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( 系図 - 藤原氏 カッコ内は摂関在任期間 ) 藤原道長 藤原頼通 略 藤原忠実 藤原忠通 近衛基実 近衛基通 ( )------( )-( )-( )-( ) 藤原忠通 藤原基房 藤原師家 ( )-(

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畠山重忠と島津家 1

8 編 畠山重忠と島津家

目次

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-1 (1) 島津忠久と関係諸家系図・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-2 (2) 島津忠久と関連略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-4 (3) 島津忠久と島津国史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-13 (4) 島津忠久と丹後局伝説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-16 (5) 島津忠久と島津荘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-19 (6) 畠山重忠と島津荘・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-24 (7) まとめ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8-28 (最終p32)

はじめに

左伝:島津忠久画像(尚古 集成館蔵) 右:薩摩・大隅・日向の 国々 島津家は初代島津忠久(鎌倉時代の薩摩・大隅・日向守護)から第二十九代島津忠義(廃藩 置県時の最後の薩摩藩主)まで、鎌倉・室町・戦国・江戸の各時代(約700 年)を続いた日 本有数の武家である。 島津家は、鎌倉幕府勃興から始まって(初代忠久)、蒙古襲来に積極的に戦い(三代久経)、 建武の中興では尊氏・北朝方と共に戦い(五代貞久)、室町・戦国を生き抜き(十五代貴久ま で)、秀吉の九州攻めを凌し のぎ、関ヶ原の戦いでは反徳川に立ちながら存続し(十六代義久・十 七代義弘)、徳川幕府の命により木曽三河治水と言う大工事を負わされ(二十四代重年)、遂 に幕末の武家政権転覆を指導する(二十八代斉彬と久光)という日本における数奇な運命を 担い、廃藩置県により武家政治は終わった(二十九代忠義)。 この島津家の始まりが、「畠山重忠に負うところが大である」と言われる。畠山重忠が九州 島津家とどう係ったかを通じ、吾妻鏡等に記されていない“畠山重忠の業績”の一端を明ら かにしたい。 しかし、「畠山重忠と島津家」の関係には、伝説的・逸話的なものが多い。これらも、重忠 がその当時の人々にどのように受け止められていたかを示す資料と筆者は考えている。

(1)島津忠久と関係諸家系図

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畠山重忠と島津家 2 (系図-藤原氏、カッコ内は摂関在任期間) 藤原道長―藤原頼通―略―藤原忠実―藤原忠通―近衛基実―近衛基通 (1017-1066)---(1105-1120)-(1121-1158)-(1158-1166)-(1184-1185) 藤原忠通―藤原基房―藤原師家 (1166-1179)-(1183-1184) 藤原忠通―九条兼実―九条良経 (1186-1196) 島津荘は、万寿年間(1024~1028 年)に平季基が開発し、関白の藤原頼通に寄進されたと言 われ、藤原摂関家を領主とする荘園であった。 (系図-惟宗氏) 惟宗こ れ む ね永厚-惟宗具範-惟宗貴重(左大史)-惟宗孝近(右大史)-惟宗孝言(文章博士)-惟宗基言 (文章生・日向守)-惟宗広言 ひ ろ こ と (妻・丹後局、筑後守・歌人)-島津忠久(母:丹後局、島津家始祖)。 惟宗基言-惟宗広言ひろこと―惟宗忠康(母:惟宗広言先妻) 惟宗広言―惟宗忠久-島津忠義(忠時、母:畠山重忠娘)-島津久経 島津忠綱(母:畠山重忠娘) 島津忠直(母:畠山重忠娘) 惟宗広言―惟宗忠秀(忠季、母:丹後局) 惟宗氏は平安時代に始まる氏族(秦氏の子孫)で、後裔として島津氏(武家)、宗氏(武家)、 市来氏(武家)、安芸氏(武家)などがある。惟宗氏は、明法官・文章官などの事務方として 朝廷に仕える朝臣であった。元慶7 年(883 年)、一族と共に惟宗これむね姓を賜った惟宗永厚の永厚 流惟宗氏が島津家へつながる惟宗氏と言われる。 惟宗広言(ひろことor ひろのり、1132~1189 年)は、近衛天皇の御代(在位 1141-1155 年)、播磨少掾を辞して近衛家に仕え、近衛家領島津庄の下司となって下向したとされる。文 章生を経て大宰少監・式部丞を歴任し文治2 年(1186 年)筑後守となった。今様の名人とし て後白河法皇に仕えた。梁塵秘抄口伝集第10 に、「広言、康頼こそぐして歌ふものにてあれ。 (中略)広言はこは色あしからず、歌ひ過ちせず、、、いか様にも、上手にてこそ。(中略)今 熊野にて、広言、康頼、わが足柄歌ひしに、、、」とある(出典:佐佐木信綱校訂 梁塵秘抄 岩 波文庫)。 以前は島津忠久について、「惟宗広言の実子説」が定説であったが、これも「言」の通字が 使われていないことなど疑問視されている。比企尼長女の丹後局(丹後内侍)が母であるこ とは通説である。しかし、これも同じく疑問視する学者もいる。 (系図―比企氏) 比企遠宗(妻:比企尼)―丹後局(源頼朝愛妾との伝説あり) 丹後局(惟宗広言妻)―惟宗忠久―島津忠義―島津久経 丹後局(安藤盛長妻)―女子(源範頼妻) 安達景盛(鎌倉御家人) 比企能員(養子、妻:頼家乳母)―若狭局(頼家の妻) 女子(平賀義信妻、頼家乳母)―平賀朝雅(妻:北条時政女) 女子(河越重頼妻、頼家乳母)―女子(源義経妻) 藤原秀郷の末裔(確証なし)比企遠宗(比企掃部ひ き か も ん のじょう允遠宗と お む ね)は、武蔵国比企郡の豪族で、都

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畠山重忠と島津家 3 に出て、宮中行事や施設管理を行う掃部寮に仕える允じょうとなった(朝廷の官位:頭か み―助す け―允じょう― 属 さかん のうち、掃部允は従七位相当の官職)。永暦元年(1160 年)頼朝の伊豆配流に伴い、武蔵 国比企郡の郡司職となって妻と共に都から領地に帰還した。 比企遠宗の妻・比企尼は、京に在住中に源頼朝の乳母で、頼朝が永暦元年(1160 年)に伊 豆蛭ケ小島に流されると、夫と共に比企郡へ下り猶子・比企能員(比企尼甥)らと頼朝を経 済的に支援した。 丹後局は、比企尼を母とし比企遠宗を父とし、京に在住し二条院に仕え丹後内侍と言った。 在京時に惟宗広言との間に忠久を生んだ。関東に下向して安達盛長との間に女子(源範頼妻) 及び安達景盛(鎌倉御家人)を生んだ。 丹後局には源頼朝の愛妾との噂があり、島津忠久 は丹後局と頼朝との間に出来た子との逸話がある(頼朝落胤説)。比企尼が頼朝の乳母であり、 且つ伊豆蛭ケ小島での頼朝の生活を支えたことから、比企尼娘・丹後局と頼朝の間に島津忠 久が産まれたと言う逸話が誕生したと思われる。頼朝の女性遍歴(伊東祐親娘、北条時政娘、 亀の前・大進局など数々)の経緯から、一概に逸話では片づけられない面がある。 比企能員よ し か ずは、母比企尼が頼朝乳母の縁で頼朝の近臣となった。自らの妻が頼家乳母となり、 更に娘若狭局が頼家の妻となった。 頼家が将軍となると北条時政と並ぶ鎌倉幕府の重鎮と なった比企能員は、息女若狭局(将軍頼家妻)を通じて時政追討を頼家に訴えた。建仁 3 年 (1203 年)これを聞きつけた時政は能員を自邸に誘い出し暗殺した。北条軍と一戦となり比 企一族は頼家の長子一幡と共に滅びた(比企氏の乱)。島津忠久は能員への縁座によって、大 隅・薩摩・日向の守護職を解任された。 (系図―本田氏と畠山氏) 平良文―平忠頼―略―平忠常―略―千葉一族 平忠常―略―本田近常―本田貞親―本田親保―本田氏親 本田近常―女子(畠山重忠養女、島津忠久妻) 平良文―平忠頼―略―畠山重能―畠山重光―伊地知時季―伊地知季親 畠山重能―畠山重忠―女子(実父:本田近常、島津忠久妻) 畠山重忠―畠山重季(本田近常養子、本田貞親) 平良文―平忠頼―略―河崎重家―渋谷重国―略―渋谷実重―略―東郷平八郎 本田近常(近恒、親恒)は、畠山重忠の父重能以来の重臣であり、重忠の烏帽子親であっ た。重忠の戦い(小坪の戦い~壇ノ浦の戦い)には、必ずと言ってもよい程、重忠の傍に従っ ていた(出典:源平盛衰記「巴関東下向」、吾妻鏡巻第九1189/7/19 奥州藤原氏征討など)。特 に、一の谷の戦いでは重盛の子・備中守師盛(14 歳)を生け捕りにした(出典:平家物語巻 第九「落足(おちあし)」)などが知られている。 文治2 年(1186 年)惟宗忠久(島津忠久)は島津荘地頭に補任された(西ヶ谷恭弘編守護・ 戦国大名辞典、東京堂出版 2008 年初版発行p276)。武力を持たぬ忠久に代わって、畠山重 忠が本田貞親(又は本田近常)を薩摩に派遣した。本田貞親は木牟礼城を築き領地を平定し た。本田貞親(又は本田近常)は木牟礼城内に竹林城を築きそこに居住した(出典:出水市H P「木牟礼城」)。本田近常は、島津荘の平定に最大の功労者と言える(参考:鹿児島県国分市 「郷土史」)。 本田近常の後裔の館址が、畠山館(深谷市畠山重忠史跡公園)の南にある。

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畠山重忠と島津家 4 姓氏大辞典には、「丹治姓 武蔵国男衾郡本田邑より起こる。本田氏は、本田次郎近常の子 孫にして、彼が宅地を本田屋敷と唱ふ。今も諸役免除せられ、又代々苗字帯刀をも許される」 とあり、「桓武平氏千葉氏族(中略)千葉上総介忠常の五代本多左衛門尉親幹の孫信濃守親恒・ 頼朝に仕へ、後島津豊後守忠 久に属し、数代島津家に仕え る」とある(出典:姓氏家系大 辞典「ホムタ」の項p5446)。 伊地知氏は、畠山重忠の兄・重光を祖とし越前国伊知地から起ったと言われるが、確証は ない(重忠後裔説もある)。承久3 年(1221 年)島津忠久が、安貞元年(1227 年)島津忠義 が、越前国守護となっていることから、重忠の縁者が忠久の武力的郎党として従った可能性 がある(出典:西ヶ谷恭弘「守護・戦国大名事典」p156)。 伊地知氏の数代後の伊地知季随す え み ちは、第5 代島津貞久の子・氏久に従って筑前に赴き戦い、 氏久の身代わりとなって死んだという。薩摩国伊地知氏は、この伊地知季随から興ったと考 えられている。薩摩島津家の家臣団の中に伊地知氏の名が見られることなどから、畠山氏― 伊地知氏―島津氏の何らかの関係が伺われる。 東郷平八郎は、平良文を祖とする秩父一族の渋谷重国の末裔で、 薩摩東郷氏の出であると云う。畠山氏(伊地知氏を含む)や本田氏 以外にも多くの鎌倉御家人の子孫が、薩摩・大隅・日向の三州へ下 向し島津荘の発展に寄与し、島津家重臣として名を残している。そ の中に、渋谷氏もおり、日露戦争における日本海大海戦の英雄・東 郷平八郎はその子孫であると言っている。 神奈川県藤沢市村岡城址公園にある東郷平八郎元帥書の村岡城 址碑文には、「額 元帥東郷平八郎書 村岡城の位置が古来武相交 通の要所にあり、往時村岡五郎良文及びその後胤五代の居城なり。 良文は坂東八平氏の始祖にして天慶二年鎮守府将軍陸奥守に任ぜられ、藤原秀郷・平貞盛と 共に将門を征討し軍功を立てた。その一族渋谷重国あり、その孫実重は薩摩東郷氏の祖なり」 とある。

(2)島津忠久と関連略歴

○万寿年間(1024 年代)島津荘寄進 「島津荘 荘官等申状」に、島津荘は万寿年間に大宰府役人平季基が、弟平義宗と共に島 津駅付近の「無主荒野之地」を開発し、関白藤原頼通(長者在位1017-1066 年)に寄進し、 以後も荘園を拡大させたとある(出典:原口泉等共著「鹿児島県の歴史」(株)山川出版p81)。 ○長元2 年(1029 年)平季基の進物 薩摩・大隅地域と南島間の交易は、11 世紀前期においても行われていた。また、宋と交易 していた可能性も強い。島津荘を立荘した平季基が藤原実資(右大臣 1021-1046 年、賢人

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畠山重忠と島津家 5 右府と言われた)への進物に宋との交易品が含まれている(出典:原口泉等共著「鹿児島県 の歴史」(株)山川出版p80)。 ○近衛天皇御代(1141-1155 年)惟宗広言、近衛家領島津庄の下司。 惟宗広言は播磨少掾を辞して近衛家に仕え、近衛家領島津庄の下司となって下向したとさ れる。広言は文章生を経て大宰少監・式部丞を歴任し文治 2 年(1186 年)筑後守となった。 ○平治2 年(1160 年)平治の乱。 ○永暦元年(1160 年)源頼朝、伊豆・蛭が小島に流される。1160/3/20 平治の乱(1159 年 12 月)で敗れた源義朝と逃避行の途中はぐれた頼朝は、平頼盛の家人・ 弥平兵衛宗清に捕らえられ、平頼盛の母池禅尼の助命嘆願に救われ、都を出て(1160/3/15 出 典:平治物語 頼朝遠流の事)、伊豆・蛭ケ小島(伊豆半島北端、狩野川の中州、伊豆守平義 範)に流された。 ○長寛2 年(1164 年)畠山重忠誕生。 ○安元元年(1175 年)伊東祐親、頼朝の子を殺す。 頼朝は、伊東祐親の娘八重姫との間に子をなした。祐親は平家への手前からその子(千鶴 御前)の殺害をした(出典:曽我物語巻第二「伊東祐親、千鶴御前を殺害する」)。 ○治承元年(1177 年)頃? 北条政子、頼朝と結ばれる。 八重姫と千鶴御前を失ったにもかかわらず、頼朝は、今度は北条氏の娘に目をつけ、艶書 を送り続けた。そして、北条政子と結ばれることとなった。 ○治承3 年(1179 年)平氏の九州支配 平清盛は、親平氏派の藤原隆季を太宰帥とし、その後に被官化した府官層の有力者原田 種直を太宰権少弐とし、大宰府を媒介に九州を支配した。更に治承 4 年、清盛は弟忠度を薩 摩守に補任し、国衙での実際の政務は目代平信の ぶ澄ず みが当った(出典:原口泉等共著「鹿児島県 の歴史」(株)山川出版p96~98)。 目代平信澄は、国府の在庁官人とともに、国衙支配維持を企図としたと考えられる。大隅 国内の島津荘の荘域領主のなかには、国衙支配から比較的独立した存在で、菱刈氏のように 在庁官人建部氏と相論をおこし、平氏方に敵対する動きを示すものもあった。但し、島津荘 は平氏が支配していたこと、内乱後惣地頭が補任されていることなどから、荘域領主の多く は、内乱期に平家方に与同したと推測される(出典:原口泉等共著「鹿児島県の歴史」(株) 山川出版p101-102)。 これらの平家支配の荘園は、頼朝による平家滅亡後に「平家没官領」として御家人たちに 恩賞として与えられることとなる。 ○治承3 年(1179 年)忠久誕生説(?) 島津国史は言う、「島津三郎忠久は、左兵衛尉及び左衛門尉更に豊後守を歴任した。丹後局 を腹とする源頼朝の庶子で、北条政子の怒りをかい逃亡し、治承3 年(1179 年)摂津住吉で 忠久を産んだ。その後、丹後局は惟宗広言に嫁した」と(出典:山本正諠撰「島津国史巻之 一」)。 忠久の誕生を治承3 年(1179 年)とする確証が無い。或る程度信頼性のある玉葉や山槐記 に出る「左兵衛尉忠久」が島津忠久とすると、忠久誕生治承3 年説は明らかな創作である(参 照:本書1179/2/8 及び 1180/5/6 項)。 ○治承3 年(1179 年)忠久、春日祭行列 1179/2/8

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畠山重忠と島津家 6 京都を発進した春日祭使の行列に供奉した侍の一人に「左兵衛尉忠久」がいた(出典:藤 原忠親日記「山槐記」、江平望「島津忠久とその周辺」高城書房p6)。 ○治承4 年(1180 年)忠久、宮中行事 1180/5/6 左兵衛尉忠久、右近府真手結ま て つ が い(近衛府の内裏馬場で舎人と ね りが行う騎射競技)なり、大将見物の ために馬場に向かう。御共人々、出車前駆侍一車左兵衛尉忠久(出典:玉葉巻第三十四 1180/5/6)。 ○養和2 年(1182 年))政子着帯 1182/3/9 頼朝の妻政子が、頼朝の介助で着帯した。丹後局が陪膳した(出典:吾妻鏡巻第二1182/3/9)。 ○寿永元年(1182 年)源頼家誕生。 1182/8/12 政子は、頼朝の嫡子頼家を無事出産した。鳴弦の儀:師岳重経、大庭景義、多々良貞義。引 目の役:上総権介広常。乳付:河越重頼妻(比企尼女)。御護お ま も りがたな刀献上:宇都宮朝綱、畠山重忠、 土肥義清、和田義盛、梶原景時、梶原景季、横山時兼であった(出典:吾妻鏡巻第二1182/8/12)。 ○寿永元年(1182 年)比企能員登用 1182/10/17 比企能員は、頼家誕生の祝賀として頼家の乳母の夫として御贈り物を献上した。 比企能 員は比企尼の甥で猶子であり、比企尼の引立てで頼朝に登用された人物である(出典:吾妻 鏡巻第二1182/10/17)。 吾妻鏡は言う、「能員の叔母・比企尼は頼朝の乳母であり、永暦元年(1160 年)豆州に御遠 行の時、忠節をつくすために武蔵国比企郡を請所として夫掃部允を相具し、治承4 年まで 20 年の間、頼朝をお世話した。比企尼は甥の能員を猶子として奉公させると云った」と(出典: 吾妻鏡巻第二1182/10/17)。 ○寿永元年(1182 年)亀の前追われる。 1182/11/10 頼朝は亀の前と密通し、これを牧の方が政子に漏らした。怒った政子は牧三郎宗親(牧の 方の父)に亀の前のいる伏見広綱宅を破却させた(出典:吾妻鏡巻第二1182/11/10)。頼朝も こりずに亀の前を小坪(鎌倉と三浦の境)の中原光家館に住まわせた。 政子は伏見広綱を 遠江国に配流とした(出典:吾妻鏡巻第二1182/11/16)。 ○寿永3 年(1184 年)宇治川の戦い 1184/1/20 鎌倉軍は、木曾義仲追討軍を二軍に分け、大手の源範頼は勢田から、搦め手は源義経が大 将となり宇治橋から攻め上がった。畠山重忠は源義経軍の先陣となり、丹党以下500 騎で宇 治川を渡り、重忠は長瀬重綱を討ち取り、首を本田近常の鞍に取り付けた(参考:平家物語 巻第九「宇治川先陣」)。 ○寿永3 年(1184 年)一の谷の戦い、1184/2/7 大手大将源範頼は生田の森から、搦手大将源義経は丹波路を経て一の谷から、平家軍に襲 い掛かった。畠山重忠郎従本田近常は、重盛の子・備中守師盛(14 歳)を生け捕りにした(出 典:平家物語巻第九「落足」)。 ○元暦2 年(1185 年)壇ノ浦の戦い。1185/3/24 ○寿永3 年(1184 年)源頼朝、鎮西九国へ下文 1184/3/1 「鎮西九国の住人らは、早く頼朝の御家人として領土を安堵され、各々が引率して平家の 賊徒を追討せよ」との頼朝の下文を遣わした。同じく四国の住人へも同様の下文を遣わした (出典:吾妻鏡巻第三1184/3/1)。 ○元暦2 年(1185 年)義経の領地没収。 1185/6/13

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畠山重忠と島津家 7 義経に与えられていた平家没官領24 ケ所を大江広元・藤原俊兼の奉行の下にすべて見直す こととなった。 義経の勲功は頼朝の代官としてのもので、義経一人の者でなく、それは御 家人に与えられべきものである(出典:吾妻鏡巻第四1185/6/13)。 ○元暦2 年(1185 年)島津忠久、地頭職 1185/6/15 頼朝下文(島津家文書)によると、左兵衛尉惟宗忠久は義経に与えられていた伊勢国伊勢 神宮領波出御厨・近衛家領須可御厨を賜った(出典:島津家文書之一「頼朝花押袖半下文」)。 下伊勢国波出御厨 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗忠久 右件所者 故出羽守平信兼党類 領也 而信兼依発謀反 命追討畢 仍任先例 為令勤仕公役 所補地頭職也 早為彼職 可 致沙汰之条如件 以下 元暦二年六月十五日 下伊勢国須可御庄 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗忠久(以下同分) 両荘は平信兼の領地であったが、伊勢国平家反乱を制圧した源義経の領地となっていたも のであった。その義経は頼朝と相争う仲となり領地は没収された。 上記下文は、「義経の領地没収(1185/6/13)」に伴う下文と思われるが、疑問が残る? (1)あたかも島津忠久の勲功により信兼を追討したかの下文となっている。 (2)この時点で島津忠久が、頼朝鎌倉へ他に功績があった事績が見えない。 (3)この時点では、頼朝に地頭職補任権限はない(但し、頼朝は実質的に支配した地域 への地頭職任命は既に他でも行っているので、この批判は形式的過ぎるか?)。 ○文治元年(1185 年)島津忠久、島津荘下司職 1185/8/17 頼朝は、島津忠久に島津荘下司職を補任(出典:島津家文書「頼朝下文」、西ヶ谷恭弘編「守 護・戦国大名辞典」東京堂出版2008 年初版発行p270)。 ○文治元年(1185 年)河越重頼、所領没収、 1185/11/12 河越重頼は義経の娘婿であり、所領を没収された。 更に、下河辺政義(下川辺行平の弟) は重頼の婿であり、やはり所領を没収された(出典:吾妻鏡巻第五1185/11/12)。 ○文治元年(1185 年)守護・地頭制度、1185/11/29 北条時政が院に参内し、諸国に守護・地頭を起き、兵糧米の徴集の許可を得た(出典:吾妻 鏡巻第五 1185/11/28、11/29)。朝廷の任命する国司はそのままとし、義経の追捕及び平家残 党の撲滅を目的とする地方管理制度として守護・地頭を措いた。 地頭は警察・徴税等を担う 地方豪族があたり、守護は裁判を任務とし地頭から選ばれた。 ○文治元年(1185 年)島津忠久元服(?) 島津国史は言う、「文治元年(1185 年)夏 6 月 15 日、源頼朝は鎌倉鶴岡八幡宮に惟宗三郎 (7 歳)を召し、畠山重忠を烏帽子親とし元服させ、名を忠久とした。この時はじめて左兵衛 少尉に任じられた」と(出典:山本正諠撰「島津国史巻之一」)。 島津国史は、島津忠久を頼朝庶子としその出自を高め、更に「武士の鑑」である畠山重忠 を烏帽子親に据え、文武両道に優れた人物に描こうとしている。 また、生誕を治承3 年(1179 年)とすると、7 歳の元服を文治元年(1185 年)とつじつま を合わせている。 ○文治元年(1185 年)頼朝、九条兼実を推挙。1185/12/27 頼朝は、義経の加担する院を牽制するため九条兼実を内覧に推挙した(出典:吾妻鏡巻第 五 1185/12/6)。兼実はこれを「夢の如し、幻の如し、珍事なり」と言っている(出典:玉葉 巻第四十三1185/12/27)。

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畠山重忠と島津家 8 島津忠久と藤原摂関家は、島津荘を通じて注意せねばならない関係にある。 ○文治2 年(1186 年)島津忠久、島津荘地頭。 1186/4/3 島津忠久、島津荘の地頭職に補任される(出典:西ヶ谷恭弘編「守護・戦国大名辞典」東京 堂出版2008 年初版発行p276)。 ○文治2 年(1186 年)木牟礼城築城 1186/8/2 初め本田貞親が薩摩に至って木牟礼城を築き島津氏の根拠地とした。また、山門院に島津 氏菩提寺となる鎮国山感応寺を建立した。島津忠久は秋8 月 2 日木牟礼城に入った。重忠は、 本田貞親を薩摩国に遣わし、鎌田政佐、酒匂景貞、猿渡信実等十数人が同道した(出典:山本 正諠撰「島津国史巻之一」)。 ○文治2 年(1186 年) 大進局出産 1186/2/26 常陸介藤原時長の娘大進局が殿中に伺候する間、頼朝は局と密通し男子(貞暁)が長門江 七景遠の宅にて生まれた。御台所の怒りが甚だしかった(出典:吾妻鏡巻第六1186/2/26)。 政子は、長門江太景国が大進局の子を扶持していると知り怒りを露わにした。景国は若君 を抱き深沢の辺に隠居した(出典:吾妻鏡巻第六118610/23)。 ○文治2 年(1186 年)源頼朝、兼実を摂政に推挙、1186/2/27 頼朝は、藤原基通が摂政に留まるのをみて、九条兼実を摂政に推挙した(出典:吾妻鏡巻 第六1186/2/27)。 ○文治2 年(1186 年) 丹後内侍病脳 1186/6/10 丹後内侍(丹後局、惟宗広言の後、安達盛長に嫁いでいる)が安達盛長(頼朝挙兵以来の重 臣)の甘縄邸宅にて病に病んでいた。頼朝は結城朝光・東胤頼の二人だけをお供に、見舞い のためひそかにかの場所に渡御した(出典:吾妻鏡巻第六1186/6/10)。 丹後内侍、違例平癒す。日頃病脳の間、頼朝御立願に及ぶところ、今日いささか御安堵と 云々(出典:吾妻鏡巻第六1186/6/14)。 ○文治2 年(1186 年) 頼朝・政子、比企尼を訪ねる。 1186/6/16 頼朝・政子、比企尼の家に渡御した。ここは、木陰が涼しく納涼に適し、桑園などがあり趣 があるため、一日中遊園を楽しんだ(出典:吾妻鏡巻第六1186/6/16)。 ○文治3 年(1187 年)頼朝・政子、比企尼を訪ねる。 1187/9/9 頼朝と政子は、白菊が開花を見るため三浦義澄・足立遠元ら宿老を伴い比企尼の家を訪れ た(出典:吾妻鏡巻第六1187/9/9)。 ○文治3 年(1187 年)政子、妹を見舞う。 1187/12/16 足利義兼の北の方(政子妹)が病脳と聴き、政子が見舞った(出典:吾妻鏡巻第六1187/12/16)。 ○文治4 年(1188 年)畠山重忠、日向国高千穂神社参詣 畠山重忠は、頼朝代理として日向国高千穂神社を参詣した(出典:宮之原研「畠山重忠の 血脈」サンケイ新聞データシステム1988 年発行p118)。 ○文治4 年(1188 年)頼家、着甲の儀、1188/7/10 頼朝も臨席し、若公頼家(7 歳)が始めて御甲を着た。 北条義時が進み出て御簾を上げ、 三浦義澄、畠山重忠、和田義盛らが助けて馬に乗せた(出典:吾妻鏡巻第八1188/7/10)。 吾妻鏡は言う、「若君 7 歳、始めて御甲よろい を著せいしたまふ。義時殿参進し御簾を上げたま ふ。次に若君出御。大内武蔵守義信(乳母の夫)・比企四郎能員(乳母の兄)これを扶持した てまつる。八田右衛門尉知家御馬を献ず。畠山次郎重忠ら扶け乗せたてまつる」と。

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畠山重忠と島津家 9 ○文治5 年(1189 年)奥州征伐、1189/7/1 頼朝が奥州藤原泰衡征討に発向した。先陣は畠山重忠で、疋夫80 人が馬前にあり、重忠が それに続き、その後ろに長野重清・大串重親・本田近常・榛沢成清・柏原太郎が続いた(出 典:吾妻鏡巻第九1189/7/19)。 島津国史は云う、「文治5 年明 7 月 19 日得仏公(11 歳、島津忠久)頼朝の命により奥州藤 原氏征伐に参陣した。この時重忠の助言で先鋒総督となった」と(出典:山本正諠撰「島津国 史巻之一」)。吾妻鏡には島津忠久の参陣については記載がない。 ○文治6 年(1190 年)丹後局、若狭国江取。1900/4/19 「太神宮の役夫工米、地頭未済の事」の中に若狭国江取について、丹後局に下知した(吾妻 鏡巻第十1900/4/19)。 地頭の多くが、伊勢神宮の造成のために献納を命じられた。しかし未納の地頭があり神宮 から訴えがあり、幕府がそれら地頭に督促をした。その中に、若狭国江取の地頭職にあった 丹後局にも下知があった。 ○建久元年(1190 年)工藤祐経、日向地頭。 頼朝により工藤祐経が日向地頭職を与えられ、島津氏と覇権争いが始まった(出典:西ヶ 谷恭弘編「守護・戦国大名辞典」東京堂出版2008 年初版発行p270)。 工藤祐経は、曾我兄弟の仇討ち(1193/5/28)で没するが、その子伊東祐時が跡を継ぐ。 ○建久元年(1190 年)頼朝上洛随兵。 1190/11/7 頼朝が上洛した時の先陣随兵47 番に「右衛門兵衛尉」あり(出典:吾妻鏡巻第十 1190/11/7、 吉川弘文館現代語訳「吾妻鏡」第5 巻p66 は、これを「島津忠久」とする)。 「右衛門兵衛尉」が、「右衛門尉」か「右兵衛尉」か、意味が不明である。島津忠久は、治 承3 年(1179 年)「左兵衛尉忠久」、建久 9 年(1198 年)「左衛門尉」とあり、左兵衛尉=> 右衛門尉or 右兵衛尉=>左衛門尉と変わったのか? 単なる呼称の誤りであろう。 ○建久2 年(1191 年)幕府の体制整備 1191/1/15 前年上洛した頼朝は、右大将に任ぜられ、直後辞退し鎌倉へ帰った。翌年正月を祝って政 所吉書始めが行われ、鎌倉の新体制を造った。 これに伴い、従来花押の文書又は奉書であ ったものを召し返し、新たに右大将家の下文を発給することとなった(出典:吾妻鏡巻第十 一1191/1/15)。 ○建久2 年(1191 年)頼朝、寵女に伊勢を充てる。1191/1/23 頼朝は、政子を畏れ、伊達常陸入道念西女むすめ(大進局、貞暁の母)を京に住まわす。よって 近国の便宜により伊勢国を彼女に充てる(出典:吾妻鏡巻第十一 1191/1/23、参照:本書 1186/2/26 大進局出産)。 ○建久6 年(1195 年)源頼朝、再上洛 1195/2/14―7/8 源頼朝は、畠山重忠が先陣として東大寺再建の供養のため政子や頼家・大姫を伴い上洛し た(出典:吾妻鏡巻十五 1195/2/14)。一行は、近江国鏡駅を経て京都鞍馬山へと進み六波羅 邸に入った(出典:吾妻鏡巻十五1195/3/4)。頼朝は、政子と大姫を丹後局(比企尼娘とは別 人)に引き合わせ、数々の引き出物を局に提供した(出典:吾妻鏡巻十五 1195/3/29 及び 1195/4/17)。これらは、頼朝の娘・大姫を入内させるための工作のためだった。しかし、頼朝 の目論見は建久8 年(1197 年)大姫の死去でとん挫した。 頼朝の大姫入内工作に、島津忠久が近衛家を通じ大いに奔走・貢献したことが予想されて

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畠山重忠と島津家 10 いる。源頼朝・近衛家を巡る関係が、島津忠久の地頭職・守護職補任に影響したと考えられ る。 ○建久6 年(1195 年)頼朝、甘縄宅宿す。 1195/12/22 頼朝、安達盛長(妻:丹後局)の甘縄の家に入御し、その夜止宿す(出典:吾妻鏡巻十六 1195/12/22)。 ○建久7 年(1196 年)島津忠季、若狭国守護 比企朝宗(比企能員の叔父?)が建久2 年に若狭国守護となり、建久 7 年に島津忠季(島 津忠久弟)が補任された(出典:守護・戦国大名事典 西ヶ谷恭弘編)。 ここにも、比企氏と島津氏(惟宗氏)の深い関係が伺われる。 ○建久7 年(1196 年)建久 7 年の政変 1196/11/25 源通親の養女在子が皇子為仁親王(土御門天皇)を出産し(1195/11/1)、やがて源通親が勢 力を伸ばす。ここで九条兼実が摂政関白を罷免され、近衛基通が摂政関白に返り咲いた。 ○建久8 年(1197 年)島津忠久、守護職。 1197/12/3 島津忠久は、大隅・薩摩・日向の守護職に補任(当初は、日向が含まれていなかった?)。 島津荘地頭職を兼任した(出典:島津家文書「前右大将家源頼朝政所下文」、西ヶ谷恭弘「守 護・戦国大名事典」東京堂出版p274、江平望「改訂 島津忠久とその周辺」(株)高城書房p 33)。 ○建久8 年(1197 年)島津忠久、大番役。 1197/12/24 島津忠久は、幕府の命令に従って薩摩国御家人に翌年春の内裏大番役のための上洛を命じ た(出典:鎌倉遺文954-6、江平望「改訂 島津忠久とその周辺」(株)高城書房p34)。 ○建久9 年(1198 年)島津忠久、除目。 1198/1/30 島津忠久、左衛門尉に任ぜられた(出典:江平望「改訂 島津忠久とその周辺」(株)高城書 房p41)。 ○建久10 年(1199 年)源頼朝死。1199/1/13 源頼朝は、死去した。53 歳、頼家 18 歳。 ○建久10 年(1199 年)頼家乱行、1199/7/20 頼家は、安達景盛(安達盛長子)が京より呼び寄せた妾女に数度の艶書を送るが、色よい 返事が返って来ない。ちょうど三河国に横暴があり糾弾のため、いやがる安達景盛を派遣し た。その隙に、中野能成を遣わし景盛の妾女を小笠原長経の宅に無理やり連れてきた(出典: 吾妻鏡巻第十六1199/7/20)。 ○建久10 年(1199 年)頼家、特待令、1199/4/20 梶原景時、中原仲業らを奉行として、「小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成、細野 四郎の5人者が、鎌倉において例え狼藉を働いても、あえて敵対してはならない」との、頼 家の特待令を出した(出典:吾妻鏡巻第十六1199/4/20)。 ○建久10 年(1199 年)頼家、比企能員宅にて蹴鞠、1199/11/18 頼家は、比企能員の宅に渡御し蹴鞠に興じた(出典:吾妻鏡巻第十六1199/11/18)。これは、 しばしば模様され、頼家は政子から叱責される(出典:吾妻鏡巻第十七1202/1/29)。 ○正治2 年(1200 年)梶原景時滅亡 1200/1/20 梶原景時は鎮西を管領すべきにより至急上洛せよとの宣旨を賜ったと言う(出典:吾妻鏡 巻第十六1200/2/2)。景時が謀反を企て上洛をするとの風聞があり、三浦義村ら軍兵を駿河狐

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畠山重忠と島津家 11 ケ崎(清水市)にて滅ぼした(出典:吾妻鏡巻第十六1200/1/20&1/21&1/23)。 ○正治2 年(1200 年)頼家、鶴岡社参詣(島津忠久、吾妻鏡初見)。1200/2/26 頼家が、鶴岡社へ参詣した(出典:吾妻鏡巻第十六1200/2/26)。その時、随兵として島津 左衛門尉忠久、比企宗員の名が見える ○建仁2 年(1202 年)島津忠時誕生 1202 年 島津国史は言う、「建仁2 年(1202 年)島津忠久の子忠時誕生、母は畠山重忠二女(六番 目の子)。また、母は本田親恒女とも、本田親恒女が畠山重忠の養女となり嫁すとも、二つの 異説有り」と(出典:山本正諠撰「島津国史巻之一」)。 ○建仁3 年(1203 年)比企の乱、比企能員滅亡 1203/9/2 比企能員は、息女若狭局(頼家の妾)をもって北条時政追討を頼家に訴えた。。時政は能員 を自邸に誘い出し暗殺した。北条義時・畠山重忠らの軍平が小御所(頼家の子一幡の居所、 鎌倉比企ケ谷の館)に向い、比企一族は頼家の長子一幡と共に小御所で必死の抵抗をしたが、 館に火を放って、もはやこれまでと自害した(出典:吾妻鏡巻第十七1203/9/2)。 ○建仁3 年(1203 年)島津忠久の守護職解任 1203/9/4 島津忠久は、比企能員の乱への縁座によって、大隅・薩摩・日向の守護職を解任された(出 典:吾妻鏡巻第十七1203/9/4)。薩摩の地頭職は留任だった。 島津忠久が、比企の乱に縁座したとの疑いを受けた。これは、島津忠久の母が丹後局で、 島津忠久は比企能員の甥であることの有力な証ともなり得る? 又は、他に何らかの繋がり があるか? ○建仁3 年(1203 年)島津忠久願文 1203/10/19 島津忠久は、薩摩国衆集院台明寺(朝廷へ笛竹を献納する寺)における寺と笛竹使の間の 争いを解決するため上洛し、比企の乱当時は西国へ下向していた(出典:島津家文書「惟宗 忠久願文 1203/10/19」、「蔵人所下文 1202/閏 10」等、江平望「捨遺 島津忠久とその周辺」 (株)高城書房p13)。 ○元久2 年(1205 年)畠山重忠、鶴ヶ峰に死す 1205/6/22 畠山重忠が、鶴ヶ峰にて北条時政の謀略により殺された。重忠に従う輩 134 騎には畠山重 秀・本田近常・榛沢成清らがいや(出典:吾妻鏡巻第十八1205/6/22)。 しかし、島津忠久には何のお咎めを無かった。妻が畠山重忠女となると、相当のお咎めが あって当然であるが? ○元久2 年(1205 年)島津忠久、薩摩国守護に還任。 島津忠久は、比企の乱に連座したとして薩摩・大隅・日向の守護を解任されたが、薩摩国 のみ回復された(出典:西ヶ谷恭弘「守護・戦国大名事典」東京堂出版p277)。 ○承元4 年(1210 年)丹後局、群盗に襲われる。1210/6/12 御台所(実朝室)の御方の女房丹後局、京都より参着す。駿河国宇都山において群盗に襲 われ、坊門信清殿より整え下された財宝など奪われる(出典:吾妻鏡巻第十九1210/6/12)。 この丹後局は、後白河法皇愛妾丹後局とも、比企尼娘の丹後局とも異なる女性である。 ○建歴3 年(1213 年)島津忠久、学問所当番 1213/2/2 近習たちのうち芸能に堪能な輩を選び学問所を設け、それぞれ 1~3 番の当番の日を定め た。島津忠久は、北条義時、伊賀仲能、安達景盛、大江能範らと1 番の当番であった(出典: 吾妻鏡巻第二十一1213/2/2)。

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畠山重忠と島津家 12 ○健保元年(1213 年)和田義盛滅亡。1213/5/2 泉親衡の討幕の陰謀を加担したとして和田義盛の縁者が捕えられた。 和田義盛は執権北 条義時に必死の釈明し、罪一等は減じられたが、一族の屋敷が没収された。 これを不満と する和田一族150 騎は、決起したが、三浦義村が離反し、多くの御家人が幕府軍につき、義 盛は討たれた(出典:吾妻鏡巻第二十一1213/5/2~3)。 ○建歴3 年(1213 年)島津忠久、和田の乱の勲功 1213/5/7 和田義盛の乱への勲功の賞が多くの御家人に与えられた。島津忠久は、甲斐国(波加利) 新庄を与えられた(出典:吾妻鏡巻第二十一1213/5/7)。 ○建歴3 年(1213 年)薩摩地頭職に還補 1213/7/10 島津忠久は、薩摩地頭職に還補された。 ○建歴3 年(1213 年)御行始め 1213/8/22 将軍実朝が、大江広元の宅へ入御した。島津忠久は、随兵の一人であった(出典:吾妻鏡巻 第二十一1213/8/22)。 ○建保4 年(1216 年)相模川法要 1216/7/29 将軍実朝が、相模川の法要に出席した。島津忠久は、随兵の一人であった(出典:吾妻鏡巻 第二十二1216/7/29)。 ○建保6 年(1218 年)実朝、鶴岡拝賀。 1218/6/27 将軍実朝が、大将に任じた御礼に鶴岡宮に拝賀した。島津忠久は、随兵の一人であった(出 典:吾妻鏡巻第二十二1218/6/27)。 ○承久元年(1219 年)将軍頼経下向。 1219/7/19 将軍頼経、鎌倉に下向する。島津忠久は、随兵の一人であった(出典:吾妻鏡巻第二十四 1219/7/19)。 ○承久3 年(1221 年) 承久の変 1221/6/15 幕府軍は、東海(北条泰時・北条時房)・東山(武田信光)・北陸(北条朝時)の三道から京 都に進軍した。泰時軍は宇治から、時房軍は勢田から激戦の末、それぞれ官軍を破り、幕府 軍は洛外から京へ乱入した(出典:吾妻鏡巻第二十五1221/6/15)。 ○承久3 年(1221 年)島津忠久、越前国守護。 承久3 年(1221 年)の乱の勲功賞として、島津忠久は越前国守護職を得た。 ○承久4 年(1222 年)頼経病脳 1222/3/8 将軍頼経が病脳。よって御所の南庭にて月曜祭が行われ、島津忠久が沙汰した(出典:吾 妻鏡巻第二十六1221/3/8)。 ○貞応3 年(1224 年)天変の祈り 1224/10/16 天変の御祈が行われ、島津忠久が奉行した(出典:吾妻鏡巻第二十六1224/10/16)。 ○嘉禄元年(1225 年)島津忠久、検非違使 1225/1/24 島津忠尚(忠久)が検非違使に任ぜられる(出典:明月記、江平望「改訂 島津忠久とその 周辺」(株)高城書房p46)。 ○嘉禄元年(1225 年)島津忠久、新御所移転の随兵。 1225/12/20 島津大夫判官(忠久)らが、頼経の新御所移転の随兵にあり(出典:吾妻鏡巻第二十九 1125/12/20)。 大夫判官は、検非違使尉(六位相当、督―佐―尉―志、尉=判官)で、五位に任ぜられたも

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畠山重忠と島津家 13 のを呼ぶ。 ○嘉禄2 年(1226 年)1 月、島津忠久、豊後守に補任。 ○嘉禄3 年(1227 年)天変の祈り 1227/4/16 近日世上頓死の類はなはだし。御所の南面において鬼気祭行われ、島津豊後守忠久が沙汰 す(出典:吾妻鏡1227/4/16)。 ○嘉禄3 年(1227 年)忠久没す。 1227/6/18 島津豊後守従五位下惟宗朝臣忠久、日頃脚気の上、赤痢に病み卒す(出典:吾妻鏡1227/6/18)。 ○嘉禎3 年(1237 年)島津忠綱、頼経供奉人 1237/4/22 将軍頼経が北条泰時邸に入御、供奉人の中に島津四郎豊後守忠綱がいる(出典:吾妻鏡 1237/4/22)。 ○寛元4 年(1246)島津忠時、頼経供奉人 1246/7/11 将軍頼嗣(8 歳)の父頼経が帰洛、酒匂駅に着く。供奉人の中に島津前大隅守忠時あり(出 典:吾妻鏡巻第三十七1227/6/18)。 ○寛元5 年(1246)島津忠時、年始の儀 1247/1/1 将軍頼嗣(9 歳)の年始の儀で前大隅守島津忠時が御行謄を務める(出典:吾妻鏡 1247/1/1)。 ○宝治2 年(1248 年)安達景盛卒す。1248/5/18 安達景盛(母:丹後内侍)没する。年齢記載なし(出典:吾妻鏡 1248/5/18)。 ○宝治2 年(1248 年)島津忠綱、献上。 1248/10/25 島津豊後左衛門尉忠綱、高麗山の山柄を将軍家に献上(出典:吾妻鏡巻第三十九1248/10/25)。

(3)島津忠久と島津国史

江戸後期・享和2 年(1802 年)頃成立と言われる島津国史は、第 25 代藩主島津重豪しげひでの命 により薩摩藩の造士館教授山本正誼まさよしが編纂したものである。島津氏を中心にした薩摩・大隅・ 日向3ヵ国の編年史32 巻よりなっている。山本正誼は、藩記録所で収集・編纂した史料集や 島津家に残る資料をもとに、これを編纂した。以下は、島津国史による島津忠久の概要です (出典:山本正誼選「新島津国史」巻一)。 得仏公は名を島津忠久と言い、源頼朝の庶子であり、幼名を三郎と呼ばれた。丹後局は源 頼朝と幸いにも結ばれ懐妊した。これを知った頼朝夫人・北条政子は怒り、使者を遣わし殺 そうとした。頼朝は丹後局を日向国へ逃がすように、丹後局の兄・比企ひ き能員よ し か ずに命じた。 局は、摂津国住吉社に至りにわかに産気づき男子を出産した。これが得仏公である。治承 三年(1179 年)のことであった。ちょうどその時、摂政藤原基通が住吉社に参詣に来ており、 得仏公と丹後局を伴って帰宅した。その後、得仏公は幼名を三郎と呼ばれ、局は惟宗広言に 嫁した。得仏公も母に従って広言の下で育った。 文治元年(1185 年)六月十五日、得仏公 7 歳の時、頼朝は公を鎌倉鶴岡八幡宮に召し、お 会いになり、畠山重忠に命じて元服させ名を忠久とし、左兵衛少尉に任じ、伊勢国須可御荘・ 浪出御厨の地頭職を与えた。 同年秋八月十四日元暦から文治へ改元した。同十七日下文を以って、忠久を島津御荘下司

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畠山重忠と島津家 14 職とした。 文治2 年(1186 年)四月三日、忠久は島津荘の地頭職に任ぜられた。この時、島津姓及十 文字家紋を賜った。本田貞親が薩摩に至って木牟礼城を築き島津氏の根拠地とした。従者は 鎌田政佐、酒匂景貞、猿渡信実等数十人であった。この年の秋八月二日、島津忠久公は木牟 礼城に入った。山門院内に島津氏の菩提寺となる鎮国山感寺を建立した。更に、稲荷大明神 社を創建に創建した。稲荷大明神社を創建の由来は、摂津住吉にて得仏公誕生の時、一匹の 狐が篝火を持って公を御守りしたことによる。 文治3 年(1187 年)九月九日、得仏公は、薩隅日三州守護職に任ぜられた。安達藤内遠景 が総追捕使と称して、島津荘の支配を妨害した。 文治5 年(1189 年)二月九日、頼朝が奥州藤原氏征伐の徴兵令を諸国へ出した。得仏公も 鎌倉へ兵を引き連れて参陣した。秋七月十九日。源頼朝は、畠山重忠に先鋒を命じた。この 時、重忠の助言で、得仏公(十一歳)が先鋒総督となって出陣した。この功績により、公は若 狭国守護職に任じ、其の後、公の弟兵衛尉忠季を守護代とした。 得仏公には三人の男子があり、長男道仏公(忠時、忠義)、次男忠道(忠綱)、次男忠直であ る。道仏公は、建仁二年(1202 年)に畠山次郎重忠第二女(二十六歳)を母として生れた(参 考:島津歴代略記p28 は、忠時の母・畠山重忠娘・貞獄夫人と記している)。 鎌倉の「頼朝 の墓」の脇には 「元祖島津豊後 守忠久石塔道」 の石塔が建ち、 「北条義時の 墓・大江広元の 墓」の脇には 「島津忠久の 墓」がある。 「島津忠久の墓」は、「北条義時の墓・大江広元の墓」と並んではいるが、別個の登り口を 持ち、明らかに後から設置されたものと思われる。これら石塔には「承 薩州侯之命東都龍 湖 親和八十歳謹書」と言う碑文があり、島津国史の編纂を命じた第25 代島津藩主・薩州 侯島津重豪し げ ひ で(生没1745-1833)がここを訪れ遺構を整備したと考えられる。 新編相模風土記稿巻之九十二鎌倉郡之二十四の「島津忠久墓」の項では、「忠久は頼朝の庶 子なり。安貞元年(1227 年)六月十八日卒す。六十歳」とある。これによれば、誕生は仁安 三年(1168 年)となる。 参考として島津国史巻之一得仏公の原文を掲載します。 得仏公名忠久、姓島津氏、源頼朝長庶子也。幼字三郎、歴左兵衛尉左衛門尉大夫判官、任豊 後守、叙位五位下、法名得仏道阿弥陀仏。初丹後局得幸於源頼朝、有妊。夫人北条氏聞之怒。 使人潜殺之。頼朝及宣言流局日向州。陰使其兄比企判官能員奉之以逃。而属焉日。所生女也。 則惟汝所処。男也。則以報於我(拠山田聖栄自記)。行至摂津住吉社下。生男。実為得仏公。 是歳治承三年也。會藤原基通謁社。因取公及局而帰。使告頼朝名公日三郎。出局嫁八字民部

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畠山重忠と島津家 15 大輔惟宗広言。故公従母畜於惟宗氏(拠島津系図、拠島津譜略)。 文治元年乙巳、夏六月十五日源頼朝召、公於鎌倉鶴岡而見之於是、公生七年矣及令畠山重 忠加之元服名日忠久、初任左兵衛少尉(拠島津譜略)、是日下文以、公那須伊勢国須可御荘浪 出御厨地頭職(拠得仏公旧譜)、秋八月十四日改元、十七日下文以、公為島津御荘下司職(拠 得仏公旧譜)、諸国始置守護地頭、是歳。 後鳥羽天皇即位之二年也。二年丙午春正月八日下文以公為信濃国塩田荘地頭職(拠得仏公 旧譜)。其後又以公為島津御荘総地頭職。因賜姓島津氏及十文字家紋(拠島津系図、拠島津譜 略)。島津御荘者薩摩大隅日向三州之総称也。薩摩十三郡。日出水郡。(中略)而武士国人往々 有拒命者四月三日。頼朝下令島津御荘日。前日以。 惟宗某為地頭撫荘民徴田祖今聞武士国人多不従命者甚非也。而今而後。宜遵地頭要束某者。 公名也。又、使本田左衛門尉貞親之薩摩観変。貞親還報。於是遣公之国。従者本田貞親、鎌田 修理亮政佐、酒匂左衛門尉景貞、猿渡藤四郎実信等数十人。 秋八月二日。公至薩摩。初本田貞親之至薩摩也。択於山門院木牟礼城而取焉。坡草莱剪? 棘。以為税駕之所。又建鎮国山感応寺於山門院。至是公入木牟礼城。三日。頼朝下令島津御荘 官日千葉介常胤為島津御荘寄郡郡司職。是宜慎守其職従国司命。而縦其代官宇紀太清遠為暴。 下民苦之。且常胤以清遠為端人。而学用之。今乃如此。宜加禁止。若不用命處以重刑。 是歳創建稲荷大明神社於山門院(拠島津譜略)。公之生於住吉也、暮夜暗甚忽有一狐持火照 之、其形若擁護者然蓋稲荷大明神之顕霊云(拠山田聖栄自記)、故公之就国也即建稲荷大明神 社以為島津氏主。而住吉社側本有稲荷小祠。号為住吉末社自此時人呼為島津稲荷云。 三年丁末。夏五月三日。下文以大秦光領薩摩牛屎院郡司弁済使如故。秋九月九日下文以公 為薩隅日三州守護職。先是藤内遠景使者矯称総追捕使遠景之命。侵暴島津荘。至是頼朝降下 文以止之又公為押領使。 五年巳酉春。源頼朝徴兵諸国二月九日遣。公書令引兵会鎌倉(拠得仏公旧譜)。秋七月十九 日。源頼朝自将東撃陸奥押領使藤原泰衡以畠山重忠為先鋒(拠東鏡)。軍士咸請萬寿君為先鋒 総督。萬寿君者頼家也。其母政子不背会公率兵至自薩摩。重忠乃言於政子日。蓋言此人於幕 下乎。政子日。吾亦聞之久矣。今且欲見其人可乎。重忠日。可也。因与政子約日。著左折之烏 帽子衣直垂之背縫 綻ほころび者是也。於是令公与諸将子弟俱坐干廷上。政子隔簾見之。於是乃与重忠 俱請於頼朝。不許固請乃許之。因使重忠奉公為先鋒総督。公時十一歳(拠島津譜略)。八月十 二日頼朝至多賀国府(拠東鏡)。十五日賜畠山重忠手書日。明日当宿陣原為我調護三郎。且戒 軍士母得為寇掠(拠島津譜略)。三郎者公小字也。二十日頼朝発玉造如平泉戌刻発書偏諭三浦 十郎、和田太郎、小山小四郎、畠山次郎、和田三郎、及武蔵党云。卿等進至津久毛橋。敵必於 平泉完聚以待之。卿等慎勿以寡兵邀之。(中略)公為若狭国守護職其後公以其外弟兵衛尉忠季 為守護代。(中略) 順徳天皇伝位於(中略)道仏公、公之長子忠康、忠季者。広言之二子也。公之初生也。畜於 藤原基通之家。巳而於惟宗広言之家。因冐惟宗氏至。(中略) 公生三男、長道仏公、次忠道、次忠直。道仏公生於建仁二年壬戌。母畠山次郎重忠第二女。 (中略)拠島津系図。原文作重忠第六女。道仏公旧譜。引伊地知縫殿助系図云。重忠男女七 人。第一重保、第二重清、第三重時、第四重俊、第五女子、第六女子、第七女子。第六女子即 公夫人。今拠男女異長之礼、改書第二女、男女異長、見曲礼。又按公娶於畠山重忠之女、島津 系図道仏公旧譜皆拠其説。世々相伝不復疑矣。而本田信次郎系図云、本田親恒有女嫁干公。

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畠山重忠と島津家 16 文書又云、畠山重忠以親恒女為己子而嫁、干公。此二者異説云。是歳年二十六。

(4)島津忠久と丹後局伝説

丹後局伝説は、島津忠久の出生から島津荘の成立、更には日向・薩摩・大隅三国での島津 家の発展に大きくかかわっている。そこで、あまりにも有名な丹後局伝説の視点から、島津 忠久を眺めてみたい。 丹後局伝説は、その地方や時期によって、多岐にわたる伝説となって残る。 島津忠久の父の違い: 惟宗広言説―これは伝説と言うより通説である。 頼朝落胤説―丹後局伝説の主流を占めるもの。 以仁王落胤説―幕末期に薩摩藩の尊王攘夷を支援するもの。 高倉天皇落胤説―幕末期に薩摩藩の尊王攘夷を支援するもの。 その他、藤原頼通落胤説、畠山重忠説などもあるようである。 頼朝落胤説にもいくつかの種類がある。 丹後局を助けた人物の違い: 丹後局伝説(頼朝落胤伝説―畠山重忠編) 丹後局伝説(頼朝落胤伝説―比企能員編) 島津忠久元服の時期の違い: 丹後局伝説(頼朝落胤伝説―文治元年(1185 年編) 丹後局伝説(頼朝落胤伝説―文治5 年(1189 年編) 以下、代表的な丹後局伝説を掲げてみる。 (イ)丹後局伝説(その1―頼朝落胤伝説、畠山重忠編) 丹後局は比企尼の娘で、京都に在住のとき惟宗こ れ む ね広言ひ ろ こ との妻であった。惟宗広言の死後、鎌倉 に招かれ北条政子の女官として仕えていた。頼朝は丹後局を寵愛し、丹後局は頼朝の子を身 ごもった。 これを知った頼朝の妻・政子は激怒し、丹後局を殺そうとした。頼朝は政子の怒りを察知 し、畠山重忠に丹後局を逃げさせるように命じた。 重忠は、その家人本田近常に命じて、局を連れて難波 に逃げるように取り計らった。近常は、局を伴って逃げ る途中、相模国小町神社に辿り着いた。丹後局は政子の 恨みのためか、精神的苦しみからか、今までの美しい黒 髪が一夜たって老婆のような白髪に変わってしまった。 非常に悲しんだ局は、小町神社の祭神・小町姫に数日間 祈願を続けたところ、不思議なことに、白髪がまた元の ように黒髪に戻った。

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畠山重忠と島津家 17 更に局は逃避行を続け、摂津国住吉神社に辿り着い た。すると、にわかに産気づき、無事、男の子を産ん だ。この子は、たまたま住吉神社を訪れた近衛基通に 助けられ、三郎と名づけられた。 その後、三郎は頼朝により鎌倉に迎えられ、畠山重 忠を烏帽子親として元服し、薩摩国を与えられた。 丹後局の逃避行を助けたご恩を忘れずに、重忠の 「忠」をもらって島津三郎忠久と名乗り、薩摩島津家 の祖となった。 その際に、頼朝の斡旋で重忠の娘を室に迎えた(参考:畠山重忠の遺跡「小町神社(神奈 川県厚木市)」の案内板)。 (ロ)丹後局伝説(その2―頼朝落胤伝説、比企能員編) 丹後局は、源頼朝に寵愛され頼朝の子を身ごもった。しかし、頼朝正室の北条政子の知る ところとなった。政子の怒りを怖れた頼朝は、局の兄・比企能員に命じて局の身を大庭景能 の邸に隠した。やがて、大庭御厨の西久保の桜屋敷に移った局は男の子を生んだ。その子は 三郎と名付けられ、三郎の胎盤を治めたところが「えな塚」といわれいる。文治元年(1185 年)六月十五日三郎七才の折に、鎌倉八幡宮にて頼朝と親子の対面を果たし、忠久と名乗り 島津氏を称した。九州の島津氏の祖となりました(出典:「懐嶋山えな塚」碑文)。 西久保は茅ヶ崎市西久保で、鎌倉時代は大庭御厨と呼ばれて大庭景能(頼朝挙兵以来の重 臣、弟大庭景親は平家方で石橋山にて頼朝を破った武 将)の支配する地であった。 「えな」とは「胞衣」と書き胎盤のことで、「懐嶋山 えな塚」と言う碑が茅ヶ崎J.C.T 下にある。 文治元年(1185 年)は、源平の合戦(壇ノ浦の戦 い)で源氏が勝利した頃であり、幕府が鎌倉八幡宮で盛 大な祝いをした時であり、物語設定上ふさわしい場面で ある。 「頼朝が比企能員に命じて丹後局を逃がした」と云う 説は、「頼朝が畠山重忠に命じて丹後局を逃がした」と云う説よりも、忠久誕生1179 年説の 島津国史説になじむものである。重忠の場合は、頼朝挙兵後の1180 年以降でないと話の筋 が不合理となる。 (ハ)丹後局伝説(その3―高倉天皇落胤説) 比企遠宗―二条院丹後(母丹後、惟宗広言妻)―丹後内侍(娘丹後、高倉天皇愛妾)―島津忠久 比企遠宗と比企禅尼の子で二条天皇の后に仕えた、二条院丹後と呼ばれた娘があった。二 条院丹後が三十三歳の時のとき、二条天皇(生没 1143-1165 年)が崩御した。二条院丹後 は、近衛家の家司惟宗広言に嫁して一女を産んだ。 生れたこの娘が成長し、後に高倉天皇の宮に入り丹後内侍と呼ばれた。人々は、この娘の 母・二条院丹後と区別するため、この娘を娘丹後と呼び、娘の母・二条院丹後を母丹後と呼

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畠山重忠と島津家 18 んだ。 娘丹後は美しく且つ文才に優れ、高倉天皇は娘丹後を寵愛された。やがて娘丹後は、天皇 の子を孕んだ。しかし、皇后の嫉妬はひどく、京から摂津国に逃れ、そこで男子を産んだ。近 衛基通(生没1159-1233 年)はこれに同情して、男の子の祖母(母丹後)の嫁ぎ先であり、 近衛家の家司の惟宗姓を取って惟宗三郎と名乗らせた。のちに元服加冠して藤原忠久と称し た。 娘丹後(二十一歳の時)は、後に藤原三郎忠久と共に鎌倉に下り、母の実家である比企邸 に世話になった。比企禅尼に懇請により頼朝は、後白河法皇に奏請して勅許をえて、忠久を 鎌倉御家人とし、島津荘の地頭、薩摩国守護とした。 忠久の薩摩入国後、母丹後と娘丹後は共に薩摩国に下り忠久の力となった。出水の山内寺 跡の局松はそのお手植えである(出典:鹿児島野田村郷土史)。 この伝説は、江戸幕末の尊王攘夷思想に基づく島津家の権威付けにふさわしいものに替え られている。即ち、「高倉天皇―摂関家藤原氏―島津氏」の構図となっており、江戸幕府の 徳川氏より由緒ある血筋であると言っている。 (ニ)吾妻鏡及び他の資料に見える丹後局 ○治承 3 年(1179 年)忠久誕生説 丹後局は頼朝の子をはらみ、北条政子の怒りを畏れ逃亡し、治承3 年(1179 年)摂津住吉 で忠久を産んだ。その後、丹後局は惟宗広言に嫁した(出典:山本正諠撰「島津国史巻之一」 p18、宮之原研「畠山重忠の血脈」サンケイ新聞データシステム 1988 年発行p109)。 ○養和2 年(1182 年))政子着帯 1182/3/9 頼朝の妻政子が、頼朝の介助で着帯した。丹後局が陪膳した(出典:吾妻鏡巻第二1182/3/9)。 ○寿永元年(1182 年)源頼家誕生。 1182/8/12 政子は、頼朝の嫡子頼家を無事出産した。比企尼の娘(河越重頼妻、丹後局妹)が乳母とな った(出典:吾妻鏡巻第二1182/8/12)。 ○寿永元年(1182 年)比企能員登用 1182/10/17 比企能員は、頼家誕生の祝賀として頼家の乳母(比企尼の娘)の夫として御贈り物を献上 した。比企能員は比企尼の甥で猶子であり、比企尼の引立てで頼朝に登用された人物である (出典:吾妻鏡巻第二1182/10/17) ○文治元年(1185 年)島津忠久元服 文治元年(1185 年)夏 6 月 15 日、源頼朝は鎌倉鶴岡八幡宮に惟宗三郎(7 歳)を召し、 畠山重忠を烏帽子親とし元服させ、名を忠久とした(出典:山本正諠撰「島津国史巻之一」p 18、宮之原研「畠山重忠の血脈」サンケイ新聞データシステム 1988 年発行p114)。 ○文治2 年(1186 年) 丹後内侍病脳 1186/6/10 丹後局が安達盛長の甘縄邸宅にて病んでいた。頼朝は結城朝光・東胤頼の二人だけをお供 に、見舞いのためひそかにかの場所に渡御した(出典:吾妻鏡巻第六1186/6/10)。 ○文治2 年(1186 年)頼朝・政子、比企尼を訪ねる。 1186/6/16 頼朝・政子、比企尼の家に渡御した。ここは、木陰が涼しく納涼に適し、桑園などがあり 趣があるため、一日中遊園を楽しんだ(出典:吾妻鏡巻第六1186/6/16)。

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畠山重忠と島津家 19 ○文治6 年(1190 年)丹後局、若狭国江取。1900/4/19 「太神宮の役夫工米、地頭未済の事」の中に若狭国江取について、丹後局に下知した(吾妻 鏡巻第十1900/4/19)。 ○建久6 年(1195 年)頼朝、甘縄宅宿す。 1195/12/22 頼朝、安達盛長(妻:丹後局)の甘縄の家に入御し、その夜止宿す(出典:吾妻鏡巻十六 1195/12/22)。 (ホ)丹後局概説 丹後局には、不明な点が多い。後白河法皇寵愛の丹後局(二位殿、高階栄子)とは別人で あるが、その他同名の者が散見される。本件の丹後局は、比企尼娘で惟宗広言妻となり島津 忠久を産み、後に安達盛長妻となり安達景盛母となった。 比企尼が頼朝の乳母であり、伊豆配流の頼朝を支援したことから、その娘丹後局も頼朝の 世話をしたと推察され、島津忠久は頼朝の庶子という噂又は逸話が造られたと思われる。 「島津忠久が頼朝の庶子」と言うのはあくまで噂であるが、吾妻鏡の上では幕府への貢献 が見えない島津忠久が、幕府で重要な位置にあることなど疑問は残る(参照:朝河貫一「島 津忠久の生い立ち」慧文社平成19 年発行p91 は、「島津忠久が頼朝に重んぜられたのは、 藤原基通が頼朝に忠久を推挙したからではないか?」と記している)。 頼朝は、若くして親兄弟を亡くし、且つ伊豆へ配流の流人生活を余儀なくされた。それも 原因してか、母姉妹への思慕の念が強かった面がある(逆に、猜疑心のために異兄弟には厳 しかったが)。命を救ってくれた池禅尼への想いから平頼盛を厚遇した。同母妹の坊門姫の 夫(一条能保)には京都守護という重職に着かせている。乳母の比企尼にも鎌倉に所領を与 え、度々訪問している。 そして、丹後局には、兄弟姉妹のような思いを以て接していたのではなかろうか? 丹後 局の夫(安達盛長)は頼朝挙兵以来の重臣であり、度々その屋敷・甘縄邸を訪れている。丹 後局の病の時には見舞いにも行っている。吾妻鏡は丹後局について異例なほど多くを語って いる。 世間ではそれを下世話な「忠久庶子」との噂となっていたため、頼朝の死後、頼家は安達 家を軽んじて、安達盛長の子(景盛)の室を掠奪したりしたのではないか?

(5)島津忠久と島津荘

(イ)島津荘の成立と発展 島津院(宮崎県都城市)・山門院や ま と い ん(鹿児島県出水市)などの院の字がつく地名は、税として 納めた稲などを納める倉庫の所在地を言う(参照:西ヶ谷恭弘編「守護・戦国大名辞典」東京 堂出版2008 年初版発行p269)。 朝廷は西海道諸国の支配権を大宰府に委任し、大宰府は管内支配権強化のため、政所を設 置し、府官と呼ばれる実務担当を置いた。府官たちは大土地所有を展開し、王家領・摂関家 領荘園を立券(公地公民を原則とする律令制の下で、公に私有地として認められた荘園)し た。中央政府の納税請負人としての国司は、国内の郡司・百姓たちと対立関係にあった。そ

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畠山重忠と島津家 20 こで、大宰府の支配が介入してくると、郡司たちは大宰府に管領を寄進した。この結果11 世 紀には大宰府領が飛躍的に拡大した(出典:原口泉等共著「鹿児島県の歴史」(株)山川出版 p81~85)。 中央―国司―群司―郷司の支配関係により朝廷は国衙を支配していたが、国衙支配領域の 縮小を抑えるため大隅国衙では、朝廷は国衙領を大隅国一宮である大隅正八幡宮の半不輸領 とした(出典:原口泉等共著「鹿児島県の歴史」(株)山川出版p92)。 このため、中央朝廷―国司支配の国衙領と、摂関家(大宰府)支配の荘園の対立構造が生 じた(荘園公領制)。 島津荘は万寿年間(1024~28)に太宰大監(大宰府役人、帥―弐―監―典)だった平季基が 日向国島津院(宮崎県都城市郡元付近)を中心に開発した。当時太宰大弐の藤原惟憲が摂関 家家臣であったため、島津荘は、関白の藤原頼通に寄進された(出典:原口泉等共著「鹿児島 県の歴史」(株)山川出版p83)。 当初数百町歩しかない小規模なものだったが、藤原忠実の代(1105-1120)になって大隅 国に約千五百町歩の新たな地を獲得するなど徐々に拡大し、日向国のみならず大隅国と薩摩 国を含む日本最大の大荘園(最盛期は8000 町)となった。薩摩国総田数=4010 町=島津荘 領 2934 町+宇佐八幡宮神宮寺宇佐弥勒寺領 200 町(鎌倉後期新田八幡宮領)+大宰府天満 宮安楽寺領150 町(薩摩国国分寺領)+大隅正八幡宮領 225 町+その他 501 町。 大隅国= 大隅八幡宮領+島津荘領。 薩摩・大隅では大隅正八幡宮領と公領が、日向国では豊前宇佐八幡宮領と公領などが強い 勢力を維持していた。そのため、荘園拡大には相当な武力も必要であったと考えられる。 摂関藤原家の島津荘は、その後近衛家が領家を独占、近衛家では春日大社を本家とする島 津荘が確立する。春日大社は藤原一族の氏神で、これを管理するのは興福寺で、春日大社領 となった島津荘は、興福寺一乗院が庶務に当たっていた。この広大な島津荘は近衛関白家の 「殿下渡領」として最も重視された。 近衛家は惟宗氏を島津荘の在地管理人である下司職として下向させた(出典:西ヶ谷恭弘 編「守護・戦国大名辞典」東京堂出版2008 年初版発行p270)。 平氏は対外交易の拠点である島津荘に強い関心をもち、留守職に重臣平盛俊を補任させた。 平氏は治承3 年(1179 年)クーデター時に、親平氏派の藤原隆季を太宰帥とし、その後被官 化した府官層の有力者原田種直(1182 年太宰少弐、1183 年平家都落ちの時も自邸を御所と するなど、九州での有力平家与同豪族)を太宰少弐とし、大宰府を媒介に九州を支配した(原 口泉等共著「鹿児島県の歴史」p96~97)。治承 4 年清盛は、弟忠度を薩摩守に補任し、国衙 での実際の政務は目代信の ぶ澄ず み(平忠景娘の夫)が当った(原口泉等共著「鹿児島県の歴史」p 98)。 藤原摂関家の荘園は、①家領(藤原摂関家の氏長者が家督相続するもの)と②殿下渡領(摂 関職に伴に相続されるもの)があり、通常は、氏長者印・各譲渡状により両者を同一人物が 相続する。 近衛基実が24 歳の若さで死ぬと、藤原基房が藤原摂関家を継いだ。平清盛は、基房には摂 関職にともなう殿下渡領のみを継がせ、その他の基実の所領を娘盛子に継がせた(鹿児島県

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畠山重忠と島津家 21 の歴史p96-97 は、「平清盛は娘盛子を関白藤原基実の妻とし、基実夭折後は継子基通を盛子 の養子にし、盛子後見下で多くの摂関家領荘園を基通に相続させ、実質的に平氏支配下に置 いた」としている)。 後白河法皇は、清盛の勢力が高まり法皇を凌ぐようになると反平家的行動に出て、清盛の 娘盛子が死ぬと、後白河法皇は盛子の相続していた家領を没収し院領とした(1179/6)。 清盛は数千の兵を率いて京に入り関白を藤原基房から近衛基通に替え院政を停止した (1179/11/14)。 頼朝の推挙で突然に摂政・氏長者となった九条兼実は、殿下渡領及び準殿下渡領を継承し たが、その他の家領は近衛基通が継承した(1186/3)。 (藤原摂関家の荘園の領主) 藤原頼通(1017-1066)→藤原教通(1068-1075)→藤原師実(1075-1094)→藤原師 通(1094-1099)→藤原忠実(1105-1120)→{藤原忠実(内覧停止)、高陽院(藤原忠実 女・泰子、鳥羽上皇皇后)}→藤原忠通(1121-1158)→近衛基実(1158-1166)→{藤原 基房(1166-1179)、平盛子(平清盛娘・近衛基実妻、1166-1179)→後白河院(1179-1179)} →近衛基通(1179-1183、1184-1185)→{九条兼実(1186-1196)、近衛基通(1186-1196)} →近衛基通(1196-1202)と続づく。 (系図-藤原氏) 藤原道長―藤原頼通―略―藤原忠実―藤原忠通―近衛基実―近衛基通 (生没992-1074) (生没1143-1166)(生没1159-1233) 藤原忠通―藤原基房―藤原師家 (生没 1149-1207) 藤原忠通―九条兼実―九条良経 (ロ)島津忠久と島津荘下司職・地頭職 島津忠久は、領家及び頼朝により島津荘下司職(領家の権限)を補任された(1185/8/17、 出典:島津家文書「頼朝下文」、江平望「改訂 島津忠久とその周辺」(株)高城書房p23)。 島津荘下司職補任についての島津家文書には、頼朝下文(1185/8/17)と領家大夫三位家下 文(1185/11/18)の二つがある。 領家大夫三位家について鹿児島大学附属図書館貴重書公開「島津氏と近衛家の七百年」パ ネル(平成25 年)は、「摂関家の有力家司であった藤原邦綱の娘成子と推定される。彼女は 藤原氏の氏寺・興福寺一乗院に入室した実信(近衛基通の息子)の乳母であり、島津荘の領 家を含む彼女の所領は実信に伝えられて一乗院領となった」と言っている。 藤原邦綱は、高倉上皇の厳島神社行幸に随伴(1180/3)、福原から還都に際して安徳天皇を 藤原邦綱の五条東洞院に入る(1180/12)など朝廷及び清盛と深く結び付き、院政を利用して 出世した下級貴族であった。娘成子は「大夫三位殿」と呼ばれ、藤原成頼妻で六条天皇乳母 でもあった。 島津荘下司職補任は領家の権限である。頼朝が与えた下司職とは実質的地頭職である。こ れにより島津忠久は、島津荘支配を幕府及び領家から認められた(重忠の沼田御厨の如き支 配の二重構造の矛盾から解放されたものであった。島津忠久に不足なものは、地頭職を実施

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