義浄︵少己.の閉1コ、︶の撰になる﹁南海寄帰内法伝﹂︵四巻︶は句その序にかれ自身が 凡此所し論皆依二根本説一切有部つ との、へていることからも知られるごとく、根本説一切有部︵旨昌閉自くい農q胤旨︶という一部派に依って論述されたも のである。その根本有部︵以下、根本説一切有部の略称としてこれを用いる︶は、義浄によれば、その当時、インドおよ び南海諸地域におこなわれていた四部︵聖大衆部障冨︲冒四厨困凋冨冨﹄聖上座部臂冒︲、苦四ぐ胃幽︾聖根本説一切有 部宵冒I昌昌儲胃鼠豊ぐ圏旨﹄聖正量部冑冒︲m四日ご騨酋菌︶の中の一部派であり、また有部より分出したとする法護 部e彦胃目侭匡も国菌︶、化地部︵旨四宮の尉騨函︶、迦摂卑部︵炭胤冒でョ園︽︶などが、インドなどにはおこなわれずして、 烏長那国︵ロQ昌胃自国︶および亀遊︵厨宮口︶︲干間︵困彦○冨昌︶に雑え行なわれていたが、根本有部はそれらとも異な るものであり、さらにその律は有部の伝持せる十調律とおおむね似てはいるが、細部にわたってはちがっているもの
根本説一切有部における
帰依三宝について
佐々木教
悟
1 円 」/であることが知られる。もちろんこの他に、その当時 うまでもない。その大乗は中観、爺伽の二種をいでな 若礼二菩薩一読二大乗経一名似之為し大。不レ行一一斯事一画 というのであるから、厳密にいえば→大乗小乗の区分 ところで、ここに注目す琴へきは義浄がもっぱら依棚 であることが知られる。もちろんこの他に、その当時$インドおよび南海諸地域に大乗がおこなわれていたことはい うまでもない。その大乗は中観、爺伽の二種をいでなかったとするが、義浄の大乗に関する定義は 若礼二菩薩一読二大乗経一名似之為し大。不レ行一一斯事一号し之為し小。 さだ というのであるから、厳密にいえば→大乗小乗の区分定かならさるものがあったということができる。 ところで、ここに注目す琴へきは義浄がもっぱら依拠したといわれる根本有部なる部派の性格である。有部と根本有
①②
部との関係については、すでに学者によって言語の変遷の上から、あるいは主として伝記文学の上から、あるいはま ③ た主として分派の系譜の上から、両者の本末関係が論ぜられていて、それらの諸説はいずれも参考に値するものであ る。しかしながら、それらの研究によって、す、へての疑問が解消したわけではない。これらの研究には㈲まだチゞヘッ ト訳の文献が渉猟されていないために、何故にチ、ヘットにおける律が根本有部律のみとなっているのか、そのような 問題には関心を示さない。たとえば、根本有部はマトゥラー︵旨色目日勤︶を中心とした後期の展開であるとしても、 根本有部の持律師にしてカシミール︵民駄目目︶の地で活動した人が多いが、これをいかに理解したらよいのか、そ のような点についても未審のままである。いずれにしても根本有部のすぐれた律僧であったマトゥラー出身のグナ。フ ④ うゞ︿︵⑦目騨官号冨徳光︶と、かれのヴィナヤスートラつゞ冒畠儲昇国律経︶の系統をあきらかにすることがのぞま れるのである。 註 ④ ③ ② ① F旨F︺︲]肉○口四口函函胃口旬cQpg5pPp○○日も①ロ日ロ日Q①]四F2︾毛四H]印昌の鰐④︾毛も.旨@mlいつ]・ 烏木総刷豊§匡團旨と旨冨豊3“匡堂圏冒l“9厘鱒歸・信冒⋮の伝記を一丁亨としてl﹂干潟博士古稀記念論文集 、 塚本啓祥﹁初期佛教教団史の研究﹂四四七頁l 拙稿﹁ハルシヤ王の治世におけるマトウラー佛教の動向﹂印佛研五の一さて、根本有部律については、梵文資料、漢訳資料、そヘット訳資料など豊富な文献が現存し、しかも﹁寄帰伝﹂ のごとき、律の実際の運用面を記録した文献が存していて、その部派の性格を究明するにはきわめて好都合である。 梵文はすくなくとも五種あり、漢訳はすべて義浄の翻訳になるもので、経録の上からいえば一八部二○六巻を数え、 現存するものでいえば一八部一九九巻を数えることができる。チゞヘット訳は﹁北京版西蔵大蔵経﹂でいえば、甘殊爾 に八部、丹殊爾に四五部が収載せられている。これらの梵漢蔵三本のあいだのおおよその比定は、学者によってすで ① におこなわれているが、厳密な対照研究はまだおこなわれていないといってよい。しかしながら、その内容を一女点 検しての研究は、すでに発表されている大谷大学の﹁大谷大学図書館蔵西蔵大蔵経甘殊爾勘同目録﹂︵全三冊︶と、現 在発表されつつある同じく﹁大谷大学図書館西蔵大蔵経丹殊爾勘同目録﹂︵第一分冊一九六五年刊︶が果たすものと期 待される。とくにチゞヘット訳には、それぞれの末尾に奥書︵8]89口︶がつけられてあり、そこには造者、訳者、校 閲者もしくは刊定者などの名があげられるとともに、翻訳の年時あるいはその場処、さらに翻訳の際の諸事情などが しるされてあるものがあってへ訳経史上において貴重な資料を提供するものといってよい。こころみにさきに一言し た徳光律師の著作になるもののうち、律に関するものの奥書をあげてみるならば、つぎのごとくである。 西蔵大蔵経のなか徳光の造とされているものは、およそ七部︵z○.訊禽ゞ引怠ゞ訊認︶忠邑︺設呂﹄設巴ゞ訊瞳︶であるが、 そのなか、zo訊念は﹁菩薩地註﹂、z○.閉急は﹁菩薩戒品疏﹂、zp訊認は﹁五禰詳釈﹂、にして、まさしく律に 関するものは、つぎの四部である。 zo,認ら函合一︲g三目合ぐ冒蝕ご儲日日律経 聖根本説一切有部の大持律師、婆羅門の阿閣梨尊者昌○目︲冨口官貝Q]目冒号冨︶造。妙自在主ロ己巴田富︲耳3口︲ 一一 19
己○の勅命によって聖根本説一切有部の持律師にしてカシミールの毘婆沙師なる]自画目汁国と大校修訳官大徳加 園冒官H喝昌︲目蕨冒pとが訳、閲、刊定した。 へ圃巨]ゞ胃l胃g芦︺函二七○○の偶頌よりなり、九章に分かれている。漢文目録題名﹁定律本経﹂︶ 〆 zpggF閉胃閏P︲﹃蔚色︲唱侭︲冒国8詐肖鳥目目四︲3国百百一掲磨 奥書はzo.gごと全同 ︵間口画.g④雷1画毘騨四三七○○の偶頌よりなり、九章に分かれている。漢文目録の題名﹁律儀手受刊定百一掲磨﹂、これは義浄 訳﹁根本説一切有部百一掲磨﹂十巻に比定されるものである︶ z○.印③画﹄国。巳︲ず四日。o官伝唱の]︲も四日ロ○国︲も胃ず嵐一○Q︲己包吋四口︲四目国色目︲も湧同ず闇。︲でpのロ①の︲ヴ琶四︲ずゆく旨P︾国呂茸餌︲ ● ぐ同昏昏冒号自国︲、ご妙ぐ薗唇薗口p︲目白四律経註現説自解説 マトウラー国の聖根本説一切有部の旨餌菌く且四戸胃い:富なる阿閤梨昌○口︲3口宮。︵の目四頁号冒︶造。 これは王中の王の国の邑倒臼耳目①ぐゅ︵国肖忠司四agpp︶が広大な領土を支配して王位についた年に、己冒]盟倒 の大伽藍において聿冒写された。インドの親教師班抵達と凰冨。①ぐ色と大校修訳官目印目]︲屍冒目のg︾自己︲唱四の 、9m︲も四との二名が①喝の旨︲国の麓のo声○m︲⑩屍○刷号①ロ︲詰冒の伽藍において訳した。 ︵恒口胃l笛、④跡・閨ロ﹄1段四四“これはz○・m臼@の自註にして一四、○○○頌よりなる。漢文目録題名は﹁毘尼経解自波﹂とさ れている。なお奥書にさらに附加された奥聿白があり、そこにはご旨昌閉目国司昌旨凹昏日﹄目自画律経註摩頭羅所属と名づけ 、十打訂︾、LMご/4Jノ︲、︲﹃︲割に上〆’一三FFもfVq﹄“ るもの、としるされてい zo.、のい﹄国。巳︲ご色言ゴ 訳者欠 へ刀ゴ二− 二?Lテト。卜 多聞にして有徳の阿闇梨母○口︲冨国︲賜貝一○口g四目m︲o且︺己。︲詞︶胃の自国︲一︺、↑︲雨︶四︵⑱胃ぐ閉武ぐ且四m目四宮鼻︶富︶造。 ︺留陰傾目]︲g言肩H座︲gご旨昌閉昇国︲ぐ﹃蔑律経註 吟暗色四漢文目録題名は﹁毘尼経小疏光明徳﹂となっている。これはチー篝ヘットの目録にも徳光に帰せられてはいるが、
上掲の奥書とは、すこしその書き方を異にしており、津文目録は番本なりやを疑っている︶
②③
﹁西域﹂巻五ならびに﹁慈恩伝﹂巻五の記述によれば$カナウジ負四口煙且︶とターネサル官9画①切言胃︶の王に して、インドの中原に君臨し、一時は西インド全体をも支配した戒日王︵四国aqP︶すなわち︿ルシャ王︵国閏協︲ ぐ煙己冨旨凹匪己.9?く霞gは無遮大会︵五年大会甸昌8︲ぐゅ曇冒︲冨陽且︶を催し、自ら佛教のおしえを聴聞した人 ④ であったが、ターラナータの﹁インド佛教史﹂によれば、かれが師匠として敬った阿閣梨は、前述の徳光であったと いっている。その点は今ハーナ︵団目②︶の︿ルシャチャリタ︵国胃思opp3ハルシャ王行伝︶によっても明かでないが、 前掲のz○.認曽の奥書が傍証となるものといってよかろう。︿ルシャ王が初めはシヴァやスーリャを崇拝するヒ ソドゥ教徒であったが、その晩年において熱心な佛教徒であったことは、自作の詩としてかれに帰せられている﹁晨 朝讃﹂窃呂国冨冒号園圃︲牌○吋Po冨昌z○.呂留︶ならびに﹁八大霊塔梵讃﹂︵濫屈目色菌切目四口四。閏qゆく四目四目︲ の国ぐ騨︾○国日zpg弓︶なる讃頌などが存することによっても知られる。また︿ルシャ王の兄のラージュャヴァ ルダナ︵”響画く四巳冒口騨︶も、妹のラージュャシュリー︵閃旦冨圏︶も、ともに佛教徒であったといわれ、とくに妹⑤⑥
は正量部の教義に善く通じていたとされている。一説には王自身は大乗佛教を信仰したといわれているが、それは観 世音菩薩を礼拝したり、中国の玄英三蔵を大乗僧として厚く遇したという行為などによっての見解とみられる。しか しながら、徳光を師匠としたということが事実であったとするならば、王はおそらく根本有部のおしえを通して佛教 の感化影響を受けたものとかんがえられる。のちにも関説するごとく、根本有部の立場はあくまで経律儀軌を尊重し つつも形式にとらわれず、現実に即して精神を生かそうとするものにして、讃佛乗︵煕○茸昌曽蝕︶の影響を受けてお り、ある面ではきわめて大乗に近いものがあるとみられるふしがある。 いずれにしても七世紀ころのインドにおいて、︿ルシャ王の支配地域に根本有部は行なわれていたのであり、その 根本有部の律は、北方のカシミールにも普及し、さらにネ。︿1ルにおいても、またトヵーラにおいても伝持されたこ 21ところで、ちょうどこの時期に義浄は律を求めてインドに旅行したのであるから、かれが入手した律が根本有部律 であったことは当然のことであった。義浄によれば、根本有部はその当時マカダ地方では他の三部に比してもっとも よくおこなわれており→北インドにあっても大半の僧伽がこの部派に属していたという。また東インドでは他の三部 と雑え行なわれており、さらに南海諸洲にあっても、一部には大乗佛教がおこなわれていたが、大部分がこの部派で ⑦ 占められていたことをの、へている。おそらく七世紀の後半ごろは、カシミール、ネパールをふくむインド全域から南 アジア一帯にかけてこの部派が風陣していて、義浄はその旅行のさきざきで実際にその模様を見聞し、かつその止宿 せる諸寺においてその律を熱心に学んだのであろう。﹁寄帰伝﹂はそのことをおもわしめずにはおかない記録である。 おそらくこの記録には根本有部の特色とみなされるものがふくまれているに相違ない。この観点から、それに該当す るとおもわれるものを若干とりあげてみたい。 とを知るのである。 註 ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① ㈲従二那燗陀一東行五百駅。皆名二東喬如乃至︽尽窮一有二大黒山如計当二土藩南畔記伝云是触川西南。行可二一月余一 平川彰﹁律蔵の研究﹂六八頁以下 西域記巻五、大正五一、八九五中 慈恩伝巻五、大正五○、二四六上I。 寺本腕雅訳註﹁ターラナータ印度佛教史﹂一九四頁 慈恩伝巻五、大正五○、二四七中、鄭牙巴口原酋“同旨号・弓旨闇菖oの己曽、 、四○ぽの匡昼伊ロ四国ロ色︾国︸昌芹抄○ぽゅ昌四“Pb旨は○口四国劃&冒昌四口函尉さ吋討固占P 拙著﹁南海寄帰伝講要﹂一七頁以下 三
ところで、この三宝﹄ この他に五ヶ所存する。 便達二斯嶺記次此南畔。逼二近海涯一有二室利察咀羅国圭次東南有二郎迦戌国一次東有一一社和鉢底国手次東極至二臨邑国士 並悉極遵二三宝圭多有二持戒之人毛乞食杜多是其国法。西方見有実異二常倫韮︵序、大正五四、二○五、中、八、割註︶ この割註はナーランダより東の辺境の諸国として、順次に室利察咀羅国︵、国爾の曾砂ビルマの冒幽急昌身河中流の ○国㈲Ho目の︶、郎迦戊国︵狼牙脩冒冒鳴画ぃ巨冨マラャの東海岸圃菌昌附近、ときには西海岸属のgロ地方をふくめていう︶、 社和鉢底国eぐ腎包畠国タイの言①15冒河下流の葛且ご画からz烏○口︲圃昏○日にかけての地︶、臨邑国︵。盲目冨南ヴ ェトナムの南東岸︶をあげ、これらの諸国には、大衆、上座、根本有部、正量の四部がまじえ行なわれていたことを の、へ、・そしてそれらの諸国の住民はことごとく三宝を敬い、持戒の人多く$また出家としては行乞をなし、杜多 ︵頭陀支Q冒国凋秒︶を行ずることが、その国のならいであった。これに似たことはインドにも見られたが、東南 アジア諸国の模様は有りふれた仕方とは異なっていたことをのゞへたものである。 ところで、この三宝に遵うということに関して、﹁寄帰伝﹂においてまさしく三宝なる語を用いているところは、 ㈲号日二莫訶牙雪鍵 二○九、中、二三︶ 国佛言。有二二種一応し礼。所謂三宝及大己芯凋。三十三尊敬乖式、一三八、上、二五︶ ここにいう大己芯凋とは、先受戒者のことで、法臘の上なる比丘のことである。 倒徹信二三宝一諦想ニニ空至︵三十四西方学法、一三九、上、一二︶ している。 ’’一i﹂J1ノ剖HO’二一一世 これはインドの諸大寺において、食厨の柱側に、あるいは大庫の門前に木彫の大黒天︵旨騨扇厨盲︶が祀られてい ることをの傘へたもので、それはかの大黒神が三宝を愛し、出家の五衆を護持するという性質を有するからであると 即大黒神也。古代相承云。是大天之部属。性愛二三壼弗護二持五衆一使レ無二損耗士︵九受斎軌則、 う乳 今 写
㈲汝可丁務紹二隆三宝一令|一使不諺絶莫圃縦二心於百氏一而虚棄塗一生願。︵四十古徳不為、三一三、上、一二︶ これは義浄の軌範師であった慧習禅師の励ましのことばとしてあげたものである。 以上、あげたごとき三宝なる語は、義浄の訳出なる﹁根本説一切有部毘奈耶薬事﹂巻一︵大正二四、三中、二九行︶ には﹁敬信三宝﹂として、また同じく﹁根本説一切有部毘奈耶破僧事﹂巻二︵大正二四、一五七下、二五行︶には﹁帰 依三宝﹂としてあげられてあり、また同じく﹁根本説一切有部毘奈耶雑事﹂巻一六︵大正二四、二七七、下、三行︶に も﹁帰依三宝受持五戒﹂としてあげられている。そしてこのような用語は→上述せる箇処以外にも屡友用いられて いる。さらにまたそれは根本有部律以外の他律にも、ほぼ同様に用いられている。すなわち、三宝は原始経典以来の 33目色洋亀騨の訳語として通用しているからである。﹁帰依三宝﹂もしくは﹁三宝供養﹂等の語は随処に見られると
①②
いっても過言ではない。これを遊歴伝で拾うならば、﹁法顕伝﹂摩掲陀国の条には﹁三宝信重﹂とあり、﹁西域記﹂ ③ 巻一、巻三には﹁三宝崇敬﹂とある。ところでかような三宝崇敬は三宝に対する礼讃というかたちで、きわめて顕著 に普及せしめていった一つの流れを認めることができる。すなわち紀元二世紀ごろに活動したアシュヴァ︾コーシャ ④ ︵院ご幽瞥○秘馬鳴︶を祖とする讃佛乗派の系統である。この派に属するマートリチェー夕︵冒鼻月①国摩唖里制啼︶に は、﹁三宝讃﹂︵目6口︲白目品嘱冒邑︲冨冨さ早冨︾自国国白煙︲稗○吋四︾○菌昌zo.g韻︶および﹁三宝吉祥讃﹂︵己宮口︲ 白目侭嘱口目︲盲ウ汀ゅ由の岸冨冨さQも沙︾月月旨鼻ロ四日目盟旨︲降○茸四﹄○冨巨z○.gg︶の作品があり、前者に対しては ジナプトラ︵]日名昇国︶による注釈︵○国日z○.9段︶も存する。また﹁三宝讃﹂に関しては、なおこの他にヴァ これは文法学者伐撒呵利︵国冒拝吾営五世紀後半︶の徳を称揚しての等へるところに出てくる文である。 国仰蒙二三宝之遠被垂︵三十四西方学法、一三九、下、二四︶ これは義浄が三宝の冥護のもとに、インドの佛蹟を巡拝し得た喜びをあらわしつつ、自らの行履をのゞへるところに 出て/、る文であるス↑︿ソドゥ︵ぐ閉口冨目冒世親︶に帰せられているものも存在している︵○3日Z。.g亀︶。かような讃頌文学の出現 ⑤ は、帰依三宝ないしは三宝供養の思想を一層さかんならしめる一つの要因になったのでないかとかんがえられる。 おもうに前掲のごとく﹁寄帰伝﹂に、﹁並悉極遵二三宝一﹂とその当時の模様をのゞへるその背景には、讃佛乗派の影 響があったとみることはできないであろうか。 さて﹁寄帰伝﹂にあっては、上にあげた三宝なる語にかえて三尊の語を用いて、三尊に対する敬い、三尊に対する 帰依ということを、のゃへている点がとくに注意される。 ㈲四儀無レ累三尊是親。︵十八便利之事、一二八、下、二九︶ ﹁解績抄﹂巻五によれば、﹁三尊三宝。可レ尊故名・﹂とのべている。すなわち、身根静まり、心浄かなれば、行住坐 臥の四威儀がみだされることなく、つねに三宝が親しまれることになるという意味である。 目詳夫修敬之本無し越二三尊毛契想之因寧過一四諦記︵三十一糀沐尊儀、三一六、中、二︶ ﹁解撹妙﹂巻六によれば、﹁標二三宝一発し端也﹂といい、契想とは観慧を意味するとなす。おそらくこの文章の背後 ﹁解績妙﹂巻六によれば、 ① には、かの﹁薬事﹂巻八に 託①水野弘元編﹁南伝大蔵経総索引﹂第一部上巻一七五頁、三二六頁 ②法顕伝、大正五一・八六五下 ③西域記巻一大正五一、八七○上、同巻三、大正五一、八八六中 ④拙稿﹁クシャーナ時代における仙教の一考察﹂大谷大学研究年報第十集、一八五頁以下 ⑤奈良康明﹁佛教詩人マートリチェータの思想的立場﹂印佛研二’一参照。具.ロ.閃.留四。E①甘口国昌曼︾R胃留冨冨腎甲 。 いい命四〆印○玲夛・●自倒庁對○①存四︾目口庁吋○QpCは○口。.? 四 25
上、一三︶ これはかの ② う﹁三啓経﹂ これはかの﹁佛所行伝﹂︵圃且号肖胃洋四︶なる佛伝の造者として名高いアシユヴァゴーシャ長老が集め置いたとい ② う﹁三啓経﹂の初段に三宝に対する讃歎がなされていることをの、へたものである。この﹁讃詠之礼﹂の章に対して ③ フランス語訳があるが、それによれば、ここなる三尊を罵巳の囚の目①日①巨樹と訳して、その註記にP目威9秒 ︵弥陀︶Pぐ巴○匿訂胃胃ゅ︵観音︶冒農留昏自国︵勢至︶としている。しかしながら、たといそのような意味と してCO尋呂によって引用されているとしても︵印切.国・︾ぐ2.凶陳︺勺.胃︶、﹁寄帰伝﹂の英訳者が指摘するごとく、 ⑤ こ︸﹂の三尊が三宝を意味していることは明白である。すなわち、﹁根本説一切有部百一潟磨﹂巻一には 阿遮利耶存念。我某甲始終今日。乃至命存。帰二依佛陀両足中尊↓帰二依達摩離欲中尊記帰二依僧伽諸衆中尊や ⑥ とあり、その対応チ尋ヘット訳なるF閉庁︶品目四︲再めゆ唱侃︲冒︵両百洋閏農胃日尉騨冨冨︶にも 耳2口も秒。”○コい︲、巨唄○こずQmm日日ぽ日のロ①切岸嗣首さ四。pめぽ日己尉ずNpロ鼻①言閂昼胃普①宮ご胃︲ロロ|貢ぎ喜叱響の︲ 芙 貴薑邑ご房おく︽ミ。吾O恥の冒房︲卓哺豈亀吻︲言②詐之邑雰︲のぎ量。琴暑○||呑亀Oa1G吾忌函の吾亭書︾費昌さ亀i葛やS菖房寺壁竺昌。琴OmG吾○の︲ざの討豈畠冒︲吻謹 く 、 梼 畠煽萱言一一房言鴉︲ミミミのかご蒼冬侭舟鼻号言︲ざいざ§匂︲望↑ミミ言一 白所訶之経多調二三啓や乃是尊者馬鳴之所二集置誼初可二十頌許や取二経意一而讃二歎三尊誼三十二讃詠之礼、三一七、 との$へるごとき文意が伏在するものとおもわれる。 以二智慧杵一而推二破之記現二証初果圭唱言。我入二預流如我今尽レ寿帰一一依佛法僧宝元受二五学処誼為二郎波索迦毛 爾時婆羅門既聞レ是已。生二信敬心如世尊知二彼意楽随眠望抄機為説二四聖諦法圭広説如シ前。無始積集薩迦耶見。 とあって一致している。 ⑦ ところで、かの根本説一切有部系統の梵文資料といわれている﹁翻訳名義大集﹂ ︵目吋一︲掴3口紺自国閏屋日望輿四房︲照ロ目白ロロ喝○さ秒ご日旨︲旨︶として田口QQp騨昌 ︵旨旦国ぐ冒吾凹匪︶には、三帰依 やゆ罵肖扁一︼己釦四○Cロ四国巨口く﹄も画︹﹂騨呂国営]
倒先令下敬二信三尊一孝噸養父母上。︵三十二讃詠之礼、一三七、下、一七︶ ﹁解撹妙﹂巻六︵四六四︶によれば、﹁先令言示二入道初要一故云レ先。使三彼勿一一無他意一故云二敬信三尊当一扁是入道 之要、諸戒之基本・﹂との録へているが、ここにいう先とは、直前にあげる龍樹の﹁密友耆﹂の最初に三宝に帰依す ることがあげられていることを指すのである。また大正蔵経が校訂して孝養父母となすのは、むしろ宋、元、明三 本のごとく供養父母となすのが適当とかんがえられる。﹁解續紗﹂は﹁供養父母世間最勝之福・﹂との︽へている。 国敬二重三尊一多営二福業や︵三十四西方学法、三一九、上、一︶ これは勺画日日の普旬沙に対する注釈属鼠房身局昌を造った文典家ジャヤーディトヤQ畠乱詳制閣耶畉底︶が たんなる学者ではなく、敬戻な信仰の人でもあったことをのゞ︿るものである。 苗冒甥︲丙首になっているのみである。この中、両足尊に関しては、﹁薬事﹂巻八に﹁刹利承嫡者両足中最尊明行 のと一致している。ただわずかに*印を付せる部分胃巴︲g︲目騨日切︲]肉首が胃巴︲冨冒に蕨9噸︲曽曾冒切岸冒が B3g自彊CO冨冒昌盟目邑騨自国喝着目︵帰依僧伽衆中尊︶とあって、上掲チー、ヘット訳のイタリックにて示せるも 四唱冨日︵帰依佛陀両足尊茸口冨貝巨四日屈鬮目日鳴8菌目昌働魍目日四唱冨目︵帰依達摩離欲中尊盲留日響四日 ⑨ 具円満得在天人上﹂とあるごとく、明︵ぐ己鼠︶と行︵。四目目︶とを具足せる︵留日冨国口騨︶ものは最尊であり、 それは佛陀に他ならぬのである。また離欲に関しても、同じく﹁薬事﹂巻一五に﹁聞佛心離欲広説酔象縁厭離貧 、、、、、⑩ 欲習因発菩提心﹂であるごとく、離欲︵a国盟︶の徳用を具有するものが正法であり、さらにその正法を修得す
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る僧伽も﹁福田功最勝﹂なるものである。そこで﹁正信三宝尊﹂なる語も用いられることになる。 尚、英訳は註記において冒冨ご色目の騨〆胃ゞ韻のアショーカ王の言葉なる切目目OS屋台旨亀冒口騨閼○︾ロ冨目日O G〃﹄ 四脂○ご胃晶旨色目扇自凋gOp宮目鼻丙胃詳曾閼○︾威昌紺召⑫自①ぐ農①受をあげて、そこに同一の思想のみられる I 四mm○ご貝P四国解揖くひ ⑬ ことをのべている。 旬 時 塑 ノされているとかんがえられる 衆人怖レ所し逼 園苑及樹林 此帰依非し勝 不レ因二此帰依一 諸有帰二依佛一 於二四聖諦中一 知し苦知一一苦集一 知二八支聖道一 此帰依最勝 必因二此帰依一 尚尽二形寿一以要レ心帰二敬三尊雫契二浬藥一而近レ想。斯其次也。︵三十五長髪有無、二三○、上、一五︶ 出家して具足戒を守持するものを上とするが、在家生活をなしつつも八戒を守持するもののありかたをのゞへ、それ はその次に位すべきものでまた佳であるといっている。 以上が﹁寄帰伝﹂において三宝ならびに三尊の語を用いている箇処であるが、英訳者は七回のうち二回を除いて五 ⑭ 回は三尊を用いているというが、仔細に点検すれば、上の如く二回のうち、三宝が五回、三尊は六回となっている。 このような事実は、帰依三宝の思想が風暁していたことを物語るものであろうが、三尊なる語がすでに早くより他に ⑮ おいても用いられていたとしても、とくに帰依佛陀両足中尊などのかたちであげられるのは、根本有部の特色でなか ⑯ ったかとおもわれる。そしてその三尊に対する帰依の意味は、﹁雑事﹂巻二六のつぎのごとき偶頌によって明らかに 多帰二依諸山 制底深叢処一 此帰依非し尊 能解二脱衆苦一 及帰二依法僧一 恒以レ慧観察 知一二永超二衆苦一 趣二安隠浬樂一 此帰依最尊 能解二脱衆苦一
唱えることである。 義浄は﹁三十二讃詠之礼﹂において、その当時のインドおよび南海の地において、僧徒たちが盛に讃詠を行なって いた旨をの、へているが、その讃詠とは佛徳を讃歎した偶頌、あるいは三尊の徳を讃歎した偶頌を高声にて節をつけて 註①根本説一切有部毘奈耶薬事巻八、大正二四、一三︿下’三七上 ②根本薩婆多部律摂巻七、大正一西、五六七、中、下、根本説一切有部毘奈耶雑事巻四、大正一画、二三一甲、同巻一八、大 正二四、二八七上、西本龍山﹁四分律比丘戒本誌讃﹂九九頁、平川彰﹁律蔵の研究﹂七八○頁 ③己の貝浅目②目前①の①x可巴蕨包①砂旨習︺○胃①m・︾胃︲目加旨距望月め○口ぐ○望凹、の景巳の]︾冒号も胃冨。罰︾$ゞ目○口]勾巨房冒日騨︾]↓炉. 卜 国口詳筋目①mかは○日○日の〆冒﹀]mmPや娼昌刃 ④鈩詞①8日o命日胃国己旦冨降丙の匡狛5国閉冒肖武、①Q旨冒Q冨曽己昏の︾厨]葛法月巨冠⑦]紺○︵シロ.弓]1$m︶ず望月︲Hの旨いゞ ⑤根本説一切有部百一翔磨巻一、大正二四、四五六上、四行目、同中一六行目、四五九下二五行目にも同文あり。 ⑥○国己zo・msP目目︾巨旨︶︾]・画︶旨い四.唐ゞ切虐届づち.い ⑦平川彰﹁律蔵の研究﹂九八頁 ③梵蔵漢和四訳対校翻訳名義大集、五五八頁’九頁かOOF〆胃.麗罷﹄盟路﹄盟弓︾麗巴 ⑨根本説一切有部毘奈耶薬事巻八、大正二四、三四下 ⑭前同巻一五、大正二四、七三下。この離欲に関しては、﹁黄赤比丘事﹂にその説明がある。用︶脚且巳︵︶巨曾冨爵勗言︵︵出]ぬ耳 旨騨ppmq巷前く巳.目[︾砲色昇鱒ご鯉︶ ⑪前同巻二一、大正二四、五二中⑫前同巻一五、大正二四、七三下 ⑬俸園①8巳旦昏の国匡&宮黒園巴侭5口﹄や忌胃. ⑭8.。拝・︾甲忌日. ⑮﹁自帰二三尊杢最吉最上。唯独有し是度一一一切苦ご法救撰、呉維祇難等訳﹁法句経﹂一九二偶 ⑯根本説一切有部毘奈耶雑事巻二六、大正二四、三三三上 茸騨ロ里.]・目己肉秒冒協ロ︾や]つ。 五 29
口諸長者。聞皆共識嫌言。我等所習歌詠声。比丘亦如し是説法。便生二慢心一不二恭敬記 ② 国若在二寂静之処一思惟。縁し億二音声一以乱二禅定毛 たとい説法をなす際であっても、かような過失があげられていましめられたとすると、諦経の際にもおのずから消 極的となって﹁不閖声韻﹂とならざるをえないであろう。しかるに、根本有部にあっては、つとめて讃詠が行なわれ ③ ていたというのは︲いかなる根拠によるのであろうか。この点については、﹁雑事﹂巻四の記述が、その解明をなす ものとおもわれる。すなわち、あるとき給孤独長者︵シロ騨冒直且時四︶が路傍で諸外道が訓経している声を聞くに→ なら 吟詠の声調で音詞愛す尋へきものがあり、佛教の諸聖衆が声韻を閑わずして句を逐い文に随う調経の仕方が、さながら 潟棗して之を異器に置くような調子であるのとくら尋へて深く感ずるところがあった。そこで世尊にその旨を申しあげゞ ゆる 諸聖衆も吟詠の声を作して経典を読訶することの聴許をこうた。そこで世尊は黙然としてこれを聴したもうたという のであるしかるに、そのことがあってから読経から請教白事にいたるまで吟詠の声でなされるようになり、伽藍の 中は音声喧雑の状を呈した。そこでこころある比丘がその旨を世尊に申しあげると、二事を除いて作す毒へからずと、 これを禁止された。その二事とは、大師︵佛︶の徳を讃ずる場合と、三啓経を詞する場合とで、この二つの場合に限 ゆる ってのみ吟詠の声にて作すことを聴されたというのである。根本有部において讃詠が用いられたのは、おそらくかよ ① 元来、佛教の僧伽にあっては、比丘や沙弥自身が歌唱をなすことを禁じていた。しかしながらや布薩の際に長者た ちに比丘が歌詠の声で説法することは許されていた。許されてはいたが→過差なる歌詠の声にて行なうことはかたく いましめられた。すなわち、過度なる歌詠の声にて説法を行なうならば、次の如き五つの過失があるといわれる。 H便、生二負著一愛二楽音 目其有し聞者生二負著一轌 国其有し間者令二其習学↓ 其有し聞者生二負著一愛二楽其声↓ 便、生二負著一愛二楽音声
うなことがそのよりどころとなっているのであろう。そしてそのことは歌詠を好むインドや南方の諸民族の風尚に合 致したためか、他の部派の僧伽においても用いられることになったとかんがえられる。後世のセイロン上座部にお ④ いて、国菌ごゆく胃騨︵読諦品︶が編纂せられ、やがてそれぞれの僧伽で独自の声調を有する吟詠法がおこるにいたるこ とも充分に首肯できるのである。 ところで根本有部がとくに讃詠をおもんじたとみられる理由は、義浄があげているような、龍樹をはじめとして馬 鳴、摩唖里制多、陳那、釈迦提壊︵留葛且①ぐ四︶に帰せられる各作品、ならびに戒日王の作品、月官大士︵9目国︲ 唱日目︶の作品など、いくたのすぐれた讃頌を、前述のいわゆる大師の徳を讃ずるものとして用いたところにあると おもわれる。そしてそのような寛大にして積極的な姿勢は、この部派が律を重んずる部派とはいうものの、またその 思想学説の多くは、もちろん説一切有部のものを継承しているとはいうものの、大乗の影響を受け大乗に近づいてい る点が看取されるのである。いまは根本有部における讃佛思想がまた三宝崇敬というかたちであらわれている面に注 Ⅱしたのであるが、このことは実践教学に関心をもつものにいくたの示唆をあたえるものとかんがえられる。 註①釈氏要覧巻中︵大正五四、二八○下︶には﹁若今唱曲子之類也。律云。有一一五過雪使二N心負雪一令二他起諺著。三独処多起一一 覚観や四常為一一負欲一種し心。五令下諸年少聞常起二愛欲一反与道故・﹂と述・へている。 ②四分律、説戒腱度、大正二二、八一七、上I中 ③根本説一切有部毘奈耶雑事巻四、大正二四、二二三中 ④拙稿﹁南伝佛教の一様相﹂大谷学報二八ノー、四四頁 31