ヴォー・ル・ヴィコント
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(2) 96. 2. 岩切. 正介. 庭の構成 いま、 庭を城のテラスから 眺めると、 まず刺繍のパルテール. ルテール 面 ( タピ. ( 芝生花壇 ). ( 刺繍花壇 ). があ り、 次に芝生の パ. があ り、 その向こうに、 擁壁のようなバロットが 見え、 次に細長い芝生の 斜. ・ヴェール ) があ って、 その 端と 思えるあ たりに へ ラクレスの像が 見える。. 城から走る中心線は、 まず、 太い砂利敷きの 園路 として出発し、 刺繍のパルテールを 左右にわけ、 園路 中央の円形の 水盤を越え、 次に芝生のパルテールの 中心を通り、 四角い水盤を 越え、 壁型ゲロ ット の中央を越えて、 細長い芝生に 転じ、 へ ラクレスの像に 至る。 これをいくらか 細かく見ると、 芝生のパルテールのなかには、 まず左右に、 卵形の水盤があ. り. その先、 中心 軸 上に四角い水盤があ って、 二者は二等辺三角形をなしている。 また、 その先、 グロ 、ソト の左右には、 上部のテラスに 上る傾斜路や 階段があ る。. 刺繍のパルテールの 左には、 王冠の噴水を 中心にした芝生のパルテールがあ り、 右手には、 花の パルテールがあ り、 二つ全体で、 芝生のパルテールに 対応してⅤ. へ. る。. 城から へ ラクレスの 像 までが、 庭の中心部だが、 この中心部はほぼ、 長方形で、 森に囲まれ、 安 らぎと静かさの 中にあ る。 ヴォー・ ル ・ヴィコントの 庭 という場合、 ふっ. ぅ. は、 中心部と周辺の 森. を合わせたものをさす。 暗黙に、 中心部だけを 庭 ということもあ る。 城から眺める 庭の姿は、 およそこのようなものだが、 いざ 、 庭を中心 軸 に沿って歩いていくと、 それまで、 隠されていたものが、 いくつか見えてくる。 おそらくその 最大のものは、 芝生のパルテ ールの端まで 進むと、 下方に見えてくる 運河であ ろう。 掘り下げられた 運河の水面はかなり 低く 、 運河は、 庭を横断し、 左右に延びている。 全長は 870 メートル、 幅は 35 メートルあ る。 人は、 階段を利用して、 運河の岸に降りることができる。 ここから、 向こう岸の壁型のグロット をいくらか詳細にみることができるが、 運河は、 中央付近で、 グロットに向かって 四角い池のよう な水面を張りⅢさせており、 こちらの岸からは、. グロットまでかなり. 距離があ る。 振り返って 見 る. と 、 背後 (城側 ) の 壁 一面の立派なカスケードが 日に人 る 。 これは ビュ フェ 型 (食器棚の型 ) とい. われる段々滝で、 壁面に作られる 段々滝であ る。 ここでは、 壁面の上部に 噴出口を設け、 そこから、 下の二段の水盤に 向かって順次、 水が落ちていく 縦の段々滝が、 壁面に 20 ほど横に並んでいる。 お. そらく、 このような段々滝は、 間近で眺めるよりも、 いったん運河の 向こう岸に渡り、 たとえば、 グロットの上部のテラスから 眺めると、 全体がよく 兄 えてよいのであ ろ. つ. 。. へ ラクレスの像からの 眺めも、 いざ庭を巡ってはじめて 発見するものであ る。 ここから見ると、 Ⅱ び 運河は魔法のように. 地下に隠れ、 庭は縦横に線の 走る大きな平面にみえ、 その向こうに 城が 兄. える。 城 ばかりではなくて、 城の左右にあ る付属建物も 一体となって、 見事な眺めになる。 城から 兄 ろ 庭は、 中心線が通り、 左右対称が日立つが、 へ ラクレスの像から 見る庭は、 そうではない。 芝 生 、 水面、 刺繍のパルテールなどが、 細かく 苑路に 区切られて、 並び重なる、 均斉のとれた 美の平 面として、 目に入る。 付属建物は、 赤煉瓦と砂岩で 造られ、 内部には、 厩舎、 納屋、 貯蔵 室、 厨房や洗濯 室 、 使用人の. 住まいなどがあ った。 形も色合いも 城と 調和するように 配慮されている。 城は淡い黄色で、 屋根は 黒 に近い濃い灰色をし、 中央と左右の 端で屋根が高くそびえ、 またその端はそれぞれいくらか 前方 へ張り出しているので、 バロック特有の 形なのだが、 フランスらしい 抑制が利いており、 古典主義 的で、 典雅な趣があ る。.
(3) ヴ オー・. ル. 97. ・ヴィコント. 庭を巡る者が、 発見するものは、 他にもあ る。 まず、 刺繍のパルテールの 終わるところに、 横の 園 路 があ. り、 それに沿って 細い運河が、 庭を横断しているのが、 発見される。 その 国 路の左手 (束 ). の 先には、. 「. 大 格子」. (消失 ). の跡があ り、 右手の奥には、 それと照応する 菜園の格子 門 が見える。. 刺繍のパルテールと、 次の芝生のパルテールの 間には、 数段の低い階段があ る。 ここで、 二つの パ ルテールは、 同じ平面にあ るのではないことに、 気づかされる。 また、 芝生のパルテールの 終わり. 近くにあ る四角い水盤は、 城から見たときは、 横長に見えたが、 いざ近づいて 見 ると正方形であ る ことに、 気づく。 城から見たとき、 正方形の水盤とその 先のグロットはあ たかも - 体のように 兄 え たが、 実際には離れていることもわかる。 しかもその間の 距離は 200 メートルであ る。 円形に 兄え た 左右の水盤が、. 実際には、 楕円であ ることもわかる。. また、 正方形の水盤の 左方、 庭の縁沿いに、 石段が左右開きに 作られ、 それに挟まれるよ. う. に、. 中央に建造物があ る。 これは、 「告解室 」と呼ばれるもので、 水のない枯れグロットであ る。 わ段を あ がれば、 グロットの上のテラスに 出られる。 このテラスは 、 庭の横顔を眺める 眺望所であ る。. こ. こから見える、 いわば、 庭の縦断 図 では、 城から、 あ るいは へ ラクレスの像から 兄 たとき、 -% 、. 平面に見えた 庭の、 実際には凹凸あ る姿が、 斜めからではあ るが、 はっきりと見て 取れる。 刺繍の パルテールと 芝生のパルテールの 段差、 また、 掘り下げられた 運河、 さらに、 運河の岸の壁に 作ら れたグロットや 階段と傾斜路、 また、 へ ラクレスの 像へ 至る芝生の傾斜など、 この庭の凹凸の 概要 が 分かる。 ちなみに、 測量によれば、 城の立っテラスと 運河の底の高度差は、 およそ ho メートルで あ る。 へ ラクレスの 像 と運河の高低差もほぼ 同じであ る。 へ ラクレスの像からの 帰り道には、 グロットの上のテラスに 巡らされた石の 下すりが、 あ たかも. 城の手すりのように 見える. (錯視 ). 一点があ ることに気づく 人がいるかもしれない。 また、 運河の. 岸 に降りる時に、 その途中で、 段々 滝 側の壁の階段が、. あ たかも. 城へ 上る階段のように. 兄. える地点. があ る。 やはり、 引き返す途中だが、 芝生のパルテールの 正方形の水盤には、 城の全景が逆さに 写る。. こ. の水盤は水鏡なのであ る。 このことは、 ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 庭では、 庭を歩いてぜひ 発兄. し. てほしいことのひとつになっている。 ちなみに、 正方形の水盤は 、 庭の中間点になっており、 城か 5 500 メートル、 へ ラクレスの像からも 500 メートルの位置にあ る。 王冠の噴水の 水盤も 、 城を写す水鏡になっている。 ここで城は斜めに 映るが、 それは王の宿泊の. ために用意された 部屋が前面にでた 姿であ る。 王冠の噴水は、 金メッキを施され、 その形自体、. ま. た、 噴きだす噴水の 形、 ともにフランスの 王冠を象るもので、 王の部屋とともに、 王への敬意を 表 すものであ った。 ヴォー・ ル ・ヴィコントの 庭は 、 城から眺めて 一望すればきわめて 美しいが、 それだけではなく、. いざ歩いて、 隠されているもの、 また、 密かに仕組まれたものを、 驚きとともに 発見するように 意 図されている。 ヴォー・ ル ・ヴィコントの 庭は、 中心軸の左右だけをみれば、 見事に左右対称だが、 さらにその. 左右を見較べてみれば、 必ずしも左右対称ではない。 刺繍のパルテールの 左右にあ るのは、 左手が 王冠の噴水のパルテールで、 右手にあ るのは、 花のパルテー ル であ る。 この二 つは、 形や面積も異 なるし、 高さも違. う. 。 右手の花のパルテールは、 刺繍のパルテールに 比べて、 わずかだが、 高い。. それに対して、 左手の王冠のパルテールは、 刺繍のパルテールに 対して、 かなり低い。 また、 庭の 点景物、. あ. るいは建造物をみても、 左右で等しくはなく、 全体では、 明らかに左側に 重心があ る。.
(4) 98. 「. 岩切. 大 格子」 ヴ. ォ. -. ( 消失 ) .. ル. ・. 正介. や 、 「告解室 」、 また眺望のテラス、 王冠のパルテールが 左側に置かれている。. ダ イコントの庭は、. 中心 軸 に沿って縦に 見たときは、 きわめて均整のとれた 統 - 性. を見せるが、 横から見たときは、 ィ1<均衡を見せる。 しかし、 その不均衡は、 庭 全体の統一性を 壊さ ないように抑えられている。 縦軸と横軸は、 対立しながら、 補完調和する、 という点で、 いわば 対 位 ま去的に構成されている、 ともいえる '。. 3. 当時の庭一作庭の 過程 ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 当時の姿については、 ル ・ノートルのものとされる. 設計図の他に 、 フ. ケの 依頼でシルヴェストルが 描いた図版シリーズがあ り、 また、 18 世紀に、 順に 庭と 城の持主とな った貴族二家がそれぞれ 描かせた庭の 設計図が、 二枚 づつ 、 合計四枚あ り、 庭の歴史的再現の 手 助 けになっている。 また、 文書資料として、 詳細な検察調書と フケ の「抗弁書」があ り、 作業の詳細 がわかる。 これまでの研究で 明らかになった ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 造園の過程とできあ がった 庭の姿は 、 次のようなものであ る。 なお、 この庭は 、 城と 一体の計画のなかで 造られたので、 庭を 語る時には、 城も語られる '。. Ⅰ・ 1. シルヴェストルの 版画 城からの眺め. 1658 年頃.
(5) ヴ オー・ ル ・ヴィコント. 2. 3. 99. 城から庭を見る. シルヴェストルの 版画. 平面図. 1658 年頃.
(6) 100. 岩切. 正介. *@. ヤ:. 4. ル ・ノートルのものとされる. 5. シルヴェストルの 版画. 6. 水の路. 設計図. 人格子. プレルの版画. 1658 ハ 659. 1658 年頃. 1665 年頃.
(7) ヴォー・ ル ・ヴィコント Ⅰ. 7. 8. シルヴ. エ. ストルの版画. シルヴェストルの 版画. グロット. 1658 年頃. 段々 瀧. 9. 1660 年頃. 町 神 アンキル. 蕊. 10. へ ラクレス像からの 眺め. 01. と グロット. 1888 年頃.
(8) 102. 岩切. 正介. 上に 11 現状平面図. 123456789@12345. 居城. 円地. 本格子 野菜園の表門 野菜園 ダ リ ユ. ド甘一. 1l1Il1ll1122. /h、 カナル. トリトンの泉水 鏡池 @ 告解 室. コン. ノスンヨヰ .. 67@901. カスケード. 大 カナル. 2. へ ラクレス像. 11. 現状平面図. ル ・ノートルの 処女作. ブルジョ. ヮ. 出身の フケ が. ヴォ. 一の地所を得たのは、 1641 年、 パリ請願 院 委員の地位にあ ったとき. であ る。 地所にあ ったのは、 小さな水城 のサン・マンデに 館と 庭があ ったが、. と庭. 、 村、 ニ,ニの田舎家であ った。 フケ には、 パリ市内. ヴォー・ ル. ・ヴィコントを 自分の主たる 居館として、 歴史に. 残るものを作る、 という意気込みで 造営に臨んだ。 フケ は、 建築家の ル. ・. ヴオ二. ル ・ブラ ズ 庭師のノートルを 起用した。 ル ・ブランはローマから 呼ばれ、 ル. ・. 画家・装飾 家の ヴ オ ーは 、 かつて. シモン・ ヴ の絵画工房で 学んだ仲間の ル ・ノートルを フケ に推挙した。. フランスでは、 ルネサンス 期 以降、 建築家が庭の 設計をしてきた。. ヴォ 一で、. 初めて庭の設計が. 庭師に委ねられた。 なお、 後のヴェルサイユ 宮殿の庭を始め、 王族や貴族のフランス 幾何学 式 庭園 も、 設計は か ・ノートルに 委ねられるが、 これは例外で、. ルイ 1 4. 世の時代もその 後も、 庭は建築.
(9) ヴ オー・ ル ・ヴィコント. 家が設計し、 庭師は、 庭の施工. (植物の入手、. 103. 運搬、 植え付けなど ) を引き受けるのが 通例であ っ. た。 有名な庭師でも、 せいぜい刺繍花壇の 設計を任される 程度で、 建築家の地位に 比べて低い地位 に 置かれていたから、. 庭師の息子たちの 多くは、 建築家を日指した。. ル ・ノートルが 庭の設計を依頼されたのは、 1653 年、 フケ が財務総監に 任命された直後であ った。 ル. ・. /. 一 トルはこのとき 4 0 歳であ った。 ル. ・. /. トルは 、 シモン・ ヴ の絵画工房で、 絵画、 遠近. 一. 法、 幾何学、 建築、 彫刻、 版画などを学んだ 後、 チュ. イ. ルリ一の主席庭師であ った父の跡をついで、. チユノ ルリ一の庭の 管理に当たる 一方で、 庭師としてはいくつか 小さな地方の 庭の改修を扱った。 ヴオ. 一のような大きな 庭を作るのは、 初めてであ った。 ヴォーは、 いわば ル ・ノートルの 処女作で. あ る。 小さな水城には、 二つのパルテールの 庭があ った。 中央に大きなパルデール、 束 の 王冠のパルテールの 部分、 西. (右 ). (左 ). に、 現任. に、 現在の花のパルテールにあ たるも㈲、 であ る。. ル ・ノートルは、 まず、 この部分の作り 替えに着手した ,。. 刺繍のパルテール パルテールの 作り替えで、 もっとも重要なのは、 中央のパルテールであ る。 ル ・ノートルが 作っ. たのは、 当時ふ. つぅ. 見られた、. 四 つ 割で中央に噴水や. 彫刻をおくパルテール. ( 正方形または. 長方形 ). ではなく、 中心線で二分割 t れた縦長で、 左右対称のパルテールであ った。 ル ・ノートルはその 細 長いパルテールの 手前と奥に円形の 水盤を 、 二つ、 くさび型. れは奥行きを 強調するためであ った。 ル ・ノートルが. ヴォ. (細長い二等辺,角形). に置いた。 こ. 一で作ったこの 画期的な刺繍のバルデー. か は 、 僅かだが 園路 より低く作られ、 いくらか見下ろすよさに、 つまり沈床固めように 作られた。 パルテー ル内部の模様は 、 ツゲ で描いた優美な 曲線と渦巻きであ った。 植物文様あ るいは アラべ. スク文様といわれる。 模様の一部には、 芝生と花が使われ、 砂地は黄色で、 一部にごくわずか、 石 炭の粉が使われ、 そこは対照的に 黒色であ った。 刺繍のパルテールは、 フランスで生まれたもので、 1582 年、 イタリア帰りの 建築家デュ・ ぺ ラッ クがはじめて 考案し、 庭師の ジ ヤック・モ に 施工させて誕生した。 あ った。. ノ ( 息子クロード・モ ノ ニクロード 1. 誕生の地は、 パリ西方のアネ 城. アネ城は、 アンリ二世の 愛人として有名な. ホタ. ( なお、. は助手であ った。 ). 地元のひとはアネットと 呼ぶ ) で. チェ公爵夫人が 住んだ城であ る。. 以後、 この刺繍のパルテールは、 庭作りでもっとも 重視され、 城のすぐ裏 に左右対称に 作って、 城から眺めるもの. ( ド. ・セレ、 1600) と理解された。 少なくとも、 高いところから 眺めるもの. (ボ. ヮソ 、 1638) というのが共通認識であ った。 刺繍のパルテールは、 建築家や庭師の 腕の見せ所で、. 建築家が素案を 作り、 庭師が複雑で、 しかし均整のとれた 装飾をほどこした。 升目の用紙に 描かれ た 意匠 は 、 庭に升目を施し、 慎重に移された。 刺繍のパルテールの 意匠 は、 モレ 家 歴代の庭師 ロードⅠ 一 アンドレークロードⅡ. ). 刺繍のパルテールは、 クロード. のもので、 ボワ. 1. が発展させた。. ド. ・セレの 木. ソ の造園. T 農業図鑑』. (ク. (1600)に載っている. 書ニ 自然と芸術の 原理に従った 庭作り. (1638、 死後出版 ) に掲載されている 刺繍のパルテールは、 クロード. 1. コ. の息子アンドレが 考案したも. のだとされる。. 後世、 刺繍のパルテールとは、 城の前に敷かれた 絨毯で、 城内の優美と 賛 沢の延長であ る、. とい. った 解釈も施される。 なお、 ル ・ノートル自身は、 この刺繍のパルテールにたいして、 次第に冷淡になり、 晩年には、.
(10) 104. 岩切. 「古くさい」「やたらと ある). 正介. 褒めるものではない」と 語った。. チュ イ. ルリ一の刺繍のパルテール. ( 自作で. について「刺繍のパルテールは、 子供から離れられない 乳母たちが、 二階の窓から 眺め 楽し ( サン・シモンが. むもの」. 伝える. ). といった。. ・ノートルがそれに 代わって作っていくのは、. ル. 水と. 芝生の簡素なパルテールであ る。 フランス幾何学 弍 庭園でも、 これがやがて 主流になるのだから、 ル. ・. /. 一. トルは先取りしていた、. ともいえる。. ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 庭において、 ル ・ノートルは、 刺繍のパルテールの 右手に 、 花の パル. テールを作った。 中心から外し、 右手に寄せた 位置につくったのは、 ひとつに、 それがフランスの 庭作りの伝統だったからであ る。 ふつ ぅ、 花のパルテールは 脇役で、 中心線上に置かない。 そのこ とは、 アンドレ・モ 花 を使. う. ノ. も造園 書. 『. 愉 しみの 庭. 』. (1651 年 ) で述べている。 ル ・ノートル自身、 庭に. ことを好まなかった。 季節に滅びる 花でなく、 水、 樹 、 石など、 不変の材料で 庭を造るこ. とを好んだ。 ル ・ノートルには、 花は女性の世界のもの、 という考えもあ ったとされる。 たとえば、 トリアノンならふさわしい、 というような。 陶器のトリアノンはモンテスパン 夫人のため、 また 大 トリアノンはマントノン 夫人のために 建てられ、 花の色彩と香りが 豊かであ った。 ルイ. 1. 4 世は 、. 花を好んだ。 ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 庭に 、 花のパルテー ルが 作られたのは、 施主 フケ が 花 好き. の収集家であ ったことが大きいのかもしれない。 刺繍のパルテールの 左手に作られたのが、 王冠のパルテールであ る。 これは刺繍のパルテールと 平行する. (縦の ). 方向に作られておらず、 横向きに作られている。 横に走る太い 園路が 芝生を左右. にわけ、 王冠の噴水を 抱くおおきな 卵型の水盤に 至る。 水盤の向こうでは、 水盤の曲線にあ れせて、 生け垣と樹木が、 いわぬ るェクセドラ. ( 円弧の凹み ). に作られている。. この王冠のパルテールでも、 大きな水盤を 頂点にして、 手前にふたつ、 小さな水盤が 飾りに置か れ、 二つの水盤は、 全体で二等辺三角形をなしていた。 ル ・ノートルの 好んだ配置法であ る。 王冠の噴水では、 細かなことだが、 太 い園 路で左右に分けられた 二つの芝生面のうち、 右の芝生 面の幅が い くらか広 い 。 つまり、 芝生は左右で、 大きさがちが い 、 厳密には左右対称ではない。 う. こ. なった原因は 、 ル ・ノートルが、 中央の刺繍花壇をいくらか 先に延ばして 元の庭にあ ったパルテ. ールより長くしたので、 王冠の噴水をそれに 合わせたからであ った。 全体の庭でもそうだが、 王冠 の パルテールでも、. このような細部の 不規則は全体の 均整を壊さない。 ちなみに、 右手の花のパル. テールも 、 先にすこし延ばされ、 わずかに不均衡であ る。. 城の全面的な 修築は、 1656 年に始められた。 芝生のパルテール. 庭の第二の部分. ( 南への拡張になる ). の着工もこの 年 (1656) に始められ、 翌年までに、 運河に. モる 広い芝生のパルテールが 作られた。 運河は、 アンキル川を 利用して作る 計画であ った。 アン キ. ル 川はやや深い 谷を流れていたので、 川岸の斜面は 水平になるまで 十で埋められ、 川岸に芝生のパ ルテールを支える 高い石壁が作られた。. 芝生のパルテールは、 アンドレ・モ. ノ の指南でも、. 刺繍のパルテールの 次に置くもの (1620年代 ). とされた。 ル ・ノートルもそれに 従ったのであ ろう。 芝生のパルテールの 中心には、 ふつ. ぅ. 、 水盤. が 置かれる。 それに対し、 ヴォー・ ル ・ヴィコントでは、 手前左右にふた っ の卵形の水盤、 その先、. 中心線上に正方形の 水盤が、 全体で二等辺三角形をなす ・が. 配 された点にも、 新しさがあ る。 正方形の水盤は 約. よう. 6 2. に置かれた。 この. ょう. に相当店 ぃ 水面. メートル四方で、 これが城を写す 水鏡と.
(11) ヴ オー・ ル ・ヴィコント. Ⅰ. 05. されていた点も 斬新であ った。 水鏡は 、 ル ・ノートルの 発明で、 単なる水のパルテールとは 性格が. 異なる。 この芝生のパルテールのなによりの 特徴は 、 ル ・ノートルが 意図して、 視覚修正を計った 点にあ. る。 人間の目には、 奥行き方向が 縮んで見える。 正確には、 (水平面では ) 遠方ほど、 より短縮して みえる。 正方形の水盤は、 城から見ると 横長の長方形にみえ、 卵型の水盤は、 円形に見える。 城か ら見て、 このように実際よりも 縮んだ姿が、 釣り合いも良く、 もっとも美しく 見えるよ. う. に、 設計. されている。 遠くの正方形の 水盤は、 手前の二つの 卵型の水盤の 8 倍あ り、 この間の距離は 220 ートルあ るが、 決してそのように 第一の部分. ( 間延びして ). ( 刺繍のパルテールなどがあ. メ. 見えない。. るところ. ). と第二の部分. (芝生のパルテール ). ㈹間には. 円形の水盤があ る。 この円い水盤は、 中心線上に位置している。 芝生のパルテールの 短縮された 眺 めには、 おのずとこの 円い水盤も加えられる。 す な れ ち 、 城からみれば、 中心 軸 には、 まず横長楕 円に見える水盤があ り、 その 次 、 左右に円形の 水盤、 最後に横長の 長方形の水盤がみえ、 4 つの水. 盤が 菱形をなして、 きわめて均斉のとれた 姿で眺められる。 なおまた、 刺繍のパルテールと 芝生のパルテールの 大きさを比べると、 1 対 3 になっている。 こ のような実際の 不均衡が 、 城から 見 ると、 視覚修正されて、 理想の均衡になる。. 視覚修正 ル ・ノートルがこのような. 視覚修正を考えた 背景はいく っ かあ る、 とされる. ". 並木道をわずかだが 末広がりにつくって、 実際よりも長く 見せるとよい、 としたのは、 ボヮソ (1638) であ る。 ボヮソ は、 庭は幾何学図形のパルテールを 調和よく配置して 作るもの、 と教えた が、 それは設計図の 上のことで、 実際に作った 庭が目にどう 映るかは、 考えなかった。 ちなみに、 ボワソ が庭作りの基礎として 重視したのは、 幾何学と遠近法であ った。 また、 アンドレ・モ く. ノ は、. 庭師への助言として、 遠くのパルテールは 近くのパルテールより 大き. 作って、 釣り合いをとる 必要があ る、 と述べ、 いくつか実例を 著書で図示した (1651)。. 線 遠近法は、 ルネサンスの 絵画で確立され、 実際の姿を正確に 写し取るものとされ、 また、 実際 の 視覚 と 一致するもの、 とされたが、 バロックの時代になると、 庭のような大きな 空間では、 かな. らずしもそうではない、 とされるよ. う. になった。 また、 人間の視覚そのものへの 疑問も生まれた. (デ. カルト ) 。 線 遠近法を遵守する、 という姿勢はすでに 揺らいでいた。 その一方、 絵画の世界では、 ちょうど、 歪像 表現が人々の 関心を誘い、 よく議論された。. の聖 トリニタ・デイ・モンティ. ローマ. 修道院の長い 廊下の壁に描かれた 聖フランチェスコ・ディ・パウロ. は、 歪像 表現の代表例 (1642)で、 廊下の端から 見ると、 人物像にみえるが、 正面からでは、 ただ 横 に 引き延ばされた 不可解な絵に 見える。 パリでも、 ヴ オ ー ジュ広場の聖パウロ 修道会に、 幸俊表現. によるフレスコ 画が描かれていた。 これを描いた 修道士のニスロンは、 理論書 (1638) も書いてお り. 、 そこでは、 聖人のほかに 風景も図解されていた。 ル ・ノートルは、 ニスロンの絵も 理論書も知. っており、 そこから造園上の 示唆を受けたと 推定されている。 歪像 表現では、 ハンス・ホルバイン の. 「使者たち」. (1533)の絵の下辺にさりげなく 描かれた骸骨がよく 知られていた。. ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 庭では、 庭の向こう端に 立っ へ ラクレス像も 、 城からみて、 庭の大き さと釣り合う 高さで作られている。 実際の高さは 台座が 5 メートル、 像の高さが 6.5 メートルであ る。. これは 20 世紀の復元によって、 当初の案通りに 建てられた。.
(12) 106. 岩切. ヴォー・ ル. ・. 正介. ダ イコントの庭は、 このような視覚修正を 徹底させた 庭 としても、 画期的であ った。. 視覚修正は、 フランス幾何学 式 庭園の特徴として、 その後、 ヴェルサイユの 庭 や シヤンティイの 庭 でも、 適用される 4。. イタリア・ルネサンスの 庭が、 幾何学の基本図形であ る円と正方形で 構成され、 それが理想の 均 吝を表現する、 とされていたことからみれば、 おおきな 違 いがここで生まれた。 大 格子 刺繍のパルテールと 芝生のパルテールの 間には、横方向に 園路 が走っていた。 その 国 路の東端 (左 ) に 作られたのが、有名な大格子 1 1. 本の水柱. (噴水 ). grilled,eau であ った。 これは、幅広い階段の 上部に作られており、. が並んで立つことから、 大格子の名が 付けられた。 11 本の水柱の左右には、. それぞれ境界 神 が立っていた。 水柱の下部の 石壁にも水の 噴き出し口が 並んでいた。. 水 格子から. 透. けて見えるのは 芝生の斜面であ った。 大 格子の左右は 階段であ る。 大 格子へ至る階段の 左右に 、 横 に 長い二段の段々滝が. 第二段. (最下段 ). 作ってあ り、第一段と第二段の 壁面で 12 の,怪人面から水が吐き出されていた。. はさらにいくらか 横幅があ り、 14 の怪人面から 水が吐き出されていた。. この水格子の 反対側. (西 ). にあ り、 これと向かい 合っていたのが、 菜園の格子 門 で、 格子の扉の. 左右に国字 が 置かれるという 立派な作りであ った。 この菜園は、 後に、 ヴェルサイユの 菜園を任さ れるう・カンティニが 作った。 フランス幾何学 式 庭園では、 庭と菜園は分離され、 菜園は庭から 見 えないところに 隠される。 ヴ オー・ ル ・ヴィコントでも、 この原則がとられているが、 これは、 ル. ・. ノートルの創案ではない。 ル ・ノートルに 先立って 、 ボヮソ は 、 楽しみの 庭 jardindepla 玉lr と実 用の庭 jardinu Ⅲ e を切り離すことを 説いた (1638L。 菜園は、 いったん庭から 切り離されると、 そ. れまで持っていた 芸術的な装飾性を 失. う. のが一般だった。 庭と 菜園が同居していた 時期. (ルネサン. ス期 ) のもっとも装飾性の 高い菜園は 、 ロワール渓谷に 作られたヴィランドリの 庭 (現存 ) であ る。. 永 の略 永 の 略 alled,eau も、 ヴォ一の洗練として 称えられたものであ る。 これは、 庭の中心 軸が 、 芝生 の パルテールを 通るところに 作られた。 正方形の水盤の 手前、 ちょうど楕円形の 水盤が左右に 並ぶ あ たりであ る。. 路の左右に水柱が 並んだ。 長くはないが、 しかし美しい、 涼味のあ る水晶のような. 水の並木路だった、 といわれる。 水の柱は左右で、 それぞれ 10 本であ ったが、 始点と終点では、 外 側に 90 度折れていたから、 園 路の縁に並ぶ 水の柱は、 それぞれ 8 本であ った。 運河 ヴィコントの 運河は 、 深く掘り下げられているのが、 特徴であ る。 運河は、 アンキル川を 利用し て 作られた " り. アンキル川が、 運河に転換するところ. (束 、 あ るいは. た). は、. 大きな円形になって. お. 、 船遊びをするとき、 方向転換を容易にするためだった、 とされる。 フランスのルネサンス 期の. 庭も運河を持つことが 多かったが、 まだ短く 、 細いものであ った。 庭の規模がまだ 大きくなかった こともあ るが、 ルネサンス期の 庭の運河は 、 城の水壕を利用・. 転換したものや 湿地の排水路であ っ. たからであ る。 運河が装飾的な 意味合いを強くし、 長くなるのは、 17 世紀に入ってからで、 それが 最初に作られるのは、 フォンテーヌ プ ロ一に近いフル に、. こ ㈹長大な運河は、. り. ・アン,ビエール城においてであ る。 すぐ. アンリ 四 世のフオンテーヌ プ ロ一の庭に導入され、 ルイ 13 世の宰相リシュ.
(13) ヴ オー・. リューがロワール 河畔に作った 庭. ル. ・ヴィコント. Ⅰ. ( 同名でリシュリューといった ). 07. でも、 長い運河が使われた。 運. 河は庭園の広大化に 伴い、 以後、 おおむね長大になる。 庭に運河が出現したのは、 当時フランスで 進められていた 運河の整備. (インフラ ). の反映だ、 との指摘もあ. る '。. グロット グロット全体の 設計は か ・ノートルが 行い、 彫像は か ・ブランが素案を 描いた。 フランスで作ら. れた従来のグロットは、壁面にアーケードを 設け、その奥に洞窟室を 作るという形のものであ った。 ヴォー・ ル ・ヴィコントのバロットは 壁面を浅く利用したもので、 壁面の造形のように 見える。 八. 体の境界 神. (神の胸像を f 毛の上に乗せたもの ). を 浅 浮き彫りのように. 壁面に並べ、 その間に浅いア. ーチ型の凹みを 作って、 そこに石灰石が 流れ落ちるような 二月の小山が 納めてあ る。 小山の表面に は 水が流れていた。. 小山は単なる 石の集積なのか、 具体的になにかを 表しているのか、 だれにもは. っきりしなかったが、 数個は、 怪物、. あ るいはなにか 動物、. とされた。 境界 神 もこの浅いアーチ 型. の 凹みも、 作りは荒く素朴、 田舎風であ る。 境界神は、 それぞれ、 石壁と同じように. (それなりに. 形を作った ) 石を積み上げて 作ってあ り、 ほぼ、 石壁の縦横の 線に連続している。 したがって 、 グ ロットの壁面の 全体は、 網目が入っているようにみえる。 八体の境界 神 が並ぶ中心部の 左右の端には、 壁面に大きな 凹み. ( グロット ). があ り、 それぞれに. おおきな河神が 寝そべっている。 右手の河神は、 ローマを流れるティベルの 河神で、 憂諺 な表情を し、. 左手の 7nⅠ神は、 アンキル川で、 明るい表情をしている。. このグロットは、 とくに姿形の 見定めがたいアーチ 型の壁寵の中の 造形 物 う. (小山 ). に見られるよ. に、 人手に負えない、 自然の荒々しい 諸力 を表す場であ ったのかもしれない。 しかし全体では、. 文明の秩序に 組み込まれ形にまとめられている。 自然を秩序化する、 格 でもあ ったからであ ろう。 グロ,ット の周辺. ( 後述 ). とは庭作りの 作業そのもの ,性. は、 一見要塞のような、 複雑だがよく 整った. 文明と人工の 世界であ る。 グロットの手双には、 運河から切り 離された細長い 水面が設けられていた。 さらに運河の 岸が コ. の字に切れ込んできて、 広い四角い水面. (幅. 80 メートル、 奥行き 70 メートル. ). になっている。. そ. の 四角い水面には、 海神ネプチューンの 噴水を置く計画であ ったが、 実現に至らなかった。 実現さ. れれば、 ここに、 O)ll の他に ) 海が表現されたであ ろう。 このグロットは 、 城からみると、 (運河や四角い 水面などは地下に 隠れて見えず ) 、 ちょうどその 下端までが見え、 それがあ たかも芝生のパルテールの 上に乗って、 芝生のパルテールより 高い位置 にあ るかのように 見えるが、 これは仕組まれた 錯視であ る。 また、 このグロットは 、 へ ラクレスの. 立つ斜面を支える 石壁のようにも 見える。 したがって、 中心 軸が 走っていくのを 妨げない。 これも 計算されていたことであ った。 傾斜路 グロットを間近に 見た訪問者は、 左右の階段か 傾斜路を利用して 上部のテラスにあ がる。 このあ たりの作りは、 先述のように、 複雑な立体で、 要塞に似ている。 ここには、 要塞を作る技術が 使わ れた、 とされる 6。 造形的には要塞に 似ているが、 生け垣や円錐形のイチイなどの 様で、 その印象を 和らげている。 傾斜路の入り. ロ には、. 四大陸. ( ヨーロッパ、. アメリカ、 アジア、 アプリカ. ). を表す像が置かれる.
(14) 108. 岩切. 正介. 予定であ った。 傾斜路は左右にあ るから、 その入り口の 左右に像を配すれば、 ちょうど四体になる。 各大陸を表す 像は、 それぞれすばらしい 産物を手にして、 「全世界がこの 庭を飾るのに 協力する」を 表すつもりであ ったという。 この案は、 当時、 実現に至らなかった。 なお、 この傾斜路は、 ヴォ一 では、 直線だが、 ヴェルサイユの 庭では馬蹄形. ( ラトナの噴水とパルテール ). で、 チュ イル. リ. 一の. でも馬蹄形であ る。 段々 滝 ヴォー・ ル ・ヴィコントの 段々滝は 、 城からは見えず、 庭を歩いて行く 者に発見されて、 驚きを 与え、 評判も高かったが、 段々 潰 そのものは、 フランスの庭では、 ドレ・モ. ノ が庭になくてはならないとしたものの. フランスの段々滝では、 イタリア出身の. ゴ ンディ. のがあ る。 これは、 セーヌ川に臨む 丘の斜面. (オ. 脇役であ った。 段々滝は、 アン. 内に入っていない (1620 年代 ) 。 ヴォ 一に先立つ. 家 ・. (銀行家 ) ド. ・セーヌ. が、 別荘サン・クル 一に作らせたも ). に作られた大きくて 凝った作りの. 段々滝で、 中央にやや幅のひろい 石段型の段々滝をおき、 左右に 、 長さも趣向も 異なるそれぞれ. 7. 本の段々滝を 対称的に並べたものであ る。 なかには、 水盤と噴水を 斜面に縦にいくつか 並べたよう なものもあ った。 このような合計で 15 本の力動的な 縦縞からなる 段々滝の下に、 また、 全体が円形 に 収められた第二の 段々滝があ って 、 水はそこで躍ってから、 下の長方形の 池に人 る 。 池のところ. からは、 見上げるような 壮観であ り、 驚きの段々滝であ った。. あ まりに複雑で 精妙にできていたの. で、 人はみてすぐに、 作りを理解し、 詳細を記憶にとどめることは、 不可能だったであ ろう。 クル一の段々滝は、 を 作ったのは、. ヴオ. サン・. 一の段々滝のモデルになったのではないか、 と推定されている。 上段の滝. フランスの建築家 ル ・ポートルで、 下段の滝を付け 加えたのは、 フランスの建築家. マンサールであ る。. 段々滝の先例としては、 リアンクール. (パリ近郊オワーズ ). の段々滝も有名であ った。 これは、. 上下二段の刺繍のパルテールをつなぐもので、 高さはあ まりないが、 幅があ り、 縦二段に並ぶ「 噴 水キ水盤」が 横に 2 2 並んでいた。 リシュリューが 作った りユエイユ. (オ. ・. ド. ・セーヌ. ). の庭には、. 高くて幅も広い 石段を水が滑り 落ちる形の段々滝が 作られた。 石段のあ ちらこちらに、 水盤と噴水 が 配され、 段々滝を華麗にしていた。 ヴオ. 一の段々滝は、 壁面に作られているが、 壁は平面ではなく、 仕切 壁 で細かく縦に 区切られ、. 縦一組の段々滝がひとつずつ、 その仕切の中に 入っていた。 全体の作りは、 整然とし端正で、 いわ ゆる古典様式の 範時に入る。 へ ラクレス 像. へ ラクレス像は、 オリジナルに 造る計画ではなく、 ローマのファルネーゼ 家のもっ へ ラクレス 像 を モデルに計画された。. 彫刻家に依頼して、 石膏 像が 造られ、 支払いも済んでいたが、 フケ の逮捕. によって 、 庭に立てる像の 製作までは至らなかった。 台座には、 へ ラクレスの 1 2 の偉業が浅浮き 彫りで刻まれる 予定であ った。 へ ラクレス像に 託された意味をさぐる 手がかりになるのは、 城の「 へ ラクレスの間」に ル ・ブランが描いた 天井画であ る。 馬車に乗る へ ラクレスが、 一頭の桿馬を 制し. ながら、 月桂樹の冠を 受ける場面であ る。 偉業を果たしたために 英雄へ う ククレスが死後神とされ る「 へ ラクレスの神化」の 場面であ る。 ちなみに、 ギリシャ神話で 英雄は、 人間と神の合いの 子で あ る。 桿 馬は情熱で、 へ ラクレスは理性を 象徴しており、 この図柄は、. 理性の勝利を 意味している、.
(15) ヴ オー・. ル. ・ヴィコント. Ⅰ. 09. とされる。 当然、 へ ラクレスは七人の フケ を表している。 自然を征する 文明の道案内人、 という意 味合いが フケ に与えられる。 このような寓意表現の 背景にあ るのは、 ルネサンス以来の 文明と自然 という思考の 七題であ る。 ローマのルネサンス 期の庭を代表する エ ステ北やランテ 荘では、 文明と 自然 art and nature という ギ 題が盛り込まれている。 自然を征服・ 統御する人工. はなく、 自然から用と 美を引き出す 人工. ( 当時の文明 ). であ る。. ヴオ. (現代文明 ). で. 一の城の天井画は、 これとは. 異なり、 秩序という人間の 原理に従って 自然を治めた、 という へ ラクレス. ( フケ ). への賛辞が表現. されているのではないか、 とされる。 すると、 ここでは、 自然から用を 引き出す、 から、 自然を治 める、 へ伺 って、 自然・人間の 関係が一歩進んでいる。 スキュデリ嬢は、 (計画通りへラクレスの 像 が 立てられた様子を 想像して ) 、 庭の端に立っ へ ラクレス. ( フケ ). は、 自分の成し遂げた 偉業を静か. に 見下ろしているのだ、 と語っている。 スキュデリ嬢は、 自然も美しいものを 作り出すが、 ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 素晴らしさは、 人 間 が作り出したものだ、 と賛美する。. ラ. ・フォンテーヌは、 ヴォ一の庭の 美しさは、 この世ならぬ. 魔法の世界のもの、 といった。 ル ・ノートルの 庭を、 自然の征服の 産物といえば、 言い過ぎであ ろう。 自然は巧みに 利用され、. 生かされ、 対話 りな関係にあ る、 とするほうが 正確であ ろう。 丘は城の立っテラスになり、 斜面や 由. 凹凸は均されて 見事な平面になり、 川は運河になった。 できあ がった庭の墓 礎に 、 自然の地形があ. る。 庭には、 水鏡が作られ、 城の他に、 空の雲を映し、 吹く風は水紋になった。 おそらく運河も 同 様であ ろう。 運河は船遊びをして、 水と戯れる場所であ った。 そこでは、 そして ヴォ 一には、 森があ った。 濃い森の緑と 木陰にはつよく. 鯉と. 戯れることもできた。. 自然が感じられる。 シルヴェストル. の 版画でも、 森の木陰に憩い、 庭を見下ろしている 人々の姿が描かれている。 日盛りには、 陽の当 る 庭に出ず 、. 森を通る路を 通って 、 へ ラクレスの 像 まで行くことができた。. 森と ボス ケ ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 庭を囲み、 かつ運河の向こうに 広がる森は 、 フケ が多額の資金を 投入 して 裸地に 樹木を植えて 作り出したものであ る。 はじめにパルテールを 囲む 森 、 ついで運河の 向こ う. に森が作り出された。 森を作ったのは、 庭を閉じた空間にするためであ る。 しかし、 完全に閉じ. るのではなく、 森の中に並木路. な、. 縦、 横、 また斜めに走らせた。 こうして、 そこに、 視線が通り、. 光 が通り、 庭に広がりと 奥行きが与えられた。 先に述べたよ. う. に、 夏、 涼しい森の中の 路だけを た. どって 、 城から へ ラクレスの像のところへ 行くことができた。 森の中の並木路は 歩く、 あ るいは 馬. 車で通るところであ った。 森の中に通された 並木 路. (あ. るいは 園路 ) で、 注目すべきものは、 やはり中心線であ る。 森の中. を走る中心線は 、 庭を走ってきた 中心線を引き 継ぎ 、 森の先、 門まで通じていた。 このような中心. 軸は 、 やがて、 理論上は地平線の 彼方に通じ、 無限を構造化したもの、 と理解されるようになり、 ヴェルサイユの 庭では、 太陽 王. (ルイ. 14 世 ) の無限の支配を 表すものとして 使われる。 また、 ヴオ. 一の森の中心線には、 いわゆる「ガチョウの 放射路を出す 円形広場. (. 「. 星. 」. ). 足 」と呼ばれる. 三叉路がニカ 所にあ り、 また、 6 本の. がひとつあ った。 特に、 三叉路がひとつ、 へ ラクレスの像の 立つと. ころに作られているのが、 後に述べるよ. う. に重要なことであ った。. なお、 「ガチョウの 足 」は、 半円から 園路が 3 本、 前方と左右斜め 前方に、 二木の月のように 放射.
(16) 110. 岩切. するのが、 一般的で、. 「. 正介. 星 」では円形広場から 園路が 、 あ たかも星の元のように 四周に向かって 放射. される。 17 世紀のフランス 幾何学人庭園の「 星 」では、 6 本程度のものが 多いが、 後には、 これを 応用した庭園 ヴ オー・. ( 主に外国 ). では、 12 木の園 路 が放射するようなものも 作られるようになる。. ル ・ヴィコントの 庭では、. 「ガチョウの 足 」は他の場所にも、 作られている。 城から見て. で、 花のパルテールの 縁から背後の 森にむかって 放射するものと、 同じく右手. 右手 ( 西 ). (酉 ). で、. 芝生のパルテールの 縁からやはり 背後の森に向かって 放射するものがあ る。 花. ・. ホ. ・. 水. ル ・ノートルが 花を好まなかったことは 先に述べた。 樹木をみると、 た現在でもそうだが、 西洋イチイを 円錐あ るいは角錐 ア. ッ. ( ピラミッド ). ヴオ. 一の庭では、 復元され. に刈 り込んだ、 単純なト一 ヒ 。. が多用されている。 ただ、 元来は、 現在復元されているものよりも、 小さかったと 推定されて. いる。 園 路を生け垣や 並木として縁取っているのは、 シデ 、 ニレ、 カェ デモミジであ る。 また、. こ. れらの樹は森の 縁取りにも使われている。 フランスの幾何学 式 庭園では、 とくに シデ の生け垣が多 い。 ヴォ 一では生け垣にアカシ デ が使われている。. 水を豊かに、 華麗、 また多様に使うことは、 庭の格付けの 目安になった。. ヴォ. 一でも、 水の使い. 方は、 多様で、 豊かであ る。 円形の噴水では、 王冠の噴水、 ネプチューンの 噴水. (計画 ). の他に、 中心線上で、 グロットの上. 蔀め テラスに、 麦 束の噴水があ った。. 水柱のようにあ がる噴水は、 大格子や水の 路にあ ったほかに、 段々滝の上部の 縁に二列あ った。 城 との一体性 庭は 、 城の広間. ( 客室 ). から眺めると、 もっとも整然と 美しく眺められ、 庭と城は一体として 設. 計されているが、 庭と城の一体性は、 これに止まらない。 中心 軸は 、 城の広間を通り、 玄関の間を とおり、 城の前の迎賓 庭 courd,honeur の中心を通り、 さらに前庭 avant.cour を通り、 格子 塀 (透 かし塀 ) の中央の門扉を 通り、 アプローチに 連なっていた。 このアプローチには、. あ の「ガチョウ. の足 」があ った。 アプローチに 作られた「ガチョウの 足 」は 、 へ ラクレスの立つ「ガチョウの 足 」に照応するもの. であ った。 半円の半径が 同じであ り、 さらに 城 までの距離が 同じあ るから、 照応が考えられている ことは、 明らかであ った。. 格子 塀 には、 柱のように境界 神が 8 件 並んでいた。 これは、 グロットに並ぶ 境界 神 (8 件 ). と照、. 心していた。 格子塀の境界神は、 一方で外、 他方で城を向く 二つの顔をもっていた。 ここで境界 神 として使われているのは、 へ ラクレス、 アポロ、 ミネルヴァ、 フローラ、 ケレス、. フ. ァウヌス など. で、 不明の神もあ る。. 境界神は、 古代には、 守護神として 戸外で使われたものであ った。 16 世紀、 イタリア・ルネサ ンスの庭で、 装飾に使われるよ 内 ) 、 ランテ荘のぺ ガサス の噴水. ーマ北方、 ヴィテル. う. になり、 いまに残るたとえば、 ュ リア荘の水の 精の祠 ( ローマ北方、. ボ 近郊カプラローラ ). ヴィテル ボ 近郊 バ ニャイア. )、. ( ローマ. ファルネーゼ 荘. 市. (ロ. の庭などに 見 ることができる。 以後、 境界神は、 庭の印. といった意味を 帯びることになり、 ヴォ一でもそのような 意味合いで使われたのであ った。 ヴォー では、 当時、 第一のパルテールからバロットの 上部の芝生まで、 境界神は 、 庭の至る所に 見られた。.
(17) ヴ オー・ ル ・ヴィコント. 画家 二 コラ・プサンの 案を元に作られた 境界 神. はいま、 ヴェルサイユの 庭に移されている。. Ⅰ. 1. Ⅰ. 1. 2 体が、 芝生のパルテールに 置かれていた。 これ. ヴォ. 一の城の大広間にも、 漆喰の境界 神が 装飾的に飾. られ、 ここが庭に繋がる 広間であ ることを暗示していた。 境界神は、 大広間を囲む 壁の上部 いは丸天井の 下部 ) に、 広間を取り囲み 見守るよ. う. (あ る. に 、 並んでいる '。. 城と 庭の統一的な 構成は、 イタリア・ルネサンスにおいてすでに 始まっていた。 その始まりは、 ヴァチカン宮殿のべルヴェデ ーレ の中庭 (16 世紀前半 ) とされる。 これは、 建築家ブラマンテが 古 代ローマの皇帝の 庭の作り方をもとに 考えたもので、長さ 300 メートル・幅 100 メートルの細長い、 二段の庭が、 最上段に立つ 法皇の離宮と 正対するように 設計された. (実現したのは. 別の形 ) 。 ただ、. この場合、 ブラマンテに、 中心軸や左右対称といった 原理が意識されていたかどうかは、 不明のま まであ る。 ベルヴェ デ一. 別荘 ) 城. と 庭の止対、 (館 、. レ の中庭は 、. 後の庭作りに 大きな影響を 与えた庭で、 ひとっは、 城. (館 、. もうひとつは「テラスを 重ね石段でつなぐ」であ った。. 別荘 ) と庭の対応という 点を、 イタリア・ルネサンスの 二名園とされる、 ファルネー ゼ. 荘 (16 後半 ) 、 エ ステ 荘 (16 後半 ) 、 ランテ 荘 (16 後半 ) でみれば、 ファルネーゼ 荘では、 別荘その ものと庭の間には 正対する関係はないが、 主 庭園の中に置かれたカジノ の間には正対関係があ り、 エ ステ荘では、 健全体は別荘 り取ってみれば、 そこは別荘. と. (小別荘 ). と 正対していないが、. とその 毛 庭園と. 庭の中心部だけを 切. 正対している。 ただ、 卵形の噴水、 水オルガン、 Ⅱ、ローマ、 ふく る. ぅの 噴水など、 エ ステ荘の主な 点景物 ぬ atures は、 その中心部にはなく、 周辺に置かれている。 ランテ荘では、 別荘は庭の中心 軸 上にはなく、 左右の端に二 つ 、 同型のカジノ. ( 小別荘 ). として 建. てられているが、 これを一種の 庭との正対とみなすこともできる。. 中心 軸 と左右対称という 点をみれば、 ランテ荘は、 四段の庭全体が 中心 軸 と左右対称で 整然と 構 成されている。 これを設計した ダ イニョーうには、 中心 軸 と左右対称の 考えがあ ったものと思われ. る。 エステ荘も同じ. ダ イニョーうの. 設計したものだが、 庭の中心部だけを 切り取ってみれば、 中心. 軸 と左右対称という 構成は、 徹底している。 ファルネーゼ 荘の毛庭園でも、 これは同様であ る。 フ ァルネーゼ荘も 、 ヴ ニョーうが設計した、 と推定されている。. ルネサンスの 二名園でみれば、 別荘と庭の止対、 そして庭の中心 軸 と左右対称は、 共通している が、 この時期のイタリアの 庭 すべてが、 そうであ ったのではない。 別荘と庭の関係は、 比較的自由 で、 また、 庭 全体に中心軸を 通す、 また全体を左右対称に 構成する、 という考えが 時代に浸透して. いたともいえない。 たとえば同じ 時期に作られた (改修 ) スペイン広場の 上のメディチ 荘をみれば、 それがわかる。. 17 世紀になると. イタリアでは、 強い傾斜地を 利用したバロックの 庭が造られる。 その代表の ア. ル ドブランディ 一二 荘 ( ローマ南東、 フラスカーティ ) で見られるよ 荘と. う. に、 バロックの庭では、 別. 庭の止対、 それから庭の 中心 軸 ・左右対称が 構成の墓木になる。 しかし、 その一方で、. 紀の後半から. 1 7. 世紀の前半に 作られた広壮・ 豪華ないわゆるガーデン・パーク. ( 装飾整形. 1. 6 世. 園 と自. 然 園を組み合わせた 庭 ) では、 別荘と庭の止対や 庭の左右対称性は、 ほとんど考慮されていない。 このガーデン・パークは、 ローマ市内や 市覚に、 法皇や枢機卿が 広大な十地を 確保してつくった 賛 沢な 庭で、 ボルゲーゼ 荘. ( 現 公園 ) 、. ファルネーゼ 荘 、 パンフィーリ 荘. ( 現 公園 ). などがその代表で. あ った。. フランスでみれば、 当初、 イタリアの別荘と 庭の自由な関係、 そしてまた庭の 構成の自由に 学ん.
(18) 112. 岩切. 正介. で、 城と 庭は止対せず、 庭 同士は不規則で 併置的関係にあ った。 ビュリ 城で始めて、城と 庭の止対、. および、 庭の軸線と左右対称が 現われる。 つぎのアネ 城. ( 十地のひとは、. アネットという. ). では、. それがいっそう 明確になり、 この流れは、 ヴェルヌー イや サン・ジェルマン・アン・ レの 庭に引き. 継がれていく。 その一方で、 シヤンティイ や フオンテーヌ られた。. (あ. プ. ロ一のように、 不規則で自由な 庭も作. るいは、 残った ). ル ・ノートルの 天才. 城と 庭の全体でみれば、 ヴォー・ ル ・ヴィコントの 庭の近い先例になるのは、 ルイ 13 世の宰相 シュリューがリシュリュー. ( ロワール河畔 ). リ. に作った庭であ ろう。 これは建築家ルメルシェが 設計. したもので、 城と 庭は、 同軸に置かれ、 庭 全体は左右対称に 整えられていた。 庭は二面からなり、 比較的狭かった。 リシュリ ュ 一では、 さらに 城. ・. 庭 と町が一体として 計画され、 城からでる中心 軸. が、 町に向かって「ガチョウの 足 」で放射し 、 町と城をつなげていた。 運河は城と庭に 対して、 横. 手から接し、 町の用水として、 町へ 導かれた。 ル ・ノートルは、 おそらく、 当時の多くの 庭園を知っていたであ ろうが、 具体的に、 どの庭から 何を学んだかはいっさい 不明であ る。 ル ・ノートルは、 著作を菩かなかったし、 メモフール類も 残. さず、 手紙もほとんどなく、 文献資料は手がかりにならない。 ル ・ノートルは、 当時の造園善も 読んでいたであ ろう。 しかし、 何を学んだかは、 やはりはっき りしない。 あ るいは、 すべてを吸収した、 ともいえる。 造園 菩 には、 ル ・ノートルの 庭に繋がる考 え方が示されていた。. しかし、 当時の庭園といい、 造園 書 といい、 そこに見られる 構成法の要点、 また構成要素をたん に合計したところで、 ル ・ノートルの 庭が生まれるのではない。 ル ・ノートルが 作り出したのは、. それらを基礎にし、 なお別の原理によった 新しい庭であ る。 そこで達成されたものは、 城と 庭の統一的構成、 中心 軸 による左右対称、 幾何学的な平面 み合わせた ) 構成、 縦軸と横軸. (あ. るいは主軸と. 副軸). (を組. の組み合わせ、 森と 庭の組み合わせ、 運 f". や 池など広 い 水面の利用、 また、 噴水や段々滝など 躍動する水の 活用などと、 ふっ. Ⅰ. う. いわれる特徴. をおそらく越えている。 ヴォー・ ル ・ヴィコントに 始まる ル ・ノートルの 庭の新しさは、 巧みに地形を 利用した立体的な 庭 ( 立体幾何学的な 庭 ) 、 視覚修正を考慮した 庭 、 隠す・顕れる 庭、 歩いて発見する 庭、 したがって、. 不意の驚きが 仕組まれている 庭、 水鏡のあ る庭、 森に囲まれて 閉ざされ、 かつ 園路 あ るいは並木 路 によって地平線に 繋がる 庭. (無限を視覚構造化した. 庭 ) 、 石 ・樹木・水で 構成された不変の 庭 、 ギ 軸. と副軸の対位法的な 構成の庭、 細長い通黄緑のあ る庭、 城を主要な眺望点とするが、 他の眺望 点も 細¥ ヌヰ. 込まれた 庭 、 そしてどこか 上記のことと 重なるが、 位階性があ って均斉のとれた 典雅な 庭. (古. 典ト % 的な 庭 ) 、 といったあ たりになるであ ろうか,。. その他 ヴォー・ ル ・ヴィコントの 庭は 、 フケ の逮捕 時 (1661) には、 細部まで完成されていなかった。 へ ラクレスの懐やネプチューンの 噴水は、 設置されなかった。 また、 あ まり知られていないが、 計. 画吾 には、 「告解 室 」の反対側には、 ピラミッドをふたつ 建て、 そこに棺など フケ のエジプト収集 物. を入れる㌃定があ った、 という。 また、 段々滝の上は、 斜面に作って、 ブドウ畑にし、 いくつか 田.
(19) ヴ オー・ ル ・ヴィコント. Ⅰ. 13. 今風の景物を 置くことも考えられていたという。 これらの趣向は、 後、 18 世紀のイギリス 風景 式庭 園 で、. 盛んとなる文化連想の 考え方であ ろうか。. フランス幾何学 式 庭園の構成を 語るとき、 必ず、 主軸と副 軸が 問題になる。 主軸については、. ど. の 庭園でも、 すぐ特定できる。 それは、 城から出て庭の 中心を走る線だからであ る。 問題は副軸で あ る。 副軸は 、 ふっ ぅギ 軸に対して、 横に走る。 まれに、 サン・クル一のように 斜めに走る場合も あ る。. ヴォー ,ル・ヴィコントの 場合、 刺繍のパルテールと 芝生のパルテールの 間にあ る 国路 と細い運. 河を第一の横軸、 運河を第二の 横軸と見るのが 一般的であ る。 しかし、 王冠のパルテールの 中心線 (横方向 ). に着目して、 これもひとっの 横軸とする見方もあ る。 また、. も 横軸をみる見方もあ. は 並木道が森に. 「告解 室 」に着目し、 ここに. る。 「告解室 」の上部のテラスが 庭を眺める重要な 眺望点であ り、 その背後に. 走っている。 反対側をみれば、 やはり並木 路が 森の奥に向かって 走っている。 二つ. の並木路を結ぶ 線上には、 正方形の水盤があ る。 正方形の水盤は、 水鏡として重要な 意味があ る。 このような意味と 構成から、 ここに横軸を 見るのであ る。 主軸もそうだが、 副軸 という場合、 庭の重要な構成要素を 含むことが条件であ る。 たんに、 通路 であ ったり庭の仕切りであ ったりする 園 路や柿木 路は 、 横軸に数えない。 ヴォー・ ル ・ヴィコントの 城と 庭に関する数字は 、 次の通りであ る。 領地はおよそ 500ha で、 城と 庭はそのうちの 70ha 、 城から へ ラクレス 像 までは 1000 メートル、 格子柵門から へ ラクレス 像 までなら、 1500 メートル。 庭の幅は、 200-250 メートル、 森を含めると、. 450-600 メートル。 運河の長さは、 870 メートル、 幅は 35 メートル。 正方形の水盤は 62 メートル 四 方。 パルテール と園路 に置かれた円錐あ るいはピラミッド 型のイチイ とツゲ は、 およそ 300 。 ギ要 な 園 路を縁取るアカシ デ の生け垣は、 総計 9 キロ。 水源は 、 城の北の丘の 湧き水で、 水盤と噴水への 配管は総延長 20 キロ。 城は横幅 125 メートル、 奥行き 75 メートル、 敷地. ( テラス ). は幅 160 メートルで、 奥行きは 110. メートル。 幅 15-20 メートルの濠が 敷地を囲む。 大広間は卵型で、 横 1 8 メートル、 奥行き 13.5 メートル、 高さは 1 8 メートル。 前庭は 120 メートル四方。 。. この十地には、 伯爵位がついていた。 のち、 曲折の後、 ここを継いだ 息子が、 伯爵を名乗る。. 4. サン・マンデの 庭 フケ は ヴォ 一の 城と 庭を造る以前には、 サン・マンデ Saint.Mande. ケは 、 パリ市内に、 宰相マザランの 豪邸. (現在のパ. に 館と 庭をもっていた。 フ. ン ・ロワイヤル ) 裏 に 、 館をもっていたから、. サン・マンデは 別荘であ る。 サン・マンデはパリ 南東のヴァンサン ヌ の森のそばにあ った。 ヴァン. サン ヌ の森は、 いまパリ市内の 公園になっているが、 当時は、 王領 で、 ヴァンサン ヌ の城も置かれ、 王家によってしばしば 利用されていた。 サン・マンデの 庭は 、 ル ・ノートルが 造ったものと 推定されている。 フケ がこの地所を 入手した のは、 1654 年で、 マザランに. よ. り財務総監に 任命された 午 (1653) の翌年であ った。 フケ は 、 館と.
(20) ⅠⅠ. 4. 岩切. 正介. 庭を作り替えた。 館は小さかったが、 庭はかなり立派なものに 変わった。 庭の幅はおよそ 50 メート ル、 奥行きは nlo メートルあ った。 1663 年に描かれた 庭の図によれば、 この庭は 、 ヴ オー・ ル. ・. ヴ. イコントと似ている 点があ る。 (1) パルテール、 テラス、 園路は、 遠くなるにつれ、 より大きく作 られている。 (2) 刺繍のパルテールが 四つ割り. (従来型 ). でなく、 左右対称の二つ 割りで模様も 左. 七対称であ る。 (3) 円形水盤がパルテールの 中心 (従来型 ) になく、 二つのパルテールの 間に置か れ、 中心 軸の アクセントになっている。 庭 にはまず、 刺繍のパルテールがあ り、 次に芝生のパルテールがあ る。 この間には段差があ る。 芝生のパルテールの 向こうに、 広い芝生地があ って 、 「ガチョウの 足 」が放射している。 パルテール、. テラス、 園路は 、 遠くなるにつれて、. 大きく. (あ. るいは太く. ). なる。 刺繍のパルテールより 芝生の. パルテールが、 奥行きがあ って大きい。 中心を走る 園路も 、 刺繍のパルテール、 芝生のパルテール、 ノン、. 芝生地では、 順に太くなる。 刺繍のパルテールも、 芝生のパルテールも、 また芝生地も、 したがっ て健全体も、 僅かに末広がりに 作ってあ るから、 実際よりも広くみえる。 芝生のパルテールは 前後二つの領域に 分けられ、 手前は装飾 初 めない芝生で、 先の領域は 、 手の 込んだ切り抜き 模様になっていた. ( カット・パルテール ) 。. この模様は、 のち (1663) ル ・ノートル. がチ コイルリ一の 庭に作る切抜きの 模様によく似ている。. サン・マンデの 庭では、 右手に大きな 菜園があ り、 細かで美しい 幾何学模様に 整えられていた。 フケ は庭に柑橘類などをはじめ 多くの植物や 花を集め、 薬草類は王立植物園より 多かった " 。 フケ はまた、 壁掛け布、 絵画、 彫刻、 ホを 集めていた。 1657 年には、 ルイ 14 世 (19 歳 ) とマザ. ランが訪れ、 数時間、 フケ の収集物を見た。 フケ はサン・マンデの 館でサロンを 開いた。 スカロン、 スキュデリ 嬢 、 コルネーユ、 モリエール、 ペロー、 ラ ・フオンテーヌ、 キノ. ー. 、 ヴオワ チュールな. ど、 詩人、 学者、 芸術家、 才女が集まった。 フケ は、 知識も豊かで、 芸術的センスに 優れ、 注意深 く. 話しをきき、 魅力的で気前もよく、 サロンは、 自由で楽しかったという。 フケ が ヴオ 一でもく る. んだのは、 サン・マンデをはるかに 越える 館と 庭であ った。 フケ は 、 ヴオ 一の地所の他にも、 ブルターニュ 地方に広い十地を 購入した。 侯爵位のついている べ. り. ル鳥 BelIe.Hle も買った。 島には要塞があ ったが、 フケ は整備はしなかった。 ベ リル島を貿 っ. たのは、 マザランに勧められたからだと、 といわれる。 17 世紀の前半、 フランスでは、 富裕なブル ジョ ヮ 層が、 ( 爵位付きの ). 地所を買って、 別荘と庭をつくることが、 しきりに行われていた。. は 、 パリ近郊で、 とくに顕著だった。. それ. ヴ オー・ ル ・ヴィコントの 城と 庭は、 このような意味では、. 数あ る中のひとつであ ったが、 あ まりにも飛び 抜けていた。. 5. フ. ケと宴. フケ が 1661 年 後). と結びついて、. 8. 月に、 王の一行を招いて 開いた宴は、 その豪 者と 華麗、 また フケ の逮捕 (3 週間 あ まりに有名だが、. 壬やマザランは、 それ以前にも、. ヴォー・ ル. ・ヴィコントを. 訪れている。 1659 年の. 6. 月、 マザランは、 和平交渉のためにスペインに 行く途中、 ここで一泊. し、. 正餐のもて. なしを ぅけ 、 旅費を借りて、 フォンテーヌブロー へ 向かった。 城は、 ル ・ブランなど 装飾 家 たちで. 一杯であ った。 旅費を借りて、 というのは、 財務総監であ った フケ は、 宰相マザランに 公私の金を 都合するのが、 役日であ ったからであ る。 マザランは、 ヴォ一で見た 噴水と庭のすばらしさを 王に 話した。 丑は自分も訪れて 見たいとおもい、 ピレネー地方と 南フランスヘ 旅行に出かける 途次、 母.
(21) ヴ オー・ ル ・ヴィコント. や帯,ムッシュー,. オン. (軽 飲食 ). 0 アンジュ. 115. 公 ) と一緒に ヴォ 一に立ち寄った。 料理人ヴァテルが 用意したコラシ. のもてなしを 受け、 庭を見て歩き、 城の装飾を吟味した。 1660 年には、 マザランが. 銀行家を伴い、 再訪している。 王も再訪している。 王は、 1660 年 6 月 9 口に、 スペイン皇女マリ・テレーズとサン - ジャン - ドリュ. で結婚式を挙げ、 フォンテーヌ. 予定であ った。 王は 、. フケ. 7 月. プ. ロ一に泊まった。. 王と. 王妃はそこからヴァンサンヌ 城 へいく. 10 口、 その途中、 ヴォ一に寄った。 今回は、 豪勢な正餐のもてなしを. ぅ. けた。. の準備した正餐の 華麗と豊富、 その配置や順序を 称えた。 城と 庭を見物し、 絵や金の装. 飾、 噴水や庭など、 ここの美しいものをひとっひとっ 挙げた。 王の一行は、 ソワ ジのバヤール 邸に 泊まり、 それから荘重なパリ 人 ㎡の準備を整えるため、 ヴァンサン ヌ の城に向かった。 この準備の ためにマザランは、 ヴァンサン ヌ に先着し、 ヴォ一には来なかった。 ヴォ 一では二つの 結婚式が祝われている。 フケ の姪の結婚式 (1659) とフケ の末弟の結婚式 (1660) であ る。. 1661 年. 7 月. 12 口には、 イギリスのチャールズ 一世の妃、 娘と娘婿. ( オルレアン 公 ). を迎えて、. フケ は宴を催した。 軽 飲食、 庭の散策、 音楽、 見世物、 モリエールの 劇などでもてなした。 モリエ ールの劇が上演されたのは、 詩神の間であ った " 。. 1661 年. 8 月. 17 口、 歴史的絵巻となった 王を迎えての 最後の宴は、 これらの宴や 催しの延長線上. にあ ったといえる。 この宴は王が 求めたものであ った。 チ ヤールズ一世の 王妃一行を迎えての 宴の. すばらしさに 興味をそそられたから、 ともいわれる。 フケ を横領と反逆の 罪で逮捕することは、 王 とコルベールがすでに 決めていたことであ ったから、 しばらく悟られないようにするためだった 、 とも言われる。 フケ は 、 宴の準備に一月かけた。 フケ の側には、 王を喜ばせて 寵愛を固めるという 積極的な動機 があ った、 とされる。 あ るいはまた、. 3. 月に亡くなった 宰相マザランの 後釜に座るのにふさわしい. 威容を披露する、 という動機が 推定されている。 マザランが亡くなったあ と、 ルイ 14 世は大臣たち を 集めて、. 親政宣言をし、 財政も自らを 監督して行うことを、 述べた。 マザラン とフケ によるそれ. までの財政では、 王はつんぼ桟敷におかれていた。. 王と. を 始め、. に警告する者もいた。 フケ には、 これが軽微な. 財政の仕組みを 変えるつもりでいた。. フケ. コルベールはそれまでの 収入と支出の 調査. ことにしか感じられなかったらしい。 王はこの時 23 歳、 フケ は 46 歳、 王と フケと 王の間には 2 8 歳の年齢差があ った。 フケ には、 王に 卜分 貢献した、 との意識もあ ったとされる。 フケ はフロンド の乱の間. (1648-53) は 、 王を助けた。 フケ は、 自分の夢にとらわれ 過ぎた、 というべきかもしれな. い 。 芸術的なセンスのすべてをかけた 舞台で、 生きる 輸 しみの極致のような 宴を開いて、 王を喜ば. せよ. う. とした。 それはまだ、 王には手の届かなかった 宴であ った。 王の宴をはるかに 超える臣下の. 宴でもてなされて、 王は喜ぶものだろうか。 宴のあ いだ、 フケ は王だった」. ( ヴォルテール『ルイ. 「. 14 世の世紀Ⅲ。 王の一行は、 午後 3 時にフオンテーヌブローを 出発して、 午後 6 時に ヴオ 一に着いた。 妊娠中の 王妃は来なかった。 母后アンヌ・. ド. トリッシュ、 王 弟矢 要 、 大コンデ 公 、. ド. ・. ラ. ・ヴァリエール 嬢. 以下、 宮廷全体が参加した。 人数は、 のち、 数千人と誇張されるが、 千人ほどだった。. フケ. は玄関. の テラスで客を 迎えた。 天気はかつてないすばらしさだった。 一行は 、 城と 庭を見物、 宴に臨んだ。. リュリの音楽が 奏でられ、 珍味を盛った 皿は、 五 ,六度、 取り替えられた。 庭で、 バレー. と 芝居が. 交互に上演された。 舞台は水格子の 前に作られていた。 芝居はモリエールの 新作『やっかいな 人達』.
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