描かれなかった裳着儀礼
源氏物語 紫の上の場合
The Ceremony of“Mogi”Undescribed in The Tale ofGenji Inference ofMurasakinoue’sCase
足立 雍子
ADACHIYasuko
要旨:『源氏物語』において女主人公である紫の上の裳着の描写は頗る曖昧である。その様子は 明らかにされないばかりか、結婚である新枕への手順も異例である。小稿では語られなかった部 分、描かれなかった箇所に焦点をあて、紫の上の裳着を推測する。『源氏物語』において描かれ ない部分を考える時当然、当時の貴族社会での生活実態を知る必要がある。現代を生きる我々は そこから状況を把握し、物語に描かれなかった部分を照らし出すことにより、物語に接近し奥行 を深めることができるのではないだろうか。当時の有職故実、貴族の日記などを調査することに より、紫の上の裳着儀礼を多角的に考察し想定、推測を試みる。 キーワード:源氏物語、紫の上、裳着儀礼、成女式 1.はじめに 『源氏物語』での女主人公紫の上の成女式、裳着儀礼については物語には詳細に記述されない。 描かれないことにより裳着は挙行されなかったのであろうか。本文を読み解くことにより、裳着 が挙行されたことを確認していく。また裳着の様子も、当時の有職故実、貴族の日記などから推 測し再現を試みる。紫の上の裳着は、新枕が先行し成女儀礼として順序は逆行しており、当時の 貴族子女としては異例なことである。紫の上の立場の特殊性はその儀礼に反映する。儀礼詳記よ りも少女から成女へと変容する紫の上の描写に、重きをおいた作者の意図であろう。物語には物 語の時間と場がある。語られない部分を照射することにより、逆に物語に広がりと重層性を読み
描かれなかった裳着儀礼
源氏物語 紫の上の場合
The Ceremony of“Mogi”Undescribed in The Tale ofGenji Inference ofMurasakinoue’sCase
足立 雍子
ADACHIYasuko
要旨:『源氏物語』において女主人公である紫の上の裳着の描写は頗る曖昧である。その様子は 明らかにされないばかりか、結婚である新枕への手順も異例である。小稿では語られなかった部 分、描かれなかった箇所に焦点をあて、紫の上の裳着を推測する。『源氏物語』において描かれ ない部分を考える時当然、当時の貴族社会での生活実態を知る必要がある。現代を生きる我々は そこから状況を把握し、物語に描かれなかった部分を照らし出すことにより、物語に接近し奥行 を深めることができるのではないだろうか。当時の有職故実、貴族の日記などを調査することに より、紫の上の裳着儀礼を多角的に考察し想定、推測を試みる。 キーワード:源氏物語、紫の上、裳着儀礼、成女式 1.はじめに 『源氏物語』での女主人公紫の上の成女式、裳着儀礼については物語には詳細に記述されない。 描かれないことにより裳着は挙行されなかったのであろうか。本文を読み解くことにより、裳着 が挙行されたことを確認していく。また裳着の様子も、当時の有職故実、貴族の日記などから推 測し再現を試みる。紫の上の裳着は、新枕が先行し成女儀礼として順序は逆行しており、当時の 貴族子女としては異例なことである。紫の上の立場の特殊性はその儀礼に反映する。儀礼詳記よ りも少女から成女へと変容する紫の上の描写に、重きをおいた作者の意図であろう。物語には物 語の時間と場がある。語られない部分を照射することにより、逆に物語に広がりと重層性を読み
取ることができるのではないだろうか。 2.裳着儀礼 裳着1とは女子が成人して初めて裳を着ける儀式で、男子の元服にあたる。中村義雄氏は髪上 げと共に女子成人式の中核をなす行事として王朝貴族の生活史において重要な位置を占めたと述 べる(『王朝の風俗と文学』140)。さらに『古事類苑』は次のように説く。 著裳ハモギト云フ、女子成人シテ初テ裳ヲ著スル式ナリ、年齢ハ十二歳ヨリ十四歳 ノ頃ニシテ一定セズ總テ婚儀以前ニ行フ例ナリ。預メ尊属マタハ徳望ノ人ヲ選ビテ 腰結ト為シ、裳ノ腰ヲ結ハシメマタ髪ヲ結ヒ上グ故ニ結髷理髪等ノ役アリ。 (『古事類苑』「礼式部一」601頁) 即ち、女子の成人式であり、事前に尊属に腰結役という裳の小腰を結ぶ役を依頼しておく。当 日は髪を結い上げ唐衣を着し儀式に臨む。尊属より裳を結ばれ、正装である唐衣五衣裳衣裳の装 束を身に着けることにより一人前の女性として認められることになる。年齢については12歳から 14歳頃が一般的であった。内親王の裳着年齢と実施年齢の例をあげると、康子内親王(醍醐天皇 十四皇女)は承平3年8月20日に14歳で、また昌子内親王(朱雀天皇皇女)は延長2年3月25日 に11歳で裳着を挙行している(『西宮記』11・「1内親王着裳」780・1)。禎子内親王(三条天皇 皇女)は治安3年4月1日、11歳にて行っている(『小右記』治安3・4・1)。また、藤原道長 の子女たちについても、例えば、「姫 御裳着儀 子剋」と『御堂関白記』長保元年2月9日に 記載があるように藤原彰子は12歳で行っている。藤原嬉子についても、同様12歳で裳着が執り行 われた記載がある「尚侍 着裳儀 時戌二点」(『御堂関白記』寛仁3・2・28)。 裳着の歴史的事例としては醍醐朝頃より見出せる。例えば「今夜閑院君着裳」(『貞信公記抄』 延喜13・11・27)や「今上女公主 始着裳」(同延喜14・11・19)と勧子内親王(醍醐天皇第一皇 女)の裳着記載がある。また、裳着挙行の目的には「總テ婚儀以前ニ行フ例ナリ」と前出『古事 類苑』「礼式部1」記述のごとく、婚儀を前提に社会に披露することがその一つとしてあげられ る。しかし当初の内親王の裳着を見ると、前述の康子内親王は14歳で裳着を済ませたものの、35 歳で藤原師輔の4番目の室になるまで母后穏子と宮中に同居していた。勧子内親王は15歳で裳着 を済ませた後入内など経歴は不明である。一方昌子内親王は裳着後冷泉帝(東宮妃として)に翌
年入内している。内親王は本来独身であるという通念から、裳着が直ちに婚儀に至るとは限らな かったのではないか。後述『源氏物語』に記載される、「弘徽殿女御所生女御子たち二所」(桐 壺115)はこの例に相当するだろう。 さて、約百年後『小右記』の著者藤原実資は裳着について「着裳を先として後に相ひ定べき事 也」(『小右記』治安3・6・23)と記している。即ち、入内、入侍、御匣殿、五節舞姫任務前に は裳着を済ませておくこと、また伊勢斎宮任務中は伊勢に勅使が派遣され、裳着が挙行されてい ることを記述している。治安3年関白藤原頼通の嫡男格、源師房(四位侍従)と娘藤原千古との 縁談に際しての実資の認識である。延喜年間に初出の裳着儀礼が百年後の貴族社会においては、 実資の認識する裳着儀礼の意味合いをも含むことになったのである。 3.『源氏物語』における裳着例 『源氏物語』において裳着の記載は8例見出せる。次にそれぞれの女性名、年齢、実施月、挙 行場所(邸)、腰結役、目的(結婚、入内)、巻名などを記す。なお「(?)」は本文に記述されて いない部分である。 巻 名 目 的 腰結役 挙行場所 実施月 年齢 人 物 行幸 冷泉帝尚侍出仕 父娘対面 内大臣 六条院 2月 23歳 玉鬘 梅枝 春宮へ入内 秋好中宮 六条院西殿 2月 11歳 明石の姫君 若菜上 源氏へ降嫁 太政大臣 朱雀院柏殿 年末 13,4歳 女三の宮 早蕨 匂宮と結婚 (夕霧) 六条院 2月 21,2歳 六の君 宿木 薫へ降嫁 (今上帝) 藤壺 1,2月 16歳 女二の宮 花宴 (右大臣) 右大臣邸 (?) (?) 弘徽殿女御 女御子たち二所 紅梅 大君春宮へ入内 (大納言) 大納言邸 (?) (?) 紅梅大納言大君中君 紅梅 (?) (?) (?) (?) 宮の御方 葵 源氏と結婚出自公表 (?) (?) (?) 14歳 紫の上 表1 『源氏物語』における裳着の記載例
紫の上を除いては、各女性たちの裳着の過程はほぼ順当である。父母もしくは親族による準備 の許行われている。弘徽殿女御所生女御子たち二所、六の君、女二の宮、紅梅大納言姫君等の腰 結役も当時の例から父親またはそれに順じる者が行ったと考えられる。即ち弘徽殿女御所生女御 子たち二所は右大臣邸で生育している為祖父の右大臣が(花宴433)、また六の君は父親の夕霧が (早蕨356)、内親王である女二の宮は父今上帝が務めた可能性がある(宿木462)。史実では朱雀 天皇皇女の腰結役を村上天皇が務めた例を以下の記述のごとく見出せる。「延長二・三・廿五日、 昌子内親王 於承香殿西廂着裳、天皇腰結、有送御物遊宸筆敍(三品)雖不后腹、依先朝恩 云々」(『西宮記』11・「1内親王着裳」780)。尚、宮の御方は身分的には蛍兵部卿宮と真木柱の 娘であることから女王にあたる。物語での記述では裳着を済ませたとあるが義父の紅梅大納言が 腰結役を果たしたとは考えにくい面もある(紅梅34)。一方、紫の上の裳着記載は、他女性たち と比較してもその実施時期、挙行場所、腰結役等に不明な点が多い。 4.紫の上の裳着 推測の根拠 描かれなかった紫の上の裳着については、裳着が準備されていたことの記述はあるが、具体的 な記述がないことなどから、物語の中での裳着の実施はなかったとする先行研究や考えがある2。 「『落窪物語』、『住吉物語』などにおいて、父親の後見が得られない娘には裳着が描かれない。 王朝文学においては、裳着とは家格に合った後見のできる父親が存在すること、貴族女性として 生活させる意思があること等が揃って実施される極めて限定された儀式である。」3との説である。 確かに裳着挙行には父親の後見は必要である。父親の介在がなければ裳着は行われないのだろう。 父親の存在が大きく関わっていることは否定できないが、その点について当時の内親王や摂関家 子女の例をあげて考察したい。 挙行に際し表向き、父親の立場の影響は大きい。天皇家においても内親王の裳着はその立場の 確認や入内前の儀礼となる。また摂関家にとっては政治的な配慮がより大きくその位置を占めて いる。つまり天皇家でも摂関家でも裳着挙行には表向きには父親の存在は大きい。しかしながら、 一方で実質的な采配や準備は大半が母方で執り行われていることも事実だ。裳着挙行にはやはり 母方の存在が不可欠であったろう。 『御堂関白記』によると藤原道長の子女、藤原彰子、威子、嬉子の裳着も父道長の主催とは なっているものの、式が挙行された邸宅は実母源倫子所有の土御門第であった。この土御門第は
倫子が父源雅信より伝領されたものであり、彰子誕生の頃から道長も同居していたらしい。また 寛子は母方の源明子邸、近衛御門で裳着を行っている。同じく明子出生の尊子は土御門第で裳着 を挙行したが実母邸近衛御門に儀式後帰還しており、この際明子も同行していることから、母明 子は尊子の介添えや式の準備に携わったと考える。更に道長の次女妍子の娘、禎子内親王も母方 の土御門第にて裳着を行っている(『栄花物語2』「御裳着」329)、(『小右記』治安3・4・1 33)。 一方、醍醐天皇皇女、康子内親王は北宮と称され、母后藤原穏子と昭陽舎に同居していたことか ら、母方殿舎での裳着が想定される(『西宮紀』11・「1内親王着裳」780・1)4。 『源氏物語』における女性たちも母方もしくは母代わりの者、または後見の乳母等の準備が あって裳着が執り行われている。弘徽殿女御所生女御子たち二所の裳着は右大臣邸にて行われ、 明石の姫君は六条院の寝殿で挙行され、紫の上が母として尽力している(梅枝405)。その他、六 の君は母代わりの落葉の宮が介添えをしており(匂宮26・早蕨356)、また、女二の宮の場合は亡 くなった母の藤壺女御が祖父伝来の宝物を娘の裳着の為に準備していた記述がある(寄木364)。 つまり裳着の儀も母系的社会構造の影響下にあったのではないだろうか。女子の通過儀礼、即ち 出産、産養、袴着等は実家で行われていたからである。従って紫の上の裳着を想定する場合、源 氏の援助はもとより、母代わりになる人物や財産があれば一応は挙行できたと考えられる。紫の 上には故按察使大納言邸、祖母伝来の邸が相続されたであろう。また乳母の尽力や表に出ずとも 北山の僧都も陰ながら援助したと考える。僧都は紫の上にとっては唯一の大伯父であり、若紫巻 で源氏が瘧病のため北山を訪れた際、紫の上と尼君に源氏の来訪を伝えている(若紫283)。また、 源氏に紫の上の出自を語るのも僧都であった(若紫287)。源氏が紫の上を引き取ることには当初 難色を示したが(若紫288)、源氏への返書に尼君の死去を伝え(若紫314)、その後、二条院に引 き取られた紫の上の様子を聞き「あやしきものから、うれしとなむ思ほしける」(紅葉賀390)と 喜びを述べている。僧籍に身を置きつつも源氏の人柄に当初から惹かれていた僧都であり、紫の 上の幸いをその後も祈るのであった(須磨182)。数少ない身内の中で僧都の援助は想定できる。 本文で裳着により出自は公表され紫の上は世人に認められ、作り物語以上の幸福を手にしたと描 かれる。紫の上の裳着実施の目的は果たされたことは本文の示すところである。 従って、裳着詳細については描かれなかったとは言え、裳着が必ずしも実施されなかったとは 限らないのではないか。物語には物語の場と時間と設定がある。次章にて、本文記述を検証し、 裳着挙行の可能性を推測想定する。
5.紫の上の裳着 その目的 この姫君を『今まで世人もその人とも知りきこえぬも、ものげなきようなり。父宮 に知らせきこえむ』と思ほしなり (『日本古典文学全集』「源氏物語」葵69) (以下巻名・頁数を示す 下線筆者) 源氏の裳着発意は「世人にその人と知ら」しめすことであり、同時に「父宮に知らせきこえて む」ことであった。即ち、その主たる目的は紫の上の出自を明らかにすることであった。葵祭に 源氏と同車して出掛けたこと等から、左大臣邸の女房等は紫の上を源氏が二条院に据え置いた召 人位の女性と見ていたのである。紫の上は裳着まで隠されていた為源氏が迎え(紅葉賀388)、 「すゑてかしづき」(紅葉賀394)、「内裏わたりなどにてはかなく見たまひけむ人」(紅葉賀 406)等と左大臣方の女房等に詮索され、葵の上も耳にして不快に思っていた。しかし、裳着を 機に紫の上と父宮は4年ぶりに対面を果たしたと考えられる。劣腹とは言え兵部卿宮5の娘であ ること、源氏の最愛の妻として二条院に同居していること等が明らかになったのである。 西の対の姫君の御幸ひを世人もめできこゆ。少納言なども、人知れず、故尼君の御 祈りのしるしと見たてまつる。父親王も思ふさまに聞こえかはしたまふ。嫡腹の、 限りなくと思すは、はかばかしうもえあらぬに、ねたげなること多くて、継母の北 の方は、安からず思すべし。物語に、ことさらに作り出でたるやうなる御ありさま なり (賢木95) 裳着の後は「父親王も思ふさまに聞こえかはしたまふ」、その北の方が「ねたげなること多く て」と描写されるほど紫の上は源氏に大切に扱われたのである。その出自と結婚を公にした後は 「物語に、ことさらに作り出でたるやうなる御ありさまなり」と描かれるように、世人は源氏に 迎えられた紫の上を幸い人と称したのである。紫の上は当時の貴族社会に一応受け入れられたこ とになる。『落窪物語』や『住吉物語』の女君が継母からの迫害を逃れて男君に見出され幸せを 勝ち取るという、当時の一様な継子物語のパターン以上の幸せを得たのである。裳着の様子は物 語の中で直接的には描かれないが、本文からも儀式は挙行されたことが読み取れるのである。 裳着の儀は前述内親王のごとく直接婚儀に結び付かない例もあるが、大体においては、「三の 君に御裳着せ奉り給ひて、やがて蔵人の少将に婚せ奉り」(『落窪物語』5)、「大殿の姫君、十
二にならせ給へば、年の内にも御裳着ありて、やがて内に参らせ給はむと急がせ給ふ」(『栄花物 語』「かかやく藤壺」299)とあるように、物語や史実でも結婚や入内を射程に入れて行う場合が 多かった。即ち、結婚の資格を獲得したことを社会的に披露したのである。配偶者が決まった時、 または見込みがある時に行うことが多かった。藤原師輔娘安子は裳着と同時に村上帝に入内して いる「左衛門督 男女於東家加元服」(『貞信公記抄』天慶3・4・17 226)。臣下から入内を目 的に裳着を行った例としてはその他、花山帝に入内した藤原朝光娘姚子がいる(『小右記』永観 2・12・5)。藤原定子も13歳で裳着を行い翌年正暦元年一条帝に入内している(『小右記』永祚 元・10・26)。つまり、有力貴族にとって娘の裳着は入内へのスタート地点であった。また具平親 王娘は敦康親王に嫁ぐ際、裳着と婚儀が同日に執り行われたという事例もある(『御堂関白記』 長和元12・10)。 以上のように裳着とは通常は結婚への通過過程であった。しかし、それにも拘わらず、紫の上 は実際、葵巻(葵63)で既に源氏と結ばれていたのである。従って、その異例な婚礼の形態は裳 着の描写にも自ずと制限を齎すことになるのであろう。 次に描かれなかった紫の上の裳着を当時の史実資料並びに物語内での描写から想定推測を試み る。 6.紫の上の裳着 なべてならぬさま 御裳着のこと、A 人にはあまねくはのたまはねど、B なべてならぬさまに思しまう くる御用意など、いとあり難けれど (葵69) 紫の上の裳着の記述文である。因みに以下にその訳文を示す。 A 氏おおっぴらにおっしゃることはなさらないが、B 獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅祉 氏並々ならぬふうにご計画なさる獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅祉 が、その御心遣いなどは実に類のないお志の深さである。 (『日本古典文学全集』「源氏物語」葵69) A 氏人に広くはおっしゃらないけれど、B 獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅祉 氏並々ならぬ様子にご計画なさるご用意など獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅獅祉 はたいへんたぐいのないお志の深さなのだが (『源氏物語の鑑賞と基礎知識』葵208)
『日本古典文学全集』、『源氏物語の鑑賞と基礎知識』共に、A 多くの人々におおっぴらに、 広くはおっしゃらなかったが、B 並々ならない様子に準備したとある。即ち、「A 人にはあま ねくはのたまはねど」と、知らせる人々の範囲は限定的である。源氏と紫の上の状況により、多 くの人に知らせることには限りがあったのであろう。また、招待客も多くはないだろう。この点 に関しては、後述〈7 8〉参列者の項で触れることにする。 では、Bの「なべてならぬさま」とはどの程度の裳着の規模を表すのであろうか。因みに「な べてならず」、「なべて~打消の助動詞」の語例を『源氏物語』桐壺から幻巻まで探すと他に5 例見出せた。 ①人よりさきに参りてやむごとなき御思いひなべてならず (桐壺95) ②うめきたる気色も恥づかしげなれば、いとなべてはあらねど、我も思しあはする ことやあらむ (帚木133) ③ただならず思したり。かやうにても、なべてならず、もてひがみたること好みた まふ御心なれば (若紫279) ④女御子たちなども、生ひ出づる所なれば、なべてのさまには思ふまじきを (花宴434) ⑤院も、かくなべてならぬ御心ばへを見知りきこえたまへれば、たまさかな御返り などは (賢木112) ①から⑤例が示すように「なべてならぬさま」とは「全部という訳では無いが」、「並々では ない」、「普通以上に」、「一通りではなく」等の意があり、その上のクラスに比較するとやや劣 る場合に使われる傾向にある。例えば、文例1では「帝が大切なお方(弘徽殿)と思しめすその お気持ちは並々ではなく、」の意であり、この場合、弘徽殿女御よりは桐壺更衣が寵愛を得てい ることを意味する。また、例文4では「姉妹の内親王等も年頃になっているところだから、そな たを全く他人のようには思うまいから」の意と取れる。従って、紫の上の裳着の規模「なべてな .
らぬさま」とは敢えて言えば上クラスよりはやや下る、中の上クラス程度であり、その様子は 「並々ではない」、「一通りではない」が、最上級ではないということになるであろう。 では、『源氏物語』において、特に玉鬘と明石の姫君の裳着がどのように描かれているか、そ の様子を本文より見る。明石の姫君は源氏の娘、玉鬘も源氏にとっては娘格の女性である。 玉鬘 十六日、彼岸のはじめにて、いと良き日なりけり。三条宮より忍びやかに御使いあ り。御櫛の箱など、にはかなれど、ことどもいときよらにしたまうて中宮より白き 御裳、唐衣、御髪上げの具などいと二なくて、例の壺どもに、唐の薫物心ことに薫 り深くて奉りたまへり。亥の刻にて、入れたてまつりたまふ。例の御設けをばさる ものにて、内の御座いと二なくしつらはせたまうて、御肴参らせたまふ。 (行幸303・304・305・308) 明石の姫君 御方々の女房おしあわせたる、数しらず見えたり。子の刻に御裳奉る。大殿油ほの かなれど、御けはいいとめでたし、後の世の例にやと、心せばく忍び思ひたまふる などかかる所の儀式は、よろしきだに、いと事多くうるさきを、片はしばかり、例 のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず (梅枝405) 例文いずれも傍線部のように「よき日」、「二なく」、「きよら」、「数知らず」、「めでたし」、 「後の世の例」等の語句が示すように玉鬘や明石の姫君の裳着は最上級に讃美されている。玉鬘 は冷泉帝内侍出仕を前に父内大臣と対面を果たし、明石の姫君は春宮入内を目的に中宮の腰結役 の許に挙行されている。 以上事例から紫の上裳着の規模は、玉鬘や明石の姫君の裳着とは異なる描かれ方をしている。 「なべてならず」は玉鬘や明石の姫君のそれとは明らかに差異がある。因みに「なべてならず」、 の用例は他物語等でも見られず、『宇津保物語』に3例見られたが、その意義は同様であった6。 7.紫の上の裳着 再現 紫の上の裳着をA「ひとにはあまねくのたまはねど、Bなべてならぬさま」などの記述をもと に以下その規模と様子を項目ごとに推測する。推測にあたり、『源氏物語』の時代背景は醍醐
(延喜901)・村上(天暦947)朝であるが、資料が限られていることから後一条・万寿年間 (1028)頃までの貴族の日記、物語の記述等も参考にする7。 7 1 裳着挙行 時期 紫の上の裳着実施時期を考える。前述本文「ひとにはあまねくのたまはねど、なべてならぬさ まに」に続いて「思しまうくる御用意など、いとあり難けれど」(葵69)と書かれ、「馴れはま さらぬ御気色の心うきことと恨みきこえたまふほどに、年も返りぬ」(葵70)と年が変わり新年 を迎えたことが描かれる。つまり、本文は裳着の計画は立派であったが、その詳細を語るよりも 新枕の羞恥の為源氏に打ち解けない紫の上を描き、その年は暮れたと描く。 以上の本文から紫の上の裳着実施時期はまず、葵巻末尾、新枕の後、即ち紫の上14歳の11、12 月頃に挙行された可能性があげられる。先立つ源氏との新枕は更衣を過ぎた頃であり、その三日 目の夜に源氏が亥の子餅にかけて三日夜餅を用意したことが描かれる。亥の子餅は旧暦10月の初 亥の日に食す慣習から、裳着はその後10、11、12月の3か月の間に挙行されたと推定できる。但 し10月は時間的に制約があるので、早くて翌月11月、または12月の可能性があるだろう。 一方、実施時期は次の賢木巻始めの頃、春2月、3月または初夏4月頃に実施された可能性も 捨てがたい。賢木巻は「斎宮の御下り近うなりゆくままに、御息所もの心細く思ほす」(賢木 75)と、9月御息所の伊勢下向から書き始められる。その後、物語は桐壺院の不例と崩御を語り、 源氏にとっても慌ただしい展開を迎えることになる。従って、紫の上の裳着実施時期のもう一方 の可能性は、賢木巻の1月から8月までの間となるだろう。従って時期としては葵巻末尾11月、 12月また年が明けて賢木巻1月から8月までの期間になると考えられる。 『源氏物語』において裳着時期の例を見ると、明石の姫君、六の君等のように春2月に行われ た場合が多い。玉鬘のように祖母大宮が病気中という事情を鑑みても、やはり2月16日彼岸に行 われている。また、当時の摂関家の子女を見ると、道長の娘藤原彰子、嬉子と共に2月、藤原師 輔の娘安子は3月、藤原妍子の娘禎子内親王は4月、その他昌子内親王は3月等の例がある。し かし前述康子内親王が承平3年8月20日に行っている例もあるので、6、7、8月も可能性とし てはある。しかし大半は春2、3月もしくは初夏4月に行われている。裳着の時節として一般的 であったと思われる。 一方、物語における女三の宮の裳着は12月に挙行されている。父朱雀院の出家と源氏への降嫁 の為に年末に行われた経緯がある(若菜上35)。朱雀院は病気平癒を願い出家を切望していたが、 その前に心残りの皇女女三の宮を源氏に降嫁させる事情があった。その為年末押し詰まっての裳 .
着であった。大半が春2月、3月頃に実施されている中で、女三の宮の実施日の特異さはその特 殊な状況故であった。一方、紫の上の場合は結婚の後に裳着が行われた。これは当時の貴族子女 としては特異な形である。やはり、女三の宮と同様に順当な裳着挙行ではない。従って、紫の上 の裳着実施は一般的な春2月、3月、初夏4月と考えるより、特殊な事情により新枕後、11月ま たは12月の内に挙行されたと推測する。通常にまた、円滑に挙行された裳着ではなく、女三の宮 と同様に状況に大きく左右されたからである。紫の上の結婚が源氏によって連れ出され、その邸 に据えられたという、当時としては異例な結婚形態と儀礼の不鮮明さが紫の上の今後の生き方に 影響を及ぼすことになる。 7 2 裳着挙行 時刻 裳着の儀式は吉日吉時を卜して行われるが、総じて夜間に行われる場合が多い。「皇太后西宮 酉刻臨禎子着裳(亥二点)」と『小右記』(治安3・4・1 334)に記されている。現在のおよそ 午後10時であり、先の道長の娘、尊子、嬉子も午後8時から午前零時に行われている。藤原実資 は娘の裳着日時を賀茂、安倍両陰陽師に勘申させ、慎重に日時を決定している(『小右記』万寿 元・10・14)。当時は元服と裳着は5月と9月には行われていない。両月が忌月だったと考えられ る(『史料綜覧』巻1・2・3(宇多天皇仁和3年(888)から後鳥羽天皇文治元年(1185)11 月)8。 紫の上の裳着日時も当然、吉日吉時を勘申させて行われたと考える。葵巻賀茂祭見物に源氏と 連れ立って出掛ける際、源氏は自らの手で紫の上の髪削ぎをする。この際も「『今日はよき日な らんかし』とて暦の博士召して時刻問はせなどしたまふ」(葵21)と、陰陽寮暦の博士に時間を 問い合わせていることからも推測できる。髪削ぎは裳着、結婚へと続く女性の成人式の第一歩で あった為、裳着同様吉日吉時を確認していたのである。 7 3 裳着挙行 場所 紫の上の母は故按察使大納言と故尼君の娘である。従って、場所は本来母方で準備するもので あるのでこの場合、故按察使大納言邸が順当かと考える。但し次の描写により裳着の儀、祝いの 場を設定するにはその邸は、最適な場所とは言い難いところもある。源氏は京の尼君邸には3回 訪れている。1度目は六条京極わたりの忍び所にやっと腰を上げて渡る途中、「荒れたる家の、 木立いとものふりて、木暗く見えたるあり」(若紫310)と描写される邸である。そしてそれが故 按察使大納言邸であることに気付いた源氏は、病気療養中の尼君を見舞うのであった。その後9 . .
月20頃に尼君が亡くなったことを知った源氏は喪の期間が過ぎた頃、再度紫の上の許を訪れるの である。その邸は今や「いとすごげに荒れたる所の人少なに」住んでいる状況であった(若紫 315)。そして、3度目は紫の上が父兵部卿宮に引き取られる寸前に、連れ出す時である(若紫 327)。一方、兵部卿宮は源氏が紫の上を連れ出したとも知らずに、自邸に引き取ろうと訪れた際、 邸の状況について感慨を漏らす。それは源氏がかつて感じたものと全く同じであった。 年ごろよりもこよなう荒れまさり、広うもの古りたる所の、いとど人少なにさびし ければ、見わたしたまひて、『かかる所には、いかでか、しばしも幼き人過ぐした まはむ。なほかしこに渡したてまつりてむ。何のところせきほどにもあらず。乳母 は、曹司などしてさぶらひなむ。君は、若き人々あれば、もろともに遊びて、いと ようものしたまひなむ』などのたまふ (若紫322) 父兵部卿宮は故尼君邸の古めかしい荒れた邸に、紫の上を一人残しておくことを気の毒に思い、 乳母と共に自邸に渡すことを考えていたのである。しかし、その兵部卿宮邸については「乳母は 曹司などして」として、触れられるくらいで、紫の上を迎える邸の様子は描かれない。実際その 邸には北の方が堂々と居構えている状況であり、後年蛍兵部卿宮が真木柱に通う段で、その北の 方に辟易している描写がある。やはり居心地の良い邸ではないようだ(若菜下154)。しかし、仮 に兵部卿宮邸で裳着を挙行したとして、また、如何に源氏の援助があったとしても、もう紫の上 を二条院へ連れ出すことは不可能であろう。二人が同居していることは世間周知のことであった から、今更兵部卿宮邸へ婿として源氏が通うことは考えられない。そもそも源氏の意に添わない ことである。従って、まずは二条院、寝殿ではなく紫の上が居住していた、西の対での裳着が妥 当かと考える。前述、具平親王娘が敦康親王に嫁す際、裳着が挙行されたのは枇杷殿西対の北面 であったことが参考になる。親王の娘と親王の婚儀が身分上紫の上と源氏に類似している。しか し紫の上の儀礼の方がより異例なことは確かである。 7 4 裳着 室礼 裳着挙行場所に調度はどのように配置されたのであろうか。内親王の裳着室礼について『西宮 記』の記述によると、通常の寝殿、昼御座を取り払い、毯代という敷物を敷き、大床子を立て、 母屋には御簾を垂れ、北御障子には錦端畳を4枚敷き、その上に地敷並びに茵を敷き、親王の席 として、その他結髪座が設けられたことが記されている。 .
撤昼御座、鋪毯代、立大床子、(垂母屋御簾)、北御障子敷錦端畳を四枚其上鋪地 敷幷茵、為親王座(地敷茵本家、或南三間鋪件座)結髪座在西、親王座東辺 (『西宮記』11・「1内親王着裳」780) しかし、前述のごとく紫の上の裳着の規模は「人にあまねくのたまはねど」、「なべてならぬ さま」であること、また、内親王の裳着とは身分格式共に当然差があるので、この室礼例はその まま紫の上の裳着には当てはまらない。しかし源氏の配慮で精一杯の支度がなされたことは「な べてならぬさま」の記述により考えられる。 一方、『小右記』にも裳着の室礼やその次第が克明に記されている。右大臣藤原実資は晩年に なって儲けた娘の為に裳着を挙行するが、その規模は娘の母親の身分を考慮し、上達部や公卿は 招かず四位五位に止めている。しかし実資の小野宮第を裳着儀礼場所として飾り立てている。寝 殿南の御簾、西簀子、渡殿に灯台を立て「屋内装束臨度昏訖、随身所饗右馬蜀光忠、女房衝重主 税助正頼卅前、之内一前高坏六本、二前四本、屯食十三具」西方北渡殿を饗応用にし、懸盤は藤 原能通に設けさせ自身で室礼を指示し執り行っている(『小右記』万寿元・12・13)。 『小右記』記述事項は時代的には下るが、また一つの裳着の様子を示していて、紫の上の裳着 を推測する際参考になる。藤原実資は小野宮家の流れを汲む当代一流の文化人であり、賢人右府 と称された人物であった。彼は愛娘の為に現状を踏まえてできる限りの裳着を挙行する。その様 が源氏の紫の上裳着挙行を考える上で参考になるのではないだろうか。即ち、限られた人々の中 で並々以上の裳着を挙行したのであろう。 7 5 裳着 次第 裳着とはどのように行われたのであろうか。紫の上の裳着を推測するに際して藤原道長の娘嬉 子の裳着と勧子内親王等の裳着記述を参考に取り上げたい。 「酉時許人ゝ來集。着座間右大臣被來、人ゝ着座後左大臣又被來、摂政従初座」、酉の刻に 人々が参集、その後右大臣(藤原公季)参入、左大臣(藤原顕光)参入、摂政(藤原頼通)は既 に着座、酒飯の饗応の後、陰陽師の安倍吉平が吉時であると申し来たので、寝殿に入った。「従 大宮御額具幷装束」大宮(彰子)から御額髪の装身具および装束、「又従皇太后 中宮賜装束」 また皇太后(妍子)と中宮(威子)からも装束が届いた。典侍(藤原美子)が理髪を行い、「先 着晝□座、着裳、余結之後着座」昼御座に着した嬉子に裳を着せ、自身が裳小腰を結んだと記さ .
れている。その後食膳が用意され、座を簀子に移し伶人を召して音楽の遊びになった。参集者に はそれぞれ分に応じて禄が下賜された。一家のなかで身分の高い女性からの贈り物が届き、招待 客は多人数に及んだ様子が記されている(『御堂関白記』寛仁2・2・28 196)。 一方醍醐朝の裳着次第について『貞信公記抄』が簡単に記述している。「十九日辛亥、今上女 一公主始着裳、召殿上親王 公卿、御前賜恩盃 御衣、又公主簾前有禄、終善始有善修、夜奏管 弦有」(『貞信公記抄』延喜14・11・19 54)、今上帝(醍醐天皇)第一皇女勧子内親王裳着次第は、 殿上に親王公卿が参列し、盃、御衣等賜り、その後内親王からも御簾前で禄を賜り管弦の遊びが あった。 内親王と摂関家の裳着次第がすぐ紫の上の裳着に該当するものではないとしても、おおよそ当 時の裳着儀礼の様子が推察できる。客を招き、酒飯の後、時刻になって裳着を行いその後座を移 して管弦の遊びに移り、参列者には身分に応じてそれぞれ禄が下された。 7 6 腰結役 父兵部卿宮が妥当であろう。紫の上の方の尊属は北山僧都だけである。僧籍なので不適当であ る。一方、源氏方の父桐壺院は葵巻冒頭で源氏と六条御息所との関係について訓戒を述べており、 桐壺院が腰結役を果たすのは困難であろう。従って紫の上の腰結役は父兵部卿宮が務めたと考え る。「御裳の腰は大宮の結ひたてまつらせたまふべければ」(『栄花物語』「御裳ぎ」329)と、禎 子内親王の腰結役は伯母彰子が務めている。丁度『源氏物語』での秋好中宮と明石の姫君に類似 する。次代の中宮にあやかる意味合いがある。また、道長は娘の尊子(寛仁元・4)と嬉子(寛 仁3・2)には自身で腰結役を務めた。玉鬘と内大臣、六の君と夕霧などが思いあたる。 尚、裳の結び方については「結大腰諸鉤之」と『台記』(康治元・10・14 68)では「大腰」と 表記されているが、『玉葉』(文治6・1・11 588)では「引腰」を諸鉤結び、または諸匙に結 ぶとある。これは正確には小腰を片結びではなく中央に現代の蝶結びに結んだ。また「余簾ノ下 ニ付キ、几帳ノ間ヨリ其ノ裙腰ヲ結ブ」と、腰結役が男性の場合は几帳の間から手を差し伸べて 裳を結んだ例が『吏部王記』(天慶3・8・26 105)に見出せる。重明親王は姪の代明親王娘の 腰結役を務めた際、直面では遠慮されたのであろう。 7 7 装束 髪上げ具 『源氏物語』において、玉鬘の場合は祖母に当たる大宮から「御櫛の筥」が、また、秋好中宮 からは「白き御裳 唐衣、御装束、御髪上げの具」等が届けられている(行幸304)。しかし、紫 . .
の上の装束、白唐衣裳等が藤壺宮から贈られたという記述はない。源氏と藤壺宮は義母子である うえに、藤壺宮にとって紫の上は兄兵部卿宮の娘、即ち、姪にあたるので、藤壺宮から一通りの 贈り物があってしかるべきであろう。しかしながら、源氏と藤壺宮、そして紫の上との関係は、 源氏側からの接点であり、藤壺宮と紫の上との接点は今後物語には表れてこないのである。もし 藤壺より中宮として贈り物があったならば紫の上の立場はより強固なものとなったであろうが、 具体的には描かれていない。その他の官職者では源氏の庇護を受ける受領階級の人物が参与し調 進した可能性はあるだろう。前述『小右記』(万寿元・12・12)にも見たとおりである。 裳着では五衣唐衣裳は白い色を着用したと考える。「従白唐衣裳装束給、御額具加」とあるよ うに、藤原寛子の裳着には中宮(彰子脱字)より白唐衣裳装束と額が贈られた(『御堂関白記』 寛弘6・3・27)。また、『栄花物語』(「御裳ぎ」337)には「今は白き御衣ども奉りかへて、御 髪上げには弁の宰相の典侍参りたまふ」と、禎子内親王が時刻になって白色装束を着したことが 記述されている。『小右記』にも実資娘千古の装束は長子実頼が整え、千古が白織物唐衣、同色 織物裳に着替え父実資が朝服を着し腰結役を果たしたとを述べている。 裳着の儀には関係縁者から祝いの品々が届けられるが、その贈り主は一家の誉れを代表する者 たちであり、また、贈られる者にとっては、その付加価値ともなるのであった。『御堂関白記』 には、帝や身分の高い女性からの贈り物が列記されているが、それらは家の行事を格上げし貴族 社会に喧伝するものでもあった9。紫の上の裳着儀礼の規模は自ずから限定されるが、それは儀 礼への参列者や祝いの贈答品等にも表れるである。 7 8 参列者 紫の上裳着の出席者にはどのような人物が想定できるか。「人にはあまねくはのたまはねど」 と本文にあったが、推測できる人物は少ない。まず、左大臣家では葵の上が逝去した後のことで あり、招待する側も招待される側も躊躇するところであろう。その中で可能性としては、頭中将 くらいは出席したかもしれない。一方右大臣家側からの参列は源氏とは政治的に反対勢力でもあ り、弘徽殿大后が許さないであろう。また、右大臣が一時源氏を朧月夜の婿と考えていたことも あり、これもまた複雑である。紫の上側の縁者は既に述べたように故尼君の兄である北山の僧都 しかおらず、当然僧侶の身分では遠慮したであろう。また、源氏の父桐壺院からは前述のごとく 「人のため恥がましきことなく、いづれをもなだらかにもてなして、女の怨みな負ひそ」(葵 12)との訓戒があり、更に源氏の女性関係に関わるとは考えにくいのである。だが源氏の異母兄 弟の親王たち、帥宮(後の蛍兵部卿宮)、四宮(承香殿女御腹)等は出席した可能性はある。帥 .
宮は音曲を四宮は舞を披露したであろう。帥宮は源氏の須磨下向に際し見舞いに訪れている(須 磨164)。また、源氏が政界へ帰還後、絵合巻では芸術談義の後筝の琴を演奏しており(絵合380)、 源氏には近親感を抱いている人物である。四宮は紅葉賀巻、童姿で秋風楽を舞、源氏の青海波に ついで、その素晴らしさが称えられていた(紅葉賀387)。その他の人物としては源氏の叔父、桃 園式部卿宮を推定できるが、源氏が新しい妻を得ることにはいささか気落ちがあるかもしれない。 源氏は娘の朝顔の姫君の婿として第一候補者であったからである(朝顔475)。その他少納言の乳 母、上臈女房たちは参列の栄に浴したかもしれない。従って、紫の上の裳着参列者はかなり限定 されることになる。一方、『小右記』には招待客については「今日不招客、而左弁定頼、右馬頭 兼房及四位、五位多來、不具記」とあるように公卿、殿上人は招かなかったが、四位五位の官人 が多数訪れたことが記されている。また、招待客については「大臣未有向納言家」(『小右記』永 観2・12・6)とあることから、身分の高い者は低い者の邸には赴かないことが一般的であった ようだ。招待客数は裳着の規模形態により自ずから相違があることは推定できる。従って、紫の 上の裳着は源氏と紫の上の身分を考慮すれば詳細に描くことは困難であったろう。即ち、紫の上 は先帝の孫、女王であり、源氏は桐壺院の第二皇子で臣籍に下っている。しかも裳着と結婚が逆 行しいることを考えると、裳着の様子も複雑である。因みに摂関家の子女の裳着には親王、公卿 等は、ほとんど全員が参列しており、それは非常に政治色の濃い儀礼となっている10。 7 9 禄の手配 源氏が「なべてならぬさまに思しまうくるご用意」をした、との記述より父兵部卿宮と協力し て率なく行ったことは窺える。本文に北の方が紫の上の裳着と世の羨望に嫉妬していることから も推測できる。しかしながら、その手配には源氏の苦慮が推定できる。禄は参列者に贈られるも のであるが、概ね親元や近親者が用意したからである。源氏は夫の立場であり、表立ってはでき ない。父親の兵部卿宮とは微妙な調整があったと推量できる。尚、禄は身分と状況に応じてある 程度の規範があったようだ。例えば藤原嬉子の裳着の場合、その身分に応じて禄の品には「被物 有差」と記されるように差があった。その内訳は「大臣三人女装束、加織物褂、左大将、左衛門 督、中宮権大夫取之」、大臣3人藤原顕光、公季、頼通には女装束に織物の褂を加えており、左 大将、左衛門督、中宮権大夫がこれを取りついでいる。「大納言五人織物褂、袴」、大納言5人、 藤原道綱、実資、斉信、公任、源俊賢たちには、織物褂と袴、「中納言六人綾褂、袴」、中納言 6人、藤原行成、教通、頼宗、能信、実成と源経房に綾褂と袴を、その他宰相3人と三位1人に は小褂と袴を下賜している。更に、左右大臣には馬一疋を引き出している(『御堂関白記』寛仁 .
2・2・28 196)。 因みに、引出物は本来馬を引いて出したことに由来している。貴族間では馬の贈与が最上級の 意味合いを持つ。永観2年12月4日条『小右記』によると、藤原頼忠が藤原朝光の娘姚子裳着に 際し翌日馬2疋を贈ったこと、そしてその翌々日、右大臣(藤原兼家)が朝光の家に向かい馬2 疋の引出物を受けたことを、「天下之人頗驚無極」と驚きを述べている。 8.おわりに 以上、描かれなかった紫の上の裳着の様子を本文並びに歴史的事例に基づいて推測してきた。 既に、述べたように紫の上の裳着儀礼は葵巻11月から12月までの間に限られた人数の中で、源氏 ができる精一杯の配慮をもって執り行われたと考える。その結果源氏の発意である、父娘対面も 果たし、当時の貴族社会に紫の上の位置は認知されることになったのである。一応源氏の意向は 果たせた結果となった。但し、物語は源氏の意向にも拘わらず、裳着に先立つ新枕での衝撃から 立ち直れない紫の上を描く。 女君はこよなう疎みきこえたまひて「年頃よろづ頼みきこえて、まつはしきこえけ るこそあさましき心なりけれ」と、悔しうのみ思して、さやかにも見あはせたてま つりたまはず、聞こえ戯れたまふも、いと苦しうわりなきものに思し結ぼほれて、 ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを (葵69) 今まで頼りにしていた源氏の態度に大きく戸惑い、源氏の仕打ちを恨み、目をも合わせず、冗 談にも応じない紫の上であった。物語は裳着儀礼を詳しく語ることもさることながら、少女から 大人の女性へとなる過程を丁寧に描くことに重きをおいている。そのようにして裳着挙行に気が 進まなかった紫の上も約1年後賢木巻で再登場する。既に十分に一人の女性を感じさせる存在と なっていたのである。「女君は、日ごろのほどに、ねびまさりたまへる心地して、いといたうし づまりたまひて、世の中いかがあらむと思へる気色の」(賢木113)と著しく変容し成長した女性 として描かれるのであった。そしてそこには新枕や裳着での紫の上の姿は片鱗もない。すっかり 女性らしくなりしっとりと落ち着いて今や源氏を慕い、二人の仲を案じる可憐な姿の紫の上であ る。紫の上の成女儀礼では新枕が先行しその後に裳着挙行があり、儀礼としては逆行している。
この点が紫の上の特異な立場を反映し、今後の紫の上の人生にやはり影響を及ぼすことになる。 しかし、裳着の儀を経て、成女として描かれる紫の上は、今後女主人公としてこれからの物語を 展開し牽引する役目を担うのである。異例な紫の上の儀礼描写は今後の物語への布石であった。 描かれなかった紫の上の裳着儀礼は本文を読み解くことにより、また、当時の資料から挙行さ れたことがひとまず明らかになった。描かれなかった箇所に光をあてて多角的に考察することに より、紫の上の裳着の様子はそれぞれ断片的ではあるが、浮かび上がってきたのである。描かれ なかった紫の上の裳着儀礼は今後、成長と変容を繰り返す紫の上に逆光をあてることになるので ある。 注 1.儀礼としての裳着の表記については、「 着裳 」と、漢文の公卿日記、儀典書では表記され、 ちゃくも 「 裳着 も ぎ」は和文の文学作品で、「もぎ」と訓読されている(『王朝の文学と風俗』中村義雄 塙 選書,22)。一方、「 著裳 ちゃくも」は『日本記略』『小右記』『西宮記』等に表記される。本稿では裳着 に表記を統一する。 2.描かれなかった紫の上の裳着について、江波曜子氏は紫の上の裳着は行われなかったとの仮説を 呈した。「紫の上の裳着は『人にあまねくのたまはず』準備されたことが記されるも『なべてな らぬさま』の実施が描かれない。源氏は裳着をやめたのではないか。乳母少納言など父親王の健 在を知る者もおり、父が主宰すべき裳着の無断実施への源氏の遠慮は想定できるのではないかと 思われる。」と指摘する。(『国文学孜』211号,広島大学国語国文学学会,2011) 3.更に『落窪物語』『住吉物語』を例にとり、「父親からの後見の得られない娘に裳着は描かれず、 継母の裁可、不遇な生活を強いられるが、そこから男君に見出され、救われることへの展開であ る。」と述べる。つまり、「王朝文学における裳着とは家格に見合った後見のできる父が存在す ること、貴族女性として生活させる意思があること、この二つが揃って初めて実施される極めて 限定された儀式である」と説く。物語中で裳着が言及されない女君は「敢えて想像するならば裳 着を主催すべき父が任務を放棄したためではないか」と述べる。裳着実施不明の女君として「う つほの俊蔭の娘」、「落窪の女君」をあげる。前者は「父は貧しく娘の将来については決めてや ることができず、天運、天の掟、天道と繰り返し発言しており、娘の後見は念頭にないようであ る。また後者は幼い頃から継母と暮らし実父からも後回しにされてきた女君の裳着は実施が困難 であったと推察される」と述べる。(『国文学孜』211号,広島大学国語国文学学会,2011) 4.裳着挙行場所例 儀式の行われた場所を藤原道長の子女や内親王に例を見る。一般的には母方の 邸第で執り行われている。しかし藤原実資のように母親の身分が低い為に父実資邸で行われた例 もある。
藤原彰子 土御門第 母源倫子 (『御堂関白記』) 藤原寛子 近衛御門 母源明子 (同) 藤原威子 土御門第寝殿 母源倫子 (同) 藤原尊子 土御門第 母源明子 儀式後近衛御門第に帰還 (同) 藤原嬉子 土御門第寝殿 母源倫子 禎子内親王 土御門第寝殿 母藤原研子 (『小右記』治安3・4・1 33) 昌子内親王 承香殿西廂 母熙子女王 (『西宮記』11・「1内親王着裳」780) 藤原千古 小野宮第寝殿 母不明 (『小右記』万寿元・12) 5.紫の上の父、後に式部卿宮となるが、本稿では兵部卿宮に表記を統一する。 6.「なべてならず・なべて~打消の助動詞」の用例を他の物語、日記に見ると『落窪物語』『住吉物 語』『竹取物語』『伊勢物語』『紫式部日記』『枕草子』などには見当たらない。 『蜻蛉日記』1例 「なべて知る人あらじ(天延元2月条) 『宇津保物語』3例 「只今の世に忠こそニまさる容貌なく才なべてならで」(1「忠こそ」128) 「五月の中の十日比橘なべてなし」(1「藤原の君」192) 「なべてはこのわたりにもまたかばカりの容貌はあらじ」(3「楼下」468) 7.下記日記、有職故実を参照した。 野間光辰他編『天理図書館善本叢書 貞信公記抄』天理大学出版部,昭和55年 『大日本古事録 御堂関白記』東京大学史料編纂所 岩波書店,昭和27年 浅野桂次郎校注『増補史料大成 小右記』臨川書店,昭和50年 土田直鎮校注 神道大系編纂会編『神道大系 西宮記』精興社,平成5年 米田雄介校訂『史料纂集 吏部王記』続群書類従完成会製版部からふね屋,昭和47年 橋本義彦校訂『史料纂集 台記』続群書類従完成会製版部からふね屋,昭和51年 黒川眞道校訂『玉葉』國書刊行會,内外印刷 8.因みに婚礼の吉凶等は陰陽道の伝えるところによると十干十二支のうち、甲乙が最高、戌巳が次、 又戌日は大吉、寅・酉・卯を以て凶とした。また『拾介抄』の記述には嫁娶吉日として正月丙寅、 丁卯、2月庚子、4月甲子、戌子、7月巳牛、10月庚辰、辛卯、癸卯、11月庚辰庚寅、12月丙亥、 丁卯、庚辰庚寅、とある(『簠簋内伝』『結婚の歴史』35)。 9.藤原道長家子女の裳着に際しての贈答品を次にあげる。多くの品のやり取りが記されている。 (『御堂関白記』より) 藤原彰子 東三条院詮子 装束二具 太皇太后宮昌子内親王 仮髻 末額 中宮定子 香壺筥一雙 春宮居貞 馬一疋 藤原寛子 中宮(彰子脱字) 白唐衣装束 額 源倫子 装束 藤原威子 皇太后宮彰子 額 装束
中宮妍子 装束 三条天皇 馬一疋 藤原尊子 皇太后宮彰子 衣 額 裳は彰子の物 中宮妍子 衣 藤原嬉子 大宮彰子 額 装束 皇太后宮妍子 装束 中宮威子 装束 10.例えば藤原道隆の娘定子の裳着について『小右記』永作元年10月26日条では次のように記してい る。 「二六日、甲戌、内大臣女着裳所、南殿霞殿、戌時着裳云々、摂政被結腰云々、公卿多数参訪~ 源大納言(重信)按察使大納言(藤原朝光)藤大納言(藤原済時)左衛門督(源重光)源中納言 (源保光)春宮大夫(藤原公季)源中納言(源伊陟)右衛門督(藤原道長)左兵衛督(藤原実 資?)勘解由長官(藤原懐忠)大蔵卿(藤原時光)修理権大夫 修理大夫 三位中将・左大弁等 也」 また、以下は藤原道長の子女の裳着招待客数である。(『御堂関白記』より) 藤原彰子 諸卿 右大臣 内大臣 藤原寛子 女房5,6人 公卿10余人 殿上人20余人 髪上げ 橘典侍 藤原威子 3大納言 中納言 宰相 大将 公卿10余人 髪上げ 橘三位 藤原嬉子 3大臣 5大納言 6中納言 3宰相 三位 参考文献 校注:訳 阿部秋生・秋山虔・今井源衛『日本古典文学全集』「源氏物語」小学館,1995 校注:訳 片桐洋一・福井貞助・高橋正治・清水良子『日本古典文学全集』「竹取物語」「伊勢物語」 小学館,1995 校注:訳 藤岡忠美・中野幸一・犬飼簾・石井文夫『日本古典文学全集』「紫式部日記」小学館,1995 校注:訳 松尾聰・永井和子『日本古典文学全集』「枕草子」小学館,1995 校注:訳 木村正中・伊牟田経久『日本古典文学全集』「蜻蛉日記」小学館,1995 校注:訳 藤井貞和・稲賀敬二『新日本古典文学大系』「落窪物語」「住吉物語」岩波書店,1989 校注:訳 山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進『日本古典文学全集』「栄花物語」小学館,2008 中村義雄『王朝の風俗と文学』塙書房,1962
江馬務『有職故実』河原書店,1965 伊藤慎吾『源氏物語描写時代の研究』風間書房,1968 江馬務『結婚の歴史』文化風俗選書日本風俗史学会編,1971 額田巌『結び』法政大学出版,1972 あかね会編『平安朝服飾百科辞典』講談社,1975 三苫浩輔『源氏物語の民俗学的研究』桜楓者,1980 今井源衛『源氏物語の研究』未来社,1981 「源氏物語をどう読むか」『国文学解釈と鑑賞別冊』至文堂,1986 池田亀鑑編『源氏物語事典』東京堂出版,1988 江守五夫『物語にみる婚姻と女性』日本エディタースクール出版部,1990 『古事類苑』「禮式部 服飾部」,1996 鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館,1996 五島邦治監 風俗博物館編『源氏物語六条院の生活,1999 京都国立博物館『宮廷の装束』高倉文化研究所,1999 森一郎『源氏物語の表現と人物造形』和泉書院,2000 日向一雅『源氏物語の準拠と話型』至文堂,2004 小嶋菜温子『源氏物語の性と生誕』有斐閣,2004 西沢正史企画監修『人物で読む源氏物語』「紫の上」勉誠出版,2005 森一郎 岩佐美代子 坂本共展編『源氏物語の展望』増田繁夫「紫の上の妻としての地位」三弥井書 店,2007 板野博行『源氏物語に学ぶ女性の気品』青春出版社,2008 繁田信一『かぐや姫の結婚』PHP研究所,2008 𠮷田真一 栗木延江訳『中国古代国家の服飾研究』京都書院増補版,1995 舘野和巳 岩崎雅美編『古代服飾の諸相』東方出版,2009 畑恵里子『王朝継子物語と力』進典社,2010 江波曜子『国文学孜』「裳着と女性 王朝文学における成女式の考察」広島大学国語国文学学会, 2011 小嶋菜温子 長谷川範彰編『源氏物語と儀礼』武蔵野書院,2012
足立雍子『源氏物語における裳着についての一考察-裳を着ける女と着せられる姫君-』埼玉女子短 期大学研究紀要26号,2012