第 255 回 日文研フォーラム 東アジア近代史における「記憶と記念」 目次 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和……… 1 ――日清 ・ 日露戦争を中心に――… 都 珍淳 東アジアにおける記憶の共有の模索……… 19 ――日中戦争博物館の比較研究を通じて――… 馬 暁華 コメント 日本人の戦争認識……… 64 松田利彦 東アジア近代史における「記憶と記念」質疑応答………… 73…
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● テーマ ●
東アジア近代史における「記憶と記念」
“Memory and Commemoration” in the Modern History of East Asia
2012 年 4 月 10 日(火) ● 発表者・コメンテーター ● … 発表者… 都 珍淳 DOH Jin-Soon … ゲスト発表者… 馬 暁華… MA Xiaohua … コメンテーター… 松田 利彦 MATSUDA Toshihiko
発表者紹介
都 珍淳 DOH Jin-Soon
昌原大学校 教授
国際日本文化研究センター 外国人研究員 Professor, Changwon National University, Korea
Visiting Research Scholar, International Research Center for Japanese Studies
略 歴 平成 5 年 2 月… 博士(韓国・ソウル大学校) 平成 5 年 9 月… 韓国・昌原大学校 教授 平成 23 年 9 月… …国際日本文化研究センター 外国人研究員就任(~平成 24 年 8 月まで) 著書・論文等 「忘却に至る二つの道――日本鹿児島と韓国南海岸の戦争記憶」『歴史学報』208、ソウル : 韓国歴史学会、2010 年 「世紀の忘却を越えて――日露戦争 100 周年記念行事と記念物を中心に」『年報日本現代 史』13、東京:現代史料出版、2008 年 『韓半島・分断の明日・統一の歴史』ソウル:ダアンダアイ出版社、2001 年 『韓国の民族主義と南北関係』ソウル:ソウル大出版部、1997 年(第 38 回韓国出版文 化賞受賞)
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馬 暁華… MA Xiaohua 大阪教育大学 准教授
Associate Professor, Osaka University of Education
略 歴 平成 6 年 3 月… お茶の水女子大学大学院人文科学研究科博士前期課程修了 平成 10 年 3 月… お茶の水女子大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了 平成 10 年 3 月… 人文科学博士(歴史学)お茶の水女子大学 平成 12 年 4 月… 大阪教育大学教養学部教養学科 准教授 著書・論文等 「観光・エスニシティ・記憶の文化ポリティクス」『歴史研究』第 47 号、2010 年 The Unpredictability of the Past: Memories of the Asia-Pacific War in U.S. -East Asian
Relations,…Durham,…NC:…Duke…University…Press,…2007(共著) 『記憶としてのパール・ハーバー』共著、ミネルヴァ書房、2004 年
The American Experience in World War II: American Diplomacy in the Second World War,…New…York:…Routledge,…2003(共著)
『幻の新秩序とアジア・太平洋――第二次世界大戦期の米中同盟の軋轢』彩流社、2000 年
…松田 利彦 MATSUDA Toshihiko 国際日本文化研究センター 准教授
Associate Professor, International Research Center for Japanese Studies
略 歴 平成元年 3 月… 京都大学文学部史学科卒業… 平成 3 年 3 月… 京都大学大学院文学研究科西洋史学専攻修士課程修了 平成 4 年 1 月… 文部省学術振興会 特別研究員 平成 5 年 3 月… 京都大学大学院文学研究科現代史学専攻博士後期課程退学 平成 5 年 4 月… 京都大学文学部 助手 平成 8 年 4 月… 兵庫県立神戸商科大学商経学部 専任講師… 平成 10 年 10 月… 国際日本文化研究センター…研究部 助教授… 平成 12 年 4 月… …韓国ソウル大学社会科学大学経済研究所 特別研究員(文部省 在外研究員) 著書・論文等 『日本の朝鮮植民地支配と警察――1905 ~ 1945 年』校倉書房、2009 年 『日本の朝鮮・台湾支配と植民地官僚』共編著、思文閣出版、2009 年 『植民地帝国日本の法的構造』共編著、信山社、2004 年 『日帝時期の参政権問題と朝鮮人』金仁徳訳、国学資料院、2004 年
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戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和
――日清 ・ 日露戦争を中心に――都
珍
淳
「 記憶とはより多くのことを忘却する過程である 」… ジャン・ボードリヤール( J.…Baudrillard ) 「 歴史学は核物理学ほどに危険でありうる 」 … エリック・ホブズボーム( Eric …J. …Hobsbawm ) 序 〝他民族へのいたわり〟と戦争の記憶
『二十一世紀に生きる君たちへ』と〝他民族へのいたわり〟 司馬遼太郎の『二十一世紀に生きる君たちへ』では「いたわり」が強調され、さらにグローバル時代を生きる心得として、 〝他民族 へ の い た わ り 〟 も 主 張 さ れ て い ま し た。 グ ロ ー バ リ ズ ム に 関 し て は さ ま ざ ま な 解 釈 が あ り ま す が、 世 界 経 済 に 占 め る 貿 易 量 を 考 え る と、 東 ア ジ ア の 重 要 度 が 増 す こ と は 間 違 い あ り ま せ ん。 今 後、 東 ア ジ ア は 世 界 の 〝一部分〟 ではなく 〝最も重要なキーワード〟 になるでしょう。 … 戦争の記憶と忘却、そして平和 一 九 世 紀 後 半 か ら、 東 ア ジ ア で は、 「 第 一 の 開 港 」 と い わ れ る 近 代 化 に よ っ て、 ( 西 洋 ) 文 明 化 す る と 同 時 に、 戦 争 が 相 次 い で 勃 発 し ま し た。 日 清 戦 争 ( 一 八 九 四 ― 九 五 年 ) と 日 露 戦 争 ( 一 九 〇 四 ― 〇 五 年 ) を 通 し て 東 ア ジ ア は 大 変 動 を 経 て、 日 本 の 帝 国 主 義 化、 韓 国 や 台 湾 の 植 民 地 化、 中 国 の 半 植 民 地 化 が 進 み ま し た。 「 第 二 の 開 港 」 と も い わ れ る グ ロ ー バル時代に、日本・中国・韓国は第一開港期の戦争をどのように記憶し、何を忘却してい 図 1 …司馬遼太郎の『21 世紀に生きる君た ちへ』の碑(中小阪公園、東大阪 市)。本文は…『小学国語』(大阪書籍、 6 年生)にも収録されている
3 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 るのか。そしてそのことが、司馬遼太郎が言う〝他民族へのいたわり〟または東アジアに おける平和構築といかなる関係にあるのか、これが今日のテーマです。今日は時間の関係 上、簡単な事例のみを紹介します。 … 第一章
日本
――戦争の記憶と忘却 (一) 日清戦争の記憶――〝世界〟の中で忘却された〝アジア〟 広島――世界平和都市と大本営 日清戦争に関わる日本の代表的都市は、当時大本営のあった広島です。東京にある靖国 神社の大灯籠の基壇に浮き彫りにされている図 2の場面は、日清戦争中、広島の大本営に 入る明治天皇の姿です。当時、明治天皇が広島の大本営において戦争を指揮し、帝国議会 も広島に移転しました。しかし、今日の広島は原爆の被害に遭った世界的な平和都市とし て生まれ変わり、日清戦争の大本営の面影はほとんど忘却されています。 … 比治山 陸軍墓地 広島には大本営をはじめ、さまざまな日清戦争の遺跡がありますが、その一つが比治山の 陸 軍 墓 地 で す。 こ こ に は 陸 軍 の 墓 碑 四 〇 〇 〇 基 余 り が あ り ま す が、 こ の う ち 多 数 を 占 め る の は 日 清 戦 争 当 時 の 墓 で す。 日 清 戦 争 の 直 後、 こ の 地 は 聖地でしたが、今ではほとんど放置されています。 墓 碑 に は、 戦 死 し た 兵 士 た ち の 名 前、 戦 没 地、 死 因 な ど が 刻 ま れ て い ま す が、 日 清 戦 争 の 激 戦 地 で あ り 補 給 基 地 で も あ っ た 朝 鮮 半 島 の さ ま ざ ま な 地 域 が 戦 没 地 と し て 記 さ れ て い ま す。 そ の 代 表 と し て、 日 清 戦 争 の 最 初 の 陸 戦 で あ っ た 朝 鮮 の 成 歓 の 戦 い に お い て 戦 死 し た ラ ッ パ 手、 木 口 小 平 に 関 す る 別 途 の 案 内 板 も あ り ま す。 当 時、 英 雄 化 の た め に 創 出 さ れ た ラ ッ パ 手 の 神 話 ( 死 ん で も ラ ッ パ を 口 か ら 離 さ な か っ た と い う 神 話 ) は、 そ の 名 前 が 白 神 源 次 郎 か ら 木 口 小 平 へ と 変 わ る 騒 動 の後も続いて、 多くの絵画や詩や歌となり、 「修身」 の教科書にも載りました。征露丸のラッ パのマークは現在も受け継がれています。 図 2 …広島大本営に入る明治天皇のレリーフ(東京 の靖国神社の大灯籠の基壇)
5 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 (二) 日露戦争――〝第 0次世界大戦〟とアジアの忘却 横須賀の〈日本海海戦百周年記念大会〉と対馬の〈平和と友好の碑〉 日 露 戦 争 百 周 年 に 当 た る 二 〇 〇 四 ― 〇 五 年 に か け て、 日 本 で は 記 念 行 事 が さ ま ざ ま に 行 われました。アカデミックなものとしては、読売新聞社の主宰によって国際シンポジウム 「 第 0次 大 戦 と し て の 日 露 戦 争 」 ( 二 〇 〇 五 年 五 月 二 三 ― 二 七 日 ) が 開 催 さ れ ま し た。 ま た、 横 須 賀 の 三 笠 公 園 で は〈 日 本 海 海 戦 百 周 年 記 念 大 会 〉 が 開 か れ、 対 馬 ( 殿 崎 公 園 ) に 造 ら れた〈日露友好の丘〉には、日本一巨大な碑である〈平和と友好の碑〉が建てられました。 この碑の銅板に彫られているのは、東鄕平八郞が佐世保海軍病院でバルチック艦隊のロ ジェストヴェンスキー司令長官を慰問する場面で、高尚な武士道精神が強調されています。 そしてその下には〝平和〟と〝友好〟という言葉が大きく掲げられています。ところが平 和と友好の間に彫られている東鄕平八郞の文章は、韓国の巨濟松眞浦では昭和ファシズム の 表 象 と し て 用 い ら れ ま し た。 つ ま り、 同 じ 内 容 の も の が 昔 は 侵 略 的 フ ァ シ ズ ム と し て、 今日は平和と友好の表象として利用されているのです。 『坂の上の雲』 司馬遼太郎の歴史小説は、今もなお大衆に対して強い影響力を持っています。松山市に
図 3 対馬の〈平和と友好の碑〉(筆者撮影) 図 4 …韓国の巨濟松眞浦の〈日露戦争記念碑〉(1935 年、東京 国立博物館所蔵古文書より)と、対馬の〈平和と友好の碑〉 (2005 年、筆者撮影)に彫られている東鄕平八郞の文章 の比較 … (松眞浦)… (対馬)… (松眞浦)… (対馬)
7 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 「 坂 の 上 の 雲 ミ ュ ー ジ ア ム 」 が 開 館 し ( 二 〇 〇 七 年 春 ) 、 N H K は ド ラ マ『 坂 の 上 の 雲 』 を 特 別 番 組 と し て 放 送 し ま し た ( 二 〇 〇 九 ― 一 一 年 ) 。 周 知 の 通 り、 こ の 小 説 の 中 心 的 な テ ー マの一つが明治日本に対する賞賛です。 (三) 記憶の中心概念と相互矛盾 前述の通り、記憶の核となるのは明治日本の宣揚と継承、そして平和と友好です。問題 な の は、 東 ア ジ ア に お い て そ の 二 つ は 互 い に 衝 突 し、 併 存 で き な い こ と で す。 日 清 戦 争・ 日露戦争の結果として台湾や韓国が植民地になったという事実を取り上げず明治時代を宣 揚することは、東アジアにおける日本の侵略を忘却する過程ともいえます。 この路線では東アジアの友好と平和は期待できません。司馬遼太郎は二一世紀に向けて 〝 他 民 族 へ の い た わ り 〟 を 重 視 し ま し た が、 明 治 時 代 を 無 批 判 に 賞 賛 す る 彼 の 作 品 は、 彼 自身が主張する〝他民族へのいたわり〟と矛盾します。 アジアの忘却――世界はあるが東アジアはない 時間における明治宣揚は、空間におけるアジア忘却と表裏一体の関係にあります。広島 が世界平和都市となる裏で日清戦争が忘却され、日露戦争が世界大戦として強調される陰
で韓国の植民地化は忘却されてしまうわけです。 自国の被害はあるが他国の被害はない 福 岡 の 箱 崎 八 幡 宮 に は、 国 民 的 軍 歌 で あ る、 永 井 建 子 の「 元 寇 」 ( 一 八 八 二 年 ) の 碑 が あ り ま す。 日 清 戦 争 時、 日 本 の 兵 士 た ち は こ の 軍 歌 を 歌 い な が ら 朝 鮮 半 島 と 大 陸 へ 侵 攻 し ま し た。 黒 澤 明 の 映 画 『一番美しく』 (一九四四年) のメインテーマ曲が、 ま さ し く こ の「 元 寇 」 で し た。 つ ま り、 元 寇 の 記 憶 は 昭 和 フ ァ シ ズ ム を 育 む 子 宮 の よ う な 役 割 を 演 じ、 神風神話に結び付けられたため、 神風記念碑 (皇 紀 二 六 五 〇 年、 一 九 九 〇 年 ) も こ の 神 社 の 境 内 に あ り ま す。 し か し、 こ の よ う な 記 憶 が そ の 後 の 日 本 の歴史にもたらしたのは原爆でした。 図 5 永井建子の軍歌「元寇」の碑 (福岡の箱崎八幡宮、筆者撮影)
9 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 第二章
中国
――中国甲午戦争博物館と萬忠廟 旅順の萬忠廟 日 清 戦 争 ( 一 八 九 四 年 一 一 月 二 一 日 か ら 四 日 間 ) で、 日 本 軍 は 二 万 人 余 り を 虐 殺 し、 旅 順 で は わ ず か 三 六 名 だ け が 生 き 残 っ た と い い ま す。 旅 順 の 虐 殺 は イ ギ リ ス の Times Standard 、アメリカの The World 、 The Herald 、 North American Review などで報道さ れました。当時、日本の多くの知識人は日清戦争を〝文明対野蛮の戦争〟と正当化しまし たが、 The World (一八九四年一一月二〇日のニューヨーク発) は「日本こそ文明の外皮を被っ た野蛮」であると報道しました。 一九九四年、中国は虐殺百周年を迎え、祈念式を盛大に行って萬忠廟を大規模に整備し ました (李鵬総理が題号を書きました) 。この時、 建てられた碑文 (甲午百年祭重建萬忠廟碑記) は〝勿忘國恥〟 〝振興中華〟という、愛国主義を全面に打ち出す形で終わっています。 威海劉公島の中国甲午戦争博物館 中 国 甲 午 戦 争 博 物 館 も 日 清 戦 争 百 周 年 ( 一 九 九 四 年 ) の 際 に 開 館 し ま し た ( 江 澤 民 総 書図 6 旅順の萬忠廟(筆者撮影)
11 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 記 が 題 号 を 書 き ま し た ) 。 こ の 博 物 館 が 展 示 す る 最 も 重 要 な 遺 物 は 中 国 軍 艦 の 済 遠 の 主 砲 で す。 済 遠 は 威 海 海 戦 で 日 本 軍 に 拿 捕 さ れ ( 一 八 九 五 年 二 月 一 七 日 ) 、 日 露 戦 争 時、 日 本 軍 の 旅順封鎖 (一九〇四年一一月三〇日) のために爆破され沈没しました。中国は二回 (一九八六 年、 一 九 八 八 年 ) に わ た っ て 大 々 的 な 海 底 発 掘 を 行 い、 こ の 恥 辱 的 な 軍 艦 の 主 砲 を 展 示 し ています。現在、この博物館は各種の 〝 教育基地 〟 として大いに利用されています。 … 記憶と忘却の構造 中国が記憶しようとするのは自国が受けた侵略と被害です。この記憶を通じて〝勿忘國 恥 〟〝 振 興 中 華 〟 と い う 中 華 愛 国 主 義 を 宣 揚 し て い ま す。 と こ ろ が、 中 国 は 自 国 の 持 つ 帝 国的欲望を記憶から排除しています。中国の帝国的欲望は、当時弱者であった朝鮮に向け て最もよく表されていましたが、そのことは忘却し日本から受けた侵略と犠牲を強調して います。反面、日本を侵略した元寇の記憶装置はどこにもありません。このような中国の 愛国主義は明治時代の日本の愛国主義を彷彿とさせ、憂慮すべき面も少なくありません。
図 9 …(左)韓国の鎭海の日本海海戦記念塔の除幕式写真(1929 年 5 月 28 日、『釜山日報』より)。現在この塔は撤去され て代わりに 9 階建ての鎭海塔が建てられている。(右)中 国の旅順の白玉山の表忠塔(筆者撮影)。この「白玉山塔」 は 1909 年に建設され、現在は一般公開されている 図 8 …中国甲午戦争博物館の募金箱。〝勿忘國恥〟 〝振興中華〟 と書かれている(筆者撮影)
13 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 第三章
韓国
――破壊と排除を超えるべき 破壊と排除――日露戦争記念碑 日 清 ・ 日 露 戦 争 は〝 第 一 次 朝 鮮 ( 韓 国 ) 戦 争 〟 と も い え ま す。 戦 争 の 目 的 も 場 所 も 朝 鮮 半島で、朝鮮半島は結局植民地になりました。そのことが、朝鮮半島の歴史記憶文化に影 響を与えたため、終戦以降の朝鮮半島において、日帝によって造り上げられた記憶装置は ほとんど排除・破壊されました。 日露戦争だけを例に挙げると一九〇四年二月に日露戦争の開戦地仁川に建てられた軍艦 千代田のマスト、 一九〇五年五月二七日に東鄕平八郞の連合艦隊が出発した地、 鎭海の〈日 本海海戦記念塔〉 、巨濟の松眞浦にある〈日露戦争記念碑〉などが破壊されました。 … このような破壊と排除の傾向は中国の場合とは対照的です。中国の旅順では日本の戦争 記念物をよく保存しています。白玉山の日本の戦勝記念塔も開放しています。野木将軍の 詩は拓本にして売られています。しかし韓国では破壊と排除が現在も続いています。日露 戦争と関連する二つの例を挙げたいと思います。 …二〇〇四年、仁川――ロシア戦没将兵追悼碑 二 〇 〇 四 年 二 月 一 一 日、 仁 川 ( 沿 岸 埠 頭 の 親 水 空 間 公 園 ) に ロ シ ア 戦 没 将 兵 追 悼 碑 が 建 てられる時、これに反対する仁川市民団体が激しい抗議活動を展開しました。日露戦争は 〝 朝 鮮 半 島 の 侵 略 戦 争 〟 で あ り、 ロ シ ア も 日 本 と 同 じ く 帝 国 主 義 的 侵 略 の 意 図 が あ っ た と 図 10 …韓国・仁川のロシア戦没将兵追悼碑(2004 年 2 月、筆者撮影) 図 11 …巨済の吹島:日露戦争記念碑。2005 年 8 月 29 日、日韓併合の日、市民 団体の代表たちが記念塔の周囲に石 を積んで塞いでいる(yonhapnews,… 2005 年 8 月 29 日より)
15 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 主 張 し、 「 日 露 戦 争 に 対 し て ロ シ ア 当 局 が 謝 罪 し、 こ れ を 追 悼 碑 に 明 文 化 す る よ う 」 訴 え ました。しかし、ロシアの戦没将兵追悼碑を日本の戦勝碑と比べるのはやはり無理であっ たといえます。 二〇〇五年、巨済の吹島――日露戦争記念碑 吹島は日露戦争当時、東鄕の連合艦隊がバルチック艦隊を待ちながら射撃練習の標的と して使用した場所です。日露戦争三〇周年に当たる一九三五年に鎭海要港府がここに〈日 露戦争記念碑〉を建てました。韓国の日露戦争記念碑はほとんど破壊されましたが、ここ は無人島のため今日まで原型をとどめています。 二〇〇五年、日露戦争百周年を迎えて、市民団体はこの吹島記念碑の撤去または移転を 訴 え ま し た が、 現 地 住 民 た ち は 存 置 す る こ と を 選 び ま し た。 日 韓 併 合 の 日 ( 八 月 二 九 日 ) 、 記念塔の周囲に石を積んで塞ぐことで騒ぎは一段落しましたが、その後積み上げた石は住 民によって崩されています。 記憶と忘却の構造 韓国では反侵略・反帝国主義を記憶の中心に据えています。しかし侵略の糾弾にとどま
らず排外につながったり、当時のアジアと世界の状況を忘却する例が多く見られます。一 方的な記憶の排除のために、戦争による自国民の被害まで忘却する場合もあります。歴史 の教訓にできる負の遺跡・遺物はほとんどありません。 … 第四章
平和への道
――国家と国境を超える記憶の民主化と相互理解 歴史記憶と核 エリック・ホブズボームは、東ヨーロッパの民族戦争の重要な原因が歴史記憶であるこ と を 発 見 し、 「 歴 史 学 は 核 物 理 学 ほ ど に 危 険 で あ り う る 」 と 吐 露 し た こ と が あ り ま す。 東 ア ジ ア は 現 在、 実 在 の 核 問 題 ( 北 朝 鮮 ) だ け で は な く、 そ れ に 匹 敵 す る ほ ど 重 要 な 歴 史 記 憶の問題を抱えています。 共通性と依存性 韓・中・日の三国の戦争記憶にはそれぞれ違いがありますが、その反面、かなり共通す る部分と微妙な相互依存関係があります。それは愛国主義、あるいは民族主義しかあらわ れ な い、 歴 史 記 憶 の 排 他 的 単 数 性( THE …HISTORY ) で あ る と 考 え て い ま す。 そ の た め17 戦争の記憶、世紀の忘却、そして平和 に歴史戦争が続いています。この問題が解決されない限り、東アジアにおいて一国の繁栄 が他国の不幸を招くという悪循環が繰り返されかねません。 トルストイ――「私は両国の人民側である」 日清戦争当時トルストイは子どもに世界地図の朝鮮半島を指しながら、この戦争は朝鮮 を占領するための戦争だと説明しました。そのことは、戦争を巨大国からの観点ではなく 被害や犠牲の観点から見なければならないという重要な示唆を与えます。 … 彼 は ま た 日 露 戦 争 時、 〈 悔 い 改 め よ う!〉 と い う パ ン フ レ ッ ト を 発 表 し て 平 和 運 動 を 展 開しました。彼は「私はロシア側でも日本側でもない。私は両国の人民側である」と主張 しました。これは国境を超えた主体の形成に大きな示唆を与えます。 記憶の民主化と複数化 国家の中でも単一の記憶に縛られているわけではなく、地域・性別・階級の違いによる 複 数 の 記 憶 ( Histories ) が 必 然 的 に 存 在 し ま す。 司 馬 遼 太 郎 が 問 題 な の は、 良 い 国 は 明 治 な の か 昭 和 な の か と い う も の で は な く、 国 家 ( State ) と は 次 元 を 異 に す る、 多 様 な 複 数 の歴史観 ( Histories ) を見せてくれる社会 ( Society ) が失われてしまったことだといえます。
国境を越える記憶の相互理解と歴史 Peace Park 東 ア ジ ア で は 同 じ 戦 争 で も、 そ の 記 憶 が 国 に よ っ て そ れ ぞ れ 異 な る の が 現 実 で す。 そ の こ と を ま ず お 互 い に 理 解 す る よ う に な れ ば、 正 ― 反 ― 合 の 変 化 が 期 待 で き る と 思 い ま す。 ネ ル ソ ン・ マ ン デ ラ が 主 導 し て い る 国 境 を 超 え る 平 和 公 園 ( Trans-Boundary …Peace …Park, … TBPP ) の 概 念 を 歴 史 記 憶 の 相 互 理 解 に も 利 用 す る べ き で す。 こ の 問 題 に 関 し て は 私 の 他 の論文を参照していただくようお願いします。 … 参考文献 「世紀の忘却を越えて――日露戦争百周年記念行事と記念物を中心に」 『年報日本現代史』 13、 東京 : 現代史料出版、 … 二〇〇八年五月 「 東 北 ア ジ ア・ ピ ー ス ベ ル ト 試 論 ―― 韓 中 日 の 戦 争 記 憶、 忘 却 を 越 え て 平 和 の 連 帯 へ 」『 歴 史 批 評 』 87、ソウル:歴史批評社、二〇〇九年五月
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東アジアにおける記憶の共有の模索
――日中戦争博物館の比較研究を通じて――馬
暁華
博物館は過去を想起する場、過去が物象化される場として、重要な役割を果たしてきた。 博物館の目的は記憶の伝達である。人々は、博物館の展示を通じて歴史の事実や情報を受 け 入 れ る。 そ の プ ロ セ ス か ら、 博 物 館 は、 「 共 同 体 」 を 作 り 上 げ る 装 置 と し て 位 置 付 け ら れている。たとえば、日本の「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」および中国の「侵華 日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」は、国として犠牲者を追悼し、平和を祈念するとともに、 戦争の惨禍を全世界の人々に知らしめ、その体験を後世に継承するための施設である。 近 年、 博 物 館 に あ ら た め て 熱 い 視 線 が 注 が れ て い る。 「 博 物 館 ゆ き 」 と い う 言 葉 に 示 さ れるような、役目を終えたモノの終焉の地、時間を超えたモノの貯蔵庫、記憶の貯蔵庫と いうイメージは、過去のものとなりつつある。資料の収集・研究・展示という博物館の営 みが決して超歴史的で中立的なものではなく、その時々のものの見方、思考様式と密接に結び付いたものであることが認識され、そこにある問題点と可能性が追求され始めたため である。すなわち、博物館は、収集・保存・研究・教育・展示といった旧来の役割に加え て、人々が価値観や歴史認識、国民意識を確認 ・ 修正 ・ 再構成する場、つまりアイデンティ ティ形成の場として、きわめて政治的意味合いを持つようになった。最近では、博物館側 が新しい知的潮流を展示に反映しようとして、保守派の強い批判に直面することも珍しく ない。提示の内容がナショナリズムの感情を刺激するものであればあるほど、視点の対立 が政治的論争につながることも多くなっている。 戦争の記憶を未来の世代にどのように語り継いでいくかが今問われている。過去の記憶 をめぐる問題が政治的課題になっていることも周知の通りである。その際に問題となるの は、戦争の記憶を語り継ぐ場の一つである戦争・平和博物館である。アメリカのスミソニ アン国立航空宇宙博物館で、 原爆を投下した「エノラ ・ ゲイ号」を展示するか否かをめぐっ て、博物館と退役軍人らが熱い議論を戦わせたことは、博物館の政治性を示した一つの好 例 と し て 挙 げ ら れ る ( 1) 。 結 局、 一 九 九 五 年 一 月、 ス ミ ソ ニ ア ン 協 会 は、 五 月 か ら 翌 年 一 月 までの期間、国立航空宇宙博物館で開催を予定していた「エノラ・ゲイ号」展から、原爆 投下の原因および被害に関する内容をすべて削除することを決定し、当初の企画は中止さ れた ( 2) 。
21 東アジアにおける記憶の共有の模索 この事件は、 アメリカと日本の戦争観の相違を強調するような出来事であった ( 3) 。「エノラ ・ ゲイ号事件」は、博物館の展示がいかに特定の政治的意図と結び付いたものであるかを如 実に物語っている。もちろん、そのような展示の政治性が顕在化したのは、ここでの展示 が直接戦争や歴史に関わるものだったからだ、という見方もあるかもしれない。 一 九 八 〇 年 代 以 降、 第 二 次 世 界 大 戦 に 関 す る 戦 争・ 平 和 博 物 館 が 世 界 各 地 に 数 多 く 建 設 さ れ て い る。 中 国 に も 戦 争 に 関 連 し た 博 物 館 が 多 く あ る が、 日 本 に は そ の 実 態 が あ ま り 知 ら れ て い な い。 さ ら に、 日 本 と 中 国 に 開 設 さ れ て い る 平 和 博 物 館 と 戦 争 博 物 館 を 比 較 対 照 し た 研 究 は、 今 ま でほとんど行われていない。 こ う し た 現 状 を 踏 ま え て、 本 稿 で は、 中 国 の 戦 争 博 物 館 と 日 本 の 平 和 博 物 館 の 比 較 を 行 い、 そ れ ぞ れ の 博 図 1 …広島原爆死没者慰霊碑より原爆ドームと平和 祈念館を臨む。毎年 8 月 6 日、原爆死没者の 霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するために、 平和祈念式典が広島平和記念公園で開催され ている(筆者撮影)
物館がどのような特徴を持ち、どのような社会的機能を果たしているかを考察する。さら に日中両国の戦争・平和博物館に対して、歴史的、政治的な社会的規定要因がどのように 作用しているかを検証する。そのうえで、日中両国の戦争の記憶や戦争観、ひいては国民 意識の形成に果たしてきた博物館の役割を明らかにしたい。 第一章
中国の戦争博物館
二〇一〇年時点で、中国には三〇二〇もの博物館およびそれに類似した施設が存在して いる。そのうち、いわゆる歴史博物館あるいは資料館と分類されているものは二二五二で あ る ( 4) 。 そ の 中 に は、 近 年 中 国 各 地 で 建 設 が 進 む 抗 日 戦 争 関 連 施 設 に 併 設 さ れ た 展 示 コ ー ナー、そして後述の「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」 、「侵華日軍第七三一部隊罪証 陳列館」 、および「中国人民抗日戦争記念館」などの戦争博物館も含まれる。 中国の戦争博物館は、基本的に中国人が外国の侵略に抵抗した革命の歴史を中心に構成 さ れ て い る。 日 中 十 五 年 戦 争 ( 以 下、 日 中 戦 争、 抗 日 戦 争 ) は、 現 代 中 国 に お い て き わ め て重要な事件であるが、 一九八〇年代以前、 日中戦争に関する国立の博物館は存在しなかっ た。唯一の例外は、中国東北地域の遼寧省撫順市郊外にある「平頂山殉難同胞遺骨館」で23 東アジアにおける記憶の共有の模索 ある。 一般の日本人が初めて平頂山大虐殺事件を知ったのは、本多勝一の『中国の旅』が出版 さ れ た 一 九 七 一 年 の こ と で あ る ( 5) 。 遺 骨 館 は、 平 頂 山 で 虐 殺 さ れ た 犠 牲 者 を 追 悼 す る 場 で あ り、 文 字 通 り、 多 く の 遺 骨 が 発 掘 さ れ た 現 場 に 造 ら れ た。 た だ 一 般 の 博 物 館 や 記 念 館 や 陳 列 館 と は 異 な り、 発 掘 地 に 屋 根 を か け て、 発 掘 当 時 の 姿 の ま ま 展 示 す る と い う 方 法 が と ら れ て い る。 一 九 五 一 年 に は 西 側 の 丘 に「 平 頂 山 殉 難 同 胞 記 念 碑 」 が 建 て ら れ た。 そ の 後、 犠 牲 者 た ち が 埋 め ら れ て い た 崖 の 下 の 部 分 も 発 掘 さ れ、 累 々 と 横 た わ る 遺 骨 が 姿 を 見 せ た。 一 九 七 二 年 に、 そ の 一 角に常設の建物が建設された (図 2を参照) 。 遺 骨 館 内 の 展 示 は、 大 虐 殺 の 惨 劇 の あ り さ ま を ま ざ ま ざ と 見 せ つ け て い る。 折 り 重 な っ た 遺 骨 に は、 一 つ と し て 安 ら か な 死 の 姿 が な い。 苦 痛 に 悶 え 苦 し む 姿 ば か り で あ 図 2 …虐殺事件の悲惨なありさまを示す「平頂山殉 難同胞遺骨館」の一角。女性や子どもの遺骨 が多く混じっていた。思わず、言葉を失った 瞬間である(筆者撮影)
る。母子が抱きあう姿、衣服の一部を残した幼児の骨もあった。目を凝らすと、さらに多 くの頭骨と足や手の骨が切り崩された地肌からのぞいていた。何の罪もない人々が、皆殺 しにされたことは一目瞭然である。 一九七二年の日中国交正常化は、両国にとって、冷戦下の国際情勢に対応するための戦 略 的 な 選 択 で あ っ た。 そ の 後、 中 国 政 府 は 自 国 民 の 反 発 を 抑 え 込 み、 「 一 握 り の 軍 国 主 義 者と多数の日本国民を区別する」 との考えを示し、 日本の戦争責任を追及しない態度をとっ てきた。日中関係の改善は、地理的・歴史的・文化的に深い関係を持つ両国が戦争状態に 終止符を打ち、双方の交流を進めるのに大きな意味を持っていた。このことは、国交回復 後の日本に見られた空前の中国ブームからも確認できる。一九七九年に総理府が行った世 論 調 査 に よ る と、 七 割 以 上 の 日 本 人 が 中 国 人 に 対 し て 親 近 感 を 持 っ て い た ( 6) 。 中 国 が 東 京 上 野 動 物 園 に 贈 っ た パ ン ダ の 前 に で き た 長 蛇 の 列 が 象 徴 す る よ う に、 「 中 国 熱 」 は そ の 頃 頂点に達した。 一 方、 一 九 七 〇 年 代 末 か ら 日 本 の ア ニ メ や 映 画 が 中 国 で 上 映 さ れ、 若 者 の 心 を 魅 了 し た。 日 本 の 人 気 ア イ ド ル 歌 手 山 口 百 恵、 俳 優 高 倉 健 は、 中 国 で も 非 常 に 人 気 が あ り、 中 国 人 一 〇 億 人 の ア イ ド ル に も な っ た ( 7) 。 長 い 間、 「 鎖 国 政 策 」 を と っ て き た 中 国 社 会 に お い て、 戦 後 史 上 前 例 の な い 日 本 ブ ー ム が 現 れ た。 し か し、 一 九 八 二 年 の「 教 科 書 問 題 」 と
25 東アジアにおける記憶の共有の模索 一 九 八 五 年 の「 靖 国 問 題 」 は 中 国 人 の 対 日 観 を 一 変 さ せ る。 こ れ ら の 問 題 を 契 機 と し て、 日中戦争にまつわる二つの戦争博物館が登場した。 一九八五年、中国各地で、日中戦争の発端となった盧溝橋事変、南京大虐殺事件、 「九 ・ 一 八 事 変 」 ( 満 州 事 変 ) の 契 機 と な っ た 柳 条 湖 事 件 な ど を 偲 ぶ 記 念 行 事 が 次 々 に 行 わ れ た。 その記念行事の最中に、中曽根康弘首相が靖国神社を参拝したと報道された。靖国問題と そ の 前 に 発 生 し た「 教 科 書 問 題 」 は 中 国 国 民 の 民 族 感 情 を 著 し く 傷 つ け た。 そ し て 八 月 一五日を迎えると、今まで抑えられていた国民感情は、記念式典、記念碑、集会および出 版物などを通じて一気に溢れ出し、南京大虐殺および七三一部隊人体実験という日本の中 国侵略を象徴する事件について議論が広がった。 そのような議論を背景に、一九八五年八月一五日の抗日戦争勝利四〇周年の記念祝典と して、南京市内に「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」が、東北地域のハルビン市内に は「 侵 華 日 軍 第 七 三 一 部 隊 罪 証 陳 列 館 」 が オ ー プ ン し た ( 8) ( 図 3を 参 照 ) 。 こ れ ら 二 つ の 博 物 館は中国初の戦争博物館である。設立の主な目的は、その名称が示すように、日本軍の残 虐行為および中国人民の苦しみを訴えることであった。 ここで特筆すべきことは、二つの博物館の開館日が八月一五日という点である。この日 は日本にとっては敗戦日であるが、中国人から見れば、抗日戦争の勝利を意味する日であ
る。 こ の 日 を、 博 物 館 の 開 館 日 と し て 選 ん だ こ と 自 体 が、 過 去 の 戦 争 に 対 す る 中 国 人 の 心 情 の 一 端 を あ ら わ し て い る。 つ ま り、 中 国 が 半 植 民 地 の 状 態 か ら 脱 却 し、 独 立 国 家 と な る 過 程 に お い て、 国 民 は、 感 情 的 に は 被 害 者 と い う よ り、 む し ろ 戦 勝 者 意 識 を 強 く 持 っ て いたことを示唆している。 翌 年 の 一 九 八 六 年 八 月 一 五 日、 東 北 地 域 の 遼 寧 省 撫 順 市 内 に「 撫 順 戦 犯 管 理 所 遺 跡 陳 列 館 」 が 開 館 し た。 さ ら に 一 九 八 七 年 七 月 七 日 に は、 日 本 の 中 国 侵 略 を 象 徴 す る 盧 溝 橋 事 変 ( 盧 溝 橋 事 件 ) の 五 〇 周 年 記 念 行 事 と し て、 北 京 郊 外 の 盧 溝 橋 で「 中 国 人 民 抗 日 戦 争 記 念 館 」 が 開 館 する。以下、 一九八〇年代に開設された博物館の一つである「撫順戦犯管理所遺跡陳列館」 の展示内容を中心に、この時期における中国人の戦争観を見てみよう。 図 3 …1985 年 8 月 15 日に開館した「侵華日軍第 731 部隊罪証陳列館」は、元日本軍第 731 部隊本 部の跡地に建てられている。後ろにある 2 階 建ての建物は元 731 部隊の司令部であったが、 今は博物館の資料陳列室になっている(筆者 撮影)
27 東アジアにおける記憶の共有の模索 (一) 日中友好の下での戦勝者意識――「撫順戦犯管理所遺跡陳列館」を通じて 「 私 た ち は、 十 五 年 に 及 ぶ 戦 争 の 間、 日 本 の 中 国 侵 略 戦 争 に 参 加 し、 焼 く・ 殺 す・ 奪 うという罪行を犯し、敗戦後、撫順と太原の戦犯管理所に拘禁されました。そして中 国共産党と政府・人民の〈罪を憎んで人を憎まず〉という革命的人道主義の処遇を受 け、初めて人間の良心を取り戻し、計らずも寛大政策により、一人の処刑もなく帰国 を許されました。 いま撫順戦犯管理所の復元に当たり、この地に碑を建て、抗日殉難烈士に限りなき 謝罪の誠を捧げ、再び侵略戦争を許さないと、平和と友好の誓いを刻みました」 右は、旧撫順戦犯管理所の展示館が開設した際に、中国人民に謝罪し、日中友好を祈念 するために、帰国した元日本人戦犯たちが造った「向抗日殉難烈士謝罪碑」の碑文の一部 である (図 4を参照) 。 撫順戦犯管理所は、旧ソ連から移された元日本人戦犯の拘留所として知られている。中 国 侵 略 の 罪 を 犯 し た B C 級 戦 犯、 階 級 的 に は 将 官 と 高 級 官 僚 約 二 〇 名、 佐 官 ク ラ ス 約 一二〇名、尉官クラス約一六〇名、下仕官約六六〇名、および「満洲国」皇帝の愛新覚羅
溥 儀、 「 満 洲 国 」 総 理 大 臣 張 景 惠 な ど の「 満 洲 国 」 高 級 官 僚 も、 こ の 管 理 所 に 拘 留 さ れ た。 現 在 の 博 物 館 は、 抗 日 戦 争 勝 利 四 〇 周 年 記 念 事 業 と し て 企 画 さ れ、 元 撫 順 戦 犯 管 理 所 の 跡 地 に 建 て ら れ た。 館 内 に は 六 つ の 常 設 展 示 ホ ー ル が 設 け ら れ て い る。 展 示 物 は、 写 真・ 資 料・ 新 聞 記 事 な ど の 解 説 史 料 が 主 で あ る。 以 下 は そ の概要である。 図 4 …「向抗日殉難烈士謝罪碑」。帰国した元日本人戦犯たちは、 過去の戦争を深く反省し、平和を築くことを固く決意し、 1988 年に謝罪碑を造り、中国人民に捧げた。管理所の中 庭にある謝罪碑の後ろの建物は、元戦犯たちの寝室であっ たが、今は「撫順戦犯管理所遺跡陳列館」展示資料室の 一部になっている。元戦犯たちの一人一人が大切に扱わ れていたことがうかがえる。構内には、彼らが故郷を偲 んで歌い踊った野外舞台や手作りの日本庭園も当時の姿 で保存されている(筆者撮影)
29 東アジアにおける記憶の共有の模索 第1部 歴史の証人 写真や地図や解説によって、どのような日本の戦犯がここに収容されたか、彼らがどの ように反抗し、苦しみ、謝罪をするに至ったかが語られている。 第2部 罪悪の戦争 日本が侵略戦争を起こし、傀儡国家「満洲国」を造り、中国人を支配した過程を時系列 に沿って展示している。 第3部 人道的な寛大 写真資料や統計資料などを用いて、中国政府が、イギリスやアメリカなど欧米戦勝国が とった厳しい処罰政策と異なる政策をとり、人道的な立場から中国に拘留されたBC級戦 犯を起訴せず、寛大に釈放したことを解説する。 第4部 正義の裁判 写 真 資 料 や 再 現 模 型 な ど に よ り、 中 国 人 民 共 和 国 特 別 軍 事 法 廷 の 審 判 過 程 を 紹 介 す る。 この軍事法廷では、日本戦犯に死刑判決を下さなかった。戦犯一〇六七名のうち、起訴さ
れたのは四五人で最高刑は禁固二〇年。ソ連抑留期間の五年、中国での六年も刑期に算入 し、刑期そのものも短縮された。不起訴となった者は一九五六年に釈放、有罪となった者 も一九六四年には釈放されて、日本人戦犯は全員帰国することができた。 平和の響き 最後に戦争のない世界を目指し、世界の平和について考えるコーナーも設けられている。 第5部 特別展示室――「中国帰還者連絡会」 中国政府の寛大な扱いで帰国した元戦犯たちが、帰国した翌年の一九五七年に「中国帰 還者連絡会」を結成し、日中国交正常化の実現とその後の日中関係の発展に大きく貢献し たことを紹介している。さらに一九八八年一〇月に、彼らが撫順戦犯管理所に「向抗日殉 難烈士謝罪碑」を建立し、日中友好の架け橋として尽くしたことを具体的に解説している。 この資料館の主な特徴は、第一に、日本の中国侵略の歴史、中国人民が侵略者に対して 正義の審判を行う様子、 中国人民の寛大な判決、 ならびに戦犯の人間像の変容など、 ストー リー性のある展示を行っていることである。特に、中国に侵略した元日本人戦犯が侵略戦 争の罪を認め、戦後、日中両国の友好関係の発展に貢献してきたことを強調する。
31 東アジアにおける記憶の共有の模索 第二に、写真や資料および中華人民共和国特別軍事法廷の再現模型などを用いて、日本 の侵略者と戦う中国人民の英雄的精神を紹介すると同時に、元戦犯たちの意識変革、さら に人間像の変容過程を通じて、日中両国民がともに平和を希求することを解説しているこ とである。 中 国 政 府 は、 元 日 本 人 戦 犯 た ち に 侵 略 戦 争 を 犯 し た 罪 を 自 ら 認 め、 学 習 に よ っ て 意 識 変 革 を 行 わ せ る 政 策 を と っ た。 シ ベ リ ア と は 違 っ て 強 制 労 働 を 課 す こ と も な く、 中 国 人 よ り 良 い 食 事 や 医 療 環 境 が 日 本 人 戦 犯 に 与 え ら れ た。 中 国 政 府 の 対 応 を 受 け、 戦 犯 た ち も 次 第 に 自 分 が 加 害 者 で あ る こ と に 気 づ き、 考 え を 変 え て い っ た。 そ し て 次 第 に 自 分 の 行 っ た 残 虐 行 為 を 正 直 に 告 白 し、反省・謝罪したのである。 こ う し た 経 緯 を 経 て、 一 九 五 六 年 四 図 5 …「撫順戦犯管理所遺跡陳列館」の館内展示の一 角。元日本人戦犯たちが帰国後、日中両国の 友好関係を築くために、「中国帰還者連絡会」 を作り、生涯を捧げたことが紹介されている (筆者撮影)
月、 全 国 人 民 代 表 大 会 は、 多 数 の 戦 犯 が「 改 悛 の 情 」 を 示 し て い る こ と を 考 慮 し て、 「 寛 大な政策に基づいて処理する」ことを決定した。これにより、起訴された四五人と途中で 死 亡 し た 者 を 除 く 一 〇 一 七 人 は 起 訴 免 除 と な っ て、 同 年 六 月 か ら 九 月 に か け て 帰 国 し た ( 9) 。 こ の よ う に、 元 日 本 人 戦 犯 た ち の 意 識 を 変 革 で き た こ と を 中 国 人 民 は 誇 り に 思 っ て お り、 中国は戦争に勝利しただけでなく、終戦以降も引き続き勝者の立場に立っていると自負し ている。つまり中国は二つの意味で戦勝者意識を持っていると言ってもよいだろう。 現実として、多くの被害者が生きているにもかかわらず、このような戦勝者意識は、少 なくとも一九八〇年代末までの中国社会において支配的であった。映画やテレビをはじめ とする公共のメディアには、戦争や旧日本軍の虐殺行為を扱ったものが氾濫していた。だ が、そのストーリーはすべて中国人民が智恵を生かしながら、侵略者である日本人と勇敢 に戦って勝利を得る、というものであった。 こうした姿勢は中国政府の対日政策にも見ることができる。一九七二年の日中国交正常 化 以 来、 中 国 政 府 は 自 国 民 の 反 発 を 抑 え 込 み、 「 日 本 国 民 に 侵 略 戦 争 の 罪 は な い 」 と 主 張 し て き た。 侵 略 戦 争 を 起 こ し た の は「 日 本 の 一 握 り の 軍 国 主 義 者 」 で あ り、 「 一 般 の 国 民 ではない」と中国政府は主張し続けた。言論の自由のない中国社会においては、国民を説 得するため、被害者の声はきつく抑えられた。そのため、博物館では、中国の悲惨な状況
33 東アジアにおける記憶の共有の模索 を展示してはいるが、被害者意識はほとんど見られなかったのである。 総じて、一九八〇年代における中国の戦争博物館は、規模がきわめて小さい。館内の展 示は、戦跡や写真資料が主であった。しかし、一九九〇年代以後、国内状況および国際情 勢の変動により、中国人の戦争観は再び変容し、中国の戦争博物館の機能も次第に変わっ ていく。 (二) 「愛国主義教育基地」としての機能強化 中国では、一九八〇年代初期から経済改革政策が始まり、九〇年代に入ると、大きな成 果が見られるようになった。長年にわたる「開放政策」は、政治、経済、イデオロギーな どのあらゆる分野において、中国社会に大きな変化をもたらした。資本主義的市場経済の 導入により、諸外国から商品が大量に流入し、外国の文化も徐々に中国社会に浸透し、国 民の意識に大きな影響を与えた。 他方、地政学的に見れば、ドイツの統合、ソ連の崩壊、冷戦の終結といった国際情勢の 急変が、国際社会における中国の存在を変えようとしていた。一九九〇年代、ポスト鄧小 平 体 制 の 移 行 期 に あ る 中 国 に と っ て、 江 沢 民 指 導 部 の 権 威 を 高 め、 「 中 国 型 の 社 会 主 義 」 を実現させるために、資本主義の経済的自由と民主主義に憧れる国民をどのようにまとめ、
国民の一体感を高めるかが、為政者の主な政治目標となった。 こうした背景の下で、一九九一年七月一日、江沢民国家主席は、中国共産党成立七〇周 年 大 会 で 愛 国 主 義 教 育 の 重 要 性 に つ い て 演 説 を 行 い、 「 歴 史 か ら 学 び、 民 族 の 誇 り と 自 尊 心 を 持 つ こ と が 大 切 で あ る 」 と 国 民 に 強 く 訴 え た ( 10) 。 そ の 具 体 的 な 政 策 と し て、 国 家 教 育 委 員 会 は、 一 九 九 一 年 九 月 一 八 日 の「 九 ・ 一 八 事 変 」 ( 満 州 事 変 ) 五 〇 周 年 に 際 し て、 「 歴 史教育を通じて国民の愛国主義を育成することが重要である」と、歴史教育方針を全国各 地 の 教 育 機 関 に 伝 え た ( 11) 。 そ の 中 で は、 国 民 の 愛 国 主 義 精 神 を 高 め る た め に、 歴 史 博 物 館 の展示が重要であると議論されている ( 12) 。 抗日戦争は、アヘン戦争以来、外国の侵略に苦しめられてきた中国にとって、民族の解 放 を 勝 ち 取 っ た は じ め て の 戦 争 で あ り、 中 華 民 族 の 統 一 お よ び 民 族 復 興 の 転 換 点 で も あ る。さらに言えば、中国革命を成功裏に導く重要な基礎を築いたと言ってもよい。さまざ ま な 愛 国 主 義 教 育 キ ャ ン ペ ー ン が 展 開 さ れ る 中、 中 央 政 府 は、 一 九 九 四 年 八 月 二 四 日 に 「 愛 国 主 義 教 育 実 施 要 項 」 を 制 定 し、 翌 年 三 月 に は「 全 国 一 〇 〇 処 愛 国 主 義 教 育 基 地 」 を 発 表 し た ( 13) 。 そ の 中 に は 中 華 民 族 の 歴 史 的 遺 跡 や 博 物 館 が 多 く 含 ま れ、 特 に 日 中 戦 争 に 関 わる戦跡や博物館が占める割合は大きい。現代中国の代表的な戦争博物館、たとえば「侵 華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」 、「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」 、「中国人民抗日
35 東アジアにおける記憶の共有の模索 戦争記念館」 、および「九 ・ 一八歴史博物館」もその中に含まれている。これらの博物館は 一九九〇年代に大幅に増築され、今は重要な「愛国主義教育の基地」として機能している。 以下では、中国人の戦争観、さらに国民意識の形成に大きな役割を果たしている、二つ の戦争博物館「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」と「中国人民抗日戦争記念館」を中 心に見てみよう。 「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」――国民の感情記憶の象徴として 「 侵 華 日 軍 南 京 大 虐 殺 遇 難 同 胞 記 念 館 」 ( 以 下、 「 南 京 大 虐 殺 記 念 館 」) は、 日 本 軍 が 集 団 虐 殺 を 行 っ た と さ れ る 十 七 の 戦 跡 の 一 つ、 「 万 人 坑 」 の 上 に た っ て い る。 「 万 人 坑 」 と は、 その名が示すように、数多くの犠牲者の遺体が埋められた場所のことである。 記念館は、一九八三年に南京市政府により建設が計画され、八五年八月一五日に開館し た。これに至る背景としては、一九八五年が中国にとって、抗日戦争勝利四〇周年であっ たこと、そして当時問題になっていた日本での歴史教科書問題を中国側が重く受け止めた ことが挙げられる。 中 国 で は、 「 日 本 の 教 科 書 に よ る 歴 史 的 事 実 の 歪 曲 」 事 件 を 受 け て、 は や く も 一 九 八 二 年八月には、旧日本軍の戦争犯罪記録を展示する博物館の建設発起大会が開かれた。日本
の「教科書事件」に対する中国側の危機感がどれほどのものだったかがわかる。翌八三年 に建設工事が開始され、八五年に完成した。用地として選ばれたのは、数万人の犠牲者の 遺 骨 が 発 掘 さ れ た、 元 南 京 市 の 現 場 で あ っ た。 八 五 年、 第 一 期 工 事 で 完 成 し た の は、 「 墓 の 広 場 」 と 資 料 陳 列 館 で あ る。 「 南 京 大 虐 殺 記 念 館 」 は、 一 九 三 七 年 一 二 月 に 南 京 で 虐 殺 された数多くの犠牲者への追悼施設という側面を色濃く持っている。 その後、一九九三年から第二期工事が始まり、抗日戦争勝利五〇周年に当たる九五年に は大幅に増築された。二〇〇四年三月一日以降は市民に無料開放されている。抗日戦争勝 利六〇周年に当たる二〇〇五年、記念館は二〇周年を迎え、海外で大論争を巻き起こした 『 南 京 大 虐 殺 ―― 忘 れ 去 ら れ て い た 中 国 の ホ ロ コ ー ス ト 』 の 著 者 で あ る ア イ リ ス・ チ ャ ン ( Iris …Chang ) を追悼するため、彼女の彫像の除幕式が記念広場で開催された ( 14) 。その後、旧 日 本 軍 が 南 京 を 陥 落 し た 一 二 月 一 三 日 に は、 虐 殺 事 件 の 犠 牲 者 を 追 悼 す る と と も に、 「 平 和」を誓う記念式典が毎年開かれている。南京大虐殺事件七〇周年を記念するため、記念 館 は 二 〇 〇 七 年 に さ ら に 拡 張 さ れ、 現 在 の 姿 と な っ て い る。 二 〇 一 〇 年 七 月 七 日 ま で に、 二五〇〇万の人々がこの記念館を訪れ、その中には外国からきた人も数多く含まれると報 道されている ( 15) 。 敷地内に入ると、 「1937 ・ 12・ 13― 1938 ・ 1」と「300000」という数字が、
37 東アジアにおける記憶の共有の模索 標識碑といわれる石のモニュメントと追悼広場の壁に大きく刻まれている。南京で虐殺事 件 が あ っ た 期 間 と そ の 犠 牲 者 の 数 を 表 し て い る。 足 元 の 敷 石 に は、 「 祭 」 の 字 が 刻 ま れ て いる。ここは、 「祭り」の場、つまり鎮魂の場である。 広 場 の 傍 ら に あ る 階 段 を 登 る と、 さ ら に 正 面 に 中 国 語、 英 語、 日 本 語 で「 遭 難 者 三 〇 万 」 と 刻 ま れ た 壁 が 現 れ る。 犠 牲 者 の 数 は 中 国 側 の 発 表 で あ り、 こ の 数 字 は 遺 族 や 赤 十 字 関 係 者、 埋 葬 記 録 な ど か ら 導 き 出 さ れ た も の で あ る ( 16) 。「 三 〇 万 人 虐 殺 は ま ぼ ろ し 」 と い う 日 本 側 の 根 強 い 主 張 へ の 反 発 だ と も 言 え る。 南 京 で 起 こ っ た 虐 殺 事 件 に つ い て は、 犠 牲 者 数 は 三 〇 万 で は な く 実 際 は 数 万 だ と い う 主 張、 あ る い は 殺 戳 は 組 織 的 な も の で は な く 戦 闘 の 混 乱 の 下 に 起 こ っ た も の だ と い う 主 張、 さ ら に は、 「 大 虐 殺 」 そ の も の が「 ま 図 6 …「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館」は、旧 日本軍による南京大虐殺事件の模様を後世に 伝える施設として知られている。記念館の壁 に刻まれた中国語、英語、日本語の「犠牲者」 の文字と「300000」の数字が非常に印象的で ある(筆者撮影)
ぼろし」であるという主張が、今も根強くなされていることは周知の通りである ( 17) 。 階段を登ると、床一面に白い玉石を敷き詰めた空間が広がっている。そこには、草ひと つ な い。 「 墓 の 広 場 」 と 名 付 け ら れ、 玉 石 は 死 者 の 遺 骨 を 意 味 す る。 そ し て「 墓 の 広 場 」 の一角では、新たな遺骨の発掘も進められている。南京では至るところで集団虐殺が行わ れ、ここはその現場の一つであり、虐殺された犠牲者の墓地も兼ねている。まわりには鐘 や彫刻といった展示物の他に、記念碑や慰霊碑もある。 虐殺の様子を象徴的に描いたレリーフと一部の遭難者の名を刻んだ壁に沿って進んでい く と、 石 造 り の 墓 室 が 現 れ る。 「 遇 難 同 胞 遺 骨 陳 列 室 」( 以 下、 「 遺 骨 陳 列 室 」) で あ る。 内 部には、文字通り、発掘された遺骨が集められている。 「遺骨陳列室」を出て、式典が行われる追悼広場から少し進むと、当時の資料を並べる、 いわゆる博物館がある。博物館の展示は、一貫して実物や新聞資料、写真資料とその解説 だけで構成されている。ショ―ケースには、ぼろぼろになった衣類や遺品などが収められ ている。その他に、旧日本軍の配置状況、大虐殺のあった地点を示す地図などもあわせて 展示されている。いわゆるジオラマ展示はここには一切ない。 展示資料の大部分が、日本側の資料、特に日本軍自身が撮影した写真や映像、あるいは 日本の新聞記事で占められていることに気がつく。ビデオで紹介される映像も、大部分が
39 東アジアにおける記憶の共有の模索 日本軍の撮影したものである。日本側の資料への依存は、当時、記録をとることができた のは実質的に日本軍だけであったという事実を伝えている。壁には、日本軍による戦争犯 罪 の 実 態、 中 国 人 の 首 を 斬 る 瞬 間 の 写 真 や、 揚 子 江 に 山 積 み に さ れ る 遺 体 な ど、 当 時 の 生 々 し い 写 真 が 大 量 に 展 示 し て あ る。 パ ネ ル に は 解 説 文 が 付 い て い て、 一部ではあるが、 中国語、 英語、 日 本 語 が 併 記 さ れ た パ ネ ル も あ る。 世 界 に 伝 え た い、 特 に 日 本 人 に 見 て ほ し い と い う 願 い が 伝 わ っ て く る。 展 示 を 見 終 わ る と、 広 い 庭 に 出 る の だ が、 そ こ に は び っ し り と 小 石 が 敷 き 詰 め ら れ て い る。 そ の 小 石 の 一 つ 一 つ が、 犠 牲 に な っ た 三 〇 万 の 人 た ち を 表 し て い る。 庭 の 脇 を 通 り、 壁 に 目 を や る と、 南 図 7 …この「遺骨陳列室」の入口の前に、「折り鶴コー ナー」が設けられている。これは、日本各地 の民間・学生団体が、世界平和への願いを折 り鶴にして南京に届けたものである(筆者撮 影)
京の受難者の数などが壁に彫られている。その先にあるのが、 「万人坑」である。 「万人坑」 はガラス張りで、発掘された遭難者の遺骨がそのままの形で展示されている。スペースと しては、前述した平頂山のものほど大きくないが、ドキッとさせられる。激しい戦いが起 きた「現場」であることを見せつけている。いずれにしても、日本人にとって衝撃的な内 容ばかりで、非常に強烈な展示であると言える。 これまで中国の戦争博物館の成立の経緯を見てきたが、その展示内容は、日本人の中国 人に対する態度、日本人の戦争観と密接に関係していることがわかる。とりわけ日本人に 強 烈 な 衝 撃 を 与 え る ほ ど 日 本 軍 の 戦 争 犯 罪 を 再 現 し、 「 三 〇 万 人 」 と い う 犠 牲 者 数 を 繰 り 返し展示するのは、明らかに過去の戦争に対する日本人の態度を戒める意図があると言え よう。 「中国人民抗日戦争記念館」――中華民族の誇りとして 「 中 国 人 民 抗 日 戦 争 記 念 館 」 ( 以 下、 「 抗 日 戦 争 記 念 館 」) は、 北 京 郊 外 の 盧 溝 橋 の た も と に 位 置 す る。 「 七 ・ 七 事 変 」、 す な わ ち 日 中 戦 争・ 抗 日 戦 争 の き っ か け と な っ た 一 九 三 七 年 七月七日の盧溝橋事変五〇周年を記念して、一九八七年に開館した施設である。この記念 館 の 建 設 は、 「 教 科 書 事 件 」 の 翌 年 に 当 た る 八 三 年 に 構 想 さ れ、 九 〇 年 代 に は 中 央 政 府 の
41 東アジアにおける記憶の共有の模索 第七次五ヵ年計画の重点建設プロジェクトの一つに組み入れられた。現在、記念館は、中 央 政 府 の 指 導 の 下、 北 京 市 政 府 が 中 心 と な っ て 運 営 さ れ て い る。 一 九 八 七 年 の 開 館 以 来、 世界各地から数多くの政府高官が訪れた。その中には、日本の村山富市や小泉純一郎ら歴 代首相も含まれている。二〇一一年までに一六六〇万人余りの人々が訪れたと報道されて いる ( 18) 。 この記念館は、中国の抗日戦争の歴史を知るうえで最も重要な博物館の一つである。中 国政府は、八七年、九七年、二〇〇五年、二〇一〇年に、中国人民抗日戦争の全面的展開 および抗日戦争の勝利を記念するため、記念館でさまざまなイベントを開催した。盧溝橋 事変だけではなく、抗日戦争そのものを扱った施設であり、今日では愛国主義の精神を発 揚する機関として機能している。 記念館の前には総面積八六〇〇平方メートルの抗日戦争記念広場があり、広場の中心部 には中華民族の目覚めを象徴する巨大な獅子像がそびえ立っている。また、広場の両側に はそれぞれ七ヵ所芝生が植えられ、 「七 ・ 七盧溝橋事変」を物語る。そして、広場の真ん中 には、十四メートルの高さに国旗が掲げられており、中華民族の十四年にわたる抗日戦争 の勝利を称えている。 記念館の展示フロアの総面積は六七〇〇平方メートルである。 館 内 に 入 る と、 「 我 々
の 血 と 肉 で も っ て 新 し い 長 城 を 築 く 」 と い う、 群 衆 を 表 し た レ リ ー フ が 目 に 入 る。 展 示 物 は、 写 真 や 遺 品、 模 型 な ど 充 実 し て い る。 と こ ろ ど こ ろ に 戦 場 の 再 現 模 型 を 配 し て は い る も の の、 大 部 分 は、 実 物 資 料 と 写 真 に 解 説 パ ネ ル を 添 え た 形 式 の 展 示 で あ る。 日 本 側 の 資 料 や 新 聞 も 多 く 取 り 入 れ て い る。 歴 史 の 細 部 の 検 証 に 主 眼 を 置 い た 展 示 と 言 え る だ ろ う。 二 〇 〇 五 年 に 開 催 さ れ た「 偉 大 な 勝 利 」 と い う 特 別 展 は、 抗 日 戦 争 六 〇 周 年 を 記 念 す る 一 大 イ ベ ン ト で あ り、 抗 日 戦 争 の 勝 利 ひ い て は 中 華 民 族 の 世 界 反 フ ァ シ ズ ム戦争をも勝利に導いた中国共産党の役割を強調したものである。その後、毎年七月七日 を迎えると、記念館では中国人民の抗日戦争の勝利を記念する式典が盛大に開催されてい る。抗日戦争は、日本人が想像する以上に、現代中国にとって大きな意味を持っていると 図 8 …「中国人民抗日戦争記念館」は、中国人民によ る抗日戦争の歴史を全面的に扱った全国唯一 の大型総合戦争博物館である(筆者撮影)
43 東アジアにおける記憶の共有の模索 認識すべきであろう。つまり抗日戦争こそ現代中国の基礎だというのである。 展 示 の 一 部 に は ジ オ ラ マ も 用 い ら れ て い る。 地 雷 戦、 水 上 ゲ リ ラ 部 隊、 「 地 道 戦 」 ( 地 下 の ト ン ネ ル 戦 ) の 様 子 を 再 現 し た「 人 民 戦 争 館 」 と 呼 ば れ る コ ー ナ ー で あ る。 し か し、 そ のジオラマに登場するのは、抗日戦争で戦う中国人ばかりで、日本軍の姿はまったく見ら れない。つまりそれは「被害」の展示ではなく、 「抵抗」の展示と言ってもよいだろう。 この施設では、歴史的事実を伝える場合には写真や新聞資料を採用し、創造性の強い表 現をする場合にはジオラマや模型を使用するといったように、明確な展示方針が貫かれて いる。さらに、日本軍の加害行為、つまり中国人民の被害の実態を示す場合にはミニチュ ア模型を、抗日運動の様相を示すにはジオラマ展示を用いるというように、区別されてい る。等身大の人形で構成され、より直接的に体感できるジオラマ展示によって、抵抗の主 体としての中国人民の姿が表象され、見る人に強い印象を残す。 記念館の最後の展示として、一九七二年九月の日中国交正常化の時に撮影された写真が 飾られている。毛沢東・周恩来らとともに田中角栄の姿も見える。戦後、日中両国がいか に和解への道を探り、友好関係の再構築に尽くしてきたかを解説している。先に述べたよ う に、 抗 日 戦 争 こ そ 現 在 の 中 華 人 民 共 和 国 の 基 礎 と い う、 「 抗 日 戦 争 記 念 館 」 の 基 本 的 な 立場からすれば、その展示形態の選択は必然的な結果と考えられる。
中国の戦争博物館の展示方法それ自体は、日本の博物館とあまり変わらず、戦争体験を 継承することを主眼とする。しかし、悲惨な戦争被害の体験を強調するのではなく、むし ろ抵抗運動の体験、勝利の戦争体験を重視するところに、中国の戦争博物館の特徴がある。 中華民族の独立戦争の体験を伝達し、勇敢な愛国的戦闘行為を讃える中国の戦争博物館は、 国民の愛国心を涵養する施設として機能していると言えよう。 第二章
日本の平和博物館
戦後六〇年以上を経て、第二次世界大戦における戦争体験は歴史的記憶へと変化しつつ ある。戦争体験は、さまざまな視点から継承されている。前述のように、中国には抗日戦 争に関する戦争博物館が多数ある。他方、戦争に関する写真や文献などの資料を体系的に 収集し、その収集物を展示することで一般大衆に平和について歴史的な視野を与える平和 博物館もあり、平和教育に役立てられている。 現在、世界には一〇〇以上の平和博物館があるが、その半分以上は日本にあると言われ ている。平和博物館の社会的機能は、戦争の体験を継承し、国民がその記憶を保持できる ようにすることである。以下では、日本の平和博物館を通じて、戦後日本人の戦争の記憶、45 東アジアにおける記憶の共有の模索 さらに国民意識の変容過程について考えてみたい。 (一) 平和博物館が語る日本人の戦争観 日本の平和博物館の多くは、地域の戦争体験を継承することを目的として、展示内容を 構成している。八〇年代後半に、日本の地方自治体による建設ブームが起こり、多くの平 和博物館が開設された。 戦後日本でとられた政策の柱の一つとして、平和教育の強化が挙げられる。戦争の記憶 を相対化し、未来に向けて「平和」への道筋をメッセージとして発信することは、平和な 世 界 を 築 く こ と に と っ て 深 い 意 味 が あ る。 し か し、 「 一 国 平 和 主 義 」 と 批 判 さ れ る 平 和 教 育が、戦争に対する反省の色の薄さや、戦争責任という面での認識の欠如を生み出してい る と い う 指 摘 も あ る ( 19) 。 一 九 六 七 年 に 共 同 通 信 社 が 行 っ た「 対 中 国 戦 争 に 関 す る 世 論 調 査 」 に よ る と、 「 悪 い こ と を し た と 思 う 」 と、 戦 争 の 加 害 性 や 侵 略 性 を 認 め た 人 は 一 七 パ ー セ ン ト に す ぎ ず、 五 割 以 上 の 人 々 が「 自 衛 上 当 然 だ っ た 」「 や む を 得 な か っ た 」 と 答 え、 明 確な加害者意識を持っていなかった。日中国交正常化直前の一九七二年に行われた日本人 の戦争認識に関する世論調査でも、 侵略性を認めた人はわずか二割強で、 「やむを得なかっ た」 「自衛上当然だ」と回答した人々が五割以上と、依然として多数を占めた ( 20) 。
日本人の戦争の記憶は、 「出征 ・ 疎開 ・ 空襲 ・ 引き揚げ」 「広島 ・ 長崎の原爆被災」といっ たテーマに象徴されるように、被害者体験に焦点を当てる傾向がある。ここから、日本人 の 根 強 い 被 害 者 意 識 と 加 害 者 意 識 の 欠 如 を 読 み 取 る こ と が で き る ( 21) 。 こ う し た 傾 向 が、 日 本各地の平和博物館にも色濃く表れている。 日本における最初の平和博物館は、被爆体験の継承を目的として一九五五年に創立され た「 広 島 平 和 記 念 資 料 館 」 と「 長 崎 原 爆 資 料 館 」 ( 長 崎 国 際 文 化 会 館 ) で あ る。 こ れ が さ き がけとなり、その後、七〇年代~八〇年代には、多くの平和博物館が建設された。たとえ ば、 「 沖 縄 県 立 平 和 祈 念 資 料 館 」( 七 五 年 ) 、「 知 覧 特 攻 平 和 会 館 」 ( 七 五 年 ) 、「 舞 鶴 引 揚 記 念 館 」 ( 八 八 年 ) 、「 ひ め ゆ り 平 和 祈 念 資 料 館 」 ( 八 九 年 ) な ど で あ る。 こ れ ら は、 戦 時 中 最 も 被害を受けた地域に造られ、その状況を生々しく展示することにより、戦争の悲惨さを次 の世代に伝える大きな役割を果たしている。 こうした平和博物館で展示されるのは、悲惨な被害の実態が中心である。取り上げられ る具体的場面は、都市空襲や原爆や地上戦、強制労働や抑留体験、および引き揚げなどで ある。日本人に対してなされた非人道的行為を告発しているが、戦争の全体像を全面的に 捉えて展示しようというものではない。 日 本 で 最 も 代 表 的 な 平 和 博 物 館 は、 「 広 島 平 和 記 念 資 料 館 」 と「 長 崎 原 爆 資 料 館 」 で あ