教授内容の選択・編成・決定・学習指導における
教師の権限に関する試論
佐 藤 年 明
Ⅰ.問 題 意 識
(1)日本における国家・教育行政は、1950年代以来一貫して学校教育における教授内容決定権 は国家にある(文部(科学)省告示学習指導要領には「法的拘束力」がある)と主張し続けており、言う 所の「法的拘束力」が学校現場において強制力を持っている。 (2)このことは最新の中央教育審議会答申(2016)・学習指導要領(2017-2018)においても変わら ない。そこでのキーワードの 1 つとされるカリキュラム・マネジメントに関する説明(中教審答 申第 4 章 2(2))の中でも、「学習指導要領等を受け止めつつ」「学習指導要領等に基づき」「学習 指導要領等を手掛かりに」「学習指導要領等の趣旨や枠組みを生かしながら」等、もういい! と言いたくなるほどの学習指導要領準拠要求が述べられているし、さらにそれに先立つ「学習 指導要領等の枠組みの見直し」(第 4 章 2(1))では学習指導要領について「法規としての性格を 有している」として、従来の「法的拘束力」よりさらに踏み込んだ権力統制的見解を述べ、 「法規としての学習指導要領等に反すると判断されるのは、例えば、学習指導要領等に定めら れた個別具体的な内容項目を行わない場合や、教育の具体的な内容及び方法について学校や教 員に求められるべき裁量を前提としてもなお明らかにその範囲を逸脱した場合など、学習指導 要領等の規定に反することが明確に捉えられる場合である。」としている。 文書のこの部分を中教審の事務局を担当した文科省の誰が執筆したのか不明であるが、まる で、自らの幻想としての「学習指導要領法」(そのようなものは存在しない)の実施主体である自 分たち文部科学省が、教育内容に関するあらゆる可否の判断を決定できるかのような傲慢さで ある。かれらは、戦争への深い反省に立ち学校現場の声を踏まえた民主的な教育課程作成を 誓った1947年版、1951年版学習指導要領一般編(試案)の「序論」を一度でも読んだことがある のか? (3)こうした学校教育課程への学習指導要領の「法的拘束力」による支配状況が60年以上にわ たって続く中、実際には学校における教授内容の全てを文部科学省がコントロールしていると までは言えないにもかかわらず、教科教育における教授内容の選択・編成・決定とそうした内容を学ぶ子どもたちの学習活動の指導における教師の責任と権限が独自に存在するという意識 が、残念ながら教授行為の当事者である教師たちにおいて極めて低い状態にある。 (4)学習指導要領において決定され、検定教科書に記載されている教授内容について、その選 択・編成・決定に対する教師の主体的関与の意識が低いことを一概に責められるものではない。 なぜならそれら一連のプロセスに教師が積極的に関与しようとしても、教育行政は「法的拘束 力」を盾に、学習指導要領に記載された教授内容を教えないことや、学習指導要領に記載され ていない教授内容を教えることを禁じており、教授内容に関する一連のプロセスに教師が創意 工夫を発揮して積極的に関与することは不可能、あるいは難しいと判断する(あるいはそうした 過程に自らが参加できるかどうかさえ考えようとしない)教師も多いというのが平均的な学校現場の 現実であるからである。 (5)ただ実際は、(3)で言及した通り、学習指導要領によって教師の学習指導の一挙手一投足が 縛られているわけではない。学習指導要領があり検定教科書がありその教科書の教師用指導書 があることで、教師の教授活動の大半は予め決定されているとも見ることができるが、教室で の日々の授業がいちいち管理職や教育行政担当者によって監視されているわけではない以上、 教師が自らの良心に従って、「与えられたもの」そのままではない授業、学習指導を行なう余 地は残されている。少数ではあろうがそうした地を這うような努力を続けている教師たちも全 国に存在する。 (6)筆者が約30年にわたって研究と実践を続けてきた性(sexuality)の学習においても、述べ来 たったような状況が存在する。第 6 期(1989年版)学習指導要領で小学校 5 学年理科にヒトの発 生に関する単元が初めて登場したが、以来現在までにヒトの発生を受精からでなくもっと前の 性交=男性から女性へ、精子を卵子へと受け渡す行為から取り上げた理科教科書は、一社たり とも存在していない。第 6 期の最初の教科書(1992年版)では大日本図書のみがイヌの交尾をイ ラスト入りで取り上げた(=他の動物の事例を通じてだが、精子を卵子へと受け渡す行為を説明した)が、 次の教科書改訂(1995年版)ではこの部分は削除された。また学習指導要領も、第 7 期(1998年 版)・第 8 期(2008年版)・第 9 期(2017年版)のいずれでも、「内容の取り扱い」の項で「受精以前 の過程は取り上げないこと」という表現で性交の学習を禁じている。しかしながら女性と男性 の別々の体内で形成された卵子と精子がどのようにして出会い、受精に至るのかを疑問に思う 子どもたちは多く存在し、それがまたこの単元を扱う教師たちを困惑させている。子どもたち の疑問にきちんと応えようとすれば、学習指導要領の「禁」を犯す必要があるからだ。 「それはむずかしいことだから」「もっと大きくなったらわかるようになるから」などと言 を左右にして逃げる教師もいるだろうし、質問した子どもを叱責して質問を封じる教師も中に はいるかもしれない。しかし、真面目な良心的教師も存在する。小学校高学年においても、あ
るいは低学年においても、性交を含めてヒトの生命誕生を教えることを試みた教師は存在する し、少数ながら実践記録も残されている。 (7)しかしその少数の熱心な教師たちの教育実践の中にも問題が存在する。例えば生殖の性の 一環として性交を教える実践。文科省が原則それを禁じている体制下であるから、親との合意 や管理職との調整(あるいはそれなしのゲリラ的な実践)などが極めて困難な中での、やや誇張す れば「命懸けの実践」となる。そして、そのような実践記録が公表されると、同じように性交 を位置づけた学習を展開しようとしている教師は「同志」として称賛的に受けとめる。その際 「私の実践の目標や方法とは違うな」という意識が働かないわけではなかろうが、それが前面 に出されることはあまりない。困難な状況下で実践を続ける「同志」への連帯感が前面に出る。 私自身1997年以来会員であり続けている「“人間と性”教育研究協議会(性教協)」の年間で最 も大きな会合である全国夏期セミナーに過去数回(今年度7/27-28の京都教育大学大会を含め)参加 したが、性交を教える実践の報告は、(性教育の他のテーマについても基本的に同じだが)「講座」 あるいは「模擬授業」の形で行なわれる。それらは啓蒙であり先進的実践の普及である。一般 参加者よ勉強しなさい、というわけだ。全国セミナーに先立ち、一般会員に対して夏期セミ ナーで実践報告をしませんかという呼びかけはない。プログラムは全て幹部により決定され管 理されていると思われる。 繰り返し性教育バッシングが吹き荒れる中、一般参加者を装ってセミナーに参加する敵対勢 力もいるようだ。これを予想して性教協という組織を防衛することに最大限の注意が払われて いる。セミナー中の写真・動画撮影は禁止。配付されたレポートも、自分が持ち帰って学習す るのはよいが、外部でコピーを配付したい場合は報告者の許可を得なければならない。 このようなルールは、他の民間教育研究団体では聞いたことがない。民間研の大会で多数の 参加者に対して資料配付が行われる場合、その取り扱いは参加者個人の良識に普通は任される。 多いに学び、普及すればいいわけだ。 しかし性教協では違う。報告者が報告したことを audience がどこまで普及してよいかにつ いては報告者が管理するわけだ。普通に報告を聞いて(報告者に資料普及の許可を得ることなく)そ のまま帰った場合、報告内容は参加者の頭の中に留められねばならないことになる。しかし、 自らの実践の改善を真剣に考えて参加した人においては、それはあり得ないのではないか。頭 の中に留めるために高い参加費を払い忙しいスケジュールを割いて参加したわけではない。実 践の改善を試みれば、そこに性教協での報告内容の一部が「滲みだして」くるはずだ。性教協 が優れた実践の普及よりもバッシングがある中で敢えて報告してくれた実践者を守ることの方 を優先するのであれば、優れた性教育実践の普及・浸透、それによる学校現場の活性化はほぼ 望めないだろう。いつまで経っても少数者の身内サークルに留まるであろう。 (8)日本の性教育研究団体は性教協だけではない。他にも進歩的な団体もあれば、保守的な団
体もある。しかし、民教連(日本民間教育研究団体連絡協議会)に名を連ねる性教育の実践・研究 団体は性教協だけであり、極めて貴重な存在である。多くの実践、研究成果も生み出してきた。 にも関わらず日本の性教育の状況を大きく変えるような貢献をしてきたとはとても言えない。 性教協という名前も知らない現場教師が多数ではないか。これは全て保守反動右翼勢力の性教 育バッシングのせいであろうか?そうではない。主体の側にも問題がある。その一つが相互批 判の欠如である。 例えばかつて山形の小学校教師・野村正博は、転任したばかりで担任した 3 年生に性教育を 行ない、翌年担任は持ち上がったが子どもたちの学級編成が変わる中で 4 年生に性教育を行 なった経験から、「三年生の三月三十一日に、深い大きな川が流れている(1)」という表現で、 思春期に入る以前の小学校下学年期=性行動の当事者にまだなっていない時期に性交を含む生 命誕生の学習を開始することの重要性を述べた。筆者はそれ自体は支持している。しかし一方 で小林美希の実践報告によると、(野村とは実践開始期のずれがあるが)4 年生から性の学習を始 めて性器の名称等もきちんと学んでいたその同じ子どもたちに、 6 年生になった時の授業でお さらいの意味で性器の名称を問うと発言がなかったという。「 4 年生の頃と違って、“おおっぴ らに口に出してもいいの?”という雰囲気(2)」だったと。 これは何を意味するか?たとえ思春期以前に性の学習を開始していても、時期が来るとやっ ぱり性を語ることをためらい、改めてとまどい、不安、羞恥心を感じる子どもたちがいる。 3 年生までに学んでおけばもう安心、ではないのだ。日本の性教育における野村正博実践の先進 性はいくら強調しても強調しすぎることはないが、それでも野村実践には多数の残された課題、 誤り、改善点、検討すべき点などが存在する。しかし、性教協グループの出版物の中で、野村 実践がバッシングに晒されたことへの強い批判、反論はあるが、筆者が挙げた残された課題、 誤り、改善点、検討すべき点などが議論されたのは見たことがない。 かつて七生養護学校事件が起こった時に、教育科学研究会委員長(当時)の田中孝彦氏が、「し かし七生養護学校の実践の全てが支持できるものというわけではない」ということを発言され たか書かれていたのを思い出す。極端に言えば、このスタンスがないと、民間教育研究運動は 死ぬ。性教育バッシングを発信しているのは、確かに保守反動右翼のけしからぬ連中であろう。 しかしその攻撃に影響を受けて萎縮したり性教育を敬遠したりする教師や親も多くいる。攻撃 の不当性を言うだけでなく、あるべき性教育の姿を堂々と打ち出していかなければならない。 その時例えば野村正博実践を仲間内で批判し合えなくてどうするのか?あたりまえだが、批判 とは否定ではない。野村実践なんて価値はないと一刀両断にすることではない。野村氏が切り 拓いた地平を共有しながら、「違う考え方、違うやり方もある」という議論を堂々と展開でき なくて何が民間教育研究運動だろうか。権力者はこっぴどく批判するけど身内に対しては甘い 民間教育研究運動でいいのだろうか? (9)民教連、あるいはかつての日教組教研集会などの中で、同じ教科領域の異なる研究団体が
激しく論争したと聞く。泥仕合みたいなこともあったと。こうした状況に対して、敵を前に味 方の足並みが揃わなくていいのか、という憂慮があったとしてもわからないではない。 しかし、私たちは教師として子どもたちにそのような接し方をするか? みんな同じクラス の子どもたちなんだ、仲良くしようと言って、子どもたちの中にある小さないざこざとかいじ めとかを見て見ぬふりをするだろうか? 子どもたち 1 人 1 人ときちんと向き合い、問題を抱 える子、悩んでいる子、傷ついている子に 1 人 1 人誠実に対応しようとするのではないのか? 違いをこそ大切にして強引に一律化しない指導に心がけているのではないのか? では同僚間ではどうか? 研究団体の同志間ではどうか? 実践のスタイルの個性を尊重しながら、でも違いがなぜ起こっているのか徹底的に糾明し、 結果としても複数の解決方向を確認し、それをシェアし活用して、その際に自分個人は自分ら しい主体的個性的選択をする。そういう個を大切にしながら集団の交流を進めるスタイルを確 立しているか? 民間研に来ても黙って聞いて持ち帰るだけの教師が多くないか? もちろん自主的に参加し た研究会での 1 人 1 人の参加者のそうした振る舞いの自由はあるが、やはり大いに議論・交流 し、しかし結論を一つに絞らずに得たものをそれぞれ持ち帰る、これが活性化した研究団体の ありようではなかろうか。 (10)教師の教育実践の個性的展開の自由とその相互交流の重要性を述べてきた。また、交流に おける相互批判の必要性も述べてきた。文科省の学習指導要領による教育課程の「法的拘束」 は不当である。長年これによって多くの弊害が出ている。もう60年来のことだ。しかしその批 判の裏返しは、「個々の教師が好きに教育してよい」ではない。不当な攻撃を警戒したり、仲 間の力を結集してこれをはね返したりしながらも、教師同士で教育実践を批判的に検証し合い、 違いは違いで明確にし、それを互いに認め合える部分は認め合い、優れた他者の実践を自分も 取り入れてみることを試みたり、触発されてまた別の実践展開を計画・実践したりする。そう した闊達な実践者間の関係を形成しておかないと、現在の教育を不当に支配している者たちを たとえ将来において国民的包囲の下で政治的に打破できたとしても、その時に不当な拘束を受 けずに自由に展開していく教育実践の方向性を豊かに語り、実践する力量が主体の側に十分 育っていない、ということになってしまわないだろうか。 (11)上記のような教育実践、教育実践研究運動への批判も含んだ問題意識の下、実現の現実的 条件はない状況ではあるが、教授内容の選択・編成・決定・学習指導において、学習の主体が 子どもたちであることを踏まえた上で、教師はどのような権限を行使しうるのか、すべきなの かについて、試論的に考察してみたい。
Ⅱ.教授内容の選択―編成
授業における学習活動の内容について、普通は教育内容という用語が用いられるが、筆者は 学校における教育活動のうち授業以外の諸活動にも「教育内容」と言えるものが存在すると考 えるので、それと区別する意味で授業の内容、授業における学習活動の内容を「教授内容」と 呼んでいる。但しこの用語は「教師が子どもたちに教える」という方向性を強く感じさせるの で、「学習内容」という別の呼称も考えられる。しかし、筆者は一方では子どもたちの興味関 心のなすがままに展開するのが学習の全てであるとは考えず、教師からの問題提起や学習内容 提示も重要であると考えるので、「学習内容」としてしまうことにも抵抗がある。暫定的に 「教授内容」の呼称を用いたい。 「総合的な学習の時間」がまもなく20年の実践史を刻む中、学校図書館のようなイメージで さまざまなリソースを用意しておき、インターネットなども組み合わせて子どもたちが自由に 展開する学習活動も、いろいろ試みられてきた。それだけでよいのなら、この先の議論は要ら ない。いや、教師という仕事自体が根拠を失う。 しかし現実には教師が子どもたちの学びのガイド役を務めなければ、子どもたちがこれから この複雑な現代社会の中で自力で生きていく上で必要な知識・情報、技術・技能などを十分に 獲得することは困難だろう。そういう子どもたちの socialization のサポート役を置くことが必 要だ、というのがつまり、近代学校成立の根拠だった。 古今東西の数多ある知識・技術、学問・文化。一方で学校で学べる期間、学習の量は限られ ている。しかしその情報の海に飛び込んで金の魚をゲットしてこいと言われたら、教師たちは 後ずさりするだろう。自分(たち)にはとてもそんな能力はないと。そして、「いろいろあって もやっぱり学習指導要領に頼るしかない」となる場合も現状では多いと思われる。教師をめざ す学生たちに学習指導要領の法的拘束力の弊害を説いた上で意見を聞いても、「それがなけれ ばとても一から授業をつくることなどできない」と多数が学習指導要領の存在肯定派である。 一部に「自由な実践を展開しにくくしている」との批判意見もあるが、そうした学生たちでも 仮に「じゃああんた、一から教育課程をつくれるの?」と問われたら、「やっぱり学習指導要 領に頼るよりしゃあないか」となる者が多いだろう。 各教科・領域、教科内の分野、学年、校種、そうした広がりを持つ現行学習指導要領の全体 に対して個人が対案を提示するなど、それは無理に決まっている。相手は文科官僚・専門家・ 協力者等を動員し、数年かけてつくりあげているのである。叶うはずはない。 しかし、対案作成の見通しが全くないわけではない。1970年代中盤に、日本教職員組合中央 教育課程検討委員会に結集した各民間教育研究団体の実践家や教育学研究者が約 2 年間の検討 を経て「教育課程改革試案(3)」(以下「改革試案」と略記)を世に問うた。同報告は、「Ⅰ 総論 五、教育課程の編成主体と手続き」において、以下のように述べている。私たちは、教育課程が各学校の教職員集団によって自主的に編成されるべきだと考えている。しかし、 そのことは、教職員による恣意的な教育を許すものではない。教育内容は、次の次代を担う若い世代の 人間的な発達を保障するために、国民的英知を結集してつくりあげられねばならない。 私たちは、教育課程に対して、科学・技術の発展と、学問・文化の今日的成果とともに国民の要求と 意見が確実に反映される仕組を、全国と地域のレベルでつくっていく必要がある。 地域のレベルにおいては、その地域にふさわしい教育課程のあり方を調査・研究するとともに、各分 野にわたっての、具体的な内容を明らかにした教育課程の大綱的試案を作成する教育課程審議会を各自 治体に組織する必要がある。この審議会は民主的な教職員団体の代表、民主的に選ばれた地域住民・父 母・文化諸領域の専門家などの代表によって構成され、学校は、ここで作成された大綱的試案を参考に して、それぞれ独自の教育課程を作成する。 全国的レベルにおいては、従来のような政治や経済の要求に従属した「教育課程審議会」を廃止し、 これに代わって、地域レベルの審議会構成に準じて、民主的に選ばれた中央教育課程審議会を組織する。 この審議会は、各地の教育課程の試案を交流し、自主編成活動を積極的にはげますための資料集や、教 育課程にかかわる独自の著作物を発行するなどの仕事を行なうとともに、全国で共通に実施されること が望ましいと思われる事柄についての大綱的基準を作成する。 なお、地方・中央の教育行政当局は、審議会の活動を援助し、その決定を尊重し、必要な行財政的措 置をすみやかにとらなければならない。 各学校の教職員集団は、地域的・全国的な教育課程試案を参考にしながら、国民的英知の結晶を子ど も・青年につたえ、国民的要求をみずからの実践に反映するという立場から、不断の研究をすすめ、そ れを創造的な授業に結実させることが求められている。 なお、本委員会の検討と報告は、教育課程の編成主体と手続のあり方の問題をふくめて、多様な国民 的努力の一つの試みであり、同時に、教育課程に対する国民的関心を喚起し、教育課程自主編成の運動 を発展させる呼び水ともなれば、その意図の大方は達せられたといってよい(4)。 文章表現だけを見ると、冒頭Ⅰ(2)で言及した2016中教審答申の「カリキュラム・マネジメ ント」に関する説明も、その冒頭で以下のように述べている。 「教育課程とは、学校教育の目的や目標を達成するために、教育の内容を子供の心身の発達に 応じ、授業時数との関連において総合的に組織した学校の教育計画であり、その編成主体は各 学校である。」 即ち教育課程編成の主体は学校であるとしている。但し、既にⅠ(2)で紹介したように、こ れに続いて、教育課程編成においては学習指導要領に準拠すべしという指示が繰り返し登場す る。学校現場の教職員集団自身は作成・決定権を持たず、そこに要求を反映させることも実質 的に難しい学習指導要領という文書を、教育課程作成の基準にしなければならないのである。 これに対し「改革試案」では、以下のように提案する。 ・地域レベルで民主的に編成された教育課程審議会を組織し、そこで教育課程の「大綱的試 案」を作成し、各学校はその試案を参考にしてそれぞれ独自の教育課程を作成する(5)。 ・全国レベルでも民主的に編成された中央教育課程審議会を組織し、各地の教育課程試案を交 流し、教育課程自主編成を支援する資料集や著作物を発行する。また全国共通実施が望まし い事柄についての「大綱的基準」を作成する。
2016年中教審答申を含めて1950年代中盤以降の全ての文部省文科省・中教審・教課審の文書 とは明確に異なり、「改革試案」では教育課程の「基準」を一部を除いて設定していない。原 則として地域ごとに作成されるのは教育課程の「基準」ではなく、教育課程の「試案」である。 「こうやってみるのはどうですか?(でもその通りに従う必要はないですよ)」という「おすすめ」 なのである。確定されていない「試案」であるから、拘束力はない。しかし、個々の学校で内 容編成の独自プラン編成に困ったときに参考にすることができる。つまり、教育課程は地方ご とに出される「試案」を参照しながらも原則各学校において作成される、という提案である。 「改革試案」が「基準」という言葉を用いるのは「全国で共通に実施されることが望ましい と思われる事柄」についての「大綱的基準」だけである。それが具体的に何を指すかについて は、「改革試案」の各教科・領域に関する具体的提案を見ていくしかないが、全面的網羅的作 業は本稿の手に余る。ただこれは教授内容の「選択」に関わる重要問題ではある。「実施され ることが望ましい」というのがプランを提案している中央教育課程検討委員会の見解であるこ とはわかるが、実際の教育課程作成過程に入ったとき「のぞましい」の判断は誰が下すのか、 そしてそこには強制力があるのかそれとも強制力を伴わない勧告なのかで意味が違ってくる。 別の方向から考える。「改革試案」の提案は一つのたたき台に過ぎないことは最後に断られ ているが、それにしても、(残念ながら早期の実現の見通しが立たない理想論としての提案だけに仕方 がない面はあるにしても)「改革試案」にはいろいろと検討すべき課題が含まれている。特に重 要なのは「教育課程の大綱的試案」がどのようなスタイルで提案されてくるのか、である。こ れについては、「改革試案」自体の提案をまず抜粋で見てみよう。 「改革試案」の教育内容に関する提案は12の「教科」(国語・文学、数学、自然、社会、手しご と、技術、美術、音楽、保健・体育、家庭、外国語、総合学習)と「自治的諸活動を中心とする教科 外諸活動」、さらに別項で「高校教育課程について」にわたって行なわれている。この中で性 格がかなりかけ離れている数学と美術を取り上げて、提案の構成の骨子だけを紹介する。 数学の教育課程提案の構成は以下の通りである。 1 現状と問題点 2 数学教育のあり方 3 各階梯の見とおし 第一・第二階梯 (幼年期) <第一階梯以前四、五歳> (一) 目標と考え方 (二) 幼年段階の数学教育の内容 1 初等前期(小学校低学年) (一) 目標とあらまし
(二) 重点教材とそのねらい (三) 指導上の留意点 2 初等後期(小学校中学年) (一) 目標とあらまし (二) 重点教材とそのねらい (三) 指導上の留意点 3 中学前期(小学校高学年) (一) 目標とあらまし (二) 重点教材とそのねらい (三) 指導上の留意点 第三階梯(中学校) (一) 目標とあらまし (二) 重点教材とそのねらい (三) 指導上の留意点 第四階梯(高校) (一) 階梯の特色と目標 (二) 講座の内容例 美術の教育課程提案の構成は、以下の通りである。 1 現状と問題点 2 美術教育のあり方 3 各階梯の見とおし 第一階梯 第二階梯 第三階梯 第四階梯 美術の提案形式は階梯ごとの違いがない。一方数学では、第一~三階梯(小・中)と第四階梯 (高)で提案形式が異なっている。 さらに数学では小学校低学年から中学校で「重点教材」という傾斜のかけ方をしているのに 対し(様々な教授内容選択の考え方が算数・数学教育関係者にある中、共通項として合意できる部分に 絞ったのではないかと推測される)、美術ではそのような絞り込みが見られない。 全領域をチェックすればこのような教授内容選択・編成方針の違いをさらに読み取ることが できそうである。 「改革試案」全体の提案趣旨からすれば、このようにして中央教育課程検討委員会が行なっ た各領域教育課程に関する交流・合意の活動成果をそれこそ一つの「試案」としながら、各地 域でも教育課程づくりを行なって下さい、ということになるだろうが、「改革試案」のように
階梯区分や提案の柱立てについてある程度の共通確認をしていても、教科の特性、あるいは教 育課程作成のために集う専門家たちの持つ専門性の中身の違い等により、おそらく容易には合 意は形成され得なかっただろうと思われる。 部分の検討だけから断言はできないけれども、「改革試案」がつくろうとした教育課程提案 の枠組みは、基本的にはオーソドックスな scope と sequence に還元されると思われる。つま り、どのような教授内容項目・領域を設定するのかということと、その内容の学習をどのよう な順序で組織していくか、だ。 「改革試案」は、各地域でつくろうと提案している教育課程の一つのモデルを自ら提示した ものと思われるが、案を提示する(そのために各民間教育研究団体等の代表が合意をつくる)ことに 精一杯であったのか、教育課程の作成過程、すなわち「改革試案」がモデルを示したような教 育課程づくりにどのようにしたら各地域で取り組んでいけるかについては、民主的に構成され た教育課程審議会で作成する、と述べることに留まっている。 ここでは本節の表題の通り、本稿タイトルに示した教育課程作成プロセスの最初の 2 段階で ある「選択」「編成」に即してもう少し考察してみよう。 「法的拘束力」を持つ国家基準としての学習指導要領が存在しなくなる段階では、教育課程 全体の構成枠組み(どのような教科や領域をどの階梯・学年に設定するか)から自由に構想できるは ずだが、取り敢えず例えばその点については「改革試案」のいう国レベルの「大綱的基準」で 提案済みであると仮定しよう。すると次は、ある教科において教授すべき、あるいは教授する ことが望ましい内容をどう「選択」するかが課題となる。各地域の「教育課程審議会」には、 「改革試案」によると「民主的な教職員団体の代表、民主的に選ばれた地域住民・父母・文化 諸領域の専門家などの代表」が出てきている。なんらかの個人や団体が議論の決定的なイニシ アチブを取るとか、決定に際して大きな権限を持つということはないはずだから、議論は簡単 にはまとまらないだろう。現行の学校 5 日制が維持され、小学校の単位授業時間を45分とする ルールが維持されると前提すると(もちろんそうしたことをもっとフレキシブルにしていく教育課程 改革も当然あっていいわけだが、ここでは問題を単純化して…)、 1 週間の学習時間は全日 6 時間授 業というマキシマムで考えたとして45×6×5=1350分、22時間と30分である。あれもこれもと 詰め込んだ結果、総授業時間数大幅増、という選択を各界で構成する「教育課程審議会」が下 すとは考えにくいから、やはり学習時間の上限を設定してそれを大きく越えることはしないと いう前提での検討になるだろう。 そこで議論の事例として非常に極端な仮想の議論を挙げる。地域(京都市と仮定する)在住の専 門家Aから、東日本や熊本の事例を見ても、また昨年関西でも大きな地震があったことからも、 ここ京都の小学校でも地震等の大災害に備える学習を時間数を大幅に増加させて総合・社会科 等の時間を利用して行なうべきだという意見が出る。これに対して専門家Bからは、災害学習 の重要性を否定するものではないが、外国人観光客が急増している京都では伝統文化とその意 義を京都に住んでいる子どもたちももっと良く知って観光客にも伝えていけるような文化学習
が必要で、そこに国語・外国語・社会科等で大幅に時間を割くべきだという意見が出る。 最初から自明なように、災害学習と文化学習はどちらに価値があるとかどちらがより重要と いう格差付けをすべきものではなく、どちらも重要なのである。しかし現実に授業時間数上限 がある以上、必然的に「時間の取り合い」議論が発生する。審議会で結論を保留して教育課程 の実行主体である学校に判断を委ねたとしても、やはりそこで「時間の取り合い」議論になっ てしまう。過去の学習指導要領作成過程でも、各教科教育関係者によってこうした無益な争い が繰り返されてきた。 1 つの教育課程を決定するための議論だから、学校現場でそれをするこ とは「無益」ではないだろうけれども、教育課程の時間的上限という枠組みの中で本来価値・ 重要性を争うべきではない複数の教授内容がせめぎ合うことになる。だが、学校レベルについ ては次節に譲ろう。 ここで地域「教育課程審議会」の役割(権限ではない)の明確化が必要になる。「教育課程審議 会」が示す試案とは、教授内容の項目を豊富に提示して、そのいずれを「選択」するのか、あ るいはいずれとも違う独自の教授内容を選択するのかを各学校に任せることなのか。それとも、 AとBと……といういくつかの内容項目群を「選択」してそれを順序立てて「編成」すれば 1 年間の学習過程を構成することができる、というような選択―編成を 1 セットにした特定のプ ランの提示までする必要があるのか? 「教育課程審議会」が提案する教授内容が「試案」であるならば、各学校にはそれに従う義 務はない。どれを採るのも採らないのも各学校の自由となれば、「選択」した特定の内容項目 の「編成」事例を示しても、あまり実践上の意義は大きくないかもしれない。しかし、現在と 違い各学校が年間の学習指導計画を立てるに際して学習指導要領という「重し」が存在しなく なっていることを考えると、「教育課程審議会」の提案が教授内容項目のランダムな提示だけ、 というのは不親切すぎるかもしれない。年間の学習計画構成は、各教科・領域の scope と sequence、さらに各教科・領域間のそれの相互関係という複雑な因数を含んでいるだけに、 例えば「教授内容A・B…を構成要素とする場合」という一事例でもいいので教育課程「編 成」の「試案」提示をすることは重要かもしれない。 いったん教育課程の「強制された」基準枠を廃止してしまうと、教育課程構成にはいろいろ な可能性や選択肢が生じる。それに伴い教師、教師集団の責任の度合いも増すし、試案・基準 提示母体としての地域・中央の「教育課程審議会」にも様々な要求が寄せられて、審議会がこ れに応えることが求められていくだろう。
Ⅲ.教授内容の決定
引き続き「改革試案」を下敷きにして考察する。 教育課程に関する地域「教育課程審議会」の役割は「大綱的試案」の提案、「中央教育課程 審議会」の役割も地域の教育課程試案の交流や共通事項に関する「大綱的基準」の提案であった。「大綱的基準」の拘束性については明示されていないが、審議会の性格から見て決定を一 律に全国の学校に押しつけることが構想されていたとは考えにくい。 これらのことから、また「改革試案」の該当部分の冒頭に「教育課程が各学校の教職員集団 によって自主的に編成されるべき」とあることからも、「改革試案」は教育課程の決定権を持 つのは各学校の教職員集団であると見なしており、そこに何らの前提条件も付けていないと思 われる。 現行においても各学校の教職員集団は自校の教育課程を決定している。しかしそこには、学 習指導要領から逸脱するなという文科省による制限が課されている。この制限が仮に撤廃され た場合、各教師の教育課程づくりの作業はどう変わってくるだろうか。 いろいろなことを想像することができるが、ここでは「教師個人」と「教職員集団」をめぐ る問題に限定して考察したい。 各学校においては各教科・領域、各学年の年間学習指導計画が立てられる。現行の場合は学 習指導要領という「重し」があるから、それに準拠した教育課程を作成しているという説明責 任を文科省や地方教育行政に治して果たさなければならない。この「重し」がなくなったと仮 定してみても、おそらく学校全体としての年間学習指導計画作成作業は残るだろうし、学年に 複数学級が存在する場合には学年としての統一計画も作成されるだろう。同じ学年の各担任教 師が、隣の学級の教育課程も知らずにそれぞれ全く独自に教育課程を作成することでは、親に 対する説明責任も果たせないと考えるのが普通であろう。 ここに難しい問題が生ずる。直接に教育実践を担当しない国や地域エリアレベルでは教育課 程は試案・大綱的基準提示に留まっているのに、具体的に実践を執行する場である学校におい て、「学校全体の統一した方針」や「学年で足並みを揃えること」が強調されるとしたら。例 えそこで作成される教育課程が地域の「教育課程審議会」の試案を参照して学校独自で作成さ れたものであっても、学校内の力関係で声の大きい教師の意見が通ったり、経験の浅い教師の 疑問・悩みや意見が正当に尊重されないとしたら。ここから、当たり前のことであるが自由で 自主的な教育課程づくりは学校教師集団内の民主主義的な人間関係の成熟と密接不可分である ことがわかる。 さて、いま小学校を念頭において考えているのだが、一学年に複数の学級が存在する場合に、 学級間の教育課程の統一を要求する根拠は何だろうか。現行のように全国統一で「法的拘束 力」を持つとされる教育課程基準が存在し、また親がそれを是とする場合には、わが子の学級 の担任教師が全国基準に合致した教育課程を実行しているかの監視が始まる。学年どころか全 国均一の教育課程実施を要求して。学年はその中間的なチェックポイントに過ぎなくなる。 しかし仮に「改革試案」の提案が実現して、全国一律の教育課程たるべしとの規範がもはや 失われた場合、「隣のクラスでは学習しているのにわが子はしていない」という圧力はなくな るだろう(いや、隣と同じがよいという同調志向は残るかもしれないが、学習から同一スタートラインか らの競争という性格が消滅した場合にその志向は弱まっていくと思われる)。しかし代わって、全国の
様々な新しい自由な教育の試みについて、「わが子のクラスでも」という多様な要求が起こっ てくるかもしれない。またそうした親の要求同士がぶつかるかもしれない。 前述のように授業時間・学校生活時間には上限があり、また教師の教育実践改善の努力にも 限界がある以上、どこかで折り合いを付けなければならない。また親はみずから知り得た個別 の学習内容等について要求を出すことができても、教授内容を選択し、編成して、最終的にこ の内容をここで何時間かけて教える/学習させるという決定は教師の専門的判断に委ねざるを 得ない。親が教師に取って代わることはできない。 また、教師間で積極的に実践交流を行ない、その結果A教師がB教師の授業プランの一部ま た全部を借りて自らも実践することはありうるが、ある教授内容や指導技術に傾倒しているC 教師が、自らの教育理念や実践方法を隣のクラスのD教師に熱心に勧め、実践するよう説得す ること、あるいは圧力をかけることは間違っている(読者は考えにくい事態であると思われるかも しれないが、国家権力による教授内容統制が基本的に撤廃された場合、教師や様々な専門家によって多様 な教育理念・教授内容などが主張される百家争鳴状態が生じ、その中で相互に優劣を競い合うような事態 は、一つの可能性としてあり得ると思われる)。現在のような単独教師による学級担任を前提する 限り、学級の子どもたちの学習と生活に最終的に責任を持てるのは担任教師だけであるから。 但し、教育課程の運営における教師観の役割分担や連携関係を根本的に見直していくことに なれば、個々の教師は「このクラスの子どもたちの指導責任は私にある」という考え方に固執 しにくくなる、あるいは、しなくてもよくなるかもしれない。そして各教師が教育課程を柔軟 に立案したり運営したり修正したりできるようになることが、教師間の実践における協力・連 携・相互批判を活発化し、学校の教育実践全体を活性化するだろう。
Ⅳ.学習指導における学習内容に関する教師の権限
これまでの考察は、教育行政と教師、教師間などについてであり、教育の主体・当事者であ る子どもたちを考慮の外に置いたものであった。行政や親など異なる立場、利害関係にある者 との間で教師の「権限」を明確化し、その行使を担保することは重要である。しかし、教師と 子どもたちとの間では、事情が異なってくる。 子どもたちの年齢により、また個人により、教師の「権限」に関する彼らの主観的理解は異 なる。子どもたちから見た教師は、恐ろしい存在、大したことはないが評価権を握っているの で下手に逆らえない存在、学習の指導者、疑問に答えてくれる人、学習と生活を励ましてくれ る人、憧れの存在など様々であろう。しかし多くの子どもたちは、学年を重ねる中で学校生活 における決定権は自分たちでなく教師の掌中にあることを速やかに理解していく。 現行システムでは、学習指導要領(これ自体は子どもたちには見えないが)があり、それに準拠し た教科書があって、授業は概ね教科書に沿って進められていく。 1 つの単元が終われば、子ど もたち自身が好むと好まざるに関わらず、教科書の次の単元に進むだけである。「総合的な学習の時間」は確かにこのような学習状況に風穴を開けた(あるいは、教師がその 気になれば、開ける可能性があった)。しかし、総合で創造的な学習体験ができても、それと連動 して教科学習全体が変化したわけではなかった。 さて、「法的拘束力」がある学習指導要領の「重し」が取れ、教師ないし教職員集団が自主 的判断において教授内容を選択―編成―決定できるようになった場合、教師にとって教授内容 は与えられたもの、しかたなく教えるものから、満を持して子どもたちに提示できるものに代 わりうるだろう。あるいは、逆に十分な教授内容研究・教材研究ができていない場合には、現 行のように「とにかく教科書にあるから」などの言い訳は効かなくなり、自信のないままに授 業に臨む場合も出てくるかもしれない。 高等学校くらいまで行けば、学習する内容の設定において生徒からも提案を募り、教師と子 どもたちが切磋琢磨的・並行的に学習内容を創造する、というケースも考えられるだろう。で はそれまでの段階では? 子どもたちは教授内容に対して包括的な対案を示したりすることは できないだろうが、それでも教師が「満を持して」用意した教授内容を拒否したり、嫌がった り、退屈したりということはあり得る。 その際現行のような教育課程では、教師には「予めの計画通り実践しなければならない」と いう圧力が働くが、決定権が教師に与えられるようになれば、教師自身が教育課程の選択・編 成・決定を「やり直そう」、「教育課程を練り直そう」と決断すればそれは可能である。敏速な 修正なしには教育課程に一部穴を空けることになるが、そうした実践途上での軌道修正のハー ドルが低くなることも教師が教育課程決定権を持つことのメリットだろう。教師自身が強い決 定権を持つことで、教師の独断的教育課程運営が増えるという危険性は、いろいろな教師がい る以上は全く排除することはできないが、子どもたちの声に耳を傾けた柔軟な教育課程運営を 行なおうとする教師がでてくる可能性もある。そしてそこからは、子ども、親との、あるいは 教師相互の意見交換・切磋琢磨により教育課程を改善していく可能性が開けてくるし、独断的 な教育課程経営をしている教師はそこで批判に晒されざるを得ないだろう。
Ⅴ.お わ り に
将来の学校における民主的な教育課程づくりについて仮説的な考察作業を進めれば進めるほ ど、虚しい気持ちも募ってくる。今を去る40年前の「教育課程改革試案」提案にあたって、当 時の日教組中央教育課程検討委員会は、日本の学校教師の教育課程づくりの力量、今は発揮さ れていないにしてもそのポテンシャルについて、どのように想定したのであろうか。 例えば NewZealand では国家の教育省が定めた TheNewZealandCurriculum(6)は存在す るが、日本の検定教科書にあたるものはなく、教師たちは教育省がネットで提示する教材群を 利用することをはじめとして、教材を自主的に編成して授業をつくっていく。これは日本の教 師よりもはるかに高い力量を必要とする仕事である。翻って日本の教師たちに、検定教科書なしで教授内容を創造していくだけの力量があるか? 力量については、想像が難しい。教師が現在のような会議・書類作成・地域対応その他の雑 務から解放されて、勤務時間の大半を教育実践に専念できるような勤務状況が実現したら、つ まりは教材研究の時間が十分に保障されたら可能だろうか? 現在の教師たちの多くが、教師のメインの仕事である授業を「与えられたもの」を適当に加 工して子どもたちに伝えるだけの、創造性のないメッセンジャーとして自己規定していないだ ろうか? 改革はまず教育課程からなのか、それとも教師養成と適格者の採用からなのだろうか。 文献 ( 1 ) 野村正博『性交を語る』教育史料出版会 1995年 P.56 ( 2 ) 小林美希「『精通・射精』と男子の性―“かつての少年”からのメッセージを伝える」『ヒューマ ン・セクシュアリティ』No.20 東山書房 P.70-71 ( 3 ) 「教育課程改革試案 中央教育課程検討委員会報告」『教育評論』1976年 5 ・ 6 月号 334・ 5 号 P.17-216 ( 4 ) 同上、P.28 ( 5 ) 水内宏「教育課程の基礎理論」(川合章・城丸章夫編『講座日本の教育 5 教育課程』所収 新日本 出版社 1976.4)は「改革試案」とほぼ同時期に公表されているが、註記等から完成した「改革試案」は 目にしていない段階で書かれたと思われる(引用されているのは『教育評論』1975年 7 月号所収の教育 課程改革案である)。 水内は「改革試案」と違い、「教育課程編成を国の政策レベル、学校レベル、教師の日常実践レベル の三段階においてみる」(P.67)として、地域レベルの教育課程編成主体の設定を想定していない。また、 「学校レベルの編成が空洞化している」(同)として、「大綱的基準に基づく一定の編成の自由と自主的・ 民主的な教育研究活動の自由が、教師集団に保障されねばならない」(同)としているが、その「大綱的 基準」については以下のように述べる。 「まず教育内容の大綱における国民的一致を得ることである。すなわち国民的教養として共通に必要 な目標にむけてすべての子どもたちを到達させていく立場から、国民教育、とくに初等・中等教育で共 通に学ぶべき内容上の基本があきらかにされねばならない。それは、教育学や心理学、人文・社会・自 然などの諸科学の成果と、今日までの教育活動・教育実践の総括にもとづいて可能なことである。事実、 この点では、近年、民間教育研究諸団体の理論面での成果として、一定の蓄積と前進がみられることも たしかである。 このような大綱的基準は、文字どおり教育内容の大筋にとどめるべきであって、教科・教材の細部に までは原則としてたちいるべきではない。(後略)」(P.66) 水内はここで「大綱的基準」を定める方略については明示していないが、民間研究諸団体の成果への 言及等から推測すると、その作業は主として全国レベルで行なわれるべきものと想定していたのではな いか。 ( 6 ) http://nzcurriculum.tki.org.nz/content/download/1108/11989/file/The-New-Zealand-Curriculum.pdf