イ ン ドネ シ アに お け る プ ラ ンテ ー シ ョン農 業 の 問題 点
酒
井
1 は じ め に 1965年 7月中旬か ら9月上旬にかけて,私 は京都大 学東南 アジア研究 セ ンターが派遣 した イン ドネシア予 備 調査隊に参加 し, ジャワ農村を訪れ る機会を与 え ら れ たのは幸 いであ った。調査 をお こな うには種 々の制 約があ って私 が集め ることがで きた資料は きわめて乏 しいが,そ の報告は他 日を期す ることに し,本稿 では 第二次大戦 の前後で根本的な変貌をみた イン ドネシア の農業を,主 として商 品作物 の生産態勢に焦点を置 い て考察 し, あわせて ジャワと外領の対比 を論ず る こと にす るO 2 イ ン ドネシ7農業 の 自然的基礎 イン ドネシア共和 国はその境域約190.4万 km2,人 口約1億 500万人 (1964年)を擁 し,東南 アジア10カ 国中最大 であ るばか りでな く,世界的に見 て も面積は 第14位,人 口は第 6位を 占め る大主権国家であ る。東 経950か ら 1420,北緯60か ら南緯 lloにわた り, 莱 西 5,000km,南北 1,800km の広大 な海域に, スマ トラ (Sematera),カ リマ ンタン (Kalimantan),ジャワ (Djawa), ス ラウェシ (Sulawesi), イ リア ン (Irian) の5大 島をは じめ約 3,000の島 々を散 りばめ る島峡国 であ る。 第二次大戦で 日本が降服 した直後 の1945年 8月17日 に現 ス カル ノ大統領に指導 された国民戦線派は独立を 宣言,元 の植民勢力オ ランダか ら実質的な統治権 を獲 得 した のは1949年 12月27日であ るが,今年 8月には独 立20周年 を祝 った。そ の後 9月30日運動を契横 として 政治的には激動を続け,国際政治の焦点 の 1つにな っ てい ること今 さ ら言 うまで もない。 イン ドネシアの農業を論ず る前に,その基礎 とな る 自然的,文化的環境を簡単に見てお くことが必要であ1) ろ う。
敏
明
. ノ、マ トラ (付図中の数字 1に対応O 以下 同 じ), カ リマ ンタン (2), ジ ャワ (3)の 3大 島 とそれ らの付属 島峡は, 地質学的には, ス ソダ (Sunda)海棚上に あ り,大陸部東南 アジア, と くに イン ドシナ半 島 と同 じ 舌期山地が基盤をな し,そ の上 に第三紀造 山運動に よ る新 しい摺 曲山脈が形成 された。 ビルマ の ア ラ カ ソ (Arakan) 山脈か ら南へのび る 2本 の平行 山脈 の うち 内帯は スマ トラ, ジ ャワの脊稜 山脈 とな り,外帯は ア ンダマ ン(Andaman),ニ コパル (Nicobar)両群 島,ス マ トラ西方に シムル (Simeulue,4),ニアス (Nias,5), シベル(Siberut,6),エ ソガ ノ (Enggano,7)の島 々を 起 こし,ジャワ南方 の海底 山脈につなが る。一方,オー ス トラ リア大陸か ら西北方にひ ろが るサ フル (Sahul) 海棚上には イ リアソ (8), アル諸島 (Aru,9)が浮か ぶが, これ らはオース トラ リアと同 じ く安定的な古陸 塊 の一部を成す。 この東西2つの海棚の問の深海か ら,ロンボ ク (Lombok,10), ス ソバ ワ (Sumbawa,ll), スソバ (Sumba,12),フロー レス (Flores,1 3),チモ-ル (Timor,14),な ど小 ス ソダ列島の島 々, ノ、ルマヘ ラ (Halmahera,15),セ ラム (Ceram,16)両群島の島 々が隆起す る。 ス ラウェシ (17) もこの グルー プに属 し, フ ィリピン群 島か ら南- のび る環太平洋造 山帯, アラカソか らの内帯,外帯の 3本 の造 山帯が合 し,複 雑な構造を示す。 バ リ(Bali,18) とロンボ クの間 の ロンボ ク海峡は幅40km にす ぎないが,動物分布上 の 区分 ウ ォー レス線は ここを通 り,マ カ ツサル (Makas・ sar)海峡に抜け る。 ス ソダ海棚上 のスマ トラ, カ リマ ン タ ン, ジャワ と,サ フル海棚上 のイ リア ンには沖積平野 の発達が見 られ るが,ス ラウェシにはそれがない。1883年 に大爆 発を起 こした ス ンダ海峡中の小島 クラカタウ (Krak・ 1) 以下 の 自然的文化的背景の 叙述 は, 主 と して Fisher に よ るが, Pelzer,Dobby,Lobequain, McVey の諸著を参照 した。
(ン 1,:.1、i/-)'∴ ∴ lJ,1、ソ ラノ , - シ iJン]jl%楽uJFuj越 !!、丁 12 0 ノ // ∫ (. / - I _I -二 一 ・ 、 二.A-LS : 132 ⊥ 、虹 -+ t{ p -, - C1 .、二二、 つ `ここ 16 レ 10---ll-∈ニト -」 二'-ti 4-12t i7 十 イ ン ドネシア主要米作地 とプランテーシ ョンの分布 1 :集約 的水稲栽培地 打 :水 稲栽培地 m :プ ランテ一一シ 三三ン atau)火 山をは じめ 火山は多 く, ジ ャ ワだけ で も活 火 山 17を含む121の火山が あ り,そ の うち14率 は標高 3,000m を越 す。 イ ン ドネシアの気 候は ,年 間を通 じて高温 多 雨の赤 道型 と,乾季 を ともな う熱昭p-J_の2つ に大 別 され るT 12月か ら3月 までほ ア ジア大 陸東部 お よび南部か らオ - ス トラ リアに 向か って吹 くモ ンスー ンの影響下 に 入 り, カ リマ ンタ ン, スラウ J_シの北海岸 では北東 風, 赤 道以南 では北 西 または西 北酉風 にな って,大 鼓 の
両
を もた らす。逆 に7月か ら9月 までは オ ー 7、トラ リア 大 陣か ら吹 き出す乾燥 した南東 または東 モ ンスー ンが 強大 にな り,赤道 以北 では南西風に転ず るが, この期 間 スマ トラ西海岸 以外 は乾季 で あ る。 ジ ャ ワ東部 か ら 東 に 向か うほ ど乾季 は長 くきび し くな り,雨 量60mm以
下 の月は スラ/ミヤ (Sulabaja) で 5カ月だ が, ス ソ メ, チ モールでは7カ月に達す る。赤 道をは さむ位 置 にあ り,かつ海 洋性が強
く,
氾 度,降水量 とも経 緯 度 の違 いに よる変 化は小 さ く,む しろ 榊 些凪 に対 す る局 所的地形 や海 抜 高度 に よる変化 が大 きいし、海 水面 にお け る月平均 気湿 の最大 仙は 28℃ ,最 小佃 ま25 して, イン ドネシ ア全域 の差は3〇Cに過 ぎず,境域 の900,,は 年 雨読
1,250m m 以上 を有す る , 自然植生 につ いて見 ると,西部 では常 緑 熱鼎
葦雨林 が繁茂 し,東 部 ジ ャワ以東 では モ クて -ナウの類 , --7㌧ クな どの モ ソ -}: ソ林 が あ らわれ , よ り乾燥 した ス ソ メ, プ ロ- レスな ど小 ス ソダ列 .Ez'Ij東 部 では , サ TL/,-ソ 「伽 こは, 600111 までが熱刷 簿雨林,1.000m までが 柾 140 1!/. 〆 D]9 、 ヽ 葺 写 真1
才さ
畑I
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森
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緑林, 2,400m までが熱J
粕川也
性 降雨 林,それ 以上には亜高 山林 が分布す る。 スーパ 、ラ東海岸 ,が ) マ ングロー ブ林 が発 達す る。 2) 西1'り7 ソ中央高地 には, 氷河 を い だ く借高 5,000m前後 の墨 々があ り,
柿生 も高山的 であ る が, こ こで触れ る余裕 は ないし, - 111-東 南 ア ジ ア 研 究 一般に熱帯地方 の土壌は,高温 のため有機質 の分解 が早 く,ス コール性の雨に よって表土流 出の害が大 き く,地味は豊かでない。 ラテ ライ ト化現象は各地に見 られ る。ただ, ジ ャワとスマ トラの一部には中性ない し弱 アル カ リ性 の火山灰土壌が分布 し,例外的に肥沃 な土壌に恵 まれてい る。 3 複合的な文化環境 イ ン ドネシアの広大かつ分断 された領域に居住す る 住民は,人種的 ・民族的に多様を きわ め ることが注意 されねばな らない。先史時代,歴 史時代を通 じて, ア ジア大陸か ら南下 を続けて きた民族移動の波は, この 島峡世界に くりかえ し押 し寄せた。現在人 口数 の大部 分は,短頭,直毛で モ ン ゴ ロイ ド的なパ レオエア ソ
(
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系人種 であ り,紀元前2
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年か ら1
5
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年 ころ この地に到来 し, ここに定着 した と考え られてい る。 カ リマ ンタンとス ラウェシには パ レオ-アンよ り 少 し早 く移動 して来た,長頭,波状毛で コーカソイ ド に類縁 の ネシオ ツ ト(
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)
系人種 が多 く, マル ク(
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群島や イ リアンでは時代 的には古 い メラネソイ ド系人種が優 勢であ る。 パ レオエアソ系人種は数1
0
に分かれ るマ ラヨ ・ポ リネシア系 の諸言語 を話すが, ロンボ ク島以東 には メラネシア,パ プア系言語が多 い。 先進文化地域 イ ン ドの文化は紀元 前か らこの島喚世 界に伝 え られた と 思われ るが,5世紀頃か らヒソ ドゥ 文化を基調 とす る小王 国が各地に建 国 されは じめ る。7世紀後半以降,ス マ トラのパ レンバ ン(
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を 中心 とす るシュリ-ヴ ィジャヤ(
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王国は仏教文化 の 黄金時代 を築 き(滅亡は1
47
1年 ),東部 ジ ャワ 第3巻 第5号 と呼ばれ るゆえんであ る。北部 ス ラ ウ ェ シ の メナ ド(
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3
周辺に見 られ るよ うに強 力なキ リス ト教徒 ) の集団 もあ る。 各島峡の沿海部 と内陸部 との問には,島峡世界の西 部 と東部で人種 ,文化 の新 旧,遅速の差があ るよ うに, これ と平行 した対照が認め られ る。 パ レオ-ア ン系 の ス ソダ人(
Sunda
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,ジ ャワ人(
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,マ ドゥ ラ人(
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民族が 占居す るジャワにおいて さえ,西部 の プ リアンガ(
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山地には ネダ リ ト系統 のノミドゥイ(
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族 (約1
,
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人)があ り, 前者が水稲栽培 と高度に集約的な畑作をお こな うのに 対 し,今なお移動耕作 の段階にあ って,なかは隔絶 さ れた生活圏に閉 じこもってい る。 こ うした多様な生活様式が展開 され ていた島峡世界 に,
1
6
世紀後半か らヨー ロッパの植民勢力が進 出す る。 最初 マル ク (香料)諸島の香料 を 目的 として当地域に 登場 したオ ランダの植民地経営はVe
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(東 イ ン ド会社,1
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年設立)か ら 総督を鳳 点とす る本国政府 の植民地統治株構にひ きつ 写真2
西部 ジャワBogor
付近に見 られ る棚 田 に拠 った マ ジャバ ヒ ト(
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)
王 国(
1
2
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年-1
4
7
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年)は広大 な領域を支配下においたが, ヒソ ドゥ 教文化は宮廷内に とどま り,1
3
世紀末か ら盛 んに伝 え られたイス ラ-ム教が,イ ン ド系 イス ラ-ム商人の経 済的活動に ともな って普及 し,主要な港市に根をおろ すにいた った。原始的な ア ニ ミズ ム の上 に ヒソ ドゥ 文化が, さ らに イス ラーム文化がかぶ さ り,重層文化 がれ るが(
1
7
9
8
年), イ ン ドネシアは1
ヨー ロッパ国家 の東洋におけ る宝庫 と化 し,完全な植民地化がお こな われ ることにな った。3)
イ ン ドネシアには現在総数約2
5
0
万人 の華僑が いて(
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,p.3
8
4)
,経済界に抜 きがたい勢力 を有す るが,商業的活動が中心であ り, また身分 が不安定なので, ここには割愛す る。 - 112-/ン ドネ L/ン'に 」。Ij'るノ ラソテ ー L,ヨン農業 の閃 匙 点 4 農業 の植民地化 イ ン ドネシアにおいて全経済活動 の うち農業が 占め る比重が きわめて大 きい ことは今 さら言 うまで もない が,特に戦前 オ ラ ン ダ が 課 した植 民地型経済 の枠組 は,石油,石炭,錫 な ど若 干の鉱産資源 を開発 した こ とを除 くと, もっぱ ら商 品作物生産地 とな る ことを指 向 した ものであ り,そ の結果,原住民大多数が古来営 んで きた 自給的農業 とは まった く構造 を ことにす る企 4) 業的 農園農業が発達 した。 植民地経営 の 1つの典型 とみな され るオ ランダ額東 イ ソ ドの植民地化は, しか し,島峡世 界全域 に同 じよ うにお こなわれ たのでは もち ろんない。 ジャワとマ ド ゥラ (Madura,10),以外 のすべての地域は一括 して外 領 と呼ばれ るが,表1に明 き らかな よ うに,面積では わずか 7矧 こす ぎない ジャワに今世紀は じめ全人 口の 80%が住み,そ の後外領 の開発が進み過密 な ジ ャワか らあ る程度人 口が流 出 したか らこの比率は 低下 した と はいえ,1960年においてなお65%前後 であ る。両者 の 5) 人 口密度 の差 も当然 きわ めて大 きい。 表
1
イ ン ドネシアの面積 と人 口 1905年 1930年 196 1年 面 積 人 口 密度 人 口 密度 人 口 密度 ジ ャ ワ 13喜ぶ 言 芋90:…92 229 設 写吉男 315 66g:35/2 477 外 領 1,797….王事
三
2.7:宴吉2 4・3 !?.・392 10・7 三言.諸声5 19・2 計 1,904,345 38,036 19.9 60,727 31.8 97,085 51
.
0
単位は面積 kmコ,人 口1,000人,人 口密度 1km-2当 り人,J出所 :McVey,pp.14,15;Fisher,p.290.
この ジャソの圧倒的な人 口支持 力の背景を少 し見 て お く必要があ るだ ろ う。 ジ ャリ島は 東西 1,000km た らず, 南北 は 100km ない し 150km,面積はわが本 州の 2/3であ る。 在校
L
川
底が島の中央部を東西に走 るが,北 の ジ十 ',7海 側に はチ タル ム (Tjitarum),チて ヌク (Tjimanuk),スラ ン (Serang),ソロ (Solo)な どの河川が,
南 のイ ン ト 洋岸には プロゴ (Progo).ス ラ- (Scraju),jZン ド・LJ (Tandtlj)な どの河川がつ くる沖 積平野 の発達が よ く, 山地にはバ ソ ドン (Bandung).ガル (Garut),てデ (ウソ (Madiun),ケデ (リ (Kediri),て ラン (Malang)
や 溶岩は安 山岩,玄武岩性で,それ が風化,運搬 ,堆 積 された河谷は沃土に恵 まれ てい る。 赤道か ら少 し離れ て位 置 し (南緯6か ら9),乾季, 雨季が規則正 し く交代す るモ ンスー ン気保を有す るニ 12月か ら3月 までは
湿
潤な西 モ ンスー ン, 6, 7月に は 乾燥 した東 モ ソ ス- ソが吹 き,
島の東端を除 き年
降雨量は ジ ャカル タ (I)jakarta)1,800nm1,/:ノ ドン 1,867mm,ジ 二1クジ ャカル タ (Jogjakarta)2,187mm ,スラバ ヤ 1,734rllm と,適度 な雨去封こ恵 まれ てい る。 スマ トラ, カ リマ ンタンの場合には マ ングロー ブ林が 幅広 く海岸線をほ ど り,奥地- の進 入を附 んてF'f・j発を 困難に したが, この点 ジ ャリは 行利であ り,山地 もま た スて トラほ ど連続的でな く,-73-7-1,ン //ソほ ど奥沫 くない。 在来文 化に高度 の農
業
技紬を専 人 Lた で ン ト文化 は,は じめ て ラ ツう (Malacca)海峡に面す る交通 の 要衡南東部 スマ トラと,土敏肥沃で人 目支持 力が大 き 4) rプ ランテ- シ 三,ンは通常 ヨ← ロ ソバ人が鋒':EI.I: し,労働力 と日
本 を集j'!J的に用いて,
世 非苗場 向 けの価伯あ る農産物 を生産す る,大 きな農
工業企 業体であ る」 とい う W aibelの定義に した が う が, ここでは, プランテ-シ ー]ソが経営す る農園 (エステー ト)を も指す。 5) あ る推定に よると (McVey,pp.21,22) ジャ ソ の人 口 (1960年 に 6,250万人)は現在 の,出生率 を 維持 す ると,30年後 には 1億
2,000万 ない し 1億 4,600万 人にな る。 出生率不変で死 亡率低下すれ ば ,1990年度に人し」1億人に とどめ るためには, 5年 ごとに 500万 人が井 領または国外-移出 L左 ければ な らない 、 ---- 1 13--山 南 rJ' iy ア 研 究 第 3怨 第 5tlJJ 写真
3
Genong Sumbin 中腹 の畑地。 タバ コ, トウモ ロコシ, マ メ類 ,キ ャベ ツがつ くられ てい る。 か った東部,中部 ジャワの河谷中流部に定着 した。 ジ ャワでは プ ロゴ, ソロ, ブラソタス(Brantas)諸川
の 流域に ヒソ ドゥ王朝がおかれ,14世紀 に シ ュ リー グ イ ジ ャヤ王朝が滅亡 してか ら, マ ジャバ ヒ ト王 国は強大 とな った。同 じくイソ ドか ら伝 え られた イス ラ- ム文 化は主要 な ヒソ ドゥ文化 中心、地 を イ ス ラー ム化 した が, 同時に ヒソ ドゥ文化 の影響が弱か った西部 ジャワ の ス ソダ人や南部 カ リマ ンタンのバ ンジ17ル人を熱心 な イスラー ム教徒に したo 仁コ l=l コ 砂 イ ソ テ 痩 目 ヒ 糖 、、コ 革 ′1 茶 チ ン コ ナ コ ブ ラ ー17 シ 油 コ ム サ イ ザル他 繊 維 タ ピ オ カ 3 川 1 18 山 1511年 マ レー半 島のマ ラ ッカを征 服 した ポル トガルは島峡世 界の重要 性 に気づ くことな く,オ ラソダが こ れにかわ る。1621年 バ タグ イア( Ba-tavia,現在 の ジ ャカル タ)に おかれ た東 イ ン ド会社 の商館は元来 マル ク 諸島に往復す るオ ランダ商船を保護 す ることを 目的 とした もので あ った が,香料貿易を独 占す るためには マ タラム (Mataram)王 国そ の他 の原 住 民国家 の勢 力を弱小化す る必要 が お こ り, さ らに後には有利な熱帯作 物 としてその価値が注 目され たサ ト ウキ ビ, コ- ヒを栽培す る土地を獲 得す るため,東 イ ン ド会社は次第に 領土拡張に の りだ し,1743年 までに ほ ジ ャワ北岸 の大部分を支配下 にお さめた。1798年か らは オ ランダ政府 に よる直接的経営 にかわ り,1811年 か ら短期間 イギ リスが介入 したが, 1830年か ら植 民地収奪法 の典型 と非難 され る 「強制耕 作制度」(cultuurstelsel)をお こない,莫大な利益を 母国に もた らした。 土着農民に一定量 の商 品作物 を栽培 し収穫物 を植 民 地政府に物納す る ことを義務づけた この強制耕作 の時 代に, オ ラソダの勢 力は バ クゲ イ7, ス ラバ ヤ, スマ ラソ (Semarang)3港 の後背地 か ら次第に ジ ャワ全 島 表2
主 要 農 産 物 輸 出 量 1830-1960 1840 1850 1860 1870 1880 1890 1900 1913 1920 1930 1940 1952 1960 70 51 56 - 85 38 51 29 62 63 40 18 41 63 85 129 - 222 367 736 1471 1514 2838 804 1 35 131 78 - -11 32 52 87 125 80 3 8 27 46 82 67 229 182 5 6 6 7 9 3 3 2 1 単位 1,000トン。 .tiJ.所 :1830- 1930 フ 7ナ一二グ ァル,pp.189,244,291,470;1940- 1960 McVey,p・144・ 2 5 2 2 6 9 6 6 4 2 3 1 6 0 5 1 0 1 1 5 1 0 2 7 3 6 5 4 8 1 1 3 4 2 5 2 3 1 7 7 2 2 7 6 8 5 3 6 2 7 3 5 7 4 9 2 2 1 5 2I.ノノtI_ ∨ ト , J -′ P,ノ ー ) 「/ ,川 7_)lLR越 lri 1 9 0 0 1 9 1 0 1 9 2 0 1 9 2 9 1 9 3 8 1 9 5 9 表
3
輸1 ジ ャワ 外 領 120.8 55.2 68.6ヲ') 31.40占 219.3 95.7 69.6?() 30.40占 812.3 303.9 72.7L?,; 27.30r,; 682.0 390.1 63.6ア') 36.40ム 312.4 167.0 65.10ム 34.9% 3,300.4 1,928.3 63.20占 36.80
ム
輸 出 入金
紬
入 計 176.0 315.0 1,116.2 1,446.1 479.4 5,228.7 単位は 1900年- 1929年百万 ギル ダー, 1938年- 1959年百万/1,tfT ,LH所 :南 洋叢書, p.317;Fisher,p.347. にお よんだ。1860年代 まで蘭 印の輸出作物 のほ とん ど は ジャワ島産 出の ものであ った。 1870年 に制定 された 農業法は民間企業者が プランテ- シ ー二ンノ経J耕 こ進 出す ることを許 し,交通網 の発達,良好な治安状況,豊富 な労働力に恵 まれ た ジ 17ワは ます ます強 く農産物 輸出 経済 の枠組にはめ こまれ る。濯潮可能 な低地平野にお いては,農民が経営す る水 田にサ トウキ ビ, _/jバ コを 6」 イネと輪作す る特殊 な企業農業が成立 した のは,すで に人 口耶密で新規に開発す る土地 がなか ったためであ り, :I- ヒ,茶 ,+ ン コナな ど樹木作物 の農園は島内 の丘陵地に設け られ た。 ジャワに農三間 閑地 が もはや得 られ な くな ってか ら外 領におけ るプランテ← シ ー三ン経
営が盛んにな り, 1890 年 以後 スマ トラ, カ リマ ン :Zソ, ∴ラウェシが,石
油,錫な ど鉱物 資源 の採掘開始 と相 まって,輸 出農作 物生 産量 を増加せ しめた。 18941年i,こジ ャワは蘭 印農産 輸出箱 の827〟を 占めたが,分担率は そ の 後 低 下 し, 1925年には5000台を 切 る。 1932年以後は常 に外 領がな かば以上 を 占め るO 今 日の推定では ス-:トラが全輸出
領 の70?(''以上 を輸出 し,往時 の ジャrJの位 置を完全に 肩がわ りしてい る。 5 土地制度の特殊性 イ ン ドネシアの土地制度は注意 して お く必 要 があ る。古 い時代 の ことは不明であ るが,オ ランダが植民 輸 ジャワ外
領
157.0 73.2 68.2?'i 31.8Pt' 258.7 154.0 62.600 37.400 1,510.7 723.2 67.80,j 32.206 710.5 735.6 49.10() 50.90占 221.5 552.2 28.6?(j 71,40,i 1,295.5 8,648.6 13.07'1 87.070 計 230.2 412.7 2,225.0 1,446.1 773.7 9,944.1 地経J呂封こ乗 りだ した ころには,:t地は村落共 同休 また は国に所属す る もの と考 え られ,農民は 耕作す る椎利 は もつが所有権は有 しないのが一般であ った。強制耕 作 の時代,農民はで きるだけ 自己 の余担 を軽減す るた めに 耕作規模 を極度に零 細化 し,刷
上意欲 も低下 Lた のて,土地は荒塩す る傾 向があ った。 1854年 の枇民地 統治 令改正に よ りオ ランダは 自由主義的植民地開発に 乗 りだ したが,1870年 の土地法は, 「イ也の ものの所有 椛が証
明で きない一 切の土地は国家に屈す る」 とい う 国有化宣言をお こない,土候領や間接統 治の外 領の一 部を挽 き,土地は国有化 された。総有的な共同体 の土 地 占有権は,法日加二は, 「現 住民村落 の宅地,紺
地 , 牧地 ,お よび村落に付属す る森林荒蕪地 に対 し,シ肘 Lll 体お よびそ の成員だけが,排
他的に,拙
作 し,居・li三し, 林産物 を採集 し,家畜類 を飼育 し,狩猟す る権利 _jす 6) サ トウキ ビの場合 ,企業者は農民 たちか らlLZ‖) た水田にかれ らを農園労働者 としてや とってサ ト ウキ ビを栽培 (9月に植付け,次の年 の 4月か ら 11月の閲に収穫)し,直営工場 で製 机す る。一時に 契 杓 した水田面債の 1/3しか使用 で きず,14カ月 後に農民はサ トウキ ビ収穫後 の土地 を水田に もど してイ ネをつ くり,企業者は新 し く他 の 1/3にサ トウキ ビをつ くる とい う輪作形態 を とるO農民は 農園労働者 として賃金を得,滞灘設 備 の改 良や施 肥 の残存 に よる利益を うけ,企業者は労働 力を容 易に確保 で きた (Metcalf,pp.64,65)0 --1-115 --東 南 ア ジ ア 研 究 なわ ち処分権に変 った。利用や徴税 の事実 を立証で き ない 「「自由な る国有地 」に対 し, この処分権 が行使 さ れ る土地は 「不 自由な る国有地」であ るが,次 の3種 が あ った。(1個 定的分割制に もとづ く占有地 とは村落共 同体 の成員が配賦を うけ る土地 であ り, 占有者が死亡 しまたは共 同体を去れば共 同体に もどされ,あ らたに 成年 に達す る他 の成 員に配賦 され た。(2)定期的割替 制 に もとづ く占有地 は定期的な割替 に よ り共 同体成員に 配賦 され る。(3)世襲的個人 占有地 は 占有者が死亡 して も共 同体に もどされ ることな く,世襲的かつ個人的に 年
保
有 形 態 /・P,3巻 第5LI 継 承 され る土地で あ る。1920年代に共石牧地 と森林 を 除 き, ジャワ耕地 の75%は Ltj:裏的個人 占有地であ り, 14ア/bが固定的分割 占有地, 5チ;'が定期的割替 占有地 で あ った。 こ うい う土地制度 の もとに あ っては,外 国人が経営 す る農園は 自由に土地 を所 有す る ことは許 されず,初 期には東 イ ン ド会社 のちには植民地政府か ら所 有権を ア) 買 った私 有農園を例外 として,農 園主は,最大期限75 年 の長期租借をす るか,12年 を限度 とす る短期 租借を す るか どち らか の形 で用益権を得 たのであ る。 表 4 土地保有形態別 プランテーシ ョン面積 1938,1959 農 園 数 . しジャワ E 外領 l 1 . 計 . 1・187L 1,L 215 長 期 借 用 . 1959 ■ 国 営 短 期 借 用 村 l 短 期 借 用 土 侯 計 保 有 面 積 ・ 作 付 面 積 439 ≡ 1,657 68! 16j 2,402∫ 単位は面積1
,000ha. 出所 :Mc
Ve
y,p.140;大谷,pp.付 38,39. 戦後土地制度が改 め られた ことは言 うまで もない。 西 イ リアンの帰属をめ ぐる紛争 の副産物 であ るが, イ ン ドネシア政府は1959年 までにすべ てのオ ランダ系企 業 を一方 的に接収 し, 542の農園を農業省 の下部組織 PusatPerkebunanNegara(国営農園局,PPN)の管 理下 においた。1960年に施行 された農業基本法に よっ て戦前 の プランテー シ ョン関係 の法律はすべて廃止 さ れ ,農地使用権 ,租借権は効力を失 い,土地開発権に 改 め られた。 この土地開発権は, 「イ ン ドネシア国民 または イ ン ドネシアの法律に準拠 して設立 され 国 内に 本社 を もつ外 国系法人」が,25年 を期限 として土地 を 開発す る権利であ る。樹木作物 な ど成育に数年 を要す 0 : 941.3 55
8
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2
r 452.8署
lo.0:7:工 芸…':::; 135:'.・Sを I_・07
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i 785.5; 785.5! 0 : 45
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…恒 73.1i1,7。….l宝g 374.95 0・4! 45・8 7・3; 25・8 0.4! 100.4 0 45.1 573・Oi1,170・9 350.7; 350.7 97.2 362.50
27.2 5.9. 29.2 10
・ 55.00
4,1 l L 452・8】 827・7 る作物 の場合には期間の延長 が認め られ る。既存 の農 業会社 はすべ て この法律 の適用 を うけ, 旧権益 は奪わ れ て土地 開発権 を申請す ることが定め られたが,実際 元 の土地 が どの程度政府 に返還 されたか,今 の ところ 不 明であ る。 7) これ らの私領地 では所有権だけ でな く領主権 も 譲渡 された ので,所有者は収穫物 の1/5を と り, 果樹や家屋敷地に課税 し,村長 を任命 し,解 雇す る権限を もった。悪評はなはだ し く植民地政府は 1910年か ら私 額地 の買収 V=と りかか り,1930年 ま でに64.7万
haを買い も どしたが,なお50.2万
haの私 領地が残 った (奥 田,pp.8,9)0 - 1 16-ド -J 、二 ㌧ 二J::I.'、ノ J--/ノ テ - ン ヨ ∴"]:ftJ)Fli]起 L∴.-1 6 人 口増加 と食糧生産 現在水 田 348万 ha,畑 491万 llaを有L,20世紀 初頭 か ら現在 までに水 川は 1.29倍,畑 ril.69倍に1-削LIL 土着農民 の農業は水稲を中心 とす る自給的主殻農業 た。ただ この
間
に人 Llは 2.22倍に 増加 した のであ る を基本 とす るが,商 品作物 の栽培 も盛 んであ る。初期 か ら,土地 に対す る人 口圧は ます ます強大 にな -)てい の数値を得 ることはで きないが, ジ ャワの紺地面杭 は るo 表5
土 地 利 用 分 類, 1959年 ジ ャ ワ 農 民 保 有 地 8,499.0水
田 3,484.0畑
園 地 4,908.0 養 fEl 池 プランテ- シ 三Iン保有地 耕 作 地 未耕
作
地 森 そ 107.0 627.3 374.9 252.4 林 2,997.0 の 他 1,094.1 計 13,217.4 単位は 1,0001la.外 領は西 イ リア ンを除 く。 出所 :McVey,pp.121,123, 表6
ジ ャワの農民耕地面積 1900 水 田 270 畑 290 計 560 9 8 1 9 5 . 4 9 3 3 ⋮ 1 6 7 19 ¶ 3 4 7 2 " 0 0 0 讐 30 35 6 単位 は 1,000Ila.江
田テ:FisheI-,pp.273,332;Valkenberg,p.756・. McVey,p.121. 村落共 同体の伝統 が強 く土地総有が古来 の慣 習 であ ったが,1932年度に,水 田面積 の85?';,畑面積 の900,ノ ぼ 世襲 的 占有地 であ り,定期約割替地は水 田の9アO, 畑 の 40品,残 りは村長 そ の他 の 用途に 留 保 され てい た。 ともあれ , プランテ-シ 三lンの耕地 を合わせ て全 島面 積の 66.3ヲ'''が農業 に利用 され てい ることに な り, ll_り也が多い とい う地形的制約が強 いか ら跡地面積 の拡 大は実際上不可能 であ り,濯麿施設 の拡充や施肥に よ る反 収 の増大 が緊急 の課題 にな ってい る。 作物別 の収 穫面積は水稲, トウモ ロコシ, キ ャッサ リ 丁,陸稲, ダイズ, ナ ンキ ンて メ, サ ツマ イモな ど が 多い 。 自給作物 として もっとも確要 なイ ネは, ジ1./ 64.30Ct 26.4 37.1 0.8 4.7 2.8 1.9 22.7 8.3 外頒
11,365.0 8.4?0 1,500.0 1.1 ) 9・865・0 7・3 1,073.1 0.8 87,283.8 64.2 36,217.1 26.6 1000(7 135,939.0 100アo 午 5 5 0 0 0 1 4 6 8 0 8 8 8 8 9 1 1 1 1 1 表7
ジ ャワの人目 人 口 隼 人「
1 4,499 1920 34,428 9,374 1930 40,891 12,514 1954 54,20() 19,540 1959 59,600 28,386 単 位 は 1,000人。l
L
j
J
f7rr:Pelzer,p.254;Fisher,p.367. LJ7では水 稲が9300を 占め,外 領の6600よ りは るかに多 い,山間盆地 にあ って水利 の硬が よい水田では二期作 が普通 であ るが,乾季 に港概水が切れ る下流部 の卜沖積
平野 では,一 毛作 田に とどまる土地 が多い。肥沃な土 壌 , オ ランダが導入 した近代的濯軌水路網整備 に よる 新田の開墾に よ り,1936年以後 米を 自給 で きたが,戟 後ふたたび輸入 しなければ な らな くな った。 8) 山間のせ まい盆地 や平野 では幼稚な技術で も用 水路 を掘 り田に引水す る ことは可能であ るが,大 河川下流部 の沖積平野 に湛
灘設備 をつ くるには大 規模 の土木工事 を必要 とし,T,青木 と近代的技術を もたない農 民 の手に負えない。 --11 7-束 南 ア i/' ア 研 究 帯 3巻 簡 5号 .表
8
農 民 主 要 作 物 生 産 高 作 物 コ メ トウモ ロコシ キ ャ ッ サ バ サ ツ マ イ モ ナ ンキ ンマ メ ダ イ ズ 1928-37 平均 1937 1952 ジ ャワ鳥
;言 上 -㌣ワ ; 外領 3,830. 3,905 1,949j 2,037 4,160 ! 2,416 6,179 ! 7,637≒ 5,087・ 2,448 1 159. 18日 127 : 40 171; 269 ; 266 20∼
L
1960 計 ジ ャ ワ ; 外 領 計 1962 イ ン ド PI i ネ シ ア 三:……… 昌 三…; . 2,;;; 2,291 1,394 ; 1,315 167 211. 41 1 286i
388 49 単位は 1,000トン。 出所 :大谷,p.付 45;Fisher,p.332;McVey,p.131. 表9
商 品 別 輸 出 金 額 育 晶 砂 ゴ 27.9 29.5 28.6 23.3 0.2 0.3 0.4 3.5 コ 7 7 ヤ シ 油 1 硬質植物線維 ・ Tl コ チ タ 石 ヨ コ オ l 茶 シ ソ ピ ヒ 34.2 ! 20.9 ; 0.9 1.3 ウ ナ カ 油 4 6 3 1 1 4 2 3 3 5.5 5.3 . 9.4 ・ 5.5 1.8 16.9 出所 :フ ァー ユダ ァル,p.469;McVey,p・142・ sawah(水 田), tegal(畑)の他に, 農家 の まわ り には通常棚で囲 まれた erven(園地 )があ る。 ここに は ココヤシ,バナナ, マ ンゴな どの果樹,野菜類 ,イ 9) モ類, マ メ類 がつ くられ る。 この園地 は全耕地面積 の 15%に達す るのではないか と推定 され るが,土地生産 性は高 く,水 田や畑を所有せ ぬ農民で もよほ ど貧 し く ないか ぎ り,住 居 と園地だけは 有 す る の が 一般 であ る。 7.商品作 物生産額 の変化 現在 で もイ ン ドネシアの輸 出貿易筋 の2/3以上 は農 産物 が 占めてい る。19世紀には砂糖 , コ- ヒ, イ ンデ ィゴ,煙草,20世紀に入 ってか らはあ らたに ゴム, コ プラな どが加わ り,10種 に満たぬほ どの作物群 の生産 : 938 比 二 分 ⋮ 930 1 3 9 3 4 1 1 7.6 5.0 2.3 3.0 1.8 6.0 9 9 9 4 5 4 1 6 2 5 2 2 2,486弓 2,300 二三三 二::∴ 437弓 430 1950 ・ 1960 5 0.3 6 42.8 44.9 6 7.2 3.4 4 3.4 2.4 5.6 5.1 . 3.4 1.3 0.3 0.4 2.0 1.9 1.6 8.2 3.4 3.3 1・2 ; 2・7 1・2 1.2 0.2 1 3 4 2 3 0.4 5 18.4 1 、 0 6 6 ︻ 2 と加工が植 民地蘭領東 イ ン ドの経済的基盤をな してい た とい って よい。 商 品作物 の中に は ア ブ ラ ヤ シ,サ トウキ ビ, カカ オ,茶な どは主 として プランテ-シ ョソで生産 され , 加工が不要 または容易な コシ ョウ, ココナ ツ, カポ ッ ク, ニ クズ クな どは農民が多 くつ くる。 ゴム, コー ヒ な どは両部門が ともに分担す る。 プランテー シ ョンの 保有面積 は ジ ャワでは62.7万
9) Pelzerが指摘す る よ うに (pp.43,44)閑地に は3層 の利用区分が認め られ る。最上 層は ココヤ シ, マ ンゴ, ドリア ンな ど丈 の高い果樹,中層は キ ャ ッサ グ 7,甘橘瑛, パパイ ア,バナナな ど, 地表 お よび地下 には ヤマイモ, タロイモ,サ ツマ イ モ, マ メ類がつ くられ る。 -118-ha,新地 面積 の 7ア'tに とどま り,外 領は 107.3
万
ha,同 じ く8ヲ射こす ぎないが , この数字 か らプ ランテ-シ =i I/農業 の経 済 的重要性 を把握 す る ことは 困難 で あ るO 作物 別 に見 る と, コ- ヒ,茶 , チ ソ コナ, カカオ, カポ ックな どは ジ ャワに多 く, ココヤ シ, アブ ラヤ シ は外 箱が圧倒 的に多 いO ゴム, /jバ コは ジ ャワ,外 領作
物 1 -日 . :・ 1 ・・刀 ・ 1 、 キ茶
ウ l / ト ∵ ソ コ コ ボ ン 1〔)) と もに 同 じ程 度 につ くられ る。 輸 出寵 において上位 を 占め る ものをあげ る と次 の と お りで あ る。 輸 出量 の推 移 を見 る と砂糖 の凋落 とゴムの増大 が い ち じる しいが, ゴム以外 ほ とん どすべ ての作物 は戦前 11〕 よ り減 少 してい る ことが注 目され る。 表 10 作物 別 プ ランテ- シ =lン面積 ,生産 高,1938年 農 園 数 保 有 面 積 作 付 面 積 生 産 高 ジ ャワ 外領
計
ジ ャワ 外 領 ム 609 593 1,1202 228.9;366.9 297 40 337 105.0 33.3 ビ ヒ シ ∵ シ ク ナ l (U 7 5 1 7 0 6 8 6 1 0 4 6 2 1 7 4 ︻/ 3 8 1 8 5 4 2 3 1 5 4 6 0 2 3 6 1 4 4 7 9 3 1 1 8 2 2 1 8.5. 15.0 0.9. 91.4 8.8 13.2 2.2 1.3 5 .1 1.8 単位 は面積 1,000ha,生産 高 1,000トンO 出所 :大 谷 ,pp.付 46,47.ITisher.p.323. 8 自立経 済へ の努 力 今年 独立20周年 をむ か えた イ ン ドネシ ア共和 国政府 は Guided ∫)em0CraCyを政 治理 念 としてかかげ,経 済政 策に つ い て は Guided Econonlyを 襟 槻 してい る。政 治,経 済 の全般 にわ た り国家 の指導 力を強 めて い る。植 民地経済 か ら自立経済 に脱皮す るため,1951 年 には緊急経 済計 画,1956年 には第一
次 5カ年 計 画, 1961年 には総合 開発 8カ年 計画が発表 され た。緊急経 済 計画は 「資本 を援 助 し特恵 的市場 を用意す る ことに 10) イ ン ドネシ アは東部 では 乾 季 の あ る 気 候を も ち, ジ ャ ワでは土地 の高度 に差が あ って比 較的多 種 類 の作物 がつ くれ る点 では, キ ュー/Iや ガ-ナ な ど単一 作物 の比重 が きわ め て大 きい国 よ り恵 ま れ てい る。 また ジ ャワでは 1,177農 園 の半 数は コ ムと コ- ヒ, ゴムと茶 , チ ソコナ と茶 な ど2桂 以 上 の作物 を組み あわせ て,単一 作物 栽培 に ともな う危険 を軽減 していた。外 領 では専 門化がすすみ 1,212農 園 の うち 452は ゴムだけ ,430は コプ ラ, 40は タ/ミコ,38は コ- ヒ-,25は茶 ,19は アブ ラヤ シ,21は他 の作物 の単一
拭培 を して いた(1929年 )C ただ し, 同一農業 会社 が稗 々の農園 を もって,症 険分 散に努 めていた (奥 EL pp.32,33)。 計 ジ ャワ 外 筒 595.8 193.6 335.8 138.3 103.8 33.1 103.5 82.9 13.2 92,3 0,7; 73.8 42.0 28.8 13.2 49.9 6.2 33.0 23.5 16.3 0.3 16.9 13.5 1.4 計 ジ ャワ 外 領 計 529.4 63.6 111.5 175.1 136.9 63.0! 18.3 81.3 86.9 1,400.0 45.6 42.0 26.9! 13.8 40.7 1 39.2 19.13 30.4= 49.5 16.6. 8.0∃ 0.
1 1 ■ よ り従来 輸入 され ていた商 品を生産す る小 規模 の民族 産業 を育成 し,わ が 国の外 国貿 易- の依存度 を 低下 さ せ ん とす る,高度に ナ シ コナ リステ すックな企 図 」で あ ったが ,あ ま りに 投 資が総 花的に 過 ぎた よ うで あ る0 7 メリカ人技
術者群 をむ か え,基礎 的な天然資源 や労働 力な どの評価作業か ら,
出発 した第一 次5カ年 計 画は 公営 企業 の発 展に頚:点が おかれ ていたが, 1957年 か らは じまるオ ランダ企業 の接 収以後 ,生 産 ,投 賃, 分配 の各面 に混 乱が生 じ, 1958年 のスマ トラ, ス ラウ ェシで起 こった 内乱 ののち治安 が悪化 して計 画 の成就
ll) 砂 糖は農業投下 資本 の400んを 占めた1928年 ごろ を ピ- クに,そ の後 激減 した。製 糖工場 数は大 不 況時 代に半減 して94にな り,独立戦争 中に残 りの 半分が拡壊 され たO タ バ コ と と もに 1958年 以後 PPNの経 ノ主新二な った (McVey-,pp.141.142). コ ∴農園 の作 付面積
は戦前 ジ ャT7に40ヲ〝, スて トラ に5070,残 りは カ リマ ンタンな どにあ った。 オ ラ ンダ系農園では 1950年代 のは じめにIITi量 の高 い品 種 に大 規模 の植 えか えを した ので,近 い将来 産街 が増加す るはず であ る。外 領では移動胡作農民
に ゴム栽培 が と りいれ られ てい る (McV∈・y,pp.146 - 148)01958年 まで 輸出 最は第 1位 ,そ の後 て レ - シ アに次 ぎ第 2位 であ るO - 119-東 南 ア ジ ア 研 究 を不可能に した。 総合開発 8カ年計画のA部門発展計画に よれば,投資 総贋 2,400億ル ピアの内,農業に 11.1%,工業 27.4 %,交通通信に24.5fVo,電力に5.9%,教 育に7.99/foを 12ノ) 割当て る。 この比率は妥当であ るが, これ らの計画を 実行に移す ときの基礎にな る天然資源,人的資源を算 定評価す る事業が予算面では完全に無視 されてい るの は,重大な欠点であ ると言わねばな らないであろ う。 共和 国政府は しば しば同国の天然資源 の豊富な ことを 誇 り,それに もかかわ らず国民生活が多 くの場合豊か でないのは,植民地主義 の犠牲であ ったために他な ら ない と説 く。 しか し,政府 当局者が希望す るほ ど天然 資源が豊富であ るか ど うか,疑問視 され る向 きもない ではない。 また管理能力,産業技術を有す る人材 の不 足は実に深刻であ り,90人を こえる大臣を筆頭 とす る 巨大な官庁機構は人のみ多 くして非能率な ことは周知 の事実であ り,技術者の不足か ら生産工場や運輸施設 13) の稼業率は戦前に比べてひ ど く低下 しているとい う。 9 農民の立場 と政策 との対立 現在の農業政策は ど うであ るか。1960年 の農業基本 法は個人の土地所有権を イ ン ドネ シ ア国民にのみ認 め,その最低単位を定 めて 2ha以下 の細分割を禁 じ た。大土地所有は許 さず国が これを買いあげ,各地方 行政単位に設置 された土地改革委員会を通 じて土地な き農民に分配す る こ とを定 めた。1959年米 60.3万t (全輸入額 の 11.5!Vo),小麦粉 13.2万 tを輸入 しなけ ればな らなか ったが,米増産 3カ年計画を立て, 1人 1年に コメ 100kgと, コメ60kgに相当す るその他の 穀物を確保す る目標が定め られた。パデ イ・センター が各地に設立 され,優良種子,肥料 の供給 と信用貸に よ り単位収穫量を 現在の 1ha当 り1.13tを 2倍にあ げ るとい うO1962年末には 自給を達成 し,なお39万 t の余剰が生ず る計算であ ったが,実際には 100万 tの 不足が生 じたOイ ンフ レ-シ ョソが進行 してい るのに, 政府の米買入れ価格は低 く押 さえ られてい るので,県 民は増産に熱心でない。 1958年に 180万 haあった プランテーシ ョン保有面 積 の うち実際に作付け されていたのは46%にす ぎず, 残 りは休閑,農民の不法 占拠, または末開墾の森林の いずれかであ った。1960年以後は土地開発権に よるこ とにな ったが,オ ランダ資本以外 のアメ リカ,イギ リ 子帯3巻 第 5号 ス,ベルギ-, フランス系の各農業会社は この切換 え 14) を してい ることと思われ る。 イ ン ドネシア政府は農民農業 の発達をはか り,外 国 資本 の企業農業を縮小 させ,商 品作物 の生産加工をイ ン ドネシア人の手中に吸収す ることを 目指 しているこ とは明 らかであ るし,それは望 ましい ことであろ う。 農民の商 品作物生産が増加 してい ることは表11に うか がわれ るが,生産高ひいては輸 出高の絶対数が, ゴム とサイザルを例外 として,すべて戦前 よ り減少 してい 表 11 商 品作物生産比率 農 民 作 物 ヤ シ 油 砂 核 糖 と 8 -5 " 9 l 響 19 . プランテー シ ョン/ 1938 0 . 100 1 33 99 カ カ オ 2 茶 18 ゴ ム 48 コ ヒ 58 ニ ク ズ ク 80 煙 草 30 カ ポ ッ ク 83 コ コナ ツ製 品 95 コ シ ョ ウ ・ 99 讐 ー。。 -98 35 82 65 1 80 42 ; 20 97 20 ;1 3 90 70 10 93 17 7 99 5 1 99・9) 1 ) 0・1 出所 :McVey,p.120. ることは大 きな問題であ る。戟争 中の 日本 占寵下に プ ランテーシ ョンに土地な き農民を入耕 させ,食糧作物 の増産をほか った ことは確かにそ の後農民に よる農園 12) B部門は 2,400億 ル ピアの費用調達計画で,そ の方法 として, 石油, 木材, 水産, コプラ, コ ム,錫 , アル ミニウム,観光な どの資源 の開発を 外 国資本に開放 し,利益 の50%を得 る案を示 して い る。 13) この点 イギ リス植民地か ら独立 した イ ン ドとの 比較は興味深い。 イギ リスの植民地支配では In・
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の下級官吏 の 集団が形成 され たが, イ ン ドネシアには これが欠けてい ると思わ れ る。 14) 参考 までに1929年におけ る国別農業投下資本を 見 ると,合計 20億 6,500万 ギル ダーの うちオ ラ ンダが 15億 3,590万 ギルダーで全体の 74.4%を 占め,イギ リス 13.4%, フランス ・ベルギー5.4 %, アメ リカ 2.6%,その他諸国 4.2%であ った (奥 田,pp.29,30)。
- 120--:ント 11、ン ノ':1,-・j-る 7L'ラン ナーti,二ン農 業 の 問題 点 用地 の不法 占拠 を許 し,
商
品作物 生産 を衰退せ しめた 1つ の大 きな要 因であ る。 これ に ひ きつづ く独立戦竹 の混乱 の時代 に,多年 生 樹木作物 に必要 な手入れ が充 分に お こなわれ ず,
湛
概設備 が破壊 され て収量 の低下 や既 耕地 の放 棄 を招 いた こと も,事 実 であ る。 とは い え,植 民地経 済か ら脱 皮 し自主的 な国民経 済 を 創造 す るた めに総合開発計画 を立案 し,それ を実行 に移す た めには莫大 な賢本 を必要 とす るのに,戦前 オランダが ,課 した経 済 の枠組 は,そ うした賢本 を,今や な くそ う としてい る企業 農業 に よ って利益 をあげ fi:本 蓄積 をは か るよ うに 方向づけ ていた ので あ るか ら,問題は簡単 でな い。 また鉱 業採 掘 晶を含 めて の輸 出寵 に おいて,人 口過 剰 で開発 の余地 な く,若 干最 の石 油以外 に地 下資源 に 恵 まれ ない ジ ャ ワの分担 率は1930年 代 以後 低下 の一途 をた ど り,現 在 では外 領が80%近 くを産 出す るのに, 輸入商 品の大部 分 は ジ ャワに集 中 して外 筒に入 る こと は少 な い。 スマ トラや ス ラウェシに起 こる叛乱 は宗教 的立場 や政 党間 の意 見 の相違 に もよる ことで あ るが , 経 済的不平等 に甘 ん じ得 ない外 領住 民が,国勢 を牛コ二l二 る ジ ャワ人 中心 の ジ ャカル タ政府 の中央集権 的統 治に 反抗 して起 こる とい う側面 を もっ ことも注意 され る。 もと もと商 品作物 をつ くる農尺は好況時 には過 度 に まで収穫 して利益 を あげ よ うとす るが,商 品の価格が 低下 す る と これ を放 置 して, 自給 的食糧作物 だけ に依 存 す る傾 向が強 い。 イ ンフ レー シ ョンで もコプ ラ買付 公社 の よ うな政府機 関 の価格 が低 い と, この正式 ル ー トを避け , ス ラウ ェシか ら ミンダナ オ- 問貿易が お こ なわれ る よ うに,国家 と農 民,特 に外 領の農民 との問 には ,必ず しも利害 が一 致 しな い ことが多 い。 企業 的農業 と農民農業 ,人 口過剰 の ジ ー17ワと低開発 の外 領 とい う, 2つ の対 立 をな くし相互 補完的な発展 をはか る ことが ます ます必要 とな ってい るのに,現 在 は イ ンフ レー シ ョンと政 治勢 力間 の衝突 とい う二重 の 悪条件が あ -)て,独立後20年 の共和 国政府 の前途 は決 して 明 るい と言 えない よ うで あ る。 参 考 文 献 別技篤彦 : 『東南 アジア諸 島 の旭 住 と開発史』 古今書 院 ,東京,1960.333p.E.H.G.Dobby :SoutheastAsia.8th.ed.,Univ.of
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