東南 アジア研究 15巻 2号 1977年 9月
「
原 住 民 委 員 会」 を め ぐ る 諸 問 題
一支 配 と抵抗 の様式 に関連
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TsUGHIYAIn July 1913,the "Comite BoemiPoetra"("Committeeof IndigenousSons") publishedapamphletconsistlng Ofanarticlewritten in Dutch,entitled HAIsik eens Nederlanderwas"("IrlwereaDutchman"),and itsMalaytranslation. Theauthoror thisarticlewasSoewardiSoerjanlr)grat,anationalistwriterfrom anaristocraticfamily in centralJava. Hc and hisfriendTjipto Mangoenkoesoemo,anationalistmedical doctor,hadorganized theComitein order propagandizeaganisttheDutch centennial celebration ofHolland'sindependence from Napoleon'sdominion. Activitiesofthe
Comi
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e,particularlySoewardi'sarticle,wereachallengetoDutchlegltlmaCytOruleovre Dutch EastIndies,orthepresenトday lndonesia・ Thecolonialgovernmentreacted promptlyandcaptured notonlytheComite'smembers,includingTjiptoandSoewardi,
butalso DouwesDekker,a Dutchjournalist,who wassuspected ofbeing themost dangerouscharacterbehind thesccne・ Thesethreewerebanishedfrom thecolonyln September1913.InthehistoricalliteratureofthenationalistmovementinIndonesia,thiseventhas neverbeen illustrated asmorethanamereHepisodeHshowingasignOrradicalism,a kindofforerunnerofIndonesian independence. ThisisbecausetheComile'sactivities,
viewedatthattime,hardlyhad anysigniicfantinnuenceupon themainstream ofthe massmovementinJavaviz.the SarekatIslam. However,irweconsidertheevent withrespecttotheDutch attitudetowardsitontheonehand,andtoSoewardi'sidea advocatedinthearticleontheother,wecanthen understandthesignificantcharacteris -ticsofthestyleofDutch ruleoverthecolonyaswellastheJavanescstyleofresistance toauthority.
Thisarticleattemptstocharacterizethestyleoftherulersaszakclljkheidandthestyle ortheruledasSemar-〃es∫. "ZakelljkheidisavirtuallyuntranslatableDutchwordrough ly covering theideasofefhciency,businesslikepracticalityand unsentimentalprecisionH・ Thecolonialgovernmentemployed theconceptofzakelljkheidindealingwiththeevent.
Thisshowshow essentialtheideawasfortheDutchingovernlngthecolony・ Toresist the2:akelb'khcid,Soewardiutilized oneof-the mostpopular丘guresin awayangstory
,
Semar. Semarisaclownwhosometimescriticizesthesatria(aristocracy)class;heisat thesametimeamanifestationofagod and issentdownsothatgod'Swillwould be realizedinthisworld. Thus,accordingtothewaJangStory,Semarisasymbolofsarcasm and disgulSe・ ThetitleHIfIwerea DutchmanM indicatesthatSoewardidisguised himself-asif-hewereaDutchman and thecontentsof.thearticlearefullofsarcasm agalnSttheDutch conceptofzakelljkheid., ThisinsomewayshowsthatSoewardiis probablythefirstIndonesian nationalistwhoemployedhisowncultureandsymbolized itintheresistancetocolonialism.
東南 アジア研究 15巻2号 は じ め に
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年 にオ ランダ植民地政府 はジ ャワにおいて ナポ レオ ン支配 か らのオ ランダ解 放を記念す る1
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周年 の祝典を行 な った。 この祝典 の計画 に対 しチプ ト ・マ ンダ ンクスモ とス ワルデ ィ ・ スルヤニ ング ラッ トの二賓年を中心 に幾人かの原住民 の知識人 たちは 「原住民委員会」を結成 して,式典 の計画を批判 した。政庁 は彼 らを逮捕 しジャワか ら追放す ることによって反政庁の 気運が拡大す るのを阻止 したが, チプ トとスワルデ ィおよび彼 らとと もに反政庁活動の科 に問 われて追放 され たデ ッケルの三名の名はそ0)後民族 主義者 のRT-Jで抵抗運動の先駆者 として記憶 に とどめ られ ることにな った。
事実 このT
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雄 二は今 世紀初頭
か らジ ャワを中心 に展開 して きたイ ン ドネシア民族主義運動 のなかで植民地支配 の正 当性を公然 と否定 しその不 当性を唱通 した最 初 の事件であ った。 しか しこの事件 その ものについて の研究 は従来み られない。 それ は一つ に は事件 の規模が小 さ くその直接的な影響力が狭 い範囲に とどま ったためであ り,一 つ には民族 主義運動の主要な流れがブデ ィ ・ウ トモか らイス ラム同盟へ と向か うこの時期 において彼 らが 拠 った東 イ ン ド党の意味がその主流 のはざまにおち こんで しま うとい う特殊性を もっていたか らであろ う。 故 に この事件 はいわば一つのエ ピソー ド以 上 に記 され ることはなか ったのであ る。 この事件 の 引き金 とな ったのはス ワルデ ィが1
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年7
月 に記 した-論文であ ったが, この論 文 に対す る政庁の対応 とこの論文 その ものの内容 とを吟味す る と, そ こにはオ ランダの植民地 支配の様式 とそれ に対抗す るジ ャワ日射酎直観 の株式 とい う, イ ン ドネ シア民族運動史 と民族思 想史の本質 にかかわ る問題が表 出 されてい るよ うに思われ る。 そ して, その ことによ って この 事件 はたんな るエ ピソー ド以上の意味を もって くることにな る。 本稿では先ず事件 にかかわ る主要 な人物 につ いての履歴を略記 し次 に事件 の概要を記す。最 後 にすで に述べ たよ うな視点 か ら政庁の対応 とス ワルデ ィ論文 の内容 について検討す る。なお 本稿 は後 にス ワルデ ィがその主宰者 とな るタマ ン ・シス ワ民族教育運動 に関す る研究の一環を なす ものであ る。 1 前 史「
原住民委員会」が結成 され るまでの三名の生いたち と彼 らの活動を概観す ると次 の通 りで あ る。 (- ) ダ ウェス ・デ ッケル (1
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ダ ウェス ・デ ッケルは1
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年東 ジ ャワ北 部の港湾都苗パ スルア ンにオ ランダ人の父 と, ドイ 132土産 :「原住民委負
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」をめぐる諸問題ツ人 とジ ャワ人 の 混血 児 の 母 との問 に生 まれ た 。1) ムル タ トゥ リの筆 名 で 小 説 『マ ックス ・ハ - フ ェ ラ- ル 』
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年 ) を 発 表 し, 当 時 ジ ャ ワを 中心 に展 開 され て い た 「栽培 制 度 」 の実態 を暴 くこ とに よ っ て オ ラ ン ダ 本 国 に強 い衝 撃 を 与え た エ ドゥアル ド ・ダ ウ ェス ・デ ッケ ル
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は, この ダ ウ .tス ・デ ッケ ルの大 叔 父 に 当 た る人 物 で あ った。2)バ タ ヴ ィア (ジ ャカル タ) の オ ランダ人 高 等 学 校 を卒 業 後, コー ヒー農 園 や砂 糖 工 場 に勤務 したが, ボ ー ア戦 争
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が勃 発 す る と と もに志 願 兵 と して南 ア フ リカ に渡 り対 英 戦 争 に参 加 した。 の ち捕 虜 とな りセ イ ロ ンで2
年 間 を獄 中で過 ご し,1
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年 に ジ ャワへ 戻 った。 そ の後 は ジ ャワ島 の各 地 で新 聞記 者 な い し編 集 者 と して の 生 活 に 入 り 『ス ラバ ヤ商 業 新 聞』
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,『ロ コモ テ ィ フ』(
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,ス マ ラ ンの 日刊紙 ), 『バ タ グ ィア新 聞』(
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等 に勤務 す るか たわ ら, 小 説 『ジ ャワ人 シ モ ンの本』
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を 執 筆 した り 『新 アル ンヘ ム新 聞』(
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に一 連 の論 文 『オ ラ ンダ は いか に して そ の植 民 地 を もっ と も早 く失 うことがで きるか
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?) を 寄 稿 した り した。 彼 の思 想 は 強い 反 西 欧 的感情 に支 え られ た もので あ り, オ ラ ンダが東 イ ン ドで 混乱 を 回 避 す る唯 一 の道 は, 教 育 の機 会 を拡 大 し道路 や 濃概 設 備 を 整 え, また地 方 分 権 化 を促 進 す る こ とを骨 子 とす る倫 理 政 策 を 推 進 す る こ とで はな く, 東 イ ン ドの 自治政府 を承 認 す る こ とで あ る と主 張 す る もの で あ った。 その 当時, ジ ャワ医学 校(
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は今 世紀 初 頭 の若 い知 識 人 が東 イ ン ドの各 地 か ら集 い 討論 を す る格 好 の場所 とな って い た。 そ こへ は1
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年 に 申 ジ ャワか らワ ヒデ ィ ン医 師(
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が 訪れ, 当時 医学 校 の学 生 で あ った ス トモ(
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に大 きな影響 を与 えて い た。3) -リアまた デ ッケ ル の住 屈 は 当時 医学 校 か ら歩 い て行 け るI)デ ッケルの蛙涯について手際良 くまとめられた論稿 として次の ものがある。本稿で扱 ったデ ッケルの略 歴はそれに従 っている。VanderVeur,P.W . "E・F.E.DouwesDekkerEvangelistforIndonesianPoli -ticalNationalism,"TheJournalofAsianStudie∫,Vol.17,1958,pp.55ト566.
2)ムルタ トゥリ (ダウェス ・デ ッケル)への関心はオランダで今 日なおひじょうに強い。ムルタ トゥリの 生涯 と彼に対する評価について次の もの は蘭 にして要を尽 くしている。G.Termorshuizen,HPenda -huluan",(Multatuli,M axHavelaar,translatedbyH・B.Jassin,Jakarta,1973,pp.VII∼XVIH). 3)この間の事情 と当時の状況を詳細に伝えるものとして永積 昭の次の二著作がある。
永横 昭 『東南アジアの価値体系2 インドネシア』現代アジア
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Hll版会,1970,pp・8ト147・;Nagazumi, Akira,TJleDawnoflndone∫ia,!NalioTlaliSm,TheEarlγYearsqftheBudiUtomo,1908-1918,Tokyo,1972, pp・26-50・ス トその人 と思想については彼 自身の自伝 ,伝記 ,ならびにストモ,チプ ト,スワルデ ィについてす ぐ れた比較研究を試みたサヴィ トリ・プラスティティの論文がある。グナワンの人と思想についてはス ト モがその自伝の中で10ページに わ た って "生 涯の盟友〝として回想 しているoR.Soetomo,Kenan g-Kenangan, Surabaya,1934?;Imam Supardi,Dr・Soetomo,RiwajatHidup daTIPerdjua71gannja,Jakarta, 1951.;SavitriPrastitiScherer,HarmoTZJaTZdDiJ∫017anCeI EarlyNationalist7720ughtiTtJava、M .A.Thesis
東南 アジア研究 15巻2早 距離 にあ り,何 人かの医学生 はデ ッケルの助言を求 めて頻繁 に行 き来 したため にそ こはあたか も彼 らの "読書室兼 図書 館兼 クラブ- ウス〝4)の観 を呈 した とい う。 ス トモ は 後 年 にその当時 を回顧 して 「ブデ ィ ・ウ トモ設 立 当時, われわれ はダ ウェス ・デ ッケル氏 か ら少 なか らざる援 助 と影響 とを受 けた。彼 はバ タグ ィア新聞の編 集者 と して われわれ の精神を ひ ろめて くれ た。 わ た しと彼 の関係 はたい-ん密接 な ものであ り彼 の家- は木戸御免 で訪ね ることがで きた。ダ ウェス ・デ ッケル氏 はその理想をやがて 自 ら政党を結成す る ことで実現 しそ して それ はわれわ れ の容れ る ところ とはな らなか った けれ ど も,彼 はつね に誠実 に新聞紙 上でわれわれを助 けて くれ た。」5)と述べてい るが, デ ッケ ルはス トモやブナ ワ ン等 の結成 当時 のブデ ィ ・ウ トモを 中 心的 に担 うことにな る学生 たちに,一定 の感化 を及ぼ して いた。 しか しその感化の 内容 は, ワ ヒデ ィン医師が彼 らに及 ぼ した もの とは決定 的 に異 な って いた。 それ は ワ ヒデ ィンが ジ ャワ文 化 のす ぐれ た体現者 と して映 じてい た6)の に対 しデ ッケルが 「政治的な福音 の伝導者
」
として 映ず る とい う相違で あ った。1
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年 か ら1
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0年 にか けてデ ッケ ルは 自らの相続権を め ぐる裁 判のために ヨー ロ ッパへ 出か けたが帰 国後バ ン ドゥンに居 を構 えて文筆 活動 よ りも政治活動 に力を入 れ るよ うにな った。彼 は,先ず オ ランダ人 の親 睦団体 として1
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年 に設立 され た 「束 イ ン ド団 体」(
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のバ ン ドゥン支 部 に加入 しこれを政 党組 織 に変革す る ことを画策 した。彼 が唱導 したのは東 イ ン ドに居住 す るすべて の住民 が参 加 しうる政党束 イ ン ド党 を結成 し,東 イ ン ドを祖 国 とす る全 て のtF_民 の独立を獲得 す るとい うこ とであ った。7) 彼 はそのために1
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年3
月 『デ ・エ クスプ レス』紙(
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を創刊 して彼 の主 張を掲 げ, と くに 「東 イ ン ド団体 」を編 成替 え して これを政党 とす る ことを強調 しそのため に同年9
月半 ばにはバ ン ドゥンか らジ ャワ各地へ宣伝 に赴 き各地 で 支 持 者 を 組 織 し,1
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年12月25日にはバ ン ドゥンで東 イ ン ド党を正式 に結成 し た。 結成大 会で はその党 の綱領 の第二条 に先 にのべ た よ うに東 イ ン ドの独 立を 目ざす ことを掲 げたが, 当時, 彼 の主 張 に もっと も強い支持 を与 えたのは, 混血 児(
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であ り,オ ラ ンダ人 中国人 の共 感を呼ぶ ことは ほ とん どなか った01
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年3
月 に党r
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を数えたが その 内 4)永積 昭 「プティ ・ウトモの成立と発展(- )」r
史学雑誌』第76編,
第 2号,1967,p.9. 5)R.Soetomo,o
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cit.,p.86・ 6)ワヒディンがどのような意味でジ17ワ文化の体現者であったのかについては,永積 昭の前掲書 (とく に 『価値体系』)に生き生きと描き机されている。なお,ス トモの自伝と永 続 昭のプディ ・ウトモ研究 およびプラスティティの研究の成果とを用いて,ワヒディンとス トモの出合いを考察し,もって世紀初 頭の民族主義主義者にとって民族主義が彼らの 「あけぼの」となりえた理由を洞察したす ぐれた論稿と して,次のものがある。BenedictO'G・Anderson,A Timeof Darkne∫∫anda Timeof LightI Tran∫ -posiiitoninEar:iyZndoTle∫ianNationali∫tThought,PaperfortheCongressofHuman SciencesatMexicoCity,1976.
7) 「東インド党」の成立当時の状況とその綱領ならびにそれに対する政府の対応等については前述のVan derVeurの諭稿の他に次のものが資料を周到 に用いて詳説している。AbdurrachmanSurjomihardjo, "An AnalysisorSuwardiSuljaningrat'sIdealsand NationaトRevolutionaryActions[1913-19221,日 MadjalahIlmu-ilmuSa∫traIndone∫ia,Jld.II,No.3,1964,pp.371AO6・
土産 :「原住民委員会」をめ ぐる諸問題
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人 は混血児,1
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人は イ ン ドネシア人であ った。 結局, デ ッケルの構想 したのは, 混血児 を主体 とす る東 イ ン ドの独立であ り,土着社会で これ に共感 したのは,彼 と個人的な交友 関係 にあ る少数 の人 々に限 られ た。 しか し, その中には, チプ トお よびス ワルデ ィとい う後の民族 運動史 に大 きな役割を果 たす ことにな る二人 の青年が加わ っていた。 政庁 はデ ッケル らが束 イ ン ド党を創立 しこれ に拠 って政治活動を展開 しよ うとした ことに対 し, これを植民地 の秩序 と安寧を脅かす もの と して同党を合法団体 として 認め ることを拒否 し た。 このため1
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年4
月以降,束 イ ン ド覚 はその活動を停止 した。 後述す るよ うにチプ トやス ワルデ ィが 「原住民委員会」を結成す るのは同年7
月初 めであ る がデ ッケル 自身 はそれ以前 に ヨー ロッパへ の旅 行 に 出 発 し9月 初 旬 まで ジ ャワへ帰還 しなか った。「原住民 委員会」事件 はその彼の不在 中に発生 した。 (二 ) チプ ト ・マ ンダ ンクスモ(
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チプ ト・マ ンダ ンクスモは1
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年 中 ジ ャワ北部の ア ンバ ラワで1
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人兄弟 の長男 として生 まれ た。
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) 父は原住民小学校の マ レー語 教師,小学校校長, スマ ラン市の顧 問等を歴任 した下 級官 吏 であ り父方の祖父はイス ラム教師で あ った。兄弟 はいずれ も才 に恵 まれ また両親 と もに教育 熱心であ ったために, チプ ト, グナ ワ ン, プデ ィアル ジ ョ(
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,シ ャムスル ・マア リフ
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の四人 は医学校 に学 び七人 目のダル マワン(
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はオ ラン ダ に留学 してデルフ ト工科大学で化学 を修め カル トノ(
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も高等教育を卒 えた。また 末弟の スイ ッ トノ(
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はバ ダヴ ィア法 学 校 を卒 えた。 この内ブナ ワンは生涯 にわた っ て ス トモの無二 の親友 として彼 の社会 的政治的活動をたす け, ダルマ ワンとカル トノほ1
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年 にスカル ノがバ ン ドゥンに組織 した一般研究会(
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に加わ った。のち カル トノはタマ ン ・シス ワ学校の教師 として民族教 育の発展 に貢献 した。 ブデ ィアル ジ ョ, シ ャムスルおよび スイ ッ トノの三人は医師および法学士 としての仕事 に遇進 し政治活動 に参加す ることはなか ったが, チプ トを長兄 とす るこのマ ンダ ンクスモ兄弟は,次 に述べ るス ワルデ ィ ・スルヤニ ング ラッ ト兄弟 (ス ワルデ ィとスル ヨプ ラノ ト) とともに,独立以前 の ジ ャワの民 族運動史上で もっとも光彩 を放 った兄弟であ った。 チプ トは幼少 の頃か ら不嶋の性格で1
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年 には ジ ャワ医学校を優秀な成績で卒 えたが,在学 当時か らひ とりとじこもって読書 と思索 に時をす ごす ことを好んだ。また, 自らを オ ランダ風 の 生 活 株 式 か ら もジ ャワの貴族 (プ リヤイ) の生活様式か らも柏隔てて, もっぱ ら 「クロモ (貧民)の子であ る」 ことを強調 した。 ジャワの初期の民族主義者の内, チプ トとス ワルデ ィ とス トモの三人 についてす ぐれた比較研究を行な ったサブ ィ トリ ・プ ラステ ィテ ィはチプ トの 8)チプ トの略伝には先のプラスティティの研究の他に次の伝記がある。東南 アジア研究 15巻2早 思想 的立場 を 「異議 申立人」9)と規定 して い るが, いか に もチプ トは 植 民 地政庁 とジ ャワの貴 族社会 に対 してつね に激 しい敵意を燃 や してい た。 その点 でデ ッケル とチプ トとは ま った く合 致 していた と言 え る。 ス トモの回想 によjlば チプ トはその激 しい正義感 と羊蹄 な批 判精神 によ ってつね に仲 間 たちに畏敬 の念を 与えていたが それ ゆえにまた孤独で桐介な 人物 と して 人 々の 目に映 じて いた とい う。10) 医学校を卒 業後 チプ トはただ ちに医師 とな ったが, 当時 たまたま東 ジ ャワのマ ラン地方 にペ ス トが発生 した際 に 自 ら志願 して その撲滅 のため に赴 き, その行 為 によ って ジ ャワのオ ランダ 人 の問 にその名 を大 い に高 めた。 その後 ブデ ィ ・サ トモが設立 され る とと もに これ に参加 しその初代 の理事 の一人 に選 ばれた がブデ ィ ・ウ トモの主 導権が 中 ジ ャワの貴族 層 の長老 の手 に移 って い くの に反対 して1908年10 月 には早 くもブデ ィ ・ウ トモか ら離 れ, その後 は次第 にデ ッケル との関係を強 めて い った。11) (≡ ) ス ワルデ ィ ・スルヤニ ング ラ ッ ト(1889-1957) ス ワルデ ィは1889年 にノヾク ・ア ラム家 のパ ンゲ ラン ・スル ヨニ ング ラ ッ ト(PangeranSoe r-joningrat)の次男 と して生 まれ た。12)父 は当時 のバ ク ・ア ラム家 の当主バ クア ラム第五世 の甥 にあた って い たが経済 的 に不遇 で あ りそのため ス ワルデ ィと兄 の スル ヨプ ラノ ト (Soerjopr a-noto)の 両 名 は当時 のプ リヤイの エ リ- トコ-スであ る ItBIS・(オ ランダ式高等 学校)へ行 かず に専
門
技術者 とな る道を選 んだO か くて ス ワルデ ィは医学校へ スル ヨプ ラノ トはボゴール の農学校 に進んだが, ス ワルデ ィ自身 は学費不如意 のため中途退学せ ざるを えなか った。 医学 校を 中退 した ス ワルデ ィは1910年 の 1年間を 中 ジ ャワのプ ロポ リンゴの砂糖工場で書 記 として 働 き1911年 には ジ ョクジ ャカル タへ移 って そ この製薬工場 で働 いた。 その当時か らス ワルデ ィ はい くつか の新聞や雑 誌 に投稿 した りその依頼 で記事 を苦 いた りしてい たが, それ に注 目した デ ッケルの要請 で1912年 にはバ ン ドゥンに移 り 『デ ・エ クスプ レス』等 の 日刊紙 の専任編集者 とな った。 ブデ ィ ・ウ トモ とス ワルデ ィとの関係 はチプ トの場合 と同株 に当初 これ に参加 し初代 の書記 として積極 的 に活動 したがやがて (1908年 中には) そ こか ら離れ,バ ン ドゥンに移 って以降 は デ ッケルの影響 で東 イ ン ド党 の設 立 に参 加す る一方, イス ラム同盟のバ ン ドゥン支 部長 とな っ た 。 9)S.PrastitiScherer, op.cil.,p・102・ 10)R・Soetomo, op・cit・,pp・82-85・ なおス トモはこの回想記の中で,チプ トが盟友グナワンの死で悲嘆 にくれていた1929年当時にそのス トモを評して 「まるでワヤンの人形が人形遣い (ダーラン)に先立た れたような有様だ」とのべたことをイ云えている。(同書95ページ)ス トモはその比晩を 「言 い得て妙」 と述懐 しているがそれにしてもチプ トの批評はス トその胸にきびしくこたえた様子がうかがえる。 ll)この間の事情は永積の前掲書のいずれにも詳説されている。 12)スワルディの略歴はプラスティティによる。S.PrastitiScherer, op.cit.,pp.60-64. 136土屋 :「原住民委員会」をめ くする諸問題
Ⅰ
I
「原 住 民 委 鼻 会」
事 件 の概 要(1) 事 件 の 概 要
1913年
7
月 初 めバ ン ドゥ ンで 「オ ラ ンダ解 放 100周年 記 念 の た め の 原 住 民 委 員 会」 (HIn-1andsch ComitetotHerdenkingvan NederlandsHonderdjarigeVryheid")な い し 「原 住 民 委 員 会」 ("ComiteBoemiPoetra")と名乗 る委 員 会 が 結 成 され た 。
7
月8
E]Oj 『デ ・エ クス プ レス』紙 が この 「原 住 民 委 員 会 」 の発 足 を 宣 言 し,4
日後 の1
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日に は 同委 員 会 のパ ン フ レ ッ ト第 1号 が 発 行 され た。13)このパ ンフ レ ッ トは, 先 ず , 委 員 会 の構 成 メ ンバ ーを 明 らか に し, 次 い で 目標 とす る活 動 の一 端 を 明 らか に した. それ に よれ ば, 同委 員 会 の構 成 員 は, 読 長 チプ ト ・マ ンダ ン クス モ, 副 議 長 ス ヤ テ ィ マ ン ・ス ル ヨ クス モ (Soejatiman Soerj okoe-soemo), 会 計 ウ ィダニ ャデ ィサ ス トラ(A・H・Wignjadisastra), 会 員 ス ラジ ャ夫 人 (Soeradja geboren Oneng), ル ム(Roem), ア ブ ドゥル ・ム イ ス (AbdulMuis), 書 記 ス ワル デ ィ ・スル ヤ ニ ング ラ ッ トの 計 七 名 で あ った。14)ま た委 員 会 は, オ ラ ンダ解 放
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周年 の記 念 式 典 日に ウ ィルへ ル ミナ女 王 に祝 電 を送 る-山方 , 女 王 に対 して1
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年 に制 定 され た 「東 イ ン ド統 治 法」
(111dischestaatsregerir唱)第 111条 の撤 廃 と "東 イ ン ド議 会 〝 の設 立 を求 め る請 願 を 行 な う意 13)事件の概要は当時のプ リア ンゲル州推考昭 ない し剖理事官 ,バ ンドゥン地区検察官 ,束 インド問題顧問 官 らの総督宛公信 ,ならびに総督の本国宛公信等によった。これ らの公信はMailrapportと呼ばれ年号 と番号が付せ られているoまた同種の問題を扱 っているMailrapportは 「一・件書類」(Verbaal)として まとめられている。Verbaalにはそれが綴 られた日付が付せ られている。本稿では先ず Mailrapport の年 号 ・番号を記 し次にそれが何れかのVerbaalに含 まれている場合にはそのVerbaalの日付を記載す る。14)Mailr・No・1695月913(Verbaa125September1913,No・56)・
これ らの会員の内,副議長のスヤティマ ン ・ス ル ヨ ク ス モ は 当 時 B・0・W (Burgerlijke Openbare Werken)という団体の主宰者であった とされているが この B.0.W の主宰者はスタットモ ・スル ヨク スモ (SoetatmoSoeriokoesoemo)としても記 されている。R・C・Kwantes(cd・),DeOntwikkelingvande NationalisiiSCheBewegmg inNederla71dsch-/Tldt'C.Gronlngen,1975p.622. B.0.W.がいかなる団体であったかは明らかでないが ,いずれにせよ, このスヤティマンが後のスタ ットモ ・スル ヨクスモ (1888-1924) と同山人物であることはおそらく間違いないであろう。スタット モほスワルデ ィと同 じバ ク ・アラム家の出 身であ り後 1918年 以 降 「再建」(Wederopbouw)というオ ランダ語の雑誌を主宰 しさらに1920年代初頭にジ ョクジャカル タで結成 された 「スラサ ・ク リオ ン」 と いう団体に入会 しさらに 1922年 以 降 「タマ ン ・シスワ」の議長に就任 している。スタットモはこのよ うに生涯の大半をスワルデ ィと行を ともに しているが ,その彼が1913年当時すでにこの委員会 に参加 し ていることは大 変 興 味 深い。次に会計の ウィダニ ヤデ ィサス トラは当時 『カウム ・ムダ』紙 (Kaoem Moeda)の編集長をつとめていた。彼はまた教師であった。一万 1919年まで,中央 イスラム同盟の委員 で もあった。スラジャ夫人については不明である。ルムは原住民の医師であった。アブ ドゥル ・ムイス (1890-1959)は当時 『ヒンデ ィア ・サ レカ ット』
誌
(HindiaSarekat)の編集者であったが イスラム 同盟バ ンドゥン支部の書記を兼任 していた。彼は西スマ トラの出身であ り,イスラム同盟の有力なメン バ ーとして活躍 した。 しか し彼の才能は文 筆 活 動 で 発 揮 され とくに 1928年 に 『誤 った教育』(Salah Asuhan)を発表 し,現代イ ンドネシア文学 の先駆者のひとりとして名声を高めた。東南 アジア研究 15巻 2号
図を 明 らか に した。15)
7月19日にはパ ンフ レ1ノ ト第2号 が刊行 され た。 そ こで は別冊 の小 論文 の広告 が掲載 され た
が, 同 日この小 論文 がバ ン ドゥンで少 な くと も5000部 印刷 され その配布 が は じめ られ た。16) こ
の論文 の筆 者 はス ワルデ ィ ・スル ヤニ ング ラ ッ トで その題 は 「もし私 が オ ランダ人 で あ ったな らば
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とい う もので あ った。 論文 に はマ レー語 訳 (訳者 ア ブ ドゥル ・ムイス) が付 せ られ た。17) 「委 員会 」 の動 きを警戒 して いた植民地政 庁 のバ ン ドゥ ン州理事 官 ヤ ンセ ン(
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は この論文 を-読 後, 直 ちにバ タグ ィアの検 察 当局 に報 告 した。2
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日にバ タ グ ィアか ら法務官 モ ンサ ン ト(
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がバ ン ドゥンに到 着 しこの論文 を 出版条 令第2
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条 に該 当す る 危 険 な もの と判 断 し,執筆 者 と委員 会 の メ ンバ ーを2
5
日,2
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日の両 日に訊 問 Lかつ論文 を押 収 した。18)これ に対 し 「委 員会 」 は, 翌2
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日にチプ ト署 名 の 「権 力 と恐れ」
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と題 す る一 文 を 『デ ・エ クスプ レス』紙 上 に掲 載 し, 権力 側 の圧 力 が強化 され るほ ど抵 抗者 の 力 も成長す る こ と, それ ゆ え に どの よ うな辛 い結果 が待 ち受 けよ うと 「委員会 」 は闘争 を続 け る ことを 明 らか に した。19)さ らに翌 々 日の7
月28日には 『デ ・エ クスプ レス』紙 上 にス ワルデ ィが再度 執筆 し 「ひ と りはすべて の者 の ため に, そ して す べて の者 は ひ とりのた め に」(H
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と題 す る一文 を公 に した。20)プ リア ンゲ ル理訓 、llの理事 官 (ヤ ンセ ン) は
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月2
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日2
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日の訊 問 と警告 とに もか かわ らず, 15)Mailr. No.1596ノ1913(Verbaa125September1913No・56)・なお 「統治条令」第
1
1
1条の全文は,次の通 りである。 (第一一項)土着住民の結社及び集会の権利はこれを認める.(第二項)この権利の遂行にあたっては,公共の秩序の必要から,条令においてこれを監督また制限す る。W .A.Engelbrecht(ed)
,
DeWelboekeTIWetteneTIVerordemlngenBeneveTISdeVoorlopigeGrondwetVande RePubliekITldoTle∫ie,I」eiden,I956,p・216・この規定により,政府は 「公共の秩序の必要」から集会,結社を禁ずることができた。 16)Mailr. No.1596/1913(Verbaa125September1913No・56)・
17)アブ ドゥル ・ムイスがこの論文を翻訳したいきさつは,先ずスワルディがオランダ語の原稿を示 してそ の翻訳を依頼したが,彼はそれを-読後内容の過激 な こ とに怖 れをなしてこれを拒んだという。その 後,チプ トがムイスに対 し 「心配するな.一 切の責任は私がとる」 と述べて彼を説得して翻訳に踏み切 らせたという(M.Balfas,op.cil.,p.18)。またこの論文が出版 されると同時に,先の七名の委員の内 チプ ト,スワルディ,ム イスを除 く四名の委員はそこから 「よぎない事 情 の た め に」離脱 した旨が 「現住民委員会」自身によって公表 された。[Mailr.No.1695/1913(Verbaa125 September1913No. 56]さらにムイスも7月末に逮捕 されるとともにスワルディとチプ トに文書で 「もはやあなた方の今の や り方について行けない」旨を述べて離脱することを 明 らか に した。その中でムイスはスワルディに 対 しては彼の意のあるところをチプ トに伝えてほしい旨を懇願 し,チプ トに対 してはその激情性をと がめている。Mailr・ No.1618/1913(Verbaa125September1913No.56).
この間の事情は,チプ トとスワルディが当時の進歩的な害年たちの日にさえいかに過激に映じていたか を物語 っている。
18)Mailr. No.1596/1913(Verbaa125September1913No.56).
19)Mailr・ No.1695/1913(Verbaa125September1913No・56).なおこの小文のインドネシア語訳は次 のものに全文掲載 されている。M.Balfas, op.cit.,pp.22-24.
20)このインドネシア語訳 もパルファスの 『チプ 卜伝』に掲載されている0M .Balfas, op.cit.,pp.22-24. 138
土足 :「原住民委員会」をめく・る諸問題 チプ ト, ス ワルデ ィ らの 「委員会」 の メ ンバ ー が 「危 険 な 執 筆 活 動」を 中止 しない ことに対 し, これを 「公共 の秩序 と安寧」 の破壊 を意 図す る扇 動行為で あ る と判断 し,
7月3
0
日午 後, チプ ト, ス ワルデ ィ, アブ ドゥル ・ムイス, ウィダニ ヤデ ィサ ス トラの4名を逮捕拘留 した。21) ヤ ンセ ンは8月31日付 の植 民地総督 イデ ンブル フ(
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へ の公信 の 中で,逮捕 理 由 と し て秩 序 を 回復 す るために強 い措置を とる ことが必要で あ った と述べ たあ とで,逮捕者 が東 イ ン ド党 の領袖 (デ ッケル) お よび イス ラム同盟(
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の指導部 と密 接 な関係 にあ る こ との危 険性 を指摘 し, 次 いで4
名 の 内チプ ト, ス ワルデ ィを除 く2
名 につ いて は, 長期 の拘留 を必要 とす るほ どの危険性 は認め られ ないので訊 問後 ただ ちに釈放す る予定 であ るが, チプ ト とス ワルデ ィの両名 は彼 らよ りもは るか に極端 なデ ッケル とい う手本 によ って 「盲 い」 にされ て お り, それ ゆえ近 日中に ヨー ロ ッパ か らジ ャワ-戻 るデ ッケ ルをバ タグ ィア港で拘 留 しない 限 り完全 な安寧 の回復 は実現 しない と して, 総督 にデ ッケルを拘 留す るよ うに求 めた。22) デ ッケルは,8月 1日バ タグ ィアに帰還 して, チプ トらが逮 捕 され た ことを知 るや ただ ちに バ ン ドゥン刑務所 の チプ ト宛 に "バ ンザ イ, わ れ わ れ す べ て はあなたを誇 りとす る〝 と打電 した。23)さ らに8
月5
日付 の 『デ ・エ クスプ レス』紙 に 「われ らの英雄, チプ ト ・マ ンダ ンクス モ とス ワルデ ィ ・スル ヤニ ング ラ ッ ト」 (
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と題 す る一文 を掲載 し,彼 ら両名 は英 雄 であ りまた犠牲者 であ っ て後 の者 が それ を手本 とす べ き先駆者 で あ ると称賛 した024)デ ッケ ルの ジ ャワ帰還 を静観 していた当局 は この論文 の掲載 を機 に彼を逮 捕 した。
イ ンデ ンブル フ総督 は, 植民地 の秩序 と安寧 を破 壊 す る と判 断 した者 に対 し総督 が通 常 の裁 判を経 ることな しに東 イ ン ド評議会
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25)の議決のみ によ って,これ らの者 を追 放で きる ことを定 めた 「東 イ ン ド統 治法」の第
4
7
条26)杏, 同事件 の逮捕者 に対21)アブ ドゥル ・ムイスが逮捕 されたのは,彼が 「委 員会」の委員 で あったことによる。またウィグニヤ ディサス トラは彼の主宰する 『カウム ・ムダ』紙に 「原住民委員会」関係の記事を載せていたことによ る。
22)Mailr・ No・1596/1913(Verbaa125September1913No.56). 23)Mailr. No・1618/1913(Verbaa125Spetember1913No.56).
一方 ,チプ トの弟グナワンも8月 2日に彼 の勤 務地 であったベンクルーからチプ ト宛に 「原住民委員 会」 の活動は正しい。 あなたの活動が 結 実することを民衆は切望 している」と打電 した (Mailr.No. 1618/1913,Verbaa125Septemberl913No.56).そのチプ トはスマランの父にあてて 「私の人生の任 務がいまはじまったところだ。さようなら」と打電 したという(M.Balfas,op.cit.,p.1)Oまた,スワ ルディの妾は8月 3日に,バク ・アラム家のパ ンゲラン ・スル ヨディニングラットは8月 2日にそれぞ れ総督に打電 しスワルディに寛 大 な措 置をとるよう懇 願 した。Mailr.No.1641/1913(Verbaa125 September1913No・56)・
24)Mailr. No・1694/1913(Verbaa125September1913No.56)・
25)東 イン ド評議会は総督の諮問機関として植民地問題の最重要事項を審議するために設置されたものであ る.その詳細は 『蘭印百科辞典』D.G.Stibbe(ed.),EncJCloJ・aediavanNedcrlandsc h - / ndie,Haag-Leiden,
1919,pp.523-526に記 されている。
26)これは5項よりなるがその骨子は総督は自らの判断である人物の居住地を特定の地域に指定 し,あるい はある人物が特定の地域に居住することを禁止 しうると定めたものである。W .A・Engelbrecht(ed.)op.
東南 アジア研究 15巻 2号 して適 用す る決 意 の も とに,7月31日東 イ ン ド評議会 を招 集 し, 先 ず , チプ トとス ワルデ ィの 両 名 の処 罰 につ いて はか った。 そ こで は, 事件 の経 過 と両 名 の "公共 の秩 序 と安 寧 〝 に対 す る 危 険性 な どが 討議 され たの ち, 統 治条 令第
4
7
条 を 適 用 す る こ とが 妥 当で あ る との結 論 を下 し た 。 その 後, 数 皮 にわ た って デ ッケ ル- の訊 問 が行 な われ たが8月18に=こ
評議会 は再 度 開催 さ れ チプ ト, ス ワル デ ィに加 えて デ ッケルに対 して も同 じ条 項 を適 用 す る こ とに決定 し同 日総 督 は この三 名 を ジ ャワ島外 へ 追 放 処 分 にす る こ とを公 表 した027)当初 ,総 督 はデ ッケ ルを テ ィム ー ル 島の クーパ ンへ, チプ トを ア ンボ ン州 のパ ンダ 島へ , ま た ス ワルデ ィをバ ンカ島- 追 放す る 決定 を下 したが, 特 赦 と して も し3
0
日以 内 に要 請 が あ るな らば束 イ ン ド外 -立 ち去 る こ と も可 能 で あ る と した。28)チプ トらは そ の 要請 を した結 果,8月2
7
日にかれ ら三 名 は オ ラ ンダ- 向か う こ とが許 され た。そ して かれ らは同年9
月6
日ジ ャワを 離 れ その後 デ ッケ ル は約5
年 , チプ トは約 1年 , ス ワル デ ィは約6
年 海 外 で の追 放 生 活 を送 る こ とにな った 。 (2) 植 民 地 政 庁 の対 応 以上 に略 述 した 「原 住 民 委 員会 」事 件 の 中で事 件 の導 火 線 とな った の は ス ワルデ ィの記 した 二 つ の論文 , こ とにそ の第- 論文 「も し私 が オ ランダ人 で あ った な らば」 で あ る。 この論文 の 全 訳 は資料 と して本 稿 の末 尾 に掲 げ るが, その骨 子 は, い まだ植 民 地 の ま まで あ る東 イ ン ドで オ ラ ンダの独 立 を祝 う とい うオ ラ ンダ人 の矛 盾 を きび し く衝 い た もので あ った。 続 いて ス ワル デ ィが記 した第二 論文 は, この第 一 論文 が オ ラ ンダ人 の問 に生 み 出 した混乱 と衝 撃 とを鋭 く指 摘 した。確 か に この事 件 の経 過 を みて い くと, 当時 の植 民 地 政 庁 は異 常 と思 え るほ どにそれ が 原 住 民 社 会 に対 して 与 え る影 響 につ いて 神経 質 にな って い る。 その 中で もこ とに問題 とされ た の は, 「原住 民 委 員 会 」 の宣 伝 文 書 が たん にオ ラ ンダ語 に よ って記 され た の みな らず それ に マ レー語 の翻 訳 が付 せ られ て い た こ とで あ った. イデ ンブル フ 総 督 は7月
31日の東 イ ン ド評議 会 の席 上 で その点 を と くに 強 調 して 次 の よ うに述 べ て い る。 「今 日お こ りつ つ あ る状 況 と半 年 前 (束 イ ン ド覚 が成 立 した 頃) の状 況 との最大 の 相違 は 当時 は まだ オ ラ ンダ語 で の新 開で の活 動 に とどま って い た の に対 し, 今 や それ がす べて マ レー語 で27)S.IJ・VanderW al(ed・),Deopkom∫tvandeNationalisti∫cheBeweginginNederlands-Indie,EenBronpublicaiie, Gronlngen,1967,pp.326-3291 28)政府が この特例を認めたのは,デ ッケルが法律上オランダ人であり,チプ トがかつてペス ト撲滅のため に貢献 したという功績があり,またスワルデ ィはバ ク ・アラム家に連なる貴族であるという事情を考慮 したためと考えられるOスワルデ ィに対 してほ総督の恩赦を求める要請がブデ ィ ・ウ トモの指導者から なされており,先のバ ク ・アラム家からの電 報 と と もに,スワルディを他の二名 (デ ッケルおよびチ プ ト)から区別するようにとの意向は,ジ ャワ人 の側 に強 く存 在 して いたようである。(S.Prastiti Scherer,op・cit・,pp・75-76)一方 ,チプ トに対する評判はジャワ人の指導層 ,ことにジ ョクジャカルタ のプ リヤ イの問では悪かったと報告されているが ,オランダ人の問ではチプ トを評価する者ないし彼の 友人が何人かいたようである (VanderWal,op.cit.,pp.336,339-340)。後 に スワルディがジャワ-の 「回帰」を強めるのに対 しチプ トがオランダ的な思考様式に傾斜 してい く事実とてらし合わせるとこれ は興味深い点である。 140
土産 :「原住民香魚会」をめ ぐる諸問題 も出版 されてい るとい う情勢 の違いにあ る。」29)これ は, ス ワルデ ィ らの 「委員会」の メ ンバ ー が,たん に出版条令 (ことにその第
2
6
条)30)の違反 の対象 に とどま らず 「総督大権条項」 (H
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31)と呼ばれた統治法 の 第4
7
条 の適用対象 とされ た最大 の理 由であ った0 後 にス ワルデ ィ自身, ジャワを追われてオ ランダへ 向か う船上 で,
「私 の 論 文が マ レー語 に翻 訳 され ることさえなか った ら,私 が罰せ られ た りいわんや追放 された りす る ことはなか った と 法務 当局 の者が述べてい るのは要す るに民衆がそれ 〔独立1
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周年 の矛盾〕を知 った り民衆 に それを知 らせ た りす ることは許 されない とい うことを明 らか に した ものにはかな らない」32)と 述懐 してい るが, この述懐 は植民地 当局 の意図を正確 に言い当て た もので あ った。その さい当 局が と くに警戒 したのは, 「委員会」 の一一連 の拍版物 が イス ラム同盟 に及ぼす影響 で あ った。 それ は と くに事件 に関係 した者 の内, ス ワルデ ィが当時の イス ラム同 盟バ ン ドゥン文 部の支部 長で あ り, アブ ドゥル ・ムイスが書記であ ることに起 因 していた。そのため総督 は7月
31日た だ ちに東 イ ン ド問題 の顧問官 リンケス(
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に対 し, ス ラバ ヤ在住 のイス ラム同盟 の中心的指導者 であ るチ ョタロア ミノ トの動静, と くに彼 とバ ン ドウン支 部 の関係を探 るよ う に命 じた033)総督 は8
月
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日付 の植民大 臣デ ・ワ-ル(
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宛 の報告文書 の 中で この点 にふれ, 当面, イス ラム同盟への影響 は見 出されない と述べ, その危険のない こと を安堵 の念 とともに伝 えてい る。34) この報告 の中で総督 自身, "その危 険〝 (
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とい う表現を してい るが, その内容 を構造 化 してみ ると, それ は, デ ッケルな る "危険人物〝の "危険思想〝 が, チプ ト, ス ワル デ ィを経 由 して民衆 に注入 され ることへ の警戒であ った。 イデ ンプルフを は じめ とす る政庁 の 要人 は, デ ッケルを秩序を破 壊 す る危 険 思 想の扇 動者 とみな していただ けでな く,彼 の人格 その ものに強い 不信感を抱 いて いた。
3
5
)本国あてのい くつかの 報 告 書 の 中 で イデ ンプ ル フは しば しばデ ッケルについて 「ま った く信 頼 で きない男」
「■ぅそつ き」 とい った印象を伝 えてい29)Mailr・ No・1695月913(Verbaa125September1913No.56).
30)当初バンドゥン地区の検察官はスワルディの論文を 「オランダの権威をおとしめ束インドの諸住民間に 敵対感を煽る」ことを禁止 した出版条令の第26条に連反することでこの論文を押収した。この条令の違 反者は 1カ月ないし12カ月の徴役ならびに10ギルダーないし500ギルダーの科料を受けることが規定さ れているoMailr.No.1695/1913(Verbaa125September1913No.56)・
31)M ・Balfas, op・cit・,p・5■6・
32)SoewardiSoerjaningrat
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"VrijheidsherdenkingenVrijheidsberooving"(DouwesDekker,Tjipt oMan-goenkoesoemo,SoewardiSoerjanlngrat,MljmermgeT" anZndiersoverHoLlandsFee∫lvierderjiindeKolonic, Schiedam,1913,p.8.)・33)Van derWal, op.cit・,p.311・ 34)Ibid., p.320・
35)当時のオランダ人の対デ ッケル観はヴァン・ニールのデッケル評にそのまま反映している。彼はそこで デッケルを神経質でエゴイスティックでムルタトゥリ-の劣等感にみちていた人物と評している。 VanNiel,Robert,TheEmergenceLZftheModerTIZndone∫iallElite,TheHague,1960,pp・62-63・
土屋 :「原住民委 員会」をめ ぐる諸問題 合 に明示的な証拠 は さほど重要ではなか った。 それゆえに総督 らは,彼 ら三名が植民地政庁 の 支配 の正 当性を否定す るとい う思想 に基づいて言論活動を行な って き た と い う彼 らの "確信 犯 〝的性格を もっぱ ら問題 に したのであ った。43)それ はそのまま,彼 らの活動が政庁 に与 えた 混乱 と衝撃 の深 刻 さを物語 っていたが, それを もた らしたのは何 よ りも先 ず, ス ワルデ ィの第 -論文 であ った。
Ⅰ
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Ⅰ
支 配 と 抵 抗 の 様 式 (I) 支配の様 式 この事件 に関す る政庁側の さまざまな公文書の顕著な特色 はス ワルデ ィの第一論文すなわち 「もし私 がオ ランダ人であ ったな らば」 とい う論文 のタイ トルに対す る言及頻度が きわ めて高 いの にひきかえ, その論文 の内容 について言及 され ることが ほ とん どない とい う点であ る。 内 容 についての コメ ン トは,7月31日の東 イ ン ド評議会 の席上で イデ ンプル フがわずか に 「この 風刺文」44)(
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と述べてい る以外 はすべて 「オ ランダの権威 をお としめ る もの」 ない し 「異 な る社会集団問 の不和を助長す る もの」 とい う法 律 の粂文 中の語句が用い られてい るにす ぎない。一方, この事件 の一件零類 は, ス ワルデ ィ署名 にな るオ ランダ語 マ レー語併用 の論文 が出版 され た こと, そ して その タイ トルが 「もし私がオ ランダ人であ ったな らば」 とい うものであ った ことを くりかえ し記載 してい る。 この ことは明 らかに,論文 のタイ トルその も のが問題 に されていた ことを明 らかに してい る。 ス ワルデ ィの第一論文 その ものは, た しか に風 刺又 の性格を示 して お りス ワルデ ィ白身 もそ の ことを文 中で触れてい るが,しか し,それ は どのよ うな意味 において も,たん市排稔を 目的 と した一文ではなか った。 「もし私 がオ ランダ人であ ったな らば」 とい う時 の 「私 」は結局 ジャ ワ人 ス ワルデ ィ自身 にはか な らず,従 って彼 は実際 に文 中を通 じて 「オ ランダ人」で終始す る ことは不可能 であ った。論文 の後半 にお ける 「私」 は 「もし」
とい う仮定 を捨て きって,植民 地社会 に生 き る ひ と りの ジ ャワの青年 その もの とな り, オ ランダの植民地 支配を告発 してい る。45)それ に もかかわ らず,総督が この論文 について述べた 「風刺文」 とい う感想 は, この論 文 の タイ トルを 目に したオ ランダ人が先ず第- に 「か らかわれ た」 とい う印象を もった ことを 43)このことは,彼らに対する適用法が出版物令第26条から統治法第47灸へと変更されたことにも伺える。 なお,この経過は次に詳しいO(VanderWal, oP.cit.,p,321)・44)Mailr. No.1695/1913(Verbaa125September1913No.56)・
45)この手法は小説 『マックス ・--フェラー
ル
』において,語 り手の知人の休験を語り手が別の人に託し て記してもらうという,キルケゴール的な設定で物語が展開されながら,最後の数ページに至ってその 複雑な道具立てをすべて打破 して真の作者ムルタトゥリが素顔で現われオランダ王に対して詰問すると いう手法を想起させる。しかし小説 『マックス ・ハーフェラール
』がスワルディにどのような影響を与 えたかは明らかではない。亜南 アジア研究 15巻2号 示 して い るで あ ろ う。 そ して また東 イ ン ド評議 会 にお ける束 イ ン ド顧 問官 リンケス らのス ワル デ ィの第二 論文 に関す る発言 は, この第-論文 が 「原住民 にほ とん ど影響 を与 えなか った」 の にひ きかえ逆 にオ ランダ人 に深 刻な衝撃を与 えた ことを問わず語 りの 内に示唆 した もので もあ った。 しか し政庁 はそのいわばす ぐれて心理 的 な衝撃 につ いて彼 ら自身の解析 を行 な うとい う 経路を ま った く経 る ことな しに,換言すれ ばその第一論文 が彼 らの問 にひ きお こ した憎悪 の念 に基づいて情緒 的 に対 応す る ことな しに, も っぱ らそ れ を 「事 に即 して手 際 よ く処理 す る
」
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46)こと, すなわ ち法律 の条文 の通 用如何 について顧慮 す ることに専 念 した。 そ の限 りで イデ ンブル フ総督を は じめ とす る当時 の柿民地高官 は有能 な法律家 として機能す る こ とに徹 したわ けで あ り, ス ワルデ ィU
j論理 に即 して その論理 に対抗 しそれを否定す る とい う立 場を とる ことはつい になか った。 それ は,東 イ ン ドの植民地政庁 が もっぱ ら植民地 官僚集 団 と して機能 しそのため に先 ず何 よ り もz
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に徽す る とい うオ ランダの植民地支配 の株 式を典型 的 に示す ひ とつ の∃拶Uで あ った といえ よ う。 そ こでは植民地支配 の正 当性 を主張す る イデオ ローグ (ない しデ マ ゴーグ)の役割 は さほ ど重視 され る ことはない。す ぐれ た "政 治家〝 でな くす ぐれ た "実務 家〝が先ず 必要であ り "実務家〝 の権 限のわ く内で植民地 の経営が可能 であ る とい うオ ランダの東 イ ン ド支 配 の特徴 が そ こには顕著 に示 されて い る。 だか らス ワルデ ィが植民地支配 の正 当性 その もの に疑 義を提 出 した とき,政 庁は,総督以下 "植民地 主義者〝 と してで はな く, "実務 家〝 と して それ に対 応 したので あ る。 彼 らに とって はス ワルデ ィの思 想 の当否 よ り もそれが もた らす効果 が先ず問題 なので あ 一一た()また, 彼 らの関心 は彼 の思想を否 定 した り彼 に "転向〝 を迫 ることにあ ったので はない。47)彼 らの関心 は当面 の "危 険〝を除去
す る ことに集 中 して お り, そのため に彼を植民地社 会か ら隔離す るこ とに専念 したのであ る。 こ の よ う に イ デ ンブル フ らは, ス ワルデ ィや チプ トに対す る情緒 的な対 応を極 力押 さえた が, 一方 で, 同 じオ ランダ人で あ るデ ッケル に対 して は, 「うそつ き」
ない し 「ま った く信 用 で きない」
等 の憎 しみを吐露 して い る。
「デ ッケル こそ もっとも危険」 な ので あ り, デ ッケル とい う 「危 険人物」
が チプ トや ス ワ ル デ ィを 「仲立人」
と して その思想 を土着社 会 に浸透 さ せ る とき 「危 険」 は限 りな く増幅 され る とい うのが彼 らの "危険感〝 の 根 底 を な して いた。z
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を行動様 式の基底 に据 え る これ らの "実務 家集 団〝 (-官僚集 団) に とって, デ 46)zakelijkheidは字義通 りには,zaak(事物,事実,客体等)にかかわる行動様式思考様式を表現する場合 に用いられ, とくにそれは,その様式がzaakに即している場合の性格や態度を合意するものとして用 いられる。マックス ・ウェーバーが 近代 官僚制 の特質としてあげた "合理性〝の概念と近似している が,zake】ijkheidはもっと広 くしばしばオランダ人が L11らの民族的特性を語る場合にひき合いに出され る。したがって,適当な訳語がさし当たり見出せないので原語のまま用いる。なお,アンダーソンはこ の用語が合意している概念はオランダに独自なものであり英語にもその適当な対応3-rh;は見出せないと述 べている。B.0'G.Anderson,"Japall,ThetJigh torAsia,"J.Silverstein(cdt)SotltheastAsiaillWorld WalrZZ,New Haven,1966,p・36・47)スワルディ-の訊問に際して論文の内容に触れる訊問はまった く行なわれていない0
土星 :「原住民委負会」をめ く●る諸問題 ッケルはそれを否定す る異分子であ るがゆえに危険なのであ り,一方,土着社会は リンケスの 言 うように 「ワヤ ンの神秘
」
に み ち た 不 思 議 な社会であるがゆえに無気 味であ った。 ここで は,土着社会 は彼 らに とって "了解 不能〝な世界 であ りその世界 にデ ッケル とい うオ ランダ人 に とって了解 可能 な危険人物が影響 を及ぼそ うとす ることが,何 よ りも "危険〝であ る とみな されていた。 "了解不能〝な世界 について は これを封 印 し, そ こか ら生 じて きた具体 的な問題 について はそれを もっぱ らz
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によって処理 してい くとい う支配 の型は, その土着 社会か らオ ランダ人 に とって了解可能 であ るよ うな新 しい知識人 (それは先ず何 よ りも機能者 集 団く
vakman〉
として の役割を果 たす ことを期待 されていた)を創 り出す ことを その眼 目の ひ とつ としてい た倫理政策 の時
期を通 じて,実 は逆 にます ます強化 されていたのであ った。そ してデ ッケルに対す る憎 しみの根底 にあ ったのは,彼の思想 と行動 とが 土着社会 とい う "パ ン ドラの箱〝を開 きかねない とい う怖れであ った.その怖れ は,実 は, 1二着社会が外 か らの "福 音〝の訪れを待 って お り, それゆえに倫理政策を通 じて "西 欧の福音〝を外か らもた らすので あ るとい う思想 と一対 をなす ものであ った。それ は,"
福
音 〝 とともに "悪魔 の誘い〝 もまた 土 着社会 の外か らのみそ こへ もた らされ うる とい う危懐 の念で あ った。だか ら, この事件 は, 植民地政庁 に即 して考 えてみれ ば,倫理政策の もっこつの側面が典型的に示 された事 例 として 把握 され ることにな る。 もうひ とつ の事例 とは, カルテ ィエ(
氏.
A.Kar
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,1879- 1904)の 例であ り, そ こで は, アベ ンダ ノン夫人 に代表 され るオ ランダの "福音〝 が カルテ ィニを "仲 立人〝 と して土着社会 に もた らされた と考え られたのである。 そ して この事件 においては, い うまで もな く, デ ッケルが "邪教の伝導者〝であ り, チプ トとス ワルデ ィとがその使徒であ る とみな され ることにな る。 しか し果 た して, "パ ン ドラの箱〝 は外 か らのみ開 けうる ものなのであ ろ うか。 ス ワルデ ィ は実 は箱の中か らふたに手 をか けよ うと したのではないのであ ろうか0 この点を ス ワルデ ィの論文 に即 して検 討 してみ よ う。 (2) 抵抗 の様式 すで に述べた よ うに, ス ワルデ ィ白身が何 故 この論文を記 したか, また何
故 そのよ うな題を つ けたか について, オ ランダ植民地政庁 はス ワルデ ィ- の訊問の中で も彼 ら自身の会議 の中で も触 れ ることはなか った。 彼 らはその動機を もっぱ らデ ッケルの扇動 による もの として 片付 け たのであ り,せ いぜ いの ところスワルデ ィ自身が た しか にそ0)論文 の責の執筆者であ ることを 確 認 したにす ぎなか った。 当初,政府 は この論文が質 にスワル デ ィの手にな るか否か について 疑問を もっていたよ うであ る。彼 らは,頁の執筆者 (おそ らくチプ ト)が いて, スワルデ ィは たん に名前 だけを貸 したのではないか と考 えていた節があ る。外見 上温厚 なスワルデ ィが この よ うに 「反逆的」な一文を草す ることは ま った く意 外であ ると考 え られたよ うであ る。48)また, 48)M.Balfas, op・cii
・,pp・ト24・東南 アジア研究 15巻2号
ス ワルデ ィ 自身 も自 らの動機 について 明 らか に しなか った。
「もし私 が∼ で あ っ た な らば
」
と い う仮定 法現在形 の用法 はイ ン ドネシア語(
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aya-
, な いLSeandai
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aya-)
および ジ ャワ語(
Saupamaaku-)
の用法 と して決 して 特殊 な従 って まれ に しか用い られ ない とい う用法で はない。ただ その場 合,通常 は その ことが 可能 であ るない し生起 しうる場合 に用い られ るのであ って, 不 可能 であ る ことを仮 に想定 して み る とい うオ ランダ語 の用法(
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とはその趣 きを異 に して い る。 ス ワルデ ィは現 に ジ ャワ人 であ り彼 が オ ランダ人で あ る こと は 不 可能 で あ るか ら, 「もし私 がオ ランダ人であ ったな らば」 (
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とい うタイ トルは ジ ャワ語 (ない しイ ン ドネ シア語) とオ ランダ語 との微妙 な表現方法の差異 を ス ワルデ ィが敏感 に感 じその差異をいわば 利用 しよ うと した ことを示す もので あ ろ う。 この意味 において ス ワルデ ィはたん にオ ランダ譜 に習熟 して いた とい うだ けでな く, 言語を 操 作 しまたは言語を武器 とす る とい う能 力を この論文 の タ イ トルその ものを創造す ることによ って, 見 事 に示 した といえ よ う。 当 時 のオ ランダ人 に とって は,
「もし私 が オ ランダ人で あ っ たな らば」 とい うタイ トルその ものがすで に十分 に衝撃 的であ り挑発 的で あ った。49)一 人 の ジ ャワ人青年 が 自 らを オ ランダ人 であ るかの よ うに 自己規定 した上で, その同 じオ ランダ人を批 判す る とい う方法を独 力で獲得 ししか もその批 判を オ ランダ語 で記 した ことだ けですで に許 し がたい ことに感ぜ られ たので あ る。 それ は, カルテ ィニが オ ランダ語 で綴 った書簡集を ほ とん ど無 条件で賞讃 ・受 容 しその書 簡集 の タイ トルを 『暗黒を越 えて光 明-』 ("DoorDui
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と名付 けて倫理政策 の "福 音〝 (それ はアジアの土 着 社 会 とい うヤ ミに西欧が ヒ カ リを与 え るとい う形 で示 され るO) を詔轟欽した精 神構造 とほ とん ど対 の関係をな してい る。 一 方, ス ワルデ ィ自身 は この論文 とと もに後代 の民族主 義者 の問でゆ るぎがたい権威 を確立 す ることにな る。 それ は, い うまで もな く彼 が この論文 によ って チプ トとともに流刑追放 とい う "受難者 〝 の "苦行 の旅〝 (
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に旅立 つ ことにな る とい うジ ャワ人 の修業者 の イメー ジ と重 な り合 ってい る ことに何 よ りも起 因す るのであ るが, この論文 自体 に即 して言 えば次 の 二点 を指摘 す ることがで きる。 第- にス ワルデ ィの この論文 は, ジ ャワ人 が植民地支配者 に対 して オ ランダ譜を駆使 して政 治的な 自己主張を行 な った もっと も最 初 の例で あ った。 そ こで は,-土着民 (
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のス ワルデ ィが オ ランダ人 と対等 の言語 で強い 自己主張をな しえたので あ り, それ は, ジ ャワ人 に 49)オランダ-イントネシア両国間の文化協定にもとづ くインドネシア側の活動に批判と勧告をするに際し て,オランダ人レネスは 「もし私がインドネシア人であったならば」 という仮定で独立国インドネシア に対して発言する権利を,かつてスワルデ ィが与えて くれたと述べている。 これはこのタイ トルがオラ ンダ人に今日なお記憶にとどめめられていること, またそれがどのような形で記憶にとどめられている かを示す一例である.BernardRelies,"HetHogerOnderwijsinlndonesic:MogelijkhedenenBeper k-1ngCn,"Ouerzichl,Vo】・V,No.9,1976,pp・32-39・土屋 :「原住民委負会」をめ ぐる諸問題
とっては, ワヤ ンの物語 のなかでただ ひ とり神 々と対等 の言語
(
ngoko)
で会話を行 な うビー マ王子(
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の イメー ジと容易 に重 な る もので あ った。 ス ワルデ ィはオ ランダ 語 に習熟 しこれを操作す る能力を獲得 す ることによってオ ランダ語をあたか もジ ャワ人 の社会 において身分の対等な者 同志ない し上位 の 者 が 下 位 の 者 に話 しか ける時 に用い る言語 であ るngoko
と同様 な もの として用い ることに成功 したのであ る。 ス ワ ル デ ィはオ ランダ語を意識 的 にngoko
化 して用 いた最初の ジャワ人であ った と言え よ う。 第二 に第- の点 と関連 して, ス ワルデ ィは この論文 において言語を操作 し創造す るす ぐれた 能 力の持 ち主 であ ることを示 した。後年 の民族主義者 は彼 の文筆 の才 に畏敬の念を払 った。彼 の生 み出すあ る言語,章句 は しば しばある状況やあ る運動の精髄を表現す るシンボル と して用 い られ た。人 々は時 として彼 か ら託宣 を待 ち望むかのよ うに彼 の作 り出す文章 に注 目した そ して彼 はその ことに もっとも成功 した民族主義者 のひ とりであ った。 指導者の資質があ るシ ン ボルない しスタイルを土着 の文化体系 と関連づ けて創 り出 しまた この シ ンボルない しスタイル を操 作す ることに何 よ りも関わ ってい るとい うことは, イ ン ドネシア民族主義の基本 的な問題 と して別 に論ずべ きことで あるが, いずれ にせ よス ワルデ ィはすでに この論文, なかんず くそ のタイ トルを独創す ることによって, ジャワ人 の価値観を シンボル化 しそれをスタイル として 示す ことに独特 の才能を明示 したので あ る。 それでは この 「もし私が オ ランダ人で あ ったな らば」 とい う論文 で株式化 されてい るジャワ 人 の価値観 は どのよ うな ものであろ うか。すで に述べたよ うに この論文 の顕著な特徴は先 ず第 - にス ワルデ ィが本来 そ うな ることが不 可能 であるオ ランダ人 に仮 りにな った として とい う前 提で議論を展開 してい ることであ り,第二 にはそ こで示 されてい るあ る種 の戯文 的な性格であ る。 オ ランダ人 に対 す る皮 肉 と輔輪がそ こでは繰 り返 し記 されてい るが, それ は祝典 の遂行 の ために土着住民 か ら寄付金を募 ることに触れ た一節 に至 って極点 に達 してい る。 そ こで は 「損 得勘定 に敏感な オ ランダ人」の計算高 さが明示 され るとともに,その 「計算」 と同 じ観点か ら 土着社会 の 「損得 勘定」を計算 し, それ が土着民 にとって一文 の得 に もな らない ことを示 して みせ る。次 に,実 はオ ランダ人のその企画がオ ランダ人 に とって もまた一文 の得 に もな らない ことを, オ ランダ人 とはま った く別の 「計算の基準」を用い る ことによ って証 明 してい る。 先 の言葉を再 び用いて言えば, それ はオ ランダ植民地支配 の基礎をなす zake
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によって は決 して把握す ることがで きない 「基準」である。 その ことを ス ワルデ ィは 自らオ ランダ人で あ る と措定 した上で オ ランダ人 に対 して説得 しよ うとしたわ けであ るか ら, それを一読 したオ ランダ人が 「か らかわれ た」 と感ず るのほ当然であ った。 この論文 の このよ うな特徴 は "風刺〝および "やつ し〝の精神 として 要約す ることがで きる。 それでは この "風刺〝 と "やつ し〝の精 神は ジャワの文 化的伝統 の中で どの よ うに機能 してい東 南 アジア研究 15巻 2号 るだ ろうか。 ジ ャワ文化の精髄 と考 え られ るワヤ ンについて その点をみてみよ う。50) ワヤ ンの中にはプ ノカワン(Pun争kawan)と呼ばれ る道化者 の一群 が登場す る。 プ ノカワン とは本来 "随行者〝の意味であ るが ワヤ ン劇 の中では英雄 に付 き添 って動 く道化者 として現わ れ奇妙な容姿 と振舞 い によって喜劇 と笑劇 とを演 じ観客の笑 いを誘 う。 しか しまた彼 らは英雄 たちの出身階層であ る貴族武士 (サ トリオ) の階層 に所属 しない庶民の 出身であるがゆえにサ トリオの淀 や道徳律 に しぼ られ ることはない。 彼 らはそのために時 と してサ トリオの価値観 に 対す る鋭い批判者 として機能す ることにな る。 その批判 はつね に皮 肉や排緑 とい う "風刺〝 の 形を とって現われ るがその "風刺〝 には笑 いが ともな う。
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方 また ワヤ ンの中には神 々が この 世 につかわ した使徒 ない し神々の化身その ものであ るような 人物 も登場す る。 彼 らは貴族 と庶 民 とを問わず この地上 の人間社会 にたちま じって行動す るがその究極の 目的は神 々の意志を こ の 世で実現す ることにあ る。 彼 らは典型的 には王や王族の助言者ない し王子たちの教師
として 登場 し,英 雄 た ち が 困 難 に遭遇 した際 にそれを克服 しまた打開す る指針を示唆す る。パ ンデ イ ト, アジ ャル, ブルな どと呼ばれ るこれ らの人物 は危機 的な状況が到来す ると突如舞台の前 面 に登場 し予言者 としての機能を はたすのであ る。 ワヤ ンの個 々の場面 (ラコン) の骨組 とな ってい るのは,以上 に述べ た道化者 と神 の化身 と い う二組 の相異 な る登場人物であ る と言 うことがで きる。 多 くの場面 は, 道化者 のまきお こす 笑 い と混乱 と風刺 とを横糸 とし,神 の 仮 身 に よ る 神 々の意志 の実現 を縦糸 として成立 してい る。 ところで, ワヤ ンの登場人物 の中 には道化者 であ りなが ら実 は神の 化身で もあ るとい う二つ の要素を同時 にかね備 えた人物が幾人か現 われて くる。 その典型がセマル (Semar)であ る。 セマルは完全 にジャワ起源の人物で あると考 え られてい る。 彼 は神の この世 におけるやつ しの 姿 として現 われ, プ ン ドオ王国の王子 たちの養育者 として登場す る。 しか も彼 は この世での出 身は道化者 であ って ま ことに不 自然 で醜悪 な格好を してお り,道化者 に似つかわ しい愉快な冗 談や仕草を続 ける。51)だが時 として それはサ トリオの全価値体系 に対 す る痛烈な風刺 とな る0 一方彼 は実 は 偉 大 な 智 恵 の 力を賦与 されてお り,彼がひ とたび神の化身 として機能す るとき (それ は,彼の怒 りと嘆 きを契機 としては じま る) その力を制 御 しうる者 は この地上 には存在 しないのであ る。 ワヤ ンのすべて の登場人物 のなかで, セマルほどジ ャワの庶民 に親 しまれて い る人物 はない。 50)以下のワヤンに関する記述は次のものによるところが多い。B.0'G.Andersoll,MLylhologyandtheToleraTLCe
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lheJavanese,CornellMonographSeries,1965・PakHardjowirogo,SedjarahWajangPzJrWa,tJakarta,1968.
B.0'G.Andcrson,"TheIdeaofPowerinJavarleSeCulture,''ClaireHolt(ed.)CultureandPolitic∫il′ IndoneSia,Ithaca,1972.
51)セマルは,肥満体でとくに胸と尻は飛び抜けて大きい。男の着物 を着 ているが女のような化粧をして いる。顔は男とも女とも判じ難い。