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臨師硏究ノートより

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Academic year: 2021

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(1)

臨附研究ノ 1 トよ’ 五 /¥

l

El. 天じ

﹁鷲馬も十駕すれば嘆に及ぶ﹂の響、予は昭和六年五月以来、宗門の高徳本妙日臨律師の研究に蛇 足を準めて来た、其の甲斐在ってか、今は大関臨師の生涯の事蹟中に於て全々不明であった所の、出家 以前の事柄、警へば律師の父母は何慮で生れたか、如何なる揖過に在ったか、律師は如何なる開由によ a p て出家したか、其の出家の年齢は略

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何歳頃であったか等の事柄も、予が今日まで蒐集せる文献と 其の行蹟を賃地に探索して各方面よ

b

之を綜合し、分離し、抽象して弦に不確貨ながら推断乞下し得 る程になったのである。今直に之を世間に接表する事は、苦し予の推断が果して事寛仁近かったなら ばよいが、若しも識者が之を見て此の憶測が濁断に陥ち、妄断の磐を免れる事が出来なかったならば‘ 予は誘法の誹を負はねばならぬ事になる。依て此等の事貨の畿表は、後日克仁研讃の功を遂げてから に仕様と思ム、故に今は比較的危険性の少い臨師の書簡中の﹁某掌者に上る書﹂に就いて一言私見を 遁べて見度いと思ふ。 某 掌 者 に 上 る 書 今日は野生痢病の三日目にて臥内に認め候、七年来御準止を不承候慮、潮光京都 b 候 に 付 、 一 切 承 b

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お に 申 ︿ 回 目 失敬之段奉蛾謝候、野生此節草山よ b 身延へ蹄り、波木井の山中大紳久保と申慮に隠居仕候、江戸 の様子承 b 候慮、下谷にても子今御立腹のよし、野生不将之事故、御尤之事に候、然るに世間之噂 きを承 b 候へば、野生が沙汰を事大き︿致し候由、御気之毒に存じ候、或は上方よ h 三十人程にて 下りたると申、然るに野生は唯四人にて形も常のま、にて、錨鉢錫杖も所持致し候はず、又本よち 無之候、ゃう/ t 1 二十二日日に托鉢同様にて身延山へ着致候、或は異流を建立せんがために一切経 テ − 讃 む 申 す 、 然 る に 日 正 れ は 野 生 本 よ

b

の 願 望 に て 、 一切経拝見畢ら

5

る中は、江戸へ出でまじき由 申せし故、本願にまかせて経蔵拝見致し候、叉恐れ多くは候得共、台賞二家の敬観はあら/\邪正 をわかち候、設ひ耕陀羅とはなるとも異鼎邪流さはなるまじ︿候、但草山の風を慕以候故、東之方 には人多く如 b 不申候故か、京都大阪にては、州山を存居候故、珍らしく息ふ人も無之候、然らば 州山に居るぺきに候へ共、此節之州山之風、野生の心仁叫不申候故、延山へ蹄候、且州山間姐之立 意は、宗門の表を諸山之官慣に任せ、 州山之一一蹴は宗門の内怯を相績する意にて候、日疋を表具の 表症肢とうら打と仁警られて候、惣じて龍樹、天親等古先の御化導は、神遁相好諸事具足し玉へる 故、天下を自己之下に蹄して事足、。候へ共、猶一嚢する事は難く相見へ候、まして末代の師は一人 して一切を具足する事は無之候故、臼疋を好む者は彼を排し、伎を貴む者は此を賎しむ事に候、然れ 臨削研究ノートよリ 一 五 九

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臨術研究 J 1 ・ F よ 一 一 六 O ぱ異隠を好むものは州山の風によろし︿、下種結縁を好むものは諸山の風によろし︿、或は祈稿、 或は義血中、文血中、請諦、塔寺の建立等、其好むととろに随て施せば、衆生各其好む所より入来候故、 多人集 b て一事を成予るなれば、化導易かるぺ︿候欺、書へば諸道具を集めて、家の用を静子るが 如氏候欺、若し宗同相にて機根寓別の衆生を化し治んとするは、孟子の所謂率天下而路にて候敗、 況や人各堪る所あ hp 、堪ぎる所あ

b

、野生の如主者は、とても官借の勤めは堪へ

F

る所にて候、高 姐の時逝化さかんなるにも一往最蓮上人の山居をゆるし玉へ

b

、此保深︿微農を破し

τ

御賢察偏に 奉仰候、叉営時公家の沙汰を聞候に、宗門の法をば隼み人をばかんしむるよしにて候、叉州山など は貨に昔の影もな

3

事に候へども、何ごなく今に他山よ

b

は信ずる人もある膿に候、公家武家等も かみしめ少き様子にて候、叉要敬日幹師も右近の持監殿に

τ

、諸本山には律院あるが宗門にはあ

b

やさ聞はれたる時、延山に清関坊あ・9、乙れ律院な

b

と答られて其座もよろしか

b

ける問、これも 宗門の道具な b と著話の中にて見あた b 候、其清閑坊は同慶日中師の開基に

τ

候、師は州山元政師 の親友にて候、今に鍛鉢錫杖にて山中托鉢の像、かの坊に有之候、叉野生の事を人々二乗根性の様 に申候、これは尤の事に候、はじめ申如く州山は宗門の内法.事観の妙慮をつがんが震に、在縁を きりてひまを得んが混に、自行を専ら面ごして、此他は随力演説の n ?と云はれ候跡を皐ぴ候問、表

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には其相をあらはし候へども、底意は護法の心盛んにて候、恐れながら一切経も二家の皐問も乙れ が専一に候へばな

b

、然れどもそれを表に申せば高慢な・ 9 と人に唱られ候が心よからや候故、二乗 といはれて打遁候、格別志のものには、京植林にても、営山にても申談、じて修事をもす、め候、又 月比一度講樟致候て、在家の借を軽んじ悪事をなすそも制し候、尤も申度事ゐれども、人を守

τ

一 向申候はや、よって只今にては檀林氏ても一切経井に書籍をも貸し︿れ、塔中も悪しく思ふものは 甚だ少き様に候、又只今居候庵は、野生剃髪の弟子信津と申もの、自身の隠居所と申して礎起致し、 其ま、、死去致し候を、其兄孫七心を議して遺言を守

b

、村中の人をす、めて出来候隠居にて候、惣 じて此様の事御自にか、り侯はぎれば、其義明白に相な b がた︿候故、忍んで一度江戸へ出、下谷 へ 参 h y 、くわし︿申上べ︿と、雨三度存候へ共‘本誓を中途に破候事、下劣にも妄語にも有之と存、 断じて思ひやみ候、 一切経も州山よ b 請はじめ候て、大般若、大集等七分一は相済伎、巳後三四年 には拝見相持候ぺ︿と存候、但し数年の疲れ仁て這忘

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病起

b

、一切世事は座を過れば皆忘れ申候、 協道の事は世事程には忘れ不申候へ共、前の様には無之候、野生のみならや法器のものも有之候へ 共、同じく身鰹堅固ならや候、勿論持番のものは大食して牌胃を損すと、大時踊井丹波守申候故. 二 人 に

τ

一日三合より外は食し申

3

子供、唯今唐黄忘一斤、御種人参五雨計 b 有之候は℃よろしか 臨師研究ノート 4 り 一 六

(5)

臨附研究ノ 1 トよ’ 一 ﹂ ハ るべ︿候、其外の薬栂は下直に候故托鉢にても求得候へ共、此二種は高直に候故難叶候、叉在家主 だのみ候事は縁をきりる身には宜しからず候上、左様の事有之候てほ檀林等の思はくも宜しからね 事に候、然ればとて外に頼むぺ主人も無之候、ょっ

τ

下谷と荒北と御め﹁み被下候はなあ’りがた︿奉 存候、但し前々不時の事御勘気もゆりたるかゆり候はぎるか、此事も人俸にては明かにわか b 候 は今、若し子今ゆ b 申さ十候は立、此度是非/\に御わぴ被下候様、偏に奉希上候叉棺林をないが しろに致すと申事、此は野生一向昔より申

3

ぬ事に候上、業て御妄説起るべしと察し候問、所々に て植林をば讃歎致、且叉野生弟子潮一音と申者一人、西谷植林へ差出し嘗年新設相一昨候、其余の者も 都合さへ宜敷候へば勤檀の存寄も有之候へ共、自力にては資縁立難︿、人に随へば修皐自存なら今 候故、是非なく相以かへ有之候、宜しく御推察可被下候、其の外人のあやしき噂をば一切御打けし 可被下候、都て皆妄説仁て候、且つ房州の前説、下谷等不興のよし、潮光くわしく申候、除 h 衣鉢 大相にて候ひし問、京とは遺ひ候故御尤の事に候、共故一切の事わかり不申、時闘は知る,へう者と 存候、明日飛脚立候と聞き、痢病にて︿るしみ居

b

候 へ 共 、 強 て 筆 。 ゲ 一 採 ム リ 忠 出 候 ま 、 、 書 記 候 、 ょ っ て前後説雑、申重ねち申残しも可有之候、但し寧前に主上仕る書翰甚だ失鵡、此のみ恐入 b 奉 候 へ 共 、 病者に鵡

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具せやの例を以て、御高免被下候様奉伏仰候、潮光体設の様子にていかがと存候故、下谷

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荒北共に書翰不奉候、但し一切の事大悲御計ひの段寧師に任せ奉候、但し薬種の事は念に荒北へも 御書肢御 3 し出し‘御わぴ事ながら飴 b さつ念に候へ共、此仁て二三月も遇候は w h 、身命気力も無 費束候故、ゐし切

τ

御願申上奉 b 候 、 誠憧謹言 禁は破 b 不申候問、此巳後も一切申上候事、其ま、、に御聞 L 乙げ奉希候、必別の御分別無之様大悲 奉仰候、たま

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菩提心を起し候ヘ共、鈴 b 世間うるさく候時は、二乗心に落候て名ち形も隠し 候心起る人も可有之候、宗門の先徳にも間々相且へ候、底意は如何にもあれ、さし嘗

b

て法の衰 微をなげか

F

れば、二乗・と唱らる、も一往相聞へ候鰍、我等如

B

ちのは、唯寧師等の衣を以て詫 び玉ふを頼み奉るのみに候、今日も痢病よろしからず、錯説御恕宥奉希候、稽首 ︵此の文は醍悟同叢書第一巻の本文と可成 h リ相違して居るが、稲田海素師に依頼して、照合を乞ひ たるものなる故に原文と相違なし﹀ 此の書簡金拝護するに、全︿震なしでは居られない、世間の人々よちはこ乗根性と呼ばれつ、も、 州山一冗政の跡を慕以て宗門の内法‘事観の妙慮をつがんが鋳に世械を避げて白行を専にせられた事は 杢︿隠れたる、宗門の偉人まして世間に紹介せねばならないと思ふ。 叉律師一切経#請の大願を立てられた、勿論律師が飯高負笈を中途退皐して延山に来るに就ては可成 臨郎研究ノートよけリ 一 ム ハ

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臨附研究ノートよ砂 一 大 凶 ︿何回の人 h T の反針がゐった、中でも師範の下谷宗延寺日賃上人は最も皮封せられた様である そ V') 事は日賃上人よ

b

波木井宗七に寄せたる書簡にても知る事が出来る。 ︵前略︶然は拙借弟子本妙義、鴬修事其方の庵室に罷在、高事御在世話之段恭存供、右に就.本妙 始修皐の者共、寓一病死致候節は其元の檀那寺へ被成御頼、葬送有之候様、御取計置可被下候.此 段業而御額置申度、如此御座候 以 上 午六月八日 江戸下谷 e壬, 7I主 延 寺

甲州渡木井 豊 泉 e杢~ :市

様 然し日質上人とても矢張 b 師範として人間としての温情はあった。本妙律師が水檀の招によ b で講 撃に趣き、彼地に於て幾何ちな︿して蓮化せられ、其の法曾を修する時には、江戸よ b 這々老錫を執 b て水戸に趣主て、過去不幸の重罪一切そ許して律師の霊をなぐ

3

められた。此の事は究下に引く法 兄最誠師の歎讃せられたる修法曾の願文によちて明らかである。 ︵ 前 略 ︶ 雄 然 九 月 十 六 日 、 無 常 ノ 風 起 : 体 中 生 一 一 不 平 一 調 立 暁 鶏 鳴 ノ 一 天 以 二 三 十 一 歳 ﹂ 安 詳 : テ 而 化 ス 鳴 呼 五 口 ヵ 輩 宿 繭 浅 薄 ニ ヨ シ テ 受 1 生 ラ 於 末 運 ↓ 此 J 齢 不 一 − 一 ハ 等 げ 附 ヲ 漸 ク 問 一 一 畳 悟 ↓ 何 ノ

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方 仙 何 日 週 一 日 掛 一 三 顧 ニ 入 守 ラ 悟 門 一 一 何 号 −

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何 テ ヵ 佑 ・ 4 猶 坤 一 一 史 山 々 ︿ ラ 且 7 喪 川 一 時 テ 自 ヲ 悼 自 ラ 悲 鳴 呼 師 ャ 何 − F J 逝 タ 実 業 円 哀 こ 感 −

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・ 等 イ 垂 刈 へ

(8)

0 0 ヨ 0 0 ヨ D O 加譲↓今日我大師 H 賞 老 上 人 恭 ク 整 づ 審 命 日 ↓ 以 ナ 助 コ 和 尚 之 増 進 損 生 寸 云 云 ︵ 下 略 ︶ ざ、叉作師自身も、書翰の慮々に﹁房州の前説、下谷等不興のよし云云﹂或は﹁忍んで一度江戸へ出、 下谷へ参 b くわしく申土べくと雨三度存居候へ共云云﹂

E

言ひて、世間の人命に反針して、身延へ京 った事を心から悔いて居た様である。然れば何故律師は二十三才の時即む文化十二年六月、閥東を立 もてよ b 以来最后まで帰闘しなかったか、それは律師の強盛なる信心と悲壮なる決意ごがあったから でゐる。而ればその悲批なる決意ごは何か、即ち一切経拝護

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大 顕 で あ る 。 ﹁本誓を中途にて破 h , 候 事下劣にも妄語にも有之と存、断じて思やみ候一民云﹂と律師は一切の累縛を打切

τ

、 一切経拝讃、内 法受持の本相一一一一に向って突進したのである。即ち人聞の律師に非やして正に露格としての律師であると 云 は ね ば な る ま い 、 然 し 又 其 の 反 面 に は ﹁ 棄 ぺ 思 ラ 入 叫 寺 ニ 背 山 テ 敬 一 一 入 パ 山 − 一 病 師 頻 リ = 召 セ ド モ 而 不 ν 聞 け 錫 ラ 究 母 泣 ヒ テ 慕 フ ト 開 グ ド モ 而 在 川 遠 ニ 誰 ガ 言 フ 知 山 ト 思 ヲ 奈 ニ 其 罪 一 何 ﹂ と 斯 く は 云 し め ぎ る を 得 な か っ た 。 是れ全く 人間の律師としての真面目である。病師頻

b

に召し、失母泣て慕ムと聞き、不幸の罪は知

b

っ 、 も 、 ﹁ 任 重 ク ﹂ 迅 速 、 長 皿 げ 顧 討 本 願 ご と 父 母 の 恩 よ り も 悌 法 の 思 重 し と な し て 、 不 比 例 け 錫 ラ 其 の 心 境 、 其 の 強 盛なる求法心に劃して五口人は一言の費言をさしは

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事も出来ない、但賦然として合掌し、南無する より外はないのである。 臨 附 研 究 ノ ー ト よ 9 一 大 五

(9)

臨師研究ノートよ P 一 六 六 斯うした本妙律師の人格は百十数年後の今日に歪

b

ても尚吾人の心内に蘇って、ともすれば墜落せ んとする意志薄弱な精神に劃して﹁任重タ− L テ 道 建 ι 童 ν顧=本願己さ警鐘を甑打して呉れるのである。然 し誌に痛嘆に堪えないのは今日に至っても、或は律師 h z 呼んで異端邪法の人となす者往々にあ b 、 此 等の人は異に律師の如何なる人なるかを理解せぎる者であらうと恩ム。律師の遺文を一頁な h とも心 して諌んだ仁は決して如是無理解な事を言はないと信ずる。 扱て吾人が設に越ペんとする事は、前にも越ぺた如︿、新提見の事貫等も枚奉に逗がない、依て 今は此の書翰の宛名の主たる﹁某隼者﹂は如何なる人であるか、臨師と如何なる閥係があったか、日記 等の事を探究することは律師の生涯を見る上に於

τ

最も重要なる事でゐるが、惜しいかな未だ何人な るかを明かにする事か出来ない。然し此の真蹟は山梨臓の一ノ瀬妙了寺に在る、何故に妙了寺に在る かと云へば、妙了寺四十三代異乗院日如上人が明治の初年一昔抑制蓮尤寺に於

τ

戚待し、妙了寺へ轄住の 際に勝来したものであると云ふとまである、故に此の﹁某隼者﹂とは江戸に住職せる上人であった事 は首肯し得ると思ム。前越の如︿律師は師範の反動を耳にせずして決する所あ

b

て飯高負笈を中途誕 皐し、延山に入られた、此が震に臨師は師範の最後まで師の取

b

し行動に劃して快く思はなかった、 然し此の某隼者なる者は能律師の心中を理解して江戸に在−

b

て師範の津停寺の日貞上人と白川延寺の日

(10)

賃上人と臨師との問をうま︿仲介の勢を取って居先人である、故に此の章者の如何なる人であるかを 知る事は重要な事であるが、との点を明白にする事の出来ないのは遺憾である。然し目下此事に就℃ は研究中である故例れ近今の内に明らかになる事と岡山ム。 究に此の書翰中に顕れたる﹁荒北﹂の二字に就℃少しく私見を述べて見様と思ふ。此事は稲田師素 老師以外には恐らく存知の仁は無い事ご思ふ、過般米身延敢報に連載る林師の﹁本妙日臨上人﹂にも此 事は無かったご思ム、然れば荒北とは何か、 とれは下線香取那荒北と云ム地名である。では何故に此 の土地が本妙臨師と縁故があるか、それは律師の師匠である。俊善院敬運日貞上人が荒北の滞典寺に 住職して居た事である。 今までは停典寺の日点上人が本妙律師の師範であった事は世間に知られて居なかった、それでは何 故に此事が確買であると云ふ事が誼明出来るか、これは稲田老師の言によったものである。去る年、稲 田老師が山梨牒一ノ瀬妙了寺へ宗賓調査の鴻め御出向の際に営時の住職四十三代樋口 H 如上人よ b 、 ﹁本妙律師は貨は下線荒北極印惇寺住職俊善院敢運日貞上人の弟子也﹂と聞きたるを、予に教示された ものでゐる。寝具は妙了寺の過去帳の一部を寓し撮ったものである故に、異善良師が律師の師範であ った事は否定する事の出来ない事貨である。予は吏に今夏其の事貨を確めんが震に荒北に出張し賃際 世 同 制 研 究 ノ F トよゆ 一 六 士

(11)

臨附研究ノ 1 ト 4p 一 六 八 ない有様である。兎に角俊善貞師が持典寺の歴代であった事は事貫である o 故に重厚院日賃上人の外に、更に荒北滞典寺の俊善院日貞上人なる師範があった事を一言紹介して 置き度い

t m ω

ム。而して此の師範が律師と如何なる関係に在ったちのか、 日貨上人よりは、以前か、 以後か、何れの地に生れたものか、等の種々の復雑なる事柄は、後日何れかの機曾に穀表する事にし て今は此の軽度に止めて置き度いと思ふ。 向ほ最后に一言して直会度い事は本妙庵の縁起に就℃立ある。本妙庵は誰が遣ったものか何の魚に 作ったかさ云ふ事も特殊な人々の外には余 h 世間の人々に知られて居ない様である。此書は文政三年 六月二日に身延よ

b

江戸某隼者に上九リたる書にし

τ

、文政三年三月廿八日醍悟悶ど問創してより約二 ヶ月の後に書かれたる書翰として即ち今の本妙庵仁於て書かれたのである。然れば本妙庵は如何なる

(12)

開由によ b て律師が屑を構へる様になったか、それは此の書翰中にもある遁 b ﹁只今居候庵は、野生 剃髪の弟子信揮と申もの、自身隠居慮 Z 申して護起致し、共ま、、死去致し候を、共見孫七心 e T 謹して 遺 一 一 員 を 守 り \ 村 中 の 人 φ をす、めて出来候隠居とて候﹂とある如く、此の本妙庵なるものは律師自身 の意よ b 出 で 、 、 遺 b たるものに非る事は明らかである。 本年三月九日本妙庵焼失してより、本製教職員並に皐生奉行て之が再建の法主講じて居る。予が悲 に於て一私見を遮よる事は‘或は城者として域を破9、獅子心中の虫として排尿せらる、かも知れな いが、兎に角門外観ごして第三者の立場より之を眺めて見度いと思ふ。本皐院で着々ごして準捗しつ 、ある、本妙庵再建の事業は、果して臨師の遺徳を偲ぶ仁最もふさはしい事業であるが、之には甚深 の考慮を要するご思ふ。若しも此の事業が最も趨営とするならばよいが第三者の眼よ b 見てよ b 以 上 律師の遺徳を偲ぶによい方法がある、としたならば恐ら︿再建事業は識者の瑚を招く事

μ

なbはすま いか、予をして之を言はしめたならば、御庵室の再興も亦よし、然れどもちつま意味あるものを再建 せねばならぬと思ふ。それは何か云ふ迄もなく本抄律師の遺文の再刊である。宗組大事人が七百年の 今日に至るまでも向其徳を讃嘆せられ、人類のよ bd 指謀者として渇仰せらる、のは如何なるわりか、 それは華人誕生の霊蹟たる小湊山があるからでもなく又身延山があるからでもない、但宗副大型人の 臨師研究ノート 4F 一 六 九

(13)

臨附研究ノートよ’ 一 七 O 書残された四百余話の遺文があるからである。博士高山林次郎をして﹁げに文は人な b ﹂と稀嘆せし めたのは誰か、却も我姐である。我 φ が聖一人の遺文を非議するごきに、共慮には直に七百年前の日蓮 塾人の折伏逆化忍難慈勝の御姿其のものが再現せられて居るのである。そして吾人を導レて呉れる、 故に本妙庵再建に多大なる費用を費すよりは寧ろ、臨師の遺著の苅行が最も也嘗な一事業ではあるまい かと思ム。百十有余年後の今H律師の人格を偲ぶ仁ふさはし主ものは但醒悟闇叢書上下二港あるのみ である。予をして文を讃嘆せしむれば﹁げに文は魂なり﹂と言ムぺきであると思ム。何となればその 文章の上には俗人間的攻色彩は一切除去せられ、超人間的な或る何物か立躍如とし℃顕現して居るか ら で あ る 。 鳴呼大柿久保の霊域も、この遺書のあるあ b てその光輝を増し、醒悟闘の聖跡も乙の遺篇あるあ b て、その昔を偲ぶよすがとちなるであらう。是れ予が再建を従とし議文の出版を主張する所以である。 以上英然たる二三の品棋連は但芦予の未熟と魯鈍とを表はすのみにして恐くは不遜と過言の箇慮多か b しならん、深く稲田老師の高敬を謝すると共に大に護者諸賢の諒恕を乞ふ。

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