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たたら製鉄についてのまとめ

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Academic year: 2021

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歴史班レポート

一色裕光・松前早紀・三鼓健太 宮村翔吾・山田健太・蓬典恵 目次 Ⅰ はじめに Ⅱ 室谷村、井野村の歴史について Ⅲ 大麻山神社 Ⅳ たたら製鉄と金屋子神にまつわる信仰 Ⅴ 三隅に残る伝説 Ⅵ まとめ Ⅰ はじめに 我々歴史班は、室谷の歴史について調べてきた。詳しくは内容に書かれているが、棚田 と共に三隅町の室谷とともにあった歴史を紐解いていきました。現場での作業もあるが、 歴史班としての活動は主に資料を調べ上げていくことだった。膨大な量の資料を歴史と共 に眺めていくのはパズルを仕上げていく感覚に似ていた。今回のレポートは室谷に絞った ものと、三隅町の伝説、さらに島根県や中国地方を含めたたたら製鉄の話となる。 Ⅱ 室谷村、井野村の歴史について ここでは、私たちのフィールドである、旧室谷村、旧井野村の歴史を概観する。室谷村 は現在の三隅町室谷、井野村は現在の三隅町井野および、浜田市井野町のことをさしてい る。村の位置関係をみると、室谷村は、折居川の右岸に位置しており、その南の山間に井 野村は位置している。この三隅町とこれら二つの村の歴史について「三隅町史」、「亀山」 などを参考にまとめてみようと思う。 Ⅱ-1 三隅町の歴史 三隅町は、那賀郡の西側で浜田市と益田市の間に位置している。日本海に面するが、平 地は少なく町の65%が山林原野である。この地域には、井野大谷古墳など、幾つかの古墳 があり、歴史が古いことを物語っている。古代には町域の大部分が「和名沙」の那賀郡三 隅郷に属し、東部が同郡杵束郷に含まれていたと推測される。1229 年に三隅信兼が高城を 築いてこの地を支配した。この城は、1570 年に毛利氏に攻められて落城したが、この時代 まで三隅氏の支配が続き、現在まで残る三隅という地名に影響力の大きさがうかがえる。 慶長5 年町域の村は、幕府領となった。元和 3 年井野村が津和野藩領となって幕末に至 り、残りの村は同5 年の浜田藩成立とともに同藩領となった。特に井野村は浜田藩領であ ったが、村高 2769 余の大きな村で、代官所を置くなど特異な存在であり、三隅において 大きな存在であった。1876 年このとき、浜田県は島根県となる。1889 年の町村制施行に 先立って合併が行われ、井野村と室谷村は合併して井野村になっている。町村制の施行に より町域には黒沢村、西隅村などの 9 か村が成立した。1892 年岡崎村は三隅村に改称さ れ、1927 年に三隅村と西隅村の合併により、三隅町となった。

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Ⅱ-2 室谷村の歴史 この村の大きな特徴としては、北部に大麻山神社を設けていることである。大麻山は、 海岸近くにそびえたっているために、昔から日本海を横断する船の目印となっていた。そ のために、漁民や船乗りの信仰の対象となっていて、室谷村をおとずれる漁民が多かった とされている。また大麻山の南東には、尊勝寺があった。江戸時代は浜田領藩であった。 1619 年の古田領郷帳では、高 131 石余であったという。 室谷には、石垣でつくられた立派な棚田が山の上まで伸びていた1)。これらの棚田は、 鉄穴流しで生じた、石と泥でしだいに増加していった。これは昔、井野村を中心に砂鉄が 掘られていたころの痕跡であるといえる。砂鉄の生産について、室谷村と井野村は村単位 で話し合いがあるなど様々な関わりあいをもっていた。室谷村には、砂鉄採取の鉄穴役銀 が課されていたという。砂鉄の生産が盛んで、村人の生活を支えており、室谷村には、浜 田藩の御立山鬼ヶ城があったとされ、浜田藩から、監視されていたようだ。茶やコウゾな どの生産も盛んであった。江戸末期の慶応2 年には、小鉄 5500 駄を産した。同年の家数 43 人高 194。室谷村には、大麻山、尊勝寺の他に大元大明神とその末社金屋子社、中森社 より前に庄屋であった斉藤家が使ったという瑞泉庵があった。室谷村は、1889 年に井野村 と合併し、1955 年に三隅町と合併した。三隅町との合併により、室谷村というものではな いが、事業を進めている。 Ⅱ-3 井野村の歴史 井野村は、室谷村の南に位置する、山間の村である。この村は、中世は、井野村郷と呼 ばれていた。江戸時代の初期は、幕府の領土であり、1617 年(元和 3)津和野藩の領土と なった。 この村の歴史を辿ってみると、砂鉄の採取が盛んに行われていたことがわかる。この砂 鉄の採取は、天和年間に始まったとされている。砂鉄は採取すると、大量の土砂が川下に 押し流される。井野村で盛んに砂鉄の採取が行われていた天和年間などには、三隅川の下 流などは、洪水の度ごとに、土砂の沈積に悩まされていたという。室谷、諸谷、芦谷から 流れてくる、折居川も多くの土砂を運んで、その川口に約2 ヘクタールの耕地をつくって いたという歴史上の記録もある。そこには、大正時代まで3 戸の農家が、農業を営んでい たというが、そこが現在の遠浅の立派な海水浴場である。井野村誌によると、井野村は砂 鉄の生産量が多大であり、広島県の加計の隅屋八右衛門は、製鉄業を始める際に、原料砂 鉄を井野村に求めている。それだけ井野村の歴史において、砂鉄というものが大きかった といえよう。砂鉄の移出の際の輸送路としては、井野―程原―弥畝山西―道川(現在の匹 見)や井野―木束(現在の弥栄村)―鍋滝(現在の金城)などの縦横広くルートがあった という。旧郷社の井野村八幡宮は、蛇山の中にあり、1186 年(文治 2)に勘請と伝えられ ている。この八幡宮で、毎年9 月 15 日に祭りが行われてきていて、そこで奉納される井 野神楽は、歴史が古く延宝年間までさかのぼる。この井野神楽は現在では、県指定無形民 俗文化財となっている。井野村八幡宮の境外社である、殿河内の春日神社は、永万元年 (1165 年)の勘請である。徳治年中に大谷より移されたと記されている。これらのように、 井野村も多くの寺院があったとされる。これらの寺院の存在から、井野村の人々も室谷村 の人々と同じように宗教、寺院などが、生活に影響を及ぼしてきたのであろう。 井野村の砂鉄業は、大正時代中期の洋鉄の輸入の増加によって姿を消したのだが、第一 次世界大戦時には、眠っている鉄鉱石の採掘が行われ、原石のまま、北九州の八幡製鉄所

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に送られた。 (山田健太) Ⅲ 大麻山神社 大麻山神社は大麻山山腹に位置している。標高596 メートルで、山頂からの視界は実に 広く、南は中国山地、北東に三瓶山、西に須佐の高山、北および北西に広がる日本海、そ の海岸線は眼下に見下ろすことができる。北側の平野部から見れば遥かなる高山であるが、 南側の室谷の集落からは比高300 メートル程度となり、大麻山神社との比高は 200 メート ル内外になる。よってこの土地の人々からすればこの山は昔から生活舞台の一部であった ことが分かる。 大麻山神社の神主である白須弘氏へのインタビューと、文献に基づいて、大麻山尊勝寺・ 大麻山神社の歴史をたどる。 Ⅲ-1 大麻山神社と大麻山尊勝寺 1)双子山から大麻山へ 仁和4 年(888 年)に大麻山はそれまでの双子山から山号が変わっており、それについ ては二つの説が存在している。 ①仁和4 年(888 年)11 月 3 日、阿波国板野(徳島県)の権現大麻彦命の大麻2)が懸か ったため山号を大麻山と改めた。寛平元年(889)2 月 10 日、山号を変更したことを宇 多天皇に報告し、許しを得て、徳島県板野郡大麻町の大麻彦(おおあさひこ)神社主祭 神大麻彦命(おおあさひこのみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)、徳島県二軒屋 町の忌部神社祭神天日鷲命(あまのひわしのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと) を請い迎えた。安和2 年(969)、五社権現となり大麻山神社は「権現さん」と呼ばれ信 仰されるようになる。 ②天平(708∼781)・貞観(782∼888)年中、大麻山は双子山と称していた。当時、異憎 が来て開き住むことになり、尊勝陀羅尼3)という経で里の人々を教化した。 ①の説において、大麻山神社が「権現さん」と呼ばれ親しまれていた事が分かる。この ことから、この地域の人々が本地垂迹説4)による両部神道5)を信仰していた様子をうかが い知ることができる。 大麻山縁起に記述されている②の説においては、記述されている年号に矛盾がある。(本 当は、天平年間は729 年∼749 年、貞観年間は 859 年∼877 年である。)また、「異僧」と いう記述がある。当時すでに大麻山神社は存在しており、人々の信仰が大麻山神社の中心 であったと考えれば、異教徒という意味での「異僧」になる。しかし、渡来人や異民族と いう意味での「異僧」とも考えられる。 2)尊勝寺が建立されてからの歴史 天暦3 年(947)寺坊を建立して尊勝寺(真言宗)となった。本尊は十一面観音6)とし た。 古来より西の高野山と呼ばれた大麻山は、その東南、両山腹を神社や仏閣で囲まれてい たことが、今日、残っている遺跡などから伺うことができる。しかし、白須弘氏のお話に よると、その石垣はすでに林の中にあり確認しづらい状況にあるらしい。 大永 3 年(1523)の尼子、大内戦で焼失し、天文 3 年(1535)寺で大火事が起こり再 び焼失した。

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天正20 年(1592)三度、再建したものを権大僧都良海法印が「大麻山諸伽藍宮立坊中 絵図」(県指定文化財)に描いていており、そこから当時の寺の様子をうかがい知ることが できる。 写真1 大麻山神社大麻山諸伽藍宮立坊中絵図(県指定文化財)(一部) (2004 年 5 月 15 日撮影) 天保7 年(1836)、長雨による山崩れにより崩壊した。 天保15 年(1844)、現在の社務所にあたる場所に建立された。 明治5 年(1872)、沖地震によって崩壊した。 明治 19 年(1886)、神仏分離によって、治統法印7)は高野山に去ることになり、その後 社殿を建立し、現在に至る。 (蓬典恵) Ⅲ-2 全国の大麻山神社 日本国内には、「大麻山」が 4 つも存在している。島根県那賀郡三隅町の大麻山(たい まさん)標高599m。香川県小豆郡池田町、土庄町の大麻山(おおあさやま/たいまさん) 写真 2 大麻山神社(島根県那賀郡三隅町) (2004 年 5 月 15 日撮影)

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標高428m。香川県善通寺市、三豊郡高瀬町の大麻山/象頭山(おおあさやま/ぞうずさん、 ぞうずざん)標高 616m。徳島県鳴門市の大麻山(おおあさやま)標高 538m、の四つが ある。それぞれの山には順に大麻山神社(たいまさんじんじゃ)島根県那賀郡三隅町。大 麻神社(おおさじんじゃ)香川県善通寺市大麻町上ノ村山。大麻比古神社(おおあさひこ じんじゃ)徳島県鳴門市大麻、がある。今挙げた四つの神社以外にも全国には「大麻」と いう名が付いている神社が存在する。そういった神社は天日鷲命(あまのひわしのみこと) を祭っている神社が多い。天日鷲命は穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻紡織の諸業を創始 した神とされている。よって「大麻」という名の付く神社にはこの神が多く祭られている。 日本の神に関係のある神を祭っていた大麻山神社は、当時の村人または僧侶にとって信仰 しやすい体系をとっていた神社ではないだろうか。大麻山神社は、民間信仰が結集した村 人の信仰と心のよりどころであったと考えられます。 (松前早紀) Ⅲ-3 大麻山周辺の5つの神社 上室谷に住む三浦尚氏(83)に大麻山周辺の5つの神社の話を伺う機会を得た。5 つの 神社の中には今も存在している神社とそうでない神社があるという。 1 つ目に、5 つの中でも最も有名である「大麻山神社」だ。大麻山神社は、寛平元年(889 年に波国坂野郡麻比古神社を遷すという記述が延喜式に残っている。古くは、大麻山の山 頂に鎮座していたが、後に山の八分目に下げたと言われている。天保七年(1836)に、山 が大きく崩壊して、寺院は土中に埋まり、社殿の上にも大きな崩れた部分が発生したので、 現在の位置へ移転し、天保15 年(1844)に再建された。明治 3 年(1870)2 月に廃仏毀 釈の動きを受けて別当尊勝寺が廃止された。この時に廃止されてしまった尊勝寺は、高野 山真言宗の末寺として山岳信仰の中心寺院として古くから栄えてきた。この尊勝寺は、現 在はもう残っていないが室谷の人達には未だに愛されているそうだ。伝説としては大麻山 の神は、長門国須佐の甲山の神と石合戦をして、大麻山の神が勝ったというおもしろい話 も残っている。 まず「大元神社」には 2 つの神が祀られており、ひとつは「鉄」の神である金屋護神、 もうひとつは名前は不詳だが「農業」の神とされている。大元神社は、かつては室谷地区 にある大森山というところにあったということだが、現在は大麻山神社と共に祀られてい る。 「弥仙神社」は、古くは大麻山の山頂に本社である大麻山神社があったが、中世(はっ きりとした年代は不詳)に入り大麻山の八分目当たりに建設されたことから、その旧跡を 記念するために祠を立てて大麻山神社と同じ神を祀ったものと言われている。この弥仙神 社は大麻山神社の末社とされている。山岳信仰がある山には弥仙神社が必ず存在しており、 それは学者の調査の結果、明らかされているという。 「金刀比羅神社」は「海」の神様とされており、「金刀比羅」とはインドの言葉で「ワ ニ」という意味という。この神社は三浦宅の裏山に位置しており、三浦さんは昔、回船業 を営んでいたことから建てられたという。「頼母子講(たのもしこう)」とは地域の人々 が少しずつお金を出し合い、神社や家を建てることを指すが、この神社は「頼母子講」に よって建てられたものである。かつて、毎年8 月 30 日と 31 日には祭りが開かれており、 現在は三隅神社に移され祀られている。 「弥栄神社」は諸谷集落にあり、かつては三浦氏の本家(仲間)の裏手に位置していた

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神社である。大元神社と同様に「農業の神様」と伝えられている。この神社がいつからあ ったのかは解明されていないが、古くからあったという説が強い。この弥栄神社の歴史が はっきりと分からないのは、江戸時代、折居川を境に浜田藩と津和野藩に区別されており、 この神社が津和野藩の場所に位置していたために三浦氏が所蔵している資料の中には詳し い内容は掲載されていなかったからという。津和野にも、弥栄神社という神社があり、こ れは室谷の弥栄神社と何か関係があるのかもしれない。 (松前早紀) Ⅲ-4 まとめ このように、大麻山神社・尊勝寺は計 4 回の崩壊にみまわれてきた。しかし、このよう に今日でも神社が存在していることから、人々にとっての大麻山のあり方のようなものを うかがい知ることができた。大麻山という山号に変わったいきさつに矛盾があるあたりも、 裏を返せば人々が口伝などで歴史をつむいできた痕跡のようなものなのではないかと感じ た。 また、神主の白須さんのご好意により、大麻山神社の紙本墨画淡彩大麻山縁起1巻を間 近で見ることができた。歴史をただ追うというよりは人々の生活・文化を肌で感じること ができ、貴重な体験となった。 (蓬典恵) 室谷の棚田の近くには様々な神社があり、各神社によってそれぞれの歴史が刻まれてい ることを知った。しかし、その神社の多くは現在残っておらず他の神社と一緒になってい る。その中で唯一、人々が訪れ、参拝され続けているのが大麻山神社だ。その大麻山神社 は、現在でも多くの謎が残っており、その謎を解明するには多くの時間と知識が必要とさ れている。その謎も、三浦さんを始めとした地元の人達の手によって少しずつ解明されつ つある。 (松前早紀) Ⅳ たたら製鉄と金屋子神にまつわる信仰 三隅町の歴史を調べてきた我々だが、中国地方、特に島根県では古来よりたたら製鉄と 呼ばれる製鉄法が発展してきたということに興味をもった。中国地方の気候や自然環境が たたら製鉄に適していたということを前提に、島根県でのそれはいったいどのような形で 発展・衰退してきたのだろうか。たたら製鉄は最も初期の段階から考えると、古墳時代頃 から始まったとされている。そのたたら製鉄は中国地方で最も盛んとなる。また、島根県 全土でもその傾向は見ることが出来、三隅町からも多くの遺跡や鉄鉱石が発見されてきた という。たたら製鉄とは何か?ということから説明し、三隅町での遺跡などを探っていく。 Ⅳ-1 たたら製鉄について では、たたら製鉄とは何だろうか。鉄鉱石の乏しい日本の鉄産業は、洋式製鉄製法の導 入されるまで、主に砂鉄を原料とする製法に頼ってきた。近代的な洋式製錬に対して、こ の在来の方法による製鉄を「たたら製鉄」と呼ぶ。「たたら」とは元来金銀銅などの金属製 錬の際に使う送風用鞴(ふいご)のことを指したが、砂鉄精練が住民の生活に密接な関係 をもった主産地の中国地方では、やがて砂鉄による製鉄業全般を総称する言葉となり、さ らに製鉄作業を行う場所あるいは炉のある中核的建物でもある高殿のことをさす用語とも なった。日本の初期の鉄生産は砂鉄と木炭を探し求め、露天で自然通風により少量の鉄を 作る移動性の強いものであったが、その後送風に皮の鞴の使用が始まり、箱鞴や足踏み鞴 へと変わっていく。しかしまだ鋳物師や鍛冶屋により材料の鉄が作られる段階で、製鉄業

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として独立したものとはいえなかった。中世後期になると定着が一般化し、末期には砂鉄 採取も竪穴堀に代わって、流し堀による鉄穴流しの方法が始まるなど、中国山地を中心に 体制的なたたら製鉄の時代に入った。 砂鉄は花崗岩の風化したものだが、製鉄用には赤目と真砂の二種類に大別される。赤目 は山陽山陰両地方ともに産出するが、真砂の良質なものを多く産出するのは山陰の出雲や 石見の一部であった。溶融しやすい赤目を主原料とする製錬法を銑押し法(ずくおしほう)、 真砂を主とするものを鉧押法(けらおしほう)といい、川砂鉄や浜砂鉄もまぜて使われた。 たたら製鉄では(1)鉄穴流しによる砂鉄の採取(2)鑢での銑・鋼の製錬(3)雑鉧の鍛錬 脱炭による錬鉄の生産の3 つの作業部門を主な柱とし、大量に使用する木炭の生産も重要 な関連部門であった。鑢では高殿の中央に粘土で低い長方形の炉を築き、木炭と砂鉄を交 互に投入しつつ炉の両側の鞴から送風して還元を行う。銑押法では一回の操業が4 日間の 昼夜連続作業を基準とし、その間生成される約1千貫の銑を炉外に流し出して鉄池に投じ 冷却する。鉄は炭素量が多いので鋳物用のほかはほとんど大鍛冶屋へ送られた。 近世後期までは真砂の主産地出雲、石見地方においても銑押法が主流であった。なぜな らば、鉧押法は銑押法と違い炉底一杯に7百貫近い大鉧塊を生成するため、その破砕処理 にも問題があったからである。しかし鉧押し法は 17 世紀後半頃に天秤鞴が発明された影 響で、従来使われていた差鞴や踏鞴に代わって、18 世紀前半爆発的似に各地に普及するこ ととなる。さらに 18 世紀後半宝暦末年のころ、大銅と呼ばれる製鉄用具を落下させて鉧 塊を割る方法も考案され、真砂の主産地で技術の整備が進んで、藩も生産を奨励、特に幕 末の開港後軍需の増大などにより、生産が激増し本格化した。 鑢の施設には高殿を中心に炭小屋などの倉庫、砂鉄洗浄、鉄池、職人の長屋のほか事務 所などがあり、職業神の金屋子神祠もまつられた。この全域内を山内と呼んで竹矢来など で囲むこともあり、村方と隔てられた独特の性格の集落を形成していた。大鍛冶屋は鑢の 山内に併設されるものであったが、単独の大鍛冶の区域内も同様に山内と呼ばれた。鑢の 山内に住む専属労働者には、作業の責任者で職長の村下(むらげ)、補佐役の炭坂、手伝い の炭焚、鞴を踏む番子、砂鉄を精洗する粉鉄(こがね)洗、炊事係のウナリなどの他、山 林製炭関係の山子と頭の山配があった。大鍛冶山内には、職長の大工、補佐の左下、差鞴 を指す吹差、槌で鍛錬する手子、炭を扱い雑用もする炭伐などがいた。大鑢では、職人が 60 人、大鍛冶で 15 人内外、その家族を合わせると、大鍛冶併設の場合には 300 人前後の 大集落が山間に出現することとなった。 近世の鉄需要は、中国地方とそれに次ぐ東北地方のたたら吹きによって大部分がまかな われ、九州、北陸や土佐でも一部行われ、幕末期には北海道南部なども加わった。しかし 開国後、洋鉄の輸入が年々増加し、コスト高で用途も限られる和鉄和鋼は、品質的には優 れたものを持つものの、次第に圧迫されていくこととなった。明治時代に入り、政府が洋 式鉄製法の確立を目指しながらも意のごとく進まなかった間、国産砂鉄によるたたら製鉄 の存在意義はなお残され、中国地方の全産額は国内産鉄の70∼90%を占め続けた。しかし 明治20 年(1887)以降、釜石鉱山田中製鉄所の進展などにより近代高炉製法による生産 が上昇期に入ると、たたら吹による全産額は明治23 年(1890)をピークとして以後減少 を続け、明治34 年(1901)官営八幡製鉄所の創業はその衰退を決定的なものにした。そ の後、第一次世界大戦中戦時景気にあたって一時活況を取り戻すことになるが、戦後恐慌 によって徹底的打撃をうけ大正12 年(1923)を最後に長い歴史に幕を閉じることとなる。

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日中戦争が始まると軍刀用玉鋼の生産要請などから島根県の靖国鑢などでたたらの技法が ほぼ再現されたが、終戦とともに廃止することとなった。 しかし、その技術的な体験は作業に参加したたたら職人たちによる技術保存の機会とな り、昭和 44 年(1969)に日本鉄鋼協会は、彼らの経験を活用したたたらの学術的復元操業 実験を島根県飯石郡吉田村で実施した(現在は出雲市)。また昭和 52 年(1977)には日本 美術刀剣保存協会が中心となって、たたらおよび日本刀鍛錬の技術保存と刀匠への玉鋼供 給を目的として同県仁多郡横田町の靖国鑢跡に日刀保鑢を築き、以後毎年冬季の作業を継 続、伝統技術の維持保存につとめている。以上がたたら製鉄の基本的な流れである。 製鉄には膨大な量の砂鉄と木炭と労力が必要である。映画「もののけ姫」も精錬所を舞 台に物語が展開するが、山を禿げ上がらせるほどの木が必要になり、山の神々との争いが あったのも、それほどの量の木炭の原料となる木が必要ということを反映している。しか し、砂鉄の採集の際の労力、伐採した木を加工して出来る木炭の膨大な使用量に対して、 得ることのできる鉄の量が少ないために、たたら製鉄は山林の豊な土地でなければ出来な かった。 鉄穴流しと呼ばれる砂鉄採取の手法で、砂鉄を選別する。山 際に水路を作り原料となる砂鉄を採取する。この方法によって 得ることのできた砂鉄が、鉄の原料となる。 砂鉄を採取できたら、次はたたら炭を焼く作業に入る。砂鉄 は燃え上がる炭のすき間を落下する間に還元と呼ばれる化学変 化を受けて鉄に変わるので、それを集め、炭を焼く。炭にはナ ラ、クヌギなどの雑木を使用する。1 回のたたら操業に必要な 炭の量は約10∼13 トンで、これは森林面積にすると1ヘクタ ールとされている。 次は築炉作業となる。炉床打ち締め(下 灰作業)→元釜づくり→中釜つくり→上 釜づくりのような順番で釜作りを行う。 釜作りは製鉄でも重要な作業であると同 時に、最も困難な作業でもある。右図は 炉の断面図である。図を見ると、炉は複 雑な構成となっていることがわかる。 たたら操業と呼ばれる作業に移る。砂 鉄を装入する前に、炉にいっぱいの木炭 がくべられ、鞴(ふいご)から風が送ら れる。三昼夜、約 70 時間におよぶ過酷 な作業が始まる。次ページの右図はその 作業の画像である。釜の下方向から流れ 出ているものは「ノロ」と呼ばれる砂鉄 から出た不純物である。村下はノロの具 合からも砂鉄の状態を判断する。 次ページの左図は、製鉄が終わった後の様子である。釜の中に、前にも触れた鉧の塊が 精製されている。この鉧の具合からも、村下は製鉄の様子を判断することができるという。

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砂鉄から鉄の固まりが製錬されたら、大鍛冶 という作業に入る。大鍛冶とは、加熱と鎚打ち をくり返して不純物を絞り出し炭素量を調整し 錬鉄作業であり、たたら製鉄の中でも重要な位 置にある。 (画像は全てhttp://www.wakou-museum.gr.jp/ 和鋼博物館 HP より引用) (三鼓健太) Ⅳ-2 中国地方および三隅町のたたら製鉄について 1)中国地方 たたら製鉄は中国地方で盛んとなった。全国的にも行われていたが、中国地方で最も盛 んとなった。その理由を、いくつかの項目に分けてみると、次のような特徴があることが わかった8) (1) 砂鉄が取れる (2) 炭焼きの山林がある (3) 炉を作る粘土が取れる (4) 米の値段が安い (5) 品を積み出す港が近い (6) 村下(製鉄時の監督人)等の技術が優れている (7) 監督する役人に悪い人がいない 以上のような理由が中国地方の山間地域にあてはまっていたと思われる。特に中国地方 では、原料となる「砂鉄を含む花崗岩」がよく取れたために、たたら製鉄にとって非常に 条件のよい土地となっていたようだ。 たたら製鉄には多くの炭や労力が必要とされる。それに対して得ることのできる鉄は非 常に少ない。このことはどこの地域でも同じであるが、中国地方にはそれを支える豊かな 背景があったのである。 2)三隅町におけるたたら製鉄 三隅におけるたたら製鉄は、その原料となる砂鉄の豊富さが目立っていたようだ。山口 県内にある大板山の遺跡では良質の砂鉄が採れないので船と馬を使い、約70km 離れた島 根県三隅町から運ばれていたという記録もある。 三隅町における自然的な条件はどうなのだろうか。たたら製鉄には膨大な量の炭が必要

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だと前述した。三住町の位置する山陰地方は緯度からいって暖帯植物区に入り、常緑広葉 樹がかなり多い。しかし対馬海流の影響で、冬は比較的暖かく、夏は涼しいので、温帯性 の植物が夏の気温にもこらえやすく、そのためか温帯性のナラ、クヌギ、カエデ、クリ、 カシワ等の落葉広葉樹も割合多いという。これらの植物はたたら製鉄を行うときに必要な 炭となり、三隅町は気候的にもたたら製鉄を行うのに適した場所だったと言えるのではな いだろうか。 三隅町内の、特に井野下今明・上今明・諸谷・周布地等は、鉄の含有量が多く昔からか んな流しがさかんに行われていたという。しかし、これらのことに関する資料には文献が 無いので、詳細を極めることができないが、下今明・上今明(松ヶ浴を含む)周布地、諸 谷(大向)地方が小鉄流しの本場のようで今尚その痕跡が残っているという。 下表は、三隅にあるたたら製鉄が行われていた遺跡を示した表である。これを見ると、 三隅だけでも相当の遺跡が発掘されていたことがわかる。しかし、現在に形が残っている ものは無く、その場で発見されたものは、三隅町の民族資料館に寄贈されている。 表 1 三隅町におけるたたら製鉄遺跡 名称 遺跡区分 場所 築地平かんな流し跡 鉄製錬所 室谷 鹿子谷鈩跡 鉄製錬所 河内 中山鈩跡 鉄製錬所 岡見 周布地鍛冶屋跡 鉄製錬所 井野 石佛鈩跡 鉄製錬所 岡見 大口鈩跡 鉄製錬所 井野 室谷鈩跡 鉄製錬所 室谷 平原鈩跡 鉄製錬所 東平原 叶谷鈩跡 鉄製錬所 黒沢、叶谷 井手山鈩跡 鉄製錬所 河内 竜ヶ谷鈩跡 鉄製錬所 三隅 (『三隅町の文化財――有形文化財調査概要報告書』より作成) (三鼓健太) Ⅳ-3 たたら製鉄にまつわる信仰 室谷地区は、折居川沿いに開かれた広い谷であり、石垣で築いた立派な棚田が山の上方 まで続いている。この棚田は、かつて砂鉄を採取した時につくられたものであるといわれ ており、谷の北の方には、日本海を望む大麻山がある。しかし、室谷には大麻山にある大 麻山神社とは別に、もう一つ神社が存在していたのである。それは、大元大明神とその末 社である金屋子神社という神社が存在した。これらは残念ながら存せず、大麻山神社と共 に祀られている。しかし、金屋子神社という神社は前に述べた砂鉄の採取ということに大 きく関係している神社なのである。今回、私は人々によく知られておらずもう室谷地域に は現存していない金屋子神社について考察していく。 1)金屋子神社と金屋子神とは? 金屋子神社とは、古来「たたら製鉄」の守護神として知られており、「金屋子さん」の 名のもとにその信仰圏は全国に広がっているが、とくに中国山地では顕著である。その理

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由は、中国山地が古来のたたら炊き製鉄の中心地であったからである。金屋子神とは、た たら師・鍛冶・鋳物師・炭焼きなど製鉄、鉄鋼に関係する人々が祀る神のことである。日 本に重工業の根幹をなした製鉄業の守護神として祀られたのがこの金屋子神であり、日本 重工業の飛躍的な発展を支えた神ということになるわけだ。金屋子神にまつわる伝説で次 のような伝説が金屋子神祭文に残っている。金屋子神は初め播磨国(兵庫県南西部)宍粟 郡岩鍋という地に降臨され、「西方に我が住むべきよき地がある」といってそこから白鷺 に乗って、島根県能義郡広瀬町に飛来され、住人の安部氏(金屋子神社の神職の祖先)に、 神託によって砂鉄採取法、木炭製造法、製鉄法(たたら)、鋳物法を伝授したという。そし て、神主安部氏の祖正重と、朝日長者の長田兵部とが力を合わせ、社をたてて祀ったのが 金屋子神社の始まりと言われている。この伝説は、播磨ではじめられた製鉄業が、室町時 代末期からは山陰の中国山地を中心にして発展していく歴史の事実と合致する伝説である。 おそらく鍛冶を専業とする人々のことを指す「金屋」といわれた職能集団による火の神の 信仰が、中国鉄山とまでいわれたこの地域の製鉄業の盛行によって、その中心地に定着し たのであり、それが金屋子神なのである。金屋子神がよく祀られてある中国地方の山間部 は、古来たたら(古代の製鉄所)が行われ、日本の製鉄の中心地であり、金屋子神社は、 戦国から近世にかけての時期に、確固たる地位を中国山地で確立するのである。それだけ に、たたら稼業が衰微すると、この金屋子神社も次第に人々から忘れ去られてしまう存在 になったのである。一方、各地に神社もでき、そのうち島根県能義郡広瀬町の金屋子神社 は各地の金屋子神社の総本社であるとされ、金山彦命と金山姫命を祭神としている。金屋 子神の特徴としては、金屋子神自体は女神で、人間の女が嫌いであり、特に血の汚れ、産 の汚れは絶対に許されないが、不思議と死の汚れは嫌われないという伝承がある。 また、「金屋子餅」という餅もあり、正月餅の一つとされている。これは、出雲、石見 のたたら地帯でみられるもので、この地方ではお鏡や星の餅とともに、半月型の餅をつく って供えるふうがある。これを「金屋子さんの餅」といい、鉄の神である金屋子を祀るた めのものだとしている。形は、鎌の形であるという。 このように、金屋子神社とは、鉄業に大きく関係している神社であるということを理解 することができる。日本は、昔から鉄穴流しによって得た砂鉄を原料にする製鉄法を行っ ていた。主産地は、中国地方で、幕末の頃には全国産鉄量の80%以上を生産していたとい われており、明治になっても浜田県は中国地方第一の生産地であった。 室谷地域における金屋子神社は、大元大明神の末社であり、もともと、大元大明神には 2 つの神が祀られていたといわれている。一方は「鉄」の神である金屋子神で、もう一方 は祀られている神の名前は不詳とされているが「農業」の神とされている。この大元大明 神は、なんらかの災害で被害を受けたという記録も残っており、また大森山という山に存 在していたという記録も残っているのであるが、大森山という山が室谷地域内のどの山か は不明とされている。 (宮村翔吾) Ⅳ-4 まとめ 島根県の位置する山陰地方は、古来より強力な武将が統治していた。その武将たちの躍 進を影で支えていたのが「たたら製鉄」でもあったのではないだろうか。中国地方にしか ない豊かな山林に支えられ、日本独自の製鉄法が今なお伝統芸能の一つとして残っている のは、それだけ島根県におけるたたら製鉄の役割が強いということだろう。三隅町に関し

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ても、室谷を含め広くたたら製鉄が行われていたということを発見することができた。現 在はその影を残してはいないが、歴史的な資料を読み解くことで、私たちはその一端に触 れることができるのではないだろうか。 (三鼓健太) 私たちが棚田活動している室谷地域は、自分たちで稲刈りや、色々な作物を作ってきた ため「農業」というイメージしか私の中にはなく、あの地域で昔は鉄産業が盛んであった という事実は受け入れがたい気がする。しかし、三隅町の室谷地区や井野地区でタタラ製 鉄を主とする鉄産業が盛んであったことは、多くの遺跡や鉄鉱石が発見されるなど、歴史 上にも明らかであり、また金屋子神社がそれを物語っていると言えるだろう。しかし、そ のタタラ製鉄も、大正時代には終止符を打つことになってしまい、現在では伝統工業とし てでしかなくなってしまっている。そのため、地元住民の方でさえ金屋子神社という神社 が室谷地域に存在していたということを知らないのではないか、あるいは忘れていってし まうのではないかと私は思う。確かに、過去は過去であり現在では、室谷地域で鉄産業を おこなうなど不可能のことの様に思えるが、棚田百選にも選ばれた室谷という地域は、農 業だけではなく、鉄産業も盛んであったという事実をまずは、地元住民の方々が認識する べきであると私は思う。 (宮村翔吾) Ⅴ 三隅に残る伝説 私たち歴史班は私たちが活動してきた室谷地域を中心としたそれにまつわる歴史につい て調べていかなければならない。そこで私は今回、「伝説」について調べた。伝説とはうわ さ、風説、口承、昔話のことである。これを調べればその昔、その地域(三隅町)に住む 人々の生活や価値観などを推測することができるのではないかと思った。三隅町にはさま ざまな歴史・文化があり、現在の三隅町が誕生した。それが三隅の伝説となり、今の人々 に伝えられた。これらの三隅の生い立ちや流れを知ることにより、今の三隅そのものを知 ることができるのではないだろうか、そう思った。以上のことに私は興味を抱き、今回こ のテーマを掲げ、研究しようと思った。また、このような伝説というものは私たちの担当 する歴史とも深く関係してくるのである。 Ⅴ-1 三隅の創成神話 この神話の内容は『三隅町誌』によるものであり、石見地方に今でも残る言い伝えであ る。 天孫民族が出雲の国をまつっており、天孫民族による日本国の統一はほぼ成し遂げられ ていた。早い時期から栄えていた出雲の勢力は強く、大きなものであった。この出雲の勢 力はその後何年も続いた。その間、何人もの天皇が即位してきたが、それぞれの天皇が最 も恐れ、心配してきたことが「出雲民族の反乱」であった。たとえ天皇であれ、強く巨大 な勢力である出雲民族の反乱には不安を抱いたのである。これを阻止するために考えられ た案が「出雲の監視」であった(どの天皇が起こしたか、詳しい時代はわからない)。朝廷 は最も信頼のできる人間とその一族を出雲の国をめぐる地方へ派遣し、恐れている出雲の 反乱を少しでも食い止めるよう努めた。 Ⅴ-2 島根に派遣された一族の名前 島根に派遣された一族には小野族、和邇(鰐)族、物部族、忌部族、鬼刀禰族である。 しかし、これらの一族は互いに協力し合っていたわけではなく、幾度となく争いが起こっ ていたと言われている。『三隅町誌』による争いには次の3 つのものが掲載されている。(85

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ページ) 1)鬼刀禰族と物部族の争い この争いは大麻山の南十町程のところに、今でもある鬼が城という岩屋に鬼が住んでい たが、物部族がその鬼を退治したという伝説である。この争いは鬼刀禰族と物部族両族間 の争いだと言われている。 2)物部族と和邇族の争い この争いは物部が湊の鰐島の鰐退治をやったが、は なかなか手強かったので、三隅川へ追い込み、追い上 げてシコタマ油をしぼった。その場所を「しこたま」 とよんでいたが、それがなまって「シコタン」とよば れるようになったという伝説である。 3)忌部族と小野族の争い この争いは忌部族派遣のときの大将であった大麻比 古が馬に乗って海を渡ってきた。そして、折居の浜に 着くと馬から下り、「これからは舟で行く」と言い、馬 の鞍を海へ投げた。それが折居海岸の鞍島になったと いう伝説である。舟に乗った大麻比古はやがて大麻山に登り、ある地点に着いた(舟入と いう場所があり、そこに着いたのだと言われている)。大麻比古が大麻山の山頂に立って見 下ろしていると、今の小野の原に人影があった。そのとき、大麻比古はそれらが目障りだ と思い、それらを追い払おうと考えた。 和邇族を指揮していた者の石造 そして、上からそれらをめがけて大石を投げつけた。驚いたのは小野の原にいた小野族 である。命からがら西方に向かって逃げ出した。 それにもかかわらず、大麻比古は手をゆるめることなく、逃げていく者を追い回した。 小野族は高津川も死にもの狂いで渡り、ようやくのことで須佐の高山へたどり着き、助け を求めた。そこは小野族の勢力範囲であり、大麻山に向かって逆攻撃を仕掛けることにな った。 大麻山からの石が飛んでくる中を、負けじと高山からも石が投げられた。しかし、大麻 山から投げる石は勢いよく高山の頂上をかすめるのに、高山から投げ出される石はようや く大麻山の中腹にとどくだけであった。まもなく力尽き、矢原の岩荒に落ちるようになっ た。こうなると他人にも迷惑が及ぶようになり、 仲裁に入る者が現れた。その結果、小野族の先住 権は認められ、小野族は小野に戻り、大麻山側は 山を領分することで話しがついたと言われている。 小野族の祖がまつられている神社 この話は伝説に過ぎないのだが、高山の西側の 海には、今でも大石が海底にぎっしりとうずめら れているそうだ。これは大麻山の投げた石だと伝 えられている。須佐の高山から投げられた石は大 麻山の西側山腹に今でも数箇所に石ぐろとなって 残っているそうだ。 Ⅴ-3 一族と地域名の関係 三隅には小野という地域があるが、そこには小野族が派遣され、このあたりの勢力を握

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っていたと言われている。そして、湊田ノ浦海岸にある鰐島には和邇(鰐)族がいたから、 室谷は、紀伊国室郡を領した物部族の一部がいて、前住地室にちなんでつけられたと言わ れ、井野の殿河内は刀禰が内と称し、その後今のように変わったと言われている。ここに は鬼刀禰の一族がいたからつけられたと言われている。大麻は、この地へ忌部族を連れて きた大将大麻比古の名だと言われている。 Ⅴ-4 まとめ・考察 今回、三隅町の伝説を調べてみて、伝説の中に出てくる一族と地名の関係にはこうした さまざまないきさつがあることがわかった。これはほんの一部にすぎないものだろう。伝 説というものはあくまでうわさにすぎず、本当かどうかというものは実際に肯定すること は難しい。しかし、三隅町には「字小野」と「字小野」、益田には「小野郷小野」という地 名がある。そう考えるとこれらの伝説というものは単なる噂ではなく、実際にこのあたり を有力な武将によって統治されていたことがうかがえるのではないだろうか。 また、大麻山神社には忌部族の大先祖である「天日鷲命」がまつられている。大麻山神 社は最も有名な神社であり、三隅の人々に今でも愛され、参拝する人々は後をたたない。 神社としてまつられるということは忌部族がこのあたり一体の勢力を握っており、人々に 恐れられていたのではないだろうか。 今回私はこうした地域と一族にまつわる伝説を調べてきたわけだが、現代の三隅の人々 はこうした伝説があることをはたして知っているのだろうか。こうしたことを知った上で 大麻山神社を訪れ、参拝しているのだろうか。後世に伝えていくためにも幼い頃から神社 の存在、それにまつわるいきさつ(伝説)を話し、地域の人々に理解された存在として神 社や地名が残ることを私は願う。 (一色裕光) Ⅵ まとめ 以上のように、私たちは私たちが活動してきた室谷に限らず、歴史や神社、製鉄と いった室谷周辺にまつわる歴史について調べてきた。歴史について調べることは、大 変興味深いものがあり、その地域に住む人々の生活や文化などを知るきっかけにもな る。私たち歴史班にはほとんど島根出身者はおらず、今回この歴史を調べることによ り、実際に、三隅について知ることができた気がする。この授業を通し、自分の慣れ ない土地の人々と交流ができたことは私たちにとって大変よい経験になった。実際に 室谷に行き調べることができたことは我々歴史班にとって非常に大きかった。 今の人々はこれまで調べてきた歴史や伝説といったものを三隅の誇りとし、その事実を 後の世代にも繋げていくことが大事だろう。それがこれからの三隅の地域の文化の発展に つながり、より良いまちづくりや地域発展につながっていくのではないだろうか。これか ら先も室谷の歴史について調べていこうと考えている。 本稿を作成するにあたり、白須弘さん、三浦尚さんには資料提供のご協力を賜った。記してお礼申し上 げます。 【注】

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1)現在では土坡の棚田が多い。 2)大麻は、諸社から授与するお札をさす。 3)尊勝陀羅尼は仏頂尊勝の功徳を説く陀羅尼(梵字の呪文を翻訳しないで、そのまま読誦するもの)で あり、87 句から成っている。霊験ありと称せられ、密教や禅宗で読誦される。 4)本地垂迹(ほんちすいじゃく)説は、仏が化身して日本の神として現れるという説である。 5)両部神道は、真言宗の金剛・胎蔵両部の教理で神々の世界を説明しようとする神道説である。また、 本地垂迹説の根底をなす神仏調和の神道をさす。両部習合神道とも神道習合教ともよばれる。 6)十一面観音は、救済者としての観世音菩薩の能力を11 の顔で表したものである。 7)法印は、最高の僧位の意味である。転じて、僧侶を指す。 8)下原重仲『鉄山必用記事』による。 【参考文献】 インターリミテッドロジック.日本全国の山検索.http://www.yamatabi.net/search/all_yama.html 大竹三郎 1986.『鉄を作る』大日本図書館. 河田竹夫 1993.一致しない年号――大麻山伝説・伝記に思う.亀山 21: 69-終わりのページ. 国史大辞典編集委員会編 1988.『國史大辭典 第 9 巻』吉川弘文館. 山城精機製作所.石見と長門の心と像.http://www.sanjo.co.jp/yamane/iwami.html 史跡探訪会 1989.『浜田の歴史と伝承 第 3 巻』史跡探訪会. 島津邦弘 1994.『山陽・山陰 鉄学の旅』中国新聞社. 島根県大百科事典編集委員会・山陰中央新報社 1982.『島根県大百科事典 下巻』山陰中央新報社. 内藤正中 1969.『島根県の歴史(県史シリーズ 32)』山川出版社. 日立金属ホームページ.http://www.hitachi-metals.co.jp/index.html 的場幸雄 1993.大麻山雑話.亀山 20: 58-65. 三隅町教育委員会 1993.『三隅町の文化財――有形文化財調査概要報告書』三隅町教育委員会 三隅町誌編さん委員会編 1971.『三隅町誌』三隅町教育委員会. 光永真一 2003.『たたら製鉄』吉備人出版. 和鋼博物館公式ホームページ.http://www.wakou-museum.gr.jp/ 和仁氏(地方別武将家一覧).http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/hig_wani.html

参照

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