ヨハネの黙示録
僕ヨハネの見た、主イエス・キリストの
黙示である。すぐにも起こるべきことを
僕たちに示すためである。
- 1 -
ヨハネ黙示録の概略
目 次 章 頁 1 序言 ... 1章 ... 2 黙示録の書かれた目的 2 7つの教会へ ... 2章~3章 ... 3 どの教会にも7つの顔がある 3 天の御座の幻 ... 4章 ... 6 4 子羊(キリスト)の幻 ... 5章 ... 7 5 解かれた封印の幻 ... 6章~7章 ... 8 艱難時代と天上の礼拝 6 7つのラッパの幻 ... 8章~11章 ... 10 7 女(母なる教会)と龍 ... 12章 ... 14 8 海からの獣と地からの獣 ... 13章 ... 15 9 子羊と144,000人 ... 14章 ... 16 大艱難 10 7つの鉢の幻 ... 15章~16章 ... 17 11 バビロン(ローマ)の滅亡 ... 17章~19章10節 ... 19 12 キリストの勝利 ... 19章11節~21節 ... 21 キリストの再臨 13 千年王国 ... 20章 ... 22 最後の審判 14 新天新地 ... 21章 ... 23 第2の死 15 主イエスよ、来りませ ... 22章 ... 24 いのちの木にあずかる特権 16 7つの幸いと黙示録の抽象的言葉と数字 ... 25- 2 -
第 1 章(序言)
黙示とは、ギリシャ語で「アポカルプシス」と言い、「覆いを取り去ること」を意味している。すなわち 黙示録は、物事を明らかにする書物である。啓示と訳せる言葉でもある。聞くと同時に、見ること(絵 画的)が特徴である。 書かれた目的は、今は人の目に隠されていることについて「神が、すぐにも起こるべき事をその僕たち に示す為」であった。神は時の支配者であり、神の時は、一日は千年のようであり、千年は一日のよう である(Ⅱペテロ3・8)。 黙示録は、現在のこと、今後起ころうとすること(予言)が書かれており、学ぶ者には祝福が約束され ている。 書かれた年代は、AD95年頃である。その頃、ローマ皇帝の中でも最も苛烈にキリスト教徒を迫害し たドミティアヌス皇帝(AD81年~96)が君臨していた時代である。ドミティアヌスが競技場や劇 場に姿を現すと、全員起立して「私たちの神、私たちの主に栄光あれ」と叫ばなければならなかった(皇 帝礼拝の強要)。 書いた人は、僕ヨハネで、パトモス島で書いた。パトモス島は、エペソの沖合にあり、周囲が約95キ ロメートルの島である。流刑の島であった。ヨハネは自己紹介をし「あなた方の兄弟であり、共にイエ スの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と述べている。迫害の中にあった者たちの 慰めの書となった。 宛先は、小アジアの7つの教会である。すなわち「あなたの見ていることを書きものにして、それを7 つの教会に送りなさい」。教会では、礼拝で読まれたのである。 聖書は、創世記からヨハネ黙示録まで一貫している。「永遠の命」が主題である。「命の木」(創世記3・ 22)と「いのちの木の実を食べることをゆるそう」(ヨハネ黙示録2・7)・「いのちの木にあずかる特 権を与えられる」(黙示録22・14)。 創世記のはじめの言葉は「はじめに神は天と地とを創造された」。ヨハネ黙示録最後の言葉は「主イエス の恵が、一同の者と共にあるように」である。「永遠の命」にあずからせることが神の目的であり、「永 遠の命」にあずからせる方こそ、主イエス・キリストである。 1章1節から3節は、黙示を神がキリストに与え、キリストから僕ヨハネに伝えた。ヨハネは自分の見 たすべてをあかしした。この言葉を朗読する者と書かれていることを守る者は幸いである。「幸い」とい う言葉が黙示録に7回出てくる。 4節以下は、神の御座・霊・イエスの三位一体が表現されている。神については、①今いまし、昔いま し、やがてきたるべき者、②全能者である、③「わたしはアルパであり、オメガである」。アルパはアル ファベットのAであり、オメガはZである。 霊については、①7つの霊、②ヨハネは、主の日に御霊に感じた。 主イエス・キリストについては、①忠実な証人、②死人の中から最初に生まれた者、③地上の諸王の支 配者、④わたしたちを愛し、その血によって私たちを罪から解放した、⑤わたしたちを御国の民とした、 ⑥わたしたちを祭司として下さった、⑦死んだことはあるが世々限りなく生きている、⑧死と黄泉のカ ギを持っている。 7つの燭台は7つの教会であり、燭台自身は光ではなく、光を盛るものである。7つの星は7つの教会 の御使である。どのような教会にも御使がいる。- 3 -
第 2 章(7つの教会へ)
7つの教会に宛てた手紙の共通点は、①手紙を書いた者は、主イエス・キリストである。手紙の最初に 自己紹介をしており、1章13節以下の、例えば、右手に7つの星を持つ者など、主イエスの姿を再度 述べていることから明白である。そして各教会のことについて「知っている」と述べている。知られて いることは、慰めに満ちていることである。②また、7つの教会の宛名は各教会の「御使」である。「御 使」は常に神の方を向いているものであり、神と人とを取りなす役割をになっている。この言葉は教会 の指導者と理解できる。③更に、手紙を受け取って聞く者に対しては「耳のある者は、御霊が諸教会に 言うことを聞くが良い」と書き添えている。信仰の耳である。④信仰の勝利を得る者には、神の賜物が ある。⑤7つの教会は、現在では、すべて廃墟となっている。神が植え、神が抜かれる(エレミヤ1・ 10)。しかし、7つの教会に宛てられた手紙の内容は、現在の教会の有りようの問題であり、心して聞 かなければならない。厳しい言葉とともに、慰めと勇気を与えてくれる。 エペソにある教会の御使に宛てた手紙 エペソの教会はパウロがAD50年頃、3年間伝道した教会である(使徒20・31)。エペソの教会に は「忍耐と労苦を主の名の為に忍び通し弱り果てることがなかった」と高く評価している。しかし、他 方でパウロ伝道から約45年経過した今「責めるべきことがある。はじめの愛から離れてしまった。ど こから落ちたか思い起こし、悔い改めてはじめのわざを行いなさい。もし、そうしないと燭台をその場 所から取りのける。勝利を得る者には、神のパラダイスにある、いのちの木の実を食べることを許そう」 と。 「はじめの愛」とは、主イエスに対する愛と同時に隣人愛である。伝道への意欲である。 「はじめの愛から離れてしまった」とは、初めの愛を失ったまま耐えている。最初の輝くような燃え立 った愛が失われたということである。教会が世俗化してしまった状態をも指すのであろう。悔い改めて 主の愛に帰ることだ。洗礼の時に帰るということである。 燭台を取りのけるということは、教会を教会として、認められないということである。 忍耐に忍耐を重ねた者は、勝利を得るのである。永遠のいのちに預かり得るのである。 スミルナにある教会の御使に宛てた手紙 スミルナの教会に対しては、非難・叱責はない。むしろ称讃している。 「あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当は、あなたは豊かなのだ」と言われた。真実の豊か さとは何か、真実の勝利者とはだれか。「主イエス・キリストこそ救い主と信じる者ではないのか。「自 分はキリストのものである」との信仰が、貧しさや苦難や迫害の中にあっての豊かさである(Ⅱコリン ト8・9)。神がすべてを備えるのである。 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。勝利を得る者は、決して第2の 死を受けることはない」と言われた。この教会の牧師であったポリュカルポスは155年に、86才の 時、火あぶりの刑で殉教した。第1の死は肉体の死であるが、第2の死は「霊における死」である。「死 に至るまで忠実」であることが出来るのは、第2の死に対して勝利者となっているからである。 ペルガモにある教会の御使に宛てた手紙 鋭いもろ刃の剣を持っている者が言われる。口の剣である。み言葉である。「神の言葉は生きていて、力 があり、もろ刃のつるぎよりも鋭く、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の- 4 - 思いと志とを見分けることが出来る。すべてのものは神の目には裸である」(ヘブル4・12)。 偶像に満ちた土地である。ドイツのベルリンにあるペルガモ美術館は、プロイセン時代トルコのペルガ モで発掘されたゼウス神殿を移築したものである。また、バラムやニコライ派の教えがあった。サタン が王座を占めている状況の中で、キリストの名をしっかりと守ったのである。信仰を捨てなかった。キ リストを否認しなかったのである。 キリストの忠実な証人であったアンテパスも殉教した。証人という言葉は、殉教者という意味を同時に 持つようになった。キリストの証人であることにいのちをかけなければならなかったのである。殉教者 として新約聖書では、ステパノと主の兄弟ヤコブの名がある。 殉教者まで出してサタンと戦っている教会に、サタンの誘惑が忍び込んでいるのである。「偶像に捧げた 肉を食べ、みだらな行為をさせる」。サタンの誘惑に負けそうになる。キリスト教の性的潔癖さが、地の 塩としての役割を果たしてきた。世間を気にする日本人(世間教)は、特に気をつけなければならない。 ここにキリスト教会の外の戦いと内の戦いがある。悔い改めと励ましは、み言葉だけである。 勝利を得る者には、マナと白い石(新しい名が書いてある)を与えるとの約束である。マナはモーセに 導かれて荒野を旅した民に神が毎朝与えたものである。白い石は、裁判の折りの無罪放免を意味し、罪 の許し・勝利・純潔を示すものである。 テアテラにある教会の御使に宛てた手紙 神の子の姿として、燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とある(1・14.ダニエル 10・6)。まことの支配者キリストの姿である。神の子とは、神の立てられた王という意味である。「わ たしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、 はじめよりもまさっていることを知っている」。「わたしが来る時まで、自分の持っているものを固く保 っていなさい。勝利を得る者には、明けの明星を与える」。 しかし、偶像に気を付けよ。サタンの深みに近づいたりするな。サタンの奥深い秘密を知る必要もない。 秘密には魅力がある。疑いをかさねながら生きるほうが現実的だと思わせるのがこの世である。しかし、 「信仰・愛・奉仕・忍耐に生き抜くこと」が人生の根本法則である。それ以外の重荷を背負うなという ことである。 テアテラ市には、紫布の商人で神を敬うルデヤの町である(使16・14)。このルデヤがパウロのピリ ピ伝道で助けた女性である。商業都市テアテラには、それぞれの職業ごとに神がいた。必然的にその職 業組合の神と関わりをもつ。イゼベルという名が出てくる。アハブの王妃でバアルの神を拝んだ(列上 16・31)。王アハブにも偶像礼拝を受け入れさせ、真の神礼拝から離れさせた。このイゼベルと似た 預言者が、教会に入り込んで来て、惑わし、不品行をさせるということである。悪しき礼拝者は、大き な艱難の中に投げ込まれるとの予言である。悔い改めの期間を設けていると理解出来る。
- 5 -
第 3 章(7つの教会へ)
サルデスにある教会の御使に宛てた手紙 サルデスの町は栄えた時代はあったが、黙示録の時代さびれていた。それを象徴するかのように「生き ているという名を持っているが、死人である」と言われる。肉体は生きていても、霊的に死んでいた、 ほめられるところのない教会である。反対にヒラデルフイアの教会は非難の言葉はない。しかし、ヒラ デルフイアの教会の人々も、この手紙を読み、人ごとではないと思ったに違いない。どの教会も7つの 顔を持っているのである。しかし、幸いなるかな、主イエスは、死からよみがえる道を開いて下さる。「死 人の中から立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」(エペソ5・14)。 そのためにわたしは祈っていると主イエスは言われる。そしてあなたが立ち直った時には、兄弟たちを 力づけてやりなさい(ルカ22・31)。 ヒラデルヒヤにある教会の御使に宛てた手紙 「あなたには少ししか力がなかったのに、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかった」教会であ る。少ししか力がなかったとは、ミクロの世界で、存在はするが顕微鏡でしか分からないような「微少 の世界」である。だから、神からの力(ここでは、だれも閉じることの出来ない門を開いておいた)の みが頼りである。その力で「サタンの会堂」に属する者にも、「試練の時」にも打ち勝つことが出来た。 そして、勝利を得る者となり、神の聖所の柱にしようとの約束である。「聖所の柱」となれば、最早外部 の迫害や苦難等にさらされることはない。 信仰は自分の力ではなく、神が真実であるから保持し続けることができるのである。信仰はもっぱら主 イエスの力のみである。神の圧倒的なみ言葉に打たれ、今までの生き方や生活が新しく作り変えられる のである。それは丁度、ペテロが網を捨てたように。 ラオデキヤにある教会の御使に宛てた手紙 ラオデキヤは地の利を得て、経済的に富んでいた町であった。麻布・毛織物が有名で、金融業まで盛ん であった。また、目薬の町であった。富んでいる人は神を必要としない。何不自由ないと言っている。 しかし実際は、みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸であることに気がついて いないのである。気付けば熱くなる。 ラオデキヤの教会に対して「あなたは熱くもなく、冷たくもない。生ぬるいので口からはき出そう」と 言われている。熱くあって欲しいと言っているのである。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいてい る」。しかし、開けようとしないのがラオデキヤの教会である。神を無視し自己利益やお金や自己主張の 価値観にとらわれている人間の姿である。 本来神には内も外もない。人間の側で壁を作ってしまって、神を中に入れないのである。ドアの取っ手 は自分の側にある。中に入れないから共に食事もできない。「裸の恥をさらさないために白い着物をつけ なさい」とは、主イエスを着なさいということである。 この時代の終末がラオデキヤの教会で、主イエスに対してこの世界は門戸を閉ざし、教会時代が終わり を告げ、神の次ぎのプログラムが進行する。ヨハネの黙示録は、「地上の場面」から「天上の場面」へと 招かれていくのである。- 6 -
第 4 章(天の御座の幻)
第4章は、開いた門が天にあり、「ここにのぼって来なさい。これから必ず起こることを見せてあげよう」。 ヨハネがのぼって行くと神の栄光を見せられた。天上での礼拝である。 将来必ず起こる主イエスの約束の実現を、ヨハネは天上に携挙されて絵画的に見るのである。すなわち、 主イエスは「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」「四方か らその選民を呼び集めるであろう」(マタイ24・27以下)。「わたしはあなた方を捨てて孤児とはしな い。あなたがたのところに帰ってくる。その日にはわたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしに おり、また、わたしがあなたがたにおることがわかる」(ヨハネ14・18以下)。主イエスの再臨は聖 書の主題である(ロマ8・19以下等)。ヨハネはキリスト者の代表として、天上に携挙されたのである。 キリスト者が天上に携挙された後におそろしい艱難の日が来る。すなわち、キリスト者がいなくなった 後に艱難がはじまるのである。これが黙示録の教えである。 天上では御座が設けられ、その座にいる方は、「碧玉や赤めのう」のようであった。その周りには緑玉(エ メラルド)のように見える虹が現れていた。虹の冠である。神ご自身を見ることは許されない。それは 肉眼で太陽を直視出来ないのと同じである。御座にいる方は、「碧玉や赤めのう」のような輝きであった というのである。「碧玉」は明るく光輝ある透明な石で、「赤めのう」は血のように赤いルビーに似た宝 石で、「緑玉」はユダを代表する宝石であり、緑色すなわち、永遠の新鮮さを象徴している。宝石につい ては大祭司の胸当てにはめ込まれ(出エジプト28章)、虹についてはノアの契約の印(創世記9章)が 参考となる。 24の座と白い衣を着て金の冠をした24人の長老がいた。24の解釈はいろいろであるが、神の宮に 仕えていた祭司は24の組みに分かれて当番制であったし、祭司と一緒に仕える聖歌隊も24組であっ たことも参考となる。 玉座の中央と周りに4つの生き物がいたが、4つの福音書という見方がある。マタイが人間、マルコが 獅子、ルカが雄牛、ヨハネが鷲である。これらの生き物には6つの翼があった。同じような記事がエゼ キエル1章(4つの生き物と翼)とイザヤ6章2節(6つの翼)にある。 「聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな」は、「三聖頌」と呼ばれ、讃美歌(66番)でもよく讃美され、 カトリック教会もギリシャ正教でも同じである。「全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがて きたるべき者」と神に向かって、神の支配を歌い上げる。「神に栄光と誉れとを帰し、また、感謝をささ げる」。黙示録の記者は礼拝が感謝であることを記している。讃美と感謝の礼拝である。 長老たちはひれ伏し、拝み「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわ しい方、あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」と 言った。 われわれは天の光を仰ぐことによって、神の歴史を知り、神のまなざしが一人ひとりに注がれているこ とを覚えつつ、生きている人生を、讃美と感謝と喜びをもって、神のみ前を歩むのである。- 7 -
第 5 章(子羊の幻)
「玉座に座っている者の右手に巻物があり、それを読み説く者はだれもいなかった。そこでヨハネは激 しく泣いた」とある。信仰者にとっても、神のみ心が分からない時がある。こんな理不尽なことがあっ ていいものかとの問いはいつもある。戦争や震災による犠牲。悪いことをしたわけでもないのにどうし て死んだのか。なぜこんな苦労をしなければならないのか。突然、生活不安や将来の不安の中に置かれ ることもある。主イエスの「彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と の祈りのように(ルカ23・34)、人の浅はかさと愚劣が不幸をもたらすことがある。2008年には じまったアメリカのサブプライムローンを発端とする世界同時不況は、元は人間の根源的欲望である。 むさぼりである。信用力の低い住宅ローン債権を証券化して世界に売りまくって稼ぎ、ローンの支払い が滞って株価は暴落した。商品を組成した人々はその危険性を充分知りながら、利益の前に沈黙し、逆 に信用できるものと虚偽の宣伝をし、安心させて投資させた。この「悪魔の証券」は、世界を巻き込み、 何の罪もない人々が金融危機・経済危機・雇用危機・福祉危機に直面した。どうすればよいのかだれも 分からずにいる。そこでは人は激しく泣くほかに手段がないのだろうか。神の答えがわからない。誰も 答えを見いだせず、解く者はいない。涙すべき現実や途方にくれることもある。キリスト者に対する迫 害は、この時代が最もひどかった。 その時、長老の一人が言った。「泣くな、見よ、イエス・キリストが勝利を得た」。「平安を残していく」 と言い残して天に昇った主イエスがいる。主イエスに聞くのである。もし主イエスがいなければ、人は 滅びである。主イエスに聞くとは祈りである。24人の長老たちは香の一杯入った鉢を手に持って子羊 (主イエス)の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。キリスト者が祈る祈りは天国に おいて香となっているのである。回答は祈りの中にある。神は香そのものを喜ばれる。どんなに貧しく、 どんなにつたない祈りであっても問題ではない。丁度、世の親が幼児の片言の言葉を喜ぶのと同じであ る。祈りそのものを神は喜ぶのである。われわれがどんな過ちを犯していなくても、祈りの無いことが 罪である。 子羊キリストには、7つの角と7つの目があった。角は力を表し、目は知恵(知性)を表す。これらの 目は、全世界につかわされた、神の7つの霊である。すなわち神の届かない所はないのである。われわ れは無限の可能性の中に生かされているのである。この方だけが耐え難い苦しみを解く鍵を持っている。 苦難の意味を教えることができる。世界史の秘儀を示すことができる。 多くの御使たちは大声で言った「ほふられた子羊こそは、①力と、②富と、③知恵と、④勢いと、⑤ほ まれと、⑥栄光と、⑦讃美とを受けるにふさわしい」と。 また、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのもの の言う声を聞いた「御座にいます方と子羊とに、讃美と、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなく あるように」。4つの生き物はアーメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。 主イエスがわれわれを支配している現実をしっかりと見据えることである。その時、悩み多き世に耐え て、望みを持って生きることができるのである。- 8 -
第 6 章(解かれた封印の幻)
子羊が7つの封印を開き、解かれる時がきた。第1から第4までの封印を開いた時「出てこい」という 声を聞いた。馬が出てきた。馬にはそれぞれ乗っている者があった。第1の封印からは、「白い馬」が出 てきて、勝利の上にも勝利を得ようと出て行った。この馬には弓を持ち、冠をした者が乗っていた。即 ちこの世の権力者が迫害や戦争に手を伸ばしている様子である。戦勝を祝う時、ローマ皇帝は白い馬に 乗っていた。日本も戦前、天皇は軍隊の閲兵式には白い馬に乗っていた。第2の封印からは、「赤い馬」 が出てきた。乗っている者は剣を持っており、平和を奪い取って殺し合いをさせる力が与えられた。第 3の封印からは「黒い馬」が出てきた。乗っている者は秤を持っていた。「小麦1ますは1デナリ」とあ り、一日の賃金1デナリで、一人分の食料しか買えない。これでは家族を養えない。即ち飢餓である。 第4の封印からは「青白い馬」が出てきた。乗っている者は「死」という名前であった。疫病と死であ る。彼らには地上で4分の1を支配し、殺す権威が与えられた。これらの馬はいずれも災害をもたらし た。殉教した。 第5の封印を開いたとき、殉教者の魂が祭壇の下で、大声で叫んだ「真実で聖なる主よ。いつまで裁き を行わず、私たちの血の復讐をなさらないのですか」。天上の教会では声をあげて、神様の正義はどうな っているのかと聞いているのである。地上の生活では「愛する者達よ、自分で復讐しないで、むしろ、 神の怒りに任しなさい。なぜなら、復讐はわたしのすることである。わたし自身が復讐する」(ロマ12・ 19)と言われていたが、いつ復讐するのですかとの叫びであり問いである。 すると一人ひとりに白い衣が与えられ「数が満ちるまでしばらく静かに待つように」と言われた。「静か に待つ」とは安息に過ごしなさいと言う意味である。僕ヨハネは自分も殉教の死によって、数が満ちる 一人になることを覚悟したに違いない。 子羊が第6の封印を開いた。「静かに待っていた」答えであった。神と子羊の怒りである。この怒りがあ るから子羊イエスは十字架についたのである。崩壊する宇宙である。①その時大地震が起き(アモス8・ 8,エゼキエル38・19)、②太陽は暗くなり、月は血のようになり(ヨエル2・31、イザヤ13・ 10)、③星は地上に落ち(マタイ24・29)、④天は巻物が巻き取られるように消え去り(イザヤ3 4・4)、⑤山と島が動いた(エレミヤ4・24)。旧約の預言者たちの預言と、僕ヨハネの見た幻が、 似通っている。主イエスの再臨の時のすさまじさである。その時、この世の終わりであることを予見し ている。 宇宙に恐怖が広がり、人間社会を構成するすべての人はさばかれる。①王、②高官、③千卒長、④富め る者、⑤勇者、⑥奴隷、⑦自由人らすべての人である。山と岩に向かって言った「われわれをおおって、 御座にいます方の御顔と子羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれが その前に立つことができようか」。 山と岩に向かって「殺してくれ」と言っているのである。神と子羊の怒りから免れる為に殺してくれと いうことは、いかに神と子羊の怒りが恐ろしいものであるかということである。まことに恐るべきもの である。しかし幸いなことに、救いを約束してくれているキリスト者は山と岩に向かって殺してくれと 言う必要はない。だけど、主イエスの怒りを忘れるとき、キリスト者の愛に生きる歩みは、怠慢なもの となることを覚えたい。- 9 -
第 7 章 (天上の礼拝)
第6の封印から第7の封印が解かれる第8章の前に、すなわち、裁きと裁きとの間に、静けさと喜びと 励ましとがある。天上での礼拝の光景と言える。いわば台風の目の中に入ったような平和である。外は 暴風雨で、災害と苦難に満ちているが、内は4人の御使が地の4隅に立って、風を止めて、吹きつけな いように、いかなる災害も来ないように安全にしていた。神の僕たちの額に刻印を押すことが終了する までは、地も海も木も損なわれないのである。神の刻印を額に押される人達は、大きな艱難を通って来 た人々であり、その数は14万4千人であるが(12の12倍であり、完全数であるが、その当時のキ リスト者の数?)、その後すべての国民・種族・民族から数えられない多くの群衆が白い衣をまとって礼 拝するのである。「救いは、御座にいますわれらの神と子羊からきたる」と大声で叫び、御使たちは神を 拝して言った。「アーメン、①讃美・②栄光・③知恵・④感謝・⑤ほまれ・⑥力・⑦勢いが、世々かぎり なく、われらの神にあるようにアーメン」。長老は、白い衣を身にまとった人々について「その衣を子羊 の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜も聖所で神に 仕えているのである。御座にいます方は、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らはも はや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も彼らを侵すことはない。御座の正面にいます 子羊は彼らの牧者となって、命の水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことご とくぬぐいとって下さるであろう」。 ここでは、旧約聖書の預言の言葉や主イエスのみ言葉が綴られている。旧約の夢や主イエスの言葉が実 現したのである。すなわち、「その衣を子羊の血で洗い、それを白くした」というのは、イザヤ1章18 節「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなる」。又「彼らはもはや飢えること がなく、かわくこともない。太陽も炎暑も彼らを侵すことはない」は、イザヤ書49章10節「彼らは 飢えることがなく、かわくこともない。また、熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない」。更に「子羊が 彼らの牧者となり、命の水の泉に導いて下さるであろう」は、イザヤ書同節「彼らを導き、泉のほとり に彼らを導かれるからだ」。詩篇36篇7節以下「神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。 人の子らはあなたの翼のかげに避けどころを得、あなたの家の豊かなのによって、飽き足りる。あなた はその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光 によって光を見る」。 主イエスは言われた「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを 信じる者は決してかわくことがない」(ヨハネ6・35)。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇 くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が、わきあが るであろう」(ヨハネ7・37)。 イザヤの預言が主イエスにおいて実現し、主イエスにおいて、人間の魂の永遠の渇望が癒されるのであ る。刻印のある者(創4・15)、幕屋にいる者は守られる。 御座にいます方が共に住まわれる。神がともに住むということは神の栄光があるということである(黙 21・3)。すなわち神の栄光に覆われ、包まれるのである。 7章は、何という平和と喜悦と静寂の場面であろうか。続く8章からは第7の封印が解かれ、恐ろしい 艱難と審判が待ち受ける。- 10 -
第8章(立ちのぼる祈り)
子羊が第7の封印を解いた。7つの封印、7つのラッパ、7つの鉢と解かれていく。半時間ばかり静 けさがあった。神のみわざが行われる前の沈黙である。「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主は立ち 上がられたからである」(ゼカリヤ2・13)。神のみわざを待つ静けさである。みわざの前の静けさの 後、7人の御使に7つのラッパが与えられた。ラッパは神の臨在を示すしるしである。モーゼがシナイ 山で律法を与えられた時「ラッパの音がはなはだ高く響いた(出エジプト19・16)。力と大いなる栄 光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの 音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろ う(マタイ24・31)。ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられ るのである(コリント第1・15・52)。 別の御使が出てきて、金の香炉をもって祭壇の前に立った。たくさんの香が与えられた。これは聖徒の 祈りに加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるものであった。香の煙は、聖徒の祈りとともに神の み前に立ちのぼった。われわれの祈りは聖徒の祈りであって、神の前にもたらされる。どんなに貧しく、 小さな祈りであっても、神のところまで届いていく。どんなに貧しくても神にささげることのできるさ さげ物である。しかも、香の煙の香りと共にである。 御使はその香炉を祭壇の火で満たし、地に投げつけた。すると多くの雷鳴ともろもろの声と、稲妻と地 震とが起こった。神の怒りが地上に投げつけられたのである。沈黙は破られた。雷鳴や地震のあと、御 使らによってラッパが吹き鳴らされた。災いが起こるが被害は共通して3分の1である。第1の御使の ラッパは、地上の災いである。血の混じった雹(ひよう)と火が降ってきた。第2の御使のラッパは海 の災いである。火の燃えさかっている大きな山のようなものが海に投げ込まれた。海の3分の1が血と なり、生き物の3分の1が死に、舟の3分の1がこわされた。第3の御使のラッパは、川の災いである。 たいまつのように燃えている大きな星が空から落ちてきて、川の水源に落ちた。星の名を「苦ヨモギ」 と言い、水の3分の1が苦くなった。そのために多くの人が死んだ。「苦ヨモギ」とはロシヤ語でチェル ノブイリと言い、原子力発電所の事故現場と同じ名前であったので、大きな騒ぎとなった(キエフの北 方、1986年の事故。死者47名のほか子供9人甲状腺ガンで死亡。広範囲に牛乳・牛・野菜などが 汚染された。ヨーロッパの人々を震撼させた事故であった)。われわれは聖書の言葉と一致した出来事が あったとしても決定的なことは言えないということである。第4の御使のラッパは太陽と月と星の災い である。3分の1が暗くなった。 その時、一羽のわしが中空を飛んで「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々はわざわいだ。な お、3人の御使がラッパを吹きならそうとしている」と大きな声で言った。中空とは、真昼の空の一番 高い所である。神は自然を使者として人々に警告を発せられる。ギリシャ語で「わざわい」とは「ウー アイ」という。「ウーアイ・ウーアイ・ウーアイ」と天空高く鷲が鳴いているのである。嘆かずにはおれ ない状況である。悲しみや痛みを感じ、神の厳しい審きを見ていたのである。滅びを恐れる鳴き声でも ある。 なお、3人の御使がラッパを吹きならそうとしている。- 11 -
第9章(死が逃げていく、生き地獄)
第5の天使がラッパを吹くと一つの星が天から地に落ちてきた。この星に底知れぬ所の穴を開く鍵が与 えられた。底がない。即ち無である。何も溜められない。底なしの淵の穴を開くと煙が立ちのぼり、太 陽も空も煙のために暗くなった。その煙の中からイナゴの群が地上に出てきた。イナゴの姿は、馬に似 ていて、金の冠りに似たものを付け、人間の顔のようであり、髪は女の髪のようであり、歯は獅子の歯 のようであり、胸には鉄の胸当てのようなものを付け、羽の音は戦車の響きのようであった。更に、さ そりのように尾と針があって、さそりの持っているような力が与えられており、この尾には5ヶ月の間 人に害を与える力があった。5ヶ月はイナゴの生存期間である。その名はヘブライ語でアバドンと言い、 ギリシャ語でアポリオンと言った。その意味は「滅び」である。 イナゴは、地の草やすべての青草また、すべての木をそこなってはならないが、「額に神の刻印」が押さ れていない人には害を加えても良いと言い渡されていた。殺してはいけないが、5ヶ月の間、苦しめる ことは許された。イナゴが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々(額 に刻印の無い人々)は、その期間、苦痛と絶望の余り死にたいと思っても、死ぬことが出来ず、切に死 を望んでも、死の方が逃げて行くのである。まさに生き地獄である。幸いなるかな、「額に刻印ある者」 はこの生き地獄から免れているのである。 ヨエル書は、メシヤ(救い主)の来臨を告げるが、イナゴの害を書き記し、すべて主を呼び求める者は 救われると預言する(1・2章)。さそりは15センチ位で、石の下に隠れており、刺されると蜂に刺さ れたよりも激しい痛みである。ヨブ記には「死を望んでも来ない」とある(3・21)。 第6の天使がラッパを吹くと神の御前にある金の祭壇の4本の角から一つの声が聞こえた「ユーフラテ スのほとりにつながれている4人の天使を放してやれ」。4人の天使は人間の3分の1を殺すために解き 放たれた。天使は騎兵を率い、騎兵の数は2億である。無数と言ってよい。馬とそれに乗っている者の 様子は、炎、紫、硫黄の胸当てを付け、馬の頭は獅子のようであり、口からは火と煙と硫黄を吐いてお り、この3つの災いで人間の3分の1が殺された。更に、馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭が あり、この頭で害を加えるのである。 (罪に鈍感な人間の姿) これらの災いにあっても残った人間は、悔い改めず、なおも、悪霊や、金、銀、銅、石、木でそれぞれ 作った偶像を礼拝することをやめなかった。ここに人間のどうしょうもない姿がある。このような偶像 は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。偶像の特徴を書き記しているのである。 しかし、人間は、見ることも、聞くことも、歩くこともできる。偶像は無力であり、この無力な偶像を 人間が利用するのである。また、彼らは人を殺すこと、まじない、みだらな行い、盗みを悔い改めなか った。即ち人は、何の反省もなく、悪霊や偶像を拝み続け、悪や不道徳を招いている。これが聖書記者 の確信である。 著者ヨハネは悔い改めて欲しいという切なる願いを込めて書いている。主イエス・キリストの尊い十字 架の血潮の下に隠れ家を求めるように警告をしているのである。- 12 -
10章(み言葉の甘さと苦さ)
ラッパを持たないもう一人の力強い御使が、雲を身にまとい、頭に虹をいただき、顔は太陽のようで、 足は火の柱のようで、手に小さな巻物を持って、天から下りてきて、右足を海に左足を地にして獅子が 吠えるように大声で叫んだ。叫んだとき、7つの雷がそれぞれの声で語った。語った言葉をヨハネは書 き留めようとした。その時、天から声があって「秘めておけ、書き留めてはいけない」と言われた。 ここでいう力強い御使とは、主イエスご自身であると考えられる。すなわち主は「雲をおのれのいくさ 車とし」(詩104・3)、虹は神の御座の輝きの一部であり(エゼキエル1・28)、山上の変貌では、 主イエスは「顔は日のように輝き」(マタイ17・2)、主はシオンから大声で叫び(ヨエル3・16) などの描写は栄光の主イエスの姿である。叫んだ内容は書いていない。更に7つの雷の声も封印された。 パウロがパラダイスに引き上げられた時「人間が語ってはならない言葉を聞いた」(コリント第2の1 2・4)とある。この秘密の啓示は、他の人に伝えることもできないし、伝えたところで人には理解で きないことであったのであろう。 それから御使は、天に向けて手を挙げ、誓った「もう時がない。第7の御使が吹き鳴らすラッパの音が する時には、神の奥義は成就される」。誓ったという言葉は、真理として語ったということ。「もう時が ない」ということは、「もう時を数えることはなくなる。神の永遠のみわざがはじまる。完成される」と いうことである。 (神の奥義) ここで「神の奥義」とは何か。パウロは言う「それは、時が満ちるに及んで実現されるご計画にほかな らない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せ しめようとされたのである。わたしたちは、御旨の欲するままにすべてのことをなさる方の目的の下に、 キリストにあってあらかじめ定められ(天地創造前)、神の民として選ばれたのである。それは、早くか らキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである(エペソ1・ 3以下)。 又、天から「御使の手にある巻物を受け取りなさい」という声があったので、ヨハネは御使のもとに行 き、「巻物を下さい」と言った。すると彼は「取って、それを食べてしまいなさい」と言われ、取って食 べると、口には蜜のように甘かったが、腹が苦くなった。食べるとは、み言葉を消化し、自分の血とな り肉となるまで消化するということ。甘いということについて、エゼキエル書では「わたしはその巻き 物を食べた。それを食べると、口に甘いこと蜜のようであった」(3章)。「神のさばきは、蜜よりも、蜂 の巣のしたたりよりも甘い」(詩篇19・10。119・103)。 み言葉は甘い。良い知らせである。喜びの福音である。しかし、他方でその内容は、十字架の苦さであ り、罪の苦さであり、審きの苦さであり、恐るべき災いである。 キリスト者は自分の十字架を負って信仰生活を歩む時、さまざまな苦い思いをする。信者も教会もその 苦さに耐えた。み言葉の甘さと苦さに生き切るのである。そこに神の計画が成就されることに驚き・喜 び・感謝を覚えるのである。 更に、天から声があった。「あなたは、もう一度、多くの民族、言葉の違う民、王たちに預言しなければ ばらない」。ヨハネには、甘さと苦さの預言の務めが残っている。- 13 -
11章(第7の天使のラッパ)
(あなたがたは神の宮である) ヨハネにはかり竿が与えられ、神殿を測るように命じられる。エルサレム神殿はAD70年にローマ軍 によって滅ぼされている。ここでは消滅した神殿ではなく、キリストを隅のかしら石とするキリストの 教会・神の民を指している。礼拝している人々を測る。「あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもな く、聖徒たちと同じ国籍のものであり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者た ちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキ リストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあ って共に建てられ、霊なる神のすまいとなるのである」(エペソ2・19以下、ペテロ第1・2・5)。 あなたがたは神の宮である(コリント第1・3・16、コリント第2・6・16)。 神殿を測るとは、神の民に封印を押すことであって、試練の時にも守られて生き抜くことが出来る。し かし、異邦人で教会の外にいる人達は滅ぼされてしまうのである。測る必要はないのである。 (2人の証人―エリヤとモーセ) 2人の証人が1、260日間(42ヶ月・3年半)預言する。一人はエリヤである。「火が天から下る」 (列王下1・10)とか、「天を閉じ、雨を降らせないようにする力」(列王上17・1)と符合する。 もう一人はモーセである。「川の水を打つと血に変わった」(出エジプト7・14以下)と符合する。こ の2人は変貌の山上でイエスと語りあった(マルコ9・2以下)。2人は定められた期間預言すると、獣 のかたちをとった反キリストによって殺される。2人の証人の言葉は苦かったので、その言葉を受け入 れないばかりか、憎み、死を喜び、3日半死体を都の大通りに放置してながめ、喜び楽しみ、互いに贈 り物までした。しかし、3日半の後、神は2人に息を吹き込み、2人が立ち上がり天に昇ったので、人々 は非常な恐怖に襲われた。この時、大地震で7千人が死に、生き残った人々は神に栄光を帰した(息を 入れるーエゼ37,天に昇るー列王下2・11)。 (第7の天使がラッパを吹くー壮大な礼拝) 第7の天使がラッパを吹くと、大きな声があった。「この世の国は、われらの主とキリストとの国となっ た。主は世々限りなく支配なさるであろう」。24人の長老は、ひれ伏し神を拝して言った「今いまし、 昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなるみ力をふるって支配なさったことを感謝します」。ここ では「やがて来られる方」という言葉はない(黙4・8参照)。すなわち既に来ているからである。「諸 国民は怒り狂いましたが、あなたは怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる 預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべてみ名を恐れる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼ す者どもを滅ぼして下さる時がきました」。憎しみは怒りを呼び起こし、滅びを生む。神は滅びを呼び起 こす怒りに対して、滅ぼしてはならないという怒りである。 そして天の神殿が開かれ、契約の箱が見えた。今まで誰も見ることが出来なかったものが見られるよう になった。契約の箱が見えたことは、神はどんなに破壊が激しくても、神は民との間の契約を破ること はないと、栄光のうちに希望の約束をしている。- 14 -
12章(女と竜)
(子供を宿した女は、母なる教会か?) 女は太陽を着、足の下に月を踏み、頭に12の星をかぶっている。女は男の子を産んだ。この子は鉄の 杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座に引き上げられた。男の子は 主イエスである。「おまえは鉄の杖をもって彼らをうち破り」(詩2・6)とある。王の即位の歌である。 従って、この女は主イエスの母マリヤという考えもある。しかし、教会を指していると思われる。「神の 掟を守り、イエスの証を守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」という言葉が根拠である。 教会は、キリスト者を生み出し、それも生みの苦しみをし、生んだ子をサタンは狙っている。キリスト 者が迫害の対象となっている。 (天で敗北して、投げ落とされた竜) 天では赤い龍が、子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、生んだ子を食べようとしていた。女は 男の子を産んだが、子は神のもとへ、その玉座に引き上げられた。女は荒れ野に逃げ込んだ。戦うこと は出来ない。何の武器も持っていない。逃げるだけである。逃げた場所は、神が1、260日(3年半) 養われるように用意した所であった。天では、御使のかしらであるミカエル(ユダ9)とその使いたち が戦いをし、龍は勝てず、地に投げおとされた。その時、大きな歓声があがった。 「今や、神の救いと力と国と、神のキリストの権威は現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われら の神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。兄弟たちは、子羊の血とかれらの証の言葉とによっ て、彼に打ち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。それゆえに、天とその中に住む者た ちよ、大いに喜べ」 この龍は、悪魔とかサタンとか全世界を惑わす年を経たへびと呼ばれるものである。サタンとは「訴え る者」(10節)である。「そしる」とも訳される言葉である。告発する者は正義の味方だと思っている。 時には正義感を満足させる。サタンは光を装う。人をして、知らず知らずの間に、悪の中に追い込み、 罪人として仕立てあげるのである。深い根源において、神への反逆に誘うことを狙っている。現代人を して、神などいなくても、人間だけでやっていけると思い込ませている。「年を経たへび」とあるが老獪 である。へびはエバを誘惑し、そして神に背く者に仕立てあげたのである。 (龍の執拗な挑戦と神の助け) 悪魔である龍は天から落とされ、男の子である母を襲う。女は鷲のつばさが与えられた。神の備えた荒 野に逃げて行く為である。鷲のつばさは神の支えのみ手をあらわしている(出エジプト19・4)。 龍は又、口から水を川のように吐き出し、女を押し流そうとしたが、地が口を開いて、飲み干した。旧 約聖書では、大水は、試練・苦難・迫害にたとえている。「大水が押し寄せる悩みの時にも、その身に及 ぶことはない」(詩32・6)、「あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共にいる」(イザヤ4 3・2)。 龍は更に、神の戒めを守り、イエスの証しを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行 った。そして、海の砂の上に立った。迫害の手が伸びるということである。しかし、龍は最後には滅び の運命にある。「主イエスは勝利者」である。- 15 -
13章(2つの獣)
13章は、御使いのかしらミカエルとその使いたちに敗れ、地上に投げ落とされた龍が怒りを爆発させ、 危害を加えようと2つの獣を呼び寄せ、その権限を2つの獣に委譲する。この2つの獣が主役である。 迫害に処する道は、忍耐と信仰である。神の勝利を信じ続けていくのである。目立たない力がついには 勝利する。武力を持つ者には信仰はいらない。この章は、パウロとヨハネの国家観の相違もある。 (海からの獣―ローマ帝国) 海から上がってきた獣は7つの頭に10本の角があった。頭には神を汚す名があり、ひょうに似ており、 くまの足のようで、ししの口のようであった。この獣はローマ帝国を指している。ローマには7つの丘 があり、ヨハネの時代までに10人の皇帝が即位している。神を汚す名とは、ローマ皇帝は「神」とか 「神の子」と呼ばれていた事を指す。皇帝礼拝が強制されていた。神の名を汚す期間は42ヶ月である。 永遠ではない。ひょうや、くまや、ししはダニエル書7章に出てくる獣である。ひょうはペルシャであ り、くまはメデアであり、ししはバビロニヤでいずれも帝国であり、もう一つの獣はギリシャである。 野蛮で、残忍であったので、ダニエルは野獣性で帝国の本質を示そうとした。 獣の頭の一つが死ぬほどの怪我をするがその傷も治ってしまった。この記事は迫害者ネロ皇帝がAD6 8年に自殺した後、不安定な政情が続き、短い間に3人の皇帝が変わったが、現在は安定しているとい うことである。但し、ネロは死んだのではなく、東国のパルテャに行ってやがて戻って来るという噂が 広まった(ネロ蘇生説)ことを指しているという考えもある。いずれにせよローマ帝国を指している。 獣を拝み、讃美する者は、いのちの書に名前が記されていない者である。幸いなことにキリスト者は、 世のはじめからいのちの書に名前が記されている。 (地からの獣―人間―偶像礼拝) 地からのぼってきた獣は、子羊のように角が2本あって、龍のようにものを言った。すなわち、偽キリ ストであり、偽預言者である。当時の皇帝は「現人神―あらひとがみ」であり、神として礼拝の対象で あった。権力は軍事的力と宗教的力を一手に握るのである。皇帝礼拝しない者は迫害の対象となっただ けでなく、物を買うことも出来なくされた。偶像礼拝の対象となっている皇帝の名は666という数字 である。この数字は、ヘブライの数字で、迫害者ネロである。ネロは64年ローマに火を付け、大火を 起こし、その罪をキリスト者に負わせ、大迫害をし、パウロも殉教の死を遂げたと言われている。 (パウロとヨハネの国家観の相違) パウロは、ロマ書13章で「すべての人は上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権 威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」と述べてい る。パウロがローマ政府から受けたものは恩恵だけであった(使16章、21章)。伝道も「ローマの平 和」と言われる状況の中で旅行できた。しかし、ヨハネ黙示録の記者は、国家は、キリスト教徒を弾圧 する悪魔の手先でしかなかった。権威を持ち、権力を持っている者の過ちというものを見据えることに あった。- 16 -
14章(救いと裁き)
(子羊がシオンの山に立っていたー子羊キリストとともに) 皇帝礼拝の強要と迫害、更に続く、15章以下の神の怒りの裁きの中にあって、すなわち、うめきのた だ中にあってヨハネが見たものは、子羊なるキリストと共なるものが、どういうものかである。それは 讃美と喜びと慰めに満ちたものであった。 14万4千人の大水のとどろきのような、そして、激しい雷鳴のような声の新しい讃美であり、その声 は竪琴の音のようでもあった。彼らは純潔なものであり、あがなわれた者であり、偽りがなく、傷がな く、子羊キリストの行く所には、どこへでもついて行く。彼らは新しい存在となっているのである。「主 がとこしえの光となる」(イザヤ60)。 (3人の天使の言葉) 3人の天使の言葉がある。主題は「今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである。彼らはその労苦 を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」。「主にあって」とは、「主に結ばれて」と か「主の中で」という意味である。報われる内容は何か。「永遠の命にあずかる喜び」を3人の天使が語 るのである。犠牲は無駄には終わらない。 第1の天使は「神を恐れ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源 とを造られたかたを、伏し拝め」と大声で言った。 第2の天使は「大いなるバビロンは倒れた」と言った。ここでバビロンとはローマ帝国である。ここで は過去形で書かれている。まことの礼拝をしている者は、ローマ帝国の力は既に滅びの中にあることを 見抜いていたのである。歴史の現実は、ローマ帝国は、313年にコンスタンチヌス帝がキリスト教を 公認し、392年に国教となった。395年に帝国は東西に分割され、東ローマ帝国はその後1000 年以上存続したが、西ローマ帝国は476年に滅亡した。 第3の天使は「獣とその像を拝んだ者は、火と硫黄とで苦しめられる。その苦しみの煙は世々限りなく 立ちのぼり、昼も夜も休みが得られない。ここに神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続ける聖徒の忍 耐がある」と言った。神の怒りは正義の怒りである。神の怒りを恐れない者は、滅びるのである。罪は 反逆であり、罰せられる。罰せられない為に忍耐が必要である。 (刈り入れと裁き) 福音は「両刃の剣」である。愛と裁きである。ここでは神による鎌入れによって、たとえられている。 復活の主は、救われる者をかり集めて栄光を与え、み使いは滅びる者をかり集めて滅ぼすのである。主 イエスは「毒麦も育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者にまず毒麦を集めて束にして焼き、 麦のほうは集めて倉に入れてくれ」(マタイ13・24以下。ガラテヤ6・9、ヨエル3・13参照)と のたとえの実現である。 裁きは、神の激しい怒りで大きな酒ぶねに投げ込まれて踏まれ、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわ に届く程になり、1千6百丁に広がった。1千6百丁は、丁度パレスチナの南北の長さである。また、 この数字を40の40倍で、地球の4隅を指し、全地とも理解できる。裁きが全土に、もれなく、完全 に行われたことを象徴的に語っている。- 17 -
15章(勝利者の讃美)
神の激しい裁きの前に、神の竪琴を手にしたキリスト者によって、神の救いのわざをほめたたえる。7 人のみ使が、7つの神の激しい怒りの鉢を傾ける前に、モーセの歌と小羊の歌とを歌った。獣とその像 とその名の数字にうち勝った人々である。すなわち、獣であるローマ帝国と皇帝礼拝に服さなかったキ リスト者である(13章参照)。場所はガラスの海のそばである。火のまじったガラスの海である。火は 裁きを表す。神は焼き尽くす火である(ヘブル12・29)。モーセの歌は、出エジプト記15章にあり 「海の歌」とも言われる。紅海を神の導きによって通り抜けることが出来た喜びの歌である。小羊の歌 がそれに重なる。小羊イエスは、出エジプトの民のように罪と死の谷を抜けて「永遠の命」へと導いて 下さった。解放された者の喜びの歌である。 全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、 あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたを恐れず、御名をたたえない者がありまし ょうか。あなただけが聖なる方であり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの 正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります。 ここでは、神の恵の深さと、偉大さだけを讃美している。自分たちの勝利、功績、迫害される教会の祈 りや泣き叫ぶ姿も一切ない。天国とは自分のことを忘れて、ただ神のみを思う所である。天にあって、 神の偉大さを見たとき、人がどんなに小さいかを知る。 巨大な地上の帝国も、その偶像とともに滅びる。かって、出エジプトの時、神が勝利して民が救われた ように、今またローマ帝国も生ける神のさばきによって崩壊する。反キリストの力は打ち負かされた。 この後、天にある幕屋の聖所が開かれ、7つの災害をたずさえている7人の御使が、汚れのない、光り 輝く亜麻布を身にまとい、金の帯をしめて、神の命令を実行する為に出てきた。幕屋の聖所には、律法 の本質である十戒を書いた板が入っている。神の律法を無視すれば裁かれる。律法を無視できないこと を明らかにしているのである。御使は大祭司の身なりでり、光り輝く天衣(マタイ28・3)であった。 4つの生き物の一つが、神の激しい怒りに満ちた7つの金の鉢を、7人の御使に渡した。7つの封印、 7つのラッパ、7つの鉢と7と3の組み合わせで完全を言い表そうとしている。4つの生き物は、既に 天上の場面で出てきた(4章、第1がしし、第2が雄牛、第3が人のようなもの、第4が鷲)。この生き 物一つが神の怒りの鉢を渡すのは、まことにふさわしい。福音書は神の怒りも書き記している。人間の 罪・不義に対して神の義が怒りとなることは当然である。 聖所は「神の栄光とその力」とから立ちのぼる煙りで満たされた。旧約聖書では神の栄光が煙りや雲に たとえられる。イザヤが聖なる神を見たとき神殿の中には煙りが満ちていた(イザヤ6・4、出エジプ ト40・34)。人間は神の計画を明確に知ることができないと同時に、人間の権利や資格で神に近づく ことは出来ない。しかし、神は聖にして栄光に満ちているのである。 7つの災害が終わってしまうまでだれも聖所にはいることが出来なかった。裁きという神の義を、誰も 止めることはできない。ただ神の意思が実行されるのみである。- 18 -
16章(神の怒りの7つの鉢)
聖所からの声である。「神の激しい怒りの鉢を、地に傾けよ」と。最後の第7の御使が鉢を空中に傾けた とき「事はすでに成った」と。神の最終勝利である。神の言葉によって、天地は創造され、地は裁かれ る。信仰は、天からみ心がなされる立体の世界である。新しい天と新しい地も天からくる(21章)。 最後に起こる恐ろしい災害である。出エジプトの際の10の災害(出エジプト7章から12章)と、7 つのラッパが鳴ったあとに起こった災害(第8章・9章)と重なる。血に変わる・はれもの・雹(ひょ う)の被害など。但し、7つのラッパが鳴ったあとの災害は3分の1であったが、最後の災害は、徹底 的な滅びである。第1の者が鉢を地にそそぐと獣の刻印を持つ人々とその像を拝む人々の体に悪性ので きものが出来た。第2の者が海に鉢を傾けると海は死人の血のようになって生き物は皆死んだ。第3の 者が川と川の源に鉢を傾けると血となった。血になるということは、生物は生きられないということで ある。御使は神の義が貫かれたことを喜んでいる。「今いまし、昔いませる聖なる者よ。あなたは正しい 方であります」。「あなたのさばきは真実で、かつ正しい」と。 第4の者が太陽に鉢を傾けると、人々は炎熱で焼かれた。第5の者が鉢を獣の座に傾けると国は暗くな り、人々は苦痛の余り舌をかんだ。即ち自殺したということである。炎熱で焼かれたり、舌をかんで自 殺をするような状態になっても人は悔い改めることをせず、神をのろい、神に栄光を帰することはしな かった。第6の者がユウフラテ川に鉢を傾けた。川は枯れて、龍の口から、獣の口から、偽預言者の口 からかえるのような3つの汚れた霊が召集する道を作った。3つの霊は、神に戦いをいどむ為に、ハル マゲドン(メギドの山の意―軍事の要所―ヨシヤがエジプトの王ネコと戦い死亡した所―歴代志下35 章)に王たちを集めた。天下分け目の戦いである。第7の者が鉢を空中に傾けた。「事はすでになった」 という御座からの勝利の声とともに、稲妻・雷鳴・激しい地震があり、島々はみな逃げ去り、山々は見 えなくなり、1タラント(約34キログラム)の重さの雹(ひょう)が降って来た。人々はこの雹の災 害のゆえに神を呪った。その災害が非常に大きかったからである。 (3つ目の幸いである) 16章は、神の激しい怒りの場面であるが、慰めに満ちた3つ目の「幸いである」というみ言葉がある。 「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように。また、裸の恥を見られないように、 目をさまし着物を身に着けている者はさいわいである」(15節)。キリスト者はみなキリストを着てい る。だから災いにあわず幸いであるというのである。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰 によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たの である」(ガラテヤ3・26)。キリストを着ている者は、いつキリストが来ても救われるのである。 しかしながら、神なき人々は、害を受けたので神をのろい、冒涜した。人々はなお悔い改めず、神の愛 にも、神の怒りにも無関心・無感覚となっているということである。神は人に対して、神を閉め出すこ とが出来るという恐るべき自由を与えた。しかし、神なき者は禽獣にも劣るのである。人間の悲劇、世 界の悲劇とは、神を無視して、自己中心の生活を続けていることにある。- 19 -