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近世村落の自治と領主の支配 : 近江国菅浦村について

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近世村落の自治と領主の支配

1近江国菅浦村について一

は し  が  き

 近江国浅井郡菅浦村︵現滋賀県伊香郡西浅井村大字菅浦︶には在地の史料としての鎌倉時代以降明治時代に至る多数の古文         書が、大字の共有文書として、又は氏神須賀、神社の所有文書として保存され今日に伝えられている。特に中世の古文書は 夙に多くの先学の著目する処となり、中村直勝博士・牧野信之十島の研究以来この交書を利用した幾多の興味深き論著が         公にされてきた。  元来菅浦村は平安時代又は裟れ以前に、隣接せる大浦庄から分れて成立したと思われる村落であって、言立丈書によれ ぽ寺門三階院出たりし大浦庄との対抗上、平安末期には村をあげて竹生嶋へ寄進しており、建長四年︵西暦一二五二年︶に は山門檀那院領となっていた。鎌倉時代には禁裡供御入としても活躍し、南北朝時代以後は更に守護代伊香郡奉行目賀田 左衛門入道浄西の並立の支配に属した。これらの支配関係は甚だしく重複錯綜しているが、大永・漏壷年代には京極氏、 天文.永享年代には浅井氏の支配下にもあった。その後近世に入って暫く不明であるが、慶安四年︵=ハ五一年︶本多下総 守康次が伊勢の亀山から膳所に移封されてより後は膳所藩領となり明治維新に至った。  本稿では従来殆んど顧みられなかった当村の近世文書を主たる史料として近世村落の自治機構及びその機能について若      近世村落の自治と領主の麦配      九

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     近世村落の自治と領主の支配      噌○ 干の考察を為すことにした。そしてこれらの村落の自治が近世大名の村落支配と如何なる関係にあったかについて考えて みることによって、近世幕藩体制下における村落の性格を究明する為の一助にしたいと思う。   ①現在これらの古文書の原本はすべて本学史料館に於て保管されており、中世の部分については東京大学府ぴ京都大学にその影写本    が作成されている。   ②中村直勝博士著﹃荘園の研究﹄後篇第七.﹁中世農民の生活﹂。    牧野信之助氏編﹃滋賀県史﹄第二巻及び第三巻。    林屋辰三郎氏﹁近江須賀神社とその村落﹂︵同氏著﹃中世畠山の基調﹄所収︶、同﹁中世農村生活の現実的展開﹂︵同氏著﹃古代国    家の解体﹄所収︶。    横山暗夫氏﹁供御人の活動と村落連合﹂国史学第五十九号。    石田善人氏﹁惣について﹂史林三八巻六号。    尚この外にも部分的に菅浦に言及した史学関係の論著は枚挙に逗がないが、これらについては省略する。       “ 二 寛保三年における代官と百姓との争論  抑く近世村落における法規範には立法者の村落に対する地位が全く対照的な二種の系統のものが並存していた。当時の        菅浦丈書はこれら二種の法規範を﹁公儀・地頭法度﹂と﹁村法度﹂という文言で表現した。前者は領主法であるが、後者       ② は村落の自治法であると一応考える事ができよう。即ち﹁公儀・地頭法度﹂は領主の支配に基いて生ずる法規範であり、 ﹁村法度﹂は村民の自治に基いて生ずる法規範である。而してこの二元的な法規範が近世村落に於て如何なる関係にあっ たか、換言すれば領主の支配と村民の自治とが如何なる関係にあったか、ということが近世幕藩体制下における村落の政 治的地位を決定する重要な要素になる。そこで先ずこのような観点から江戸時代中期寛保三年︵一七四三年︶における菅浦 村代官と百姓との争論について若干の考察を試みよう。

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 さて質料村の属する膳所藩では村落支配の機構として庄屋・肝煎・組頭等村方三役の外に殆んど料理に夫女一人宛の     ﹁代官﹂なるものを置いていた。即ち領・王の支配はこの代官を通じて村落た及んでいたと考えられる。ところが菅浦村で はたまたま寛保三年豊浦代官と庄屋以下村方百姓中との間に争論が発生し、遂に藩当局の裁定を仰ぐに至ったのである が、この争論は主として代官による領主の支配と村民の自治との衝突であり、且つこの裁定の結果当然の事乍ら前者の後 者に対する優越があらためて確認される事になった。以下先ず寛保三年十月の裁許書壼巻及び争訟丈書控書等によってこ の﹁浅井郡菅浦村代官嶋津新次郎と同村百姓共争論﹂の概要を述べる事にしよう。        ④      ぴさし   もろかわ  事件の発端は同年より五年前の元文三年︵一七三八年︶六月に遡る。同月雨水の為山崩れが生じ、その節字日差及び諸川 の戴ヶ所に土砂が走り込んで磯辺の湖水が埋り、そこに置洲が出来た。そこで代官嶋津義烈郎は湖水の申に新たに出来た 洲であるから是迄支配する者はなく、村方にも差支えないものと考え、翌畳字四年三月に新田として開発することを願出 で許可された。その後同年八月前記ニク所の春宵川の方は波によって流失したが日差の方は僅かに残った。その後二年目 寛保元年秋、藩吏奥村丈兵衛の検分により年貢を米五升と決定、同年及び翌寛保二年の両年は代官嶋津新次郎方からその 年貢を上納したのである。ところが寛保三年六月に至って、その前年たる寛保二年の年貢算用目録を仕立て、代官から村 方へ見せた所、右新田について﹁本一五升論議五勺新女郎立﹂と記載されている点は村中得心出来ないからこの目録に印 形を致すわけには参らぬ、と主張してこの代官願の新田をめぐって代官と同村百姓共が真向から対立するに至った。  これに関する百姓側の言分は次の通りである。即ち百姓側は願所について新田願が出されていた事は知らなかった、そ こで去箇年︵寛保二年︶の御年貢米目録に﹁当年空米五升聖業五勺磯辺御年貢新次郎立﹂と記載されていたのに驚き、代        潮岬亥郎に対し、 ﹁ひさし黒川磯辺ハ村中垢内肥シ揚︵共同採外郎⋮⋮筆者︶ 晶而御座替故、持主付駅鈴而ハ、何分二も難 成御座砿﹂という立場から、この﹁磯辺薪田御年貢共二村支配二野下砿様畿﹂再三申入れたが代官これを承引せざる故、      近世村落の自治と領主の支配       一一

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     近世村落の自治と領主の支配      一二 目録に済印形をしないのだ、と。          そこでこの争論は代官側から藩に対して提訴され、膳所藩は家中松井惣助及び中山仁内をしてこの取調べに当らせた。 寛保三年八月二十三日には藩当局の役人が現地に出向して論所の検分もなされ、同年十月に至って裁定が下された。それ によると第一に百姓側は難所たる日差・諸川磯辺は共同採肥場であるが故に村方惣百姓支配たるべき事を主張するが、現 地の検分によるとこの辺は一向に利用された痕跡がない。従って﹁百姓共申分無相立﹂、と判定された。  第二に、当年︵寛保三年︶六月道心磯辺が新次郎の年貢地である事を知らなかったというが、酉町︵寛保元年及び二年︶両 年の黒馬に明記されており、これらは裏書として﹁表書之通り御免定百姓方稀書下男、奉拝見立警語割仕、庄屋役人小前 之帳面も私共吟味仕相違無御座砿﹂と書記され、 ﹁組頭拾六入・百姓惣代式入・都合拾八人﹂が連印の上、郡代役所へ提 出された。殊に皇女三年︵寛保元年︶の ﹁年貢諸入用算用目録﹂にも﹁磯辺御年貢新次郎立﹂と書記し、村人へ見せた所 忠老︵鱒浦村独特の自治的役員の呼称、これについては後述する︶共拾人が奥書印形して新次郎と庄屋・肝煎方へ提出した。従 って今更その時論に当った百姓が文盲にして﹁事訳ク不存砿而致印形砿﹂等という百姓共主張の論拠は不届至極なりとき めつけられた。  かくて﹁兎角百姓共申立、始終不都合二得相聞砿﹂と百姓側に対する非難が特に強く現れている点は、百姓側の手続上 の落度があるからではあるが、代官が領主権力の代行者である点からして当然でもあったろう。  然し乍ら代官側の主張も全面的によしとはされなかった。それは﹁此場所百姓持地之御樟先キ一昔茂無常、支配仕砿者 無之、主なし二而無差構揚所と新次郎訴梶﹂点に於て代官新次郎の申分は相論難し、というのである。何故ならば百姓側 が証拠として提出した天正・慶長年闇以降の﹁田畑屋鋪売券状﹂試拾六通の﹁際限書二元者竿立限と書記﹂しているから である。 これら売券の効力を認めて湖水際の﹁支配﹂権︵醤管理権︶については六尺竿の立つ桑園、即ち漫水期・渇水期

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を平均して六尺の深さまでの範園、実際には凡そ石垣際から平面にして式問半は﹁田地合壁持主之者共可致支配﹂と裁定 された。従って論所についてもこの原則を適用し、酒間半以内は﹁村方持分支配﹂に任せ、武問半以上離れた所へは百姓 は手を出すべからずという事になった。  以上が寛保三年置おける代官と百姓争論の第一の争点であり、この訴訟の直接の動機となった点に関する始末である。 ここで注意しなければならない事は、百姓側が平常利用してもいなかったらしい湖水際の僅かな新田をことさらに争った ことである。それはこの争論に際して、単にその新田のみが問題だつたのではなくて、従来から代官と村方百姓との問に 対立関係があり、偶ζこの新田問題を契機として緊張が極点に到達したものであると思われる。 ①一例を左に掲げよう。      差上申口上書      ヘ   カ         ヘ   ヘ       ヘ   ヘ      ヘ   へ   ︸、御公儀様御法度之趣、急度相守可申夏、御地頭並6条ヒ被仰付砿御法度、聯も為相背詫間鋪事      も      も   も   一、御村御法度之義、被仰付叔通相守可申砿   一、当村支配人被仰付砿御法式へ、毛頭為相背申間舗砿   右之御法度急度相認可申砿、若御法式二目相背砿ハ∼、私共被召出、何ケ処こも可被仰付砿、依之当村之義丁子之趣私共急   度為相背申間敷、為後日一利指上申紘、以上 宝暦十ゴ一癸未草六月 赤崎村  庄屋役  肝煎役 源 四 郎 右 衛 門 印 印 当村御支配人   源内様名代    多郎右衛門様 ︵傍点筆者.以下同じ︶ 近世村落の自治と領主の支配 一三

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   近世村落の自治と領主の麦配       一四  これは菅浦村の分銅たる赤崎村︵﹁いんない﹂ともいう︶の村役人から本村たる西台の支配人に対して差出した﹁口上書﹂である  が.最初の二箇条によるとこの村を支配する法規範は公儀即ち幕府.及び地頭即ち膳所藩本多侯から仰付けられた﹁公儀・地頭法  度﹂と菅浦の﹁村法度﹂の両者からなることがわかる。但し﹁地頭﹂の語は寛保頃に満ては大名の事をも意味したが、幕末には大  名と区別して旗本のみを意味した︵服藤弘司氏の御教示に謬る、徳川幕府﹁御触書集成﹂参照︶から、藩法を﹁地頭法度﹂という  言葉で表現する事は必ずしも直ちに一般化するわけにはゆかない。 ②書法と藩法とを一括して﹁領主法﹂という語で表現するのは多少厳密性を欠くが、ここでは村自身の﹁村法﹂に対し支配者側から  出る所の﹁封建領主の法﹂全部を含めて﹁領主法﹂という言葉を使用しておく。  前田正治氏も﹁近世の村を直接支配する法には凡そ二通りの系統が見られる﹂とし、一は﹁封建的な上下の支配関係に基く領主の  法に属するもの﹂、他は﹁中世以来村の慣習に基いて発展し来った自治的規約たる村法﹂であるとしておられる︵﹃日本近世村法  の研究﹄七頁︶Q 但し一般に﹁村法﹂として考えられている近世の村定・村掟等の成文法の申には宗門改帳や五人組帳の前書と大  同小異の内容を持つものが多い。従って村定・村言論の表題を有するからといって直ちにこれらの成文法規がすべて全く領主法か  ら独立した自治法であるとは到底考えられない。 ﹁村法度﹂の自治的性格の限界については後述する。 ③膳所藩領各部の﹁代宮﹂は在村の百姓特にそれまでの庄屋等が昇格せしめられて任命された。菅浦村以外の一例を挙ぐれば﹁膳所  藩藩政日記﹂︵滋賀県.庁所管︶によると元禄五年六月二日目で藩当局から同藩領栗太郡﹁下笠村御代官宇野忠右衛門﹂に宛てた証  丈に﹁其方知新≧庄屋役早来転所、御代官役被仰付砿内、庄屋当分外へ申付度由、相談之上願之通申付砿﹂とある。近世中期以降  累代菅浦代官を勤めた嶋津家は既に丈明十五年の﹁年貢帳﹂及び延徳四年の﹁山畠納媛﹂に﹁嶋津﹂の名を以て現れ.明応元年十  二月廿五日付言為重庄より嶋津宛畠売券.がある。近世になると慶長七年検地帳をはじめ、幕末に至るまでの土地関係諸帳に﹁新次  郎﹂又は﹁新次郎太夫﹂,という登録人名を以て常にかなりの大高を受持つ百姓であった。慶安四年即ち本多氏膳所へ入部の年八月  ﹁大浦之庄兵衛﹂なる者が大浦・菅浦一組としてその代官に任命されたのに対し、 ﹁曲浦惣百姓中﹂より難儀を申出た。その結果  については不明であるが、菅浦丈書中に慶安五年︵昌承応元年︶から寛文元年にかけて﹁庄屋﹂の肩書を有して文書に現れてくる  ﹁新次郎﹂が、元禄三年の文書では、 ﹁代官庄や﹂とあり、元文三年に至ると﹁代官嶋津新次郎﹂となり、以後文化年間より﹁菅  浦﹂と改姓、幕末に至る。幕末には隣村大浦村の代官をも兼帯していたが、宝永七年迄は大浦には別に赤尾氏なる代官がいた事が  前掲﹁藩政日記﹂によって知られるo

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④丈書には﹁六年以前﹂とあるがこれは当年も数えての数字である。総じてこの交書では﹁何年以前﹂という時こ−のような勘定の仕  方をしている。 ⑤﹁比内肥シ場﹂については同裁許書に﹁岩内とハ本田之垢水流出砿事、肥し場とハ水底二藻草を取り、本田之肥二仕砿﹂と百姓側  の説明を引用している。 ⑥﹁膳所藩藩政日記﹂、自寛保三年至延享三年分に標、る。 三 近世村落の共同体的及び自治的性格   i右争論を通じて見たる一  この寛保三年争論における百姓の主張の中に近世曲浦村の共同体的性格の片鱗を窺うことができる。その若干の点をあ げてみれば先ず﹁垢掻・肥シ場﹂の如き共同に使用している場所に持主をつけるべからず、 ﹁先鞭之通、村方惣百姓支配 に被仰付被下﹂たし、というのが﹁村方斎く申砿﹂意見であったということである。  次に本来湖水際は前立限り﹁田地合壁持主之者共可致支配﹂ものであり、葭・魚苗を苅取り田畑へ運ぶ事が許されてい たが、然し乍らその三所から泥土を取り﹁本田之筍流砿跡江持運ひ繕﹂う事は﹁村中6取之﹂つて差構なきならわしであ った。更に、菅浦村居屋敷出離れから日差・百川への浜通り道筋七八町程の問についても田地合壁持主の竿立限りの﹁支 配﹂が認められる事は右と同様であるが、ここには﹁古来先買﹂として村中の者が﹁他人骨面前之濱江参砿而、銘く前ζ より致來砿丁場二常中杭を立、稲垣を結ひ置、名目をはさ場と申出而、永代麦と稲を干シ﹂ていたが、相互に一向差構申           さなかったのである。一般に﹁田畑二庵り砿合壁之山林も、立木ハ其田畑谷6支配仕砿得共、鎌二而かり取砿柴木等者、 他入之持分之合壁江参砿而何程菱取直而も、持分之者構不申﹂というのが村中古来の仕来であった。  これを要するに山や水の﹁支配﹂権︵H管理権︶は個人にあってもその中村民各個の生活にとって必須の特定範園につ      近世村落の自治と領主の支配      一五

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     近世村落の自治と領主の支配      一六 いてはその用益権を村中共同で享受するという仕方が慣習的に行われていた事が分る。そしてこの争論は日差・諸川磯辺 の代官新田の地域についても右の用益権を確保せんとしたものであった。  以上前節より述べ来った争論の概要は同争論の最初に掲げられた最も主要な争点であるが、倫このぽかにも右の論所に 直接の関係なきいくつかの争点があった。その第一は村方に於て村法度として酒法度を立てた事である。かねて代官新次 郎は運上銀を負担する酒株を所持して、当村に於て酒商売を営んでいた。然るに旧冬︵寛保二年暮︶から村中酒買う事を停 止し、当春︵寛保三年︶に至って、 ﹁酒買畝者ニハ銭壼貫丈宛科料取消申﹂と村の東西に法度札を建てた。羽村は辺土に して山坂難所を隔てた地であるから他村よりの購買者もなく、この為商売を継続する事ができなくなってしまった。これ について代官側が訴えているのに対し、百姓側の言分は当村が困窮の村方であって、呑酒普及せば年貢の未進も出来する おそれがある事を理由とした。取調の結果は年貢未進等は出来せざる様心得ねばならないが、家業の妨にもなり、また運 上を負担している酒株の存する村方としてかかる酒.法度は不法の儀なる故向後停止を命ぜられる事となった。  借株・運上の事は藩の徴税機構にかかわる制度であるが、その存在にもかかわらず、 一時置たりとはいえ、村法度によ る不買同盟を以て、この酒商売を排斥する事ができた事は、近世村落が藩権力の村落支配下にあって、爾独自の村内規制 力を有していた事を示しているといえよう。然し乍ら、藩法たる地頭法度がともかく村法度に優越する法規範であった事 は、酒器運上が主たる根拠となって右不買同盟が解除せしめられた事によって知られる。叉繋留法度によると酒を買った ものは銭無貫丈の科料に処せられたが、同時に博突をなすものは銀三百目の科料と規定されていた。この法度札は百姓言 分によると﹁ロバ今初篇警笛砿儀二而付与以無御座砿、前くも度く仕隠事﹂であった。然るに銀三百目の科料を取立てた上        で﹁其分昌差置﹂く事は、博突死罪と規定された﹁先年公儀御触﹂に抵触するという理由により、今後は立てるべからざ る事と相なった。         .、ピ

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 第二は未申両年︵元文四・五年︶午年︵元文三年︶山崩洪水の為田畑立毛よからず、以後村中殊之外難儀せる為、村中の 相談により﹁他借管轄は格別、村之内二歩之貸借りハ利なしユ取遣り﹂する事にした。この件について代官側は﹁新次郎  ︵菅浦村代官⋮⋮筆者︶江何之断りも無之﹂と訴え、百姓側は﹁御代官へ相窺相野申砿﹂と弁明した。裁定の結果は﹁向後 者弥以村中相談之上、新二郎へ窺砿而、双方得心二男相極可塑﹂という事となった。貸借の利足を村内に限り帳消しにす ることによって最も損害を受けたのは﹁他村より銀米借り来、村之取替賄致遣砿﹂代官であったに違いない。このように 個人的に被害の差の甚だしい取極めが、村中相談によって為され得るのは、当時菅浦村が自治的機能をかなり持っていた 事を物語る。然しこの衆議が、やはり代官の認可を必須条件とされた点は、村の自治的機能があくまで領主的支配の枠内 剖にあった事を示すものである。        ヘ   へ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   へ  最後に代官の訴えによると﹁当卑下儀者、庄屋・肝煎之外二住古6忠老役と申宗門拾人有之、村之取縞蚊、山法度之外  ヘ  ヘ  へ 村法度之儀ハ、私︵代官⋮−筆者︶へ窺砿而、得心之上村中江触与野來砿所、近年ハ我儘二罷成、柳以窺砿義軍之、何事二 塁茂雑具相極申触草間、左様ユ相心得砿へ杯と申越、畢寛骨義ハ頭取拙者共之下役と相心得罷在陣哉、小百姓へ之触流も 同事之致方当掻砿、殊二当六月頭取之者共相輪古格を破り忠老共退役致させ村方混乱仕来間、発頭清太郎・助太郎・太郎 兵衛早強頭取之者四五入被召出、御吟味之上向後我儘不平蔵様二奉願砿﹂︵傍点筆者、以下同じ︶とある。即ち村之取締を している忠老役二十人が山法度の外村法度につき代官に対し専横な振舞がある事、及び村内頭取の者共が古格を破って忠 老を退役させた事を非難している。これによると前述の如き代官の代表する領主権力に対抗する村の自治的勢力は主とし てこの忠老役二十入を中核とし、 ﹁頭取聖者﹂によって牛耳られていたかの如くである。 ﹁頭取之者﹂の実体については 明らかでないが、村法度に最も重大関与をなす、村の自治勢力の主体は少くとも制度的にはこの忠老役二十人であると考 えられる。而して山法度・村法度に関する忠老役の専横については百姓共の﹁村中庄屋・肝煎・忠老、御代官迄相談之上      近世村落の自治と領主の支配   ,       一七

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     近世村落の自治と領主の支配       一八 致砿﹂という答弁の如く﹁向後弥庄屋・肝前︷・組頭壷掘相談之上、新次郎江窺砿而和談之上二可致﹂という事になった。  以上の種汝の争点に関する争論の経緯に於て共通して見られるのは代官の支配と村の自治とが村落を支配する二元的法 規範を形成したという事、及び若し﹁公儀.地頭法度﹂と﹁村法度﹂とが矛盾した結合には前者が後者に優越したという         事である。かかる﹁村法度﹂の﹁公儀・地頭法度﹂に対する独自性の限界は﹁村法度之儀は庄屋.肝煎.組頭・益男共会 合相談仕、御代官江窺鉱上二而村中江触流量砿﹂と百姓側からの口上書に述べられている如く、立法は庄屋.肝煎.組頭 及び忠言共の会合相談によってなされるとしても、その施行が代官の認可を必須条件とするという法度としての成立の仕 方からも察知する事ができる。  最後の争点の他の一半たる﹁頭取之者﹂による忠老退役の件については、裁定の結果忠老役というものは﹁競買庄屋. 肝煎・組頭とハ格別二藍、他所他村二無面面浦ユ限り砿内愚智役人二百砿ヘハ、強磁不及沙汰﹂ということになった。村 役人の任免権が近世に於ては藩当局にあるのが普通であるのに対し、忠老役罷免については村方の自由に任されたという       ④ 事.は彼等忠老役の自治的役員としての性格を示す重要な徴標であるといえよう。そこで女僧に於て、以上の如く領主制的 限界を与・尺られつつも爾依然として存在する村落自治の制度的な担当者であると考えられる忠老役について考察したい。 ①但し、此の場所も所詮﹁竿立限支配場故、畑之砂石をはさ場江持出し捨砿節.はさ杭等邪魔二成ほ得者.断りなし二抜退ケ碕而も  はさ致砿者﹂がとやかく申す事は許されなかった。 ②博変死罪という公儀御触は膳所藩より出されたものかと思われるが、あまりにも酷刑に過ぎ、なお疑を存する。 ③この点についてはかねて前田正治氏が村法は元来農村の慣習に依黒し、衆議によって制定されるものであるとし、特にその制裁規  定に着目して村法の自主姓を強調しておられる︵前掲書︶。 これに対して児玉幸輪講は前田氏のこの論旨を批判して、村法が持つ  ている﹁領主の支配権の伸張としての意味﹂をも汲みとるべき事を指摘された︵史学雑誌六〇編九号七〇頁︶。 ④庄屋等の髭面﹂二役と称せられる村役人は前掲史料にも窺われる如く村から推薦されるものであっても将又たとえ入札によって選定

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されたものであっても、彼等を村民が任意に罷免できないのが原則である。中田薫博士は乙の点こそ村役入等か真の意味における 村民の惣代ではない一つの徴標であると考えてカられる︵中田薫博士﹁明治初年に於ける村の人格﹂法制史論集第二巻一〇八二一 三頁参照︶。        四忠老役の制度とその変遷  近世幕藩体制下における村落行政機構は藩によって必ずしも同じくはないが、膳所藩では前述した如く各村に代官と庄          屋・肝煎・組頭より成る村方三役を置いた。然し乍ら他方では中世の伝統を受継いだ自治的機構が存続していた。即ち前 節に掲げた寛保三年の丈書に﹁往古6忠老役と申者式拾入有之﹂といわれたものがこれである。この二+人の﹁忠老役﹂ が恐らく室町時代にこの村に存在した年老・宿老又は乙名二十人の役員の系統を引くものであろうという事は容易に推測 されるが、この点については稿を改めることにして、ここでは近世における忠老役の大要について述べてみよう。文化十 三年二月の﹁主法書﹂に、   一、正月五日・六日両日村方中老豊中とも寄合茶三相勤砿得とも、費成義二御座砿故、先年村方火難目付難渋二三故、相止メ居申砿事 と定められており、同文書の別の箇条に、   一、若者仲闘十五歳6ミ十才迄 とあり、この箇条は中途で墨消してあるが、中世における﹁おとな・中老・若衆﹂の如き年齢階層別が近世にも存在し、 その中に﹁中老﹂なる一階層があって、而もその年齢は三十才以上のいわば働き盛りであった事が分る。 ﹁忠老役﹂は恐        らくこの年齢階層に属する村落の役員であったろう。  而してこの忠老については寛保三年中訴訟文書に﹁古ハ武拾人忠老有之、中古二十早耳シ、壼年替り二国玉得共、段く      近世村落の自治と領主の支配      一九

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     近世村落の自治と領主の麦配       ご○ 村方困窮仕畝故、毒筆之ため近年6三人二致シ、村方取〆仕砿﹂とあり入数は次第に減少して来ている事が分る。その理 由については﹁拙老二も役料給分等有之砿而、減り砿得者竃湯二成砿事二番哉﹂との藩当局の尋問に対して、百姓側は﹁ 役料は無之砿面罵、畢寛三福二而も相勤り砿事二勢有之似而、手闇暇費鉱故省キ申子而三人下仕砿聞、勘略之ため﹂であ ると説明している。そして十入の時は右文書に﹁壼年替り﹂とあったが、又別の箇所に﹁忠老役之儀、突入之内蓋年二載 人相替り申砿﹂と記されており、菅浦が東と西の両村に分たれていて、恐らくこの東西両村各↓人宛、計二人毎年交替す る意であろう。次に三人になった場合であるが、右文書の丈面には若干の不備があって、恐らく各村三入の意であろう事 はその後の多数の証文に東西各三人、叉は東西の区別なき六人の忠老の署名が見られる事によって推測し得るが、また享 和元年の﹁古来有来通富﹂によると、  両村境本堂6西川口江見通し、西は西村、但し中老役三人、孟子萱八ッ・廻り持東口東村、右同断 とあって各村三人、毎年一人宛廻持で交替していた事が分る。以上述べたところによって明らかな如く、この忠老役は菅 浦内部における東西両地域の代表としての性格を強くもっている。この事は省他の現存する証文に庄屋。肝煎等と並んで ﹁東中老・西中老﹂としてその保証を与えている事によっても知られるが、叉前面享和元年二月の﹁古来直来通富﹂によ ると村内の多くの行事が東西両村別に二村の﹁中老役﹂及び﹁中老・若衆﹂によって執行されていたことからも分る。  さて次にこれらの忠老役の近世における機能は如何。前掲寛保三年訴訟文書によると、代官側の説明ではあるが、 ﹁当        ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   へ 村古儀者、庄屋・肝煎之外昌、往古6忠老役と申者武拾人有之、市之取〆仕、山法度之外村法度之儀ハ私︵代官⋮⋮筆者︶        へ窺砿而、得心之上村中江触流仕来砿欲心﹂と述べられている。即ち村の取締殊に山法度・村法度については、頭取之者 に恐らく指導された忠老役がその作成・施行に特別な関係を有していた事が明らかである。而もかかる村落内部での政治 的地位は前述寛保三年の訴訟事件に見る如く、場合によっては代官すらもないがしろにし得る程の実力を発揮するに至つ

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たのである。又村民から庄屋・肝煎に対する証文には村相︵惣︶代として連署している所を見ると、藩所定の村役人たる       ゆ 庄屋等に対しては村譜代としての役割を持っていたと思われる。忠老役の機能は以上の如き政治的な面に止らない。享和 元年二月の﹁古来有電通冨﹂によると、村の宗教的行事等においても年齢的階層たる﹁中老・若衆﹂等を率いてそれに特 別な役割を果した事が知られる。      、  最後に第三節に述べた如く、庄屋等と異りこれら忠老役の任免権を村方百姓が持っていた事を特に注目したい。この点 は忠老役が右の如き機能を真の意味で小前百姓の惣代として果していた事を示すものであり、近世村落に自治がもし制限 付きででも認められるとするならば、この忠老役こそその担手であったとすべき最も重要な理由の]つである。   ①菅浦では庄屋と肝煎は東西両村より何れか一人宛、組頭は両村各一人宛選任された︵享和元年﹁古来有来通馬﹂︶。        も  ヘ  カ  ヘ  へ  も   ②寛保三年九月の百姓口上書には﹁當度出勤砿忠老拾人之者共、皆若年之者共二而不念三江相有之﹂とか、或は﹁流連印形砿忠老役       も  ミ  ヘ  へ  も    弥平次・清内︵以下八名略︶右之者共江相尋砿処、皆若年成者二而、殊二文盲之者共故何之心も無之、目録吟味なし二印形仕砿﹂    と記されていて.これら忠老役は比較的若い年齢層の者であった事が分る。   ③山法度について特に関与していた事は次の如き近世初期の文書によって知り得る。        差上申手形之事      一、 八王子由[法度可致事      両中老之かきくさ、若衆中之茶屋之木、両君之全くひ、諸事当村之柴ぬす人、かれ木ひらい吟味可二世、西之村人衆之外       ハ何者二而も立入せ申間敷砿、循讃丈如件       ・       宝永四年         亥ノ五月五日         西之村人衆中参        両中老中︵花押︶    特にこのような共同体的再生産構造に関係ふかき方面に忠老役がその機能を有した事は注目すべき事であろう。       近世村落の自治と領主の麦配      一コ

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近世村落の自治と領主の支配 ご二 ④その他寛保三年の交書によると.寛永五年三月東村の惣地が萬屋という者へ売られた際の売券状にはユ買主当村中老共之内三人印  形声有之砿しとある。又寛保元年の﹁御年貢諸入用算用目録﹂には﹁右御年貢小入用目録、我々寄合吟味仕砿処、少も相違無御座  相済申砿二付、村中惣代二我≧共判形仕懸﹂とて北左近・五兵衛・嶋津新次郎等と共に忠老十人が各々署名捺印している。 ︹補註︺ 本稿では江戸時代のみに対象を限定したが、因みに明治・大正期の字の記録に現れてくる﹁廿人代﹂・﹁二十人衆﹂、或は  現在尚存する﹁長老衆﹂は明らかに徳川時代の﹁忠老役廿人﹂の伝統をひくものであり、区長・区長代理と共に村政に参与してい  る。これらは更に人数が減って、東・無足村より毎年二名宛年齢順によって決められている。尚江戸時代以前における当村の自治  機構については別稿に譲ることにした。 五 む す び  以上に於て近世の近江国浅井郡菅浦村にその例をとり、まず近世村落には領主の支配に基く公儀・地頭法度と村民の自 治による村法度という二元的な法規範が存した事を見た。而して菅浦村の自治機構としては二村独特の﹁忠老役﹂なる制 度があり、それは公的な代官又は村役人に対して私的な内証の役人として存在した。この忠老役を担手とする村落の自 治的機能は、村法度の成立.施行及びその制裁規定等に端的に現れている。然し乍ら領主の支配と村落の自治との対抗的 関係を寛保三年の代官と百姓の争論についてみると、結局前者が後者に優越していた事が分る。かくて近世村落は確かに その自治的機能をもつてはいるが、然しそれは領主の支配によって著しい制約と限界とを課せられていたと考えられるの である。       、

参照

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