耕作 法 水田 の 鋤 すき 起こ し は おも に馬で す き 、 湿田 は 人 が 鍬 くわ で耕 し て いた 。 麓 ふも と の郷士 に も 自 作地があって 家ごと に 農馬を 飼 育し、また家ごとに作 男も雇って い た。水稲は直 播 じきまき がお も で 、 苗 に し て植 える 田は上 質 の 乾 田に 限 ら れ て いた。明治二 十四年ごろ か ら 県 や役 場か ら の 奨励 で苗植えが普及したが、初めは 田植え 綱 にな じまず十年後にな って ようや く 慣れてき た 。 それで も 郷 士 の田植え に は 昔の門百借 が 手伝いに来て 田植 綱の模 範 を 示 され、 収 穫高も増し た の で 正 条植 が 次 第 に 広ま り、 明 治 四十 五年ころ まで には全村 が 正 条植え に なっ た。 収穫し た 稲 の 乾 燥 につ いて は、大 正 四 ・ 五年ごろ まで は掛 干し 竿 ざお を使 わず 、 地 干 し 畦 あぜ 干しで す ませた。谷 山 で 竿 さお 掛 を 始 めたのは 麓 の 大 脇 為 徳 (後の谷山郵便局長)と伝 えら れて い る 。ま た大 脇氏は害 虫駆除油 を 菜 種油から石油 に 代 第一 章 農 業 史 四四九
第一節
明治以降の農業
第一章
農
業
史
第四編
産業経済史
えて 効果 をあ げ、 こ れ を役場にも進言した。なお、苗代の 作り方や 葉煙草の 苗植 を 始 め、園芸 、桃園、梨園 、養 鶏な ど卒先 し て範 を示 したの も 大脇 為徳といわれ、明治 大 正 時 代にお け る農業先 進者の 一 人 で あった 。 肥料 明治初年まで は 人 糞尿に石灰 や 醬油粕 しょ うゆ かす など、それ に 家畜の厩 肥を 使って い た。明治二十九 年 に燐酸肥料が で きて 、化学肥料が出現し た 。それから二 年後に満州か ら大豆粕が輸入され て 効力 が認め ら れ、 かくして 、これら の 肥 料も使い始め ら れ た。畑作の肥料には人 糞尿と厩 肥がよく 使われ、緑肥は明治四 十 年から 奨 励され、農舎も 建 て ら れ て縁肥を増産 した 。硫酸ア ンモニアの 施 肥は昭和 時代の 初 めに 藤 田 氏 が 夏作 か ら 使 い 出した が 、化 学肥 料 は 作 物 を損 傷 す る 恐れがあるというの で 、指導員も少 量を 使わせた 。一 般農家が使用に慣れた のは数年後 で あって 、 それ から 化 学 肥料の 時 代と なった。自給 肥料 として の 堆肥の 造 成は 明治の中期ご ろま で は ほと んど無知 であ った が、明治 四十三 年 ごろから 堆肥舎に奨励金も出され、その模範農家として 上 福元 の本村吉衛、中村 の瀬戸 口 長右 衛門が表 彰された。 な お ここで 、 石灰と骨粉 の 肥料について述べる。まず石灰 の使 用は藩政時 代 から水田施 肥 に広く 用 いら れて い た 。 谷山 でも石灰 をつくる真砂 ま さ ご 焼場 が四・五 ヵ 所 あ っ て 、明治 四 十年ご ろ でも水稲基肥に 反 当た り三斗 入 り二十叺の 石 灰 が使われ ていた。しかし加里 か り 分が多過ぎて 収 穫 は年々低下の傾向にあったが、それでも 農家は石灰 を 手放そうとは し なかったの で 、時 の加納知 事や佐藤郡長 は三ヶ年間石 灰 の 使用 を 禁 止する命令を出し た。農家 は こ れ で は稲作はで き ないと騒ぎ出 し、耕地を地主に返す者もあれば、夫婦 や親 子の間 で 争いとなり離 婚話ま で もちあがるという始末で あ った 。 と もか く 三 ヵ年の 石 灰使用 禁 止 で 収 穫 高 は 増 し て き たの で、 農 家 もは じめ て納 得 し て使 用 量 を制 限す る よ うに 第四編 産業経済史 四五 〇
なっ た。一方、地 質 を 調査 して 適量を 使 用す るも さしつかえないとの布令も 出さ れたいき さつもある。次に 、 骨 粉 肥料は 「 やまだて 」 と も云い、 鹿児島や宮崎の両県 で は水田 に は使 わなければな ら な い燐酸の 重要 肥料と さ れて い た 。 また 骨粉 を入 れる と肥料 が 長持ちし て、 地力 を大いに 増すもの とさ れ て いた 。 骨 は、満州 や南 支那 または東 南アジア から輸入し た 馬や牛の骨を、水車や 電力 による杵 きね 搗 つ き に よ っ て粉粒に した もの である 。 谷山 で は 福留氏を初め五・六 ヵ所 の水車工場があり、また宮原氏などの電力工場もあっ て 、 盛んに骨粉肥料 を 製造し た 。そ して 、谷山の 農家 の 需 要 に 応 ず るだけで なく 、 宮 崎県や 熊 本 県 方 面 にも 出荷し た 。現在で も 、 福 留 の骨 粉 は 宮 崎 に多く 出 されて い る。 農器 具 門割 り時 代から の 農器具 は 、 明 治 の 中期 ごろ まで は そ のままで 、 少 しも 改良 されて い なか っ た 。す なわち 鍬は柄鍬 え ぐ わ が流行し、越中鍬は明治末期 に なっ て 谷 山に使い出さ れた 。田の 鋤 起 し 用の 馬鋤は、明治 二十四年 頃か ら 流 行し た。水稲 や陸稲 の 脱穀 には、金クダ にかけて一束 ずつしごい て いた。脱穀機 が使われたの は昭和初期か らで 、 今 で も 金 ク ダで し ご いて い る 農 家 も 絶 無で は な い 。 麦類 の 脱 穀 に は 早 く か ら ト ボ シ タ ナ が 用 い ら れて い た が 、 籾 もみ から 脱 皮し た玄米に は木製の 臼 うす を 用 い た 。 ま た精 米には臼 の杵 搗や 「さ こ ん 太郎」 あ るいは 「 さ こ ん太郎」 の理を 基 にし た 足踏 みの米搗 が行なわれてい た 。 米 穀商のうちで は、人を 雇ってこ の足踏 み 米搗 きを やって い た。 電力による脱 穀 機 や精 米機が出 現するまで は 、おおかた こ のような器具 や方 法によ っ た 。 唐箕は 選 別器 とし てわ りあいに古 く か ら 用い られ ていた 。 作物 の 種 類と 食 べ 物 水稲 の品 種として 糯 米 もちこ め にはトボレ糯、 下糯、池田糯などが好まれ、粳米 うる ち にはキ イ レ、ハマ ツキ、加世田万石、 白 玉、ハマツドン、赤千本、二千 本な どが良い 品種とされた 。二千本は早 稲系統 で 、収 穫後 に は 第一 章 農 業 史 四五 一
よく蕎 麦 そば を植えた 。 陸 稲の 品種 は不明 で ある 。 篤 とく 農家によっ て 良い品種が出ると、 そ の 人 の名前 を つ け た も の で 、 池 田糯やハマツ ドン(浜田殿 )などはその 例 で ある。小麦の 品種には 、鎌折れが普 通に用 い られ た 。 麦には 大 麦 、 小 麦 裸麦 があり、 大麦の 作 付け が多 かった が 、 小 麦 も よ く 作 ら れ、谷山 の そ うめ んは 有名 であった 。なお 、 麦 は ほとんど 畑作 で 、 水田の裏作として の麦の播種は上質の水田に 限られ て いた。 大豆は耕作反別 の 大き い農家が作る程度 で 、 調味料と して 味噌、醬 油はたい て い の農家は町な どの醸造業者 から 醬 油粕を 買 っ た も の で あ る。甘 藷 にはいろいろ の品 種があっ たが 、 収 量 は 現在 に 及 ば な か っ た。鹿児 島で は重要 な 食 料 で 主 食がわりになって おり、し ょうちゅう の原料ともなり、ま た 旱魃 かん ばつ や台 風に も強 い の で畑作に は た い て い か ん し ょ を植 えた 。 現 在 で は 澱 粉と し て つ ぶ さ れ る 量 が多 い が 、明治 か ら大 正 ご ろま では もっ ぱ ら 食用 に供 し、蕎麦 粉 を つき まぜた「そま げ」 もよく食べ ら れた。当 時は白米のみ の 御 飯(銀飯 ) を 食べる農 家はほとんど なく、一般の 人々も 芋 と雑穀 を 常食として い た。 特殊な作物と して は、明治 以前から 綿や 麻も一部栽培 せら れ、糸車 で 綿 を 紡 いでいた家もあったが、大正時代 に は すっかり 姿 を 消し、その後は繊維作物と して 一時マオラン が 栽 培さ れ た こ と がある。 桑畑も大正ごろ ま で は よく 見 う け た が、現 今 で は 養 蚕 農家はい たって 少 ない。茶 は畑の回り に 植えたも のが 多く、 手 摘 み し た 茶を たいて い は 自 家で 製茶して い た 。専 門の茶園 ができ る ようになっ た のは 、昭和時代 に なって か らである。ところで 、 茶 の 原木 を 谷 山 に 入れて 茶 の栽培 を 奨励し た のは平井政徳 で あ っ た 。葉煙草 も昔から作っ て い たが 、煙草専売法 が 施行され てから は そ 第四編 産業経済史 四五二
の指導奨励の もと に耕作面 積はふえて い った。その他、柑橘類 かん きつ として 特 に 温 州みかんが栽培せら れ て、商品化し たの はだいた い昭 和に入っ てか らである。なお 、 トマトや いち ごを食べるようになったのは昭和時 代からで、そ れまで は 農家 で 栽 培して い なかった。 土地 制度 明 治 元年 (一八六八年) 十二月大政官 布告 が発せ ら れ て 、 「 各百姓の 村々の 地 面は各 々 の 持 地たる べ し」 との条文が示され、旧制度 の門割地は各自の 所有とな った が、谷山 郷は旧制度と ほとんど変わ らず百姓は庄 屋の 支 配 下にあった。 これは平川や野屋敷など明治八年ご ろま で 続 い て 、乙名 お つ な など の名主が 幅 を き か して いた。 明治六年に 地 租改正令の 発 布を みたが、前年の四月か ら 農 地 の 一筆 調査が始まり 、検地役人に は藩政時代の 郡 見 回 りや番所 詰め がこ れ に 当った。当時、現今 の 鹿児島 市 宇宿町は谷山郷で あっ たの で 、 宇宿 の市 境 界 が地 番 の 一番 に 始 まり、 笹 貫あたりは二百番台となり、 そ れから波 平、 薬師堂、 新入、 奥 、 入 来を 経て 魚見ヶ原に番地が 延び て い った。 検 地 は 明 治 十年 の西 南 之 役が 起こ ると 一時 中 止 と な ったが 、 同十 年冬から ふ た たび 続 け ら れ 、検 地 人 の態 度に は き び し さ が な くなり、曲線や高低など の はなはだし い 畦畔地積 などは 大 目に 見 て 地積計 算 をする と い う ふう であ った 。ま た 山林の検地に は投げ竿が用 いられた。投 げ竿というの は長さ 一 間( 実は六尺四寸 ) の 竹 竿 で 、 山 の斜面 を 上 か ら そ の 竹竿で 投 げ、その止まった 所を一間とし て 計 算し たと いう 。し たがって 山林の実 面積は、こ の 方法によった 地 券 面 よ りもずっと広 い の で ある。 と ころで 、 検 地 して 与 え た 土 地 に 対して百姓は租税の 負 担を 恐れ て、折角の所 有 権 につ い てむし ろ 旧制の ま まの 内百姓た らん こと を欲 する もの があった 。 以上をもっ て 明治時代の農業としたの で あるが、谷山の 耕 作面積や作付 の種類な らび に生産高はいくらあったのか 。 第一章 農 業 史 四五 三
こ れ が 統 計に つ い て は 、 大 東亜戦 火 によって 谷 山 町役場も 全 焼 して そ の 資 料 を 失 って い る ので、 昭 和 二 十 二 年 七 月 に 刊 行さ れた 「 谷 山町概況 調査書」によ っ て 知るの ほ かはない。い ま、 こ の 概況 調査の中か ら 農業関係 を抜 粋 し て み ると 次 の よう になって い る 。 田 畑 自作田 自作 農 自小 作 農 生産高 作物名 作付反別 収穫高 米 八五 〇町五 一五 、六六 一 石 七 小麦 四九八町 二、九九一石 裸麦 五六九〃 五 三、四一七〃 大豆 一七五〃六 八七八〃 そば 五八〃七 一七六〃一 粟 二〇〃六 一、○〇三〃 七九九町歩 一〇、三一七町歩 四一五町歩 一、八〇二戸 一、九〇一戸 農家一戸当 一反 五畝 〃 二反 二畝 小作田二九六町歩 小作農 一 、一七五 戸 第四編 産業経済史 四五 四
甘しょ 三二〇町 一、一九二、一二〇貫 馬鈴 しょ 六七〃七 一八、九五六〃 生大 根 一五五 〃 九、三〇〇〃 その 他 三七五 〃 牛 一、六四一頭 山羊 七頭 馬 七二七〃 鶏 四、四〇〇羽 豚 五〇〃 兎 二、三〇〇頭 農機 具 原動械電動機 七台 同上石油発動機 七台 動力脱穀機 三六〃 同上籾摺 機 二〃 畜力用 一、六一六〃 同上馬耙 一、二六八〃 足踏 脱穀機 二、三六三〃 唐箕 二、三四二〃 中耕除草 機 一、一〇七〃 噴霧撒粉 機 五六四〃 製 繩 じょう 機 一五 四〃 製莚 機 五八〃 牛馬車 一八五 〃 中小車 一、八六六〃 以下「 谷 山の 飢饉史」 と「 和田干拓 と耕 地整理の 沿革 史」 を別項と し て 著 わ すと 共に「産業組 合か ら農業 協 同組 合 第一 章 農 業 史 四五五
への」沿革に つい て の 一項 を 加 え、さ ら に「農 地 改革」や農業基本 法に も触れ、 最後に「 最近 の概況」の項 を設 けて 説 述 する ことに す る 。 中世ごろ の こ と は よくわか ら な いが、徳川時代 に は幾度か大飢饉 き き ん が日本 の 各地に起 っ た 記録 が残さ れ ている 。 天明 五年(一七八七 年 )や天保三 年 (一八三二年)など に は大飢饉 に見舞わ れて 、 多 く の 餓死 者を出し 、あ るいは 騒 動 を起 こし て い る 。 百姓一揆 き も藩政 時 代 に は あ ちこち に 起 っ て い るが、 こ れ は 藩 の 苛 欽 誅 求 かれ ん ち ゅ う きゅう や凶作によるも の で あ る。 しかしわが薩藩にお い て は 大 き な飢饉のあった例に乏しい。 古老の語ると ころ によれば 、わが谷山 で は木の 葉 や草の根 まで 食 べ た凶 作 の 年 は なか っ た と言う 。 こ れ は 南 の 鹿 児 島 が 多 雨 温 暖 で、 しかも多 毛作 であり、 米 が 取れなか ったに し ても 雑穀 で食いつ ながれ て いく か ら であ ろう 。 し かし、 鹿児島で は台風や桜島 の爆発など に よって 幾 度か大 被 害を 被り、不作 の 年もしばしば続いて い る。 谷山 で特に 大 凶作に 見 舞 わ れた のは 、 螟 虫 めい ち ゅ う による 稲 の 大 被 害 である 。 明 治 以降における不 作 の 年 を故 老 に 聞いて み ると、 明 治二十一 年から 五 ヵ 年 にわ たる螟虫の大発 生 を 一 番 に あげ て い る。ほとんど全村 の稲田が 螟虫の大被害 を 受 け、七〇%の 減少 を 見 た。 藩政時代にも毎年の こ とな がら 白穂が出 て 相 当の減収 となっ て いた も の で あ るが 、明 治 二 十一年から 五 ヵ年にかけての螟虫被害は 甚大をきわめ た。 螟虫防除について は こ れまで ほ とん ど対策がなかった ので 第四編 産業経済史 四五 六
第二節
飢
饉
ある が、時の 戸長伊 地 知季 治は委員 を設 け て 駆 除 対策 を 講じ、自 ら 率先して 指導に当たり駆除に懸 命の努力 を 払 っ た。かくして、 五 ヵ年にわたり 螟虫を 逐 次撲 滅して 効 果を あげ た。伊地知 の 功 績 について は、伊地知 季 治伝にく わ し く書 く こ とに する。 大正 十三年に は桜島の 大爆 発があっ て、 降 灰 のため冬 作は ほとんど 全 滅 し、夏作の水稲や畑作の作物も大被 害を 受 けた。降灰は 一か年以上も続 き 、風向 き によっ て は谷山の 全域に火 山 灰 が積り、 葉柄の 弱 い作 物や植物は 一 ヵ月 にし て み な落葉した。 特に麦 や 水陸稲、 葉煙 草などは大被 害を 被り、 甘 藷や里芋の 類 がわずかに被 害を最小限度 に免か れ た。人 々 は道を 歩 く に も灰 よけ の 眼 鏡を かけ、 あ るいはか さを さし たりし て 避け た。そ れ ほど 降灰 は 密 にして 、 作 物 に 非常な損害を 与 え た。 昭和九年は大旱魃 かん ばつ に見舞われた 年 で あった。 大体鹿児島地 方で は台風豪 雨や集中豪雨による被害が多く、日照 り の 年は 大豊 作と 言われる もの である が 、 こ の 昭 和九年の 大旱 魃は水 稲 の 植 付前に降 雨が少 し もな く、一部の 水 田 を 除い て は 全 く 植え付けができ な か っ た。特 に 山田、 中 、西上福 、 中 央、東上福 の 上田地 じょうで ん 帯は 用水の 極 端な 不 足 によって 植 え付けが不可 能となり、水 神祭りや、近 くの神社、寺など に雨ごいし た が、雨 は つい に降ら な かっ た。やむなく 陸 田 に棒 をつ き さ し て 一株 、一 株の 苗植 を試 みた が、 もと よ り これ も直 ちに枯 死 した 。 ま た こ の か んば つに は 竹 や ぶ も 葉 が赤 くなる と いう有 様 でい かに日照 りが 続 い た か がわ かる 。農家 は 畑作に 精 出 し た が 、 こ れ も うまくゆ くは ず が なく その年から翌 年に かけ て町 民は食糧難に 陥り大いに困 った 。その 時 の 大 旱魃と苦 境を記述 し て 、後世ふたた びかか る 大旱魃 を 見まいと、山田部落などに 記念 碑が建てられ ている。 第一 章 農 業 史 四五 七
昭和二十年は 大 東 亜戦 争の 終戦 の年 で あ り、敗戦 による食 糧難は全 国 に わ た って数年続い た。はなはだしい 食 糧 不 足と食糧 統制 によ っ て 、人 々は餓 死 線上 を さ まよ った 。金 を持 て る もの も食糧 を 自 由 に 得 る こ とが できず、 こ の 時ば かり農家は非 常に恵まれ て 、一般の人々は持 て る 物の すべ てを 農家 に持出して食糧に換え た。 しかしその恵 まれ た 農 家も、谷山を初め県内は、昭和二十年の 水稲 収穫前に 二回 の台風に 見舞われ て 不 作となり、翌 二十一年も谷山全 般 に 食糧危機 が訪 れた。その こ ろ は 、上 田 で 十俵の収穫が ある と こ ろ に 二、三俵 しか 取れず、それ に二十年の 夏 の農耕 期 には空襲騒ぎ で 甘 藷や雑 穀 の作付けも 思 う に 任せなかっ た のも 不作の一因で あ った。 ま た二十一年には外地から の 引 揚者がど こでも多く、食糧 不足はいよいよ 深 刻となった。 こ んな食糧難は、生れ て から初め ての ことで あ る と 古 老 も 嘆いて い た。 こ れ から 先は、 日 本 に 戦 争 のない限 り、ま た 海 上 封鎖のない限 り、天変地 異 や病虫害 による不 作 は あって も 、 交 通 運輸が発達し、さ ら に 世界の物資が交流する今日、食糧難によっ て 飢餓にさ ら さ れる ことは政府も 見捨 て ま い。 島津藩 主 第十九代 光久公 の 時代 に、藩士 汾 陽 治 か わ み な み 郎右衛門光東 が承応二年頃(一六五 三 年 ) 郡奉行の 役人として 勧 農 開墾に意を注 ぎ、万治元年(一六五八年 )総田地奉行 ぶぎ ょ う となった 時、藩命 によ っ て 谷山 郷和田村の 海 岸 を 干拓 地として 開発し た 。こ れが 和田 干拓 の始ま り で あ る。
第三節
和田
干拓と
耕
地整理
第四編 産業経済史 四五 八汾陽 はその 子 四郎 兵衛 盛常 と 共 に農 事指 導に 精励 し、 各郷 を 歩 いて開墾干拓に努め、 そのために藩 の石高は 三 万 四 千石も増して、第二十代 綱 貴公 の時代 に は七十二万九千石 の草 高となって い る。 こ の 汾 陽 光東 が 和 田 干 拓を 創始 し た わ け である が 、当 時の 記録 では五 百 四 石 が和 田干 拓 か ら獲 と れた とある 。 その 和田干 拓 の 面 積は約 六 十町歩 で 、 和 田 の 轡崎 く つ わ から 北に、和田掛 下、和田一番 組、和田塩屋 の海岸と町下 川 河口一帯 の海岸 に およんで いる。それ は 、現在 に 見 る 和田干拓の 地 域とだいた い 変 わ ら ない。 ま た 現 在 で も見るよ うに 、 護 岸提防 内 の 敷 地は 全部が 水 田 で は な か っ たの で ある 。 な お 序 に 記 する が、 汾 陽 光東 は 元 禄 七 年(一六 九四年)に亡 くなっ て いる。( 耕地水地事 業 功勲録 上 巻五三 〇 頁 ) その後、和田干拓はたびた びの台 風 によ っ て 一部が破 壊し、そのた びに修理が行 なわれ て いた が、明治以前 の 修 理 について は詳 しい記 録 が見 当らない。明 治になっ てか らも 台風のた めに堤防が壊され、麓 の吉 井友輔が戸長の時 (西 南の 役の数年 前)に、戸長 自 ら が和田浜新田の工事を督 し て数ヶ月 をもっ て 竣工 せしめ て いる 。さ ら に 明治 二十 二 年には破壊し ていた堤防 を 鹿児島市の旅 館主 川崎順二 なる者が島津 氏の権利 を譲 り受 け て 修理 にあたり、 現 在の面 積 の約半分の工事を 始めた。 事 務 所を 和田塩屋 の山下きん に よんどんの店 に置 き 、 請負人川 崎某 を 監 督して 施 工せ し め た。しかるに 二年目になっ て資金続かず 、ついに工事 を 中 止し た。その時、山下休次郎など 家 屋を 投げだし て 援 助 し た が 、完 工に 至 ら なかった 。 それから 、大正八年から 八 か年計画の県継続事 業 で 和 田干 拓の 大修 理工事が再開 せ ら れ て 、昭 和六年に 竣功し た 。 工費三十六万 三千円、こ れ によっ て 造成された面積は 約六 十町歩 で 、島津藩 で 創 設した 時 と大 体同 じ で ある 。 地 区 は 工事 に功 績のあった人の名 を と って 、 福留 区 ( 谷山出身の県会議 員 ) 、 中山区 、 山下区とす る のほか 、 大正 区 、 昭和区な 第一 章 農 業 史 四五九
どの 地名 がつけ ら れた 。 現在、和田干 拓地内 に は轡崎に近く農林省の家畜衛生試験 場九州支場が 昭和十四年五月から 置 かれて い る。 ま た 轡 崎の山下には 、 和 田中学校 が建っ て いる 。 そ し て 、 一 番 組 から掛下を経 て轡崎に 至る 道路が干拓 地 内に できているが 、 その他はほとんど水田 になって おり、現在和田耕作組合がこ れ を 管 理して い る。 次に、 耕地整理 につ いて そ の 沿革を 記 す る 。 中地 区 (向王、辺田、大丸ほか) 着工は明治三十五年十二月二日、竣工は同 三十六年三月七日。耕地総面積は 十 二町八反三畝 一歩、整理後 面積は十三町 七反五畝 で増 地二反二畝。 工事費は二千 四百三十円二 十四銭 五 厘 で 、一 畝歩 当たり二円の 賦課金二千六 百十円。地 主 数は七十二人 、総筆数は百二十九筆。増 地売却代は二 百十七円(一 反 百 円) 地価 総額は三千八百三十二円十七銭 。県 から の奨励金は百 円。委員長は川畑 半治 で あ っ た 。こ の工事 は 、耕 地 整 理 と あわせて 排水工事を 申 請して 施 工し たも の で 、谷山におけ る耕地整理の第一号 で ある。 中地 区耕地 整 理 組 合 (赤田ほか十九字) 認可は明治四十年十二月十七日、竣工は同四十一年五月十一日。耕地総 面積は三十三町九反六畝三歩、整理後面 積は三十四町 一反 八畝 で増 地二反三畝。 工事費は六千 九百七十五円 四十 九銭 七厘、反当た り工費二十八円二十一銭七厘。地 主 数は 百十 三人、総 筆数は三百四 十八筆 で 一筆 平均九畝十八 歩。地 価 総額は六千五百九十 五 円。委員長は串町茂で あっ た。こ の 工事も、排水工事とあわせて 施 工を 申請し た 。 中地 区及 び上 福元 耕地 整理 組合 ( 塚 元ほ か六字) 着工は明治四十一年一月十一日 、 竣 工は同四 十二年三月二 十六日。 耕地総面積は 十七町八反五 畝十七歩、整 理後面積は十 九町六反九畝 二十七歩 で増 地一町八反四 畝十一歩。数筆数 は 第四編 産業経済史 四六〇
百七十二筆。工事費は五千五百十一円三十一銭八厘。委員長は福永彦一で あ った。 中及び上福 元 合同耕地整 理 組 合 認可 は明治四 十一年 十 二月二十六日、着 工は 大正元年 十一月十一日 、竣工は同二 年五月六日。 耕地総面積は 四十六町二反一畝二十九歩 、整理後面積は四十九町三 反六畝二十五 歩で増地三町 一反 四 畝 二十六歩。工 事費は七千四 百七十九円 三 十八銭、地価総 額は一万七千五百 五 十七円十三銭 。地主数 は二百二十 九 人 、 旧筆数は五 百 六十一 で 新筆 数は五 百 九十 二。委員長は 川畑 半治 であ った。 こ の 工 事は排水もあ わせ て施工さ れ、 整理 後の 各作物の生産上昇 が目立ち、整理前の乾田二石は二石六斗に、湿田一石四斗は二石二斗にいずれも増収 した。 上福元及び塩屋耕地整理組 合 (笹 貫、 波平、 塩 屋 ほ か四 字 ) 着工 は 大 正二 年一月 六 日、 竣工 は 同 三 年 六月 二 十 一 日。 耕地 総面積は五十三町一 反 五畝二十 五 歩 、 整 理後面積は五十 五 町四 反七畝二十三歩で増地二町 三反一畝二十八歩 。 工事費は一万五千七百四十円六十銭九厘 。地 主数は上 福 元百八十四人塩屋百八人 で 計 二百九十二人。委員長 は八反 田 太次郎 で あった。 奥牟田耕地整理組 合 (奥 牟田ほか 四字) 認可は大正十一年五 月 七日、着 工は同 十 二年十二月九日、竣工は同 十三 年三月七日。 耕地 総面積は 十一町一反九畝二歩。工事費は 一 万 一千 百 九 十 六 円 四 十 二 銭 三 厘 、 県 か らの 補 助 金 二 百二 十 円 。地 主数は六十四人、筆数は百 五十三 筆 。委員長は本村甚畩で あっ た。 上福元耕地整理組 合 (竹 迫、 黒土田ほか) 着 工 は大正十年十一月十一日、竣工は同 十 一年四月二十八日。耕地面 積は四十五町 二反九畝七歩 。工事費は不 明、地価総額 は一万六千六 百七十円。地主数は二百二 十人 で、その 関係字 は 柳田、後田、有原田、上田 、八反田、九 反田、島の 森 、六反田、本 塚 、 柳橋、七 村、桜田、桜 畠、原田、馬渡に およ 第一 章 農 業 史 四六一
んで い る 。委 員 長 は 松 元 武 興で あ っ た。 上福元西区耕地整理組 合 認可 は大 正十 一年 十一 月二 日、着 工 は同 年同 月七 日、 竣工 は同 十二 年七 月二 十六 日 。 耕 地総面積は三 十九町九反一 畝二十五歩、 整理後面積は 四十 三町八反五畝八歩 で増 地三町九反三畝十三歩。工 事費 は一 万 五 千九 百六 十五 円二十 五 銭 九 厘 。 地 主 数は 百七 十六人、筆数は 不明 で あ るが、 関 係字 は柳 山川 ほか二 十 五字、 窪 田 、 柿 木田、鼻切、 仏生田、諏訪 、下、中溝、 六反田、小永 田、高柳、八 田、永田、穴 田、稲次、内 丸、馬場下、 松永 口、 後平、京の 峰 におよん で い る。委員長は内村直次郎 で あった。 谷山 中央部耕地 整 理 組 合 (上福元 、伊作街道の南、下福 元、 和田 、塩屋) この 耕 地 整 理 は 谷 山 で は 最 大の も の で あって 、 耕地総面積は二百四十六町 五反六畝、地価 総 額は 四万八千五百六十二円 八十 五銭で あ る。地 主 数は 八百 六 十 二人、うち同 意者は六百八 十人 でこ の面 積は二百町六 反七 畝。 こ の 工事申請は大 正十三年六月 で、申請者は 町長佐 藤 清光 、耕地整 理組合長は 海 老原 為治 であ った 。なお 、 工事中および 竣立当 時 の 町 長は松 元 仁市 郎 、 農 会 長は 内村直次 郎 で あった 。 そ し て、 この 整 地 工 事 は左の 四 区に 分 け て実 施 せ られた 。 第一区 総面 積五 十三町八 反六畝七合二 勺 、 評 定 地価総額 一万九千 五 百 三十八円 九十七銭、組 合員数三百七 十一 人、 組合員所 有土 地面積七十四 町八畝十九歩 、着工昭和二 年二月二日。 第一区 の 担当 役員は副組合 長羽月直右衛 門、 評 議 員新原 藤 七郎 ほか十人 であった 。 第二 区 総面 積四十三町七 反 五 畝二十七歩八合一 勺( 内訳田四一町五反一畝二四 歩、畑一町六 反、 宅地二反五畝 二 一 歩、その他三 反)、評定地 価総額一万三千七百四十一円二銭、組合 員 二百七十六人、工事費十万八千二百三円五十 五 第四編 産業経済史 四六二
銭、県補助金八百六十 円、着工昭和三年 一月二十日、 竣工 同年十 二 月 十 二 日 。こ の第 二区 の担当役 員 は 副組合 長 児 玉 新太 郎、評 議 員吉 利茂 樹ほか 八 人で あつ た。 第三区 総面 積四十 五 町七 反七畝二十歩、評定地価 総 額九千六 百四 十六円四十三 銭、着工昭和 四年一月二十五日、竣 工同五年五月十七日。 こ の 第三区 の 担当役員は副組合 長福村善之助、評議員小倉善四郎ほか七人 で あった。 第四区 総面 積十七町五 反 九畝十四歩、 評定地価総額 五千八十八円 九十七銭、着 工昭和四年一 月二十五日、 竣工 同 五 年五 月十七日。 こ の 第四区の 担当役員は副組合長川畑三助、評議員川路利光ほか四人 で あった。 以上の四工区を 合 計 す ると、台帳面積百七十二町九反三畝十六歩九合八勺、整理 面 積百八十三町十反二畝一歩六合三八勺、増地 面積八町一反九畝二十九歩二合勺、総工 事費十一万千二百三十一円二十一銭、増地価 額五万六千四百五十七円七十 五 銭となっ ている 。 須々原開拓地 平川町 の 須々 原に、 昭 和二十二年か ら 引 揚者 の入 植 開 拓が行われ た 。 入植 戸 数 は当 時 約 二十戸で 、現在 は 十 五 戸 に なって い る。こ れ まで は 野 菜 や雑 穀 を 作っ ていたが、交通不便の 事情もあっ て 、今後は酪農 事業などの合理的で 集 約的な 農 業経営 に 移り変わら ん として い る。 ( 写真 は 須 々 原 開 拓 地 ) 第一 章 農 業 史 四六 三
農業協同組合の前身は農業 会、農業会の 前身は産業組 合 で あっ て、 わが谷山 で 産 業組合が発足 したのは大正 の初 期 時 代 からで 、 今を 去 る 五十数 年 前で あ る 。 日 本 の 産業組合 はド イツに お け る 農業振興 策 の 一方式を 取 り 入れたも ので あって 、 初めの程は農業金融に重きを お いて い た 。 実 際、 谷山にお いて も 産 業組合 の 設立以 前 は頼 母 子 講 たの も し こ う がどこ で も 盛ん で あ った が、その ころの金利は年二 割から 二 割 五 分の高利 で 農 家も苦しん で いた。そ こで、政府の方では農 業 を 主とし た 中小企業の健全育 成 の ために産 業組合を 制定 して全国 に奨励し たの で あ る。そして 、 その機構は加 入組 合 員 の 共 同出資による有限責任とし、その経営は組合員から選ばれた理事と監事 にまか さ れたの で ある。 産業組合の業務内容は信用、購買、販売、 利 用 で あるが、それも地域 に よりま た は特種事情によって 、 ある組 合 では 信用 部門 だ け を取 り 扱 い 、 ある 組 合 では 信用 と 講 買 と 販 売 を取 り 扱 い 、 ある 組 合 ではさ ら に 精 米 と か製 繩とか 搾油などの生 産利用 を 加 え た組合 も ある 。谷山市農 協 の前 々身の産 業組合 で は信 用のみ を 取り 扱い、そのた めに 信 用組合とも俗 称 さ れ て いた 。しかし一 般 の産業組合 で はあら ゆ る業 務 を 営み、その名称も信用 購買販売組合 と 呼 ば れて い た 。 産業組合の行政的 機関とし て 、 それぞれの市町村 に一 つ の 農会があっ た 。ところで 、 大 東 亜戦争に臨 み 翼賛体 制 強 化のために、昭和十九年四 月 産業組合と農会を 合一する こ と となり、ここ に産業 組 合と 農会は解散して 新 た に 農 業 会
第四節
産業
組合から農業協同
組合へ
第四編 産業経済史 四六四が発足し た。 そして 、 従来の各 産業組合は農業会の支 所となり、 支 所 長 は農業会の理 事 の 中から任命せら れ た。 しかし終戦 後 昭和二十三年 八 月 十 五 日に、全国 の 農業会は マッ カーサー指令 によって 解散を 命 ぜられ 、 代って 農 業協同組合の誕生 となって現われ、 こ の 農協 が今日ずっと存 続 して い る の で あ る 。 そ して ま た 業務内 容 において も 、 さら に組合員の火 災 や 生 命 の保険共 済から 農 家 の 建 築 共 済 にまで 進 められて 、 農 業 の 経 営 は も とよ り農 家の 生 活 や福 祉に も役立 て ているの であ る 。 なお 、 農 業 会 の解散による 精算は翌二十四年四月十 五 日に完了し、 昭和二十六年 三 月 三十一日には 新たに農業委 員会の 発 足を見 て 、 農 業協同組合と農業 委 員 会が今日にお よん でいる。 次に 、 わ が谷山の 各農業 協 同組合に つ き 、 産 業組合にさ か の ぼ っ て そ の 沿 革 を 一見 する ことに す る 。 東部 農 協 大正四 年 (一 九一 五年 ) 十 月十 九 日 有限 責任 東 上 福 信 用 購 買販売 の 産業 組合として 設 立発足し た。 こ れ は、谷山 で 一 番先 き に でき た組合と して特筆に値 する。設立当 初の組 合 員は百 八 十二名 、 出資口数は二百 五 十八 であって、第一回 の役員は理事長富迫周次郎、 理 事池之平権助、本村甚畩、 柿 木田喜次郎、中馬金畩、監 事 前 田三畩、富迫十右衛門 、笹 平権兵 衛 、田中金助であった。当初は仮事務所を富迫 十 右 第一 章 農 業 史 四六五
衛門宅に置 き 、 大 正六年に事務所を設け、 同 七年五月に農 業倉庫 を 設け 、 同九年六月 に は 新 に利用部 を 加 えて 籾摺機、 精 米 機、 製粉 機、 肥 料 製 粕 杵、 製繩機 を 備えて 組 合員の利用生産 を 図って 販 売した。 昭和四年十月 事務所を 工費 一万六百九十 一円二十銭で新築し、 こ れ が現在 の 東部農 協 の建 物で あり、 そ の後 昭和五年十 二 月 に 肥 料 倉 庫 を 建 て 今 日 に 至 っ て い る。 昭和十年十一 月の組合員数は四〇二、 出 資口数は五〇二となり、 昭 和 四十年は組合 員八五〇、 出 資口数一三、 四六三となっ て い る。 産業 組 合 から 農業会と農協へと至る 間の歴代理事長は初代富迫 周次郎、 二 代富 迫 十右衛門、 三 代小原俊雄、 四代福満市次郎、 五代富迫 森吉となって今 日 におよんで い る。 東上福 は 裕福な部落で、組合も 順調に伸び、こ の 間 、 優良組合として 幾 度か表彰も さ れ て いる。 西農 協 大正 四年十二月二 日産業組合の 認可 を得 て、 同 七 年四月に 事 務所を 開 設し て 信 用、購買、販売 の 業務 を 行 なっ た。 設立当初 の組合員数は二百六十 人、出資口数は二百六 十で あ っ て、第一回の 役員は理事長 内村直次郎、 理事井口武熊 、藤園権 兵衛 、浜田善之 助 、羽月市次郎 、福島庄次郎 、監事 柿 元三次郎、堀脇蔵之烝で あ った。 第四編 産業経済史 四六六
現在の 鉄 筋コ ンクリートの 事務所が新 築 されたのは昭 和 三十九年四 月 で、工費は 四 百九十万余円 であった。 昭 和四 十年度にお ける組合員数は五二八、出資口数は四、九 三七 である。歴代の理事長 は産業組合か ら 農 業会、農 協を 通じ て初代内村直 次郎、 二 代羽月直左衛門、 三代柿元清二 、 四 代松元武繁、 五代伊地知辰雄となっ て 今 日におよ ん でいる。 谷山 市農 協 産業組合として 設 立認可 を 得たのは大正十三年(一九二四年)十月一日 で あ って 、こ の設立の日は谷 山町制の実施 と 同 日 で あった。こ れ には 、歴史的な経緯が ある。谷 山が村制 か ら 町制 を布くに つい ては、中 央に金 融 機関がなければなら な いことが一つ の条件で あっ た。当時 東上福 に は信用部門 を 有す る産業組 合があったの で 、 役 場 当局 では町、 麓と東上 福 を 網 羅 もう ら し た 産業組合の 成 立 を 図ったが、東上福 がこ れに応じ ないの で 、町 麓など中央部落で 産業組合を 設 立し、業務も信用部門だけ を 取 り扱うこと に した 。よ っ て 、 こ の 中 央 部 の 産 業 組 合は 谷山 信用 組 合 と呼 ばれ ていた。 谷 山 信 用 組 合 を つ く っ た 発 頭 人 は 、 麓 側 か ら 前 田 為 信 、 大 脇 為 明 、 吉 利 茂 樹 の 三 人 と 、 町 側 か ら 宮 崎 金 治 、 川 村 亀 助 、 八 色愛之 助 の 三 人 で あった。 こ れ に鬼 丸壮 次郎、八色彦次郎、小倉善四郎などが後援した。創立 第 一 回の役員 には、 理 事 長 に長野武 熊、 理事 に鬼丸 壮 次 郎 、 八 色彦次郎、伊牟田良 之 助 、 小倉善四 郎などが あげら れ 、監事 に は前田為 信と 宮 崎 金 治 があげら れた 。それから 歴 代 の 理事長は 、第二代伊地知栄二、第三代鬼丸壮次郎 、第四代八色彦次郎となっ て い る 。 八色 彦次郎は 永らく専務を勤め、専務か ら 理 事長に就 任し た者 であ る が 、組合の 経営に大 きな 功績 を 残 し、 谷山 市 農 業 協 同 組 合の 今日の 隆 昌の 基礎 をつくっ た恩人 と 言わ れ て いる 。恩 人 と 言えば、 創 立 発頭人 で 現在生存 者の 中の一 人 川 村 亀助 が 役 職 に も 就 か ず 、 ま たこ れ ま で ほ と ん ど 表 彰を 受け たこ と も な い よ う で あ る 。 第一 章 農 業 史 四六七
そ の 後、 産 業 組 合 はい ず れ も 農 業会 に 移 行 し たので あ るが 、同時 に 中 央部 産業組合 も 農 業会の支 所となった。農業会の発足と共 に和田 支 所 、 慈眼 寺支 所、 錫山支 所 も で き た の で ある が、 谷山市農 協の 組織 替に 際 し てこ の三つ の 支所も 谷 山 市 農協 に引 継がれ た 。 な お、 北清 見にあ る 石 造 の大倉 庫 は 農 業会で 建 設 さ れ た も の で あ るが、 こ れも谷 山 市農協 に 引 継 がれた。 産業組合時代の 記 録はいま残っ て い ないの で 、 そ の設立当初の 組 合 員数 や 出 資 口 数、 そ の 他 歴 代の全 理 事 と 全監 事 の 名 前 など は 明 ら か で はない。 た だ 農業会 時 代の 中央部支 所長は山 下喜 八 で あった こ と は 農業会にその 記 録 がある。 昭 和 二十三 年 六月以 来 農協として 発 足し た谷 山 市 農協 の当初 の 組 合 員 数は一八〇二 名 、 出資口数 は二六三二口 (一口百円 ) で、 当初の 役 員は 理事長厚地 規 矩也、 理 事 に は前田為信、 前田兼善、 岩 元伊作、 松元俊賢 、 上 村 進、 白石源之 助、 内山栄、 中野正之、 池 田猪之 烝 、 黒 木八五郎、 監 事 に は柿元善之助、藤元武 、黒木彌之進 があげられた 。なお、理事長の厚地氏は 昭和四十一年の 現 在 に 至る まで 理事 長職 にある。業務内容は信用購買 販 売と し、一時 菜種 搾由 の生産利 用 を 行なっ た こ と もある。 現在 の鉄筋コンク リ ー ト三階建三二 〇坪 の建物は 工費二千三百四十七万円 を もっ て、昭 和 三十六年 十二 月に 竣工 した 。昭 和 四 十 一 年度の 組 第四編 産業経済史 四六八
合員数 は 二〇三〇 名、 出資 口数 は三 二九九二 口で 、建 物と共 に 県内で も 屈 指の大 農 協として 重きを な して い る 。 谷山市農 協の 活動には 特殊 な も の が ある 。産業組合当 時か ら町の商 業 資 金は もと よ り 、漁業 資 金とし て 発動 船や塩 干魚に も 融資 し て 、商業 と 水産業に つく した 功績 も大 きい。谷山市 農 協 となっ て か ら は、さ ら に 谷 山市 発展のために 金融 を図り、 た と えば県立 農業試験場の 谷山移転にあたり敷地購入 資 金 を立替 て 、 あ るいは農林省 の 慈 眼 寺 営林 署の 敷地購入 資金 を立替融 資し たるがごとき、 そ の一例 で ある。 坂之上農協 坂之 上農 協 が 産業 組合 と し て 設 立したのは大正八年 ( 一 九一九年 ) 四月 で 、 現在 の位置にあ っ た青 年舎を 使 用し たる に 始 ま る 。 設 立の動機は、 交通不便 や農 村未開 発 が原 因し て物資の 入手 が意の ご とく なら ず、 特 に 生 産 資 材 (主に肥 料) は谷山 の 中央まで出掛けて 、 し かも 高い値段で 仕 入なければな ら な かっ たの で 、 こ れ を 解 消す るため組合を 設立 した。 業 務 を 信用、 購 買、 販売とした もの も当然 で ある。 当 初の 組 合員数は二六 八名、 出 資金は一八四九円 で 、 地域は坂 之上地区、 向 原 草 野、和田、 玉 利となって い た。 産 業 組合の初代組合長 は福島 純 で 、 農 業会に移行し てから の 初代支部長は草水 厚、 二代支 所 長は松山英徳 と な って い る 。 こ の間 昭和 二十年 八 月 の 空襲によって 二階建 事 務所 と 石 造 倉 第一 章 農 業 史 四六九
庫は焼 け 、笹貫にあった 軍 需工場のバ ラ ック建を終戦後移転して 業 務 を 営ん でいた。 昭和二十三年 農 協 とし て発 足当 時の 役員 は、理 事 長 福 島純、理 事松 山英徳、川路 秀盛、竹之 内 武 雄、草宮 愛 之助、 上床清志、上 村愛之 助 、監 事宮 内直衛、 永重畩五郎、 草水厚 で 、組 合員数は三四 〇名 であった 。第二代理事長は大 迫 親 義 、三代は 上床清志、四 代は大迫親 義 となっ て 現在におよん でいる。 こ の 間、 昭和二十八年五月に製茶工場 を 新設し、 同三十一年十二月近 代 建築 による事務所を竣工し、 同 三十六年十二月有線 放 線を 開始し た 。 昭 和四十一年現 在 の 組合員数は正員六〇〇 、準員九の計 六〇九名 で あ る。 なお こ の 農協には協力組織 として 蔬 菜振 興会、 果 樹振 興会、 酪 農組合が あり、 関 連団体として 坂之 上土地改良区、 坂 之上簡易水道組合など と共 に坂之上 停車場 期 成委員会の ご と き 特殊 な活動もある 。 中農協 産業 組 合 と し て の 設 立 は 大 正 四 年 ( 一 九 一 五 年 ) 十 一 月 二 十 日で 、 信 用購 買 販 売 利 用を 業 務 と し た。 設 立 当時 の 組 合 員 数 は 二三一 名 出 資 口 数 は 三 八四 であり、 初代の 理 事長 は 瀬 戸口長 右 衛門 、 理 事は山 福 助右 衛門、 秋 広長右 衛 門、 川畑佐吉、 上 入 来盛で あ った。 歴 代 の 産 業 組 合理事長は、 初代は前 記 の 瀬戸口長右衛 門、 二代は川 畑佐吉、 三代はま た 瀬 戸口長 右 衛門 となっ て いる 。 第四編 産業経済史 四七〇
農協 に移行し て か らの農協長は初代階元義 謙 、二代瀬戸 口 喜左衛門 、 三代上入来盛、 四 代福留已之助、 五 代畦地周二となっ て現在 に 至っ て い る。 昭和三十五年十一月二 十七日には農 協として谷山 で 始 め て の 鉄 筋コ ン ク リートの 事務所(一〇〇 坪二階建)を工 費 五百二十 九万円で建て た。 昭和四十一年 現在 の組合員 数は五四五名 、 出 資口数は 九四八六口 で あ る が、 元 来 中地区 は 山田地区と共 に谷山 の 穀倉地帯とし て 、 農家の生活も 比 較 的に 裕 福 であ り 、 これ がた め に 農 協 と し ての 経 営 は健 実 で あ り 、 そ の成 績は 県下に お いて 優 秀 と 認 めら れてい る 。 福平 農 協 産業組合として発足したのは大正八年(一九一九年)八月 十五日 で 、 信 用販売購買 利 用生産 を その 業務とし た。 設立当時 の組 合 員 は四八〇 名、 出資口数も四八〇で 、 初代の組合長は栗 山金次郎、 理 事 に は中条正明、 橋口森之烝、 折田助太郎、 新宅貞助、 笹 川助之烝、 松 元 新 之烝 、 高 城仲 之助 、 小 倉 仲 範、 大 脇 為 城 、 鶴 田 仲 之助 、 出 田 経 治、新西 熊助、辻畩次郎、河野直右衛門が挙げられた。産業組 合か ら 農 業会支 所 となり、 現在 の農協に し た のは昭和 二十 三 年 八月で あ って、四十一年度 における組合 員は六九二名 、出 資口数は 一〇一二口 で、初代農協長 は 森永厚見 で あ っ た。 昭和三十八年 一月に鉄筋コンクリ ー ト二 階建一一三坪余 の 新事 務所を 新 築し 、 そ の工 費 は 九百四 万 余 円 で あ っ た 。 歴 第一 章 農 業 史 四七一
代の組合長名 を記すると、産業組合時代の二代は四元喜小 、三代徳 永森右 衛 門 で 、農協時代 の 二代 網屋重之 、三 代 野 頭泰蔵、四代辻国義、五代上 村 次郎助、六代坂 元 実となっ て現在に至っ ている。 平川農 協 農協 の前身平川 産 業組合の設立されたのは大正八年八月十 五日 で 、 福 平 の産業組合と 同日に発足して い る。 設立当時 の組合員数と出資 口は明らかで ないが、 初代 の組合長は加 藤半次郎、 二 代川元浩、 三代 塚 原 末吉、 農 業会支所長 と して の初代は塚 原末吉、 二代今原彌一で あ った。 農 協 とし て発足した昭和 二十三年の組 合員数は三六 二、 出資金は 二三 万円 であった が、 現在は三五九名、 三四 二万円の出資 となっ て いる 。 歴 代の農協長は 初代吉岡実、 二 代松元主雄 、 三代川元浩、四代丸田敬 司 、 五代 外園 昇、 六代松元良 明 となって 今日におよんで い る。 山田農協 農協 の前身で あ る 山田 産業組合が設 立 さ れ た のは、大 正七 年一 月 十 日であ る 。 発 起 人 とな って 設 立 に努 力し た人々は、 中 間 猪 之助 、 西助市、 野間喜一郎、 雨田勇之進、 堀田 宗右 衛門、 川 畑 正 、 脇 黒丸助 次 郎、 鳩宿甚四郎、 山之内善四郎、 松 窪助次郎、 清 藤 勘 助、 坂元金蔵の 諸 氏で あるが、 設立総会の資料なら び に書 類 の 作成 について は、 こ れ を 山 田青年会幹部 に依 頼する こ とに した。 山 田青年会は大 正六年四月に 発足 第四編 産業経済史 四七二
した もの であ る が 、 青 年 会 の 会 長 中 間有 之 助 と副 会長 中 間 静次の 二 人は 組合の定 欵その他 の一切書 類 の 作成を 同 年六月にすま せ、 続いて 七 月 に は中間有之助、 中 間静次、 堀田末吉、 西 田 貞 光の青年 が 産 業組合の 事 務 講習 会に出 席 し て 受 講 した 。 かくして 、 山 田産業組合の設立は青年 会 の協力に負 う ところが きわ め て大 きかった 。 設 立 当 時の 組 合 員は 二 八 〇名 で、 初 代 の 組 合長に は 中 間 猪之助がなった。以下、二 代雨田勇之進、三代西助市 、四代竹下 勇 吉 、 五代 宮内善 次 、 六 代 中 間 有 之助と 組 合長が 引 継が れ た 。 第 七代 は安 楽正 矩で あるが、 こ の 時は農業 会山田支所長 として の 就任 で あ る。 農業会か ら農 業 協 同 組 合 へ の 移 行に 伴 い 、 初 代農 協長 に は 中 間 静次 が 選 ば れ 、 昭 和四 十 一 年三 月一 日 に は山 田と 五 ヶ 別府 の両 農 協 の合 併に よ っ て 谷 山 北 部農 協が出 現 し、 中間 氏は引継 き そ の 初 代理 事長 とな った 。 合併 した五 ヶ 別府農 協 は 昭 和二十三年 十 月の 設立 で、 組合員は二 六 八 名あっ た 。 五 ケ別府 の 歴代 農協 長 は 、初代 黒田 清 光 、 二 代深 川藤之烝、三 代宮内善次、 四代蕨野勇吉 、五代蕨野光盛 で ある が、前 記 のように昭和 四十一年 三月 に山田農 協と 合併 したの で ある。合併前 の 山 田農 協は 組合員は正 三 八 七 名 准 七〇 名、 五ケ別府 農協 は組合員三 六 八 名 で あ っ た が、合 併 後 の 谷 山 市北部 農 協 の 現在 組合員数は六六七 名、出資 口 数 第一 章 農 業 史 四七三
は八一六〇口(一口千円)で あ る。 山田地区は谷山の穀倉地帯と呼ばれ、また五ヶ別府と共に鹿児島市に近いの で、山田 で は 特に園芸作物が栽培せら れ、五ヶ別府で は 西洋野菜 を よ く作って いる。いずれも青年の間に、農業経営 の 研究が盛んで ある。 森林 組合 の 成 立したのは昭和 十 七年二月 十 七 日 で 、設 立 の 登 記 を 見 た の は同年十 二月十六日 で あ っ た。組合 の事務 所 は当 初町役場に あ り、その 後名 越高業の 敷地や、町の 川田代 善 之 進 の 所 に も あった が 、 現 在は上 福 元町東 麓 の四 五二一 番地 に在 る。設立当時 の役員は伊地知栄二を 理事 長に、 名 越 高 業、芝 野 蔵助、折田矢一 郎 、 上 床清志、浜島藤次郎 、 階元義謙、中間一光、茂利 甚太郎、羽月直左衛 を 理事に、芝野盛秀、上入来盛、本村甚畩 を監事として発足した。 伊 地知理事長は就任後一年有 余 で 急死したの で 、名 越理事が 暫時 理事 長代理を 勤めた。 歴代 の理事 長 は第 二代伊地知四 郎、第三代浜島藤次郎、第四代前田為 信 、第 五代が現在 の 上川三 岳 で あ る。 谷山の 森 林面積は昭和四十一年度 現在 で 、 国有 林四九四五 町 歩、分部林一三一町歩( 国 四分市六分の 割合)であ り 、 これ を合計 す る と 六 二 五 二 町 歩 となる 。 市 有 林は 谷山市の 財 源 と し て重 なる もの であ り 、 市の 財 政 に 大 きな収 入 と な り、ある年には赤字財政を 克復し た こ と もあった。なお、 谷山にお ける 最近の製材業には八ヵ所の 事業 所があり、 い ずれも個人または会社の企業 である。谷山には昨今建築ブー ムが 起って お り、木 材 の需要 は 急増して い る 。 農 作 物 の
第五節
森林組合と酪農組合
第四編 産業経済史 四七四生産 がここ数年以来頭打ちとなり、あるいは低減の傾向ある際、森林業者や木材業者は有卦 う け に入って いる。 次に、 酪農 組合 につ いて 概要を 記 す る 。 上 福 元 の伊作 街 道筋 に、 昭 和 二十四 年 か ら 鹿児 島 県 酪 農 協 同 組合が あ る。 こ の 県酪は牛 乳の集荷が目 的で あり、 こ こで 集荷する 牛乳 は隣 の辻之堂 にあ る森永 乳 業工 場に供給 され ること に な っ ている 。 県酪 協 同 組合 で は 県内 から約 五 〇% の牛乳を 集 め て い るが 、谷 山 の 地 元 で は 坂之上、福 平 、 中 、 五 ヶ別府が酪 農 の 主産 地で あり 、ここ に は県 酪 の 各 支 部があっ て 森 永工場に 運ばせ て いる。昭和四 十年十二月末 現在にお ける 谷山 の乳 牛数は六九七頭、飼育戸数は五 七〇戸となっ て いる。なお 、 県 内 には別に 共同 酪農 組 合があっ て 、 ここで 集 荷する牛乳は明治乳菓に供給され て いる。谷山 で は五ヶ別府の 一部が共同 酪 農に属している。 酪農 事業は鹿児島県 で は 比 較的新 し い 農 業 で ある が、牛乳 や乳製品の需 要は近 来 急速に伸びつつあり、森永乳業と相まっ て酪農 事 業は今後益 々 発展 の機 運 に ある。 谷 山で 古くから 乳牛を 飼 育して 牛乳を 売 出して い たのは 北 麓 の 長野武熊 で あ るが、現 在 まとまった産 地として は坂之上が県内におけ る酪 農の先進地 と されて い る。 県酪 農 協 同組合の二代理事長(現在)は松久保 勝 海で あるが、初代の理事長は坂之上の 福 島 純 であ った 。 乳牛 を 生 産 す るために、鹿児島県乳牛人工授精所も昭和二十五年四月から旧田辺工 第一 章 農 業 史 四七五
場敷地 の 一部に設立せられ、両々相まっ て酪農の推進に寄与 し ている。 こ の 農地改革は、昭和二十一年十月二十一日公布 の自 作農 創設特別 措 置 法および昭和二十年十二月二十八日 改 正 の 農地調整法を主軸として 行 なわれたも の で あ る。こ の 二つ の法律は 、大 東亜戦 争 後の民 主 的傾向促進を 図る いわ ゆ る 農地 解放にあって 、農地 に 関す る画期的な一大改革で ある。終戦 後 進駐軍 の マッ カーサーの指令によって 、 財 閥 は解 体 せ られ 独 占 は 禁 止さ れた が、 これ と同 様に 大 地 主 や 不 在 地主 は 大 きな制 限 を受 け て 所有 の 田 畑な どに つ き 一定 の 範 囲 を 超 え る 部 分は 政府 が こ れ を 買収 し て 、新たに 自 作 農 を 創 設 する ことに し たの である 。 これ がた めに 従 来 小 作 人 で あった者 または新たに 農業 を営まん とするも のに 政府 は安い地価で 売り 渡し、 こ こ に 大地 主 を なくし 同 時 に 小 作 人 を なくせん とする農地 の 民主的な解放 が法令化されたの である 。 これ と 共 に ま た 農 地調 整 法 の 改 正 を 見 て 、農業委 員 会 な る も の が発 足 し て 、 農地 の 売 買 事 務を 始 め 農地 調整 に 関 す る い っ さ い の事 務を 取 り 扱うこ と に な っ た ので あ る 。 政府買 収 の対象とな っ た農 地は ㈠ 農 地 の 所 有 者が そ の 住所 のあ る 市 町村 の区域 外 に お いて 所 有 す る 小 作 地 ㈡ 農 地 の 所 有 者がそ の 住所 のある 市 町村 の区域 内 に お いて、 北 海道 にあって は四 町歩、 都 府 県 にあって は中央 農 地 委 員 会 が 都 府 県 別 に 定 め る面積 ( 本 県 にあって は七反 歩 )を 超え る小 作地を 所 有す る場合 そ の面積を 超え る当 該区域内 の 小 作地 ㈢農 地の 所有者がその 住所のある市町村内にお い て所有 す る小作地と そ の者の所 有す る自作地と の 合計面積が
第六節
農地
改革と
農
業
委
員会
第四編 産業経済史 四七六北海道 に あっ て は 十二町歩 、本県の場合は二町歩を 超 え るとき 、 その面積を 超 える小作地。以上がその主なるも の と なっ て い る。 ここで 谷 山市 において どれ だけ の農地が 買 収 されたか というと、昭 和二十二年か ら 同 二十七年の完成期において 、 田が一九一町 一畝二歩、畑が三二五町三 反二畝一一歩 で 、 その 買 収 された者の数は一三八三 名 になって いる 。そ の 価 格は、 田 にありて は 上 中下田 平 均して 一 反 歩 約七 〇 〇 円、畑 に あ り て は 一反 歩 平 均約四〇 〇 円 と な って 買 収 され て い る。 こ れ によっ て 見 る と、田畑面 積 合計五一六 町 三反三畝一 三歩、価 格合 計二百六十三 万八千余円が 動いて い る。 問 題 は こ れによっ ていくばくの 自 作 農 が ふえた か 、換言す ればいくばくの 小 作人 が減 った か で ある が、 これは 簡 単に数字 が挙げら れな い。ただここ で 参 考となる も の は昭和二 十二年七月 「 谷山町概況調 査書」 で 、これによれば、自作 田 四 一 五 町歩、小作田二九六町 歩とあるも の が、昭和二十六年 の「 谷山 町勢 要覧」 で は、自作田六 〇九町歩、小 作田一 八 六町七反歩、自作畑は七八 四町四反歩、 小 作畑は一八 三 町歩となっ て おり、さ らに昭和三十七年度の「谷山市農 家 の 実態 」(農業委員会 編 )では、 自作田 六 五〇町歩、小作田 八〇町四 反歩、自作畑は八三二町五 反歩、小作畑は九四町 六反歩となって お り、 自作 農が非常にふえて い る こ と が目立って い る。 なお 、前 記の 昭 和 二 十 六年 の「 谷山町勢 要覧」による 経 営 土地 総括表と、昭和三十 七年度の農 業委員会編に よる 耕 作地 状況書 を 示すと、次のような統 計になって い る。 第一 章 農 業 史 四七七
第四編
産業経済史
第一 章 農 業 史 四七九
次に 、谷山農 業委員会の昭 和二十一年十 月の 第一回の 委員 を挙げる と左の と お り である。 こ の 委員には一号 から 三 号まで の 区分 があり、 第一号は耕作 の業 務 を 営む 者に して 農地を所有せざ る 者または耕作業務 を 営む 農地 の 面 積 が そ の所 有す る 農 地 の 二倍を 越 ゆる者とし 、 第 二 号は 農地の所 有者 にして 耕 作 の 業 務 を 営 ま ざ る者ま た は そ の所有す る 農 地面積が耕作 を営 む 農 地面 積の 二倍 を越ゆる 者とし、 第三号は耕作 の業務 を 営み かつ農 地 を所有 す る 者 とな って お り、こ れ によって 十 名 の委員が選 出 せられ た (任期 は 二ヵ 年)。一号五人―前田 三畩、新西 勇 一、松元俊賢、蕨 野 栄 次、下 玉 利善一(以上小作代表)二号三 人―瀬戸口喜 左衛門、高城 泰蔵、海老原 為 貴 (以上 地 主代表)三号 二人 ― 本 村吉次郎 、中間茂盛( 以上自 作 代表) 昭和二十六年 三月には委員の 定 数が十五 人となり、 こ のほか学識経 験者五人以内 も認め ら れた 。その結果昭 和 二 十 六年七月の改 選で 、小原景 雄、河野秀雄 、小瀬戸佐市 、秋広清次、 今村藤久次、 徳田英次、折 田啓二、川元 浩、 今 井 文雄、増田肇 、中野広、西秀男、安 楽正 矩、橋口武常 、川 添清二が 公選で 、 上村進、大山五之 助が学識経験者と して 推された。そ の後、昭和三 十二年七月に は公選による 委員 十名 と推 せんによる 委 員十一名 に 改 め ら れ て 、今 日に至っ ている 。 なお、農業委 員会の歴代会 長 を 示すと、 初代前田三畩 、二 代中間静次、三代上 村 進、四代徳田 英次、五 代上 入来 幸 吉、六代安楽正矩、七代(現在)新西哲雄と続い て い る。 第四編 産業経済史 四八〇
昭和三十 六年に有名な 農業 基 本 法が 制定せら れ た 。これが 制定 の理由 は 、 農 業所得が他 の 商工業など の高い所 得 に 比して あ ま り にも 格差が 大 き く 、 ま た食糧 需 要 の 傾 向 も 畜 産 と 果樹 に移行しつつ あり、一方農 業人口の減少 によって 共同 化 や 機械 化 を 推 進 する 必 要 に も 迫 ら れ 、 これ がた めに 生産 性や 需 要 性の 高 い 農 業 を営 むと と も に 、 農 業 の 構 造と 体質 を改善するにあった。 こ の 農業基本 法は日本の農 政史上にお け る抜本的な改 革 で ある が、農業のような 因襲的 な 慣行は一朝一夕に して改まる も の で はなく、農 村 は曲がり角に立ちながら 徐 々に変化しつつある。 谷山にお ける 農業経営 を終 戦直後にさ か の ぼ っ て その 後の 推移 を 見 る と 、およそ 次の とお りに なっ ている。 す な わ ち、昭和二十年から 同 二十五年頃まで は 戦 後 の食 糧難 時代で 、 食 糧 供給のために米、 麦、甘藷 など 主要食 糧 の増 産一 点ばりで あった。昭和二十五年から 同三十年頃 に な る と、 自給農業に主力を 注い で 雑 多な多角 的な経営が行な わ れ た。昭和三十 年から 同 三十五年ご ろ にか け て は、農業 基本法の制 定 もあっ て 、選 択的拡大の 方 向 を とり、麦 や雑 穀を 縮 少 す る と共に食 糧 需 要 に 応じて 畜 産と果 樹 に精 出し、ま た商品 生 産農業を 目 指 して 近く の農 協や 市場に出荷し 、 あ るいは共 同出 荷も 試み て 流 通販路を 広げるに至った。昭和三十 五年 から 同四十年に至る現在 に おいて は 、労働力 の 不 足と、都市化に伴う土地価格の高騰と、都市就業者の 増大に伴う兼業化がみ られ ている。 いま谷山市経 済課の調査に よる農業生産 の 状況 を、昭 和 三十一年度 と 同 三 十四年度、それに同 四 十年度につ き 、 そ れぞれの統計 を 示 すと次の通り で あ る。
第七節
最
近
の
概
況
第一 章 農 業 史 四八一第四編
産業経済史
第一 章 農 業 史 四八 三
第四編
産業経済史
第一 章 農 業 史 四八五
第四編
産業経済史
第一 章 農 業 史 四八七 この よ う に し て、 谷山の 農 業 生 産 は 昭 和 三十四 、 五 年 度 を 最盛 と し て、 以後 は 停 滞また は 漸 減 の 傾 向 が 伺 わ れる。 こ れ が 原 因として は、いぜんとして 農業の生 産性が他 の産業に比して 低 いこ と に あ る 。 こ れ が た めに 全国的な傾向 として 、 若い農業者 の 都市 や工 場へ の流出が多く、一 方 に は貿易 の 自由 化によっ て 農 産 食料 品も外 国 か ら 安い もの が流 入しつ つ ある 。特に 谷 山の 事情 と し ては 、都市 化 に 伴 う地価の 騰貴 が著 しく、農 家は そ の高い地価 に 見合うような農業経営が必 要となり、 ま た農 地を 売りあ る いは農地 を つ ぶして 借 家 を 建て る こ とが 有 利 と見 ら るるに 至っ て い る。上福元の田園 はもとより下 福元 の畑地 に 至 る まで 新築の家が最 近急速にふえ つつあ る が 、 鹿児島市 との 合併 や臨海工 業用 地の 造成によっ て こ の 傾向はますま す増大する も の と 思 わ れる 。それは、谷 山干拓地 (現在 谷 山 市 東開町)が 農 業 用 地 と して 企画せら れ た にも かかわらず、今は工業 団地として進行しつつある 一事を 見 ても容易に首 肯さ れる 。 ところで 、谷山に限ら ず日 本の農業経営は、すで に農 業基本法の指 示に基づ き 、 構造や体質の 改善 によって生 産 性 の向上と所得の 増 大 を 図っ ていかなけれ ばならない。 これ が た めに は、農業生産 の 選択的ある い は集約的 拡 大 や 、 主 産 地 形 成 の 強 化 の 必 要 が あ り 、 さ ら に 少 な い 労働 力 で 合 理 的に 、 し か も これ を企 業 化 し て 効 率 を高 め て い く ことが要 請される。今後の農業経営は、谷山も恐 らくこ の 線 に 沿う て進まなければなるまい。
素盞鳴尊が高 天原 で 数 多くの罪 を犯し、 天照大神の怒 りに ふれて つ いに根国、すなわち今の朝鮮半島の地 に 追 わ れ た。素盞鳴尊 こ の と き の出 発にさ き だっ て、根 国 は金 銀の宝は多い が、わが子の 治める 国 に舟 がないのはよ くな いと いっ て 髯 ひげ を ぬ き 、 なげ は な て ば それが 杉の木 と なっ た。胸 の 毛を ぬいて 、 なげ はなて ば それ が 檜 ひのき とな った。 尻 しり の毛は これ が槇 まき となり、 眉 まゆ 毛はそれが楠の木となった。 そして 仰 せらるるには、 杉の木と 楠の木は舟を 造 る 材料に使い、檜は 宮殿を つ くるに用い、 槇は人民が 美 しい 家を 造 る 材 料に用 い よ と 定め られ た 。 そ れ か ら 素盞鳴 尊 の 子 、五 十猛 いそたける の神が、あまくだり の 時 こ れら の木 の 種 を 多 く持 って くだり、根 国 に植え 尽 くさ ず持ち帰り、 筑紫から撒 き はじめ て ついに大八洲 おおや し ま の 全 土に撒 き つけ、それ が芽 を 出 して大 き く なり、 美 しい青山の日 本の 国となった。 それ で 五 十猛の神の こ とを 有 功 いさ お し の神というこ と に なった。 ま た 五十猛 の 神の妹、大屋津姫 命、抓津姫 命 も 五 十猛 の神も、とも に木 の種の撒き 方 に協 力な されたの で あ る。 平川の烏帽子岳神社の祭神 は素盞鳴尊 で あり、武の神 とされ て いる が、以上の こ とがら に より 、按ずれば樹 木 の 元 祖 で あ り 、尊 の 御 一家 も前 述に ある とお り わ が 国 造林 界の 元祖 であ る 。 山 を つか さ ど り、山 を 守る 神は 大山 津見命 で 第四編 産業経済史 四八八
第二章
林
業
史
第一節
森林
と山神
ある。 谷 山市 内には錫山の 大山 祇 つみ 神社、 草 野の 大山積神 社の外、 各 地に 次 表 に 示 め す がご とく、 多 くの 山の 神 の 石祠 が老 大 木 の も とな どにまつ っ て あっ て 、 各時 代の山林 の中 心 で あっ た こ とを 物語 っ て い る。 ま た 、 こ れら 山 の 神祠 の建 立者 の人々 の 中 に は必ず 山 林 に 関す る功労者 がある こ とも思わ される。 昔から 山 の 神 まつりは正 ・ 五 ・ 九月 の各十六日に、 山 神講を催 し て い る が 、 山 稼ぎ の は じ め と 終 わ り に 必 ず御 神 酒 を さ さげ る の も こ れが一つで あ る。 第二 章 林 業 史 四八九
第四編
産業経済史
四九
御仕 立山 藩費(あるいは藩主の手元金か) を もっ て 杉 、檜、松 などを植栽し地元民に保護手入 を 命 じた。下柴雑 草 は地元民に下付し たが、こ の山は旧藩時代に収穫し た こ と はない。 定建鹿倉山または鹿倉 広大な天然林 でほとんど利用しなかったが、後年 御 手 山支配 人 と言う藩 の指定 商 人に櫓木、
第二節
藩制時
代
の森林
第二 章 林 業 史 四九 一柞灰、樟脳、榾木などを 製 作、製 品 を買上げ、あるいは課 税して 販 売を 認めた。 ま た 地元民に 冥 加 金を 出さ せて 鑑 札 を 与 え 二、 三年の期限付 きで 製炭材料 を 供 給し た。 こ れ を御礼金 と言って 戸毎に杉穂 五 〇〇本あて の 造林費と して 年々納金せし めた。 御物山ま た は 衆力山 佃別挿杉と称し 、 毎年 杉穂ま た は松苗 二 十 五 本、戸 毎 に賦課し 、 無 木地に 植 栽から 保 護手入まで 賦 課 した 一種 の 部 分 林 で、 成木は 藩 主の 家 作 藩用 公用 材 と し て 伐採 する外 、 一般 材は人 民 に有 価払い 下 げし た が 、 植 立入に対して は半額 で 処分した。現今内之 浦 の松 原国 有(潮害防備保安林)は衆力山 で あ った。 部一山 現今の 部分林 で 原野 其の 他荒 蕪地に願出によ っ て造林さ せ、許可のさい、目録 を 下付し成林後は五官五民 で 分収 する もの で、願出によ っ て は 、 現木 分収 した が官 収 分 も一 定の 代償 で売り渡 した 。た だ し 無 願 造林者に 対 す る民 収分は三分の一で あった。 稼山 薪炭櫓木などの稼用の薪材林 で 年々有償払い下げを行なった。従前は永代権のようなも の があった。 民有 林 薩藩の行政区画は国郡をもっ て せず、郷 をもっ て し次 の通り構成し た。藩郷(一二〇余)村数は一定せず、 門(田畑何町何反農民何戸) 門付山 藩内 の田畑 は すべ て 官 有 で あったの で 、 災害時 の 大被害は官費で 復 旧し たが、小 被害は農民の負担とし た 復 旧備として 門 の乙名(名頭 )など の 宅地付属林を 与 え 、樟櫟樫などの良材は藩用 として 備 畜さ せ不良材のみ 、山 奉 行 の許可 で 伐 採 させた。 上記 の外に民 有林として は 士 族 抱地 、 山 永作地 、 持 山 、村 受山が あ っ た 。 第四編 産業経済史 四九二