• 検索結果がありません。

牧谷は 板取川左岸の蕨生 上野 乙狩の各地区と 板取川右岸の小倉 御手洗の各地区 下流の片知 神洞 長瀬の各地区を含めた地域の総称である 板取川左岸の上野地区は丘陵裾部に 下流の蕨生地区は板取川沿いに集落が形成されてきた 右岸の小倉 御手洗地区は河岸段丘上に集落が形成され 左岸地域に比べ比較的平地が

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "牧谷は 板取川左岸の蕨生 上野 乙狩の各地区と 板取川右岸の小倉 御手洗の各地区 下流の片知 神洞 長瀬の各地区を含めた地域の総称である 板取川左岸の上野地区は丘陵裾部に 下流の蕨生地区は板取川沿いに集落が形成されてきた 右岸の小倉 御手洗地区は河岸段丘上に集落が形成され 左岸地域に比べ比較的平地が"

Copied!
58
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

第3章 美濃の維持向上すべき歴史的風致

1.美濃紙にみる歴史的風致  独特の光沢をもち、そして強靭な「美濃紙」は、日が経つにつれ純白色に輝き、人々に独自 の温もりと安らぎを与えてくれる。日本の伝統技術を代表する美濃紙は、障子や襖、書院に飾 られる掛け軸など、日本建築の建具には欠くことのできない和紙である。あかりとはいつの時 代も切り離せない間柄で、江戸時代には、明障子に最も適するとされ、尾張藩主により「書院 紙」と名付けられた。提灯に行灯、扇子や団扇、番傘、そして祭礼の造り物、古来より美濃紙 は多くの物に加工され愛用された。  ここ「牧まきだに谷」で作られた美濃紙は、上有知の商人により岐阜、名古屋、京、大坂、そして江 戸へと運ばれた。美濃市の西北部に位置する牧谷は、板取川の清流に育まれ、極めて高品質の 美濃紙の主産地として、奈良時代から約 1300 年余りの歴史を誇る紙漉き技術の継承が、今も 続けられている。  美濃紙とは旧美濃国内で生産された紙の総称である。古代から良質な水に恵まれた美濃国(御 野国)では、平野部から山間部にかけての小河川沿いや渓谷に美濃紙を生産した数多くの紙郷 が点在した。これらの紙郷は、平地が少なく農耕には不向きな土地であった。しかし、中世以 降に牧渓郷と呼ばれた牧谷などは、周囲を山塊に囲まれ、豊富な地下水に恵まれ、いたる所に 地下水が湧出する地であった。また、牧谷は清流板取川が貫流し、清らかな水、そして「津保 草」と呼ばれる良質の楮が周辺地で栽培されたことや、中世後期に、美濃国守護土岐氏の産業 振興策により美濃紙の生産が保護されたことから、美濃紙の主産地として発展した。 牧 谷(古くは牧渓郷といわれ、板取川の清流と豊富な地下水が流れる。)

(2)

地下水が絶え間なく流れる用水路 ( 蕨生地区 )  牧谷は、板取川左岸の蕨生、上野、乙狩の各地区 と、板取川右岸の小倉、御手洗の各地区、下流の片知、 神洞、長瀬の各地区を含めた地域の総称である。  板取川左岸の上野地区は丘陵裾部に、下流の蕨生 地区は板取川沿いに集落が形成されてきた。右岸の 小倉、御手洗地区は河岸段丘上に集落が形成され、 左岸地域に比べ比較的平地が多く農耕も営まれた が、多くの紙漉農家が所在した。左岸地域は高賀山 や瓢ヶ岳など千 m 級の山々がそびえ、右岸地域に は天王山、誕生山などの山々がそびえ、豊富な地下 水が牧谷に湧出していた。今も蕨生地区の随所には、 絶え間なく地下水が流れる用水路が目に留まる。冬 場には暖かく、夏場には冷たいこの地下水が紙漉き には最も適していた。  正倉院に残る美濃国戸籍料紙には、山県郡三井田 里戸籍や加茂郡半布里戸籍等があるが、半布里戸籍(富加町)は繊維の細さが均等であるとさ れている。近年、奈良時代の武儀郡衙(郡府)跡が関市弥勒寺跡で発掘調査され、郡衙(郡府) に近い牧谷や武儀谷で紙の生産が行われていたと推定される。  中世に入ると、京都宝慈院が本所として、本座で ある近江の枝村商人により、牧谷と武儀谷の中間に 位置する大矢田に紙市が開設され、この一帯は美濃 紙生産・流通の中核地となった。また、美濃国には 鎌倉、京都、博多に次いでいち早く禅宗が波及し(玉 村、1975)、このため、美濃紙は五山僧侶により京 へと伝えられ、五山文化の繁栄を支える要素の一つ となったといわれている(久米、1994)。美濃紙の 主産地である牧谷には、正平 11 年(1356)に、現 存する市内最古の禅寺である長蔵寺が建立された。 檀家は上野地区の人々のみで構成され、江戸時代以 前には牧谷の住人の大半が檀家であった。毎年1月 10 日には紙漉き集落の安寧祈願として祈祷大般若 会が行われている。かつては長蔵寺の急な参道下や 門前には多くの出店が連なり、牧谷中から紙漉き職 人が集まり盛大に行われた。今も往時と変わらぬ風 習が牧谷の人々により伝えられている。 長蔵寺本堂と開山堂 開山堂の中には、重要文化財の舎利塔 及び須弥壇が安置されている。 長蔵寺では、毎年 1 月 10 日に祈祷大般 若会が行われる。

(3)

武儀郡牧渓郷御手洗村紙干しの図(美濃紙抄製図説)  美濃紙はその質の良さから大般若写経紙として多用され、中世貴族社会では贈答用としても てはやされ、また、飯尾宗祇を始めとする多くの連歌師や知識人により美濃紙は全国へと広め られた。  近世に入ると、美濃紙の生産は金森長近の保護を受け、その後には幕府御用紙、尾張藩御用 紙の生産地として発展し、近代以降も国内屈指の紙生産地として発展した。『濃州徇行記』に は「武儀郡牧谷〜田圃少し、村民農事を務むと□(注)も専ら紙漉を以て本職とす」とあり、農耕 を主としながら、農閑期に副業として紙漉きを行う他の紙郷とは異なり、紙漉きを専業とする 農家があったことが記され、牧谷は近世には美濃紙生産の中核地となり繁栄した。  牧谷が美濃紙の主産地となった要因としては、原材料である良質の楮があったことも欠かせ ない。美濃紙は幕府御用紙となり、上有知の六斎市には良質の楮が集散した。『濃州徇行記』 加茂郡細目村の條に「木紙は當村を初め隣郷苗木領、信濃あたりより買よせ、岐阜上有知へ売 りつかわし云々。」とあり、江戸時代にはすでに、美濃国内の楮のみでは需要に追いつかず信 州産楮も移入していた。  美濃国には良質の楮がもともとあり、「地草」と呼ばれていた。地草の中でも最上質の楮は 津保草と呼ばれ、武儀郡の津保川流域を中心に郡上郡や加茂郡一帯の広域で栽培されていた。 明治時代に入ると、これらの地域にも紙郷があったが廃業し、紙漉き生産から楮栽培農家へと 転換した。津保草は、美濃紙の中で最上質の紙とされた書院紙に用いられた(柳橋、1987)。 しかし、太平洋戦争中の食料難により楮畑は転作され、津保草が栽培されなくなり、現在は津 保草と同等の繊維をもつ那須楮が使われている。  牧谷の集落の特徴は、紙屋と呼ばれる切妻造の紙漉き職人の家屋とその前面に広がる庭が特 徴である。庭で漉き上げた紙を板干しするため、紙屋の多くは南に面し、整然と立ち並んだ独 特の集落形態が保たれていた。 (注)原文が判読できない文字である。

(4)

牧谷の紙屋、川屋、分布図 長谷川和紙工房、美濃竹紙工房位置図 勘兵衛さん川屋(市指定文化財) 美濃竹紙工房(本美濃紙保存会) 大島共同川屋 庄司桁製作所 長谷川和紙工房 中屋敷川屋 後藤家川屋 長蔵寺 澤村正工房(本美濃紙保存会) 上 野 蕨 生 御 手 洗 神 洞 小 倉

(5)

 多くの紙屋では夏場は二階で養蚕を行い、冬場に 紙漉きを行っていた。奈良時代から正調として納 められた「美濃絁あしきぬ」(延喜式)は、江戸時代から近 代にかけて「曽代糸」として流通した絹糸で、昭 和 30 年代までこうした紙屋で副業として生産され た。現在でも紙屋の多くには、養蚕の神である「洲 原神社」のお札が祀られている。  紙屋は住居と紙漉きを行う「すき屋」が一体となっ ており、紙漉きが家内工業であったことを物語る。 紙屋の前面には紙を板干しする庭がある。紙屋の入 り口を入ると「にわ」と呼ばれる広い土間空間があ り、その南東側にはすき屋と呼ばれる紙漉き場が隣 接している。にわの西側には「いろり」、「だいどこ ろ」があり、この場は紙加工を行う場であり食事を とる場であった。さらにその奥には、「でい」とよ ばれる客間や寝室がある。  すき屋には漉き舟、紙床台、叩解台、圧搾機など の紙漉きには欠かせない道具類が、効率よく配置さ れている。故古田行三氏の紙屋(現長谷川和紙工房) は、明治5年(1872) に板取村から移築された紙 屋で、養蚕を行う低い二階と「だいどころ」、うま や跡などの間取り、そして「すき屋」の南窓には「し とみ戸」と呼ばれる二枚折上げの雨戸が残り、典型 的な江戸時代の紙屋様式を残しており、今も紙漉き 場として使われている。  和紙の原料には、楮、三椏、ガンピ等が一般に使 用されるが、この楮 100%の最上質の和紙は「生 漉き」、または、「書院紙」と呼ばれている。書院紙 は江戸時代の紙商人武井助右衛門が尾張藩に納めた 障子紙で、殿中書院の明障子に最も適していること から尾張藩主が命名した、美濃紙を代表する紙の一 種である。  紙屋の前の庭には、原料の楮白皮を水晒しする「晒 紙屋に祀られる洲原神社守札 長谷川和紙工房(旧古田行三邸) すき屋の内部 なんど でい だいどころ だいどころ   にわ にわ うまや (現台所) すき屋 改造小屋 (現といれ) 大島共同川屋 天日干しを行う庭 玄関 長谷川和紙工房(旧古田行三邸)間取り図 し場」がある。楮の白皮はこの晒し場で 2 〜3日水に浸され、灰汁抜きや自然漂白が行われる。 板取川に近い紙屋では川晒しが行われるが、流し水に晒すと楮の繊維の歩留りが四分程になり、

(6)

清流板取川で、楮の白皮を川晒しする。 地下水が満たされた水槽で、楮の白皮を水晒しする。 煮熟釜で、楮の白皮を煮る。 地下水が流れる川屋で、楮しぼりを行う。 地下水が豊富に流れる「勘兵衛さんの川屋」 ( 市指定文化財 ) 溜め水に晒すと五分程になる(柳橋、1988)。職人 は豊富な経験を元に、それぞれの楮の繊維を見極め 水に晒す。冬場の水晒しは過酷な作業である。川の 水は凍るように冷たく、まだ溜め水の地下水の方が 暖かい。しかし良質の美濃紙を漉くにはこの作業は 欠かせない。  水晒しが終ると、楮の白皮は、煮熟作業が行われ る。楮の繊維をつなぐ灰汁を除去するためである。  煮熟作業が終わると、今度はちり取りである。ち り取り作業を行う場所は、「川屋」と呼ばれている。 川屋は、板取川の河原や地下水が豊富に湧き出る場 所に簡易的な屋根を設けたものである。この川屋の 多くは個人の所有であったが、その多くは紙漉き職 人の共同の作業場であった。今も長谷川和紙工房前 の大島共同川屋や「勘兵衛さんの川屋」( 市指定文 化財 ) 等は、共同の作業場として使われている。  ちり取りは、煮熟された楮の繊維から溶解した灰 汁や不純物を流水で洗い流し、繊維に付着した「ち り」やゴミを一つずつ取り除く繊細で、時間を要す る緻密な作業である。この丹念な作業により楮の繊 維は純白となり、最後に両手で水絞りが行われる。

(7)

木槌で丹念に、楮の繊維を細かく解す。 板取川の河原に建てられた川屋 ( 昭和 20 年代 )  ちり取りは「楮しぼり」ともいわれ「この業は、 寒きころの水しわざなれば、老女処女なとは傍に湯 を沸かしおき、をりをり手を温めして、することに ぞある」(『美濃紙抄製図説』、明治 13 年(1880)) とあり、最も過酷な作業であると共に、美濃紙の品 質を保つ重要な作業でもある。かつては、このちり 取りで取り除かれた楮の繊維を使い紙漉きが行わ れ、漉かれた紙は「ちり紙」と呼ばれた。  川屋で楮しぼりされた白皮は、すき屋の中に置か れる叩解台の石砧に載せ、木槌で叩き白皮の繊維を 打爛し細かく解す作業を行う。紙料処理の中で最も 重労働だとされる叩解処理であるが、美濃紙の特徴 は石砧を使用することにある。「諸国の紙は皆厚き 板の上に載せ樫棍にて叩くなり、美濃紙は石の盤に て横槌を以て両手にて二人又は三人も差向て叩く、 故に麻の切れよくして散よく見事にできるなり。」 (『紙漉必要』、天保7年(1836))とある。  正倉院に残る御野国戸籍料紙には、山方郡、加毛郡、本簀郡、味蜂間郡の各郡の料紙が残るが、 その繊維の太さはほぼ均一で、叩解処理が入念に施されているとされる(寿岳、1970)。叩解 処理により均一に解された楮の繊維により、均一な厚さの紙を漉くことが可能となる。  ここまでの紙料処理が終わって、紙漉職人は初めて紙を漉くことができる。  紙を漉くには、この叩解された紙料ともう一つの原料である「ねべし」が漉き舟に投入され る。ねべしとは、植物の茎葉や根から抽出される粘剤で、主に黄とろろあおい蜀葵の根から抽出される。 馬鍬 ( 方把 ) で、楮の繊維を撹拌する。

(8)

水に粘性を与えることにより楮の繊維は水中で均等に広がり、紙料液の簀からの漏下が緩や かとなり、簀桁の前後左右の激しい揺れにより、極めて薄い紙層を作ることができる(柳橋、 1987)。  紙漉道具は桁けた(小手)と簀す(漉紙簾)に分かれ、桁はすき屋の天井部に付けられる二本の竹 に糸が吊るされ、この桁と簀が一体となった漉き具を用いて職人は紙を漉くのであるが、ここ ではじめて職人の技が活かされる。  美濃紙の最大の特徴は、縦揺りと横揺りを加えることにある。美濃紙を除いた日本全国で漉 かれる和紙は、縦揺りのみで漉かれる。「横紙破り」の語源ともなった和紙は縦に破れやすく、 横には破れにくい。縦揺りのみで漉かれた和紙は、楮の繊維が縦方向に並ぶため、簀の編み目 に沿って縦に破れやすくなるのである。美濃紙の漉き技法は「十文字漉き」と呼ばれ、縦揺り に横揺りの動作が加えられる。この動作を加えるため、漉き上げた紙は縦にも横にも破れにく く薄くて強靭な紙となる。また、紙漉技法には奈良時代末から平安時代に始まったとされる「流 し漉き」と「溜め漉き」の二種類の技法があるが、十文字漉きは流し漉きの本来の姿を伝えて いるといわれる(久米、2001)。  職人は漉き具を持ち、まず最初に紙料液を汲み、簀全体に素早く広げこの作業を3回程行う。 この動作を「化粧水」と呼んでいる。その後、横の揺すりと縦の揺すりを交互に数回繰り返し、 最後に紙料液を汲み、素早く簀桁の前方へ紙料液を捨てる。この最後の動作を「払い水」と呼ぶ。 紙の種類により厚さは異なるため、職人の熟練した技術がここで発揮される。この一連の動作 を迅速に行うことで、職人は1日に 300 枚前後の紙を漉くことができる。 紙を漉く、職人の技が活かされる瞬間である。

(9)

庄司桁製作所では桁の他、漉き舟に付け られる馬鍬も製作している。 栃ノ木で作られた干し板に、漉き上げた紙 を一枚一枚貼付ける。  紙漉きは現在、立って漉き舟に寄る体勢で作業を 行っているが、この立ち漉きは明治 20 年(1887) 頃から行われるようになった。江戸時代の紙漉き は美濃判といわれる B 4判程の「こて」を使って、 一枚ずつ座って行っていた。明治 20 年(1887) 前後から立って大判紙を漉く技法が出現した。「大 巾連紙漉造り」と呼ばれ、美濃判 6 枚や半紙8枚 程を一度に漉ける器具の改良があったためである。 紙商人武井助右衛門(10 代目)や沢村千松の尽力 により、現在ではこの立ち漉きが一般化することに なった。  紙漉きに使われる桁は、牧谷の乙狩地区にある庄 司桁製作所で作られている。桁の製作は指物技術の 熟練が必要で、現在全国でこの桁づくりを行える職 人は美濃の職人だけとなり、美濃から全国の紙漉き 職人に提供されている。桁と共に簀編み職人も2軒 のみとなり、道具を製作する職人は「全国手漉和用 具製作技術保存会」の補助を得ながら活動している。  漉き上げた紙は、桁から簀ごと取り出され紙床板 に置き、簀と紙が剥がされる。紙床板には漉き上げ た紙が高く積まれ、その上に圧搾板を置きジャッキ や重石が載せられて脱水作業が行われる。  圧搾し 50 〜 60%脱水された紙は職人により一 枚一枚剥がされ、栃ノ木で作られた干し板に張り付 けていく。この張り付けには紙屋刷毛と言われる独 特の刷毛を用いて、紙にしわが付かないように、ま た、傷が付かないように干し板に張り付けていく。  紙屋刷毛は牧谷の上野地区や蕨生地区ではヨコ刷 毛が、御手洗地区ではタテ刷毛が使われた。この刷 毛は、馬の尾毛の中でも天尾と言われる尾の付け根 部分の毛を用いたものが最上級とされている。現在 この刷毛は、殿町の助川刷毛店で製作されている。  干し板に張り付けされた紙は、紙屋の前の庭で天 日干しがなされる。紙漉き農家の庭先は必ず南側に 面し、庭先に干し板を立てかけて乾燥させる。 紙を抄く図(江戸後期) 助川刷毛店で作られる紙屋刷毛 ( ヨコ刷毛 )

(10)

晴天であれば、2 〜 3 時間で紙は乾燥する。 晴れた日に、庭先で天日干しを行う。 美濃紙を光にかざし、紙を選別する。  この天日干しは、昭和 40 年代まで牧谷の至る所 でみられた風景であった。  良好な天気であれば 2 〜 3 時間で紙は乾燥し、 干し板ごと紙屋へ運ばれ、職人は一枚一枚丁寧に紙 を剥がしていく。剥がされた紙は一枚ずつ光にかざ して、漉きむらや塵、傷、厚さを確認し選別をして いく。  等級ごとに選別された美濃紙は、一定の規格に基 づき裁断が行われる。美濃紙の枚数単位は本来一帖 が 48 枚で、積み重ねて裁板の上に載せ界板を当て、 四辺を裁刀を用いて裁断していく。界板のサイズは 1尺 3 寸5分× 9 寸 3 分前後のものが使われる。  この規格は近世から「美濃判」といわれ、また、 和本の規格も「美濃本」といわれ、今日の JIS 工業 規格の B 判の元となった規格である。本美濃紙の 在来書院紙は、現在もこの規格で裁断されている。 裁断された美濃紙は 100 枚ごとに束ねられ、製品 箱に納められる。  紙漉き職人の手で、楮の白皮から美濃紙として製 品化されるまでには様々な工程を経て、ようやく、 ここに美濃紙は完成する。  現在、美濃紙は文化財修復用に宮内庁、国立文化

(11)

界板をあて美濃判の規格に裁断をする。 本美濃紙(在来書院紙) 財研究所や博物館等で使われ、また提灯、水団扇、和傘、扇子、伊勢型紙等の二次製品に使用 されている。手漉きの技術は重要無形文化財「本美濃紙」として、その技術継承が続けられ、 後継者の育成が行われている。  「紙を漉くには山川の清き流れありて泥気なく小石にて浅く滞りなく流るる川の浄地を佳し とす。又は清水の多く出て末はさらさら流れる地は宜し、水温みて色に濁ある河は宜しからず、 其の所の水によりて紙の善悪あれば、先ず水見立てること第一なり。」(『紙漉必要』)とあり、 飛山濃水といわれ豊かな水に恵まれる美濃国では、多くの紙郷が点在した。その中でも牧谷は 板取川に育まれ、山深き水の清らかな地であり、また美濃国内の他の紙郷とは異なり、商家町 上有知とともに共存し繁栄してきた。良質の楮は紙商人により供給され、紙漉き職人は最上の 美濃紙を漉く技術を常に求められた。その技術は代々受け継がれ、現在でも紙屋で、重要無形 文化財「本美濃紙」として最上質の書院紙が漉かれる。紙を干すのどかな風景は安らぎを与え る。そこには職人により 1300 年の伝統と技術が受け継がれている。  昭和 40 年代、牧谷上野地区の天日干しの風景

(12)

小倉山山頂から、うだつの上がる町並みを望む。 2.城下町上こ う づ ち有知にみる歴史的風致   江戸時代の初め、「うだつの上がる町並み」は城下町であった。長良川左岸の小倉山城の築 城にあわせて造られた城下町は、二筋の大通りを中核に明治時代から大正、昭和にかけて拡張 され、その中核は重要伝統的建造物群保存地区として、守り伝えられている。  江戸時代には度重なる火災に見舞われたが、その都市構造は改変されることはなく復興され、 戦災や自然災害からの大きな被害を受けることなく、今日に至っている。  うだつの上がる町並みの地域は上有知と呼ばれ、明治末年には美濃町へと改称し、今の美濃 市の中核となった。ここには城下町時代の遺構が随所に残り、江戸時代以降の町家、社寺群、 用水、旧街道、川湊等と相まって、落ち着いた佇まいを残している。それとともに、美濃紙を 中核とした伝統産業の商いや多種多様な 町人文化が根付き、受け継がれている。 さらには、華麗な だし行列や花みこし、美 濃流しにわかが競演する美濃まつり、清 泰寺などで近世から続けられる人々の活 動、そして多業種の商家の営みが息づい ている。 小倉山城跡と清泰寺、長良川を望む。

(13)

幕末に建てられた川湊 灯台 ( 県指定史跡 ) 武儀郡上有知村絵圖 (1)うだつの上がる町並みにみる歴史的風

 「うだつの上がる町並み」が城下町であったのは、 慶長 11 年(1606)から 16 年(1611)までのわず か 6 年程であった。関ヶ原の戦い後、この地を領有 したのは、飛騨の領主であった金森長近である。長近 に加封された領地は「口郡金山より岩佐谷口迄」(『上 有知旧事記』)とされ、現在の下呂市金山町から関市 にかけての広大な領地であった。長近は上有知を商業 の中核地とするため、また、飛騨の口領として物流の 中継地とするための新たなまちづくりを行った。長近 は中世まで尾崎丸山と呼ばれた風光明媚なこの山を、 京の名勝に因んで「小倉山」と改称し、慶長 10 年 (1605)には長近の隠居城である小倉山城を築いた。 『濃州尾倉山古城之図』には破却後の曲輪の状況が記 されるが、本丸、二ノ丸、三ノ丸は並設する連郭式で 東側に堀切りを挟み、帯曲輪が設けられている。  小倉山城の北西を流れる長良川には、水運の拠点と して上有知湊(県指定史跡)を拓いた。今も幕末に建 築された川湊灯台、そして水運の安全を見守る住吉神 社と文化 10 年(1813) 銘の常夜灯が往時の繁栄を物 語っている。湊の上流には、「美濃紙」の生産地牧谷 に通じる街道に、前野の渡し場をつくった。紙漉き職 人が荷馬車や大八車を引き美濃紙の原料の調達をし、 また、美濃紙を紙問屋へと運ぶため、この街道を幾度 となく往来する風景がみられた。 長良川の上有知湊 ( 県指定史跡 ) 小倉山城跡遠景 美濃紙は上有知の問屋から荷馬車で運ばれた。

(14)

 城下町上有知からは飛騨へ延びる津保街道をはじ め6街道が放射状に延び、上有知が交通の要衝とな るように整備された。城下町の町割りは「一番、二 番割り」といわれ、二筋の大通りである一番町通り と二番町通りを中心にまちはつくられた。今も町割 りに使われた割り石積みが随所に残り、城下町の面 影を残している。  城下町は東西 250 間、南北 70 間の目の字型の 美濃橋開通渡橋式 ( 大正 5 年 8 月 ) 径間補剛吊橋で、主塔は高さ 9.8m 鉄筋コンクリー ト製で、左岸のアンカーは岩盤掘削後コンクリート により固定され、右岸アンカーにてケーブルの引き 張りを調整するソケットに繋がれている。補剛桁は ダブルワーレントラスで「製作名古屋鐵工所」の銘 板が付けられている。  美濃橋は現存する最古の近代吊り橋で、床板及び 垂木材を除き竣工当時の状況を今に伝え、重要文化 財に指定されている。  また、明治 44 年(1911)には美濃電気軌道株 式会社が上有知-岐阜間に鉄道を開設し、上有知の 紙商人 3 名が取締役を務め、後にこの路線は名鉄 美濃町線として、平成 11 年(1999)まで営業運 美濃橋 ( 重要文化財 ) 遠景 町割りで、中核である二ノ中町には願念寺が置かれており、二筋の大通りは現在、四間幅であ るが、当初からこの規格であったのかは定かではない。  ここでは毎月六斎市が開かれていた。武儀郡内 24 村で生産された美濃紙、楮原料、生糸、 その他の生活物資は上有知に集積し、飛騨への中継、そして、名古屋、桑名、京都、大坂へと 運ばれた。  こうした長近のまちづくりが、美濃紙を中核として発展した城下町から商家町上有知(美濃 町)の礎となった。金森家断絶後、幕府直轄領、尾張藩領となり明治維新を迎えるが、城下町 上有知は商家町上有知、美濃町へと変革した。  美濃紙の主産地である牧谷と美濃紙を商う上有知の間には長良川が流れ、江戸時代から明治 時代には、この長良川が物流の主役であった。しかし、長良川の渡しや水運は洪水によりしば しば遮断され、さらに、明治時代に入り美濃紙の需要の増大も相まって、牧谷と上有知を迅速 に結ぶ陸路の整備が急務となっていた。大正 5 年(1916)8月にようやく美濃橋が架橋され たことにより、牧谷と上有知は陸路でつながり美濃紙の供給は途絶えることがなくなった。  美濃橋は岐阜県技師戸谷亥名蔵により設計され、橋長 113m、支間 116m、幅員 3.1m の単 城下に残る割石積み

(15)

うだつの五連棟から「旧今井家住宅」(市指定文化財)を望む。 転された。旧名鉄美濃町線美濃駅本屋(登録有形文 化財)は、大正 12 年(1923)に新美濃町駅とし て建設され、後に美濃駅と改称した。ターミナル型 の駅本屋は、切妻造で下見張の外壁と正面の東妻面 には木骨を装飾的に表している。南側にプラット ホームが付き、近代軽便鉄道の特徴を今に残してい る。同じ年 には国鉄越美南線美濃駅が開業し、美 濃紙や楮などの原料輸送は飛躍的に改善された。  上有知は美濃紙により繁栄し、幕末から明治、大正、昭和初期には最盛期を迎えた。その象 徴であるうだつの上がる町並みが今も引き継がれている。  「うだつ」は、元来火災の際の隣家からの類焼を防ぐための防火壁であった。隣り合う切妻 造の屋根を一段高くして防火壁とし、板葺屋根に袖壁を一段高くし小屋根を付け、江戸時代に は板葺屋根に板うだつが大半であった。  城下町から商家町へと発展した上有知では、次第にこのうだつが、防火壁の機能と共に商人 の権威の象徴としての意味も含むようになった。商人は競ってうだつを上げ、「一生うだつが あがらない」の語源ともなった。鳥衾付拝巴瓦、鬼瓦、破風瓦、懸魚瓦、軒桟瓦で豪華に飾ら れた上有知のうだつは、江戸時代後期〜明治 5 年(1872)にかけて造られた 19 棟が今も残る。  全国的にも貴重な建造物群として、重要伝統的建造物群保存地区に選定され、その中核にあ る小坂家住宅は重要文化財に指定されている。 旧名鉄美濃町線美濃駅本屋

(16)

本住町の夜祭り 秋葉祭の準備 柴竹呉服店の軒に祀られる屋根神様の前で、 秋葉祭のお祓いを受ける。 明治時代の秋葉祭(殿町神田屋前) 卯の日の鎮火祭、八幡神社拝殿で獅子舞を奉納する。  うだつの上がる町並みを散策すると、所々に一階 の庇の上や下に祠が祀られているのが目に留まる。 うだつの上がる町並みは江戸時代から明治時代にか けて度重なる大火に見舞われた。享保の大火(享保 8 年 .1723)では、上有知の町の四分の三が焼失し た。その後も、延享の大火(延享元年 .1744)、文 政の大火(文政 4 年 .1821)、慶應の大火(慶應 3 年 .1867)に見舞われ、まちは焼失した。  上有知のまちは小高い丘の上に造られ、水に乏し かったとされ、鉈尾山の麓の人工池から上有知のま ちに番水といわれる水路が廻らされていた。しかし 一度大火となると、火を消すほどの水量を確保する ことは難しかった。  上有知の人々は、屋根神様といわれる火伏せの神 様である秋葉様や厄よけの津島様を祀り、上有知の まちの安泰を願った。そして、その祭礼が夜祭りの 縁日として江戸時代中期から今日まで続けられてい る(『諸色勘定帳』)。  6月 30 日午後 6 時から八幡神社大祓い祭茅の輪 潜りが行われると、その年の夜祭りの始まりである。 各町内では7月8日から8月1日まで順次夜祭りが 行われ、水運の安全を願う港町の川まつり(住吉神 社まつり)を最後に終わる。  一方、毎年旧二月初卯の日に八幡神社では卯の日 鎮火祭が行われる。神社拝殿前には斎火が焚かれ、 舞殿では巫女が「卯の花の舞」を奉納する。氏子役

(17)

屋根神様の分布図 秋葉信仰と津島信仰  秋葉信仰は、中世に現在の浜松市天竜区に所在する秋葉山で、修験道を営んだ三尺坊大権現への信仰とされている。江戸 時代に東日本へ広まり、各地で秋葉講がつくられ、「火伏の神」として崇められた。明治の神仏分離で遠州秋葉山は分裂し、 秋葉寺、秋葉神社、萬松山可睡斎に別れ、独自の秋葉信仰として広まった(田村、2008) 。  明治以降、上有知の人々は萬松山可睡斎に参拝し、毎年神札を上有知に持ち帰り屋根神様として崇めた。  一方、津島信仰は、愛知県津島市の津島神社が中心となり東海地方に広まり、京都の祇園祭と同じく牛頭天王を祀る信仰 である。夏の一時期に祭礼を行い、疫神を取り払う行事である。  上有知の各町内では、牛頭天王を屋根神様として祀り、町の安泰を願っている。 員、各町内役員が参列し祭典は厳粛に執り行われる。神事が終わると、氏子全戸に「卯の日鎮 火祭」のお札が配られる。これは 最後の大火であった慶應の大火が卯年にあったためで、以 降、氏子の人々により、火災安全祈願として今日まで続けられている。 川湊灯台

(18)

明治 44 年 (1911)、美濃 電気軌道株式会社美濃町 線の開業に合わせて刊行 された『岐阜県上有知町 有名實業家案内』 明治 5 年(1872)創業の松久永助紙店 田中製紙工業  上有知は、美濃紙の生産地牧谷と常に相互依存の関係であった。明治末年の「上有知町」か ら「美濃町」へと町名が変わる頃には、美濃紙に関わる商店や商社は 26 社を数えた。また、『岐 阜県上有知町有名實業家案内』(明治 44 年 .1911)には 150 を超える商店が名を連ね、商業 の中心地として飛躍的に発展したことがうかがえる。  旧一番町通りの本住町には、うだつの上がる町並 みの繁栄の中核であった紙問屋がある。「松久永助 紙店」は明治 5 年(1872)から紙問屋を営み、江 戸時代末期に建てられたうだつ構えの主屋と、明治 10 年(1877)に筋向かいに和紙製品の作業場とし て建てられた建物が、事務所として使われ、松久永 助紙店の看板が掲げられている。隣家には、かつて の美濃紙原料問屋で全国一の楮の集荷量を誇り、全 国から製紙原料を仕入れた旧松久才次郎邸(現松久 範子邸)がある。  「田中製紙工業」は、旧湊町筋の清泰寺に通じる 三叉路に位置する。この一帯は近世から紙問屋が集 中し、筋向いには広大な敷地を有した旧須田万右衛 門邸などがある。田中家は幕末から紙問屋を営み、 現在の建物は明治初期の建築で、1階に防火壁を付 けた優れた歴史的建造物である。  うだつの上がる町並みの商家の多くは、時代の変 革と共に業種を変え営まれ、今も活気ある商家、商 店が営まれている。

(19)

かつては、上有知一の紙商であった 旧須田万右衛門邸 旧津保街道沿いに構える石川紙業 助川刷毛店の軒先には、特製の大きな紙屋刷毛 が掲げられている。 助川刷毛店では、最高級の馬の毛を用い て紙屋刷毛が作られる。 日本で唯一、紙屋刷毛を製造販売する助川刷毛店  うだつの上がる町並みの四辻から旧湊町筋には、 江戸時代に尾張藩御用達商を務めた紙商「梅村家」、 幕末から紙商を営み衆議院議員となった須田万右衛 門の「須田家」、江戸時代初期から明治 44 年(1911) まで回漕業を営んだ「遠藤家」など多くの商家があっ たが、切妻屋根にうだつを上げる家屋は一軒も見ら れない。この一帯は坂道であったため、隣り合う家 屋の屋根には段差があり、うだつを上げることがで きなかったとされる。  旧津保街道(飛騨街道)沿いの吉川町、善応寺の 門前には、「石川紙業」が懐紙、和紙人形、和紙関 連製品等の製作販売を行っている。石川紙業は、明 治から戦前にかけて美濃紙の原料である黄蜀葵など を扱った原料問屋を営んだ。建物は明治初年の建造 で、切妻造袖壁付、船枻、瓦葺平入、1階の窓には 引違戸に格子を嵌めて、往時の街道筋の雰囲気を醸 し出している。  小倉公園下の殿町には、明治末年に建てられた切 妻造の家屋で、紙屋刷毛を製作販売する「助川刷毛 店」が営まれている。主に紙屋で使われる馬の毛を 用いた T 字刷毛と、長い柄の付くヨコ刷毛の二種 類を製作しているが、地紙屋で使われるシュロ刷毛 も製作している。明治以降、上有知には刷毛屋は常 に1軒しかなかったとされる。明治時代には「もみ じ屋」、明治末年からは助川刷毛店のみであった。「良 い刷毛作り職人が出てくると、前の奴はつぶれて、 結局1軒しか持たない」(柳橋、1982)。紙漉き職 人が優れた刷毛を買い求めたためである。 

(20)

大戸口に馬繋ぎ石が残る今廣酒店 漆喰で化粧された天窓が、明る く帳場を照らしている。 今廣の名が入った酒徳利が並ぶ店内 明治 42 年 (1909) に開設された電話室が、今も残る店内 旧二番町通りの中程、現在の相生町には江戸時 代末期に建てられた切妻造の建物で、明治 34 年 (1901)から「今廣酒店」が営まれている。  戦前までは清酒「薄化粧」、「金時」を醸造し酒造 業を営み、現在は地酒を中心とした酒類を販売して いる。店先の格子窓には、販売される多種の銘柄が 和紙に書かれ貼り出されている。入り口の大戸口前 には馬繋ぎ石が残り、荷馬車が行き交った明治時代 の風情がみられる。  「みせ」の天井には、市内で最大の天窓から日が 注ぎ、帳場を照らしている。「にわ」といわれる土 間の奥には、明治 42 年(1909) 開設当初の電話室 があり、また、陳列棚には明治期に使われた上有知 と書かれた酒徳利や昔の道具が並び、客の目を楽し ませている。

(21)

優美な起り屋根を構える小坂家住宅 「にわ」に敷かれる二筋のレンガ、かつては大八車や 荷車が通った。 新酒を知らせる杉玉  相生町には、うだつの上がる町並みの中で最も優美なうだつを構える「小坂酒造」 がある。 安永元年(1772)頃の尾張藩政下から酒造業を営み、もとは「杉本屋」と称された。現在の 建物は、入口楣に打たれた祈祷札から寛政 7 年(1795)頃に建てられたとされ、間口 6 間、 奥行 8 間半、切妻造、背面段違いで、軒はせがい造とする。屋根は桟瓦葺で起むくりを付け、け らばにはうだつを付けている。2 階の低い正面の構えやうだつを付けた起り屋根などは、美濃 地方における代表的商家として重要で、「小坂家住宅」として重要文化財に指定されている。  ここでは、全国名水百選に選ばれた長良川の伏流水を使って、銘酒「百春」を醸造している。 毎年 12 月には新酒を知らせる杉玉が軒下に架けられ、うだつの上がる町並みを行き交う人々 に師走を伝え、江戸時代から続けられる風情ある光景である。  「起り屋根」と呼ばれる緩やかな曲線を描く屋根、「袖うだつ」、中央東寄りに位置する「中 うだつ」、軒の柱には馬繋ぎ用の丸環が残り、大戸口を入り「みせ」と呼ばれる帳場の奥に、 明治の画家で俳人でもあった川端龍子の「百春」の書が掲げられている。

(22)

鈴木家の引上大戸 鈴木家のお稲荷さん 幕末に建築された鈴木邸  「にわ」には、レンガが二筋敷き並べられている。 昔はここを大八車や二輪車が酒蔵から酒樽を運び、 また、米を運び入れるために行き交っていた。  うだつの上がる町並みの多くの商家は、にわが入 り口から奥の蔵へと続いている。このにわに沿って 「みせ」や「ざしき」、「だいどころ」、「なんど」、「仏 間」があり、にわの奥にはかまどが配置されている。  入り口の大戸口は引上大戸が多かった。多くの家 屋の引上戸は改造され引き戸にされたが、今でも常 盤町(旧二ノ上町)の「鈴木家」では引上大戸が使 われている。日が昇ると引き上げ、夜には下ろされ、 毎日の日課となっている。  鈴木家は江戸時代初期から「笹屋」の屋号で味噌、 醤油醸造業を営み、昭和以降に燃料業へと転業した。 店先からにわを通り、今も残る醸造蔵奥の庭先には 稲荷社が祀られ、毎月1回神職による商売繁昌の神 事が行われている。上有知の多くの商家には稲荷社 が祀られ、うだつとともにに商家繁栄の象徴であっ た。 小坂家住宅の間取り図

(23)

幕末から旅館を営む岡専旅館 時 代 軒  落雁木型が並ぶ小川屋店内 大正時代の建築様式を残す信洲屋本店 信洲屋本店のういろう  魚屋町には、豪華なうだつを掲げる「岡専旅館」 と和菓子屋「時代軒菓舗」が営まれている。  岡専旅館は江戸時代には塩問屋を営み、当時の塩 蔵が今も残る。幕末から旅館業を営み、うだつの上 がる町並みに残る唯一の旅館である。うだつを両袖 に配す中棟は江戸時代末期の建築とされ、毎年開催 される「美濃まつり」では多くの観光客が宿泊し、 うだつの上がる町並みの往時の風情に親しんでい る。時代軒菓舗は昭和 25 年(1950)から和菓子 店を営み、うだつの鬼瓦に上り藤の家紋が見られる。 岡専旅館と同じく江戸末期の建築で、ともに往時の 魚屋町の雰囲気を醸し出している。  明治末年には和菓子屋は 8 軒程があったとされ、 「小倉餅」、「小倉松風」、「翁饅頭」などの名菓があっ たとされる。  俵町で営業する「小川屋」は、寛政年間(1789 - 1801)から城下町内で麩の製造販売を行ってい た。明治時代に入り、駅前広場に隣接し、繁華街の 中心となったこの地に移転し和菓子店に転業した。 店内には明治から昭和に使われた落雁木型が置か れ、今も慶事の祝い用に特別に使われている。  「信洲屋本店」は加治屋町の坂の下、大正時代初 期の建物で、うだつの上がる町並みとはまた異なっ た趣きを呈している。店内には、大正から昭和にか けての古い菓子の看板が並ぶ。創業当初から和菓子 の製造販売卸しを行い、大正時代から米粉と黒砂糖 で作られる「ういろう」が名産であった。 

(24)

うだつの上がる町並みの商家・商店

川湊灯台

(25)

 近年うだつの上がる町並みでは、伝統 的な町家を活用した新たな店舗や商店が 軒を並べている。 あかりの店として活用されている「らんたんや」 そば屋として活用されている旧商家「幸来家」 パン屋として活用されている町家「マムズ」 「らんたんや」では、美濃まつりに使われる 提灯が作られている。 あかりの店として活用されている店内「藤山米店」 喫茶店として活用されている町家「茶房とみや」

川湊灯台

(26)

神 田 屋  神田屋のパン工房  明治末年から豆腐、あげ、こんにゃくを 製造する揚鎌 揚鎌の店内 柴竹呉服店の創業当初の看板  旧湊町筋の殿町には、明治初年に建てられた袖壁 をもつ2軒の切妻家屋が軒を連ねる。明治末年から 和菓子卸業を営み、昭和 21 年(1946)からパン の製造販売を行う「神田屋」がある。主屋は平成7 年頃まで店舗として使われたが、現在は、主屋裏の パン工房で早朝からパンの生産が行われ、国道沿い の店舗で販売され、神田屋のパンとして多くの市民 に親しまれている。  その隣には、明治末年創業で、昔ながらの天然に がりを用いた製法で作られる豆腐、あげ、こんにゃ く等を製造販売する「揚鎌」が営まれている。午前 3 時半頃から手作り豆腐の製造が始まり、ボイラー の音が殿町界隈に響き渡る。午前 8 時頃からは手 作りあげの製造が始まり、その頃になると多くの旅 館、料亭、料理屋、すし屋が直接店先に仕入れに訪 れ、活気をみせている。  呉服、太物商は最盛期には 17 軒が軒を連ねてい た。加治屋町の「柴竹呉服店」は明治 18 年(1885) 創業の老舗で、明治期に使われた看板が往時の風情 を物語っている。  「四辻」は、現在の加治屋町、魚屋町、本住町境 の十字路で、金森長近の城下町時代、その後の商家 町時代において常にうだつの上がる町並みの中心で あった。四辻の南に位置する、加治屋町と呼ばれる 一帯には、近世から近代にかけて多くの鍛冶職人が 住んでいた。金森長近は新城下町の移転に際し、中 世旧城下町の川湊であった下渡の鍛冶職人や関の鍛 冶職人を最初に移住させたため、次第に「鍛冶屋町」 と呼ばれるようになった。

(27)

加藤商店の起り屋根 八 幡 屋 大正時代の朝日楼  四辻の北角には、明治 17 年(1884)から米穀商、 肥料商を営む「加藤商店」があり、現在は肥料を専 業としている。街道沿いに西へ店舗兼主屋(江戸時 代後期創建)、中庭、土蔵(江戸時代後期創建)が 立ち並び、主屋裏側に旧状の起むくり屋根片うだつ構え を残している。うだつの上がる町並みに 2 軒現存 する起り屋根の建造物である。  俵町の円通寺南には、「八幡屋」が営まれている。 明治 30 年代に建てられた料理旅館として朝日楼が 営業していたが、昭和 8 年(1933)、当時、駅前 広場角で営業していた八幡屋に店主が代わり、今は 料亭として営まれ親しまれている。客間として使わ れる建物は、明治 30 年代に建てられた切妻造で、 外壁は漆喰塗りに鎧張りの板壁が、当時の風情を残 している。  金森長近の城下町時代はわずか 6 年程ではあっ たが、その都市構造や都市機能は今日まで継承され てきた。商業の中核となるよう進められた長近の町 割りは、幕府直轄領時代、尾張藩領時代、明治、大 正、昭和と受け継がれ、美濃紙を中核として繁栄し た。その最盛期であった明治時代から大正時代にか けて建てられた数多くの町屋では、商家、商店の営 みが今も続けられている。商家繁栄の象徴となった うだつの上がる町並みは今も息づき、長近が造り上 げた城下町の名残は人々の生活の礎となり往時の風 情を残している。

(28)

八 幡 神 社 中世の城下町上有知へと南に延びる参道 拝殿の西には合祀された社が並ぶ。  (2)美濃まつりにみる歴史的風致  「うだつの上がる町並み」を鮮やかなさくら色に染め、人々に春の到来を告げる「美濃まつり」 が毎年 4 月に開かれる。「有う ち知のやわた」といわれる八幡神社の祭礼である。  祭礼は、明治以降に合祀された熊野社や神宮社等の祭事を合わせて執り行うものである。う だつの上がる町並みを乱舞する「花みこし」、「 」、「練り物」の巡行、奉納、そして笑いを誘 う即興劇「美濃流しにわか」が競演する。明治末年までは「上こ う づ ち有知まつり」と呼ばれ、美濃町 に町名が変わると美濃まつりと呼ばれるようになった。  八幡神社の創建は、『上有知旧事記』に永徳2年(1382)土岐大膳太夫が社頭修繕を行った とあり、室町時代初期に上有知の地頭職であった土岐氏の一族上有知氏により建立されたと考 えられている。また、天正 16 年(1586)に上有知城主佐藤才次郎方政により祢宜屋敷の寄 進があったとされており、拝殿脇には「佐藤さま」と呼ばれる祠があり、上有知城主を祀って いる。参道は南へと一直線に延び、参道脇には 26 組の石灯篭が並び、中世の旧城下町上有知 へと延びている。本殿東側には脇参道の坂道が延び、この坂の上には清泰寺がありうだつの上 がる町並みを見守っている。  今の社殿は昭和 21 年(1946)に建て替えられたが、一間社流造の本殿は伝統的な形式を

(29)

八幡神社境内景況図 ( 明治 10 年 .1877) 明治 30 年代の桟敷席と祭礼行列 明治 30 年代の和紙と竹で作ら れた造りもの ( 永重町 ) 伝えている。拝殿の東には白山の湧水と伝えられる 「美み た ら い多良井」があり、拝殿の西には明治時代に合祀さ れた熊野社、神宮社、神明社等 10 社が祀られ、社叢 に取り囲まれ静かな佇まいをみせている。  金森長近により慶長 11 年(1606)に中世の城下 町上有知から新城下町上有知へ移転すると、新城下町 へ移り住んだ人々は「町まちかた方」、移転をしなかった上条、 下 しもわたり 渡、古市場、段の住人は「地じ が た方」と呼ばれるように なり、「町方」、「地方」の各町内は八幡神社に や練 り物を奉納した。  長近は八幡神社祭礼について旧領主であった佐藤氏 の時代と同様に勤めるよう申し付け、渡り物の装束や 引き幕等を与えた。金森家が慶長 16 年(1611)に 断絶すると祭礼は一時中断するが、寛永 11 年(1634) から練り物等が増え神事は賑わしくなった(『上有知 旧事記』)。また、『浅野氏系図付記』には「元禄六年 より祭事祭礼の外、見事に相成り賑わしことに候、こ と時より神事見物場所の桟敷相改まり、寛永年中より 掛来り候者ばかり桟敷掛け見物仕り候」とあり、元 禄6年(1693)からはさらに賑わしくなったとされ、 この時から参道脇に桟敷席が設けられ、大正時代末年 まで桟敷見物が行われていた。  祭礼の形態は時代とともに変わったが、現在の美濃 まつりの主役である花みこしは、江戸時代に行われた 「町騒ぎ」と呼ばれた雨乞行事に由来する。雨乞行事 では美濃紙や竹ヒゴを用いて、宝船、馬簾、御所車、 廻り灯篭、百八燈等さまざまな「造りもの」といわれ る創作作品が造られた。こうした造りものとともに、 神輿や神楽、婆娑踊等が町内を練り歩き、湊町のお姫 井戸、熊野社、八幡神社に雨乞祈願が行われた。  この雨乞行事で用いられた造りものは時代とともに 上有知まつりにも用いられるようになり、次第に練り 物と呼ばれるようになった。嘉永6年(1853)には、 花みこしの原型となる「花神輿」と「しない丁ちん」 が初めて登場する。

(30)

 当時の花神輿は、神輿屋根頂部に数本の花が付けられた質素なものであった。また、しない 丁ちんは、しない竹を十数本用いその下に提灯を付けたもので、この二つが合わさり現在の花 みこしとなった。  昭和初期、各町内の若衆は、美濃紙の産地らしく「しない竹」に紙の花をつけ、みこしの上 に 300 本のしないを取り付けた。そして、うだつの上がる町並みを乱舞した。豪華なうだつ を上げた商家は、美濃紙で繁栄した象徴であった。そして上有知の人々はみこしにも繁栄の象 徴となる花みこしを造り上げた。 花みこし巡行ルート、美濃流しにわか開催場所 地 方 町 方 美濃流しにわか開催場所 川湊灯台 旧名鉄美濃町線 美濃駅 長良川鉄道

(31)

大正時代の花みこしと若衆 ( 西市場町 ) お神楽の稽古をする子供達 毎年 12 月から 1 月 にかけて、花みこし に付けられる和紙染 めが行われる。 染められた和紙干し 八幡神社参道に集まる各町内の花みこし  各町内では、まつりの準備を始めることを「八 朔」と言う。江戸時代、祭礼は旧暦八月十四 日、十五日に執り行われ、八月一日(八朔)か ら祭礼の準備をしたことに始まる。明治 30 年 (1897)以降は 4 月に行われるようになり、 多くの町内では4月に入ると準備に取りかか り、 の組上げや子供達による祭り囃子やにわ かの稽古が始められる。軕はまつりの1週間程 前に八朔を兼ねて町内渡りと呼ばれる曳き回しが 行われる。  しかし、花みこしに使われる和紙染めは、さ らに前の冬頃から始められる。常盤町では毎年 12 月和紙染めが行われ、鈴木家の「にわ」で 乾燥されている。各町内では花みこしの色彩に 工夫をこらし、独特の彩色を施している。  まつりの主役は「若わかしゅうれん衆連」と呼ばれる若者の 組織で、組長の下、花みこしや練り物そしてに わかを担っている。若衆連は町名を言わず独自 の優雅な「○○連」と呼称し、お揃いの法被や 半纏には○○連と連名が染め抜かれ、各町内独 自の風合いを出し、まつりの重要な役割を担っ ている。  若衆連の発祥は文政3年(1820)の湊町の 記録に「湊若」の記録があることから、江戸時 代に水運で繁栄した湊町 から各町内に広まっ たとされる。 町  名 江 戸 末 期 平成22年 1 港町 湊連・藍見連(嘉永二年) 藍見 2 殿町 鼎社中 3 相生町 大笹連 大笹社 4 加治屋町 卯花連 卯の花 5 泉町 花岡連 真砂連 6 常盤町 二鷺連 二鷺社中 7 本住町 初音連 靭 8 俵町 花月連 東雲社 9 魚屋町 魚連 10 上条 八幡 11 西市場町 朝日 12 東市場町 若松 13 吉川町(今町) 滝連 松月会 14 広岡町 末廣 15 永重町 信楽 16 米屋町 稲穂社 17 新町 尾崎社中 18 千畝町 友進 平成 22 年度祭礼参加町内の若衆連名一覧

(32)

各町内は拝殿前でのお祓いを受け、花みこし奉納を行う。  まつりは 4 月の第2土曜日に試楽祭、第2日 曜日に本楽祭が行われる。  試楽祭は小祭として、午前 9 時に八幡神社で の花みこしの奉納から始まる。八幡神社参道には 17 町内の花みこしが集結し、社叢の下に鮮やか なさくら色が立ち並び春の訪れを告げる。 、練 り物は各町内の通り筋に置かれ、行き交う人々の 目を楽しませている。同じ頃、かつては、試楽祭 の日に各町内の 、練り物は「四辻」に集合し、 うだつの上がる町並みを巡行したが、今は各町内 に置かれたままである。  神社拝殿前で、各町内が順番にお祓いを受ける。 当本や自治会長らの役員がお祓いを受けるが、若 衆は太鼓の音と共に「オイサー!オイサー!」と 花みこしの奉納舞を行う。奉納舞が終わると八幡 神社脇参道の坂道を威勢良く駆け上がる。城下町 時代に総門があった清泰寺前を通り、文化会館前 で女性のみでつられる(注)「め組」の花みこしが加 わり、旧一番町通りのうだつの上がる町並みへと 向かう。太鼓の音と共に「オイサー!オイサー!」 のかけ声を上げ、江戸時代後期から明治 5 年 (1872)頃までに建てられた豪華なうだつを上げ た建物が立ち並ぶうだつの上がる町並みを右へ左 へ練り歩く。午後1時から若衆と花みこしは、大 正時代から新たな繁華街の中心となった広岡町交 差点に集結し、ここで花みこしの最大の見せ場で ある「総練り」が行われる。各町内の花みこしが 入り乱れて乱舞する姿は、観客を圧倒する。さな がら喧嘩みこしの如く、花みこしは激しくぶつか り合う。そして旧二番町通りを「オイサー!オイ サー!」のかけ声と共にさらに練り歩き、旧一番 町通りの旧今井家住宅前で解散となる。 八幡神社拝殿前で行われる花みこし奉納 試楽祭の日には、 に祭礼提灯が飾られた。 各町内の花みこしが、入り乱れて乱舞する総練り (注)この地方では、神輿を担ぐことを、神輿を「つる」という。

(33)

うだつの上がる町並みの四辻を練り歩く花みこし 文化会館前から御嶽新道を東に進み、うだつの上がる町並みへと入る花みこし

(34)

 うだつの上がる町並みで演ずる美濃流しにわか  花みこしが終わると、担ぎ手の若衆は、その夜に行われる「美濃流しにわか」(記録作成等 の措置を講ずべき無形の民俗文化財)の準備へと向かう。  試楽祭の夜には、各町内で美濃流しにわかが行われる。「にわか」とは酒宴の席で行われる 落語のように落ちをつける即興劇、または俄芝居で、上方文化を色濃く残すもので、上有知で は文政年間(1818 - 1830)頃に広まった。その頃には岐阜より俄師匠を招き所望にわかが 行われていた。上有知は美濃紙の流通の拠点で、多くの紙商人が全国から、また、上有知から 出入りした。万延年間(1860 - 1861)には、上有知の紙商人が大坂でにわかを見て、上有 知に伝えたとされる。  各町内の辻々にはまつり提灯が灯され、「ハレ」の舞台となる引き幕を背景ににわかの競演 が始まる。にわか車に松を立て、赤丸提灯を灯してにわか囃子を演奏する。にわかを始める前 には必ず口上がつく。「東西東西、この場おん目にぶら下げますはにわかの標題○○○○、○ ○○○、相勤めますは○○○町○○○社、先ずは口上、あとは何やらかんやらむちゃくちゃの はじかまり、東西東西。」と始め、拍子木が打たれる。また、にわかが終わると演者も囃子方 も「エッキョウ」と大声で叫ぶ。もどり囃子でにわかは立ち去り、独特の風情が感じられる。  試楽祭の夜には多くの観光客で賑わい、うだつの上がる町並みに笑い声が響き渡る一夜と なっている。     うだつの上がる町並みで演ずる美濃流しにわか 若衆連とにわか車

(35)

 本楽祭は大祭として執り行われ、中世以来、八幡 神社の奉納神事を執り行う「地方」 、 「町方」の奉納、 、練り物の奉納が行われる。   午前 11 時頃、地方の上条が先頭となり八幡神社 に奉納する。地方はまず鳥居前で獅子舞奉納、神楽 囃子奉納を行う。正午、拝殿での神事が始まり、そ の後、拝殿内でお囃子の太鼓の音と共に地方の獅子 舞奉納が行われる。祭礼行列は「渡り」と称され、 地方の神楽屋形奉納、幣物奉納が行われる。行列稚 児を先頭に、当本は袴を着用した第壱番から第参拾 壱番までの警固、獅子頭、御帳面持、太刀持等が続 き、その後、西市場の神楽屋形が奉納される。  地方奉納が始まると、舞殿では「ひりここ」の舞 が二人の巫女により始められる。ひりここの舞は「五 節の舞」のことで、江戸時代には「湯の花」と呼ば れていた。ひりここは笛や太鼓の音が「ひりここ、 ひりここ、おひゃりこや」と始まるのでひりここと 言われるようになった。  町方の 、練り物は午後 1 時前に参道に集まり、 午後1時頃から渡り初めを行う。町方は加治屋町の 笹渡りが先頭となり、港町金みこしが続き、以降、 、練り物の行列が続く。笹渡りは町印を先頭に本 楽親当本、試楽自治会長が続き、その後列に短冊を 付けた笹の枝を持つ少年男子4名、笛、鼓、太鼓の 楽人7名、最後に四神幡(青龍、朱雀、白虎、玄武) が進み、この行列の左右に警固役 20 人が随行する。 笹渡り、楽人は裃を、警固は羽織袴で正装する。  港町には、江戸中頃から の「聖王車」があった。 港町は明治 19 年(1886)に町内が殿町と港町に 分かれ、町名も湊町から港町へとなり、祭りの主 役である若衆が減少し、坂道の多い港町は の引回 しが困難となった。このため、明治 23 年(1890) に を新町に譲り、新たに神輿が新調された。町印 を先頭に榊持ち、楽人、白装束の仕丁により神輿は 担がれたが、現在、楽人は省略され、神輿も台車に 参道の鳥居前で獅子舞奉納する地方 拝殿では、地方の獅子舞奉納が行われる。 舞殿では、ひりここの舞が奉納される。 港町の金神輿奉納

(36)

参道に集まる町方の 、練り物 載せられ4人の仕丁により進められてい る。  その後、各町内の 、練り物の渡り初 めが順次行われ、神社奉納と練り物の練 り回しが行われる。祭礼を受け継ぐ人々 の、活気溢れる本楽最大の見せ場となる。   は、文化7年(1810)に作られた 吉川町の布袋車、江戸後期に作られ狂言 「靭うつぼざる猿」を舞う優雅な常盤町の靭車、延 宝 2 年(1674)に作られ江戸時代には うだつの上がる町並みから八幡神社へ向かう笹渡り巡行(加治屋町) 乙姫と浦島奉納(俵町) 鞍馬天狗と牛若丸(魚屋町) 黒船車といわれた船型の船山車(相生町)、天保 13 年(1842)に製作され浦島太郎が鯛を釣り喜 ぶからくり人形を持つ泉町の浦島車、享和 2 年 (1802)の墨書が残る新町の聖王車、謡曲「三輪」 の一節を巫女が舞う殿町の三輪車を6町内それぞ れが奉納する。 花咲爺(広岡町) 傘鉾(永重町)

(37)

六町内の祭礼 (県指定重要文化財)と 蔵位置図 聖王車の聖王と唐子人形 三輪車の巫女と楽人人形 靭車の靭猿と太郎冠者人形 布袋車の布袋人形 浦島車の浦島太郎と唐子人形 各町内 蔵

(38)

浦島車を傾ける若衆 布袋車を傾け奉納する。   は布袋車、船山車を除き名古屋式と呼ばれる 2 層構造をもつ。船山車は東海地方に残る 船形の で、優美な美しさを残している。布袋車は江戸時代には人形を置かずに上で踊りをし ていたとされ、明治時代に入り、美濃紙と竹ひごを用いて作られた「造り物」である布袋人形 が置かれた。  練り物は 8 町内から加治屋町の「笹渡り」と「四神幡」、港町の「金神輿」、本住町の「七福神」、 俵町の「乙姫と浦島」、魚屋町の「鞍馬天狗と牛若丸」、広岡町の「花咲爺」、米屋町の「桃太郎」、 永重町の「傘鉾」が奉納される。   を前へ後ろへ傾け、大きく回転をさせ、また、 の中ではからくり人形を操る若衆がお囃 子の音と共に優雅に人形を操る。各町内それぞれに独自の奉納が行われる。渡りが終わると、 若衆は力を合わせ脇参道の急な坂道を一気に駆け上がる。そして各町内へと戻って行く。  八幡神社にまた春の静寂が訪れる。中世から続けられる八幡神社祭礼、時代とともにその祭 礼形態は変化していった。祭礼は金森長近の保護を受け、金森家亡き後は尾張藩上有知代官の 保護を受け、美濃紙と竹ひごで造られた「造りもの」が主役であった。また、美濃紙で栄えた 上こ う づ ち有知の象徴である花みこしは、独自の祭礼形態を生み出した。それは華やかな商家の町人文 化の証であり、独特の風情を醸し出し今に伝えている。

(39)

うだつの上がる町並みから隔絶した清泰寺 清泰寺三門 寛政 4 年(1792)武儀郡上有知村絵圖に描かれる、 清泰寺周辺位置 (3)清泰寺にみる歴史的風致  小倉山西方の高台、古木に囲まれ「うだつの 上がる町並み」から隔絶した世界をつくり、400 年間うだつの上がる町並みを見守る金森家菩提寺 である清泰寺が、今もひっそりと佇んでいる。  清泰寺は臨済宗本山妙心寺の直末寺、妙心寺派 の寺班特例地とされている。慶長 10 年(1605) 金森長近は前領主佐藤秀方の菩提寺であった以安 寺を移築し、妙心寺派僧鉄松和尚を開山として、「安住山清泰寺」と改称し、金森家菩提寺とした。 清泰寺前には当時総門があったとされるが、今はない。

(40)

城下町時代の野面積みの石垣が残る築地塀 天保年間に改築された壮麗な建築様式をもつ清泰寺庫裏 優美な妻飾りを掲げる清泰寺庫裏  参道を進むと、正面には小倉山城跡と同じ野面積みと呼ばれる石垣が残り、当時は城郭の一 部であったことがわかる。参道の北側は、かつては、明治5年(1872)の学制の制定により 申英義校が置かれ、上有知の教育の中枢となった場所である。  参道から三門を通ると、築地塀に囲まれた寺内に入る。正面には禅宗建築独特の庫裏が威風 堂々と建ち、見る者を圧倒する。天保年間(1830 − 1844)の改築とされ(『清泰寺由緒書』)、 大妻を正面に向け唐草くずしと波の彫刻をもつ妻飾りが優美さを増している。 

(41)

三門を入り南脇に建つ金森大権現社 金森家、佐藤家の 位牌を祀る清泰寺 本堂 金森宗和の作庭と伝えられる書院庭園。山の斜面を とり入れた庭の一角には、貴人榻といわれる石が置 かれる。 本堂に祀られる清泰寺殿、保寧寺殿、 以安寺殿の位牌  本堂は、明和 4 年(1767)の再建とされ、桁行 7 間、 梁間 13 間の入母屋造で、奥に開山堂を付す大規模 な本格的禅宗建築である。堂内には、保寧寺殿(佐 藤清信)、以安寺殿(佐藤秀方)、岩佐院殿(佐藤方政)、 清泰寺殿(金森長近)、繍雲殿(金森長光)、久昌院 殿(長光母)の佐藤家、金森家の各位牌が祀られて いる。また、本堂裏には佐藤清信、秀方の墓、金森 長光(長近の二男)の墓があり、文政4年(1821) には佐藤一斎が先祖を偲びこの墓に詣でている。長 光の墓は、もとは三門を入った左手奥の長近の霊を 祀る金森大権現社に祀られていたもので、明治の神 仏分離で墓地へと移された。金森大権現社は江戸 時代には拝殿、本殿の規模も大きく参道も南面に あり、参拝者も多かった。かつて 3 月 12 日には祭 礼があり、安政 4 年(1857)には小倉山城主当巳 二百五十年祭が行われ盛大な供養がされるなど、長 近は上有知の人々に崇敬されていた。  本堂裏手には、金森宗和作と伝えられる書院庭園 (市指定文化財)があり、寺内を取り囲む古木とと もに幻想的空間へと導いている。  清泰寺では毎年正月元旦から3日には修正会、1 月、5月、9月の各 15 日には善月祈祷大般若会、 昭和 34 年(1959)からは同日に壇信徒の女性の みで組織された「和敬会」の会合が執り行われ、当

(42)

善月祈祷大般若会 400 年間、うだつの上がる町並み に梵鐘の音を伝える清泰寺鐘楼 毎年 1 月に配られる大般若祈祷札 は、檀家の家の軒先に掲げられる。 日のおとき(精進料理)の支度も和敬会により行わ れている。清泰寺境内には、創建以来お茶の木が栽 培され、毎年、和敬会により茶摘みがされ、ほうじ 茶として振る舞われている。かつては「上有知餅」 といわれるあんこ餅も作られ、檀家の人々に振る舞 われた。  歳晩諷経、除夜の鐘では、第六世密巌和尚の時代 に再建された鐘楼が、今も梵鐘の音を城下のうだつ の上がる町並みに響き渡らせている。  正月元旦からの修正会は午前 10 時から法要が始 まり、新年祝い、天下泰平等を祈祷して、大般若経 の転読が行われる。修正会厳修の祝祷の大般若のお 札は各檀家に配られ、玄関の軒先下に掲げられてい る。金森長近の城下町時代(1606 − 1611)には 領内五千戸を檀家として扱い、各戸に大般若のお札 が配布されていた(高林、1958)。今も、檀家の家 の軒先には、大搬若祈祷札が掲げられている。   江戸時代には、正月に、城下町の年頭廻りが行わ れていた。住職は駕籠に乗り全山僧侶を従えて、若 党2名が先頭の露払いに立ち、「清泰寺、年頭」と 大声で呼び、各町内を練り歩いた。その駕籠は現在 本堂の天井に吊るされている。また、明治時代に入

(43)

明治 30 年代、上有知の町から郡上街道を通り、 曽代地区へ向かう清泰寺の年頭参り 大正時代に紙漉き職人により寄贈された楮を煮る  煮熟釜が、庫裏の玄関前に置かれている。 本堂の天井には、江戸時代年頭参りに使われた駕籠 が保管されている。 ると住職は人力車にのり、上有知の町から打上坂(有知上坂)を上り曽代へと向かった。上有 知の人々は共に練り歩き新年を祝った。  牧谷の蕨生地区の総代は毎年1月 10 日、清泰寺へ年頭挨拶に訪れ、本堂にて金森長近への 年頭のお参りを行う。長近は紙漉き職人を保護育成し、美濃紙は幕府御用紙や各藩の御用紙 となったため、紙漉き職人は金森長近への恩を忘れなかった。かつては、旧暦1月 10 日に上 有知にて紙の初市が開かれた。牧谷の紙漉き職人は紙を持参し、玄関にて年頭の挨拶を行っ た。板の間に上がり和尚から年頭を受け、その後、本堂に進み長近公の霊前に美濃紙をお供え し、感謝を捧げた。そして庫裏の茶の間に移りおと きを頂いた(高林、1958)。この風習は昭和 30 年 代後半まで続けられ、庫裏の玄関前には、大正9年 (1920)に紙漉き職人により捧げられた煮熟釜や楮 を水晒しする水槽が置かれ、往時の風習の面影を偲 んでいる。  金森家菩提寺である清泰寺は、うだつの上がる町 並みの繁栄と牧谷の紙漉き職人の繁栄を願った。多 くの檀家により活動は支えられ、城下町時代の風習 は今も続けられ、檀家の家屋の軒先には清泰寺のお 札が掲げられる。また、牧谷の紙漉き職人も 400 年間金森長近への恩を忘れず、毎年長近へ感謝を捧 げている。牧谷と上有知、職人と商人、各々の立場 は違うが、ともに美濃紙の繁栄と安泰を願った。清 泰寺では今も風情ある佇まいを残し、牧谷の人々、 上有知の人々を見守っている。

参照

関連したドキュメント

地域 東京都 東京都 埼玉県 茨城県 茨城県 宮城県 東京都 大阪府 北海道 新潟県 愛知県 奈良県 その他の地域. 特別区 町田市 さいたま市 牛久市 水戸市 仙台市

西が丘地区 西が丘一丁目、西が丘二丁目、赤羽西三丁目及び赤羽西四丁目各地内 隅田川沿川地区 隅田川の区域及び隅田川の両側からそれぞれ

地区住民の健康増進のための運動施設 地区の集会施設 高齢者による生きがい活動のための施設 防災避難施設

専門は社会地理学。都市の多様性に関心 があり、阪神間をフィールドに、海外や国内の

現在、本協会は、関東地区に 16 局の VHF 海岸局と、4 局の 400MHz 海岸局(VHF

またこの扇状地上にある昔からの集落の名前には、「森島」、「中島」、「舟場

このような環境要素は一っの土地の構成要素になるが︑同時に他の上地をも流動し︑又は他の上地にあるそれらと

東京都北区地域防災計画においては、首都直下地震のうち北区で最大の被害が想定され