E雀識説におけるr.ljIJ境心所」の特色
﹁
別
境
心
所
﹂
唯識説における
i
i
﹃成唯議論﹄を中心として
i
i
の
特
色
弁
良
i=.壬王争 E主 別境心所は、大乗仏教の唯識思想が部派仏教(アビダルマ)を承けて発葎した、 う ぷ ︿ し や ろ ん そ く え さ い し よ う げ 例えば有部(﹃慎舎論﹄)に、﹁受・想・患・蝕・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地 特 色 あ (搾る 走J
心主 ごJ 所2
説 グ〉 で2
あ 2 る 大 培 法 で は 、寺
自 次一
、 は め じ 二、倶舎の﹁十大地法﹂と唯議の﹁五期境心所﹂ 三、﹁欲﹂心所の所縁に関する異説と有部批判 題、﹁勝解﹂と﹁念﹂の定義と有部への批判 五 、2
5
と﹁慧﹂における所縁の共通性と作用のちがい 六、別境心所についての﹁倶起・不倶起﹂の問題と論釈 七、尉境の五議および五受との栢応関係と異説 八 ぴ む す一
、
は
め
じ
部 派を数える(玄笑訳、大正二九・一九三 では﹁欲・勝解・念・定・慧﹂ の五つを別境 心一昨に別立し、他の五を遍行心所とした(大正三二・六
O
b
)
ことは、廃知のことである。この場合、﹁遍行﹂ べ っ き とはすべての心(識)に遍く相応するということで、先の大地法と同じ意味であるので、唯識では﹁別境﹂を 性格の異なるものとして分離したのである。 せ し ん ところで、世親の の に 対 し 、 ﹃ 唯 識 三 十 環 ﹄ ﹃唯識三十頚﹄は、唯識による﹁八議﹂説の体系を示しているなかで、﹁心所﹂説に詳しい げんしよう これを注釈した玄実誤の﹃成唯議論﹄(一O
巻)は、インドのアビダルマ理 という特色をもっている。そして、 雲雀議説における rg~境心所」の特色 論をよく吟味して、唯識の大系を釈成していることに定評があり、伝統的にこれがよく講学されてきた墨史をも っ。いま、別境心所の﹃或唯議論﹄における広釈をみるとき、五心所のそれぞれについて意味を厳密に述べるの さ っ ぱ た き ょ う ぶ し よ う O L みでなく、部派における薩婆多(有部)の理解を批判し、或いは経部や正理師の議論を取り上げてそれらを論釈 し退けてい守的。さらに、大乗の唯識論師(安慧)の異説にも及んでそれらを取り上げ、唯識の先行論書である ぞうじゅうろん ﹃議伽論﹄や﹃雑集論﹄などを背景論拠に罵いて、詳しく釈成しているのをみる。しかも、別境心所の唯識思 想における重要な意義辻、それらがいずれも仏道を諺め﹁転迷期藷﹂をはかるうえで、大きな役割をもっ心の辻 たらきであると位歪づけられていることである。 ぴょうゆいしきろん ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ そこで本稿では、唯識における別境心所の特色を、 というのも、これまでの近代の研究では五心所の基本的意味が解説されることを要点として、 の論文にそって少し詳しくあとづけてみたい。 ﹃ 成 唯 議 論 ﹄ しい釈成までには及んでいないからである。唯識の修道に役割をもっ別境心所の重要性からいっても、﹁遍行 ほ つ そ う から別立させねばならなかった理由を、法相理論によって見極めておくことは意味のあることと考える。なおま た、本稿のなかで﹃成唯議論﹄の論文解読においては、玄突からその意を親しく受けたと考えられる慈恵基(六 ぢゆっき の﹃或唯議論述記﹄を用いることにした旬。 三 二 i 六八二)一
一
、
倶舎の
﹁
五
割
境
、
む
所
﹂
﹁
十
大
地
法
﹂
と唯識の
の う ぷ 部派弘教時代のとくに有部教学では、 だ い 、 じ ﹁ 大 培 法 ﹂ にはつぎ 心所法には ﹁ 別 境 心 所 ﹂ は認められずに、それに相当するものは一O
種 じゅもん 頭文 ﹃ 倶 舎 論 ﹄ のなかに数えられていた。 (玄実訳と党文) い 宇 品 、 によってみておくと、 のようにいう。 唯識説における r}JJI境心所Jの特色 受・想・怠・蝕・欲と、 慧・念・作意と、 勝解と三摩地とは、 一 切 の 心 に 遍 ず 。 ぐ 。 己 主 戸 川 副25
同 戸 川 凶 器 召 ︺ 国 訓 のF
2
丘
ω
σ
吾川凶門的0
5
m
洋 右ω
5
3
5
¥
5
5
ω
E
g
g
-E
c
r
g
m
g
g
E
P
E
E
R
E
S
s
-¥
叫 じようごうしゃく これらの心所について、長行釈 ζ は次のように説明されている (各心所に相当の党語をかっこ内 ( 玄 笑 訳 ) 補 受言う。
く ひ 号 ょ う の う 苦・楽・倶非を韻納するに差別有るが故なり。 そ う と は 三 種 を 謂 う 。 想(
S
B
古 川 町 ) し そ く 差別相を取るを謂う。忌(
2
Z
E
)
とは能く心をして造作有らしむるを謂う。蝕(さ号室) そ く た い よ く む ご う け 守 え の和合して生じ、能く蝕対有るを謂う。欲(吾川E
E
)
は所作の事業を希求するを謂う。慧(百三一) け ん ち ゃ く ね ん み よ う き さ い 於いて詑く笥択有るを謂う。念 ( ω ヨ円立)は縁に於いて明記して忘れざるを謂う。作意(吉川5
2
E
S
)
き ょ う か く し よ う げ い ん か さ ん ま じ 能く心を警覚せしむを語、フ。勝解(邑E E
C E
ω )
は能く境に於いて印可するを語、 7 。三摩地( g
E
主 主 ) み さ い か た は心一境性を謂う。諸の心・心所の異なる相は微細にして、一々の相続を分別すること江指お難し。 ︿ び ④ 剥第にも倶時に石るをや。 は境に於いて ( ︿ ぬ 円 宮 門 戸 川 町 ) は根・境・議 は法に 況 や はつ ぎ に 、 世親(︿
ω
2
E
ロ 亀 戸F
五世紀頃) ﹃ 唯 識 三 十 頚 ﹄ で は 、 ﹁ 十 大 地 法 ﹂ に相当するものを遍行と 右 の グ〉 民境の心所に分けて説く。すなわち、第一O
頚につぎのように述べる。 初めの遍行は蝕等なり。次の別境とは語く欲と、 勝解・念・定・慧なり。一昨縁の事の不毘なるをいう。回 応
可 与
ω富
司
郎
包
ミ
a
n
F
s
e
s
g
。
5
2
5
3
ミ
与
g
g
¥
居住議説における守11境心所Jの特色室苦悩宣告号室三三三喜青白書記
g
z
z
;
E
Z
B
¥
¥
呂 、
この第一O
嘆の発文では、後半部に善心一昨( b
E
門戸島笠宮山:・)を加えているので、玄奨訳の よ ︿ し よ う げ ね ん む よ う ( 三 苫Z
ご五種を党文の原語に対応させると、欲(与き含)・勝解S S
U H
H o
r m
m
凶 ) ・ 念 ( ω ヨ亘)・走( z
ぇE
)
・ 慧 ( 島 民 ) と な る 。 ま た 、 ﹃ 三 十 頭 ﹄ の 第 三 頚 に 説 か れ た の を 指 す 。 ﹁別境 頚文に﹁遍行は蝕等なり﹂とは、すでに そ こ で の 遍 行 心 所 の 五 種 は 、 蝕(
ω
吉
弘
ω )
・作意( E
M 5
m H
ω E
E )
・ 受(
i
F
5
己 主 剖 ) ・ 想(
S
召 古 川 同 へ ん ぎ よ う そ う お う し ん む よ ﹁遍行﹂とは、すべての心に相応して機能する心所ということで、﹃倶舎﹄にいう あ ち ゃ ま な 跨頼耶識(劃E
苫 ,i
-g -g
)
と末那議( E
m
言 。 . ︿C
E
S
( の め 片 山 口 町 田 ) で あ る 。 ( 議 ) 寸大地法﹂と基本的には同じ意味である。唯識では、 遍行心所はすでに﹁初能変(阿頼耶識 ) L 創 設 し て 、 ﹁ 八 議 ﹂ 説 を 立 て た の で 、 の箇所(第三頚) に 示 さ れ 、 境﹂は﹁第三能変(第六議)﹂ ﹁ 六 議 L 説であったゆえに、 に説かれることになったのである。すなわち、部派(﹃倶舎論﹄) ( 第 一O
環 ) ( 境 ) のなかの区別が意識されなかったのが、 陪頼耶議などの深層の識には生起しない五種が﹁別境﹂として分けられたのである。 ﹁別境心所﹂とは右の党文に﹁三苫S
F
(
決定ごと表現されるように、 に遷遇したときに生起(壊能)する心作用(心所) では、次のよ ﹁ 十 大 地 法 ﹂ 唯識で﹁八議﹂説とな き に は 、 っ た と き に 、 そ れ で 、 心が特定 ( 各 別 ) の対象 という意味である。 こ れ を ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ うに説明している。次に尉境とは欲より慧に至って、所縁の境事の多分に不同なるを語、っ。六位の中に於いて、初めに次いで説 ⑥ く が 故 な り 。 こ こ で 、 ﹁六位﹂とは遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定の六種の心一昨を指し、 ﹁ w m 境﹂は遍行の次に説かれ るのをいう。そして、欲・勝解・念・定・慧の﹁別境 L 五心所は、所縁(境) がそれぞれ異なるので、 ﹁ 別 境 ﹂ の名を寄るのであるが、 ただし定と慧詰所縁の性格が同じであるため、右の文では﹁多分﹂(四種の不同)によ っ て ﹁ 別 境 ﹂ と い う と す る 。 唯識説における rglJ境心所Jの特色
一
一
、
﹁欲﹂心所の所縁に関する異説と有蔀批判
﹁ 欲 ﹂ ﹁ 所 縁 ﹂ の性格をいかにみるかの異説を 心 所 に つ い て 、 ﹃ 成 論 ﹄ ではその意味を説くなかに、 民境の初め あげて、次のように論ずる(適当に段落をつけて引用する)。 し よ ぎ よ う き ょ う う え け も う し よ う ご ん え ご う 云何なるを欲と為すや。所楽の境の於に義望するを牲と為し、動の依となるを業と為す。 か ご ん う え 有義には、所楽とは可欣の境を謂う。可欣の事の於に晃・関せん等と欲するとき希望有るが故に。 ね が の於に徒には合せとと希い、 可厭の事 宣に欲有るに非ずや。 此 れ は 但 だ 、 後れに合せず 離れんと求める時には、 彼には別離せんと望むれば、 か お ん 可厭の事には非ず。 故に可厭と及ぴ中容の境に於いては一向に 可欣の島体あるも、 欲禁し。可欣の事を縁ずるとも、若し希望せざれば亦た欲の起こること無し。 有義には、所楽とは所求の境を謂う。耳欣・厭の於に合せん離せん等と求めるとき希望有るが故に。中容の 境に於いては一向に欲無し。欣・厭の事を縁じても、若し希求せざれば亦た欲の起こること無し c よくかん 害義には、所楽とは欲観の境を謂う。 一切の事の於に観察せんと欲すれば肴望有るが故に。若し観ぜんと欲に ん 盈 ん 因と境の勢に槌って任運に縁ずれば即ち全く欲無し。斯の理趣に由って欲は遍行に非ず。 し よ う ゅ う ご う ゅ う し よ う ﹃成論﹄では、心所を﹁性用 L と﹁業用﹂とで説明する。﹁性﹂は親用ともいい、それ自体の笠務または働 ゅ う A ご う き(用)をいい、﹁業﹂は謀用ともいい、性用に付槌して行為(業)を起こすもとになる心作用を意味する。し し よ う さ ん し よ う む ん ﹁欲﹂は勤(正勤日精進)を起こすもととなる組紛れた心作用であると定義される。このことは、先 せ ず し て 、 た が っ て 、 唯識説における rz~境心所」の特色 の﹃俣舎論﹄(有部)には民説されなかったこととして注意されてよい。 ぎ よ う う ぎ (﹁楽﹂はねがい求むる意味)の理解について、﹁有義 L がコスノ挙げられ、﹃成論﹄の意留では第三説が最も正し ざ ん 令 い理解である。すなわち、第一説では﹁可欣の境﹂(欣求すべき対象)に対して﹁欲﹂が働くとみる。なかで、 お ん り ﹁可厭の事﹂(厭離すべき対象)にも﹁欲﹂が働くのではないかと問うのには、﹁可厭﹂とみられる事柄も﹁可 つぎに、設の所縁となる﹁所楽の境﹂ 政﹂の範囲にあるゆえ、 ﹁ 可 厭 と 中 容 ( 欣 で も 一 肢 で も な い ) の 境 ﹂ に 対 し て は 、 ﹁ 欲 L は起こらないとする。ここ で、﹁可欣﹂とは仏道において浄土や浬繋を求めること、またこれを﹁希望しない﹂のは邪見によって求めしめ ないという意味を含んでいる。これに対し、第二説では﹁所求の境 L であるとし、これは﹁可政﹂と﹁可厭﹂ 両方をそこに含める(中容の境を除く)意味である。しかるに、第三説では﹁欲観の境﹂であるとするのは、 のすべての境を﹁観察せんと欲する﹂ことであるという。これは、欲心所が六識の、なか ﹁ 可 攻 ・ 可 一 獣 ・ 中 容 ﹂ でもとくに第六議(観察) の働きであることを言わんとするものである。したがって、第八・七議(阿頼耶議と 末那識)や異熟の六識など﹁在運に縁ずる﹂(生命活動に伴って自然に動く)心識には﹁欲﹂は起こらず、ょっ て﹁欲は遍行ではない﹂と結んでいるのである。 このように、欲心所の意味を明らかにしたのち、 では部派(有部) の解釈を批判して、次のように述 ﹃ 成 論 ﹄ べ る 。 か な ら け も う 有説には、要ず境を希望する力に由って、 故
F
諸の心・心所は方に所縁を取る c ﹁欲は諸法の本と為る ﹂ と 説 く 、 と い う 。 彼の説は然らず。心等が境を取るのは作意に由るが故なり。諸の聖教に﹁作意が現前して能く識を生ずる﹂ と説くが故に。曾て処として﹁欲に由って能く心・心所を生ず﹂と説くこと無きが故に。 ﹁諸法は愛を根本と為す﹂と説くが如く、宣に心・心所は皆な愛に由って生ずるや。故に﹁欲は諸法の本と し よ う ご ん お こ 為る﹂と説く辻、欲に起される一切の事業を説く。或いは善の欲は能く正勤を発し、役に由って一切の善 Eを識説における rglj境 心 所Jの特色 事を助成すと説く。故によ
F
に﹁比れは勤の依となるを業と為す﹂と説く。 う せ っ ここでは、一二段に読むこととし、初設に﹁有説 L とは有部(輩婆多)の﹁欲を遍仔(大地法)とみる﹂意味を あ ご ん いう。そこに﹁経﹂とは中阿含経にその的文を見出すのを指す(巻二八、大正一・六O
二c )
。そして、次の段 心識が境(対象)を捉える(境を取ることによって心識は生起する) のは﹁作意﹂心所(遍 に そ れ を 批 判 し て 、 行の一)によるのであり、 それと這同してはいけないという。また、第三設に別の経文の例(雑阿合経巻三五、 ﹁諸法は愛を根本とする﹂と説かれても、愛(煩悩)が遍行心所を意味しないのと、 かの経(中南含)での意味は﹁欲によって起こされる一切の事業﹂をいうと会釈する。しか ぜ ん も、右の文の最後に﹁善欲﹂によってその論述を結ぶのは、注巨を要する。つまり、欲が起こす﹁一切の事業﹂ む き は善・悪・無記の三性に通ずるのであるが、とくに﹁善欲﹂は正勤(精進)を誘発して﹁一切の善事を助成す ご ん え る﹂という。唯識(大乗)では、﹃顕揚論﹄や﹃集論﹄にも欲は﹁勤の依となるを業と為す﹂と説かれ、また ﹃雑集論﹄には三恒を欲の依と為し、欲を精進の依と為す L ( 巻 一O
)
と説かれ、さらに同論に﹁一切法は欲を ⑦ 根本と為し、乃至出離を後辺と為す﹂(巻一五)とも説くように、欲(善設)ほ信・精進(善心所)とともに仏 道を促進し、やがて出離(覚り)に至るのに重要な役割を担っていることが意識されているのである。 大正二・二五六a
)
を 挙 げ 、 こ と 辻 同 様 で あ り , 、回
﹁
勝
解
﹂
と
﹁
念
﹂
の定義と有蔀への批判
軽量議説における rg~境心所」の特色 別境心所の第二と第三は勝解と念である。﹁勝解﹂は﹃成論﹄ 品 り つ ご ょ う き ょ う う え い ん 診 し よ う 云何なるを勝解というや。決定の境の於に部持するを性と為し、 し ん け つ の教・理・蓋の力をもって、所取の境の於に審決し印持するを語、フ。免れに由り異縁あって引転することあ ゅ う よ つ ま び ら 境一を猶議するときには勝解は全く無し。審かに決せざる心にも亦た勝解無し。斯れに由って、 では次のように定義される。 い ん で ん ご う 引転すべからざるを業と為す。 邪・正等 た わ ず 。 故 に 、 勝解は遍行に摂むるに非ず。 正しい教えであれ、その教説と道理と証果(身心に体得すること)には、 こ こ で は 、 部 教 で ・ 占 め れ 、 その入の心 明瞭な護信を呼び起こす、そのような心作期の起こることを務解という。文中に﹁審決﹂ ﹁印持﹂とは、特定の対象(決定の境)に強い確信をもつことをいい、﹁引転しない﹂とはその確信または判断 ち ゅ う ち ょ ゅ う よ を後退させないことである。したがって、露藷(議論部)させるような対象(境)には、この心所は起こらない。 ぎ ぽ ん の う のは﹁疑﹂心所(煩悩)の働きであるから、﹁疑﹂が生起している時には勝解は起こら を動かす力があり、 そ し て 、 ﹁ 境 を 種 議 す る ﹂ ないのである。このことから、勝解は疑(煩悩) ③ を 要 す る 。 の反対概念になるが、 のあることもまた注意 た だ し ﹁ 邪 勝 解 ﹂ ではつぎに、部派説をとりあ、げて批判する。 心等が自境を取る持に拘凝すること無きが故に皆な勝解有り、という。 さ ま た げ 彼の説は理に非ず。所以は何ん。能く礎げざるは即ち諸法なるが故に。凝せざる所は即ち心等なるが故に。 勝れて発起するは根と作意なるが故に。若し此れ(勝解)に由るが故に彼れ(根・作意)が勝れて発起する 勝解について ﹃ 成 論 ﹄ 有 説 に は 、すなわ といはば、此れ(勝解)も応に復た余を待つべし。便ち無窮の失有り。 (かっこ内は引用者) ⑨ の異師﹂を指すといい、間接の説は﹃瀬正理論﹄巻一
O
に 認 め ら れ る 。 これは、勝解が遍行の意味をもっという主張である。段落のるとがそれへの批判である。そこに、﹁不擬(拘礎 ここに﹁有説﹂とは、 ﹁薩婆多(有部) これが務解の意味だとすれほ、心・心所が生起するのに諸法が増上縁(不捧・与 力の義)となるのと同じである(この場合に能不磁が諸法で、所不磁は心・心所という関係である)と批判する。 心・心所を勝れて発起させるものならば、根(五根)と作意(遍行心所)がその任であり、務解ではない 無し)﹂辻﹁不樟﹂に同じで、 ま た 、 H佳蓄量説における「封境心所Jの特色 とする。そして、もし勝解があればこそ援と作意が発起するというなら、勝解もまた別の助力を要する これなら際限をく助力を待ち議論は堂々巡りとなる過失に踊るというのである。このように、 ( 余 を 待 つ ) こ と に な り 、 勝解が遍行であるとする意味が退けられている。 ね ん つぎに、別境の第三﹁念﹂心所には、﹃成論﹄では次のように解説が施される。 ぞ う じ ゅ う み よ う き 云何なるを念と為すや。曾習の境の於に心を明記して忘れざらしめるを性と為し、定の依となるを業と為 し ば し ば お ︿ り す。語く、数曾て受けし所の壊を憶持して、忘失せざらしめ、能く定を引くが故に。曾て未だ受けざる た と 捧・類の境の中に於いては、全く念を起こさず。設い曾て受けし所なれども、明記するあたわざるものには 念は亦た生ぜず。故に念は必ず遍行に摂められるには非ず。 ここでは、過去に経験した事柄(曾習の境)をよく記寵する動きが﹁念﹂である c したがって、未経験のこと、 お は ん 例えばまだ体験していない浬繋等には念を起こすことはなく、またたとえ涯繋のことを聞いたことがあるとして も、それを明確に記龍しえないことがらにはやはり念は生起せず、 さらに第七・八識にも明記する競きがないか ら念は起こらないという意味を右には述べ、 よって念は遍行ではないとする。そして、 しほうびゃく ﹁四法遮﹂は西法足ともいい、 ﹁ 定 の 荻 と な る ﹂ 業用に つ い て 、 ﹃ 芯 守 巳 = 、 一 再 三 日 ﹄ ﹁四法迩において念は是れ定の医なり﹂ と い 、 っ 。 で は ﹁ 無 食 ・ 無膜・正念・正定﹂ 唯識説における「罫境心所Jの特色 の四法が仏道を増進させる基礎であるのをいう。 ついで、有部(藍婆多)の﹁念に遍行の義がある﹂とみる説を掲げ、﹃成論﹄ではそれを批判する。 おくねん 有離には、心の起こるときには必ず念と倶なること有り。能く後の時に憶念する医と為るが故に、という。 ち な 彼の説辻理に非ず。後の持に於いて寮・信等有るをもって、前にも亦た有るが故にということ勿かれ。前の そ う 心・心所と、或いは想の勢力をもって、後時に憧念する因と為せば足りるが故に。 段落援に﹁有説 L を批判する丹は、療(煩髄)と若(善心所)を例にあげて、前の念を後時の念が起こる原因 と考えてはいけないことをいう。そして、後時に念が生起する原因は、心・心所が墳を取る時に巳に本議(荷額 耶議)中に薫ぜられている功能(種子)を因として、或いは想(像を取る遍行心所)の力を因とすると考えれば 是 り る 、 と右の文には述べている。
玉 、
﹁定﹂と﹁慧﹂における所縁の共通性と作用のちがい
つぎに、別境心所の﹁定﹂と﹁慧﹂は、所縁の境が同じ性格であるが、もとより機能を異にする心所である。 じよう まず、﹁{さは﹃成論﹄では次のように説明される。 し よ か ん せ ん ち ゅ う え 云何なるを定と為すや。所観の境の於に心を事注して散ぜざらしむるを性と為し、智の依となるを業と為 ︿ ひ け っ ち ゃ ︿ す。律・失・倶非の境を観ずる中に、定に由って心を奪注にして散ぜざらしめ、新れに依って便ち決択の す な わ 智の生ずること有るを語、三﹁心の事注﹂と言うは、住せんと欲する所に即便ち能く住するを顕わし、唯一 け ん E う 号 ゃ っ か ん と う C の境をいう記は非ず。爾らざれ誌、見道に諸諦を歴観するとき、前後の墳が別なれ江応に等持無かるべし。 若し心を繋けて境に事注せざる位には、便ち定の起こること無し。故に遍行に非ず。こ の な か で 、 ﹁寵・失・倶非﹂とは徳は仏道に益する事柄をいい、失はそれを失うこと、また倶非はどちらで もないことをいうと理解してよい。それで、そのような対象(境)を観ずることに心を集中(専注)させるのが む ろ ぜ ん ﹁定﹂の働きであり、そこから無誌の智慧(決択の知呂)が生まれるという。ただ、ここで無議智と言っても、禅 む よ う ち し ん 定から出た後に療心(煩悩心)を起こすこともあるので、 一切の場合をいうのではなく、 ﹁多分﹂(おおくの場 りやく 合)と﹁浄分 L によってそれを述べていると﹃速記﹄には注釈し、また先の﹁念﹂と詞様に﹁図法遁に約せば せんちゅう ﹁心を専注させる﹂意味について、 定は能く智を生ず﹂とも釈し、 の勝れた機能を示唆している。そして、 J 疋 ﹂ 雲雀議説における「刻境心戸むの特色 それは心を一定期間留まらせる(往する)ことであり、必ずしも前後に唯だ一つの境を縁ずるのではない、と右 け ん ε う の文にはいう。なぜなら、見道(修道のなかの梧見道)で四議を観、するときには、禅走中に﹁十六心﹂が推移す し た い しかも四諦(苦・集・滅・道)それぞれに対境が入れ替わり異なっても、心辻前後均等に持たれて る の で あ り 、 心に散乱(隠煩倍) が生起しているときや、第七議(末部議) が持続的に か ら で あ る 。 か く し て 、 る ( 等 持 ) (符頼耶識)を縁ずるなどは﹁専注﹂とはいえないから、 ﹁ 定 ﹂ は 一 通 行 で は な い と 主 に は 結 ん で い る 。 第 八 つ い で 、 ﹃ 或 論 ﹄ では蔀派の諸説をあげて、批判を加える。 むよう にも亦た定の起こること有り、但だ栢が徴擦なるのみ、 と い 、 7 c 有説には、爾の時(散乱時) -応 に 誠 言 を 説 く べ し 。 若し定は能く心等を和合して同じく一境に趣かしむるをもっての故に是れ遍行なりと そ く ゅ う あ い だ か 理は亦た然らず。是れは蝕の用なるが故に。若し此の定は斜惑の頃の心に縁を易えざらしむ故に遍 う え か 行に摂むと謂はば、亦た理に迩ぜず。一利那の心は自ら所縁の於に易うる義無きが故に。若し定に由り心に 所縁を取らしむる故に逼行に摂むと言はば、設も亦た理に非ず。作意が心に所縁を取らしむるが故なり。 むよう 此の定の体は却ち是れ心なり、経に-説いて心学とも心一境性とも為すが故に、 ー や J争 ギ J号 、
Lil
有 説 に は 、 と い 、 7 。 復れは誠証に非ず。定辻心に摂め、 心を一境にあらしむるに依って、設の言を説くが故に。根・力・覚支・道支等に摂むるをもって、念・慧等の如く、 郎ち心に非ざるが故なり。 ここで、初めの﹁士官説﹂は﹁散心にも定はある﹂という正理師(﹃顕正理論﹄)に婦せられる主張である。それ み る な ら 、 一 ζ は、もし﹁定﹂を和合の非用で心・心所を形成せしめ一境に向かわしめる心所と はたら が心・心所を和合して離別させずに同一の所縁を保たしめる用きをもつのと混 -A... グ〉 批 判 そ は れ 三 辻 文 蝕?が 心 あ 所 る 逼
r
r
局している。こには、もし一一知那(瞬間) に所縁(境)を変えない酌きを定とみ、 ためにそれを遍行とするなら、 元来一一剰蔀の心は所縁を変えない道理ゆえ禁意味である。三には、もし心に所縁を取らしめるのを定心所の役割 唯議説における rg_jl境心所」の特色 と み る な ら 、 それは作意(遍行心所)と混同している、と。 た い き ょ う 号 ょ う ぷ の体(本賞的ものがら)を心所ではなく心とみる経部(経量部)に婦せら しんいっきょうしよう の中に定は心学とも呼ばれ、或いは定の別名を﹁心一境性﹂ また、二つめの﹁有説﹂は、 ﹁ { 疋 ﹂ れる説である。その理由は、三学(戒・定・慧) ともいうからである。これ ζ 対 し 、 ﹁心学﹂は心に関するという程の意味で、また﹁心一境性﹂は心を一つの境 に留めておく作用という意味だから、 それらの語は適切な根拠(誠証) ではないと退ける。そして、定は念・慧 と と も に 、 五担・五力・七覚支・八正道支にも数えられるゆえに、心王(心の主体) ではなく心所(心の作用) で あ る 、 と右の文を結んでいる。 つぎに、別境の第五は﹁慧 L で あ り 、 ﹃成論﹄には次のように解説される。 け ん ち ゃ く ぎ 云何なるを慧と為すや。所観の境め於に簡択するを性と為し、疑を断ずるを業と為す。謂はく、答・失・ ︿ ひ す U 令 け つ む よ う hy ま い 倶非の壌を観ずる中に、慧の推求するに由り決定を得るが故に。観ずるに非ざる境に於いて愚昧の心の中 には簡択すること無きが故に、遍行に摂むるに非ず。 けんちゃく ここで、﹁簡択﹂とはものごとを選び分けて明確な判断を下すという程の意味で、ものごとを観察したときに ゅ う よ 生ずる慧の心作用を表す。したがって、対象に麓蕗(猶橡)する機能を起こす﹁疑﹂とは反対概念となり、慧は疑を遮断する働き(業用)をもっという。また、 ﹁愚昧心﹂(愚かで暖味な心) にも慧は起こらないので、遍行で はないとする。そこで、右の文に続いて ﹃成論﹄には部派説を引用して、これを遍行(大地法)とみるのを退け る 。 す な わ ち 、 唯識説における rglJ境心所Jの特色 そ ・有説には、爾の時(愚昧心)にも赤た慧の起こること有り、恒だ相が数隠なるのみ、という。 たいほう 天愛は寧んぞ知るや。対法に説いて大地法と為すが設に。 諸部の対法は展転して相違す。汝等は知何ぞ執して定量と為すや。 ⑬ ﹁有説﹂とは正理師による主張である。また、﹁天愛 L は神々に愛される者ということで、論主 と い 、 フ 。 こ こ に 、 が棺手(正理師)を軽蔑して呼よ語である。そして、 そこからの文(第二段)は問答式に読むことを要す。すな わち、論主が寸どうしてそのことが分かるのか﹂と問うのに対し、 正理部が﹁対法(﹃発智論﹄や﹃六足論﹄)に 大地法と説くから﹂と答え、 それを論主が﹁諸部派の対法(法の研究) は釈尊の所説をかけ離れて ( 展 転 し て ) 互いに相違するから正しい根拠(定量) とはできない﹂と退けている。 五周境心所のそれぞれを論説したのち、 ﹃ 成 論 ﹄ では総結にそれらが遍行ではないことを述べる。 こ の よ う に 、 す な わ ち 、 そ く き ょ う 唯だ蝕等の五のみを経には遍行と説く。十と説くのは経に非ず。国く執すべからず。然も欲等の五は蝕等に 非ざるが故に、定めて遍行に非ず。信・食等の知し。 と い 、 フ 。 こ こ に 、 ﹁信・貧等﹂を出すのは、善心所(信等)や煩悩心所(貧等) と同様に、別境(欲等の五)を 遍行(蝕等の五)とは区別せよというわけである。 では部境が遍行とは異なる種類の心所であることが釈成されたが、これは唯識思想が第 か く て 、 ﹃ 成 唯 識 論 ﹄ 入・七識の深暑にある心識を晃出したことにもとづく。 つまり、遍行詰第八・七識にも相応するが、別境は基本
的に第六識に関わる心所であるとの区別である。しかるに、ここで注意しなけれぼならないのは、別境の五心所 ぜ ん ね し よ う け ん のうち﹁慧﹂のみは第七識とも相応して生起することである。﹁慧﹂は善慧では正見または正慧(関・思・修の さ ん お あ く え て ん ぎ う 三慧)を発して仏道に勝れた働きをなすが、悪慧のときには悪見を起こし、この場合は﹁顛倒の笥択 L として煩 悩心所に別関される。のみならず、第七議(末都議)には﹁我見﹂の心所が伴い、この我見と悪見(煩悩)は慧 を本葉(体)とすると見られるのである。このことは、﹃成論﹄ではすでに﹁第二能変(末那識)﹂の心所(遍染 義)で論釈されていお。 唯識説における rZIJ境 心 所Jの特色
六、到境、む所についての
﹁
倶
起
・
不
担
問
起
﹂
の問題と詣釈
﹃ 或 唯 識 論 ﹄ では、大乗の立場から部派説に批判を加えて唯識の教理を明白にするという特色をもっ一方で、 自らも部派の対法(法の研究)を採り入れて唯識説にアビダルマ(対法)の法相を究めるという志向をもっ。い ま、別境心所を説くときも、その後半部は別境での法相の機徴を明説する。その一つには、別境の五心所は﹁槙 か﹂の問題である。これには、二説が挙げられる。 たす 有義には、此の五は定めて互いに棺い資け、随って一が起こる時には必ず余の四も有り、という。 ゆ が 有義には不定なれソという。﹃珠御﹄に﹁此れには西の一一切の中に後の二無し L と説くが故に。又た﹁此の五 は西の境を縁じて生ず﹂と説く。所縁と能縁とは定めて倶なるには非ざるが故に。 あ ん ね これの初めのは、﹃述記﹄によれば﹁安慧﹂の説であるという。その主張で辻、五心所は必ず﹁倶起﹂すると みる。対するに後説では、﹁倶﹂もあり﹁不倶﹂もあって一定していないといい、﹃成論﹄では後説が﹁護法正 ぎ 義 L である。﹃議伽論﹄に辻、遍行心所について﹁西の一切﹂(一一切の性・地・時・倶)を其えると説かれ、別境 起(並生)するか不倶起(独生)に は τ 一切時と一一切倶﹂の意味を欠くので、必ず倶起(並生)するというわけではなく、また﹃球悔論﹄には し よ ぎ よ う け つ む よ う ﹁別境の五は酉境(所楽・決定等)を所縁に生ずる﹂と説かれ、所縁(四境)と詑縁(欲等の五)が決まって ⑫ 倶 な る と は 一 不 さ れ て い な い 、 と 後 説 で は 論 挺 を 一 不 す 。 ここで、前説の﹁安慧義﹂(誤起説)は、五心所を遍仔とみる考え方に近いといえるが、安慧(笠宮町山百五片山) こ ÷ 品 ﹃ 成 唯 議 論 ﹄ ( 護 法 説 ) に 対 照 し う る 、 ﹃ 唯 識 三 十 環 ﹄ への注釈の存することが今
E
知られている。それをみ 唯語表説における rglJ境心所」の特色 ると、決して提起(並生)説ではなく、右の後説と同じ﹁不定﹂説であることが分かる。﹃述記﹄を記した基の ⑫ 誤解であろうか。それはともかく、 ﹃ 或 論 ﹄ にもとづいて五心所が強生し或い辻並生 ではついで、後説(正義) する場合を詳しく説く。 酒 田 口 ノ ¥ ニ 一 二 " F r、 し よ ぎ よ う う え け も う ハ︹或る時には一を起こす。所楽の於に唯だ希望のみを起こす。或い ぞうびゅう o し よ か ん せ ん 或いは曾習の於に唯だ憶念のみを起こす。或いは所蔵の於に唯だ事 けんちゃく 所縁に事注すると難も語も簡択するあたわず。 忘に北の五について説くべし。 け つ り ょ う い ん げ は決定の於に唯だ印解のみを起こす。 ち浄う 注 の み を 起 こ す 。 愚 味 の 類 辻 散 心 を 止 め ん が 為 に 、 けぎようい 彼の加行位に少しき関・志すること有る故に、 回 目 ノ 、 、 三一ロ︿ 世には共に後れは定のみ有って慧無きを知る。 等持は所観の 境を縁ずと説く。或いは多分に依る故に是の言を説く。戯忘天が一境に事注して会・韻等を起こすが如し。 し よ か ん け ん ち ゃ く 定のみ有って慧無し。諸の是の如き等辻其の類実に繁し。或いは所観の於に唯だ簡択のみを起こす。謂く、 ち さ ん 事注せず馳敢して推求する。 国或る持に辻二を起こす。謂く、所楽と決定の境の中に於いて欲と勝解を起こす。或いは所楽と曾習の境の 中に於いて欲と及び念を起こす。日疋の如く乃至、所援の境の於に定と及ぴ慧を起こす。合せて十の二・有り。 国或る時には三を起こす。謂く、所楽・訣定・曾習の於に欲・解・念を起こす。是の如く乃至、曾・所観の 於に念・定・慧を起こす。合せて十の三有り。回或る時には四を起こす。謂く、所楽・決定・曾習・所観の境の中に於いて前の四種を起こす。日疋の如く乃至、定・曾習・所観の境の中に於いて後の四種を詔こす。合 せて五の西在り。同開或る時には五を起こす。誇く、所楽・決定・曾習・所観の境の中に於いて良一︿さに五種を 起こす。是の如く四に於いて欲等の五を起こす。総・別に合せて三十一句有り。同或いは有心の位には五と そ つ に も皆な起こさず。四の境に非ざる率爾堕心と及び蔵識に倶なるが如し。此の類は一に非ず。(ハ門 i 同の数字 と横マルは引用者) 唯識説における「別境心所Jの特色 ここで辻、村一心所のみが生話する、伺二心所が沼決起する、何回三心所が農起する、︺湖西心所が鎮起する、回同五 心所みなが倶起する、同五心所すべてが生起しない場合を順に述べている。付では、欲・勝解・念・定・慧の次 第に組生形態を述べるなかに、﹁定﹂には説明を加えている。それは所縁(所観の境)を問乙くする慧との関係 である。すなわち、凡夫(患昧の類) でも散心を止めて所縁(境)に専注すれば定にはあるけれども、欝択しな ければ慧は起こらず、このことは世間にはよく知られているという。もっとも、 凡夫が修行中(加行の位 えに従って﹁少しき聞・思﹂を修めるときには、専注(定)と同時にわずかに簡択(慧)を起こすことはあるが、 その場合にも﹁所観の境﹂は慧ではなく定(等持)についていうとする。或いはまた専注しても構択のない場合 け ら く し よ う ね ん は多い(多分)から、﹁多分に﹂定と慧は開時には起こらないとする。例、えば戴忘天(戯楽にふけり正念を忘れ し ん に が貧りのために一境に専注し、また憤寒天が眼をそばだてて互いに専心に醸意をこらすなど、﹁定のみ た天人) 有って慧は無い﹂ことは多い、 と右の文には述べている。 ついで、同は五心所のうちの二つの倶起であるから、﹁欲・勝解﹂﹁欲・念﹂等の組み合わせは一
O
通り(十笛 竺二ある。同は三つの組み合わせなので、これも一O
通り(十醤の三)ある。側は四つの組み合わせにて、 通り(五箇の西)ある。同は五心所(所縁は四つ) の総てであるから一通り(総の一匂) である。これらは総 ( 一 句 ) と 別(
H
i
回の三十句)とで合わせてコ二匂(通り) となる。さらに、 同ではたとえ心が生起しているう し ん と き ( ・ 有 心 位 ) ﹁所楽﹂等の四の境に向かわないかぎりは、 五心所のどれも起こらない。例えば、第六議 で も 、 でも五心 (五世の次第顕序をへて第六識が生起すること) における﹁率爾堕心﹂ の 位 や 、 また第八議(議議)に は別境心所は生起せず、 その例はこれにとどまらないと右には結んでいる。
七 、
別境の五議および五受との相応関係と異説
日雀議説における r}jJI境心所」の特色 では別境心所の八議心王との相蕗関保を論じ、なかで五識については異説が掲げられ論釈さ れる。まず、第八・七識と第六識については、略述して次のようにいう。 つ ぎ に 、 ﹃ 或 論 ﹄ 第七・八識には此の別境の五は位に槌って有・無なり。前に己に説くが如し。第六意識には諸位に倶なる容 え し 宇 し。依の転ずるにも、未だ転ぜざるにも皆な遮せざるが故なり。 こ の な か に 、 ﹁ 前 に 説 く L とは、第八識ではすでに﹃成論﹄巻三(新導本二ハ頁) に、また第七識では巻四 ( 新 導 本 三 七 頁 ) に論述されたのを指す。 つまり、すでにもふれたように国位で辻第七識が慧 と巻五 ( 同 二 頁 ) とのみ相応するにすぎないが、果位ならば第八・七とも別境のどれにも相応する。そして、第六識でも因位(未 転依) と果往(銭転) 因位には右のコ二十一句﹂に示されたのを指し、果位(妙観察知日)に辻どれも と が あ り 、 一向に有るので、第六識にはいかなる位にも別境は生起しうる(遮せず) の で あ る 。 つ い で 、 五識については異説が挙げられ、 次のように論述される。 け も う 一 し ん け つ 己得の境を縁ずるには、希望無きが故に。審決することあた つ い お く む し よ う せ ん ち ゅ う 追議無きが故に。自性の散動すれば、事注すること無き 五識には比の五は皆な無しという。 い ん ピ わざれば、印持無きが故に。恒に新境を取れば、 す い た く け ん ち ゃ く が設に。誰度することあたわざれば、簡択無きが故なり。 有 義 に は 、みれつ 五識にも此の五有るやし。境の於に増上に希望すること無しと難も、高も徴劣に境を勢、フ義有る し ん け つ ぞ う 一 C ゅ う た い が故に。境の於に増上に審決すること無しと難も、高も徴劣に境を印する義・有るが故に。曾習の境の体を み よ う き さ い け ね ん 明記すること無しと難も、百も徴劣に境の類を念ずること有るが故に。作意して一境に繋念せずと難も、 せ ん ち ゅ う と う い ん し ゃ し よ う さ ん ど う と う C 語も数劣に享注する義有るが故に。等引を惑するが設に性は散動なりと説く。等持を遮するには非ざるが べ す い た く け ん ち ゃ く 故に、定在る容し。所縁の於に推度することあたわずと錐も、高も数劣に簡択する義有るが故に。此れに げ ん に つ う ﹁誤・耳通辻是れ誤・耳識と相応する智性なり L と 説 く 。 有 義 に 辻 、 由 っ て 、 聖教には 余の三も此れに准じて慧有りと 書佐議説における f}}IJ境 心 所Jの特色 い う に 失 無 し 。 み む ざ い ね が 未自在の位には此の五は或るときに辻無し。自在を得る時に辻此の五は定めて有り。諸境を観ぜんと楽え法 む げ ん む げ ん む げ ん 欲は無減なるが故に。境を侍すれば勝解は常に無減なるが故に。境は皆な曾受なれば念は無減なるが故に。 じ よ う し ん さ 如来には定心ならざること有ること無きが故に。五識には皆な作 又た仏の五識は三世をも縁ずるが故に。 む ち 事智春るが故なり。 あ ん ね ﹁安慧﹂義に帰せられていゐ。 ﹁ 有 義 ﹂ は ﹃ 述 記 ﹄ には明記されないが、 し か し 、 先に掲げた ここに、初めの 安 慧 ( 印 吾 吉 戸 H H H m w Z ) の ﹃釈論﹄には、そのような言及を見出すことはできない。五議(誤・耳・鼻・舌・身議) は、現前の対象(巳得の境)を単純に把握して (現量得)、第六意識のような三世にもわたって推考する(比量 得)総紛れた能力をもたないので、別境の機能をもたないとみるのであろう。対して後の有義(正義) で は 、 の能力や機能への見方はほとんど変わらないが、五識は多くの場合に第六識と倶に生起する ( 五 倶 意 識 ) 意識の力に引かれて徴か (徴劣)にも別境と相志すると主張し、五別境それぞれが相迩するさまを説明している。 じしよう
J
F
について五識が﹁自性散動﹂とは﹃雑集論﹄等に説かれ、五識は本来的に集中力を持てない性格 であるのをい対。しかも、そこには﹁等引﹂と﹁等持﹂とが区別され、五識には等引は否定されるが、等持は否 な か で 、⑬ 定されないという。 ﹁慧﹂について﹁聖教 L とは﹃稔伽論﹄を指し、そこに﹁聖者のもつ眼・耳の通力は眼・耳議相応の智 慧に扇する﹂と説くのを根拠に、娘・耳識に慧の相忘するのを述べ、鼻・舌・身識も例河することをい旬。そし て、五識は﹁未自在住(国位)では或るときには無し﹂とは、多くの場合には無くて在る時は少ないことを含意 ま た 、 し、他方で第六意識では逆 ζ 有る時は多く無い時は少ないことをいう。それが五識でも﹁自在を得る持﹂(成所 作智) には尉境の五は定めて有るという。その場合に、欲などが﹁無減なり﹂とは仏地(仏陀の位)には欲等の 唯識説における「別境心所」の特色 刻境辻自在に起こることをいう。 ﹃ 成 論 ﹄ で は 、 さらに別境心所の ﹁五受﹂との相応関係をつぎに論ずる。五受註﹁苦・奈・憂・喜・捨﹂ グ〉 受言さ 心 て 所 遍 行 ﹃ 成 論 ﹄ では心・心所を論釈するには必ず五受との栢応関係をみる。それは、受 の 作 用 で 、 はすべての心・心所に相志して、自己に好ましい (頭)境か、努ましくない (違)境かを色づけす ( 惑 受 作 吊 ) るもとになるからであろう。これを別境では、次のように議釈される。 しよぎよう 此の別境の五は何なる受と相応するや。有義には、欲は三にして憂・苦受を捺くという。彼の二境は所楽 に非ざるを以ての故に。余の西は西に通じ、唯だ苦受のみを除く。審決等は五識に無きを以ての故なり。 しゅうせき 有義には、一切の五受と椙志するという。﹃論﹄に﹁憂根は無上の法の於に思慕し愁感して求め証せんと欲 げ だ っ け h y す﹂と説くが故に。純受苦処には解脱せんと希求し、意に苦根有ることは読に己に説くが故に。﹃論﹄に よ く ﹁食愛は憂・苦と相応す﹂と説く。此の会愛と倶なるには必ず欲有るが故に。苦根は既に意識とも相応する み さ い 又た五識と倶なるにも亦た徴細の印境等の西有 こと有れば、審決等の四も苦と倶なること何の告かあらん。 る義は前説の如し。斯れに由って欲等は五受と棺応す。 し よ う か い が ︿ 此の五を護た笠・界・学生寸に欽って、諸門分別することは還の如く応に思うべし。
ここに、初めの﹁有義﹂は﹁審決等(勝解等) は五議に無し﹂と言うので、先の﹁安慧﹂に結滞せられる﹁五議 には別境なし﹂(意識のみに別境は相・応する)とみる立場の主張である。これは﹁意識に苦受を立てない﹂義で ⑬ 訟 が ある。﹁欲は三なり﹂とは、憂・苦を楽う(希望する)ことはないから、欲に辻﹁喜・楽・捨﹂の三受が相応す ることをいう。そして、勝解ほかの四には苦受のみを除き、あとの四受が相応するとみる。 これに対して後の﹁有義しでは、﹁意識の苦受﹂を認め、五受すべてが相応するという。その論拠には﹃議伽 雲雀議説における「別境心所」の特色 論﹄や﹃雑集論﹄にみる説が挙げられる。例えば善欲なら地獄(純受苦処)に居れば苦を解脱したいと希求する ⑬ でもすでに認めているとする。また、司じく﹃議制論﹄や﹃雑集論﹄ 道理で、意識に苦受のあることは﹃或論﹄ にみる誌を根拠に、会愛(煩悩) 受 す る 道 理 で 、 泣現前の境を欲する故に﹁欲 L と相応し、食は苦の原因であるから欲も苦を感 @ よって意識辻苦受と相・一めする。そして、﹁欲﹂に例同して勝解ほか(審決等)の西も苦受と棺応 するとする。しかも、 それらの論拠は仮に前の﹁五識に別境はない﹂とみる立場で(他宗に就いて)述べたもの であり、﹁五識にも別境は倶起する﹂とみる正義でも、欲等の尉境心所は五受すべてと相応する、 と﹁五受﹂に ついて右には結釈している。 つ ま り 、 そこに﹁前説の如し﹂と辻先に﹁五識での倶起﹂を詳しく述べた﹁有義﹂ ( 護 法 正 義 ) の 一 昨 説 を 指 す 。 さ ら に 、 ﹃ 成 論 ﹄ では抱の関孫(諸門) でも別境について論ずる必要があるとし、右の文の最後 ζ ﹁ 性 学等の諸門分別﹂を掲げているが、説明には及んでいない。すな
b
ち、別境心所は﹁三位﹂(善・悪・無記)に わたること、また﹁三界九地﹂に生起すること、 では心学(定)と慧学(智慧) そして﹁三学﹂(戒・定・慧) に関わることなどは、これまでの論述にすでに触れられたので、省かれているとしてよい。八、む
び
す
本稿では、部派仏教(﹃倶舎論﹄) で﹁十大地法﹂とされたのが、大乗の唯識思想で別境の五心所(欲・勝解・ 念・定・慧)を組立させたそのわけを、 のやや詳しい論説によってみた。そこには、有部を初めと ﹃ 或 唯 議 論 ﹄ した部誌の理論(有説)を山引用して批判官を加え、同時に別境の五法がいずれも仏道修行と転迷開悟のために必須 軽笹議説における r~IJ境心所」の特色 の役割を担う心非用であることが明確に意識されており、 そのことがまた別境を遍行(大地法)と区別する主要 な動機であったこともよく理解できた。その場合、別境心所は唯議思想が発見した第八・七識の深層の心識では なく(但し慧のみは第七議と相応するが)、第六意識を中心に起こす心作用であることが分かり、そこから敷街 するとき仏道におげる転速間程(転識簿智)は第六意識の自覚的な向上と諌屠によって五識を導き深層心に及ん の論法は蔀派以来のアビダルマ で進められることが儒われるのである。そして、﹃成論﹄ (法研究)を大乗に昇 化した子法により、先行の論書では﹃議鋼部地論﹄、 ﹃大乗河昆達磨集論﹄、司﹃雑集論﹄に従い、大乗の論諦 (・有義)における法相の機敏を考究している。それをまた、基の﹃唯議述記﹄ 理解に巧みな指南を与えている。 では法相理論によく通じた注釈を 施 し て 、 ただ、﹃述記﹄による注釈では、﹁安慧義﹂とされるものが現存する安慧25
青 山 口 H E Z ) の﹃釈論﹄とは相反 し、または見出されないことは、注釈者である基の誤解といえようか。 し か し 、 そのことはここにとどまらず、 ﹃或論﹄の随所に引用される﹁有義﹂(異説) の最も多くが﹁安慧義 L と さ れ 、 しかも多くの場合にそれらがか の﹃釈論﹄には見出され難いのである。もっとも、 ﹃品恥ド -3 し 2 1 引火ニ三日﹄ の安慧(盟主E
百 三 一 ) と のいう﹁安慧﹂と﹃釈論﹄ が別人かという問題も提起されてよいが、 いまは従来通りに同一人とみるとき、世親門下の﹁十大論師 L の な か註 m v 新導本﹃或唯議論﹄巻五・三 O i 三七頁(大正一三・二七 ci 二 九 b ) 。 本 積 で 辻 、 を用いる。また、典拠を示すのに﹃大正新誇大識経﹄は﹁大正﹂と培払称する。 争基﹃成唯議論述記﹄巻六本(大系本﹃成唯議論﹄第三・二二六 i 二五五頁、大豆週三・酉二八 b i 四 三 三 積では﹃唯議述記﹄または﹃述記﹄とも略訴し、﹁大系本﹂を用いる。 ③福原亮厳監修﹃党本蔵漢英和訳合壁間毘達磨倶舎論本嘆の研究﹄一二八頁。
FgzpC
凶︿巴- m o
可Z
E
﹀ ずE
門 医 員E m
凶}
S
E
門 戸 。 ︿m g
E σ
2
丘F
F
、 H ,E
円H C の 片 山 ( ) ロ2
K
F
ロ ロ 。g
t
o
g
-z
c
c
︿ 巴-o
m
門 同 町 立O
ロm H H
戸m z
z z
c c
o
旬 月m
E
z
翌 日 角 川 口 ロo
F
m
戸 5 0 2 p 、 円 。E
Y
冨 吋 同 油 田E M
O
-- g
w
古- H m ω
・ あ び だ っ ま 岳玄笑訳﹃府内昆達磨倶舎論﹄巻四(大正二九・一九a )
⑤新導本﹃唯識三十額﹄囲頁。ω
三g
吉 H h i ・5
3
毛
色
ヨ
記
ZS
包 門E F
-ロ
2 u
二 塁 津 安 門 目 。 ︿m
g
c
g
E
F
F
ョ
ヨ
z
z
叶 ユ ヨ 色 付m
F
2
2
Z
2
5
5
2
s
-Z
号2 E
Z E
E
-w H
U N
P H
V M
E m
-宮 山 ω ・ ⑤新導本﹃成唯議論﹄巻五・三O
頁。大系本﹃成唯議論﹄第三・二二六 i 七頁。なお、これ以下に注①の範囲(﹁新 導本﹂巻五)を引用するときは、ほぽ論文の顕淳を追うので、典携を注記するのを省く。また、﹃成唯議論﹄の論文 を理解するのには、基の﹃唯識述記﹄巻六本(大系本による)を参照する。そして、﹁新導本﹂論文の傍注は﹃述記﹄ の要点を記しており、本稿ではそれらを参照しながら論文解読を進めるので、注②の範屈にある﹃述記﹄所述につい ては、とくに必要のあるときを除いて一々に典拠を記すのを省く。 げ ん よ う し よ う ぎ よ う ろ ん ご 串 う ろ ん ⑦﹃顕揚聖教論﹄巻一(大正一三・四八一 b ) 、﹃大乗阿毘達磨集論﹄巻一(無著造、大正三・六六密 a ) 、 ぞうごゅうろん 阿昆達磨雑集論﹄巻一O
(
安慧課、大正一三・七四O
a
)
、同﹃雑集論﹄巻一五(大正三・七六九己)。 ぎ う え 申 う よ ③頚楢心所の﹁疑﹂は、﹃或論﹄で辻巻六に説かれる。そこには﹁疑辻諸請の理の於に猶議するを性と為し、 で護法(ロ F M 弓 吉 川 凶 也 記p
五三O
i
五 六 二 の主要なライバルが安慧(笠宮町2
H
E
Z
)
であったとすれば、 義﹂を導き出すための訳者玄実による構文操作のなかで、 玄盤んから親しく意を承けた基が注釈の便宜に、 多くを仮に﹁安慧﹂に婦せしめたとも考えられてよい。 ﹃ 或 論 ﹄ と も 略 称 し 、 E鑑識説における rJjjl境心所』の特色 ﹁ ﹁疑の善口問を障えるを業と為す。猶鴇燃の者には茎ロは生ぜざるが故に﹂という(新導本巻六・一回頁)。また、﹁郡勝解﹂ へ ん ぜ ん は﹁邪欲﹂とともに﹃成論﹄では巻四に出る(新導本巻四・三六頁)。そこでは、末那識の心所に関わって﹁遍染義﹂ しようぎ が論じられ、﹁十遍染﹂義では邪欲と邪勝解を随煩悩に数えるが、﹃成論﹄の正義(八遍染義)では邪欲と邪勝解を遍 染義から除く(随煩悩にも含めない)。つまり、邪勝解はこれを煩悩心所に独立させずに、勝解(別境)の範囲内で 理解するのである。とはいえ、別境心所の﹁勝解﹂辻、仏道の上に挫紛れた働きをなす心作用を前面としているといえ る。なお、﹁遍染義﹂については次の論文を参頴されたい。拙稿﹁末那識相応の心所と遍染義﹂(龍谷大学論集四六
O
二0
0
二 年 ) 。 じゅんしようりろん ⑤﹃阿毘達書願正理議﹄巻一O
(
大正二九・三八回 b ) に辻、﹁有余揮の言く、勝は増勝を謂い、解は解脱を語、ヮ。 此れは能く心をして境の於に穫無く自在にして転ぜしむ﹂という。 ⑬﹃顕正理論﹄巻一O
に 、 ﹁ 心 の 境 を7
する時には必ず億択有り。用徴劣なれば便ち覚知せず。故に慧と定は応に大地 法なるべし﹂という(大正二九・三八九 b ) 。 。末那識相応の心所については﹁新導本﹂巻四・三O
頁以下に(なお注e
の拙稿を参照)、また﹁悪克﹂は﹁新導本﹂ 巻六・一五頁以下に論釈される。 申 d v L C ⑫﹁酉一切﹂説は﹃議鋼部地論﹄巻三(大正三0
・ 二 九 一a )
にある。一切牲と辻善・悪・無記の三笠にわたること、 一一切地は三界九地等を指し、一一切時はいかなる心議が生起している時にも相応すること、一切倶は同位の心所が長起 するのをいう。なお、深諾正文﹃唯識学研究﹄下巻(一九五周年、二二六頁以下)に詳しい解説をみる。また、もう 一文は﹃議侮論﹄巻五五(大正三0
・ 六O
二a )
に、別境について﹁其の次第の如く所愛・決定・串習・観察の毘境 事の於に生ず﹂と説くのをみる。 ⑬ ∞ 三S
吉 円 、m
i
W
5
5
・℃ -N5( 注e
の前掲書)、宇井伯寿﹃安慧護法唯識三十頚釈論﹄(一九五二年)六三頁。なお、 勝又後教﹃仏教における心議説の研究﹄(一九六一年、四三頁)にもこれを指摘する。 ききがき @光凱の﹃唯議論開室田﹄巻一三に﹁有義に五識此五皆無事という此の師は自類相志門の初師(一が起こる時に随って 必ず余の西も有り)と同人と古い開書にあり L ( 大正六六・七六二 a ) という。つまり、先にみた五別境﹁並生﹂義 の師と同乙(安慧)とする。 ⑬﹃大乗何回ぬ達磨集論﹄巻一 唯識説における rZIJ境 心 所Jの特色 (大正一三・六六五 b ) 、同﹃雑集論﹄巻 (大正コ二・六九九 b ) 。富佐議説における r]tl境心所」の特色 じ よ う し ん さ ん む ん ⑬等引と等持は、ともに﹁走﹂の別名である。﹁等引﹂辻有・無心に通じて定心のみの性格を表し、教心には起こら う し ん ない。﹁等持﹂は有心定の﹁境に専注する﹂性惑をいい、定心のみならず散心にも起こるので、これ辻五議(散動) え し よ う 号 ょ う ぎ と う にも起こるとされる。なお、これに関連して慧沼の﹃唯識了義打ど巻五本には、﹁定の七名﹂を挙げて区射を論じて おり、このことは仏教学上にもよく知られている(大正四三・七五三 b ) 。 料等主