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16世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港 : 結び付く創成期の世界システムと東アジア交易圏

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Academic year: 2021

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(1)Title. 16世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港 : 結び付く 創成期の世界システムと東アジア交易圏. Author(s). 宮崎, 正勝. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 47(1): 201-213. Issue Date. 1996-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/2137. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 平成 8年8月. 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第47巻 第1号. Au t l犯s , 1996. Se l fEd i i f Hokka i do Un i i lo t t t Journa uca on( c on1C)Vo ver s yo .1 .47 ‐ , No. 16世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港 -- 結び付く創成期の世界システムと東ア ジア交易圏 --. 宮. 崎. 正. 勝. 北海道教育大学釧路校 父社会科教育研究室. 1. はじめに 歴史教育 (特に高等学校 「世界史」 ・ 「日本史」 ) の立場から考える と, 1 6世紀後半は, 日本, 東アジア,. ) と アカ プル 新 大 陸, ヨー ロ ッ パ が相 互 に結 び付 き を 持つ に至 る 注目 す べ き 時期 であ っ た. マ ニ ラ (Man i l a コ (Ac ) 貿易 が 東ア ジ ア 交易 圏 と 新 大 陸, 大西 洋 交易 圏 (世界 シス テム) ) を結 ぶ ガ レオ ン ( l l apu co eone s ga. を結び付け, 世界史は新たな進展を見せたのである. 16世紀後半に創成期の世界システムと東アジア交易圏 を結び付ける 「核」 となっ た港市がルソン島のマニラと福建の月港であっ たが, 現在の歴史教育では, この 両港市を軸とする時代の新しい潮流が十分には位置づけられていない現状にある. 明 帝 国 にお ける 嘉 靖期 ( ) は, 東 ア ジ ア 海 域 世 界 の 激 変期 で あ っ た‐ 明 帝 国 によ る 漸 江, 福 建 1522‐1566. の市舶司の閉鎖や新江の密貿易の拠点, 双峻港の破壊に代表されるような海禁政策の強化, それに反発する 密貿易商人王直を中心とする嘉靖大倭達と新江沿海の混乱, 1567年の福建月港の開港というように中国沿海 域の状況は変化した‐ 長いスパンで見ると, 海禁政策の一時的強化, その失敗, 部分的開港へと明帝国の政 策転換がなされたことになる. 1567年 に明帝国が 「商引 (交易許可書)」 の発行という条件付きで民間商人 の海外貿易を認め, 唯一の対外貿易港として福建南部の密貿易港, 月港が開港されたのは, 嘉靖期における 長期混乱の一つの帰結であっ た‐ 月 港 が開 港さ れ たの と ほ ぼ同時期 に, ス ペイ ンの 手 で フィ リ ピ ン群 島の 植 民 地化 が進 め ら れ て い た. 1572 年 に, ス ペイ ン領ヌ エ バ ・ エス パ ー ニ ャ (メ キ シコ) 副 王 が 派遣 した レ ガス ピ によ っ て ル ソ ン島な どの フィ リ ピ ン群 島 が征 服さ れ, マニ ラ にフィ リ ピ ン総督 府 が置 か れた. フィ リ ピ ン群 島は, 香辛 料な どス ペイ ン人 が必 要 と する 物 資 を ほ と ん ど産 出 しな か っ た ため に, ス ペイ ンの 対 東 ア ジ ア貿 易 の 拠 点として位置づけられ る こ と にな っ た‐ マニ ラ は, 豊 富 な 銀 を産 出する 新 大 陸 の 明帝 国 に向 か っ て 開 か れた「窓」と して位 置 づ けら れ, 明商 人 との貿 易 が急速 に成 長 した. ヌ エ バ ・ エス パ ー ニ ャ 副 王 が, メ キ シコ の アカ プルコ と マ ニ ラ を 直. 結し, 太平洋を横断するガレオン貿易を開始すると, 新大陸の安価な銀が太平洋を横断して大量にマニラに 流入した‐ 明帝国で産出された生糸・絹織物・陶磁器・日用品などの多様な物産が銀と取引される国際市場 が マ ニラ に登 場 し, 16世 紀 後 半 に は福 建 の月 港 と ル ソ ン島 のマ ニ ラ が, マラ ッ カ, 平戸 (長 崎) と並 ぶ 東ア. ジア海域の中心港市になっ た‐ そう した中で, 生糸など明帝国の物産を求める 日本商人もマニラに吸い寄せ られて福建商人との取引 を開始し, やがてマニラを起点にして東南アジア各地に商路を拡大することになっ た‐ 本稿は, 東アジア海域におけるマニラ一月港の貿易軸興隆の背景, 貿易の進展状況, オランダの進出に よる東アジア海域における貿易軸の転換, 月港・マニラの衰退過程を明らかにし, 世界史教育におけるグロ ー バ ルな 視 点 の 深 化 に資 する こ とを 目 的と して いる‐ 201.

(3) . . 宮 崎 正 勝. 2 スペインのマニラ支配と東アジア海域における国際市場の出現 スペインによるマニラ支配. a. 1555年 の アウ グス ブルク 和 議 で宗 教対立 を終息 させ た神 聖ロ ー マ 皇 帝カー ル5 世 (ス ペイ ン王カ ル ロス 1 世) は, プロ テス タ ン ト側 に譲 歩 した責任 をと っ て同年 退位 し, 以 後ハ プス ブルク 家 はス ペイ ン・ オース ト リ ア の 2つ の家系 に分 か れる こ と にな っ た. 新 た にス ペイ ン王 とな っ た フ ェ リ ペ 2世 はハ プス ブルク 家 の勢 力 挽 回を目 指 し, ヌ エバ ・ エス パー ニ ャ (メ キ シコ) 副 王 に ポ ル トガル支 配 下の モ ル ッ カ 諸 島 に勢力 を 延 ば. 4 し, その香辛料貿易の支配権を奪い取るための足場として, フィリ ピン群島の占領を命じた. 1 559年9月2 日, フ ェ リ ペ 2 世 は ヌ エ バ ・ エ ス パ ー ニ ャ 副 王 ル イ ス ・ ド・ ヴ ェ ラ ス コ (Lui ) 宛 て の親 書 で, l s de Ve a co s. モルッカ (香料諸島) 進出の拠点となる島々を発見する航海に用いる2隻の艦船を建造し, 艦隊を太平洋海 ) 国王 か らの 命 を受 けたヌ エ バ . エス パ ー ニ ャ 副 王 は ミ ゲ ル ・ ロ ペス ・ レ ガ 域に派遣 す る こ と を 命 じた1 ‐ , )を 艦 隊指揮 官 と して 選任 した が 遠 征 の準備 は進 捗 せ ず 大 幅 に遅 れ た ス ピ( )2 Migueー Lopez de Lega i zp ‐ , , 1564年11月21日 にな っ て や っ と 準備 が整い, 5隻 の艦 船を 率い た し ガス ピ が, メ キ シコ の ナ ヴィ ダー ド港 を. 出港し太平洋を西に向けて航海に出た‐ 翌65年1月 8 日 にフィ リ ピ ン群 島 に到 達 した レ ガス ピ は, 4月27日 ) と 友 好 関係 をう ち た て, 「サ ンテ ィ シ モ ・ノ ム にセ ブ島 に至 り, 同 島 の 最 も 有 力 な 酋 長 ト ゥ パ ス (Tupa s ) ブ レ ・ デ ・ イ エ ズ ス (Sant )」 と名 づ けたス ペイ ン 人居留 地 を築 い た3 i imo Nombres dej s e sus . F ig.1. レ ガス ピ は, ヌ エ バ . エス パー ニ ャ と フ. ガレオン貿易 の航路. 謬悪霊 繋 ぎ. ィリ ピン群島を結ぶ定期航路を開発するた. ガ コ. め に, ア ウ グス テ ィ ノ 会 士 ア ン ドレス ・. ー. デ. ウ ル ダ ネ タ (Andr e s de Urdaneta). を助 言者 と し, 孫 の フ ェ リ ペ ・ デ・ サ ルセ ド (Fe ) を 隊長 と す る 艦 隊 l i l c edo pe de sa. をヌ エ バ ・ エス パー ニ ャ に回航さ せ た. ウ. 灘 墜デ ニ 饗紫 ー ‐ ぞ\. へ. カギ. .. ルダネタ一行は, 報告書を携えて156 5年6 月1日セブ島を出港し, 北東貿易風をさけ ながら日本の沖合を北緯39度まで北上する と大圏航法をとって東航し, 10月 8 日 にメ キ シコ の アカ プルコ に帰着 した‐ ウ ル ダネ. ”. タが開発 した F i g .1のよう な太平洋横断 航 路は, や がて ガ レオ ン船 を用 い たス ペイ ンの植 民地 間貿 易 (アカ プル コー マニ ラ 間. 出所:モルガ 『フィリ ピン諸島誌』 (大航海時代叢書第1期7 岩波書店 1966 p .412). の ガ レオ ン貿 易) の定期 ルー トとな っ た‐. 1613年に伊達政宗が支倉常長を使節として. メ キ シコ 経 由 でロ ー マ に 派遣 したの も, この ルー トによる も の であ っ た‐ メ キ シコ か ら フィ リ ピ ン群 島に移住 するス ペイ ン人の 数は次 第 に増 加 し, や がて約1500人 に達 した. ス ペ イ ン 人の 数 が増 大 して 群 島を征 服 する 条 件 が整う と, レ ガス ピ は部 下 の マ ルテ ィ ン・ デ・ ゴイ ティ (Ma i t n r ) に対 しルソ ン 島攻 略を 命 じた‐ ル ソ ン 島 の パ シ ッ グ川 両 岸 に広 がる 大 集 落 マ ニ ラ は フィ リ ピ ン群 de Go i i t ) と いう 頭 目 に率 い ら れ たイ ス ラ ム 教 徒, モ ロ 人の 島の 良港 で あ っ た が, 既 にス レイ マ ン (Ra l ja Su ayman i 支 配下 にあ っ た‐ 彼 ら は, 「株欄 樹 や 頑 丈な アリ グエ ( r a gues , 木 の柱) を並 べ, そ の 間 に土 を 詰 め て 塞 を - 築 き, 又 影 しい 数 の 青 銅 製 の 小 銃 ( lver i cu n , カ ル ベ リ ン銃), それよりも口径の大きい幾挺かの火器を持 202.

(4) . 16世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港. ) っ てい た」 4 と 記 さ れ て いる よう に, マ ニ ラ に砦 を築 き, 火器 を用 い て 防備 を固 め て い た‐ ス レイ マ ン は, )」 と いう 小 型 の 大 砲 を用 い て 激 しく 抵 抗 した. し l 襲 撃 を加 え たス ペイ ン 人 に対 して, 「ラ ンタ カ ( ant aka か し1569年 5月, ス ペイ ン軍の 攻撃 でマ ニラ は焼 け落 ち, ス レイ マ ン軍 は 同 島北部 に撤 退 を 余儀 なく さ れた‐ そ の後も モ ロ 人 は抵 抗 を続 け た が, ス ペイ ン軍 の 火力 によ り こ と ごと く 平 定 さ れた‐ この 時点 で, マ ニ ラ港. には既に1 50人程度の福建の華僑が居住しており, 小規模ながら明とマニラの交易が行なわれていた‐ マ ニ ラ 占領 の 報 が入る と, レ ガス ピ はマ ニ ラ に拠点 を 移すこ とを 決 定 し, 1571年 6月24日 に首都 を マ ニ ラ. に定めた‐ レガス ピはマニラの市域を城壁で囲み, パシッ グ川の河口にサンチャ ゴ要塞を建設して防備体制 を固 め, 市 内 に教 会 を建 設 した‐ こ の 間 レ ガス ピ は, 1565年 に湖 っ て フィ リ ピ ン総督 に就任 して いる. こう ) して, フィ リ ピ ン群 島はヌ エ バ ・エス パ ー ニ ャ 副 王 管轄 下 の総督 領 と して, ス ペイ ン植民 地 とな っ た5 -. b マニラと福建間の貿易拡大 レ ガス ピ が1572年 8月 2 日 に世 を去る と, ギ ド・ デ・ラ ヴ ェ サリス (Gu i do de Lavezaris 任 期1572一1575) が第2代 フィ リ ピ ン総督 に就 任 した‐ 彼 の 統 治期 に, マ ニ ラ と1567年 に開 港 さ れた福 建月 港 の 間 の通 商 が本. 格化した. 月港は厩門湾の奥に位置しており, 福建商人は, 15日-20日間の航海で月港からルソン島に至り 交易を行っ た‐ 福建厩門湾 (チンチェオ付近) とマ 月港 (チンチェ オ) とマニラの位置関係. F ig.2. ニラ ラ の位 置 関係 は F i g ‐2 の よ う に な る. ラ ヴ ェ サリ ス は, 福 建 商 人 とス ペイ ン人 と の 間の 交易 につ ) い て, 以 下 のよう に述 べ ている6 ‐ 「我々 は この地 に到着 して以 来 常 に支那 人 を , ,. チ. 総 ず床. ナ. 出来る限り優遇することに努めたので, 彼等商船隊 の来航は益々盛んとなり, かくて我々がこの島に於 いて過ごした2年の間に,彼等は逐年その数を増し, 来航も次第に多数となっ た‐ 彼等は以前よりも夙く 渡航し来るやうになり, 従って彼等との貿易も次第. フ ズ ヱ リ チシ ン u チ ひげ“1 ス. 整. 縦鰹 ム ー. に確 実 なも の とな っ てき た‐」 ま た別 の 報告 書 は, 1572年 に2 隻 の 中 国 ジ ャ ンク がマニ ラ で 交易 し, 5隻 が フィ リ ピ ン群 島 の他 の 島 ) 1574年 以 後 にマ 々 で 交 易 した 事 実 を 記 して い る7 ‐. O ‐ M(琢→ ル ) g も ( ,. ‐ ‐. .. ・. 愛慕ル ー ギキ 竺. ‐畠 ポ′ しネ〆. o. クー 〆,. ‐ ′. 出所:モルガ 『フィリ ピン諸島誌』 (大航海時代叢書 第1期7岩波書店 19 66 p .130). ニラ港に入港した福建の月港, 泉州など諸港からの 8 ) 中 国 商 船 数 は, Fi g ‐3 の如 く であ っ た が , マ ニ ラ を 訪 れた ジ ャ ンク の 大 部 分 は200ト ン前 後 の 大 型 船 だ っ た. 3 代 総 督 サ ン デ (Franc i s co de Sande. 任. 期 1575一80 ) の 統 治期 に な る と, フィ リ ピ ン群 島 にも 新 大 陸のス ペイ ン植 民地 と 同様 の エ ンコミ エ ン ダ ( ) 制 が実 施 さ れ原 住 民 は奴 隷 の よ Encomi enda. うに扱われたが, 物産に恵まれないフィリ ピン群島 は財政的自立をなし得ず, ヌ エバ・エスパーニャ副王領からの赤字補填金と してのメキシコ銀の給付を必 要 ) そのために 交易 の比重が高まり ガレオン貿易と結び付く明商人との貿易が植民 とする状況が続いた9 ‐ , , 地経営の要となった.. 203.

(5) . 宮 崎 正 勝. F ig.3. 1574一1591 ) マニラを訪れた福建船数の推移 (. 1574年. 6隻. 1575年. 12-15隻. 1580年 40‐50隻. 1584年. 25‐30隻. 1587年. 30隻. 1588年. 30隻. 1589年. 1591年. 20-30隻. 11‐12隻. Fi g ‐3 に見 ら れる よう に, 1580年代 に 入る と マ ニ ラ 港 を訪 れる福 建 ジ ャ ンク は, ほ ぼ30隻 程 度 と な っ た. ) は, 「本 年 中多 数 の Sant i 1587年 に フィ リ ピ ン総 督 サ ンチ ャ ゴ・ デ・ ヴ ェ ラ ( ago de vera 任 期 1584一90. 支那船が当国, 特にマニラに来航せるが, その船数は積載量頗る大なる船三十隻以上, その乗組み来れる 支 那人の数は3000人を越え, 多量の商品, 馬, 牛を満載して来着せり. 小官は彼等を大いに優遇し, 手厚き歓 0 )と 貿 易 の盛 況 ぶ り につ い て 記 す に至 っ て いる ま た ヴィ ラ ‐ ( ) は, 1588年 l l L 待 を 与 え たり‐一 1 a r ‐ . Vi , にマ ニラ に入港 した福 建 船 が46隻 に達 し, 1609年 か ら12年 の 間 は毎年 平均 して37‐2隻 であ っ たこ と を 記 して 1 ) 彼の記述では F いる1 g . .3 で1588年 の福 建 船 の 入 港 数 が30隻 と さ れて い る の と 異 な り, 46隻 と な っ て , i て いる‐. C ガレオン貿易と膨大な銀の東アジア世界への還流 福建商人がマニラにおける貿易に大きな魅力を見いだした理由は, 安価な新大陸産の銀が大量に流入して 来たことにあった‐ ガレオン貿易は, 大圏航法による太平洋横断ルートをとったため航海は困難であっ たが, 高収益をあげたために1 6世紀後半から約250年もの間続くことになっ た. ガレオン貿易は, フィリ ピン群島 のマ ニ ラ とメ キ シ コの アカ プルコ を結 ぶ も の であ っ た が, ア カ プルコ は不 毛 の地 で 食料 の 自給 が出来 なか っ た た め に人 口 は僅 か であ り, フィ リ ピ ンか らの ガレオ ン船 が入港 した時 の み賑 わい を見 せ た. 16世紀 末 の 同. 港の人口は20 00人を数えたに過ぎず, フィリ ピン群島から運 ばれて来た商品を販売する市が開催された期間 だ け, 人 口 は 数倍 にな っ た‐ ヌ エ バ・ エス パ ー ニ ャ の 首都メ ヒ コ と アカ プルコ の 間は 「シ ナの道」 と 呼 ばれ. 2 ) る道路で結 ばれたが, 宿泊施設もほとん ど無い寂れた道路であった1 . ガレオ ン貿 易 は, ヌ エ バ・ エス パ ー ニ ャ 副 王領 とそ れ に従属 す る フィリ ピ ン総督 領 間の 域 内貿易 であ っ た. ため, ヌエバ・エスパーニャ副王がガレオン船の乗組員を任命し, 連行に責任を持ち, 副王に管理された王 室金庫から費用を拠出する公貿易であっ た. フィリ ピン植民地に対する貿易許可証の発給権も, ヌエバ・エ ス パ ー ニ ャ 副 王 が掌 握 して い た‐ガレオ ン貿 易 に参加 する の は フィ リ ピ ン在 住ス ペイ ン人の特 権 であ っ たが, マ ニ ラ永住 を希望 する ス ペイ ン 人 はほ と ん どお らず, メ キ シコ在 住 商 人の代 理 人, 仲 介者 と して マ ニ ラ に駐. 在する者が多かった‐ メキシコ在住の商人は, マニラの代理人に多額の銀を送ってガレオン貿易 を支配し, 独占的に中国商品を買い占めたのである. マ ニ ラ か らメ キ シコ に 輸送 さ れた 商 品 につ い て はアカ プルコ で 関税 が徴 収さ れ, 関 税 の 一部 は シ ト ゥア ー. ド (赤字補填金) と してマニラに転送されて, 総督府の重要な財源となった‐ ガレオン貿易は, スペイ ンが フィリ ピン植民地を維持する財政的基盤だっ たのである. こう して, ガレオン貿易を媒介にして創成期の「世 界システム (世界資本主義)」 と結び付いた港市マニラは, スペイン占領後10年足らずで東アジア世界にお ける国際貿易港に生まれかわった. 例 え ば1573年 にマ ニ ラ か らメ キ シ コ に向 か っ た 2 隻 の ガ レオ ン船 に, 712匹の 中 国 産 の 生 糸, 22,300点 の. 3 ) 新大陸の銀が極めて安価 良質な鍍金陶磁器, 一般の陶磁器な どが積み込まれていたことが示すように1 , なために大量の生糸, 絹織物, 陶磁器の購入が可能であっ た. 中国産の各種の賛沢な商品はメキシコを経由 して ペ ルー な ど新 大 陸の 各 地, 更 にはス ペイ ン本 国へ と売却 さ れた. 1574年 に は6 隻, 1575年 には12隻 か ら 204.

(6) . 7世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港 16世紀後半から1. 15隻 の ガレオ ン船 が, マニ ラ か らアカ プルコ に向 けて 出 航 して いる‐ ガ レオ ン貿易 で は, 貿易 船 は, 通例 6 月 頃 にマ ニ ラ を 出 港 して5, 6 ヵ月 でメ キ シコの アカ プルコ に至 り, 翌 年 の12月 にアカ プルコ を出 港 して3 ヵ月 の 航 海 で マ ニ ラ 港 に戻 っ た. ガ レオ ン船 の 航 海 は, 往復 9 ヵ月 に及 ぶ 大 航海 であ り, 一 般 に毎年 1 - 4 隻 か らなる 大小 ま ち ま ち の ガ レオ ン船 によ り担 わ れ て い た. しか し, 新 大 陸 か ら 余り に大量 の銀 が流 出 した ため に, 1587年 にはメ キ シコ か ら世 界最 大 の ポ トシ 銀 山 のある ペ ルー に 向 けて の 中 国産絹 製 品 の 輸出 が 禁止 さ れ, 1591年 に はペ ルー な どの南 アメ リ カ 植民 地 の商 人 が中 国, 或 い は フィ リ ピ ンに出 向い て貿 易 する こ と. が禁止された. 1593年以降, 貿易が中止される1815年まで, ガレオン貿易に対する植民地政府の規制が続い た. そ の 規制 は, マ ニ ラ か らアカ プル コ 向 けの 輸 出最 高 額 を25万 ペ ソ, メ キ シコ か らマ ニ ラ に向 け ての 輸出. 額を50万ペソに制限し, 毎年政府が所有する2隻の300トンの帆船のみに太平洋を横断する貿易を許可する 4 ) しか し 規制 は 必 ず しも 忠 実 に 守 ら れ た わ け で は な か た マ ニ ラ 港 か ら アカ プル コ も の であ っ た1 っ ‐ . , , に向 け出 港 した船 の 数は, 1602年 に3 隻, 1603年 に4隻, 1604年 に3隻, 1620年 に3 隻 であ り, 植 民 地 政府 5 ) の制 限 数を 上 回 っ て いる1 ‐. 3 福建月港の開港とガレオン貿易の活性化 a. ‐国際貿易港となった月港 海禁政策の徹底化とそれに対する沿海密貿易商人による嘉靖倭冠 (後期倭冠) の激発という嘉靖期 ( 1 522. 一1 566 ) の大混乱を経た後, 明帝国の政策は民間の対外貿易容認に傾き, 1567(隆慶元) 年に福建の月港が 対外貿易港として開放されることになった‐ 月港は, 東南アジア各地の港市との貿易を発展させたが, 交易 の主 対 象 と な っ た の は フィ リ ピ ン群 島の諸 港 であ っ た‐ 1617年, 月 港の 張磐 によ り 著 さ れた 『東 西洋 考』 巻. 9舟師考には, 「東洋針路」 として月港-膨湖諸島-沙馬頭漢 (台湾最南端の猫鼻角) 一大港 (ルソン北部) - 密 雁 港 (ル ソ ン西 北 部) - 疏 霜 港 (ル ソ ン 島の Li ngayen 港) - 呂宋 港 (マ ニ ラ) と いう よう に, 月 港 か. らマニラ港への航路が記されている‐ このルートが当時の福建・マニラを結ぶ主航路であり, 多くの商船が 毎年3月 に福建の月港, 或いは贋門, 泉州を出てマニラに至り, 台風の季節の前に帰港した‐ 崇禎 『海澄県志』 巻十一風土志 物産が, 国際貿易港, 月港を県城とする海澄県が県外に移出した物産と して, 交鎌絹, アチェーの西洋布, 銀銭, 犀角, 罵瑠, 親王 白 , 靴増, 瑠璃, 占城産の奇楠香, 沈香, 交紐産 の速香, 檀香, 安息香, 霧香, 東アフリカ・アラ ビア産の乳香, 蓄蔵水, 錫, 鉛, 孔雀尾, 蘇木, 阿嬢, ジ ャワな どの銅鼓, 自鴫鐘, 倭扉風, 倭刀, 夷瓶, 西国米 (サ ゴ米), 胡板, 占城の波羅蜜な どの海外産品を 挙 げている こ と か ら, 月 港 に銀や 東 南 ア ジア諸 地 域, 日 本, ポ ル ト ガル ・ス ペイ ンな どの産物 が流 入 してい. たことがわかる. 月港の特殊 生は, 海澄県に隣接する龍渓県が県外に移出した物産と比較して見みることで , 一層明瞭になる. 崇禎 『龍漢県志』 巻四の物産は, 苧布, 土絹, 麻布, 葛布 線布 土線布 鉄 金 砂糖 , , , , , 糖水, 蜂蜜, 連四紙, 茶, 磁器, 白炭櫨炭, 酒, 鉄鍋, 草薦などを挙げており, 土着の物産に限られている‐ 月港の経済変化は, さしずめ現在ならば,「経済特区」が設定されたことによる経済の大変貌に比定されよう‐ 民間商人が対外貿易に携わる には, 官所が発行する 「商引 (交易許可書)」 の獲得が不可欠であっ た‐ 月 港からの出港を許可された約半数の船の交易先は, マニラを初めとするフィリ ピン群島の諸港であり 東南 , ジ ア アの各港に出向いた商船の総数に匹敵した. 月港は, マニラなどフィリ ピン群島の諸港との太い辞をつ くりあげたが, その理由は新大陸産の安価な銀が大量にマニラに流入し, 中国の諸物産が高値で買い上げら れた ため であ っ た‐ 木村 正 弘 は 『鎖 国 と シル バー ロ ー ド』 と い う 著 作 の 中 で ①1590年 当 時 にマカ オ にお け ,. る中国絹の価格がバレンシア産のスペイン絹の価格の3分の1以下であり, ペルーでは中国絹がスペイン絹 の価格の8分の1以下であっ たこと, ②新大陸を含むスペイン圏の金銀交換比率が1:13であっ たのに対し 205.

(7) . 宮 崎 正 勝. 6 ) 安 価 な 生 糸 絹 織 物 が 中 国商 人 の側 て, 中 国 圏 の 交 換 比 率 が約 1 : 7 で あ っ た こ と, を 指 摘 して いる1 ‐ , 「 を 生 ペイ 糸 市 場 味を もつ “At と 人 場 の意 i i〆 ン 人 が, 中 国 の 市 か らの 主 たる 商 品 であ っ た こ は, ス cer ca 」 と 呼 ん でい た こ と か ら 理解 で きる. 月 港 を 中心 と する 福 建・マ ニラ 間の交易 につ い て, モ ルガ (Antonio de ) は 毎年 3月 に30隻, 時 に は40隻 の ソ マ 船, 大型 の フ ンコ (ジ ャ ンク) が季節 風 に乗 っ て15日 か ら20 Morga. i 日かけて訪れ, 5月末から6月に季節風に乗って帰港する とし, 福建商人な どがマニラに蔚した商品をF g . 「 数を費やしても足りないくらいの珍しい た後で いくら紙 4のように列挙し , 数えあげたらきりがないし, 7 ) も の がある.」 と述 べ て いる1 . F ig.4. モルガが列挙した中国からの産品. ( 1 ) 生糸, 絹織物類 二本よりの上質の生糸, 品質の落ちる 生糸, あらゆる色の生絹, 種々 ピ の びろう ど, 級子 (ダマスコ) , タフエタン, ゴル ゴラン織, コテ織 , 嬬子 (ラー ソ) ( 2 ) レンセスエロと呼ばれる草で作っ たリンネル, 多種類の白木綿, 各種の細い糸 ( 3 ) 群香 (アルミスクレ), 安息香 (メ ンフイ), 胡板, 肉豆葱, しょう が, な どの香辛料 ( ) 象牙, 真珠, ル ビー, サフ ァイア, 水晶, あらゆる種類の ビーズ玉, 数珠つなぎにした 4 紅玉な どの装身具 ( 5 ) 銅や鋳鉄製の食器, 鍋釜, 釘類, 針, 鉄板, 錫, 鉛, 硝石, 火薬 ( 6 ) ベッ ド, テーブル, 事務机, 椅子, 長椅子, ( 7 ) 寝台用具, テー ブルクロス, クッ ショ ン, 織巷, 馬具 ( 8 ) 小麦粉, 砂糖漬けのオレン ジや桃, 梨, 胡桃, 栗, 干し柿, 豚の塩漬肉・乾肉, 生きた 鶏, 驚鳥 ( ) 家畜用の水牛, 馬, 駿馬, 瞳馬, 芸当をする小 鳥 9 ( 1 の あらゆる種類の上等な陶磁器. ガ レオ ン貿 易 は, メ キ シコ か らの 往 路 が88日 か ら90日, 復 路 が5ヵ月前後 (場合により6ヵ月 以上) もか. 8 ) 前述したように新大陸と中国の銀の価格差 が大であり 莫大な利益が上 が かる困難な航海であっ たが1 , , る と いう 利 点 があ っ た. マ ニ ラ か らメ キ シコ に運 ば れた物 産 の 9 割 以 上 が生 糸 ・絹 織 物 で, 取 引 量 は 時 に 9 ) そ れ に次い だ の が 陶磁 器 だ っ た I200箱 にも 及 ん だ1 ‐ . ,. b 月港・マニラ間の貿易拡大 ) 年に商引が発行さ 1589 月港の商船の交易先が主にマニラであったことは, 許学遠が記している方暦17( れた8 8隻の商船のうち, 対マニラ (呂宋, ルソン) が16隻と圧倒的な多数を占め, それに次ぐ下港 (バンタ ム), 遅 羅 (シ ャ ム), 1日港 (パ レン バ ン), 交靴 (コチ ン) 行 き の各 4 隻 を はる か に凌 い で いる こ と か ら 理 0 ) ス ペイ ン側 の 記 録 にも 対 マ ニ ラ 貿 易 の 大 部 分 が 中 国 船 によ り 占め ら れ て い た こ と が記 さ れ 解 で き る2 ‐ ,. 6世紀には, マニラ港で植民地当局が徴収した関税の約半分が中国船からのものだっ たが, 17世紀 ている‐ 1 ) 2 1 初 頭 になる と80パー セ ン トとな り, 1641一42年 に か けて は92.06パ ー セ ン トの高 率 に達 して いる ‐. 0年代後半から90年代にかけて, 貿易量は増加の一途をた どり, 中国商人は大量の銀を持ち帰っ た‐ 158 1586年 6月26日付 けの ペ ドロ ・ デ・ ロハス の書 簡 は, 中 国人 は 自 国商 品 の残 余を フィ リ ピ ン群 島 に運 んで 毎 年30万 ペ ソを, 今年 は50万 ペ ソの 銀 を 本 国 にも ち 帰 っ て いる と述べ, 1598年 6月19日付 けの ドン・ フラ ンシ ス コ. テ ーリ ョ の 書 簡 は, 中 国 人 は毎年80万 ペ ソ 時 に は100万 ペ ソ以 上 の 規 模 の 取引 を行 い, 10日 間 に100パ 2 2 ) ー セ ン ト, 本年 は 風評 に よる と200パ ー セ ン トの利 益 が上 が っ てい る, と 述 べ て いる . 1586年 のメ ルチ ョ 206.

(8) . 16世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港. 一 ル・ ダヴ ァ ロス の 書簡 で は, 毎年25隻 -40隻 の 中 国 船, 1587年 の サ ンチ ャ ゴ・ デ・ ベ ラ の 書簡 で は, 毎年 3 ) 1600年 以 降 に 毎 年 マ ニ ラ を 訪 れ た 中 国商 船 30隻 の 中 国 船 がマ ニ ラ に 来 航 して い た こ と が 記 さ れて いる2 ‐ 2 4 ) 5 の 数を 記 してみる と, Fi のよう になる g ‐ . F ig .5. 1 603一1643 ) マニラ を訪れた中国商船 (. 1603年. 14隻. 1604年. 13隻. 1605年. 18隻. 1606年. 35隻. 1616年. 7隻. 1621年. 30一40隻. 1626年. 100隻. 1629年. 40隻. 1631年. 50隻. 1634年. 40隻. 1636年 33隻. 1643年. 3隻. 中国商船がマニラに入港すると監視員が乗り込んで狼煙をあげ, 港湾当局 に商船入港を知らせた‐ その後, ス ペイ ン王室の係官が商船に乗り込んで搭載物資を登録し, マニラの市価で積み荷価格の3パーセントの関 ” 税 と500ペ ソの 停泊 税 を 徴 収 した‐ 納 税 がな さ れた 後, 商 品 は 中 国商 船 か ら の 荷揚 げを 許 さ れ, “par i an と いう 中 国 人 街 に 輸 送 す る こ と が 許 さ れ た‐ 中 国 商 船 が 収 め る 税 は, 1592年 は 3 - 4 万 ペ ソ, 1603年 は 5 万 5 ) 2000ペ ソ を 数え, 1609年 以 後 は 4 万 ペ ソ程 度 に落ち 着 い た2 ‐. C マニラ・マカオ間の貿易 1580年 に ポル ト ガルの 王 統 が途絶 える と, 母 方 の 血統 が ポル ト ガル王室 と つ な が っ て い たス ペイ ンの フ ェ リ ペ 2 世 がポ ル ト ガル王 位 を兼 ね, そ の結 果, 競 争 関係 にあ っ たス ペイ ン領 マニ ラ と ポ ル トガル領 マ カ オ が 2 6 ) 相 互 に結 び付く よう にな っ た‐17世 紀 前 半 に, マカ オ か らマ ニ ラ に入 港 した商 船 数は F i g ‐6 のよう になる . F ig.6. マカオからマニラに入港 した商船数の推移 ( 160 4一1 642 ). 1604年. 5隻. 1605年. 2隻. 1606年. 1隻. 1620年. 5隻. 1627年. 6隻. 1628年. 2隻. 1629年. 2隻. 1630年. 6隻. 1631年. 3隻. 1632年. 4隻. 1633年. 3隻. 1635年. 4隻. 1636年. 1隻. 1637年. 3隻. 1638年. 4隻. 1639年. 3隻. 1640年. 3隻. 1641年. 2隻. 1642年. 1隻. マ ニ ラ 当局 が徴 収 した 関 税 のう ち マカ オ か らの商 船 が占める 割 合 は, 1586年 か ら90年 が1159ペ ソ で8.66パ ー セ ン トだ っ た の に対 し,1601年 か ら1605年 が200ペ ソで0‐5パ ー セ ン ト 1606年 か ら10年 が0 15パー セ ン ト ‐ , , 1611年 か ら1615年 が0‐07パ ー セ ン トと 極め て 低 率 で推 移 した‐ しか し 1616年 か ら20年 になる と6798ペ ソ , , 13‐2パ ー セ ン トと な り, 以 後, 1626年 か ら30年 が71105ペ ソ 27‐65パ ー セ ン ト 1631年 か ら35年 が9327 6 , ‐ , ) こう し 7 ペ ソ, 22‐1パ ー セ ン トと な り, 20年 代 中 頃 か ら30年 代 中 頃 に か け て は20パ ー セ ン ト台 を 数え た2 . た 事実 か ら, 1600一1615年 の 間 は極め て低 率 であ っ た マ カ オ と の貿 易 が 20年 代 か ら30年代 にか けて 比 率 を , 高 め た こ と が理 解 でき る‐ マ ニ ラ のス ペイ ン人 が, 自 ら 中 国 沿 海部 に 赴 き 商 品を買 い 入 れる 場 合も あ っ た ‐ ルイ ス ・ フロイ ス は, 1587年 7月25日, 天 草 サ シノ ツ 港 に40人のス ペイ ン人 を乗 せ た シ ナか ら ル ソ ン (マ ニ ) 8 ラ) に赴く ナウ 船 が入 港 したこ と を 記 している. 2. 207.

(9) . 宮 崎 正 勝. d 福建人のマニラへの大量移住 ルソン島は古来産金地として知られており, スペイン人の進出以前から中国商人との貿易がなされていた 9 ) 新大陸の銀を求めてマニラに参集する中国商人が急激 に増加 が, 貿易規模はそれ程大きくはなかっ た2 ‐ と共 に貧しい中国人が職を求めて多数マニラに移住する現象が起っ た. モル すると市場規模は拡大し, それ 0 ) ガは, 福 建 か らマ ニ ラへ の 移 民 の増 加 につ いて, 次の よう に記 して いる3 . 「こう したサ ン グレイ たち を 毎 年 グラ ン・ チ ナ か らや っ て 来る 帆船 が 特 にマ ニラ 市 に大量 に連 れて , , ,. 来るが, それは彼らの運賃からえられる利益のためである. チナでは人間が余っており, 給金ももうけも低 いので, 彼らがフィリ ピナス諸島で見出しうる仕事は, いかなるものでも彼らにとっては非常にありがたい も の であ る.」 1603年, ま た, 中 国商 人や, 中 国商 人 と の 取引 を 求める 日 本商 人の マ ニラ 移 住 につ い て は, ス ペイ ン 人 が,「. 00人の支那人が居留 即ち我が植民地が未 だ僅か32年の歴史を閲したろに過ぎない時に, 既に首都には2万50 してい た‐ ま た 日 本人 の 数も可 成 影 しい もの であ っ た に相 違なく, 彼等 はサ ン・ ア ン トン及 びサ ン・ ミ グエ. ルの地区に一居留地を形成していたのである‐一 31)と 述 べ て い る‐ マニラ市当局は, 1582年に華僑居住区を設けて華僑を監視下に置き, 人数の上限を6000人とし, カトリ ッ ク化による同化政策を進めたが, マニラ自身が対中国貿易に依存する度合いが高かったために, 華僑の人数 制限政策は効果があがらなかった‐ 福建からのジャンクによりなされる移住民の輸送は増加し, マニラ居住 2 ) 1603年 に なる と 2 の 中 国 人 の 数 は1599年 に3000人, 1602年 に8000人 を 数 え, や がて 数 万 人 に 達 した3 . ,. 万人の華僑が秘密結社による活動の理由でマニラ当局に殺害され華僑人口は激減したが,たちまち回復した‐ 1 621年に植民地当局は華僑居住区の人口を制限する一方で, カトリックに改宗した者や現地女性との間に 生まれた者 (メスティ ーン) は, 居住区外の居住を認めた. 張磐は 「華人既多詣呂宋 (マニラ) , 往往久住 3 )と 華僑居住区で生活する中国人が数万人に及んだこと 不帰,.名為圧冬, 票居澗内為生活, 漸至数万一3 , 4 ) 3 i を指摘 して いる. ス ペイ ン人は, 華 僑居住 区を “par an” と 呼 ん だ .. しかし, 間もなくマニラの華僑はスペイン人の数を凌ぐようになり, 治安維持と食料確保の両面でス ペイ ン人 を悩 ま す こ と にな っ た‐ 1639年 に は, マニ ラ 近郊 の カ ラ ンバ・ラ グー ンの 干拓 で 使役 さ れて い た 中 国 人. 労働者の暴動が契機となり, フィリ ピン群島全体で23,000人の中国人が虐殺された. 崇禎 『海澄県志』 巻十 昌二禽五千人篇澄産十之ノ‐」 と, 殺害 さ れた 人々 の 内の 災祥志は, 「萌暦三十年, 華人在呂宋王所殺計才 八割が月港を県城とする福建の海澄県の出身者であったことを記している‐中国人のマニラへの大量移住も,. 四. 月 港- マ ニラ を結 ぶ ネ ッ トワー ク の 太さ を示す 出来 事 であ っ た.. e 明帝国への銀の流入 マニラとの貿易が盛んになるにつれ,16世紀末以降福建の月港には新大陸産の安価な銀が大量に流入した. 1565年 か ら1820年 の 間 にメ キ シコ か らマ ニ ラ に輸 送 さ れた 銀 は4 億ペ ソ に上 がり, その 大部 分 が中 国 に還 流. ) メキシコ銀貨は その良質性の故に明帝国内での評価 を高め 明帝国から東南ア ジア各地に 5 している3 , . , も流出して, 東アジアや東南アジア貿易の基準通貨の地位を占めた‐ メキシコ銀貨は 「レアル」 と呼ばれた が, 「レア ル」 は 銀貨 の 基本単 位 で あ り, 八 レア ル貨 が 「ドラ ー」 であ っ た‐ 1690年 以 後 になる と, 「ドラ ー ) 6 (ドル)」 の 呼称 が一 般 化 した3 ‐ 月港に入港した商船は一般に銀により 「水銅」 . 「陸鋼」 という 税 を納 め た が, マ ニ ラ か ら戻 っ た 商 船 は. 別に追加税銀150両を追徴された‐ それは, マニラで獲得された大量で安価な銀が, 多くの利益をも たらし たためであっ た. 李廷機の 「報徐石楼」 は, 「所通乃呂宋諸番, 毎以賎悪什物, 貿其銀銭, 満載而帰, 往往 7 )と ルソン島に赴く商人たちが 中国の粗悪な商品を運び込み 銀銭を満載して帰り 巨利を博 致富‐一3 , , , , 208.

(10) . 1 6世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港. した事実を記している. また, 崇禎年間に書かれた偉元初の 「請開洋禁疏」 は, 「中国人若往販大西洋, 則 8 )と 「西洋 (イン ド洋) における交易 と比較し 銀銭に単一 以其産物相抵, 若販呂宋, 則単得其銀銭」3 」 , , 化されたマニラでの貿易の特性を指摘している. 月港の対外貿易商人の貿易手引書でもあった 『東西洋考』 は, 巻5 『呂宋物産』 の条で4種類のスペイン銀貨について,「銀銭, 大者七銭五分, 夷名黄幣, 次三銭六分, 9 )と説明している 夷名突唇, 又次一銭八分, 名羅料厘, 小者九分, 名黄料厘‐ 倶目悌郎機携来.」3 .. 4 マニラにおける日本商人の活動 マニラが福建商人が寄港する一大貿易港になるにつれて, 倭冠の活動を理由に中国沿海港市への出入りを 禁じられていた日本商人はマニラに赴き, 積極的に中国商人との取引を行うようになっ た‐ 明帝国での交易 の機会を奪われた日本商人にとっ て, 距離的に近いマニラに国際市場 が出現したことは, 極めて好都合であ った‐ 折から日本の産銀量が飛躍的に増大していたこともあり, 日本商人はマニラで中国商人との間に銀を 591年になると, 豊臣秀吉が京都の商人, 原田孫七郎を通じフ 生糸と交換する積極的貿易活動を展開した‐ 1 ィリ ピン総督府に朝貢を強要する事件も起こっ ている. 1599年 7月10日付 けの 総督 フラ ンシス コ ・ テリ ョ ・ デ・ グス マ ン (F . T‐de. Guzman. 任期 1596一1602 ). の国王宛軍務報告書は 「…日本人がマニラの視界内に来始めたが, 以前は常に2, 3隻来航するに過ぎなか っ たのに, 本年は海冠船7隻も現れて可なり災害を加へた‐ 且つ商船は4 ヶ 月 以 内 に9隻 も マ ニラ に入港 し 0 )と マ ニ ラ を 訪 れる 日 本 商 人 の 数 が急 増 し 中 国商 人 と 生 糸 取引 を盛 ん に 行う よう にな っ た 状 況 を た」 4 , , 指摘 して いる‐. 当時の日本では生糸の自給態勢が整っていなかったことから, 日本商人の交易は銀により中国産生糸を購 1 ) そ の た め 日 本商 船 の増 加 につ れ て 起 こ た 生 糸 価 格 の 暴 騰 は ス ペイ ン 人 の貿 入 す る こ と であ っ た4 っ . , ,. 易利益を損なう結果となり, スペインはルソン島を訪れる日本商船の数を, 1602(慶長7) 年には年6隻, 1608年 には年 4隻 に制 限 した. 更 に1609年 になる と, フィ リ ピ ン- 日 本の 交易 は フィ リ ピ ン群 島の住 民 にの み 許さ れ, 日 本商 人 がマ ニ ラ に渡 航す る こ と は禁止 さ れた‐ しか し, 日 本商 人 がマ ニ ラ に運ぶ 銀と 麦 はス ペ. 4年に朱印船貿易が中止されるまで, 日本商船の入港は断続的に続いた‐ イン人にとっても貴重であり, 1 62 こう して, マニラは福建商人がス ペイン, 日本から運ばれて来る大量の銀を手に入れる東アジア海域最大の ) 年から崇禎17( ) 年の72年間に貿易により各国から明 国際市場となっ た‐ 梁方仲は, 「方暦元 ( 17 53 1 644 帝国に輸入された銀元は少なく見積もって1億元を超過している」 と, 月港などを経由して明帝国に流入し 2 ) た 銀の 多 さ を指摘 している4 -. 5. オランダの進出とマニラ・月港貿易の衰退 新 大 陸 の 銀と結 びつく こ とで 興 隆 したマ ニ ラ 一月 港 の 交易 は, オ ラ ン ダの ア ジ ア進 出 と いう 「世 界 史一 の. 更なる転換を背景にして, 急速に変転することになっ た‐ 月港の衰退には多くの原因があったが, そのひと つが, ガレオン貿易に対する植民地・スペイン当局の消極的姿勢であっ た‐ スペイン当局がガレオン貿易に 対して消極的な姿勢をとっ たのは, ①メキシコの大量の銀が明帝国に流出したこと, ②安価な中国商品が大 量 に流 入 した ため ヌ エ バ ・ エス パ ニ ア (メ キ シコ) のス ペイ ン商 品市 場 が脅 かさ れ た こ と, ③メ キ シコ 商 人. がガレオン貿易を重視し過ぎたために本国スペインとの間の通商が減少しスペイン本国の財政が脅かされた 3 ) 銀 が 東 ア ジ ア 世 界 に流 れ過 ぎ ス ペイ ン本 国 を 中心 とする 交易 体制 (「世 界 シス テ ム ) こ と, にあ っ た4 」 ‐ , が動 揺 した た め で あ っ た‐ 1591年 に フィ リ ピ ン総 督 ゴメ ス ・ ペ レス ・ ダス マリ ャ ス (G i sma na s任 r ‐P ‐ Da 209.

(11) . 宮 崎 正 勝. 期 1590一93 ) は 中 国 製 衣 服 の着用 を 禁止 し, 1603年 になる とス ペイ ン国王 フ ェ リ ペ 3 世 は, メ キ シ コ ー フ. 4 ) こう した交易制限は メキシコが本国から離れていたこと ィリ ピンの植民地間交易を厳しく制限した4 ‐ , も あり 忠 実 には守 ら れな か っ た が, ガ レオ ン貿 易 に 一 定の 枠 を はめ たこ と は 間違 い がな か っ た‐ 月 港 に決定 的打 撃 を与 え たの は, ヨー ロ ッ パ の 新 興 国 オラ ン ダの東 ア ジ ア 海域 進 出で あ っ た‐ 1601年, オ 5 ) 1617 (方 暦45 ) ラ ン ダ艦 隊 はマ ニ ラ 港 の 攻 撃 に失 敗 し, 次 い で広 州 に 赴 き 明 帝 国 に貿 易 許可 を 求 め た4 .. 年になると, 明帝国との貿易許可が得られなかったオランダ艦隊は, 月港など沿海諸港市を襲撃する挙に出 ) 6 た. そのため, 明帝国の沿海貿易は大打撃を受け, 1617年になると月港など福建南部の税収は半減した4 ‐ オランダの勃興が東ア ジア海域に, 大きな影響を与えたのである‐ 1 618年になると, オランダ東インド会社はジャワ島のバタヴィアに総督府を設け, 本格的な東アジア海域 進 出 に着 手 した‐ 1622年 4月, オラ ン ダ艦 隊の司 令 官 コ ルネリ ス ・ライ エ ルセ ン は, バタ ビ ア 総督 府 の 命 を. 受けて16隻の艦船を率いポルトガルの拠点マカオ港の攻略を試み, 失敗すると7月 5 日に台湾海峡の膨湖諸 島に至り, 8月に同諸島を占領して影湖島の風栂尾に拠点を築いた. オランダ東イン ド会社の狙いは, 月港 -マニラ間の貿易ルート, マカオ-長崎間の貿易ルートが交差する台湾海峡を支配することで東アジア海域 における 「海上交易の十字路」 を押さえることであっ た‐ しかし, 影湖島については明帝国の伝統的領土という考え方が強かったため に, 1 624年1月, 明軍は影湖 島の攻撃を開始し, 7月になるとオランダ人は遂に影湖島から台湾に撤収せざるを得なくなっ た‐ 台湾に後 退したオランダは, 台湾海峡に面した台南付近にゼーランディア城を築き, 台湾海峡における足場の維持に 努めた. 当時, 台湾は明帝国の固有の領土と見なされていなかったこともあり, 衰退期に入っ ていた明帝国 はオランダの台湾占拠を放置した. 明軍とオランダ艦隊の戦闘が継続していた間( 1 623年11月頃から24年2, 3月まで) , 非常事態を理由に月港の対外交易は禁止された‐ その間に, オランダ艦隊は福建沿海域での海 賊行為を繰り返し, 幹線である月港-マニラ間のルートを切断して大打撃を与えた. 東イン ド会社のオラン ダ船, 船 長 ウ ィ レム ・ ボ ン テ コ ア (Wi ) の 回 顧 は, 月 港 の貿 易 がオ ラ ン ダ人の 攻 撃 によ り 大 l l em Bont ekoe 7 ) 打撃 を受 けた 状況 につ い て 次 のよう に記 している4 .. 1) 決定にもとずいて,( 1622年4月. 天啓2年)私は艦船を率いて中国に赴いた. 7隻の艦船が同行し, 司令官の統率下に可能ならばアモイ (マカオ) を占領し, 更に影湖列島に赴き中国人との間に貿易 関係 を樹 立 せ んと した‐. 2) ( 10月)18日, われわれ8隻, つまり3隻の大船と5隻の小船は障り 村河と中国沿岸一帯に至り, 武 力を行使することでオランダとの通商を強制し得るか否かを確かめる任務を負っ た. … (われわれ は), ち いさ な 湾 に停泊 して攻 撃 を しか け大小 の 中 国 ジ ャ ンク670隻 を 燃や した. 3) ( 11月) 4 日, 熊号の小船が2隻の中国帆船と2 5名の船員を捕獲した. 船は焼かれ, 船員は聖ニコラ ス の 船 上 に連 行 さ れた.. 4) ( 25日) , 我々は3隻の小船を川内に進入させて1村に停泊し, 上陸して中国人に対する猛攻を加え た. わ れわ れ は, 4 隻 の 中 国帆 船 を焚 焼 した‐. オランダ艦隊の福建沿海域襲撃の目的は, 月港を封鎖して対マニラ, 対マカオ貿易に打撃を与え, 東アジ ア海域の交易秩序を再編することにあっ たが, 月港付近を占領して貿易拠点を築くことも考えていた. オラ ンダが海湖島から撤収した時期の 『バタヴィア城日誌』 は, 「影湖島は荒蕪の地にして, 樹木も草もなく, また塩分ある水の他見出すことを得ず‐ 6, 7百 人 をも っ てす れ ば, チ ンチ ョ ウ (樟州) の川 にお い て 中 国 大陸に接近せる所に, 便利なる町を占領することを得べきが, 強力なる守備兵を常置するにあらざれば, こ れを守ることはなはだ困難にして, 未だ貿易を得 ざるがゆえ に, 会社に取っ て大なる負担となるべし‐一 48) 210.

(12) . 1 6世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港. と, オラ ンダが本当は影湖島ではなく福建南部沿海に港市を確保することを目指していたことが明らかにな る‐. 4 (天啓4) 年にかけの, オランダ艦隊の進出, 明軍とオランダ艦隊の戦闘によ 1622(天啓2) 年から1 62 625(天啓5) 年になると貿易が再開された‐ そう した状況は, 『バタ り月港の貿易は大打撃を受けたが, 1 ヴィ ア城 日誌』 が, 1625年 4月 6 日 に500余 人の 乗 組員 を乗 せ た ワ ンサ ンという 船頭 の商 船 がチ ンチ ョ ウ (月 港) よ り バ タ ヴィ ア に到 着 し, 約30隻 の小 ジ ャ ンク がマ ニラ に赴 い た こ と を 告 げた こ と を 記 して いる こ と か 9 ) 理 解 す る こ と が で き る しか し 1626 (天 啓 6) 年 に なる と 再 度 福 建 沿 海 域 は 混 乱 に 陥 っ た 同 ら4 . . , , ,. 年から翌年にかけて, 楊六, 察三, 鐘六などを首領とする海冠カギ冨建南部から広東の潮州沿岸を荒らし回り, 月港などの諸港市が大打撃を受けた‐ そう した混乱を利用 して, 1 62 6(天啓6) 年から1 628(崇禎元) 年に かけて厩門から銅山の地域を地盤にして勢力を急伸させたのが, 泉州府南安出身の武装商人団の指導者, 鄭 芝 竜 であ っ た. 鄭 芝 竜 の 集 団 が強 大 であ っ た こ と は, オラ ン ダ東イ ン ド総督 がアム ス テ ル ダム の 本社 に送付 した1628年 1 月 付 けの 報告 書 が, 「 1627年6月 に は, 支 那 人 中, 我等 の 帆 船又 は ジ ャ ンク 船 にて, 台 湾 か ら淳 州 の 河 口又 は. 他の海岸地に, 敢て渡航する者もない‐ 併し其の後支那海賊は益々有力有勢となっ て, 殆ど支那海を支配す るに十分となり, 全海岸のジャンク船を破壊焼却し, 更に陸地にては大暴行掠奪を働いたので殆ど40 0隻の ジャ ンク船と6, 7万人を領有する程になった. 此の頭領を一官 (鄭芝竜) と称 し, 曾て台湾に於いて会社 の通訳を勤め, 私かに同地を去っ て海盗に投じ, 瞬時にして斯くも偉大なる地歩を獲得 したので, 支那官憲 0 )と 記 し 同 年 6月 の 『バ タ ヴィ ア 城 日 誌 に は 其 の 沿 海 か ら 海 盗 を 駆逐 す る 術 を 知 ら な い 程 で あ る」 5 』 , , 「賊 ー 官 Y uan は ジ ャ ンク 船 千 機 を 有 し し ば し ば陸 を襲 い 陸上 二 十 マイ ル の 地 ま で住 民 を 逐 い 厩 門 q , , , 1 ) お よ びハイ トン Ha i t i on [海澄 か] を 占領 し, こ れを破 壊 焚焼 し, ま た 人を殺 した れ ば, 諸 人皆 彼 を恐 る」5 と記 して いる こ と か ら 理解 出 来る.. 鄭芝竜は福建沿海域で明帝国の地方政府と激しく争っ たが, その過程で月港が両者の争奪の場となり, 鄭 芝竜による月港攻撃が繰り返された‐ しかし, 鄭芝竜は1628(崇禎元) 年になると明帝国の招撫を受けて官 位を獲得し, その地位を利用 して福建南部海域を自らの支配下に置いた‐ その結果, 月港は廃れ, 鄭氏集団 の拠点港市である腹門が福建海域の代表的な港市として新たに台頭することになった.こうした混乱の中で , 台 湾 に拠点 を確 保 してい たオ ラ ン ダも, マカ オ を拠点 と する ポル トガルの貿 易 を封 殺 し ポ ル ト ガル に代 わ ,. 47年にオランダ東インド会社が日本に輸出した生糸, 砂糖, 皮 っ て対日貿易の主導権を握っ た. 例えば, 16 ) 福 建 沿海域 と台 湾 の 間の貿 易 も 活 性化 した 2 革, 薬 材 の額 は, 3万7000ポ ン ドを 越 える に至 っ て いる5 . ‐. 16 44年に明帝国は滅亡し, 清帝国が樹立された‐ 明帝国の末期から清帝国の初期にかけて, 鄭氏集団は贋 門港を拠点として積極的に貿易を展開した‐ 1 647(順治4) 年になる と, 新たに成立した清帝国に対抗して 明帝国復興を掲 げた鄭成功と鄭彩は, 海澄県を攻撃して激しい攻防戦を展開した後, 1652 0 1 原治9) 年に海 澄県域を陥落させた‐ 16 55 0順治12 ) 年になると, 今度は清軍が海澄県城 (月港) の奪回に成功した. 数年に及ぶ両勢力の戦闘の中で, 海澄県の県城である月港はとめ どもなく荒廃した‐ 1661 0頂治18 ) 年に なると鄭氏集団の跳梁に手を焼いた清帝国は, 遷界政策を実施して福建南部の沿海居民を総て内地に遷移さ せた. そのために, 月港が所在する竜口から江東に至る数十里以内の土地は皆棄土となって人跡が絶え 月 , 3 ) 清帝国の圧迫 に対抗する新拠点の確保 に 港は完全な荒廃地となっ て歴史から姿を没することになっ た5 - 迫られた鄭成功は, 同年台湾を攻撃してオランダ勢力を駆逐し 拠点を台湾 に移した , ‐. 211.

(13) . 宮 崎 正 勝. おわりに. 6. 567年には明帝国公認の唯一の対外貿易港としてマニラ国際市 1 5世紀後半に密貿易港として頭角を現し, 1 場とリンクした福建月港は, 16世紀後半から17世紀初頭に至る数十年間隆盛を極めた. マニラは, 東アジア 海域世界に出現した最初の国際港市として 「世界システム」 とリンクし, 月港は新大陸からマニラを経由し て流入する膨大な量のメキシコ銀の受け入れ口となっ た. 新大陸, 日本からもたらされる銀は, 明帝国に税 糧を銀で納付させる 一条鞭法の実施を可能にし, 明帝国は銀経済圏に組み込まれることになった. しかし, オラン ダが台湾海峡に進出する と月港 は大打撃を受け, 鄭氏集団の台頭, 清帝国と鄭氏集団の抗争に翻弄さ れ, 17世紀中頃には廃嘘と化した. 国際港市マニラも17世紀に入る と, 新大陸における銀産の急激な減少 に より衰退した‐ 月港とマニラは, 「大航海時代」 が東アジア海域世界に及ぼした激浪の中で急激に成長し, さらなる激浪の下で歴史の前面から退いていったのである. 宋帝国から元帝国に至る時期の中国商人による 活発な海上貿易, 明帝国による海禁政策と勘合貿易, 密貿易の復興, 月港における対外貿易公認とマニラを 経 由 した シ ルバー ラ ッ シ ュ, オラ ン ダの 東 ア ジア 交易 圏進 出 と鄭 氏 集 団 の 台頭, と いう 一連 の波動 の 下 で, 月 港, マ ニ ラ の つ かの 間の繁 栄 は生 み出 さ れた‐ マ ニ ラ を 介 して原 初 的に結 び付 い た 「世 界 シス テ ム (大西. 洋貿易圏)」 と東ア ジア交易圏は永続的な関係を樹立できず, 両者の結 び付きは短期間で崩れていっ たので 7世紀前半に至る東ア ジ海域世界の変動を組み込むことにより, 高等学校 「世界史」 ・ ある.16世紀後半から1 「日本史」 の内容はより豊かになると考える.. [註] 8 p 8 { 1 ) 守川正道 『フィリ ピン史』 同朋舎 197 .2 ) b i l d ピは ペイ コ 45年にメキシコに渡り, メキシコ・シティの市会 ( o ス ンの ) レ ガス ス ア (Gu c a ギプ i { 2 ) c o a 州の名門貴族の出身で,15 puz の主任事務官になっていた‐ ft he Ph i l i i t t ne 42 p 9f Conrad Beni s z; Hi s ory o e pp ) C. ペ ニ テ ス 東 亜研究所訳 『比 律賓史 (上 巻) ( 3 , 』 東 亜 研 究 所 19 ‐5 l ibca l;Bos i l t nnand Company on l oml cs a e co l ,1929 , Gi ,New York ,soc ,po. t p ( ) 同上書 4 3 .6 バ‐エスパーニ 5 ( ) ヌエ ャ副王領は, 副王の直轄領, 総監領, 長官領に分かれ, 更に辺境の地に総督領が設けられた. フィリ ピン総督の 6 この待遇は, ほぼ 66 p 00ペソとされた‐ モルガ 『フィリ ピン諸島志』 大航海時代叢書岩波書店 19 任期は8年, 俸給は年額80 .39 『講座 世界史1 世界史とは ヌエバ・エスパーニャやペルー副王と同等の特選であったという‐ 菅谷成子 「フィリ ピンとメキシコ」 ( 何か』 東京大学出版会 1995 所収) 参照 “ l 3 Af “ ho i i l f Lega f he dea he Ph i l i i t f i t zp a i l i i l nt ne sa ert 6 ) B1air and Robert a r si ( pp ne l s ands son The ph . Man , pp . ,1493一1898 vo June 29 .181f , 1573 p i IPon i i l l;La co ry ll ent e ( ) 同上 書 Hernando Rique asys a s de 7 ven del s nueva s ques cr . . Mex , 1574 ,luna. 9o p 21 ( ) 李金明 『明代海外貿易史』 中国社会科出版社 19 8 .1 パーニ 8世紀末までヌエバ・エス ( ャ副王領からの財政援助, 赤字補填補金 (シトゥアー ド) の送付を必要とし ) フィリ ピン総督府は, 1 9 た. シトゥアー ドは, アカ プルコで徴収されたガレオン貿易の関税収入の戻し金と王室金庫からの援助であったという. 菅谷成子 5) 論文 参照 02 15 88年6月25日付け サンチャ ゴ・デ・ベラその他よりフェリペ2世宛書簡 回 6) 書 vo l .3 .6 p 側. i i i l i i co l l Ene r can As a( s os ×VI ×VID, Mex spano-Ame t on Hi g ar o de L s .155 ,p ,1980 . Vi ,La Bxpans. 『海と列島文化 題4巻 東シナ海と西海文↑壌 小学館 19 92 ) 回 生田滋 「世界航路の終点長崎」 ( i l he Ph i l i i l i i de:The Repub Q幻 G nes a coft pp ,p ・134 , Man ,1963 .F.za 1 1 9 5 9 9 3 G ( M i l l l 1 の W.L S h T h z . ,p , ・ c ur , e an a a eon. 15 均 同上書 pp ( .410~4 6 89 p ( 1 ◎ 木村正弘 『鎖国とシルバーロー ド』 サイマル出版 19 .5 .43f p 『 ピ 8 7 1 9 6 6 3 回 モルガ フィリ ン諸島志』 大航海時代叢書 岩波書店 p . f 65 8 1 4 ) 書, p { 1 .3 212.

(14) . 16世紀後半から17世紀前半に至る国際港市マニラと福建月港. ( 19 6) 書 vo l ‐269f .27 p. 岡. 許学遠 『敬和堂集』 巻7 公移 「海禁約行分守章南道」. 「 図 i i i f i 60 ) Pierre Chaunu,Las Phi l tLe Pac i i b ne se r e r e s s pp que desl qu ‐199-219 陳炎 海上総綱之路与中、非、美之問的文 , pp ,Pa ,19 1 より転引 化聯系」 『海交史研究』 20期 中国海外交通史研究会 19 9 「 『 ピン 金銀貿易史の研究 岡 小葉田淳 フィリ 27より転引 6所収) p の金銀」 ( 』 法政大学出版局 197 .1 『金銀貿易史の研究』 法政大学出版局 19 闘 小葉田淳 「明代薄泉人の海外通商発展」 ( 5 2より転引 76所収) p .2 1 例 8) 書 p 1 2 ‐ 圃. 6) 書 vo l l .8 p .274 vo ‐157 p .16 p ‐191 .7 p. 弱 全漢昇 『中国経済史論叢』 第一冊 p.430 物. i f i i 60 iq l i i P i 5 黄啓臣他編 『港史資料匪編』 広東人民 i tl e Pac r ne se er re Chaunu r u e s s que deslけe pp ‐200-20 .Les Ph , pp ,Pa ,19 出 版 社 199l p .105. 総務 Br i f van Abraham Du l l f i I ] i j e en Ni co a es couckebacker angen Br cke r uyt phayPhoo a even ch y 1634 .3 Ju - [ont ‐ KO ‐1633‐4 . Ar. 岩生成- 「南洋に於ける日欧関係の推移」 (史学会 『東西交渉史論 上巻』 富山房 昭和1 17 ) より転引 4年 p .5 回 例えば 『大明一統志』 に 「呂宋宋前代無考, 本朝永楽三年王遺其臣隔察老来朝泣貢方物, 土産黄金」 とある. 回 17 ) 書 p ‐40lf ber lmero 回 3) 書 p i l l i i l t lde Azcarraga y Pa ad de Comer c oen l na nu e s a s Fi s a pi ,La Li .p .162よ り転引 Ma .44 , Man ,1871 は め マニラのパリアン ( 中国人町 人であ 1 年に 1 軒 ) の店舗数と人口は Pa i 5 8 8 5 0 6 0 0 たものが 1 年には 軒 5 9 9 3 0 0 1 6 2年 に は r a n っ , , , , , 0. 40 0軒, 8 00 0人, 162 8年には80 0軒, 120 00人, 16 37年には20 00 0人と増大している. 箭内健次 「パリアン」 (モルガ前掲書 p .428参照) 『 回 張愛 東西洋考』 巻5 東洋列国考 呂宋 帥 Pa i i r a n は, スペイン語のPa r a (賎民) から来ており, 賎民区の意味である. 鰐め Vi l l i heas i t t t As c ne n sou or Pur c e sei a .614 ,Ch ,p. 倦◎ 小葉田 2 ) 論文 参照 2 『明経世文編』 巻43 6 李延機 「報徐石楼」 『 回 顧炎武 天下郡国利病書』 巻96 福建6 郭造卿間山冠議中に引用 69 張磐 『東西洋考』 巻5 呂来 物産 ◎. 回. 6) 書 vo l .lo p .211. 櫛 16 19年のディ エゴ・ア ドワルテの意見書は, マニラの住民が中国商人から仕入れて、ヌエバ・エスパーニャに送付する如くに日本に 送ること. 日本の絹の需要は極めて大であり、絹を仕入れるための良質の銀を大量に産出することを記している. 6) 書v oL16 p.195 「 『 回 梁方仲 明代国際貿易与銀的輸出入」 ( 梁方仲経済論文集』 中華書房 19 89 p 8f ) .17 )書 回 13. ) 書 p p .133f 17 .386. 回 17 )書 p ‐386 『 『鄭成功研究論文選』 福建人民出版社 198 回 明史』 巻32 5 和蘭伝 朱茶勤 「十七世紀中国人反抗荷蘭侵略的闘争」 ( 2 p ) .2 回 村上直次郎訳 『バタヴィア城日誌』 平凡社 東洋文庫1 7o l9 2 0 影湖島の拠点を撤去して台湾 7o p に移動することを決定した ソ . ンクは, 「さらに考うべきは, 中国人がすでにタイオワンにおいて, 日本人と盛んに貿易を行い始めたろ事にして 我等もし同地 に居 , を定むればこれを防止することを得べく, もしこれをなさざる時は故カンプス君 (平戸商館長) の説きたろがごとく 日本における生 , 糸貿易に期待せる利益を失うに至るべし」 と述べている‐ これはオランダ東インド会社の台湾海峡進出の意図を如実に物語っている ‐ ” 鋤 wi l l l i i ft he Ea i tl em Bont ekoe Memorab e De scr on o s nd an Voya pt ge 1618-162 , 威・伊・邦達庫 桃楠訳 『東印度航海記』 中華 書 局1982によ る. ◎ 村上直次郎訳 『バタヴィア城日誌』 平凡社 東洋文庫17 o l97o p.56 櫛 同上書 p 4 .6. 『東洋学執 23巻13号 1935 回 岩生成- 「現末日本僑寓支那人甲必丹李丹考」( ) より転引 例 村上直次郎 訳 46 )書 p ‐97 回 朱茶勤 45 ) 論文 縄 光緒 『薄井 1府志』 巻1 4 (本 学 教授. 釧 路校). 213.

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参照

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