――目次――
1,
文化の原動力としての日本仏教,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-12.
2,
国文学における仏教的理念,世阿彌の芸術的理念を中心として,久松潜一,Senichi HISAMATSU,pp.13-34.
3,
国史における政教関係序説,辻善之助,Zennosuke TSUJI,pp.35-49.
4,
形而上学の将来性の問題,三木清,Kiyoshi MIKI,pp.50-64.
5,
仏教学と仏教史観,宮本正尊,Shōson MIYAMOTO,pp.65-95.
6,
日本仏教の美術,松本文三郎,Monzaburō MATSUMOTO,pp.96-108.
7,
寧楽朝文化の指導精神,大屋徳城,Tokuzyō ŌYA,pp.109-118.
8,
奈良朝寺院史の問題,川崎庸之,Yoshi KAWASAKI,pp.119-129.
9,
平安朝における寺院法制の一考察,宝月圭吾,Keigo HŌDSUKI,pp.130-147.
10,
中世文学の理念と仏教,筑土鈴寛,Reikan TSUKUDO,pp.148-171.
11,
盆踊の研究,特に中世を中心とする,森末義彰,Yoshiaki MORISUE,pp.172-196.
12,
中世寺院崩壊についての一考察,圭室諦成,Taizyō TAMAMURO,pp.197-217.
13,
南北朝時代の支配階級と宗教,松本周二,Shūji MATSUMOTO,pp.218-235.
14,
日本宗教改革とその反動,松本彦次郎,Hikojirō MATSUMOTO,pp.236-248.
15,
我が国寺院における俗少年教育,高橋俊乗,Toshinori TAKAHASHI,pp.249-266.
16,
徳川時代の仏教を想ふ,柳宗悦,Sōetsu RYŪ,pp.267-272.
17,
慈雲尊者の正法律,日本仏教と戒律の問題,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.273-294.
18,
明治以降の仏教,椎尾辨匡,Benkyō SHIIO,pp.295-307.
19,
明治仏教研究資料論,徳重浅吉,Senkichi TOKUSHIGE,pp.308-332.
20,
日本仏教研究文献総説,花山信勝,Shinshō HANAYAMA,pp.333-368.
Posted in 1933
(昭和8)年
治
正
妹 崎
此の論題の中には種芸周警包含しー又葦何かの質姦想してゐる。即ち竺は一人聞の生活k於て、自 警ま1に封する文化の零その文化は何を原動力とし表勤し叉欒遷すろか。是の文化には前後孟じて 哀した原動力があるか一文靂がありとすれば、それは何に依って動いたか。是併警いふ栴呼を用ひる場
合に、印度警か支部彿警かいふ欝とーどれだけ資質内容上の置別豊て得るか。叉円本といふ名が里た 地理
的名稀でなく.その歴史又は囲性又園芸警表しての是とすれば、その是と彿警がどれだけ相芝反臆し又品合したか、而して文化の霊がその間にどういふエ合に働いたか。此等の間警慧してくれば・
そ三っ;でも大きな論題になるが、今こ1には、此等諸問題の概見として、日本併教の文化的意表を観姦して、最後少しく現代の問題にふれて見たい。
文化鱒日然と封照すべ差違芸いが一人間の芸に、眞昌警ま1の芸といふものはなく、今日見る
いかなる未開の人間でも、若かの美星雷加へた文化要素数有してゐる。此祭ら見れば、人間生汚が印 くふ・’
ち文化生穿といふことになるが、それを言質して、人間が自分の嘉︵個人として鼻骨的にも︶に閲す文化の原動力としてのじ本件致
文化の原動力としての日本偶数
るエ夫又は組絨に封して、戎穏虔の意識を明にし、即ちどれだけかの人生観を抱き、それによつて.自分の生清 仏 くふぅ せ珊埠し左右しエ失する桝に文化があると見て進みたい。此の如き文化のエ夫糾絨を賛現するについては.生活 の天然い環境.乃至床業や祀倉の組純案配 應して天然的婆束を統制し、蕨莫や政令の事情構成を編み出し、又は欒更するについては、人間が抱く欲望、感 情、児想、観念.理想.信念などが、必ずやその根砥となり源泉となつてゐる。即ち文化生新には、境遇事情が 直接に亜大な勢力となるが、而かも種々の外境に接し、事情に應じて、人生の所動をエ夫組終するについては、 人聞が自分自らの性質、遥命、意義、理想.つゞめて云はゞその抱く所の人生軌に基いて、外境に封する反應を 案配し硬勤することが、文化の中心要素となる。而してそれ等の人隼翫が内から湧いて出るか、外から輿へられ るかたどといふ凱は、問題として残しておいて、結局、文化は外項事情の間圏よりも、寧ろ心の問題.精紳︵此 えはう をどう僻樺するにLても︶ある生物としての人間生活の問題だといふ事になる。彿教でいふ依報㌻考へる必要も し?、﹁ば■ノ あるが、決着は正報の問題であり、その自覚が根本要素になる。 此の如く軋れば、柳教が日本文化に於ける東大勢力たる事は、今更立許するに及ぶまい。単に外敵から見ても. 日本の文化表現が俳教渡爽と共に大に興ったといふ事は明白であり、聖徳太子が日本文化建設の第一人者たる事 も︵共に射する幣制は別として︶率はれない。勿論、その前に日本には文化がなかつたといふのではなく、叉彿 教以前の古押遣が国民生餌を形作りつ1あつた事、支部の串間や法制が大分倍播してゐた事を加算しても、沸教 ぎはだ の渡来が際立って、文化の興隆を促進した︵創始ではなくとも︶事は、歴史的事賓である。而して沸教感化の滞 女化の瞑動力としての日本偶数 ー■● 二 β
紳内容については、後の諭鮎に護り、外観表現だけの上でも、彿教が此の如く.H本文化の興隆を促したについ ては、特殊事情︵即ち件数それ自らの性質に必然でない事情︶として、指摘すべき大切の事項が二りある。 その一つは、日本国民元来の人生観−紅形作ってゐた石神道が、或る意味の自然主義であつて、場合にょっては 通常云ふ意昧の文化と背馳する傾向あろ事。二つには、日本に渡来した俳教が.単に信仰理想を翳らして釆たの でなく、アジヤ大陸の文化、特に支郵隋皆の燦爛たる文化表現を同伴して釆た事。此の二つの特殊事情は粕合し て、日本文化の興隆並に爾後の欒遷に糾する俳教の働きかけに、一種特異の作用をなさしめたと考へられる。 先づ第一の神道について云はゞ、徳川中期以後の復古紳道家の唱へた一種の自然主義は.徳川文化の爛熟、儒 教の形式主義.係数の複雑な約純などに封する反動が大に加はつてゐるから、それだけ割引して考へる要はある が、元来神道に自然服應といふべき純朴の気風ある事は拒むべからざる事茸である。即ち主として彿教に伴って 釆た大陸文化に封して、殆ど文化否定の気風があつた事は、年豊中狩の部落生活に於て氏族本位の信仰を代表し て釆た神道にとつて寧ろ雷然の事であつた。従つてその示す所の人生理想は、日然の忍みに感謝し、氏族の守雄 つーり 蜜︵その組紳たると香とを問はず︶に信板し、而して潤達天眞、地からはえぬきの様な心持を主としてゐた。山 乍も の幸、悔の宰、人の心のあかるみ、氏族本位の敬虔忠誠、此等は彿教渡来以前の日本人の生活理想であつた。現 饗の生にはその理想が完全に行はれなかつたにしても、それが苗神道として、上古日本人の隼活を靖導する理想 であつた。而かも、此の理想をむ明確に爵諭し、叉組披的に表明する事なしに、その生を営み得た朗に、文化否 定とも、叉自然主鼓とも云ふべきものがあつたのであるから.後の復古紳道家が、そこに理想的な純朴天長の生 文化の原動力としての日本畑致 ∂
所を頚見し、叉之を理想化して、共を以て儒教︵特に弟子畢派の︶や彿教︵多門多岐で理論の多い教法︶に反抗 したのも首然であつた。︵紳邁の此の特色㌢基本にして、彿教渡水雷時の反抗、錬倉時代武士生満に於ける氏族思 想の復興、足利時代に於ける両部押遣に封する反動など.観察すべき事は多いが、今は之を省略する︶。
されば大陸文化の輸入や彿教の渡来がなかつたならば、日本民族がその元釆の精紳状態並に氏族生活の基礎の
上に、どの様な文化を、どれだけ早く︵又は遅く︶開賛し得たか、頗る疑問とすべきものがある。然し、その様 な仮設的疑問は、之を考へるも詮ない事で、慶史の運は.全く違った方に進むだのである。即ち、第二の鮎とし て指摘した如く.俳教は只信仰や理想のみならす、その教が印度から中央アジヤに偉播し、支部の南北に波及し て、その間に感化し、接悔し.包容した一切の文化牽表と山緒になり、信仰、文拳、垂術、思想、感情観ての表現を伴つて日本に渡来したのである。文化の基本たる無形の観念、理想の感動が、俳教の力で日本人を動かした
だけでなく、その萄表結兼たる有形具標的の文化装置が、俳数として日本の新文化を興隆せしめたのである。そ
れに依って、彿教は.日に見えて日本人を動かし、その信仰理想と共に、趣味をも資益をも、叉好奇心をも探求 の欲をも.一時に充たすことを得て、一挙にして、日本人の精神をも生活をも充たし得た。此は件数の掟釆と日 本文化の興隆との聾質聯終に於て見逃し得ぬ重要事であったが、それは叉同時に日本俳教が︵少くともその初五 首年間は︶精軸内容の深刻を炊き、や1ともすれば、外形の眩惑に乱されるといふ弱凱を示す大原凶であつた。 じき.フヽ 奈良朝から平安朝の大部分にかけて.虞言寄柵の眈力が、その間に於ける薯族主義文化と一つになつて−人の心 ぽんた・, 軒辞め高めるよりも、人情に投合し、煩悩を助長したのは、賓に新輸入の件数が飴りに濃厚に故に燦爛たる文化 文化の原動力としての‖本彿欲 四 4重態を同伴し、その為に却て信仰の根本義を遺卑した璃である。︵此鮎、明治中期のキリスト教俸道についても同 じ鮎か親祭し得る︶。鎌倉時代彿教の改革運動が.皆此等の附随装飾.文化装崖を冷菓して、信仰の一路に進ま うとしたのも、茸忙偶然の事でない。 日本人に封する俳教感化のこの特色に閲聯して考ふべき一事は、彿教中にある正俊末三時に閲する像言的信仰 であるが、その内容は叉全般に亘って文化の滑長運命に閲する事であるから、その観察を別に譲り、こ1に二言 すべき鮎は、日本に入り来った沸教、日本文化の興隆に働いた彿敬老は、資はその時の俳法が費生期の英気と眞 撃に充ちた正浩彿教でなく、所謂る追塔寺堅固といふ外観隆盛の像法俳教であると考へて居た事にある。即ち. 沸教渡来以後、驚くべき熱心努力でその教の普及に働いた人々も、その興隆しっ1ある沸教は、外敵に於て秀で る機運に乗じっ1あると自覚してゐたので、つまり文化成熟の気風と穀置を備へた教法だと自朝伸して、その横道 に乗ずべき興隆に努力したのである。而して、その中の或る人叉特に現在と購舛とについて透見の明ある︶は. その後に来るべき末法彿教、即ち分裂岡野、又は瓦解衰綾の時代に封する準備をすら念頭に置いてゐた位である。 彿教は、日本新文化の屏動力となつた。然しその力は新鮮な草生期の純眞な理想の感激に動く力たるよりも、寧 ろ文化の成熟爛熟に伴ふあらゆる長所と共に短所をも包有し、感化と眩惑.蒔撃と浮薄、深遠と撃畏.二言 富 みのり はゞ﹁有りがたき御法﹂の有りがたさと而白味とを粂ね備へてゐた。それが力であつたが文弱射であつた。 かく云ふもの1、沸教の感化は、或る論者の云ふ如く、単に外観山文化的眩惑のみであつたかといふに、決し てさうではない。その間には叉深い資質の精紳的感動で、虞に日本人を動かした鮎はある。それは即ち渡釆の初 文化の原動力としての日本俳敦 五 5
文化の原動力としての日本儒教
六
期.その感化が新鮮の力を以て日本囲民を動かした時代にあり、その時には.翌徳太子の人格を通して、理想の 感動キあらゆる配合の施設に蜜現する力となつた。此鮎は.常時に於けろ配合状態.共に件ふ人民の精神的傾向 と封照して.山暦彿敦の感化力を軍揮した茸躇に見て明である。即ち氏族畢位の生活に於て人心の眼界は極めて 狭院で、純朴ながら叉氏族牢固の夙に充ち.特に有力な氏族の相霊脱坪は、累計皇室にも及ぼし、闘政の統一を 啓しっ1あつた時代で、而かも大陸文化の刺激が加はると共に氏族分裂状態に欒化を来さゞるを得なくなつてゐ た。そこへ釆た俳教は.先に運べた通り、大陸文化の燦爛たる装置を同伴して釆たと共に.一切衆生の脅威俳履 理想とする一乗成道の宿昔を厨らした。此の一乗道の理想は.教義としては一般に感化を及ぼさなかつたにして も.昔時アジヤ大陸諸閲民を打つて一丸とする.感化力の寄算を背景とした新啓示であつた事隼百折聖明王の上髭文にも現れ、叉聖徳太子の法華養成に於て特に方便品の三乗一乗の鮎に力を注がれたに徴し得る。而してそ
の一望‖が一般の人心に感化を輿へたのは.柴田糞兼の関係に於て一切の生活が相互に聯絡あるといふ教、並に現賢生活の中にも不可見蛋界との間にも、衆生は功徳回向でつながれてゐる事、此が最も切蜜な感動の力となつた
のである︶而して、此の感動は常時氏族生活の穀皮を打破し、今までの氏族紳信仰を引上げ、人民の粍面的限界を挽げ、且つ感情生前を融和するに最も有力な感化であつた。政治家としての聖徳太子の事業、並に共につゞく
大化革新の国政統一も、此の精榊的勢力を背後にして、従来の氏族割掠を御し得た結果に外ならぬ。
ヽ
民を風靡した信仰感動の大勢力であつた。此の感化が活き′∼と働き.大陸文化の諾称の芙が之を助け、而して β在ボの日然生活と封照して.人心に浸潤した闇は、賓に日本件数の興隆期、新活嘉の生長期であって、云はゞ日 しやうぼふ 本に於ける件数の正法時代であつた。通常棚教では正法時代を持戒堅固の時とするが、持戒といふ事を形式的な 戒律規則に狼らないで、生気ある信念の旺盛な状態を指ずものと解侍すれば.日本彿教は、その初期百飴年に第 十同の正法時代を呈したのである。申して此意味での正法時代は.即ちその理想信念の感動が、文化の原動力と なり、虻合東風を轡導した時代であつた。 新渡水の日本では殆ど教生期の活気を呈した沸教も、その本圃では千数百年の歴史を背後にして既に分裂嚢事 の機に入ってゐたのみならず、アジヤ大陸諸国民を感化し、且つ支那の文化を包括し、廼築文整あらゆる文化装 駐を備へると共に、串間の精轡伶階の複雑をも有してゐた。而して此等の文化的制度生起は、まだ文化未熟の 状態にあつた日本閣民の歓迎を受けるに適してゐたもの\それが叉同時に成熟爛熟の気風を伴ひ、新派の英束 ぎ・’ぼふ 興隆の中には、既に文字通力迭塔寺隆盛の所謂る像法時代の束象を呈し、暫くの聞に外観の美を具へると共に、 その反比例に内心精神の不純を来した。奈良朝に於ける併教は.絶ての鮎に於て日本文化の邸導勢力であつたが、 その裏には既に爛熟以上に厳罰の気分を有してゐた事はー奈良彿教の歴史が明白に告げる所である。さればその 摺導勢力の頂鮎にあり、束大寺建立の進みつ1ある時にも、艮稗檜都は車く﹁像教終に季たらんとす﹂と上奏し てゐる︵件数僻詮の像法時代は一二百四十年を飴してゐた︶。それから奈良件数の爛熟に封して革新を起した棟数大
量つぼふはなは
師も、﹁像法精通ぎ巳つて末汝太だ近きにあり﹂といふ考から、その末法に封する準備を整へんとせられたのであ る。而して平安朝の傭教が殆ど全く眞言に猫占せられるに及むでは、宰相修法と垂術発とが殆ど一つになつて. 文化の原動力としての日本彿故 七 7八 文化の原動力としての日本偶数 その眩惑は正しく像法の特色を具備し、而して件数は平安貴族の感情盆前に阿附し、その政樺と結托して、特殊 の貴族文化の装飾になり丁つた。文化の重大要素で比あつたが、その原動力でなく、外観奨飾の要具となつたの で、即ち宗教精紳の廃駅であつた。 感情耽淘の貴族生活上精神靡覇の宗教と、何れもそれ自らの中に瓦解すべき要素を具へてゐた。即ち仰教憶説 にいふ未決の到来で、此の如き爛熟文化の崩例のしるしたる保元平治の乳に光っても、叉此につゞく武門政治の 興起につゞいても、沸教の中には﹁末法到来﹂といふ一語は異常の衝動を汲及し、而してその末法は、憶説に云 ふ如く岡野堅固、分裂薙乱の姿を呈した。而かも末法到来の刺激に應じて起った精神遊動は、何れも眞蟄な内面 的要求を以て生れ、信念の生気躇動するものがあつた。二部分は平安朝の感情生活を邁俸した浄土門すら、信の 一念に於ては、一切の修飾を取り去らうとして自然主菜にすら走り、繹の直裁埼的、法華の要約信行、萬新時代 の英気と、或は相合し、或は反應して﹂政令や政治の新棟蓬に封して、完全に榔導とまでは行かないにしても. 刺激を輿へ清新の感化力を示した。日本俳儲は、伸敷金鱈の後宮的倦詮どほりに末法期に進入したが、その末法 は、第二〃正法時代とも云ふぺき新生束に満ちて、政治の措住着たる武士のみならず、土民百姓にも弘く深く感 化を及ぼした。 然し、此の第二の正法期は、多岐分裂といふ鮎で第一わと違ひ、鎌倉時代につゞく社食的瓦解を救ひ得ぬのみ ならず、寧ろその軋放を助長した。そこで足利時代に入っては、像法末法の徴候をどしどしと現じて、今安は造 塔寺の外観隆盛の裏に、盛に岡野兵乱の風を養って、敢′曾と共に堕落し、風塵したのである。日本俳教第二の末 8
法期には、第二何の如き信仰の新生束を見る事なしに.戦国の乱態忙同伴した。その結末は、封建政治の主動着 たる武将等にた1きつけられ、妄の最大政治家たる家康の為に諷なづけられ、あやかされて、今までの猛虎は餉 猥の如くに、主人の手をなめて之を媚びる外能事がなくなつてしまつた。つまり原動となる力を失つて、ひたす ら追従者となり阿訳者になつたのが、徳川時代に於ける日本俳教である。 徳川時代に於ける儒者の官僚的優越と神道の復興と、此に射する件数の態度.並に交渉関係については観察す べき苛もあ竜が、つまりは件数勢力の墜落を示してゐるだけは明白である。一腰、徳川時代の封建配合は、鎖国 に伴ふ〓攣欒態の安定期であるから︵此についても、詳論は主題外として省略する︶、彿教も奇妙な安定位鑑を得 てゐて.外見に於ては像法時代の特色を示してゐる。即ち日本件数第二同の末法期は、その中或は後に正法興起 の礫運宜しに、取囲の末から、徳川時代に入って直に第三同の像法期を呈したのである。 徳川封遵離合の人工的安定は終に崩壊せざるを得なくなつた、それには内外の原閃刺激麗々あつたが、兎に角 その安定の飴意で第三の像法時代を呈した日本俳教も亦、頼む大木の倒れると共に雨露にさらされた。明治維新 の際に於ける俳教は正しくこの末法瓦解の苦を苛めたもので、靡彿棄樺の神道的暴風に枚葉をそがれ、幹も危か った。やつとその嵐を切りⅥけると、今度は文明開化の嵐で、外教即ちキリスト教から侵され、且つ宗教信仰上 相容れぬ部く見える探検瀾紳の産物たる西洋の近代文化に襲はれ、而して政治上の背景を有する紳退から歴迫せ られて今日に至ってゐる。日本俳教にとつては、明治以後今日の状態は、正しく第三何の末法到来である。今度 Ⅵ政治や文化に追従するどころではなく、落伍者一になりつ1あるのがその現状でなからうか。此間に廃して寺院 文化の原動力としての日本彿敦 九 9
文化の原動力としての日本伸敦
︼0 山林の財産が何にならう、十萬の彿恰の中からは警マルキシストをも生じつ1あるではないか。彿教の大串と持するものは十に飴らうが、軽鵡な近代軒拳、停統陳腐の宗薬・若くは煩頚な夢究的研究・井等以外に何物を持
ってゐるか。数へ来れば、今度の末法到来は或は断末魔の末法でなからうか。
日本彿教の現状に摘して、右の郡翫観察の内容についてもー叉其以外についても、考ふべき事は中々多いが、
兎に角﹁末法到塞﹂は挺むべからざる徴候である。さて然らば、第三の正法興隆は全く望みのない事であらうか。
又その感化感励の源泉を鎌倉時代の第二正法期の信に汲むべきか、聖徳太子へ測るか、婿た又梓今まで沸るか。
そこに勿論大問題が横はる。然し、何れにしても彿教はまだ死んでゐない、濁り日本のみならす世界の文化に封
しても、件数の果すべき使命は、まだ轟きてゐない。何となれば、日本だけでなく世界の現在を支配してゐる近
代文化、即ち十五六世紀以来勃興して釆た探絵描紳の文化が、その結果たる﹁自然の克服﹂といふ旗じるしで今ま
で進めて乗た料率と産業との文化は、それ白らが一つの難陶に嘩過してゐる。而して日本も近代文化を容れたと
共に、その共通の難紺に遭遇しっ1ある。近頃諸方にきてぇる神道諭、大部分は政治問題と結びついて起ってゐる神道主筆それで此の難拗を切りぬけ得るや否や、頗る疑問である。何となれば、世界金牌の難関は、根本に
於て金牌に封する解綽を要し、局部的解棒では足りない。若し局部的解樺だけで押し切らうとするならば、それ
も全然不可能ではないが、現代文化を杜絶し、闘を鎖国にして机乗る串で雷。それ竺高空別に徳川幕府空
度誠みた方法であつて、蒜は成功したのであるが、それは恐らく今日揖釆る事でなからう。勿論・口本として
の特殊の事情と必要とに應する鮎についてはー特殊の解梓を要するに鐙ひないがーそれにも仝蛙としての根本的
JO解繹がなけれぼ.一時の塗抹に経る危険が必ず梓ふ。
さて然らば、現代文化金牌の間躇はどこにあるか。料率の精紳を探検克服などといふ観念から、人間精紳の宇
宙的自覚と一致する質理探求に進めるのがその一つ。餌ち単に自燃の克服︵それも多くは軽薄の意味で︶でなく・自然り大宇宙と人間精神の小宇宙との資質結合を科挙研究によつて鰭硯することである。此の根本精神を見失つ
て.只管探換賛明で進んで来た現代科挙は、奇好心の煽動、スピードの穀寧、而して只利用厚生の鳥の産柴應用と堕
落しつゝあ少、所謂るワ。Stituti。n。;cienceといふ現代病を生みつ1あるではないか。此の如き料率の應周に武器を得た現代産兼の問題は、単にその経済粗鉄だけの事でなく、賛に根本精神の問題即ち人間の虞の福利
は何にあるかといふ問題に締着する。産業を興しさへすれば編制になるといふ短見はどしどし裏切られ、叉産兼
の経済組織を轡更しさへすれば、天国が来る様に考へる如きも、幼稚寧ろ隣むべき位であるが、それでも所謂る
﹁現代思想﹂には、此の二つの流れが相激草して.恐慌と爆蟄とを生みつ1あるを目前に見る。而して此の如き恐 慌状態と爆費状態に驚いて、俄に﹁思想関学盲憂へて之を﹁善導﹂せんとする人々が.その思想の大本たる﹁人間 は何の為に生き、.何を理想とすべきか﹂といふ問題を閑却して、色々の塗抹を試みつ1あるは、何たる笑止ぞ。 此等の関西を;開明するのは、此↓文の目的でないが、兎に角、病原を見究めない救治は・大火に向つて柄 杓で水を注ぐ様なものである。スピード狂熟、機械や組紐の奴隷.而して民衆、所謂る﹁大衆﹂欲求の本能的爆黎、その他家族図表政治教育、あらゆる方面に亘る文化の難関は、結局人間の自覚を炊いた探桧精神文化の行詰
りを物語る。此等の難紬にぶつつかつて雷惑した瓜想が﹁西洋の段落﹂といふ黍語で閂方に硯はれたので、日本
文化の﹃動力としての日本偶数 ∫∫文化の原動力としての日本伸政
一二
では﹁それだから束洋精神を以て之を救ぺ﹂、といふ人もあるが†その棄拝も、右辺べた通りの現代文化柄に躍っ てゐないか。日本のみはその病息が少しもないといひ得るか。論はゎ詮振、眼前の困惑混乱の事貨が何よりも堆 府である以上.この上の問題は.人生に関する根本精紳をどこに求むべきかといふ劫に辟着せざるを得ない。 そこで、最後に、此の難闊に封する沸教の使命如何といふ事になる。今度は、日本二困の文化鱒封する原勅力 といふ事だけでなく、世界現代文化の末法雑乱に封して、新たる感動、恐憤、向上特進の原動力になり得るや香のこ
ら・’や′、 や上いふ問題に進む。彿城後.末法時代の為に遺されたといふ良薬はどこにある、良薬を活用する尊皆はな小か。 彿周博士の地に潜むでゐるべせ傭種を植え育てる力は轟き果てたか。法華経で涌出の紳欒を呈したといふ地涌の 聖者は∵どこにぜぅしてゐるぺ諸法嘗相、︸念三千、軽易耽、地滴千界、完成道﹂此等は只過去の漑念−古典 に姿を留める﹁御脛の文句﹂に留るか。虞に此間に答へ得る人は即ち現代の末法文化を樽じて第三の正潜時代の 新鮮な力になすべき先導者であらう。 有給旨を禰ふぺき著者の述作. 宗教的理想と生前の寄算︵宗教単組要︶ 沸教の社食軌と配合案︵本誌特輯、現代沸教研究︶ HistOryOrlapan訳eRe−igiOn︵特に第二、凶、六篇︶ AnO計nta−E邑uatiOnOへMOdernCi曇邑iやn︵iモカecen−GainsinAmerica−−Ciくi−i邑iO㌔︶ * * *二 現代的と宗教的︵本誌特輯、珂代宗教批判︶ 、 ︵改訂︶法華経の行者旦禦特に第二軍第二十七章︶ * ぜβ∴ 国文単に於ける宗教的なるもの1中で、沸教的なるものは上代からすでに見られ、萬葉集の中にも俳教的思想 を歌った多くの歌が見られ、宣命にも紳の思想の外に件の思想が見られるのであり、規報幸恵日本露輿記にも奈 良時代の沸教詮話が見られるのである。それは中古時代に於ても彿数的影響は丈畢の上に見られるのであるが、 中世に於て一骨盛んになり、国文畢と沸教との関係は一骨密接になつた。而して近世から最近世.現代にかけて も帥教との闊係は療接になつて居る。さうして各時代に流れて居る国文単に於ける彿教的理念といふべきものを 見ると、lの見方からすれば現世的なるものと来世的なるものと、過規未を貫くものとに分つことも出来るので あつて、上代から中古へかけてこの彿数的理念は現世的なるものであり、中古から中世へかけて来世的なるもの が主となり、更に中世に於て過硯未を貫くものが現れてきたとも言へる。この三はそれ以後にともに存して居た と見られる。さうして更に別の立場から国文単に於ける彿数的理念を見る時.中世の国文畢思潮であつた文革道 の意識の如せまた.幽玄の理念の如きはその昔しきものと見られる。もとより囲文単に於ける幽玄の理念の如き 飼文串に於ける沸教的趣念
国文学烏於ける儒教的理念
− 世阿滞の萎術的理念を中心として
久 桧
酒 一
J3とあるのを見ても、物理に封する性命であり、推逮に封する不易的本質的のものであつたと思ふ。臨済録にも彿
法幽玄とあるのである。然し日本に入つてからはかういふ見解に到達するためには幾度かの意味の欒蓬を見なけ
単文串に放ける偶数的理念 l四 も複雑なる俳教思想の一面を現したものに過ぎないであらう。それは闘文単に於ける件数的理念としては自然の 結炎であらう。恩ふに国文畢と件数との関係は碑撲であるが、国文畢の申に深くしみこんだ俳数的理念は比較的 単純化されたものではなかつたらうか。それは探連なる件数思想にしても、一般国民生活の信仰の封象となるの はその箪純化されたものに過ぎないのである。閲民生括の反映である国文単にとりいれられた悌数的理念といふ ものも極めて単純化されたものとなつてくるのである。 さうしてこ1には俳数的理念としての幽玄論を中心として考へて見たいのであるが、これまで種々の横倉にそ へ荘︶ の粘に関する私見をのペたので、こ1にはその一端に就いて考へて見たい。 旺鎌倉時代の歌論︵日本文拳爵座鎌倉時代箇拙稿︶ 幽玄の妖艶化と平淡化︵閲語と国文拳、昭和五年十一、十二月拙稿︶ 中世文革諭に於ける造と型、国語と国文拳、昭和大卒十月拙稿︶ 〓 初めに幽玄の語の意味の欒遂に就いての私見の要旨を記すと、幽玄の語は本来は支部からの語であると見られる。さうしてその原義は物の本質的死命的なものをさしたと見られる。たとへば唐の騎賓王の螢火蹴に
︵上略︶ 虔幽不嫁居照斯晦随膵柳田劫息候抒別以進退婁性呼号幽玄任物理サ推遷︵文雄別桝谷五l併収︶ J4ればたらなかった。 大懐これを四期に分けて見るならば、第一は平安時代中期頃迄に見られる幽玄である。平安時代に見られる文 献で最も古いのは一般にも知られて居る如く、古今集の眞名序に 或夢関前異或興入輿玄 とあるのが初めであらう。しかし天慶八年撰とある忠卑十鰭の中の高情鰭の詮明に 此護詞雄風流義人幽玄 とあるのは−眞名序にも成立上多少の問題がある以上、もし眞名序が比較的過れるとすれぽ、この方が先になつ たかも知れないのであつて注意すべき記載である。また作文大牌に飴情幽玄鰻として 蘭恵苑嵐推紫後、蓬莱洞月照霜中 を﹁此等誠幽玄鰻也、作文士熱察此風情而己﹂と許したり、緯千字文に 加之節義極悶玄.請清倣元自 とあるの性決詩の批評であるが、見のがすことが出来ない。歌の批評では中高家顔輔豪歌合に 見硬せばもみぢにけらし終審に推すむ宿のつま梨の木ぞ を判者の基俊が 嗣雄擬古質之埠、我似通幽玄之境 と言ったなどが古いが、これは前の息卑十鰭にも文意が類似して居る。是等平安時代の中期までの文献に見られ 均文単に於ける彿数的理念 J∂
圃丈単に於ける儒教的理念 〓ハ る幽玄は神秘的な意や、たけ高い意をさしてゐるやうであろが、多少意味からいふと漠然として居る上に未だ丈 畢論の基調となるまでに至つてゐない。 さうしてこの幽玄が日本の女輿論や歌論の理念の中心となつてきたのは飴晴としての幽玄論である。これの見 られるのは平安後期であつて、飴情の意味と幽玄とが・結びついてからであらう。この飴情としての幽玄も作文大 館に飴情幽玄倦とあるから必ずしも歌論の方の新しい創造ではないであらうが、保守的の公任や基俊等の心持の 中に次第に意識されてきて、それが完成したのが俊成である。俊成のみならす西行や長明に於てもこの飴情とし ての幽玄が丈拳の鹿高理念となつたのである。この詮情といふのは長明の無名抄にも言外の景束とある如くlあ る知的意味以外にその表現を通して見られる気分情調的内容ともいふべきものであつて、それは定家の有心機に 於ける心と大鰐同様ではあるが、飴情といふ語が示す所によつても知られる如く、飴情の外に情を濠想して居る 所に素材的の意味内容をより多く重んじて居るのである。さうして飴情としての幽玄は特殊性としては未だ明ら かに白魔されては居ないが、強ひて言へば静寂である。この静寂実は﹁たけ高し﹂﹁遠白し﹂等の大きな美と﹁心 細し﹂﹁あはれ﹂等の小さな黄と調和した莫と見られる。かう見ると飴情としての幽玄美を有心発と比較する時. 普遍性としては心と飴情との相違であり.特殊性としては有心芙が妖艶な芙を主とするに封して静寂美を主とす るとの相蓬であると思ふ。Lかし飴情も心も何れも象徴美であること忙共通すろ。 この敵情としての幽玄要は吏に展開して居るのであつて、第三に幽玄の妖艶化、第四に幽玄の平淡化は著しい 展開である。もとよりこれにも幽玄といふ理念が有心といふ理念に蟄展して妖艶化を行ひ、幽玄といふ理念が千 路 ヽ
● 淡といふ理念に頚展して平淡化を行った場合と.幽玄といふ同じ理念の中に於て妖艶化を行ひ.平淡化を行った 場合とがある。前者は俊成から定家への項展、もしくは定家から名家等への費展に於て見られ.後者は室町時代 に於て主として行はれたのであつて、正徹に於て幽玄の中に於て妖艶化の傾向が見られ、正徹の弟子心敬に於て・ 幽玄の平淡化の傾向が見られるのである。さうして幽玄の平淡化は幽玄の生命化ともなるのであつて.こゝに至 って登火既に見られる幽玄の原轟に近づいて釆て居る。この幽玄美の進展は歌論や連歌論の上のみならす、正徹 と近い見解が能楽論に於ける世阿禰に見られ、心敬に近い見解が繹竹に於て見られるのである。この生命として の幽玄に特殊性としての閑寂実が結びつき、自然と人生と拳術とを統一する理念となつたものが芭蕉のさぴであ ると思はれる。さうしてかくの如き幽玄の欒化にはそれん\の動礫があると思はれる。正徹や世阿輔の塾術的傾 向には義満時代の爛熟文化の影響が認められ、心敬や碍竹の平淡化には應仁の乳を中心とした世の乱れが関係し て居ると思はれる。それは俊成、西行等の飴情幽玄が平安末期から中世初期の時代的影響を多くうけて居ると同 様である。 かういふ時代的影響とともに,この幽玄論の欒遷の中に、整術と彿教との相耳関係の攣遽をも認め得る。幽玄 といふ語が本来俳教特に繹的思想の中から生れ出た語であつて、それが国文単の理念としてとりいれられたので あるが.この幽玄の襲蓬の上で幽玄の妖艶化もしくは優艶化の如きはもつとも塾術化された理念と見られ、平淡 化の如き時宗数的本質に還元された状態と見ることが出来るのである として、彿数的理念の萎術化の状態を見たい。 園丈串に於ける偶数的理念 一七 J7
世阿禰の萎術的理念の上で、悌教的なるものとして第這注意されるの吐幽玄論でむり・また幽玄論の姦通化の
傾向を見得るものとして.その修行給が注意されるのであるが、こ1では幽玄給を考へて見たいのである。さうして幽玄諭は垂術論の鴨索としては表現論のものまねと閲係し、また塾術的理念としての花とも輔係†るのであ
るから、ものまねと花と幽玄との閲係を中心として見たいのである。
旺世阿紺の霊は世阿紺十六部長盲中心とし、琵花停第六花修の如きも世に出たのである。この十六芸の考警は種々
の時代的関係毒腺に入れる必嬰がり、また聴阿爛とそ?父の叡阿渦との霊1の豊島へて見るぺ晶と竺G今 はこの鮎は慧の考察にゆづつておく。また世阿輔の霊的理念隼就いて鱒従来野上氏−佐成氏・富民・能勢氏、西 尾氏、笹野氏等の考察もあるが、こ1では多少の私見をのぺて見たいと思ふ。 さて幽玄とものまね、花.かl一hリ等の閥係に就いては能欒の流警異なつて居ることは一花倦書に 江州には幽玄の警と芸て1物まねを莞して、か1りを本とす。和州に腋先物まねをとりたて1物かずを轟て企も幽玄 の飢饉あらんとなp。 とある如く.流派によつてそれん1主とする研が異なつて居るやうであるが一大和誓の系警引いて観阿鰯・世阿蒲・の系統は物まねから入つて幽玄に中心をおいたやうに見られる。これ浣まねを第∵萄として幽玄毒一
義としたといふのではない。この勅を更に詳述して
和州の風鯉、買似.蓋是として、或はたけのある排l或還れる挙動・此の如くの物警得たる管・人息得、噂 もとれ専なれど主父の若付L感り、静が舞の駈、嵯峨の大念価の女物狂の物顔融・殊にく得たりト風雪れば天下の 錮女単に於ける偶数的鱒念 三 Jβ褒美、名望を得し事、世以て障れなし。是れ幽玄無上なり。
と言って居る。これによると女物狂の物置似がたけのある挙動とか怒った物眞似よりもー暦幽玄であつたといふ
のであるから一物眞似といふ事は幽玄とは異なつたものではないのである。といふよりはものまねと幽玄とは異.なつたせ場の名稀である事が知られるのである。さうしてこのものまねといふ言葉は花やかゝりといふ言葉とと
もに能楽論に於て初めて用ゐられたやうに見る詮もある。しかし自分は幽玄とともにかういふ言葉も歌道から釆
たものが多く、もしくは歌論的内容と同一の精神の上にたつて居ると思ふ。四塵投着目録の世阿禰俸の中にも
歌道交遊紳造語々ノ造ヲモヨク窺ヒ大方ナル人ナリ。絶テ今三世間⋮テハヤス好キ能轟ハ大橙世阿ノ作ナリ。
とあるのを見ても世阿禰は歌道に封する相雷な造詣はあつたであらう。従ってそれ等から影響をうけた勤は多い
と思ふ。
ものまねといふのは封象を幕茸的に扱ふといふのが普通の意味のやうである。檜喜に於けるゑそらどとと結び
つけて考へられる語である。ものまねが馬貰をさして居るに封してゑそらごとはその非焉資的傾向をさして屠る
やうであるが、ごの﹁まぬ﹂と﹁そらごと﹂とは窮極に於ては一致するのである。この﹁まね﹂と﹁そらどと﹂
とが調和する所ものまねの眞駐があり、ゑそらごとの定位もあるのである。このものまねといふ語に近いもので
は平安時代の俊枝口俸に
歌にはにせ物といふことあp。とある﹁にせもの﹂がある。能繋に於てこのものまねを重んじて居ることは申繋談義の冒頭に
同文串に於ける例数的理念 柑とある事でも知られる。花俸書の物拳條々の中にも
せよそ何事をものこきず能にせんが本意な夢。
とあるのである。さうしてこのものまねが語義としては寛賓的性質を多く含んで居りながら、必ずしも徹底的な
鳥葦でなかったといふことは能繋が馬賓文率でなく、象徴拳術であつた事から見ても明らかであり、l従つてそれが世阿禰のものまねの解樺に不徹底があり、矛盾があるやうにも見られるが、しかし世阿滴のものまねの解樺を
考へ、また花や幽玄等との紬係の上から見ると、せ阿禰がlものまねを構へたことと能繋が全態として象徴馨術であり能楽論が令博として象徴垂術論であることとの聞に矛盾はないと思ふ。世阿鰯は花俸書の風姿花偉害第二物
畢倣々に公家や武家をうつす場合に、その生活や様式が十分に明らかでないために完全にまねる事が出碑なくて
もl出来るだけ言葉やしなを求めてその眞に近づくべきであると言つて居る。さうしてものまねの封象として女.老人、直面、物狂、法師、修羅、紳、鬼∵唐草に分けて詮明して居る。
この立場は大鱒に於て潟苦的傾向と言ひ得る。然しながらこの立場から更に二の方面に展開して揺るのである。
一の鮎はこのものまねが相封的に用ゐられて居るのである。即ち同じ物畢燦々の中に武家や公家その外の高位の
ものや、花鳥風月の鮎は出来るだけこまかく虞似るべきであるが、H夫野人をうつすには詮り細かに購しきおざを似すべきではないとして居るのであつて、田夫野人でも風情になるべき鮎は細くまねるべきであるが、風情に
ならない鮎は細く馬資すべきでないとして居る。その理由として賎しきもののわざは高貴のものには飴りいやし 加
国文単に於けろ係数的理念 遅発の道は一切ものまねなりといヘビも.中葉とは紳襲なれば舞敬二朋を以て本風と申拍ぺL。 ニ○くて面白くないためであるとして居る。この世阿禰の言の中に隻向貿なる観衆といふ鑑賞者の立場を顧慮した鮎 釘 ◆ もあらうが、その根概に於てものまねが蛮術の根本でなく、別に能楽の本質を認めて居つたといふ事になる。も のまねは第二義的た意味で重んぜられて居つたことを知るのである。醜いといふ観を輿へるまでの徹底的な馬嘗. は退くべきであるとして、馬賢の根砥忙は芙もしくはおもしろいといふ実感を必要とするのであり、それを損は ない緯度の葛茸的態度をとるべきであるとするのもそれを許する。世阿痛が老人のものまねが最も大事であると するのもこの如からH聾して居る︶女や物くるひの如きはそれ自身に於て莫と感じ、おもしろいと感じさせる素 材的栄を有するのであるが、老人は所謂莫とかおもしろいといふ境地から素材的に見て遠いのである。世阿禰が 老ひぬればとてこしひぎをかゞめ、身をつむれば花うせて古やうに見ゆるなオ、きる程に面白き併まれなり。 といつたやうに老人そのものをそのま▲にものまねすれば面白いといふ事は失せるのである。これは鬼のものま ねにしても 鬼の物辰也大なる大事な,。能くせんにつけて面白かるまじき道理あ,。怖しき折本意なp。怖しき心と面白きとは黒白の ちがひなり。 として鬼といふ素材に封すろものまねを徹底させることは、熊襲の別の本質である実感を失ふことになろとして 居るのである。かくしてものまねといふ横板の上にたつて、而もそれをおもしろいと感じさせねばならないとい ふ立場から老人は最も大事であるとるすのであるが、ここにものまねそれ自身が窮極の目印でなく第二義的であ り、従ってものまねが相封的であつたことが見られるのである。これと同時に第二の鮎として、ものまねが形相 同文串に於ける彿数的理念
国文串に於ける偶数的理念
二二
のものまねでなく、楕紳のものまねでありまた意識的のものまねでなく、無意識的の墾のまねであるべきとした 事であるじ花備蓄別紙口倦に ものまねをきはめてそのものに誠になりいサぬれば似せんと息ふ心なし。 とあるのは無意識的なものまねに至って長のものまねであると考へたのが知られ、また申契談義に 嵩の物置似ほ心板なるぺし。先づ其心根々々を点ひ分かちての上の風情照りなp。 とあ一るのは、形相から柄紳へのものまねを示して居るのである。 かういふ意味でものまねの第二義的もしくは出費鄭としての相封的意味と、精紳のものまねもしくは無意識の ものまねといふ凱盲考へれば、彼のものまね詮はそれだけを切り離して礪立の整術論としては見られないもので あり.従って仝攫としては決して徹底的な馬賞主義の主張でなく、従礪栴へられてきた焉資的理想主義もしくは 客観的毒観主義ともいふべき日本の文革覿の相承であることが知られる。即ち源氏物語の登の巻に於て物語は世 にあることを何へさせんがために書いたものであるといふ克質的立場をとりながら、同時によきことをいふとて はよきことのかぎりをいひ、悪しき事をいふとては悪しきことの限りをいひ出すといふ立場と同様である。かく ヽ の如くあろがまゝに書いて、而も理想化を忘れなかつたのは表現の素材もしくは方法から表現内容への過程の観 察である。さうして更に別の立場から言ってものまねといふ態庇は歌に於ける素撲美とも関係して考へられる。 素撲美といつたのは封象をそのま⊥に見ることである。主観を交へない封象そのものをあるがまゝに見ることで ぁる。この態度は平安末期の経信.俊額.麒昭等に稀へられ錬倉時代の焉乗・室町時代の了俊に於て特に強調さ 朗れたのである。即ち故に於て因頻的に隋つた時に常に主張された萬葉的態度、素模実の態度がこのものまねと匹
敵するものと思ふのである。にせものといふ言葉が俊扱によつて言はれたのも注意せられるのであるじかう見て
くれば世阿藤が先づ熊襲の出考鮎としてものまねを主張した事は篤粂や了俊と同じ意味があったのではなからう
か、鳥粂や丁俊に於て素撲美が歌の出費鮎であつて窮極猫でなかつたことも世阿痛がものまねから幽玄への展開
と相保って考へられるのである。
こゝで問題がものまねと花や幽玄との紺係に移るべきであるが、その前に世阿禰がものまねを栴へたのは世阿
禰白身の内的要求であつたか.もしくは他の方面、たとへば歌論等の影響であつたかどうかの鮎を考へておきたい。
もし世阿頗自身の内的要求であつたとすれば、ものまねを稀へたことは偉統的な能楽に射する革新的見解であ
ったと見られる。薦条や了俊が柄へたと同じ意味に於ける能楽に封する素撲への鑓唱ではなかつたらうかと思は
れるのでかる。これは世阿摘もしくは翫阿禰の能楽史の上から見れば無謀な推測ではないと思ふ。能楽の起原の
考察はこ1では省略するが、田楽、壷若舞等の陶係から見ても、熊襲自鰻の上のみから言っても従来の滑稽的の性質、もしくは単なる儀式的性質から脱却する意味からも罵饗としてのものまねを唱へる必要が叡阿禰、世阿禰
にあつたのであらうと思ふ。花俸菩奥轟の條に
たゞ崇む併の本意とは嘗世此邁の繁を見るに、革の噂疎かにて非逝のみ行じ、たまく嘗峯に到る時もた二せきの赦せう
︼且の名利に染みて源を忘れて流を失ふ事−遣欧に磨る時節と之を欺くのみな㌔ 困文革に於ける牌数的理念 β3開文革に於ける件数的理念 こ四 とある所にも常世に於ける熊襲の朝顔を嘆じて居るのであつて、それに封する革新的意味に於けるものまねを稀 へたのではたかったかと児ふ。かく考へれば近江積弊が幽玄から物眞似を次にするに封して.観阿禰、世阿瑚の 天和猿楽が物眞似から幽玄に至らうとする所により素撲な出費凱忙締って居ると見られるのであらう。かういふ 意味でものまねの主張を出費鮎として軍んじた世阿禰等の態度の内的必然性は十分理解されるのである。同時に 彼がものまねを主張しながら、彼の垂鰭の奮術がものまねと必ずしも一致しないことをも詮明することが招来る のである。 さうして次にこのものまねの主張が外的影響があつたかどうかであるが、このものまねといふ言葉は必ずトも 歌論からきたのではなく古来の舞楽等の方面から釆たかと児ふが、ものまねといふ態度は歌論等から多少の影響 をうけたかと思ふ、彼は彼自身言ふ如く歌道に飴り多くの造詣はなかつたのであらうが.披の記述にも屡々歌を も引き、また後にもいふ如く関曲の詮明に 歌道にも十撞の中に聾き位を云ふに﹁鬼を恢り拉ぐ﹂など牒すは此の位にてやあるぺき とある如く十鰻たども注意して居たのであるから、歌壇に於ける今川了俊の新しき主張などに多少の注意を彿っ てゐたかも知れない。 世阿細が花偽書の初の三巻を書いた應永七年は世阿繍三十八歳に封して了倖七十六歳である。了俊の垂新的態 度は、世阿潤も多少は注意して居った筈であるじが直接影響はなくとも世阿鰯が能柴の出費鮎としてのものまね を主張したのは歌道に於ける了俊等の萬葉集を主とする素枝美の態度と同様な精紳であつたと思ふのである。互 、 β4
に垂道に於ける革新的立場に於て相ふれ合って居ったのではないかと思ふ。 さうして篤乗に於ては素樟美から妖艶美化展開した如く.また了俊から正徹に於て素撲乗から妖艶実に展開し たと同じ立場のもとに世阿藤に於ける物まねから幽玄実への展開が見られるのではないかと思ふ。しかしこの鮎 に於て鴬彙よりもまた正徹よりもー盾複雑な峯術貌を抱いて居る世阿禰は直ちに幽玄にまで進まない。即ち﹁花﹂ といふ理念はそれであつたのである.次にこの鮎を考案したい。 四 前に老人のものまね、鬼のものまねに於てものまねを徹底することと心の面白きこととは黒白のちがひがある としてこの面白いことを損じない程度に於てものまねをすべきであるといふ見解を見たのであるが、この面白い といふことは世阿滞に於てはものまねよりも本質的な理念であつたやうにさへ見える。この面白いといふことは 結局﹁花﹂の重要な要素となつてくるのである。花停書にも この面白しと見る捺花なるぺし。 といひ、 上手の目利かずの心に合はぬ串、足れ日利かヂの限の及ばぬ所なれども.待たる上手にてエ夫あらん名手ならば−又目刺か ずの限.にも面白しと見る揉に能透すぺし.此工夫と達者とを究めたらん庶事をば花を究あ.たるとや申すぺき。 とも言って居る。また花偽書別紙口侍にも 申柴も人の心に珍Lきと知る併則ち面白き心なり。花と面白きと珍しきとこれ三つげ同じ心なp。 国文単に於ける儒教的理念 二五 β5
団交串に於ける彿数的理念
二六
とあるのである。かういふ意味で清新さと、同時に両日さを存すること計1花として、これをものまねより以上の本質として居るやうに見えるのである。
この花に就いては駈焚に初めて用ゐられて歌論とは鍵係のないものとする詮もあるが一男してさうであらうか○
管空して竺の花宗論の方から釆たもの嘉へたいのであり、その意味も大腰た於て同様であ宣考へられ
るのである。
歌論の方面でこの花の思想は相常に古くから見られる。即ち古今集虞名序に
花山僧正尤得歌準然其詞花市少賓.如閻笠好女徒勤人情とあるのである。きた新撰和歌序にも
花畢相裁
とあり、新撰常葉集序にも
新作花也、葡製貸地。以花此箕今人情、形勢鋪多蓮可憐之句
とある。これ以死花賛の思想は心討との論と同じやうに歌論の重要なる理念となつて居る。新古今集と新勅撰集
との関係を花賓の思想の上から解樺したのもその一例であるのである。世阿禰の花の思想がこれから禿て居るこ
とは疑はれないと児ふ。この場合に歌論の花と能楽論の花とを比較すると歌論に於ては詞よりも心を重んすると
いふ立場と相ならんで花よりも賢を重んずる思想の方が主であつたやうであるが、しかし新苫今集を花と見て居
る鮎から言っても.新吉今集を茸んじて居る立場からは花といふものは緊要な文革理念であつたのである。定家 ヽ j好を重んじ、新古今集を尊重した正撤が幽玄を詮明するのに南鮫の花にたとへたのも、正徹が花を尊重したことは 訂 ● 知られるのである。結局花は聾術的美であつたのである。さうして世阿禰が花を尊重したといふことは世阿輔が 新吉今集、もしくは定家や正徹と.同じやうに垂術的な傾向にあつたことを示すものであり、決して歌論に於ける 花以外の意味をとつて居たのではないと思ふ。世阿弼はかくて茸ともいふべきものまねよりも、花をより重んす ることによつて、その宙術的な立場を開明したものと思ふ。しかし世阿禰の花は歌論に於ける花から出費して更 に襟雑に進んで居る。その鉛を更に観察して見たい。 彼は花を面白く珍しといふ観念と結びつけることによつてその輩術実をといたが、花そのものの欒化をとき、 花そのもの1流行性を祝いて居る。即ち︼の作品を見て珍しく面白いと感するのは花があるからであるとするの であるが、更に 何レノ花力散ラデ麹ルべキ、散ル故エコリテ咲ク頃アレバ攣フシキナ少。能モ任スル併ナキヲマヅ花トシルベシ。ヂウセズ シテ飴′風髄ニウツレバ珍シキナリ。 と言って居る所む見ると、花といふのは欒化であつて、一から他のものに移りかはるによつて生する珍らしさで ぁる。かくて如何にすぐれて居つてもーの鰭のみでは珍らしくたく、従って花がなくなるのであるが十鴇に通じ て居る時には欒化によつて常に珍らしく花があるとするのである。かくの如く見ると花は浮薄な永遠性のないも のゝやうに見えるのであるが、事資彼に於てはこの花がものまねを整術化するものであつたとともに、萎術に於 ける流動性といふことを一面に認めて居ったことは明らかである。かくて流動性を有するが故に花には欒化があ 均文革に於ける俄数的理念
国文嬰に於ける偶数的趨怠 るのである。十六部集に挙げてある花を集めて見ても種々見られる。 ○きpながらこの花k眞の花にはあらず。唯時分の花なp。 0先づ畢狩りぬれば第︼の花失せたp。 ○これも眞の花にはあらず年の盛りと見る人の一且の心の珍しき花なり。まことの日き▲は見ゆくべし。 ○この頃の花こそ初心と申す頃なるを趣めたるやうに主の思ひて云々。 0照合人も著め、一名人なんどに勝つともこれは一且珍しき花なりと思ひ悟りていよく物眞似をも直ぐにし定あ、なほ得た らん人に事を細かに阿ひて棒古を輔増してすべし。きれば時分の花を長の花とする心が匡箕の花になほ遠ざかる心なⅥも 唯人ことにこの時分の花に迷ひてやがて花の失するをも知らず。初心と申すはこの頃の事なり。一公案し丁思ふぺしe我 が位の程を能々心えぬればそれ程の花は一期失せヂ、位より上の上手と思へば本あダウる位の花も失するなり。 ∩未だ眞の花を睦めぬ盛事と知るべし。 ○やう′1年鍋ゆけば身の花もよそ目の花も失するなり。若しこの頃まで失せざらん花こそ琵の花生てはあるぺけれ。其は 五十近くまて失せぎらん花を持ちたる馬手ならば.四十以前に天下の名望を待つぺし。 0きりながら虞に得たらん髄者ならば物故は常々失せてせんなく見所は少なしとも花は竣るぺし。 ○凡そ其頃物故をばはや今の初心に喪りて安き併を少なくと彩えモせしかどち花はいやましド見えしな夢。これ誠に得た ,し花なるが故に熊は碇幸も少なく老木になるまで花は散らで残りしなり。 〇一方の花を究たらん人は萎れたも所をも知る串あるぺし。 0花の萎れたらんこそ面白けれ。花咲かぬ草木の萎れたらんは何を面白かるぺき。 C萎れたる見遣返す人rl大串なり.きる程忙辟にも申Lがたし、古歌に云はく うすぎりの♯の花の朝しめり秋はゆふぺと誰かいひけむ 二八 朗
時分の花、考の花.閏玄の花かやうの條々は人の日にも見えたれどもそ?わぎより出て凍る花なれば嘆く花の如くなれば 又やがて散る時分あり。 ○秘する花を知る事秘すれば花なり七秘せずは花なるぺし。 かういふやうにその言葉を拾っても種々の花の欒化が認められる。即ち時分の花と眞の花もしくは眞賛の花とを 置別し、少年の花と老年の花、盛りわ花と萎れた花とを直別し、また珍しき花と得たりし花と㌢直別し.聾の花 幽玄の花とをも直別して居るのである。さうして少年の時代には素材それ自身か花であるが、かういふ素材的な 花は素材が欒化するにつれて失せる花である。世阿禰はかういふ時分の花をも必ずしも軽んじたのではなく、さ ういふ花をも重んじて居ることは珍しきと面白きとを重んじた立場からも認められる。それは欒化そのものを重 んじたのであるが、これを花の本質とは認めてゐなかったらしい。時分の花と長の花とを直別してゐる鮎や、い つまで過ぎても散らない凍る花を最も重んじて居る‰にもそれが見られる。かくてこの時分の花と長の花との置 別は後に芭蕉のいつた流行性と不易性との厚別にも似てゐるやうであり、芭蕉の流行と不易との有する特質のや うに腰陣であるこ・とも時分の花と眞の花との笹別に似て居る。虞の花を重んする立場から言へば時分の花は重ん すべきではないやうであるが、しかし虞の花だけでは面白く珍しい所が快けるのである。そこに時分の花の重ん すべき鮎も生するのである。結局花は世阿禰に於ても欒化であり、流行であり、固定したものでたい所にその中 心があつた・のではなからうか。流動そのものが花であると言ひ得るのである。さうしてそれが表現芙である所に その特質もある。表現されなければ花はないのであつて、表現された所に花があるのである。 周文単に於ける彿故的理念 βタ
五
然らば花と幽玄とは如何いふ関係にあるかといふに、世阿鰯の解樺する幽玄が世阿禰にとつて、鹿豊警あ
ったことは前にも考へたが、これを申栗談義に見ても
上代末代に蛮人のえてくき軍ぐなりといへ共・至1長久の天下に名をうるしてに晋ては、警の花風はをかるぺかちず 軍恐.砕動 ぐ
んたい きいどうの蛮人竺たん名を得るといへども世上にたへたる名文なし。
とあるのである。また覚習佐々にも
幽玄の風鰭の串、酪乱折事に於て幽玄なるを以て上果とせり。殊更首警於て、附玄の風鯉竺とせり
とある。さうして世阿獅のさす幽玄の意味は私見では歌論の方から警で雷うが、長明や俊成のさす幽玄とは
異なつて、正敏のさす幽玄の意味と大槻同↓でありー従って定家の有心腰の号音味と同警あると見られるの
である。兜督條々、の中に
動的玄の警は誠には如何なる併にてあるべきやらんC先づ望の有樺を以て・人の品々を見るに、公家の御た1ヂまひの 位高く人はう世にかはれ晶姦、足れ幽玄な品と申すぺ去らんG警ば唯美しく柔和な品讐芸嘗り。とあるのは、世阿翻の幽玄の解樺の本質を示すものである。この美しく禁といふ所に幽玄の本腰を置いて、こ
ヽ なほ﹁か;﹂も大餞花と同様蒜質のやうであつて、風情とも見られるが多少鑑別をつければ花と﹁か1り︹とは表現 の一般的効果妄の兵器な筆硯方警の相違でもあらうかCしかしその表現美をさLたものであり、かつ嬰化性・沈 動性を特写ナると思はれ、かつ何れも歌論的方面から衆たものであると首ひ得る。源率法眼の慮管抄︵源吾樽とも いふ︶に﹁句のか1り宜しからぬ歌﹂と云ふ項も見える。﹁か;﹂に就いては他の機骨にゆづつておく。 ● 困文事に於ける伸数的理念 βクれを能楽の各方面の上に見出して居るのである。 ︵l︺一人檀のどかなる粧人ないの解玄なり。 ︵2︶ 言葉優しくして貴人上人の御ならはしの言葉遺をよく/\習ひ窺ひて僻初なりとも、口より出だきんずる官菓の優し からん。是れ言葉の幽玄なるぺし。 ︵3︶ 音曲K於て節怒り美しく下りてなびくと問えたらんには是れ音曲の幽玄なるぺし。 ︵4︶ 舞はよく′∼習ひて、人ないの懸り美しくて静なる粧にて見所面白くは、是れ舞の幽玄にてあるぺし。 即ち俳優、作品、音曲.舞といふ各方面に於て美しく柔和なの は怒れるよそほひがあり、力がこもつて居る中にうつくしきかゝりを有するのをさして居るの甘ある。これを吏 一l に貰許するものは五音曲條々に彗ロ、幽曲、滞京、哀傷、関曲をあげて居るが.この中 鞄曲者、前の祝言にかゝりを添へたり。専任を靡やかにやりて、曲を也みて、上を美しくしてしかも正しさ曲流なp。 といふやうに靡やかに美しいのが幽曲である。さうしてこの五晋曲を栢物にたとへて居るが といふやうに幽曲を櫻にたとへた桝にも実しく柔和といふ解樺は姦害されると思ふ。 国文単に於ける彿数的理念 杉 冬 紅 換 松 木 木 葉 木 朱 閑 衷 燈 関 配 傷 慕 曲 音 曲 容 姿 萎 婁 ∂J
国文単に於ける彿数的理念 三二 かういふ意味で世阿摘の幽玄が美しく柔和といふやうな鮎を中心とすることば疑ひがないが、これによつて能 欒の幽玄は便嫡であるといふ詮.ならびに能楽の幽玄は歌道のそれと異なり世阿禰の幽玄は歌道のそれから釆た のではないといふ誅があるが、この二は私見では何れも否定したいと思ふ。もとより世阿蒲の幽玄は意味から言 へば優娼のやうな意味かも知れないが、幽玄といふ文字でかういふ意味をさす賢例は既に愚秘抄にも 閏玄澄も一途ならず。幽玄の歌とてあつあたる中に行雲樋雪のすがた有ぺし。幽玄は惣名也。行雲樋雪は別膿なるぺし.い はゆる行雲壇要は艶女の曹名なり。それに取てやきしくけだかくして薄雲の何を帝たらん心ちせん歌を行雲と申ぺし。又や きしく気色ばみて、たゞならぬがしかもこまやかに飛雪のいたくつよからぬ風K、ま上ひちる心ちせん欽を喝雪とは申侍ぺ きにや。 と見え、また正徹の見解にも見えるのであつて、必ずしも能斐に於てのみさういふ意味ではないから、幽玄とい ふ文字の解樺の欒藩と見るべきであらう。さうしてまた世阿禰の解するやうな幽玄の意味が点秘抄や世阿軸より や1少し前に出た正徹の見解にある鮎から見ても.世阿鏑の幽玄が歌道とは別に頚生したとは考へられないので ある。さうして世阿摘の解す右やうな幽玄の意味は能勢氏が引詮されたやうに東鑑文治二年四月七日の催.静御 紡が鶴岡で舞をまつたことを許した所に 如今静之心.志壌州多軍之好不惣某者.非貞女之婁、寄形外之風情.謝動中之蕗臓.尤可謂幽玄.柾可質玩給云々。 とあり、井蛙抄にも民部卿入道の人物を論じて 卑下の心も幽玄なりき。 32
とある如くあるにしても.それが世阿弼の幽玄論が歌道より直接にⅢたものではないといふ詮にはならない。正 お 敬より以前、定家の立場の本質としての有心腰の意味が、丈輿論の中心として重んじられた幽玄の言葉の上に加.
はつてくることほ歌論の上にもすでに示されて居る所である。かういふ意味で世阿摘の幽玄が歌論の幽玄と必ず
しも異なつたものでなくむしろ歌論から釆たものであり′、また歌論忙於ける正徹等の幽玄諭に於ける正徹等の幽
玄論と同一の精細にたつものであると思ふのである。
然らば花と幽玄とは如何なる閲係にたつかといふにその実的表硯をさして居る鮎には一致して居り.また世阿禰の解する幽玄といふ意味からは、花と幽玄ともその内容は多くの相違はないやうであるが、しかしその間の根
本的な相遠は莫の流動性であるに封して、幽玄が莫の不易性である所にあると思ふ。花にも時分の花ど長の花と
がある事を言って居るが﹂この長の花、老年になつても凍る長の花が幽玄に近いものとなつてくるのである。考
い時分の突しさは素材的な実も含まれて居るが、老年になつても見られる莫こそ蓉術契である。その実は美しく
柔和であるにしても蓉術表現から自らにじみ出る不易的な糞である。こ1に幽玄莫との関係が見られると思ふ。 さうして幽玄と花ものまねとの関係をこ∼で見なければならぬ。 幽玄と花との拗係は実に於ける不易性と流動性と考へられるが.然らばものまねと是等との関係は如何であるかといふに、賢に封する莫であると思ふ。ものまねはその語義が示すやうに葛嘗的立場をさして居るのではあら
ぅが世阿瑚に於て.は相封的な蔦苦であり、黄を損じない程嗟の発音であつたのである。さうしてものまねは幽玄もしくは花と相調和することによ▼つてその丈輿論が完全なる形をなすのである。そこに箕と美との一致が見られ
圃文革に於ける彿数的理念三周 周文単に於ける沸教的理念 るのである。さうして離輿論の立場によつてものまねと幽玄上の関係の上に、或はものまねの方がより多く寛ん ぜられ、或は幽玄の方が重んぜられたかの相速はあつたが、しかし一方だけでは能楽論わ本質は作られないので ある。更に言へば窮機に於て幽玄によつて統一せちれなければならないのである。こ1に能楽諭が垂経としては 象徴主義的薬術給であることが言はれるのである。・ かく見る時に歌論に於ける幽玄.有心諭と多く.の相違のな.い事を知るのである。たゞそれが歌よりも形態とし て能柴の方が複雑であるだけそこに複雑となるのであつて、単純に幽玄諭のみで解樺することの出来ない鮎が生 するのであるが、その窮極は棄の不易性としての幽玄忙よつて統一されて居るの一であり、そこに中世史輿論とし て歌論等と共通するものがあるのである。さうLてこの金牌を貫くも,のは中世国文単に於ける併数的理念とも言 ひ得ると思ふのである。さうして世阿禰の塑術的理念に於.ては俳数的理念が蛮術化点れてゆく過程が見られるの である。︵昭利七年十一月補︶ 誕