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社会政策的貧困論の捉え方 - 19世紀初頭までの社会政策から -

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社会政策的貧困論の捉え方

─ 19 世紀初頭までの社会政策から ─

鎌 谷 勇 宏

は じ め に  これまで筆者は社会保障や社会福祉制度がどのような契機で発展を遂げ てきたのかの研究を行ってきた1)。これらの研究で、社会保障の発展段階 について明らかにできたこともあるが、それらが現在にどのようなつなが りがあるのか、それらの根底に脈々と流れる共通性や方向性はどのような ものであるのか、など現状分析につながる要素の薄い歴史研究となってし まっていた。単なる歴史的記述ではなく、現実を説明し分析するための装 置としての歴史分析を行いたいと数年にわたって考えていたが、なかなか 思うように研究が進まなかった。  そのような折に出会ったのが志賀信夫氏(現大谷大学助教)であった。彼 が専門としているのは貧困理論の研究であり、絶対的貧困から相対的貧困 を経て社会的排除へと貧困理論が遷移していることを実証的に明らかにし ている。彼と幾度となく議論を行い、彼の著書2)を読むことで、私自身の 研究に大きなヒントを得ることができた。志賀は貧困理論でも特に貧困学 説と社会規範をベースに研究を行っているが、彼の研究は私の研究に通ず るところが大きかった。彼の整理した貧困理論を援用する形で社会保障政 策の対象となる貧困とはどのようなものであったかを明らかにし、さらに 社会保障政策と貧困理論との関連を歴史的に深めていければと思う。  代表的な貧困研究者である岩田正美、イギリスのルース・リスターや先 ほど紹介した若手研究者である志賀によって貧困の理論的研究が行われて いるが、社会保障政策史と関連付けた研究はあまりなされていない。貧困

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理論や貧困学説の研究は非常に重要であることに異論はないが、社会保障 政策史との関連で考えると物足りなさを感じる部分がある。その一つが貧 困理論のスタートである。一般的には、19 世紀末のラウントリーが規定し た絶対的貧困が貧困理論や貧困学説のスタートとして扱われ、続いてタウ ンゼントの相対的剝奪へと論が進められていく。しかし、たとえばイギリ ス救貧法は 14 世紀中葉が起源とされており、有名なエリザベス救貧法 (1601 年)、スピーナムランド制度(1795 年)、新救貧法(1834 年)といった 制度はラウントリー以前である。これらの時代にも貧困は認知され、それ に対する社会保障政策が存在したにもかかわらず、ラウントリーから始ま る貧困学説史では蚊帳の外に置かれてしまっている。  貧困理論は貧困学説だけでは十分に説明できない。学説としての貧困理 論とは異なった、現実の社会政策で用いられる社会政策的貧困論も存在す る。これらはどちらか一方だけが重要なのではなく、貧困理論の両輪にな ると考えることができる。  今後の課題として、貧困理論を社会政策的視点から補強することが重要 となるが、その第一歩として本稿では、絶対的貧困以前の代表的社会政策 であるイギリス救貧法を研究対象として、貧困の捉え方や対象範囲の拡大 に関する分析を行う。救貧法のスタートとして 14 世紀中葉の初期労働者 立法を取り上げ、1795 年のスピーナムランド制度までをここでの分析範 囲とする。この範囲を対象とする理由は二つある。一つは紙幅の制限上の 理由であり、二つ目としてスピーナムランド制度に続く新救貧法(1834 年) においてはベンサムを代表とする経済理論やマルサスの人口理論という、 広範な分野の影響が大きく加わるため詳細な分析を要するからである。 第1章 貧困の捉え方と貧困理論  第1節 貧困の概念や定義について  貧困の概念や定義についてはリスターの理論的整理が有用であるので、 ここではリスターに依拠し貧困の説明を行う3)。リスターは貧困研究にお

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ける混乱や混同を避けるため、貧困の「概念」「定義」「基準」に分類しそ れぞれ次のように説明している。

 貧困の概念とは、“the meaning of poverty” であり、貧困が意味する内容 を指している。あるまじき生活状態、許されない生活状態が何を意味して いるのかを明らかにする役割がある。肉体的生存や動物的生存が満たせな い状態、つまり生存が脅かされている状態が貧困と考えられていた時代か ら、周囲との比較による格差から貧困が捉えられるように変化した。さら に近年の流れとして、生存や周囲との格差では説明が難しいあるまじき生 活状態を捉えようとする時代に入っている。このように貧困をどのような 意味で捉えるのかが貧困の概念である。

 貧困の定義とは、“distinguish poverty from non-poverty” であり、貧困と非 貧困の区別に用いられる。貧困と非貧困を分かつ境界を言語で説明するこ とが定義の役割である。感覚的・経験的要素の強い貧困の概念(意味)を 言語化し、一般に説明できる定義として準備することが必要となる。貧困 の定義の代表がラウントリーの絶対的貧困やタウンゼントの相対的剝奪で ある。  貧困の基準とは、“operationalizing definitions” であり、貧困の定義に該当 する人びとを認定し、計量し、貧困の度合いを測るものである。貧困の基 準は、貧困の定義の具体的数値化であり、対象になる人々を明確に規定す るための指標として不可欠である。例えばラウントリーは栄養基準に基づ く貧困基準を示し、タウンゼントは剝奪指標として一般的な社会生活との 乖離を基準とした。  これら貧困の概念、定義、基準の中でも貧困の定義が担う役割は非常に 大きい。感覚的、経験的な貧困概念を明確に記述し、貧困と非貧困をどの ような理論によりどのように区別するかは、貧困の基準にも大きな影響を 与える。貧困の定義としての、絶対的貧困、相対的剝奪、社会的排除は多 くの理論研究者がその差異や変遷について分析を加えている。次節ではこ れら三つの貧困定義を簡単に紹介する。

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 第2節 貧困学説とその変遷  第1項 絶対的貧困  動物的生存すらも不可能であるという生活状態に注目し、そこから絶対 的貧困という貧困概念を定義したのが B・S・ラウントリーである。ラウ ントリーが示す貧困の基準は、収入によって肉体的維持を可能とする栄養 を摂取できているかどうかである。肉体の維持を可能とする栄養量に注目 し、その栄養を消費できるだけの収入があるかどうかを基準としたことが 最大の特徴である。  このラウントリーの前史として説明しておくべき人物に C・ブースがい る。ブースは大都市ロンドンで大規模な貧困調査を行った。この貧困調査 は 1886 年にスタートし、1889∼1903 年に全 17 巻の『ロンドンの人々の生 活と労働』としてまとめ上げられた。ブースの調査で驚くべき点は、最終 的に 100 万世帯 400 万人以上のあらゆるロンドン市民を対象にした点であ る。このような大調査で明らかになったことは、ロンドン市民の 30%以上 が貧困状態にあり、その第一要因が「低賃金・不定期的収入」(55∼68%)、 第二要因が「疾病・大家族」(19∼27%)となっている。  ただし、ブースの調査では貧困基準の設定が科学的でないと批判を受け ることになる。ブースは週給で貧困基準を設定したが、その基準が恣意的 であったという批判である。この批判は的を射ており、貧困基準の設定次 第で貧困割合を高めたり、低めたりすることが可能である。しかし、ブー スの調査結果は、貧困が個人的要因論では対処できないことを、良識ある 多くのイギリス人に納得させ4)、大きな社会的影響を与えたとされている5) もし、ブースの示した貧困基準が社会一般の感覚からかけ離れていたら、 このような評価にならないであろう。科学的な基準でなかったとしても、 感覚的には認められる貧困基準であったといえる。  ブースへの批判に対して客観的貧困線を準備し貧困調査を行ったのがラ ウントリーである。ラウントリーは 1899 年にヨーク市で全労働者世帯を 対象に貧困調査を行い、1901 年に報告書が出版されている。ラウントリー

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が高く評価されるのは、彼が栄養学から援用した必要栄養摂取量とその栄 養を摂取できる費用を算出したことである。また、栄養摂取量の目安とし て救貧法で提供されている救貧院の食事を参考にしている6)。劣等処遇で あった救貧院の食事内容を参考にしていることから、社会一般から見ても 最低限の食費であることの納得が得られたのであろう。客観性が乏しかっ たと批判されたブースの貧困基準を、栄養学と救貧院の食事内容を基準と することで乗り越えたといえる。  ラウントリーはこの基準をもとに「第一次貧困(収入が肉体的能率を維持 するに足りない家庭)」と「第二次貧困(全所得を食費にまわす限り肉体的能率を 維持するに足る家庭…ギリギリ肉体的維持を行える家庭)」を設定し、第一次貧 困が 10%、第二次貧困が 18%に達していることを発見した。つまり、 30%近い市民が絶対的貧困やボーダーラインの状態であることを明らかに したのである。  ラウントリーが示したような、社会的に容認される肉体的生存を基準と した貧困の定義は絶対的貧困としてその後に大きな役割を果たした。その 役割の中でも非常に大きなものがベバリッジの社会保障計画に基づく福祉 国家体制への寄与である。ベバリッジ報告はラウントリーの貧困理論にも とづいた社会保障の壮大な計画であり、現在の福祉国家の青写真となった。  第2項 相対的剝奪  相対的剝奪という概念から貧困を定義づけたのがイギリスの P・タウン ゼントであった。タウンゼントの相対的剝奪は、ラウントリーからはじま る絶対的貧困とそれに対する社会政策が新たな局面に至ったことを示して いる。絶対的貧困段階では、肉体的能率の維持を可能とする収入の有無が 貧困基準となっていたが、相対的剝奪段階になると、単なる肉体の維持だ けではなく、「通常の生活様式」が貧困の射程に含まれるようになる。こ のような変化にはベバリッジ型の福祉国家の成熟が背景にあり、社会保障 の発達と相対的剝奪は大きく関係している7)。相対的剝奪についてタウン

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ゼントは次のように説明する。 個人、家族、諸集団は、その属する社会で習慣になっている、あるい は広く推奨または是認されている種類の食事をとったり、社会的諸活 動に参加したり、あるいは生活の必要条件や快適さをもったりするた めに必要な生活資源(resource)を欠いている時、全人口のうちでは貧 困の状態にあるとされるのである。貧困な人びとの生活資源は、平均 的な個人や家族が自由にできる生活資源に比べて、きわめて劣ってい るために、通常社会で当然とみなされている生活様式、習慣、社会的 活動から事実上締め出されているのである8)  このようにタウンゼントの相対的剝奪は通常の生活様式が準備されてい ないことを剝奪という概念で捉え、経済的貧困だけでなくこの剝奪状態に あることも貧困であると主張した。さらにタウンゼントは、通常の生活様 式の剝奪を剝奪指標としてリスト化することで貧困基準を明確にしている。  1950∼1970 年代のイギリスの状況をみると、ラウントリーの絶対的貧 困を基準にした貧困はほぼ解消されたと見られていた。実際にラウントリ ーが行った 1950 年調査では貧困世帯は 4.6%に減少しており、その要因も 老齢 68.1%、疾病 21.3%、低賃金 1.1%と 1900 年前後の調査結果とは全く 様相が異なっていた。肉体的維持や動物的生存という絶対的貧困は大きく 減少したことが分かるが、決して貧困が解消されたわけではなかった。タ ウンゼントは貧困が新たな形態として認識されていることを示し、これを きっかけに「貧困の再発見」と言われる貧困定義の変化が生じた。絶対的 貧困は減少したものの、容認できない生活状態にある人びとは依然として 多数存在していたため、これをタウンゼントは相対的剝奪として理論的に 記述したのである9)  ここでタウンゼントの相対的剝奪に特徴的なのが「メンバーシップ」で あることを付け加えておく。絶対的貧困に対する給付水準では、肉体的維

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持が可能であったとしても、社会におけるメンバーシップを果たすことは 不可能であることが指摘されている10)。つまり、ただ単に生存するのでは なく、社会の構成員の一人として生活できない水準をタウンゼントは相対 的剝奪と定義した。  第3項 社会的排除と貧困学説の変遷  1970 年代以降、特に 80 年代に入ると社会保障制度から排除される人々 の存在が目立つようになるなど「新しい貧困」が顕在化することとなった。 正規雇用や終身雇用ではない不安定就労の人々、母子家庭の貧困問題が代 表であるが、これらは社会保障制度が前提としていた労働環境や家族形態 と異なった人々の生活問題が多く含まれる。このような労働環境や家族形 態の変化は、それまで雇用や家族で分散されていたリスクが分散されず個 人に降り注ぐことにつながった。いわゆる「リスクの個人化」である11) 雇用、家族、地域でリスクの分散を行っていた社会からリスクが個人化さ れる社会への変化は、従来の「通常の生活様式(=標準生活)」では現実を 説明できないこと、さらには標準生活自体の設定から漏れてしまう人びと を少なからず生んでしまう。つまり、メンバーシップと標準生活を基礎と するタウンゼントの相対的剝奪とそれに対する社会政策では立ち行かなく なるという状況が急速に拡大したのである。  このような相対的剝奪では対応困難な新たな問題に対して、フランスや イギリスを中心とするヨーロッパで社会的排除(ソーシャル・エクスクルー ジョン)とそれに対する社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)の概念

が誕生し近年注目されている。EU 欧州委員会(Commision of the European

Communities 1993)において社会的排除は以下のように定義されている。 社会的排除は、現代社会で普通に行われている交換や実践、諸権利か ら排除される人々を生み出すような複合的で変動する諸要素に用いら れている。貧困はもっとも明白な要素の一つであるが、社会的排除は

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また、住宅、教育、健康そしてサービスへのアクセスの権利の不適切 性をも意味する。それは個人や集団、とくに都市や地方で、場合によ っては差別され、隔離されやすい人々へ不利な影響を及ぼす。そして それは社会基盤(インフラ)の脆弱さと、二重構造社会をはじめから定 着させてしまうようなリスクと強く関っている。委員会は、社会的排 除を宿命的なものとして受け入れることには断固反対する。そして、 すべての EU 市民が人間の尊厳を尊重される権利を有していることを 信じている12)  このような意味合いで社会的排除が定義づけられていることを勘案する と、ヨーロッパ社会において容認できない生活状態が、タウンゼントの相 対的剝奪では捉えきれない段階に至っていることが分かる。EU における 社会的排除概念は、所得の側面だけでなく個人の権利の欠如・不十分性か らも捉えられており、市民社会の個人としての権利にもとづいた選択がで きない状態、すなわち個人的自己決定の阻害につながる問題として理解で きるものとして定義されている13)。したがって、新しい貧困理論としての 社会的排除理論は、容認できない生活状態が絶対的貧困や相対的剝奪を超 えて市民としての権利の実質性にまで及んでいるものとして論じられるこ とになる。社会的排除概念の特徴や意義については志賀(2016)の特に 168 ∼193 ページを参照されたい。  簡潔な説明であるがここまでの流れから、絶対的貧困からはじまった貧 困理論が、相対的剝奪に移行し、さらに EU を筆頭とした社会的排除に移 り変わる過程が読み取れる。貧困理論を学説史から研究し、その変遷を記 述することで貧困の理論研究に軸を据えることができたといえる。  しかし、貧困の学説史的研究には社会政策との関連が未だ十分であると はいえず、貧困学説と社会保障政策の関係性や政策対象拡大の説明にその まま利用することができない。学説史的研究では、貧困概念と貧困定義の 拡大が社会政策の発展や対象拡大に寄与していると想定できるが、社会保

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障政策史の展開そのものに当てはめると、その理解では説明できないこと が多い。そこで貧困理論を社会政策に応用するための媒介が必要となる。 この媒介となるのが次章で検討する社会政策的貧困論であると考えている。 第2章 社会政策的貧困論  貧困学説をベースにする貧困理論を前章で紹介したが、本章では社会政 策的貧困論について救貧法の歴史から検討することとする。救貧法の歴史 は非常に長期にわたるため、まずはスピーナムランド制度(1795 年)まで を対象として、社会政策において貧困をどのように扱ってきたのかを分析 する。この時期は貧困学説には登場せず、ラウントリーの絶対的貧困の前 史部分に該当することを断っておく。  第1節 社会政策的貧困論の整理と分析視点  第1章第1節で紹介した貧困理論の概念、定義、基準を決定する主体は 社会規範であり、その社会規範を敏感に感じ取り明確に記述したのがラウ ントリーやタウンゼントである。これら社会規範をベースにした貧困理論 は「社会規範的貧困理論」あるいは「市民観的貧困理論」と呼べる。リス ターや志賀の研究は社会規範的貧困理論を中心としているといえるが、貧 困理論には違った側面も存在する。それが社会政策的貧困論14)である。こ こで貧困理論とせずに貧困論としているのは、理論と呼べるほど体系化・ 厳密化できないためである。  社会政策的貧困論を扱うにあたり、まずは前述したリスターの整理を参 考に社会政策的貧困論の概念、定義、基準についても整理を行う。まず概 念については、国家としてあるまじき国民の生活状態、国家として許せな い国民の生活状態、あるいは国家として放置しておくことが好ましくない 国民の生活状態ともいえる。国家として貧困に対応する理由については、 積極的に国民生活の充実を図るという積極的要因もあるであろうし、先進 国として他の国に遅れることができないという対外的要因、市民運動や市

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民的要求の高まりといった市民要求的要因、国家体制を守るために行われ る体制維持的要因など様々であろう。  さらに、もう一点忘れてはならない、社会政策的な貧困概念の中でも特 に政策形成に大きな影響を及ぼす要素がある。それは貧困に陥る要因をど のように認識するかである。貧困の要因を個人の怠惰、能力・努力不足に 求める「個人的責任論」は、個人が悪いがために貧困に陥るとみなす。他 方、貧困の社会性を直視し、貧困の大部分を個人の責任ではどうすること もできない範疇として認識する「社会的要因論」がある。貧困を個人の責 任にするか社会構造の問題とするかで、貧困への対応が全く違うものとな ることは容易に想像できる。社会政策的貧困概念の中でもこのような貧困 の要因に関する部分を「社会政策的貧困観」と呼ぶことにしたい。  社会政策的貧困概念は社会政策の形成に契機を与える。そして、実際に 社会政策として貧困に対応するには、貧困の定義が必要となるが、この貧 困定義の歴史的変遷が非常に興味深い。次節での検討を先取りして概観を 述べておく。本稿で扱うスピーナムランド制度(1795 年)までの救貧法の 変遷で特徴的なのが、対象者の属性分類と救済範囲拡大の連動性である。 貧民救済が「属性」によって行われ、救済対象の拡大はこの属性の新規分 類と新規追加が主である。この段階においては、貧困の定義というより貧 困者の定義であり、貧困に分類される貧困者属性の追加が、制度の対象拡 大の要因となっていることを次節で明らかにしている。  また、貧困学説の貧困定義は、ある程度厳密に説得力のある形で規定さ れているが、社会政策的な貧困定義は現実的には緩やかにしか規定されて いないことも特徴である。たとえば現行の生活保護法においても、 生活保護法第1条 この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理 念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度 に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、 その自立を助長することを目的とする。

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と法の目的が規定されているが、ここでは何が困窮なのかについてしっか りとした定義はなされていない。つまり、きちんとした社会政策的貧困定 義は困難であり、おそらく意図的に避けられていることが想定できる。  社会政策的貧困定義があいまいであるにも関わらず、社会政策的貧困基 準は具体的に規定されている。ここから社会政策としては貧困の定義をゆ るやかに規定し、貧困基準を明確にすることで制度運用がなされていると いえる。基準がなければ政策の対象か非対象かの区別ができず、対象とな った場合の度合いも決められない。現行の生活保護法においても困窮の定 義は規定されていない生活保護基準(最低生活基準)として、貧困基準が具 体的に定められており、世帯人員、年齢、居住地で細かく金額が設定され ている。  リスターに依拠した社会政策的貧困論の整理は以上である。次節では社 会政策的貧困論から、イギリス救貧法の発展について分析するが、先に次 の1点を断わっておく。社会政策的貧困基準について、各救貧法には具体 救済基準があったであろうが、細かな基準についてここでは扱っていない。 具体的基準について触れないため、次節で行う社会政策的貧困論の分析内 容は概念や定義の変遷がメインとなる。  第2節 絶対的貧困以前の社会政策的貧困論  ここではイギリス救貧法(Poor Law)の歴史から絶対的貧困の前史部分を 検討する。イギリス救貧法の嚆矢とされているのが 1350 年前後の「労働 者勅令」や「労働者規制法」といった初期労働立法である。イギリスでは 1348 年に発生したペスト大流行によって人口の半数が死亡したと言われ ている。人口減少によって多くの労働力を失ったイギリスは、労働力を保 つべく浮浪の禁止と労働の強制を意図した初期労働者立法を制定した。こ れが貧民(浮浪者)を対象にした最初の立法であった。ここで貧民とは“怠 惰”であるがために“労働に就いていない者”と認識されており、本来的 な労働力と見なされていた。この見方が当時の社会政策的貧困観である。

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この段階の貧民は、労働可能な浮浪者であり、現在の貧困者の認識とは全 く異なっている。また、貧民を対象としているものの救済という観点は一 切なく、その内容は強制労働であった。  その後、時代が進み救貧法が救済を行う方向に進むこととなるが、その 第一歩となったものがヘンリー8世時代の 1531 年法である。この法律で 初めて“労働不能貧民”の存在を国家が認識し、貧民を労働可能貧民と労 働不能貧民に分類し、違った対応をとるようになった。労働可能貧民には 強制労働とそれに従わない場合に刑罰を科したが、労働不能貧民には従来 から禁止していた浮浪を認めることとなった。まだ救済という観点はない が、労働不能者の存在を公式に認めた特徴的な法律で、この認識がやがて 救済に発展することとなる。  イギリスではこのあたりから封建制度から資本主義への移行が起こりは じめ、重商主義によって産業構造の変化が生じた。エンクロージャーがそ の代表である。また、当時多くの貧民の受け皿となっていたキリスト教会 の慈善的貧民救済が、ヘンリー8世の首長令(1534 年)によって機能しな くなった。エンクロージャーや首長令によって貧民(失業者)が爆発的に 増加したが、これら貧民は職を探して大都市に移動した。工場労働が増加 していたといっても貧民を全て受け入れられるわけもなく、大都市には浮 浪者が大量に蓄積されることとなった。貧民の増加は治安を悪化させ、治 安維持の面からもこれまでと違った対応策を必要とした。  この段階において、救済の実施という救貧法史に残る大きな転換がおこ った。1572 年法において、国家的制度としての初めての救済が労働不能貧 民に対して行われた。失業者の多さが問題であったなかで、労働可能貧民 には相変わらず強制労働の継続であったが、労働不能貧民に対しての救済 は画期的であったといえる。またこの法律によって救済の単位としての教 区が設定され、救貧支出のための救貧税の徴収も行われた。  さらに、その後すぐの 1576 年法によって積極的な就業政策も追加された。 貧民を就業させることで救貧支出が減少し、反対に救貧税収入の増加が見

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込める。これを意図して、貧民を働かせるための仕事場や材料を教区が準 備するようになった。さらに、この法律の大きな意義は、貧民を三つの属 性(カテゴリー)に分類し、3種の施設を用いたことである。貧民を、まず は労働能力の有無で分類し、続いて労働能力がある者を、労働意欲の有無 で分類した。そして、それぞれに対し施設を準備し、 ・労働不能貧民……貧民院(救済) ・ 労働意欲のある労働可能貧民……ワークハウス(仕事場や仕事道具の提 供) ・労働意欲のない労働可能貧民……矯正院(怠惰と見なし刑務所的扱い) という三つの異なる対応を行った。  救貧税の徴収、救済の実施、積極的就業政策がほぼ同時にスタートした こと、そして貧民を属性に分類し異なった対応(属性別対応)を行ったこと に大きな特徴がある。この後、さらに貧民児童(浮浪児)を分類し、徒弟を 強制するなど属性の追加と異なった対応が加速した。  これら 16 世紀後半から大きな転換を経験した救貧法をきっちりと体系 化した法律が有名なエリザベス救貧法(1601 年)である。このエリザベス 救貧法は社会福祉の源流と呼ばれているが、その理由は次の2点である15) ・貧民救済の国家責任を認めた。 ・全国統一の対象者選定基準を示した。  これらに加えて ・救貧税を徴収し所得再分配政策として救済を行った。 ・貧民を属性分類(カテゴリー化)し、それぞれ異なった対応を行った。 ・就業政策と救済政策の両面からの政策が現れた。 も含めた計5点を特徴としてあげておきたい。  その後、ナッチブル法(1722 年)やギルバード法(1782 年)を経て、救貧 法の新たな転換点となった制度がスピーナムランド制度(1795 年)である。 スピーナムランド制度誕生の直接的な契機となった出来事がフランス革命 (1789 年)であった。フランス革命による影響からイギリス国内の物価が高

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騰したことで、多くの国民の生活が困窮し、早急な政策的対応が求められ た。また海を挟んだ隣国であるフランスでは国王が処刑されるに至り、イ ギリス政府も対岸の火事では済まされない事態となった。このような状況 に対して制定されたスピーナムランド制度は当時としては非常に画期的な、 かつ現代的といえる制度であった。最大の特徴は低賃金労働者をその対象 に含めたことである。これまでの救貧法の主な対象は労働不能貧民と労働 可能であるが失業中の者であった。スピーナムランド制度では、さらに救 済対象となる属性を拡大し、労働者の賃金水準が生計維持に足りない場合 には、救貧税からその不足分を補てんするという制度であった。これは原 初的な最低賃金制と呼べるであろう。注目すべきは、生計維持に必要な費 用について、家族が生きていくのに必要な食料(パン)を購入するための 費用を基準としたことであり、さらに、パンの価格について物価連動制を 採用し、生計維持基準が物価に合わせて増減するシステムにしたことであ る。  まとめるとスピーナムランド制度の特徴は次の三つの点である。 ・ 低賃金労働者も対象とした:働いていても生活が維持できない者(家 族)が多数発生していることを強く認識し、救貧法の対象に新たな属 性を追加した。 ・ 生計維持に必要な額を具体的に定め、さらに物価連動を導入した:肉 体的維持に必要な額を、国家的基準として明確にしたことになる。 ・ 生計維持に必要な額と賃金との不足分を補てんした:貧困の個人的責 任論ではなく貧困の社会的要因論を認識し、その立場から賃金補助を 行った。  この3点は画期的な仕組みの導入であり、救貧法に大きな転換をもたら した。スピーナムランド制度についてブルースは「少なくとも決定的な貧 窮と飢餓の防止に役立ったのである。そして、救済の基準となったものが、 貧民にとってつい最近までなおぜいたく品であった小麦製のパンの価格で あったということは、貧困に対する関心の純粋さを示す証拠であった」と

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評価している16)。このようにスピーナムランド制度は、のちにラウントリ ーが示した絶対的貧困の把握と、それに対する最低限度の生活費保障を先 駆的に実践する制度であったといえる。  非常に画期的な制度であったはずのスピーナムランド制度であるが、制 度設計があまりに悪かったため最悪の結果を招いた。現在の最低賃金法で は、雇用者が支払わなければならない最低賃金を規定しているが、スピー ナムランド制度では、労働者が得た賃金と生計維持に必要な額の差額を教 区が救貧税から負担することになっていた。安い賃金を設定しても、差額 を教区が埋めてくれるため、雇用者側が労働者の給与を切り下げたのであ る。雇用者にとって非常に有利な法律となり、これによって救貧支出が膨 れ上がり、1820 年ごろには制度実施前の4倍に急増した17)。スピーナムラ ンド制度は善意と誠意に満ちた制度であったが、創始者たちの意図から大 きく外れ、救貧税を膨張させただけでなく、さらには低賃金を温存し、自 立心をむしばんで、労使間にあった細々とした紐帯をも断ち切ってしまう 結果となった18)  スピーナムランド制度の大きな失敗によって、非常に厳しい内容の新救 貧法(1834 年)が制定されることとなったが、新救貧法の制定には、経済 理論や人口理論など様々な要素が深く絡み合っている。そのため広範な分 析が必要となるので、本稿ではなく違う機会に分析を行う。 お わ り に  本稿では、社会政策的貧困論の整理とスピーナムランド制度までの救貧 法史から社会政策的貧困論の変遷を論じてきた。この研究で得られた知見 は大きく2点ある。一つは絶対的貧困などの貧困学説が存在しない時代に も社会政策的貧困論を軸に貧民救済が行われていたこと。もう一点は社会 政策的貧困論の特徴である。第2章第2節で検討したように、救貧法の歴 史は救済対象範囲拡大の歴史でもあるが、この拡大に貢献したことが「属 性の分類」あるいは「属性の追加」であったこと。どのような属性が貧困

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に陥りやすいのかを認識し、その属性に対して“のみ”救済の基準を設定 し、該当する場合は救済を行ったのである。  この「属性」は現状を分析する強力なツールになると考えている。詳細 な検討はまだ先になるが、救貧法の歴史も日本の社会福祉史も、基本的に は属性の追加が社会政策の対象範囲を拡大してきたという一貫性を持って いる可能性が高い。例えば生活保護法(貧困)、児童福祉法(児童)、各障害 者福祉法(身体、知的、精神)などがその典型である。しかし、社会的排除 と社会的包摂の特徴はこの歴史的変遷の一貫性を見事に裏切る。これはま だ仮説段階であるが、社会的包摂を目指す諸政策は「属性分類を放棄す る」ことで包摂と普遍性を実質化しているとみることができるのである。 この流れは日本でも見られるもので、例えばその代表が障害者総合支援法 である。従来、障害の種類を属性で分類しそれぞれ違った法律で対応して いた障害者福祉政策が、全障害共通の制度となったことは大きなポイント といえる。さらに障害者総合支援法では、定義付けの難しい発達障害や難 病患者をも対象に含み、さらには障害者手帳が無くてもサービスの利用が できるようになっている。サービス内容も属性別の支援ではなく、必要に 応じて行っており、基本的には障害属性で区分けしない共通の支援を展開 している。  これらの流れは属性に対する支援ではなく、実際に置かれている生活状 態や抱える生活問題に対する支援へと変化していることの証左である。貧 困理論(貧困学説)が社会的排除とそれに対する社会的包摂に向かってい るが、実際の社会政策においても属性の放棄を通じた社会的包摂に向かっ ていることが理解してもらえるだろう。  現段階では絶対的貧困の前史部分の検討しか行えていないが、今後、絶 対的貧困や相対的剝奪に該当する時期の社会政策的貧困論を検討し、属性 の追加が社会保障や社会福祉の対象拡大を牽引したことを明らかにしたい。 そして、社会的排除に対する社会政策の方向が、これまでの歴史とは正反 対である「属性の放棄」に進んでいることを示すことで、社会的包摂と社

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会政策の関係性を明らかにしたい。 ) たとえば、鎌谷勇宏(2009)「社会保障史における福祉と医療の関係性∼イギリ ス救貧法における医療の位置づけ∼」、四天王寺大学大学院研究論集第3号、 pp. 111‒126。 鎌谷勇宏(2010)「社会保障・社会福祉における市民権∼医療・福祉の発展段階 分析より∼」、四天王寺大学大学院研究論集第4号、pp. 53‒67。など。 2) 志賀信夫(2016)。彼の博士論文を大幅加筆したもので、貧困の理論研究に一 石を投じようとしている良著。 3) リスター(2011)、pp. 16‒23。 4) 朴(2004)、p. 143。 5) 小山(1978)、p. 189。朴(2004)、p. 114。 6) 志賀(2016)、pp. 38‒39。 7) 志賀(2016)、pp. 47‒48。 8) タウンゼント(1977)、p. 19。 9) 志賀(2016)、pp. 52‒53。 10) 志賀(2016)、p. 57。 11) リスクの個人化についてはベック(1998)、pp. 266‒270 や志賀(2016)、p. 66 を 参照。 12) 岩田(2010)の翻訳を使用した。 13) 志賀(2016)、p. 79。 14) 野村拓の社会政策的疾病観を参考にネーミングした。野村(1977)、pp. 66‒69。 15) 朴(2004)、pp. 58。 16) ブルース(1984)、p. 71。 17) 朴(2004)、p. 71。 18) 権丈(2006)、p. 532。 文献 岩田正美(2008)『社会的排除—参加の欠如・不確かな帰属』、有 閣。 岩田正美(2010)「社会的排除—ワーキングプアを中心に」『日本労働研究雑誌』 No. 597、pp. 10‒13。 権丈善一(2006)『医療年金問題の考え方—再分配政策の政治経済学Ⅲ』、慶應義塾 大学出版会。 小山路男(1978)『西洋社会事業史論』光生館。 志賀信夫(2016)『貧困理論の再検討—相対的剝奪から社会的排除へ』、法律文化社。 タウンゼント(ピーター・タウンゼント)、高山武志訳(1977)「相対的収奪として

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の貧困—生活資源と生活様式—」、ドロシー・ウェッダーバーン編著『イギリス における貧困の論理』、光生館。 野村拓(1977)『国民の医療史—医学と人権』、三省堂。 朴光駿(2004)『社会福祉の思想と歴史』、ミネルヴァ書房。 ブルース(モーリス・ブルース)、秋田成就訳(1984)『福祉国家への歩み』、法政大 学出版会。 ベック(ウルリヒ・ベック)、東廉、伊藤美登里訳(1998)『危険社会—新しい近代 への道』、法政大学出版会。 ラウントリー(B・C・ラウントリイ)、長沼弘毅訳(1960)『貧乏研究』、ダイヤモ ンド社。 リスター(ルース・リスター)、松本伊智朗訳(2011)『貧困とはなにか—概念・言 説・ポリティクス』、明石書店。 ロジャーズ(B・ロジャーズ)、美馬孝人訳(1986)『貧困との闘い—貧民法から福 祉国家へ』、梓出版社。 (大谷大学講師 社会福祉学) 〈キーワード〉社会保障政策、救貧法、社会的包摂

参照

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