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1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤 --大聖堂建設協会の社会構成に関する分析--

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(1)1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤 一大聖堂建設協会の社会構成に関する分析一 棚橋,信明 DieSozialstrukturderK61nerDombau−Ⅵ汀eineinden1840erJahren Nobuaki TANAHAsHI. はじめに. 19世紀の初め,フランス統治下のケルンで少数の芸術愛好家によって始められたケルン大聖堂の建設運 動は,1842年2月に大聖堂建設協会の設立へと結実する。この協会のおもな目的は,大聖堂の建設資金を 調達することにあった。ケルン大聖堂の建設は中世ゴシック様式の最盛期に当たる1248年に開始されるが,. 1560年に工事は完全に停止し,1朗2年当時は内陣より西の大部分が未完成の状態にあった。大聖堂建設協 会の設立により,およそ280年ぶりに建設工事が再開されることになるのである1)。そして,その年9月 の2回目の定礎式から1880年10月の竣工式に至るまでに,およそ627万ターラーの建設資金が費やされ たが,協会はそのうち394万ターラ(約63%)を調達し,残りはおもにプロイセン政府が国庫から補助 金として支出した2)。 大聖堂建設協会は,ドイツでは18世紀半ば以降,社交や文化的・学術的活動のほか,慈善事業や殖産な どを目的として設立された自発的結社(Verein)の一つに数えられる。T・ニッパーダイによる先駆的研. 究3)が出されて以降,自発的結社の要件として重視されてきたのは,個人の自由意志による入会と脱会, そして会員間の基本的平等といった市民的原則であった。こうした要件により自発的結社は,生まれや身 分が成員とその資格を決定づけた旧来のコルポラツイオーン(Korporation)とはっきり異なる編成原理を もったとされたのである。大聖堂建設協会も,年会費の支払いを入会条件としながらも,上記のような要 件を満たしていた。他方で,この協会の設立された三月前期は,ドイツでは身分制的紐帯からの個人の解 放が進むなかで,就業機会を十分に得られない貧民が大量に都市に滞留する社会的危機の時代であった。 したがって,これまでの歴史研究において自発的結社は,新しい社会的結合の場として,すなわち市民的 社会規範を全社会に普及させる重要な拠点とみられ,そうした役割に大きな関心が寄せられてきたのであ る4)。 また,社会的危機が草創こ向けて深刻化していった40年代は,結社運動の急激な社会的膨張の時代でも あった。それ以前の自発的結社は教養と財産ある上層市民を主体とするもので,高額の会費や煩雑な入会 手続きなどにより会員数を厳しく制限し,会員の社会的同質性を保持しようとする傾向が広くみられた。 入会には既会員の保証人が必要であったり,秘密痩票による承認が行われることも珍しくなかった。その ため,自発的結社には都市中間層に属する手工業者や飲食店経営者が含まれることは稀であり,下層に属. する職人や労働者は全くみられないのが→般的であった5)。ところが,40年代になると男声合唱協会と体 操協会の運動がドイツ全土で活発となり,この運動に手工業者のみでなく職人や労働者も数多く参加して いったのである。両協会は非政治的な目的を掲げつつもドイツの国民意識の覚醒をめざすもので,多くの 人びとがその活動に引き込まれていった。男声合唱協会の数は48年革命の前夜にドイツ全土で1,100を超 え,その会員数は合わせて10万人を上回った。この協会において好んで取り上げられたのは,美しいドイ ツ語の民謡であり,また愛国的歌詞の歌であった6)。 ケルン大聖堂建設運動も,ナポレオン戦争後のナショナリズムの発展とリンクし,自発的結社の「大衆.

(2) 38. 棚橋 信明. 化」の一翼を担うことになった。その前提として,中世ゴシック様式を「ドイツ人の様式」として再評価 するゴシック復興運動があった。そして,ナポレオン戦争後,ゴシック様式のケルン大聖堂は将来の統一 ドイツを象徴する「国民記念碑」に位置づけられ,その完成が広く訴えられたのである7)。2回目の定礎式 が行われた1842年9月の建設祭には,建設再開の最大の功労者であるプロイセン国王のほか33名のドイ ツ諸侯が列席し,また,定礎600周年を祝う1848年9月の大聖堂建設祭では,3月に勃発した革命の行方 が不透明ななか,フランクフルト国民議会の代表者たちも祭典に招かれプロイセン国王と同席することに なった。これらの事実はケルン大聖堂の「国民記念碑」としての評価に関係していたのである8)。 こうして1840年代の大聖堂建設運動は,統一を求めるナショナリズムを原動力として発展し,職人や労 働者を含む広範な社会階層を引き入れることになった。ケルンに設立された大聖堂建設協会には,1843年 の春までにケルン在住者だけで7,235名が入会したが,これは当時のケルンの人口約78,500人の9.2%に相. 当した9)。ただし,この協会は広範な社会階層に属する人びとを一枚岩的な構成員として組織したのでは ない。この点に関してニッパーダイは別の論稿できわめて示唆に富む指摘を行っている。彼によれば,こ の運動は「曖昧な合意」に基づいて進められ,それゆえ「きわめて多様な政治的潮流と動機が,一緒にな って作用し」,それだからこそ多様な政治的立場と見解をもった人びとがこれに引き込まれることになっ た。そして,その結果としてさまざまな政治的対立と抗争の契機もこの運動には持ち込まれた,というの である1?)。 これまでの歴史研究では,前述のように新しい社会的結合の場としての自発的結社に大きな関心が寄せ られつつも,とくに「大衆化」した自発的結社の日常的実態にまで踏み込むような考察は十分な展開をみ ていない11)。そこで,ニッパーダイの指摘するような特徴をもつ大聖堂建設協会は,このような課題に取 り組むうえで格好の考察対象となるはずである。本稿の目的は,1840年代に展開された大聖堂建設運動の 社会的基盤を明確にすることに限定される。これは今後,大聖堂建設協会の日常的活動に関する検討を進 めるための前提としての意味をもつ。そのために以下では,まず協会の設立,発展,そして衰退の過程に ついて概観し,そのうえで協会指導部の人びとと一般会員それぞれの社会構成に関して,会員名簿などの 一次資料12)に基づき作成した個別の表を参照しながら考察を進めることにしたい。. 1.大聖堂建設協会の設立・発展t衰退 1840年9月3日,ケルンでは大聖堂の完成を切望する市民たちが市庁舎で大規模な集会をもち,ここで 大聖堂建設協会(Dombau−Verein)の設立認可を求める国王宛の請願書が採択された。この請願書には集 会に参加した203名の署名が付され,その年の6月に即位したばかりの国王フリードリヒ・ヴイルヘルム 4世のもとに届けられた13)。ロマン主義者として知られた国王は,王太子時代よりケルン大聖堂に特別な 憧憶を抱いていた。これには,ケルンの商人であり芸術愛好家のジェルピッ・ボワスレー(SulpizBoisser6e) の直接的な働きかけも貢献していた14)。ケルンの市民たちによる大聖堂建設協会設立の動きは,この新国 王即位を好機として捉えたものであった。その年の11月23日,国王は勅令をもって大聖堂建設協会の設 立を認可するとともに,年額50,000ターラーの国庫からの資金援助を約束したのである15)。 この国王による認可を受け,ケルンの市民たちは協会設立の具体的な準備作業に入ることになった。翌 年の1月23日には,131名が参加する市民集会が再び市庁舎で開催され,ここで協会設立の準備作業を進 める36名の委員会が選出された16)。そして,その1週間後の1月30勘 この「設立準備委員会」は協会 規約の起草に当たる5名の小委員会を選出した。ケルン市の救貧局長グローテ(EverhardvonGroote)が 委員長に,他の委員には金利生活者ヴィトゲンシュタイン(HeinrichvonWittgenstein),司法官ロルスハ ウゼンUosephRoIshausen),市長シュタインベルガー(AdolfSteinberger),商人で銀行家のカンプハウゼ ン(LudolphCamphausen)の4名が選ばれた17)。こうしてその後も協会の運営をリードすることになる有 力市民が,その姿を明確にしていったのである。この小委員会によって起草された規約案は,準備委員会 での審議を経て,その年の4月13日の市民集会で採択され,12月8日には国王の最終的な承認を受ける.

(3) 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. 39. ことになる18)。 そして,1842年2月14日,3,000名を上回る会員をギュルツェニヒ(市公会堂)に集めて大聖堂建設協 会の設立総会が開催されたのである。そこでは協会の最高議決機関に当たる理事会の選挙が規約の第17. 条と第18条に従って実施され,40名の理事が選出されたノ19)。理事会にはこの選出理事40名のほかに,常 任理事として大聖堂参事会の代表,ケルン市長,そして国家官吏である大聖堂建設監督の3名が加わるこ とになっていた(規約の第20条)。さらに,年会費として100ターラー以上を納めた者,そして理事会に より特別な功労者として指名された者が,名誉理事として他の理事と同等の票決権をもって会議に出席す ることができた(同第21条)。 この理事会は3月3日に第1匝1の会議をもったが,そこで弁護士コンペスUosephCompes)は,執行部 の役員を選出する前に,まずその活動の法的基礎となる業務規程を作成する必要のあることを指摘した。 これに他の8名の理事も賛同し,業務規程案の起草を担当する5名の小委員会が秘密投票により選出され ることになった。この委員会にはライへンスペルガー(AugustReichensperger),J・ロルスハウゼン,コレ ンバッハ(FranzvonCollenbach)の3名の司法官と金利生活者ii・ヴィトゲンシュタイン,そして企業家の 代表としてL・カンプハウゼンが選出された。また,委員長にはヴィトゲンシュタインが互選により選ばれ 20). た。. その後,3月16日に開催された第3回の理事会会議に,この委員会により作成された19カ条より成る 業務規程案が提出され,承認を受けた。そして,この日の理事会では,規約の第22条と第23条に従っ て会長(Vorstand−Prasident)と書記(Vorstand−SecretAr)の選挙が行われ,会長にはH・ヴイトゲンシ. ュタインが,書記には A・ライヘンスペルガーが選出された。続いて 7名の執行委員会 (Verwaltungs−AusschuL3)の選挙も行われたが,業務規程の第2条により会長と書記がこの7孝.に含まれ ることになったため,残りの5名が選出された。さらにこの日,3名の財務委員会(Cassen−Curatorium). の選挙も行われ21),こうして次章で詳しく検討することになる執行部の最初の顔ぶれが揃うことになった のである。. 設立後の大聖堂建設協会の発展は,まず会員数の増加に見て取ることができる。1842年2月9日の設立 総会に集まった会員は3,000名ほどであったが,前日の午後7暗までに配布された「会員名簿」22)に記載され ていたのは2,529名であった。この「会員名簿」は,総会の会場に入る際の入場証として,また理事会選挙 の候補者名簿としての役割をもっていた。要するに,総会の開催の直前にも,またその開催中にも入会の受 け付けが続けられたのであり,総会の日の夕刻までに会員数は「会員名簿」に記載された約2倍の4,幻2名. に達したのである器)。そして,設立総会の後も入会者は後を絶たず,翌年の春に発行された「会員名簿」 によると,前述のようにケルン市内に在住する会員だけで人口の9,2%に相当する7,235名となったのである。 他方で,ケルンにおける大聖堂建設協会の設立後,規約の第26条に従ってその傘下に入る支援協会 (Hi胎vereiIl)がプロテスタント地域を含むドイツ各地で次々と設立されていった。こうした動きに対応し て,ケルンの協会は「大聖堂建設中央協会Central−Dombau−Verein」を正式名称として採用する。支援協会 の設立は,カトリック教徒が圧倒的多数を占めるライン州とその近隣地域に集中していたが,その総数は 1842年9月の大聖堂建設祭までに70に達し,ピークとなる1845年には144を数えた。ライン州のカトリ ック地域では中小都市を拠点に,郡や連合ゲマインデ(Burgermeisterei)を単位とする支援協会も数多く. 誕生し,大聖堂建設運動は都市部だけでなく農村地域にも浸透していった25)。 こうした支援協会の会員で1ターラー以上の年会費を支払う者は,同時にケルンの中央協会の会員資格 も得たのであり,支援協会を通じて中央協会の会員になった者の数は,1843年の呑までに少なくとも7,400 名を数えた。そのほか支援協会には,1ターラー未満の会費を納める「下級会員」も数多く含まれた。入 会条件である年会費の最低額は,支援協会によって5銀グロツシェン∼1ターラーの間でさまざまに設定 されており,その額を「任意」とする支援協会もあったからである。こうした「下級会員」の名簿には不 備が多く,その人数を正確に把握することは困難であるが,1843年の春に少なくとも7,000名はいたと推. 24).

(4) 40. 棚橋 信明. 表1大聖堂建設中央協会の収入(1842∼1850年) 中央協会のケルン 年. 市内の会員(対岸の 都市ドイツ(Deutz). 大学・ギムナジウム 協会. 支援協会. (諸侯の献金も含む). の会員も含む). Thlr.Sg.Pf. 1842. 中央協会の ケルン市外の会員. ケルンの「社交協会」. Thlr.Sg.Pf.. 15,176 12 1. 5,265. 1843 12,360 27. 28. 10. 14,586. 14. 2. 4. 7,320. 24. 24383 5. 1845. 10,464 21 2 1,308 12. 1846. 9,623 11 6 125. 2,072. 1847. 9,413 26 10 149. 1,541 7 4. 1848. 18. 16. 1849. 7,859 26 8. 1850. 7,180 19 6. 11. 11. 34. 35249 2. 4,374. 18. 7. 1,151. 註:単位は1ターラー(THr.)=30銀グロツシェン(Sg.),1銀グロツシェン=12プフェニヒ(P£)。 出典‥彪J乃βγ加桝占血〟(=度D恥N.F.Nr.135,1.Juni1856より作嵐. 察される26)。 他方,ケルンで年会費1ターラーの支払いが困難であった人びとを吸収していったのが,地区ごとに設 立されたいわゆる「社交協会geselligerVerein」であった。その会費は高くても過6プフェニヒほどであり, 手工業者や労働者の集まる飲食店を拠点とした。こうした社交協会の先駆けとなったのが,1842年5月にク リュッチュ(Kuitsch)の店で設立された「大聖堂建設友人会GesellschaftderDombau−Freunde」(マルテ ィン地区)であり,その後,「第一大聖堂建設社交協会erstergeselligerDombau−Verein」(アイゲルシュ タイン地区),「第二大聖堂建設社交協会」(グリーヒェンマルクト地区),「大聖堂建設兄弟会bruderlicher Dombau−Verein」(ミューレンガッセ地区)などが続々と誕生していった。これらのうち最大の第一社交協. 会で会員数は1845年に900名を超え,他の協会も400∼700名の会員を擁した。都市のより下層の人びと を対象にするこれらの協会は中央協会の傘下に入るものではなかったが,集められた会費はまとめて中央 協会の金庫に納められ,建設資金として役立てられた27)。. 以上のような急激な発展をみた大聖堂建設協会は,1845年ごろに早くも最盛期を迎え,その後の衰退もま. た急激であった。大聖堂建設協会のまとまった会員名簿は,1843年春に発行されて以降,1863年まで作成さ れることはなかった。その間の名簿は,支援協会のものが個別的,断片的に残されているのみである。その ため,大聖堂建設運動に参加した人びとの数的変化を40年代を通じて正確に把握することは不可能である。. そこでここでは,大聖堂建設協会の衰退について,まず大聖堂建設中央協会の収入の動向を辛がかりに 概観しておきたい。表1は1842∼1850年の収入を項目別に整理したものである。この表から,支援協会の 会員を含めて会員個人による会費の納入が,全収入の80∼90%を占めていることがわかる。そのなかで「ケ ルン市内の会員」による収入は,1843年以降,急激な減少はみられないものの,40年代を通じて漸減を続 けている。また「市外の会員」による収入も,1845年に一時的な急増がみられるが,1846年には再び以前 の水準に戻り,その後はやはり漸減傾向を示している。他方で,支援協会による収入は1843年に最高額を 記録したのち,顕著な減少が始まっており,1846年には1843年時の半分以下にまで後退している。前述 のように支援協会の数は,1845年まで増加を続けたが,その時にはすでに最盛期を過ぎていたと考えられ る。この支援協会からの送金は当初,中央協会の全収入の40%前後を占めており,したがってその大幅な 後退は中央協会の財政悪化につながったのである。また,ケルンの「社交協会」からの収入も,1845年を ピークとし,その後は急激に萎んでしまったことがわかる。. 19. 3.

(5) 41. 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. (左表の続き). その他. 特別収入 初等学校協会. 全体の収入. (遺贈,コンサートや 展示会の収益など). Thlr. Sg.Pf.. 159. Thlr.Sg.Pf.. 8. 5. 6,507. 144. 3. 1. 2,981■. 122. 20 11. 1,485. 100. 1. 634. 4. 25. 20. 5 8. 27. 5. 1. 7,307 1. 26. 8. 3,060. 2二994 1,975. 20 13. 14. 9 14 0 11. 47,673 7. 3. 34,068. 41,637 21,852. 16 5. 3 17. 1. 5 1. 798 18 19. 9. 5 22,493 16 2. 1,641. 58 11 317. 5. 1,661. 104 24 4 547 13 10. 111. Thlr. Sg.P£. 755 2. 11 5,636 5 1. 107. Thlr. Sg.Pf.. 11. 8. 6,147. 26. 5. 2,375. 14. 2. 23,081. 29. 8. こうして1846年以降,大聖堂の建設工事は次第に深刻な資金不足に陥ることになった。−】方で国庫から の年50,000ターラーの資金援助は続いていたが,大聖堂建設監督ツヴイルナー(ErnStFriedrichZwirner) による工事計画は,協会も毎年ほぼ同額の資金を調達することを前提として立てられていた。1848年9月 の大聖堂建設祭は,収入が再び増加に転じる契機として期待されたが,むしろこの祭典により協会の蓄え は底をつくことになり,祭典後ツヴィルナーは工事停止の準備を始めるのである。ケルンの中央協会は10 月20日に,各地の支援協会に活動の立て直しを要請するとともに,ドイツ全土に緊急の募金を呼びかけた が,表1からその効果はほとんどなかったことがわかる。それでも,国庫からの12,000ターラーの特別支 援により,工事の停止は何とか回避された28)。 大聖堂建設協会の活動の退潮ぶりは,毎年の選挙集会の参加者数からも窺い知ることができる。1842年 の設立総会を除き40年代に最も投票者数が多かったのは1845年6月の選挙集会で,3,012名の投票があっ た。ただし,そのうち1,011名は代理人による委任投票であり,実際の参加者数は2,001名であった。選挙. 集会の参加者数はこの1845年をピークに激減し,やや持ち直した1848年8月に596名,1850年の5月に は304名で,1842年の設立総会参加者の10分の1となった29)。毎年の選挙集会は執行部による協会の収 支等に関する年次報告の場でもあり,参加者数の後退から会員数の減少が推し量られるとともに,一般会 員の協会活動に対する関心の低落ぶりも指摘される。 設立当初の大聖堂建設協会は,ナショナリズムと結びついた広範な人びとの内在的エネルギーを大聖堂 の建設資金へと変換することに大きな成功を収めたといえる。ところが,この大聖堂建設運動の盛り上が りは長続きせず,1846年以降,経済的な危機の進展とともに急激に後退していったのである。そして,48 年革命はドイツ統嶋への人びとの期待を一時的に大きく膨らませたが,革命の結果による幻滅もまた大き かったことが,大聖堂建設協会の収入の低調ぶりから窺われる。 2.大聖堂建設協会の指導部 (1)ケルンの中央協会の指導部 (A)理事会. 1842年2月の設立総会で選出された大聖堂建設中央協会の理事40名については,翌年から毎年春(5∼6 月)に開催される選挙集会で10名ずつが改選された。この10名ずっの改選グループについては抽選によ.

(6) 42. 棚橋 信明. り決められた(規約の第17条と第19条)。なお,この選出理事については何度でも再選が可能であり,ま た,任期途中で退任者が出た場合は選挙集会で改選者の選挙と合わせて補欠選挙も行われた。前述のよう に,理事会はこの40名に常任理事3名と名誉理事を加えて構成されたが,ここでは一般会員の選挙により 選ばれ,頻繁に入れ替わりがあった選出理事40名の社会構成に関して分析を進める30)。 まず,表2は1842年2月の設立総会において選出された理事を,得票数の多い順に並べたものである。 この40名には,前年1月の市民集会で選ばれた「設立準備委員会」のメンバー31)が21名含まれているこ とがわかる。さらに,この委員会により規約の起草委員会に選出された者の多くが,高得票で理事に当選 していることも確認できる。5名の起草委員のなかで市長シュタインベルガーは常任理事になるため候補 とならなかったが,金利生活者ヴィトゲンシュタイン,銀行家カンプハウゼン,そして行政官ロルスハウ. ゼンの3名が上位10名のなかに入っている。なお,この選挙では,投票者は投票用紙に40名の候補者の 氏名を記入した。すなわち,会員は40窄,の理事の全ポストについて1票ずつの投票権をもったのである。 したがって,全投票者数が3,327名であったことから,トップで当選したヴィトゲンシュタインは全投票 者の86・4%の圧倒的な支持を受け,また,企業家で最上位で当選したファリナUohannMariaFarina)も. 77.1%もの高い支持率を得たことになる32)。 この第1回の理事会選挙による40名の理事の職業構成は,商人や銀行家などの企業家16名,上級官吏 11名,弁護士4名,金利生活者4名となり,企業家が40%を占める最大甲グループであった。ただし,教養 市民層のグループも上級官吏と弁護士などを合わせて17名となり,企業家と数のうえで均衡していた。そし. て,この教養市民層のなかで最大の勢力が上級官吏であり,そのなかで県庁の行政官と2つの裁判所(高等 裁判所Appellationsgerichtと地方裁判所Landgericht)の司法官がそれぞれ4名.を占めていた。他方で弁護士 は医師や公証人とともに自由業者に分類されるが,当時は裁判所によって任用され,裁判手続きにおける補 助的業務を主要な職務としており,司法官的性格を強くもっていたことに注意を要する。 また,ここで金利生活者に分類した者のなかでも,教養市民層に属する者も多かった。ヴィトゲンシュ タインは商業を営む門閥家系の出であったが,ベルリン大学などで法学を修め,ケルンの裁判所や市の救. 貧局に勤務した経歴をもっていた。彼はまた1848年の革命の混乱期に,数カ月だけではあったが県長官に 任じられている33)。そのほか22番目の得票数で当選したフランク(Pa。1Franck)も金利生活者を名乗った が,彼はもともと薬剤師であり,1851年1月には市議会により市の助役に選出され,就任している。こう した事実から,教養市民層のなかでも官吏的要素がかなり優越していたこともわかる。 それでは,このような選出理事の職業構成には,40年代を通じてどのような変化があったであろうか。 表3は1850年5月14日の選挙集会後の選出理事40名を,アルファベット順で一覧表にしたものである。 表2との比較によりまず指摘されるのは,選出理事の顔ぶれにおける強力な連続性である。最初の選挙が 行われた1842年2月以降,継続して理事であった者が19名いる。また,コープレンツへの転勤を理由に. 1844年4月に理事を辞し,1848年8月に再び選出された司法官ライヘンスペルガーを含めると,1850年 の選出理事のうち半数の20名が,1842年2月の選出者と重なることになる。 しかし,ここで視点を逆転させると,選出理事の半数の20名が,1843∼1850年の計8回の選挙で入れ替 わったことになる34)。こうした入れ替わりによって,選出理事40名の職業構成の顕著な変化も確認できる。 1850年の選出理事を職業グループ別に整理すると,上級官吏12名,企業家9名,ギムナジウムなどの上. 級教師7名,金利生活者4名,弁護士及び聖職者それぞれ3名の順となる。1842年以降の変化として目立 つのは,企業家が16名から9名に大幅に減少したことと,逆に上級教師が1名から大幅に増加したことで あり,これによって教養市民層と企業家の均衡は完全に崩れている。1850年には教養市民層に属する理事 は22名を数え,金利生活者に分類されるヴィトゲンシュタインやフランクを除いても,選出理事の過半数 を占めたのである。. また,40年代を通じての選出理事の構成の変化として,プロテスタントの後退が指摘される。1842年の 理事会の構成を示す表2では,上級官吏と企業家から成る7名のプロテスタントを確認できる。その理事.

(7) 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. 43. 表2 大聖堂建設協会の第1回理事会選挙の選出者(1842年2月14日実施) 氏 名軋2 職 得票数 金利生活者,市議会議員 1 2,874 Wittgenstein,Heimichvon▲ 2 2,822 Fむstenberg−Stammheim,FranzEgonGrafvon 貴族(騎士領所有者) 3. 2,795 Bloemer,Friedrich. 弁護士. 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19. 2,567 Fadna,JohannMada▲ 2,551DeNo払MatthiasJoseph▲ 2,503 Essingh,Tbeodor▲ 2,414 Mnlhens,PeterJoseph 2,305 *Camphausen,Ludolph▲ 2,134 RoIshausen,Joseph▲ 2,127 Bianco,FranzJosephvon▲ 2,061Reichensperger,August 2,009 *Merkens,Heinrich▲ 1,995 Herwegh,FranzJosephvon▲ 1,977 *Deichmann,WilhelmLudwig▲ 1,878 DuMont,JohannMichel 1,841Weyer,JohannPeter▲ 1,836 Biercher,Matthias▲ 1,788 Neven,Matthias 1,718 HaaL3Ⅰ,JohannBaptist,Dr・:▲. 商人(コロン製造業). 業※3. 商人,市議会議員 商人,市議会議員 商人(コロン製造業). 商人,銀行家;市議会議員 行政官(県庁). 法律顧問官(学校管理局) 司法官(地方裁判所). 商人,プロイセン・ライン汽船会社社長 金利生活者,市議会議員 銀行家,商業顧問官 商人(たばこ製造業),市議会議員 市建築局長 国家建築監督官 商人 弁護士. 20. 1,671Berghaus,FrAnzXaver. 司法官(高等裁判所). 21. 1,668 Compes,Joseph. 弁護士. 22 1,567 Franck,Paul. 金利生活者,薬剤師. 23 1,510 *Schramm,Rudolph▲. 行政試補(県庁). 24 1,494 Haan,Heinricll. 商人. 25 1,487 *Heuser,Franz. 商人. 26 1,481Kerp,Matthias. 司祭(アルバン教区). 27 1,458 D’Ester,Karl,Dr.Med.. 医師. 28 29 30 31 32 33 34 35 36. 化学技師 1,431Vohl,Ka∫1▲ 弁護士,法律顧問官 1,407 EsserII.,FerdinandJoseph 市救貧局長,金利生活者,市議会議員, 1,357 Groote,Everhardvon,Dr.▲ 1,320 *Gerlach,CarlJohannHeimichEduardvon▲ 県長官 商人,銀行家 1,314 Seydlitz,Ignaz▲ 1,231Leiden,Damian▲ 商人,市議会議員 1,221Bartman,Wilhelm 商人 1,213 Boden,JohannJacob 商人 金利生活者 1,206 Hohenschutz,Friedrich,Dr.Jur.. 37. 1,203 Co11enbach,Franzvon. 38 1,187 *Ammon,Friedrichvon▲ 39 1,181Weyden,ErnSt,Dr.▲ 40 1,159 Hennekens,Wilhelm. 司法官(高等裁判所). 司法官(高等裁判所),ライン鉄道会社取締役会会長 高等市民学校教師 商人(コロン製造業). 註:※1氏名の前の*は,プロテスタントであることを示す。他の無印の者はすべてカトリック。 ※2 氏名の彼の▲は,1841年1月23日に選出の「設立準備委員会」(36名)のメンバーであったことを示す。 ※3 職業については下記の出典資料に簡単な記載があるが,瑚∂肛力虎γ罰お虎節加(=Aβ∬),1841なども参照した。 出典:BDbl,Votbericht,BeilageC.,Nr.33,1842などより作成。.

(8) 44. 棚橋 信明. 表31850年の大聖堂建設協会の理事会(1850年5月14日の選挙後) 氏. 職. 名※1・2. 1 *Ammon,Friedrichvon◆ 2 Bartman,Wilhelm◆. 司法官(高等裁判所). 商人 総助任司祭,大聖堂参事会員 大聖堂学校教師 国家建築監督官. 3 Baudry,Johann 4 Breuer,Jacob 5 Biercher,Matthias◆ 6 B16mer,Friedrich◆. 選出年など※4. 業※3. 司法官(アーへン地方裁判所). 7 Boecker,GottfrrieAloys 8 Devivere,FreiherrXarlvon. 弁護士,市議会議員 貴族,金利生活者. 9 DtiMont,JohannMichel◆. 商人(たばこ製造業),商業顧問官 商人 弁護士,法律顧問官. 1846年[再],1850年[再] 1846年[再],1850年[再] 1848年[初] 1850年[初]. 1844年[再],1848年[再] 1845年[再],1849年[再] 1845年[初],1848年[再] 1845年[初],1由6年[再] 1850年[再]. 10 Eisen,FranzCar1 11 EsserIl.,FerdinandJoseph◆ 12 Farina,JohannMaria◆ 13 Franck,Paul◆. 商人(コロン製造業). 金利生活者,薬剤師,市議会議員. 1846年[再],1850年[再] 1849年[初]. 1844年[再],1848年[再] 1844年[再],1848年[再] 1844年[再],1848年[再] 1846年[再],1850年[再]. 14 FむstenbergLStammheim, FranzEgonGrafvon◆. 貴族(騎士領所有者). Groote,Everhardvon,Dr.◆. 市救貧局長,金利生活者,市議会議員 1844年[再],1848年[再] 弁護士,司法顧問官 1845年[再],1849年[再] 弁護士,司法顧問官 1845年[初],1849年[再] 市建築局長 1849年[初]. 15. 16 HaaL3I,JohannBaptist,Dr.◆. 17 HardungI,Otto 18 Harperath,Wilhelm 19 Haugh,CarlJosephHub.. 司法官(地方裁判所). 1850年[初]. 20 Hemiger,ChristostomusJoseph. 金利生活者 商人 金利生活者,国家管財人 ギムナジウム教師. 1846年[初],1850年[再] 1844年[再].1848年[再] 1843年[再],1847年[再]. 県長官 商人 商人. 1850年[初]. 21 *Heuser,FranZ◆. 22 Hohenschutz,Friedrich,Dr.◆ 23 Ⅹreuser,JohannPeter. 24 M611er,Eduardvon 25 Michels,Peter. 26 Neven,Matthias◆ 27 *Nicolovius,GeorgHeinirchFriedrich 枢密司法顧問官. 28 Philipps,Joseph. 1850年[初]. 1849年[初]. 1843年[再],1847年[再] 1847年[初]. 高等市民学校教師 ギムナジウム上級教師. 1848年[初]. 29 Ptitz,Wilhelm. 30 Reichensperger,August. 司法官(地方裁判所・副長官). 31 RoIshausen,Joseph◆. 行政官(県庁). 1844年[退],1848年[復] 1844年[再],1848年[再]. 32 Scheper,Heinrich 33 Seydlitz,Ignaz◆. 34 Thissen,Theodor 35 Vohl,Karl◆. 36 Vosen,Christ.Hermann. 37 Vill,Michael 38 Weyden,ErnSt,I)r.◆. 39 Wittgenstein,Heinrichvon◆. 40 Wolff,FranzAnton. 1848年[初]. 商人 商人,銀行家 司祭監督. 1848年[初]. 化学技師 ギムナジウム宗教教師 司祭 高等市民学校教師 金利生活者,市議会議員 高等市民学校教師. 1843年[再],1847年[再] 1848年[初],1849年[再]. 1845年[再],1849年[再] 1847年[初]. 1850年[初]. 1843年[再],1847年[再] 1845年[再],1849年[再] 1850年[初]. 註:※1氏名の前の*は,プロテスタントであることを示す。他の無印の者はすべてカトリック。 ※2 氏名の後の◆は,1842年2月以降,継続して理事であったことを示す。 ※3 職業については下記の出典資料に簡単な記載があるが,Aβ5喝1849;Aβ5ば,1850なども参照した。 ※4 年号の後の[初]は初当選,[再]は改選による再選,[退]は退任,[復]は復活当選を意味する。. 出典‥EDbl,Votbericht,BeilageC.,Nr.33,1842;属Dbl,Nr.43,7.Mai1843;RDbl,Nr.99/100,5.Mai1844;属Dbl,N.F.Nr.5,8.Juni1845; n)bl,N・F・Nr・17,31・Mai1846;瓦Dbl,N・F・Nr・29,30.Mai1847;KDbl,N.F.Nr.42,27.August184B;KDbl,N.F,Nr.63,2.Jumi 1850;AβSJ耳,1850,S.XVII−ⅩⅤⅠⅠⅠなどより作成。.

(9) 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. 会における割合は17.5%となるが,当時,ケルンの全人口におけるプロテスタントの割合は10%程度であ り35). ,ここにプロテスタントの「過剰」代表を認めることができる. 。このなかで県長官のゲルラッハ(Carl. JohannHeimichEduardvonGerlach)に代表される官吏たちは中央政府より派遣された者であり,また,カ ンプハウゼンやメルケンス(HeimichMerkens)に代表される企業家たちも,よく知られているように外 部からの移住者であった。ところが,表3で彼らは姿を消し,プロテスタントはわずか3名しか確認され ない。企業家で残ったのはホイザー(FranzHeuser)のみであり,とくにプロテスタント企業家の後退が 顕著であった。. 36). ここで,こうしたプロテスタントの後退にともなって,政治的カトリシズムの代表が理事会で次第に目 立っようになっていったことにも言及しておかなければならない。次節でみるように,1842∼1843年に協 会の書記を務めることになるライヘンスペルガーは政治的にはカトリック保守派に属し,1850年以降はプ. ロイセン下院においてカトリック議員団の指導者の一人となる37)。彼のほかに1842年の選出理事のなかで は金利生活者フランク,弁護士ハースUohannBaptistHaaL3I),商人バルトマン(WilhelmBartmann)が カトリック保守派に属した。そして1850年までに弁護士ハルドゥンク(OttoHardungI),貴族で金利生活 者のデヴィヴェーレ(FreiherrKarlvonDevivere),総助任司祭のバウドウリ UohannBaudry)が保守的カ トリックとして理事会に加わったのである38)。この間の理事会における聖職者の1名から3名.への増加も, これに連動した現象として理解される。 (B)執行部. 前述のように,大聖堂建設協会の理事会は,1842年3月に会長と書記のほかに5名の執行委員を選出し た。1鋸3年以降は,改選直後に招集される理事会で,この選挙が行われた。なお,この執行委員会には大 聖堂建設監督も,完全な票決権をもったメンバーとして加わった(規約の第23条)。執行委員会は大聖堂 建設協会の日常業務を統括し,外部に対して協会を代表する役割を担うものであった。ケルンの大聖堂建 設協会はそのほかに財務委員会(3名),機関紙編集委員会(3名),議事録書記(1名),図書室司書(1. 名)を常設の執行機関として設置したが,これらの役員も毎年,理事会による選挙で選ばれた39)。 表4は,上記の執行機関のなかでも執行委員会(会長と書記を含む)と財務委員会の2つの機関につい て,1842∼50年の選出者を一覧表としてまとめたものである。1842年の最初の執行委員会には,会長のヴィ トゲンシュタインと書記のライヘンスペルガーのほかに,司法官ビアンコ(FranzJosephvonBianco)と行政 官ロルスハウゼンの2名の上級官吏,そしてカンプハウゼン,ミュルヘンス(PeterJosephMiilhens),ファ リナの3名の企業家が選出された。ここでまず指摘されるのは,協会の設立過程で指導的役割を担った者 が,そのまま執行部の役職に就いたことである。規約案の起草委員会(1841年1月設置)と業務規程案の起 草委員会(1842年3月設置)の両方に所属したヴィトゲンシュタイン,ライへンスペルガー,カンプハウゼ ン,そしてロルスハウゼンがそれである。このなかでロルスハウゼンは財務委員会にも選出されている。 この最初の執行委員会の職業構成は上級官吏3名,企業家3名,金利生活者1名となり,金利生活者ヴ ィトゲンシュタインの経歴を考慮すると官吏的要素がやや優勢であったが,その選出母体である理事会と 同様に,教養市民層と企業家の間で均衡が図られていたといえる。他方で,財務委員会の構成は上級官吏 1名,企業家2名であり,後者の優勢がその後も維持されたが,これには高額の資金を管理する業務の性 格が関係していたと考えられる。. こうした執行部の構成にも,理事会と同様に40年代を通じて連続性と変化の両方が認められる。まず, 連続性を顕著に示したのは,1850年に至るまで顔ぶれにまったく変化がなかった財務委員会である。また, 執行委員会についても,長期間にわたってこれに所属した者が何人も目につく。初代会長に選ばれたヴィ. トゲンシュタインは,翌年5月に会長に選出された際,多忙を理由にこれを辞退した仰が,執行委員会に はその後もとどまり続ける。また,1843年に彼に代わって会長に選出されたロルスハウゼンは,その後も 繰り返し会長に再選されている。そして,彼も1848年8月に再選された際,公務の多忙と健康上の理由に ょりそれを辞退する41)が,執行委員会にはその後もとどまり続けるのである。さらに,弁護士のエツサー. 45.

(10) 46. 棚橋 信明. 表4 大聖堂建設中央協会の執行部※1 a)執行委員会(会長と書記を含む)※2 1842年. 1844∼47年※3. 1843年. 会長 H.v.Wittgenstein(金利生活者) J.RoIshausen(行政官). J.RoIshausen(行政官). 書記 A.Reichensperger(司法官). A.Reichensperger(司法官). F.J.EsserII.(弁護士). F.J.v.Bianco(司法官). K.D−Ester(医師). K.DIEster(医師). LCanphausen(商人). F.J.EsserII.(弁護士). J.M.Fadna(商人). J.M.Fadna(商人). J.M.F訂ina(商人). J.B.Haa侶Ⅰ.(弁護士). P.J.M也1hens(商人). F.Heuser(商人). F.Heuser(商人). J.RoIshausen(行政官). H.v.Wittgenstein(金利生活者) H.v.Wittgenstein(金利生活者). 註:※1各年の理事会による選挙直後の構成を示す。 ※2 会長と書記に選出されだ者も,業務規程の第2条により執行委員となった。 ※3 この期間,顔ぶれに変化のなかったことを意味する。. 出典二屁Dbl,VorbedchtD,Nr.36;KDbl,Nr.47,14.Mai1843;麒Dbl,Nr.101,26.Mai1844;EDbl,Nr.6,29.Juni1845;屁Dbl,N.F.Nr.18,28.Ju 1846;KDbl,N・F・Nr.43,8.October184B;1mbl,N.F.Nr.52,24.Juni1849;KDbl,N.F.Nr.63,2.Juni1850などより作成。. は1843年5月に初めて執行委員に選出されるが,その後.繰り返し再選され,1848年8月にはロルスハ ウゼンに代わって会長に選出されている。また,企業家のファリナとホイザーも,それぞれ5年の長きに わたって執行委員として活動を続けた。 他方で,執行委員会の構成にははっきりした変化も確認できる。1850年の執行委員会の内訳は弁護士2. 名,金利生活者2名,上級官吏1名,企業家1名,聖職者1名となった。1842年と比べ,企業家の3名か ら1名への後退が大きな変化として指摘される。表4からは,1843年以降,商人が次第に数を減らしてい く様子が見て取れる。プロテスタント企業家のカンプハウゼンは早くも1843年に理事を退任しており,ミ ュルへンスとともにわずか1年で執行委員会から姿を消している。また,表4からは,上級官吏の退任に ともない弁護士がそれに代わって数を増加させていることもわかる。1843年5月には弁護士エツサーが司 法官ビアンコに,翌年5月には弁護士ハースが司法官ライへンスペルガ一に代わって執行委員に選出され ている。いずれにせよ,前述のように弁護士は官吏的性格を強くもっており,執行委員会の官吏的色彩は しっかり維持されたといえる。 また,カトリシズムの代表が執行部においても重要な地位を占めるようになっていったことも見逃せな い。すでに選出理事として言及した弁護士ハースは1844年以降,同じく金利生活者フランクは1848年以. 降,継続して執行委員会に所属したが,1848年にいきなり書記となった聖職者ティツセン(Theodor Thissen)も保守的カトリックを代表した。こうした彼らの執行部への進出は,理事会におけるカトリシズ ムの代表増加に対応したものとみることができる42)。 (2)各地の支援協会の指導部. 表5は,支援協会のなかでも中央協会の会員数の多いものから順に上位30協会について,会員数や理事 会の職業構成を記載したものである。この表からもわかるように支援協会の規模は大小さまざまであり, また,その指導部の組織についてもそれぞれの規約に基づき一様ではなかったが,基本的にはケルンの中 央協会に準じていた。 最高決定機関である理事会は,支援協会においても通例,会員による平等選挙によって選出され,市長 や教会の代表が常任理事として加わることが多かった。そして,理事会が会長,書記,出納長などによっ て構成される執行部の役員を選出した。たとえば,コープレンツの支援協会(表5の[2])の理事会では,.

(11) 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. (左表の続き). b)財務委員会. 1842∼50年※3. J.DuMont(商人) J.RoIshausen(行政官) Ⅰ.Seydlitz(商人). 20名の選出理事に市長と聖職者の代表1名が常任理事として加わることになっていた。選出理事は1842 年4月に全員が選出されたのち,それ以降は毎年3分の1ずつ(7名,7名,6名)を改選する選挙集会が 開催されることになった。この選挙には,いわゆる「下級会員」を含むすべての会員が平等な投票権をも って参加することができた。そして,この理事会のなかから会長と書記が選出され,さらに7名によって. 構成される執行委員会が選出されたのである43)。 こうした支援協会の理事会の職業構成は,表5にみるように多様であったが,全般的に上級官吏が圧倒 的な多数を占めたていたことが一目でわかる。ケルンの中央協会で上級官吏は,常任理事である市長と大 聖堂建設監督を含めても理事会の3分の1ほどであったが,支援協会ではその大半を上級官吏が占めるこ とも珍しくなかった。表4に掲載される30協会の平均でみても,上級官吏の占める割合は40%を超えて いる。市長,市助役,郡長などの地方行政の要職者は,常任理事とされない場合であっても,しばしば理 事会に選出されたのである。したがって,ケルンの中央協会と異なり,支援協会の指導部に所属する上級 官吏の大多数は司法官ではなく行致官であった瑚。 また,ケルンの中央協会と比較して,聖堂参事会員や司祭などのカトリックの聖職者が支援協会の理事 会では大きな割合を占めていたことも特徴として指摘される。ケルンでは,1850年に理事会の聖職者は3 名となったが,大聖堂参事会の代表を含めても聖職者の割合は10%に満たなかった。ところが,支援協会 のなかには設立時に聖職者が理事会の30∼40%を占める事例も頻繁にみられた。表5に掲載される30協 会の平均でみても,聖職者の割合は21.1%になる。具体的な事例を示すと,ケルン郊外のヒュルト(Hilrth) の支援協会(表5の[18])は同名の連合ゲマインデを単位としたが,領内の5つの教区には独立した支部 が設けられた。そして,それぞれの支部の運営に各教区の司祭が責任をもつことになり,5人の司祭は支援 協会の常任理事になったのである。同様の協会運営はエッセン(同【23]),オイペン(Eupen)(同[29】),エ ッフ土レン(E銑汀en)の支援協会でもみられた45)。 それに対してケルンの中央協会で大きな勢力であった商人や銀行家などの企業家の姿は,支援協会の指 導部にはほんのわずかしかみられず,アーへン支援協会(同[1])のように伝統的な商業都市の協会でもま ったくみられないことがあった。表5に掲載される30協会には,比較的大規模な商工業都市を拠点とする ものが数多く含まれたが,理事会における企業家の割合は平均でわずか6.5%であった。全般的には農村地域 に設立された比較的小規模な支援協会ほど,上級官吏と聖職者の優勢が目立ったといえる。また,支援協会. 47.

(12) 棚橋 信明 48. ■±レ′︺ぐり一朝盛型凧車e. ビリSS国︻MN] ゼロp︻むSSd凸[巴 由︼nq∈名−○︻巴. 。車座壷刃り三貴e慢登り−︶刃り一幕埜 ■カーか毘e軍﹁毅郎掛﹂ M※. hUl已盲S悪点滅[罵︼. 。時貞明朝簑勾藁Y毘事.塩幽.ヤ準琴㍗£讐孟器還遠義.曇り一癖淋優皿 S※. 寸※. 。攣聖ユペ勾更等讐.UU?卜1−N芸1.U占ゴー茫一SN.左官n呵︰月.SN・l古賀登山A望っH主点∈○白J名︶竃月︻5S七宗P∃喜焉S叫5巴Oh省三じ叫∽︼Uqい5︰竜王. 。す礁東軍饗据嬰e簾忠志︶吏車−㌣榊掛討. 。将吊り﹁﹁○ロー心出.宅屯ぶま旨七遥叫遥じむ喜N・2牒ぷ三選こぎg増長サ§2墨唱︶ぷ賢骨亀苫屋≡ヨ毒.§喜き三屋艮∴鳶. 。ト伯東刃り′︶粟簑鱒摺り︶壬融朝雲曇−■刃り将蔓り山︺匡刃壷屯舶e榊肇︽醤e迅簑轟咄卵割.宜吏中東㌣−心−ムー簑恕祁掛悪1 ■Pか爬e撃﹁轟嘔朝朝﹂.ゼ朝. し′︶ぐり︼p︻ぜS苫U[∞N] ■宕SS臼[M巴.戸2−β〓lN︼ l※‖雑. ■巾︼トニぐり︼蚕喝朝朝e七焉〓Nt︼刃藤田朝e朝肇割仔e巴nq畠P︻○[M︼ N※. 。す借料皿呵掛吏志功髄値訂吊り︶肇讐警官モごよ之壷謹.怠吏e罫忙簑皿平杜顆碍空. Q明達竃ぎ・冬渥表書彗雲蛋診華ぷ頂察や選ぶ§ぷ蓮≦三溝長・岩層長コ眉雇ロぷ≡堰堤ぎ学長岩層鳶竃ぷ.愛吏′一題簑増卍り一束隅煮豆e盃亘. ︵靖雫P州側壁OC〓垂ブ只eザ﹂場合超咄爛Q側壁︽せ︶登聾輔馨e寄贈蜜刃点咄朝e側壁埜凧鑓憩制尉ぺ ∽腑.

(13) 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. の指導部については,資料の不備により40年代における社会構成の変化を追跡することはできないが,支援 協会の活動が低調となるなかで上級官吏と聖職者の優勢は維持されるか,さらに顕著になったと考えられる。 3.大聖堂建設協会の一般会員. 表6a)は,1843年の春に大聖堂建設中央協会により発行された「会員名簿」亜)から,中央協会のケルン市 内在住会員と,アーへン,ボン,パダボーンの各支援協会の会員の社会構成を整理したものである。表5 にも記載されるように,アーヘンとボンの支援協会(表5の[1]と[4])の年会費は1ターラー以上であり, したがって全会員が同時に中央協会の会員であった。他方でパダボーンの支援協会(同【10])の年会費の 最低額は15銀グロツシェンであり,「会員名簿」では1ターラー以上の会費を支払う「中央協会会員」と 「その他の会員」(いわゆる「下級会員」)が区別されて掲載されており,表6a)でも両者を分けて整理して ある。さらに,表6a)と連続する表6b)は,1848年のボン支援協会の名簿と1853年のパダボーン支援協会 の名簿から,それぞれの会員の構成を整理したものである。以下では,これらの表を参照しながら大聖堂 建設協会の一般会員の社会構成に関して考察を進めたい。 (1)中央協会のケルン在住会員. まず,表6a)の中央協会のケルン在住会員についてみていこう。表中のローマ数字による分類にしたがっ てみた場合,最大の職業グループは手工業や飲食店・旅館などを経営する小営業者(Ⅴ=表中の分類番号, 以下同様)であり,合わせて1,559名は全体の21.5%に相当した。そして,これに続くのが商人や工場主 などからなる企業家(Ⅳ)の1,232名で17.0%を占めた。他方で,中央協会の理事会や執行部において企 業家と括抗する勢力であった教養市民層(ⅠⅠⅠ)は,485名で6.7%と企業家の半分以下であった。また,職 業グループとして社会の最下層に位置する労働者や職人・徒弟(ⅥⅠ)は166名を数えるにすぎず,全体に 占める割合はわずか2.3%であった。. ケルンの他の自発的結社と比較しても,大聖堂建設協会における小営業者の割合は際立って高かったと いえる。たとえば,ケルン芸術協会(Kunstverein)では,設立された1839年の会員名簿に記載される642 名のうち小営業者は77名で,全体における割合は12%ほどであった。また,、合唱協会として1836年に設立 されたケルン・リーダーターフェル(Liede比血1)でも,1847年の会員159名のうち小営業者はわずか6名 で3.8%を占めるにすぎなかった47)。このことから大聖堂建設運動の「大衆化」において,都市中間層に属 する小宮業者の入会が大きな意味をもったことがわかる。他方で,労働者や職人の入会がわずかであった ことは,会員の「下へ」の拡大が年会費1ターラーの支払いにより制限されていたことを示唆している。 ところが,表6a)をみると,ケルン在住の会員のなかには明らかに経済的に自立しておらず,自身で会費 を支払ったとは考えられない人びとが多数含まれていたことに気がつく。このような人びとが三月前期に 自発的結社の会員となることは異例であった。なかでも最も目立ったのが家族のなかの被扶養者(HI)で あり,この表では女性(Ⅹ)に分類されている配偶者も含めると家族の被扶養者は1,350名を数え,全会員 の18.7%と手工業者と同程度の割合を占めていることがわかる。それは,上級官吏や企業家たちが競って. 配偶者や未成年の子どもたちの会費も支払い,入会させたからであった。例をあげれば,H・ヴィトゲンシ ュタインは,夫人と男女7人の子どもを入会させたことが1843年の「会員名簿」からわかる。また,カンプ. ハウゼン家では,ルドルフとアウグストの兄弟の2家族で13名がこの名簿に名を連ねている亜)。 また,3朗・名の孤児(ⅩⅠ)が会員に含まれていたことも驚きに値する。孤児たちの住所はすべて孤児院 と記載されている。死亡した親の財産を相続した孤児であっても,孤児院にいる間にこれを自由にするこ とはできなかったはずである。この孤児たちの会費は,第1回の理事会選挙で第2位の票を獲得したフユ. ルステンベルク伯(FranzEgonGrafvonF仏rstenberg−Stammheim)がすべてq人で支払った。彼は1842年 と1843年に,500ターラーを孤児たちの会費として寄付しており,これによってケルンの孤児院にいた孤 児はすべて大聖堂建設中央協会の会員になったのである49)。. 49.

(14) 棚橋 信明 50. ︵志廠. 。克郎♂糎胱相承′r\吏J羽東二題㌣や轟 爪※. 直也幽車符−﹁紳輔僅皿﹂. 。時点琳躯ぜ紳輔酒興刃堰患者曇りーY僅 寸※. ■貞榊巫簑勾藁Y総督 ■中華味. 。時逓㌣∴Hふトロも懸S一望既望哨e琳朝廿e朝肇型刑∴1策祖γ\ N※. ﹁響監牌e宰e中﹂. M※. 。肇聖訂烏勾題已○モ名付dnZ月巴ざ遠ヨHU”?葛竺召雪印コー0日居ぜ、q悪習竜旨已〇四ヨN∈篭ざ・S葛HU己占遥へ怠UヂNN.U︻一意琶箋ぷ竃q∵﹁○遠出. ■和様腫誕轟.旛鮮地建り︸. ︵掛等空︶咄朝e朝肇埜囲治再側壁部甘絹製利別ぺ ︵遥廊. 。時逓㌣叫朝e祁肇承払ぃてす悪叫朝e朝車型凧.今や㌣1恥−ふl聖跡璽嘩e軸朝掛e朝肇型桝∴策旨咤ヽく1卜 l※︰相. 。巾忌邦餌簑勾礎盤出. ・ニニ、ミ、−ミー、一:こ、、∵≒こ﹂−、∴ミ、ミ・三、−1ミ、−、:、ミチき、・こ、、︰べ・∵⋮⋮こご、ミー・H・こご︰ミ・二・、ミ、ミ、︰ミニぎ・・ミ︰へこ二−こミ⋮、■モ、㍗︰、ミ∴こ⋮、⋮ミ、、、ミーJ︰、=︵︰ミ≒、−﹁こミ、−=∵二.・て. 咄朝e側壁埜 囲 継 朝 刊 副 ︽ e 塵 e 中.

(15) 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. ここで,女性会員(Ⅹ)の856名の内訳も確認しておこう。最も多かったのが市民の配偶者(Frau)た ちで,339名(女性会員における割合39.6%)であった。それに続くのが職業などの記載のない者117名 (同13.7%)で,そのほとんどは市民の扶養家族に属した。それに未亡人(Witwe)116名.と金利生活者 (Rentnerin)113名がはぼ同数で並んでいた。そして,家事奉公人65名(7.7%),教師48名(同5.7%) と続く。このうち家事奉公人は当時,上層市民の家族の重要な構成員とみなされており,その会費は雇い 主である市民たちが支払ったものと考えられる。. (2)支援協会の会員 (A)1843年の社会構成. ここでは,引き続き表6a)を参照しながらアーヘン,ボン,パダボーンの3つの支援協会の1843年の会 員構成について,上記のような中央協会のケルン在住会員の構成と比較しながら,それぞれの特徴につい てみていくことにしたい。. まず,都市アーへンの支援協会は656名の会員を擁したが,これは当時の人口約45,500人(1843年)の わずか1.4%であった。アーへンはベルギーとオランダとの国境近くに位置する伝統的商業都市であり,当 時はすでに繊維工業の発展も顕著にみられた。このような産業構造を反映して,会員のなかで最大の職業 グループは商人や工場主からなる企業家(Ⅳ)であり,168名で全体の25.6%を占めた。それに続くのが 教養市民層(ⅠⅠⅠ)の120名(18.3%),そして小営業者(Ⅴ)の117名(17.8%)であった。中央協会のケ ルン在住会員の構成と比較して,小営業者の割合がやや小さく,企業家と教養市民層の割合がかなり高い のが特徴といえる。また,アーへン支援協会の会員には家族の被扶養者はまったく含まれなかったが,女 性会員が77名(11.7%)とかなり含まれており,その中心は31名の金利生活者であった。 つぎに,ボン支援協会は,人口約16,000人の大学都市ボンとその近隣地域から会員333名を集めてい. た50)。会員においては大学教授を中心とする教養市民層(ⅡⅠ)が92名(27.6%)と最大のグループを形成 していた。企業家(Ⅳ)と聖職者(ⅠⅠ)がそれぞれ34名(10.2%)とそれに続き,小営業者(Ⅴ)は31名 (9.3%)と少なかった。他方で,ケルン在住会員の場合と同様にボン支援協会の会員には,女性(Ⅹ)と 家族の被扶養者(ⅢⅠ)がそれぞれ10%ほど含まれた。 そして,パダボーン支援協会は,人口8,600人ほどの小都市パダボーンを拠点に,かつてのパダボーン 司教領を広くカバーするものであった51)。会員286名のうち都市パダボーンの在住者は約半数の138名で あり,残りの会員はおもにパダボーン郡内の農村ゲマインデに広く分散していた。また,表6a)にみるよう に,会員は年会費1ターラー以上による「中央協会会員」133名と「その他の会員」153名に区別されたが, 都市パダボーン在住者の割合は前者で61.7%(82名)であり,後者では36.6%(56名)であった。このこ とから,とくに「その他の会員」が広く農村地域から集められていたことがわかる。この支援協会につい ては,大聖堂建設運動の農村地域への浸透の様子をみるために,こうした会員の都市と農村の地域的分布 にも注意を払いながら以下でやや詳しくみていくことにする52)。 まず,「中央協会会員」のなかで最大のグループは61名(45.9%)の教養市民層(ⅠⅠⅠ)で,そのなかで も47名(35.3%)の上級官吏が際立っていた。都市パダボーンは高等地方裁判所(Oberlandesgericht)の 所在地であり,上級官吏にはこの裁判所に所属する司法官が数多く含まれていた。そして,この上級官吏 47名のうち大多数の35名(74.4%)が都市パダボーンの在住者であった。職業グループとして教養市民層 のつぎに大きな割合を占めたのは聖職者(ⅠⅠ)で26名(19.5%)であったが,そのうちパダボーン在住者 は9名(34.6%)と比較的少なかった。他方で,ケルンやアーヘンで大きな勢力であった企業家(Ⅳ)は 13名(9.8%)と少なく,彼らはすべてパダボーンの在住者であったことが注目される。この地域での商工 業の発展がきわめて限定的であったことが,支援協会のこうした会員構成にも反映されていた七いえる。 それに対して,1ターラー未満の会費を支払った「その他の会員」においても,上級官吏を中心とする 教養市民層(ⅠⅠⅠ)が43名(28.1%)と最も多く,聖職者が29名(19,0%)とそれに続いていることがわか. 51.

(16) 52. 棚橋 信明. る。いわゆる「下級会員」の社会階層や職業グループは,中央協会の会員と大きく重なっていたのである。. このことから,低い年会費の設定をもって,会員の社会構成が単純に「下へ」押し広げられたわけではな かったことがわかる。それでも,中央協会の会員と比較すると顕著に人数が多くなっている職業グループ も幾つか目につく。中下級官吏及び職員(Ⅵ)(大多数は中級官吏),小営業者(Ⅴ),農業経営者(ⅥⅠⅠ),. 大学生・中等学校生徒(ⅠⅩ)がそれである。こうした人びとの居住地は,農業経営者を除いて圧倒的に都 市パダボーンにあった。パダボ」ン支援協会では低い会費額の設定により,とくに都市の中級官吏と手工 業者を会員として多く集めたのである。他方で,「下級会員」の教養市民層の大半を占める上級官吏28 名のうちでパダボーンに在住する者は7名であり,同様に聖職者はわずか3名であった。すなわち,上級 官吏と聖職者の「下級会員」は圧倒的に農村地域から集められいたのである。. 以上の事例だけからみても,支援協会の社会構成は地域の商工業の発展や住民の職業構成を反映してか なり多彩であったことがわかる。また,パダボーンの事例でみたように,会員が会費額によって「中央協 会会員」と「下級会員」に分かれる場合,「下級会員」は単純により「下」の社会階層から集まったわけ ではなく,都市と農村の地域的な分布も考慮すると,支援協会の社会構成の特徴はきわめて複雑な様相を. 呈したのである㍊)。 (B)1843年以降の社会構成の変化. それではつぎに,表6b)を参照しながら,ボンとパダボーンの2つの支援協会についてその後の会員構成 の変化を検討しておこう。前述のように,支援協会の活動は1845年以降,大きく後退していったことから,. 会員数も全般的に減少していったと考えられる。ここで問題となるのは,どのような社会階層,あるいは 職業グループに属する人びとが大聖堂建設運動から身を引いていったかである。 まず,ボン支援協会の1847年の会員数は162名であり,4年前の1843年と比べて早くも4分の1に縮. 小していることがわかる。この縮小にともなって,ケルンの中央協会への送金も設立初年度の754ターラ ーから283ターラーへと木幅に減少している瑚。会員のなかで最大のグループは,1843年と同様に大学教 授を中心とする教養市民層(ⅠⅠⅠ)で62名(38.3%)であった。そして,聖職者(ⅠⅠ)26名(16.0%)と企. 業家(ⅠⅤ)18名(11.1%)がこれに続いた。この順位は1843年とほぼ同じであり,それぞれのグループは 1843年よりも人数を減らしてはいたが,割合ではとくに教養市民層と聖職者がかなり大きくなっているこ とが指摘される。それに対して,1843年に比して人数も割合も大きく後退させたのは,31名(9.3%)か ら6名(3.8%)に減少した手工業者を中心とする小営業者(Ⅴ)と,14名(4.2%)から1名(0.6%)と なった中級官吏を中心とするグループ(ⅤⅠ)であった。そのほかに大学生・中等学校生徒(ⅠⅩ),女性(Ⅹ),. 被扶養家族(ⅩⅡ)の後退も顕著であった。 続いて1853年のパダボーン支援協会についてみてみよう。この支援協会の会員数も,10年前の1843年 より大幅に減少していることがわかる。中、央協会の会員資格をもつ者は333名から39名へ8分の1以下に, 「その他の会員」については162名から22名へと7分の1にまで大きく縮小している。そして,1853年 の収入額はわずか60ターラーであり,設立年度の451ターラーの7分の1以下であった55)。また,都市パ ダボーンの在住者は「中央協会会員」39名のうち28名(71.8%),「その他の会員」22名のうち12名(54.5%). であり,1843年時と比べてとくに後者で割合が大きくなっている。すなわち,設立時に農村地域から広く 集められいた「その他の会員」が,この間に大きく失われたのである。 そこで,1853年の「中央協会会員」の職業構成についてみてみると,最大のグループは聖職者(ⅠⅠ)の 16名で,全体の41.0%までを占めた。それに上級官吏を中心とする教養市民層(ⅠⅠⅠ)が14名(35.9%),. 企業家(ⅠⅤ)が5名(12.8%)と続いた。1糾3年と比較して,いずれのグループも人数を大きく減らしてい るが,なかでも上級官吏の47孝一から7名への減少がきわめて顕著であり,全体に占める割合も大きく後退 していることが目立っ。また,1843年にはわずかながら含まれた中下級官吏及び職員(ⅤⅠ)と女性(Ⅹ) はゼロになっている。他方で,わずか22名の「その他の会員」の内訳は,聖職者(ⅠⅠ)12名,企業家6名 (ⅠⅤ),上級教師(ⅠⅠⅠ)3名であり,半分以上を占める聖職者の圧倒的優位が指摘される。ここでは1843.

(17) 1840年代のケルン大聖堂建設運動の社会的基盤. 53. 牛当時,28名(18.3%)であった上級官吏はゼロになっており,以前に「中央協会会員」と比べて顕著に 多かった中下級官吏及び職員(ⅤⅠ),手工業者(Ⅴ),農業経営者(ⅥⅠⅠ),大学生・中等学校生徒(ⅠⅩ)も 1853年には皆無となっている。最後に,会員の居住地についてみてみると,会員の区分にかかわらず上級 官吏,企業家,上級教師はほとんどが都市パダボーンに,聖職者のほとんどが農村部に居住していたこと が特徴として指摘される。. 1843年以降の変化に関して,ここでは断片的に残された資料に基づきボンとパダボーンの2つの支援協 会の事例のみを示した。これらの支援協会では,すべての職業グループにおいて大聖堂建設運動からの離 脱がみられたが,会員全体に占める割合の縮小幅からみて,手工業者や中級官吏などの経済的に余力のな い人びとの後退が顕著であった。そして,自身で会費を払わずに入会していた家族の被扶養者と,職業の 有無にかかわらず女性たちの撤退もはっきりしていた。. こうした事例から,「大衆化」した大聖堂建設運. 動を支えた社会的基盤は1845年以降,急激に縮小していき,都市部では教養市民層が,農村部では聖職者 が中心となって支える限定的な運動へと萎縮していったことが推察されるのである。 おわりに. 大聖堂建設協会の設立をめざす運動は,1830年代の後半になってE・Ⅴ・グローテ,A・ライヘンスペル. ガー,そして司法官のゲロルト(BernhardvonGerolt)らによって本格的に開始された56)。そのイニシア ティブは教養市民層の代表である上級官吏たちに握られていたといえる。こうした人びとは1842年2月の 協会設立後も,理事会や執行部に選出され指導的役割を継続して担っていくことになる。他方で,1840年. 9月の請願書の署名者203名には,L・カンプハウゼン,H・メルケンス,J・M・ファリナを始めとする企 業家56名の名前がすでにみられた57)。その後,1841年1月に設置された「設立準備委員会」以降は,こ うした企業家たちも指導的役割を引き受けるようになる。そして,1842年の協会設立時には,指導部にお ける教養市民層と企業家の代表には数的な均衡がみられた。. また,この大聖堂建設協会の設立とともに,大聖堂建設運動の社会的基盤はその裾野を一挙に広げるこ とになった。この運動の「大衆化」において決定的な意味をもったのが,市民層よりも下の階層に位置す る小営業者たちの積極的な参加であった。1840年9月の請願書の署名者にはすでに21名の小営業者の名 前がみられた鎚)が,1843年の春までに大聖堂建設中央協会の会員となったケルンの小営業者の数は1,559 名に達し,会員の21.5%までを占めたのである。ただし,こうした社会的基盤の「下へ」の拡大には,年 会費1ターラーによる歯止めがかかっていた。そこで登場したのが「社交協会」であり,本論中で言及で きなかったが,その会員構成で圧倒的中心にあったのが手工業者であり,それより下層に位置する職人や 労働者の姿も数多くみられた。たとえば,第一大聖堂建設社交協会の1845年の名簿に記載される408名の うち,手工業者は197名(48.3%)であり,労働者・職人に分類される者が22名(5.4%)であった。また, 同年の第二社交協会の会員200名においては,手工業者が113名(56.5%)で過半数を超え,労働者・職 人が38名(19.0%)であった59)。 さらに,大聖堂建設運動の社会的基盤は,各地に設立された支援協会を通じて地域的な「横へ」の広が りももった。そして,こうした支援協会の指導部と一般会員の社会構成は,それぞれの地域の産業の発展 や住民の職業構成のあり方を反映して多様な特徴を示した。指導部については,ケルンの中央協会と比較 して上級官吏と聖職者が大きな割合を占めることが多く,企業家は商業都市の支援協会でもそれほど目立 たない場合もあった。それでも,一般会員の社会構成からは,各地の支援協会の社会的基盤が′ト営業者や 中下級官吏などの中間層にも広がっていたことが確認された。また,支援協会の多くは,1ターラー未満 の年会費の設定によぅて,より多くの会員をより広い社会階層から集めようとしていた。本稿ではパダボ ーンの支援協会の事例のみを検討したが,こうした「下級会員」の社会構成にも支援協会により大きな相 違があり,単純により「下」の社会階層がその中心を占めるとは限らず,地域的な重点として農村地域の 住民が対象となる場合もあった。いずれにせよ,1843年春に支援協会の会員のほぼ半数が「下級会員」で.

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