ムドン省ドンジユオン県の資料より
著者名(日)
本多 守
雑誌名
白山人類学
号
14
ページ
213-240
発行年
2011-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002415/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止研究ノート
チル集団の社会変動過程モデル
ヴェトナム・ラムドン省ドンジユオン県の資料より
本 多 守* The Model in the Process of Social Change of the O〃: ACase in Don Duong District, Lam Dong Province, VietnamHONDA Mamoru*
The Cil is one of the small local groups (Ciノ, Srθ, Lat, Tring_)of the Coho, a Mon−Khmer language group in Vietnam. The population of the Coho in 2003 was 145,857,though the figure is not available for the Ci/specifically. The O〃inhabit in the northern area of Lam Dong Province, part of a mountainous region called the‘Tay Nguyen(Central Highlands)’in Vietnam. The Cil was a nomadic group that lived temporarily in various areas, depending on the available arable land. With historical and social changes, such as the colonization of French Indochina by the West, the advent of the Vietnam War(leading to the formation of the strategic hamlets), socialist reform policies (resulting to the making of cooperatives−groups of agricultural production)and“Renovation(Doi Moi),”the Oil economy is now based on cash crops(such as persimmon, coffee, and wet rice), and labor employment. Most of the villages were divided and have been relocated into newly−organized administrative hamlets. The author described the social structure and social change of the O〃in his dissertation, based on his data on the Cil gathered during a period of field research from 2004 to 2006. In his dissertation, the author put forward the expansion of the marriage alliance model used by theαノin order to obtain land use rights as a changing process model that can be applied in Southeast Asian societies, *東洋大学アジア文化研究所客員研究員;Visiting Scholar, Asian Institute, Toyo University, 5−28・20, Hakusan, Bunkyo, hon mamo41@hotmail.com Cultures Research Tokyo, 112−8606/213
and insists that social structure of the Ci/has not changed greatly, even today. The author was unable to include Don Duong District in the scope of his research between 2004 and 2006. In April 2010, however, the author did receive Don Duong District’s permission to research this area for eleven days. So, in this paper, the author attempts to investigate the applicability of historical background stages of his changing process model for this region. キーワード 戦略邑,合作社,生産集団,ドイモイ,商品作物への転換 Keywords: Strategic Hamlet, Cooperatives, the Group of Agricultural Production, Renovation, Change to Cash Crops 欝済難灘・t。 , E−us げメ ド ’ ・澱浸xべ, 1「 墜、1∵ 誌、 織. 睡:
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表1 チル集団の社会変動過程 フランス植民
@地時代
ジュネーヴ協 閨i1954)以降 社会主義革命 i1975)以降 経済開放政策 i1986)以降 耕作方法 定耕&定住 ト畑&輪耕 .1992 作物 トウモロコシ Rーヒー栽培 薪拾い ? 鷲(サトウキビ,トウモロコシ 柿,コーヒー,水稲) 改宗 伝統的信仰 ミッション系キリスト教 土地使用権 リネージ単位 ツ人単位リネージ単位 ツ人単位リネージ単位 早i行政)単位 個人単位 早i行政)単位 放政策(ドイモイ)後,焼畑耕作は1992年完全に禁止され,商品作物栽培のみと なった。合作社は解体され,各家庭に土地が分配された。そして個人レベルでの土 地使用権の売買,相続が法的に認められた。筆者は以上の各ステージにおける婚姻 紐帯の重要性を明らかにした。 チル集団の集落は,土地を持つ2−3の母系リネージが集まって形成していた。 集落は,交叉イトコ婚による循環婚による紐帯をべ一スとした,首長の権力も強く ない閉鎖体の社会であった。厳しい自然環境により,人口の変動が激しく,各リネ ージの必要耕作面積もそれに伴い変動した。必要耕作面積の変動は,リネージ間の 使用貸借関係によって調整されていたが,使用貸借関係は,婚姻紐帯を前提条件と していた。また,婚姻すれば新婚夫婦に対し,あるいは夫婦が子供を出生すれば, その夫婦に妻側リネージから耕作地が与えられるシステムとなっていた。しかし上 述の各ステージで,チル集団の社会基盤となる交叉イトコ婚によるリネージ間の紐 帯は大きく変質した(以下図2参照)。第2段階:戦争の為に耕作できる土地面積 は大きく制限され,従来の土地使用権を管理しリネージ間の紐帯を維持してきたリ ネージの長の権力は弱体化した。新たな限られた領域内で,旧集落は従来の紐帯を 部分的に維持しながら,土地を確保するために新たな紐帯を広げていった。言い換 えれば,紐帯を広げる過程で,従来の交叉イトコ婚による紐帯を部分的に崩しなが ら,統合体内部で新たな婚姻による紐帯が形成されていった。第3段階:合作社政 策と商品作物への転換の政策によって土地所有権が完全に否定された結果,チル集 団は自らの開拓した土地を行政側に奪われ,一部は耕作地として残ったものの,い つ失ってもおかしくない状況が生まれた。新たな土地の開拓権も失われた。結婚や 出産の度に,今まで女側のリネージの長がリネージの所有地から分与していた土地stage 1.ジュネーヴ協定前 閉鎖体 交叉イトコ婚による循環婚 stage2:ジュネーヴ協定後 統合体 領域の拡大 循環婚から婚姻紐帯へ 新領域内で婚姻圏を拡大 stage3:革命後 拡大領域 土地利用権の喪失の危機 不法耕作地の強制収用の恐れ 従来の紐帯の弱体化 新たな紐帯の生成 stage4:ドイモイ後 拡大新領域 拡大領域から分裂 領域外でも循環婚を再生 循環婚から婚姻紐帯へ 新領域内で婚姻圏を拡大 図2 4段階の政治的、経済的変動と婚姻紐帯のモデル 使用権は,もはや与えることが難しくなりっつあった。この時期はチル集団の土地 使用権が最も制限された時期であり,土地をめぐる紐帯の重要性が低下した時期に あたる。紐帯を必要としたのは,行政村レベルの宗教組織と生産組織である合作社 を組織する行政組織であった。第4段階:経済開放政策(ドイモイ)後,個人の土
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地使用権と処分が認められたことによって,従来の紐帯は不要になった。しかし, チル集団自身の多産とラムドン省北部への計画移民の急増によって,ラムドン省北 部の有効土地使用面積自体が減少していた。このことは,近い将来の慢性的な土地 不足を各家庭に予感させた。各家庭は自分たちの娘の為に,再度,土地確保のため の紐帯が必要になったのである。戦略邑から離合集散して行政村に入ったグループ, いいかえれば,統合体から拡大領域に入ったグループは,その拡大領域に入らなか った旧統一体の分離したグループとの紐帯を維持しながら,拡大領域内のグループ との紐帯を新たに結んでいくのである(行政村を超えた拡大新領域の生成)。このよ うに,革命後に土地所有の否定によって一旦消えかけた紐帯の必要性は,ドイモイ 期の土地の分配とともに異なる形で再生したのである。従って,土地確保の目的と する婚姻の紐帯の重要性は,変わっていないというのが,筆者の主張であり,4段 階に分けられた政治的・経済的変化は,筆者の主張の根幹をなすものなのである。 II ドンジュオン県の現況 ここでは,調査結果の背景にある県の現況について,文献資料,及びインターネ ット上の資料から明らかにする。 1ドンジュオン県の地勢と人ロ ドンジュオン県の気候は,4月から10月が雨季,11月から3Aが乾季になる。 県の総面積は61,160ヘクタール,標高1,000−1,500mにあり,東北にクェット山 (Kuet),ダニム湖のそばにカナン山(Kanan),ニントゥアン省との境界にヤン・ ボンノ山(Ya Bonnonh),タインミーの北にスレラ山(Sr61a),プロ社にパルグロ 山(Parglo)がある。河川はラクユオン県からドゥクチョン県に流れ込む形で,ダ ニム河(Da Nhim)が流れている。ダニム河には日本の戦後賠償で建設されたダム がある(1961年竣工)。また2001年にはダーロン(D4R6n)社に水利ダムが竣工 し周囲の農村部に水を供給している2)。 ドンジュオン県には,元々キン族は住んでいなかった。1917年,フランスが荘園, 工場建設をはじめ,ヴェトナム中部の人々を労働者として雇用し働かせた。これよ りキン族が移住し,当時上ドンナイ省ドラン郡3)と呼ばれた地域の人口は約20,000 2)このほかにも水利ダムは二つ(Pr6, KaZam)などがあるが詳細不明である。 3)1920年に成立した上ドンナイ省の一つの郡。西はダイニン,東はニントゥアン,北はダ ルラックが境界だった。現在のラクユオン,ドンジュオン,ラムハー,ダムロン,ドゥク チョン県を包含していた。
累
NIN8 scrN iN4NH THuAN 図3 ドンジュオン県行政区分地図 (出典:ラムドン省公式HP) 人になった。 当時最も人口が集中し ていたのはドラン市だっ た。1958年,ゴ・ディン・ ジェム政権の時にトゥエ ンドック省が成立時にド ンジュオン,ドゥクチョン, ラクユオン郡が成立した。 当時ドンジュオン郡には 10社,スアントー(Xuan Thq),スアンチュウオン (Xu合n Trubng),ラックギ ェップ(L4c Nghiep),ラ ックスアン,ラックラム, タインミー,ロアン(Loan), タナン(Ta Nang),リンジ ャー(Linh Gia),トゥチ ャー社があった。1975年, 表2 ドンジュオン県各社面積・村・人口表(2005年) 社(xa)の名 面積(ha) 村数 人口(人) 1 Thanh My 2,131 7区と 1村 15,440 2 Dran 13,3306区と 7村
11,905 3 Quang Lap 950 5 9,111 4 Tu Tra 7,450 14 10,031 5 KaDσn 3,850 10 7,373 6 Pr6 8,820 7 10,068 7KaD6
8,810 10 4,357 8 DARδn 3,349 8 5,092 9 Lac I、am . 2,120 10 7,549 10 1、ac XuAn . 10,350 15 11,085 合計 61,160 92,012 (出典:ダラト市公式HP/農村・農業服務工芸科学通信)219
ロアン社,タナン社,及び一部の土地がドゥクチョン県に編入され,スアンチュウ オン,スアントー社はダラト市に編入された。人口は,面積がこのように縮小して いるにもかかわらず,経済発展により1965年,37,192人,1975年には47,000余 人になった。現在(2006年統計),県の人口は92,260人,このうち少数民族の人口 は26,259人である。 2010年,行政区画は,2つの市,タインミー(Thqnh MY),ドラン(Dran)と8 つの社,ラックスアン(L4c Xufin),ラックラム(L4c L合m),カド(Ka D6),カド ン(Ka Dσn),トゥチャー(Tu Tra),クアンラップ(Quang Lap),プロ(Pr6), ダーロン社に分かれている。県都はタインミーである(図3参照)。 2ドンジュオン県の産業 ドンジュオン県にはダラトからドラン市まで国道20号線,ドラン市から東に隣 接するニントゥアン省に至る国道27号線があり4),国道27号線を西に行くとドゥ クチョン県で国道20号線につながる。両国道の合流するドラン市は交通の要衝と して昔からドラン郡の郡都として栄え,革命前までこの地方の中心地だった。ヴェ トナム戦争で使用できなくなったが,ニントゥアン省からドラン市を通り,そのま ま北上してダラトに通じる鉄道もあった(1932年竣工)。現在この鉄道の再建計画 がある。革命後に県都がドラン市からタインミーに移転した。県全体の面積のうち, 1999年統計で農業面積12,538ヘクタール5),うち水稲(二期作)が3,966ヘクター ル,飼料用,及び食用トウモロコシが2,253ヘクタール,野菜(トマト,豆類,葱, 玉ねぎ,ピーマン等)が7,300ヘクタールを占める6)。また,ドラン市周辺では柿が 栽培され,畜産業(養豚,養鶏,肉牛),酪農業があり,30余りの農場がある。 林業面積は38,442.73ヘクタール7)で,家具工場が14ほどある[UBND tinh L盒m D6ng 2001:735・741]。また,ドンジュオン県はラムドン省北部の他の県と比べて も企業の数も多い。外資企業の進出もある。アスザックダラト食料品有限会社8),サ イン有限会社9)などの野菜加工輸出入会社,タンダットレンガ製造会社10),ダラトミ ルクやカンピーナ酪農乳業会社のミルク工場,牧場1Dなどがある。この他に観光施 4)1920年に完成した[Nguy5n Httu Tranh 2001:119]。 5)2005年の統計で16,817ヘクタール。 6)温室栽培も行われている。 7)2005年の統計で37,716ヘクタール。減少している。 8)C.TY TNHH THUC PHAM ASUZAC DA LAT(在Ka D6社Nam Hiξp村 2007年設立) 9)CN C.TY TNHH XANH(在Dq R6n社2村2007年設立) 10)C.TY CP Thムng D4t(在Tu Tra社Bok Ka Bang村) 11)Dalatmilk。 Campinaという会社はVinamilkオランダの乳業Campinaと2009年に合
設として,中国資本でゴルフ場12)が,ダーロン湖のそばにホーチミンの投資発展会 社による900ヘクタールの旅行区がある。 教育施設については,各社に幼稚園,小学校が1つ以上ある[Sσ khoa hOc vA c6ng nghe L盒m Dδng 2004]。 3 ドンジュオン県調査地における民族と分布 ドンジュオン県で最も人口が多い少数民族はチュルー族(8,923人2006年統計 以下同)で,次いでコホー族(8,464人),その次にチル集団(5,855人),トリン 13)集団(946人)などと続く。県レベルの人口統計の場合,公定分類ではトゥリン 集団もチル集団もコホー族に含まれるにもかかわらず,別にカウントされている。 チュルー族は,ドンジュオン県以外にドゥクチョン県,ジーリン県にも居住して いる14)が,最も人口の多い居住地域がドンジュオン県である。マラヨポリネシア系 の民族で,隣接するニントゥアン省,ビントゥアン省に居住するチャム族と関係が 深いといわれている。チャム族はチャンパー王国の担い手として有名であるが,ド ンジュオン県には,かつてあったチャンパー王国の支配の証拠といわれる塔の遺跡 がプロ社にある。また,ハワイ村(Tu Tra社Ha Wai村)ではチャム族が婚礼で使用 する指輪の製造技術が継承され,ソプマドロン村(Sopmadrong村)にはチャム族 の武器が保管され,ラブイ村(La Bui村)にあるクラヨ(Krayo)祠堂には,チャ ムの宝物として武器や鏡が納められている。行政機関からもドンジュオン県はチュ ルー族の故地,あるいはチュルー族はドンジュオン県のかつての地主であると認識 されている。コホー族のスレ集団の人々も,チュルー族と同様,チャンパー王国の 構成員として扱われる。しかし,チル集団については,新参者扱いを受ける。 チュルー族の生業は平地での水稲耕作を主とし,それを補うものとしてトウモロ コシ栽培を平坦地で行っていた。一方,チル集団は山岳,丘陵地での焼畑耕作で, トウモロコシを主に栽培していた。 チル集団が居住しているのは,ドラン市,ラックスアン,カド,カドン,トゥチ ャー,プロ,ダーロン社である。 弁で設立。 12)Acteam会社(中国資本)2008年ゴルフ場建設許可,2010年竣工。 13)トゥリン集団は未だよく研究されていない集団の一つ。詳細はPhan Xuan Bien[1980: 308−314]参照。 14)2003年人口統計で16,972人。 221
III チル集団の語る歴史と現在 ここでは調査したドンジュオン県各社に居住するチル集団の人々のライフヒスト リーから,変動過程の各ステージでの政治的・経済的変化について記述する。但し, 婚姻にかかわるデータがある場合には特に分けて記述する。 1 ダーロン社S・A1村15)(1924年生 男性) 現況 ダーロン社は8村ある。そのうちS−A1村とS・A2村, S・B1村とS・B2村は2006 年に分割された。チル集団がいるのはこのS−A1村だ。 S・A2村はトリンの村だ。こ の他にもう1村,コホ ーの村が一つある。そ
こもS村だったが
1999年に分離したん だ。他の村(5村)は 全部ユオン(キン族) だ。ここはトウモロコ シとコーヒーが主で, ほかに水稲,養牛だけ ど,コホーは水稲が主 で,ほかに野菜も作っ ている。 Stage 2一ジュネーヴ協定後(図4参照) ここに住むチル集団とトリン集団は,カインホア省カインヴィン県ズィエントー社 (Kh6nh Hδa省Kh白nh Vinh県Di6n ThO社),ニントゥアン省(Ninh Thu餌省) 15)Tr6nC6m[1983:176−177]によれば, S−Al村の歴史は以下の通りである。 ここの村に住むチルはランビアン高原東北部に居住していた,相互に1−2日の距離離 れた集落,リエンボン,ボンロム,ダブラ,スィエトメに住んでいた人たちである。彼 らは生活が困難なため,1055年から1957年にかけてニンホア支社南のジョンローに移 住していた。1959年から60年,政権の勧奨でズィエンカイン支社に3ヶ月集中居住し, その後ズィエンカイン支社から15キロ離れたフックルオン地区に移動した。1965年に なり,戦闘が激しくなり,兵にここに連れてこられたのだ。ここの村に住むトゥリンは フーカインに属するダカー集落にいた。ダカーはジョンロー(ニンホアに属する)のす ぐ近くで,チルと会い,1955年から1957年から現在まで,一部がチルとともにここに やってきたのだ。ラグライはフーカインのヤリックで生活していたが,1965年,ここ に連れて来られた。そして1975年革命後,彼らは自分の集落に戻ったのである。から1965年にここに来た。我々は,もともとキルプラニョル(kill Plagno1)のビ ドゥプ(Bi Doup)山の近くにあったホンヤオ(Hong Giao)山で暮らしていたん だ。我々の集落はジャンロー集落だ。ジャンロー集落には,1957年に我々の集落か ら2日の距離はなれたリエンボン,ダブラ集落のチル集団の人々がいた。同じくビ ドップL]の東斜面であるジャリット山(mnσm Jarit)にあったトリンのドンブラン (Dσng Blang)集落が,ダカー(Da Kha)集落に避難,そのままそこで吸収され た。しかしこれらの地は革命軍の基地第3区になってしまった。それで,そこから 1959年に皆でズィエントー社に降りたんだ。そこには我々ジャンロー(Jan Ro) 集落のほかに,トリン集団のジョンローダカー(Jong Lo Da Kha)集落,ジョンロ ーダムハーム(Jong Lo Da Mhaam)集落,ラグライ族のジョライック(Jo Rich) 集落,トリン集団のダグレ(Da Gre),ドンブラン集落がきた。さらに戦闘が激し くなって,1964年に政府の指導でタインミー社のムラン(M’Ran)に移った。そし て1965年に皆でここに移ってきたのさ。ここは戦略邑だったんだ。1971年には, 我々のために政府が教会を作ってくれた。 戦略邑での生活と婚姻一宗教と婚姻,贈与財について 戦略邑では,竹作りで,屋根はトタン製の家だった。土地は自分たちで開拓した。 午前7時から午後4時までしか外出できなかったから周囲の2キロぐらいまでの距 離を開拓した。植えたのはトウモロコシや陸稲,サトイモ,バナナ。政府の配給は 小麦だったよ。近くにフランス人のコーヒー農園があったから,そこに働きに行っ た人はそこでの労賃で米が買えたよ。1971年に教会が集落ごとに建設され,全部で 4つのプロテスタント教会ができた。トリンとラグライの通婚は65年から始まった。 宗教上は改宗して同じだから問題なし。ラグライもトリンも婚礼で豚の交換だけだ から慣習は同じで問題ない。チルの場合は男側に贈る財産が膨大だから,チルの男 性が他のラグライやトリンの女性と結婚する例はあまりなかったな16)。経済能力は ラグライやトリンよりチルのほうが上だ。でも,さらに経済能力が高いのがコホー とチュルーだ。彼らは水稲耕作するけど,我々チルは動きすぎ17)だな。 16)学位論文では,チル集団の婚姻における贈与財の多さ,特殊性がチル集団のエスニック・ バウンダリーであることを指摘したが,このインフォーマントの発言もその傍証となる であろう。 17)「動きすぎ」の意味は,チル集団の生業である「移動しながら焼畑耕作」の意味で,イ ンフォーマントは,水稲耕作よりも焼畑によるトウモロコシ耕作が収益面で劣ることを 語っている。 223
Stage 3一革命後 1978年に2つの生産集団5っの生産組が組織された。平地の10ヘクタールは全 て水田に,丘陵部は9ヘクタールが管理されトウモロコシが植えられた。最初に各 生産組に水路を整備した後の2ヘクタールの水田が分配された。しかし1981年に は,生産組自身で水田を探す状況になってしまっていたよ。そして1988年,生産 集団解体時には,自分が担当していた耕作地が分配されたんだ。 この間に,我々チル以外のほとんどは昔の生活をするため第3区に帰った。ジョ ライック集落のラグライはカインヴィン県リエンサン(Li6n Sang)社に,ジョン ローダカー集落,ジョンローダムハーム集落のトリンはカインヴィン県カウバー (cau bA)社にいる。しかし,第3区は,元々ラグライの土地なので我々チルは帰 れない。だからチル集団の一部(30戸),つまりジャンロー集落に1957年に逃げて きたリエンボン,ダブラ集落の人々はダニム(Da Nhim)河流域に帰ったんだよ (1979年)。そこに自分たちの土地があったから。 Stage 4一ドイモイ後 1988年,生産集団の解体によって土地が各戸に配分されると,元の地主のチュル ーが土地は自分たちのものだと主張してきた。しかし,土地利用権権利証が1990 年ごろ発給されると,もう何も言わなくなった。 ダニム河流域に戻った人たちは2004年に設立されたダニム社のリエンボン村, ダブラ村にいるよ。だから今かつてのリエンボン集落は4箇所に分かれているんだ。 その4箇所は,ここのほかにダニム社リエンボン村,ダチャイ社クロンクラン村, ヌトルハー社ダメ。ヌトルハー社には戦略邑時代に移住。ダチャイ社へは,1989年 にここからダニムに帰った人々が住むリエンボン村からダチャイ社新経済区に移住。 ヌトルハー社へは戦時中にS村から移住。この他にヌトルハーを経由して1990年 にタナン社に20・30戸が自由開拓し移住したんだ18)。 現在の婚姻一他のエスニック集団との通婚と伝統的な婚姻関係の変化 他のやつら(エスニックグループ)との婚姻は2つの例しか私は知らない。1997 年の婚姻と2008年の婚姻だ。1997年の事例はトリンとチルの医者同士の結婚だな。 2008年はコホーとチルで遊び友達だ。昔ながらの母方交叉イトコ婚はもうない。消 18)チル集団が入った後,土地がいいことを聞きつけたトゥチャー社ハワイ,マダン村のチ ュルー族は,チルの後を追ってタナンに行って耕作地を得,次にカンボッテのコホー族 がタナンで耕作地を得て,コーヒー,トウモロコシを植えている。
えたのは4年ぐらい前からだ。工場勤務ができるようになったので,もう農地を持 っていなくても結婚できるようになったからさ。今じゃあ食事込みでひと月150万 ドンから200万ドン稼げるよ。 [ポイント] Stage2では,この村に居住するチル集団の人々が,他の地域に住むチル集団の 人々の移動経路であったラムドン省のキルプラニョルハー社からの南下ではなく, キルプラニョルハー社から東進してカインホア省へ降り,そこから現地域へ移住し ている点が他の地域と大きく異なることを示している。そのため,戦略邑の解放ま で交流,混住していたエスニック集団も全く異なる。また,耕作地も制限され,近 隣コーヒー農園での就労という生業転換もみられる。 Stage3で,合作社政策(生産集団の組織)によって,自己所有地の喪失と,商品 作物への転換があった。また,同じ戦略邑の人々の中で,原住地に戻った者と戻ら なかった者の違いが土地所有権の有無によるものであると述べられている。 Stage4で,土地使用権の確保のための婚姻の必要性が消滅したことが交叉イトコ 婚の消滅の理由であると述べられている。 2 トゥチャー社(ダホア村 1937年生 男性) 現況(図3参照) トゥチャー社14村のうち少数民族の村は8村。チルがボカバン(Bokabang), ダホア(Da Hoa)222戸,コホーがカンボッテ(Kambuotte),チュルーがクロッ ト(K’L6t),ルロム(R’L、om),マダン(Ma Danh),ハワイ (Ha Wai)19)の4村で ある。 Stage 2一ジュネーヴ協定後 我々の住むダホアのチルは,チュルン(Churung),ダティ(Da Ti),ルロム(R’Lom) の3集落の出身だ。全部で193戸,1,132人である。元は現在のラクユオン県のラ イトン山(Monom Rai Tong)にいた。そこから政府の勧奨で1961年にイェールジ ェーン平地(D五ngI6rji6ng)に移ったのだ。その時我々のほかにルハンジャー (Rhang Ja),ドンブラン(Dong Blang)20),フィートラン(Phi Trang)集落21) 19)ハワイ村は2009年にマダン村から分離した。 20)のちにフーホイ社ルチャイ村に移動。セブンズデー・アドヴェンティスト信徒。 21)フィートラン集落のみがC,M,A.信徒。従ってフィートランの人々はカンボッテには行か ずにS村に残る。C,M.A.については註33参照。 225
の人々がいた。1962年ダルポア(Dar Hoa)22)に移動した。そこでは,チュルン25 戸,ダティ22戸,ルロム50戸,ダトロ(Da Tro)30戸の人々が一・つの戦略邑に 入った。そこで全員セブンズデー・アドヴェンティストに改宗した。薪,バナナ, 竹の子をキンに売って生活した。一部はカムリー(Cam Ly)に行ってトウモロコシ を作っていた。政府の配給は1−2ヶ月に米10キロ,小麦20キロだった。教会も1 ヶ月に一度,米,牛肉,魚,麦をわずかだが援助してくれた。いずれにしろ不足だ った。1963年ルロム集落の一部がヌトルハー社のダメ,フーホイ社のルチャイ村に 移住した。残った我々も土地を探し,ボンライアップル(Bon Lai ap Lu)23)に来て, ここを知ったんだ。政権は最初コホーだけでカンボッテに戦略邑を作ろうとしたん だが,戦略邑を作るには人口が少なすぎたんだ。だから,我々はそこに入れてくれ と頼んだのさ。1972年S村でカンボッテの土地が開拓されるのを待って,1973年 にチュルンとダティの人々のほとんど,それからルロムの残った人々がここに移住 してきた。最初に6か月分の米と小麦,トタンと板を配給され,自分たちで家を作 り生活を始めた。この時点で,もう土地は各戸が管理していたなあ。 戦略邑ではコホーと我々で居住する場所は分かれ,彼らはカトリック,我々はセ ブンズデー・アドヴェンティストと宗教も異なった。その後このあたりを開拓した のは全部我々である。 Stage 3一革命後 80年まで,我々は開拓し続けた。マダン,ルロム村に土地を探しに行ったのは 76年から77年だ。そこで,1戸当たり4−5サオから1マウ24)を自主開拓したんだ。 1978年,マダン,ルロム村の開拓地は治安がよくないので一旦放棄した。82年に は治安もよくなり回復できた。1981年になり国営林業公社ができ,同じ年に生産集 団が組織され90年まで続いた。その間,50ヘクタールに1戸当たり4・5サオ25)の トウモロコシを栽培し,87年には30本のコーヒーロブスター種の苗が配給された。 88年には1戸当たり2サオのチェー種,89年からはミット種が50ヘクタールに植 えられた。トウモロコシは1サオあたりの収量は29キロだから,一戸当たりの収 量はその4−5倍であり,その収穫物は一旦全部集められ主労働者数によって再分配 された。トウモロコシを受け取ると,それを売って米を買った。また,飼っていた 牛を売って米を買ったなあ。 22)現ラクユオン県ダサール社。 23)現ドゥクチョン県ヒェップタイン社ボンライ村。ドントラン集落の人々が居住している。 24)1マウ=約1ヘクタール。 25)1サオ=約1アール。
Stage 4一ドイモイ後 生産集団が解散すると,各戸が使っていた土地はそのまま分配された。1991年か ら1992年にかけて,チュルーがやってきて,分配された土地を自分たちの土地だ といってだいたい1戸当たり4−5サオの面積の土地を持っていかれてしまった。全 部で10ヘクタールぐらいだ。さらに我々が自主開拓して得た,全部で30ヘクター ルはあったマダン,ルロム村の土地もとられてしまった26)。ここは元々コホーの土 地だけど,ほかはチュルーの土地だからね。95年には土地使用権利証を受け取った よ。でもその後肥料や野菜,お茶,酪農の会社が進出して一’部の土地は接収されて しまった。 現在の婚姻 昔と比べて支出が激しくなった。参加者も増えたし,そのために支出するお金も 増えた。男側に申し込みをするときに会う男側の中で最も重要なのは母系リネージ の長老(kouny)であるのは変わらない27)。今じゃあ,贈り物にテレビやバイクが 入っているから費用がかさむが,コーヒーの成功で,何とかなっている。一方,チ ュルーは,昔はチルより金持ちだったが,今はチルと立場が逆転してしまった。彼 らは貧しく婚礼の費用がかさむので土地を切り売りしている28)。だからチュルーや コホーの男はチルの女と結婚したがるんだよ。土地を狙ってさ。でも我々はそれを 許さない。チュルーはチルのことをt地なしで水稲もできない貧しいやつらだから 結婚しないという。しかしそれは昔の話だ.我々は,このダブラの中でほとんど結 婚するよ。ここの土地を守るためにね。 新たな移住一ボカバン29) 2006年,ボカバンに移住経済区が建設された。2人の子供のいる家庭に対し,2 サオの居住用土地と500万ドンの家の建設費用が渡され,50戸が移住した。井戸, 電気,学校が整備された。しかし農業用地は配給されなかった。2007年,近くに5 つの会社が進出してきた。皆そこで働くことにして,今では1日あたり5万ドン稼 ぐよ。若者たちは親の農作業を手伝うときは休めるので問題ない。もう彼らは土地 26)現在では国有林となり,松を植林している(ハワイ村 男性 1940年生)。 27)婚礼の詳細については本多[2006:19−40]参照。 28)チュルー族によれば,次の通りである。「費用がかさむのは婚礼でなく,葬礼である。婚 礼は豚だけで済むが,葬礼では会葬者を水牛の肉でもてなすためにお金が必要となる。 葬礼に1,000万ドンはかかる。しかも3年後の建墓儀礼にもまた同じ金額がかかるから よく土地を売るよ。」(ハワイ村 男性 1940年生) 29)2009年統計で人口157戸772人である。 227
が要らなくなったし,探さなくてもいいんだ。 [ポイント] Stage2では,最初の戦略邑に入った複数の集落の構成員が全てセブンズデー・ア ドヴェンティストに改宗した事例であることを示している。また,戦略邑への移住 自体が,強制的なものばかりでなく,自主的な移動も含まれていた。耕作地が制限 されたため,林産物の販売という生業転換も行われていた。土地管理については, すでにこのステージで各戸が管理しはじめている。 Stage3では,生産集団の組織で部分的な土地収用があった一方で,革命後も自主 的な土地の開拓が行われていたことを示している。 Stage4では,生産集団解体後も,土地の収奪を甘んじて受け入れている。そして, 珍しい事例だが,チュルー族とコーヒーという商品作物への転換したチル集団の経 済的地位関係が逆転している。また,ボカバンの移住経済区へ移住した人々が,生 業を自営農業ではなく労働者としていることは,集団行動としては初出である。 3 クドン社(クドン村男性1960年生) 現況(図3参照) 10村中,5村が少数民族の村である。チル集団の村が,クドン(K’Dσn)村 280 戸,クライ(K’Rai)2村 98戸,コホー族の村がクデ(K’De)村 158戸,クラ ンチョ(Karang Cσ)148戸,クライ(K’Rai) 1村217戸である。 Stage 2一ジュネーヴ協定後 現在いるクドン村は仏領期にはカドゥン(Kadeune)と呼ばれていた。今の名前 になったのは10年ぐらい前だ。我々の出身はサマイ(Samai)集落で,現ラクユオ ン県からドゥクチョン県ダクイン(Da Quyn)社ムボ(Mbσ)近くまで降りた。1952 年,山の名前はリエンカン山(Bnσm Li6n Khang)30)の地に落ち着いた。だいたい 20戸ぐらいだ。1960年にはC.M.A.31)に改宗していた。1967年から3年間,チュ ルー,コホー,チルが集められ,戦略邑が形成された。ここから少し離れた場所だ。 名をカドゥンという。戦略邑のチルは我々サマイ集落のほかにクリエール(K’Riさr) 集落の人々がいた。チュルー,コホーは一部C.M.A.に改宗したが,多くはカトリッ 30)リエンカン山は近くにリエンクン空港があるのでそこかどうか確認したが,否定された。 現在のところその場所は不明である。 31)クリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスの略。ミッション系キリスト教 の一派。チル集団の大半が信徒である。
クだった。だから戦略邑にはチュルー,コホー用カトリック教会と我々用の教会が 二つあったのだ。そして民族ごとに分かれて住み,チルの中では母系リネージごと に分かれて住んだ。診療所や学校もあった。自衛兵もいて我々を守ってくれていた。 朝8時に仕事に出て午後4時にもどる決まりで午後6時には門が閉ざされた。だか ら我々が戦略邑以前に使用していた土地は遠くていかれなくなった。そこで,チュ ルーとコホーは土地を持っていたが,持っていなかった我々は自分で開拓し,トウ モロコシや,陸稲,キャッサバを植えた。チュルーとコホーは水牛や牛を飼育して いたが,我々にはそれもなかった。1973年,戦略邑は解体した。我々は移動しなか ったが,ムボから来たチュルー32)は解体後にタンミーの戦略邑に行き,72年までそ こにいて,そのあとまたこの地域に戻ってきた。そして79年に彼らの故地である 現ダクイン社のムボに戻っていった。 Stage 3一革命後 1976年頃からチュルーとの結婚が始まった。一一’部はC.M.A.に改宗していたから。 今現在でチュルーの男性と結婚したチルの女性が6事例ある。 1976年,生産集団が組織され,チルは丘陵部に行きトウモロコシとサトイモを栽 培し,チュルーは平地で水稲を作ることになった。しかし,1978年再計画でチル, チュルーコホーと民族ごとに土地を分けずに3つの生産集団が組織された。朝の8 時から夕方4時半まで働き,収穫は’箇所に集めて労働者数によって分配した。し かし各民族間で関係が深まったりすることはなかった。82年になると3つの生産集 団は合作社に組織替えされ,村長がすべてを管理するようになった。85年,合作社 は解体した。 Stage 4一ドイモイ後 85年に合作社が解体すると,トゥチャー社のチュルーが,開拓した土地を自分た ちのものだから買えと言ってきた。我々は誰も買えず,戦略邑時代から開拓してい たボパオLLJ(mnσm BσPao)からボスルU」(mnσm BσSur)までの地をチュルー に明け渡した。そこではトウモロコシや,陸稲,キャッサバを作っていたのに。そ れで,ここから7キロ離れたジャロ1」」(mnom Ja Lσh)を新たに開拓したのだ。皆 1ヘクタールぐらい手に入れているんじゃないかな。96年から森林保護政策が始ま って開拓ができなくなってしまった。99年には20戸がのちのダクイン社に土地を 32)ドゥクチョン県タイン社,タナン社のチュルー族全部がドンジュオン県のタインミーの 戦略邑に入った(タナン社M村 チュルー族男性1966年生)。 229
探しに行った。そんなだから,自分も最初はトウモロコシ栽培をしていたが,トウ モロコシ価格が低迷して生活できそうもなく,ここ2年でコーヒーを植えている。 今は土地が足りないから,みんな背負い籠や莫産を織ったり,働きに行ったりして 収入を補っている。 [ポイント] Stage 2では,同じ戦略邑内を分割した状態で,チル集団とコホー族,マラヨポ リネシア語族のチュルー族との混住があったことが記されている。そして宗教によ る境界の存在によって,一つの戦略邑での混住でありながら,チル集団と,コホー 族チュルー族の二つに分かれて居住していた。 Stage3では,チル集団と交流のある,言語が全く異なるチュルー族との通婚は共 通する宗教によって民族間の垣根が低くなっていることを示す。合作社が組織され, 耕作地は部分的に収用されている。 Stage4では,トウモロコシからコーヒーへの生産物の転換,あるいは副業という 収入源の一般化が語られている。 4 ドラン市カルキル(Kal Kill)村(男性1955年生) Stage 2一ジュネーヴ協定後 ドラン市にはもう一つ少数民族のハマニャーイ村(Hameau N’Hai)33)があるが, あそこはコホーだ。我々チルとは違う。我々はクロンブラ(Klong Blah)山のカト ック(Ca Toc)というところから,この村から500メートル離れた丘陵部にあるカ ルキル戦略邑に1962年から1963年に移動してきた。75年まで戦略邑は存続し, その間植えたのはトウモロコシだけだった。 Stage 3一革命後 1978年,政府の下山勧奨で,下山。今の場所に移動した。下山はしたものの土地 は各自で開拓したので各戸土地所有面積は異なる。78年から生産集団が組織された。 1村まるまる1集団になって,畑作地を全て水田に転換した。丘陵部は各戸が自主 耕作で,トウモロコシやキャッサバを栽培していたよ。81年に生産集団3っで合作 社が作られた。残りの2集団はキン族だ。3集団で8産出隊が組織され,我々は第 5,第6隊だった。だいたい6ヘクタールの水田を50−60人の主労働者で水稲耕作 33) ダニムダムの影響で移動してきたコホー族集落。水稲耕作を行わず,現在柿を栽培して いる。
をしていた。丘陵部は相変わらず自由耕作の状態だった。キン族と一緒に働いたけ ど,交流が深まって結婚なんてことはなかったなあ。 Stage 4一ドイモイ後 1987年,合作社は解体され,土地は元の所有者に返還された。水田はまた畑に戻 したよ。今は柿(2002年開始)と野菜,トウモロコシ,コーヒー(2005年開始) などを作っている。1999年には土地利用権権利証が発行された。丘陵部は土地利用 権権利証も何もないからどうなるんだろうか。子供がたくさん生まれるから慢性的 な土地不足だ。だけど,雇われ仕事は不足していないので,働きに行こうと思えば いつでも働きにいけるよ。1日7万ドンから9万ドンは稼げるからな。婚礼は,今 3千万ドンはかかるだろうから稼いでおかないと大変なんだ。 [ポイント] Stage2では,戦略邑への移住はされているものの,商品作物への転換はなく,ま た他の集落との混住もなかったという点は,他の戦略邑とは異なる。Stage3で,ト ウモロコシ栽培から水稲耕作への転換が行われたが,丘陵部での耕作が自由であっ たために土地開拓権は喪失しなかったといえる。また,生産集団組織時に他民族で あるキン族との交流があった。Stage4では,焼畑耕作は消え,定耕定居し,商品作 物を作る。人口増で土地不足の解消策として,副業として賃金労働が選択されてい る。 5 カド社 カド社には9村あり,そのうち5村が少数民族の村である。以前はチュルー族の カド村しかなかった。現在の旧カド村である。残りの4つの少数民族の村のうち, 3つは1960年ダニムダムの建設によって移ってきた。(表3参照) 表3 ダニムダムの影響を受けた村34) 行政単位 村名 6P(・1960) Dapla Quang La L合m shuyen Dran Da Dinh
Th6n(1960・) Quang hiep Nghi Hiep Nam Hiep
KaDσm6i
Taly民族 キン チュルー チル
34)ダニムダムの建設によって,原住地が水没し,移住を余儀なくされた村である。
1994年に新カド(KaDσm6i)村は住民の宗教の違いによって分割された。現在 はC.M.A信徒の新カド1村,セブンズデー・アドヴェンティストの新カド2村に分 かれている。タリ(Taly)村は現在,タリ1村とタリ2村に分かれている。タリ1 村がダニムダムの建設により原住地が水没するという影響を受けた村で,タリ2村 は革命に参加した村だから,全く関係はない。2003年から2007年に44.6ヘクタ ールを開拓し,そこへ旧カド村から69戸が移動している(2003年)。現在はラック スアン(L4c Xu盒n)社がそこを管理し,米,キャッサバ,ジャックフルーツなどを 作っている。 タリ1村,タリ2村ともに貧しく,貧困戸だが労働者がいて責任能力がある戸93 戸に対して林業会社(旧国営林業公社)が森林管理を委任している。1戸当たりだ いたい20ヘクタールを管理している。 (1)タリ1村(1952年生 男性) 現況 タリ1村には99戸514人いるが,15戸はキン族である。キン族は同じ宗教であ る。ここではトウモロコシのほかに,水稲耕作もしている。そのほかにトマト,豆, 株などの野菜も栽培している。 Stage 1一ジュネーヴ協定前 私の故地は現在ラクユオン県の山奥にあるボンドゥ(Bon Du)で,ボンロム(Bon Rom),ダブラ(Da Blah),リエンボン(Lieng Bong)と同じところが元だ。1945 年に生活のためにボンダボ(Bon Da Bσ)にきた。1952年,さらに生活のためにボ ンマンリン(Bon Mang Linh)に移動。この頃は,焼畑で陸稲を作っていた。 Stage 2一ジュネーヴ協定後 1954年,コホー族の地主で,フランス政権に参加していたラックスアン社のラブ イ(La Buye)出身のトープロンヒウ(T6 Prong Hiu)の招きで下山し,ダディン (Da Dyng)で集中居住をしはじめたんだ。そこにはソケット(Soket)村やチョ リエン(Chσri6ng)村があった。ここに降りたときは12戸が皆,生活用品の米, 甕,首飾り,鉦,布,莫産,籐,斧,かぼちゃ,水牛,ヤギ,鶏・… を全部持 ってきたんだ。莫産や背負い籠はチュルー族との米との交換に使ったよ。そういえ ば,トープロンヒウもC.MA信者だった。我々も57年には改宗したな。ダディン には58年には教会が建てられたよ。1961年,ダニムダム建設のため,カドに再度
移住。現在いるところだ。全部で30戸移動したが,来たときは地面が平地で,道 路が整備されているだけだった。周囲は森だったので自分たちで開拓した。補償金 は4,500ドンだったから,水牛3頭は買えたよ。豚や牛を飼いだしたのもこの頃だ。 まだ皆共同で開拓もしていた。ここには戦略邑は作られなかったな。集落が散居で 集められなかったんだ。戦闘もなかったよ。 Stage 3一革命後 1976年から生産集団が組織された。4ヘクタールの水稲耕作(2期作)をしてい たが,収穫が悪かった。そのため管理下になかった丘陵部のトウモロコシで生きて いた。生産集団は成果がないので79年に解体され,土地は元の所有者であるコホ ー族のカブロン(K’Brong)に返却された。 Stage 4一ドイモイ後 90年代に入ってから野菜を作り始めた。97年には国の森林保護政策で,国営林 業公社と契約して,以前の開拓地に松を植林している。そして森林育成保護費とし て3ヶ月に1回,80万ドンを貰っている。 現在の婚姻一通婚事例と土地の分配 村内ではチル以外との結婚事例が6つある。チルの男とチュルーの女が2例,チ ルの女とチュルーの男が2例,チルの女とコホーの男が1例,チルの女とキンの男 が1例だ。どれも最近だよ。それまではなかったと思うが_。土地は今親が管理し て娘たちが結婚したときに分けてるよ。もう昔のように長老の許可はいらないなあ。 [ポイント] Stage2では,移住してきたのに耕作地の制限もなく,農業生産物もトウモロコシ のままで,作物の転換もみられない。Stage3では,平地部分については土地収用が あり,そこで水稲耕作への転換が行われた。しかし丘陵部では自由に開拓地がある 状態である。Stage4になると,さらに生産物は変化し,商品作物が主流となった。 一方で開拓は制限されている。 (2)タリ2村(1946年生 男性) 現況 タリ村は元々,ここが起源なのだ。それがここがタリA村とも呼ばれる所以であ
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る。 Stage 1一ジュネーヴ協定前 ここは元々ルハンドンカープロン(Rhang Dong Ka Ploung)が起源だ。ハマニ ャーイ集落の近くで,5−6戸しかなかった。1950年,6戸がここに来た。そして 政府の許可でここを開拓したんだ。その頃は焼畑で陸稲,トウモロコシを作ってい たよ。土地もリネージごとに管理していたんだ。 Stage 2一ジュネーヴ協定後 1958年にはC.M.A.の教会が建設されたよ。1964年,政権が共産側から隔離する ために戦略邑を建設した。ハマニャーイ集落15戸と我々タリ22戸は一緒の戦略邑 に入った35)。タリの中にリエンボンの人たちが7−8戸紛れ込んでいる。59年ごろ タリに来た人たちが一緒に来たんだよ。近くを開拓し,トウモロコシを作った。1968 −69年戦闘が激しくなって2−3度攻撃を受けた。1970年,ここから800メートル 離れた新カド村に移転した。でももう戦略邑は再建されなかった。 Stage 3一革命後 1975年,リエンボンの人たちがダーロン社のS−A1村,2−3戸がカルキル,2− 3戸がハマニャーイ村に移動した。現在,リエンボンの人たちがダーロン社のS・A1 村のタリBグループを形成している。 78年に生産集団が組織された。1村で1集団だった。水稲とトウモロコシ,竹を 作った。78年から80年は収穫もよかった。81年に収穫が悪くなり83年に解体。 85年には新カド村から人民委員会の許可を得て36戸が以前村のあったところに戻 った。ここが旧タリ村とも呼ばれる所以だ。土地は旧所有者に返還されたが,当時 は16戸しかなかったので,戻ってきたのは16戸分のみ。そのため持たない戸に対 しては持っている戸16戸が土地を分配した。生産集団の期間に水稲耕作が好きに なった人は,ここでも水稲耕作をし始めた。 Stage 4一ドイモイ後 88年に定耕定居政策でコーヒー苗の供与と技術支援が始まった。90年から92年, 35)他の男性からの聞き取りでは戦略邑の概要は以下の通りである。戦略邑名:カド戦略邑, 構成集落:ハマニャーイ集落,タリ(A)集落,クロン(Klong)集落,クナム(K’Nam) 集落,ダディン(Da Dinh)集落。うち,クナム集落はチュルー族である。
トウモロコシ,米の収量が落ちてくると,皆コーヒーにどんどん転換していった。 97年には野菜栽培が始まり,豆,トマトなどを作っている。コーヒーを始めてから 共同作業は消えてしまったな。 [ポイント] Stage2では,戦略邑で類似言語を話すコホー族スレ集団と混住していた。生産物 はトウモロコシである。Stage3では,土地が収用され水稲耕作が行われた。生産集 団の組織は1村1集団だったので,他の集団との交流はほとんどなかった。Stage4 で,コーヒー,野菜という商品作物の生産が主流になる。焼畑耕作の収量が共同作 業の消滅であるという。 以上が今回入手できたインフォーマントからの調査結果である。5社6地点にお けるインフォーマントからの聞き取り内容を筆者の変動過程モデルに合わせて時代 ごとに,記述した。また政治的・経済的変化のポイントになる点について,わかり やすいように,[ポイント]の項を立ててStageごとに記述した。 IV 分析 上述の各地の聞き取り内容,特にまとめたポイントを参考にしながら,表4を作 成した。以下では,表4を使用して筆者のモデルと比較分析をする。表の比較項目 は各ステージでの政治的・経済的変化の特徴であり,インフォーマントからの聞き 取り内容と,筆者のモデルの政治的・経済的変化の特徴がドンジュオン県の各調査 地の特徴と共通することを確認する。○は該当するもの,△は半ば該当するもの, ×は全くみられないものを意味する。 Stage2:ドンジュオン県以外の調査地域では,マラヨポリネシア系の民族である チュルー族とモンクメール系の民族であるコホー族,チル集団などが一つの戦略邑 を形成したことはなかった。しかしドンジュオン県の調査地6点中3点におけるイ ンフォーマントによれば,混住を経験し,その後再度住み分けをしている。 混住が他民族との通婚数に影響しているかどうかについては,注記に示した数で わかるように現状では全く数値が異なる傾向を示している。筆者のモデルでは,次 第に先住民との婚姻が増えていく傾向にあった。しかし現段階のデータで,少なく ともダホア村は逆になくなるケースである。ダホア村のチル集団によれば経済的地 位で先住民チュルー族と逆転した結果,士地を守るために婚姻紐帯の拡大一具体的 235
にはチュルー族との通婚一がないと言う。このダホア村の事例が特殊なのか,ある いは詳細に調査すると通婚の事例が出てきて筆者のモデルと合致するのかについて は,今後の調査の課題である。 表4 モデル及び聞き取り比較表 Stage 村名 S・A1 ダホア クドン カルキル タリ1 タリ 2 モデル 2 チル集落の混住 他民族含 左同 左同 × ○ ○ 耕作地の制限 ○ ○ ○ ○ × ○ 移動 ○ ○ ○ × ○ ○ 作物の転換 △ △ △ × × × 3 合作社政策 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 土地開拓権喪失 ○ △ ○ △ △ ○ 土地所有権危機 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 4 焼畑耕作の禁止 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 作物/生業の転換 △ ○ ○ ○ ○ ○ 土地の各戸分配 ○ ○ ○ ○ ? ○ 注記 他民族との通婚 2 0 6 1 6 ? 事例数 また,カルキル村のように,1集落1戦略邑という形態も珍しく,他集団,他民 族との接触がなかったケースである。タリ1村とタリ2村については評価を控えた い。なぜなら,この時期については両インフォーマントの話は戦略邑の存否の点で 両立し得ない。タリ1村は革命参加者の集落であり,タリ2村はそうでないことに 内容の相違の理由があるのかもしれない。いずれにしろ詳細な調査が必要である。 Stage3:合作社政策により全ての耕作地が収用された村(表4で○),一部収用さ れなかった耕作地のある村(表4で△)がある。しかし合作社政策が土地所有権喪 失に対する危機感を与えたという点で筆者のモデルと一致するとみなしていいだろ う。 Stage4:タリ1村での土地の各戸分配がどのようなものか確認ができていない が,それ以外の地域では,筆者のモデルに合致している。SA−1村ではトウモロコシ が依然として存在するので作物転換に△をっけたが,そのトウモロコシも伝統的な トウモロコシではなく,商品種であるので限りなく○に近い。
以上の通り,調査データの分析結果は,筆者のモデルでの各段階の特徴とほとん ど合致を見出すことができた。 V 分析結果と今後の課題 本稿で,筆者のモデルのべ一スとなる各ステージでみられる政治的,経済的変化 が,ドンジュォン県の各調査地域の個々の変動過程を具体的に把握し分析した結果 と,共通することが明らかにできた。しかし,今回提供したデータ源のインフォー マントは各地域において一人だけであり,また内容にもばらつきがある。今後は, まず調査データを増やし,本稿の結果を補強していきたい。また,今回収集した婚 姻データは未だ不完全なものであり,今後に大きな課題を残している。 第1の課題は,上述した,Stage2におけるダホア村の他集団,チュルー族との婚 姻関係の有無については,詳細な調査が必要である。 それと同時に,同じくStage2の異言語集団同士の通婚事例数を調べることもも う一っの課題である。筆者の今までの調査地では,戦略邑では異言語の民族集団と の混住はなかった。しかし,ドンジュオン県では異言語集団同士の戦略邑が形成さ れているにもかかわらず,例えばS−A1村では通婚事例が少ない。これが事実かど うか詳細な調査が必要である。そして,戦略邑解体後,原住地のカインホア省に帰 ってしまった,混住していたラグライ族等との通婚状態も確認の必要がある。 第3に,ダホア村での聞き取りにあるボカバンの事例である。他地域の事例では, 仮に土地所有が全くないという家庭があってもそれはボカバンのように,大規模な もの,集団ではなかったため,例外として扱うことができた しかし,ドンジュオ ン県のボカバンは,行政機関の指導による移住で生まれた村の成員が,土地ではな く,労働者の地位を選択している。これは筆者のモデルで将来につながる主張であ った「土地確保の目的とする婚姻紐帯の重要性36)は,変わらない」のべ一スである 土地確保の欲求自体が消滅していることを意味し,従って将来的に婚姻紐帯の必要 性がない可能性を示唆しているのである。つまり,筆者のモデルのStage 4の次の Stage 5として,ボカバンのような事例が…般的になる可能性を秘めているからで ある。 以上のように今回の調査で,新たな課題が見つかった。今後は,ドンジュオン県 36)本稿1章で説明したように,婚姻紐帯はリネージ間の土地使用貸借の前提条件になって いると同時に,婚姻,子の出生によって,妻側のリネージからその家庭に対し耕作地が 分配されるシステムの基盤であった。 237
でみられた現象が筆者の他の調査地域で新たに起こっている現象であるのか再度確 認しながら,新たな課題を解決し,筆者の社会変動モデルー婚姻連帯拡大モデルー をさらに精査し発展させていきたい。 参考文献 Nguy6n Httu Tranh 1 ア 1 ノ 2001 ρ2Lqt刀五1ηxtra. Thanh ph6 H6 Chi Minh:Nh盒xuat ban Thanh ph6 へ H6 Chi Minh.(かつてのダラット) Phan XuAn Bi6n 1 へ ぐ 1980 Ve Ngu△i Tσring, In GoZフ Ph∂n鳩力ゴ6刀cth u bdin k−nh bdn 8δ60∠o dEn t6c∂ 防ξεNam, edited by Vi6n d盒n t◇c hOc, pp.308−314, Ha N◇i:Nha xuat ban Khoa hoc Xa h6i.(トリン人について) Tran cam 1983 Hinh th6i nh良σvA cu tr丘cUa c益c dAn tφc L合m D6ng, In Vdn dE dEn tφ c 1 , ’ s OLえ1ηD6ng, edited by Mqc Du∂ng, pp.169−188, Thanh ph6 H6 Chi Minh:S6 V5n h6a Tinh L合m D6ng.(ラムドン省の各民族の居住と家屋 の形態) Uyban nh合n d盒ntinh LAm D6ng 2001 Dia ChiLtim Dδng, H盒NOi:Nha xu査t ban Vin h6a d盒n t△c. (ラムドン 地誌) 本多守 2006 「ベトナム・チル集団の婚礼の変容 花婿代償を中心に」『白山人類学』 9:19・40. 2011 『ヴェトナムのコホー族 チル集団の社会と儀礼の変容』東京:風響社. インターネット資料 Hoang Nam 2002 Hinh anh c6ng d6ng 54 d合n tφcVi飢Naln, http:〃cema.gov.vn/modules.php?nameニContent&op=viewcat&mcid=124 (ヴェトナム54民族共同の形影,民族委員会電子ニュース)(参照2008・07・09). s Sσkhoa hgc vA c6ng nghe L合m D6ng − Thong tin khoa hOc c6ng nghe phUc vU n6ng nghiep, n6ng th6n
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