安養集第六 南泉房大納言、延暦寺の阿闍梨数十人と共に集む 57 土因 ( 412) 観 経 疏 に 云 ふ( 道 誾『 観 経 疏 』 巻 下?、 古 逸 )、 「 第 三 に 往 生 の 因 を 弁 ず。 も し こ の 文を案ずれば、すなわち孝養父母、三福浄業および日想等の十六観行をもって、浄土の因 となす。もし別解せば、諸の経論に依らば、初に法性土は、本有の法性を用いてもって正 因となし、六度等の行を用いてもって縁因となす。また了因と名づく。二に受用土は、無 性 の 摂 論 の 説 に 依 ら ば、 勝 出 世 間 の 善 根 の 所 起 な り。 釈 し て 曰 く、 〈 謂 く 出 世 間 正 体 智 の 善根、 および後得智の善根を因となして、 浄土生起す。自在等を浄土の因となすにあらず〉 と。 も し そ の 相 に 約 さ ば、 如 来 大 円 鏡 智 相 応 の 識 の 中、 最 極 清 浄 七 宝 相 分 の 種 子 あ り て、 浄土の因となす。この体はこの種子よりして、 仏如来円鏡智の上において、 七宝の相現ず。 二にその実に約さば、相分は体なし。見分をもって体となす。 枚 ママ 、正体後得の二智をもっ て体となす。大円鏡智、よく七宝土を現ずる時、もしは後得智、もしは正体智、皆浄土別 異の相を取らず。解して云ふ、つぶさに浄土の因を論ずれば、始め凡夫より、十地の菩薩 に及ぶまで、ただ浄土を求むる行、ことごとく皆これ浄土の因となす」と。 【 現 代 語 訳 】 道 誾『 観 経 疏 』 巻 下 に 云 う、 「 第 三 に 往 生 の 因 を 明 か す。 『 観 無 量 寿 経 』 の 文 によると、孝養父母、三福浄業および日想等の十六観行が浄土の因である。別の観点から 考 え て み よ う。 諸 経 論 に よ る と、 第 一 に 法 性 土 は、 本 来 存 す る 法 性 を 正 因 と し、 六 波 羅 蜜 等 の 行 を 因 縁 あ る い は 了 因 と し て 浄 土 が 生 起 す る。 第 二 に 受 用 土 は、 無 性 の『 摂 論 釈 』 ( 巻 十、 『 大 正 蔵 』 三 一、 四 四 六 頁 上 ) に よ る と、 勝 出 世 間 の 善 根 よ り 生 起 す る も の だ と 言 う。 釈 文 に、 〈 出 世 間 正 体 智 の 善 根 と 後 得 智 の 善 根 と を 因 と し て 浄 土 が 生 起 す る。 自 在 因 すなわち創造主を因とするのではない〉と言う。第一にその 相 すがた に着目するならば、如来の 大円鏡智と相応する清らかな識の中、最も清らかな七宝を感得する相分すなわち客観的な 認識を生じさせる種子が浄土の因である。浄土はその種子を因として、仏の大円鏡智の上
源隆国『安養集』の研究(五)
梯
信
暁
に、 七 宝 の 相 が 出 現 し た も の で あ る。 第 二 に そ の 本 質 に 注 目 し て 論 ず る と、 相 分( 客 観 ) に は 本 体 は な い。 見 分( 主 観 ) が 本 体 で あ る。 正 体 智 と 後 得 智 と を 本 体 と す る の で あ る。 大円鏡智が七宝の浄土を現ずる時、後得智も正体智も、別々の浄土の相を感得するのでは ない。このような見地から浄土の因を解するならば、凡夫から十地の菩薩に至るまで、浄 土を求めて行う修行は、すべて浄土の因となるのである」と。 【考察】 巻六には 「 57 土因」 「 58 国土」 の二論題を収める。いずれも七門の第五 「依報」 に属す る。 本 項「 57 土 因 」 に は、 浄 土 成 就 の 因 に つ い て 論 じ た 道 誾『 観 経 疏 』 の 一 文 の み が 挙 げ ら れ て い る。 「 第 三 に 往 生 の 因 を 弁 ず 」 と 標 章 さ れ た 文 中 の 一 節 で は あ る が、 往 生 の 因 行 に関する道誾の論述は、七門の第三「修因」に属する諸論題の中に、すでにいくつかの要 文 が 引 用 さ れ て い る。 た と え ば 十 念 論 は 巻 二 の「 16 十 念 」 の 項( 116) に、 『 観 無 量 寿 経 』 十 六 観 に つ い て は 巻 三「 23 十 六 想 観 」 の( 148)、「 25 日 想 観 」 の( 165)、「 26 水 想 観 地 相 観 」 の( 171)、「 30 仏 身 量 」 の( 188) に あ り、 ま た 九 品 往 生 人 の 行 位 に つ い て は 巻 四 の 「 47 三 輩 九 品 階 位 」 の( 305) に 長 文 が 引 用 さ れ て い る。 本 項 に 引 用 さ れ た 文 で は、 往 生 の 因行よりもむしろ浄土成就の因すなわち仏による国土建立の因行を解明することに重点が 置かれている。 このような問題意識は、 『往生要集』には見られない。大文第四「正修念仏」の第四「観 察 門 」 の 第 一「 別 相 観 」 の 冒 頭 に 華 座 観 を 示 す 中、 『 観 無 量 寿 経 』 の 文 が 掲 げ ら れ、 そ の 文 中 に は、 「 か く の ご と き 妙 華 は こ れ も と 法 蔵 比 丘 の 願 力 の 所 成 な り 」 と い う 文 言 が 見 え るが、源信は、それを取り上げて浄土成就の因を論ずるということはしていない。また大 文第十「問答料簡」の第一「極楽依正」の中にも浄土成就の因は議論されていない。 『安養集』では、 巻三の「 34 九品往生修因」の項に挙げられた( 244)元暁『無量寿経宗 要 』 の 中 に、 浄 土 成 就 の 因 を 簡 略 に 論 じ た 箇 所 が あ り、 そ こ に は、 『 瑜 伽 師 地 論 』 に よ っ て、 「 本 有 無 漏 の 法 爾 種 子 が、 三 無 数 劫 の 修 行 に よ っ て 増 広 さ れ て 浄 土 成 弁 の 因 と な る 」 という説と、 『摂大乗論』によって、 「出出世の善のはたらきによって浄土が生起する」と いう説とが紹介されている。 本 項 に 挙 げ ら れ た 道 誾『 観 経 疏 』 の 文 に は、 そ れ と ほ ぼ 同 様 の 見 解 が 詳 し く 提 示 さ れ、 元暁が紹介した第一説は法性土成就の因であり、第二説は受用土成就の因であることが述 べ ら れ て い る。 『 安 養 集 』 が こ こ に「 土 因 」 と い う 一 論 題 を 立 て て、 唯 識 教 学 に 基 づ く 浄 土成就の因に関する詳細な論述を掲げたのは、法相宗との対論を想定したためであると考えられる。 58 国土 ( 413) 観 無 量 寿 経 疏 に 云 う 天 台 (『 大 正 蔵 』 三 七、 一 八 八 頁 中 ~ 下 )、 「 こ の『 観 無 量 寿 経 』 は、心観が清らかであれば浄土も清らかとなるという教えをもって宗旨とする。四種の浄 土がある。凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土である。それぞれに浄・穢 が あ る。 五 濁 の 軽 重 を も っ て 同 居 土 の 浄 穢 を 分 か ち、 空 の 理 解 の 浅 深( 体 空 観 と 析 空 観 ) によって有余土の浄穢を分かち、悟りに到達するまでの時間の遅速(次第と頓入)によっ て実報土の浄穢を分かち、悟りの体得の浅深(分証即と究竟即)によって寂光土の浄穢を 分かつ。娑婆は不浄充満する同居穢土である。極楽は清浄であり涅槃に向かう正定聚の集 う 同 居 の 上 品 浄 土 で あ る。 有 余 土 は、 方 便 を 行 じ て 四 住 惑 を 断 じ て い る が、 無 明 は 未 だ 断 じ て い な い 者 が 居 る 浄 土 で あ る。 『 大 智 度 論 』( 巻 九 十 三、 『 大 正 蔵 』 二 五、 七 一 四 頁 上 ) に、 〈 三 界 の 外 に 声 聞 辟 支 仏 の 居 る 浄 土 が あ る。 法 性 身 を 受 け、 分 段 生 死 を 超 え て い る 〉 と 言 い、 『 法 華 経 』( 方 便 品、 『 大 正 蔵 』 九、 七 頁 下 ) に、 〈 我 が 滅 度 の 後、 余 仏 に 遇 っ て こ の 教 え を 理 解 す る 者 が あ る 〉 と 言 う が、 そ の 中 に も ま た 利 鈍 が あ る。 上 品 は 浄 で あ る が、 下品は穢である。実報無障礙土は、真実法を行じて勝報を感得する者が居る浄土なので無 障礙と言う。菩薩だけが居り、二乗のいない浄土である。 『仁王般若経』 (巻上、 『大正蔵』 八、 八二八頁上) に、 〈三賢 ・ 十聖が果報に住す〉 と言うのはこの土を指す。 『大智度論』 (巻 四 十 二、 『 大 正 蔵 』 二 五、 三 六 八 頁 七 上 ) に は、 〈 菩 薩 は 勝 妙 の 五 欲 を も っ て 迦 葉 を 躍 ら せ る 〉 と 言 い、 『 華 厳 経 』( 六 十 巻 本、 巻 三、 『 大 正 蔵 』 九、 四 一 二 頁 中 ) に は〈 浄 妙 の 五 塵 よりなる世界である〉と言う。次第・頓悟によって浄穢が分かれるのである。常寂光土と は、常は法身、寂は解脱、光は般若の意である。この三点が相即することを説く教えを秘 密 蔵 と 言 う。 悟 り の 体 得 が 完 全 で あ る か 否 か に よ っ て、 上 下 浄 穢 が 分 か れ る の み で あ る。 心に妙観を修することによって浄土を感得することをもって経の宗旨とするのである」 (要 約)と。 ( 414) 同 疏 記 に 云 う 法 聡 (『 浄 土 宗 全 書 』 五、 二 二 七 頁 上 ~ 下 )、 「 次 に 心 観 を 宗 と す る こ と を 明 か す。 第 三 に、 〈 四 種 〉 以 下 に、 四 種 浄 土 の 名 を 列 挙 す る。 心 観 浄 を 因 と し、 浄 土 浄 を果とする。浄心をもって十六観を修することによって、彼土に生まれることを得ること を説く。よってこれが本経の宗旨である。 〈各有浄穢〉以下は、まず四土の浄穢を略説し、 〈 娑 婆 〉 以 下 に 詳 説 す る。 凡 聖 同 居 土 は、 六 道 四 生 が 同 居 す る。 蔵 教 の 五 停 心 か ら 阿 羅 漢 まで、通教の初地から六地まで、別教の十信から第六住まで、円教の五品から六信までが 同居土に生まれる。 〈体析巧拙有余浄穢〉とは、 析空観は蔵教、 体空観は通教の空観である。 空を観じて五分法身を得、見思惑を破しているので浄であるが、無明惑は断じていないの で 穢 で あ る。 〈 次 第 〉 と は 別 教、 〈 頓 入 〉 と は 円 教 を 言 う。 理 を 証 し て い る の で 浄 で あ る が、無明が残っているので穢である。方便有余土には、蔵教の阿羅漢と辟支仏、通教の第 七地から仏地まで、別教の十信不退位から十回向、円教の第七信から第十信までの者が生 まれる。実報無障礙土には、通教の者は居ない。別教の十地と等覚・妙覚、円教の十住か ら等覚の者が生まれる。常寂光土には、ただ仏のみが居る。上品の寂光土はただ仏のみが 住する身土無二の世界であるが、中下品の寂光土には、浄穢がある」 (要約)と。 ( 415) 同 疏 顕 要 記 上 に 云 ふ( 源 清『 観 経 疏 顕 要 記 』 巻 上、 古 逸 )、 「 二 に〈 四 種 〉 の 下 は、 広く弁ず。また三あり。初に惣じて標列し、二に〈各有〉の下は、浄穢を立つ。軽重は人 天四趣なり、巧拙は蔵・通なり、次頓は別円の浄穢なり。知るべし。三に〈 (+娑?)婆〉 の下は、名相を釈す。また四あり。初に凡聖同居土。娑婆はこれ実に堪忍なり。ゆゑに悲 華に云ふ、 〈これ諸衆生、三毒および諸煩悩を忍受するがゆゑに娑婆と名づくるなり〉と。 安養とは、梵に須摩提と云ひ、此には極楽また安楽と云ふ。大本には多く安養と云ふ。蓋 し翻奢(奢=者?)の切なるのみ。泥 洹 に次ぐとは、泥 洹 はすなはち涅槃なり。また梵語 复 ママ なり。此には滅度と云ふ。涅槃はこれ安楽の法なり。彼はこれ安楽の処なり。おほよそ 彼に生ずる者は、必ず涅槃に至る。ゆゑに次と云ふなり。また彼に生ずればただ語楽を受 く る の み。 ゆ ゑ に 次 と 云 ふ な り。 大 本 に 云 ふ、 〈 皆 悉 く 正 定 の 聚 に 住 し、 邪 お よ び 不 定 の 聚なし〉と。ただし三乗人天同居するなり。上品とは、しばらく無諸悪に約し、もって娑 婆に望むがゆゑに上と云ふのみ。通じて論ずれば、すなはち二土におのおの浄穢あり。娑 婆のごときは、正報に約せば、十界業果の縛ありて浄穢となす。知るべし。依報は、彼に 望めば、彼すなはち上となす。彼土は四趣なしといへども、なほ六界あり。また 伝 マ マ 為 なる べ し。 ま た 事 に 約 せ ば す な わ ち 彼 此 の 状 に 照 ら し、 理 に 約 せ ば す な は ち 浄 穢 と も に 泯 ほろ ぶ。 二に方便有余。また三あり。初に因より名づく。これ空・仮二観を修するを方便となすな り。二に〈釈〉の下は、教によって相を弁ず。三界は分段生たり、有余は変易生たり。ゆ ゑに四教の九人ありて共に有余に生ず。謂く蔵通の二教の二乗および通の菩薩、別の三十 心、 円の十信は、 ともに四住を断ずる者なり。今師は、 南岳の釈による。余仏に二義あり。 一に円に約さば、五品十信なり。これ初依の位をすなはち余仏と名づく。しかるに心(心 =阿羅?)漢これに遇へば、大乗を決するを得。一(一=二?)に方便土に約さば、仏を 余仏となす。小乗人、彼に生じてすなはち法性を了す。彼経両処に余仏を明かす。今、方 便 品 を 引 く。 意 に 二 釈 あ り。 も し 有 余 に 生 ず る こ と を 論 ぜ ば、 合 わ せ て 化 城 の 文 を 引 く。 四教の人 伝 マ マ 為 利鈍上(+下?)不可解なり。三に実報無障礙土。二あり。初に因果もって
名を得。中道観成ずれば、 真法界に入り、 依正は不二なるがゆゑなり。二に〈純〉の下は、 教 に よ っ て 相 を 弁 ず。 大 樹 緊 那 羅 王 経 に 云 ふ、 〈 そ の 時 大 樹 緊 那 羅 王、 無 量 の 緊 那 羅 と 仏 所に来致し、仏足を頂礼し、世尊の前に住して、瑠璃琴をもって、よく自ら調品し、およ び八万四千の伎楽を作す。時に大千界の所有の山林、皆ことごとく涌没すること酔人のご とし。この会の大衆、ただ不退の菩薩を除き、余は皆起舞す。その時、天冠菩薩、大迦葉 に 語 り て 云 ふ、 《 諸 の 声 聞 等、 す で に 煩 悩 を 離 れ、 八 解 脱 を 得 る に、 い か ん が 各 々 威 儀 を 捨 て、 彼 の 小 児 の ご と く、 身 を 挙 げ て 動 舞 す る や 》 と。 時 に 迦 葉 言 ふ、 《 善 男 子、 我 こ の 中において自在を得ず。これによって琴の音、我が心を鼓動すること、毘嵐の諸樹木を吹 くがごとく、彼を制することあたはず。彼の本心にあらず》と。その時天冠、迦葉に語り て 言 ふ、 《 汝、 不 退 菩 薩 の 威 徳 勢 力 を 観 よ。 琴 の 動 ず る こ と あ た は ず。 誰 か か く の ご と き を 見 て、 無 上 正 真 菩 薩 を 敬 は ざ る 》〉 と。 あ に 彼 の 経 は 円 を も っ て 偏 を 斥 け ざ ら ん。 正 し く菩薩の勝妙の五欲をもって、その同体の無明の全在なるがゆゑに自ら安んぜずして山の 涌没するを見ることを斥く。同体の惑の全在の依正なれば、これ正報動ずるを致し、依報 動ずるを見る。しかして世人みな謂ふ、迦葉はもとこれ楽人なれば、習気なほ在るがゆゑ に起舞するのみと。今謂ふ、謬なりと。大衆とともに舞ふがごときは、楽人とともなるべ き や。 蓋 し 経 致 を 尋 ね ず。 こ れ 謬 説 な り。 華 厳 に 云 ふ、 〈 無 量 阿 僧 企 の 香 雲 華 雲、 不 可 思 議にして法界を宛塞す〉と。今師おもへらく、果は三界に別なるがゆゑに、香雲等を欲界 となし、 百千三昧の心塵を色となし、 寂定を無色となすなり。円頓を上とし、 別次を下とす。 これしばらく教に約す。道証はかならず融なるも、ただ品位をもってこれを分かつ。四に 常寂光土。二(二=三?)あり。初は体に当たりて名を得。二に〈是三〉の下は、体に当 たりて相を弁ず。三賢十聖は果報に住し、 ただ仏一人のみ浄土に居す。すなはち上下なり。 しかるに界外の三土はただ証なるのみ。すなはち知んぬ。ただ聖教を信じて、情推するこ となかれ。四土の即離は、つぶさには浄名疏の文および法華玄義にあり。三に〈故〉以下 は結成なり。文のごとし」と。 【現代語訳】源清『観経疏顕要記』巻上に云う、 「二に〈四種〉の下は、広く仏土を解説す る。三段よりなる。第一に四土をすべて掲げ、第二〈各有〉の下は、浄穢を立てる。五濁 の軽重によって人天四趣が浄穢に分けられる。空の理解の巧拙によって蔵教と通教とに分 かれ、 次第と頓入とによって別教と円教とが浄穢に分けられる。理解せよ。第三に〈娑婆〉 の下は、名相を釈する。また四段よりなる。 第 一 に 凡 聖 同 居 土。 娑 婆 は 実 に 堪 忍 の 所 で あ る。 よ っ て『 悲 華 経 』( 巻 五、 『 大 正 蔵 』 三、 一 九 九 頁 下 ) に は、 〈 諸 衆 生 が 三 毒 お よ び 諸 煩 悩 を 忍 受 す る か ら 娑 婆 と 名 づ け る の で あ る 〉 と 言 う。 安 養 と は、 梵 語 で は 須 摩 提 と 言 い、 中 国 で は 極 楽 ま た は 安 楽 と 言 う。 『 無 量寿経』では安養と言う。おそらく翻訳者の違いだけであろう。泥 洹 に次ぐとは、 泥洹 と は涅槃のことで、梵語の音訳である。中国では滅度と言う。涅槃は安楽の法であり、極楽 は安楽なる所であるので、往生者は必ず涅槃に至る。だから〈次ぐ〉と言うのである。あ るいは極楽に生ずれば楽だけを受けるので、 〈次ぐ〉 と言うのである。 『無量寿経』 には、 〈皆 悉く正定の聚に住し、邪定聚 ・ 不定聚はいない〉と言う。ただし三乗の人 ・ 天が同居する。 上品とは、 諸悪がない点に注目し、 娑婆に較べて上と言うだけである。広く見れば、 娑婆 ・ 極楽それぞれに浄穢がある。娑婆について、その住人を見ると、地獄から仏まで、その行 為によって浄穢が分かれる。国土を見ると、極楽と娑婆を較べれば、極楽が上である。極 楽 に は 四 悪 趣 は な い け れ ど も、 六 界 は あ る。 ま た 事 の 立 場 で は 彼 此 の 形 状 に 浄 穢 が あ り、 理の立場では浄も穢もない。 第二に方便有余土。また三段よりなる。第一に因によって名づける。空・仮二観を修す ることを方便と言うのである。第二に〈釈〉の下は、教説によってその相を論ずる。三界 は分段生の世界であり、有余土は変易生の世界である。だから四教の九人はみな有余に生 まれる。蔵・通二教の二乗と、通教の菩薩、別教の三十心、円教の十信は、みな四住惑を 断じて有余土に生まれる。天台大師は、南岳の釈に依っている。余仏には二義がある。円 教では、五品十信の菩薩を余仏と言う。阿羅漢がそれに遇うと、大乗を理解することがで きるのである。第二に方便土では、仏を余仏とする。小乗人がそこに生まれると、やはり 真 如 を 理 解 で き る の で あ る。 『 法 華 経 』 に は 二 処 に 余 仏 を 説 く が、 こ こ で は 方 便 品 を 引 い ている。方便有余土に生ずることを論ずるならば、化城喩品の文も引くべきである。四教 の人の利鈍・上下は不可解である。 第 三 に 実 報 無 障 礙 土。 二 段 よ り な る。 第 一 に 因 果 に よ っ て 名 づ け る。 中 道 観 を 成 ず れ ば、真法界に入り、依正不二の境地を得るからである。第二に〈純〉の下は、教説によっ て そ の 相 を 論 ず る。 『 大 樹 緊 那 羅 王 経 』( 巻 一、 『 大 正 蔵 』 一 五、 三 七 〇 頁 下 ~ 三 七 一 頁 上 ) に 次 の よ う に 言 う。 〈 そ の 時 大 樹 緊 那 羅 王 は、 無 量 の 緊 那 羅 と と も に 仏 の 所 に や っ て 来 て、仏足を頂礼し、世尊の前に住して、瑠璃琴を整え、八万四千の伎楽を演奏した。その 時、大千世界のすべての山林が皆酔っ払いのように揺れ動いた。その会座の大衆も、不退 の 菩 薩 以 外 は み な 躍 り 上 が っ た。 そ の 時、 天 冠 菩 薩 が 大 迦 葉 に 問 う た。 《 あ な た が た 声 聞 は、すでに煩悩を離れ、八解脱を得ているのに、なぜみな威儀を捨てて子供のように躍っ て い る の か 》 と。 大 迦 葉 は、 《 身 体 が 思 う よ う に な り ま せ ん。 だ か ら 琴 の 音 に 心 躍 ら さ れ て、 風を受けた樹木のように、 身体を制御できないのです。躍りたいわけではないのです》 と 言 っ た。 そ の 時 天 冠 菩 薩 は 大 迦 葉 に 言 っ た。 《 不 退 菩 薩 の 威 徳 勢 力 を 見 な さ い。 琴 の 音 にも動じないではないか。その姿を見ればみな無上正真の菩薩を敬うしかなかろう》 〉と。
『 大 樹 緊 那 羅 王 経 』 は 円 教 に よ っ て 偏 教 を 斥 け よ う と し て い る に ち が い な い。 菩 薩 が 勝 妙 の 五 欲 を 発 動 し て、 そ れ ぞ れ に 対 応 す る 同 体 の 煩 悩 が 山 を 揺 り 動 か し て い る こ と を 知 り、 それを制圧するのである。同体の煩悩を具足しているから、自分が動揺し、国土が動揺す る よ う に 見 え る の で あ る。 と こ ろ が、 大 迦 葉 は 元 楽 人 だ か ら、 そ の 気 分 が 抜 け き ら ず に 躍ったという者があるが、それは誤りである。大衆がみな躍ったということは、みな楽人 だったということになろう。経の趣旨を誤っている。 『華厳経』 (六十巻本、 巻四十四、 『大 正蔵』九、 六七七頁下)に、 〈無量阿僧企の香雲華雲が、不可思議にして全世界を覆ってい る〉と。天台大師は、果を三界のそれぞれに配当して、香雲等を欲界、百千三昧の心塵を 色界、寂定を無色界と見る。円頓を上とし、別次を下とする。これは教説による解釈であ る。悟りは円融であるが、階位を分けるのである。 第 四 に 常 寂 光 土。 三 段 よ り な る。 第 一 は 体 に よ っ て 名 づ け る。 第 二 に〈 是 三 〉 の 下 は、 体 に よ っ て 相 を 論 ず る。 〈 三 賢 十 聖 は 果 報 に 住 し、 た だ 仏 だ け が 浄 土 に 居 す 〉 と 説 か れ る よ う な 浄 土 で あ る。 そ れ に ま た 上 下 が あ る と 言 う。 し か し な が ら 三 界 の 外 の 三 種 浄 土 は、 ただ悟りの世界である。だからただ聖教を信じ、 邪推してはならない。四土のことは、 『浄 名疏』や『法華玄義』に詳しく説かれている。第三に〈故〉以下は結文である。文の通り である」と。 ( 416) 註 十 疑 論 に 云 う 澄 彧 (『 浄 土 宗 全 書 』 六、 五 八 〇 頁 上 ~ 下 )、 「 諸 仏 の 境 界 に は 本 来 依 正の差別はないが、機に応じて四土・三身が説かれている。一に染浄同居土には、凡・聖 が同居する。二に方便有余土は、見惑・修惑の煩悩を断じた三乗人が居る。三に実報無障 礙土には、根本無明煩悩を一部断じた法身の菩薩が居る。四に常寂光土には、妙覚法身だ けが居る。それぞれに浄穢を分けて、娑婆を同居穢土、安養を同居浄土とする。安養には 三悪趣がないが、人天は居るからである。また法身所居の法性土と、自受用報身所居の自 受用土とが常寂光土に当たり、他受用報身所居の他受用土は、初地以上の菩薩のために一 分の細相を示現するので、実報無障礙土に当たり、変化身所居の変化土は、地前二乗のた めに一分の麁相を示現するので、方便有余土と染浄同居土とに当たるという説がある。安 養は、他受用土と変化土とに通じている。地上菩薩は他受用土を見、地前二乗は変化土を 見る」 (要約)と。 ( 417) 安 楽 集 上 に 云 う 道 侍 ママ ( 道 綽『 安 楽 集 』 巻 上、 『 大 正 蔵 』 四 七、 五 頁 下 ~ 六 頁 中 )、 「 第 七に三身三土義。問う。現在の阿弥陀仏は法身・報身・応身のどれか。極楽国は三土の中 のどれか。答え。現在の阿弥陀仏は報仏、極楽国は報土である。化身・化土であるという 古来の通説は誤りである。 『大乗同性経』 (巻下、 『大正蔵』一六、 六五一頁中~下)による と、浄土で成仏する仏は報身、穢土で成仏する仏は化身である。阿弥陀如来・蓮華開敷星 王如来・龍主王如来・宝徳如来等、清浄仏国で現に成仏し、あるいはやがて成仏される仏 は報身であり、踊歩健如来・魔恐怖如来等、濁世で現に成仏し、あるいはやがて成仏され る仏は化身である。また兜率天より下生し、正法・像法・滅法にわたって教化される仏は 化身である。如来の真法身とは、無色・無形で、見えず、語らず、住処なく、生滅するこ ともない仏を言う。 問う。報身は常住であるのに、 なぜ 『観音授記経』 (『大正蔵』 一二、 三五七頁上~中) に、 〈 阿 弥 陀 仏 が 入 滅 さ れ た 後、 観 世 音 菩 薩 が 仏 の 位 を 補 わ れ る 〉 と 説 か れ る か。 答 え。 こ れ は如来の報身が 隠 おんもつ 没 の相を示現されるだけであり、入滅されるのではない。経には、阿弥 陀仏が入滅された後も、善根の厚い者は仏を見ることができると説かれている。また『宝 性論』 (巻四、 『大正蔵』八四三頁上)には、 〈報身には五種の相がある。説法されること ・ 姿を見せられること・休息せずに活動されること・休息隠没されること・応身を示される ことである〉と説かている。 問 う。 釈 迦 如 来 の 報 身 報 土 は ど こ に あ る の か。 ……( 以 下 こ の 問 答 の 答 え と、 次 の 問 答 の 問 い の 文とが欠落している。意図的な省略ではないと思われるので、 以下に小字で補っておきたい。……筆者註)答え。 『 涅 槃 経 』 に は、 〈 西 方 に 無 勝 と い う 名 の 世 界 が あ る。 極 楽 と 同 様、 仏 は そ こ に と ど ま る こ と な く、 衆 生 済 度 の た めに娑婆に出現する〉と説かれている。 問 う。 『 鼓 音 声 王 経 』 に は、 〈 阿 弥 陀 仏 に は 父 母 が あ る 〉 と 説 か れ る。 こ れ は 報 仏 報 土 で は な か ろ う。 答 え。 極楽に出現する仏は報身であり、 父母があるというのは穢土に出現する化身の父母である。 『鼓音声王経』には、 〈その時、阿弥陀仏が声聞たちと共に居る国は、清泰と呼ばれ、聖王 が住む城は縦横十千由旬である。阿弥陀仏の父は月上転輪聖王、母は殊勝妙顔、魔王は無 勝、仏の子は月明、提婆達多は寂意、弟子は無垢称という名である〉と。これらは化身の 相である。 問う。仏の報身に隠没の相があると言うのであれば、浄土にも 成 じょうえ 壊 (生成と破壊)があ る の か。 答 え。 浄 土 も 仏 と 同 様、 本 体 は 不 変 で あ る が、 衆 生 の 機 根 に よ っ て は 成 壊 を 見 る こ と も あ る。 『 華 厳 経 』( 六 十 巻 本、 巻 四、 『 大 正 蔵 』 九、 四 一 五 頁 中 ) に は、 〈 仏 や 浄 土 の 様 相 は 衆 生 の 心 に 随 っ て 種 々 に 無 量 に 変 化 す る 〉 と 説 か れ、 道 安 の『 浄 土 論 』 に、 〈 浄 土 と 穢 土 と は 一 質 で は な い。 だ か ら 浄 穢 に 盈 ち 虧 け が あ る。 し か し 異 質 で も な い。 だ から本源は一つに冥合する。それでも国土は無質ではない。だから縁起によって無量の形 を顕わす〉と説かれる。よって、法性浄土には清濁はないが、大悲によって顕わされる報 化の世界には、浄土と穢土の差別があることが知られよう。広く仏土を明かせば、根機の 不同によって三種の差別がある。第一に、真より報を垂れるのを報土と名づける。法身は 日、 報 化 は 光 に 当 た る。 第 二 に、 無 で あ る も の が 突 如 出 現 す る の を 化 と 名 づ け る。 『 四 分
律 』( 巻 三 十 一、 『 大 正 蔵 』 二 二、 七 八 三 頁 上 ) に は、 「 定 光 如 来 が 提 婆 城 を 化 現 さ れ、 隣 接 の 抜 提 城 と 親 交 さ せ た 後、 仏 は 突 如 そ れ を 焼 き 尽 く し、 衆 生 に 無 常 を 見 せ て 厭 心 を 生 じ さ せ、 仏 道 に 導 か れ た 〉 と 言 い、 経( 『 維 摩 経 』 巻 中、 『 大 正 蔵 』 一 四、 五 五 〇 頁 上 ) に は、 〈 わ れ ら に 無 常 を 知 ら す た め 世 界 の す べ て を 焼 き 尽 く し 貧 窮 の た め に は 蔵 を た て 菩 提 心 を 発 さ せ る 〉 と 説 か れ る。 第 三 に、 穢 を 隠 し て 浄 を 顕 す。 『 維 摩 経 』( 巻 上、 『 大 正蔵』一四、 五三八頁下)に、 〈仏が地面を踏まれると、三千世界がすべて浄土となる〉と 言う。この無量寿国は、 真如より現れた報土である。なぜならば、 『観音授記経』 (『大正蔵』 一 二、 三 五 七 頁 上 ) に、 〈 未 来 に 観 音 が 成 仏 し て、 阿 弥 陀 仏 と 交 替 す る 〉 と 説 か れ て い る からである」 (要約)と。 ( 418) 観 経 玄 義 分 善 導 に 云 う( 『 大 正 蔵 』 三 七、 二 五 〇 頁 中 ~ 二 五 一 頁 上 )、 「 問 う。 阿 弥 陀 仏の浄土は報土か化土か。答え。報土である。化土ではない。 『大乗同性経』に、 〈西方安 楽 阿 弥 陀 仏 は 報 仏 報 土 で あ る 〉 と 説 か れ、 『 無 量 寿 経 』 に は、 〈 法 蔵 比 丘 四 十 八 願 に、 《 も しも私が仏の悟りを完成することができたとしても、その時、十方衆生が私の名号を称え て 往 生 を 願 っ て く れ て、 そ れ が わ ず か 十 念 で あ っ た と し て も、 往 生 で き な か っ た な ら ば、 私は決して仏の位には就かない》と誓われている〉と言う。今すでに成仏されているのだ から、因に酬いて出現された身であると言えよう。また『観無量寿経』には、上輩人の臨 終時に、阿弥陀仏が化仏と共に迎えてくださると説かれる。これは報身仏がその化身を兼 ねて共に手を差し伸べるから〈共に〉と言われているのである。よって阿弥陀仏は報身で あることがわかろう。ただし報身・応身とは、眼と目ほどの違いである。前訳では報を応 と訳し、後訳では応を報と訳されている。報とは、因に応じた果という意味である。三大 阿僧祇劫の修行に応じて悟りを成就された応身であるとも言える。穢土に出現して成道す る仏は皆化身であり、彼土の阿弥陀仏は報身である。 問 う。 報 身 は 常 住 で あ る の に、 『 観 音 授 記 経 』 に、 〈 阿 弥 陀 仏 が 涅 槃 に 入 る 〉 と 説 か れ る の は な ぜ か。 答 え。 こ こ に 言 う 入・ 不 入 は、 仏 の 境 界 の こ と で あ り、 三 乗 人 に は う か が い 知 る こ と は で き な い。 ま し て 凡 夫 に は 理 解 で き な い。 あ え て 言 え ば、 『 大 品 般 若 経 』 (巻二十六、 『大正蔵』八、 四一五頁下)に次のように説かれている。 〈色は化であり、受・ 想・行・識もまた化である。そのほか一切種智まで全て化である。世間の法が化であると 同 様、 出 世 間 の 法 も ま た 化 で あ る。 四 念 処・ 四 正 勤・ 四 如 意 足・ 五 根・ 五 力・ 七 菩 提 分・ 八聖道分・三解脱門・仏十力・四無所畏・四無礙智・十八不共法、さらには修行によって 得 る 果 お よ び 賢 聖 人、 い わ ゆ る 須 陀 洹 ・ 斯 陀 含・ 阿 那 含・ 阿 羅 漢・ 辟 支 仏・ 菩 薩 摩 訶 薩・ 諸仏世尊の法等、消滅の相のあるものはみな化である。仏は、消滅のないものは化ではな い、いつわりのない涅槃は化ではないと説かれる。そもそも諸法は平等であり、本性が空 であるのがすなわち涅槃である。しかし初発心の菩薩が、すべての法はみな畢竟じてその 体が空であり、涅槃までもまたみな化であると聞いたならば驚くであろう。だから初発心 の菩薩のために、消滅するものは化であり、不生不滅のものは化ではない分別したのであ る〉と。これによって、阿弥陀は報身であることがわかるだろう。後に入滅されるとして も報身である。 問う。報身・報土は高妙の境界であり、小聖や凡夫には関与できないだろう。答え。衆 生の垢障を問題にするならば、到底趣くことのできない世界であるが、仏願に託するとい いう強縁によって、五乗人が等しく往生できるのである」 (要約)と。 ( 419) 阿 弥 陀 経 疏 基 に 云 う( 『 大 正 蔵 』 三 七、 三 一 一 頁 中 ~ 三 一 二 頁 上 )、 「 第 二 に、 国 土 を 判定する (原文は「第二録其土」 。『阿弥陀経疏』現行本には、 この五文字がなく、 かわりに「次」の一字があっ て、 こ の 部 分 は、 「 第 二 に 次 に 」 と な っ て い る。 現 行 本 で は 標 題 の 句 が 抜 け て い る の で あ る。 そ の よ う な 例 が あ と 二 箇 所、 ( 622)( 730) に あ っ て、 い ず れ も『 安 養 集 』 の 引 文 の ほ う が『 阿 弥 陀 経 疏 』 原 本 の 体 裁 に 近 い と 思 わ れ る。……筆者註) 。問う。浄土には幾種 類あるか。答え。法性土・自受用土・他 受用土・変化 土の四種である。 問 う。 西 方 極 楽 は ど れ に 当 た る か。 答 え。 法 性 土 は 自 性 清 浄、 第 一 義 空 の 世 界 で あ る。 自受用土は三大阿僧祇劫所修の行によって仏だけが感得する清浄世界である。 他受用土は、 『仏地経論』によると、地上菩薩が仏の大悲によって感得する世界である。変化土は、 『仏 地 経 論 』 に よ る と、 菩 薩 の 機 根 に 応 じ て 天 上 界 や 西 方 に 示 現 さ れ る 世 界 で あ る。 極 楽 は、 この中の二土に通じている。地上菩薩は他受用土を見、地前は化土を見る。 問う。どうして化土であることがわかるのか。答え。報土は平等の世界だが、化土は衆 生の機根に応じて示現される差別の世界である。 『華厳経』には、 〈娑婆の一劫は極楽の一 日 に 当 た り、 極 楽 の 一 日 は 袈 裟 幢 世 界 の 一 日 に 当 た る 〉 と 言 い、 『 首 楞 厳 経 』( 巻 下、 『 大 正蔵』一五、 六四四頁上)には、 〈文殊が成仏して色身を現す世界は、 阿弥陀の国よりずっ と勝れている〉 、『観音授記経』には、 〈過去金光師子遊戯仏土や観世音未来成仏の国土は、 阿弥陀仏の国土よりも勝れている〉と説かれている。また『大阿弥陀経』によると、極楽 は欲界にあるということである。これらの文によって化土であることがわかる。 問う。衆生はどの世界に生まれるのか。答え。化土に生まれる。 問う。化土であるならば、なぜ二乗・女人は生まれられないと説かれるのか。答え。そ れ は 報 土 の こ と を 説 く 文 で あ る。 『 平 等 覚 経 』 に は、 凡 夫 や 初 発 心 の 菩 薩 が 居 る と 説 か れ るので、これは化土である。 『観無量寿経』 『阿弥陀経』にも声聞が生まれると説かれてい る。 『阿弥陀経』には善女人という文言があり、 『鼓音声王経』には仏の母の名が挙げられ ている。女人・根欠が生まれないと説かれるのは、阿弥陀仏の本願によって清浄の身とな
るということを言わんとした表現である。娑婆の女人や根欠が往生できないという意味で はない」 (要約)と。 ( 420) 又 云 う( 伝 基『 阿 弥 陀 経 疏 』、 『 大 正 蔵 』 三 七、 三 一 二 頁 上 ~ 中 )、 「 問 う。 化 土 で あ る な ら ば、 な ぜ『 大 智 度 論 』 に は 三 界 の 摂 に あ ら ず と 説 か れ る の か。 答 え。 『 大 智 度 論 』 (巻三十八、 『大正蔵』二五、 三四〇頁上)には、 通常の三界とは異なるという意味で、 〈地 居だから色界ではない、形があるから無色界ではない、欲がないから欲界ではない〉と言 う の で あ る。 『 仏 地 経 論 』( 巻 一、 『 大 正 蔵 』 二 六、 二 九 二 頁 下 ) に は、 〈 仏 が 出 三 界 の 浄 識 に よ っ て 地 前 の 有 情 を 教 化 し て、 浄 土 の 因 を 行 じ さ せ、 声 聞 等 に 見 せ よ う 〉 と 説 か れ る。 三界を出過した世界だと言うと、 『平等覚経』の教説と相違することになる。 問う。化土であるならば、なぜ『解深密経』 (『仏地経論』 『瑜伽師地論』等)に、 〈三地 已上が生まれることができる〉と説かれるのか。答え。これは他受用土のことを説くもの である。他受用には、地上菩薩が受用する浄土と、地前人のために示現された化浄土とが あ る。 『 解 深 密 経 』 に は 地 上 の 浄 土 を 説 く。 極 楽 は 地 上 の み な ら ず 凡 夫・ 二 乗 も 生 ま れ る ことのできる世界なのである。 問う。化土であるならば、衆生はまずどの土を見、後にどの土を見るのか。答え。初め 化土を見、後に受用土を見る。 問う。どこに二土があるのか。答え。一世界一相の土であるが、初めは麁を見、後には 細を見るのである。前の土を滅して後の土を見るのではない。また異処の二土を見るので も な い。 『 仏 地 経 論 』( 巻 一、 『 大 正 蔵 』 二 六、 二 九 三 頁 上 ) に、 〈 釈 迦 如 来 が『 仏 地 経 』 を 説かれた時、地前大衆は変化身が穢土で説法されていると見、地上菩薩は受用身が浄土で 説法されていると見た〉と言う。 問 う。 浄 土 で も 娑 婆 で も 化 仏 を 見 る の か。 答 え。 『 大 智 度 論 』( 巻 三 十 三、 『 大 正 蔵 』 二 五、 三 〇 二 頁 中 ) に、 『 目 連 所 問 経 』 を 引 い て 言 う。 〈 釈 尊 が 目 連 に 己 身 浄 土 を 示 し て おっしゃった。 《一切諸仏に浄穢二土がある。釈迦も阿弥陀も同様である》 〉と。 問う。そうであるならばなぜ、阿弥陀は穢土を見せず、釈迦は浄土を見せないのか。答 え。衆生の願いに応じて阿弥陀は浄土を説き、悟りを求めない悪衆生を導くために釈迦は 穢 土 を 示 現 さ れ た の で あ る。 よ っ て『 涅 槃 経 』 に は、 〈 諸 仏 は 衆 生 教 化 の た め に 浄 穢 を 示 現 さ れ る 〉 と 説 か れ、 『 維 摩 経 』( 巻 下、 『 大 正 蔵 』 一 四、 五 三 三 頁 中 ) に は、 〈 律 行 に 入 る 縁を得た者には仏が示現される〉と説かれる。 問う。極楽が化土であるならば、須弥山や大海はあるのか。答え。仏の本願力によって 山 川 江 海 や 四 天 王 天・ 忉 利 天 な ど は な い。 ま た 福 徳 に よ っ て 空 中 に 住 す る の で あ る 」( 要 約)と。 ( 421) 又 云 う( 伝 基『 阿 弥 陀 経 疏 』、 『 大 正 蔵 』 三 七、 三 一 三 頁 上 )、 「 第 五 に 浄 土 の 本 質 を 述 べ る。 問 う。 浄 土 の 本 体 は 何 か。 答 え。 『 摂 大 乗 論 』( 真 諦 訳『 摂 大 乗 論 釈 』 巻 十 五、 『 大 正 蔵 』 三 一、 二 六 三 頁 中 ) に、 〈 仏 菩 薩 の 唯 識 智 が 浄 土 の 体 で あ る 〉 と 言 い、 『 金 剛 般 若経論』 (巻上、 『大正蔵』二五、 七八六頁上)に、 〈仏の真実智慧に通ずる識によって、浄 土 を 感 得 す る こ と が で き る 〉 と 言 い、 ま た『 仏 地 経 論 』( 巻 一、 『 大 正 蔵 』 二 六、 二 九 四 頁 上 ) に は、 〈 仏 の 無 漏 心 を 体 と し、 仏 の 浄 心 を 離 れ て は 存 在 し な い 〉 と 言 う。 ま た、 仏 の 大慈悲願力によって繰り出される無分別後得智を体とするとも言われる」 (要約)と。 ( 422) 無 量 寿 経 宗 要 に 云 う 元 暁 (『 大 正 蔵 』 三 七、 一 二 五 頁 下 ~ 一 二 八 頁 上 )、 「 こ の『 無 量 寿 経 』 は 浄 土 の 因 果 を 説 く こ と を 主 眼 と し、 衆 生 を 救 っ て 往 生 さ せ る こ と を 目 的 と す る。 まず果徳を明かし、後に因行を示す。 果徳に四門ある。第一に浄 ・ 不浄門、第二に色 ・ 無色門、第三に共 ・ 不共門、第四に漏 ・ 無漏門である。 第一の浄・不浄門に、因・果相対、一向・不一向相対、純・雑相対、正定・非正定の四 つの相対がある。因・果相対とは、仏の所居土のみを浄土とする立場である。因位の菩薩 所居土は浄土とは呼ばない。一向・不一向相対とは、八地以上の菩薩の所居土を浄土とす る立場である。一向に三界を超過しているからである。純・雑相対とは、地上菩薩の所居 土を浄土とする立場である。凡夫・二乗所居の土は浄土とは呼ばない。正定・非正定相対 と は、 正 定 聚 所 居 の 土 を 浄 土 と す る 立 場 で あ る。 不 定 聚・ 邪 定 聚 所 居 の 土 は 穢 土 で あ る。 本経『無量寿経』は、第四の正定・非正定相対によって浄土を説いている。 『浄土論』に、 〈 女 人・ 根 欠 さ ら に な く 二 乗 種 を も つ 者 も な し 〉 と 説 か れ る の は、 決 定 種 性 の 二 乗 を 言 うのであり、不定根性の声聞を排除するのではない。また往生の後には女人・根欠はいな いという意味である。以上四門の浄土は、如来の願力によって成立したものであり、往生 人が作り出したものではない。 第二の色・無色門によると、前項所説の四土の中、第一は自受用土、第二以下は他受用 土である。自受用・他受用の別については諸説ある。一説には、色相を離れた世界が自受 用土、色相のある世界が他受用土であると言う。また一説には、自受用身には無障礙微妙 の色があり、自受用土には六塵殊勝の境界があると言う。また一説には、その両説を会通 して、前者は正相帰源門、後者は従性成徳門であると言う。 第三の共・不共門によると、浄土には不共果の内土と共果の外土とがある。不共果の内 土にまた二種あり、一つには世間衆生の五陰によって感得される土、二つには出世間の智 慧によって感得される実智土である。正報の土が不共果であることには異説はないが、依 報の土を共果とすることについては諸説ある。一説には、山河等は皆が相似の果を感得す
るので仮に共果と言うが、実には各自異相を感得していると言う。また一説には、浄土の 依報も識を離れることはないけれども、浄土の相は一つであると言う。自受用土は仏と諸 仏とが一土を共有し、他受用土は仏と諸菩薩とが一国を共有していると言うのである。 第四の漏・無漏門には二つの観点がある。一には通じて諸法について漏・無漏の義を明 かし、二には別して浄土について漏・無漏の相を明かす。第一の通門について、漏・無漏 を四句分別すると、一に一向有漏とは諸染汚の心・心所法を言い、二に一向無漏とは見道 の心・心所を言う。三に亦有漏亦無漏とは無記の心・心所を言い、四に非有漏非無漏とは 甚 深 の 法 を 言 う。 次 に 別 明 浄 土 に 有 分 際 門・ 無 障 礙 門 の 二 門 が あ る。 有 分 際 門 に よ る と、 諸仏所居の浄土は一向無漏と非有漏非無漏に当たる。無障礙門によると、四句のすべてに 相当する。第一に、諸仏の身土は一切の諸漏を離れないので有漏である。第二に、凡夫の 身土は一切の諸漏の性を離れるので無漏である。第三に、一切凡・聖の穢土・浄土は、有 漏でありまた無漏である。第四に一切凡・聖の穢土・浄土は、非有漏でありまた非無漏で ある。 以上四門によって浄土の果徳を釈し終わる」 (要約)と。 ( 423) 浄 土 論 上 迦 才 に 云 う( 『 大 正 蔵 』 四 七、 八 四 頁 上 ~ 八 五 頁 中 )、 「 第 一 に 浄 土 の 本 性 を 理解する まず本性を明かし、次に三界に摂まるか否かを明かす 。 問 う。 浄 土 の 本 性 と は ど の よ う な も の か。 答 え。 浄 土 の 本 性 に つ い て、 一 に 法 身 浄 土、 二に報身浄土、三に化身浄土の三門によって論ずる。第一の法身浄土について、能住の人 の 体・ 所 住 の 土 の 体 の 二 面 か ら 論 ず る。 能 住 の 人 の 体 と は、 『 起 信 論 』 に よ る と、 如 来 蔵 の体である三大を言う。三大とは、体大すなわち平等普遍の理体、相大すなわち如来蔵と して無漏の功徳を具足すること、用大すなわち衆生に善の因果を生じさせる作用のことで あ る。 そ の 真 如 体 大 が 所 住 の 土 の 体 で あ る か ら、 人・ 土 は 同 体 で あ る。 第 二 の 報 身 浄 土 に、実報土と事用土とがある。実報土は人・土同体の浄土である。事用土は人・土別体の 浄土であり、 地上の菩薩が階位に応じて見ることのできる世界である。第三の化身浄土に、 常 随 の 土 と 無 而 忽 有 の 土 の 二 種 が あ る。 妙 喜 世 界 な ど は 常 随 の 化 土 で あ り、 『 維 摩 経 』 所 説の足指案地などは無而忽有の浄土である。これらは地前・二乗・凡夫も見ることができ る。 問う。西方極楽は三土の中どれか。答え。三土ともである。初地以上の菩薩が正体智に よって見るのは法身の浄土であり、加行・後得智によって見るのは報身の浄土である。地 前二乗凡夫は化身の浄土を見る。上は兼ねて下を見ることができるので、龍樹のような菩 薩が往生すれば、法・報・化の三種浄土のすべてを見る。 問 う。 凡 夫 が 念 仏 し て 往 生 を 願 う な ら ば、 ど の 土 に 生 ま れ る か。 答 え。 『 摂 大 乗 論 』 に よれば、化土に生まれるのみであり、法・報土を見ることはできない。その化土には、胎 生土と化生土とがある。胎生土には二種ある。疑惑人が生まれる世界と、実の父母のいる 世 界 と で あ る。 化 生 土 に は 三 種 あ る。 一 に 純 大 乗 土 と は、 九 品 の 上 輩 人 が 往 生 す る 世 界、 二に純小乗土は、中品上・中生人が往生する世界、三に大小乗雑土とは、中品下生人およ び下輩三生人が往生する世界である。 問う。報化二土には国土の境界があるはずだが、極楽はどうか。答え。実報土には境界 は な い。 事 報 土 に は 境 界 が あ る。 『 大 乗 同 性 経 』 に は、 極 楽 は 報 土 で あ る と 説 か れ る が、 それは阿弥陀仏が浄土で成仏した仏だからであると言う。ここに言う阿弥陀仏は受用事身 であり、実報身ではない。この経には、浄土でも穢土でも、報身・化身の両身を見ると説 か れ て い る。 ま た 極 楽 を 化 土 で あ る と 言 う 文 証 は、 『 観 音 授 記 経 』 と『 鼓 音 声 王 経 』 と に ある」 (要約)と。 ( 424) 群 疑 論 一 に 云 う( 『 大 正 蔵 』 四 七、 三 〇 頁 下 ~ 三 二 頁 上 )、 「 問 う。 仏 身・ 仏 土 に は ど のような種類があるか。答え。仏身には三身、仏土には三土がある。三身とは法性身・受 用身・変化身、三土とは法性土・受用土・変化土である。法性身は法性土に居り、受用身 は受用土に、変化身は変化土に居る。 法性身土は真如清浄法界を体性とするので、本来見聞することができないが、仮に身土 を立てるのである。受用身土には自受用・他受用の二種がある。自受用身土は、清浄の智 慧を成就した仏だけが感得することができる。他受用身土は、初地以上の大菩薩のために 仏が平等性智を用いて一分の細相を示現されたものである。変化身土は、地前の菩薩や二 乗凡夫のために仏が成所作智を用いて一分の麁相を示現されたものである。 その中、受用・変化二土の本性について、三つの見方がある。第一に摂事帰真体すなわ ち真如を本性とするという見方、第二に摂相帰心体すなわち如来の浄心の所現であるとい う見方、第三に本末別明体すなわち衆宝荘厳を本性とするとするという見方である。 問う。西方極楽世界は三土の中のどれか。答え。三つの見解がある。第一に他受用土と する立場。仏身の高さが六十万億那由他恒河沙由旬であり、一生補処の菩薩が居り、苦な く楽のみを受けると説かれているからである。第二に変化土とする立場。凡夫が往生する からである。第三に受用・変化二土に通ずるとする立場。一処であるが地前凡夫は変化土 と見、地上は受用土と見るのである。 問う。他受用土に地前凡夫が往生できるとか、変化土に地上聖人が往生するなどと言わ れるのはなぜか。答え。地前凡夫は識心麁劣であるから、本来は受用土を感得することが できないが、阿弥陀仏の本願増上縁力によって、地上菩薩と同じような微妙広大の荘厳を 見ることができる。 『仏地経論』等に、 地上は受用土、 地前は変化土に生ずと説かれるのは、
自力による往生を言う。他力別願の勝縁を考えに入れない立場である。如来の本願力に乗 ずれば、地前凡夫も受用土に生ずることができるのである。 問 う。 で は 地 上 菩 薩 は 本 願 力 に 乗 ず れ ば 自 受 用 土 に 生 ま れ る こ と が で き る の か。 答 え、 自受用土は仏が自ら受用される土であり、本願力によって菩薩に見せようとされることは ない。 問う。自受用土において仏が他の仏を見ることはあるのか。答え。仏には自他の区別が ない。そのような雑多のことについて議論することはやめよう。重要なことは、地前凡夫 も 他 受 用 土 に 生 ず る こ と が で き る と い う こ と で あ る。 『 起 信 論 』 に は、 初 発 心 よ り 菩 薩 究 竟地にいたるまで報身を見ると説かれる。よって地前菩薩も他受用身を見、他受用土に生 ずることができるのである。また、地上の菩薩が変化土に生じて地前凡夫を摂引すること は当然のことである」 (要約)と。 ( 425) 無 量 寿 経 義 疏 上 法 位 ( 古 逸 )、 「 土 は 物 の 感 に 随 ひ、 精 無 く 不 等 に し て、 そ れ 中 空 の 義なるを明かす。三門もって分別す。一に釈名、二に出体、三に諸門分別なり。第一に釈 名とは、浄は穢を離るを義となす。土は居を義となすなり。第二に出体とは、浄土に二種 あり。一に変化土、二に受用土なり。変化浄土のごときは、仏化の神力を増上縁とし、衆 生、感ありて、識上に像の相を顕はして見れば、すなはち衆生の識をもって体となす。受 用浄土のごときは、 二種あり。一には自受用、 二には他受用なり。自受用のごときは、 仏、 三無数劫の所修によって得れば、仏の円鏡智相応の浄識をもって体となす。他受用のごと き は、 ( + 仏?) を も っ て 増 上 縁 と な し、 諸 菩 薩、 感 あ り て、 識 上 に 像 の 相 を 顕 は し て 生 ず れ ば、 す な は ち 諸 菩 薩 の 識 を も っ て 体 と な す。 第 三 に 諸 門 分 別 と は、 六 門 の 分 別 あ り。 一に色相、 二に分量、 三に漏無漏、 四に明因、 五に遊路、 六に乗門なり。第一に色相とは、 もし形色に拠れば、すなはちこれ七宝荘厳、もし顕色に拠れば、放大光明なり。問ふ。そ れ仏の浄土は、すなはち鏡智所依の浄心をもって体となす。しかるに浄心は位覚想に於い て分別す。しかるに心の体は無相なれば、浄土も無相なるべし。しかるに今、有相の荘厳 にしてしかも巧匠の所成にあらずといふ。もしそれ浄心よりすれば、すなはち心に同じく 無相なるべし。もし荘厳の法よりすれば、すなはち巧匠の所成あり。今すでにその二徒よ り せ ざ れ ば、 理 い ず く に か あ る。 答 へ て 曰 く、 仏、 菩 薩 た り し 時、 覚 恵 を 発 し て 加 行 し、 荘厳仏土を誓願するにより、まづ加行誓願力によって、果位の中においては、昔のごとき 戯論の覚恵なしといへども、仏の浄識もってかくのごとく顕現す。天鼓は撃たずしておの づから鳴れども、天鼓鳴ると言ふがごときによる。浄識は心に土を現ずることなきも、浄 識現ずと言ふなり。第二に分量とは、二種あり、一に自利土の分量、二に利他土の分量な り。自利土の分量と言ふは、その量、際なし。法界に 称 かな ひて成ずるがゆゑに。利他土の量 とは、その量、定なし。所化の生の宜に随って現ずるがゆゑに。初地已上は、地同じから ざれば、所現異なるがゆゑに、分量なきにあらざれども、地前の測らざるに望んで、また 無量と言ふところなり。第三に漏無漏とは、これに二種あり。一は如来に約し、二は菩薩 に約す。一に如来に約すと言ふは、それ浄土は三界の愛の執受するところにあらざるがゆ ゑに、 二縛を離るがゆゑに、 異熟増上果にあらざるがゆゑに、 これ無漏なり。問ひて曰く、 もしこれ無漏ならば、 すはなちこれ道諦の摂にして、 すなはちこれ善性なり。いかんが色 ・ 声・香等を用いて体となすことを得ん。十八界の中、十五は有漏、八は無記なるをもって のゆゑに。答へて曰く、今、十八界は漏・無漏に通ずるをもって、皆善性あり。しかるに 二乗の境界に拠って、説いて十八界の中、十五は有漏、八は無記と言ふなり。また浄土は 定心の所変なれば、色等ありといへども、十処相摂に似て、世間五識の得るところにあら ず。法界の所摂なるがゆゑに、これ無漏の善なり。問ひて曰く、もし世間の五識の境にあ らざれば、菩薩の五識の所縁にもあらざるべきなり。答へて曰く、これ自識の変異なりと いへども、しかれども相の麁妙は相似ならざるがゆゑに、彼の五境の摂にあらず。問ひて 曰く、 如来の五識は縁ぜざるべきなり。答へて曰く、 仏の縁は心に則す。これ意識にして、 五識と相似すれば、五識と名づくも、実には五識にあらず。つねに定に在るがゆゑに。問 ひて曰く、如来の五根および色等のごときは、並びにこれ自在の色なれば、すなはち四智 同時用を得ざるの通(=過?)あり。仏の四智はおのおの一識に依るによって、今、五識 を別することなしと言はば、成所作智は意識に依るべし。もししからば、すはなち二智は 一 識 に よ っ て 識 る べ か ら ず、 二 智 は 一 時 依 な ら ば、 す な は ち 四 智 同 時 用 な き の 過 な ら ん。 答へて曰く、如来の意識は、一時に多用あり。何の過あらんや。また如来の身土は甚深微 妙 に し て、 有 に あ ら ず 無 に あ ら ず、 漏 に あ ら ず 無 漏 に あ ら ず、 界・ 入 等 の 所 摂 に あ ら ず。 ただ所宜に随ひ、種々に異説するも、皆これ現ずるなり。問ひて曰く、かくのごとき浄土 は、三界と同一処所たるか、各別たるか。答へていはく、ある説には各別なりと。ある処 に、浄居天上にありと説くものあり、西方等に在りと説くものあればなり。ある説には同 所なりと。法華経の説のごときは、劫火に焼かるる時も我がこの土は安穏なりと。ある説 には、実の受用土は法界に周遍して、処としてあらざるはなし。普く三界を離るとおよび 離れずと説くべからず。ただ所宜に随ひて現じ、或は浄居等に在るなり。第二に菩薩に約 さば、十地の菩薩の自心所変の浄土は、第八識によって変ぜらるる浄土なり。これ有漏の 相分の摂なるがゆゑに、これ有漏身の所依の処なるがゆゑに。十地已還の阿頼耶識はこれ 有漏・無記性の摂なるをもって、所変の浄土も無漏なるを得ず。これ妙の有漏の苦諦の所 摂 な り。 菩 薩、 自 心 中 加 行 の 有 漏 の 浄 土 の 種 子 願 力 の 資 す る が ゆ ゑ に、 浄 土 を 変 生 し て、 中において大乗法楽を受用す。 もって彼の菩薩は、 真如無漏を証すといへども、 七地已来は、
煩悩現起し、乃至十地まで、なほ修断の種子および所知障あり。第八識はよく彼を持つが ゆゑに、現に受薫するがゆゑに、これ苦諦の摂なり。第四に明因とは、仏浄土の因を明か す。本来無分別智・後得無漏善法種子を用い、三無数劫の修をもって増広せしめて、浄土 変化生因となす。各別に因ありて、同処に受用す。皆法界に遍じて、同処相似すれば、名 を説いて共となすなり。第五に遊路とは、二種あり。一に菩薩の遊路は、謂く聞・思・修 の恵を履んで浄土に入るを得るがゆゑに遊路と名づく。二に如来の遊路は、謂く無分別お よび後得智をもって、この二智によって、通じて浄土を生ず。ゆゑに遊路と名づく。第六 に乗門とは、止観をもって所乗となし、三空をもって門となすなり」と。 【現代語訳】法位『無量寿経義疏』巻上に云う、 「浄土の様相は衆生の感応によってまちま ち で あ り、 本 来 固 定 的 実 体 の な い も の で あ る。 三 項 を 設 け て 説 き 明 か そ う。 第 一 に 釈 名、 第二に出体、第三に諸門分別である。 第一に釈名すなわち浄土の意味。浄とは穢を離れるという意味であり、土とは居るとこ ろという意味である。 第二に出体すなわち浄土の本体。浄土に二種ある。変化土と受用土とである。変化浄土 は、仏の不可思議な働きを増上縁とし、それに衆生が感応して、心に浄土の様相を認識す るので、衆生の識を本体とする。受用浄土に二種ある。自受用土と他受用土とである。自 受用浄土は、仏が三無数劫かけて行った修行によって感得するものであるから、仏の大円 鏡智相応の浄識を本体とする。他受用浄土は、仏の働きを増上縁とし、それに諸菩薩が感 応して、心に浄土の様相を認識するので、諸菩薩の識を本体とする。 第三に諸門分別として六項目を設けて浄土を分析する。一に色相、二に分量、三に漏無 漏、四に明因、五に遊路、六に乗門である。 第 一 に 色 相、 す な わ ち 目 に 見 え る す が た。 〈 か た ち 〉 と し て と ら え ら れ る の は 七 宝 の 荘 厳であり、 〈いろ〉としてとらえられるのは放大光明である。 問う。仏の浄土は、大円鏡智を依りどころとする浄心を本体とする。浄心が分別すると いっても、心の本質は無相であるから、浄土も無相であろう。ところが今、荘厳として捉 えることができると言いながら、巧みに形作られたものではないと言う。もし浄心を依り どころとするならば、心と同じく浄土も無相でなければならない。もし荘厳があると言う ならば、巧みに形作られたものでなければならない。どちらでもないと言うのは、道理を 逸している。答え。仏は昔、菩薩だった時、智慧を発して修行し、仏土を荘厳しようと誓 願された。仏果成就の後には、すでに虚妄分別の智慧はないけれども、昔の誓願力によっ て、仏の浄識によって荘厳を顕現されるのである。天上界の太鼓は撃つことなくおのずか ら鳴り響くのであるが、それでも天鼓が鳴ると言う。浄識は心に浄土を示現することはな いが、浄識が示現すると言うのである。 第二に分量に二種がある。自利土の分量と利他土の分量とである。自利土の分量は、際 限がない。法界に等しいあり方をしているからである。利他土の量は、不定である。衆生 の機根に応じて示現されるからである。初地已上の聖者は、その位によって異なる。分量 がないわけではなかが、地前凡夫には測り知ることができないという意味で無量と説かれ る。 第三に漏と無漏の区別に二種がある。如来についてと菩薩についてである。第一に、如 来 に つ い て 述 べ れ ば、 浄 土 は 三 界 の 煩 悩 を 離 れ た 世 界 で あ る か ら、 善 悪 の 果 報 で は な く、 無漏の世界である。 問 う。 無 漏 な ら ば、 浄 土 は 道 諦 に お さ ま り、 善 の 本 性 を 持 つ こ と に な ろ う。 な ぜ 色・ 声・ 香 な ど の 性 質 を 持 つ と 言 う の か。 十 八 界 の 中、 十 五 は 有 漏 で あ り、 八 は 無 記 で あ ろ う。 答 え。 十 八 界 は 漏・ 無 漏 に 通 じ、 み な 善 性 を 持 っ て い る。 十 八 界 の 中、 十 五 は 有 漏、 八は無記と言うのは小乗の説である。また浄土は定心より現れるものだから、色などがあ るといっても、世間の凡夫が五識(眼・耳・鼻・舌・身)によって認識できる色や形の世 界ではない。第六の意識すなわち浄心によってとらえることのできる、無漏の善の世界な のである。 問 う。 世 間 の 凡 夫 が 五 識 に よ っ て 認 識 す る こ と の で き な い 世 界 な ら ば、 菩 薩 の 五 識 に よっても認識できないのではないか。答え。浄土は識のあらわれであるけれども、認識さ れる浄土のすがたは、機根によって麁妙さまざまである。世間の認識とは違っている。 問う。如来の五識は、外からの影響を受けることはないだろう。答え。仏は心すなわち 第六の意識の影響を受けるのである。五識と似ているので五識と言うこともあるが、実は 五識ではない。常に心が定まっているからである。 問う。如来の認識器官とその対象とは、みな意のままになるものである。すると、如来 の四智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)は同時にはたらくことができないと いう過失を生ずることになろう。仏の四智はおのおの一識に依ると言い、また今、五識を 別けることがないと言うならば、成所作智は意識に依ることになろう。そうすると、二智 は一識によって認識することができず、二智は一時にはたらくということになり、四智が 同時にはたらくことがないという過を生ずるのではないか。答え。如来の意識は、一時に 多 く の は た ら き が あ る。 何 の 過 が あ る と い う の か。 ま た 如 来 の 身 土 は 甚 深 微 妙 で あ っ て、 有 で も な く 無 で も な い。 漏 で も な く 無 漏 で も な い。 十 八 界 や 六 入 な ど に は お さ ま ら な い。 衆生の機根に応じて様々に説かれるけれども、みな示現されるのである。 問う。その浄土は、 三界と同一であるか、 別であるか。答え。一説には別であると言う。
浄居天上にあると説く経があり、また西方等にあると説くものがあるからである。一説に は 同 一 で あ る と 言 う。 『 法 華 経 』( 寿 量 品、 『 大 正 蔵 』 九、 四 十 三 頁 下 ) に、 〈 劫 火 に 焼 か れ る時も我がこの国土は安穏である〉と説かれる通りである。また一説には、実の受用土は あらゆる所に偏在し、ない所はないと言う。よって三界を離れるとも離れないとも言えな い。衆生の機根に応じて出現し、また浄居天にあるとも言える。 第二に、菩薩について述べれば、十地の菩薩の心に映し出された浄土は、第八識によっ てあらわされた浄土である。これは有漏の相分に当たり、また有漏身の所依の処だからで ある。十地以下の菩薩の阿頼耶識は、有漏と無記とであるから、所変の浄土も無漏とはな り得ない。これは絶妙の有漏の苦諦におさまる。菩薩は、自心中に加行して、有漏の浄土 の種子に願力を加えることによって浄土を顕現させ、その中で大乗の法楽を享受する。地 上の菩薩は、真如無漏を証するといっても、七地以下の菩薩には、煩悩が出現し、十地に 至るまで、 依然として修行によって断ずべき煩悩の種子があり、 また所知障も残っている。 第八識は、それを維持するのもであるから、また現に薫習を受けるものであるから、やは り苦諦におさまるのである。 第四に明因とは、仏浄土の因を明かす。本来無分別智・後得無漏善法種子を、三無数劫 の修行によって増広して、浄土を顕現する因とする。それぞれの因によって、一つの浄土 を享受する。法界に遍在し、各人が享受する世界が似通っているので、共有の浄土と説か れる。 第五に遊路に二種がある。一に菩薩の遊路は、聞・思・修によって得た智慧によって浄 土に入ることができるので、遊路と呼ばれる。二に如来の遊路は、根本無分別智と後得智 とによって浄土を示現するので、遊路と呼ばれる。 第六に乗門とは、止観の実践を乗り物とし、三空の智慧を入り口として浄土に通入する ことを言う」と。 ( 426) 観 無 量 寿 経 記 興 上 に 云 ふ( 龍 興『 観 経 記 』 巻 上、 古 逸 )、 「 名 と は、 穢 の 所 託 な き の 処を名づけて浄土となす。相業を名となす。浄に二種あり。謂く性と相となり。この二つ を相対して四句を作すべし。一に性浄非相。謂く諸の聖人の後智所顕の穢土等なり。二に 相浄非性。謂く天の七宝、聖者の頼耶および 生 マ マ 還生 変の浄土等なり。三に性相倶浄。謂く 諸の聖者の後智所変の浄土の相等なり。四に性相倶非。謂く諸の有情の惑業の生所、穢土 の物等なり。今、第三の全と第二の分とを名づけて浄土となす。然るに諸の論師の取捨不 同なり。出体門の中にその義自ら顕す。別して三土の名義を釈すること、常のごとし。次 に体を明かさば、論師同じからず。龍軍・堅恵・金剛軍等は皆言ふ、諸仏はただ法性に住 し、別して受用・変化二土なし。ただ往生の輩に二土あるのみ。謂く、仏の悲願を増上縁 となし、 往生の善根を親因縁となして、 生者の識上に浄土の相顕はる。 これ五塵を顕はすも、 その上下および麁妙等に随ひて、二土の体となす。安恵・難陀等の論師言ふ、ただ仏に浄 土あるのみ。生者に浄土なし。謂く、 生者の善根を強増上縁となし、 仏の正道の悲願をもっ て親因縁となして、仏の浄穢の識上に浄土の相顕はる。もし地前のためには、変じて五塵 を作りて化土の体となす。仏、 因を満して得るところの実土のごときは、 受用土の体なり。 諸の往生輩、宜しく生じて用を見るべし。問ふ。仏満因所感の実土をもって、劣のために 顕はすにあらざれば、あに親生を得んや。また自変なくば、何ぞ唯識を成ぜん。答ふ。仏 徳 は な ほ 自 ら の た め に あ る に は あ ら ず。 し か る に 下 の た め に 出 だ し て 変 じ て 化 土 を 作 り、 異生等の輩、仏の勝力を承けてただちに生まる。また何ぞ敢て自ら変ずるを用ひん。地上 の菩薩はすでに真理を見、分けて法身を行じて、仏家に生ずることを得、親しく仏土に生 ず。 用 を 見 る に 傷 な し。 ま た 唯 識 の 大 意 を 立 つ る に 二 あ り。 一 に 外 人 の、 心 外 に 境 あ り、 心ただちに外を縁ずること、火の物を照らすがごとしといふを破せんがために、大乗には 実に外の塵なく、心内の境を縁ずること、鏡の影を顕はすがごときことを建立す。二に外 人の、因より果を生ずるに、その因処を離れて外に別に果を生ずることなしといふを破せ んがために、大乗の薫習の因処は、すなはち因果を生ずること、種の芽を生ずるがごとく なるを成立す。今、浄土に生ずるは、ただ色根に就いては、心の内境を縁じて鏡のごとく なるを妨げず、またただ用を見るに就いては、仏因の果を生ず。自果に関わらず、重因処 を離る。このゆゑに唯(+識?)の義を難ずるべからず。護法・親光等の論師の説は、仏 および衆生に各浄土あり。謂く、もし仏に約さば、自・他受用および変化なり。常のごと く知るべし。もし衆生に約さば、自受用を除く余の二土の中、各彼の変に似て二土の体と なす」と。 【 現 代 語 訳 】 龍 興『 観 経 記 』 巻 上 に 云 う、 「 名 と は、 穢 の 関 与 し な い 処 を 浄 土 と 名 づ け る。 相を得るための業をもって名とする。浄に二種ある。性と相とである。この二つについて 四句分別したい。第一に性は浄で相は浄でない。聖人の後智によって顕わされた穢土など である。第二に相は浄で性は浄でない。天の七宝や聖者の阿頼耶識、および衆生の識転変 の浄土などである。第三に性・相ともに浄。聖者の後得によって変ぜられた浄土の相など で あ る。 四 に 性・ 相 と も に 浄 で な い。 有 情 の 惑 業 に よ っ て 生 ず る 所 の 穢 土 の 物 な ど で あ る。今、第三の全てと第二の一分とを浄土と名づける。ただし諸の論師の見解は様々であ る。次の本質を論ずる項に明かそう。三土の名義については以上である。 次に本質を明かそう。論師の見解は様々である。龍軍・堅慧・金剛軍等は、諸仏はただ 法性に住されるのであり、受用・変化の二土などはない。ただ往生の輩が見る所として二 土があるだけであると言う。仏の悲願を増上縁となし、往生の善根を親因縁として、往生