〈寄稿論文〉証明としての〈粋に生きる〉 : ある
血友病HIV 感染者のライフストーリー
著者
種田 博之
雑誌名
関西学院大学社会学部紀要
号
128
ページ
21-35
発行年
2018-03-15
URL
http://hdl.handle.net/10236/00026761
1 はじめに
2017 年、ある血友病患者が肝疾患でこの世を 去った。享年 54 歳であった。ここでは、その人 物のことを Op さんと呼ぶことにする。Op さん はいわゆる「薬害エイズ」の当事者であった。ま た、亡くなる直前まで、HIV 感染者・AIDS 発症 者の置かれている状況──例えば HIV 医療体制 ──をより良くしようと尽力し続けた人であっ た。まさに傑物であった。その早い死がほんとう に惜しまれる。その Op さんについて、以前、筆 者は論文にまとめたことがある(種田,2008)。 今一度 Op さんという存在・その語りをより多く の人に知ってもらうことによって、HIV 感染者 らの状況に少しでも資することになるのではない か(そしてそれは Op さんの遺志にそうことにも なるのではないか)と考え、前論文に大幅な加筆 修正を施したのが本論文である。 「薬害エイズ」とは、1980 年代前半に起った汚 染された凝固因子製剤の使用による HIV 感染問 題である。感染被害を主として受けたのは、当該 製剤を治療薬としていた血友病患者であった。 HIV を不活化した製剤(加熱製剤)に切り替え られるまでの間に、血友病患者の約 3 割(1,500 人を超える)が感染した。1989 年、感染を被っ た血友病患者らが国と製薬企業を訴え、1996 年 になんとか和解に至った。本論文が考察の対象と する Op さんは血友病の HIV 感染者である。Op さんは、ある地方における原告のリーダー的存在 であり、また全国の原告から頼られ慕われたかた であった。さらに行政官や医療者も一目を置くか たであった。こうしたことから、Op さんはいわ ゆるカリスマであったし、社会学的な意味におい てもそうであったと思われる。 周知の通り、社会学におけるカリスマ論は M. ヴ ェ ー バ ー を 嚆 矢 と す る(ヴ ェ ー バ ー,1962, 1970)。ヴェーバーにおけるカリスマ論の要点は、 カリスマとは、カリスマの資質所持者とその支持 者の〈関係〉において成立する、ということにあ る。すなわち、ある人物がカリスマの資質──例 えば「誰でもがもちうるとはいえないような力や 性質」(ヴェーバー,1970 : 70)──を 単 に 持 っ ているだけでは不十分であり、支持者の承認によ って、「カリスマ(の資質所持者)である」とみ なされなければならない。支持者からの承認を得 るために、たえず資質所持者は当該資質を証明し なければならない。つまり、カリスマは、〈ある〉 というよりも、〈なる(なりつづける)〉というこ とである。 Op さんは社会学的な意味においてもカリスマ であったと、上で書いた。では、Op さんはいか なる証を示すことで、承認を得ていたのだろう か。それは、Op さんのモットーである「粋に生 きる」という〈生き様(行為)〉であったように 思われる。「粋に生きる」について、Op さんの 以下のように語っている(以下の Op さんの語り において、「**」は聞き手の語りの部分を表し ている)。 Op:月 1 回は休むようにしていたんですよ 〔筆者補足:HIV に関する検査のために仕〈寄稿論文〉
証明としての〈粋に生きる〉
*──ある血友病 HIV 感染者のライフストーリー──
種
田
博
之
** ───────────────────────────────────────────────────── * キーワード:「薬害エイズ」、血友病、ライフストーリー ** 産業医科大学医学部講師 March 2018 ― 21 ―事を〕。別に首になってもいいし、それぐ らいの権利主張をしようかなと、生きてい るうちに。病人を雇ったんだから、そうい うこともあるよ。で、仕事が遅れたら文句 を言うてと思っていましたから。仕事は遅 れないようにするつもりはありましたが。 いいんですよ、残さなくていいだから、こ れから先は死ぬんだから。預金とか、財形 とか、嫁さんもらうとか、ないんで、入っ てきただけ、でしょ? **:そうか、そうか、(19)88 年当時ので すね、HIV 陽性っていうのは死ぬしかな い? Op:そうです。 **:それ以外はなかった。 Op:まあ、死ぬ っ て い う の で す か ね、僕、 よく講演では『竜馬がいく』を読みまして ね、あの人が暗殺された時に、その時だけ 必要だったというオチになっているんです よ。その時、生きるか死ぬかは自分が決め るものではないから、生きるために努力を するのではなく、生きようと思ったんです よ。死のうじゃなくて、生きようと。生き ようと思いましたね。決めれないから。そ こから粋に生きようとか、もてたいとか、 かっこよく生きるとかですね、そっちが多 くなり、今日まで。だから、飄々と生きる とかですね、凛として立つとかですね、そ ういった言葉が大好きです。 〔筆者補足:この語りの前半は、1988 年に HIV への感染告知をうけて死を意識せざ るをえなかったという心境の文脈で語られ (詳 し く は 後 述 し て い る よ う に、当 時、 HIV に対する効果的な治療方法はなく、 感染は「死」を意味していた)、後半はそ うした心境からの脱却ないし転換の文脈の もとで語られている。〕 また実際の行為において「粋に生きる」という ことは、HIV 感染者・AIDS 発症者ならびに遺族 (感染者・発症者が亡くなってしまった場合)に 対する支援活動というかたちで表された。Op さ んにとって、「粋に生きる」ということは単に生 きることではなく、感染者らへの支援活動を通し て──「この人のためにやろうと思って」──、 生きることであった。すなわち、「粋に生きる」 とは「生きるか死ぬかは自分が決めるものではな いから」、生きている間は「この人のために」支 援活動をおこなうことであった。 こうした「粋に生きる」という行為──生き様 ──を、生前まさに Op さんは実践(実行)し続 けた人であった。様々な人が Op さんの行為に感 化され──Op さんの勢いに圧倒され、巻き込ま れながら(筆者もそうであった)──、いっしょ になって感染者らへの支援(の充実化)を実現し ようとしてきた。このことは、とりもなおさず、 そうした人たちが Op さんの行為を承認していた ということだろう。この点で、Op さんはカリス マであったと言える。では、Op さんの「粋に生 きる」という〈生き様〉は如何にして可能となっ たのだろうか。本論文の目的は、Op さんのライ フストーリーの記述を通して、「粋に生きる」と いう〈生き様〉が如何にして分節されたのかを明 らかにすることにある1) 。
2 基本的知識の概略
本論文を理解しやすいものとするために、まず 基本的な知識──血友病、HIV/AIDS、Op さんの フェイスシート──について概略しておこう。 2.1 血友病についての基本的知識 血友病とは血液を凝固させる因子を先天的に欠 く疾患である。約 12 種類の凝固因子うち、第Ⅷ 因子を欠く場合が血友病 A、第Ⅸ因子の場合は 血友病 B と分類される。臨床的症状として頻発 ───────────────────────────────────────────────────── 1)Op さんへの聞き取りは 2007 年 1 月 23 日約 2 時間にわたっておこなわれた。ところで、本論文が明らかにしえ ていることは、「粋に生きる」ということがまさに〈生き様〉として強化されるメカニズムに関してであると思 われる。HIV 感染を知らされ、一時期、「もんもんと」した日々を Op さんは過ごしていた。そこから「粋に生 きる」という心境へとどのようにして転換──宗教社会学の視点で言えば、conversion(回心)ということにな る──しえたのかということについては、必ずしも十分には解明できていない。 ― 22 ― 社 会 学 部 紀 要 第128号するのが、関節内出血や筋肉内出血である。その 関節内出血を繰り返すと、関節障害にまでいた る2)。Op さんは血友病 A の患者である。以下の 議論は、血友病 A に限定して進めていくことに する。 凝固因子製剤がなかっ た 時 代(1940∼68 年) における患者の平均死亡年齢は、「10.1 年」(吉田 他,1969 : 631)である。この低さから、当該製 剤が血友病治療にとって不可欠なものであること がわかる。治療方法は、当該製剤によって欠いて いる凝固因子を補う──静脈中に輸注する──と いうやり方である。輸注された凝固因子は時間と ともに失われるので(第Ⅷ因子の半減期は 15 時 間である)、その都度、補充しなければならない。 凝固因子製剤は、1960 年代半ば、臨床現場に 導入された。その時の製剤は、「クリオ製剤」と も呼ばれた。1970 年代後半、1 ml あたりクリオ 製剤の 10 数倍の凝固因子を含有した「非加熱製 剤」が現れた。HIV を不活性化した加熱処理製 剤──「加熱製剤」──が認可を受けたのは 1985 年 7 月のことであった。 2.2 HIV/AIDS についての基本的知識 HIV は、免疫にとって重要なヘルパー T 細胞 ──細胞の表面にある CD 4──に取りつき、入 り込んで、破壊する。そのため、感染者の大部分 が 10 年程度で免疫不全の状態に陥る。そして、 「通常では発症しない弱い病原体による日和見感 染症」(岡編,2006 : 12)などの症状を示すように なる。その状態が AIDS である(CD 4=ヘルパ ー T 細胞の値が 200 μl──正常値=700∼1300 μl ──を切ると、AIDS を発症したとみなされる)。 HIV はヘルパー T 細胞の DNA 遺伝子のなか に入り込む。ゆえに、HIV 抗体が産生されても HIV を見つけることができない。また HIV は変 異しやすいウイルスでもある。これらの理由か ら、HIV 抗体は HIV を体内から排除することが できない。つまり、HIV 抗体を持つということ は、「持続感染」しているということを意味する。 現在、「多剤併用療法」と呼ばれる効果的な治 療方法があり、AIDS の発症を抑えることができ る(ただし、根治はできない)。日本において多 剤併用療法が承認されたのは 1997 年である。そ れ以前は治療方法を欠いていたことで、AIDS の ───────────────────────────────────────────────────── 2)現在 50 歳代以上の血友病患者は重い関節障害を持っている人が多い。それに対して、1980 年代以降に生まれた 患者(0∼30 歳くらい)は、関節障害を防ぐという治療を受けているため、障害を持っている人は少ない(若け れば若いほど、いなくなる)。 図 1 HIV 感染血液凝固異常症の死亡報告における AIDS 指標疾患の有無 ※(財団法人エイズ予防財団,2005 : 16)を使って作成。 March 2018 ― 23 ―
致死性は非常に高かった。そのため、HIV 感染 者・AIDS 発症者は差別の対象となっ た。例 え ば、AIDS 発症者の死亡などをきっかけとした 「エイズパニック」が起った 1980 年代後半には、 医療機関における診療拒否なども起こった。 図 1 は、「薬害エイズ」において HIV 感染を被 った血友病患者の死亡報告をグラフ化したもので ある。縦棒は当該年における血友病 HIV 感染者 の死者数を、折れ線は死者数のうち AIDS 発症者 数を表 し て い る。日 本 の 血 友 病 患 者 に お け る HIV 感 染 平 均 年 は 1983 年 で あ る(三 間 屋 他, 1991)。上 述 し た よ う に、感 染 か ら 約 10 年 で AIDS を発症する。その 10 年が近づくにつれて (1980 年代後半から)、死者数と発症者数が増え ている。また、1997 年の多剤併用療法の認可に より、当該数値が急激に減っている。多剤併用療 法認可前の 90 年代半ば頃は、血友病 HIV 感染者 ・AIDS 発症者にとってまさに死が間近にせまっ 表 1 Op さんの略歴年表 西暦/年齢 Op さんの出来事 血友病・HIV/AIDS にまつわる出来事 1963 年 出生。 1964 年/1 歳 舌からの出血(なかなか止血せず、危ない状況に陥 った)。止血系の病気ということが疑われた。 1966 年/3 歳 血友病の確定診断を HD 大学病院の rd 医師のもと でうけた。血友病 A で重症であることがわかった。 1970 年 クリオ製剤販売開始。 1971 年/8 歳 関節内出血。これ以降、入院が多くなった(ただ し、3 年と 5 年の時は入院回数は 0 回であった)。 1972 年/9 歳 凝固因子製剤を輸注された記憶がある(それ以前は 輸血だったようである)。 1977 年/14 歳 膝関節の悪化。 1978 年/15 歳 関節の治療のため、療養所に入った。 非加熱製剤販売開始。 1979 年/16 歳 療養所近くの高校に入学。 1983 年/20 歳 地元に戻る。経理の専門学校へ。 HIV 発見。 「エイズの実態把握に関する研究班」発足。 ※後 の 調 査 で、こ の 年 が 血 友 病 患 者 の 「HIV 感染平均年」ということがわかる。 1984 年/21 歳 ミドリ十字のマキノ寮でおこなわれたサマーキャン プに参加。そこで sd 医師が AIDS は外国の病気で あるということを語った記憶がある。 「エイズの実態把握に関する研究班」、非加 熱製剤の使用継続を容認(3 月)。研究班 解散(3 月)。 1985 年/22 歳 就職。 厚生省、AIDS の第一例認定、あわせて血 友病患者の約 3 割が抗体陽性であったこと も発表(3 月)。 加熱製剤(第Ⅷ因子)一括承認(7 月)。 1987 年/24 歳 抗体陽性を知らされた。 エイズパニック(86 年末から)。 AZT(抗 HIV 薬)販売開始。 1988 年/25 歳 抗体に関して再検査し、再度、陽性であることを知 らされた。 1989 年 裁判の開始。 1990 年/27 歳 友人・知人の死(葬式にしばしば行くことになった)。 1994 年/31 歳 訴訟に参加。 1995 年/32 歳 1 月、AIDS を発症し、入院することになった。100 日ほど入院生活を余儀なくされる。5 月に無事退院 することができ、その後「患者と遺族の集い」を立 ち上げることになった。 1996 年/33 歳 原告団の理事に就任。 和解。 ― 24 ― 社 会 学 部 紀 要 第128号
た時代であった(自分の友人・知人の死を次々と 見送り、次は自分の番であることを覚悟しなけれ ばならないような時期であった)。 補足として述べておくと、1997 年以降の主な 死亡原因は肝疾患である。血液由来感染症対策が なされていなかった時代(1985 年より前)の凝 固因子製剤を使っていた現在 30 代半ば以上の血 友病患者は、HIV だけでなく B 型・C 型肝炎ウ イルスなどにも感染している人が多い。そうした 患者は、1997 年以降、とくに近年、肝疾患(肝 がん・肝硬変など)に苦しめられている。Op さ んがまさにそうであった。 2.3 Op さんのフェイスシート Op さんは、1963 年、ある地方都 市 に 生 ま れ た。血友病 A 患者である。頻発した関節内出血 によって、関節に障害を持っている。その治療の ため、親元を離れ(中学 3 年から高校卒業まで)、 療養所生活を送った。 HIV 感染を知ったのは 1980 年代後半であり、 「薬害エイズ」訴訟の原告となったのは 1994 年の こ と で あ る。翌 年 の 1995 年、AIDS を 発 症 し、 入院を余儀なくされる。退院後、「患者と遺族の 集い」やボランティアグループを立ち上げ、支援 活動に尽力する。Op さんの血友病と HIV/AIDS にまつわる主な「経験」、ならびに日本における 血友病と HIV/AIDS についての出来事を年表化 すると、表 1 のようになる。
3 血友病にまつわる「経験」
Op さんがどのような「経験」をしてきたのか についても明確にしておくことで、本論文がさら に理解しやすいものになると思われる。本章と次 章において、Op さんの血友病と HIV/AIDS に まつわる「経験」について、それぞれ素描するこ とにする。 血友病である Op さんは、行動(運動)の制限 を課せられていた。例えば、祖父や祖母からは 「おまえは、血が止まらんのやけん、こういうこ としちゃいかんぞー」といったようなことを言わ れていた。具体的な例として、Op さんは自転車 に乗ることを禁止されていて、そのため未だに自 転車に乗ることができないということを語ってい る。しかしながら、他方で、友だちづきあいは大 切であるという教育方針であったので、同世代の 子どもたちといっしょに遊ぶことについては寛大 であった。 Op:やっぱり、動きますしね。遊びが。あ の、本は買ってもらっても、やっぱりこ う、お友達と遊ぶと、走ったり、ボール遊 びしたりしますのでね。 **:そういうのは、止められなかったです かね。自転車はだめって言われましたけ ど。 Op:それは止められなかったですね。まあ それはね、たぶんね、それも後でばあちゃ んに聞いたことがあるんですけど、友達と 遊ぶ部分は、つきあいのことがあるから、 ひとりぼっちで暮らすよりはええだろうっ ていう考えみたいでした。 **:つきあいは許すと。友達づきあい。 Op:うん。許すというか、まあ、いい友達 をつくれというか、昔の人ですから、むし ろ、近所の人でも、助けてもらえるよう に、こう、ご挨拶はしろとかですね。そう いうふうなことが、そういうことにだけ厳 しかったんです。あとは甘かったです。 この「いい友人をつくれ」という教えは、まさ に Op さんの交友関係を形作ることになった(ま た、そうした交友関係が Op さんに「粋に生き る」ということを可能ならしめることになったと も思われる)。Op さんの聞き取りにはそうした 友人との友好な関係のエピソードが語られている (とくに中学の時は、かなり友好な人間関係をつ くることができていた)。例えば、血友病の治療 ために授業に出られなかった時には、先生からの 指示ではなく、友人たちが自主的に板書をしてく れていたことを語っている3) 。 Op さんは、小学校・中学校と、血友病を理由 ───────────────────────────────────────────────────── 3)中学校までの教員のほとんどが、Op さんが血友病であることへの配慮を示さなかった。なかには「いやなら、↗ March 2018 ― 25 ―(出血した時に対応できないという理由)に、修 学旅行などの学校行事に参加できていない。しか しながら、そのかわりに、中学校の時には友人た ちがおみやげを買ってきてくれて、そのことがう れしかったことを語っている。 Op:だから修学旅行もですね、お友だちが ですね、おみやげを買って帰ってきてくれ ましてね。お小遣い以外のものを持ってっ てですね。なんかそういうの、今でもつき あいがありますけど。そういう人たちに支 えられたから、まだ学校続いたかな。 その後も中学の時の友人たちと交友関係は続 き、よく遊んでいたことを語っている。例えば 20 代前半ぐらいの時のエピソードとして、以下 のように語ってくれている。 Op:中学の友だちが、まあ、もどってくる じゃないですか。もう 20 過ぎで、大学に 行っていた人とか。(**:卒業して)そ ういうやつと毎朝ずっと遊んでいましたか らね。(略)楽しかったですよ、そのころ は。ボーリングとかですね、ビリヤードと か、ゴムボールで野球をするとかですね、 (略)しかもですね、手を抜いてくれない んですよ、友だちだから。お前、体悪いか ら、ちょっとハンディやろうかというのが ないんですよね。だから、ボーリングを必 死で覚えましたね。こっそりと練習しに行 っ た り、(**:で も、そ れ が 楽 し か っ た?)良かったですね。 こうした中学の時の交友関係は現在も途切れる ことなく継続している。 Op:中学校の時にですね、中学校 2 年の時 の、ちょうど同級生いうか、同じクラス。 うん、その頃つきあってた人間がですね、 ちょうど 7 人おるんです。その 7 人と、た いがい今でも。 Op さんは中学 2 年生の時に、度重なる関節内 出血のために膝関節の機能が悪化してしまう。 Op さんは、松葉杖をついて 3 年生の 1 学期まで 登校していた。このままでは高校受験ができなく なるのではと思い、また HD 大学病院の rd 医師 の勧めもあって、県外の療養所で関節の治療をお こなうという決断をする。 ここで、rd 医師との関係を補足しておく。rd 医師は日本の血友病治療の権威とも言える医師で あった(rd 医師がいた HD 大学病院は先端的な 血友病治療をおこなっている医療機関である)。 rd 医師が Op さんに関節障害の治療を勧めたの は、Op さんが 3 歳の時に rd 医師から血友病の 確定診断を受けていたから、つまり Op さんは rd 医師の患者でもあったからである。Op さん は、rd 医師が自分に関節治療を勧めた時のエピ ソードを克明に覚えていて、rd 医師が「『行こう や』って、家にきてくれ」たということを語って いる。こうしたエピソードから rd 医師がかなり 面倒見の良い医師だったことが見えてくる(rd 医師は Op さんが高校に入学するうえでの保証人 にもなっており、この点からも面倒見の良さを窺 うことができる)。また、rd 医師との関係から、 Op さんは要所要所で当時の血友病治療における 最新の治療をうける機会を得ることができていた ようである。このため、HIV/AIDS の問題が起こ るまでは、HD 大学病院と関係があったことは患 者にとって良いことであったことを、Op さんは 語っている。 Op:まあ、どちらかと言うと、HD 大学病院 の先生にかかっていたことは、患者もけっ こう良かったし、専門医にかかっているね ということだって、だったんですよ。だか ら、それほどですね、あの、医者に対して ですね、今のような感情を、二面的な感情 はない(筆者補足:医師への肯定的感情と 「HIV 感染さ せ ら れ た」と い う 否 定 的 感 ───────────────────────────────────────────────────── ↘ 養護学校行け」と露骨に言い放つ教員もいて、こうしたことから中学校までの教員に対してあまり良い感情をも っていない。しかしながら、例外的な教員──小学 5 年生の時の担任の先生は体験宿泊に参加させてくれた── もいて、そのときの対応は「うれしかった」と、Op さんは語っている。 ― 26 ― 社 会 学 部 紀 要 第128号
情)、時代ですよね。 話をもとに戻す。こうして、Op さんは 3 年生 の 2 学期から療養所に入り、高校もその療養所か ら通うことになった。非加熱製剤の治験にも組み 込まれて、高校ぐらいから当該製剤を使うことが できていたようである。療養所での治療体制や非 加熱製剤の出現によって、Op さんのいわゆる QOL は飛躍的に向上した(療養所も高校も、居 心地がよく、楽しいものであった)。例えば、以 前はできなかった修学旅行などへの参加が可能と なった。また、「異性にいかにもてるのか」とい う普通の高校生であれば考えるであろうことにも 奮闘できるようになり、青春を謳歌するというこ とを経験した。 Op:その頃って、濃縮製剤もできたから、 なんでもできそうな感じで。ちょうどこ う、異性にも目覚めるじゃないですか。 **:あーそうですね、高校時代は。まった くそうですね。 Op:だから、修学旅行に向けて、みたいな。 ファイト!(**:笑)ある じ ゃ な い す か。(**:そうですね)はい。だからい い時代ですよ。ぼくはよかった。(**: そうですか)はい。 Op:そこそこ、その、療養所なのに、もて てましたし。必死でギター覚えたりとかで すね。せこいことばっかり。(笑)(**: すごい青春でしたね)青春でした。はい。 いい時代でした。それ以外の時代はだめだ っていうわけではないが、その時代はなか なかよかったです。で、田舎の高校だか ら、なんか、家政科とか被服科とかです ね、食物科とかあってですね、女性の方が 多いんですよ。(**:あー、家政も被服 もそうですね)はい。で、あの、お弁当が ですね、(**:はい)昼の お 弁 当 が ね、 (略)病院食を詰めて持ってきてくれるん です。(略)ほとんど弁当食じゃなくて、 一品と漬物のみです。(**:ふーん)か わいそうじゃないですか、見てたら。そう したら、見ててかわいそうだなーと思う子 が、お弁当作ってくれたりする。(**: 笑)だから、青春でしたよ。 **:お弁当はいくつも? Op:ひとつ。〔Op・**:(笑)〕ブタになる じゃないですか。〔Op・**:(笑)〕ひと つ確保するための努力をですね、そのころ から絶え間ない努力をするべきだと、異性 に対しては努力をしないとだめだと。(* *:そうですよ。そっか、お弁当ひとつ獲 得するために)そうそう。ギターを覚え て、お弁当ひとつ確保。こんなん残るよ ね、ずっと。(**:いやいや。笑)これ 文章化される。ダメじゃん、俺。 その後、高校卒業し(退寮し)、20 歳の時に地 元に戻ることになった。そして、専門学校にて簿 記の資格を取り、22 歳の時に就職することにな った。
4 HIV/AIDS にまつわる「経験」
HIV/AIDS に ま つ わ る こ と を Op さ ん が「経 験」するのは、地元に戻ってからのことである。 Op さんは、1984 年ぐらいに、とある製薬企業の 寮でおこなわれた血友病患者会のサマーキャンプ に参加した。その時、ある医師が AIDS に関する 話をしたけれども、Op さん自身はそうした話に あまり関心がなかった。 Op:(略)寮でサマーキャンプをやってたん ですよ。(略)ボランティアか遊びで行っ ていて、sd 医師が来まして、外国の病気 だからって言った記憶があるんです。だか ら、HD 大学病院の先生が言うんだから大 丈夫だろうなと思っていたのと、Gd 医師 がストックホルムに行きましてね、あの人 が、俗に言う宝くじ確率だ、それよりも今 の出血を止めましょうみたいな、**先生 〔聞き手の一人のこと〕が言うところの目 に見えるところのリスクのほうですね、そ っちをとるというから、お医者さんが、専 門医と称する人が言うんだから、そうかと March 2018 ― 27 ―思って、あんまり関心がなかったですね。 また、Op さんは以下のようにも思っていた。 **:(19)84 年、日本でもニュースが出始 めて、でもたいしたことがないよという。 Op:そういうような話でしたね。だから、 おそらくですね、やや怪しいなと思ってい た人の濃淡はあるかもしれませんが、大 方、こんなにパニックになるなんて誰も予 想していなかったんじゃないですかね。東 京のほうは知りませんよ。東京のかたの言 い分はわかりませんが、知っていたかたも いらっしゃいますので、とか、動いていた かたもいらっしゃると聞いていますので、 僕はとやかく言うつもりはないが、どちら かと言えば HD 大学病院系は、まあなん かあぶないかもしれんなあ、まあかからん かもしれんけど、注意しとこうかっていう ようなことですね。 Op さんの記憶が定かではないので時期につい て特定できないけれども、HIV 抗体の意味に関 して、抗体は抗原に対する防禦反応であるから大 丈夫というような理解をしていたことも語ってい る。 Op:抗体ができたら、抗体ができたらそれ は抗原抗体反応的には大丈夫ではないかっ て、そういうふうな考え方もあって。友人 同士ではまだあったんですね。 その後 1987 年に、Op さんは抗体検査を受け、 陽性であることが判明し、そのことを知らされ た。しかしながら、検査結果に間違いの可能性も あるかもしれないということから、翌年、もう一 度検査をし、再度同様の結果──HIV 感染── を知らされることになった。 Op:就職して 1 年してエイズ検査をしたら ですね、HIV の検査をしたらですね、陽 性がわかって。○○病院〔Op さんの地元 の病院〕の先生だったんですけど、(略) (先生が)内科でこられて、なんかわから んけど、たぶん大丈夫だと思うけどって。 で、やったら、そうだと。俺じゃないかも しれない、検査が間違いか も し れ ん と、 HI 大学病院〔Op さんの地元の大学病院〕 でもう 1 回やったんですよ。 1 回目の検査結果を知らされた時とは、Op さ んが就職して 1 年ほどたった時のことである。そ の時とは、まさに Op さんが「普通に生きていこ うと思った時」、「例えば経理でも、税理士でも目 指すかっていうような時」、もしくは「なんかや ろうとした時」であった。したがって、Op さん が HIV 感染を知らされた時、「なんでやねん」と いう気持ちとなり、感染を「受け入れ」ることが できなかった。 2 度目の検査を 1988 年に受け、再度、同じ結 果=HIV 感染の事実を知らされた。この時、Op さんは感染を「受け入れざるをえんということ」 になった。そのため、死を覚悟し、「もんもんと」 した日々を過ごすことになった(また、HIV 感 染を誰にも、家族にさえも告げることができなか ったために、より「もんもんと」することになっ たと思われる)。 Op:その、普通に生きていこうと思ったと きにですね、(略)その、例えば経理でも、 税理士でも目指すかっていうような時にこ んなことになりましたから、なんかやろう とした時に、なんでやねんというのはあり ましたが、HIV だからもんもんというの は、そ の Gd 医 師〔HI 大 学 病 院 の 医 師〕 の時のほうがもんもんとしていました。そ れを受け入れざるをえんということになり ましたから。2 回目だし。(**:なるほ ど)薬がないからね。一人でかかえて死ん でいこうと思っていましたからね。その、 死んでいこうと思うのが、けっこうショッ クでしたね。 「もんもんと」した日々を過ごすなかで、1990 年代初頭ぐらいになると、血友病患者会のなかで HIV 感染によると思われる死者も出て、しばし ― 28 ― 社 会 学 部 紀 要 第128号
ば葬式に行くことにもなった。 ところで、「薬害エイズ」の言説でよく語られ る「HIV に感染させられた」ことに対する医師 への非難が、Op さんには見られない(東京 HIV 訴訟原告団,1995)。反対に、「病気〔筆者補足: 血友病のことを指す〕だから AIDS になったんで あって、そこはあんまり医者のせいにしたことは ないんですよ」と語っていたりもする。しかしな がら、Op さんに医師への批判的なスタンスがま ったくないというわけではない。とくに、HIV 感染者・AIDS 発症者に対する配慮を欠く医師へ は、かなり手厳しい。 Op:○○というボランティア団体があるん ですけどね、その打ち上げかなんかの時に ですね、Gd 医師にですね、飲み屋さんで すよ、「そろそろお薬〔筆者補足:抗 HIV 薬のことを指す〕飲まんといけんねぇ」と 言われたんですよ。診察場で言えよ、そん なことは。口に出さんともてんような人だ から、もてんというか我慢のできない人だ から、まあいいんだけれど、今からすれ ば、よくはないんだけれど。嫌いだからど うでもいいんだけど。 その後、Op さんの親友が HIV/AIDS に関連す る活動をしており、参加することになった。そし て、訴訟にも加わることになった。 Op:それからだんだんと、その、○○〔HIV /AIDS 関連の NPO〕とかなんかの活動の なかに、僕の療養所時代の同じ血友病の人 たち、人がですね、親友なんですけど、そ の 子 が 活 動 を し と っ て、僕 も そ ろ そ ろ AIDS のことやらなあいけんなあと言い出 して。で、それでなんとか、あの、生きる にそれが加わったんです。AIDS をやると いうことが、AIDS を意識して生きるって いうことが加わったということですね。そ のころでも、裁判ということはあまり考え ていなかったですけどね。どっちかと言う と、誰かが悪いというよりも、どう生きる ということのほうが自分にとっては。粋に 生きるというわけだから、生き方が重要な ので、その、お金がどうかというのは。僕 が裁判を始めた動機というのは、(略)こ れで社会に訴えようやということで、それ ならやろうかということだったのでね。 Op さんは 1995 年 1 月に AIDS(サイトメガロ ウイルス性肺炎)を発症し、100 日ほど入院を余 儀なくされる。しかしながら、この時に経験した ことがその後の Op さんの転機になったと思われ る。詳しくは後述しているように、退院後、Op さんは「患者と遺族の集い」を立ち上げ、彼ら ──HIV 感染者・AIDS 発症者とその遺族──を 支援する体制をつくるための活動を精力的におこ なっていくことになる。そして、その活動は成果 ──例えば感染者らの治療体制としてエイズ治療 研究開発センター(ACC)、心理的な援助体制と して HIV カウンセリング制度など──をもたら した。
5 「粋に生きる」に向けての「経験」
本章では多少前章と重複することになるけれど も、Op さんの〈生き様〉である「粋に生きる」 ということが如何にして可能となったのかを見て いく。 1990 年代後半まで、HIV/AIDS は効果的な治療 方法がなく極めて致死性の高い疾患であった4) 。 図 1 で見たように、1980 年代後半から血友病感 染者の AIDS 発症が始まり、1990 年代後半にか けて多くの人が亡くなることになった。Op さん は、まさしくこの治療方法がない時期に AIDS 発 症を経験し生き残った人である。 Op さんは 2 度 HIV の抗体検査を受け、2 回と も同じ結果で、感染を知らされた。1 回目は 1987 年のことであり、2 回目は 1988 年のことである。 この HIV への感染を知らされた時は、まだ「粋 ───────────────────────────────────────────────────── 4)1980 年代末から 90 年代初頭にかけて AZT などの抗 HIV 薬は現れていた。しかし、副作用が強すぎたりして、 治療の決定打にはなっていなかった。 March 2018 ― 29 ―に生きる」ということは Op さんの〈生き様〉に はなっていなかった。Op さんは、その当時自分 が抱いていた将来の道が閉ざされてしまったと感 じたり、死への恐怖に苛まれながら、「もんもん と」した日々を過ごしていた。そうしたなか、転 機が訪れた。Op さんの親友が HIV/AIDS に関連 する活動をしていた。親友との関係から、Op さ んも活動に関わることになった。このあたりか ら、Op さんの考え方のなかに「生きる」という ことが、「AIDS をやるということが、AIDS を意 識して生きるっていうことが加わ」ることになっ た。 そうした活動へ本格的に力を入れようとした矢 先、1995 年 1 月、AIDS を発症してしまい、100 日ほど入院を余儀なくされる。1995 年という年 はまだ HIV/AIDS に対する効果的な治療方法を 欠いたままであり、入院中は当然死を意識するこ とになった。例えば入院中の心境を必ずしも表し たものでないけれども、以下の語り──とくに 「生き残ったらね」という言葉──から、死を意 識していたことが窺うことができる。 Op:僕までが最後の尋問〔筆者補足:和解 以降に訴訟に加わった患者は、早く結審す べく本人尋問が省略された〕だったので、 その時にですね、ちょうど○○弁護士が来 てくれまして、○○〔Op さんの地元〕で やったんですね、もう入院中だし。その時 も応援団の人たちがいっぱい来てくれまし てね。それで、受けてて、もし生き残った らね、患者の集いをやるから、その時に裁 判の説明会を、なんのこう、なにもなくこ こで話ししましょうやと言うても無理なの で、その集いの時に、1 回日の裁判の説明 会を開きたいのでって言うなら、○○弁護 士が、じゃあ、約束で生き残ったら来てや るって言って。 こ の AIDS 発 症 に よ る 入 院・退 院 を 通 し て、 Op さんは大きく 2 つのことを経験することにな った。第 1 の経験は文字通り AIDS 発症による入 院・退院である。第 2 の経験は、入院中に、たく さんの人からの見舞いをうけたことである。この 2 つの経験が相まって、Op さんを「粋に生きる」 ことへと方向づけていくことなった。 これまでの Op さんの語りなどでもわかるよう に、1995 年当時、HIV/AIDS の治療方法はまだ確 立されておらず、いわば AIDS 発症による入院は 死をも覚悟せねばならないことであった。そうし た HIV/AIDS にまつわる過 酷 な 状 況 に あ っ て、 Op さんは幸いにも退院することができた。AIDS 発症による入院・退院という経験から、Op さん は、「はじめに」で 紹 介 し た 語 り の 1 節 で あ る 「生きるか死ぬかは自分が決めるものではない」 ということを、まさに実感した。しかしながら、 「生きるか死ぬかは自分が決めるものではない」 ということから、「生きるために努力をするので はなく、生きようと思ったんですよ、死のうじゃ なくて、生きようと」思いいたることはそう簡単 なことではなかったはずである5) 。なぜならば、 退院できたからといっても、HIV/AIDS をとりま く状況は依然として過酷であったからである。す なわち、治療方法はなく、いつ再び入院を余儀な くされるか、そして最悪の場合死にいたったとし てもなんの不思議もない状況にかわりはなかっ た。こうした過酷な状況のもとで、自分の将来に 対して絶望し「投げやり」──「死のう」──に なってもおかしくなかったはずである。であるに もかかわらず、Op さんは、「投げやり」になる のではなく、「死のうじゃなくて、生きようと」 した。これは如何にして可能となったのだろう か。ここには、もう一つの「経験」、すなわち、 ───────────────────────────────────────────────────── 5)本論文は、「生きるか死ぬかは自分が決めるものではない」ということと「生きるために努力をするのではなく、 生きようと思ったんですよ、死のうじゃなくて、生きようと」ということを、別の次元にあることとして区別す る立場をとった。しかしながら、「生きるか死ぬかは自分が決めるものではない」とまで思えるということは、 そこにはもう「生きよう」ということが内包されているとも考えることができるかもしれない。ただこの場合 も、HIV/AIDS にまつわる過酷な当時の状況において、如何にして「生きるか死ぬかは自分が決めるものではな い」と思いいたることができたのかという、本文中と同様の問題がある。この問題においても、見舞いが「生き よう」とする「きっかけ」として作用することになったと思われる。 ― 30 ― 社 会 学 部 紀 要 第128号
見舞いをうけた「経験」が重要な要素として働い ていた。 Op さんは、入院中、たくさんの人からの見舞 いをうけた6) 。そうした見舞いが自分を生き残ら せたと、Op さんは思っている。例えば、Op さ んは「(見舞いの人が)たくさん来てくれたから 生き残ったと思っていたので」と語っている。ま さに自分自身が見舞いによって生き残ることがで きたので、自分のことを見舞ってくれた人たちを 支援していくこと、ならびに支援体制(HIV 感 染者・AIDS 発症者への治療体制も含む)を作っ ていくことや、作るように行政に働きかけること が、自分のできることであると考えて、「患者と 遺族の集い」の立ち上げをおこなった。 Op:僕は 95 年の 1 月に発症。まあ、サイト メガロの肺炎の発症なんですけど、それで 発症しまして、100 日かな。その時にです ね、(略)遺族の人たちとかですね、いっ ぱいいろんな人が来てくれましてね、そ の、大きなエイズのことをやるんではなく て、○○〔Op さんの地元〕でこの人のた めにやろうと思って、それで患者の集いを 立ち上げたんです。「患者と遺族の集い」 を。 Op さんの考える「自分にできることをする」 ということについて、補足しておく。それは、文 字通り「できることをすればいい」というような 単純な意味ではなく、今自分のできることを一歩 でも半歩でも新たに踏み出し、できるようにして いくという、より積極的な意味を持つ。そして、 このことは他者(支持者など)に対しても適用さ れる。Op さんは以下のように語っている。 Op:(例えば手伝いなどを)してもらえる範 囲はしてもらってますけど、してもらえる 範囲をするのが「してくれる」ってことに は入りませんから、僕の中では。だからで きることやるのは当たり前なんですよね。 できないことを一歩できるようにしてくれ るのが手伝ってくれるってことで、できる ことやるのは誰でもやれる。 話をもとに戻すと、Op さんはボランティアグ ループも立ち上げる。その立ち上げにもまた自身 の見舞い経験が生かされていた。上述したよう に、Op さん自身が見舞いによって生き残ること ができたと思っている。この点で、自分と同じ立 場にある人たちを支援していくことの重要性をま さに肌で知っていた。 Op:たくさん来てくれたから生き残ったと 思っていたので、当時まだ助からない時代 だったので、どう上手くこう、亡くなって いくのに、その、お見舞い客っていうのは 自分の、振り返った時のつくってきたもの なんですね、数少ないうちの一つ。だか ら、そういう人がいない人もいるじゃない ですか。いろんなこう、出たがりじゃない 人 と か。そ う い う 人 が 入 院 し て も 同 じ AIDS だから、こう、サポート体制を作ら んといけんとか、あわよくば犬の散歩をで はないんだが、月々の支払いとかですと か、せめてお見舞いに行って、こう、外の 風を持ってくるとかですとか、そういうこ とをしようやって言って、ボランティアを 立ち上げたのが○○〔ボランティアグルー プ名〕です。 見舞いは、Op さんに、自分の周りには自分の ことを気遣ってくれる人たちがいることを改めて 振り返させる「きっかけ」となった。そして、見 舞いに来てくれたことがうれしかったから、見舞 ってくれた人たちや自分と同じ立場にある人たち のために、自分にできることをしたいと思った。 つまり、見舞い(見舞いは自分や自分の周囲につ いて振り 返 さ せ る「き っ か け」と な っ た)と、 「この人のためにやろう」としたことが、「生きよ う」につながっていったのである。いつ死んでし ───────────────────────────────────────────────────── 6)たくさんの人たちからの見舞いは Op さんの人間関係(交友関係)に起因すると思われる。本文中にも述べた 「いい友人をつくれ」という Op さんが子どもの時の祖父母の教えが、いきたとも言えるのかもしれない。 March 2018 ― 31 ―
まうのかもわからないけれども、生死は自分では 決められないものであるから、少なくとも生きて いる間は自分にできることをして「(粋に)生き よう」としたのである。 Op:集まった時に裁判の報告もしながら、 患者の集いをずっと続けながら、そのボラ ンティアの人も患者の集いには入れないん だけれども、ボランティアチームも作って いく。その患者の集いに来ていた子たちの うちから、自分もお手伝いするわってボラ ンティアのほうにも入ってくれたのが、Ip 君(血友病感染者)だったりしたわけ。だ から、そのころから自分の粋は、今、どう 言うんですかね、なんとなく、思い出して もらう、思い出じゃなくて、記憶に残る生 き方をしよう、その時の自分の大きなモチ ベーションでしたね。たぶんかっこよかっ たと思います、今よりは。(笑) 上の語りから、Op さんが、いかに「粋に生き る」ことに、「記憶に残る生き方」をすることに、 強く動機づけられていたかがわかる。「粋に生き る」ないし「記憶に残る生き方」とは、「この人 のために」自分にできることをおこなうというこ とであった。したがって、Op さんは「粋に生き る」べく、「この人のため」の支援活動に専心し ていくことになった。そして、支援活動への専心 は、大きく 2 つのことを通してさらに強化されて いくことになった。第 1 は Op さんの専心(がん ばり)に触発された賛助である。第 2 は Op さん の「責任感」である。 第 1 に関して述べよう。Op さんの支援活動へ の専心は、ボランティアなどのかたちでさらなる 賛助(者)を生むことになった。Op さんは、自 分が入院していた時に見舞いに来てくれた人たち と同様に、そうした賛助にも自分にできること ──「粋に生きる」ことで応えていった(その根 底には HIV 感染者らや遺族のためという大前提 があったであろう)。例えば、体調が悪く「ヘロ ヘロ」の状態にあっても、賛助者(支持者)に気 遣い、そうした状態を一切見せないように、「顔 を変え」、話し合いの場に赴いたりもした(さら にその時自分ができること──「顔を変え」、賛 助者に心配かけないように、協議に出ること── に専心していくことになった)。 **:そのころ〔1995 年・96 年ごろ〕CD 4 が 1 桁だったという。 Op:顔を変えてましたから。(略)多摩川を 渡る時に顔を変えるんですよ。それまで多 摩川を渡ると列車のスピードが緩むでし ょ。顔を変えるんですよ。協議の顔に。余 所行きの顔にするんですよ。元気な顔にし て、こう。東京駅にお友だちが迎えに来て くれるんで(**:元気な顔に)ぱっと変 えるんですね。で、大阪の時は六甲トンネ ルに入ったら顔を変えるんですね、出た時 に。六甲トンネルに入ったら準備して、だ から新横浜で準備して、多摩川で変えるん です。もう天才だと思いましたよ。それま ではヘロへロなんですよ。こんな感じです もの〔筆者補足:どんな風に「ヘロヘロ」 であったのかを筆者を含む私たち聞き手に 演技で再現している場面である〕、新幹線、 3 時間も乗っているんだから。○○線〔地 元の JR 線〕から言えば 4 時間、5 時間っ てことなので。(略)六甲トンネルとか多 摩川で顔を変えてですね、まだ生きとるよ っていうような顔でスタートする。だか ら、まあ、はったりは得意なんで。 第 2 の「責任感」に関してである。Op さんに とって、「粋に生きる」ということは「責任」と も結びつくものであった。Op さん(ないし Op さんたち)の活動によって得られた成果──医療 体制などの制度──についての語りのなかで、 Op さんは次のように述べている。 Op:だから、それで医療体制を作ったから、 今、どんなにしんどくても 8 ブロック回ろ うとしています。なんとなく責任をとった 生き方がしたいんで。 この語りから、以下のことが見えくるだろう。 Op さんにとって、制度さえできてしまえば終わ ― 32 ― 社 会 学 部 紀 要 第128号
りとなるわけではなくて、自分たちの活動を通し て作られた制度だから、当該の制度に対して関わ り続けることが少なくとも自分の「責任」である と考えていることがである7) 。ところで、上で述 べたように、Op さんは他者から見舞いなどを通 して力づけてもらったと感じ、そのお返し(お 礼)として、他者を支援するための活動をおこな った。「制度」と「関わっていくこと(関わり続 けること)」とは、それぞれ「他者からの Op さ んに対しての賛助(例えば見舞いやボランティア への参加)」と「賛助してくれる他者に対しての Op さんからの支援(例えば感染者などへの支援 や制度作りのための協議への参加)」とに、置き 換えることができる。Op さんにとって、自分が 力づけてもらったのだから次は自分が力づけよう とした行為は、「責任」ある行為でもあったので ある。そして、それら一連の行為をおこなうこと が「責任」とみなしていたことによって、さらに 専心的にふるまうことにつながっていった。 以上のように、「粋に生きる」という〈生き様〉 が、Op さんの行為を律している。Op さんにと って、その〈生き様〉に反する行為は自己否定そ のものとなる。このことは、カリスマ論の視点 ──証明と承認──から、以下のように言い換え ることができる。「粋に生きる」ということは、 自分自身から「承認」を得る──アイデンティテ ィないし自己肯定感を得る──ための、自身に対 する「証明」であると8, 9) 。したがって、「粋に生 きる」ということに、ブレることは絶対にあって はならないことになる。そして、そのブレなさ が、ならびにその挙示が、他者(支持者)への 「証 明」と ま さ に な る。ま し て 実 際、Op さ ん (ら)の行為によって、HIV/AIDS の医療体制な どの獲得といった成果も実現しており、「証明」 としてはなおさらである(成果が「承認」に拍車 をかけることになる)。こうして、カリスマの証 明と承認のメカニズムを通して、「粋に生きる」 という〈生き様〉が Op さんを Op さんたらしめ る、ないし Op さん自身を具現化させることにな る。言い換えれば、当該メカニズムはその〈生き 様〉を強化させてもいるのである。
6 むすびにかえて
ここ数年、筆者は Op さんと共同研究をさせて もらっていた。筆者たちとの雑談において、Op さんは「おめおめと(あるいは無様に)生き残っ てしまって」といったようなことを、しばしば語 っていた。冗談混じりだったので、筆者は Op さ んにその発言の「真意」を尋ねてはいない。一 見、この発言は「粋に生きる」と矛盾しているよ うにも見える。しかしながら、そうではないと思 われる。 今日、HIV 感染症は治療の進歩によって慢性 疾患に移行した。このことなどで、日常の生活を 取り戻した血友病 HIV 感染者もいる。しかしな がら、依然として差別に怯える人もいる。また、 遺族においては「時間が止まったまま」という話 を、原告団関係者からよく聞きもする。とくに後 者の 2 者にとっては、「薬害エイズ」は決して終 わった過去の出来事ではなく、未だ現在進行中の ことなのである。こうしたことから、感染者らへ の支援は未だ十分なものではなく、生き残った者 がやらないといけないというふうに、自分自身を 鼓舞するために、Op さんは「おめおめと(ある いは無様に)生き残ってしまって」と語っていた ように感じる。あるいは、自身に対して叱咤しな いといけないぐらい、体調が悪かったとも考える ことができる。上述したように、「粋に生きる」 という〈生き様〉はブレることを許さない。この ことが、Op さんに、例えば「休む」ことが逸脱 であるかのように感じさせて、体の限界を超えて の無理をさせてしまったのかもしれない。 亡くなる直前まで Op さんは感染者らへの支援 ───────────────────────────────────────────────────── 7)「責任」と同時に、関わろうとすることには、制度がうまく運用されているかどうかを確認すること、言い換え るならば、制度を少しでもより良くしていこうとする目的もあったと思われる。 8)カリスマは、他者との関係(相互作用)ばかりでなく、自分自身との関係を通しても、カリスマと〈なる〉とい うことである(「自分自身から承認」ということの根底(前提)には、他者からの承認があると思われる)。 9)自分自身との相互作用という捉え方は、ミード(客我/主我)やフロイト(イド/自我/超自我)からの着想で ある(こうした自分自身との相互作用という視点は、ヴェーバーには欠いているように思われる)。 March 2018 ― 33 ―のかたちを模索していた。私たちに必要なことと は、「薬害エイズ」の当事者の「現実」に関心を 持ち続けることであろう。本論文がそのきっかけ になればと、思う次第である。最後に、今は Op さんの冥福を祈るばかりである。願わくは、まだ まだいっしょに仕事がしたかった。 参考文献 三間屋純一他、1991、「Natural History 委員会報告」『厚 生省平成 2 年度 HIV 感染者発症予防・治療に関す る研究班報告書』9∼16 頁 岡慎一編、2006、『HIV Q&A 改訂版』医薬ジャーナ ル社 種田博之、2008、「『粋に生きる』というモットー」『被 害当事者・家族のライフヒストリーの社会学的研 究──薬害 HIV 感染被害問題を中心に──』平成 17∼19 年度科学研究費補助金 基盤研究(B)研 究成果報告書(研究 代 表 者 好 井 裕 明)、81∼99 頁 東京 HIV 訴訟原告団、1995、『薬害エイズ原告からの 手紙』三省堂 ヴェーバー,M. (世良晃志郎訳)、1962、『支配の社会 学 Ⅱ』創文社 ヴェーバー,M. (世良晃志郎訳)1970、『支配の諸類 型』創文社 吉田邦男他、1969、「奈良医大小児科学教室にて観察し た血友病患者頻度並びに遺伝的研究」『奈良医学雑 誌』20、623∼637 頁 財団法人エイズ予防財団、2005、『血液凝固異常症全国 調査平成 16 年度報告書』 ― 34 ― 社 会 学 部 紀 要 第128号