【研究ノート】
日本幼児教育史再考
──明治の幼稚園黎明期について──
金 子 晃 之
Reconsideration of Japanese Early Childhood Education History
̶The Dawn of the Meiji Kindergarten̶
Teruyuki K
ANEKO はじめに 制度史から見ると明治の「学制」は、大学を頂点とした、試験制度によって上昇する近代学 校制度であった。身分制度を廃した近代国民国家による新たな人員配置の装置であった。民衆 の人づくりのシステムには依拠しない、国家の制度による人づくりのシステムである。 では国家の制度による人づくりのシステムが現れることで、民衆の人づくりのシステムはど うなったのかと言えば、学制は子どもを共同体の中で育てる「児やらい」や、他村他家での奉 公、自家での仕込み、自由な就学を前提とした寺子屋といった民衆の人づくりのシステム、言 い換えれば広い意味での人間形成の領域を、6歳以上の子どもたちを対象にして、国家の制度 によって置き換えて吸収していったといえる。但し、5歳以下の子どもたちの過ごす時間に対 しては、明治当初から対応を立ち遅らせ、簡易幼稚園、託児所や保育園となり、幼児教育の二 元化の問題として今日に至っている。学制は幼児教育を学校としての制度からある意味で外し ていたのである。 また二元化の問題は、単に制度の立ち遅ればかりでなく、幼児教育と児童教育との質的違い とその接続という点の難しさの反映でもある。教育計画という点から見ると、教育目的があり、 教育課程があり、教材があり、教育評価という一連の過程があるが、幼稚園の遊びに対する評 価と小学校での教科に対する評価には、国家の制度による人づくりのシステムとして平坦な接 続をなしていたとはいえない。例えば、遊びに対する評価は、試験を通した単純な数量化とい うわけにはいかないからである。 こうした幼児教育の問題をさらに文化論から見ると、遊びの中の人間形成力や学力に通じる ものを体系的に自覚化した文化が存在したかといった問題は、幼児教育にも核心的な影響を与 えるに違いないだろう。太田素子が指摘するように、儒教的家訓や子育て書は、子どもの遊び を教育的観点から捉え、遊びの指導を儒教的人格形成論の中に位置づける枠組みを持っている一方で、幕末好事家たちの遊び論は、遊びへの共感や子どもに対する愛おしみの感情を持って いるが教育論ではなかったといった問題もある(太田2011: 226)。このように考えると遊びと 小学校以降の教科との接続の問題は、明治前から今日まで続いている文化の問題として考える 視点も必要となるであろう。また、西洋でいう子どもたちの集団と日本でいう子どもたちの集 団にしても、想定される関わり方やそれに対する評価の視点にも、文化の相違によるズレが生 じると思われる。 思想史から見ると、キリスト教徒としての人間の中に神性を見出し、それを育む教育目的や 教育方法論と、儒教主義的な上下関係の中に和と秩序を育もうとする教育目的や教育方法論で は、同一の教材を用いても結果は自ずと違って来るであろう。 また階級文化論から見ると、近代学校は貧困や生活苦から現れる身体や無知を啓蒙し、生活 習慣を改善し、そこに規則性や秩序を与えることを通して、中産階級の文化を伝達し同化させ、 労働者階級非熟練層の文化を切り崩す装置である。今日の幼児教育における家庭支援や親支援 の在り方の中に、教師主導ではなく共感的姿勢による支援という変化や、教師と親の力関係の 逆転があるにしても、学校文化への適応という問題は、明治の簡易幼稚園の設立時から今日の 幼児教育と小学校教育との接続に横たわる非認知能力の育成という点まで、継続していると考 えられる。 このようなところから本論は、日本幼児教育史の深層にはどのような問題が横たわっている のかを再考し、その論点をいくつか整理したいと考える。 1.幼稚園黎明期における認識 学制は1872年(明治5年)に公布された。幼稚園が最初に設立されたのは、1876年(明治 9年)、東京女子師範学校附属幼稚園であった。当時、文部次官だった田中不二麻呂は開園式 において次のように述べたという。 「幼稚園ハ知識ノ種子ヲ下スノ田圃タルヲ以テ、凡ソ保育ヲ求ムルノ児輩ハ宜ク此園二於テ 快活ナル気力ヲ長ジ、勉メテ他日ノ良秋獲アルヲ期スベシ」(1) 田中は幼稚園の目的を、知識を蒔く田に例えていたが、この翌年に制定された『東京女子師 範学校附属幼稚園規則』における「幼稚園開設の主旨」には、次のような説明があった。 「第一条 幼稚園開設ノ主旨ハ、学齢未満ノ小児ヲシテ天賦ノ知覚ヲ開達シ、固有ノ心思ヲ 啓発シ身体ノ健全ヲ滋補シ交際ノ情誼ヲ曉知シ善良ノ言行ヲ慣熟セシムルニ在リ」(2) 幼稚園に意図されていたのは、子どもの持つ能力を開き、身体を健康にし、社交性を育て、 善良な言動ができるようにすることであった。
東京女子師範学校初代校長の中村正直は、当時、海外の論稿の翻訳を通して、幼稚園の意義 を考察していた。その訳稿の中には、感覚の力を育て、「修身教養」を施し、善き玩具を備え、 善き遊戯をさせて行くことが説かれていた(3)。 こうした幼稚園の教育目的に対して、附属幼稚園の実践の展開は、集団的遊びに目を向ける よりも、教具である恩物を用いた知育へと傾斜していったとする解釈がある(宍戸2014: 21‒ 22)。 附属幼稚園の監事であった関信三は、1879年(明治12年)に『幼稚園法二十遊嬉』を記し、 フレーベルの後の欧米の幼稚園実践の中で再構成された20の恩物について説明をした。関は 以下のように、恩物を通した遊戯が幼稚園の核心であることを説いていた。 「玩具物ヲ以テ自由二歓遊嬉戯セシムルノ意ヲ表スルナリ而シテ其勧遊嬉戯二因テ一大緊要 ナル目的ヲ間接二養成スルヲ本旨トス」(4) この恩物が二十のものとして整理されたのは、1860年代後半のアメリカであった(湯川 2001: 186)。 恩物は、関信三、松野クララ、豊田芙雄によって定着していったが、関信三自身、課業にお いては恩物を用いるが、自由遊戯においては手毬、独楽、羽子板、かるたといった伝統的玩具 を用いることを説いていた(宍戸2014: 35)(岡田1977: 52)。 そうした中、明治10年代後半になり、翻訳書の影響を受けない幼稚園の手引書が出版された。 飯島半十郎『幼稚園初歩』(1885年)である。 これは課業で恩物を使用せずに、日本の伝統的なものを用いようとするものであった。貝殻 をおはじきとして遊ぶ「細 き さ ご 螺」、「双 すごろく 六」、「人形」、掛け図や骨 か る た 牌を用いて色の名称を教える「色 いろ 目 め 」、紐の結び方を教える「 結 むすびかた 法 」、風呂敷や紙を用いて包み方を教える「 包 つつみかた 法 」等があった。 こうした流れについて宍戸健夫は、恩物そのものの内容を日本の伝統文化の流れの中で見直 し、具体的な玩具を挙げて改革を唱えたことに意義があったが、恩物の理論の検討や自由遊戯 を含めた保育構造の検討がなかったものであり、保育の理論の検討は明治20年代になってか らの課題であったとしている(宍戸2014: 36)。 この関信三は、定員150名、保育室三部屋の附属幼稚園の現状に対して、1878年(明治11年) の『幼稚園創立法』の中で定員48名を提唱していた(関1878: 348、367)。これについて国吉 栄は幼稚園を大規模にすべきではないと関が気が付き、定員を縮小したとしている(国吉 2005: 304‒305)。 ここから黎明期において幼稚園とは、遊びを中心とした場であるべきで、およそ50人以下 が妥当だと解釈されていた。
2.幼稚園黎明期の問題 明治の当初は文明開化と啓蒙思想を反映し、欧米の教科書の翻訳や教材を輸入し、それをい かに現場に定着させて公教育制度を運用していくかの模索の時期であったが、輸入されたもの が日本の子どもたちの生活の現実から乖離する現実(例えば小学校の教科書に登場する話や風 景などに馴染みがない)によって、日本的な教材を用いようとする主張が現れ始めた。 そのような意味で転換期であったこの時代について宍戸は、保育内容を小学校的な学びでは なく遊戯中心にした近代化を図る流れと、日本の子どもの生活現実と結び付けて大衆化を図る 流れとして位置付けている(宍戸2014: 49)。 1882年(明治15年)の文部省示じ諭ゆは、幼稚園を学校と異なり遊戯を通して育てるところで あること、幼稚園保育を受けた子どもと受けていない子どもでは前者がはるかに有益であり、 ゆえに施設や設備の整備ばかりでなく、指導できる保育者を得ないと子どもの発達を妨げるこ とがあること、そして子どもを街頭での危険で卑猥な遊戯から遠ざけるため簡易幼稚園が必要 であることを説いた(5)。 宍戸はこの示諭に対して、幼稚園が遊戯を主とする場所であるという認識の深化を、復古的 な儒教主義への回帰から志向したのではなく、恩物中心の知識学校から幼児の人間形成を見据 えた幼稚園への近代化を志向するものであったとしている(宍戸2014: 58)。 ここで宍戸がいう近代化の意味するところであるが、子どもの発達年齢に適切であり、子ど も中心であり、教え込みでもなく、知育に偏らず、子どもにとって無理がないという意味での 実践の創造であるとすれば、幼児教育はどのようなものとして日本で構築されてきたのであろ うか。 3.子守学校、託児所、簡易幼稚園の出現 文部大書記であった九鬼隆一は、1876年(明治9年)の学校巡視報告書の中で、子どもが 小学校へ来校する際、背負ってくる乳幼児の兄弟姉妹を預かり「護育」し、預かる者が「子女 の扶育」の方法を小学生へ指導し、それが小学生の側の「稚児の扶育」に役立てるという形が 「幼稚園の原案」だと唱えていた(6)。 こうした子守をせざるを得ない児童のニーズは、子守学校として現れ、簡易幼稚園へとつな がって行った。子守学校とは、子守をする故に小学校へ通学できない子どもが通学して学び、 乳幼児に対しても保育を施した学校であった。子守学校が文部省の資料に現れるのは明治7年 ごろとされる(宍戸2014: 66)(古木1949: 70(7))。 渡辺嘉重は1883年(明治16年)に小山村子守学校を開設し、その体験をもとに翌年、『子守 教育法』を記した。その中で渡辺は、遊戯室、鎮静室の壁の絵・模様、遊園の植樹・草花・遊 具設置、空気・光線・温度といった環境に配慮し、遊歩を重視した(宍戸2014: 69)。 赤沢鐘 あつ 美 とみ ・伸子は1890年(明治23年)に新潟静修学校を開設し、昼間に小学校課程を教え、
夕方から夜間において中学校商業課程を教えると同時に、小学校及び中学校の児童生徒に背負 われてくる乳幼児を保育した。その後、1908年(明治41年)に守 し ゅ こ 孤扶 ふ ど く 独幼稚児保護会を開設し、 今日においては赤沢保育園として存続している。 また筧雄平は1890年(明治23年)に「おやこなり」の習俗の延長に農繁期託児所を開設した。 そうした在野の取り組みの中、1882年(明治15年)に文部省示諭によって幼稚園の意義が 説かれ、1884年(明治17年)には文部省通達第3号によって、幼児の小学校への入学が禁止 された(宍戸2014: 83)。この意図は、街路で過ごす貧民の子どもたちの現状を憂慮したのと 同時に、学制以来、子守をする兄や姉に付随して学齢未満の子どもの小学校入学が様々な地方 の事情により許可されていたことや就学率を上げることに使われていた現状に歯止めをかける ものであった。通達が出る前年の1883年(明治16年)の時点で、小学校に在籍していた学齢 未満の児童は116,000人であり、小学生の3.6%であった(宍戸2014: 62)。 この奨励された幼稚園の設立とそこでの実践によって、日本の幼児教育は形を少し変えてい くことになる。 東京女子師範学校附属小学校に3年課程の分教室が1892年(明治25年)に開設され、同年 秋に幼稚園の分室が開設された。 分室は、労働者層の子弟を対象としたもので、授業料を徴収しなかった。 課業は、説話(修身、事実、庶物等)、行儀(言語、動作、整頓、清潔等)、手細工( 重 かさね 積 つみ 方 かた 、 排 ならべおきかた 置 方、連結方、紙細工、画方、豆細工、粘土細工、麦 むぎわら 稈細工等)、唱歌、遊嬉の五課目とな り、恩物を手細工とした。当時、附属幼稚園では恩物を12課目とし、その時間を1日1時間 以上取っていたのに対して、分室では8課目へ縮小し、その時間を30分へと縮小していた(宍 戸2014: 113)。 また保育時間は、附属幼稚園の週20時間、1日3∼4時間であったのに対して、週33時間 以上43時間以下、1日6∼7時間へと延長した(8)。 この保育時間の延長について東京女子師範学校校長の細川潤次郎は、簡易幼稚園児の父母を 前にして、夫婦共稼ぎによる家計の足しに貢献すると説いた(宍戸2014: 98)。 細川は、分室において外での自由遊戯を重視し、その時にこそ子どもが真の姿を現すと以下 のように説いている。 「幼児ノ室外二在リテ心身ノ活動ヲ逞シクスル時ノ如キ真率ノ容儀ヲ顕ワス時ノ如キハ殆ド 保育時間外ナリトシテ深ク意ヲ留メザルモノノ如シ」(9) また細川は、幼稚園の恩物を用いた課目が、恩物に形式面だけに傾き、深い遊戯になってお らず、方法論が確立されていないとして以下のように批判している。 「恩物玩弄ノ方法二至テモ或ハ強迫二失シ、或ハ乱雑二流レ、外形ノ方式スラ未ダ完美ナラ ザルコト尠カラズ」(10)
またこの分室の報告には、子どもの生活の度合いが低く、父兄の多くが子どもを教える方法 を知らず、甘やかし、路上に放置して遊ばせているので、これを矯正していかなければならな いと説いている(11)。 こうした生活習慣の改善といった姿勢は、分室開設当初に「父母の心得」が作成され、衣服 の洗濯の必要性、衣服に 綻 ほころ びのないこと、手拭きと鼻紙の毎日の持参を記載して説いていた(宍 戸2014: 100)。 随意遊戯は、保母が子どもの家庭状況を知りながら遊戯の様子を観察し、なるべく口を出さ ず、子ども同士の「自治」に任せ、長が幼に思いやりを抱き、幼が長に従い、秩序と規律を以 て心を和ませていくことにおいて、重要な役割を果たすとされた(12)。 そして分室での唱歌には、「君が代」「紀元節」「天長節」といった歌も歌われた(13)。 宍戸は、随意遊戯の役割について、「日本の幼児教育がようやく、日本の子どもの生活に根 をおろしはじめた証拠ではあるが、それは同時に道徳主義の傾向をもたせられるという危険を 含むものであった」とし(宍戸2014: 118)、唱歌について「国家主義的な理念だけで保育が行 われたのではない」としながら、教育勅語の起草者であった井上毅が幼い子どもたちすべてに 君が代を歌わせたいとしていた発想が、分室の理念と無関係なものではなかったとしている(宍 戸2014: 106)。 4.東京女子師範学校附属幼稚園分室の意義 分室の影響によって、1893年(明治26年)に東京女子師範学校附属幼稚園は、幼稚園と分 室とを統一した「女子高等師範学校附属幼稚園規則」を新たに掲げた。 「女子高等師範学校附属幼稚園規則」は、課目をそれまでの15課目から5課目(説話、行儀、 手技、唱歌、遊嬉)へと変更した(分室での5課目は、説話、行儀、手技ではなく手細工、唱 歌、遊嬉であった)。 1899年(明治32年)の文部省令「幼稚園保育及設備規程」は、この5課目から行儀を除い た4課目とした。 宍戸は分室の歴史的意義を、保育課目を5課目とし、子どもの生活に応じた保育実践を可能 とさせたこと、それが「女子高等師範学校附属幼稚園規則」の5課目になったこと、そして 1899年(明治32年)の「幼稚園保育及び設備規程」の4課目につながった「画期的な改革」 であったとしている(宍戸2014: 118)。 「女子高等師範学校附属幼稚園規則」以後、附属幼稚園は、保育時間を延長し、月謝を値下 げし、異年齢保育による単級制を採り、担当保母をなるべく変えないやり方とした。このこと を宍戸は、「小学校式クラス編成とその指導を行ってきていた幼稚園関係者に、新しい課題を なげかけずにはおかなかったのである」とした(宍戸2014: 121)。また分室の簡易幼稚園の意 義を「幼稚園が改革される見通しを具体的に幼稚園関係者たちに与えたことは大きく評価でき るのではないだろうか」としている(宍戸2014: 122)。
その後、1892年(明治25年)には全国で幼稚園に在籍していた幼児12,011人となり(全国 の幼稚園数177園であり、この内の公立の128園の多くが小学校に附設された保育科)、1883年 (明治16年)と比較すると園数が約15倍、園児数が約22倍となっていた(宍戸2014: 63)。 5.再考の視点 フレーベル式幼稚園の問題その他 宍戸は、明治の幼稚園黎明期の中に、恩物中心の知識学校から幼児の人間形成を見据えた幼 稚園の近代化を志向する流れが出てきたとしている(宍戸2014: 58)。ではなぜ恩物による幼 児教育は、明治の幼稚園黎明期において、高い評価を得なかったのであろうか。 恩物については古くは倉橋惣三が、恩物を恩物論としてならば批判し、玩具としては賛成す るとしていた。倉橋は、大人の理屈を付けてそれを子どもに迫ろうとする恩物論を批判してい た(倉橋1913: 245)。これに対して荘司泰弘は、恩物が批判されたことの原因を、フレーベル 思想の受容期においてキリスト教的宗教観が根付いていない時代背景も重なり、万物や幼児に 神性が宿っていることが深く理解されず、恩物のもつ「神性の象徴性」のみが強調されてしま い、恩物が直接子どもに作用するかのように解釈され、保育者と恩物、恩物と子ども、保育者 と子どもという関係性において効果が表れる点を理解されないまま、一斉保育などで使用され たことにあるとしている(荘司1981: 24)。 また東ゆかりは、東京女子師範学校附属幼稚園開設当初に豊田芙雄たちによって作られた雅 楽調の唱歌が、フレーベル式幼稚園の保育に必要な唱歌であったにもかかわらず、明治14年 の今上皇后来訪の際に六球の唱歌が外され披露されなかったことを指摘し、自由主義から国家 主義への教育政策の転換の中で、フレーベルの教育書を手本とした保育唱歌がその役割を終え ていったのではないかとしている(東2014: 40)。 橋川喜美代は、20世紀初頭のアメリカの幼稚園教育における恩物教授法の改革が、恩物・ 作業の論理的統一によって高度な知識を子どもたちに求め、表象的遊びが強調され、子どもの 自由な表現が評価されなかったことを指摘している。そして子どもの活動は教師に管理されて いたとしている(橋川1988: 122)。 小玉亮子は、フレーベルを通して近代の幼児教育を検討した。フレーベルは国民国家ドイツ の教育体系の基礎として幼稚園を構想したが、19世紀中葉の幼稚園禁止令によって幼稚園運 動がその活路を国外に見出し、万国博覧会というメディアを通して恩物が消費されていったこ と。フレーベルは教育思想を全ての階層の子どもに開いていたが、事業を成功させるために上・ 中流層を対象としたことで、二元化した幼児教育システムを胚胎したこと。フレーベルの幼稚 園は学校ではなく、教育者のモデルも教師ではなく母親という女性であったことから、幼稚園 が女性のものとなり、上層のものと下層のものに分断され、女性に働く場と教育的役割を与え たが、女性に特殊な社会であるがゆえに教師社会から分断され社会的に低いものとみなされる ようになったことを指摘している(小玉2011: 7‒8)。 このような先行研究に依拠すれば、フレーベル幼稚園の問題は、子どもの年齢・知性・主体
性、及び大人の母性の問題を含めて検討していかなければならないといえる。 また日本の幼児教育の黎明期に、そして近代の幼児教育の中に、幼稚園が学校とは異なる空 間として想定されたことや、子どもの発達課題を考慮して、教師ではなく家庭の母親に役割が 託されたことに、二元化の問題を辿ることができるかもしれない。そのように考えれば、学校 とは母性のみならず父性も求められる空間だとして幼稚園と学校を比較検討していく視点も必 要となるのかもしれない。 最後に、子守学校について長田三男は『子守学校の実証的研究』(1995)の中で、子守学校 の中に生活習慣の改善という問題が大きく横たわっていたことを指摘している。同様のものと して18世紀後半から19世紀前半のイギリスにあったダイム・スクールは、地域の女性の下に 子ども預ける少人数の学校であったが、そこには預ける側と預かる側とが同一の階級文化を 持っていたことが指摘されている。だが日本の子守学校は、預ける側が啓蒙の対象になってい た可能性がある。日本の場合、預ける側が格差や貧困と階級文化の問題を含みながら、教師、 保育士、預ける側(家庭)というある意味での序列化がこの頃から存在していたとも考えられ る。 注 ⑴ 「皇太后宮、皇后宮東京女子師範学校附属幼穉園行啓記事」『教育雑誌』第五二号、文部省、一 八七七年一二月 宍戸健夫(2014)『日本における保育園の誕生 子どもたちの貧困に挑んだ人びと』新読書社、 18頁 ⑵ 「東京女子師範学校附属幼稚園規則(抄)」(明治十年六月) 浦辺史、宍戸健夫、村山祐一編(1981)『保育の歴史』青木書店、29頁資料③ ⑶ 中村正直譯稿「ドウアイ氏幼稚園論の概旨」『日日新聞雑報』明治九年十一月十八日 倉橋惣三、新圧よしこ(1983)『日本幼稚園史』臨川書店、45‒46頁 ⑷ 関信三『幼稚園法二十遊嬉(抄)』(明治十二年) 岡田正章監修(1977)『明治保育文献集 第二巻』東銀座印刷出版、394‒395頁 ⑸ 「文部省示諭(抄)」(明治十五年) 浦辺史、宍戸健夫、村山祐一編(1981)『保育の歴史』青木書店、32頁資料⑤ ⑹ 九鬼隆一「第三大学区巡視功程附録(抄)」 浦辺史、宍戸健夫、村山祐一編(1981)『保育の歴史』青木書店、29頁資料② ⑺ 古木弘造(1949)『幼児保育史』巌松堂書店については、寺崎昌男・久木幸男監修(1996)『日 本教育史基本文献・史料叢書37 幼児保育史』大空社のものを参照した。 ⑻ 「女子高等師範学校附属幼稚園分室仮規則」(明治二五年九月) 宍戸健夫(2014)『日本における保育園の誕生 子どもたちの貧困に挑んだ人びと』新読書社、 97頁 ⑼ 細川潤次郎(1893)『茶橋録話(一)』女子高等師範学校、9頁 宍戸健夫(2014)『日本における保育園の誕生 子どもたちの貧困に挑んだ人びと』新読書社、 114頁 ⑽ 同上、114頁
⑾ 「女子高等師範学校附属幼稚園分室報告(抄)」(明治廿五年九月至同廿六年十二月)文部省(1969) 『幼稚園教育九十年史』649頁。 ⑿ 同上、649頁 ⒀ 同上、653頁 引用文献・参考文献 東ゆかり(2014)「保育唱歌『六球』の歌詞推敲について─豊田芙雄の自筆文書から─」『鎌倉女子 大学紀要』第21号、2014年3月 飯島半十郎(1885年)『幼稚園初歩』『幼稚園初歩巻二』、岡田正章監修(1977)『明治保育文献集 第四巻』東銀座印刷出版 浦辺史、宍戸健夫、村山祐一編(1981)『保育の歴史』青木書店 太田素子(2011)『近世の「家」と家族 子育てをめぐる社会史』角川学芸出版 岡田正章監修(1977)『明治保育文献集 別巻』東銀座印刷出版 長田三男(1995)『子守学校の実証的研究』早稲田大学出版部 国吉栄(2005)『日本幼稚園史序説 関信三と近代日本の黎明』新読書社 倉橋惣三(1913)「『恩物』に就て」『婦人と子ども』1913年7月 倉橋惣三、新圧よしこ(1983)『日本幼稚園史』臨川書店 小玉亮子(2011)「幼児教育をめぐるポリティクス─国民国家・階層・ジェンダー─」日本教育社 会学会『教育社会学研究』第88集 宍戸健夫(2014)『日本における保育園の誕生 子どもたちの貧困に挑んだ人びと』新読書社 荘司泰弘(1981)「フレーベルの恩物の今日的意味」『幼児の教育』1981年12月 寺崎昌男・久木幸男監修(1996)『日本教育史基本文献・史料叢書37 幼児保育史』大空社 橋川喜美代(1988)「アメリカの幼稚園教育における子どもの自主性と教師の指導性─進歩主義幼 稚園にみられる恩物教授法の改革─」『上越教育大学研究紀要』第7巻第1分冊 文部省(1969)『幼稚園教育九十年史』ひかりのくに昭和出版 湯川嘉津美(2001)『日本幼稚園成立史の研究』風間書房 (受理日 2018年1月10日)