな世紀が訪れようとしているのである。
それにしても,一般的に19世紀はDiderotをよく理解しなかった,と断ぜざ
小井戸:Lθsβ存oκκ伽4fsσ7θ∫s論(皿) 21 るをえない。彼の敵は言うに及ばず,彼に共感を示した者もである。共感とい っても,それは得てして偏頗な一面観であったし,もっと悪い場合は手前勝手 な我田引水説であることが多かった。この傾向が一等明瞭に現われていたのは 講壇派の批評家だが,要するにその批評は己れの階層ないしは党派に捉われ過
ぎていた。更にこれと根本を同じくするもう一つの問題は,彼らがこの18世紀 でももっともコスモポリットなく哲学者〉の一人であるDiderotを・自ら同じ 精神をもって受け止めることが出来なかった点であろう。こうした19世紀フ岳
ンス批評家の一般的特質を,J. Proustは<ethnocentrisme>と規定しているが,
これは彼らが諸外国の秀れたDiderot研究家の成果に注意を払おうとしなかっ た事実の内にも見てとれる。だがフランス以外のヨーロッパ諸国の動向を度外 視して,Diderotをめぐる20世紀の新展開は考えられないのである。19世紀は ひときわ民族性の色濃い世紀であったから,Diderot研究ではもっとも重視さ るべきドイツにおいてさえ,その前半期にはSchlege1以来の民族主義的反感が Diderot批判の基調を成していた。しかし世紀も半ば頃になると事情は変り・
Diderot思想の本格的研究が見られるようになる。そしてついにKarl Rosen一 kranz(1805−79)のD♂4670∫5 L6う6η膨4隣ノ初〔Lα巧68 185(E卿猶6∫48 1) 4〃o彦〕(2vols., Leipzig,1866)が出現する。これは文字通りヨーロッパで最 初に書かれたD董derotに関する大著である。 Rosenkranzの取り組み方で特筆
しなければならぬのは,彼が既存のフランス語版に満足せず,Ermitageに保管
マニユスクリ
されているDiderotの稿本の写しをわざわざロシアから取り寄せている点
32)
ナある。この論考において彼が企てたのは,理神論から懐疑主義・自然宗教・
経験主義をへて唯物論に至るDiderotの思想を,体系的に把握することであっ た。だが彼は自らHege1流の観念論者であったにも拘らず,前述のフランス人 哲学史家たちとは違って,Diderotの唯物論や無神論をねじ曲げて己れに好都 合に解釈するようなことはしていない。彼はそこにDiderot固有のダイナミッ クな原理を認め,Diderot思想の全体像を理解しようと真摯に努力するのであ る。勿論この秀れた労作の存在について,フランス人も全く知らなかった訳で はない。Sainte・Beuveは知っていたし,その重要性を訴えた者もいた。しかし 実際には,フランス人が概してドイツ語を知らなかったという事情も手伝づ て,当時誰もこの書物を読みはしなかったらしい。やがて1870年の戦争期に至● ●
ると,フランスの社会状況は既に見た通りで,ドイツ人の批評に耳を傾けるど ころではなかったのである。 Rosenkranzと並んでイギリス人John Morley
/
(1838−1923)も,Diderot研究史上けっして忘れることのできぬ名前である。
彼の1) 4〃o 伽4疏6Eηヴ 」ψ磁廊∫5(2 vok, London,1878)は,いわば RogenkranzのDiderot論の続篇として,又Carlyleへの反駁として現われた。
り ペ ラ ル
そこで自由主義者のMorleyは, Diderotの著作が書かれた歴史的背景に配慮 しながら,彼の活動をフランス革命の文学的準備と理解して,一つひとつの作 品を政治闘争上の契機として検討している。この著書はRosenkranzのものよ
33)
りは読まれたらしいが,フランスの批評家たちに影響を及ぼさなかった点では
・酬伽o≠5L8う6π〃雇躍6£舵の場合と同様であった。 DideroIの作品は,ドイツ 程ではないにしろ,ロシアでも夙に歓迎されていた。だがここでも19世紀前半 には,Diderotのどんな作品も出版されていない。逆に後半期になると, Dide一 rotのテキストばかりか,西欧各国で公刊された重要なDiderot批評までが,
続々と露訳されて普及するに至る。Diderotとその作品がロシアの革命的イン テリゲンチアのつよい関心を惹いたことは言うまでもない。Dmitri Ivanovich Pisarev(1840−68)の場合はその典型であろう。ラディカルな唯物論者・無神 論者にしてニヒリスト集団の指導者たるこの青年は,1862年に獄中の人となっ たが,知識人の義務は民衆の蒙を啓くことと考えていたから,Diderotをそう
した知識人の手本と観じて,その伝記を書くことを企てた。D諭o勧四〃紹厩4
〔Diderot and His Time〕と題するこのDiderot論はダ1866年にPisarevが放 34)
免されたため,結局完成はされなかった。そしてロシァの場合に無視しえぬも う一点は,Plekhanov(1856−1918)からRKogan(1872−1932),L6nine
(1870−1924)に至るマルクシストたちによるDiderot批判の存在である。こ の流れはやがて20世紀に,ソ連ばかりか西欧諸国においても・Diderot研究の 方法として一大潮流を成すに至るであろう。
フランスの雑誌に,旧来の伝統とはっきり訣別したDiderot観が初めて登 35)
場するのは,やっと1913年のことである。その論文の著者は且Grcethuysen
(1880−1946)であるが,彼はオランダ人の父とロシア人の母の間にドイツで 生まれ,ドイツで育ったベルリン大学の教師であったから,厳密にはこの日付 けも,フランスにおけるD三derot論に新時代を画するものと言えるかどうか疑 問が残ろう。やはりフランスの場合,Diderot研究において真にその面目を一 新するのは,1930年代に入ってからではなかろうか。この時期になるとフラン
スでも,質的にも量的にも,いかなる国に対しても遜色ないだけの成果が挙げ a6)
轤黷トいるからである。こうしてDiderot研究はやっと本来の軌道に乗った。