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町人階級の富裕と繁栄が続いたため 山鉾の装飾に 財を惜しまなかった と指摘している 5) そして 山鉾ができると同時に町 個人が出金す る 祇園会出銭 (3) や 合力銭 (4) と言った構造も 整い 町財政として祭を運営する動きがでてきた このように 山鉾巡行は 自治の発展に伴い変化 し 都の復興

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Academic year: 2021

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近代における祇園祭山鉾巡行の継続に関する考察

―清々講社を中心に―

Consideration about the Continuation of the Gion Matsuri Yamahoko Junkou in Modern Times ―Mainly Focusing on the Seisei Kosha―

伊藤 節子* ITO Setsuko *

As for the Yamahoko Junkou of modern times, the economical base which of the Yorimachi system was abolished, and supported a Yamahoko Junkou collapsed after the Meiji Restoration. For this crisis, the Tsuchida Sakubei built the festival organization named the Seiseikousha. It became clear for the parishioner for levying fair, the Yamahoko town that the thing by the achievement of Tsuchida who "passed, and came, and touched a route of the reform who started Yamahoko without default in an average year" was big. In other words ,Tsuchida understood that the effect by the Yamahoko Junkou exerts on sightseeing and economy. The other receives assistance from Kyoto-shi in 1923 the part of pipe with the Yamahoko town. The person con-cerned tried for pulling in customers and raised value of sightseeing of the Yamahoko Junkou.

キーワード:観光(sightseeing)、清々講社(Seisei Kosha)、祇園祭(Gion Matsuri)、土田作兵衛 (Tsuchida Sakubei) 1. はじめに (1) 研究の背景と目的 祇園祭は、863(貞観 5)年に神泉苑にて、勅命に より御霊を祓う神事を行ったのが始まりとされ、明 治までは祇園御霊会と呼ばれていた。また、祇園祭 山鉾巡行(以下、山鉾巡行)は、祇園祭の代表的行 事(神事)として1100 年以上歴史があり、2009(平21)年 9 月 30 日「京都祇園祭の山鉾行事」が、 ユネスコ無形文化遺産代表一覧表に記載されるなど、 国際的にも広く知れ渡っている。 しかし、近代化に伴い山鉾巡行継続には、山鉾町 の並々ならぬ努力や氏子の協力があったといわれて いる。それでは、どのように継続されてきたのだろ う。そこで、本稿では、明治期から戦前までの山鉾 巡行に着目し、山鉾行事に観光の側面を加えながら 山鉾巡行が継続されていく過程を明らかにすること を目的とする。 まず、山鉾巡行の成立過程については、定かでは ないが、11 世紀後半になると、祇園御霊会は豪華に なり、執政者らの人気を集め、三条室町に桟敷を構 えて行列見物をするようになった1)。 また、1379(永和 5)年には、「足利義満が藤若(能 の大成者、世阿弥の幼名)を引き連れて祇園御霊会 見物をしたのを初めとして、代々の足利将軍は、神 輿迎えと還幸に際して、桟敷を構えて見物するのが “毎年の儀”」2)となるほど、評価され定着したようで ある。 そして、山鉾は室町時代の初期から町々が所有す る形態になったが、応仁の乱によりすべての山鉾が 消滅した(1)。しかし、1500(明応 9)年、室町幕府の 命により、山鉾巡行は再興されて鉾1 基と山 25 基が 巡行し、これが現在の山鉾の形態とされている。 このような流れについて、富井康夫は「京都の町 民経済と町組の発展に支えられた、古代中世的御霊 会から近世的祇園祭への傾斜と固定の過程であっ た」3)と分析し、真弓常忠は「祇園祭は応仁の乱後の 都人の心々を結び、都の復興を支える原動力となっ た。その後、町衆は財力を蓄えるとともに、山鉾の 装飾も充実し、桃山時代には豪華絢爛の風潮をうけ て贅を尽くすようになり、また、豊臣秀吉は山鉾町 に近接する寄町の人々に“地の口米”(2)の制度を設 けて助成させ、資金の安定をはかった」と述べて い る4)。 つぎに、柴田實は、江戸時代の山鉾町について、 *京都大学大学院 人間・環境学研究科 論 文 [観光研究]2017. 9 / Vol. 29 / No.1 日本観光研究学会機関誌

Journal of Japan Institute of Tourism Research The Tourism Studies, 2017. 9/Vol. 29/No.1 PP. 29~41

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「町人階級の富裕と繁栄が続いたため、山鉾の装飾に 財を惜しまなかった」と指摘している5)。 そして、山鉾ができると同時に町・個人が出金す る「祇園会出銭」(3) や「合力銭」(4)と言った構造も 整い、町財政として祭を運営する動きがでてきた。 このように、山鉾巡行は、自治の発展に伴い変化 し、都の復興や繁栄をあらわす一種の象徴的存在と なった。しかし、1868(明治元)年の明治維新以後、 寄町「地の口米」の制度が廃止となり、山鉾巡行を 支えてきた状況が一変した。この状況を打破するた め、鉾町の住民である土田作兵衛が、山鉾巡行など の経費を援助する清々講社(協賛組織・祭礼組織) を結成する。 この時、土田は、山鉾巡行が多くの見物人を集め ることが、京都一円の経済に貢献するとの理念を掲 げ、山鉾巡行の継続を果たそうとした。 これは即ち、繁栄をあらわす象徴としての山鉾巡 行が、経済効果をもたらす観光資源としての山鉾巡 行へと転換する理念である。この理念に支えられた 清々講社の成立と役割を分析し、土田の理念が山鉾 巡行継続において、どのように影響を与えたかを明 らかにする。さらに、山鉾巡行の観光対策や京都市 との関係についても考察する。 なお、明治から戦前にかけて構築された祭礼組織 と行政の関係を解明することは、現在の山鉾巡行を 取り巻く観光的環境をより深く理解するための一助 となり、意義があると考える。 (2) 既往研究と本稿の位置づけ 祇園祭の研究については、枚挙に暇がないが、平 安時代から室町時代にかけての祇園祭の歴史につい ては、脇田晴子6)が詳しく解説している。 また、森谷尅久7)は、都市文化史として、祇園祭 の山鉾や山鉾町の歴史と特徴をとらえている。 そして、谷直樹、増井正哉8)は、祇園祭の変容に ついて都市史および建築史研究の立場から空間的演出 を分析し論じている。 一方、秋山国三9)は、祇園祭の寄町や清々講社に ついて、山鉾町に残された資料をもとに述べている が、土田作兵衛に関しては、論じていない。 また、高原美忠10)は、八坂神社神職の立場から清々 講社の規約や土田の記録書である『祇園祭祭礼改定 覚書』11)を紹介しているが、土田個人や山鉾町の関 係については、述べていない。 以上のように近代における山鉾巡行と、清々講社 及び行政や観光については、従来の対象になってい ないことが確認できる。 2. 寄町制度の廃止と清々講社の設立 この章では、明治維新による祇園祭への影響や寄 町制度の廃止に伴う土田作兵衛の行動を中心に、 清々講社の設立過程を取り上げる。 (1) 山鉾町と寄町 明治維新前の1864(元治元)年 8 月、山鉾町は、 元治の大火により、甚大な被害を受けていた。この ために、1865(慶応元)年の巡行は、後祭の 2 基(1 基唐櫃にて)が巡行するのみであった。 その後、山鉾は序々に回復し1871(明治 4)年に は、先祭20 基(5 基唐櫃にて)、後祭の 8 基が巡行 できるまで回復してきた。 一方、明治維新の山鉾への影響は、1868(明治元) 年神仏分離令により、祇園社が八坂神社(5)と改称さ れ、祇園社の神輿轅町、駕輿丁、神人(6)が廃止され た。また、山鉾の取り締まりは、雑色から京都府市 政局(1868 年 4 月京都府設立)に移された12)。 そして、改革の波は山鉾町にも及び、1872(明治 5)年に寄町制度は廃止となり、山鉾町は当惑と同時 に窮地に陥った。この寄町制度は、山鉾町の祭費を 氏子町で分担するもので、山鉾町にとっては、寄町 からの地の口米が有力な資金源となっていた。この 寄町の結びつきについては、山鉾町に近隣する町が 援助する場合や豊臣秀吉が町割りを定めて、市区改 正を行った際に、割り当てられた場合などがある (図-1 参照)。 例外として、氏子地外に松原以南にも、寄町があ り、二条以北も同様に寄り町があった。 また、寄町と地の口米は、均一ではなかった。例 えば、長刀鉾の場合は、寄町が高辻通新町西入堀之 内町を始め7 ヶ町で、地の口高は、6 石 1 斗 8 升 5 合、青銅200 文であった(7)(表-1 参照)。この地の 口米は、徳川時代初期、米納であったが、中期には 金納にもなっている。なお、寄町や地の口米は、時 代によって変化したようである。 このように明治維新の改革による寄町制度や神輿 轅町の廃止は、山鉾町と氏子町の関係を崩壊させ、 山鉾巡行だけにとどまらず、祇園祭の継続まで危ぶ まれる出来事であった。

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凡例:□は山鉾町。その他の山鉾名は、担当する寄町の位置。 注:寄町は時代により、増減変更があるが、本図は文献資料から、原典にあるものをすべて記載した。・道路の片側に寄せて記入のあるものはすべ て片側のみ該当することを示している。 『近世祇園祭山鉾巡行史』より筆者作成 図-1 1766(明和 3)年山鉾町と寄町の位置 表-1 寄町と地の口米 山鉾名 長刀鉾 函谷鉾 鶏 鉾 菊水鉾 月 鉾 放下鉾 岩戸山 船 鉾 保昌山 孟宗山 占出山 山伏山 霰天 神山 蟷螂山 四条 傘鉾 郭巨山 綾傘鉾 寄町数 7 4 18 18 14 13 7 13 8 7 3 8 図子 のみ 3 4 2 寄町なし 地の 口高 6 石 1 斗8 升 5 合 青銅 200 文 1 石 斗7 石 1 6 升 9 合3 勺 8 石 8 斗8 升 銀3 匁 8 石 8 斗 1 升 4 石 5 斗1 升 銭1 貫 500 文 4 石 9 斗5 升 銀30 匁 2 石 4 斗3 升 銭640 文 銀250 文 26 匁 - 9 斗銭800 文 1 石 32 升 2石7斗1 升2 石 25 升 - - 8 斗 山鉾名 伯牙山 芦刈山 油天 神山 木賊山 太子山 白楽 天山 橋弁 慶山 八幡山 鯉 山 浄妙山 黒主山 鈴鹿山 役行 者山 北観 音山 南観 音山 鷹 山 凱旋 船鉾 寄町数 5 10 8 6 9 4 3 1 5 10 8 11 7 5 8 10 8 地の 口高 - 斗3 石 1 5 升 - 斗2 石 1 2 升 斗3 石 7 4 升 2 石 5 斗 斗2 石 12 升 斗3 石 35 升 斗1 石 25 升 3 石 4 斗1 升 5 合 3 石 8 斗3 升 3 石 8 斗 銀15 匁 鳥目 300 文 1 石 5 斗 1 石 8 斗 4 石 7 石 5 斗9 升 8 合 4 石 9 斗 注:「地の口高」は、地の口米と貨幣の合計。 『近世祇園祭山鉾巡行史』より筆者作成

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(2) 清々講社の設立 1872(明治 5)年 5 月(旧暦)、下京 11 区(以下、 区に関しては、図-2 参照)副区長土田作兵衛(8)(月 鉾町、図-3・表-2 参照))は、「已ニ例祭ノ期相近 ツケトモ祭式如何執行相成ルヤ未定ニテ山鉾建テ覚 束ナシ」と山鉾巡行の現状を嘆いてい13)。 そして、「皇国中無比ノ大壮観ナル當社ノ神祭衰廢 ニ及フ時ハ、諸國ヨリ競テ見物ノタメ入京ノ人モ無 之、氏地ハ勿論都下一般ノ賑ヲ失フノミナラス在村 ニ至ル迄、自ラ不融通ニ立到ルハ必然ニテ實ニ歎息 ノ至リナリ」と憂慮していた14)。 そこで、土田は、府庁に出頭した際、上京28 区長 畑嘉兵衛(旧神輿轅町)に、今年の神輿の様子につ いて尋ねるが、畑は、渡御できるか解らないと答え た。また、土田は、11 区長富永太右衛門(旧神輿轅 町)にも尋ねたが、同じような返答であった。 この時、土田は、 何分来月ノ例祭今日ニ至リ取留メタル事モ 無之テハ、今年ノ神祭執行甚以心元ナシ。依テ 僕ノ愚按ニ當時轅町ノ廉モ無之故、従来ノ地之 口ヲモ廃シ神輿ヲ始、山鉾祭礼掛リノ入費惣テ、 氏子町々一般ノ分賦シ、持寄金ヲ以テ祭儀ヲ修 セバ公平ノ理ニテ永世不朽ナルヘシ15) と、提案した。これに対し、畑は「山鉾一般ノ入費 ヲ氏地町々ヘ分賦スルニ至テハ意外ノコトナリ」(24) と取り上げなかった16)。しかし、その案に下京第3 区副区長村田五兵衛が賛同し、まず下京10 区以東の 氏子地域(山鉾町・轅町のほぼ全域)の区長による 会議を5 月 14 日に成徳校で開く運びとなった。 この会議には区長など11 名が参加した。席上、土 田は構想を説明するが、土田が試算した金額は、祭 礼の費用に100 円、鉾 1 基に 50 円、山 1 基に 12 円 もしくは 13 円の補助を見込み、その費用の総額は 650 円であった。また、1 ヶ町の分担額は、氏子町 435 ヶ町で分担した場合、1 円 50 銭になるというも のであった。しかし、参加した区長などは、提示し た金額の高さに驚いたようで、山鉾を持たない氏子 町が、この提案を受け入れることは、難しいと思っ た。結局、この日は結論を出すことができず、再び 5 月 21 日に集会することになった。 この間、土田と村田は参加していない氏子町へ奔 走し、理解を求めた。このような努力が功を奏して、 5 月 21 日の区長会議は、氏子町全域の区長など参加 者は87 人にのぼる大集会であった。 この時、土田は、山鉾町に対し、 都下ノ衰微ニ到ラザル様希望スル主意ナレ バ、山鉾町々我意ヲ不申立、例年懈怠ナク山鉾 ヲ出スヘキ旨結約ス。然ル上ハ萬一今後其町ニ 苦情有テ山鉾出シ難キ時ハ、必氏地各區長中ヘ 其次第書取ヲ以テ断出サルヘシ17) と言い渡した。この会議後、土田と村田は、承諾の ない各町々を説得し、5 月 26 日には協議がまとまり、 土田の構想は実現した。 その後、総区長舟橋清左衛門へ報告したのち、5 月28 日に正副区長連印の願書を府庁に提出した。し かし、総区長連印が必要となり、総区長熊谷久右衛 門、長尾小兵衛、長舟橋清左衛門の連署調印をもっ て允許を受けた。これが、清々講社の始まりとされ ているが、正式には、清々講社は1875(明治 8)年 9 月 15 日、教部省より許可を得て設立した(9) 注:図の数字は上・下京区の番号を 表す。 図-2 3 区と 11 区の位置 図-3 学区と鉾町の関係 表-2 3 区と11 区の山鉾名 3 区 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 鷹山 八幡 山 黒主 山 浄妙 山 北観 音山 鯉山 布袋 山 橋弁 慶山 南観 音山 山伏 山 11 12 13 14 15 霰天 神山 占出 山 放下 鉾 菊水 鉾 孟宗 山 11 区 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 郭巨 山 月鉾 函谷 鉾 大船 鉾 鶏鉾 伯牙 山 綾傘 鉾 船鉾 白楽 天山 岩戸 山

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(3) 清々講社と寄町制度 土田の構想は、一般的には、寄町制度に代わるも のとして取り上げられているが、寄町制度とは大き な違いがあった。土田は、各氏子町から均一の分担 金を集め、山鉾町や氏子町を一つの祭礼組織と捉え、 山鉾(鉾・曳山・山)の型式に応じて、各山鉾町に 公平に補助金を分配するものであった(10)。 また、清々講社成立には、八坂神社や行政が関与 しておらず、氏子町自らの合議により誕生している。 なお、清々講社は山鉾町に補助金を分賦する募金 (補助)組織ではあるが、「祭礼神輿渡御ノ節氏地正 副区長戸長〈中略〉供奉スル事」18)と、祭礼に関して の取決めがあり、山鉾巡行だけを限定としていない ことがわかる。さらに、1899(明治 32)年の清々講 社規則には、 八坂神社附属清々講社本部規則 第一条 八坂神社附属清々講社本部ハ八坂神社 氏子信徒ヲ以テ組織シタル講社ヲ監督シ敬神愛 国ノ精神ヲ鞏固修養スルヲ以テ目的トス 清々講社規約 第一条 本講社ハ八坂神社氏地清々講ト称ス 第二条 八坂神社氏子地ニ住居スルモノハ総テ 本講社員タルノ義務ヲ有スルモノトス 第二章 目的 第三条 本講社ハ毎年八坂神社私祭及春秋両度 講社祭ヲ挙行ス19) とあり、清々講社は祭祀組織として、祭礼の目的と 義務を全般にわたり記載している。 (4) 清々講社設立の分析 上掲したように、清々講社設立は、氏子町の区長 会議の承認であるが、氏子町の規模は、下京の 26 区に及び、氏子町435 ヶ町(その中に山鉾町 35 ヶ町 や轅町21 ヶ町があった)で構成されていた(11)。 また、土田が副区長を務めていた下京 11 区(12)は 山鉾が10 基所在し、その中でも、月鉾町は、40 軒 で構成されていた20)。土田の協力者であった村田(放 下鉾小結棚町)の3 区には、13 基(休み山として鷹 山、布袋山がある)の山鉾が所在する古町であった 21)。 この11 区と 3 区の山鉾の合計は 23 基で、これは、 山鉾全体の約7 割に達する規模であった。 したがって、土田と村田は、構想をまとめるのに、 有利な立場であったと推測される。また、「万一御府 廳ノ上聞ニ達シ、如何敷恩召サレ各君江御沙汰ノ品 モ有之節ハ、僕壱人御召出シ成シ下サレ度」22)とし た土田の構想への決意や、村田と共に各区氏子町へ 奔走頼談したことが、短い期間で設立させたと思わ れる。 3. 設立後の清々講社について この章では、山鉾町の財政問題と清々講社の役割 を取り上げ、山鉾町の変化や行政との関係を取り上 げていく。 (1) 清々講社の成果と動き 1872(明治 5)年 5 月の末に成立した清々講社は、 直ちに活動を開始し、鉾には、26 円及び 25 円、曳山 には、20 円、舁山には 7 円を支給し、合計で 301 円を 山鉾町に補助している。これにより、この年は、6 月 7 日(13)の先祭は長刀鉾を始め18 基が、14 日の後祭は北観 音山を始め8 基の山鉾、計 26 基が巡行した(14)。また、 補助金と分担額についてみてみると、分担額は、1872 (明治5)年各町より 1 円であったが、1887(明治 20) 年度は、2 円 58 銭となっている。さらに、それに伴 い、山鉾への補助金は、1872(明治 5)年の 301 円 から、1887(明治 20)年 684.5 円と増えている。各山 鉾別では、約2 倍の増額となった(表-3 参照)。し かし、この補助金だけでは、十分とはいえず、山鉾 入費は補助金の概ね三分の一から四分の一程度であ り、不足分は山鉾町の負担となっていた23)。 一方、清々講社の収支は、1884(明治 17)年 1 月 の「第一回清算報告」によると、収入1780 円 20 銭、 支出1670 円 40 銭 5 厘となっている(表-4 参照)。 また、1887(明治20)年4 月1 日の第4 回清算報告書に よると、現金271 円51 銭4 厘と外に起業公債証書額面 1450 円を所有していた24) つぎに、1887(明治 20)年度通常会乙号議案をみ ると、共有金のうち起業公債証書利子 87 円を 1887 (明治 20)年度「八坂私祭及其他諸費」へ支弁し、 その他は氏子各町々1 ヶ町 2 円 58 銭を収める。なお、 同甲号議案は「八坂私祭及其他諸費」として 1116 円の支出を決議している25)。その内訳は 金千円 神輿三社鉾五本曳山三本舁山十九本其 他渡金 金五十円 神輿及境内末社小修繕費

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表-3 清々講社補助金 (単位:円) 年 1872 1873 1877 1884 1887 1889 1894 1898 1912 1918 1923 1929 1942 明5 明6 明10 明17 明20 明22 明27 明31 明45 大7 大12 昭4 昭17 稚 児 ― 2 7 16 16 無記 無記無記 43 50 95 200 300 長 刀 鉾 26 30 38 50 50 68 無記 148 185 220 400 482 580 函 谷 鉾 25 30 38 50 50 68 90 120 185 220 400 480 580 鶏 鉾 25 30 38 50 50 68 鉾 曳 山 総 計 699円 増 額 120 185 220 400 482 580 月 鉾 26 30 38 50 50 68 148 185 220 400 482 580 放 下 鉾 26 30 38 50 50 68 148 185 220 400 482 580 船 鉾 ― ― ― ― ― 59 115 167 200 350 423 510 岩 戸 山 20 23 30 42 42 59 110 157 200 350 423 510 北観音山 20 24 31 45 45 65.5 117 177 210 350 423 510 南観音山 ― ― ― 64 65.5 65.5 120 なし 210 350 423 510 舁 山 7 8 9 14 14 15 16 20 31 37 72 87 105 舁 山 数 19基 19基 19基 19基 19基 18基 18基 18基 19基 19基 19基 19基 19基 合計 301 351 429 683 684.5 859 1506 2027 2673 4791 4863 7235 『近世祇園祭山鉾巡行史』より筆者作成 表-4 清々講社第一回精算報告 収入之部 1.金 1780 円 20 銭 内訳 金1766 円 70 銭 各組講金月々集金 金 13 円 50 銭 起業公債証書利子 支出之部 1.金 1670 円 40 銭 5 厘 内訳 金666 円 74 銭 6 厘 他借用金償却但利子共 金546 円75 銭 社務所用度費補助其他渡シ金 金110 円 97 銭 1 厘 修繕費 金 33 円 32 銭 能楽執行費 金251 円 65 銭 起業公債証書額面 300 円買入高 金 61 円 96 銭 8 厘 雑費 出入差引 金109 円 79 銭 5 厘 1 月 15 日有物 外ニ起業公債証書額面300 円也 右報告致候也 明治17 年 1 月 八坂神社清々講社委員 曽束新助 宅間太兵衛 川畑庄七 田村冶助 川勝利平 「嘉永以後の八坂神社」より筆者作成 金十円 春秋両度祭費一ヶ度金五円 金十円 通常臨時会々員行厨代其他雑費 金四十六円 雑費 但諸社御千度及毎月委員集 会費其他諸費 となっている。 (2) 山鉾町の財政と清々講社の役割 明治期、山鉾町の多くは、寄町制度廃止以前から の借財と廃止後の借財を抱えて苦しんでいたが、 清々講社はこうした山鉾町の補助に乗り出している。 ここでは、それらの事例を取り上げ、清々講社の役 役割をみる。 1) 南観音山 南観音山(曳山)は、1861(文久元年)年 6 月、 改造費や従来からの借金を合わせた銀2百38貫目と 立替金や講の不足金など銀3百44貫余りの大借財を 抱えていた。これを返済するために、町内の有力者 や家持ちは、寄付や新たな講を組み対処した。しか し、1864(元治元年)年の大火により、南観音山や 町内住民は、甚大な被害を受け、祭事に参加するこ とは難しく休山することになった。 その後、1873(明治 6)年南観音山は、区戸長から 出山要請を受けるが、7 年間の休山願いを提出する。 しかし、1878(明治 11)年再度の要請があり、止む を得ず1880(明治 13)年、出山することになった。 この結果、借金は出山により膨らむ一方となり、 1882(明治 15)年 8 月 15 日、南観音山の町中総代 神事行事係ら5 名は、清々講社の祭費に関する臨時 総会に、財務問題を相談するため出席した。清々講 社からは、私祭担当掛りの土田・村田両氏が、氏子 町からは、氏地戸長25 名が出席した。 そこで、南観音山側は財務状況(15)を説明し、見通 しがたつまで休山を嘆願した26)。しかし、それでも、 清々講社が例年通り出山を要請するならば、補助金の 増額が必要と訴えた。 これに答えて、清々講社は南観音山に対し、1882 (明治15)年の補助金 38 円から、翌年 64 円に増額、 これとは別に、氏地25 組から 335 円の有志寄付を受 け取れるよう配慮した(16)。 嘆願書 下京区第三組南観音山百足屋町 右町中 五組総代 山口彌吉 神事山行事 桂藤左衛門 同 林甚七 同 阿形甚助 町中総代 中野太兵衛 神事祭費掛り 下京区第十一組 戸長 川勝利 平殿 同区三組 山川虎之助殿 私祭担当掛り 土田作兵衛 村田五良(ママ)兵衛 2) 白楽天山 白楽天山は、元治大火の被害は軽微で済んだが、 明治維新がもたらした影響により復興は遅れた。そ れでも、白楽天山は、1872(明治 5)年に復興を果 たしたが、「決して町民の意志によったものとは云い 難く、…(中略)当時絶大の権力のあった区長の指 示に依った次第である」と、内情を説明している27)。

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また、この年の補助金は7 円であったが、巡行費用 の約半分に過ぎなかったことと、水引を新調したの で、無理を重ねての再興であった。 さらに、復興費用は、各戸に賦課して償却するよ う進めていたが、1875(明治 8)年、成徳尋常小学 校が町内に移転してきたため、町内の件数が減り、 債務返済にも大きな影響がでた。このためついに、 白楽天山は、1888(明治 21)年 6 月 14 日、15 年間 の休山届を区役所(区長)や八坂神社(清々講社) に、取決めどおり提出することとなった。休山届28) は以下のようである。 御届書 弊町 白楽天山装飾品大破ニ及候ニ付町中協議之上 修履資金積立之為本年より向十五ケ年間出山不 致候間町中連署を以本月廿日御府区役所御届済 ニ付此段御届申上置候也 下京区第拾壱組 白楽天山町 明治廿一年六月廿一日 行事 広田茂兵衛 行事 藤野要助 八坂神社私祭神事係 村田五郎(ママ)兵衛殿 中村半三郎殿 この時、清々講社は南観音山のように、補助金を 増額して休山を回避するという処置はとらなかった。 理由は不明であるが、町内の件数が減少のため、認 めざるを得なかったものと窺われる。以後、白楽天 山は休山することになるが、町内の世帯主が相次い で亡くなるなどの停滞により、再興は1911(明治 44) 年になった。 3) 月鉾 月鉾の場合は、1889(明治 22)年、10000 円の負 債を抱えていた。しかし、返済の方策もなく、月鉾 町総代高村半三以下4 名の連名で、清々講社へ願書 を提出した。その境遇は、鶏鉾と同様で「負債ハ一 己ノ負債ニアラズシテ皆月鉾ニ負フタルモノナレバ 其極月鉾ヲ以テ弁償スルノ他アラサラナリ是ㇾ我カ 町ノ痛悼措ク能ハザル所ナリ」29)とし、特別の詮議 を以て、救済を願い出た。それを受けて、清々講社 は月鉾及び会議所の土地建物(借入金2000 円)を担 保として救済した。また、この時の願書の宛先は、 氏子社長委員とし、その連名の中に土田作兵衛や村 田五郎兵衛の名前があった。しかし、清々講社に提 出した月鉾の保護預り證には、総代ら8 名の連名の 後に「土田作兵衛策」とあった。土田は、月鉾町住 民として保護預り証の提出や内容に携わり、借り手 側と貸し手側、両方の複雑な立場に就いていた。 なお、月鉾町の返済は1905(明治 38)年までか かったようであった。 4) その他の鉾について このような財政問題は、同時期の鉾町にとっても 深刻であった。函谷鉾は、1892(明治 25)年 2500 円の負債を抱え30)、長刀鉾は、6000 円余りの負債31) を抱えていた。また、鶏鉾は、8143 円の負債を抱え、 1888(明治 21)年 12 月 20 日清々講社に救済を願い 出る。この時、鶏鉾町は鉾売却も考えていたようで あったが、清々講社は負債の一部を肩替りして、窮 地を救った(17)。 (3) 山鉾町の結束と清々講社 このように、清々講社は、山鉾町救済に務めたが、 山鉾町の財政問題は解消されなかった。1894(明治 27 年)4 月、鉾と曳山を運営する 9 町(長刀鉾、函谷鉾、 鶏鉾、月鉾、放下鉾、船鉾、岩戸山、北観音山、南観 音山)は、共同で、補助金を毎年 100 円(1893 年は 80 円)に増額するよう清々講社に要求した。この時の 9 町の結束力は強く、もし要求が認められない場合、 巡行を中止すると訴えた32)。これに対し、清々講社は、 從來鉾一つに七十圓づゝの補助金を清々講 社より支出せしを本年より八十圓に増したるが 此頃に至り各鉾町より百圓づゝの補助を得ずん ば到底祭日に曳出し難しと申出でだれども清々 講社にては八十圓の補助さへ随分困難なる折柄 百圓づゝの支出は到底爲し難く33) と反論している。 この事態に対し、中立的立場にある八坂神社中川 武俊宮司は、「明治二十八年からは、一基につき百円 に増額。二十七年に限っては清々講社から従来の割 賦金の他に九十円を出す」34)という案を提示し、仲 介に努めた。併せて、辻下京区長は、山鉾巡行のリー ダーである長刀鉾町を説得して、鉾を出させた。 一方、補助金問題以外でも清々講社は窓口となり、 山鉾町や山鉾巡行の問題の解決に力を注いでいる。 1910(明治 43)年、京都市内は京都瓦斯会社による

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鉄管敷設工事のため、道路状況は悪化していた。こ のために、山鉾町は、山鉾を曳くには危険との統一 見解をとり、巡行を中止するという動きを示した。 また、これに対して7 月 6 日清々講社は、幹部会 を開き協議したが、巡行を中止することは、 一營利會社の為に山鉾巡行の式を中止するが如 きは世間に對しは無論のこと八坂神社に對しても 不敬なり殊に今後に悪慣例を遺すの虞れもあれば 例年通り必ず山鉾を曳出し得る様尽力すべく35) と表明し、事態を解決するために、山鉾町をはじめ、 瓦斯会社や市参事会に交渉をした。 さらに、道路を管理する京都市は、「斯くの如き事 柄の爲京都の一大年中行司(ママ)たる山鉾の巡行 を中止するが如き事ありては誠に遺憾なり」36)とし、 巡行路の敷設個所は、鉾と同重量の物にて、試験を 行う予定と発表した。そして、市土木課は7 月 8 日、 瓦斯会社の技師立ち合いのもと試験を行い、危険性 がないとの結論を出した。しかし、7 月 8 日夜、山 鉾町は集会を開いたが、試験の結果を聞きいれずに、 全山鉾の巡行中止を決定した。 これに対して、11 日夜、八坂神社社務所にて、保 科宮司、清々講社幹事、信徒代表、五条警察らの関 係者が参集し、鉾町当番行司を招き協議をした。こ の席上、五条警察署は山鉾町が同盟中止したことに ついて、「“不穩當なり”と懇諭したことにより茲に 各町同盟中止は破れて、各自の随意に一任すること なり」37)という展開になった。 そこで、清々講社らは、長刀鉾町を始め、各山鉾 町を説得し、ついに、函谷鉾(18)を除く山鉾は、前年 同様に巡行することになった。なお、巡行は事故も なく無事終了した。 以上、この節では、山鉾町に関する2 つの出来事 を取り上げたが、山鉾町は要求を通すために結束力 を強め、清々講社などに対して、組織的に交渉する ようになった。また、京都市は山鉾巡行を京都の一 大年中行事と位置付け、評価すると共に、大きな期 待を寄せているのが窺われる。 4. 観光資源としての山鉾巡行 (1) 山鉾巡行と観光的効果について いくつかの事例を見てみると、諸国名所百景「京都 祇園祭礼」1864(元治元)年には、安藤広重(二代) 筆の長刀鉾図が描かれ、1875(明治 8)年には錦絵で 各山鉾が描かれている。さらに、「京都名物祇園祭」 という絵葉書がある。絵葉書は一般に、当時の観光地 のおみやげや通信手段の一つとして知られている。 しかし、それ以上に宣伝の性格を持っていたよう である(写真-1 参照)(写真-2 参照)。 そして、1879(明治 12)年 11 月 15 日、山鉾町は 京都市の要請により、ドイツ国皇孫殿下の入洛の際 に、全山鉾が御所に参入し、親善を果たしている。 また、1890(明治 23)年には、疎水開通式前夜の イベントに、鶏鉾、月鉾、郭巨山、油天神山を出し、 余興に花を添えている。そして、1895(明治 28)年 には、京都府渡辺知事が、清々講社幹事、鉾町総代 らに対し、平安遷都千百年紀念祭開催(10 月 22 日~ 24 日)後の賑わいのため、山鉾巡行を 11 月まで延 期するように要請している38)。このように、京都市 は、山鉾巡行を国際親善や観光事業に活用していた が、清々講社は山鉾町と共に、協議に加わるなど、 山鉾巡行に関して主導力を発揮していた。 さらに、明治に入り鉄道網が整備され、人々の行 動範囲は、広がりをみせ、祇園祭は、鉄道を利用す る見物人が増えた。こういった流れに対処する山鉾 町等の動向を当時の新聞記事から挙げてみると、 長刀鉾を曳出したるは午前九時五分にて近 年までは必らず午前八時には曳出したるも之れ は大坂神戸より見物に來るもの一番滊車よりは 二番滊車に多く又大津より來るもの等概して午 前九時比には進行地へ到着するより是等の便利 を計りしものなるべし39) と山鉾町は、見物人に配慮した動きを見せている。 この他、集客のため、官線神戸大阪からの割引往 復切符や奈良線の半額切符を発売するという対策を 採っているが、来訪者は、倍増するという効果があ ったという40)。また、その様子を 兎に角一年一遍の大祭を拝せんとて西は大阪 神戸を始めとして東は大津其の他附近の町村よ り集り來る老若男女は實に素晴らしいものでま だ宵山の日から大阪以西から汽車で來る人は 一々京都驛で吐き出され一昨夜の如きは京都驛

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の雑踏は又とあるまいと思われた。京阪電車で も同く來るわ來るわ何所から彼丈の人が湧て來 たかと疑はしめる程である。昨日も朝來雨天に も拘はらず汽車や電車で京都へ入込む人は實に 何十萬とも數へ切れぬ41) と人気ぶりを伝え、祇園祭の観光的効果の大きさを 示している。 さらに、山鉾巡行の知名度は、「祇園會山鉾巡行の 艶麗優美なるとは今や欧米各國にも宣伝されて居る が今回着色の活動寫眞を発明した佛國巴里の活動写 真師フニベック、マスゲイッチは是非其の壯觀を撮 影して欧米人士に紹介せん」と国際的な広がりを見 せている42)。また、山鉾巡行は、1888(明治 21)年 に発行された外国人向けガイドブックに掲載されて いる(写真-3 参照)。1909(明治 42)年には、山鉾 巡行列番付が発行され、当時の人気を知ることがで きる(写真-4 参照)。 出所:『函谷鉾町百年史』 写真-1 京都名物祇園祭 出所:『写真記録祇園祭』 写真-2 諸国名所百景 京都祇園祭礼 出所:『内国旅行 日本名所図絵」 『ILLUSTRATED GUIDE BOOK

FOR TRAVELLERS ROUND JAPAN』 写真-3 ガイドブック 出所:『写真でみる祇園祭のすべて』 写真-4 山鉾巡行列番 (2) 山鉾町の組織化と補助金 その後、山鉾町の組織的な行動は、大正に入り、 転機を迎える。その発端となったのは山鉾町の財政 問題からである。 1922(大正 11)年頃の、山鉾巡行経費は、1 万円 以上要したが、山鉾町の収入は、清々講社の5 千円 の補助だけであった43)。このために、不足分は、山 鉾町の住民が負担していたが、前掲したように、山 鉾町は慢性的な赤字に悩んでいた。 このような状況の中、函谷鉾町鉾係の吉川忠七と 川端基介は、京都市へ賛助を求める案を協議してい た。これを船鉾町の清水に相談したが、清水はこの 提案に賛同し、各鉾町へ呼びかけることになった。 この提案には、多数の山鉾町が賛同し、1922(大 正11)年 12 月に申し合せの契約書を結んだ。そし て、京都市と清々講社に「山鉾に関する補助金下附 請願書」を提出した。 その内容の一部を挙げてみると、「宇内無双ノ麗観 タル此ノ古典ノ亡ビシ後ノ本市夏季ノ寂寞ニ想到セ ンカ、転々感慨ニ堪ヘザルニアラン。況ンヤ本市ノ 繁栄ニ古美術ノ保存并ニ多大ノ貢献アルニ於テヲ ヤ」と山鉾巡行の影響力や重要性を訴えた44)。 また、この時請願した山鉾修理費は、鉾9 基に対 し4500 円、山 19 基に対し 3040 円、計 7540 円の補 助であった。 一方、京都市はこの請願を認め、1923(大正 12) 年7 月、鉾 1 基に 200 円、山 1 基に 100 円の補助金 を交付した。即ち、これは、京都市が、初めて山鉾 町に補助金を出し、山鉾巡行を保護する施策であっ た。また、この請願に伴い、山鉾町は同年6 月に山 鉾の維持保存を目的とした祇園祭山鉾町連合会(現 在の山鉾連合会の前身)を結成し、近代的組織とし て出発した。 なお、同年、清々講社の補助金合計は4863 円で、 京都市の補助金合計3700 円をあわせると 8563 円と なり、山鉾町の負担は著しく改善した(表-5 参照)。 表-5 1923 年(大正 12)年山鉾町が受けた補助金 京都市 鉾、曳山(9 基) 舁山19 基 合計 200 円 100 円 3700 円 清々講社 稚児 鉾(5 基) 船鉾・岩戸山 ・両観音山 舁山19 基 合計 95 円 400 円 350 円 72 円 4863 円 『八坂神社』より筆者作成

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(3) 京都市と山鉾巡行 京都市は 1939(昭和 14)年、山鉾町の請願によ り、山鉾巡行の補助として、私祭奨励金を新設し、山 鉾町の要望に応えた。この結果、京都市からの補助 金は、巡行費の約4 割に達し、山鉾巡行の支援体制 は拡充されることになった。 また、各山鉾町は、補助金の収支報告書を京都市 に提出しているが、1942(昭和 17)年の報告では、 鉾が89 円、山が 29 円の補助金を受けていることが 判明した45)(表-6 参照)。なお、山鉾の修理には、 多額の費用が掛り、各町の残高には大きな開きがあ ることがわかる。 一方、京都市は、山鉾巡行をどのように捉えてい たのか、京都市の観光政策を見てみると、京都市の 近代的観光事業は、昭和御大典挙行に先立ち、1927 (昭和2)年 7 月京都駅に京都市設案内所を開設した ことが始まりであった。つぎに、1930(昭和 5)年 5 月には全国に率先して観光課を新設し、事業の積極 表-6 京都市補助金(1942 年)と各町の内訳 昭和17 年 前年度繰越金 本年度 補助金 本年度 受入利息 現在高 修理費支出 長 刀 鉾 99 円73 銭 89 円 15 円 82 銭 204 円55 銭 函 谷 鉾 690 円55 銭 89 円 17 円 77 銭 508 円82 銭 288 円 50 銭 鶏 鉾 621 円68 銭 89 円 5 円 8 銭 715 円76 銭 月 鉾 539 円57 銭 89 円 9 円 20 銭 637 円77 銭 放 下 鉾 178 円 89 円 ― 267 円 岩 戸 山 ナシ 89 円 ― 89 円 船 鉾 2077 円99 銭 89 円 62 円 83 銭 2229 円82 銭 北 観 音 山 385 円17 銭 89 円 4 円 43 銭 478 円60 銭 南 観 音 山 2716 円35 銭 89 円 39 円 81 銭 2845 円16 銭 保 昌 山 240 円36 銭 29 円 4 円 9 銭 273 円45 銭 孟 宗 山 545 円77 銭 29 円 8 円 98 銭 583 円75 銭 山 伏 山 885 円66 銭 29 円 7 円 14 銭 36 円14 銭 885 円 66 銭 太 子 山 674 円32 銭 29 円 5 円 46 銭 708 円78 銭 油 天 神 山 399 円20 銭 29 円 6 円 60 銭 434 円80 銭 占 出 山 1677 円 29 円 48 円 39 銭 1754 円39 銭 木 賊 山 929 円57 銭 29 円 15 円 32 銭 973 円89 銭 芦 刈 山 1370 円52 銭 29 円 22 円 48 銭 1422 円 白 楽 天 山 73 円12 銭 29 円 1 円 23 銭 103 円35 銭 郭 巨 山 180 円46 銭 29 円 3 円 09 銭 212 円55 銭 霰 天 神 山 107 円52 銭 29 円 1 円 75 銭 138 円27 銭 黒 主 山 433 円83 銭 29 円 7 円 20 銭 470 円03 銭 八 幡 山 37 円85 銭 29 円 1 円 23 銭 68 円08 銭 浄 妙 山 1480 円18 銭 29 円 44 円 41 銭 1553 円59 銭 橋 弁 慶 山 692 円72 銭 29 円 5 円 62 銭 727 円34 銭 役 行 者 山 1465 円96 銭 29 円 24 円 21 銭 1519 円17 銭 鈴 鹿 山 107 円75 銭 29 円 1 円 77 銭 138 円52 銭 「祇園祭一件」(1941)より筆者作成 的活動を開始した。そして、1937(昭和 12)年度観光 課は、祇園祭ポスター2000 枚や英和文解説パンフ レット(5000 枚と 1000 枚)を調製し、関係先へ配 布している。また、観光課は、市内主要観光事業団 体(山鉾連合会他)と「恒に相協力して観光都市京 都の向上発展に努める」46)とした方針を打ち出し、 積極的に山鉾巡行などを支援している。 おわりに 以上、本稿が明らかにした知見を以下に摘記する。 土田は、明治維新後の山鉾巡行の危機状態を打破 すべく、清々講社を設立した。この時、土田は全山 鉾が揃って巡行することが、多くの観客が集まり、 京都に繁栄をもたらすと確信し、山鉾巡行の継続を 計った。すなわち、観光としての側面が明瞭に意識 されたことが分かった。また、山鉾巡行を継続する には、分担金や補助金を公平に取り扱う新しい制度 が必要と考えていた。そして、何よりも、清々講社 の設立は、氏子町自らの合議によるもので、清々講 社は、旧来にはない、近代的な祭礼組織であった。 一方、清々講社設立に際し、村田の協力は大きく、 両輪となって、土田の構想を実現させた。また、土 田と村田が山鉾町の中心的地域の副区長であったこ とも、有利であったことが明らかになった。 清々講社は、設立後、補助金交付や個々の山鉾町 の財政危機に取り組み、土田の理念である全山鉾が 巡行できるよう活動した。なお、明治初期、京都が 衰退する状況の中で、清々講社が山鉾巡行を継続さ せたことは、評価できるものであり、同時に、京都 の賑わいにも貢献したといえる。 また、清々講社は、祭礼組織の内部的な問題だけ でなく、山鉾巡行の窓口となり、京都市の要請を受 けるなど、観光的な活動にも範囲を広げていたこと が明らかになった。 このように、山鉾町は清々講社の補助のもと運営 を続けてきたが、町財政の慢性的な赤字は、解消す ることが出来ず、新たな補助を京都市に求めた。 観光政策を進める京都市は、それに答えて、山鉾 町に補助金を交付したことにより、山鉾巡行に、直 接関与する運びとなった。そして、山鉾町は京都市 への補助金申請を契機に、山鉾町連合会を結成し、 組織化を図った。 また、山鉾町は、明治の中頃から発達した鉄道網

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により、山鉾巡行を鑑賞することが容易になったた め、他府県からの見物人を増やす対策を講じた。こ れにより、山鉾巡行は、観光対象を京都一円から大 きく広げたといえよう。 すなわち、土田が「神祭衰廢ニ及フ時ハ、諸國ヨ リ競テ見物ノタメ入京ノ人モ無之」と、見物人の存 在を重要視したことが継続の大きな要因であった。 山鉾巡行に関わる運営面での構図は、近代におい てみることができ、現在の山鉾巡行に通じるもので ある。 今後の課題として、清々講社が戦後の祇園祭山鉾 巡行にどのような影響を与えたかを、他の視点から 検証し、明らかにしたい。 謝辞:本稿の執筆に際し、八坂神社総務部長兼文教部長橋 本正明禰宜に、資料提供およびインタビューに関して多大 なる助力をいただきました。また現地調査に関しては、公 益財団法人函谷鉾保存会櫻井忠弘専務理事、公益財団法人 白楽天山保存会福井貫二理事や鉾町の方々のご厚意を賜 りました。ここに記して謝意を表します。 【補注】 (1) 応仁の乱前、既に 6 月 7 日に 31 基、14 日に 27 基の 山鉾のあったことが「祇園社記」に記されている。 (2) 「寄町」とは、特定の山鉾町(単数)を補助する特定 の氏子町(複数)のこと、また「地の口米」は、寄 町が山鉾町に収める米(金銭など)であるが、時代 により変化したようである。 (3) 「祇園会出銭」-町衆たちは 1500 年の祇園会再興に 際し、山鉾に掛かる莫大な費用を捻出するために、 空地に至るまでの町々に「祇園会出銭」を課し、そ の費用でもって山の製作とその維持に当てた。 (4) 「合力銭」-氏子(町)が山鉾町を援助するために出し た銭。その後、安土桃山時代に寄町制度が取り入れ られた時「地の口米」と言う形になったと窺われる。 また、寄町制度廃止後、地の口米も無くなった。(一 部、その後も何年か続いた町もあったようである。) (5) 社領の上知、1870(明治 3)年境内以外の土地の大部 分を接収した。 (6) 駕輿丁とは、貴人の輿を担いで供をする人、神人と は、神社に付属して種々の奉仕をする人々、神輿轅 町は神輿を舁く長柄を保管し神輿渡御に参加する氏 子町(21 ヶ町) (7) ただし、各山鉾町の寄町や地の口高には、大きな差 異があり、廃止による影響度は様々であった。なお、 山鉾町は全部で35 町であるが、休み山もあった。 (8) 土田(1822 年~1899 年)は、鉾の辻(四条室町から 新町)と呼ばれる月鉾町で育ち、手描友禅師折鍵屋7 代目当主を継いでおり、6 代目作兵衛は、1811(文化 8)年に鉾の月型を寄進するなど、熱心な鉾町住民で あった。また、八坂神社の氏子総代、清々講社の私 祭担当掛りの任を務め、区長としては、明治 8 年京 都博覧会の監護副長の任に就いる。 (9) 清々講社は、大社に社長 1 名副社長 2 名にて全社を 総括するとし、小社に世話掛5 名を置くとしている。 (10) 清々講社は、この他、八坂神社に神輿などの祭費も 拠出している。 (11) 明治以前の京都の市街地は、二条通を境に上京と下 京に分けられ、上京は貴族の町、下京は民衆の町で 経済の中心であった。明治 2 年に三条通を境に上京 と下京に分けられた後、下禰禰京は明治5 年に 32 区 に分けられた。また、八坂神社の氏子圏は下京の大 部分を占め、巡行は京都の経済力を反映する祭とし て、存在感を顕していた。 (12) 明治 2 年 27 ヶ町が下大組 9 番組となり、明治 5 年に 第11 区、明治 12 年に第 11 組、明治 25 年に第 11 学 区と名称が変わった。 (13) 1872(明治 5)年は旧暦、1873(明治 6)年から太陽 暦採用。 (14) 先祭が長刀鉾、函谷鉾、鶏鉾、月鉾、放下鉾、岩戸 山、芦刈山、伯牙山、孟宗山、山伏山、保昌山、木 賊山、太子山、占出山、郭巨山、油天神山、霰天神 山、白楽天山、14 日の後祭が北観音山、橋弁慶山、 黒主山、鯉山、浄妙山、役行者山、八幡山、鈴鹿山 の合わせて26 基(鉾 5 曳山 2 山 19)の山鉾が巡 行した。また、山鉾の型式は、鉾、曳山、舁山に分 類される。鉾と曳山については、どちらも、車輪付 きで、鉾は屋根の上に柱をたて、曳山は屋根の上に 松をたてる。舁山は現在、補助車輪が付いているが、 本来は車輪がなく舁くものである。 (15) 南観音山 1873(明治 10)年 9 月の新古講総計借金は 1800 円であった。 (16) この後、戸長廃止などのため、寄付の約束は一部破 綻することになったが、土田らは、この状況を憂慮 していたそうである。しかし、最終的には、228 円 60 銭の寄付があった。

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(17) 鶏鉾町は清々講社へ、鶏鉾及び会議所の土地建物を 担保(借入金2029 円 21 銭 6 厘)として差し出す。 また、この時の願書の宛先は、八坂清々講社総代― 村田五郎兵衛殿・古川吉兵衛殿となっている。 (18) 函谷鉾は 1872(明治 5)年に死亡事故を起こしてい ることが原因で、中止にしたようである。 【引用・参考文献】 1) 『中右記』1128 年(大冶 2 年)6 月 14 日,祇園祭編纂 委員会(1976):『祇園祭』,祇園祭編纂委員会,筑摩 房,p.12 2) 同上,p.14 3) 富井康夫(1971):祇園会の経済基盤(同志社大学編 『京都社会史研究』,法律文化社),p.202 4) 真弓常忠(1997):『八坂神社』,八坂神社,鶴岡一郎, p.96 5) 柴田實(1984):祇園御霊会(柴田實編『御霊信仰』, 雄山閣)民衆宗教史叢書,第五巻,p.245 6) 脇田晴子(1999):『中世京都と祇園祭』,中央公論新社 7) 森谷尅久(1981):祇園祭の歴史(田中常雄編『講座 記録祇園祭』,祇園祭山鉾連合会) 8) 谷直樹,増井正哉(1993):「都市祭礼にみる伝統とそ の変容―京都祇園祭の空間演出」,(都市文化の新たな 展開<特集>)『都市問題研究』,45(1),pp.14-27,1993-01 9) 秋山国三・富井康夫(1976):「祇園祭を支えた人々」 『祇園祭』,祇園祭山鉾連合会 10) 高原美忠(1962):「嘉永以後の八坂神社」,『神道史研 究』,神道史学会,第10 巻,第 1 号 11) 土田作兵衛記(1872):『祇園祭祭礼改定覚書』,函谷 保存文書 12) 京都市市政史編さん委員会(2009):「市政の形成」, 『京都市政史第一巻』,京都市,p.22 13) 前掲 11) 14) 同上 15) 同上 16) 同上 17) 同上 18) 同上 19) 前掲 10) 20) 京都市(1981):『史料京都の歴史第 12 巻下京区』,平 凡社,p.107 21) 京都市(1985):『史料京都の歴史第 9 巻中京区』,平 凡社,p.327 22) 前掲 11) 23) 祇園祭山鉾連合会(1974):『近世祇園祭山鉾巡行史』, 祇園祭山鉾連合会,p.32 24) 前掲 10),pp.302-3 25) 前掲 10),p.303 26) 木村万平(2005):『百足屋町史第一巻』,南観音山の 百足屋町史刊行会,p.72,p.82 27) 福井秀一(1976):『白楽天山』,北村敬三郎,p.32 28) 前掲 23),p.32 29) 同上,p.33 30) 岡本信男:『函谷鉾町百年史』,財団法人函谷鉾保存会, 2001,p.108 31) 前掲 27),p.36 32) 日出新聞:1894(明治 27)年 6 月 9 日 33) 同上,1894(明治 27)年 7 月 13 日 34) 同上,1894(明治 27)年 7 月 13 日 35) 同上,1910(明治 43)年 7 月 6 日 36) 同上,1910(明治 43)年 7 月 7 日 37) 同上,1910(明治 43)年 7 月 12 日 38) 同上,1895(明治 28)年 10 月 1 日 39) 同上,1894(明治 27)年 7 月 18 日 40) 同上,1901(明治 34)年 7 月 18 日 41) 同上,1910(明治 43)年 7 月 18 日 42) 同上,1910(明治 43)年 7 月 12 日 43) 高原美忠(1972)『八坂神社』,学生社,p.157 44) 前掲 30),p.28 45) 京都市永年保存公文書(1941):「祇園祭一件」 46) 京都市産業部観光課(1938):『京都市観光事業要覧』 京都市,pp.9-31

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近代における祇園祭山鉾巡行の継続に関する考察

―清々講社を中心に― 伊藤 節子* 近代の山鉾巡行は、明治維新後、寄町制度が廃止になり山鉾巡行を支える経済的基盤が崩壊した。この危機 に対し、土田作兵衛は、清々講社なる祭礼組織を構築した。その構想は、氏子から公平に賦課しそれを山鉾 町に公平に分配することであった。また、山鉾町には、「例年懈怠なく山鉾を出すへき」と全山鉾が巡行する ことを目指し、見物人の期待に答えようとした土田の功績によるものが大きいことが明らかになった。すな わち、観光や経済に及ぼすことを理解していた。一方、1923 年山鉾町とのパイプ役となり、京都市から補助 を受ける。また、関係者は集客に努め山鉾巡行の観光的価値を高めたといえる。 (受稿 2017 年 1 月 31 日) (受理 2017 年 8 月 31 日)

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