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長瀬恒蔵と7円42銭6厘7毛

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(1)長瀬恒威と7円42銭6厘7毛. 北. Tunezo. Nagase. and. 原. his contribution. Ryuji. 龍. to. the. Health. Insurance. System. KITAHARA. 本稿の事旨 本稿は,日本の医療社会保険の「創世期」において,日本政府と日本医師会と の診療契約締結のさい採用された「人頭式・被保険者1人当り1年につき7円42 銭6厘7毛」の報酬額について,その経緯と意義,計算・立案に当たった長瀬恒 蔵の事績などを検討するものである。このような趣旨から,本稿では,取り上げ る範囲を政府管掌健康保険に限定し,組合管掌健康保険には言及しない.また歯 科医療についても触れない。 なお本稿は,私の近年の研究課題「社会保険医療研究」. 1)の一部をなすものであ. る。. はじめに. 本稿の和文表題に掲げた7円42銭6厘7毛(以下,とくに必要のない場合は,およそ 7.5円と略記することもあるが)の金額は,その円以下に続く銭厘毛という貨幣単位からし て,はるか遠い昔の話題である。確かにこの金額がある特殊な意味を持った日々から70年 ほどが経過し,医療に限定しても状況は大きく変わったo. しかし,この金額のあらわすも. の,ひとことで云えば国民1人当りの年間医療費の,初めて公に算定された値が,この国 の医療に刻した大きな意味は不変である。この時期以降の健康保険をめぐる論議や政府と 日本医師会との交渉は,この金額を起点として交わされ,それぞれの健康保険組合と医師 ・医師会との契約にも準用され,健康保険に続いて,緩慢な経過をたどりながらも聴次設 けられていった他の医療社会保険制度2)においても,所要の「療養給付」経章の算出のさ い,あるいは医師会への委託契約のさし?,一種の基準価格としての効果を発揮するものと なった。その意味で,この国の医療を考えるものにとって,いまなお検討し確認すべき価 値を失っていないのである。 いうまでもないが,それまで,医療サービスに価格がなかったわけではない。しかし.

(2) 2. 北. 原. 龍. 二. それは,価格構成要素の分析も,支払い能力-の考慮も,社会的正当性の吟味もないまま, いわば売り手の供給独占体制のもとで,設けられるものであった。したがってその価格を 支払い得ないものは,購入を諦めるが),諦めきれない場合は,もしあれば屋敷田畑を失っ ても,娘を身売りに出しても,捻出するほかのない価格であることもあった。 難され. 「医弊」と非. 貧困・病気・医療費負担・一層の貧困という悪循環が嘆かれ怨まれたのもそれゆ. えである。 だが,他方で次のような事情も介在した。本稿では詳述しないが,明治の初期・中期, 全国各地に,道府県や郡市などを単位として医会・医土合・医師組合などの名称を持つ医 師団体が設立されるさい,その設立目的の重要な一つは「価格統制」であり,価格面での 「競争抑制」であった。医療サービスの供給は,強固に医師の手中に独占されていたから, 医師は自由に価格を設定出来たのであるが4),それは国民諸階層に対する医師集団として の立場であって,個々の医師は,たいていは小さな医家当主として,同業の医家との間に 絶えず競争を強いられる立場にあった。供給独占権を持つ零細経営体という特殊性に加え て,この競争の主題は,医療サービスという無形で客観的評価の難しい商品をめぐるもの であるから,争いは価格引き下げを軸とするものとなりがちであった.医師団体は「当地 区医師団体申し合わせ診察料・薬価」と云う形で価格統制を図り,違反者-の監視に眼を 光らせることとなる5)。だがそれでも,患家確保のため,あるいは慈善心から貧者へ,. 「安. い医療」を提供する医師(貧しい人々に優しいという評判は,間接的ながら医師の人格, 医療サービスの質への評価と連動した),しかるべき団体(例えば会社や学校)との契約に よってその団体構成員(従業員や学生)には「割り引き価格」で医療を提供する医師は, 少数ながら存在し続け,また公的医療機関の医療サービスの価格はその機関の固有の論理 と収支によって定められ,そこで医療に従事する医師とは切り離された問題であり,医師 団体の統制力はそこには及び難く,紛議や医師団体幹部の苛立ちは絶えることがなかった. 1911. (剛台44)年に「施薬救療」を掲げ,全国各地に施療機関の設置を目指す恩賜財. 団済生食6)が設立され,また鈴木梅四郎と加藤時次郎による社団法人実費診療所7)が,. 1912. 年に「実費」と呼ぶ「低廉な医療」を目指して事業を開始したのも,医師会(1906年から 医師団体は医師会という単一の名称に統合される)によって統制された価格にゆらぎを与 えることとなる。 1927. (昭和2)午,健康保険制度による「療養の給付」. 8)の開始期から,医療サービス. の価格の一部は,医師相互の協定ではなく,医師会と政府との契約によって定まるものと もなった。当初,政府管掌健康保険の被保険者は150万人ほどであり,およそ7.5円の価格 ち,あくまで政府から日本医師会に一括して支払われる委託料(医師会からみれば請負料) の総額の算定基礎であった。その意味で,このおよそ7.5円が,個々の医師の個々の診療行 為の価格や医師の総収入を直接的に定めたものではなかったが,医療サービスの価格が, 根拠を問われ,説明を求められ,公に議論され(現代において医療費問題は,多くの国民 社会の主要問題のひとつである),国家の財政問題の一部となる時代-の転換が,これを契 機に始まったのである。一政府との人頭式報酬による診療引き請けによって,このような転 換が,速度の遅い地滑りのように,緩慢ではあっても確実に進行することを,日本医師会.

(3) 3. 長瀬恒蔵と7円42銭6厘7毛. やその構成員である個々の医師9)予想していたとはいえない。彼らの関心は,このおよそ 7.5円という金額そのものに,そして次第にいわゆる1点単価10'に向けられ,医療費の決定 権が彼らの掌中から滑り落ちていくのを見落としていたのである。だが,そのような見落 としや,彼らの社会的存立基盤の構造変動-の対応の遅れを責めることが,本稿の趣旨で はない。. この金額の算定基礎となったものはなんであったか。どのような調査と検討がなされ, どのような論理で説明されたか。そしてこの金額は,どのような意味をもつものとなった か。また,だれがこの作業をおこなったか。順次考察を進めたい。. I.健康保険制度 明治末期から萌芽的論議が始まり,大正中期に政府による立案,議会における審議を 経て成立・施行された健康保険法は,その事業の中核をなす「療養の給付」を,団体自由 選択主義と呼ばれる方法によって,. 1927. (昭和2)年1月1日から開始する。団体自由選. 択主義とは,日本医師会という「団体」が,政府から政府管掌健康保険の被保険者への「療 養の給付」業務を一括して帝け負い,被保険者は日本医師会の会員11)のなかで,この請け負 い事業に参加する個々の医師を「自由」に「選択」して,診療(法的には「療養の給付」) を受ける制度をいう。 医療社会保険における医療サービスの提供方法には,大別して保険者が直営する方法 (保険者が医師を雇用し,医療機関を設置する),保険者が特定の医師に個々に委託する方 法(「嘱託医」と呼ばれることが多い),保険者が医師の団体に委託する方法などが考えら れるが,団体自由選択主義はこの最後の方法に相当する。もとより団体自由選択主義の中 に,さらにいくつかの選択肢があり,現実に選ばれる方法はさまざまな形となる。. 2.保険財政 社会保険の財政は,事務経費などについて国家財政からの多少の補助金(国庫繰入金) の交付があるとしても,基本的に被保険者および雇用主の相互扶助・相互負担によるもの. である。したがって医療社会保険の保険財政は,収入面では保険料,支出面では保険給付 の費用によって左右される。保険料は賃金を基本としてそのある率ないし金額を定める.こ とによるから,賃金額,その多様な実態を簡便に整理・計算する方法(健康保険では当初 いわゆる標準報酬日額によった),徴収方法,滞納などが問題となる主要な事項である。 健康保険の場合,保険給付は,まず疾病,負傷(以下,この両者を傷病という),令 娩,死亡を保険事故とし,傷病に対しては「療養の給付」と傷病手当金,分娩に対しては 分娩襲,助産の手当又は産院への収容および出産手当金,死亡に対しては埋葬料費とされ ていたが,中心をなすのは「療養の給付」と呼ばれた現物給付12)であったo. 「療養の給付」. の範囲は,診療,薬剤又は治療材料の支給,処置,手術その他の治療,看護および被保険 者の移送とされていた。また保険者が寮認した場合は病院-の収容(入院)もあり得た。 したがって,この「療養の給付」を団体自由選択主義にもとづき日本医師会に請け負 わすさいの報酬こそ,健康保険制度の成否を規定する重要な因子となったのである。.

(4) 4. 北. 3.. 原. 龍. 二. 7円42畿6厘7毛. ①. 健康保険法案の労働保険調査会(当初は農商務大臣の,のちには内務大臣の諮問. 機関)や議会での審議のさい,政府は「療養の給付」の具体的方法については,. 「検討. 中」, 「未定」という説明に終始したが,法の成立のあと,政府と日本医師会との聞で,団 体自由選択主義の採用とそのもとでの診療報酬の支払い方法・金額をめぐって,非公式に 長い折衝がおこなわれた。関東大震災による健康保険制度の実施の延期や,すでに公布さ れている健康保険法の一部改正,および医師会を規定する医師法・医師会令などの改iEな いし制定も,この折衝に影響を与えた。それらの経緯を経ながら,政府は1927. (昭和2). 年1月1日からの保険給付の開始を決めたが,日本医師会との聞に交わす契約書と覚書の 案を提示したのは,ようやく1926. (大正15)年10月11日であった。. 7円42銭6厘7毛が公. 式に登場するのは,この契約書実においてである。 日本医師会は10月21日に評議員会, 皐記し,. 22日に第4回総会を開き両案を審議し,無修正で. 11月4日には契約締結をおこなう。この経過が示すように,政府と日本医師会幹. 部との聞では論議は尽くされており,相互に泉認し合ったものとして,両案は作成された のである。なお契約当事者は内務省社会局長官長岡隆一郎と日本医師会会長北里柴三郎で あった。 ②. 第六条. 契約書実には次のように記されている。. 政府力本契約二依り日本医師会ノ引請ケタル診療二対シ支払フ毎月分ノ報酬額. ハ金七円四拾弐銭六厘七毛ノ十二分ノーニ相当スル金額二其ノ月末日現在二於ケル被保険 者総数ヲ乗シテ得タル額ヨリ政府二於テ診療ヲ委託シタル官公立病院及薬剤師二支払フへ キ其ノ月分ノ報酬額ヲ控除シタル残額トス(第二項略). 覚書実には次のように記されている。. 十二. 伝染病猫源等二依り診療費二者シキ増加ヲ釆シタルトキ-政府卜日本医師会トノ. 間二於テ政府ヨリ日本医師会二支払7報酬額ノ増加二付協定スルコトアルへキコト 十三. 大正十五年十一月四日附政府卜日本医師会トノ間二締結シタル契約書第六条二依. り走メタル被保険者一人二対スル診療報酬額-将来ノ実績二依り増減スル場合アルコト. ここに明記されているように,日本医師会に支払われるのはおよそ7.5円よりある経費 を控除した残額である。だが,当時そもそも官立病院は官立大学の附属病院(正式には医 院と呼ばれたが)しかなく,公立病院もごく少数であったので13),. 「政府二於テ診療ヲ委託. シタル官公立病院」に支払われるのは少額であると見たこと,また「医薬分業」は有名無 実であって,被保険者の診療のさい医師が薬剤を与えずに処方葺を発行し,被保険者がそ れによって薬剤師から薬剤を受ける事態をほとんど想定していなかったので,日本医師会 はこの残額という事実を念慮の外に置くこととなったoそのため,. 7円42銭6厘7毛と.

(5) 5. 長瀬恒蔵と7円42銭6厘7毛. いう金額がそのまま記憶され,長く論議の基点ともなったのである。本稿もそれに倣って いる。. ③. 日本医師会との折衝において,政府側の中枢に位置したのは,社会局保険部長湯. 沢三千男である。湯沢は契約書・覚書の両案の説明のため,日本医師会機関誌『医政』. 14)に. 「健康保険の医療に関する契約案に就て」と題する一文を掲載し,第4回総会でも「契約 案の内容と成立の経過」. (のち成文化され同じく『医政』. 15)に掲載された)と題して長時間. 弁舌をふるっている。これらに即し,およそ7.5円の策定の根拠をみよう。 「問題は人頭害りの金額を何程と定むるかの点であります。既に人頭額でありますから病 気をした者の実数は直ちにその標準とはなりませぬ。被保険者の全部の疾病の実数を相当 年月集計して此を平均して釆なければ実際の標準は立たぬのであります。之は我国の如く 健康保険の経験の無い所で実際の標準は数年後を経ねば出て釆ないのであります。健康保 険では最も安全な計数を加えて十七日としたのであります。此は疾病の日数でありますが 実際必要なのは一人当りの平均年額であります.英国の制度は人頭割でありますが最も高 かったのは一九二○年より廿一年の医師報酬及び薬剤治療材料代を合わせて一人十一志即 ち約五円五十銭であって一九二二辛から廿三年には九志六片に下り廿四年以降は九志即ち 四円五十銭であります。独逸では戦前に於て平均して医師報酬薬剤治療材料イ℃及び入院費 を合わせ十四志九片即ち約七円五十銭であります。今回の契約案の日本医師会に支払うべ き報酬は被保険者一人当り年額七円四十二銭六厘七毛を基本額として居りますから此等の 先進諸国を比較し相当の額であると信じます。政府の予算として計上してある療養費の額 は被保険者一人当り八円六十五銭でありまして一年間をしては被保険者数-五○万人余に 対し千三百万円余であります.此の一人当り八円六十五銭の中から歯科医師の報酬看護聾 移送費及び療養の給付に代わる療養費を合算した金額一人当り一円二十二銭三厘三毛を控 除したのが医師会に支払う報酬であって政府としては有り金全部を提供して居るのであり ます。当初の契約としては是れ以外に方法はないのであります。医師会としては実際にや って見て銭は足らぬかも知れませぬ。又充分であるかも知れぬ。即ち日本医師会は過不足 の危険を負担する事になりますが,将来は相当の経験に依り適当の額に更正するの時機が 来ると思います。」 「大正十三年十二月末日現在の医師数四三,七○八人によって其の際の内地人口数五千 九百十三万余人を割りますと医師一人に対する人口は千三百五十三人となりますが仮に各 医師が健康保険の医療報酬七円四十二銭六厘七毛により千三吉五十三人の医療を引き請け たものをすればその年額報酬は一万四十八円になるのでありますから薬剤治療材料処置手 術に要する器具機械其の他の一般的設備に要する費用を控除したとしても平均の所得とし て相当の額に上ると思われます。」 「世間の一部ではよく平均一日五十銭だから安いと言います。又大正十二年の時の予算 は平均一日七十五銭であってのを五十銭に下げたのは不都合であると言いますo此は予算 と実際とを知らぬ議論でありまして大正十二年の時は一日七十五銭と見積りましたが疾病 日数は九日半でありますから実際の金額は却って少ないのであります。五十銭と言うのは 見積の単価に過ぎませぬ。又之は実際の病人の治療費一日分を言うたのでもありませぬ。. ㌔.

(6) 6. 北. 原. 龍. 二. 凡ての被保険者即ち強い者も弱い者も実際に病気をする者もせぬ者も凡て取りまぜて之を 平均し一年約十七日病気をするものと見積りその一日代を五十銭と予算にしたに過ぎませ ぬ。」. 以上から理解されるように,まず年間の治療日数を17日余,一日当りの医療費を50銭 としてその積8円65銭を算出し,そこより一定額を控除した残額がこのおよそ7.5円なので ある。湯沢がこの金額の妥当性の論拠にしたのは,イギリスとドイツとの医療社会保険に 較べて低くないこと,将来全国民規模で医療社会保険が普及する事態を想定し,この金額 をそこに準用するならば,全医師それぞれに年額10000円以上の診療報酬が支払われる計算 となることであるふ もとよりこのような論拠の示し方はまことに妥当性を欠いている。もっとも肝心の17 日余と50銭についてなにも述べていないからである。説明の締めくくりの部分で海沢は, 「政府は幾多の材料により計算し更に安全計数を掛けて」といってはいるが,その内容に はまったく言及していないo. イギリスとドイツとの比較は,両国の社会保険関係制度が先. 進的事例として知られており,とりわけドイツの「疾病金庫」16)制度は,健康保険制度の立 案期に多くの論者によって取り上げられ参考例とされてきた事情はあるが,ただ金額だけ を比較してもまったく無意味に近い。そのことを湯沢が知らぬはずはないが,ドイツを例 に挙げることの持つ医師-の一種の「幻想効果」を期待したのであろう。同様に,将来は 年額10000円になるという説明も,開業医の利害感情へのすり寄りというペきもので,これ また「幻想効果」を計算したものであるといえよう。 とはいえ,湯沢は言及を避けたが,それなりのデータ集積と数値計算が政府側になか ったわけではない。そして海沢たちと折衝してきた日本医師会の幹部ち,それを泉知し納 『医政』読者である幻想に弱い一般医師-ドイツ 得していたはずである。湯沢の説明は, の医苧,ドイツの新薬,ドイツの医療機券などへの憧れを強く抱き,. 「ドイツ並み」である. といわれて納得する-を念頭に置いていたのである。. 4.. 17.3日と50銭 湯沢の云う約17日は,正確には17.3日とされていたものである。この日数およぴ1日. 当り50銭を算定したのは,内務省社会局技師の長瀬恒蔵である。長瀬は「私の本務として 与えられた課題は,本制度実施の基本である目論見書の作成である」17)と健康保険実施準備 期を回想しているように,社食局におけるいわば計算技師として,立法的・政策的という よりは数値的課題の解決に専ら従事した人物である。 ①. 長瀬は「保険給付の種類のうち死亡と出産に関する給付にあっては,いずれかと. いえば付随的のもので,しかも死亡率や出産率は従来から比較的正確な資料があったので, これらについての費用を算定するにはさほど困難ではなかった」とはいえたが,. 「医療に関. する給付に要する費用,すなわち療養の給付と傷病手当金は,本制度の根幹をなすもので, 費用の大部分を占めている関係上最も適確に見積ることが必要であるにもかかわらず,こ れに見合う資料がほとんどわが国にはなく」と嘆かざるを得なかったのであ′る。もっとも.

(7) 7. 長瀬恒蔵と7円42銭6厘7毛. 数年にわたる健康保険制度の準備期に,当初の所管省庁であった農商務省が調査をまった くおこなわなかったわけではない。同省工務局労働課は,健康保険法の審議に当たった労 働保険調査会に少なくとも5点の資料を提出している。それは「医師歯科医師診療報酬規 定調査」, 「工場鉱山其ノ他二於ケル従業員数二開スル調査」, 傷疾病ノ治療又之二困ル休業継続期間二開スル調査」,. 「鉱夫賃金二開スル調査」,. 「負. 「職工鉱夫疾病負傷率二開スル調査」. であり,調査時期は1920年8月から1921年12月の間である。また労働保険調査のためヨー ロッパに派遣された農商務省事務官清水玄18)が持ち帰り,翻訳された資料もないわけでは なかった。. しかし長瀬は,. 「既存の調. 「いままでのわずかな調査資料に頼ることは危険」と考え,. 査資料は参考にする程度にとどめ」ることとした。そして新たに「ある鉱山の人里はなれ たところにある鉱山所属の病院,診療所を選んで,従業員が自由に,かつ無料で治療を受 け得られるところの治療日数を調べて,現存の調査資料と比較」したところ,. 「著しい違い. のあることを発見したので,既存の資料の傷病日数に割増しを行ない,被保険者一人当り 一年間の治療日数を-七・三日と推定して,一日の平均治療費を五十銭と予定し,被保険 者一人当り療養の給付費を年額八円六十五銭と決定した」のであるo ただしこの長瀬の叙述には重要な考察・計算過程の省略があって,読者を納得きせな い。長瀬は説明していないが,実は以下のような計算をおこなっているのである。 ②. まず長瀬は,健康保険制度における被保険者予定数の推計から始めているo. 健康保険の被保険者の範囲についての基本規定は「工場法ノ適用ヲ受クル工場又ハ鉱 業法ノ適用ヲ受クル事業所著-工場二億用セラルル者」. (健唇保険法第十三条) (以下,当. 時の標準的呼称に従い職工・鉱夫という)であるが,このうち健康保険組合が設置され組 合管掌健康保険の被保険者となる者の数は,当初は見込みが立たないので,長瀬は,強制 加入者はすべて政府管掌健康保険の被保険者となるという大胆な前提を定める。 しかしそのような前提によるとしても,職工と鉱夫の人数の確定が困難である。長瀬 は,. 「工場監督年報」,. 「日本に於ける鉱山の趨勢」などから数値の基礎を把握し,その変動. の原因を探り,また「特定の期日における現在数」は「一年を通じたる平均人員より幾分 少なき」こと,. 「傷病その他の原因により,工場または事業所に使用せざるに至りたるもの. と柾も,なお引続き保険給付を受くべき被保険者存する」ことを考慮し,エ場法適用工場 における従業者数(民間工場:大正13年3月末,官営工場:同6月末)と「鉱業法適用事 業所又は工場に於ける従業者数」. (年月は同上)とに,工場法の改正と職工最低年齢法の施. 行による影響を加味して2,106,133人という数値をまず推計し,それに「百分の三に相当す る員数を加算し」以下の数値を定める。. 職工数. 男. 881,629人. 女. 936,133人. 計. 1,817,762人. 鉱夫数. 男. 268,552人. 女. 83,003人. 計. 351,555人. 合計. ③. 続いて長瀬は,平均療養日数の算定をおこなう。. 2,169,317人.

(8) 8. 北. 原. 龍. 二. 長瀬が当初入手したデータは次のようであった(単位は日)。. 7. G:. 女. 9. g!. g'. 9. 〇. .. 計 9 9. 鉱夫. 10 3. 男 女. 9. 計. 傷.4 負11. 男. 陶. 柄.1 疾ー0む. 職工. 負2. 疾病. 21 5. 6. 4. 10 9. だが長瀬は「療養日数の調査はすこぶる困難なる事情もあり,また右の計数は特定期 間における調査に基くものなるをもって,いかなる程度まで信を措くペき不明なるのみな らず,右の調査のうちには,歯科に関する療養日数及療養を受け未だ治癒せざる前に解雇 さられたる後の療養の日数はこれを含まざるの事実あり」と考え,また「本制度施行後に おいては,療養日数はその実施前た此し増加すべし」と見込み,. 「安全を期するため疾病に. ついては六割,負傷については三割の割増を」おこない,以下のように算定する(単位は 日)。. 職工. 男15. 鉱夫. 女16. この数値と上掲の「職工数・鉱夫数」から,. 男. 30. 女16. 17.3日を長瀬は算出するのである。. すなわち 881,629×15+936,133×16+268,552×30+83,003×16-37,557,172 37,557,172÷2,169,317-17.312901. ④. このような大胆な推定を重ねて17.3日を算定した長瀬は,さらに50銭の算定をお. こなう。 まず長瀬は, 「大正十一年十月より大正十二年二月に至る期間において,関東地方及び 関西地方における開業医師中,<開業後相当年月を経かつ労働者階級の患者を比較的多数を 取扱う者六十一名につき,その収支状態を調査したる結果によれば,患者一人一日当りの 収入は四十八銭乃至八十銭平均六十銭にして,支出は二十三銭乃至三十九銭平均二十九銭 なり。また別に,通院患者のみを取扱う官営工場,民営工場の治療所十箇所における大正 十年中の事実につき,通院患者一人一日当り治療実費を調査したるに十三銭乃至九十四銭 なるが,右の如く膏用に甚しき差異あるは,治療所設備,従業員の員数及び俸給患者数の 多少により大差あるに基因するものなるが,患者数に比較して,療用品章,薬剤費,治療 室諸費,俸給,家賃,建物修繕費等に著しき遍傾なきものにつき,比較的穏当なる治療実 費と認むべき額は患者一人一日当り二十二銭なり」という結果を得る0 ところが長瀬が得たデータは,通院患者に関するもののみであったので,さらに「恩 腸財団済生会東京市所在の病院につき,調査したるに,大正六年乃至大正九年の事実によ るときは,毎日百人の患者の内,入院患者は約六人に当る。その他,地方所在の病院につ いても大体右と同一もしくはそれ以下の割合なるをもって,右の割合に基き,総患者一人 一日につき入院料を計算するときは約十二銭となるをもって,これを前記の通院患者のみ.

(9) 9. 長瀬恒蔵と7円42銭6厘7毛. の実費二十二銭に加算したる額三十四銭が大体患者一人一日当りの実費と推定」出来ると の判断を得る。 なお「本法案施せらるるにいたるときは,原則として官公私の病院もしくは療養所ま たは開業医に療養を委託する予定」と長瀬は見通し,. 「その療養費は医師と協定の上決定す. 「療養費を五十銭と予定するは,董て穏当なるものと」の結論を. べきもの」との判断から, 得る。. このように,現代の通念からみれば,長瀬が50銭を算定した手順は,さきの17.3日以 上に荒っぼいものである。特に34銭から50銭への「飛躍」にはほとんど論拠がないと云わ ざるを得ない。長瀬もそれを泉知していたのであろう。. 「医師との協定」と長瀬がいうこと. ばには,技官たる長瀬が,横からみていた日本医師会と社食局とのやりとりへの苦々しい 思いが暗示されている。その中で,日本医師会との交渉の場に持ち出したものではないが, かつて「療養の給付」の具体的方法も定まらぬ時期に,一度は腰だめの案として用意され たことがあり,湯沢も言及している「1人1日75銭,. 9.5日」,すなわち年額7円12銭5厘. を上回る数値を得るための「飛躍」が求められたのであろう。また50銭の数値としての単 純明快さも,歓迎されたと思われる。 このように,長瀬のエ夫と努力は最終的には活かされず,まず政治的・政略的に金額 がまとめられ,あとからそれに数値上の裏付けが用意されるという段取りであった。考え てみれば,この国の政治過程はおおむねそのようなものであり,長瀬のような技術官僚の 役割は,この過程に介入出来るものではなかったのである。この国の医療問題,社会保険 問題と呼ばれるものの,長き錯綜と混迷の発端がここに見られる。. 5.長瀬. 怪我. 長瀬恒蔵は,. 1886. (明治19)年岐阜県高山生まれ。. 1917. (大正6)午,農商務省に採. 用され短期間の中央度量衡検定所勤務のあと,技手として商工局保険課に所属したこと を皮切りに,のち内務省社会局健康保険部に,さらに厚生省に兼任で転じながら,. 1942(昭. 和17)年の退官まで,臨時震災救護事務局への出向を除き,官僚としてのほとんど全期間, 社会保険にかかわる業務に従事した人物である。彼の在職期間は,健康保険に始まり,職 員健康保険,船員保険,国民健康保険などの,この国の医療社会保険制度が創始される時 代である。彼はこれらのすべてにかかわり,目論見書の作成に参画したo. とくに健康保険. の目論見書作成期は,彼は技師に昇格していたが,技手ひとりを補助役としながらも,独 力で業務を担った。 長瀬の普通学擾は,陸軍砲兵工科学校銃工科卒業のあと,下士官として近衛連隊に勤 務しながら通学した東京物理学校が始まりである。同校卒業後,. 3年間,工業補習学校の. 物理・数学の教員として働きながら,専門学校入学資格検定試験(いわゆる「専検」)に合 格し,農商務省勤務中も中央大学経済学科の夜間部に通学し卒業する。明治・大正期の苦 学力行型青年の好例である。 このような学歴・職歴の官僚が,ほとんど東京帝国大学法学部・高等文官試験(いわ ゆる「高文」)合格というキャリアで占められる内務省高等官のなかで仕事をしたこと,し.

(10) 10. 北. 原. 龍. 二. かもそれが,この国の社会保険の最初の骨格を作る仕事であったことは,記録される意味 のある事実である。 長瀬は保険数理の「専門家」として,自他ともに認められていた。彼は官僚退職後, 民間会社勤務を経験したのち,財団法人船員保険金に属し,病院事務長,医療部長などを 務めるが,官僚勤務の頃から,少なくか一社合保険関係の研究業績を残す。その最大のも のは「傷病統計論」. (健康保険医報社出版部,. 1935年)であるが,これは健康保険の給付開. 始後の数年間の実績に基づき,傷病と医療を統計的に観察・記述した貴重な事績である。. 注・引用文献・補言己など 1)社会保険医寮とは,医療社会保険制度によって規定される医療の総体を掃す。この国の現在の 医療は,基本的にそれであるが,この国の保健医療社会学研究者の多くは,この事某を正視しな い。一例を挙げよう。この国の医療問題のうち,長く解決できないもののひとつは看護婦不足で あるが,その最大の制度的基盤は,医療社会保険制度の体系において看護の地位がきわめて弱く 低いことである。別言すれば,診療中心主義に貫かれた医療社会保険制度が維持されていること 「医療社会保険と看護」とならねばならないはずである. である。それゆえ当面の研究上の課題は,. が,残念ながら管見の限りではそのような研究の事例はか-.私もまだ「着手未遂」である。 なお,社会保険医療制度の基礎的・歴史的事実については,以下の私の論文で取り上げてい る。 7 「信州大学教育学部紀要」第48号一第55号1983-1985. 北原. 龍二. 社会保険医療研究1. 北原. 龍二. 健康保険制度の発足と地方医師会1. -. -3. 「宇都宮大学教育学部紀要」第39号-第. 41号1989-1991 (昭和13)年4月,国民健康保険法成立,. 1938. 2). 1939年4月,職員健康保険法・船員保険法成立. などである.ただし船員保険は,労働災害保険,年金保険を包含するものであった。. 3)済生食の設立の契機となった1911年の「施薬救寮の勅語」には,. 「無告ノ窮民ニシテ医薬絵セ. ス天寿ヲ終フルコト能-サル-朕力最モ珍念シテ措カサル所ナリ」の文言があった。 「自由に」とはいっても,. 4). 1906. (明治39)年の医師法・医師会規則以降は,医師会の設立や会. 則の制定には地方長官の認可が必要となった。しかし,患者-の「統制価格」の掲示には,. 「00. 県知事の認可により」と威圧的文言が添えられるようになり,また,会則に違反する金員への懲 戒権を医師会は手にしたので,統制力は強化された。 5)多くの「医師会史」に同じような例を見ることが出来るが,豊橋市医師会史編集委員食 市医師会史(全4巻). 1976. 堂橋. 豊橋市医師会の第1巻には,この「統制価格」の具体例の多数が写. 真で掲載されている。いずれも患者待合室などに掲示される様式のものである。ただし,. 1927年. の例までは,自宅診察料・往診料・処方室料・患部処置・内服薬・頓服薬・外用薬・注射療法な どの事項を並べながらも,伝統的な呼称「薬価規定」が用いられている。 6)済生会については,北原 -5. 信州大学教育学部紀要. 龍二. 鈴木梅四郎と実学診療所一日本社会医療史研究ⅠⅠ-1. 第30号一第35号1971-1976. において概略を述べた。. 7)上記6)の文献が,実費診療所に関する私の基本研究である。. 8)健康保険法の定める「療養の給付」は,当時から日本語の語感に馴染まぬものであった。. 「療.

(11) 11. 長瀬恒蔵と7円42銭6厘7毛. 養」は,. 「療養に努める」,. 「目下療養中」のように傷病者の主体的行為ないし状態をあらわすこと. ばであり,他より受けるものではない。この珍妙なことばが選ばれた背景は不明であるが,法令 用語であるために公式文書では使われながらも,そうでない場面では.行政官によっても「医療 」を付す。. の給付」と言い替えられること頻繁であった。本稿では「. 9)当時の日本医師会は道府県医師会医師会を会員として組織されていたから,医師個人が会員 であることはないが,便宜このように表現した。 10)日本医師会が政府から受けた診療報酬は,被保険者の数により道府県医師会医師会に配分さ れ,医師個人には「診療報酬点数表」により,出来高払いで配分された。人頭式で入手した金銭 1点単価は絶えず変動した。のちに固定単価制となった. を,出来高式で配分するのであるから,. あとも,点数制は医師の関心と不満を支配し,いわゆる「点数稼ぎ」の悪風を生み,さらには医 療社会保険そのものへの敵意の形成を促したが,すでに70年余にわたって代案なきまま妊持され ている。. ll)注9)と同じ。 12)現物とは医療サービスという無形物の現物を指し,現金給付に対比されるc ハ有体物ヲ謂フ」. 「本法二於テ物ト. (民法第85条)を引くまでもなく,医療社会保険行政が頻用する「現物給付」も. 日本語の語感に馴染まぬものである。多くの保健医療従事者が「現物給付」を包帯やガーゼを患 者に与えることと理解している例が,この語の定着の低さを伝える。 13)陸海軍病院を除き,この国の近代前半は官立個立)病院を設けないのを原則とした。財政上 の理由が最大のものであるが,より本質的には,医療従事者の資格・免許制度の整備を図りなが らも,医療サービスを私人の商取り引きの世界に置いた結果である。教育サービスと対比すれ ば,その差は歴然としている。 1928. (昭和3)年春より,政府と契約した官公立大学附属医院での「療養の給付」が始められ. た。契約したのは14大学の16医院で,京都府立医科大学以外はすべて官立大学,契約条件は「昭 和五年度迄は当該医院規程料金の八割相当額であったが,其の後七割相当額に改められ」たo 公立病院との契約は1927年度30病院から始まり,次第に増えて1931年度の48病院となるが,そ の後また減少する。 社会局保険部. 健康保険事業. 沿革史社会局保険部1937. 参顔. 社団法人実費診療所は,健康保険の「療養の給付」を担当することを切望し,早くから政府と の契約を求めるが,社食局は応答しない。美雪診療所は官公立病院でもなく,医師会会員でもな 「本社団の如きその設立の精神よりい. いので,政府の予定する診療契約相手方に含まれておらず,. ふも,従業員多年の訓練よりいふも,健康保険法による被保険者の治療機関として,最も適当の 資格を有する」はずという美雪診療所例の主張は一切無視される. 社団法人実費診療所社団法人実費診療所の歴史及事業第三巻創立二十五周年記念社団法 人実費診療所1935 14). 『医政』第2巻第2号. 参照 pp.9-14. 1926年10月. ただし『医政』の裏表紙に示されている発行年. 月は,たいていは事実と一致していない。 15). 『医政』第2巻第3号. pp.3←13. 1926年11月. 16)ドイツにおける傷病社会保険制度は,. 「疾病金庫」. Krankenkasseの名でこの国に早くから紹.

(12) 12. 北. 原. 龍. 二. 介されているoもっとも具体的な紹介は,日本医師会理事渡辺房吉がペルlけ市の疾病金庫事務. 所を訪問して得た知見によって執筆し, 『医政』第2巻第1号-第8号に断線的に連載した「伯林 、市一般地方疾病金庫の状況と保険給付」であろう。 これを管見すれば,ただ診療報酬の金額だけを比較することの無意味さは明白である。 17)以下,長瀬の文章の引用はすペて次の文献よりおこなうが,煩雑さを避けるため,いちいち 真数を示すことはしない。 長瀬. 恒蔵. 社会保険と五十年. 社会保険新報社1953. 長瀬ほかの社会保険行政関係者の履歴等については,社会保険人物評社会保険倶楽部1969 を参照 18)例えば次のようなものである。. ①. The. @. Report. lndustrial. Assurance. Assurance. Act,1923,イギリス. of the DepartmentalCommittee Companies. なお,清水玄は,. 1892. and. Collecting. on. the business.i. Societies,. Industrial. 1920,イギリス. (明治25)年生まれ,社会保険担当者となるべく養成された最初の行政. 官僚o内務省に在職中,ほとんど社会保険関係に専念し,社会保険制度の立案に当たったo退職 時のポストは社会保険局長oのち社会保険診療報酬支払い基金理事長,労働福祉事業団理事長, 船員保険金会長などを歴任。 <完>.

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